赤い雷

 朝、灯台近くの堤防を通りかかると、猫がいた。
 堤防で釣りをしていた中年の男性たちに擦り寄っていたが、撫でられるばかりで魚はふるまわれない。どうやら釣果がないらしい。みれば、それは年若い山猫であった。この国で、猫は神の使いとして大切にされるが、その中でも特に山猫は縁起がいいという。しかし近年数が減って、滅多に見られないものとなってしまった。私も、本物を目にするのは始めてだ。間近で見てみたい衝動に駆られたが、あいにく時間がない。釣り人たちに挨拶だけして、その場を後する。
 その時、ふと水平線に立ちこめる雨雲に気が付いた。まるで、空に一滴の墨汁を垂らしたようだった。梅雨にはまだ遠いが、そろそろ雨が多くなる時時節であることをに気付いた時、妙なものを見た。赤い色をした大きな雷がカッと海に落ちたのだ。続けて、ゴゴン…という音が鳴り響く。私は驚いて、凄いですね今の…と、釣り人たちに向かって言った。雷が赤いなんて初めて見た。すると、彼らは不思議な顔をして、雷なんて落ちたかね?と首をかしげる。まさかと思った。あんなに大きく光ったのに、見ていなかったのだろうか。音も鳴っているのに。しかし釣り人たちはさして興味もないと言う態度で、他愛もない日常の会話に戻ってしまった。目線は、海に垂らした丸い浮きである。
 首をかしげながら再び歩き出した私の背中に、ガラガラという変わった音が聞こえて来た。振り向くと、例の山猫が自分に向かって長鳴きをしている。変わった鳴き声である。見た目も家猫とは違って、大きな耳の先にはピンと尖った毛が、そして耳からあごに掛けては、ワイシャツの襟にも似たふさ飾りのような毛が生えていた。何より特徴的なのは、その目である。大きくて鋭く、らんらんとして、相手の心中を見抜くかのようであった。私はその視線に気まずい思いを受けて、そそくさとその場を後にした。

