Girl/Boy Song

Girl/Boy Song

昭和大震災から14年
昭和が継明に変わって5年
旧都(東京23区)近郊

   1

 ま、いいか。
 そう呟けば切り替わるはずなのに、最近、つまらない考えから抜け出せずにいる。
 幼い日、神隠しに遭ったことが大きな転機となって、今の私に繋がっている。
 もし、あの溶鉱炉のような街で死んでいたら?
 あの街から出られなくなっていたら?
 神隠しに遭わなかったら?
 意味も無いのに。
「出る」
 私は、全てを振り払うように、声を発して福祉タクシーを装ったワゴンから降りた。靴底が触れるアスファルトの感覚は少し堅い。
 左手には絶対的な存在感。黒塗りの籐を巻いたような鞘。定寸よりも少し短い無銘の刀。
 これだけが、頭の中の問答から唯一解き放ってくれるような、そんな気がする。
 少なくとも、刀に意識を集中すれば、全てはまっさらになる。
 サマーセーターにセーラ襟の制服姿の高校生達とすれ違う。あの人たちの手にあるのは、ぬいぐるみがたくさん付いた鞄、スマートフォン。
 けして重なり合わないし、目線を合わせても一瞬で外される。
 歩く向きは逆。でも、着ている制服だけは同じだ。
「状況を」
 ここではないどこか、指揮所に向かって呟く。
『目標は、あと三分で私立国府台高校、通称旧校舎を通過する。屋上で留めろ』
 頭の中で、電車のアナウンスよりも味気ない声がした。
 精神を患うと聞こえる幻聴は、こんな感じなのかも。実験棟で初めて思考通信をしたときと同じ、意味の無いことを思う。
「そんなに都合良く通るの?」
 数分前、出てきた校門を抜けて、旧校舎と呼ばれている校舎の非常階段の方を見た。
『直線移動を開始した現場から、スカイマークタワーを最短距離で結ぶと通過コースになる』
「また? 旧都再開発の?」
 旧校舎四階から見えた建設途上の、大地に刺さったペンのような建物が思い浮かんだ。
 うんざりだ。
『そうだ。また、今年十二月開業予定のあれに向かっている』
「なぜ、スカイマークタワーに?」
『今までと同じ。施設それ自体の破壊が目的ではない。全て示威行為のためだと判断している』
「一度ゴールさせてみたら?」
 無回答。
 ため息をつきたい衝動に駆られた。
 三週間前から、突然、我を忘れたように、建設中のスカイマークタワーに行こうとする人達がいた。
 ただの見物なら構わない。男も女も、老人も学生も、示し合わせたかのように、川も鉄道も、ビルも高速道路も、全て飛び越えてゆく。まるで定規で線を引いたようにまっすぐ。
その動きは、テレビで見たパルクールというスポーツにも似ていた。街の中を跳躍、登攀、走ることで、地形、建物、環境に邪魔されることなく、進みたい場所へ自由に進む。ただ、パルク―ルでは、六メートルの河川を跳躍で越えることも、階段を駆け上がるようにビルの壁を登ることもない。
 人を超えてしまったら警察では収まらなくなる。だから、私達の出番だ。
 内偵は少しは進んだのかな?
 でも、移動を開始させてしまったということは、これ自体が誰かの尻ぬぐい。
 ま、いいか。
「我は、ここにあり? という感じ?」
『我思うゆえに、で留めておいてくれれば良かったが、本人にはそのつもりはないらしい』
「へぇ。軽口に付き合ってくれるとは思わなかった」
『私も正直ウンザリしている』
「あなたの場合全ての状況がじゃない?」
 指揮所の彼、宝剣勇とは付き合いが長い。大人からすれば鼻で笑われる期間かも知れないが、十五の私にとって二年という期間は十分に長い。
 だから、彼が許されている範囲で、こうしたやりとりもできる。
「殺してもいい?」
 確認。そう、これは確認。
『それは許可できない。今回も被害者だ』
 ため息が漏れた。
 私をここで使う必要性はない。適任者は他にいる。あるとすれば、試し斬り。
 試し斬りか。
「結界の状況は?」
 これも確認。
 今、すれ違った生徒も、何事もなかったように校門の外へと向かっている。私の顔を見て、刀を見ても何も感じない。
 認識がうまく結びつかない『蠱』と呼ぶ状態にあるから。古い例えを出すなら、狸に騙された。狐に鼻を摘ままれた。もう少し、まともな例えなら、記憶が欠けた白昼夢。結界の中で記憶し、正常に判断できるのは、才能を持つ者だけ。
『乙種の密度で半径五百メートル。例えカメラで撮られても問題は無い。速やかに遂行せよとのお達しだ』
 お達し、という単語が引っかかる。宝剣勇と私には共通の嫌な奴がいる。
 その奴が来てるの?
「わかった」
『真間川を通過した。急げ』
 私は邪魔なイヤホンを取った。耳を塞がれるのは苦痛だ。
『スマートフォンはどうした?』
 スマートフォン経由のワイヤレスで通話することになっていたけど、いちいちスマートフォンの設定を弄らなければいけない。それは私にとって耳を塞がれるのと同じくらいの苦痛でしかない。
「車の中。ああいうのはきらい。耳が塞がれるのはもっときらいだけど」
 見上げた空に、私を含めた周辺状況を探索している鳥の目(無人機)を見つけることはできなかった。
『思考通信はまだ実験の域だ。英国人の指示なしには使用を許可できない。そうした身勝手な行為は裏切りに通じる。看過できない』
「実験でしょ? すべては私を使っての。鳥の目の映像を送って、直接賢い珪素に。英国人もこれを見てるでしょ。早く許可をもらって」
 少し間があってから、
『英国人の許可が下りた。鳥の目の映像を送る』
 声に苛立ちが隠せていない。
 宝剣勇と仲良くしたいつもりはさらさらないが、喧嘩をするつもりもない。少し気まずい気分がした。
 痛むはずがないのに、こめかみと、喉の真上あたりに鈍い痛みを感じる。まるで夢に見た景色が脳の中をかすめたかのように、背広姿が見えた。
 目で見ていないのに見える映像は、実験棟のときよりも鮮明だ。
「これ、英国人お得意のバージョンアップ?」
 返答はなかった。
 少なくともこれは幻ではない。脳の半分を補う、賢い珪素が見せる現実の風景だ。黒縁眼鏡、清潔にまとめた頭髪、紺の背広。街ですれ違っても、すれ違ったあとでは顔を思い出すことができないような特徴を何一つ持たない男が、軽快に屋根の上を走る。屋根が突然途切れてもそのペースは落ちない。車のボンネットを軽快に踏み越え、ジャンプする。車一台分の私道を越え、塀を足がかりに、また屋根の上へ飛び移っていく。
 まるで、三段跳びの選手のウォーミングアップ。気負いもなければ、疲労もその顔にはない。
「バカみたい」
 本音が口に出る。
 私も、非常階段を全力で四階まで駆け上がっても、呼吸を乱すことも、汗の一つ出てこない。
『くだらない会話はここまでだ。急げ、校舎に取り憑いた』
「見えてる」
 脳で見る映像は、目標が各教室のバルコニーを使って、器用に校舎をよじ登っている姿を捉えていた。
「大丈夫、間に合う」
 四階までで途切れている非常階段から屋上手すりを見上げた。軽く地面を蹴ると、私の体は軽く宙に舞い上がる。屋上の手すりを掴んで、音もなく着地した。
 顔を上げると、目標の姿を目でも捉えた。男は空でとんぼを切り、屋上に着地する。
 斬れれば、楽なんだけど。
 心の中の呟きだけで鯉口をきることもしなかった。
「こんにちは」
 返事をしなければいいな。
 返事がなければ両脚を奪うだけですべては終わりだ。
「お前、俺が見えるのか? 見えるのか? あ?」
 足を止めた男が怒声を上げる。
 失望のため息が漏れた。
 本当に特徴のない男。しかも平凡な。怒っているけど、怒りや罵声を浴びせることも、浴びることもない世界の、怒りそのものに慣れない者の怒り。頬は赤く、目は大きく、出す声は感情に裏返る。
 この男、『鬼』ではない。ただの操り人形だ。
「初めまして、私は白江優衣。この国府台高校一年生です」
 男は、怒りの顔をさっと崩すと、王者と言うよりは、舞台役者か何かのように鷹揚に頷いてみせた。
 完全に感情を操られている。スカイマークタワーへ行くという目的といい、随分と変な奴。
 少なくとも今見せている独特の鷹揚さは、何かの意志によるものだ。
「聞こえてる?」
「ああ、お前はいったい何者だ、なぜ俺が見える。俺を止める」
「私は、私だと思う」
 鷹揚さの仮面はすぐに剥がれ落ちた。
「ふざけるな。お前は何者だ」
 怒声に、被せるように言葉を続けた。
「この男を操っている者よ。覚悟して。あなたは、人間の法では裁かれない。でも、人ではない者だから退治されるか、調伏されるか」
「何を言っている。俺は自分の意志でやっているんだ。俺の質問に答えろ。お前は何者だ」
 男は大股で歩み寄ってくる。
「今どこにいるかは知らないけれど。少なくとも私の前に現れたら、多分斬るわ」
「ふざけるな。俺の質問に答えろ」
 男の体幹のわずかな変化で『起り』と言われる挙動の開始が見える。
 体が自然に動く範囲で対処が出来る。
 男は体全体を使えていない不器用な動きで襟首を掴もうと手を伸ばしてきた。例え、五メートルの川幅がある真間川を難なく跳躍し、校舎をよじ登る身体能力を付与されていても、体が使えていないのでは意味が無い。その腕と肩だけの動きに合わせて、刀の柄頭で顎を強打することも難しくはない。
 体に刷り込んだ理合が、まるでプログラムが最適解を自動的に吐き出すかのように、全身を動かす。一歩、体を前へ低く踏み込み、全身に捻りの動作を加える。鞘先が弧を描き通過点にある、今顎を強打され崩れようとしている男の足を低く強打する。
「私は、白江優衣」
 顎と右足を砕かれ、意識を失った目標を見下ろした。
 ここまでの怪我を負わせても、今の先進治療は、完全治癒まで十日はかからない。問題は、心の回復だろう。でも、この事件の被害者達には、影響がほとんどないことがわかってきている。
 人形遣いがやっていることはただのバカだ。でも、人間を傷つける意志は最初からないらしい。そのつもりがあれば、全身の骨が砕け、意識を失った状態でもコントロールし、逆襲することはできるのだから。
「いったい、何がしたいの?」
 視線を感じて、私は目を疑った。
 誰もいないと思っていた屋上に、男子生徒がいた。
 能力が無い。ただそれだけのことで、結界の中では正しく記憶もできないし、正しく認識することもできない。小さな子供がふざけるように小首を何度もかしげてこちらを見ている。見ようとしても、目は見えているはずなのに意味のあるモノは何も見えてこないのだ。
 ふと左手に目をやると、無意識に鯉口を切っていた。
『優衣。その少年誰だかわかるか?』
 宝剣勇とは明らかに違う聞き覚えのある馴れ馴れしい声。眉間に皺が寄るのを感じて、首を横に振った。生徒は、私と同じ一年生のカラーのネクタイをしているが、わからない。
 私の沈黙を否定と受け取って、脳内に言葉が続いた。
『報われないなぁ。その少年、お前のクラスメイトだ。名前は田中和也。せめて名前だけでも覚えてやれ』
 何か私の知らない事情を知っていて、それを楽しんでいるかのようだ。ただの思い込みかも知れない。でも、私は、顔が不機嫌に歪むのを感じた。
「なぜ、覚えなければいけない」
『つれないなぁ。まぁ、今回も実に見事なもんだった。今後も、その調子でな』
 聞き間違えるはずのない声。
 宝剣家の番頭。もしくは、内務省隷下の非公開組織、仮称0課。室長――君塚涼。
 この男がさえいなければ、私は自分の体と脳の大半を失うことはなかった。


