青のコスモス


 制服のズボンに手を入れ、蒼也はうつむいて歩いていた。辺りは赤く染まり始め、影は長く黒く伸びている。
「蒼也って何でもできるよな」
「なんだよ急に」
 隣を歩く栄次に蒼也は小さくため息をついた。蒼也よりもぼさぼさの頭は明るい茶色。一見不良のようだが人懐っこく笑う。
「運動も勉強も、それにバイトもしてるのになぁ。俺馬鹿だからそんなにできない」
「けどお前美術は得意だろ?」
「おお。そういえばそんな特技があったか」
 嬉しそうに栄次は笑う。軽口をたたき合いながら、いつしか駅の改札まで来ていた。
「まだ高校なのに夢があるなんてすごいよな。いつか叶うといいな」
「……そうだな」
 蒼也は照れくさそうに呟く。分かれた蒼也は電車に乗り込み、外を見つめる。夜だというのに町は明るく、空に見えるはずの星をかき消していた。それは住宅地でも同じで、不満そうにしながら蒼也は家の扉を開けた。まだ誰もいないようで無言のまま部屋に入る。
「親父になんて言うかな……」

 その週土曜日、蒼也は一つ下の麻衣子と並んで歩いていた。肩まである髪を揺らしなが、手に持つ切り花を見つめている。
「珍しいね。二人で母さんの所に行くの」
 「ああ」と、口の端を上げながら蒼也は言った。総合病院は幾つも病棟が並び、中庭はきっちりと整備されている。中央辺りには木が植えられ、花壇やベンチがあるのも目立つ。
 中央入り口から中に入ると、傍には診療を待つ患者が順番待ちをしていた。受付の端末に、名前を入力してから病室に向う。扉の前まで来た蒼也はノックをして中に入った。
「久しぶり、母さん」
「あら蒼ちゃん。ふふ、麻衣子ちゃんも。二人で来るなんて珍しいわね」
「俺は毎回来る日だけど。麻衣子はたまたま用事がなかったらしい」
 その間に麻衣子は、母の隣にあるチェストの上の花瓶を取った。蒼也はベッドの横にあった椅子に座り、母を見る。
「今日は起き上がって平気なんだ」
「でも喘息が悪化なんて情けないわ」
「別に元気ならいいじゃん」
 蒼也と麻衣子の言葉がかぶり、母は楽しそうに声を上げて笑った。

「母さん、思ったより元気で良かったな」
 病室を出た蒼也は突然呟いた。麻衣子はそれにしっかりと頷く。
「でも本当に冷や冷やするけど」
「まったくだ」
中央の入り口まで戻ると、診療を待つ中に一人だけで長椅子に座り、スケッチブックを広げてる女性が麻衣子の目に映った。
「こんにちは、すずなさん」
「あら、麻衣子ちゃん」
 すずなは微笑んだ。灰色のジャージで一見普通だが、真直ぐな白い髪が異様に目立つ。
「そういえばすずなさん。あのね――」
「……あの、どいてもらえませんか?」
 麻衣子は振り返ると雑誌を手にした女性がいた。立ち位置を確認すると、棚の前にいた。頭を下げながら脇に避けると、女性も会釈する。だがすずなを見るなり、その目は細くなる。冷たい視線に、麻衣子は動けなくなった。
「麻衣子?」
 大きな声でないはずなのに、麻衣子は飛び上がった。振り返れば蒼也がいる。
「急にわいてこないでよ」
「ただ声かけただけだろう」
 呆れたように蒼也は首を振る。そしてその目がすずなを映した。
「知り合いか?」
蒼也が目を向けると、すずなは強張った笑みを浮かべた。
「初めまして。立石すずなです」
「……深田蒼也です」
 礼儀というように蒼也は頭を下げた。再び固まった空気に麻衣子は明るく笑う。
「中二のボランティアで知り合ったの。すずなさん美大に行ってるんだよ」
「元、だけどね」
 蒼也に説明しているのに、目はすずなの髪に向いていた。すずなは苦笑を浮かべる。
「驚かせてごめんなさい。生まれつきなの」
「……綺麗ですね」
 時間が止まったように音が消えた。
「ちょっと兄さん、熱でもあるの?」
 最初に麻衣子が動き、蒼也の目の前で手を振った。眉を寄せて蒼也は手をどける。
「無い。というか何か変なこと言ったか?」
「言った。いつもなら絶対に言わないこと言った。思っても絶対に言わないのに」
 頬を掻きながら蒼也がすずなを見ると、目が合う。するとすずなは微笑んだ。
「ありがとう」
 それに蒼也は息をするのも忘れた。すずなが首を傾げると、目を逸らす。
「俺は先帰る」
「え、ちょっと兄さん」
 戸惑う麻衣子の声を背に蒼也は逃げるように自動ドアを抜けた。腑に落ちない顔をしている麻衣子に対しすずなは花が咲くように唇を綻ばせる。
「何だったんだろう?」
「ふふ、仲がいいのね」
「そうかな?」
 軽い口調とは反対にその目は優しく細められる。その姿にすずなは向き合った。
「お願いしたいことがあるのだけれど」