 目的の場所…岬の灯台へと行きつくと、すでに入口のところで大学時代の後輩二人が立っていた。、来館者の受付役を名乗り出てくれたのである。こちらに向かって頭を下げているので、待たせてしまったことを詫び、急いで鍵を開けて中に入った。見た目こそ灯台そのものだが、中身は海や港町を眺めながら作品を楽しむことが出来る画廊である。最上階の五階までを、中心に通った螺旋階段で行き来することが出来る。数年前、老朽化により解体が余儀なくされた代物を、私が買い取って改築したのだ。ちなみに言うと、私は画商ではない。書家である。よって、灯台画廊の最初の催しものは、これまでの私の作品の中から海にまつわる言葉を選んで展示することとなった。開館初日は知人の美術家たちに簡単なセレモニーを開いてもらい、更に3日目の今日までには友人や関係者、地元の人々の足取りも多く、順調な滑り出しである。
 後輩二人が机と椅子、芳名録、花瓶の準備をしている間、私は螺旋階段を駆け上がり各フロアのカーテンを開けて回った。展示品に異常がはないかどうかも、念のためにチェックする。一階の、湾曲した砂浜を低い目線で眺められる窓近くには『潮騒』、『流木』。港と海を一望できる二階には『漁火を数える』。他の階には『真砂』『空舟』など、少しばかり古い言葉もある。そして最上階の、水平線を見渡せる窓には、『竜神をなだめる』。竜神は海の天候をつかさどる神のことだ。昔から漁師は天候を読み、祭りで神をなだめ、海からの恵みを得て来たのである。
 その窓からそこから海を望んだ私は、ん、と小さな声をあげた。遠く水平線にあった暗雲の中に、あの赤い雷が再び、ぴしりと光った。やはり見間違いではなかったのだ。一体何という現象なのだろう。不勉強で気象には詳しくないが、これは掲げている『竜神』を連想させ、趣がある。落雷の危険性が頭をよぎったけれど、その雨雲はまだ随分遠く、ここまでやって来るまでには時間がかかる。海上で消失するかもしれない。そんなことを考えながら下へ降りようとした時、突然、すぐ近くで若者の声がした。
 見ましたか?
 私が吃驚して振り向くと、そこにはストライプのスーツに帽子をかぶった二十歳ほどの青年が立っていた。片手には旅行用のトランクを持っている。いつの間に五階へ上がって来たのだろう。まだ、開館時間には早いはずだが。
 そのことを伝えようとすると、彼はもう一度、今のを見ましたかと聞いた。のんびりとした口調だった。何のことか尋ねると、赤い雷ですよと答えた。細面の、古風な顔立ちだったが、目だけは大きくて鋭く、相手の心中を見抜くかのようで…この感覚は先ほどどこかで味わったような?
 彼はそんな私をよそに、あの稲妻は通常のものではなく、毒を含むものですと語った。名乗りもせずに、突然わからぬ話をされても困る。しかし彼はこちらの迷惑には構わず、滔々と話し続ける。
 もっと言えば、あの赤い稲妻はあなたにしか見えていません。何故なら、あの毒は気に入った人間を見つけるとその者にだけ姿を見せ、近づいてきて、やがてその人の体内に侵入します。赤くないはずのものが赤く光って見えるのは、あの毒の大きな特徴なのです。つまり、あなたは急いでここを離れ、落雷の恐れがない場所に逃げた方がいい。もしあの赤い雷にうたれてしまったら…。
 ちょ、ちょっと待ちなさい、と私は声を大きくして彼の話を遮った。私は確かに赤い雷を見た。しかしだからと言って、君の話をハイそうですかとは受け入れられないじゃないか。
 それにだ、と私は続けた。
 先ほど君は、私にしかあの赤い雷は見えていないと言ったようだが、君にだって見えているんじゃないか。そもそもその点が、話としておかしいだろう。そこまで言うと、私は何だか馬鹿馬鹿しくなってしまった。あの赤い雷はごく稀に起こる自然現象か何かで、たまたま私がこの歳になって初めて目にしただけなのだ。それを、この青年はからかっているのだろう。
 すると彼はケロリとした表情で、いいえ、僕は気に入られているかどうかは関係なく、あの毒を常に肉眼で確認することが出来るんですと答えた。生まれもったこの体質のおかげで、毒に侵された患者を治療する仕事に就いています。昨日も王都で一人治療をしたんですが、帰り道を間違えてこの港に来てしまって、困っているところで…。
 私は、そこまで聞くとなんだかうんざりして首を振った。これから先は混むだろうから、今のうちに作品を楽しんでいってくれとだけ言い残して、一人で下の階へ向かう。2階まで降りたところで、ちょうど後輩の一人が上がってきた。時間なので開館したことを私に告げると、そういえば猫を見ませんでしたかと聞く。勝手に館内に入ってしまったらしいのだが、猫などいなかった。それより妙な青年が五階に上がってきたが、何故開館前に入館させたのかとこちらが聞くと、今度は後輩の方が怪訝な顔をした。どうも、何かがちぐはぐである。

 私はそれから、見学に来た知人や入館者たちと話をするのに忙しく過ごした。普段は潮騒が聞こえるだけの灯台の中に、人のささめきが満ちる。そのささめきに身を隠すようにして、一匹の山猫が灯台から外に出たが、私を含めた誰しもが、気付かなかった。

 やがて、大粒の雨がぽつぽつと、灯台に、砂浜に、釣り人の頭上に落ち始めた。まだまだ遠いと思っていたあの雨雲が、いつの間にかすっかり灯台の真上に来てしまったらしい。私は窓を閉めるために、後輩たちと共に各階へと駆け上がる。昼近い時間だったため人は少なく、最上階にも誰もいない。先ほどと同じく、私一人。そうだ、また雷が鳴っては危ない。人がいない今のうちに、一度画廊を閉めて皆を避難させよう。

