そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(10)

十 四十キロ地点

 T市のシンボルの山がすぐ近くに見える。山裾を走っているのか。スタートして、山から離れ、再び近づき、通り過ぎ、そして、再び、近づいてきた。ランナーたちの声からすると、もうすぐゴールらしい。
いい匂いがする。食べ物の匂いだ。うどんの出汁か。匂いを嗅ぐとお腹が減ってくる。そう言えば、これまでずっと走って来て、水分補強はしてきたけれど、何も食べていない。うどんを食べたい。近くにうどん店があるのか。いや、炊き出しだ。水やスポーツドリンクを配る場所で、うどんを配っている。タダか。それともお金はいるのか。
 お金を持って走っているランナーは少ないだろう。みんな並んでいる。俺も並ぼう。近くで遮断機の信号が鳴っている。踏み切りか。遮断機の前でランナーが足踏みしている。あんな所で待つぐらいならば、うどんを食べたほうがいいのに。行列の最後に並んだ。ああ、うどんが待ち遠しい。

 なんでだよう。こんな時に。俺に限って。吉沢の目の前には遮断機が下りていた。あと、少しで間に合わなかった。マラソン大会のコースに線路がある大会はあるけれど、電車を止めずに行われる大会は珍しい。もちろん、主催者側は、大会の要綱に、コース中に遮断機があり、電車が通過する場合、待たなければならないことがあります。と、注意書きが書いてあった。それは知っていたものの、まさか、自分の目の前で遮断機が下りるなんて思ってもいなかった。他人事と思っていた。これで一分のロスだ。ちくしょう。タイムが遅くなる。いや、タイムが遅くなるというよりも、制限時間に間に合うのかどうかが心配だ。腕時計を見た。
 吉沢は、この大会に出るまでに、自分なりに練習してきた。毎晩、九時過ぎに仕事場から家に帰って来ると、すぐにジャージに着替え、夜中の道へ飛び出した。最初、三十分程度はジョギング程度のスピードで体を慣らし、残りの三十分は、全速力で走る練習をした。でも、これでは十キロ程度だ。フルマラソンを走るのには十分な距離でない。そのため、土・日曜日には二十キロ走、三十キロ走もこなした。ベストの状態だった。サブフォーになれる。その勢いで、スタートダッシュをした。ハーフまでは順調なペース。三時間四十分台も夢ではない。三十キロ地点を過ぎた。足が重くなってきた。股関節が痛み出した。
 三十五キロ地点。もうだめだ。失速する。自分でも歩いているのか、走っているのかわからないほどのスピードだ。足の裏に豆ができた。股関節の痛みは更に激しくなった。足を一歩踏み出すたびに、痛みが走る。どうせ走るのならば、痛みじゃなく足を前に出させてくれ。そんな冗談も今は思いつかない。そうした状況にも関わらず、沿道からは、もう少しだ、がんばれ、がんばれっ、と声援が掛る。応援してくれるのはありがたいけれど、自分としては痛みに悲鳴を抑えて、十分、頑張っている。何を今さら頑張れというのか。今は、その応援さえもが苦痛であり、怒りさえ覚えてくる。
 三十五キロ地点からはほぼ足をひきずりながら歩いている。走ることはやめることも考えたが、どうせ、ゴールに帰るのは、自分の足でしか帰れない。最終ランナーの後には、つぶれた選手を乗せるバスが走っていると聞いているが、さすがに、そんなバスには乗りたくない。最後の意地で、なんとかゴールだけはしようと決めていた。歩いたり、休んだりの繰り返しで、ようやくここまで来た。
 そうするうちに、不思議なことに、股関節の痛みもやわらぎ、再び、走れるようになった。本当に、痛みが消えたのか。それとも、単に、神経が麻痺して痛みを感じなくなったのか。これまで走って来た時にもこういうことが何度かあった。神様のマッサージだ。ここからだ。ここからだ。そんな矢先に、遮断機に引っかかってしまったのだ。ここからゴールまでは約二キロ。再度、時計を確認する。午後二時だ。スタートから五時間が経過している。後、制限時間まで一時間ある。さすがに、ここからだと、歩いても、制限時間までには間に合いそうだ。チンチンチンチン。遮断機の鐘が鳴り響いている。
 まだ、電車は通らないのか。田舎の電車だからスピードが遅いのか。そんな時、「うどん、いかがですか」と、声が聞こえてきた。うどん?吉沢は声のする方を見た。遮断機の手前の広場で、ランナーたちにうどんを振舞っている。吉沢もこれまでいろんなマラソン大会に出場したが、コース中に、うどんを出すのは珍しい。走り終わった後、ソーメンやスイカが食べ放題の大会に参加したことはある。またコース中に、バナナやみかん、スポーツドリンク、栄養剤を渡してくれる大会もある。
 ここは、うどんか。そう言えば、このマラソン大会の開催地は、うどんで有名な県だ。このT市にも有名なうどん店が数多くあると聞いている。大会が終わった後、うどん店に行こうと思っていた。もちろん、今は、走ることに精一杯で、うどんのうの字も思い出せなかった。いい匂いだ。スタートしてから五時間。途中で、スポーツドリンクや自分が持っていた栄養物を食べてきたが、お腹が空いているのは事実だ。そうだな。今さら、慌てることないか。信号を待つ間に、うどんを食べよう。吉沢は休憩所に向かった。
「はい、どうぞ」地元のおばさんたちが、うどんを温め、器に入れ、出汁をかけている。うどんのサービスの前には、ランナーたちの行列ができている。みんな、本当に、マラソンを完走したいのか。うどんを食べる時間があったら、走れよと言いたくなる。だけど、実際は、電車の遮断機は降りていて、前には進めない。吉沢のように、走りたいけど走れないから、うどんを食べようとしているのか、それとも、マラソン大会はそっちのけで、うどんを食べることが目的なのか。
 こうして並んでいるのを見ると、ほとんどの人が後者ではないだろうか。本当に走りたい人は、遮断機の前で、足踏みをして、遮断機が上がると同時に、ダッシュしてやろうと身構えている。じゃあ、自分はどうなんだ。吉沢も、やはり、タイムを短縮させることよりも、うどんを食べることのほうの誘惑が勝った。「ああ、美味しい」「あったまる」「こしがあるね」「出汁が上手い」「走りながらうどんを食べるのは初めてだわ」吉沢の傍らでは、ランナーたちがうどんを啜りながら、感想を言い合っている。そのうちに、遮断機の音が止まった。
 遮断機が上がった。待ちかねていたランナーたちが次々と線路を渡っていく。吉沢は内心、うどんなんか待っていないで、走ろうかと思う。だが、後、三番目でうどんが食べられると思うと、走ることよりも、うどんを食べることを選ぶ。人は、遠いゴールよりも、近いゴールを選ぶものなのだ。そして、一歩、一歩、目の前のゴールを通過しながら、前に進んでいくものなのだ。吉沢は自分にそう言い聞かせた。
 いよいよ自分の番だ。「ねぎ入れますか」おばさんが尋ねた。「お願いします」お腹が究極的に減っている状況だ。ねぎだって前に進む力になる。「箸としょうがと七味はそこに置いてありますから、自分でやってください」はい。もちろんだ。うどんを食べさせてくれるのだったら、自分のことは自分でする。
 吉沢はふと横を見た。背広姿だ。ランナーじゃないのか。いや、背広は汗びっしょりで、濃いグレーになっている。まるで、サラリーマンが、会社帰りに、傘を持っていなかったために、ひと雨に遭い、ずぶ濡れになったようだ。すると、やっぱり、この男もランナーなのか。顔を見る。六十歳前後か。自分の父親ぐらいの年齢だ。もう定年なのか、それとも、まだ、再雇用かなんかで、働いているのか。吉沢もサラリーマンなので、つい、心配したくなる。それでも、この年齢でフルマラソンを走るのはすごい。隆は今、三十歳。後、三十年後に、この男のようにマラソン大会に参加しているかどうかはわからない。
 男は汗びっしょりだが、走ることは何でもないかのように、お椀に入ったうどんを食べている。吉沢もしょがを入れて、お椀を持つと、うどんを啜った。うまい。噛まなくても、うどんが自然に口から喉、胃へと流れ込んでいく。うどんの汁の塩辛さは、汗をかいた体にはよけいに美味しく感じられる。うどんの量は通常の一玉の半分ぐらいだが、残り二キロを走るのにはちょうどいい。走るのにも差し支えない。うまかった。吉沢は汁を全部飲み干した。お椀を下げた時、男と目が合った。男が微笑んだ。吉沢は「美味しかったですね。残り二キロ、頑張りましょう」と右手を差し出した。男は大きく頷き、吉沢と握手した。

