キドリーさんの傾向と対策

『キドリーさんの傾向と対策』

昼津淳広

 キドリーさんは気取り屋だ。仕事をせずに遊んでいるようにしか見えないのだが、相当の家賃収入があるのはわかっている。それで遊民生活を送っているのだろう。服装は気を遣っているようで、洒落てはいるけれど、それが似合っているかと聞かれると「そうです」とは言えない。高圧的ではないが、いつもどこか妙に斜に構えている。姿勢にもこだわっていて、右足を少し引き気味に、右手を腰において、やけになれなれしく話すのである。話題もほとんどは自慢話で、もって回った言い方をするのと、同じ単語を二度、三度と重ね使いするので知的な感じが全くない。
 半ばトレードマーク化している高価そうなパナマ帽の角度を頻繁に変えてみたり、サングラスをかけたり外したり、ネックレスに引っかけたり、いろいろ試みているようだが残念ながらあまりイケている感じにはならないのだ。本人は相当いい線いっていると誤解しているようである。むしろ誤解があまりに甚だしいので、自然とみんながこういう半分馬鹿にしたような愛称で呼ぶようになったのだ。
 本名は「木戸」という。しかし、「キドリー」というあだ名は「木戸」という名前とはいっさい無関係である。単なる偶然だ。いつも無意味に気取っているから「キドリーさん」なのだ。
 歳はもう五十歳近い。正確な年齢は一度聞いたような気がするけれど、もう忘れてしまった。おそらくまだ五十歳にはなっていないはずだ。結婚はしているが奥さんは見たことがない。頭の毛は白髪が目立ち、おなかの肉も少したるんでいるのがわかる。いつも十年落ちとおぼしき愛車のフォルクスワーゲンに乗って、歩いている私の脇に車をゆっくり寄せて停め、サングラスを上にずらしあげて私にこう言う。

「乗っていかない? 家まで送るよ」

 いつものことだから、もう驚かなくなったが、最初に言われた時は、いい年をしたオッサンが、うら若い女性の私をナンパするとは、何と厚顔無恥なのだとドンビキし、少し腹が立ったけれど、キドリーさんは不思議と後味が悪くないというか、尾を引かないと言うのか、滑稽さが先に立ってしまうので、嫌みな感じがないのである。きっと、笑いを誘う彼の外見から、気後れすることなく安心していられるからだろう。御し易いと言ったら年長者に対して失礼か。性格もあっさりとしているので、断ってつきまとわれたことはただの一度もない。ナンパ言葉も慣れてくると、「軽い挨拶」にしか聞こえなくなってくる。不思議なものだ。

 キドリーさんは特別ハンサムというわけでもないけど、わりと整った顔と、風変わりだが気さくな中年男性である。彼の性格がわかってくるにつれて、私の警戒感はおのずと和らいでいくのである。ただ、私はこの誘いをいつも丁重にお断りしている。私には彼氏はいないけれど、そんなに寂しいと思ったことはないし、無理して男性とおつきあいしたいとは思わない。ましてや既婚者を恋愛の対象として見たことはない。それに、結婚はもうちょっと仕事を覚えてからでも遅くはないと思っている。これから生きていく上で、仕事の経験は大切だと考えているからだ。家には両親がいて、私の愛猫「ロビン」が待っている。少なくとも今の私は孤独ではない。
 私は結婚というものにはっきりとしたイメージが持てないのかもしれない。十代の頃は「二十歳で結婚して」なんて願望を持っていたけれど、大学に入っていろいろな経験をすると、私からはそんな青い幻想みたいなものは消え、今は現実的に物事を考えている。結婚するとしてもまだ先、それに結婚相手はやっぱり同年代がいい。だから、かわいそうだけどキドリーさんは全くの対象外。絶対ムリ。既婚者はお断りだ。
 キドリーさんにはきちんとした奥さんがいて、この近所のマンションに住んでいるのだ。二人で車に乗ったところを、もし偶然買い物に出た奥さんに見られでもしたら大変だ。そんなドロドロに巻き込まれたくないし、何よりも、奥さんがかわいそうだ。私だってつらい思いをしたくはない。

