れげえ先生
レゲエ、CLUB、先生、青春というキーワードに興味のある方、ない方も是非!
「俺も、歌いたい」
すべては、あの一言から始まった。
大学の校舎内。授業を抜け出して階段に座り、コーヒーを片手に、永井にそう告げた。
入学式。体育館では、お経が流れていた。お坊さんが、オレンジ色の着物を着て、木魚を叩いている。仏教系の大学ということを、入学式で初めて知った。式では、この大学の卒業後、同じ職場で働いている確率の低さを言っていて、不安にさせられた。
この辺りまで、京都駅から自転車で15分。飲食店や楽器屋、パチンコ店やレンタルビデオ店まである、学生の街だ。住むのに、申し分ない。
経済学部と言っても、マクロ経済学とミクロ経済学の違いだけを覚え、あとは、右から左へ流れていった。教科書がとにかく分厚くて、新しいことを学ぶ嬉しさはあったが、いきなり後頭部を殴られたような感覚だった。
大学入学したころは、これから起こるであろう、出会い、学校生活、アルバイトのことを考えると、どうしようもなくわくわくした気持ちになっていた。
永井とは、大学入学の三日目に知り合った。愛知県から京都府に引っ越してきた自分には、友達なんているはずがなく、手当たり次第に声をかけていた。校舎の入り口で、タバコを吸っていた時に、横にいたのが、永井である。
ライブのメンバーは、永井の地元の奈良の友達や、大学の経済学部や経営学部の友達を誘った。こうして、初めてのライブをすることになった。
やるからには、CDデビューしたいし、横浜レゲエ祭にも出演したい。いや、夢は大きくナゴヤドームでソロライブだ。地元で、レゲエ祭を主宰して、友達を呼ぼう。フライヤ―は、友達のデザイナーに書いてもらおう。夢は、膨らむばかりだった。
ライブをすることは決まったが、まだ曲は書いていなかった。なぜなら、テスト週間であったのである。徹夜勉強に明け暮れたテスト週間も終わり、ライブまで残り二週間。二週間で、四曲作らなければならない。
音楽の知識なんてない。高校一年生の時に、めざましテレビで紹介されていた三木道三に出会い、衝撃を受け、レゲエやヒップホップを聞くようになっていた。
FIRE BALL,PAPA B,YOYO―C、NANJAMAN、JR.DEE、H―MAN、湘南乃風、RUDEBOY FACE、MIGHTY JAM ROCK,RYO THE SKYWALKER、NG HEAD,KENTY GROSS、PETER MAN、ACKEE&SAKTFISH、PAPA U―GEE…。
ジャパニーズレゲエにどっぷりとのめり込んでいた。
初めてのライブは、はっきり言って、韻を踏むこともほどんどなく、言葉を並べるだけだった。とりあえず頭にはドゥーラグを巻いて、ハットをかぶって、以前行っていた店とは違うところで、大きめのサイズの服を買って着た。ライブ当日は、タバコを四箱吸ったし、緊張のあまり、歌詞も飛んだ。でも、結論から言えば、まずまず盛り上がっていて、成功したと思う。もう顔も名前も覚えていないが、そこで知り合った出演者、といっても友達の友達だが、彼らとみんなで銭湯に行ったことは、今でも覚えている。
それからも、月に一度のペースでライブを主宰し、友達に一枚千円のチケットを百人くらいの人にさばき、客を呼んだ。
そこで知り合ったクラブのオーナーと仲良くなり、永井達は、ステージに立った。彼らは、ヒップホップを歌っていて、RHYME STERやRYUZO、ANARCHY、EQUALといったヒップホップの最前線で活躍するラッパーの前座を務めるようになった。
一方、レゲエを歌う自分も、有名なアーティストは出ていないが、いくつかのイベントに出演するようになっていた。
ちょうどこの頃、失恋をして、彼氏がいる高校の時の同級生の女の子に告白をしていた。
そんな君に俺は胸がキュンキュン
というサビ。このサビのところで、拳をグーにして、胸をトントンする。彼女は、これを見て、笑っていた。歌手は、好きな人のために曲を作るのかな、とか疑問に思っていたが、自分は間違いなく作る派だな、と思った。