 そう思った瞬間、再びあの赤い光が雨雲の中を瞬いた。
 あの青年の話が頭に浮かぶ。彼はいつの間に外へ出たのだろう。
 そんなことを考えた、一瞬後のことであった。
 私の全身に、どん、という衝撃が走った。
 まるで、バチで打たれた大きな太鼓にでもなったような感覚。ああ遅かった…という言葉だけが、気を失うまでの短い時間に許された私の思考であった。

 目が覚めたのは、近くの小さな病院のベッドの上。全身がまるで錆ついたように痛んで、動かない。そうだ、雷に打たれたのだ。よく生きていたものだ。突然意識を取り戻した脳内で、たくさんのことがグルグルと回り始めた。ではこれはやけどの痛みだろうか。後輩たちや見学者に被害は出なかっただろうか。私は愚かだった。もっと早く避難していたら。画廊は、作品は無事だろうか。
 そんな私に、部屋に入って来た看護婦が昨日から丸一日気を失っていたことを告げた。意識回復の知らせを聞いて駆け付けた妻が、より詳しい説明をする。雨だからって窓を閉めに上の階に行ったきり、あなた下に降りて来なかったから、受付の子が見に行ったんですって。そうしたら、最上階で倒れてたって…何があったのよ?お医者は誰かに殴られた形跡はないって言うんだけど。

 何だって?
 私は目を開けて妻の顔を見た。何だか話が違う。
 落雷があっただろう、けが人は出なかったのかと問うと、妻は怪訝な顔をした。
 落雷?何言ってるの?

 あの雷はあなたにしか見えないんですよ。

 頭の中で、あの青年の声が蘇った。

 一体彼は何者だったのだろう。
 この疑問は、日を追うごとに増していった。何故なら、体には何の異常もないと医者に言われたにも拘らず、私の体には妙な現象が起き始めたからだった。まず、異常なまでの静電気。感電する素材なら、触れれば必ずバチリとくる。看護婦などは、ゴム手袋をつけなければ絶対に私に触れないし、採血は電流のせいで針が揺れて話にならないので、中止された。医者は大事な医療機械に何かあっては大変と思ったのか、他に体に異常はないのだからとさっさと退院許可を出す始末である。
 家に帰った私は、仕方なく、看護婦を見習ってゴム手袋をつけて日常生活を送ることにした。しかし放電しているのは指先だけではなく全身なので、足に触れても人とすれ違っても、大きく爆ぜる。髪の毛は逆立ち、服は脱ぎ着するたびに細かくバチバチと音を立てる。中でも、最も困るのは仕事だった。ゴム手袋をつけたままだと上手く筆が持てないため、仕方なく素手で持つ。すると、半紙は手の平にぺったりと貼り付き、筆の先は逆立ってまとまらず、墨を吸わない。あらゆることに困り果て、外に出ることもままならず、何日かは早くこの現象が収まることを願って、家の中で過ごすした。
 しかし、翌日は展示会の最終日…という日を迎え、いよいよ頭を抱えることとなった。自分の展示会だと言うのに、ずっと仕事を人任せには出来ない。だが、この状態でどうすべきか。備え付けられた照明器具をショートさせてしまうかもしれない。第一、人とふれあうのにゴム手袋をつけたままというわけにもいくまい。
 そんなことを考えてなかなか寝付けなかったが、深夜になって、ようやくまぶたが重くなった。
 うつらうつらとまどろみ始めた時、突然目の中に小さな糸くずにも似た光が、パッと光った。それはそのまま大きくなっていき、そして似たようなものが他にも2、3現れた。一定のリズムに沿ってスパークするように点滅する。うるさいことこの上ない。私は間違いなく目を閉じているのに、何故こんなものが見えるのだろう。たまらなくなってまぶたをあげると、私が被っている布団の中から、光が漏れている。それは、あの落雷の日に見た、赤い雷にそっくりであった。
 ということは、光っているのは私自身だろうか。
 私はおそるおそる起き上がって布団を退けた。すると、パジャマの袖口や襟の部分から露出している皮膚から、バチリバチリと激しい電流が散っていた。見た目はまるで、線香花火にでもなったかのようである。一体、本当に、私ははどうしてしまったと言うのだろう。隣に眠る妻は、こんなに光が舞っているのに起きる気配もない。寝る時もつけているゴムの手袋をそっと外してみる。すると、より一層部屋の中が明るくなった。何故なら指先のスパークが一番激しいためだった。眩しいのを我慢して目を凝らすと、どうやら光るたびに、指の先が少しずつすり減っているように見え、心臓のすくむ思いがした。
 まさかこのまま放っておいたら…。
 私の指はこのまま電流や光となって、すっかり闇に溶けて消えてしまうのではないか?
 それでは筆が持てないばかりか、指から先、体すらも失ってしまうのかもしれない。
 これが、あの青年が言っていた、毒に侵された症状だろうか。もしそうだとしたら、助かる道はどうやら一つしかない。あの青年を探すのだ。彼は自分で、「毒に侵された患者を治療できる」と言っていたではないか。
 でもどうやって探せばいいのだろう、しかもこんな夜中に…名前も住所も知らないというのに…ああ、あの時もっと、彼の話を信じていれば…。