 私の勤めている信用金庫の女性社員に、キドリーさんがターゲットとしている女性は三人いる。どの女性もみんなまだ二十代で、独身で、彼氏がいない。彼にはそういうのが自然とわかるのだろうか。「おひとり様」の置かれている微妙な「立場」みたいなものが醸し出す雰囲気とか、身の堅さとかが。もっと美人の職員ならほかにいるのだが、特に美人が好きだというのでもないらしい。美人にはたいてい彼氏や旦那がいるし、キドリーさんも彼氏の有無、既婚・未婚といった条件に合わないことを察知し、ナンパの対象から外しているようだった。
 キドリーさんは、フォルクスワーゲンで信用金庫の近辺を、空車タクシーのように流していることもあれば、どこかの駐車場に停めてふらついていることもある。よほど時間をもてあましているのか、近くの本屋やコンビニで出くわしたこともある。キドリーさんは昼間にはナンパをしない。「送っていくよ」と誘うのは仕事が終わったあとに限られるので、昼休みにばったり会うと、彼のほうが、かえってばつが悪そうで、かっこをつけ損なった妙な会釈をして逃げ去って行くのだ。
 いったいキドリーさんはなにを考えているのだろうか? 私にはさっぱりわからない。ナンパしたいならもっと堂々とすればいいのに。私は断るけど、絶対に断る。なにを考えているのかわからない印象を与えるナンパはあまり上手な方法ではないと思う。上手なナンパで来られてもやっぱり断るけど。


 営業で外回りをしている長谷川君はキドリーさんのことをよく知っている。長谷川君の担当地区に彼の住んでいるマンションがあるからだ。
「意外にまともな人だよ。自分の資産も、他人任せにしないできちんと自分で管理している。もちろんナンパ癖の話は知ってるけどね」
「へんな人じゃないんだ」
「服装はユニークと言えばユニークだし、全然似合ってないけどな」
 二十六歳独身の長谷川君は笑うととてもチャーミングだ。
「でもすごい資産家なんだ、ビルが五棟、マンションが十棟、駐車場なんかも入れるとずいぶんたくさん不動産を持っている。家賃収入は相当なもんだろうな。残念ながらメインバンクはうちじゃないから、詳しいことはわからないけど、ひと月に数千万円はあるんじゃないのかなあ」
 ふーん、そんなにお金持ちなんだ。噂では知っていたけど、実際に聞くと実感が湧かないほどの金額だ。さぞ税金もたくさん払っているんだろう。
「家に入ったことはあるの?」
「あるよ。お金持ちだけど広い家に住んでいるわけではない。生活も贅沢はしない主義のようで、収入の割には質素な生活って言う感じだな。でも調度品は高級なものばかりだよ。ソファーも俺の家にあるのとは座り心地が全然違うもん。素人の俺でもわかるよ」
「奥さんに会ったことはある?」
「木戸さんの奥さんはドイツ人なんだ。綺麗な人だよ。子供はいないんだ。あまり深くは聞いてないけど、いろいろ難しい問題があって、子供ができなかったらしい。木戸さんも奥さんと一緒に不妊治療を受けた経験がある。でも上手くいかなかったようだ」
「私は木戸さんが奥さんといるところを見たことがないわ」
「そうだね、奥さんは不妊治療の結果が思わしくなかったことで、精神的なバランスを崩した時期があったようだよ。それ以来、家にこもっていることが多いんだそうだ。それまでは仲良し夫婦で通っていたんだが、最近はどうなんだろうな?」
「子供がいないと夫婦って仲が悪くなるものなのかしら?」
「そんなことないんじゃないかな。うちの山口次長は子供いないけど、五十代の今でもラブラブ夫婦で、毎年手をつないで海外旅行に行ってるからな。それに今は子供を作らない夫婦も増えたしな」
 私は子供が欲しい。結婚したら赤ちゃんがいる幸せな家庭を作りたい。独身の長谷川君にこんなことを言ったら誤解されるので、口には出さないでおいた。

