deep blue.

【紺碧・裏切り・美しい女性】

 電車を乗り継ぎ、オフィス街を抜けた先。おしゃれな家々が建ち並ぶ住宅街に小さなカフェやアトリエ、雑貨店が紛れるように慎ましやかな軒を出していた。
 イヤフォンでお気に入りの洋楽を聞きながら、白いロングスカートにブルーのスニーカーで散策する。どのお店も来客を拒むようにひっそりと佇み、しかし勇気を出してドアを開くと暖かな照明で迎え入れてくれる。
 ガヤガヤと騒がしいばかりのファッションビルや、人と建物でごった返すショッピング街に行きたがる学校の子たちは、きっと知らない。知らないし、知ろうとしないし、知ったとしてもきっと来ることはない場所。
 そんなこの街が、最近の私のお気に入りだった。
 その外れにポツリと現れる紺碧に塗られた扉。扉以外はガラス張りのショウウィンドウになっていて、だから余計にその扉の存在感が際立っている小さなブティック。
 シンプルだけど形がきれいな洋服を着たマネキンが楽しげにポーズを決め、凹凸だけの顔なのにどこか誇らしげに見えた。その奥で花柄のワンピースを身にまとい、お客さんのいない店内で唯一自由に動き回るその人に、私は何度でも目を奪われる。
 人形のような型にはまったものではなく、自然な人間の美しさ。ただ美形というだけでなく、笑っても俯いても、きっと泣いても怒っても、どの角度から見ても計算されつくしたように美しいのだろう。
 無意識にごくりと音を立てて唾を呑んだ。この店を見つけてから、ここへ来るのはもう5回目。でも、中へ入ったことはない。何度か、店内から私の視線に気付いた彼女がにっこりと笑いかけてくれたことがあった。そのたびに口の中がカラカラに乾いて、私は無理やりに口角を上げ、とても笑顔とは呼べないような表情を浮かべて立ち去るだけで精いっぱいだった。
 でも、今日は。今日こそは。
 すでにふわふわと定まらない足取りで、扉の前に立ちイヤフォンを外す。頭の中でシミュレーションを繰り替えして、勇気を振り絞って来たんだ。
 扉を引く、すると彼女は「いらっしゃいませ」と声をかけてくれる。あんなに美しい女性だ。声も異国の管楽器のように美しいに違いない。そうしたら私は「姉へのプレゼントを探している女子高生」を演じて、相談をしながらお近づきになればいい。本当は姉なんていないけれど。
 息を吸って、吐いて、扉を引いた。来客を告げるドアベルがチリンと鳴って私の存在を浮き彫りにすると、鼓動が加速した。彼女の視線が私を捉え、蕾が綻ぶような笑顔で口を開く。そこから零れる声は異国の管楽器のような…
「いらっしゃいませ」
 その瞬間、何が起きたのかわからなかった。「あぁ、やっぱり美しい」と、自然にニヤけてしまわないよう構えた頬も、悩ましげな演技をするために準備をしていた眉も、身体中の筋肉が動き方を忘れてしまったように硬直する。それなのに、あっという間に両目から涙が溢れてきた。
 目の前の美しい人が、困惑しているのが分かる。でもきっと、私の方が何百倍も困惑しているのだと思う。
「ちょっとあなた、大丈夫?」
 声を掛けられて、思わず店を飛び出した。もう我慢できなかった。
 静かな住宅街を全力で駆け抜けながら、今度は叫びだしたい気持ちに駆られた。
 男だった男だった男だった男だった男だった男だった男だった男だった!!!!
 あんなに美しいのに、あんなに完璧なのに。あの美しい唇から放たれたのは、女になりきろうとする男の声だった。肺が千切れそうに痛んで、足がもつれて、私は焼けたアスファルトを転がった。勝手に期待して、勝手に頑張っただけ。こんな裏切りが待っているなんて思ってもみなかった。
 勝手に、こんなに惨めで情けない。
 また溢れだした涙を拭いもせずに立ち上がると、遠くから駆けてくるヒールの音が聞こえた。

deep blue.

deep blue.

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-07

Copyrighted
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