 しかたなく、私は必死で彼の背格好を思い浮かべた。履きならされた靴と、トランク。長く旅行をする者の特徴だ。顔つきでどこの地方の出身者か分かることもあるが、彼に関しては分からない。ただ、あの鋭く、人を見透かすような大きな目ばかりが印象的で…。
 私は次の瞬間、はっとしてベッドから飛び出した。再びゴム手袋をはめ、パジャマの上に上着を着て玄関へと走り、ゴム長靴を履いて外へ走りだした。何とも珍妙な格好だが、どうせ深夜で誰もいない。暗い港町に、私は発している火花だけが明るかった。行先は灯台近くの、あの堤防。まさか、今もいるとは思わないけれども、藁をも掴む思いで走る。
 釣り人たちに撫でられていた、あの若い山猫。
 あの猫の目と、あの青年の目は実によく似ているではないか。いや、同じといってもよかった。
 それに、館内に猫がいるはずだという後輩と、青年はいたが猫はいなかったと主張する私の意見がちぐはぐだったことも、今ならうなずける。もちろん、山猫とあの青年が同じ生きものだなんて、それこそ信じがたいが、今の私にはそれしか解決案が見当たらないのだ。
 深夜の海まで来た。月はなく、風もない。港町は寝静まり、さざ、ざざ、とぷとぷ、という磯に打ちつける波の音が漂っている。

 お、やっぱり来ましたね。
 
 聞き覚えのある若者の声に、荒い息を整えながら辺りを見回した。堤防近くにあるごつごつとした岩かげの一部に、私の光を反射してきらりと光る、二つの目があった。その目が闇から消えると、今度は岩の一部がもこりと動き、人間の影に変わった。その影は岩場を移動して、そのままこちらへ歩み寄って来る。
 僕、酷い方向音痴なんです。
 彼は私の近くまで来ると、地面にトランクを置きながら言った。
 この間、僕が灯台から抜け出た後、あなたは予想通り雷に打たれて気を失いましたよね。だから僕は、あなたが運ばれた病院を見つけようと思ったんですけど、知らない街を変にうろうろすると、全然違う街に辿り着きそうだったので、諦めてここで待っていたんです。あなたはこの灯台の関係者のはずだから、ここにいれば情報が得られるか、あるいは本人がいつか来るんじゃないかと思いまして。
 彼は相変わらずの口調でそんなことを言った。それでは、あれからずっとこの港をうろうろしていたのだろうか。呆れた話だが、そのおかげで私は予想に反して苦労なくこの青年に会えた訳だから、感謝すべきだろう。
 君は何者だろうか、と私は聞いた。私はどうなってしまうのだろう、この電流は…私はどうやったら、元に戻れるのだろう。君の話を信じなかったことは謝るから、教えてくれないか。
 僕は、普段はしがない薬売りですと、彼は前置きするように言った。酷い方向音痴なのに、そんな商売が成り立っているのだろうか、という私の疑問は、今は口にしないでおく。
 しかし本来は、あなたのようにセジンに憑かれた人を見つけ出して、治療をすることが生業です。これは前にも言いましたね。
 セジン。聞き覚えのない言葉だが、話の内容からして、現在私の体で暴れている、この毒の名前だろう。彼は置いたトランクを開けて小さなランプを取り出しながら、セジンとは、人間社会のあらゆる負の感情から生まれたマイナスエネルギーが変化したものです、と語った。マッチをする音がしてポッと周囲が明るくなる。その明かりはやがてランプの中へと移った。
 セジンは、実は大気中にも微量に含まれています。その状態なら無害ですが、一か所に多く宿ると、いわゆる意志のようなものを持つようになります。特に自然物には多く宿りやすく、木や昆虫や動物、更には雲や雨、雷にも宿ります。僕たちは、そうして多くセジンを宿したもののことを宿主と呼んで、肉体を持つものはきちんと退治します。何故なら、気に入った人間を見つけると体内に侵入して、宿主と同じ姿に変えてしまうからです。まさしく今のあなたのように、です。