   2

 不良と言っても、その外見では判断がつかない。もっとも、はじめから興味が無いせいかも知れない。ピアス穴があって、教師に干渉を受けない範囲で髪を明るくしていても、享楽主義が服を着て歩いているような半端どまりで、不良とは言えないことがある。
 男子トイレの前に立っている背ばかり高い一年生もそんな一人なのかも知れない。本当の不良達に顎で使われるような。
 私に気がついて口を開く前に、全体重と蹴り上げた床の堅さ、体幹、加減しつつもその全てを拳に乗せて、腹に。鈍い音と同時に下がってきた顎を掴み持ち上げる。本来の私の腕では八十キロに近い男を力だけでは持ち上げることはできない。背骨の使い方だ。百九十に近い男子生徒が、百五十センチに満たない女の子に片手で顎元をつかまれ立てなくされるのは、私が見ても無理がある。
「お前は、何も見ていない。何も。もし、無駄口叩いたら……」
 恐怖を与えるのに、憎しみや、怒り、笑みといった感情表現は無用だ。目を見据えてやるだけでいい。
 アンモニア臭に、するべきではないため息が出てしまう。元々、この男は、こういう恐怖に慣れているのだろう。反応が良すぎる。手を放すと、背ばかり高い一年生は這うようにその場を離れた。
「物わかりがいいのは良い」
 そう呟きかけた言葉が、そのまま自分への皮肉に思えて、ため息が漏れる。
 男子トイレのドアを勢い良く開けて、中の様子を一目で理解し、中にいる誰にも何も言わせない。
 背中から腎臓を撃ち抜かれた上級生が、泣くような声を上げて崩れる。
 あと一人。
 便所の床に座り込んだ田中和也と、校則では禁じられているはずのピアス。それも眉にした上級生。
 何か吠えたようだけど、吠える前に動けばいいのにと思う。
 中指と親指、肘を取って、便器の方へ投げる。
 七十キロだろうと八十キロだろうと、腕の骨が軋みながら折られる痛みに耐えられなければ、自分の背中で便器を壊してでも飛ぶより他はない。
 首を踏んづけると、反撃ではなく反射で、私の足を掴もうと手を伸ばす。その挙動に、無事だった手を獲りにいき、薬指と小指を掴むとへし折る。
 ここまでやられても、武道の経験があるのか、戦意が挫けなかったらしい。
 目には強烈な怒り、全身に抵抗する挙動を感じると、体が動いてしまう。
 鼻の下に放とうとした拳を口に修正する。
 歯で拳が傷つくし、化膿するが、殺す気はないから仕方が無い。
 三発入れたところで、上級生の目が挫けたのを見た。あと三発。
「ごめんね。二度と顔を出さないで。
 立てる?」
 視線を向けた先、田中和也は面白いように身を震わせたが、意外にものろのろと一人で立ち上がった。
 上級生に因縁付けられているわりに、持っている意志は強いのかも知れない。それともこうことに慣れていないから、目に見えていても、まだ実感がないのかも知れない。
「逃げるよ」
 その手を無理に掴み、駆け出す。
 田中和也が喉の奥で悲鳴を上げたのを耳で聞いたが無視した。
「……白江さん」
 何度目の「白江さん」だろうか?
 三階の渡り廊下を抜けて旧校舎に入ったところで手を離してやる。走る姿を何人かの生徒に見られた。でも、放課後のグラウンドでの喧噪と、吹奏楽の練習以外、静まりつつある校舎では、こういった悪ふざけはそう目立つものじゃない。
「何」
「あの。た、助けてくれてありがとう。あいつらにカツアゲ……されてたんだ」
 さすがにカツアゲのところは、恥にでも思ったのか言葉が詰まった。
 田中和也は、僅かな距離なのに息が切れていた。
「ふーん」
 その事に興味は無い。
「大丈夫かい?」
「なに?」
「あそこまでやっちゃって。救急車とか、せめて保健室とか連れてかないと先輩達が」
 意外な言葉だった。
「なにも?」
 田中和也を見上げる。目線をさっと避けられる。
「ぇあ……え?」
「私が何かしたの?」
「いや、さっき。先輩達をボコボコに」
「検査の度に、車椅子になったり、松葉杖をついている女の子が何ができるの?」
「いや? その。でも。今のは……しかも、白江さんメチャクチャ強いし」
 私をまともに見ることができなくて、顔も目も泳いでいる。
 通りがかりの女子生徒達が、視線を向けてきた。
 田中和也を脅迫しているように見えるなら、まだ良い。でも、その視線と少し離れたところで上げた声は、脅迫とは受け取らなかったようだ。
 この場所はあまり良くない。
「ねぇ、少しどこか、二人だけになれる場所はある? 別に変な意味ではないわ。少し伝えたいことがあるの」
 田中和也の心の動揺が、躯を引く動きになって出た。
 逃げる挙動が出たら、無理にでも押さえつけるしかない。
「恋の告白では絶対無いし、あなたをボコボコにもしない」
 少し躊躇うような間があって、
「質問に全部答えてくれる?」
 初めて目を合わせてきた。いや見ているのは私の頭か。
「答えられることは全部」
「誤魔化したり、嘘つかない?」
 まるで子供のような聞き方だ。
「嘘は下手だから。それで判断して」
「嘘はつくんだ」
「全てを知っているわけでもないし、全てを喋れるわけでもない」
 私はそのままを口にした。これが私のできる誠意だ。
 何かを決心したのか、田中和也は真顔になる。
「屋上はどうかな?」
「屋上? 鍵が掛ってるはずだけど」
「秘密があるんだ。こっちへ来てみてよ」
 先に歩き出した彼は、私を催促するように振り返りながら階段を上ってゆく。まるで子供のような無邪気さだ。
 屋上の踊り場で、「これ」と言って見せたのは、多分、彼の家の鍵と一緒につけられた鋸のような鍵だ。
「どうしたのそれ?」
「職員室にプリントを置きに行ったとき、たまたまマスターキーを見つけて、複製したんだ」
 彼のプロフィールは一通り目を通していたけど、意外だ。そういうことをやる性格とは思えなかった。
「元のマスターキーは?」
「校務員さんの部屋の入ってすぐにある鍵板にぶら下げてきた」
「驚いた」
「白江さんほどじゃないよ」
 私の目が気になったのか、目を急にそらす。
 田中和也はマスターキーで屋上の扉を開けた。
 田中和也は記憶していないのだろうか。昨日、彼と屋上にいた。あれから、まだ二十四時間経っていない。
 彼に尋ねなければいけなかったことが、聞く前に答えとなって出たのは、幸先良かった。あとは厄介な事情について一つ一つ説明するだけだ。
「最初に、白江さんに言っておきたいし、聞きておきたいんだけど。怒らない?」
「多分」
「え?」
「怒らない」
 何を言われても、田中和也に怒る必要を感じない。
「何て言えばいいのか。ありがとう。助かったよ。先週、塾をサボって、自販機が安いからって駅前のゲーセン行ったとき、あいつ等に絡まれたんだ。あいつら、特にリーダーの布施は空手もやっていて、喧嘩がメチャクチャ強いんだ。しかもワルなのに頭も良いし」
「殴られた?」
「腹を何度もね」
 何でそんなことを言いながら笑えるんだろう?
「同情はしない。隙があるから付け込まれただけの話だし」
「いや、そうじゃなくて、お礼を言いたいんだ。まず始めに、ありがとう。白江さんってメチャクチャ強いんだね」
「そう?」
「武術か何かやってるの? 片手で布施の奴が吹っ飛ぶとは思わなかった」
「武術?」
 何となくその響きがおかしく感じる。
 少なくとも自分がやっていることが、今の時代の感覚で武術と呼べるモノなのか怪しい。キリングマシーンがそのパフォーマンスを示しただけだ。実際、私はタンパク質でできたキリングマシーンだ。
 塚原卜伝が神託により開眼した『卜伝流』の中にあって、失伝しているはずの『一ツ乃太刀』を「体得」しているだけだ。「会得」はほど遠く。逸話として残る『無手勝流』はまだ何も見えてもこない。このあたりが私の実力だ。
「何かの技なんでしょ」
「私が全身義体だと知ってる」
「全身義体? 生体サイボーグってやつ? 日本ではまだ三人しかいない」
「そう。私がその一人」
「でも、一時代前の器具を使ったサイボーグと違って、現代の全身義体は、あくまで再生された人体であって、スーパーマンではないって、この前テレビで」
「無意識にかかるはずのリミッターが壊れてるんだと思う。武術はやっていたけど、前は、ただちょっと組み手ができる女の子のレベルでしかなかった」
 嘘はない。だから、苦い思いが広がって言葉に詰まる。
 こうなる前の私は、握力、背筋力、脚力、背、体重、筋肉、骨、肉、全てが不足していた。『一ツ乃太刀』も、型を真似るのが精一杯で、「体得」したとさえ言えなかった。
 もし、生身のままの自分だったら、今日の不良達にもどこまでやれたものか。見張りの生徒に手こずり、あれだけされても心が折れなかった布施という男には、手痛く痛めつけられていたかも知れない。
「そ、そういえば、白江さん、俺に何か言うんじゃなかったけ?」
 心の内が顔に出たのだろう。田中和也の動揺にため息が出た。
「あなたを護衛することになったの」
 正確には監視。でも全てを伝える必要は無い。
「護衛?」
「そう」
「どう言うこと」
「そのままの意味」
「ちょっと待って。言っている意味がわからない」
 私も一緒。と言いたくなる。
「そういうことにしておいて、私、ちゃんと説明されてないの」
「そんな」
「あなたが狙われる可能性があって、それから守る」
「護衛の意味くらいはわかるよ。なんで? 白江さんは警察か何かなの?」
 警察という単語は、からかいや冗談と言うより、田中和也自身、適当な言葉がない感じだ。
「私の義体は、内務省の管轄にあって、その関係で内務省の組織に協力してる」
「マトリ(潜入麻薬取り締まり官)みたいな?」
 まったく信用していないことは顔を見ただけでわかる。
 でも、私には信用して貰う手段がないし、熱意もない。
「自分がいる組織もよくわかってない。興味ないから」
「自分のことなのに? いい加減だな」
「なんか、時々、どうでも良くなってしまうことが多くて」
 そう言って、言葉を終わりにしてしまえば良いのに、「今日、国語で、自分らしい生き方というのをやってたでしょ。ああいうのを聞くと、本当にどうでも良くなる」と言葉を続け、話を誤魔化した。職務を少しでも全うしようと思ったのか。気にする必要も無い愛想でも気にして取り繕うとしたのか。自分でもよくわからない。
「あ、うん。いつものタッチー(国語教師)だったけどね。自分探しの話だっけ。タッチーの世代は、自分探しってテーマで海外で旅をするブームがあって、色々やらかしたらしいよ。本人も大陸でやらかしたみたいだけど」
「旅に出たくらいで見つかるの? 自分って」
「無理だろうな。あの先生を見ているとよくわかる。自分探しをする前に、自分の飯代くらい自分の稼ぎから出さないと。タッチー、前に稼ぎは全部自分の小遣いだって自慢してた」
「ふーん。ちょっと意外」
「意外? そうかな?」
「塾に行かせて貰っているのに、サボってるから」
「えー、そっち? それは、そうだけど。英語が苦手なんだよ」
 わざとらしく頭を掻いた。
「難しい? 英語」
「白江さん英語できるの」
「うん、日常会話くらい。私の全身義体の先生は英語しか話せないから」
 喋りすぎだと思った。
「すげえー。ニック(英語担当教諭)の英語もわかるんだ」
「あれ(オセアニア訛り)はわからない。話が脱線したけど、どこまで話した?」
「あ、白江さんが内務省の依頼で俺の護衛をするということかな?」
「そう」
「じゃあ、なんで、俺は狙われるの? 布施? それとも奴の仲間?」
「布施じゃ内務省は動かないでしょ」
「そりゃ。そうだね」
 田中和也の軽口に乗ってしまったようで、何だかムカついた。
「どれぐらいの期間護衛するの? 家の中までとか」
「私が任されているのは、あなたが学校にいるときと、塾だけ。期間は事件が解決するまで」
「塾に白江さんいないじゃん」
「護衛の必要がなくなるまで、私も塾に通うの」心の中で盛大なため息が出る。「家にいるときとかは、外で他の者が、あなたを護衛する」
「うーん、護衛のことはわかった気がする。わかった。よろしく頼むよ」
 思わず声が漏れそうになった。
 田中和也は私を驚かせることに成功していた。
「これで、納得したの?」
「うん」
 何かの聞き間違いかと思った。
「今、こうして白江さんと話しができるし、白江さんの秘密を知ることができたから」
「何それ」
 眉間に皺が寄るのがわかる。
「何でも無い。それで、俺は、ずばり、命が狙われてるの?」
 命を本当の危険に晒したことがない者だけの気安さだろうか。かんには障らないけど、不思議には、思えた。
「いいえ。あそこ」
 夕日のオレンジの中。地面に突き立てた黒い箸のような塔が見える。
「東京スカイマークタワー?」
「あそこまでマラソンをやらされる」
「は? マラソン?」
 逆襲は出来たのかな?
「どういう事情かは聞かないで。私も意味がわかってないから」
 自分で言っておきながら、あまりにもあんまりなことだとは思う。
「俺、マラソンは苦手なんだけどな」
「走らないで済むと良いけど。その方が私も助かる」
「助かるんだ」
「私に護衛が務まるとは思っていないから」
「えー頼むよ。フルマラソンなんかしたくない。でも良かった。命を取られるんじゃないんだ」
「でも、大けがをするわ。昨日も会社員が顎と足の骨を折られる大けがしたから」
「本当かよ?」
 一瞬引きつった顔に、色々許してやる気になった。
「本当よ」


