団地外平行棟
連休中に帰省したり旅行したりする家族が多いためか、団地の中は静かだった。こんな日には、どこに出掛けたところで混んでいて疲れるだけだから、むしろ家でノンビリした方がいい、という夫の主張を渋々受け入れたものの、主婦である幸恵の方はゆっくり休めるわけがなかった。
「ねえ、あなた、いい加減にパジャマを着替えてよ!洗濯できないじゃない」
リビングでゴロゴロしている夫に対して、つい、トゲのある言い方になってしまう。
「まあ、今日は休みだし、どうせ寝る前にまたパジャマ着るんだから、おれはこのままでいいよ」
あくび混じりの夫の返事に、幸恵は余計にイライラが募った。
「もう!そんなズボラなことやめてよ。子供がマネするじゃない。さあ!」
「はいはい、わかったよ、わかりました」
幸恵はさらに追い打ちをかけた。
「着替えたら、麗音(レノン)を公園に連れて行ってちょうだい。洗濯機回してる間に、掃除機かけるんだから」
「ははーっ!かしこまりました、女王さま」
わたしがホントに女王さまなら、ビシビシ鞭で打ってやるわ、と半ば本気で思う。それでも、夫が未就学児の息子を連れ出してくれたので、多少は仕事がはかどるだろうと期待したのだが……。
「おい、幸恵、大変だ!事件だ!外に出てみろ!」
ものの5分もしないうちに夫が戻って来た。
「もう!ちゃんと公園で遊ばせてよ。掃除できないじゃない!」
だが、明らかに夫の様子は変だった。
「いいから、掃除なんか後でいいから!」
幸恵の胸を不安がよぎった。
「まさか、麗音がケガでもしたの?」
すると、夫の後ろから声がした。
「ボク、なんともないよ」
幸恵はホッとしたが、夫は尚も外に出るように言い張った。
「何なのよ、もう。わかったってば。エプロンだけ外すから、ちょっと待ってよ」
夫に引きずられるように家を出て、階段を降りた。幸恵たちの家は二階だから、すぐに下に着いた。
「さあ、言ってごらんなさい。いったい何?女王さまのお仕事を中断させるような事件って」
「あれだよ!」
いつになく真面目な夫が指差す方に目をやると、隣の棟があった。
「だから何よ。隣の棟に、有名人でも来てるの?」
そう言ってしまってから、幸恵は異常に気付いた。幸恵たちが住んでいる28棟は団地の端にあり、夫の示している方向には植林された斜面があったはずである。しかも、そこに見えている棟にも、同じ28というナンバーがふられていた。すると、幸恵の表情の変化を見ていた夫が、勝ち誇るような顔になった。
「な、事件だろ」
「うーん、事件、とは違うと思うけど。あ、そうよ!わかったわ。これはアレよ。イリュージョンよ。テレビで時々やるじゃない。ビルが消えたりするヤツ。その逆バージョンよ。多分、近くにテレビクルーがいるはずよ」
だが、それらしい姿はなく、その代わり、白衣で白髪の老人が小走りでこちらに向かって来るのが見えた。
「いかん、それ以上近づいてはダメじゃ!」
「あ、古井戸博士だ。ボク、テレビで見たことあるよ」
そう言ったのは、幼い麗音だった。
「あら、有名な博士なの?」
博士は息を切らしながら、親子ともう一つの28棟の間に立ち、何かの機械を空中に向けた。
「フィックス光線、発射じゃ!」
機械からピンクの光が放射されると、限りなく透明に近いピンク色のカーテンのようなものが、二つの28棟の中間に現れた。
「うむ。一旦、これでいいじゃろ」
幸恵はたまらず、その博士に尋ねた。
「これって、いったい何ですの?」
「おお、驚かせてすまん。わしはこの近所に研究所を構えておる古井戸じゃ。決して怪しい者ではないぞ。研究所の時空間異常探知機が、大きな時空の断層が発生したと警報を発した。断層が拡大して取り返しのつかない事態にならぬよう、あわてて飛んで来た、という次第じゃ」
幸恵にヒジで突かれて、今度は夫が質問した。
「それじゃ、もう、大丈夫なんですね?」
「うーん、そこじゃよ。固定はしたものの、所詮、応急処置じゃ。研究所から時空ミシンを持ってきて、裂け目を縫合しなきゃならん。このままほっとけば、断層が拡大し、この宇宙そのものが消滅する可能性すらある。あんた、すまんが、この機械を預けるから、光線がズレんよう、見張っておってくれ」
「ええっ、そんな、そんな、重大な責任を押し付けられても、おれはおれは」
だが、夫の返事も聞かず、機械を置いて、博士は小走りで去ってしまった。
呆然としている夫の背中を、幸恵は軽く叩いた。
「もう、あなた、しっかりしてよ。何が何だかわからないのに、巻き込まれちゃって。せめて、もう少し、ちゃんとした説明を聞いてよ」
すると、「説明はわしがしよう」という声がした。
二人が驚いて見回すと、声の主はピンクのカーテンの向こう側にいた。古井戸博士と同じ、白衣で白髪の老人である。ただし、白衣はオシャレなデザインだし、髪はキチンと整えられている。なんとなくダンディだ。
「わしは、こちらの世界の古井戸だよ。そう、平行世界なのだ。それぞれの世界は、パラメーターの違いによって棲み分けている。本来、接触などしないはずだ。平行だからね。ところが、何らかの原因で、時空に断層ができてしまった。そのズレによって平行が保たれなくなり、こうして接触してしまったのだよ」
「あら、ということは、そちらの世界にも、わたしがいるんですか?」
幸恵の質問が聞こえたかのように、向こうの28棟から幸恵と同じ人物が現れた。いや、厳密には同じではない。こちらよりずっと裕福な身なりで、顔も少し若く見える。こちらの幸恵を見て驚いた顔になった。
「まあ、面白いこと。これが古井戸博士のおっしゃってた、時空の断層ですの」
「そういうことだな。まもなく、向こうの世界のわしが塞ぐだろうから、よーく、見ておきたまえ」
こちらの幸恵は、何故とはなしに、段々と不愉快な気持ちになってきた。それは、向こう側の28棟の窓から顔を出した、あちらの世界の夫の顔を見て、決定的になった。
「えっ、何よ。もしかして、五代先輩と結婚したの?」
向こうの幸恵は勝ち誇ったような笑顔で、「ええ」と言って、こちらの夫を見た。
「まあ、そっちは恵比寿くんと結婚したのね。へえ」
「だったら、何よ」
「あら、別に。そういう選択もあったのかな、って思っただけよ」
だが、二人の幸恵の険悪なムードがエスカレートする前に、こちらの古井戸博士が戻って来た。
「待たせたのう。さあ、少し離れておってくれ。縫合開始じゃ!」
ピンクのカーテンが消え、何事もなかったように斜面が広がっていた。
「成功じゃ。しばらくは監視を続けるが、もう大丈夫じゃろう」
ほーほっほっほ、と笑いながら古井戸博士は帰って行った。
「良かったなあ、幸恵。元に戻ったぞ」
「一応、そうね。でも」
幸恵はちょっと唇を噛んで、何か言いかけたが、首を振った。
「ううん、そうよね。あなた、今日はうんと贅沢な夕食にしましょう!」
「ああ、そりゃいいね」
「わーい、うれしいな」
(おわり)
団地外平行棟