そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(11)

十一 ゴール地点

 へえ、これはなんだ。大きな建物だな。スタンドが見える。沿道にはこれまで以上の人が詰め掛けて、「もうすぐゴールですよ」「陸上競技場ですよ」と大声で叫んでいる。また、子どもたちは応援の旗を振っている。ランナーたちが巨大なスタンドに吸い込まれていく。行列だ。最後の力を振り絞って懸命に走る人、ゴールが近いにも関わらず、今までとほぼ同じペースで走る人、最後で気力を失ったのか、それとも体が悲鳴を上げ走ることを拒んでいるのか、歩いている人。みんな、それぞれだ。
 そうか。あそこがゴールなんだ。陸上競技場に入れば、もう走らなくてもいいんだ。でも、俺はゴールしたらどうするんだ。家に帰るのか。陸上競技場から家は近いのか、遠いのか、覚えていない。まあ、いいか。そんなことはゴールしてから考えよう。
 空を見上げる。太陽はかなり西に傾いている。今何時だ。朝に出発したはずだ。太陽の位置からすれば、昼は過ぎている。昼飯を食わないと。でも、さっき、うどんを食べたな。あれが今日の昼飯か。でも、お腹が空いた。ゴールしたら何かを食べよう。あれ、金は持っていたっけ。背広とズボンのポケットをまさぐる。何もない。いや、あった。百円玉が二枚だ。ありがたい。かけうどんなら小が食べられる。でも、また、うどんか。それでもいい。近くにうどん屋があればいいのに。なければうどん屋まで走るのか。それじゃあ、うどん屋はどこにあるのか。それにしても、もう、走るのは疲れた。

 これで何人目だろう。八千人は超えただろうか。いちいち数えてはいないけれど、参加選手が一万人で、制限時間が六時間だから、ほとんどの人がゴールできるだろう。いや、そうでないかもしれない。制限時間がゆるいということは、そんなに練習をしていない、実力のないランナーも参加しているから、意外に、完走率は低いかもしれない。今は、午後二時五十五分。出発時間が九時だから、後五分で締め切りの時間だ。それを意識してか、競技場内には多くのランナーが入ってきている。もちろん、制限時間を過ぎたからと言って、ゴールをすぐに片付けるわけではない。正式記録はつけられないけれど、ゴールはさせる。折角、参加費を払い、マラソンに参加したのに、ゴールぐらいはさせてあげないと可哀そうだ。
 橋本は、朝十時過ぎからゴール地点で、審判員として座っている。途中、昼食やトイレ休憩で、席をはずすことはあって/たが、ほぼ五時間程度は座り続けている。ゴールの反対側には、同じ審判員の片岡がいる。記録は、胸に付けたチップで自動的に計測するので、審判員が図る必要はない。個人的には審判員はいらないように思えるけれど、やはり、ゴールに誰もいないのでは、大会としてはかっこうがつかない。それに、ゴール直前で倒れるランナーもいる。運営をスムーズに行うため、審判員としてここに座っている。だが、その苦行ももうすぐ終わる。ゴールの電光掲示板を見た。
 五時間五十八分二十五秒。制限時間まで、後、一分三十五秒。と、考えているうちに、一分三十四秒になった。急にゴールするランナーが増えた。顔をしかめながら、必死で走って来る。そんな余力があるのなら、もっと早くから力を出しておけばいいのにと思う反面、火事場の馬鹿力ではないけれど、最後だからこそ力が出るのかもしれない。その証拠に、最後の直線コースを短距離走並みに走り切ったランナーは、ゴール後。グラウンドの芝生の上に倒れ込んでいる。
 自分も以前は競技選手だったから、制限時間内にゴールしたい気持ちはよくわかる。でも、制限時間内にゴールしたところで、何の特典があるわけでもない。完走賞のTシャツがもらえるぐらいだ。たかがTシャツのためにマラソンを走るのか。それとも、これまで練習してきた自分に対する自尊心のためか。
 残り三十秒。もう終わりか。それでも、競技場内のゲートには次々とランナーが入って来る。足下のシューズが止まった。ランナーの誰かが止まったのだ。ゴール前で止まると、後ろからのランナーがぶつかる。危険だ。満員電車ではないけれど、へたをすれば将棋倒し、ドミノ倒しになる。ランナーの中には、フルマラソンを走り切ったという感激で、ゴールを踏みしめる人がいる。その類だろう。だが、ここで止まられては、後ろからのランナーとぶつかる可能性がある。「走り抜けて」橋本は大声を出した。だが、足下のシューズは動かない。橋本は見上げた。背広姿だ。背広で走ったのか。ランナーの中には、着ぐるみやアニメのコスチュームで走る人もいる。背広姿もいないことはない。
 顔を見る。おっさんだ。六十歳は超えているだろう。サラリーマンが仕事中に参加したように見える。もちろん、フルマラソンだ。そんなに簡単には参加できない。参加選手はそれなりに練習してきているだろう。だが、最近は、マラソンブームということで、多くの人が参加しているため、自分でも走れると勘違いして、あまり練習もしないで、参加する人もいる。そういう人に限って、途中でリタイアし、救急車で運ばれることが多い。みんなに迷惑をかけるのだが、自分では迷惑をかけているとは思っていないから困る。目の前の背広姿のランナーもその類なのか。見た目では、背広は汗まみれでよれよれだ。
 もう一度顔を見る。意外に元気そうだ。他のランナーに比べて疲れの色が見えない。顔中、汗をかいているが、爽やかだ。珍しい。それともこのランナーは疲れを感じないだけなのか。ランナーと目が合った。微笑んでいる。いや、疲れで顔の筋肉がゆるんだままになっているのだろうか。いいや。完走した満足の表れだろう。その気持ちはわかるけれど、他のランナーに接触しないように、早く、ゴールを通過して欲しい。このままではゴールしたことにならない。
「走り抜けてください」橋本は目の前のランナーにやさしく声を掛けた。ランナーは頷くとゴールの線を越えた。「残り十秒」誰かの大きな声がした。数多くのランナーが息を切らせて、ゴールに向かってくる。「後、五秒。がんばれ」橋本は立ち上がった。橋本はもう背広姿のランナーのことは頭の中になかった。目の前の制限時間に間に合うように飛び込んでくるランナーに集中した。彼らを、彼女らを心から迎えよう。

「お先失礼します」職場を出たのは午後八時四十分。そこから自転車を飛ばす。家に着いたのは午後九時過ぎ。Tシャツとジャージ姿で、家から夜の道路に飛び出した。ランニングコースは国道三十三号線。塩江町まで続き、塩江街道と呼ばれる道だ。国道だが、片側一車線。歩道は一メートルもない。だから、車道を走る。夜も九時を過ぎると、人通りも、車の往来も少なくなる。それでも、時には、徳島行きのトラックが走る。住宅の灯りや店舗の明かりもあるが、概して暗い。そんな中を俺は走る。来る小豆島オリーブマラソンに出場するためだ。自宅を出て約三十分。俺が住んでいる高松市の隣町の香川町の病院にたどり着いた。ここまでが登りだ。そして、アップの時間だ。体が温まり、ほぐれてきた。この後、家に帰るまでは下りだ。俺は反転し、暗闇の中、坂道を下りていく。今日もタイムを狙うぞ。

そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(11)

そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(11)

十一 ゴール地点

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-09

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