「また告ってくれるって言ったけど、結婚するつもりだよー」と言っていた彼女は、5年後の同窓会で、本当にお腹を大きくして、薬指に指輪をはめて現れた。
この大失恋によって、大学生のこれから一年間、毎朝六時に寝るという超悪循環の生活が始まった。当然、単位も取れないし、教職も落とされた。10分遅刻して、教室に入るなり、「君には、もう単位はあげれません」と、教授に伝えられたのであった。これではいけないと、次の日、研究室にお邪魔して、「もう一度チャンスをください」とお願いをした。これは、高校時代の野球部の監督である、ジャンボから学んだことだった。しかし、「無理です」という、当たり前のような一言に、目の前は真っ暗だった。
その時の自分を支えてくれたのも、レゲエである。今までは、日本人しか聞かなかったのに、ジャマイカのレゲエも聞くようになっていた。
BOB MARLEY、SUPER CAT、TIGGER、SHABBA RANKS、BUJU BANTON、SIZZLA、CAPLETON、BEENIE MAN、BOUNTY KILLAR、MOVADO、VYBES KARTEL、SEAN PAUL、ELEPHANT MAN…。
ノリノリのダンスホールから、ゆっくりとしたミディアムまで、CLUBで流れているものやCDショップ一押しのものを買っていった。気が付けば、所有しているCDは、およそ四00枚になっていた。
大学四年生の時には、RUB A DUBという、レゲエ独自のオープンマイクにも行った。京都や大阪、滋賀など、フライヤーやインターネットで集めた情報をもとに、いろいろなところへ歌いに行った。自分のアーティスト名は、MAA―KUNである。これは、永井がつけた。ちなみに、永井のアーティスト名は、DOPPOである。
活動を続けてきて、このまま、大学卒業後も、関西でやっていきたいと思っていたが、そうはいかなくなった。なぜなら、父が癌で入院していたのである。地元を離れて好き勝手やるのは、いけないかな、と思った。
でも…と思って、卒業旅行は、一人でジャマイカに行った。
なにせ、初めての海外旅行。ちゃんとジャマイカまで行けるかなと心配だったが、なんとか行けた。飛行機で、隣の人に、入国手続きの紙を書いてもらったり、「宿まで車で送ってあげるわよ」と言われたり、ジャマイカ人って本当にいい人だな、と思えた。
空港から宿まで、およそ40分。それまでに、透き通るようにきれいな青色の海。栄養満点で育ったな、と思える木。真黒な肌に、ギラギラとした目のジャマイカ人。卒業式のセリフじゃないけれど、「見るものすべてが新鮮でした」と言いたくなるほどの、衝撃を受けた。
ジャマイカでは、まずは、ボブマーリー美術館に行き、ライムキーという無人島に行った。夜になると、毎日のように、いろいろな場所で行われるダンスに出かけた。近くの電線から、電気を取り、スピーカーにつなぎ、音楽を流していた。それに合わせて、体を揺らしたり、ダンスをしたりして、楽しんでいた。それが、すごい迫力で、音楽で銃の音が鳴ると、本物の銃が鳴ったと勘違いしてしまうほどだった。
ジャマイカには、一カ月滞在した。
お世話になった人たちに、「また来るよ」と告げて、日本へ帰った。
大学卒業後、地元の愛知県へ帰ってきた。父は、数カ月入院した後に、亡くなった。54歳という若さだった。お見舞いをしに行くと、もう話すこともできない父が、こちらを見て、コクコクとうなづいてくれていたのが印象的だった。
就職はせず、通信教育で、教員の免許を取ろうと考えていた。教員をしながら、趣味で音楽を続けていければいいな、と考えていた。
しかし、秋に教育実習があった。思った以上に忙しく、最後の二週間は、一度もベットで寝れなかった。
「駄目だ、これでは音楽はできない…」
音楽を続けるか、教職に就くかで、迷った。誰にも相談はしなかった。だが、最後に決め手となったのは、今音楽をやらなければ、必ず後悔するという思いだった。