 水曜日。学校を出た蒼也は病院へと向かう。
『今日は絶対病院に行ってきてね。時間は四時きっかりに。絶対だよ』
 今朝、麻衣子は蒼也に何度も病院へ行くように言った。楽しそうに笑っていたが蒼也は特に気にしなかった。端末に向き合っていると、待合席から絶えずざわめきが聞えた。
「蒼也君」
「うわっ」
 突然聞えた声に蒼也は情けない声を上げた。それに声をかけたすずなも身を引く。
「すみません。えっと……」
 白い髪を見ながら蒼也は言いよどむ。すずなは口に手を当ててころころと笑った。
「すずな。立石すずな」
「立石さん」
 すずなは頷き、満足そうに笑う。その手にはまたスケッチブックを持っていた。
「俺に何か用ですか?」
「そうだった。あのね、お話したかったから麻衣子ちゃんに頼んだの」
「……こういうことか」
 蒼也は足元を見てため息をついた。蒼也が視線を上げると、柔らかく笑うすずなが映る。
「それで俺に話があるって何ですか?」
「蒼也君、宇宙が好きなんだよね。麻衣子ちゃんから聞いたのだけど」
「……あいつ」
 苦く呟き、蒼也は肩を落とす。その様子にすずなは小さくなりながら、早口に言った。
「私こんな話できる人なんかいなくて」
「別に構いませんが、俺の知識なんかたかが知れてますよ」
「月面でゴルフをした人は?」
 突然すずなは問題を出してきた。どうするか迷っているうちに、蒼也の口は勝手に動く。
「アラン・シェパード」
「正解」
 すずなは大きく頷いた。暫く無言でいると、蒼也とすずなは同時にくすくすと笑い出す。
「ね、話そう。こういうことも知ってるし、星もそこそこ分るよ」
「そうですか。けど俺も結構知ってる方だと思いますよ?」
 蒼也は微笑む。そのときカルテを持った看護師の声が耳に入った。
「立石さん、あまり出歩いちゃ駄目でしょう。何度も言うけど自分を大切にしなさい」
 すみません、とすずなが言うと看護師は立ち去った。蒼也はすずなに目を向ける。
「病気が悪化したらと思わないんですか?」
「ずっと部屋にこもって長く生きるなら、短くても部屋から出たいの」
 すっと細められた目に、蒼也は背筋に寒気が走る。だがそれはすぐに一転して、元のように穏やかに笑った。
「ねえ、アドレス交換しない? またお話したいの」
 雰囲気にのまれながら蒼也は携帯を取り出す。決まっていたように自然な流れだった。
「ありがとう。またね蒼也君」
「あ、はい」
 すずなは小さく手を振って去っていく。後ろからでも分かるほど、上機嫌だった。蒼也は携帯の画面を見て小さく微笑む。それから制服にしまい、バッグを肩にかけなおした。

