尾びれは胸に

「これ、自分で貼りな。」
保健医の矢貫先生から差し出されたのは、クタクタの一枚の絆創膏。僕よりはるかに長く伸びる腕を辿ると、いつもより疲れたように微笑む先生の顔がそこにはあった。

かなり風が強い日だったんだ。
僕たち三年三組は体育の授業でサッカーをしていた。だだっ広いグラウンドは、痩せっぽっちの僕の体を揺らすほどの風を通した。砂埃はビュウビュウ舞うし、チームからボールは回ってこないし僕の気分は最悪だった。田中先生も、どうしてあんな日に限って外で授業なんかするんだ。僕は卓球がしたかったのに。とか考えてたら、遠くで竜太!と誰かが僕を呼ぶ声がした。我に返って前を向いたのが運の尽き。僕の目の前には白と黒の塊が浮いていた。目の端では、田中先生が大きく欠伸をしていた。

僕は差し出された絆創膏を受け取った。ティッシュで鼻を押さえる左手は使えないので、右手でそれをこねくり回す。しなびた様な絆創膏はなかなかシール部分が剥がれない。矢貫先生は奥の棚を何やらカチャカチャいじり始めた。手元のやっかいものに飽きた僕の意識は、自然と先生の背中に移る。
矢貫先生は男の先生の中でもダントツで背が高い。僕は前に最寄りのバスで先生を見かけたことがあるけど、その時天井のポールに先生の頭が引っかかっていたんだ。あれほど大きいといろいろ苦労もあるんだな。クラスで特に秀でて背が高いわけでもない僕にとって、きっと縁のない苦労だ。と思ったけどやっぱり憧れる。だって僕に向けられた先生の背中は広くて厚くて格好いい。僕は先生の格好いいポイントを沢山発見しているが、背中を意識したことはなかったので、なんだか新鮮。背中もかっこいいなんて狡いなぁ。
あぁそうだ、クラスに戻ったら、矢貫先生のファンの女の子たちにこのことを話してあげよう。みんな顔にしか集中してないだろうし、きっとこの発見に喜んぶんだろうなぁ。
「もう鼻血、止まってるから。ティッシュ外していいよ。」
先生が気だるそうに言ったので、僕は左手を下ろす。先生の口調に感化されたのか、血だらけのティッシュを捨てる僕の動作もゆっくりになった。なるほど確かに鼻を動かしても血は出ない。まだヒリヒリと痛む鼻の頭に、今度は両手で絆創膏を貼った。
「それにしても鼻にサッカーボール当たるなんてなぁ。災難だったよなぁ。」
ケタケタと先生は笑う。鈍臭いわけじゃないもん、と僕がむくれると先生は頭を優しく撫でてくれた。先生の大きくてひんやり冷たい手は僕の頭をすっぽり覆う。
「先生の手、帽子みたいだ。」
「帽子かぁ。竜太くんの頭が小さいんだよ。」
「毎日牛乳飲んでるのになぁ。」
「おぉ、偉い偉い。」
「本当にそう思ってないだろ。」
「俺は嘘つきだからなぁ。」
「あ〜、へそ取られるぞ!」
「それは雷様だよ。」
「じゃあデベソになっちゃえ。」
「なんだそりゃ。」
「ふふふ。」
頭の上の手が雑に揺れる。他愛のない会話が、なんだかくすぐったい。保健室の開けた窓からは、夏を匂わせるぬるい風がそろそろと入ってきた。あの強い風はやんだみたい。
「俺も矢貫先生みたいに大きくなりたいからな!」
僕は先生を褒めるつもりで、少し声を張った。照れくさくて、僕の膝の上の手に力がこもる。僕は先生がへらへらと喜ぶと期待していた。
けど予想外にも先生は、僕の言葉に被さるような速さで、俺みたいに?と聞いてきた。その声は不思議に思っているなんてニュアンスではなくて、急いで否定するそれを含んでいた。
僕は、先生が自分の格好よさを分かっていなかったのかと、少し驚く。
「だって先生は格好いいじゃないか。」
「うーん。」
先生は頭の上で低く唸った。
「俺、なれるかなぁ。」
「うーん。」
ならなくていいんじゃないかな、と先生はボソっとこぼした。初めて聞いた、さっきの唸り声なんかより低すぎる声だった。その声に何故か恐怖を感じて、僕の背筋が一瞬で冷たくなった。え、怒った?いやまて、言ってないかもしれない。僕の聞き間違いだったのかも。
僕は慌てて先生を見上げた。先生の顔は前髪で隠れて見えなかった。どこを見ているのかさえ分からなかった。髪の下の先生の口は固く閉じていて、何か言葉を続ける様には見えなかった。流れる風は髪をすくだけ。
会話が途切れて、不自然に時計の針の音が狭い保健室にコツコツと響く。
静かになったせいか、自分の心臓がやけにうるさい。
僕の不安に気づいたのか先生ははっ、とした様に僕を見た。瞬間、僕と先生の目線がぶつかる。僕の喉はひゅっと音を立てた。
僕はこの時どんな顔をしていたんだろうか。先生は僕の顔をしばらく見た後、また疲れたように笑った。酷く、疲れ果てたような顔だった。僕の頭に置かれていた大きな手は、だらりと揺れて離れる。
「背中やろうか。後ろ向いて?」
先生の声は、もういつも通りだった。僕は無言で椅子を回して後ろを向いた。返事をする勇気も先生の顔を見る勇気も無かった。