   3

 体幹は悪くないと思った。
 小さな穴にも見えるレンズが四つ、私を睨んでいるように思える。
 私と同じ、皮膚、筋肉、骨、内臓、血液が印刷された自動義体。肋の浮いたやせっぽっちな体、細い腕、鏡で見る自分と真逆になっているのが何度見ても面白い。とうとう体の癖まで逆になった。顔もそのまま印刷すれば、この違和感はさらに強くなるのか?
 それがニ人もいる。
 頭には、私の顔の代わりに賢い珪素が詰まったマネキンの頭が載っていて、白い能面に小さな穴を開けたような、レンズが二つ付いている。
『始めて下さい』
 英国人の英語が頭の中に響く。
「いつものように斬り殺してしまっていい?」
『逆に、斬り殺されないように』
 言葉の危うさのわりに、声には少しも思うところがない。
「言うね」
『今段階の最終的なバージョンと言ってもいいでしょう。今までのようには行きませんよ。今回は。ほぼ、『一ツ乃太刀』といった型ならび、優衣の剣術を再現できていますよ』
 声だけで昏い喜びに満ちた顔が連想できた。
 ただ単に、早く自分の研究の成果を見たいだけというのはわかっている。英国人にそれ以上を求めるのは無駄だ。
 ムカつく。あえていえばムカつく。
 たかが半年の実験で、『一ツ乃太刀』を再現できるとは言い過ぎだろう。
 刀。二人の私と同じDNAを持つ自動義体が手にする刀に目が止まる。レンズの目玉で目が読めなくても、刀まで自分と同じなら間合いは読める。
 鯉口をきり、鞘走らせる。
 刀を抜くときの緊張感が何とも心地が良い。ムカつきも消え失せる。
 確かな重みを手、腕、肩、背中に感じながら正眼に構えると、それを合図に、二人の私が間合いを詰めてくる。
 英国人の言葉の意味を理解した。確かに、間合いを詰めるその動作からして、前回の実験とは異なっていた。
 定石を髪一つ狂うことなく踏んで来る。だから、私の躯は無意識と言っていいくらい自然に右に踏み込む。相手の動きに、反射のように反応したのだ。
 人間は、人間である以上は、素人でも剣の達人であっても同じ制約を受ける。
 腕の長さは左右ほぼ同じ、それが躯の左右に一本づつ。だから、利き腕が右ならば、刀を振りきる方向、自動義体から見て左、斬られそうになっている私から見て右の方が、振りやすいし、僅かに振りきる範囲が広い。
 だから、力任せに刀を振るうと、相手の右肩から入り左腰へと抜けてゆく袈裟斬りになる。
 その制約を補うため、私から向かって左にいた自動義体が、僅かに遅れて私を斬るための挙動を開始していた。それは、一人目の刀を避けても、受けても、仮に斬りに行ったとしても、余裕を持って斬りに行ける位置へ足を運ぶ動きだ。
 この手合いで一番困るのは、適当な間合いを取られて背後か横に回られることだ。それがない以上は、私に負けはない。
 私と自動義体の双方が、床に付いた足、躯を支える脚、背中、腕、全身の筋肉。そのすべてが刀を振るうための動作を始めている。
 すべての動きが生じる瞬間を私は捕らえていた。それは、今まで斬り壊してきたどの自動義体を相手にしたときよりも鮮明だ。慣れと言うよりは、私そのものに自動義体たちが近づいたのだろう。再現という言葉にも誇張はない。
 相手の『起り』が見えていて、腕の長さ、刀の長さがわかっていれば、私は目をつぶっていても『読み』ができる。
 切っ先が左の眼球の先、数センチの場所を通り過ぎる。同じように振り下ろした私の刀は、自動義体の腕に絡みつくように接触し、皮膚、筋肉、骨を切り裂き、刎ねた。
 腕を半ばから刎ねた瞬間、私に伸びてくる二人目の突きはまったく意味をなさない。
 定石で間合いを詰めたために、私はほぼ無意識に一人目を盾にできる位置に足を運んでいた。ここで間合いを一度大きく外せば、二人目にもまだ勝機があったのかも知れない。
 低く奔る。腕を刎ねた自動義体の胴を軽く薙ぐ。
 胴から血の塊と臓物を吐き出した自動義体が崩れるよりも先に、二度目の斬撃が来るが、それも一体目が邪魔になって届かない。
 逆に、返す刀で袈裟に斬り下ろす。
 切っ先が胸から入り腰へ抜けていく、肋と内蔵を引き裂いたが手応えは巻き藁よりも薄い。水着のようなスーツも服ほどは逆らわない。ただ、巻き藁と違い血の尾を引く。
 さらに踏み込み、自然な流れに身を任せるまま、相手の首筋を裂いた。
 間合いを外しながら、手首のスナップで刀を回転させ、納刀動作にはいったとき、私ははじめて息を吐き出した。
 高揚感はない。自分ではそう思っているのに、妙な熱がこもっている。
 舌打ちをしたくなる。
 あえて言葉にすれば、危うい感じがした。
 『読み』は完全にできた。本当に完璧だった。
 自動義体達は完全に私の剣術を習得し、定石に忠実に、僅かな狂いもなく正確に攻めてきた。だから完璧に読めた。言い換えれば、自動義体に私と同じ『読み』があれば、こうはいかない。逆に容易に斬り殺されてしまう。そのイメージがはっきりと見える。
 自分が、十年弱の時間で身につけたもの。全身義体になることでようやく辿り着けたものを、たかが半年で木偶が再現した。
 そんな私の思考を邪魔するかのように、奴の声が脳裡に響いた。
『優衣。いつものようにあっけなく決着付けないで、英国人にチャンバラくらい見せてやれ』
『棟で受けても、刀は折れたり曲がったりする』
 平静を装いたかったのに、憮然とした声になった。言ったことは全て事実であるはずなのに、哀れな虚勢を張っているように思えた。
『ふん。らしい答えだな優衣。ご褒美だ。帰りになんか食いたい物があれば、何でも食わしてやるぞ』
 ご褒美という場違いな言葉の響きにつられたように、「褒美?」と感情混じりで聞き返してしまった。
 間抜けすぎると思うのと同時に、君塚にはめられたような気がした。これで、奴のくだらない話に付き合わされる。
『第一段階が終了したからな』
「簡単に斬り殺してしまったけど?」
『優衣に『一ツ乃太刀』の『本領』を使わせただけでも十分だ。自動義体の踏み込んだ刀は掠りもせず。さして踏み込みもしない優衣の刀だけが面白いように当たる。あれこそ型の丸写しではない。本物の『一ツ乃太刀』だろ……』
 言葉が出てこない。自分の全てを見透かされていくような、そんな恐れを感じた。
 この男は、『無手勝流』を使いこなす。『神道流』や『卜伝流』の使い手ではないはずなのに。
 恐れに抗するように君塚の言葉を遮った。
「こんなものが完成して何の意味がある。自動義体では『鬼』は斬れない」
『全身義体なら斬れる』
「どういうこと?」
『『結界』の中で正気を保てる才能が、『鬼』に対して有効な攻撃手段を持っているとは限らない。『卜伝流』をアプリケーション化しておけば、生身では刀を持ったことのなかった人間が、義体化した瞬間から『卜伝流』の使い手となると。まぁ、まだ夢の夢の段階だがな。でも、あと十年経ったら、わからないぞ』
「気の長い話」
『今は、全身義体のシラットマスターで十分務まるが、シラットじゃどうしても越えられない壁がある』
「シラット?」
 聞き慣れない言葉に聞き返していた。
『東南アジアを出自とする軍隊格闘術だ。体術と共に、暗器のようなナイフ術や、戦斧術なんかがある。だが軍隊は基本対人だ。ゴジラを倒すようにはできちゃいない』
 言いたいことが自然とわかる。
「人型ではない『穏』の相手にはならない」
『俺たちの相手は『鬼』ばかりではないからな。四ツ足のだの、大蛇だの、色々だ。ところで、『鵺』は知ってるか?』
 その言葉が呼び水となったかのように、黒い獣、前足をついた状態で私の背を越える影の獣の姿が見えた。
 背筋が緊張に包まれる。
「『鵺』」
「ああ、そうだ。『鵺』だ。『鵺』相手じゃ、束でかかっても死体の山だろう。優衣、お前はどうだ? 『鵺』は殺れるか?」
 背後からの声に、ゆっくり振り返る。
 君塚涼が真後ろに立っていた。
 直前まで、気配を全く感じなかった。
 声が出なくなった。
「らしくもない。『神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬る』くらいでいて欲しいのだが」
 虚であっても意地を張りたい男の前で、返事すら出来なかったことを苦く思った。だから、
「この件、『鬼』ではなかったの?」
 と口をついて出た言葉は、ただの誤魔化しでしかなかった。
「調べが少し進んだ。この件、『鵺』の影がちらつく。マラソン参加者が全て東北のとある村の出身者だとは説明したな」
「うん」
「その東北の村が、朝廷に敗れた蝦夷の落人集落が起源だと裏が取れた。合わせて戦後まで術の使い手がいたこともな。『鵺』と戦うことを思えば、気乗りしない田中君の護衛にも気合いが入るだろう?」
 かんに障った。
「私は、穏殺しか知らない。それ以外のことをさせるのは無茶だ」
「おいおい、無茶はお前の方だ」
 私は何も答えず睨んだ。
「今は平安時代じゃない。組織の有り様。『穏』たちの人間社会への関わり方。そのすべてが時代によって変わる。昭和の初めには組織の最大勢力だった卜伝流の担い手も、今や優衣で最後だろう。
 哀れな不良達の後片付けをした人達に、心の中だけでもいいから礼を言っとけよ。今の時代、周りを支える人員がいて初めてモノになる」
「殺さなかっただけでも上出来でしょ」
 腹が立ったから吐いた。その程度の言葉だった。
「おまえ。お前は一体何がしたいんだ? 何が望みだ」
 空気そのものが変わってしまった。君塚涼の体内から獣臭が弾け、その躯が数倍に膨れたように見えた。
 血の気が引いた。蛇に威嚇され、生きたまま食われるカエルと自分に違いが無かった。 
「何がしたい?」と聞かれて、自分の中に、この男に答えられるような望みがなかった。
 例え、「お前を殺してしまいたい」と言っても、それが私の本当の望みであるなら、この男は「やってみろ」の一言で受け入れるだろう。
 でも、それが私の本当の望みなのか、わからない。
 誤魔化しや、その場逃れ、中途半端な答えなど言えるはずもない。
「お前は何がしたい。本当の望みは何だ」
 目だけはそらさなかった。でも何も答えることができなかった。