 その日から蒼也は母を訪れる日には、すずなに会いに行った。最初はメールのやり取りだけだったが、いつしか病室にまで足を運んで話をするようになっている。
「立石さん。本持って来ましたよ」
 この日も蒼也はすずなの病室にいた。すずなはベッドで上体を起こし、スケッチブックを広げていた。紙袋を渡すと、途端にすずなの表情が子どものように明るくなる。
「ありがとう。これ読んでみたかったの」
 中身を取り出し、嬉しそうに見つめている。白い髪が風に揺れた。それに目が向いていたことに気づき蒼也はさりげなく視線を外す。
「蒼也君って宇宙飛行士になりたいのね」
 蒼也は声も出ないほど唖然とした。
「これすごい詳しい本だし……分かるの」
「もしかして立石さん、宇宙飛行士を?」
 恐る恐る蒼也は言葉にした。すずなはしっかりと頷く。だがその目に影が差した。
「でも私はこんなだから、もう無理だけど。諦めないでね蒼也君」
 すずなは笑ってはいるが目には哀しい光が広がっている。蒼也は返事と共に強く頷いた。

「こんにちは」
 ある日、麻衣子が鼻と頬を赤くしてすずなの病室に入る。そこには既に蒼也がいた。
「麻衣子ちゃん、寒そうね」
「外かなり寒いですよ。まだ十一月なのに」
 麻衣子はコートを脱ぎながら蒼也の隣の椅子に座った。蒼也の手元にある本を覗き込み、麻衣子は心底嫌そうな顔する。
「それ、読んで楽しいの?」
「ああ、楽しいな」
「楽しいよ」
 すずなも便乗して麻衣子はうなだれた。しかしすぐに顔を上げ、すずなに詰め寄る。
「すずなさんはなんで絵を描いているの?」
「……両親が建築設計関連の仕事をやっていて、それの影響かな」
「そうなんだ。あのね、私すずなさんが行っていた美大に行ってデザイナーになるんだ」
「あら、じゃあ私の後輩になるのね」
 すずなが笑う反面、蒼也は膝の上で拳を作る。二人は話しているためそれに気づかない。
「そういえば、すずなさんはコスモスの絵ばっかり描いてるよね? どうして?」
 すずなは悪戯をするかのように笑い、チェストに置いてあったスケッチブックを麻衣子に渡した。慎重にページをめくるのを、蒼也も見つめる。すると他のページはモノクロだが、一頁だけ道端に咲くコスモスが色づいていた。だがそれは淡い水色で、実物とは違う。
「すごい。立石さんにはこう見えるだ」
「え……あ、そうね。変わってる、よね」
「俺にはどうやってもこうは見えないから。でも青いコスモスって意外に綺麗ですね」
 蒼也は何気なく絵を見ながら呟くが、すずなは驚いたように目を丸くしていた。そこに今まで首をひねっていた麻衣子が口をはさむ。
「ヒントは?」
「そうね。私が好きな物の由来だよ」
 その答えに麻衣子は顔をさらにしかめた。その一方蒼也は口を開く。
「コスモス。宇宙に由来するからですか」
「正解」
 前と同じようにすずなは頷く。麻衣子は納得していないようで蒼也は向き直った。
「コスモスはギリシア語で秩序のある、調和の取れたシステムっていう宇宙観っていうんだ。単に宇宙って意味もあるけど」
「そうなんだ。でも言わないでよ」
 麻衣子は蒼也を軽く睨む。すずなは口元に手を当て、笑っていた。つられて蒼也も唇を綻ばせる。だが麻衣子はどこか拗ねたように頬を膨らましていた。