「えぇ〜、いいなぁ〜。あたしも矢貫先生とお喋りしたいぃ。」
「私この前、飴もらったんだよ。」
「いいなぁ〜。先生優しい。」
教室に戻るや否や、クラスメイトの恵美ちゃんたちが僕をぐるりと囲んできた。最初恵美ちゃんたちは僕を心配してきたけど、結局話題は矢貫先生にすぐ変わった。何だか先生に負けたようでちょっぴり悔しい。けど矢貫先生を褒める言葉そのものは、少し嬉しくもあるのだけど。
「先生超かっこいい。」
「あ、でも先生最近痩せた気がする!」
「それ私も思った。前よりアクビ増えてるし。」
「隈もひどいしね〜。あ、あと猫背もひどい。」
「疲れてるのかな〜。」
恵美ちゃんたちのお喋りは、公園でよく見るお母さんたちによく似ている。目の前の女の子たちの観察力にビビりながら、僕は先生の背中を思い出していた。
...先生、疲れていたのかな。
矢貫先生は、今年来たばかりの代理の先生だ。前までいた原野先生は、赤ちゃんを産む為にお休みしているらしい。
始業式で突然現れた矢貫先生は、瞬く間に女の子たちの話題の種になった。確かに、あれだけ格好いいんだ。今なら納得できる。
けど、初め見たとき僕は、矢貫先生が怖かった。
僕よりどっしり長くてけど細くて。疲れたように溜息をつきながらポッケに手を入れる矢貫先生。廊下ですれ違う時なんて、喉がカラカラに乾く気すらした。
─宿題を忘れて田中先生に、放課後廊下に立たされたことがある。いつもはそんなことで角を立てることはなかったんだけど、まぁ、あの日は田中先生の機嫌も悪かったのだけど。だから、いつも以上に先生は僕を怒鳴りちらして廊下に放り出した。
いかに理不尽とはいえ、僕は田中先生に怒鳴られたことがショックで、誰も通らない薄暗い廊下で泣いていた。正直一人で暗い学校は怖かったけど、田中先生が部活から帰ってくるまでそこから動いてはいけなかった。というか、動くと後が怖かった。
暫くして誰かの足音が近づいてきた。田中先生だ、また怒鳴られるんだ、と思って顔を上げると誰か細い人がいた。田中先生は太っちょなので絶対違うシルエット。薄黒い影をよく見ると、そこには矢貫先生が居た。いつもの様にポッケに手を突っ込んで見下ろしていた。
あまりの予想外な事に、僕はいつもなら焦ったりしただろうけど、あの時は顔が動かせなかった。ただただ先生を見上げるのみ。
僕を見下ろしていた矢貫先生は状況がわかったらしい。困ったように笑ってあの大きな手で僕の頭を少し乱暴になでた。僕の体は少し揺れた。突然降りかかった優しさに、僕は声を出して泣いた。僕はそこで自分が思っている以上に寂しかったのだと思った。
笑い混じりの声が、頭の上から聞こえた。
『もういいよ。帰ろうか。』
僕は嗚咽が抑えられないまま首を縦に振った。
矢貫先生は、もう真っ暗になった学校の中を僕の手を引いて、明るい場所までついてきてくれた。