   4

 道場に居並ぶ『穏合』の組頭衆は、この手合いが単純な命のやりとりではないことを、何も知らない私にもわかりやすく教えてくれた。
 男達は、時代の浅いものでも数百年、古いものでは千年以上に渡って伝わる、『穏』を殺すためだけに生み出され、磨かれた絶技をその躯に焼き付けている。どのような業や術を使うのかまでは知りようもなかったが、年老いた者も若い者も、その異様な存在感と躯に纏う獣臭だけで、自分が最もよく知っているはずの道場が、まるで、私の記憶の奥底にある『結界』に閉ざされてしまったかのようだ。
 彼らが私語を交わしているだけなのに、息苦しさを覚える。生まれて初めて『穏』と相対したときと同じような。この男達は、『穏』を殺すために人であることを捨てた『穏』そのものなのかも知れない。
 私がこのような場にいることが許されたのは、『卜伝流』の師範家を継げるのが、今はもう私しかいなかったからだ。昭和の初めには、最大派閥であった『卜伝流』の使い手が、今は、私ともう一人のみ。全部、この道場のほぼ中央に立つ老人のせいだ。
 どういった事情があるかはわからないし、知りたくもない。『穏』に殺されなかった者は、この卜伝の秘伝を知る老人によって、斬り殺されたのだ。
 同時に、老人は、残っていた血筋の中で才能を持っている子供を鍛えたが、みな目録を与える前に斬り殺してしまった。
 私だけが、最後まで残っている。
 才能があるからではない。逆だ。目の前で斬り殺された従兄弟達のことを思うと、老人が私に対しては、本気でないことだけはわかる。
 老人と中央で相対するのは、背の高い男だ。肩幅もある。
 ただ不似合いだ。道場に靴下。ラフな格好でポケットに両手を突っ込み。色の入ったメガネといいその逆立てたような髪型といい。立ち振る舞いもまた繁華街でならす悪党。暴力を知り、また楽しむ程度には、十分な殺気を発していたが、それは獣臭と呼べるものではない。
 この男の素性が、『櫛の』と呼ばれる『隠合』の重鎮、宝剣家の番頭だと、周りの雑音から聞こえてくる。
 私がこの場にそぐわないなら、この男も相当場違いだ。
 番頭と言うからには優秀な男なのだろう。でも、少なくとも人ならざる『穏』を相手にする『隠合』。その組頭の相手が務まるとは思えない。
 道場中央で、男が挙げた威嚇の声が組頭衆の私語を一瞬止めた。でも、それは大きな音が注意を惹く、ただそれだけのこと。
 威嚇は意味がない。そんなこともわからないの?
 場の空気を感じられないほどの弱者なのか?
 それとも、ただのバカなのか。
 男はその姿に見合った口汚さで、老人を罵った。
 宝剣家も、この程度の男をこの場に出すほど衰えてしまったのか。目を上座にある宝剣家に向けると、若い頃、老人によって鼻を切り落とされたという老公ではなく。高校生になるという宗家の少年が詰め入りの学生服姿で座っていた。老練な組頭衆の中にあって、一歩も譲ることなく凛としている。
 考えすぎなのだろうか? これは、神前で巻藁を斬るような演舞行事であって、わざわざ老人の演舞を見るために組頭衆が集まったのだろうか?
 空席が目立つが、『穏合』組頭がほぼ全て揃っていた。
 私には全くわからない。
 男が焦れたようにジャケット背中、腰に手をやり、ベルトのフォルスターからオモチャのような黒い自動式拳銃を引き抜いた。スライドさせ、ゆっくり見せつけるように、銃口を老人に向けた時、考えることをやめた。
 私は本当にがっかりした。そして、自分が何かを期待していたことに気がついた。
 単純に、この男が老人を殺すことを期待したのだろうか?よくわからない。何を期待したのかわからなかったが、本当にがっかりした。
 拳銃が引き抜かれてもなお、組頭衆の私語が絶えない。拳銃を理解しないのではなく、拳銃で容易に傷つく者が、多分私以外にはいないからだろう。危害がなければ無いのも同じだ。
 私の目には、男が、今は外している指をトリガーにかけた瞬間。老人の抜刀と共に手首を切り落とされ、袈裟に斬られるところまで見えた。
 男がトリガーに指を掛る。その『起り』が見えた瞬間。結果とその過程がわかっていても、老人が抜刀した瞬間が見えなかった。私の目には老人の刀は既に抜かれ、その通過点にあった拳銃を持つ腕が落ちて、いなかった。
 紙鉄砲のような発砲音がそれを証明する。
「『神集の太刀』」
 私は叫んでいた。
 『卜伝流』の業の一つ。相手の目には受けたはずの刀が懐に潜り込んでくるのと同じ業を男が使っていた。そうでなければ説明が付かなかった。
 老人が斬ったのは、空であり、銃を持つ男の腕は刃をすり抜けていた。
 一発、二発。老人は至近の銃弾を浴びながら、なおも刀を横薙ぎに振るう。それを男は床を蹴り宙返りすることで躱していた。
 『起り』が全て読まれている。まるで見せつけるように宙返りする必要はどこにもない。
 発砲が続く。
 白髪を振り乱す老人の両目が潰されているのが見えた。肩、脚、肘、主要な関節にも銃弾を受けていたが、老人は刀を振るうのをやめない。でもそれは、生にすがる妄執であって、『卜伝流』と呼べるものではなくなっていた。
 白髪を乱し、血まみれになりながら刀を振るその姿は、よく知る鬼神そのもの。でも、無残だ。あまりにも無残だ。
 銃弾を受けながら、なすすべなく死んでいくことではなく。老人は、塚原卜伝だけが使いこなした『無手勝流』に敗れようとしているのだ。
 道場に男が一歩足を踏み入れたときから、すでに始まっていた。実力をわざと見誤らされた。男は確かに真正面に向けた銃を使ったが、それに対するのに、抜刀術を使うことを誘導させられた。私も、あの場に立ち会えば抜刀術を選択していた。
 殺される方向に歩かされ、殺される。刀を抜く前に老人は、殺されていたのと同じだ。十四回目の発砲音に、とうとう老人の力が尽きた。自分の重さに膝が耐えきれなくなったかのように崩れ倒れ落ちる。
 拳銃を手にした男は、先ほどまでの悪党ではなくなっていた。全身を覆っていた皮を自ら破り捨てたかのように、今は、己の獣臭を隠そうともしない。
 場はすっかり静まりかえっていた。組頭衆に動揺はない。当然の結果を見ているかのようだ。
 道場の床に落ちた老人の頭に、十五回目を発砲すると、男はスライドしたまま停止した拳銃を元に戻し、ベルトのフォルスターに戻した。
「さぁ、ショーはこれで終わりだ。集まったお歴々の中で俺に勝てそうな見込みのある者は、今ここで名乗り出ろ。全員でも構わないぞ」
 今はもう無言の組頭衆一人一人を嘗め回すように、男は視線を走らせた。
 なぜだか、茶番のように感じ、それはすぐに証明された。
「前もって話したように、失伝し、後継は絶え、このままでは遅かれ早かれ歴史の闇にそのまま埋もれてしまう『隠合』を改編する」
 組頭衆は、ここに老人の巻き藁の演舞を見るために集まったのではなく、老人を的にした射撃を見るために集まったのだ。
 組頭衆はすでにこの男を認めている。始まる前から、もう、すべてが終わっている。
 でも、私にはそんなことはどうでも良かった。
 老人を殺されたことに対する恨み?
 六歳の時から七年間。ごく僅かな人生でも、私にとっては全てと言える時間を費やしてきた卜伝の剣を踏みにじられたとでも感じたのだろうか?
 そのいずれでもないような。そのいずれでもあるような。
 私は、刀を抜き、声を挙げながら斬りかかっていた。
 男の間合いに飛び込むよりも先に、腕が数センチの単位で切り刻まれ、腕のあった空間が血で染まるのを見た。
 恐ろしいまでの殺気。男の後方、宝剣家宗家の高校生になるという跡取りの顔が見えた。跡取りの手が何かを握りつぶすような動きをした。これが私が自分の目で見た最後の映像で。
 少し遅れて「殺すな」と制止する男の声を聞いたのが、自分の耳で聞いた最後の音だった。