 やはりそうか、とゴム手袋をはずしながら私は思った。私は、あの赤い雷になりかけているのだ。

 ただ、今回は気象現象でしたから、あなたの体に落ちた後、霧散してしまったので、退治の必要はありません。そう説明しながら、彼はトランクから取り出した小さな紙の包みと水の瓶を持って私に歩み寄る。これは数種の薬草を乾燥させて粉にしたセジンの解毒剤です。飲むことで、体全体の症状を消してくれます。しかし、症状が重い患部に関してはあまり効果がないので、薬と一緒に入れてある植物の種を利用します。その種は高濃度のセジンによって成長する性質をもっていて、体内で発芽したのち患部に移動して、直接セジンを吸い取ってくれます。
 再びゴム手袋をつけた私は、彼からその包みを受け取って、封を切った。彼に掲げて貰ったランプの明かりの中で、その薬はまるで木炭の粉のように真っ黒だった。
 ささ、飲んで下さい。
 そう言われても、こんな真っ黒いもの、本当に飲んで大丈夫なんだろうか。
 若干の躊躇が残るが、背に腹は代えられない。意を決して瓶の水で流しこんだ。
 苦い。ものすごく苦い。本当に消し炭か何かを飲ませられたんじゃないだろうか。一体何が混ざっていると、こんなふうに苦くなるのだろう。しかし、少しの間その苦さに耐えていると、放電がひどい指先を除いて、全身から発せられていたあの静電気が徐々に収まって来るのが分かった。逆立っていた髪の毛も元に戻り、衣服が張り付く感じもなくなった。あまりの即効性に驚いていると、彼はトランクからまたもや何かを取り出して、手際よく組み立て始めた。そして、そろそろ胃の中で種が発芽するころだから、音を使って、その芽を患部まで誘導すると説明して、堤防の端にひょいと腰かけた。
 しばしの沈黙。そして、カン、という乾いた音。
 それはまるで、周囲の静まり返った空気が跳ね上がったかのようだった。金属ではなく、糸を弾いた時に出る音。
 もう一度、ツン。
 続けて、カン、カカン…。
 これは…もしや三味線の音だろうか?最初は単調だったそのリズムはどんどん速く、複雑になっていく。激しく降り続ける雨を連想させるような曲だ。湖面に出来るたくさんの水紋、屋根から落ちる水が人知れず庭石を打つ…そんな寂しさ。
 その時、私はハッと自分の指を見た。光っていた指先にむずむずとした違和感がある。今一度手袋を話すと、特に電流が強かった右手の中指の爪の間から、細くて小さい何かが顔を出したではないか。その上、それは三味線の音に操られ、するすると痛みもなく静かに伸びあがり、朝顔の蔓のようなものを出して指に巻き付いた。それは間違いなく、植物であった。他の指もそうだった。右手の人差指、小指。左手の親指に、薬指、中指。茎は段々と太くなって葉が付き、あっという間に5,6センチまで伸びた。私は気味の悪さと驚きで変な声を出しながら、ただ見つめているしかなかったけれども、その奇怪な植物が成長するに従って、指先からの放電は、小さく大人しいものに代わってきた。やがて丸いつぼみが付き、膨らみ始めた時にはほとんど光がなくなり、バチリ、というあの嫌な音も、微かにしか聞こえなくなった。そしてとうとう全てが消えてなくなった時、膨らみ切ったつぼみが、闇の中でふわり、と開いた。直径は三,四センチほどで、小さな芍薬のように花びらが重なっている。夜の闇の中では判別できない色み…濃い紫か、それとも、青か…。
 指からそんな花をはやして呆然と立ちすくんでいる私の元へ、いつの間にかあの青年が立っていた。
 そう言えば、私は三味線が止んでいたことすら、気付かなかった。
 この植物は『ぬばたまの花』というのです、うちの山で栽培していますと彼は言った。そしておもむろに指に生えたその花を掴み、あっという間に全部を引き抜いてしまった。特に痛みはなかった。摘み取られた花は、青年の手によって大切に標本箱に入れられて、トランクの中に収まった。聞けば、これはこれで持ち帰って使うのだという。
 すっかり元に戻った自分の体や手を、揉んだり擦ったりしながら、私はこの青年の仕事のことを考えていた。話の端々に、彼の普段の仕事の様子が見えるような気がしたからだった。『うちの山で栽培している』…ということは、どこかの山中に薬草園を持つ、製薬業の集団にでも所属しているのだろう。そしてそこにいる者たちはもまた、彼と同じ力を持っているのかもしれなかった。