「先生ー!遊びに来たよー!竜太だよー!」
僕は勢いに任せて保健室の扉を横に引いた。『ガシャン』と、引き戸からなにか外れたような危ない音がしたけど、そんな事はまぁ...後で。
僕はいつも通りの保健室に数歩踏み出して見渡した。
が、先生がいない。全体的に白いその部屋に似合う矢貫先生がいない。ベットを覗いたり、薬棚を見たりしたけど居なかった。無理矢理テンション上げて入った僕だけが、なんともマヌケに残された。溜息と声が同時に出る。
「...んだよー。居ないのかよ。」
急に恥ずかしくなった僕は、とりあえず保健室の扉を閉めて中に入った。
三日前、先生と変な感じになってしまってから、僕等は全然校内で合わなかった。僕が先生を避けていたのか、先生が僕を避けていたのか分からない。
そのあいだ僕は考えた。疲れたように笑う矢貫先生に、僕ができることはないだろうかと。
あの時気まずくなってしまった理由は、どれだけ考えてもわからない。一瞬、もしかして矢貫先生は矢貫先生のことが嫌いなのかな、とも思った。あの時僕が先生のことを褒めすぎて、だから本気で嫌がったとか。僕が先生になりたい、そういったから止めに来たとか。けど先生は僕に気を使って強く言えず呟いただけとか。でもお母さんに聞いたら、先生には非の打ち所が無いでしょ?と返された。つまり、そんなわけ無いだろ、と。うん、僕もそう思った。だって先生は格好いいし、そのうえ優しいじゃないか。どこに自分を嫌う要素があろうか。それに、矢貫先生が自分のことを嫌いだなんて言い出すなら、僕は全力で違うといってやるんだ。僕は先生のいいところをいくつも知っているんだからね。
とにかく馬鹿なこの僕には、あの時先生がああ言った理由なんて分からない。
だから、僕は先生に元気になってもらうことにした。
あの時、先生は疲れたような顔をしていた。その理由が僕なのか、それとも他にあるのか分からないけど、でも僕は先生には笑っていて欲しい。僕は先生みたいに傷を消毒したり包帯をまいたりなんてできないけど、でもせめて先生には元気でいてもらいたい。別に喧嘩したわけじゃないだろうけど、僕に謝る理由があるなら謝りたい。
そう思ったんだ。だから、先生の大好きなチョコチップクッキーを作って、楽しい雰囲気を持ち込むためにテンションを上げてここに来た。
僕は保健室の端っこに置かれているソファーに寝転んだ。なんだかうまく行かないなぁ、とまたため息が出る。
「...。」
このまま先生来なかったらクッキー食べちゃおう。せっかく昨日お姉ぇちゃんと作ったのに。絶対美味しいのに。僕は狭いソファーの上で、モゾモゾうつ伏せになった。
ゴソッ。
「ん?」
薄いプラスチックみたいのが擦れる音がした。ソファーからだ。クッキーは隣の机に置いてるし、僕は何も持ってないし。あぁ、ゴミかな。先生また掃除サボってるな。ちゃんとゴミはゴミ箱にっているも言ってるのに。ソファーから床を見下ろすと、思ってる以上に埃が乗っていた。矢貫先生はなかなか掃除をしない。
けど僕は綺麗好きだ。
僕はソファーの背の隙間に指を突っ込んだ。ジャリっとゴミが指先に触れる。そのまま音のした方へ指をすすめると、やっぱりツルツルした何かに当たった。先生が戻ってきたら、掃除するように言ってやる。
僕は人差し指と中指でそれを挟んでずるりと抜き取った。
起き上がってそれをよく見てみると、それはジップ袋の金魚の餌だった。赤くて可愛らしい金魚がプリントされたそれは、よくペット・ショップコーナーに置かれているのを見たことがある。大きなゴミだろうと思っていた僕は面食らった。
ふと、上下に軽く降ると、サカサカと中で音がした。まだなかにはたくさん入っている。そんな音だった。
え?何でこれがここに?
保健室には金魚とか魚の類はない。学校にはグラウンドに兎がいる位だし。
あ、もしかして先生の家にいるのかな。