 私は預金係だ。この係は営業時間内はとてもあわただしい。そんな他人の心配をしている暇も、不妊の問題や夫婦の仲の問題をつらつら考えている暇もない。日常の仕事はベルトコンベアに運ばれているようなものだ。私たちはベルトにのって運ばれてくるものを加工したりチェックしたりするのではなく、私たち自身がベルトにのって様々なチェックを受けているみたいだ。気味が悪いと思うこともあるし、人間の温かみのようなものが欲しいと思うこともある。
 店内は女性職員が多く、それでギスギスしている。女性同士は和気あいあいに見えても、結構好き嫌いが激しく出たり、仕事の出来不出来で遠慮ない攻撃にさらされる世界だ。毎日の仕事はストレスとの戦いだ。それで辞めていく職員も少なくない。私はまだ入社二年目で教わることも多いが、新入社員も入ってきたからには、いつまでも教えられているだけの存在ではいられない。後輩の面倒を見るのも若手職員の役目だ。やらなければならないことがたくさんある。
 長谷川君から話を聞いて以来、私はキドリーさんのことがどうでもよくなってしまった。ずいぶんと身勝手な話じゃないだろうか。ただの一家庭の問題なのだ。家庭の不満や夫婦の不仲を理由にナンパされたらこちらがたまらない。同情はするけど、私にはまったく関係のない話なのだ。

 キドリーさん、あなたの問題はあなた自身で解決してください。この世にはお金では解決できない問題がたくさんあるのです。お金持ちのキドリーさん!


 終業後、三人で駅前の居酒屋を会場に女子会を開くことになった。キドリーさんのターゲットになっている三人である。雪子さん、沙希さんと私だ。主催者は最年長の雪子さん(二九歳)で、会の議題は「キドリーさんの傾向と対策」である。
 この三人で女子会を開くのも初めてだし、キドリーさんを対象とする機会も初めてであった。沙希さんは二八歳で雪子さんと年齢が近いが、私は二四歳とやや離れていたので、少し緊張していた。会社の行事以外で一緒に飲むことなんてまずない顔合わせだ。仕事のことであれこれ言われやしないか、気が気でなかったのが正直なところだ。
 乾杯のあと、雪子さんが簡単に挨拶した。雪子さんのスピーチなんて初めて聞いた。これは本格的なミーティングなんだ。単なる宴会だと思って参加したら怒られる、と私は思った。
「みんな困っていると思うけど、キドリーさんについて集中して討議しようと思うの。もし名案が出たら早速採用して、あの人に私たちの意思をきちんと示せればいいなあと・・・」
 雪子さんの語尾がなぜか弱まったのが気になった。
「あのさあ、私はあまり迷惑だって思わないんだよね。キドリーさんはストーカー行為をしているわけでもないし、しつこくつきまとわれてもいないし、断ると逃げていくし(ケラケラ)。それにさあ、何よりもうちの信用金庫の重要顧客じゃない。メインバンクじゃないけどそれなりに預金をしてくれてるし、私たちが失礼なことを言って、侮辱して、預金下ろされちゃったらどうするのよ(ケラケラ)」
 沙希さんは別段迷惑そうではなかった。かえってキドリーさんに追いかけられ、逃げるのを楽しんでいるかのようであった。私もそんな沙希さんの考え方に少し共感できるところがあった。きちんとした男性なら誘われて嫌悪感をもつ女性はあまりいない。問題はキドリーさんがきちんとした男性と見なせるかだ。

 話は、キドリーさんが「紳士」の範疇に入るのかという定義の問題で進んだ。
「私はね、奥さんがいる人が私たちに車に乗れって誘う行為そのものが非紳士的だと思うわけ」
 雪子さんが自信ありげに言う。テラーのベテラン・雪子さんはいつも自信に満ちあふれている。だから冒頭の挨拶の語尾が弱くなったのが気になったのだ。
「あのさあ、車に乗ってけって親切心で言ってくれる人だっているじゃん。私、支店長に送ってもらったことあるよ。次長さんだってあるし。みんな奥さんいるけど、それって非紳士的行為になるわけ? やっぱりちょっと違和感あるなあ、みんなキドリーさんの外見と境遇に先入観を持っているんじゃないの?(ケラ)」
 営業担当の沙希さんはよく笑う。「ケラケラ」というドライな笑い声は彼女によく似合っていて、グラマーでかわいらしい彼女は支店の人気者で、営業の評判も成績もよかった。彼氏がいないのが不思議なぐらいだ。
「支店長や次長の話はどうでもいいの。キドリーさんがどうなのかだけ話しましょうよ」
 雪子さんは話の修正に入ったが、沙希さんが支店長や次長に車で送ってもらっていたことが気にさわったようであった。雪子さんにはそういう経験がないのだろう。急にテンションが高くなってきたのは、おそらくアルコールによる酔いのせいだけではあるまい。