 翌朝、私は寝不足の目をこすりながら、港町の郵便局の、運送トラックが立ち並ぶ場所までやって来た。すでに何台かエンジンがかかり、昨夜受け取った荷物を国中へ運ぶ準備が進められている。私はその中の一台を見つけ出すと、ドアの部分をこんこんと叩いた。すると窓からひげ面の運転手が眠そう声で、よう、と顔を出した。私は久々に会ったその友人に、悪いんだが理由を聞かずに、この猫を白雨山のふもとまで乗せてやってくれと頼んだ。彼は、その山の地域を回る担当なのだ。友人はあまりいい顔はしなかったが、私が抱いているのが山猫だと分かると、しぶしぶ承知してくれた。
 昨晩、青年はこともあろうに、代金は要らないといい放った。まさか、そんなわけにはいかないと言ったのだが、結局彼は聞き入れなかった。その代わりと言ってはなんだが、手っ取り早く白雨山に帰る方法を教えてくれと頼まれた。白雨山。彼は王都で仕事をして、帰り道を間違えてこの街へ来たと先日語っていたように思うが、王都から白雨山への方角は、この街に来るのとは正反対のはずだ。本当に、よく行商人をやっていられるものだ。

 窓からひょいと助手席に乗り込んだ彼は、相変わらずの大きな眼で、まじまじとこちらを見下ろしている。私は誰にも気づかれぬよう、その目にむかって軽く頭を下げ、トラックの発車を見送った。そして私はポケットから、彼から貰った名刺を取り出して、改めて読んでみる。
「セジン特効薬『ぬばたま』専売業者 篠澤製薬」「行商担当 篠澤昂太郎」「その他、多数薬種取扱」とだけ書かれていたが、肝心の会社の住所が書かれていない。これでは、名刺の意味はあまりないように思われる。裏も見てみたが、山猫の顔がデザインされたマークがあるのみだった。

 陽が高くなって、展示会の閉会式は予定通り行われた。私は何事もなく出席し、退院の祝い言葉をもらい、作品の回収作業に当たった。改めて明るいところで見た私の指は、やはり先が丸く、平たくなってしまっていた。まるで知らない人間の指を使っている気持になるが、指を…いや体を失うことと比べたら何でもないことだ。

 ふと、窓の外を見下ろしてみる。釣り人が糸を垂れている。その傍らに見知らぬ野良猫が寄り添っている。おこぼれを待っているのだろうが、釣果はないようだった。

 彼は、家に帰れただろうか。

赤い雷

赤い雷

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-06

Copyrighted
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