地元には、幸運なことに、中学時代の友達がいた。レゲエを歌っている友達がいて、一緒に歌いに行ったり、曲を作ったりした。
初めて愛知県の地元のCLUBに行ったとき、すでに有名なサウンドマンがこう告げた。
「俺がこの街を日本一のレゲエの街にしてやるよ」
こんな田舎で、こんなにも志を高く持って音楽をしている人に出会いうことができて、感動を覚えた。
「MAA―KUNじゃよくないから、MARUCO(マルコ)でどう?」と、アーティスト名も決めてもらった。
それから3年間は、多い時には週四日のペースでいろいろなCLUBに通った。愛知県だけじゃなくて、三重、岐阜、静岡にも行った。歌うだけじゃなくて、スピーカーを運んだり、GUESTとして来たアーティストに、マイクを渡したり、ホテルまで送迎したりした。フライヤーに載っても、名前は一番下に書かれていたけど、「一曲ヒットすれば、すぐに有名になれるぞ」という言葉を信じて活動した。
24歳の時、二度目のジャマイカ修行を行った。今度は、三カ月間。
もちろん一人で行った。
今回は、ジャマイカのスタジオで自分の曲を録音することと、曲を作ることが狙いだった。
道路の「ONE WAY」と書かれた標識を見て、そのままのタイトルで曲を作ったり、同じ宿に泊まりに来ていた、彼氏がいる女の子との恋に、もう一つの意味を重ねて「禁断の恋」という曲を書いたりした。
エクソダスというスタジオには、NINJAMANという有名なアーティストが来ていた。他にも、まだ無名なアーティストがたくさんいて、「俺と一緒に曲を録れ」と言ってきて、一緒に曲を録って学んでいた。
ある日、キングストンの街でCDや服を見に行こうと思って、一人で歩いていると、突然声をかけられた。
「ヤーマン。CDいらないか?」
おそらくジャマイカ人で、髪型はドレッド。ラスタカラーのニット帽をかぶり、リュックを背負っている。
「見せて」と言って、CDを受け取ると、お店で売っているような、ちゃんとしたCDだった。どうしようかな、買ってもいいんだけどな、と考えていると、「俺のCDだ」と主張するので、「歌ってくれたら、買う」と要求した。
すると、すぐに歌ってくれたので、買うことにした。
「お前、気に入った。俺の家に来い」
日本にいたら、間違いなく断るところだが、暇だしいいか、という軽い気持ちで、付いていくことにした。
バス停乗り場に移動し、バスに乗り込んだ。すぐ近くだというので、安心していたのだが、この男は、なかなか降りようとしない。周りは、人がたくさんいて、お店がある風景だったのに、いつの間にか山の中にいた。不安になって、「まだか?」と聞いても、「もうすぐ」と答えるだけだし、軽い気持ちでついてきてしまったことを、後悔していた。
バスに乗ってから、四十分くらいたっただろうか、「ここだ」と言うので、降りることにした。
「ついて来い」
男の家まで歩いていくのだが、このあたりの人は、日本人には慣れていないのだろう。こちらをきょろきょろ見ている。襲われないかな、と心配になる。
「ようこそ」とたどり着いた家は、ぼろぼろの小屋みたいなところだった。人を案内するくらいだから、きれいな家なのかな、と期待していたので、がっかりもしたが、まあいいかっという気持ちで、お邪魔することにした。
聞くところによると、この家には、トイレがない。電気も通っていない。部屋は、二つあって、もう一人同居人がいる。CDを売りつけた男はミュージシャンで、名前は、ラスタ・マイカル。同居人は、服を売ったり、直したりして生計を立てている。名前は、ロニー。年は、二人とも四十七歳。
軽く自己紹介したところで、辺りは、すでに暗くなってきた。
「あんまり遅いと、ガンマンという怖い奴らに襲われるぞ」
脅すような表情と、手を使ったジェスチャーで、脅かしてくる。
「わかった。もう帰る」と、逃げるように帰ったのだが、携帯の番号は交換しておいた。だが、まさかその後、二日に一回会うような関係になるなんて、その時には、思いもよらなかった。