 初めての大会。それもハーフマラソン。それなりに練習は積んできた。走りきれることは間違いないだろう。だが、問題は天気。時期は五月の末。通常、マラソン大会は三月までだ。五月や六月に大会が開催されることはあるが、寒い地方が多い。ハーフマラソンの大会としては異例だ。しかも、天気はいい。暑くなりそうだ。これまで練習は、夜や夕方に走って来た。走り込むために、あえて暑さを避けてきた。それが吉となるのか、凶となるのか。
 スタート時間三十分前だが、前の方に位置取りをするために、多くのランナーが既に並んでいる。どうせなら、いいタイムで走りたい。そのためにも、できるだけ前の方で走りたい。だからと言って、前列に並ぶほどの勇気も実力もない。筋肉質のやせたランナーの姿を見ては、自分よりは早そうだなあ、俺はこんなに前でいのかと不安になり、ややお腹の出たランナーの姿を見ては、俺よりは遅そうなのによくもこんなに前にいるなあと他人事なのに心配になる。あれこれと想像しているうちに、スタートの時間がやってきた。「ようい」台の上のスターターがピストルを青空に上げる。この大会の開催地の町長だとアナウンスが流れる。地元の人間でない者にとっては、町長よりも有名なマラソン選手がスターターの方が嬉しい。「バン」ランナーが一斉に走り出した。俺もその後に続いた。

そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(10)

そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(10)

十 四十キロ地点

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-04

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