「沙希はキドリーさんに下心はないと思える?」
と雪子さん。
「わかんないわ。でもさあ、なんで断わられたらすぐに逃げていくのかしら? 下心あるとしたら諦めが早すぎるんじゃない?」
と沙希さん。
 私は意見なんてない。でも求められるんだろうなと予感した。嫌だなあ。
「あんたの意見を聞きたいわ」
と雪子さんが言った。あーあ、遂に私の番だ。
 私はそっと深呼吸して、冷静になろうという姿勢を二人に見せた。もちろんこれは演技である。私は冷静だった。少し緊張していただけである。それと本当に意見などなかった。どうでもいいことだからだ。私は正直、キドリーさんよりも長谷川君に興味があったのだ。でもそんなことをこの場で言えない。最下級生の私が言うわけにはいかない。そこで「私の意見」をでっち上げるのである、無理矢理に。
「私は、えーと、キドリーさんは紳士的な人だと思っていますが、男の人はわからないところも多いし、急に下心が湧くことだってあるかも知れないと思います」
「ところであんた、男性経験あんの?」
と雪子さんが「いらっ」とした表情を隠そうともせずに言った。
「そんなこと関係ないじゃん。キドリーさんの話に集中するって言ったの雪子さんじゃん」
と沙希さんが即座にフォローした。
「でもさあ、車で送るうんぬんは別にしても、若い女に下心を抱かない男なんているの? 支店長だって私を車で送ってくれた時、途中何度も私の胸をちらちら見てたし(ケラケラ) かえって下心のない人のほうが気持ち悪くない?」
 沙希さんは蛙でも飲み込んでしまったような顔をして私のほうを向いた。私はそんな沙希さんに思わず頷いてしまった。しまった。頷いたら沙希さんと私は同意見って言うことになって、雪子さんが気分を害するかも知れない、という予感はまた当たってしまった。
「沙希はキドリーさんに下心抱かせようとしてんじゃないの?」
「雪子さんこそ男性経験あるんですか?」

 予想以上に険悪な雰囲気になったので私は、
「あの、あのー、キドリーさんの長所ってどこにあると思いますか?」
と話題を変えてみた。二人も喧嘩は避けたかったのか、私の方向転換についてきた。
「あの人、悪気はないのよ。女を見下したり馬鹿にしたりしないし」
雪子さんが腕を組んで言う。
「だいたいさあ、お金持ちじゃん。独身だったら付き合ってもいいんだけどなあ」
「あー、沙希さんの爆弾発言でたー!」
 私は太鼓持ちをやることにした。そのほうが平和で良さそうだ。
「金持ちってそれだけで長所になるわけ?」
「まさか男はカネよりもハートだ、なんて言わないよね、雪子さん?」
「そうは言いません! でも心優しくてお金持ちの独身男性っていないのかしらー」
 これは雪子さんの本音のようだった。
「いるわよ、いるけど私たちの周りにいないだけ。まず転職しなきゃ見つからないわよ」
 沙紀さんは転職を考えているのかなあ。でも、こんな就職難のご時世に転職なんて簡単にできない。私だってやっとの思いでここに入ったのに。就職したあとになって、みんな「転職」という言葉にひどく敏感になる。

「私たちってさあ、どれだけキドリーさんのことを知ってるんだろうね」
 沙希さんのシリアスな言葉は場の雰囲気をがらりと変えた。たしかに、私は知っているなんてとても言えない。誘いを断るだけで、まともな会話をしたことだってない。
 家庭の事情だって長谷川君が教えてくれなかったらなにも知らなかった。本当はなにもわかっていないのだ。ではどうやって傾向と対策を立てようというのか。なにも知らない相手に、何もかも知っているふりをして、いったいなにをやっているんだろうか。
 それから私たちは静かにお酒を飲み、おつまみを食べ、そしてそれぞれがキドリーさんのことを考えていた。
 キドリーさんが私を誘わなくなったら寂しいと思うだろうか。
 穏やかな普通の女子会になった。
 でも、酔いが回ってくると、女子とは言えども口ぎたなくなるのである。強烈な批判が出る。本音だってポンポン出てくる。まあ、お互いに言いたいこともあるし、仕事ではストレスに耐えながらお局様達からのプレッシャーにも負けず、厳しい日々を耐えているのである。三人は同士のような結束を一夜にして作り上げ、思いの丈をぶちまけていたように見えた、しばらくの間は。しかし残念ながらその時間はあまりに短く、あっけなく終わった。