「なにしてるの?」

餌の袋をじっと見ていると、背中から声がした。急いで振り向くと、矢貫先生が立っていた。扉は閉めていたのに、いつの間に入ったのか。全然気がつかなかった。
先生はあの時のように影が濃くて、僕は大好きな先生なのに恐怖を感じた。
「それ...。」
「あ...。」
「どうしたの...。」
「えっと...餌...?」
僕の答える声が上擦る。先生のいつも眠たそうにしている目が大きく開いて、僕を睨むように見ていた。驚いたような、悲しんでいるような先生の顔に、僕は手元の餌を握り締める。
また、誰も喋らなくなった。時計の音がかなりうるさい。また僕は何かしてしまったのだろうか。僕は胸のあたりがキュッとなったを
「あ、先生この餌どうしたの?」
沈黙に耐えられなくなった僕は、苦し紛れに話を切り出した。少しうつむいていた先生が僕を見る。
すこしして、先生は怪しい足取りで数歩下がった。僕と先生の距離は遠くなり、僕は居心地の悪さを感じた。
「...知りたいの?」
「え、あ、うん...。」
先生の声はまた低くて小さな、あの時の声と同じだった。でも僕は会話が久しぶりに続いたのが嬉しくて、そんなことはどうでも良かった。
もっと言えば、金魚がどうなのかなんてもっとどうでも良かった。
先生はくすっと笑ったかと思うと、何故か白衣を脱いで下に落とした。あぁ、今日は暑いからかな、と思っていたらシャツのボタンにまで手を伸ばし始めた。何故に?と、さすがに僕も驚く。
先生は手早くボタンを下から外していった。じっと見ているのも悪い気がして、僕は手の中の餌をいじってモジモジした。
内心焦りまくりの僕をよそに、先生は一番最後のボタンに手をかけて止まった。
「見ても、気持ち悪がらない?」
先生は僕に顔を向けて聞いてきた。いつもどおりの優しい声での質問に、僕は答えに詰まる。
いや、何が気持ち悪いの?
先生を見つめるけど、先生は動かなかった。
もう僕は矢貫先生が分からなくなった。
最近の矢貫先生は、もう僕の理解が追いつかない。まるで僕が振り回されてるみたいじゃないか。僕ばっかり焦ってるみたいじゃないか。
そう考えると涙が滲んだ。いじっていた金魚の餌袋もぼんやり歪む。こんなに寂しいのに。こんなに悩んでいるのに。
もうどうでもいいよ。そういう意味を込めて、僕はうん、と呟いた。
先生が手をかけていたボタンが、プチんと音を立てて外れた。シャツの落ちる音が静かな保健室に響く。
「竜太。こっち見ていいよ。」
僕は首を前に上げた。

驚いた。いや、驚いた以上に見とれてしまった。
数m先には矢貫先生が立っていた。
上半身は案の定裸だった。初めて見た先生の腕や腹筋は、やっぱり細くて硬そうで格好よかった。
でも僕の視線を奪ったのは、そこではなかった。
明らかに、僕には無い部分があったのだ。
先生の胸に、ぽっかり丸く穴が空いていたのだ。
僕の拳二つ分くらいのその穴には透明な液体が張ってあったのか、向こうに見える景色が淀んで見えた。
そして、その水の中には今まで見てきたどれよりも美しい、赤い金魚がいた。
そいつは、直立で動かない矢貫先生の胸で、ユラユラと尾びれを揺らして泳いでいた。

尾びれは胸に

本作品の今後の展開に同性愛は含まれません。

尾びれは胸に

誰しも大人になる事に抵抗はある。矢貫先生は大人になることを恐れて、ある『秘密』を抱えて生きることにしてしまう。幼い命に憧れを持つ教師と、ただ純粋に優しさを持つ少年の話。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-07

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