   5

「事故だったんだ」
「うん、頭までバラバラ。だから、生きている意味とか言われても、わからない。死というのは、まだわかる気がするけど」
 私の言い方に田中和也は少しショックを受けたようだ。そのショックの理由が私にはわからない。それを共感できる部分をバラバラにされたのかも知れない。
「いや、うーん。今は生きているわけだし。それにさ、タッチー(国語教師)に喧嘩を売るのはまずいって」
「喧嘩を売ったつもりはない」
「じゃ、言い換える。空気を読めば良かったのに。その結果がこれだよ」
 田中和也はまだ何も書かれていない原稿用紙を指した。私にだけ宿題が出されていた。 『生きること』『生きる意味』何でも構わないから『生きる』をテーマに作文を書けというのだ。枚数は自由、ただし一枚以上。提出期限は明日授業開始まで。
 国語の授業にありがちな脱線で、「生きるとはどういうことだ?」と聞かれて答えられなかったのだ。流せばいいものを適当に流せなかった。
 あの男に言われた「お前は何がしたい。本当の望みは何だ」という言葉が、私の中でトゲのように刺さっていて、国語教師の言葉が無神経にそのトゲに触れた、ということだ。
 私はため息をついた。田中和也は笑っている。
「笑うな」
 一番はじめに、私は田中和也を喋る壁だと思うことにしたが、私の方からその壁に向かって喋りすぎたのかも知れない。
「白江さんって、無口でちょっと不思議ちゃんが入ってて、近寄りがたかったのに、色々な表情をするんだね」
 不思議ちゃんね。
 昼の定時連絡で、宝剣勇の代わりに出たあの男はこう言った。
「田中和也にとって、優衣は腕っ節がたつ不思議ちゃんだ。その不思議ちゃんの妄想世界に、助けられた恩もあって付き合うことにした」
 あと二言、三言、何か余計なことを言っていたが、私が短気を起こして殴りつけない限りは、護衛を拒否することは百%ないと言っていた。
 ありがたいというのかな、これ。
 命令を聞いた昨日の朝、百%の失敗を予想した田中和也の護衛という名の監視は、意外にも順調だった。
 その昨日も、一人がスカイマークタワーに走り出しそうになり、駆け出す前に無事保護されたという。それは今までの保護の仕方を考えれば成果だろう。でも、状況の変化に対する向こうのリアクションを待っていることには変わりが無かった。内偵が進むのを期待するしかない。
 このふざけた状況を作り出している『鬼』の確保。もしくは、殺害によってこの事件は終わる。それ以外の終わりはない。
「言い過ぎた。ごめん、怒った?」
 私の沈黙を怒りと判断したらしい。私のスタンスは変わらない。田中和也に怒る必要がなかった。
「怒ってない。自分でも驚いた」
「何を?」
「私は、あまり自分を話す方じゃない」
「うれしいな」
「うれしい?」
「いや、だってさ、人には言わない秘密を打ち明けてくれるってことでしょ」
「違うわ。自分の胸の内を吐き出したかっただけ。それがたまたま、あなただっただけ」
「それで十分さ。信用して貰えてるんだから」
「全く逆。壁と変わりが無いから」
「壁? 容赦ないな。でも、何でも話は聞くよ。たまにツッコミも入れる壁だけど。塾までの時間もたっぷりあるし」
 私は鼻を鳴らした。辛辣に言ったつもりでも突き通らない。田中和也は本当に壁だ。
「何か書くネタちょうだい」
「えー、自分で書こうよ」
「私は、自分が人間である自信もないの。どうしろと?」
 これは本心だ。
「何、言ってるの。白江さんは立派な人間だよ」
「さっきも言ったけど、私の脳味噌の半分くらい機械が補ってる。どこまで脳味噌が残っていれば人間で、どこから先がロボットか、決められる?」
「明確な線引きはできないよ。それを言い始めたら、メガネや差し歯だって、何かで補助してれば人間とは言えなくなっちゃいそうだ」
 田中和也は一度変に言葉を切った。
「ねぇ、白江さんは、今こうしていている間も、心で感じるよね。怒りとか、楽しいとか」
 私は、言葉の真意を確かめるのに反応しなかったが、田中和也は肯定と受け取ったらしい。「だったら、十分人間だよ」
「おかしくはない?」
「どこが?」
「感情があれば、人として生きてるの? じゃあ、心の病気で、感情を失った人はどうなの? 死んでるの? プログラムにだって喜怒哀楽を感じさせることはできるって聞いたけど、そのプログラムは生きてるの?」
 なぜ、反論してるんだろうと心では思った。
 しかも、少し熱くなっている。
「それは……誤解だよ」
「誤解?」
「うん。人間はそもそも一個のプログラムなんだって。脳の中で化学変化だ電気の火花が散っていて、それが自我とか、喜怒哀楽を作るんだ」
「プログラム? その目的は」
「目的?」
「プログラムを作るんだから、目的があるでしょ」
「えーと、生命の宿命……かな」
「宿命?」
「えーと、生物は代謝、遺伝と生殖を行うモノって定義されてるんだ。生きるために物を食ったり、呼吸する。自分のDNAを残すために結婚して、子供を生み育てる。生きて次世代に自分のDNAを伝えるんだ」
「平均寿命が八十年として、あと六十五年間も、そんなくだらないことのために、私たちは生きてるの?」
「くだ……うーん」田中和也は腕組みをしてうなりはじめた。「話を元に戻そう。今のはなし」
「なしなの?」
「うん。あのさ、誰もが、本当に自分は周りの人と同じ人間なのだろうか? とか。生きているのか? とか、疑問に持つと思うんだ。
 俺だってそうだ。まぁ、捉え方とか熱量とか様々だし、深刻さとは無縁だけど。これには、一人一人が違って同じ物はないと思う。でもみんな、白江さんだけじゃなくてみんなが感じていることだと思うよ。
 でも、他人が、白江さんが納得できそうな、それらしい答えを言ったって信用できなくない? だって、実は五分前に宇宙が出来て、俺たちの記憶もそれらしくねつ造されているかもしれないんだ。今こうして、白江さんと話している今だって、五分前は何もなかったかも知れない。五分前の記憶があるのは、それがただ単にねつ造されているだけ……ちょっと突飛すぎたかな」
「続けて」
「うんだから、そんな周りだって、記憶だって信用ならない中で、自分が絶対に自分と言えるのは、自分しかないんだ。自分が自分を定義づけるしかないんだ。自分がロボットだと思えばロボットだし、人間だと思えば人間だ。なんだけど、それだけじゃ片手落ちで、信用ならないはずの他人が定義づける自分も、結局は自分なんだ。成績は中程、運動神経は悪くもなく良くもなく。サッカーよりもバスケや野球をやらせた方が上手い。最近、洋楽にはまっていて、スマフォじゃなくてゲームセンターにわざわざリズムゲームをやりに行く。そういう風に他人に見えているのも、確かによくよく考えれば自分なんだ。
 だから、白江さんは、自棄起こさない方が良いよ」
「あなたから見て、自棄を起こしているように見えるの私」
「俺というより、大人かな」
 その言葉に促されるように、あの男が思い浮かんだ。
「タッチーが白江さんに宿題を出したんだって、何か自棄になっているように見えてるんだよ。それをタッチーは、俺が白江さんを変えてやるくらいのつもりでいるんだ」
「バカじゃない」
「バカかも知れないけど、先生って仕事はそんなことも含まれるんじゃないのかな。昨日の授業の脱線だって、白江さんの方見て言っていたような気がするし」
「なにそれ」と言おうとしたのをやめた。
 驚異にならないモノは、私にとって存在しないのと同じで、国語教師に意識を向けたことすらなかった。正直、学校でその後ろ姿だけでは国語教師だとわからない。だから、田中和也の意見を否定することができなかった。
「あんまり、まともに受け止めないでよ」
「大人ってみんなそうなの?」
「え?」
「私が自棄に見ると言うこと」
「わからないよ。そうだ。白江さんに『隙があるから付け込まれる』んじゃないかな?」
 一瞬、何を言われたのかわからなかったけど、昨日の意趣返しだと気がついた。
「あ、今笑った」
 ため息をついて頭の中を整理する。
「笑ってない。参考にはなった。あなたは、自分の他人からの見られ方に、NHCのサイエンス番組好きも付け加えておくと良いわ」
「え? 毎週見てるけど。何でわかるの?」
「さぁ?」
「教えてよ」
「自分で……」
 視線を感じて、日が落ちようとしている窓の外に視線を向けた。
 開いた窓の先、一匹のカラスが身じろぎもせずに見ていた。
 手が筆入れの中のカッターナイフにのびる。手首を返し、六歳の頃から仕込まれてきた手業でそれを投じる。結果は見ない。
「え。今何やったの? カラスが、カラスの首が」
「逃げるよ」
 反応できないでいる田中和也の腕を掴み「立って」と声を荒げる。
 思考通信で指令所を呼び出すが全く反応がない。スマフォは鞄の中で今から出して確かめる余裕なんてない。もう手遅れだ。
 音が消えている。野球部や陸上部のかけ声や、吹奏楽の練習が全く聞こえない。
 教室から出ると、放課後の廊下に佇む生徒達たちが、まるで死霊のように見えた。
 顔には生気無く、意味も無くその場に立ち尽くすだけ。
「結界か」
 私の知る結界とは違っていた。集団催眠というものは観たことがなかったが、このような状態を示すのかも知れない。
 廊下の窓から、中庭で、金色の金属光沢をあげる楽器を持つ少女達が、楽器を吹くわけでもなく、ただ立ち尽くしているのが見て取れる。
 『鵺』の結界?