 小一時間ほど穏やかな時間が経過したころ、突然沙希さんが話し始めた。
「私さあ・・・何度かキドリーさんの車に乗ったことがあるの・・・」
 雪子さんと私は凍り付いた。ついさっきは「女の扱いを知らないナルシストは、それは最悪よ!」と無慈悲な批判を加えていた沙希さんなのに。見ると沙希さんはいつもより色っぽい表情になっている。
「で、それで、どうなったのよ!」
と雪子さんは名前通り色白の顔を赤くしてせっついた。
「家まで送ってもらっただけよ」
「本当にそれだけ?」
「当たり前じゃない」
「なーんだ、馬鹿馬鹿しい!」
 雪子さんは深いため息をついた。
 また険悪な雰囲気になってしまった。でも私はもうなんだかどうでもよくなってしまっていた。相変わらず私はお酒をちびりちびり、おつまみをちょこっと口に入れながら、二人のやりとりを聞いていた。なるほど、キドリーさんは確かに悪い人ではなさそうだ。無理やり女性の家に土足で踏み込むような蛮行に及ぶタイプではない。
 でも、そんなことは私はとっくにわかっていた。いや、わかった気がするだけなのかも知れないが、その確信はあった。キドリーさんの傾向と対策はわからなくても、キドリーさんの人間性は、私のような小娘でもわかるのだ。

「私ー、本当のこと、言っちゃおうかなあー」
沙希さんの表情はますます色っぽくなり、意識的に上目遣いになっていた。思わせぶり十分といった感じだ。これはきっとまた爆弾発言があるに違いない、という予感はすぐに的中した。しかもすごい破壊力だった。

「キドリーさんと別れ際にキスをしたこともあるの・・・」

 ガタッと大きな音で身を乗り出したのは雪子さん。彼女は沙希さんをにらみつけるように、
「なによ、嘘つくんじゃないわよ!」
「こんなこと嘘ついてどうするのよー」
 皆しばらく沈黙する。
「でも一度ね。たった一度だけ。彼のキスはなかなかすてきだったわよ(ケラケラ)」
「で、それからどうなったのよ?」
「だからそれでおしまい」
「彼は沙希の部屋に行かなかったの」
「当たり前じゃない。私、親と同居してるのよ。そんなとこに連れ込めるわけないじゃん。私の家はけっこう厳格なのよ。そもそも、親が留守しているときに来たって入れないわ、私は!」
「じゃあ何でキスなんてするのよ、馬鹿みたい!」
「別にいいじゃない。彼が私を愛しているってことよ。だって私から求めたんじゃないんだもん」
「求められたら、簡単に応じるわけ?」
「私、キドリーさんのこと嫌いじゃないし。お金持ちだし・・・」
 私はなんだか雪子さんと沙希さんがただ単に張り合っているような気がして、わけもわからず、しらけてきた。こんな話早く終わってしまえばいいのにと思った。キスなんてただの挨拶のようなものじゃない。何でそんなにこだわったり強調したりするのだろうか。かえって私一人が冷静さを失わないでいることがむなしくなってくる。こんな会に出るんじゃなかった。
 そう思ったとき、かなり酔いが回った雪子さんが立ち上がって更に強力な爆弾を落とした。

「じゃあ、私も告白してあげるわ。私はキドリーさんと寝たことがあるの」

「馬鹿じゃない!」
沙希さんが吐き捨てる。
「嘘よ、見え透いてるわよ、本当に」
「嘘だって言い切れるかしら? 私だって何度も何度も誘われているのよ。知ってるでしょう?」
「家まで送るよ、って言うだけじゃない!」
「それは沙希に対しても同じでしょう。沙希にだけ特別なことを言うわけ?」
「信じられなーい!」
 皆、再度沈黙する。

