やることができた

 だから言ったのに。
 だから、一人で帰らずに待っていてくれって言ったのに。暗い夜道を一人で歩くのは本当に危険だから、最近は不気味な事件があるって騒ぎにもなっていたから――だから、家まで送るから絶対に待っていてくれって、あれだけ言ったのに。
「どうして、……聞いてくれなかったんだよ。愛美」
 ぼろぼろと、涙がほほを流れた。
 もう、見ていられなかった。
 樹に縛り付けられ、白目をむいて、ただの人の形をした肉の塊になってしまった、彼女の姿。学校の制服は胸元から引き裂かれ、その隙間から見える彼女の皮膚には、擦り傷や切り傷が覗いている。
 ――愛美。
 竜樹は唇をかみしめる。ついさっきまで、ほんのついさっきまで、この世のすべての幸せを一カ所に集めたような時間を過ごしていたのに。
 だけど、どれだけ無様な姿になっても、竜樹は絶対に目をそらさない。涙で視界がにじみ、彼女の顔もなにも見えなくなっても、絶対に視線を彼女からそらしてはいけない。無様に死んでしまった、彼女の体を、竜樹はずっと、ずっとずっと、見ていなくてはいけないと、思った。死ぬほどつらいこの状況から、彼女の肉体から、絶対にそらすことはだめだと、竜樹は思った。
「……また、二人で一緒に帰ろうな、愛美」
 竜樹は愛美のほほを触った。ぬるりとした血の感触も、柔らかなほっぺがぱっくりと開かれた三本の切り傷の感触も、全部を受け入れなくてはいけないと、竜樹は思った。逃げ出したいほど怖かったのに、今ではもう恐怖心はみじんも感じなかった。心が麻痺してしまったのかもしれなかった。
 すぐそばに落ちていた小さなナイフを竜樹は手にとり、彼女の体を縛り付けている紐を切った。木に張り付けられていた彼女の体が、ふわりと前方へと倒れこみ、竜樹はその華奢な体を受け止めた。愛美の顔が、――ほとんど面影を残していない彼女の顔が、竜樹の肩に当たり、まだ乾ききっていない血が服にしみた。じんわりと、じんわりとぬれた。
 冷たい。
 彼女の体が、冷たい。
 死を意識した。突然、竜樹の目から涙が止まった。こんなところで、感傷に浸っている場合ではなかった。自分には、やるべきことがあることに、ふと思い至った。愛美はここにはいない。彼女の体温は、彼女の魂が持って行ってしまった。こんなところで、泣いていたって、愛美に伝わるわけではない。ここではない。彼女は、ここにはいない。
 体から魂が抜けたら、体温はなくなる。だったら、心が冷め始めた今の自分は、きっと心が死んでしまったのだろう。体は火照っているのに、頭の中はどこまでも冷静だった。
 竜樹は彼女の体を離し、転がっていたナイフをポケットに入れた。
 くるりときびすを返す。

 やることができた。

やることができた

やることができた

  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-07

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