 『鵺』を一度見たことがある。向こうがこちらに興味を覚えなかったから、今の私があるだけの話だ。こうなると、何が起るのか想像も付かない。
 『鵺』との闘争を書いた古文書を読む機会はあったのに、勝てないという理由で手にも取らなかったことが悔やまれる。
「ちょっとまて。どういうこと? 何が起ってるのさ。どこへ行くの?」
 田中和也も異変に気がついたらしい。
「さっきのカラスは、『鳥の目』と呼ばれている無人機」
「味方じゃないのか?」
「私が教室にいるのだから、あの位置で覗く必要は無い。しかも、指揮所を呼び出しているのに連絡が取れない」
「それって、つまり」
「あなたを狙っている奴が動き出したということ」
「本当かよ? 一体何者なのさ」
 恐れではなく、好奇心の表情だ。死に触れたことがない者の余裕ではなく、想像の欠如だろうか。
「さぁ、よくわからない。でも学校は相手の勢力圏に落ちてる。想定外って奴」
 それは本当のことだ。田中和也が駆け出したら抑えるのが任務であり、外部から『鬼』や『鵺』の接近があった場合には、他の者が引き受けることになっていた。
 だから寸鉄すら帯びてない。最悪、田中和也を背負ってでも逃げなければいけなかった。
「そんないい加減な。だったら、走って逃げなくて良いの?」
「あなたが走って逃げる体力を温存してるの」
「ごめん、ちょっと待って」
 田中和也が腕を引っ張り、廊下に設置されていた消火器を片手で持ち出した。
「何するの?」
「へへ。何かの役には立つでしょ」
 ため息を心の中でついて、
「敵が出てきたら、私が引き受けている間に逃げて。外に白い福祉タクシーが止まっているはずだから、その中で待機している大人達の指示に従って」
「俺だってなんかできるはずだ」
「できると思ったらおとなしく大人に保護されて」
 新校舎から空中廊下を抜けて旧校舎の非常階段に向かう。
 静まりかえった旧校舎全体に響かせるような重い響き。中央階段を駆け上がってくる靴音が聞こえた。その重い靴の響きが凶兆を告げる音にでも聞こえたのか、田中和也の足が止まる。私は、その正体の想像が付いて舌打ちをした。
「さっきのなし」
「え?」
「福祉タクシーも敵に抑えられたみたい」
 彼だけ逃がす? どうやって?
 ここに置いて戦う? やれる?
 頼みの綱が切れた事だけは確かだ。あの靴音には聞き覚えがある。交代要員のシラットマスターのものだ。彼はその重量を感じさせない猫科の肉食獣めいた動きも出来るに、靴音を響かせて登るだけの理由がない。
 今の組織になる前より、『鬼』が犠牲者の脳を使うことから、最初に下された命令以外の行動はタブーだ。許されているのは状況変化による撤退や逃走のみ。救助救援に上がることはまずあり得ない。死体を増やすだけだと教え込まれている。
 様々な考えが過ぎったが、
「少し待ってて、絶対そこにいて」
「え、どういうこと」
「敵に操られた味方が来るの」
「操るだって?」
 私は田中和也の腕を放すと飛んでいた。
 踊り場に音もなく着地する。
 無手でどこまでやれる?
 呼気を整える。もう、獣臭を隠そうとは思わなかった。
 私の発した獣臭に勘が戻ったのか、シラットマスターも、その重量を感じさせない本来の身のこなしで踊り場に着地する。
 背は百八十。体重は百に少し欠ける。全身を柔軟な筋肉と脂肪に覆われたプロレスラーか、単に首がない男か。
 顎のしゃくれた熊のような顔をしていて、実際に、ベアとかクマとか呼ばれていた。
 今朝顔合わせしたばかりでも、彼も全身義体であること、近接格闘術の達人であることもよくわかったていた。雰囲気そのものが、その体格以上にこの戦争のない国には不似合いなのだ。
 手加減や、無効化を気にしている余裕はない。逆に考えれば、ユニット化された脳さえ無事なら殺さずに済む。
 目は焦点を欠いているが狂気はない。『鵺』支配下で、私の排除をプログラムされたのだろうか。それとも私が倒すべき敵にしか見えないのだろうか。
 右手には戦斧。刃は私の手よりも小さな歪んだ二等辺三角形にも見える。せめてもの幸いは彼がアーマーを着てきていないこと。それどころか、直前まで珈琲を飲んでいたのだろう。シャツが染みになっている。
 私を信用していてくれたのかな?
 甲種の『結界』でも制約を受けないと聞いていたのに、抵抗する暇も無かったようだ。
「ま、いいか」
 息を止め、間合いを詰める。
 踊り場の広さは五メーター弱×二メーター弱。私と彼の間は三メートル。一足踏み込むだけで、互いを殺せる世界。
 最も生に遠く、最も死に近い距離。
 私の目には全ての『起り』が見えている。誘うような左拳、床に付いた足を起点に生じさせた力を、膝、腰、背中へと伝え、巨大なうねりへと変え、視界外から襲いかかる戦斧に乗せる。
 精緻を極める左拳を耳を掠りながら交わし、大きく振り出される斧が私を襲うよりも前に、死中へ飛び込む。自らが地面に根を張った大樹と成り、相手の動きを制する。自分の体重と相手の体重、自分の体幹と相手の体幹まで利用した、重い肘を胸板の中央に叩き込む。
 介武(鎧武装の武者)の心臓を鎧の上から破裂させた業が、自分でも驚くほど綺麗に、入った。
 それなのに、シラットマスターを二歩下がらせただけで、鈍りがない。
 息を長く吐き出しながら、追い打ちをかけられない事実を受け入れた。
 そのまま、力と体格を持って、抱きすくめられなかったことだけが、唯一にして最大の効果か。
 再び間合を詰め、襲いかかってきた戦斧を、その腕に腕を絡めるような動きで封じながら、撃ち合う。
 捌ききれなかった左拳が顔に飛んでくる。
 二発、額で受け止め。三発目は逸らす。
 手数が多い。手元の一発一発が重い。例え一発でも完全に入ると、そこから相手のキルパターンに入ってしまう。
 蹴りの気配に、躯が間合いを外そうとする。
 しまった。
 無意識に蹴りを嫌ったことに、全身が警告を発している。
 絡めた腕を抜け、空間の自由を得た斧の刃が、サマーセーターの胸元を掠めた。
 全身に汗が生じ、叩きつけられたかのように背中が踊り場の壁に付く。
 再び、腕の獲り合い、捌き合い、相手を自分のキルゾーンへ叩き込むために、腕を絡め、撃ち合い、凌ぐ。
 筋力、体力、体格に劣り、速度、持久力、すべてがじり貧。
 同じ全身義体でも脳が揺れるほど残っていないのが、唯一の優位か。
 左腕を見逃し、首の骨が折れるような左拳を浴びたが、代わりに斧を持つ腕を獲り、両手で丁寧に極め、骨が折れ握力を失った指が戦斧を落とす。
 腕の骨を折る瞬間、力任せに上り階段に叩きつけられた。
 背中から衝撃が走り、息が強制的に吐き出される。目の前が白くなりかける。
 失敗した。相手の戦い方を予期できなかった。シラットマスターは私に折られる寸前の腕を、自らの折ることで一気に決めに来た。
 勝機があれば、腕の一本失うこと、その痛みを、気にしない戦い方が出来る男なのか。 ま、いいか。
 不意に弱気が自分を支配する。
「白江さん!」
 鈍い金属音と共にシラットマスターが動きを止めた。床に落ち転がる消火器。叫び声と共に、田中和也が投じた消火器がシラットマスターの頭に当たっていた。
 よくない。
 いいわけない。
 力で圧倒され、そのまま撲殺されるキルゾーンから、転がり逃れ、戦斧を取り、逆襲をかける。
 私は叫んでいた。吠えていた。
 追撃の左拳をピックで払い。体を空けてから顎に脳を揺らす拳を叩き込む。躯を回転させ、首筋にピックを打ち込み床に倒す。
 生まれて初めて、口から気を吐いていた。
 敵を撃ち、倒した充実感とは明らかに違う何かが、胸の中にいっぱいだった。
 シラットマスターは立ち上がってこない。縋り付くように顔を覗き込んだ。
「ベアさん。首を押さえて」
 シラットマスターの目には、もはや殺気はなく、状況をつかめていないことを示す驚きと、力を急速に失いつつある恐れがあった。
「……俺はいったい」
 掠れるような声だ。
「喋ってはダメ。大丈夫。ちゃんと、押さえて。指は折れて痛くても動くでしょ? 救援はもうそこまで来てる。大丈夫。あなたは必ず助かる」
「白江さん」
「何」
 背後からの声に振り返らない。
「白江さん」
 私は長い息を吐いて心を切り替え、真っ新にしてから振り返った。
「ありがとう和也。命を救われた。あなたがいなかったら、私死んでた」
「白江さん」
 田中和也はうなだれ目線を合わせない。
「こういうキャラじゃないんだけど」と前置きしてから田中和也を抱きしめた。「何も言わなくていい。あなたのせいじゃない」
「そんな、無理だよ。ボロボロになるまで傷ついて。この人だって」
「気にしなくていい。ベアさんは殺したくらいじゃ死なない。私も死なない。あなたを必ず守る。いつものように学校と、塾とゲームセンターの日常に連れ戻す」
「それは、それは命令されたから? そんなモノやめてしまえよ。俺なんか置いて逃げてしまえ。君や他の人が傷つく必要なんて無いんだ」
 この人、本当に他人のために泣けるんだ。
 いくらの時が過ぎただろうか、嗚咽が小さくなってきたところで、「だめ」と、私ははっきり拒絶した。
「なぜだよ。なぜ殺し合わなきゃいけないんだ」
「自分の意志だから」その言葉を発すると、なんだかすっきりした。「意志にそぐわない命令なら、自分の意志で拒絶する。
 あなたはどうなの? どうしたいの? 何がしたいの? 本当に望んでいることは何?」
 田中和也の目を覗き込む。
「俺は……」