 年も明けた一月。その日の授業を終えた蒼也は早くに教室を出る。
「蒼也!」
 振り返ると笑みを浮かべている栄次がいた。隣に来るのを待ってから歩き出す。
「そういえばお前部活はどうした?」
「今日は休み。それより聞いてくれ、俺は修復士になる!」
 一瞬何を言われたのか蒼也は分からなかった。だが栄次のきらきらと光る目にはまったく冗談という単語は存在しない。
「すまんが修復士ってなんだ」
「寺とかの文化財の修理する仕事だよ。めっちゃ楽しそうだと思わないか?」
「そりゃすごい。見た目のわりに細かい作業好きだよな、お前」
「おう。卒業したら東北にいる人たちに弟子入りするんだ」
「弟子? そんな制度まだあったのか」
 会話は栄次がひらすらしゃべり、蒼也は相槌を打つ一方的なものだ。けれど二人の間に迷惑という雰囲気は一切ない。
「蒼也はやっぱり宇宙飛行士か?」
「ああ。変わらない」
「そっか、良かった。お互い頑張ろうぜ!」
 改札で栄次と蒼也は別れた。手のひらを見つめた蒼也は唇を噛んで、それを握りしめた。

 いつものように病院へと足を運んだ蒼也は、今日は先にすずなの病室の前にいた。いつものようにノックをするが、何も返ってこない。留守なのかと思えば、扉は抵抗なく開いた。
「立石さん?」
 妙な胸騒ぎと共に蒼也は中に入る。目に映ったの倒れ込むすずな。反射的に駆け寄った。
「立石さん、立石さん」
 何度呼んでもすずなは目を覚まさない。蒼也は病室を飛び出そうと向きを変えた。刹那、小さな声がした。緩りと蒼也を捉えた目は虚ろで、何時間も寒い場所にいたように青白い。
「ああ、蒼也君か」
「今先生呼んで来ます」
 だがすずなは首を振る。蒼也はきつく手を握るのを見てすずなは力なく笑った。
「最近発作がなくて気を抜いてただけだから。それに今日は気分が悪いだけみたい」
「発作?」
「私ね、遺伝の心臓病なの」
 一気に蒼也の手のひらから力が抜けた。蒼也は小さく首を振る。
「立石さんが?」
「そう。しかも髪は白いし、――この目、色覚異常なんだ」
 蒼也はその場に立ち尽くし、窓の外に目を向けるすずなから目が離せなかった。
「中学二年の時に私は倒れた。そこで検査をしたら色の見え方が違うって言われたし、もうそのときには歩くのすら辛かった。宇宙学校に行くって決めてたから大変だったなぁ」
 思い出すようにすずなは目を細めた。
「絵はそれから好きになった。けど綺麗な色は私には歪んでるの」
 音が、消えた。ひたすら長い時間が過ぎ、すずなはまた唇を動かす。
「蒼也君は私の髪を見て最初に〝綺麗〟って言ったよね」
「はい。俺は綺麗だと思います」
 最初のときよりも強く言う。だが、すずなは窓から目を離すと歪な笑みを浮かべた。
「私、この色が大嫌い。夢はもう叶られないし、皆遠巻きにするから」
 蒼也は何も言わない。言える筈がなかった。
「麻衣子ちゃんや一部の人はそんなの関係ないって言ってくれた。けどあなたはその中で〝綺麗〟って。初めてこの色でもいいのかもしれないと思えたの」
 蒼也は口元を手で押さえ、目を見開いた。すずなは頭を下げる。
「ごめんなさい、こんな話して。お話はまた今度にしていい?」
「……俺の方こそすみませんでした」
 一礼して蒼也は外に出た。蒼也は唇をかみ締めて眉間にしわを寄せる。
 ――医者なら立石さんを救えるかもしれない。
 底から這い上がるようにしてそれは出てきた。心臓が大きくなる。消そうとしたが、それは消えるどころか、蒼也の中にへばりつくようにして残った。