ラスタ・マイカルの父は、日本にも来たことのある、有名なミュージシャンらしい。そして、ラスタ・マイカルは、アメリカで暮らしていたという。アメリカで結婚して、子どもも8人いた。そのうちの一人が、彼女の浮気による、浮気相手とのドタバタから、浮気相手の男に銃で殺されてしまったらしい。それで、この曲を作ったんだと言っていた。
そんな彼も、大麻所持で警察に捕まり、ジャマイカに強制送還されてしまった。妻や子どもとは、それ以来会っていないし、連絡も取っていないらしい。
ラスタ・マイカルと、行動を共にするようになったある日。ラスタ・マイカルが、
「明日、オーチョリオスに行かないか?」と誘ってきた。断る理由もないので、了承すると、ラスタ・マイカルは、遠くを見つめ、物思いにふけるような眼をしていた。
次の日、同居人の相方、ロニーと、ラスタ・マイカルと自分の三人は、オーチョリオスに向かった。移動は、キングストンのダウンタウンから出ているバスで向かった。
山を幾つか越えた。やっと着いたと持ってバスを降りると、海の中まで透き通っていそうなきれいな海が目の前に飛び込んできた。
「海やー。さあ、泳ごう」と誘うのだが、彼らは、水着を持っていないし、泳ぎに来たのでは、ないらしい。「なら、どこに行くんだ」と彼らが向かった場所は、門があって、白くて大きな建物だった。
「ちょっと、待ってろ」一言そう告げて、二人は、建物の中へ入っていった。
それから、1時間くらいたったであろうか。待たせたことを全く悪いとは思っていない表情で、戻ってきた。
「明後日、スタジオを一日貸切って、曲を作る。俺とお前でだ」
スタジオには、何度も行ったことがあるし、曲も録音したことはある。しかし、長くても三時間で、一日なんて入ったことはなかった。
ラスタ・マイカルと、ロニーは、用が済むと、さっさとキングストンの家へ帰って行った。自分は、どうしても海に入りたくて、「俺は、残る」と一言告げ、オーチョリオスを満喫して帰った。
その二日後、本当にスタジオに入った。一日で曲を作るなんて、なかなかできることではないから、持ち曲の中からどれが合うかな、と試しながら歌っていた。だが、最終的に、自分から、「やっぱり女の子のネタだろ?」と言って、下ネタ全開のスラックスを録音することになった。メロディーは、ラスタ・マイカルで、自分のパートだけを歌った。なかなか面白い出来具合だな、と思えた。そして、なぜかロニーも録音をしていた。
ジャマイカ最終日。ロニーが手作りのジャケットをくれた。自分も何かお礼がしたいと、スーパーへ行って、「好きなもの買っていいよ」と、大盤振る舞いをするつもりだったのだが、彼らが持ってきたのは、その日で食べてしまえそうな量のスナック菓子と、ケチャップだった。
「リコ・モア―(またな)」とラスタ・マイカルに言われ、二人と熱い握手をし、ジャマイカを後にした。
日本に帰ってきて、もちろん活動は続けた。でも、なかなか芽は出なかった。母親にも小言を言われ、結果も出ず、焦る気持ちが増してきた。ついには、夜中にうなされて目が覚めるようになった。もう、限界だった。三〇歳までに音楽で食べていけるようになるという目標をもってやっていたのだが、このペースでは、間に合わないと思った。毎月欠かさず通っていたイベントも行かなくなり、CLUBにも、行かなくなった。
そんな時、これから何をしようかと考えると、浮かんできたのは、教職の道だった。
通信は、修了していたが、保険はかけたくなかったので、免許は申請していなかった。
あれから数年たち、まだ申請できるか心配だったが、可能だった。それから、講師登録をした。