   6

 見下ろした階段の先、踊り場の窓の外は、空以外に何も見えなかった。本当なら見えるはずの校庭や木々、住宅地の屋根などは見えず。溶鉱炉の銑鉄を流し込んだような空だけが非常識に広がっている。完全に黄昏に墜ちていた。夜の闇よりも先を見通すことが困難で、世界が持つ禍々しさが目の前に現れたかのような世界。
 東の窓からも、西の窓と同じように、溶鉄のようなオレンジが見える。闇となる場所では、影が絡みつくかのように一層深く。オレンジの光に満ちた場所も、けしてが見通せるわけではない。
「息を止めてくれる? このまま階段を登るか廊下を歩くか決めたい」
「うん」
 田中和也は言われるように息を止めた。
 神隠しとは、大半が、このクラスの『結界』に迷い込んだせいだ。私がこのクラスの『結界』に入るのは、これで二度目。特に感慨は無かった。
 ただ、あえて言葉にするなら、ムカつく。地上四階建てなのに、それを無視する階段。五十メートルを少し越える程度の廊下が明らかに長い。それは先を見通すことができないほどに。廊下の途中、教室のドアを開けると、散乱する机の真ん中に上へと上がる階段が当然のようにあったりする。見ず知らずの誰かに弄ばれているような感覚に苛まされるのがムカつく。
 私は、田中和也に息を止めて貰ってまで、静寂を求め。閉ざされた墳墓の中のように、音も空気の流れも失って生まれた無音の中に獣臭を求めた。
「登ろう」
 今度は、階段を登ることにした。
「喋ってもいい?」
「いいよ」
「白江さん慣れてるね」
「うん」
「白江さん、いつからこんなことしてるの。小学校一年のときから?」
「なんで、一年生のときからだと思うの?」
 田中和也の顔すら見なかった。幼い日の神隠しのことが見えていた。黒い影の獣。泣いている子供たち。
「入学式のときにはいたんだ」
 足を止め私は田中和也の横顔を見上げた。
 頭の中に、『にゅうがくしきおめでとう』の横断幕と桜をイメージしたピンクの花飾りが過ぎった。
 小さくため息をつく。
「大洲小だったけ?」
「うん。白江さんは四月に少しだけ学校に来て、それっきりだった」
「良く覚えてるね」広すぎる道場に、老人と、自分より一、二歳年上の親戚達の姿が見えた。「神隠しって知ってる?」
「子供が突然いなくなる奴?」
「そう」
「それって、実は、日本の森が足場が悪く沢へ一直線だったり、湿地帯や元々沼だったってことも多くて。地面のように見えても、腐った足場で足を取られたり……といっても、この現実を見ると、バカだね」
「あなた優しいのね。別に怒ってもないし、暗喩でもない。本当に私は神隠しに遭ったの。ま、色々あったんだけど。そこから出ることが出来て、老人の目にとまった。女は、子供を産む道具という考え方しかなかったのに、老人は六歳の私に何を期待したのか『卜伝流』を仕込んだ」
「卜伝? 塚原卜伝のこと?」
「うん。五百年以上前に『鬼』をも殺す剣を編み出した人。この世界には『穏』と呼ばれる人でも動物でもないモノ達がいる。人を攫い喰ったり、疫病を招いたりするの。それらを倒す人たちが、平安時代前からいたんだって。やめる? こんな話」
「続けて」
「陰陽師とか安倍晴明とかと一緒に都を守ったり。天海というお坊さんの元で徳川さんの天下が続くように色々工作したとか、しないとか。そんな組織が時代によって名前や、形を変えながら、今まで続いている」
「ちょっとした怪奇現象記事満載のゴシップ雑誌だね」
「そういうところにも、わざと情報を流して事実を曖昧にしてるって」
「ますますゴシップだ。さっき言ったオヌ?って。鬼のこと?」
「それも含まれる。『鬼』は人の脳を使って考えたり、色々悪さをするの。今、私たちがいるのは『鵺』の『結界』」
「『鵺』」
 田中和也は言葉の意味を確かめてる感じで呟いた。
「『隠』というよりは、神様の類いかも。トラツグミの鳴き声を上げる。黒い影の大きな獣に見えた」
「強いの?」
「雷獣とも呼ばれる自然現象と動物の間のような存在だから、人間の手ではどうにもならない。ただ、人に操られているなら、どうにかできるチャンスがあるの」
「そういう場合って、操っている人間の方が強くない?」
「猛獣使いだって、猛獣にかみ殺されることがある」
「……あ、白江さん見て」
 その言葉に階段の先を見ることはなかった。
「ねぇ、和也。絶対にあなたを守るから。だから、私を守ろうなんて思わないで」
「おとなしく守られていろというの?」
「そう。今までの私は、自分の力をすべて使い尽くし、殺したり傷つけたりすることだけが、自分を救ってくれると信じていた。でも、今日初めてそうじゃないと思えた。人を守ること、何かを守ることが、力になることがわかったような気がする。少なくともベアは無手で勝てる相手じゃなかった。多分、あの時感じたこと一つ一つが、これが終わった後に、私が進む道だと思う」
 ベアの戦斧を奪ってからの動きは、今考えても不思議だ。今までの自分が、死を意識して心が萎えた直後に、あれだけ動けるはずがない。そして、成し遂げた後に胸を満たした充実感。明らかに死を超えた際に感じる物とは違う。
「わかったよ。でも、動けなくなったらいつでも肩を貸すよ」
「そのときは、頼むわ」
 上がってきた階段の目の前に、今までのような踊り場ではなく、当然のように屋上への扉が現れていた。
 田中和也からマスターキーを受け取り、扉を開けると、踏み出すのに躊躇うような、溶鉱炉のオレンジ色が広がっている。
 太陽がどこにあるかもわからないのに、ひどく長い影が十本伸びていた。ズボンをはいた作業衣のような、和装の男達。その中央にいる見覚えのある顔。
 ため息が出た。
「辿り着けたか。探す手間が省けた」
 酷薄な、カミソリで人間の顔を作り出すとこうなるのかも知れない。初めて道場で見た、由緒ある宝剣家の跡継ぎに相応しい、凛とした男は、この二年で歪んだ方向へ鋭さを増していた。
「宝剣勇。あなた裏切るつもり? 少し話をしてくれない?」
「そういうものには、今までほとんど興味を示さなかったじゃないのか?」
 佩いた刀の柄を指先でリズム良く叩きながら、宝剣家の現当主は言った。
「今までは今まで。これからはこれから」
「特に、話すことはない。現時点をもって田中和也の護衛は解除だ。お前の出番はもうない。ゴミ箱行きだ」
「まだ何も終わってないでしょ。むしろ始まり」
「終わりだお前も。うすうすは気づいているだろう。これはすべて茶番だ」
「茶番? ベアが死にかけているのに茶番で片付ける気」
「は、空挺から来た男がどうなろうと知るか」
「不満だったの? あの男に『穏合』が変えられてしまうことが」
「不満だと? 『卜伝流』などと、新参が幅を利かせることすら度しがたいのに。不満それ以前の問題だ。この二年間、お前のような、全身をあの薄汚い『鬼』に弄られ。挙げ句の果てに脳もまともに残ってはいない。そんな木偶を相手にさせられるなど。自分がクソにでもなったかのような気分だった」
「木偶かどうかは知らないけど、英国人のような協力者は平安の頃からいたと聞いていたけど?」
「黙れ。協力者だと? ただの道具に過ぎん」
「あなたの不満はよくわかった。それで、勝機があってやっているの?」
 怒気が目から迸ったように見えた。
「無論だ。あの男といえども『鵺』には勝てない。あの男の愚かさはその血で贖って貰う。奴は、事もあろうに、言葉巧みに老公を騙したのだ。『穏合』に穢れや血が混じる近代化など無用だ」
 宝剣勇が『無手勝流』の罠に填められているのではと思うほど、初めてあの男と会ったときと同じ、がっかりした感覚に囚われた。何かを宝剣勇に期待したわけではなかった。でもこれでは、あんまりだ。
「あなたと組んで『鵺使い』に何か利点があるわけ? 騙されてない?」
「安心しろ。向こうもこちらも、今はお互いに必要としているから手を組んでいるに過ぎない。『鵺使い』は告発者を端緒に過去の殺人が暴かれようとしている。公的立場の男だ。例え、一人の殺人でも世に明らかになれば、内閣が転覆するどころの騒ぎではなくなる。なのに、殺した数は三桁を越える。ま、現時点で警察も検察も素直な立件は出来ないがな。だが、あの男の動きに手をこまねいていれば危うくなる」
「告発者?」
「スカイマークタワーを中心とした旧都再開発は、与党に莫大な利益を呼び込む打ち出の小槌だ。そのキーマンは、『鵺使い』。彼の表での顔だ。ご丁寧に、走り出した人間の線をしっかり結ぶと、微妙にスカイマークタワーからズレる。何のことはない。併設されるビル群のビジネス棟の位置を指し示していた。そこは『鵺使い』が所有する会社が入る予定だ。走り出した老若男女の血筋を辿ると、『鵺使い』の出身地。そこを選挙地盤とする若手議員の筆頭は、次の選挙で総理大臣になる。政治記者ならずとも、最も『鵺使い』が最も目をかけている議員だと言うことは周知の事実だ」
「頭悪い。腐って倒れる木を守ろうとして、権力に縋ったの? それじゃあ、あの男に勝ち目はない。
 だって、そうでしょ? あの老人を、力で、暴力でも、『穏合』の社会でも、圧倒してみせたのに。あなたは全力を持って『鵺使い』と共にあの男を倒さなければいけなかった。
 多分あなた、はめられた。向こうにその気が無くても、落とし穴に墜ちた」
「フン、くだらないおしゃべりが過ぎた。俺の勝ちは揺るがん。殺せ」
 顎をしゃくると、宝剣家の一党が一斉に鞘走る。
「和也。ここにいて。何があっても動かないで」
「気をつけて」
「死ぬことは無いと思うけど」
「あの人達は……」
 思わず笑いたくなる。こんな時でさえ敵を気遣っている。
「大丈夫、殺さない。
 出る」
 勇敢で最も自負を持つ男なのだろう。一党の中で最も背の高い男が誰よりも先行し、裂帛の気合いと共に初太刀を入れてきた。剣士が仇敵と出会い修行で培った最大最速の太刀を放つ。そんな手応え。
 でも、『起り』が見えている。大男の太刀筋を見切り、空を切らせ。無造作に戦斧で脇腹を叩く。
 戦斧が血の帯を引く。
「泣くような声を上げるな。傷口を押さえろ」
 嫌になる。
 口から出た言葉は、老人とまったく同じ言葉だった。
 気を吐く。
 私の獣臭に圧されて、男達の気合いはすでに萎えていた。
 宝剣勇は、はめられたのではなく、宝剣家そのものに、もう人材がいない。『穏合』の寿命は既に尽きていた。
 歩きながら、また一人、振り下ろされる刀に合わせて斧で腕を叩く。骨の半ばまでを切断して、ピックで脇腹を叩く。
 一歩引くだけ、逆に前へ出るだけで、躱すまでもない刀が多い。
 横薙ぎ、突き、袈裟懸け、切っ先は私に届かない。私の足を止めることも出来ない。
 戦斧から血の帯が切れる前に次の血を吸わせ、六回斧を振るった。その度ごとに男達は泣くような声を上げて床に小さくなる。
 思えば、あの男が、私のコピーに熱を上げる理由もわかる気がした。彼らのような『結界』に抗する才能を持つ者を全身義体化し、『卜伝流』をインストールする。夢の部隊だろう。その前に、胆力を鍛えなければ使い物にならないけど。
 八人目。私を無視して、田中和也に斬りかかろうとした男に、斧を投げてしまった。血を散らしながら回転する斧の結果は見ない。
 振り向きざまに、今、最上段から振り下ろされようとしていた刀の柄、相手の指に腕と指を絡め、相手の手にある刀で、そのまま額を割る。一度、二度、三度。
 これで九人。
「良い刀ね。兼光かな」
 直刃の業物は、初めて見るものなのに、既視感を覚えるほど手に馴染む。
「貴様」
 宝剣勇は眉間に皺を寄せるように目を細めた。
 道場で見た宝剣家の若き当主の姿は、私の強者に対する恐れがそう見せていたのではなく。彼自身の意志の問題なのだろう。
「勇。『神道流』は難しいと思うよ。まだ現存する『示現流』をやらせた方が強くなる」
 恐るべき殺気を感じたが、私は何も慌てることがなかった。
 刀で一閃した。
 殺気が鋭い線と、そうでない線が感じられる。それらを見極め、刀に舞を踏ませる。納刀動作のように、手首にスナップをかけて刀を回転させると手応えがあった。
 勇の右手が彼の意志とは関係なしに動く。彼は信じがたいモノを見る目で私を見た。
「必殺技は、必ず殺さないと。一度見せられれば十分。綱引きしてみる?」
 刀から感じる張り詰めていた力が失われた。ただの髪に戻ったのだろう。
 宝剣勇は驚きの表情をさっと崩すと、奥歯をかみつけるような顔に変えた。
「貴様」
 喉の奥から出した声よりも明確に、私には次の『起り』が見えていた。
 宝剣家は髪を武器にする。
 束ね編むことで自在に動く切れないロープとして扱うことも、一本の恐ろしく長い髪の毛を硬化させ、指先の動作一つで敵を引き裂く刃、刃髪として使うことも思いのままだ。
 手首を効かせたその動きで、自動車を難なく両断できる一条の鞭が放たれていた。刃髪そのものは私の目では見えないし、追うことすら出来ない。それが可能なのは、達人の目ではなく、高精度の高速度撮影カメラくらいだろう。戦いの中でなくとも、自在に動く、一条の刃髪の動きを見ることは不可能に近い。
 でも、私は今日で二度目だ。
 切り刻まれたとき、刃と化した髪に人が発する気配、強烈なまでの殺気を感じた。それを正確に裁てれば、何も恐くない。
 逆に、その気配、殺気を極限まで消した刃髪で敵を切り刻もうとすれば、無理が生まれる。『起り』は鮮やかになり、例え刃髪に気配を感じられなくとも、勇の指先からどのように来るかまで読める。
 微かな手応え。
 それで終わりだ。
 私は間合いを一気に詰める。勇の顔が笑顔になるのを見た。笑顔は、人の祖先が木の上に生活していた頃の威嚇と戦闘開始を告げる表情の名残。笑うことで、全身が弛緩し、無理のない力を全身に配ることが出来る。これ以上、戦闘に相応しい表情はないだろう。
「宝剣の由来は、刃髪を使うことで名付いたのではない」
 地を擦り刎ね上げるような斬撃が火花と共に防がれていた。
 見事な抜刀術。
「『読み』が効くのね」
「試すか?」
 太陽のない世界の光を受けて、光の線が数合火花を散らす。互いの理合をぶつけ合う。
 宝剣勇は十分に強いことがわる。そうでなければ、あの男がわざわざ側には置かなかっただろう。
 お互いに『神道流』を元にした流派を出自としているため、『読み』と相まって互いの斬撃に過不足なく反応できた。でも、この拮抗状態は、切っ先と切っ先を重ね合わせ、互いの体重をかけたバランスのように、危ういもの。
 数センチに満たない距離で相手の間合を外し、自分の間合を築こうとする。
 介者剣術の名残の技、鎧の弱点である手首を切り落とす技も、懐深く入り、脇の下から腕を根元から切断する技も、互いに警戒し、必要ならば間合を外し、入らせない。
 素肌剣術の技、刀同士が吸い付くような刃の上で刀身を滑らせ絡める技も、鍔で相手の刀を跳ね上げる技も、互いに通用しない。
 体当たり、蹴手繰り、指がらめ。いかなる体術も入り込む余地がない。
「『卜伝流』が聞いて呆れる」
「そうかな。勇は息上がってない?」
「ぬかせ」
「ほら」
 隙が生じていた。精神的、肉体的疲労がもたらす僅か一点を突いた。刀を絡めるように跳ね上げ、小さく叩く。右手首を骨の半ばまで切った。
 そのまま、手首を落とすことも、首を刎ねることもできたが、間合を外す。
「これが卜伝の『一ツ之太刀』。二年前の私でも、あと最低三十分は同じことがやれる。今なら三日でも同じようにやれるけど? まだやる?」
「どういうつもりだ」
 右手首を押さえ立ち尽くす宝剣勇の顔に、血が足りていなかった。
「殺す気はない。詫びを入れろ。お前の手下もお前自身も助けてやる」
「フン。殺せ」
 宝剣勇は鼻で笑った。
 刃髪と同等の研ぎ澄ました殺気を感じた。左側。遙か遠い場所。
 躯が反応するが、刀は脆く甲高い音を立てて砕け、躯が思いっきり横薙ぎされた。
 屋上のコンクリに叩きつけられる。
 少し遅れて、雷のような発砲音。
 悲鳴を上げているのは和也だろうか。
 視線の先、少し離れた場所に靴を履いた足とかスカートが見えた。下半身が別の方向を向いている。胴体がちぎれていた。
「はは。ははは。ははっははっはは。優衣、切り札は最後まで取っておくものだ」
 狙撃?
 この『結界』の中で、どこから?
「白江さん! 白江さん!」
 田中和也が私を覗き込んだ。
「おや、告発者君、ご苦労様」
 顔は見えなくとも、田中和也の怒りが手に取るようにわかった。
「お前、絶対に殺す」
 意識が混濁して、幼い日の和也の顔が見えた。
 溶鉱炉のようなオレンジ色の街で、一人の子供が死んでいた。
 顔は思い出せない。もう意味が無い。
 死体になったその子供を抱き上げ、和也が何かを叫んだ。
 多分、同じ言葉だ。
 その和也を影の獣は丸呑みにした。
 私は、今このときと同じように、ただ見ているだけだった。
 だめだ。
「和也」
 声が出ているのか怪しい。どうにか動く手で田中和也の足にすがろうとして、抱きしめられる。
「白江さん」
 床の上でうめく宝剣家一党の影や、私の千切れた下半身が作り出す影、屋上を囲む柵や、階段の建物。周囲の影が田中和也を中心に渦を巻くように集まってきて、その姿を変えていく。
 雷のような発砲音が幾度となく続いた。効くわけがない。
「ばーか。やめて……みんな帰れなくなる……。もう……どーでもいいか」
 遠くでトラツグミの寂しげな声が聞こえた。
 世界が壊れていく。
 根住みの国が、猫の鳴き真似で壊れたように。