 その日、どうやって家に帰ったか蒼也ははっきりと覚えてはいなかった。這い上がってきた可能性が渦巻き、何も考えられなかった。階段上がろうとしたところを父に呼ばれ、リビングに連れられた。台所からは麻衣子がコンロを使う音と料理の香りが漂っている。椅子に座るように促がされ、父と蒼也は腰掛けた。テーブルの隅には美術大学と書かれた冊子が何冊かあった。蒼也が机の下で拳を握っていると、父は口を開いた。
「蒼也、進路のことだが」
「……また医者になれって言うんだろ」
 聞き取れないほどの声に父はそうじゃない、としゃべり始めた。
「お前は頭もいい。学校での人付き合いも上手くいっていると聞く。だから医者になるのがいいんじゃないか」
「それでどうなる」
「医者は世の中のためになる。宇宙飛行士なんてほんの一握りしかなれないだろ。その点医者は勉強すれば必ず見合うものが返ってくるだろう」
「うるさい!」
 遮るように蒼也は耳を塞いだ。
「医者になればあの人は助かるのか。そもそも俺はなんで宇宙飛行士に?」
「おい、蒼也」
「兄さんっ」
 壊れた笑みに、麻衣子は声が小さくなる。
「どうしたの?」
「あの人、好きになったものがことごとく出来なくなってたんだ」
 最後は聞き取れないほどに掠れていた。それから蒼也はうつむきながら立ち上がる。丁度目の合った麻衣子はその冷え切った表情に息を飲んだ。
「俺は何がしたいんだろうな」
 自分を哂うように蒼也は出て行った。火を点けたままのコンロから焦げ臭い匂いが出ているのにも関わらず、麻衣子と父は呆然と閉ざされた扉を見つめていた。

 灰色の町を蒼也はひたすら病院へと向かう。肩の当った男の睨みも気がつかず、途中の信号を待つのすら蒼也は落ち着きがなかった。
「立石さん、いますか」
 蒼也は息もきれぎれにすずなを呼んだ。それから返事を聞いた瞬間に勢いよく中に入る。
「どうしたの午前中に」
「もう、大丈夫なんですか」
 すずなは頷いて微笑んだ。元気そうな顔に蒼也は頬を緩める。だがそれを引き締め、蒼也はすずなに向き合った。優しく微笑む姿に、重いものが胸の奥に落ちた。蒼也は足元に目を落とす。タイルの白がところどころくすんでいた。掠れ声が漏れる。
「俺、宇宙飛行士なんて夢見るよりも、医者になるべきなのかもしれません」
 視線をあげ、拳を握りながらすずなを見る。今度こそはっきり言った。
「俺は医者になるべきなのかもしれません。宇宙飛行士はただ宇宙に行くだけ。医者の方がよっぽど現実的だ。立石さんも助かるか」
「ふざけないで!」
 すずなは弾けたように声を上げた。あまりの剣幕に蒼也は怯む。きつく握った手のひらは小さく振るえ、すずなの顔は白くなった。
「立石さん、体に響くから落ち着いて――」
 蒼也は焦りながらすずなを止めようとしたが、それは単に煽るだけだった。
「私はそんなこと頼んでないし、それで仮に助かっても嬉しくない!」
「頼んでいなければ助けたいと思っては駄目なんですか?」
「夢があるのに他のことをしないでよ!」
「でも単なる夢ですよ。非現実すぎた」
「だからって諦めないでよ、あなたには時間があるのに!」
 蒼也の言葉が途切れる。すずなは肩で苦しそうに息をしていた。叫び声を聞きつけたのか、看護師が病室に入ってくる。看護師はすずなの背をさすりながら声をかけた。
「立石さん落ち着いて、息をゆっくりして」
 だがすずなはもがくように首をふり、蒼也一点だけを射抜くように見つめた。
「時間があるなら諦めないでよ! 私にはもうないのに!」
 叫ぶと同時に、糸が切れたようにすずなは崩れ落ちた。張りつめた声が聞え、あっという間に過ぎ去った。