「ごめんなさい。私、帰ります」

 私はちょっと多めかなと思いながらも三千円をテーブルにおいて、店を出た。いたたまれない。先輩達が「待ちなさいよ!」と叫んでいる声が聞こえたが、構いはしない。
 私はただただ悲しかった。雪子さんや沙希さんの話はみんな嘘だとわかっていた。大嘘だ。
「おおぼらふきどもめ! 何でこんなことで嘘をつかなきゃいけないんだろう。みんな心の底でキドリーさんを必要としている。キドリーさんがこの世にいなければ生きていけない。本当はかけがえのない存在で、キドリーさんのことが好きで、もっともっと構って欲しいんだわ。その上独占欲までむき出しにしている。キドリーさんっていったい・・・」
 でも、と私は思った。
「私も二人と同じなのではないだろうか」
 私はキドリーさんに恋しているのではない。絶対に違う。でも彼には強い魔力があって、不思議な力で吸い寄せられて行くみたいになる。この女子会に出るまでは気にもしなかった。でも今の私のこころに、明らかに恋とは違う、何かがある。でもそれがなんだかわからない。わからない。どうしよう。どうしたらよいかわからない。これってこわい・・・

 居酒屋から駅まではたいした距離ではなかった。コンビニによって女性誌を一冊買った。別に欲しくて買ったのではなかった。一種の憂さ晴らしだ。その雑誌がいくらだったのかさえ憶えていない。ただスイカが「ピッ」と鳴っただけで、すべてが精算されていた。人間の関係もスイカみたいに精算できたら、楽だろうなと思った。でも、それではあまりに軽すぎる。いや、「軽い」じゃないな、「冷淡」かしら。私には適当な言葉が見つからなかった。
 「ピッ」という音で私のスイカからお金が引かれ、コンビニや雑誌の出版社や、物流会社に収入が分配される。そこから先ではまたその収入が再分配される。ほんの一瞬だ。買った私はその金額さえ知らない。何もわからない。何も見えない。
 駅への道の途中に、駐停車禁止ゾーンを無視してフォルクスワーゲンが一台、路上駐車していた。中にはキドリーさんが座ったままこちらを見て、

「家まで送るよ、乗っていきなよ」

と言った。
 私は悔しかった。自分が馬鹿にされているのだと思った。弄ばれているような気がした。でも私をそんな悲しい気持ちにさせたのはキドリーさんではなかった。雪子さんや沙希さんでもない。それは私自身がキドリーさんに抱いている気持ち、恋とは違う、なんだかよくわからない説明不能なこころの揺れそのものだった。私はそれをはっきりと知覚することができる。

 キドリーさんは、いつもと同じ優しい目をして私を見ていた。相変わらず彼の服は似合っていなかった。ニンニクの臭いがした。
「本当に間抜けなキドリーさん!」
 私は無言で車の前を横切って、助手席に乗った。決して一言も言葉を発すまいと心に決めていた。今なにを言ってもすべてが嘘になるような気がしたからだ。雪子さんや沙希さんの言葉のように。
 私はニンニク臭が立ちこめた車内の空気を入れ換えたくて、ウィンドを下ろし、キドリーさんを無視して、頬杖をついてずっと窓から外を見ていた。つまらなそうにして、「いやいや付き合ってあげるわよ」っていう演技をした。でもこれも嘘なんだ。私は「嘘のない世界」なんて、かえって窮屈でよそよそしくって、生きづらいんじゃないかしら、と思った。
 キドリーさんは私に話しかけようとしたけど、結局やめたようだった。彼は私の気持ちがわかったのか。だとしたらカンの効く人だ。
キドリーさんは運転をしながら私の小さな胸をチラチラ見るかしら? 別れ際にキスしようって言ってくるかしら? 
 馬鹿馬鹿しい。嘘で満たされた世界に真実を求める虚しさったら・・・ これが現実というものなら、私はこわい。凄くこわいのキドリーさん。あなたもやっぱりこわいのかしら?

 車がすべるようにゆっくりと発進し、右に曲がって街の中に消えた。

キドリーさんの傾向と対策

キドリーさんの傾向と対策

既婚者の中年男性にナンパされた二十代の女性の心の揺れと不安。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-04

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