教師に、初めてなりたいと思ったのは、小学校六年生の時。学校が毎日楽しくて仕方がなかった。担任の先生は、体育の先生。背が小さくて、ゴツゴツしていて、いつも、赤・白・青のジャージを着ている。高校時代には、野球を、大学時代には、アイスホッケーをしていて、愛知県の代表にもなったらしい。一日中ずっと体育の授業の日が、年に十日くらいあった。家庭科の授業で、バスケットのユニホームを作り、それを着て、バスケットボールの試合をした。社会科の授業では、戦争当時の生活がわかるようにと、蚕を教室で飼い、糸を紡いだ。卒業式の時には、両手をつなぎ、「絶対プロ野球選手になれよ」と言ってくれた。中学校の最後の夏の大会、その先生は、わざわざ遠くから観に来てくれた。
講師登録をして、電話があった。「一度学校へ来てくれ」ということで、学校へ行った。校内を回ったが、純粋で真っ直ぐな子どもたちのはしゃぐ姿を見て、今までの生活との違いを、大きく感じた。こんな自分が教師になって、いいのだろうか。実際、大変だった。まず、夜に寝て、朝早く起きることからのスタートだった。教えることはもちろん、言葉遣いや、礼儀にも、敏感になった。気が付けば、「すみません」が口癖になっていた。教員採用試験でも、公共交通機関で来ることになっているのに、自動車で会場へ行った。渋滞していて、時間ぎりぎりになり、近くのコンビニに車を停めた。案の定、試験中に呼び出され、名前をチェックされた。当然、試験には、受からなかった。
トゥルルル・・・。
「もしもし、マイカル?」
「オー、カザモト」誰だ、カザモトって。すでに彼の中で名前が変わっている。
「カザモト、お金送ってくれ」駄目だこりゃ。「リコモアー。リコモア―(またね)」
このように、電話しても「お金送ってくれ」と「太った女の子の写真を送ってくれ」ばかり連呼する彼だったが、何度か電話をした。でも、一分百円の通話料は高いので、声を聞きたくなった時だけに、電話をした。
反省して、それからは猛勉強をした。寝ているか、ご飯を食べているとき以外は、ずっと勉強している感覚だった。部屋の壁や、トイレ、風呂場にも暗記物を貼った。車に乗っている時間がもったいなくて、自分の声を録音し、車で流した。次の年の試験には、当然電車で行った。面接では、A判定もらえるかも、というくらいの手ごたえがあった。そして、念願の合格を手にすることができた。
講師として、二年間勤めた。終業式の時に、「先生ありがとう」と、手紙をもらうことがある。
「ひいきがなくて、優しい先生でした」とか、「何を言っても怒らない先生でした」「手作りのプリントや、体育でも一緒に走ってくれて、うれしかったです」「絶対に女の先生がいいと思っていたけれど、先生なら男の先生でもいいです」と、身に余る言葉をもらって、これからも頑張らなきゃな、と思うのだった。
子どもの真剣な姿や、純粋に笑っている姿は、素敵だ。自分が後押しして応援していた子が、次の学年へ行って、さらに成長している姿を見ると、心から嬉しい。教師という職業は、正しいと思われることを教えるということと、人のために頑張れるということがいいところだ。
週末。未だにレゲエは、聴いている。新しいCDが出ていないか、チェックしに行こう。
自分が歌い始めた頃は、コンビニでもレゲエが流れていて、CDショップでも、ピックアップされていた。しかし、今やレゲエのコーナーは、縮小されていく一方だ。
永井ことDOPPOは、今頃何をしているだろうか。
就職したのに、辞めて、彼女とも別れて、東京へ行った。HIP HOPでやっていくと言っていた。だが、また奈良へ帰ったらしい。連絡も取れなくなった。
おっ、NEO HEROの新譜だ。年下だけど、同じ愛知県の出身。毎月のように、CLUBで顔を合わせていた。自分のやっていたことが、ただの妄想じゃなかったことを証明してくれているような気がして、応援したい。よし、買うか。
ジャマイカ人のCDは、もう聴かなくなった。でも、一応見てみるか。
えっ・・・。
ラスタ・マイカル・・・。
ラスタ・マイカルのCDがある・・・。
数枚の中から、そっと一枚手に取って、レジへ向かった。
帰りの車内、自分とラスタ・マイカルで、一緒に作った曲が流れた。
もうちょっとちゃんとした曲にすればよかったな。
でも、自然と涙がこぼれてきた。
この一枚のCDは、一生の宝物になるだろう。
れげえ先生