 いつの間にか蒼也は母の病室にいた。ほとんど無意識にいたのにも関わらず、足が自然とこの場所へと向かったのだ。
「蒼ちゃん? どうしたのこんな昼間に」
「俺、あの人に酷いこと言った」
 蒼也は膝をつき母のベッドに崩れた。腕を組み、頭を擡げる蒼也の肩は震えている。母はそっと蒼也の頭に手を置いた。
「やりたいことがもう出来ない人の前で、諦めるって……。親父は俺に医者になれって言うのに、麻衣子には好きなことしろって。最近はあいつが夢の話をするだけでいなければ良かったのにって思うようになってた」
 蒼也はひたすら言葉にする。一通り落ち着くと、母はゆっくりと言った。
「全て大切だから迷っているのね」
 真直ぐな言葉に蒼也は小さく頷いた。母は蒼也の頭を撫で続ける。
「蒼ちゃんの一番やりたいことは何?」
「一番?」
 顔を上げながら、蒼也は夢の中にいるように呟いた。母はしっかりと頷く。
「最初にやりたいと思っていたことは何? 本当に好きなものは何かしら?」
 静かな水面に波紋が起きる。連鎖するように広がり、蒼也は一つの答えにたどりついた。

   *

 頬杖から頭が外れた揺れで、蒼也の意識は一気に覚醒した。頭を掻きながら窓の外を見ると、赤や黄色の葉が目立つ景色が広がる。
『ご乗車ありがとうございました。終点――です。またこの列車は間もなく発車します』
「やべ降りなきゃ」
 慌ててトランクと上着を手に取り、ホームへと降りた。改札に向かうと、背の半ばまで伸びた黒髪の女性が立っている。その肩には大きいバックをかけ、絵を描く道具がはみ出ていた。手にはコスモスの花束がある。
「麻衣子」
「あ、兄さん。すごいね時間ぴったり」
 行くか、と麻衣子を促がし歩き出した。駅を出てすぐに坂があり、ゆっくりと上る。空を見れば青く高く澄み渡り、羊雲が一面に広がっていた。少しだけ冷たい風がふき、視線を下ろすと、道端に揺れるコスモスが映る
「兄さん?」
 麻衣子が声をかけると蒼也は薄っすら微笑み首を振った。
「そういやお前、この後どこか行くのか?」
「大学の課題で美術館に行ってくるの」
「へえ。しかしすずなさんの後輩、か」
 しみじみと呟き、蒼也はトランクを持つ手を変えた。麻衣子は蒼也を覗き込む。
「兄さんっていつまで日本にいるの?」
「この後すぐに空港行き」
 麻衣子は喉を縮めたような声を出す。
「前行ってからまだ一年くらいでしょ?」
「失礼だな。俺は楽しみにしてるのに」
頬を引きつらせ、蒼也は麻衣子を小突く。それから暫くして高台に出た。そこには黒い石が立ち並んでいる。入り口に置いてあるバケツに水を入れ、柄杓と雑巾を持って蒼也と麻衣子は奥へと歩く。立石家、という墓標の前で立ち止まった。
「お久しぶりです。すずなさん」
 蒼也は目を細めて笑った。トランクを下ろし、手際よく水をかけ、麻衣子が雑巾で拭いた。花の水を変えながら、コスモスを入れながら麻衣子は蒼也に言った。
「兄さん、本当に宇宙に行ったんだね」
「まあ、な」
「千二百十一分の五だっけ? 宇宙の切符」
「ああ。だから必死だったさ。待たせられないから」
「執念深いのね」
 花を墓石に戻しながら、麻衣子はにやりと笑う。それに蒼也は肩を竦めた。
「栄次にも言われたよ」
「確かにあの人もそう言いそう。何やってるんだっけ?」
「修復士。卒業するなり弟子入りして、今は全国の寺を回ってる」
「弟子入りってまだあるんだ」
 いつかの蒼也と反応と似ていて、蒼也は笑った。ふいに会話が途切れ、静間に返る。
「うわ、もう二時。兄さん、私行くね。これは戻しとくから」
「ああ。気をつけろよ」
 麻衣子は借りた道具を持って手を振る。それに応えながら蒼也は麻衣子を見送った。影が見えなくなると墓標に向き直り蒼也はうつむいた。