   7

「よう」
 その姿を一目見た瞬間、心が折れそうになった。
 百七十ある自分が、見上げるような背。何よりも、側に来ると遠くで見たときと違ってその躯の厚みが凄い。その存在感も凄い。
 コンビニの白い袋を提げていても、ヤクザめいた雰囲気に、気軽に返答する気にはなれなかった。
「はじめまして」
「和也君だね」
「はい」
「俺に、話があると聞いたが、ほれ、そこで買ってきた」
 白いコンビニ袋を受け取った。中身はアイスか?
「ありがとうございます」
 いきなり出鼻を挫かれた。
「暑い日はアイスに限る」
「そうですね」
 違うそうじゃない。
「で、話は何だ」
「あの、変な話になるかも、知れないですが……」
 声はひっくり返るし、言い方も相当変になった。
 昨日、あの宣言通りに、殺したつもりはないけど、人を二人殺した。その前のマラソンの話もある。
 昨日の夕方、長い間ずっと繋がれ、虐待されていた獣を逃がしてあげた。でも、その場にいた虐待していた男の知り合いを一人、その部下を一人、外からも内からも出られない中に閉じ込めてしまった。もう、それがどこにあるのかさえ、俺にはわからない。誰も助けることが出来ないことだけは、確かだ。
 獣は、虐待した男の生首を誇らしげに俺に見せると、どこかへ行ってしまった。その行方もわからない。
 獣が助けを求めていると知ったのも、俺には親しげに接するのも、獣の眷属が、俺の心の中に棲んでいるからだ。
 そのことをどう説明すれば良いのか、いざ説明する時になって、迷っていた。
「……『鵺』ってご存じですか?」
「知らねーな」
 一蹴され、反論の言葉が出てこなかった。
 これは、恐怖なのだろうか?
「優衣のクラスメイトなんだろ。しかも小学校一年生のときから目を付けてたというじゃないか」
 温かな言葉と人懐っこい笑みなのに、呑まれた。
「え。あ」と曖昧な返事しか出来ない。
 あの男に自分の意見を押し通したかったら、中身も外見も、それなりの実力を持つしかない。
 そう白江さんが言っていたが、本当にそう思えた。今の俺では相手にもされていない。
「まー、がんばんな」
「あの、白江さんには、相手にもされてないです」
 何言っているんだ俺。
 突然、背中を叩かれ、息が詰まった。
「はは、一度で諦めるのか? 少年。何度でも挑めよ。二十になるまでは諦めるな。
 おーい、優衣」
 涙目になりながら咳をすると、少し離れた場所にいた、日傘を肩にした自動車椅子の少女が近づいて来るのが見えた。
 小さな作りの顔と躯、大きな瞳、短くカットされた髪。ここにいるのにここにはいないような不思議な印象を持つ少女。今日は不機嫌に見える。さすがに制服は真新しくなっていた。
「何の用?」
「アイスクリーム買ってきたんだ。食えよ」
「これから学校だよ」
「前は、学校なんて行きたくねーとか言ってた癖に」
「うるさいなぁ。黙ってさっさと仕事に行け」
「へいへい。それじゃ和也君。優衣をよろしく」
「なんで、和也にそういうこと言うの?」
「はは」
 軽く手を振ると、男は国電の駅の方へ向かって歩いて行った。
「まったく、人と会うと父親のつもりいるんだ。あの男」
 一瞬、色々想像してしまった。
 普通に、小学校、中学校を卒業して、同じ高校に入った幼馴染み。重なり合った可能性の世界には、そういう世界もあるじゃないだろうか?
 父親と母親と暮らす白江さんと、何でもない俺。
「いい人じゃん」
「いい人じゃない。極悪人よ」
 渡された白いコンビニ袋の中身を見ると、ソフトクリーム型のアイスが入っていた。
「ソフトクリームだ。食べる?」
「いただく」
 言葉が出そうになって、寸前で止めた。これ以上、不機嫌にでもなられでもしたらたまらない。だまってプラキャップを外して渡してやる。
「ありがとう。何か言いたそう」
「ん、うん。食べるんだ」
「もったいないじゃない」
「そりゃそうだ」
 心の中で安堵の息を吐いてから、自分も一口かじると、冷たさと甘みが口の中に広がった。隣でアイスを食べている少女を見る。躊躇いが生じて、それを押し切って言葉にした。
「護衛は、もう終わりなの?」
「何の話? ということにしておいて」
 冷めた口調だった。また何事もなかったようにアイスを食べ始める。
「俺は何の償いもしていない」
「だったら、今まで以上に他人に優しくなれば良いじゃない」
「そんな」
「そういうこと言い始めたら、私は死んでも償えない。
 でも、生きているかどうかも怪しいけど」
「白江さんは生きてるじゃないか」
「そう? そういうことにしておこうか」
 梅雨前だというのに、今日は、暑くなりそうだった。

Girl/Boy Song

2015年8月 コミケット新刊 イラストワークス麻戸幸隆 

Girl/Boy Song

隠(オヌ)を狩る少女と少年の物語。 白江優衣の体は、髪の毛から、眼球、歯、皮膚、内臓、足のツメの先に至るまで、全て生体印刷された義体である。 失伝したはず卜伝の太刀を使い、歴史の表に出ることのない隠を狩る。 彼女に下された指令は、クラスメイトの護衛だった。 イラストワーク 麻戸幸隆

  • 小説
  • 短編
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-07

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著作権法内での利用のみを許可します。

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