 一年半前。宇宙飛行士の試験に合格し、十ヶ月の研修期間を終えた蒼也は、三ヶ月宇宙に滞在任務をこなした。その間、機械の操作に研究機関から送られてきた内容を処理するなど、充実した日々だった。それから地上に戻って三週間。不完全な体調のまま帰国した。真直ぐにすずなのいる病院へと向かい、息も整えないまま蒼也はノックをした。
「どうぞ」
 壊れ物を扱うように扉を開け、蒼也はすずなの近くに歩み寄った。蒼也の姿を確認するとすずなは安堵したように笑みを浮かべた。三ヶ月前、最後に会ったときよりもすずなは一回り小さくなったように蒼也には映る。蒼也は口を開こうと息を吸った。
「お帰り、蒼也君」
 蒼也よりも先に口を開いたすずなは、勝ち誇ったように笑っていた。蒼也は背筋を正す。
「ただいま、すずなさん」
 それにすずなは頷いた。それを見た瞬間、蒼也は床に膝をついた。すずなからはうつむく蒼也の表情は見えない。だが小刻みに震える手に気づき、そっと握った。
「すみません。俺、結局工学部に行ったからあなたを見捨てた」
「いいの。それが蒼也君の夢でしょ。それであなたは宇宙に行った。私の夢も叶ったの」
 唇を噛みながら蒼也はすずなの穏やかな表情を目にした。今にも消えそうなほど、淡い笑みを。蒼也は目を赤くしながらすずなの手を強く握り、じっとすずなを目に映した。
「そうだ。宇宙のお話、沢山聞かせて」
「もちろんです。けど、その前に俺のわがまま一つ聞いてくれませんか?」

 風に乗ってすずなの声が聞えた気がした。だが、首を振って足元に目を落とす。
「俺ってやっぱりわがままですね」
 左手を見やり、銀の光を見つめる。蒼也のわがままだが、すずなはそれを受け入れた。淡い光が瞳に反射してぼやける。それをズボンのポケットに入れ空を見上げた。
「今度の日曜日、また宇宙に行きます」
 その言葉に相槌は打たれない。微笑む人も、いない。それでも蒼也は唇を動かした。
「宇宙に行ったはいいんですが、地上が恋しくなるんですよね。宇宙は広い、何があるのか考えるだけで楽しい。でもやっぱりここに戻ってきたくなるんです」
――あなたは今どこにいますか。
「宇宙に行きたいって、ここが綺麗だからなんじゃないかと思うんです。上から見てみたい、遠くから見てみたいとか思って」
――あなたも宇宙を旅してますか。
「ってあーあ。何か変なこと言いました」
 墓標に視線を戻し、歯を見せて笑った。トランクと上着を持ち、軽く頭を下げる。
「ではまた来ます。すずなさん」
 蒼也はゆっくりと坂を下る。そこに風がふき、来るときに見たコスモスが映る。呼ばれた気がした蒼也は振り返り、苦笑した。白い髪を揺らし、スケッチブックを抱える姿がおぼろげにある。瞬きをせずに蒼也は微笑んだ。

「行ってきます、すずなさん」

                                                       

青のコスモス

お久しぶりです。ようやく小説を投稿することができました。とは言いつつも掘り起こしてきたものなので恐縮です。今現在新しいものを書いているので、それを投稿できたらなと思います。もしかすると、またこりずに掘り起こし作品を投下するかもしれませんが。
そして余談ですが、自由詩をシリーズのようにしたかったのでタイトルを『バガブンドの手帳』と統一させていただきました。

青のコスモス

蒼也は将来の夢について迷っていた。そんなある日、母のお見舞いのために病院へ行くとコスモスの絵を描く女性と出会ったーー 彼の夢は見つかるのか、女性は何故コスモスの絵を描くのか。そして最後に彼は何を思うのだろうか。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted