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季節はずれの雨

季節はずれの雨

     1

 一年前の今日も、こんな風に季節はずれの雨が降っていた。気だるそうな表情を何とか抑えながら、牧野結衣は集まっている人たちに軽い会釈を交わした。
 楠田家式場。優衣はお寺の前にある看板を見ると、受付に顔を出した。
「あら、結衣ちゃん。優斗のためにわざわざ来てくれてありがとね」
優斗の母親である楠田小雪が、結衣の姿を見て表情を変える。一年前と変わらない。とても優しそうな出で立ちだ。身長は結衣より低いが、スタイルが良い分、遠くから見ると見た目以上に背が高く見える。
「いえ」
私は目をそらすように軽く礼をする。
「結衣ちゃんが来てくれて、優斗もきっと喜ぶわ。さぁ入って」
どことなくぎこちない会話の後に、小雪は結衣を手招いた。

 小雪おばさんの後をついて歩く。彼女の背中からは何も読み取れない。悲しみ、辛さ、きっとたくさんの思いを抱えているに違いない。しかし、私にはそれが分からない。
「もうすぐお坊さんの読経がはじまるわ、空いてる座布団を使ってね」
私は軽い会釈をして、空いている座布団に腰を下した。小雪おばさんはその場を去っていった。私がここへ来た時にいた受付に戻ったのだろう。
私の来場に、その場にいた何人かの人たちの会話が途切れる。少しの間をおいて、優斗の親戚と思われる人たちが、私を見てひそひそと会話をし始めた。嫌なものだ。何とも居心地が悪い。……本当は、来たくなんてなかった。しかし、便宜上、私はここへ来ないわけにもいかなかった。
 目のやる場に困っていると、一番前の座布団に座っている女の子の姿が目に入った。中学校の制服を着たその姿は、間違いなく優斗の妹である栞だった。短めの髪を後ろで縛ったポニーテールの装いだ。一年前に比べると髪が伸びている。正直言うと、もう会いたくない間柄ではあったが。
 一年前のあの日以来、私と楠田家の間には溝ができてしまった。いや、私が勝手に楠田家に対してそういった感情を抱いているだけかもしれないが、あの事故があってからというもの、どんな顔をして彼らに顔を出せばいいか分からない。しかも、優斗とは幼馴染だったこともあり、昔から楠田家とは縁があったのだ。しかしそれも、めっきり無くなってしまったと言っていい。
 お坊さんが部屋に入ってきて、読経が始まる。皆が真剣な表情でそれを聞いている中、私は聞くことはおろか、その場の雰囲気すらまともに感じていなかった。早く終わらないだろうか。そんな思いが脳をかすめる。最低だと思いながらも、心の中では心底退屈な時間を過ごしていた。
 正面には優斗の遺影が華やかな装飾の中、笑っている。
優斗――。
心の中で彼に話しかける。しかし、その表情は微動だにしない。ずっと笑顔をうかべたままだ。一年前と何も変わらない。
 優斗。ごめんなさい。私は、あなたにちゃんと感謝できていない。
 こんな私でも、助けてくれた?
 今となってはもう聞くことはできない。私の中で釈然としない思いが渦を巻く。
一年前、優斗は私をかばって亡くなった。トラックによる追突事故、彼は即死だった。私は気を失ったまま、彼の死に立ち会うことはなかった。幼馴染で昔はよく一緒に遊んだ仲だった。中学に入ってからは、互いに自然と口を効かなくなった。しかし、中学三年でクラスが同じになり、再びあの頃のように少しだけ親しく会話もするようになった。友達の少ない私にとっては、それはささやかな喜びだった。そして、私たちは偶然に同じ高校へと進学することになったのだ。私の中にかすかな光が射したような気がした。
しかし、それは無情にも、入学式から一月も経たないうちに、光は闇へと葬られることとなった。そう、丁度一年前の今日、彼は交通事故で亡くなった。私をかばって。

ざわざわとした雑音にふと意識が向くと、すでに読経が終わり、皆が動き出していた。
「あんた、来てたんだね」
横から声をかけられて、私は振り向く。栞だ。
「まぁ来ないと、本当に最悪な人間になっちゃうもんね」
こちらをさげすむような目。
「こら、栞、なんてこと言うの……!」
近くで聞いていた小雪おばさんが栞を注意する。
「だってそうじゃん。お母さんだってそう思ってるんでしょ? こいつがお兄ちゃんを死なせたんだって」
「いい加減にしなさい!」
ビンタが栞のほうにもろに入り、一瞬その場が凍りつく。栞は今にも泣きそうになりながら、私を睨みつける。
「お兄ちゃんを返してよ……。私許さないから……」
そう吐き捨てると栞はその場を去っていった。
「結衣ちゃん、本当にごめんなさい。あの子があんな失礼なことを……」
「気にしていませんから。こちらこそすみません」
小雪おばさん申し訳なさそうに頭を下げる。いったいどんな気持ちなんだろう。本当は栞の言ったように私を怨んでいるのだろうか。おばさん。おばさんはどう思うの? 私を本当は憎んでいるんじゃないの? 
 私は重たい足取りで部屋を出た。外はこの数十分の間にすっかりと晴れ、生ぬるい春の匂いが立ち込めていた。手に持った傘がなんとも手持無沙汰で仕方ない。お寺を出ると、喪服に身を包んだ人たちがばらばらと歩き出していく。次はお墓参りへと向かうのだ。
 少し遠くに栞の姿があった。なるべく距離をとろう。私は歩くペースを遅める。そういえば、楠田家の父親の姿が見受けられない。というより、私は優斗の父親にほとんど会ったことがないのだ。本当に生きているのか? 離婚? まさかね。
 優斗が眠る霊園はお寺からすぐ近くにあり、ほどなくして到着する。仏壇の前ではお坊さんが再びお経を唱え始め、何人かの人は手を合わせてじっとそれを聞いている。小雪おばさんもその中にいた。栞はただ黙って表情のない顔で仏壇を見ていた。私は集団とは少し距離を置くように遠くから見守っていた。私は手を合わせることもしない。なんて無情なのだろう。しかしありもしない気持ちで祈るより、あるがままで居続けた方がいい。誰もみな、偽善的に振る舞っているだけにすぎないのだ。
 栞が耐えきれずに泣き始める。小雪おばさんは栞を抱きしめて慰めた。私は見ていられなかった。何だか、それを見て冷静でいられる自分が嫌になったからだ。ごめん、本当に。早く終わってほしい。心の声が聞こえる。彼を悼むべき会場でそれを感じるなんて。私の中には、彼の死を冷静に俯瞰してしまう自分と、それを最低だとさげすむ自分が入り乱れている。どっちが本当の私……?

 お経はすぐに終了し、軽い食事会が開かれることになった。しかし、私は当然その会には参加しなかった。小一時間で終わる食事会で皆と何を話せと言うのか。みんなの前で謝罪でもしてみる? 私は優斗にかばわれて生き残った牧野です。そんなバカな。自分の自己紹介を想像して、苦い笑いがこみ上げる。
 帰る途中、楠田家の前を通る。幼馴染だった私たちの家は道路をはさんで斜めに向かい合ったすぐそばだった。嫌気がさして、目をそらす。今日の出来事を思い出す。目頭を押えて泣くのを必死にこらえる栞の姿が目に浮かぶ。あんな風に泣けるのか。自分を心底冷徹だと思ってしまうが、私は誰かを思って泣くという行為自体、ほとんど縁がない。悲しくないと言えば嘘になる。しかし涙を流すという行為に制御がかかってしまうのだ。そもそも人の気持ちが分からないのに誰かのために涙を流すなんて、おかしな話だ。私は悲しんでなんかいないと、そんな自己暗示がかかっているのかもしれない。
「ただいまぁ」
返事はない。玄関にまで大音量の会話が聞こえてくる。また映画でも見ているのか。私は廊下を進み、リビングの扉を開ける。
「お父さん、ただいま」
私の呼びかけに、びっくりとした表情をした父が「おーおかえり」と手を挙げた。
「どうだった? 優斗君に会えたか?」
大音量で見ていた映画をストップして聞いてくる。
「お父さん、やめてよ。そういう言い方」
キッチンの冷蔵庫を開けながら言う。
「でも、まぁ、会えなった、かな」
おっと。この野菜、賞味期限が近いな。
「そう、か。でも大切なんだぞ。しっかり人を思うってことはな」
「じゃあお父さんも会いに行けば良かったのに。映画なんて観ている暇があったらさ」
父の言う奇麗事にはもううんざりしていた。いつも理想論というか、いかにも良い行ないが生きるためには大切みたいなさ。もう、嫌なんだよ、そういうの。父が一周忌の集まりに参加できなかったのには理由があった。最近になって坐骨神経痛に悩まされ、外出を控えていた。仕事もここ何日か休暇をもらって家で安静にしていなければいけない。それを分かっていながらついむきになってしまった。私にも理由があればね……。
「ごめん……。夕飯、七時でいい?」
「おう、頼むよ」
会話が終わると、父は再びリモコンのスイッチを押す。うるさい外国語の会話が部屋中に流れ始める。この音量が映画を楽しむためには必要なんだと。見ていないこっちからしたらうるさいだけだ。
 夕飯の支度を終え、リビングから和室へと移動する。
「ただいま、優斗に会ってきたよ」
襖を開けて和室へ入る。そこに置かれた小さな仏壇に手を合わせる。
「居心地は良くなかったよ。何だか、辛いのに、涙は出てこなくて。優斗に逢えたらなって、少し思ったよ。そっちで優斗に会ったら、よろしくね」
仏壇の中央には小さな写真立てが二つ飾られている。一つは、家族四人、両親と兄と撮った写真、もう一つは優しく微笑む母の写真が飾られている。母の笑顔を見る。彼女が亡くなってから、もう三年が経つ。遠い過去のような、昨日のことのような気持ちだ。あの時でさえ、私は、泣かなかった。我慢していた気もするし、そうじゃなかった気もする。あの頃から、私は自分の感情、心の不確かさを感じている。
「優斗は私を助けてくれたけど、私はまた一人になったよ」
心の声が目の前の仏壇に投げかけられる。思わず振り向くが、誰も聞いていない。リビングからは相変わらずの大音量が聞こえてくる。ホッと胸をなで下ろした。
 優斗に助けられた瞬間の映像が頭に流れる。目の前に迫る閃光、そして耳をつんざくクラクションの音、すべてがスローモーションの中で、身動きがとれない私、そして次の瞬間、目の前の閃光が何かに遮られた。私はトラックにはねられるまでの一瞬で、それが優斗だと認識した。彼が私を抱きしめたことを知った。
 私には理解できない。誰かをかばって死ぬなんてこと。私は自己中心的だと言われたとしても、自分のために生きて、自分のために死にたい。優斗は私をかばった。だから私はここにいる。だがそこは、思った以上に息苦しく、後ろめたい場所となった。栞は私を許さないだろう。私はどうなれば良かったのだろうか。本来であれば優斗が家族と生きているはずだった。
 私はこれから、どう生きれば正解なの?
 優斗、教えてよ……。正解は何? 
近づいてくる足音にハッとする。そして和室のふすまがすっと開かれた。
「結衣、そう言えばこの前言ってた映画のことで……」
「え? 映画? ち、ちょっと待って」
危なかった。もう少しで陰鬱な雰囲気を見られてしまうところだった。軽い咳ばらいをしてごまかす。動揺して本当にむせてしまった。
「おいおい大丈夫か? インフルエンザとかはやめてくれよ」
「大丈夫だよ。ただの咳」
再び仏壇に手を合わせる。
「それじゃあ、もう行くね。おやすみなさい」
母の写真にお別れを言うと、そのまま和室を後にした。

夕飯の時間になり、私は父と二人、食卓に着く。
「今日は光一は来ていたのか?」
「さぁ、どうかな」
ダイニングにある大きめのテーブルに親子二人と、寂しい風景の中、テーブル中央のお新香をつまむ。
「お前なぁ、その他人に興味がないところ、どうにかならないのか?」
「お父さんだってそうでしょ」
部屋にはテレビの音も車の音もない。ただ食器と箸の音だけが響く。
「あいつは、今何をしているのかな」
「お兄ちゃんのことだから、バリバリ仕事こなしてるんじゃない。心配いらないよ」
「あいつのことだからな……。確かに心配は無用だな」
私の兄・牧野光一は私と十歳も年が離れている。成績優秀の秀才肌で、大学も就職先も超一流街道を歩んできた。私とは大違い。そんな兄とも、もうしばらく会っていない。
昔は兄と私は仲が良かった。一方的に私が甘えていただけと言われればそうかもしれない。だが、三年前に母が亡くなって以来、ほとんど絶縁状態になっている。
「なぁ、結衣」
「ん?」
「光一は今でも、その、なんだ、俺たちのこと……」
「分からないよ。お兄ちゃんに聞けば?」
「……」
「別にお父さんのせいじゃないよ。悪いのはたぶん私だから。ねぇ、この話やめよ」
父は目を落として、黙って頷いた。兄が家を出て行ったのは三年前、母が亡くなって間もない頃。就職が決まったことをきっかけに一人で暮らすことを決意したという呈だが、この家で暮らすことに嫌気がさしたのだと思う。去年、優斗が亡くなった日から数週間の間だけは出張の関係で我が家に戻ってきたが、ほどなくして帰っていった。
 だから、今、この家に暮らしているのは父と私の二人だけ。家事は私がしている。正直、この暮らしはもう嫌だった。家庭のアンバランス、幼馴染との別れ、その遺族とのアンバランスの中、綱を渡っている気分だ。一瞬でも気をそらしてしまえば、私は真っ逆さまに落ちていってしまいそうだ。

 しばらくして、夕飯も食べ終わる頃、父が質問をしてきた。
「そうだ、結衣」
「なに?」
「優斗君が亡くなる前にもらったって言ってたお守りはどうした?」
「ああ、そういえばあったね。すっかり忘れてたよ」
優斗が亡くなる前に彼からもらったお守りのことだ。本当なら今日のお墓参りの際にこっそり仏壇に添えて返そうと思っていた。私が持っているより、楠田家の人が持っている方がずっといい。
「今度、お墓に戻してくる」
「楠田さんの家に直接帰してきたらどうだ?」
「無理だよ今さら、栞には合わせる顔もないし」
「まったく……。栞ちゃんか、あの子は元気だったか?」
「うん、制服姿で中学生って感じだった」
「何か話したのか?」
「ううん、何にも」
因縁をつけられたことは言わないでおこう。栞が私に抱いている感情を父は知っている。楠田家とは昔からの親交があったため、小さなころから私たちの関係については見てきている。
「昔からあの子はお前と優斗の関係に焼いていたからな」
父の発言にむせかえりそうになる。
「え? ちょっと笑わせないでよ。ただ嫌われていただけだよ。厄病神って言われたこともあるんだから」
父はハハハと笑った。笑いごとではないのだが。
「そうかぁ、俺には嫉妬してるように見えたけどなぁ」
「もういいって。ごちそうさま。食器片すよ」
私は席を立つと、食器を流しに運ぶ。
「あの子はさ……、私を今でも憎んでる」
タオルでテーブルを拭きながら、小さな声で呟く。本当は言わないつもりだったけど。知らないうちに声に出ていた。
「本当なら、優斗が生きているはずだったんだから」
父は何も言ってこなかった。私のした発言はタブーだ。分かっていても、言うものではない。テーブルを拭きがてら、ちらっと父を見ると、無言で私を見ていた父と目が合った。思わず目線を落とす。
「ごめん、忘れて」
「結衣は、どうして優斗君がかばってくれたと思う?」
「え?」
テーブルを拭く手が止まる。
「分からない、けど」
「もし立場が逆だったら、優斗君のことをかばったか?」
私は、たぶん、彼をかばえない。きっと身体が動かない。人の心配より自分の身の安全の方が何倍も大切、私はそう思ってしまう。
「無理、だよ。怖いし……」
「そうだ、誰だって怖い。でも優斗君は助けてくれた。今みたいな発言をして、優斗君が報われると思うか?」
「……。言うべきじゃなかったね……。ごめん」
私が謝ると、父は大きく息を吐く。
「優斗君は、結衣に生きてほしいと思ったんだろう?」
「分かってる……」
本当は分かったつもりになっているだけ。私は何一つ理解していない。
「もっと人の気持ちに敏感になれ。でないと、大切なものを見落とし続ける人生になるぞ?」
「うん……」
分かってる。そんなことは分かってる。でも、どうすればいいか分からない。だって、私は私で、優斗じゃない。優斗の気持ちなんて、分かりっこないんだ。
みんなそうだ。口では「わかる」なんて誰にでも言える。本当は分かっていなくてもだ。その場しのぎの回答に決まってる。うんざりなんだ、そういうの。
でも、父の指摘は的を得ている。私に問題がないと言えば嘘になるのだ。時々、自分が人間として大切なものを持ち合わせていないんじゃないかって思う。そういう時だけは、周りにいる『人思いな人間』を羨ましく思う。何が正しいのか分からない。全く分からないよ。優斗に助けてもらったのに、何も感じていない自分がいる。私は非情な性格なのかな?
私は食器を洗い終え、その場を後にした。その日はもう父と言葉を交わさなかった。大音量の映画の音はもう聞こえてこなかった。

 それから時間は流れ、数週間が経過した。父とはあの後溝ができることもなかった。しかし、私の日常は淡々と過ぎっていった。優斗から預かったお守りは押し入れ内の段ボールの中に見つかった。少し埃をかぶったそのお守りには『諸願成就』と記されていた。埃を払うと、きれいな藍色の生地が顔を出す。『諸願』の意味が分からず、携帯で調べてみると、『色々な願いが叶うこと』という説明がされていた。珍しいお守りだと思う。どうして優斗はこれを私にくれたのか、皆目見当もつかない。
お守りは、中学三年の最後の春休みに優斗から渡された。「これ、持ってて」みたいな軽い感じだった。彼は、それを渡した後、何かを言っていた気がする。何を言っていたのかはよく聞こえなかった。私は聞き返さなかったし、彼もその後は何も言わなかった。

 五月五日、世間はゴールデンウィークで浮かれているが、私にとっては何も変わらない。父が家にいる時間が長引くぐらいしか日常は変わらない。至って退屈な休みだ。一応、入っているテニス部も、機能していない。顧問不在(居ていないような存在)、経験者不在。無法地帯のうちの部活はただのたむろする部活と化していた。だから私はいわゆる帰宅部。そして帰宅部にはゴールデンウィークにやることもない。父は完全にインドア派だし、遊ぶ友達も私にはいない。他人に興味を示さない私に、友達と呼べる存在はいないに等しい。幼いころから人間関係が苦手で、友達は私にとって面倒な存在だった。いや、本当は、友達が欲しかった。でもどうすればいいのか分からなかった。空気は読めないし、場を白けさせることに関しては天下一品。次第に、苦しむぐらいなら現状維持で十分。そう思うようになった。だから、私にとって友達と呼べる存在は、優斗だけだった。彼の存在に、私は救われてきたと思う。彼といると楽しかった。私の人生で数少ない、貴重な感情だった。だがその感情は一年前の事故と共に失われた。私はまた、一人になったのだ。

 晴天の中、一人、霊園を歩く。広い霊園を歩き、優斗のお墓へと向かう。途中、掃き掃除をしているお坊さんに会釈を交わしながら、優斗のお墓の前に到着した。
ポケットに入ったお守りを手に取る。これを返してしまえば、優斗との関係が全て亡くなるような気がした。でも、それでいい。もう忘れてしまおうと考えていた。冷徹な自分と、それを咎める自分との間で苦しむぐらいならいっそのこと全てを忘れて楽になった方がいい。さようなら、優斗。
 お守りをお墓に置こうとした手が止まる。握りしめたお守りに違和感を感じた。クシャッと中で何かが音を立てた。紙? もう一度、握りしめると、確かにクシャリと紙のようなものが折れ曲がる感覚がした。しかもそんな頑丈な紙ではなく、ノートの切れ端のような柔らかい材質。どうして今まで気がつかなかったのだろう。少し罪悪感を感じつつ、私はお守りの紐を解き、中を覗いた。
やっぱりだ。中には罫線の入ったノートの切れ端が二つ折りにされて入っていた。そっとそれを掴み、取り出して見る。なんてことない、ノートの切れ端。何だろう? 私は、二つ折りにされたそのノートを、そっと開いてみる。
『辛い時は、これを俺だと思って! 優斗』
何だこれは。思わず少し笑ってしまいそうになる。「これを俺だと思って」だなんて、面白いことを考えたものだ。少し晴れやかな気持ちになる。最後の最後にこんなメッセージを受け取るとは思わなかった。まさにサプライズ。分かった、その気持ちは受け取っておくよ。
ノートの切れ端だけ、私はポケットにしまい込んだ。しかし、自問自答が始まる。何を考えているんだ私は。せっかく全てを忘れるためにここへ来たというのに。やはり、私自身、どこか拭いきれない気持ちがあるのかも知れない。最後のサプライズを見逃さなかったのも何かの運命。最後のチャンスではある。だが、次の瞬間には、私はポケットにしまったはずのノートの切れ端を再び握りしめていた。もう、終わりにするんだ。その紙切れを二つに折りたたみ、お守りの中に戻す。楠田家の人がこれを回収すれば、お守りが私への贈り物だってことがバレてしまうけど、そうなっても構わない。最後に優斗の存在を感じられただけで充分だ。もっと早く気付いていたら、ここへは来れなかったかもしれない。気づいたのが今で、よかった。
「気持ちだけ受け取っておくよ。これは返すね」
お守りをそっとお線香の隣のスペースに置いた。そう、これでいいのだ。
 さようなら、優斗――。
 引き返そうとした、その時だった――。
 不意にめまいに襲われ、私はその場でバランスを崩し、倒れてしまう。何これ? どういうこと? 何かの病気? ぐるぐると回る視界の中で、助けてくれる人を探すが、広い霊園に人の気配はない。もうダメ……。朦朧とする意識の中、視界がぼやけていく。そして、強い光が視界を覆い尽くした。
なに……、これ……? その光の中で、意識は次第に薄れていき、私は完全に意識を失った――。

     2

 遠くで私を呼ぶ声が聞こえる。結衣、結衣、と誰かがしきりに私のことを呼んでいる。私を呼んでいるのは誰? 懐かしい声のような、最近聞いたような声。私の意識は暗闇の中。ここはどこ? 意識がはっきりしない。結衣、結衣。呼ぶ声は続く。誰の声なのか、分からない。ただしきりに私のことを呼んでいる。そろそろ返事をしてあげないと。もう少し待ってて。今行くから。
 意識は急速に覚醒へと向かい、私の意識はこの世界へと帰ってくる。ぼんやりとした景色は次第に鮮明に彩られていく。ここは、どこ? いったい何が? 目の前にいる人物が私に向って何かを話し掛けてきている。しかし寝ぼけているのか、頭に何も入ってこない。ここは、見慣れない景色? いや、よく知っている景色? 私はなんでここにいるんだ? 私は……。
 そしてぼんやりしていた思考は絡まった糸がほつれるようにスルスルと解けていった。私は、優斗のお墓にお守りを返しに行った時に気を失った……!
 そう認識した瞬間、目の前の光景との繋がりが見え始まる。目の前にいるのは、私よりも年下の女の子。この子の名前は、楠田栞。栞だ。彼女がどうして私を? そうだ、きっとゴールデンウィークのお墓参りに来たとき、倒れている私を発見して、ここに連れてきたんだ。じゃあここは、どこ? 虚ろな意識で、辺りを見る。そうだ、ここは懐かしい場所。優斗の家ではないか。2階が吹き抜けになっている広々とした内装。ログハウスのような一軒家、天井に取り付けられて回っている羽、ここは間違いなく優斗の家。そして、ここはリビングルームだ。ということは……。
 栞は私が意識を取り戻したことが分かると、リビングを出ていった。後ろ姿をまじまじと見る。あの栞が、私を助けた? こんなことも、あるのか……。去っていく彼女の後ろ姿に違和感を覚える。どこかで見た時と違う。もうすぐそこまで出かかっている。そうだ、ポニーテールじゃない。少し髪を切ったようだ。私はソファに横たわっていたようだ。身体を動かすと、あちこちが痛い。ゆっくりと起き上がる。
言いようのない、違和感が身体に走る。思ったように動かない。妙に重たいその身体を持ち上げ、ソファに腰掛けようとしたその時だった。
「え……?」
身体を起こす際に、置いた右腕が視界に入った。またしても違和感。これは、何? 言いようもない気持ち悪さに吐き気を催す。右腕、これは……、私の腕? いや、違う……。 よく見れば見るほど、その腕はごつごつとしていて、血管がところどころ浮き上がり、私の良く知る私の腕より一回りは大きい……、まるで男の人の腕のように……。言葉が出てこない。これは、いったい何なの? 左腕を見る。全く同じ違和感。
それは、私のものではない誰かの腕だった――。
 廊下をドタドタと駆けてくる足音、開く扉。再び栞がリビングに入ってくる。栞、これはいったい……。
「お母さん、ほら目を覚ましたよ」
栞が廊下を振り向くと、今度は小雪おばさんが心配そうな表情でやってきた。そして駆け寄ってくる。
「優ちゃん! 大丈夫だった? 良かったぁ、目を覚まして」
え――? 今、何て言った――? 思考が停止する。よく聞こえなかった。小雪おばさんは今何て言った――?
「お兄ちゃんはそんなに軟じゃないって」
お兄ちゃん――? 言葉が出てこない。この人たちはいったい何を言っている。違う、私は、優斗じゃない。あなたのお兄ちゃんでもない。うそだ、うそだよ、違う……!
全身を見る。肩、胸、脚、足――。一瞬の間に、彼女らの言っていることの意味を把握する。きっと、この時の私の表情はすごく怖いものになっていたに違いない。
 反射的にその場を立ち上がる。
「どこいくの?」
小雪おばさんの言葉なんてほとんど耳に入ってこない。廊下をドタドタと音を立てて歩く。もう何も考えられない。
「ねぇ、どうしたの?」
「顔を洗いたいの」
自分の声じゃない。これは、この声は……。もう頭がおかしくなりそうだった。
「洗面所はこっちだよ。やっぱりおかしいよ。頭でも打った?」
栞の言うことを無視して、示された洗面所へと直行する。入るとほぼ同時に照明を付け、鏡に向き合う。スローモーションのように、一蓮の動作が流れる。部屋が眩しく照らされ、私の表情、身体、すべてが反射され、私の目に飛び込んでくる。そこに、映し出された姿は、間違いなく――。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
鏡に反射した栞と目が合う。きっとものすごい形相をしていたのだろう。栞の不安そうな表情がひしひしと伝わってくる。
「お兄ちゃん……?」
栞の声など、届いていなかった。私は、私の姿を見ている。でも、そこに映っているのは私ではなかった。この人は、誰なの――? 
そこに映っていたのは、紛れもなく楠田優斗だった――。私は? 牧野結衣はどこ?  恐る恐る、顔に触れる。この骨格、この肌ざわり、何もかも違う。そんなはずはない……。夢? そうだ夢だ。夢で夢と気がつくことは珍しい。よく気付いた。さぁ、頬をつねるんだ。手の僅かな震えを抑えるように、人差し指と親指で思い切り頬をつねる。
「っつ……!」
頬は私の期待とは裏腹に、痛みを発する――。バカな、そんなバカな。反射的に、顔を両手でひっぱたく。覚めて! 夢なら覚めて! 早く! これでもかというほど、何度も自分にビンタをくらわせる。だが、無情にも張り裂けそうな痛みだけがいつまでも残った。
「お兄ちゃん! どうしたの!? 止めなって!」
栞に腕を抑えられる形で何とか動きが止まる。両方の頬にヒリヒリとした痛みが走る。鏡には頬を赤くは腫らして涙を流す、哀れな『優斗』の姿が映し出されていた。
 私は栞に支えられるようにしてリビングへ戻った。その足取りはまるで、死刑台に送られる罪人のように重く、絶望に満ちたものだった。
私こと牧野結衣は、さっき目覚めた瞬間から、楠田優斗の身体になっていた――。私の身体は正真正銘、誰が見ても『楠田優斗』その人だ。私の心があっても、私は存在しない。そして、一年前に亡くなったはずの優斗が、生きている……。
そして、思考を超越したこの世界は、夢ではなかった――。

午後六時半――。目覚めてから二時間ほどが経過した。この二時間、私は誰とも口を利かなかった。一人にしてほしい。そう優斗の家族に伝え、広いリビングで一人、一人きりにさせてもらった。
あれから、色々なことを考えた。どうしてこうなってしまったのか。ここはいったい何なのか? 現実なのか、夢なのか、あるいは妄想なのか。しかし、考えれば考えるほど、思考が空回り、やがて停止に至る。頭がおかしくなりそうだ。既に頭がおかしくなっているのかもしれないとさえ思う。だから考えるのをやめた。これ以上考えれば、きっと本当に頭がおかしくなってしまう。いまここで起きていることだけを淡々と、あるがままに受け入れることだけを考えよう。
私は、なぜか優斗の身体の中に入っている。しかも『優斗が生きている』という、あり得ない状況の中でだ。そして、最もショックだったのが、これが夢ではないということ。先ほど、栞を止められるまで、ずっと自分のほうを叩いた。あの痛みは本物。ここは紛れもない現実として成立している。
他にこの世界を判断できる材料があるとすれば、外の景色だ。桜がところどころに舞っている。ということは、今は春先、ということだろうか? おかしな話だ。私がいたのはゴールデンウィーク。桜なんてとっくに散ってしまい、夏に向けて木々は緑を育てている頃のはず。意味が分からない。だが、なぜ桜が舞っているのかということはあえて考えない。ここは私が知っている現実ではない。だから、桜が舞っていようが、雪が降っていようが、今さら関係ない。考えすぎてはいけないのだ。
コンコンと廊下の扉からノックがあった後、キィとゆっくりと扉が開いた。
「お兄ちゃん、もう大丈夫?」
扉の隙間から栞がこちらの様子を窺ってきた。私は必死に笑顔を作って頷いた。きっと笑顔という笑顔になっていなかっただろうけど。
「本当に大丈夫?」
「平気だよ」
喉の奥から脳に響くこの声は、私のものではない。完全に優斗の声。自分が自分ではない感覚とはこのことだ。というより自分ではないのだが。
「栞、聞いていい?」
「ん? なに?」
丸い目をこちらに向けてくる。こんな何の憎悪も抱いていない、純粋な表情の栞を初めて見た気がする。ああ、優斗にはこんな風に接していたのか。
「なによ、そんなにまじまじ見てきて、気持ち悪いなぁ」
恥ずかしそうに苦笑いを浮かべている。少しだけ微笑ましく思えた。
「いや、その、私……、じゃなくて、俺に何があったの?」
危うく自分の言葉で話してしまうところだった。おかしな言動をしすぎれば、冗談抜きで精神科に送られてしまいかねない。今は優斗になりきらなければ。
「何も覚えてないの? お兄ちゃんは霊園内で倒れてたんだよ?」
「本当に……? それで、どうやってここまで?」
「霊園に来てた人が警察に連絡してくれて、警察から連絡が来て、お母さんが車で向かいに行ったんだよ。顔色もそんなに悪くないから、家で様子見ますって」
どういうことだ。ますます分からなくなって来る。だって、霊園にいたのは私のはず……。
「それで、霊園で何してたの?」
「あ、ああ。何かちょっと軽い散歩したいなと思って」
とっさに嘘を付く。そんな理由、こっちが聞きたいぐらいだ。
「散歩を? 何でお墓で? 頭おかしくなっちゃった?」
「そうじゃなくてさ、意外とお墓のある場所って心が落ち着くっていうかさ」
「え~、なにそれ」
「そうだ、今度一緒に行かない?」
「あたしは絶対に嫌だよ」
「そんなこと言わないでさ」
「もう、いやだってばぁ……! お母さん、お兄ちゃんがー……!」
栞は逃げるようにリビングから出て行った。なんとかごまかせたようだ。優斗は霊園に倒れていたのか。ということは、『私』は?
『私』はこの世界にいるのだろうか。手掛かりはないだろうか。そうだ、携帯……! ポケットに手を入れる。しかし、優斗のズボンのポケットには何も入っていない。この世界にいる『私』は……。もはや自分の存在すら疑わしくなる。私はこの世界に存在しているのだろうか? 牧野結衣の存在をいち早く知りたい。彼女は、いや、自分は今、どこで、何をしているのか。
すぐさま、廊下へ出ると、階段を見つけ駆け上がる。優斗の部屋は二階にあるはずだ。そこに彼の携帯があれば、それを頼りに私の所在が分かるはずだ。廊下で小雪おばさんと栞と出くわす。
「優ちゃん、もう大丈夫なの?」
「聞いてよお母さん、お兄ちゃん散歩しに霊園に……」
「ごめん、夕飯後で食べるから、置いといて」
「え?」
二人を交わすように階段を駆け上がる。下から心配そうな二人の会話が聞こえてくる。しかし今はいち早く『私』の存在を特定する必要がある。そして自分自身と会わなければならない。二階の部屋を片っ端から開けていく。ここは違う、ここも違う。そうこうしているうちに、優斗の部屋らしき部屋が見つかった。扉を開けたとたんに見えた勉強机、勉強道具や漫画の束、スポーツ選手のポスター、趣味でやっているギターが立て掛けてある。きっとこの部屋で間違いない。私は部屋に入り、鍵を閉めた。そうだ。初めからここへ来るべきだった。深いため息がこぼれる。ようやく一人きりになれてホッとする。携帯はどこ? おそらく机周辺にある。私の直感通り、机の携帯ホルダーの中に立て掛けてあった。
 携帯の電源を入れる。パスワードの設定はされていない。危ないところだった。トップ画面から電話帳へと向かう。電話帳を下にスライドさせていき、「あ行」が流れ、「か行」、「さ行」と、ゆっくりとスライドさせていく。そして「ま行」に入る。
「あった!」
『牧野結衣』は「ま行」の一番最初にしっかりと登録されていた。よかった。私はこの世界にも存在する。一早く会いたい。『私』自身に会って、私がここにいることを伝えたい。いや、本当にそれが伝わるだろうか。それこそ、精神的な病気の疑いをかけられるかもしれない。でも今は迷っていられない。電話か、メールか。悩んだ末にメールを打つ。土壇場で怖気づいた。さすがに電話は怖い。メール画面を開き、アドレスを探そうと切り替わる画面を見ていた時、飛び交う文字の違和感に、動かしていた指を止める。受信ボックス。相手は牧野結衣。私からのメール文だ。
『遊べなくなったの? 春休み最後なんだから、都合付けられない?』
この文には、覚えがある。これは確かに私が優斗に送った文。そのメールを送ったのは、一年前――。中学三年最後の春休みに二人で遊ぶ約束をしていたのだが、優斗は約束の二日前にドタキャンをしてきたのだ。理由は全く教えてくれなかった。
受信日時は、二〇一五年三月二一日。そう、この日だ。この日……? おかしい、受信日時には『一昨日』と記されている。それを見た瞬間、意識が遠のきそうになる。
このメールを私が優斗に送ったのは一年も前のこと。それなのに携帯の受信履歴には一昨日と書かれている。ということは……。途端に私の手は、生気を失ったかのように、力が入らなくなり、携帯は床に落ちた。
桜の舞う景色、髪型を変えていた栞、生きている優斗、一年前の三月二一日のメール文――。全てがリンクする。私は、一年前に、彼の亡くなる数週間前に、来てしまったということだ――。

 私は『私』にメールを送った。『大丈夫?』と短いメールを一通だけ。何と送ればいいか分からず、そんな文を打ってしまった。とりあえず返信が来るのを待つことにして、私は部屋中を見て回ることにした。内心、悪いと思いながら、分かる範囲で情報を収集したかった。ごめん優斗。しかし、少しばかり部屋を物色してみたが特別発見できたことは何もなかった。やはり分かることといえば、今いるこの世界が私のいた世界の一年前であるこということだ。カレンダーは一年前の『二〇一五年』のものだ。この世界が一年前と同じであるなら、優斗は今から数週間後、四月一二日の日曜日に、トラック事故に巻き込まれて亡くなる。私が彼の中にいるということは、彼の死が、私自身の死を意味しているということになる。それだけは何としても避けなくてはならない。あの日、外出をしなければ事故も起きないはず。大丈夫だ。
 目の前の携帯が振動し出した。メールではないようだ。着信? 『私』からか? 携帯画面を見ると、『牧野結衣』という文字が表示されている。私だ……! どうする? 出るか出ないか。着信は止まらずに鳴り続けている。どうする? 出てどうする? 何をどう話せばいい? 怖い。プッシュアイコンを押そうとする指が震え、あと数ミリのところで指が動かない。もう少し、あともう少しだけ待って、あと一〇秒間鳴り続けたら出よう。スマホを持ったまま、心の中でカウントする。一〇、九、八、七、……、数えながら流れる時間が短いような、とても長いような、何とも説明のつかない緊張感に包まれる。五、四、三,二、一……。私の心配をよそに、携帯は鳴り続けている。もう一分近くなり続けている。まるで私が出ることを分かっているかのように。仕方がない。恐る恐る、プッシュアイコンをタッチする。スマホを耳にそっとあてた。
「……もし、もし」
耳の向こう側、電話の反対側には私がいる。牧野結衣がいる。『私』はどんなことを話す……?
「もしもし? 優斗……?」
電話の向こうの『私』が聞いてくる。ぎこちないしゃべり方だが、これは紛れもなく私の声だ。背筋が凍るほど、緊張する。どうする……?
「うん……」
「本当に……?」
「え……?」
「本当に、優斗なのか?」
「ど、どういうこと……?」
携帯を持つ手が冷や汗で滑る。どういうことだ……。『私』が私の正体を知っているのか……? いや、まさか……。
「笑わないで聞いてほしいんだけどさ」
「うん……」
一拍の間をおいて電話の向こうの『私』が口を開いた。
「俺は、楠田優斗なんだ――」

 まさかの展開に開いた口が塞がらない。『私』は自分を優斗と名乗った? でも、私だったら、何があってもそんな嘘を言わない。しかもこのタイミング。ということは本当に……?
「それで、君は本当に、優斗なのか……?」
この話し方は、私ではない。懐かしい口調が蘇る。
「違うよ……。わたしは、結衣……、牧野結衣なんだ」
「え……? 本当か……!? お前、結衣なのか!?」
自分の声なのに、優斗の口調だ。少しおかしい。
「……う、うん」
「嘘だろ!?」
こっちが聞きたい。本当に優斗なの……!?
「う、嘘じゃないって。そっちこそ嘘ついてないよね。『私』じゃないの?」
「違う違う! 正真正銘の俺だって!」
信じられない……。何だろう、この感じ。自然と笑みがこぼれそうになる。しばらくぶりのこの感じは何だ。頭がおかしくなりそうな状況だというのに、何だか懐かしい。そしてストレスに揺られていた心が、少しだけ治まる。声は私なのに、そこに優斗がいる――。
あり得ないことが起こっている。到底信じられない。でも、それでも電話越しに感じる彼の息遣いに、私は、安堵と嬉しさを感じずにはいられなかった。
「ねぇ、これから会えない? 分からないことが多すぎて」
「そうだな、俺も今の状況が全く分からない。よし、こうしよう……」

私たちは近所の公園に集合することにした。小さい頃、よく遊んだ公園。徒歩三分とかなり近場にある広い公園だ。優斗との電話を切ると、身自宅をせずに階段を駆け降りた。早く会いたい――。その一心だった。ねぇ、優斗、どうして生きてるの? この世界は何? 次々に浮かんでは消える疑問。優斗はそれに答えをくれるだろうか。
時計は七時を過ぎていた。リビングでは食卓の和やかな雰囲気が伝わってくる。栞の笑い声、そこに小雪おばさんの笑い声が重なる。優斗の日常はこんな和やかだったのか。ナイキのスニーカーを靴べらを使って履き、つま先をトントンと叩く。ずいぶんと大きい靴だと思ったが、私の足がそもそも優斗のサイズなのだから、そのスニーカーもぴったりと足に合った。
 玄関の扉に手を掛けようとした瞬間に、ドアレバーがタイミングよく下がった。扉が開き、スーツ姿の男性が玄関に入ってくる。
「おう、優斗、どうした? どこか行くのか?」
「え、あ、うん。ちょっとそこまで」
この人は、優斗のお父さんか?
「なんだせっかく早く帰ったんだから、一緒に夕飯食べないか?」
「すぐ帰るから」
「つれないなぁ」
私は彼を振り切って足早に外へ出た。今のが優斗のお父さん。あまり見たことがなかったけど、何となく面影が優斗に似ている。うちの父に比べてすごく若々しく見えた。今日は日曜日なのに、スーツ姿だったということは、仕事? 優斗のお父さんのことはあまり聞いたことがなかったけど、忙しい人なのかもしれない。 
 私は早歩きで公園に向かった。優斗が待っている。一年前に亡くなったはずの彼が目と鼻の先にいる。あれは『私』の演技なんかじゃない。優斗が『私』の身体の中に入っているんだ。原因も方法も全然分からないけど、とにかく優斗に会える。今はそれだけでいい。
三月の肌寒い夜の道をひたひたと歩く。夜桜が街頭に照らされて儚げに散る中を、一歩一歩踏みしめて歩いていった。

静かな空間

静かな空間

 公園に到着する。広い公園には誰もいない。まだ優斗は到着していないようだ。目の前のブランコが懐かしく思えて、腰を下ろす。誰もいない日曜日の夜の公園。どの家族もみな食卓にいるのが普通だろう。良い静けさだ。私は昔から静かな空間が好きだった。皆がワイワイと話している空間も、騒音のする都会の雑踏も大嫌いだった。それ自体が嫌いなのか、そこに入れていない自分の願望の裏返しなのか。うまく自分では表現できないけど。こういった雰囲気は落ち着くのだ。夜空を見上げてみる。空は何も変わらない。この景色も、この空間も、何一つ変わったところはない。だからこそ、いま自分が優斗の身体となってここにいることが理解できない。
いったい、どんな科学を使えばこのカラクリを解けるというのだろうか。きっと全物理学者が血眼になって研究に身を投じるだろう。現実問題、私がおかしいと言われて精神科に送られて、変な新興宗教の材料として使われたり、オカルト研究家たちの間でもてはやされるのが落ちといったところだろうか。
 私は自分の身体を見る。この手、この足、すべて優斗のもの。服も、髪も、肌の感覚も、何もかもが優斗だ。まだ慣れない。まるで自分はテレビの外にいて、優斗というキャラクターをコントローラーで動かしているみたいだ。だが、ここはゲームの中でも夢の中でもない。痛みがある。心も痛い。三月の夜はまだまだ冷える。私の五感が機能している以上、私はリアルの世界にいるのだ。

 トタットタッと誰かが走ってくる音が聞こえてきたかと思うと、『待ち人』はようやく私の前に姿を現した――。その表情、しぐさ、恰好、あらゆるものが、私の最もよく知る人物そのものだった――。向こうも、こちらを見た瞬間、私と同じようなリアクションを取った。開いた口がふさがらず、まん丸く見開いた目を何度もこすっては、私を凝視している。
「久しぶりだね」
「お、おおう」
『私』はぎこちなくおどける。本当にこれが優斗……?
「本当に優斗なの? どう見ても私にしか見えないんだけど」
優斗は恐る恐るブランコに乗っている私に近づいてくる。その姿は自分自身。私って、こんな風に見られてたんだ。普段は絶対に見ることができない自分の姿につい見入ってしまう。
「見た目は結衣だからな。そっちこそ、本当に結衣なんだよな?」
「うん、信じたくないけど、私、牧野結衣だよ」
優斗の頬が緩む。私の言葉で本当に私が『牧野結衣』だと感じたのだろう。私も『私』を優斗であると確信した。しゃべり方も表情も優斗だ。まるで、ものまね芸人を見ている気分だ。見た目は違くても、しゃべり方、挙動が似てしまえば本人に見えてきてしまう。
「隣、座るぞ」
優斗は、平静に振る舞い、隣のブランコに座った。ゆっくりとブランコをこぎ始めた。
「で? これはいったい何なんだ?」
「私に聞かれたって、困るよ」
「どうしてこうなったのか、分からないのか?」
「そうだよ。気がついたら、優斗の身体に意識があったんだから」
しばらく考え込む優斗。私もブランコを漕ぐ。
「なぁ、結衣。おかしな質問かもしれないけどさ」
「何?」
「俺の記憶が曖昧なんだよ。結衣の身体になる前の記憶が薄いんだよな。俺と結衣は入れ替わる前、何をしてたんだ?」
「え?」
どう話せばいい。まさか、自分がトラック事故に巻き込まれたことを知らないとでも言うのか?
「優斗、もしかして、自分がどうなったとか知らない……?」
「え、そうだな、思い出せない」
自分が亡くなったことなんて誰も知ることはできないのかもしれない。
「じゃあ、順序立てて話すね。私は一年後の世界から来たの」
「え? な、何だそれ!?」
漕いでいたブランコを止めて優斗は唖然とした目で私を見る。
「正確に言えば、一年後の五月初旬から来た」
「どうして?」
「分からない。優斗のお墓参りに行って、優斗からもらったお守りを仏壇に返したら気を失って、気がついたらこっちの世界にいた」
私の発言に、優斗の表情が濁る。
「仏壇……?」
言い掛けた優斗は、何かを思い出したかのようにハッとする。
「俺は……死んだ、のか?」
緊張した表情を向けてくる。
「う、うん……。思い出した?」
人間は死を経験することはできないと聞いたことがある。死は世界との断絶を意味するからだそうだ。自分が世界からいなくなれば、経験という概念すらなくってしまう。だから人は自分が死んだことを認知できない。
「ああ。原因は、事故か……?」
「うん。私をかばってトラックにひかれたことが原因だよ」
「そう……か」
がっくりとうなだれるわけでもなく、優斗は地面を見つめていた。かける言葉も見つからない。私は何と言えばいい? 助けてくれてありがとうと言うのか? せっかく助けてくれたのに、私は感謝の一つもできないと言うのか? 分からない。私には何も言えない。

私と優斗はその後、互いに知っていることを話し合い、お互いの共通認識を増やしていった。時間は流れ、時刻は八時を回ろうとしていた。不思議だった。優斗ともう一度こうして話していることを、楽しんでいる自分がいる。緊急事態だというのに。信じられない現状の中で、私は冷静に、この世界で彼と話ができていた。もはや感覚の領域だ。何も臆することなく、純粋に今この時を、優斗との会話に注ぎ足すことができている。一年ぶりの優斗は、何も変わっていなかった。
「じゃあ、もうすぐ、俺は結衣をかばって死んじまうわけか」
「うん。高校が始まってすぐ、四月一二日の昼間」
「このまま行くと、結衣が死ぬことになるな」
「そう、なるね……」
「その日、俺たちは出掛けていた。なら、出掛けずに家にいよう。そうすれば絶対に事故に遭わない」
私は頷く。この世界とは何か、そこから抜け出す方法は何か。数多疑問はあるが、そんなことよりもまず優斗の死を回避しなくてはならない。何よりも私はまだ死にたくない。
「俺の提案だけど、どっちかの家に二人でいた方がいいと思うんだ」
「そうだね。私もそう思う」
「どっちの家に集合するかだな」
私は考えた。優斗に私の部屋はすでに見られている。もうそこに関しては仕方がない。ただ、あの日、兄が出張関係で久しぶりに家に帰ってくる日だった。私は合わせる顔もなく外出していたのだ。兄と私の間にできた溝のことを優斗は知らない。それを知られたくはなかった。
「優斗の部屋、楠田家に集合しない? その日は優斗の身体で外に出ること自体危ないわけだし、私の身体なら事故に遭わないだろうから」
「確かにな。分かった。当日、なるべく早く楠田家に向かう」
「うん」
 優斗との話し合いで分かったことは、二人ともどうしてこの世界に入れ替わった状態でいるのかを分からないということ。そして戻り方も今後取りうる行動も全く分からないということだった。

あの日、優斗が亡くなった四月十二日、私は家に兄が帰ってくることを分かっていて、居心地の悪さを感じ、優斗と遊ぶ約束を取り付けたのだった。午前中は雨が降っていたにも関わらず、優斗は誘いに乗ってくれた。優斗自身も丁度いいと言っていた。遊ぶといっても、テーマパークへ行くわけでも、ショッピングやグルメを堪能していたわけではなく、ただ単に地元をぶらぶらと歩いて回っていただけだった。
事故は何の前触れもなく起こった。お昼ご飯をファストフード店で済ませた後、優斗に会計を任せて私は先に店を出て、少し歩いていた。雨が上がり、太陽が雲の切れ間から顔を出していた。歩く私の目の前には青信号がついている。そこまで広くない見通しの良い交差点だった。まだ渡れる。でもさすがに渡ってしまうのは優斗が可哀想だと思い、待つことにした。だが振り返ると、優斗はこちらに駆けてきていた。これなら渡ってしまっても余裕があるだろう。『ほら、早く』私は優斗が近づくのを待って、後ろを振り向いたまま信号を渡りだした。振り向きざまに信号を確認する。信号はまだ青のまま、点滅すらしていない。余裕だった。しかし、私の視界には、トラックが見えていなかった――。
「結衣!」と叫ぶ優斗の声――。私は振り返る。そして、目の当たりにした。スローモーションのように私に向かって近づいてくる大型トラック。蛇に睨まれたように動けない私に、トラックは猛スピードで突進してくる。だが、最後の最後、ぶつかるコンマ何秒前に私の視界は遮られた。それが優斗だと感覚的に把握したのと、トラックが私たちにぶつかり、意識が途絶えるのは、ほとんど同時だった。
後で聞いた話では、ドライバーは居眠り運転をして交差点に入ってきていた。そのドライバーも、違法で長時間労働をさせていた運送会社も罰せられた。

 「優斗はさ、どうしてあの時、私を助けてくれたの?」
私はその質問を投げかける。もう二度と聞くことはできないと思っていた質問だ。それに、最初に会えたこの機会に全てを聞いておきたかった。
「どうしてって言われたって、あの時の記憶なんてほとんど憶えてないからな」
「じゃあ、私が今トラックにひかれそうになったら、かばってくれる?」
「うん、かばうと思うよ」
優斗のそのあっさりとした回答に私は驚きを隠せなかった。
「どうして? 死ぬのが怖くないの?」
「人を助けて死ねるなら本望だね」
毅然とした態度で優斗は言った。その目に濁りも迷いもない。彼は本心を言っている。
「ましてや、助ける相手が結衣だろ? 迷う必要なんてない」
その言葉に一瞬ドキッとする。
「そう、なんだ。優斗……」
「何?」
「ううん、何でもない」
私はそれ以上のことは聞けなかった。優斗にそう言ってもらえて内心嬉しかったが、それ以上のことを聞くのを止めた。助けられたことに対して、感謝というものをうまく持てていない自分がいることを悟られることが嫌だった。優斗に申し訳ない。彼は命の恩人なのに、何て酷いことだろうと思った。
公園を風が通り抜ける。寒い。思わず身震いをし、軽い咳が出た。
「もう遅いし、帰ろうぜ」
「そうだね」
 私たちはブランコを降りると、もと来た道へ引き返す。時刻は既に八時半を回っていた。ずいぶんと長く話していたようだ。隣で立ち上がった優斗が「痛てててっ」とお尻をさする。自分の身体を他人が触っている。もちろん自分で触っているようにしか見えないが。嫌だったけど、身体が入れ替わっている以上、自分の身体に触れられることぐらいで文句を言っていられない。長時間座っていたのだから仕方ない。それに引き替え、優斗の身体は、頑丈と言っていいだろう。長時間固いブランコの上に座っていたにも関わらず、全く痛くない。さすがだ。
「これから、どうしよう?」
私たちはすぐそこにある家を前に、ゆっくりとした足取りで歩く。
「そうだな、とりあえずはうまくやろう。帰れる方法を探しながら」
「うまくって?」
「演技に決まってるだろ? 二人して病院に送られたいのか?」
「そ、そうだね」
「それに……」
「それに?」
「それに、いや、何でもない」
優斗は何かを言いかけて止めた。優斗にも何か言いづらいことがあるのだろう。
「そう。分かった、それじゃあ」
「おう、連絡するよ」
私たちは手を振り別れた。別れると言っても、互いの家はすぐそこにある。危うく間違えて自分の家に帰ろうとしてしまった。私の今帰るべき家は牧野家ではなく、楠田家なのだ。鍵を差し込み、ひねる。わずかに違う、鍵の感覚。ここは私の家ではないけど、やるしかない。帰る方法が見つかるまで、演技を通してやる。私は扉を開き、楠田家に帰った。

     3

 母は昔から病弱だった。身体が弱いなか、家事を毎日こなしながら企業で働く、スーパーウーマンだった。毎朝、誰よりも早く起き、洗濯物を干し、家族の朝ごはん、お弁当、夜ごはんの支度をしてから仕事へ向かう。夜遅くに帰ると明日のご飯の下ごしらえをして仕事の準備をして眠りに付く。それを私が小さなころからずっと続けていた。その影響か、突然体調不良で倒れることもしばしばあった。母はいつも私に笑顔を向けては「大丈夫」と楽天的に振る舞った。私はそんな彼女の振舞いにずっと安心していた。しかし、三年前、私が一四歳の時に、母は病院に入院した。私は夏休みの真っ最中で、ソフトテニス部で汗を流していた。
いつものように練習に集中していた時、顧問の先生からまじめな顔で呼び出された。家族からの電話が入ったという伝言。職員室に呼ばれた私は汗だくの中、受話器を渡された。
「もしもし?」
「結衣、結衣か?」
電話の相手は父だった。声の調子で、何となく嫌な報告だと感じた。
「さっき、母さんが倒れて病院に運ばれた」
「お母さんが……?」
母が病院に? 倒れたって、どういうこと? いつもみたいに働き過ぎで倒れたの?
「落ち着いて聞いてくれ。まだ、母さんの意識が戻ってないんだ」
「え……?」
私の言葉に、職員室の空気が変わるのを感じた。
「そうと決まったわけじゃない。とにかく今すぐ病院まで来るんだ。父さんもすぐ行く」
母が、死ぬ? そんなこと考えもしなかった。当時十四歳の私には到底信じられなかった。
「結衣、結衣! 分かったか?」
私は消え入りそうな声で返事をする。その後、私は急遽、部活を早退して、市で一番大きい総合病院へと向かった。顧問の先生が車を出してくれることになり、私は一番先に病院に着いた。病院へ着くと、私は医者のもとへと連れていかれた。昔から懇意にしている松木という医者だった。顧問の先生は私を松木先生に引き渡すとそのまま学校へと戻っていった。
 しばらくして、スーツ姿の父と、大学院の研究室から飛び出してきた兄が病院に到着した。私たち三人は松木先生の診療ルームへと通された。そこでは、母の容態に関する松木先生なりの見解をずっと聞かされていた。私には難しい話がよく分からず、真剣に聞く父と兄の後ろでただ黙って座っていた。母の状態がよく分からなかった。先生は安静にすれば、一週間ほどで退院できる可能性もあると言っていた。
 しかし母は、それから二ヶ月も経たない晩夏の昼過ぎに、この病院で亡くなった。その原因は、私にある。

     4

 「優ちゃん、優ちゃん」
遠くで小雪おばさんの声が聞こえてくるような気がして、私はハッと我に返る。
「ん、何?」
「学校はどう?」
小雪おばさんは夕飯の支度をしながら私に声をかけてきた。
「どうって、普通だよ」
あれから少しの月日が流れ、私は優斗として、都立高校へ進学した。高校は同じだったため、優斗も一緒に進学した。学校では優斗も私も互いにぼろが出ないように無口な性格を通すことにして何とかやり過ごしていた。それが原因で全然友達ができないと優斗は嘆いていたが、そこは我慢してもらうことにした。
今は四月四日の土曜日、優斗が事故に遭う八日前だ。未だに自分が優斗であることを時々忘れてしまい、反応に遅れてしまったり、挙動がおかしくなることが多い。しかし何とか周囲の疑惑をかわしつつ今日までうまくやってきた。先ほど、私は軽い咳に悩まされ内科を受診しに行ってきた。専門医からは風邪と診断され、漢方を渡されて帰ってきたところだ。
「新しい友達はできた?」
「うん、そこそこはね」
「そう言えば、結衣ちゃんはどうしたの?」
自分の名前が呼ばれてびっくりする。
「どうしたって?」
「クラスよクラス、同じになったの?」
「いや、違うけど、確かあいつは四組だった」
なんとか優斗っぽい口調で話そうと試みているが、まだしっくりこない。優斗の真似をしている自分が恥ずかしくなるが、優斗以外誰も知らないし、状況が状況だ。仕方がない。
「そうだ、優ちゃん」
「あ、あの、いや、その呼びかた、止めてくれない」
「あら、どうして?」
「だって、子どもみたいで恥ずかしいし」
「だってこっちの方が呼びやすいし、優ちゃんは優ちゃんでしょ」
優斗の事とはいえ、恥ずかしくなっていた。でも、もう何も言い返せる気がしない。
「そうそう、この前の結衣ちゃんとのデートはなくなっちゃって残念だったわね」
呑みこもうとした唾液が気管に入り、ゴホゴホッ咳込む。
「デートじゃないって! 仕方ないよ、向こうが予定入っちゃったんだから」
「そう、残念だったわね」
小雪おばさんがニヤーっと嫌な笑みを浮かべながらこちらを見てくる。
「別に……」
そう、三月二十一日、私から誘った遊ぶ約束を、優斗は突然キャンセルしたのだ。予定が入ってしまったということで何も詮索をしなかったが、私がこの世界に来たのがその三月二十一日だ。優斗はその日、お墓を訪れていたという。世界がリンクしているのであれば、私がいた世界でも、優斗は同じ行動をとったはずだ。いったい何をしていたのだろう?
 相変わらず、ゴホゴホと咳が出る。漢方薬が聞くと良いのだが。
「大丈夫? 熱でもあるんじゃない?」
いつもの間にか近くまで来ていた小雪おばさんは、私の額に手をあてた。反射的に私は身をかわしてしまう。
「どうしたのよ? ああ、もしかして恥ずかしいの?」
「もういいって、熱なんてない。ただの風邪」
戸惑いつつも、私はどこか安心している。何年ぶりだろう。この感じ。母がいなくなってから三年も経ち、母の温もりを忘れていた。この人は優斗のお母さんだけど、すごく懐かしい。全然違うけど、同じものを感じてしまうのはどうしてだろう。優しかった母。もう一度会いたいと何度思ったことか。それが、いまこういった形で実現していることが、ささやかながら嬉しかった。
「そうだ、父さんはどうしたの?」
「あら、珍しいのね。父さんだなんて」
「どういうこと?」
「もうどうしちゃったの、最近父さんだなんて呼んでいなかったじゃない? 何かあった?」
どういうことだろう? 優斗は自分の父をお父さんとか、そういった風に呼んでいなかったのか。もしかしてオヤジと呼んでいたのか?
「親父とか、そんな感じだっけ?」
「面白いこと言うようになったのね。何かあったでしょ? ずっと『あの人』呼ばわりだったのに、急に父さんだなんて」
あの人……? 優斗が自分のお父さんを『あの人』呼ばわりしていたのか……? 私は優斗のお父さんをほとんど知らなかったけど、喧嘩でもしているのだろうか。自分の家庭しか見てこなかったら分からないが、普通自分の親を他人のように呼ぶ子どもはいない。あるとすれば、悪い要素があるとしか思えない。
「う、うん、まぁそろそろね。呼び方を変えようかなって」
「本当にぃ?」
「本当だって」
「ふーん、お父さんは今日もお仕事よ」
「何の?」
「さぁ、お母さんにはさっぱり。優ちゃんの方が詳しいんじゃない?」
「いいから、分かる範囲で教えてよ」
「広告会社の仕事ってよく分からないのよねぇ。しかも外国とのやり取りなんかもしてるって言うから益々分からないわ。業界では一日二十五時間、週八日のつもりで働けみたいな空気があるって言ってたから、きっと今も大変なんじゃないかしら?」
「そう、なんだ」
知らなかった。優斗の父は、企業戦士だったのか。優斗は一切私にそんな話をしなかった。優斗のお父さんと玄関での鉢合わせたのは、日曜の夜だった。スーツ姿で帰宅してきた優斗のお父さんは、疲れを見せないほど元気なように見えたが。さすが企業戦士ということか。でも、どうして優斗は実の父を『あの人』だなんて。
「母さん、俺が父さんを『あの人』呼ばわりしたのっていつぐらいからだっけ?」
「いつだったっけねぇ。中学に上がってぐらいじゃなかった?」
親子でこんな会話が成り立つのか。自分の父の呼び名を、母に普通に尋ねているが。小雪おばさんは何とも思わないのだろうか。私は人の気持ちを考えるのが得意じゃないから、こういったことを考えるのも苦手だ。
「今日お父さんが帰ってきたら、そう呼んであげたら?」
「う、うん」
別に呼ぶことぐらいできる。私は楠田家の人間じゃないし、簡単だけど、優斗にとってはどうだろう。理由もよく分からないのに勝手に呼んでしまっていいのだろうか。
 その時、リビングの扉が開き、栞がひょこっと現れた。
「あ、お兄ちゃんいたんだ。丁度いいや」
「どうしたの? というかその恰好は?」
栞は休日だというのに、中学校の制服を着ていた。
「この制服かわいいでしょ? 着ちゃった~」
自慢げに振り振りと舞って見せてくる。確かにかわいい制服だと思う。私もこの制服を二年前まで着ていたし、なかなかセンスがいいと思っていた。
「どうして今着てるの?」
「だってかわいいんだもん」
分からなくはない。栞は中学校が始まって三日しか学校に登校していない。早く制服を着たくてうずうずしているのだろう。私も当時はそんな感じだった。
「それで丁度いいって、何のこと?」
「そうそう、これなんだけど、全然分からないから教えてほしいんだ」
栞は持っていたスクールバッグから新品の教材を取り出し、テーブルに広げる。懐かしい品々だ。もう私の頃の教科書とはデザインが変わってしまっている。
「もう、授業の宿題があるんだ」
「違うよ、あたしは意識高いんだから、予習ぐらいやっていくの」
えっへんと胸を張る栞。なんだか少し可愛く見える。私の前では絶対に見せない姿だ。
栞がまず開いたのは数学の教科書だった。教科書を眺めては首をかしげている栞に私は随所で解説をしていった。栞は私を褒めたり、手を叩いたりと大絶賛だった。これぐらいは当たり前なのだが、褒められると嬉しい。他にも私の要望で、たくさんの教科書を見せてもらった。国語、英語、理科総合、社会、どの教科も懐かしい。
私は勉強が苦手ではなかった。学年トップとはいかないまでも、そこそこの成績を残し、都立でもランクの高い高校へ進学できたのだから、中学校一年生の学ぶことなど、教えるのは朝飯前だ。もちろん優斗も同じ成績で、同じ高校に進学した。
「お兄ちゃん、やっぱり頭良いんだね~」
「栞だって、こんな時期からがんばろうなんて、将来が期待できるじゃん」
「いやいや~」
栞が照れ笑いをして手を横に振る。普段私には見せないその表情も仕草も愛おしい。こんなに栞と楽しく話したのは初めてだった。私もついテンションが上がってしまった。
私の家は両親と年の離れた兄の四人家族だったから、いつも下の兄弟が欲しいと思っていた。だから妹のような存在である栞と話ができることが楽しかった。不思議な気分だ。私は、いま栞と話している。外見は優斗だけど、話しているのは紛れもない私。例え仮の姿だったとしても、嬉しさは本物だ。
栞と話して気が付いたことがある。それは、自分と栞が似ているような気がしたということ。それが何かは分からないが、親近感が湧いてくる。栞と違う出会い方をしていれば、きっと楽しかっただろうな。
 栞に、四月一二日に結衣が楠田家に来ることを伝えるべきか。言えばどんな反応になるか分からない。それに良い雰囲気を台無しにしてしまうかもしれない。でも、今だったら話せるかもしれない。自分で自分のことを話してみて、どんな反応になるのか見てみたいという好奇心もあった。
「栞、あのさ」
「ん、何?」
教科書に目を通したまま聞き返してくる。
「牧野結衣のことなんだけど……」
「……」
「栞?」
「あいつが……何?」
やっぱりあいつと呼ばれていたのか。栞の態度の急変にゾッとする。ここまで言ったらもう後には引き下がれない。
「牧野がさ」
「いつもの呼び方じゃないんだね」
「結衣が……さ、うちに来るんだ、今度」
「……嫌だよ、そんなの」
「どうして?」
「嫌だったら、嫌!」
栞の大声にキッチンにいた小雪おばさんは驚いたように振り返った。
「来週の日曜日に、俺の部屋に少しいるだけだからさ」
「どうして? なんで、そこまであいつに構おうとするの!?」
胸が何かに刺されたようにズキズキと痛みだす。目の前で、私のいない場所でここまで言われるとさすがにきつい。
「ちょっとした用事だよ。迷惑はかけないから」
「そういう問題じゃない!」
「栞はどうして、結衣のことをそこまで嫌うの?」
優斗に軽く聞いたことはあるが、ここで本音を話してもらえれば、私が優斗の身体を借りて弁明できるかもしれない。
「あいつと一緒にいるから、お兄ちゃんはいつも不幸になるんだよ! 何度言ったら分かるの!?」
金槌で頭を思い切り殴られたような感覚。私は返す言葉もなく、固まってしまう。そうだ。その通りだ。私はいつも、優斗に助けられてきた。小学校の時も、中学校の時も、ことあるごとに優斗に救われてきた。そのせいで優斗が痛い目を見たことは何度もあった。栞はそんな私をどんな目で見てきたのだろうか。
あの時、一周忌の集まりで栞が私に対していった言葉、「お兄ちゃんを返して、絶対に許さない」。あの言葉はいかに深い憎しみから出た言葉なのかということが今分かった気がする。「あいつと一緒にいれば、いつも不幸になる」。私と一緒にいたから優斗は死んだ。まさにその通りになってしまったのか。
「あいつは、厄病神なんだ」
栞はそう言い残すと、教科書を鞄に乱暴に詰め込み、リビングを出て行った。私はただ、その場に固まっているしかなかった。「厄病神」……か。間違ってはいない。いつか誰かにも同じことを言われた。その不幸は、優斗だけでなく、優斗の家族にまで伝染する。私の存在が、栞にとっては、望ましくない存在だったのだろうか。
「優ちゃん、栞がまた結衣ちゃんのことで?」
小雪おばさんがキッチンから様子を見にきた。
「うん。母さんは結衣のこと、どう思う?」
「どうって、良い子だと思うけど」
「そう」
嘘でもそう言ってもらえて安心した。小雪おばさんは私の様子を窺うと、キッチンへと戻っていった。小雪おばさん、ごめんなさい。私のせいで優斗は亡くなる。私はしばらくその場を動けなかった。心のどこかでは覚悟していた。栞にとって私は厄病神のようなだということを。だが、兄の前でここまで露骨に嫌いだと宣言されるとは思わなかった。

小学五年生の時、クラスになじめず、いじめられそうになった私を、優斗はかばってくれた。優斗は見せしめにクラスからはぶられた。それは石を投げられるまでに発展し、優斗は額を五針も縫う手術をするはめになったのだった。学校中で大問題になり、当然そのことは二年生の栞の耳にも入った。家ではきっと胃が煮えくりかえっていたのだろう。どうして兄がこんな目に遭ったのか。それを考えれば、最後は私へと行き着く。そもそも私をかばう羽目になったからであると。あの頃から栞の私に対する目は、憎悪の感情を持ち始めたのだろう。
 栞にとっての不幸は続いた。中学一年生の体育祭でそれは起こった。体育祭の「騎馬戦」。私たちの中学では男女混合の騎馬戦が行われていた。優斗はサッカー部の新人戦を控えていたため、騎馬戦には出場しない予定だった。しかし、私が参加することになり、彼を無理やり誘う形で参加させたのだ。しかしそれが優斗を事件に巻き込むことになった。私は騎馬の上に乗る役割だったのだが、戦いの中でバランスを崩し、後ろで支えていた優斗にのしかかるようにして倒れてしまった。優斗はそれが原因で足をねん挫。サッカーの新人戦はおろか、その後のレギュラーすら掴み損ねてしまった。
 彼は一切私に不満を言わなかった。私はそれをそのまま受け取り、ただただ安心していた。『自分は別に悪くない。それに優斗は怒っていない』と。その向こうで栞が私を憎んでいたことも知らずに。

 私はその後、栞にもう結衣を招かないことを告げた。
 その日の晩、私は優斗にメールを送った。四月一二日、家に来ないで。そう短い文面を送った。優斗からの返信はすぐに帰ってきた。だが私はメールを開かなかった。

     5

 私の兄は、私より年が十歳も離れている。頭脳明晰、成績優秀。大学も最難関大学を突破し、大学院にまで進んで研究を重ね、現在は誰もが羨む一流企業で働いている。そんな兄に、私は幼いころから、甘えていた。「お兄ちゃん子」という呼び名にふさわしい女子だった。私が生まれた時は、兄はすでに小学校四年生。私が小学校に上がる時には、兄は高校生だった。兄は当時から優しかった。何でも教えてくれたし、どんなことでも味方になってくれた。今思えば、兄の表情、仕草に無頓着だったのかも知れない。兄が辛い時も、苦しんでいる時も、私は兄のことを考えずに、自分勝手に兄に甘えた。誰もが、私を無条件で愛してくれると、そう信じて疑わなかった。
 兄との関係が変化してきたのは、私が小学校二年生、兄が大学受験を控えた高校三年生の頃からだった。兄は受験勉強のストレスで、私に構ってくれなくなった。部屋を訪れた時に、あまりにしつこい私に大声で怒鳴り、私を締め出したこともあった。初めて兄の怒りを感じた瞬間だった。それを機に、私は兄に話しかけられなくなり、兄は兄で私に構ってくれなくなった。

 私が中学に上がるか上がらないかという頃を境に、母は体調を崩して、よく具合が悪くなった。あの頃、私は兄に構ってもらえない気持ちを、全て母にぶつけていたのかもしれない。母がどんなに疲れていても、いちいち世話を焼かせていた。その前々から、優斗がいじめられてしまう件などで、世話を焼かせていたのは言うまでもない。
 そして、母を亡くした時、私は兄に言われた。「お前は、厄病神だ」と。それ以来、兄とはほとんど会話という会話をしていない。兄は家を出ていき、私と父の二人暮らしが始まったのだった。

     6

 月曜日を迎えても、私は優斗の連絡を無視していた。無視したかったわけではないが、とても優斗に合わせる顔がない。学校に登校した私は、憂鬱だった。どんな顔で彼に会えば良いのか分からない。悩んでいる私をよそに、優斗は私に話しかけてくる。
「結衣、おい結衣、何だよあのメールは?」
「学校で結衣って呼ばないで。どう考えてもおかしいでしょ」
「ああ、ごめん。それより、あのメールの意味が分からないよ。説明してくれ」
「栞だよ」
「栞、あいつがどうしたんだ」
「結衣を家に招くって話したら、絶対に嫌だってさ。ついでに色々と言われた。だからもう家には呼ばないって約束したの」
「あいつが……、またそんなことを」
「だから、何か申し訳なくなってさ」
「別にいいんだって。お前は悪くない」
例え私が悪くなかったとしても、栞は傷付いているのだ。
「じゃあ、結衣の家に集まろうぜ? それなら問題ないだろ?」
「それは、ダメ」
「どうして?」
「それは……」
あの日は兄が帰ってくる日。その日に優斗と家で集まるなんて絶対に嫌だ。だが、次の瞬間、栞を思い出す。自分も栞と同じことを言っているじゃないか。私だって自分の都合で物を考えている。
「それは、言いたくない、けど、ダメなの」
「そんな、緊急事態なんだぞ?」
「分かった。こうしよう、優斗が楠田家に来て、待ち合わせして、近くの公園に待機する。これでどう?」
「……。分かった、分かったよ」
「ありがとう」
「分かったけど、一つだけこっちからもお願いがある」
「何?」
「無理に言えないことを言わなくてもいいけど、何か悩んでいることがあれば、俺に相談してくれ。この状況で、協力し合わないでどうやって生きていくんだ?」
「そうだね、分かった」
「それに、結衣の力になりたいから」
「うん」
「それでさ」
「ん?」
「ごめんな、栞のこと。あいつ、本当はそんな奴じゃないんだ」
「知ってる。優斗のこと好きなんだって思ったよ。私も栞みたいな妹が欲しかったなぁって思ったし。別に怒ってないから心配しないで」
「ああ、ありがとう」
その日から、私たちは一言も話さなかった。学校では互いのことがバレないように、また変な噂が流れないように、話すことは避けて過ごした。私も優斗も、無口なキャラを演じているため、幸いにも周りに関係ができることはなく穏便に学校生活は過ぎていった。

 『明日十時、楠田家前に集合』
 優斗から送られてきたメールを見ながら、私はリビングでその時を待っていた。四月一二日、午前九時四五分。いよいよ約束の時間がやってくる。失敗すれば、私は、死ぬ――。優斗の身体と共に、この世から消えて無くなる。携帯を握りしめる手が震えている。大丈夫、車道に出歩かなければ何も起きない。仮に歩いたとしても、車に十分に注意を払えば大丈夫なはずだ。しかし、確かなことは何も言えない。優斗の身体が一瞬にして消えてしまうことが頭の片隅から消えず、どうしても恐怖の念に支配されそうになる。こんなに胸が締め付けられるほど怖かった体験はない。
脳内であの日の記憶がフラッシュバックする。青信号――、私に向かって叫ぶ優斗の声――、目の前に迫るトラック――、私をかばう優斗――、その一コマ一コマが鮮明に見える。落ちつけ。落ちつくんだ。ここは『あの世界』じゃない。私は絶対に死なない。絶対に死なせたりはしない。
 天気はあの日と同じで、雨が降っている。優斗とは約束したが、公園で待機なんてできるわけない。私はそのことを想定していなかった。だが、朗報は数日前に舞い込んできた。栞と小雪おばさんに出掛ける予定ができたのだ。予定通り、先ほど家を出て行った。優斗の父は相変わらず休日出勤が続いている。
つまり、今この家には私以外の誰もいない。栞には悪いが、優斗には楠田家に来てもらうことにして、家の中で時間が流れるのを待つことにした。
 しばらくして、玄関のチャイムが鳴った。時計は九時五八分。優斗が無事にやって来た。私が玄関を開けると、いつにも増して真剣な表情の私の姿をした優斗が立っていた。私は何も言わずに優斗を玄関に通すと、周囲を確認して扉を閉めた。優斗は何も言わずにリビングへと向かう。追いかけるようにして私もリビングへ向かうと、優斗は部屋を見渡すように佇んた。
「俺の家ってこんな感じだったっけ?」
「え?」
「いやぁ、何か、何日も家を離れてると、全然違って見えてくるって言うかさ。面白いもんだな」
緊迫した状況にもかかわらず、優斗はハハハと笑いながら楽しんでいる。
「優斗、部屋にいた方がいいんじゃない?」
「いいよ、ここにいよう、誰もいないんだろ?」
「そうだけど」
「大丈夫だって」
優斗は冷蔵庫を開けると、中にあった飲み物を取り出して飲みだす。ここは優斗の家だということは忘れてはいけない。さもないと、勝手に人の家の冷蔵庫を漁っているように思えてしまう。
「結衣、今日家に光一さんが来るんだってな」
「う、うん……、そうだね」
兄が家に来ることはバレていた。牧野家に暮らしている以上、当然耳に入ってきてもいい情報だ。
「だから結衣ん家に集まることが嫌だったのか?」
「……そう」
「何かあったのか?」
「実は……、色々と喧嘩しててさ。あまり会いたくないんだ」
「そうかぁ……、ま、それなら仕方ないわな。俺、光一さんと結構仲が良いのに残念だなぁ」
何とも軽い調子でソファにダイブする。
「結衣にも、色々とあるってわけだ」
優斗は寝転がりながら、降りしきる外の景色を見る。
「優斗は、ないの? そういうこと」
「俺? 俺にも、あるよ」
「例えば?」
「なかなかモテない、とか」
「あっそう」
「ごめんごめん。あるっちゃあるよ。……俺にも苦手な人がいるんだ」
優斗は相変わらず外を見ている。その表情からは優斗の感情を読み取れない。
「お父さん……のこと?」
「おう、何で知ってるんだよ? ああ、この家に住んでるんだもんな。知ってても不思議じゃないか」
「小雪おばさんに『父さん』って言ったら、驚かれたよ」
「ああ。『父さん』か、そりゃ面白いな。今度本人にそう呼んであげてくれ」
「え?」
「別に、俺が言うんじゃないし、あの人も喜ぶと思うし」
「優斗が言ってあげなよ。だいたいどうして、そんな呼び方なの?」
優斗の表情が曇る。
「俺は、あの人を父親として失格だと思ってる……。それに今さら『父さん』だなんて恥ずかしくて呼べないよ」
「そこまで……?」
「いや、大したことじゃないんだ。ただ、あの人はさ、家族のためとか言って、結局全部自分のために生きている。それが嫌なだけだ。俺が一方的に避けてる感じだよ」
軽く笑いながら言う優斗だが、表情は暗い。『結局全部自分のため』か。私にも当てはまるような気がする。何のことかはよく分からないけど、ズキッと胸が痛む。
「でも栞は、今でもあの人のこと、すごく好きでさ」
「栞が?」
「うん。昔はあの人にべったりだった。でも、あの人は栞の約束を何度も破った。だから、栞の構ってほしい欲求は俺に向いたんだろうな。ほら、よくドラマであるだろ? 日曜日に遊園地に連れてってもらえる約束だったのに、親に仕事が入って、子どもは約束を破られて、親が思っている以上にショックを受けるってやつ。あれと同じ」
「そんなことがあったんだ……」
栞の宿題を教えている時にふと、彼女が自分に似ていると感じた。『栞の構ってほしい欲求は俺に向いたんだろうな』その言葉はそっくりそのまま私にも当てはまる。兄への構ってほしい欲求は、兄に避けられてからは、母に向いた。寂しかった。私と世界を繋ぐものが無くなってしまう気がして。だから誰かに無理やり繋がっていたかった。一人占めしたかった。
「小学校の初めの頃には、何度裏切られてきたか。その頃から、栞は俺にべったり甘えるようになった。栞は俺を一人占めしたかったのかもしれないな」
「それで私を憎んでいたのね……」
「ごめんな。たぶん『兄を傷つける』存在が嫌だったんだよ。『また私から大切なものが無くなるかもしれない』ってさ」
「栞の気持ち、ようやく分かったかも。聞けて良かった」
「栞の気持ちが?」
「うん」
「理由があるなら聞かせてくれよ」
「また今度ね。その時は優斗のお父さんの話も、もっと聞かせて。力になれるかもしれないから」
「結衣……。そんなこと言うなんて珍しいな」
「そう……かな?」
「おう。でも、よろしくな」
私が誰かのために何かをするということは、確かに珍しいかもしれない。自分でも少し違和感はある。でもこの時は、純粋に相談に乗りたかった。優斗が悩みを抱えているとは知らなかったから。
不思議とさっきまでの恐怖心が小さくなっていた。優斗と話していると、安心できる自分がいる。どうしてだろうだろうか。
私たちはしばらく何も話さずに過ごした。私は優斗の死に関する話題を何も言わなかった。この状況下で不安を助長したくなかった。優斗は途中、自分の部屋も見ておきたいと、一人二階へ上がっていった。しばらくするとスタスタと戻ってきて、「何かすごく違和感ある」と笑っていた。
時間は意外にも、優しく流れた。何も起きないのではないかという淡い期待を抱いてしまうほどに。外で響く雨の音、その音すら心地良く感じる。このまま誰も傷つかず、平和に時は流れ、私は元いた場所に帰れるのではないか。そんな考えが広がっていく。

 すでに時刻は一二時を過ぎていた。雨が弱くなってきて、雲が薄く延び始める。あの時の天気と一緒だ――。
「俺が死んだのは、もうすぐか」
優斗が時計を見ながら口を開く。
「そう。確か、一三時前にお店を出て、事故に遭ったのは、そのすぐ後」
「なんか、緊張してきたな」
カップラーメンが出来上がるのを待ちながら、貧乏ゆすりをしている。その姿はもはや私ではない他人だ。
「何か話していなけりゃ、落ち着かなくなってきた」
「そうだね」
「何か適当に話していいか?」
優斗はニヤリとこちらを見てくる。
「何?」
「好きな人とかいないの?」
「は、はぁ?」
このタイミングで、なぜその質問なのだ。
「だから、好きな人だよ。いるかいないか」
「何で、い、今そんな状況じゃないでしょ」
「だからだよ。こういう時こそ、持ってこいの話題だろ?」
「どこが……。別に、いないって」
「本当にぃ~」
ニヤニヤとした憎たらしい目でこっちを見てくる。小雪おばさんの表情にそっくりだ。親子だな。何だか熱くなる私も憎たらしくなってきた。
「ゆ、優斗はどうなの? 好きな人いるの?」
「さぁ~、どうかなぁ」
出来上ったカップラーメンをすすりながら言ってくる。本当に、適当な時は適当な人間だ。
「じゃあ俺のことはどう思う?」
「ゆ、優斗?」
「そう。好き? 嫌い?」
「そりゃ、友達として、好きだけど」
「そう。じゃあ、恋人としては?」
「こ、恋人!? ないって、優斗が恋人なんて」
「えー、命を助けてやったのに~?」
「そ、それとこれとは違うって。助けてくれたのは嬉しいけど……」
嬉しい……? 私は嘘を付いている。本当は、助けられたことをどう受け取ればいいのか分かっていない癖に。
「それより、私を助けた時、怖くなかった?」
「話題を逸らしやがったなぁ」
「いいから……、教えてよ」
「怖くなかった、と言えば嘘になる。それで?」
「私はあんな状況に出くわしたら、人をかばえない。もしあの時、立場が逆だったら、きっと怖くて動けない」
「別にそれが普通だろ」
「え?」
「さっきも言ったけど、俺だって死ぬことが怖くないわけじゃない。尺度の問題だろ。もし天秤があって、自分の命と他人の命が一瞬で測れて、他人の命を助けた方が良いって瞬時に分かったら、身体が勝手に動くと思うぜ」
「自分の命が他人のものより軽くなる……、私には考えられない。どうしてそうなれるの?」
「さぁ、どうしてかな。まぁたぶん、その『理由』ってやつがなくても、答えは変われないけどな。まぁとにかく、あの時、結衣が助かってよかったよ」
優斗の言葉に胸が痛む。
「優斗、ごめん……。私、さっき嘘付いた……」
「嘘?」
「うん。助けられて嬉しいって……。本当は、どう受け止めればいいか分からなくて……」
優斗は何も答えない。何かを考えるように下を向いている。
「結果的に私は助けられたけど、代わりに優斗はいなくなった。優斗がいなくなって、栞も、小雪おばさんも悲しんでる。助けてもらったのに、素直に喜べない自分がいるんだ……。私、最低だよね……」
「素直に喜べる方が、どうかしてるって」
優斗は私に微笑む。
「それに、謝るのはむしろ俺だよ。ごめんな。勝手に死んじまって」
「優斗……」
「死ぬつもりなんて、これっぽっちもなかったんだけどなぁ」
苦笑しておどけて見せる。
「そうだ、俺も言いたいことあった。結衣はさっき、『私はあんな状況に出くわしたら、人をかばえない』って言ってたけど、何か府に落ちなさそうだったな?」
「うん……。何か、自分のことばかりで、非情な人間だなって……」
「自分のことを優先する自分が嫌いってこと?」
「嫌いというか……、そういう思考が、周りに迷惑を掛けているのかなって、思う時があるんだよね……」
「周りに迷惑を掛けているのか?」
「掛けてるよ。優斗にも、栞にも、兄にだって……」
「俺は迷惑だなんて思ってないよ」
「優斗……」
「それに、結衣の考えが立派だと思うけどな」
「立派?」
「それだけ自分を大切にできるってことだろ。よく言うじゃん。『自分を大切にできない人間は、他人も大切にできない』って。だから、仮に誰かに迷惑を掛けていたとしても、結衣の考えならきっと、いつか分かり合えるさ。栞ともな。逆に、俺は自分を大切にできていないから、命を投げ出せるんだよ」
「そう……なの?」
「今のは極端だけど、他人を優先する自分に嫌気が差す時もある。本当は自分のことすらまともに見れていないのに、『誰かのため』に生きようとすることで、今の自分を正当化しているのかもしれないってさ。まるで、家族のためとか言って頑張る方向を決めつけているあの人みたいだ」
優斗は自嘲気味に苦笑した。
「優斗は立派だよ。私は……」
助けてもらったことを素直に喜べないでいた私は、それで良かったんだ。助けてくれた本人は、そう言ってくれる。今はその言葉を信じよう。
「私は、今のを聞いて、あの時の優斗の感謝できたよ。助けてくれてありがとう。だから、自分を責めないで」
「結衣……。お前……、それって、恋愛フラグか?」
褒めたことを一瞬で後悔する。私は濁った目で優斗を見る。
「冗談だって! 嘘だよ、嘘」
「まったく」
「俺もさ、そう言ってもらえて良かった。もし帰れたら、悔いなく生きてくれよ」
「うん……」
優斗、ありがとう。話して良かった。

 一三時を知らせる時計の鐘がリビングに鳴り響いた。あの事故のことをつい忘れていた。一三時……。もうすぐか――? 外はすでに雨が上がり太陽が雲の切れ間から顔を出している。そして、私たちが待ち構えていたものは、突然私たちの前にやってくることになる――。あの時とは形を変えて――。

 「ただいまぁ!」
栞が帰って来た――。鍵の開く音、扉が開く音、そしてその声――。心臓が飛び出そうになる。私たちは、ほとんど考える時間も与えられることなく、身を構えるしかなかった。リビングの扉が開き、栞が、リビングへ顔を出す――。
「お、おかえり……」
私は必死に優斗を装って、笑顔を作る。栞は表情もなく、私たちを見ている――。その場から全く動かない。何を言えばいい。全く浮かんでこない。どうすれば!? どうすればいい!?
「どうしたのよ、栞。夕飯の準備……、あら、結衣ちゃんじゃない!」
小雪おばさん栞の後ろから顔を出す。
「栞、これは、その、雨で……」
栞の顔がみるみる憎悪に満ちていく――。それは優斗だけでなく、『兄』である私にも向けられていた。そして、栞の頬を、涙が濡らし始める。
「っ……!」
持っていた鞄を床に投げ出し、栞は泣きながら廊下を駆けていく。
「栞!」
「栞!」
二人同時に立ちあがり、彼女を追う。栞は家を飛び出して行った――。くそ、どうすれば!?
「ごめん、結衣……!」
優斗はそのまま靴を履くと、外へ飛び出した。「優斗!」と叫びそうになり、必死に抑える。どうする!? 今外に出れば、私は、危ない――。 でも、でも……!
 考えるより、身体が先に動いていた。まさか自分がこんな行動に出るなんて思いもしなかった。私は靴を履くと、外に飛び出す。すぐ二人の姿が確認できた。雨は上がり、水たまりに太陽が反射する。あたりを見まわす――。大丈夫、車はいない。私は全力で彼らを追いかける。思考は停止していた。もう何が起こるか、予想もできない――。
「栞、止まれ!」
遠くで優斗の声が響く。その方向には……。広い国道――。第六感が騒ぐ。このままでは最悪の事態が起こる。ああ、神様……、お願いだから、何も起きませんように。
もうすぐ追いつく、もうすぐ――。栞は広い国道に近づく。そこは片側二車線の国道。車も当然、スピードを出して走ってくる。お願い、栞、止まって……!
 追いつくまでもう数十メールと迫った時だった――。栞は、赤信号の中、国道へと足を踏み入れた――。栞――。一瞬で頭が真っ白になる――。
彼女はきっと泣いていて、前を十分に見れていなかったのだろう。周りの音にも無頓着になっていたに違いない。
「栞!」
優斗の声がこだまする。
栞はハッと立ち止まる。そして自分が今どんなに危険な状況にいるかをようやく理解した。彼女の目の前にトラックが接近して来ていた――。激しくこだまするクラクションの音――。振り向く栞は、優斗に手を伸ばした――。
「栞――!!」
「いやぁぁぁぁ!!」
トラックが彼女の数メートルまで接近したところで、私は思い切り目を閉じる。私は両耳をふさぐ形で、その場にうずくまる。うそだ、うそだ、うそだ、うそだ、うそだ……………! そんなこと、ありえない……! どうして、どうして……! ありえない、ありえない……絶対に、ありえない! 全身の震えが止まらない。足に力も入らない。何も聞こえてこない――。何も、何も……!
 栞が、栞が、トラック事故に、巻き込まれた……? そんなことあるわけない……。だって、トラック事故に遭うのは私なんだから……。歯がガチガチと震える。栞は死なない。絶対に、死ぬわけない……! 大丈夫、大丈夫だから、目を開けて、見るんだ!
 ゆっくりと目を開ける――。おぼろげな視界が次第に明るさと鮮明さを取り戻す。
「あ……」
遠くに止まっているトラック――、周りに集まる野次馬、その中央で倒れた誰かを抱えている優斗――。そして、倒れている栞――。その服にべっとりと付着した血――。
「ああ……ああ……あああ……!」
目が回り、意識が保てなくなる。うそだ……、栞が、まさか、そんな……! そんな、どうして、どうしてよ……。私が、また、また……!
私の意識はそのまま闇へと落ちていった。

光と影

光と影



 私は、病院のベットで目を覚ました。
隣には優斗が座っていて、私を見守ってくれていた。私が目を覚ますと「おう、お目覚めか」と少しやつれた表情を見せる。私は、あの悲惨な現場を目撃して、そのまま気を失って倒れてしまっていた。私は三時間ばかり、気を失っていたそうだ。
栞は、あの後、病院に緊急搬送されて、何とか一命を取り留めたらしい――。私は背負わされた無限の重りを下ろされた気分になった。良かった……。本当に、良かった……。栞は軽傷レベルで済んでいた。トラックが栞にぶつかる直前で急ブレーキを踏み、ハンドルを切ってくれたおかげで、もろに正面衝突をすることなく、大事に至らなかったそうだ。もしもドライバーが栞に気がつかなかったら、栞は間違いなく死んでいた。そう考えると、背筋が凍る。
 現在の時刻は一七時を回っている。優斗の亡くなる時間からすでに四時間が経過していた。
私たちは、運命を変えたのだろうか――? 優斗と私はトラック事故に遭わず、命を落とすこともなく、運悪くトラック事故に遭った栞でさえ、軽傷で済んでいる。そして、今こうして優斗と話し合っている。回るはずのない時が回っている。優斗の寿命は、こうして延び続けているのだ。もう、心配はいらないのか――?

 翌日、四月一三日、私も優斗も、生きていた。
 昨日の雨天とは打って変わって、天気は快晴。私は、学校の最後の授業(避難訓練)を早退して、栞の入院している病院へと向かった。栞は何て言うだろうか? 裏切り者? もう信じない? 頭の中であらゆる罵倒が思いつく。しかし、それをなぎ払う。
私は、ある決意をしていた。それは、彼女と分かりあうというもの。まずは、謝らなければならない。それを分かってもらった上で、牧野結衣を分かってもらうために話をしようと思った。
 もう一つ、私には考えなければならないことがあった。それは、この世界から帰る方法。私はある仮説を立てていた。帰るにはどんな方法があるのか。
一つは優斗を死の運命から救い出すこと。しかし、その仮説は昨日の時点で破棄されてしまった。優斗は生きているのに時間は流れ続けている。もう一つは、お墓にもう一度お守りを返すというものだった。しかし、この仮説も実は数日前には破棄せざるを得なかった。もう何日も前に、お守りは、優斗の部屋ですぐに見つかった。変わらない藍色の生地に、『諸願成就』と書かれたきれいなお守り。私はそれを持ってこっそりと優斗のお墓があった霊園に赴いたのだ。しかし、亡くなってもいない彼のお墓があるわけもなく、私はお墓が立てられる前の何もないスペースで呆然と立ち尽くすしかなかった。
 帰れないのではないか――? 一抹の不安が脳をかすめた。だが、そんなことはない。こちらの世界に来れたということは、帰る手段も必ずある。優斗の命を救えた今からならそれを考える時間はあるはずだ。

 病院に着いたのは、一五時過ぎだった。受付を通り、手には道中で買ったケーキ屋さんの袋を握り締めて、栞のいる三〇三号室へと向かった。
病院を歩いていると、昔の記憶がフラッシュバックのように蘇る。階段を踏みしめる感覚。廊下を突き当りまで見通す視界、窓から差し込む太陽の光――。呼吸が自然と荒くなる。三〇三号室の前には『楠田栞』というネームプレートが貼ってあった。この部屋で間違いない。
一旦、呼吸を整える。中から話し声が聞こえてきた。小雪おばさんの声だ。栞と楽しげに何かを話しているようだ。大丈夫。ここはあの日の病院ではない。
 軽くノックをして、私は扉を開けた。
ゆっくりと開かれる扉の先に――。急に視界がセピア色に染まる――。そこにいたのは、お母さん――? ベッドに座り、少しこけた顔でこちらに微笑む、懐かしい母の姿が――。
「優ちゃん?」
「お兄ちゃん……」
二人の声に、我に帰る。そこにいたのは、足と額に包帯を巻いた結衣と、隣で椅子に座っている小雪おばさんだった。
「し、栞、大丈夫?」
栞は「平気……」とそっぽを向くように答える。
「大事に至らなくて本当に良かったわ。数日もすれば退院できるって」
小雪おばさんが安心したように微笑む。
「出てってよ……」
栞がそっぽを向くようにつぶやく。
「こら、栞、何でそういうことを言うの?」
栞は何も答えずただ窓の外を黙って見ていた。
「栞、本当にごめん。別に、栞を悲しませようとしたわけじゃないんだ」
「……」
「それで、その、栞に話したいことがあって。聞いてくれない?」
一瞬だけ、栞がこっちに反応したのを見逃さなかった。
「少しだけだからさ、これでも食べてさ、話そうよ」
私は持ってきたケーキを見せた。
「何……?」
「それは話してからのお楽しみ」
栞に微笑みかける。栞に対してこんな風に微笑むことができるとは思わなかった。栞は拒絶の反応を示していない。これは話して大丈夫ということだろう。私はケーキを膝の上に乗せて、椅子に腰を下した。
「それじゃあ、お母さんは、夕飯の支度があるから先に帰るわね」
そう言うと、小雪おばさんは部屋を後にした。栞は一瞬引き留めたそうな顔をしたが、諦めたように帰っていく小雪おばさんを見送った。
私と栞は、部屋に二人だけになった。こんな機会、今までに一度たりともなかった。身体こそ優斗だが、私にとっては、嫌われていた栞と一対一で話す、またとないチャンスだった。
 気まずい空気が病室に流れる。どこから話せばいいのか。さっぱり分からない。栞は分かってくれるだろうか。
「それで、話したいことって何?」
まともに目を合わさずに聞いてくる。
「う、うん、まずは謝る。昨日は本当にごめん」
私の言葉に、栞はしばらく黙っていた。
「約束したのに……。家に呼ばないって。お兄ちゃんもそうやって嘘を付くんだね」
「お兄ちゃんも……?」
「お父さんだよ」
やはり栞の心の中にも、優斗と同じように父への期待と失望が少なからずあった。
「栞はさ、父さんのこと、好き?」
聞いた瞬間、栞は目を丸くしてこちらを見た。私と目が合うと、すぐに逸らしてしまう。
「その呼び方……」
「ああ、もう『あの人』って呼び方は止めたんだ。いつまでも憎んでたって仕方ないし。それで、父さんのこと、好き?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「大切なことだから」
「……好きに、決まってるじゃん」
「でも、栞との約束破ったり、俺との約束も破ってる。それでも、好きなの?」
「お父さんは、頑張ってると思うから……」
そうなのか。優斗とは少し考えが違う。失望はあっても、栞の方は、そんな父の姿を認めている。
「じゃあ、結衣のことは?」
栞は私を睨みつけた。
「嫌い……」
「どうして?」
私は固唾を呑む。
「あの人が、お兄ちゃんに危害を加えるから……」
「俺は、別に気にしてないよ?」
ここは優斗の気持ちを借りる。
「そうじゃない」
「そうじゃない?」
私が聞くと、栞は黙って下を向いてしまう。私は大きく息を吐いた。
「結衣の家でお母さんが亡くなったよね?」
栞は何も答えない。だが、栞を含め、楠田家の人なら知らない人はいない。
「結衣は、ずっとお兄ちゃんっ子だったらしいんだ。栞に似ている」
「……」
「でも、いつの日か相手にしてもらえなくなったらしい。そして今度はお母さんに甘え出したそうなんだ。でもその直後、お母さんは亡くなった。甘える人がいなくなってしまったんだ」
栞はびっくりしたように私を見る。
「栞には俺がいるし、父さんも母さんもいる。でも、結衣にはもうお母さんがいない。そして大好きだったお兄さんとも、喧嘩している状態なんだ。結衣にはもう取り戻せないものがたくさんあるんだ。結衣はそれを自分のせいだと反省し始めている」
栞は目を見開いたまま、私のことを見ていた。
「俺は栞を一人にしたりしない。もう、嘘もつかない。だからさ、結衣のことを、許してあげてくれないか?」
栞の境遇と私の境遇の接点。それは互いに大切な人を、好きな人を失ったこと、失う悲しさを知っていることに他ならない。私は栞に自分のことを打ち明けることで、彼女の心が変わってくれることを祈った。
「栞の気持ちも分かる。でもその苦しみは結衣も同じなんだ。だから救ってあげたい」
栞は私から目を逸らした。その表情は、全く読めない。理解はしてくれたと思う。でも、栞は何を思うのだろう。
「お兄ちゃんは……、私と結衣さん、どっちが大事なの……?」
私はその質問に面喰ってしまう。まさか……、そんなことを聞かれるとは思わなかった。
「どっちが大事とか、そういうことじゃなくて……」
「どっちなの……!?」
「だから……」
「私だって、私だって……!」
栞はそのまま泣き出してしまう。栞……。
「ずっと、我慢してきて……! お小遣いも、お父さんのために……! でもお父さんは忙しいし、お兄ちゃんは、あいつのことばかりで……!」
ポタポタとシーツに涙が落ちる。
「栞、俺は……」
言葉を失ってしまう。
「出てってよ……!」
「栞……」
「出てってよ!」
栞は泣きながら、私に背を向けるように横たわってしまう。ああ。最悪だ。どうしてこうなってしまったのか。
窓の外を見る。日が傾きだし、夕暮れが訪れそうになる。その夕日に目が染みそうになる。私は、やっぱり誰の気持ちにも踏み込めないということか。人の気持ちを動かすことも、理解することも、全くダメということだろうか。
 目の前で泣きじゃくる栞。「栞、ごめん……」栞はただ泣き続ける。私は知らないうちに彼女を傷つけたのか。優斗だったらもっと優しく出来たのかもしれない。かける言葉すら見つからない。持ってきたケーキの箱を握りしめる。それをベッド脇にそっと置き、静かに部屋を去った。

 扉を閉めた私は、やけに長く感じる病院の廊下を、力なく歩く。廊下は西日で橙色に染まる。不意に感情がこみあげてきそうになる。悲しいのは栞なのだ。私じゃない。ここで感情に身を任せたら、私はまた、自分勝手な人間になるだけだ。
長い廊下を歩き、階段を降りようと角を曲がろうとした時、誰かとぶつかりそうになり、私は身をかわす。
「結衣」
その声にハッとする。目の前には制服姿の私――、ではなく、優斗が、立っていた。
「優斗……!」
お互いに顔を見合わせる。全くの偶然だった。時刻はまだ午後四時半。時計を確認した私は、病院の屋上で話し合うことを提案する。優斗は二つ返事で提案に乗ってくれ、私たちは夕日に染まる屋上へと向かった。

四階建ての病院の屋上。そこはフリースペースとなっていて、誰もが訪れることができる場所だった。
優斗は、学校が終わり、真っ先に病院に駆けつけたのだという。もし私たちがまだ話をしていたら、部屋を訪れることも考えていたらしい。しかし、私の浮かない表情を見て、それを止めてくれたのかもしれない。
「ほら、買ってきたから、飲もうぜ」
ベンチで待っていた私に、優斗は自販機で買ってきた飲み物を手渡してきた。
「あ、ありがとう」
「ストレートティーで良かったよな?」
「うん、あ、ちょっと待って……」
ポケットから財布を取り出そうとする。
「ああ、いいよお金は。今日栞に会ってくれたお礼」
私は再び優斗にお礼を言い、もらったストレートティーを口に運んだ。あったかい……。緊張がゆっくりと解けていくみたいだ。
「ありがとな、栞に会ってくれて」
「うん……、でも勝手に行って、ごめん」
「別にいいって、結衣は今は『俺』なんだから。それで、栞は大丈夫そうか?」
「う、うん。包帯を巻いてたけど、軽傷だから、数日で退院できるんだって」
「そうか、そいつは安心だな。栞とは何か話した?」
私は、栞が泣く姿を思い出す。そうだ。私は栞を泣かせてしまった。これを言ったら、優斗は怒るだろうか。
「別に、大した話じゃないよ。ごめんって謝って、後はたわいもない話をしただけ」
「それだけ?」
「……うん」
優斗の目を見られない。声も弱弱しくなる。
「そ、っか。ところでさ、結衣」
「何?」
「お前、光一さんと何があったんだ……?」
「え?」
「だから、お前のお兄さんと何があったのか聞いてるんだよ。昨日から家に出張関係で戻って来てるけど、ほとんど話さないっていうか、ものすごい因縁つけられてるっていうか。今朝も話しかけたら、すごい目で見られたんだぜ?」
兄との関係を優斗は知らない。兄が家に帰ってきたら、優斗から質問が来ることは予想していた。
「兄とは、喧嘩してる」
「それは前に聞いた。どうして?」
このことを優斗に話すべきか。話さないべきか。ずっとこの件は黙っていた。家族以外の誰にも話すことはなかった。それを優斗に、ここで話すべきなのだろうか?
「優斗のお父さんのこと、聞かせてよ。話してくれたら、私も話していい」
「いいよ別に。状況が状況だしな。別に大した話じゃないぞ」
「うん」
「あの人は、前にも少し話したように、いわゆる企業戦士で、家庭のことなんか全く見ちゃいない。俺も栞も、遊んでもらった記憶なんてほとんどないんだ。こんなの企業と結婚しているようなもんだろ?」
「そう……だね。お父さんのこと、嫌い?」
「嫌い……とは違うな。もうどうでもいい、に近い感じ」
私は優斗のその言葉に少なからずショックを受けた。実の父親に関心もないなんて、それはもはや他人と同じではないか。それに、私は優斗を、どんな人も受け入れる人だと思っていた。少なくとも私を受け入れてくれたのだから、家族関係でうまくいっていないなんて思いもしなかった。
「栞は、お父さんのこと、好きって言ってたよ」
「栞は元々あの人のことが大好きだったって言ったろ? 俺はもっとフラットにあの人を見てきたから。子どもより仕事を優先して、母さんが困っても家事も手伝わない、それでいて家庭を支えているのは自分なんだって胸を張っている。家庭に金を入れさえすれば、父親なのかよ? それに引き替え、結衣のお父さんは羨ましい。結衣のことをしっかり見てくれてる気がする」
「あ、ありがとう。でもうちのお父さんだって、昔は家庭を顧みなかったんだよ?」
「マジか?」
「うん、それで、お兄ちゃんに嫌われて、今も話してないでしょ?」
「あ、ああ、そうだな。それで、どうやってあんな風に変われたんだ?」
「お母さんが亡くなってからかな」
「そう……なのか」
優斗は何て返せばいいか分からずに口をつぐむ。
「優斗のお父さんのことは何となく分かった。優斗のお父さんは今からでも変われると思うよ」
「そうか……?」
「うん、もっとお父さんに自分たちのことを訴えていけば良いんだよ」
「どうして?」
「うちのお父さんは、お兄ちゃんに嫌われたことを今でも後悔してるからさ。だから子どもたちの存在の大きさに気づかせてあげないと」
「な、なるほど」
栞が泣きだす時に言っていた言葉を思い出す。
「そういえば栞が、お父さんのためにお小遣いをどうとかって言ってたけど」
「あ、ああ。栞は毎月のお小遣いを貯金しているんだよ。いつかあの人を出掛けに誘ってあげるってさ」
「そう……だったんだ」
栞がそんなことをやっていたなんて驚きだ。私に比べたら、ずっと健気だ。
「話してくれてありがとう。今度は私の番だね」
「ああ」
もう決心は付いた。話そう、私の暗い過去の話を。夕日が傾き出す。あたりは次第に暗くなっていく。優斗の顔も次第に見えづらくなる。屋上にいた人も次第に病室へと帰って行った。今なら、話せそうだ。
「私のお母さんが3年前、いや、この世界だと2年前に亡くなった、のは知ってるよね?」
「あ、ああ。確か、悪い病気で入院していて、急に容態が悪化して亡くなったんだよな?」
「うん、そういうことになってる。でも、本当は違うの」
「違う……! じゃあどうして?」
優斗の視線が私にまっすぐ向けられている。私は遠くの夕日を見る。そして、天から聞こえてきたのかと思えるぐらい消え入りそうな声で、つぶやいた。
「私が、お母さんを殺したの」

     8

 夏休み。私は、病院の廊下を歩いていた。その日は母のお見舞いに行く約束をしていたため、早々と部活を切り上げて病院へとやってきた。病室は三階の三〇五号室。エレベーターを使うほどの距離ではない。歩いて階段を上っていく。踏みしめる足が、震えているのが分かったのは、二階に上がる頃だった。どうしよう……。頭の片隅に、このまま引き返すという言葉が何度もかすめる。駄目だ。ここまで来たんだから、今日はしっかりと顔を見せる。母が入院してもう一月半になろうとしていた。
その入院の長さは、明らかにおかしかった。早ければ一週間ほどで退院できると聞いていたにも関わらず、母は一向に退院しなかったからだ。
母は急に倒れ、意識不明だった。しかし、すぐに意識を取り戻した。母も笑顔で『大丈夫』と笑っていた。私はそれを信じ切っていた。だが、気がつけばそれが二週間に延び、一ヶ月、一月半と延びていった。『もう少し検査がかかりそう』という母の表情があまりに自然すぎて、当時の私は純粋に信じ込んだ。
 だから、きっといつかは母帰ってくる。そんな楽観的な考えで私は部活に励んでいた。いや、楽観的に考えようとしていた。時々頭の片隅をよぎる「母は帰らないかもしれない」という言葉を、部活に打ち込んで搔き消し、病院にほとんど顔を出さなかった。
入院している母を見ることが、嫌だった。また家に帰ってくるなら、その時に顔を合わせばいい。そう言い聞かせ、たびたび部活を理由にお見舞いに行かなかった。私とは反対に兄は母のお見舞いにしょっちゅう行っていた。毎日通い詰めいていたこともある。私が最後にお見舞いに来たのは、もう一月も前のこと。なんだか少しだけやつれたように見えた母を見るのが辛かった。早く帰ってきてよ。何度もそう思った。その時の母もまた、笑顔だった。
 そして、それから一ヶ月、母はどんな表情を私に向けるのか。『牧野千鶴』というネームプレートのある部屋に辿りつく。私は息を整えて、ドアをノックする。母の返事を待ったが、どれだけ待っても彼女からの返事はない。試しにもう一度ノックをするが、やはり返事は返ってこなかった。寝ているのか? 単純にそう思った私は「お母さん、入るよ」と声を掛け、ドアを開けた。
 その時の光景は忘れもしない。そこにいたのは、まるで母ではない誰かだった。横たわっていたのは母……。しかし、頬が前よりもこけ、腕や胸にたくさんの点滴をつけている……。そして、呼吸器も付けられていた。
 母は入ってきた私に微かに反応する。呼吸器の奥で何かを言っているのは分かるが、何を言っているのかは全く分からない。
「お母さん……」
私はよろめきそうになりながら、彼女に近づく。母の意識はしっかりとあった。表情もあの時と同じ、優しい微笑み。しかし目は微かに開き、声も曇っている。
「お母さん、これ……、何……」
どういうことか、全く分からない。母は大丈夫と言っていた。医者も早ければ一週間で退院できるって言っていたのに……。
「お母さん、大丈夫なの……?」
私の問いかけに、母はただ微笑んでいる。それが何を意味するのか分からない。
そこからの記憶は曖昧だ。私は自分を落ち着けるためか、母を元気づけようとしたのか、母の横でずっと自分の近況を話した。学校では勉強が難しくなってきたこと。部活の試合で緊張してうまくいかなかったこと。家族のこと。たくさんのことを話したと思う。話していないと、恐怖に押しつぶされそうだったから。母は微かにこちらを見て頷く動作をしていた。あの変わらぬ表情で。

 だが、母の容態は急変した。それまで、静かに微笑むだけだった母は、呼吸を荒げ、苦しそうな表情を浮かべ始める。私はただ事ではないことを感じ、すぐにナースコールを押す。身もだえる母を前に、私は駆けつけた医者によって、そのまま病室から出されてしまったのだ。
母は、帰ってこないかもしれない――。その時、ふとそう思った。兄に、母の体調が崩れて病室から出されたことを伝えると、よく起こることだと話してくれた。本当に? それなら心配ないのか? 私は疑問を抱かざるを得なかった。

 それから何日かして、私は再び母のもとを訪れた。母はあの時と同じだった。でも、笑顔は微かに無くなっている気がした。その日も、私はずっと話をしていた。
だが、話し始めて数分経った頃だった――。母の息遣いが荒くなり、呼吸器がそれまでよりも曇りだしたことに私は気付いた。母が私にしゃべりかけている。またか……? 私はナースコールを押そうと手を伸ばす。
しかし、母は顔を横に振った――。『やめて』と言っているかのように――。どうして……? 母を見ると、微かに呼吸器が振動しているのが分かる。母は私に何かを言おうとしている。
「何? お母さん」
ゆっくりと彼女の口もとに顔を近づける。母の声が微かに聞こえてきた。やはり何かを喋っていたんだ。でも聞き取れない。
「ごめん、もう少し大きな声で言って」
そう言い、耳を凝らすと、今度ははっきりとその言葉が聞こえてきた――。私は聞き違いではないかと耳を疑った。そして、何度も母にもう一度言うよう頼んだ。しかし、聞こえてくるのは同じ言葉だった――。
『こきゅうき とって』
母のかすかな声は、確かにこう言っていた。どうして……? 母の呼吸器を取る、それがどういうことなのか、中学二年生の私でも何となく分かった。母は今、死のうとしている――?
「そんな……」
意味が分からない。うろたえる私を前に、母の呼吸器はまた微かに振動している。耳を近づけると、母は同じことを訴えていた。『おねがい』。その表情は苦痛に歪む。母は自らの手を持ち上げるが、痙攣し上手く持ち上がらない。それを見た時に悟った。母は死にたくても死ねないのだ――。
 私は苦痛に歪む彼女の顔を見る。母が苦しんでいる……。そして、死にたいと私に告げている……。今、私なら彼女を楽にしてあげられる――。
今思えば、この時の私は異常心理だったのかもしれない。私は、母の最後の願いを叶えてあげたいと本気で思ってしまった。『母はもう帰らない』私はそう確信した。それならば、彼女を楽にしてやりたいと思った。とても身勝手な行動だと、考えることもできなくなっていた。もう苦しむ必要なんてないよ。
私は、母の呼吸器に手を伸ばした――。
「……いいの?」
私は異様なほど冷静に、母にそう聞いていた。そうでもしないと、迷いが生じてしまう気がしたから。母はあの時と同じ笑顔になる。私は喜んでいる――。私はそれを見ると、何も言わず、彼女に取り付けられた呼吸器をそっと彼女の顔から外した――。

 母は最後に言った。『ありがとう』。声は聞こえなかった。でも口の動きはそう言っていた。母は眠るように息を引き取った。最後の最後まで笑いながら。彼女の頬には涙が伝っていた。母は楽になれたのだ。私はただ冷静に、自分の中で何かが壊れぬよう、必死になってそれを食い止めていたと思う。
私は、母を自らの手で、死なせたのだ。自分で後悔しているか、していないか分からない。でも、少なくとも母はそれで幸せだったのだと思う。いや、そう思いたい。母の最後の笑顔は本物だったと信じたい。
 その後、医者が駆けつけ、父も、兄も駆けつけた。父は私を抱きしめてくれた。兄は、泣き崩れていた。そして、兄は私を発見すると、この世のものとは思えない憎悪に満ちた目で私を睨みつけた。この時、私はどうして兄が私にそんな目を向けるのか、分からなかった。それからしばらくして、兄は家を出て行った。私と父には口をほとんど聞かずに。

虚構の囁き

虚構の囁き

夕日は落ち、夜空が広がる。あたりには誰もいない。私と優斗だけが静かにベンチに腰をかけていた。優斗は私の話を、ただ黙って聞いていた。
「それで、お兄さんは……、何て言ってるんだ?」
「一度だけ、厄病神って言われた。それきりは兄の気持ちは聞けてない」
「あの光一さんが……? そうか、そんなことまで」
優斗が驚くのも無理はない。兄は今でこそ私や父を突き放されているが、昔は本当に優しかった。たぶん兄と仲が良かった優斗からすると、信じられないのだろう。
「兄は私のことを、絶対に許さないと思う。私は、身勝手だった」
「そうか……、確かにあの様子だと、怒りは相当だろうな……」
私は無言で頷く。
「ごめんな、こんなこと聞いちまって……」
「ううん、むしろありがとう。本当は、誰にも言えなくて辛かったから。ごめんね、こんな話、聞いてくれて」
「いや、結衣は悪くないって。こっちこそ本当にごめん。でもさ、話してくれて嬉しかった」
「そう……?」
「ああ。結衣の抱えてる悩みが聞けてよかった」
「優斗……」
「俺にはさ、そういう経験がないし、本当のことはよく分からないけど、何か、難しいよな。どこまでが自分のためで、どこからが他人のためなのかってさ」
どこまでが自分のためで、どこからが他人のためか。確かにそんな気がする。
「でも、俺は結衣の取った行動が間違っていたなんて思わないぜ?」
「え……?」
「だって結衣はお母さんの願いを聞いてあげたんだろ? 結衣の行動が誰かを傷つけたとしても、結衣のお母さんは結衣に感謝してるぜ、きっと」
私は目線を落とす。そうなのだろうか。そうであってほしい。
「人はさ、誰だって自分が一番大切だろ。だけど、誰かのために何かをしてあげることがものすごい大切なことだって分かってる。だから、迷うし、時には身勝手とも思える行動にも出てしまう。でも本人は心から他者を思っていたりするんだよな。他者にはそれが理解できなくてもさ」
優斗は遠くを見ながら少し微笑んだ。
「俺さ、今の聞いてちょっとあの人の気持ちが分かった気がしたよ。あの人には、あの人の考えがあって、少なからず、楠田家はあの人に助けられている。だから、少しだけあの人に近づいてみようと思った。結衣が『父さん』って呼んだみたいにさ」
そう言うと、優斗はこっちに向きなおって笑顔を見せた。
「大切なのは、人のためとか、自分のためとかの線引きなんかじゃない。本当に大切なのは、互いに分かり合おうと努力すること、寄り添い合うことなのかもしれないな」
優斗は再び、遠くの景色を眺めるように、そっと言った。その表情は、何かを悟ったようにすがすがしく、澄んだ表情だった。
確かに優斗の言うとおりだ。私は、誰かの気持ちなんて考えられないと思いながら、本当は誰にも目を向けてこなかったのかもしれない。
「優斗……、実はさっき栞と話した時なんだけど……」

私は、栞を先ほど泣かせてしまったことを正直に話した。私が栞と似ている気がするということも話した。それは栞の優斗や父に対する愛と、私の兄や母に対する愛の類似だ。優斗は納得した上で、私のしたことにお礼を言ってくれた。「栞ならきっと分かってくれる」と優しく言った。
「でも、栞が、『俺』に対してそんな風に怒ったのか……」
「うん。たぶん、優斗にもっと見てほしいんだと思う」
「そっか。分かった。結衣のこの身体を借りて、今より栞のことを見てやるか。結衣とも仲良くなるし、一石二鳥だな」
「うん」
「さて、そろそろ帰るか」
「あ、少しだけ待って」
「どうした?」
 私たちはその後、屋上を出て、病院内に戻る。私は最後に、もう一度、栞のいる部屋へ寄ろうと思った。彼女に一言謝りたかった。
栞の部屋は明かりが消えていた。試しに部屋をノックする。栞の名前を呼んでみる。しかし返事は帰ってこない。いないのだろうか? 私は扉を開けてみる。鍵がかかっていない。扉の開いた隙間から部屋を覗く。
「もう寝ちゃってるね」
月明かりに照らされた部屋の中、栞はベッドの上ですやすやと眠っていた。身体は窓を向いていて表情は見えない。「帰ろう」と催促する優斗に、私は「少し待ってて」と伝え、一人、栞の病室へと入った。
 起こさないようにそっとベッドに近づく。ケーキの箱が開いている。中を見ると、中のケーキは無くなっていた。食べてくれたんだ。
「栞、ごめんね……」
私はそっと囁く。栞は眠っている。
「もっと見てほしい気持ち、全然分かってなかった……。自分にもあったよ、そういう気持ちが。でも、自分のことばかりで、全然分かってなかったんだって思った。今まで、ずっと迷惑を掛けてきたね。本当にごめん」
だんだん優斗のことなのか、自分のことなのか分からなくなっていく。
「これからはもっと、栞のこと、見るようにするよ。あと、ケーキ食べてくれてありがとうね。お休み」
私はそう言い、部屋から出た。優斗は廊下のずっと先の方で待っていた。私たちは合流すると、家路についた。
 扉が閉まった後、月明かりに照らされたその部屋で少女は一人、枕を濡らした――。

寒そうにする私を優斗は気にしてくれた。そう言えば咳き込むこともあった。もとの世界でもそうだったが、病気がちなのは身体のせいではなく、心のせいなのかもしれない。 それはともかく、私の胸の中は、思った以上にすっきりとしていた。優斗に話してよかった。
私たちはゆっくりと帰りの夜道を歩く。ここから家までは徒歩でざっと十五分弱。
「そうだ、優斗。聞きたいことがあるんだけど」
「何だ?」
「あのお守りって何なの? あと、どうして三月二一日に霊園に行ってたの?」
「あぁ? 二つのことを同時に聞かないでくれ。お守り?」
「優斗の部屋にあった『諸願成就』って書いてある藍色のお守りだよ。私さ、もといた世界で、優斗にあれを渡されて、それをお墓に返して、こっちに来たんだけど、あれって何か特別なものなの?」
「あぁ……。あのお守りか。あれはさ、もらったものなんだ」
「え? 誰から?」
「あ、それはさ、内緒だ。うん、内緒」
「内緒?」
「今はな」
「じゃあ、どうしてそれを私に? この世界では渡されてないけど、前の世界ではお守りは優斗から私の手に渡ったよね?」
「それは、その、何となく……?」
「は?」
「いやぁ、何て言うか、結衣が心配だったんだ。本当に! あの時の結衣は、本当に何もかも塞ぎこんでいるような感じだったからさ」
確かにそれもそうだったけど。少なくとも、今ほど周りに関心はなかった。
「じゃあ私たちが入れ替わった日に霊園にいたのはどうして? あの日、私たちは会う約束をしていたよね? それをドタキャンして霊園にいたなんて、怪しいんだけど」
「お前は、取り調べの警官か。別に、理由なんてない。何となく落ち着くんだ。ああいう場所」
「約束をドタキャンして行くほどの場所?」
「そういうものなんだって。今度どうだ、一緒に」
私は「嫌だ」と即答する。どこかで聞いたセリフ。そうだ。私が栞に嘘をついた時も、そんな嘘を付いた。一つも腑に落ちる回答はなかったが、今はそういうことにしておいてあげよう。
「ねぁ優斗、帰る方法ってあるのかな?」
「それが分からないんだ。一刻を争うっていうのに」
「一刻? そんな風に見えないけど」
「バカ言え! と、とにかく一刻も早く結衣は帰るべきだと思うぞ。家族だって心配してるはず」
「そういう概念ってフィクションにはよくあるけど、私たちの記憶は前の世界から引き継がれているだよ? 同時に別の世界が動いてることなんてあるのかな?」
「うーん、よく分からないな」
「最近、時々思うんだよね。このまま帰れなかったら、仕方ないなって」
私は優斗が助かってから、妙に安心していた。優斗が死なないなら、帰れなくても、幸せに生きる方法はあるのではないか。
「それはダメだ!」
「ど、どうして?」
優斗は珍しく声を荒げる。
「ダメなものはダメなんだ。今は帰れる方法を探すんだろ?」
「う、うん、そうだけど」
「ごめん、何か大声出しちまって。でも大切なことなんだ」
「ううん。こっちこそ、変なこと言ってごめん。そうだよね。ここはあくまで夢の中……」
夢の中――? 
そうだ、ここは、夢の中……。すべては、日常と乖離した非現実。じゃあ、私の心は、身体は? この世界には、この世のありとあらゆるものが存在している。それでも、ここは私のいた日常ではない。あくまで、『夢の世界』なのだ。
じゃあ、優斗は――? 本物? それとも、夢の中の存在? 優斗は現実では死んでいる。もし、この世界を非現実の夢の中と捉えるなら、優斗もまた、夢の世界の住人にすぎないのだ。帰るということは、夢から覚めるということ――。優斗自身の存在も消えるということだ――。
「優斗は、怖くないの……? 私が帰ったら、消えちゃうんだよ?」
「全然。もともと死んでんじゃん、俺」
「そ、そうだけど。でも……」
寂しいよ……。
「なに結衣がしょぼくれてんだよ?」
「うん……」
「まぁでも、ありがとな。そう言ってくれるだけでマジ成仏ものだよ」
優斗の笑顔に吹き出してそうになる。何だか、いつも優斗には励まされる。私が不安になっても、優斗は軽いジョークで返してくる。私はその度に助けられてきた。
でも、今回は不安を拭えない。私は本気で優斗との別れが恋しい。優斗にトラック事故で亡くなった時より、それを強く感じる自分がいる。今になってようやく彼の存在の大きさに気づいている自分が悔しい。
「優斗、色々、ありがとね」
「おう? 何だ何だ唐突に!」
「いつお別れが来るかも分からないから、一応」
「な、なるほど」
「私さ、ずっと、人の気持ちに無頓着で、本当にダメな人間だったよ」
「結衣……」
初めて自分の弱さを、受け止め、それを話した。肩の荷が下りる。
「自分のことだけ考えて生きてきた。それを自覚しないまま……。でも、優斗の身体に入って、人の気持ちが少しだけ分かった気がする。私さ、ずっと独りでいいって意地張ってたけど、本当は誰かと分かり合いたかった。この世界に来て、それを素直に受け止められたんだ。それが嬉しくて」
「おいおい、長いうえに、ちょっとグッとくるようなこと言うなって。それに俺は何もしてないよ。結衣ががんばったんだ」
「うん……、ありがとう」
私はこの世界に来て、少しだけ、人間らしくなれたのかもしれない。周りの人たちの知らなかった感情に触れて、初めて気付いたことがあった。
「ん、ちょっと待てよ……」
優斗が急に考え込んだように額に手を当てる。
「どうしての?」
「そうか……! そうだよ!」
「な、何、急に」
「帰る方法が分かったんだよ! いや、厳密には分かってないけど!」
「本当に?」
「ああ! ずっとこの世界に来た理由を考えてたんだ。何かをやらなければならないって。それで、結衣のさっきの言葉でピンときたんだ」
「私の言葉?」
「人の気持ちが分かったって言ってただろ? 俺たちは、互いに人との繋がりに悩んでいた。でもその答えは、俺たちの中にちゃんとあった。この世界で初めて気付いたことだろ?」
「うん……」
「つまり、それが俺たちのやるべきことなんだ」
「やるべき……こと?」
「そう! 俺たちは、人を見つめ、人と向き合う。そうやって繋がりを作っていく。そのために、この世界に来たんだ!」
「根拠が、分からないよ」
「結衣、俺を信じてくれないか?」
どうして、優斗はここまで自信を持って言えるのだろうか。
「それで、本当に帰れるの?」
「保証はできない」
「……」
「でも、今の俺たちにできることは、これぐらいだろ? 俺たちが入れ替わって過去に来た理由は、きっとそうならなければいけない理由があったからだ。それを自分たちで見つけ、解決していく。それしか方法はない」
「……そうだね」
優斗の言うとおりだ。私たちがここへ来た理由は必ずある。優斗はそれを『人との繋がりを作る』ことだと推測した。それが、やるべきことなのか確たる証拠はない。しかし、優斗の身体になって、初めて見えた『人との繋がり』もある。帰れる方法が分からず、今できることが限られているなら、全力でやってみる価値はあるのかもしれない。
「優斗、私、思いついたんだけど」
「え?」
とっさに頭の中に浮かんだことがあった。本当は昔から考えていたことだが。
「牧野家と楠田家で、バーベキューでもしない?」
私の提案に、優斗は目を開く。
「いいじゃん! そうだよ、昔みたいに集まろうぜ!」
昔みたいにか。母が亡くなる以前は、牧野家と楠田家の親交は厚く、家族ぐるみで一緒に遊ぶこともあった。
「でも、集まってくれるかな?」
「そこが一番の問題だな。光一さんと、『父さん』が来てくれるかどうか」
「優斗……、『父さん』って」
「恥ずかしいから指摘するな。俺たちのやることはさっき言ったろ? とにかくあの二人が問題になる。しかも二人とも俺には説得できない。結衣が説得しなきゃいけなくなる」
「そうね……」
優斗のお父さんはもちろんのこと、兄と話ができるのは、私だけだろう。
「できそうか?」
「やってみるよ」
「おう! じゃあ俺は結衣のお父さんを誘う。結衣は楠田家と光一さん、ちょっと大変かもしれないけど誘ってくれ」
「分かった」
もしかしたら、今まで実現しなかったことが実現するかもしれない。兄は乗ってくれるだろうか? 栞とは分かりあえるだろうか? 様々な不安が渦を巻くなか、期待という芽を顔を出していた。
 
その時だった。
ポケットに入れていた携帯が突然鳴りだす。誰だろう? 私はスマホの電源を入れる。メールが一件届いていたみたいだ。メールボックスを開く。
「うそ……」
「どうした?」

『優斗君 こんにちは。これから少し会えないかい? 牧野光一』

「お兄ちゃんからだ……」
「おいおい、言ってたそばからじゃねーか」
「どうしよう?」
「行ってこいよ。誘うチャンスじゃん」
「でも……」
「時間はないんだぞ?」
「う、うん」

私は優斗になり済まして、兄に返信した。兄からはすぐに返信があり、近くの喫茶店で少しばかり話すことになった。何を話すのだろう? どんな風に話すのだろう? もう何年も兄とまともに話していない。ちゃんと話せるだろうか? 不安で手が震える。
「心配するな、俺も付いて行ってやるから」
「本当に?」
「もちろん、バレないように遠くに座ってるだけだけどな」
「それで十分。ありがとう」
「もう運命共同体なんだから、これぐらい遠慮するなよ」
「うん、ありがとう。う、ゴホッ、ゴホッ」
「おい! 大丈夫か!?」
急に大きな咳が出る。
「平気だから。少し風邪気味で、心配しないで」
私たちはそのまま、近所の喫茶店へと向かった。途中、偶然兄と出くわしても大丈夫なように、お互いに離れて歩く。
幸い兄と出くわすこともなく、私は喫茶店までたどり着いた。待ち合わせまでまだあと五分はある。先に入って待っていた方が良さそうだ。心臓が高鳴る。大丈夫。私は今、結衣じゃなく、優斗なんだ。平然としていれば問題ない。バレることなんてあり得ない。振り返って優斗の方を見る。優斗は頷く。大丈夫だ。私は一人じゃない。深呼吸をすると、店内へと入った。

     10

 兄は私が店に入って、五分もしないうちに入ってきた。私に気が付くと、こちらに歩いてきた。兄はスーツ姿だった。優斗は隠れるように店内に入り、私たちの死角になる位置に座った。兄はいつも忙しそうだったが、今日は早上がりだったということだろう。
「ごめんごめん」と入ってきた兄。その姿は、普段の私には見せない、あの時の優しい兄だった。それが見られただけで嬉しい。もう変わってしまったのかと思ったけど、まだあの頃の兄はいるんだ。私は改めて、もう一度、あの頃の兄に会いたい。
「待たせて悪いね、今日は仕事が早く終わって、彼女と会う約束をしてるんだけど、まだ少し早くて。何か頼む?」
「い、いえ、お構いなく」
「なんだ、今日は固いな」
「そ、そうですか?」
自分の実の兄に敬語で接するなんて、何だかむず痒い。
「妹が、栞ちゃんに迷惑を掛けたみたいだね。本当に申し訳ない。今日はそのことで一言謝りたくて」
そう言い、頭を下げてくる。
「い、いえ、その、大丈夫ですから。軽傷で済みましたから」
「そうか。それは安心した」
「それに、結衣は……」
何もしていない――。そう言おうとしたが、結果的には私が栞を傷付けた。それは変わらない。
「あいつが……、どうかした?」
「い、いえ……」
「そうか。……情けないよ、本当にあいつは」
兄の表情が曇り始める。その顔は、『私』に向ける表情――。タイミングよくコーヒーが二つ運ばれてくる。私は何て言えばいいか分からず、固まるしかなかった。
「あ、あの」
「ん? 何?」
コーヒーを啜りながら、兄は答える。私は意を決して聞いてみた。
「光一さんは、どうしてそこまで結衣のことを憎んでいるんですか?」
コーヒーを啜る手が止まる。張りつめた緊張感。心臓が飛び出しそうだ。
「あれ、そのことを知ってるのか? 俺が話したか?」
「実は、結衣から少しだけ聞いたことがあって、気になっていたんです」
「なるほどな」
兄はコーヒーカップを置き、ため息混じりに話しだした。
「あいつは、一人じゃ何もできない。昔から俺にばかり甘えてた。俺が構わなくなった途端に、母に甘えだして、死に追いやるまでずっとくっついて……、それを何とも思っちゃいないんだよ」
胸が痛む。『何とも思っちゃいない』確かにその通りだ。兄の中の『私』は、人の気持ちなんてまるで考えない最低な人間。
伝えたい。私は今、自分を見つめ直そうとしていることを……。自分の愚かさに気付き始めていることを……。
「そんなことが。……それで、光一さんは、まだ、怒っているんですか?」
「当たり前だろ? 許せる訳がない。ただ身勝手に人に甘えて、他人には迷惑をかけていることすら気がつかない。そんな人間のどこを許せと言うんだ?」
「……もし、それが変わったとしたら、許せますか?」
「さぁ、どうかな……。あいにく、仮定の話は苦手でね。少なくとも、今の状態が続くようであれば、可能性はないだろうな」
「そう……ですか」
「ごめんな、こんな話、しなければよかった。そろそろ時間だ。栞ちゃんにお大事にって伝えておいてくれ」
兄はそう言うと、窓の外を見た。外には誰かを待っている女性の後ろ姿があった。
「おっと、もう来てたか。あそこにいるのが彼女だ。今度紹介するよ。さ、行こうか」
まずい、このままでは、せっかく会えたのに誘いだせない。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「どうしたんだ急に?」
「今度、牧野家と楠田家で一緒にバーベキューをするんです。それで、光一さんにも参加してほしくて」
「僕はいい。皆で楽しんできなよ」
「ダメなんです!」
思った以上に大声を出してしまい、店内の視線が集まる。
「お、おい、お店の中で大声を出すなって」
「光一さん、さっき言ってましたよね? 結衣との状態がずっと続けば、可能性はないって。俺は、そんなこと絶対に嫌です」
「これは、僕の問題だ。君は関係ない」
「関係あります!」
私は兄に食い下がっていた。今しかない。今しかないんだ!
「お願いです。光一さんと結衣に、仲良くなってほしいんです。それに、光一さんにも来てもらえば、もっと盛り上がると思います」
「しかし……」
「光一さんも、結衣との関係が直れば、嬉しいんじゃないですか?」
「っ……」
「結衣は、それを望んでいます。俺からの願いでもあります。どうか、来てください」
私は頭を下げる。兄は会計をしながら、溜息を吐いた。
「……楠田家は全員来るの?」
「これから誘います」
「……、少し時間をくれないか。後で連絡するから」
「ありがとうございます!」
兄は軽く微笑み、店を出ると、彼女を連れて歩いて行った。後は連絡を待つだけだ。よかった。誘うことができた。
後ろから優斗が背中を叩いてきた。「やったじゃねーか」と喜ぶ。私も思わず喜んだ。
 
兄の憎しみに満ちた表情を思い出す。普段の牧野家にいる時の表情だった。目の前でそれをもろに受けたのは辛かった。『身勝手に人に甘えて、他人には迷惑をかけていることすら気がつかない』。本当にその通りだ。これは氷山の一角だとしたら、私はいったいどれだけの人を傷つけてきたのだろう。私のした行動は兄を傷付けた。今は、それが痛いほどに分かった。

 私たちは一緒に帰り、互いの家で別れた。
家では小雪おばさんと二人きりの夕食になり、私はバーベキューの件を話した。小雪おばさんは喜んで了承してくれた。栞には小雪おばさんから誘っておいてもらえるようだ。
目の前で話すこの人が、時々、母に見えてくる――。あの頃の面影が、何度も脳裏を過ぎる。小雪おばさんだったら、私のしたことをどう思うのだろうか。
「ねぇ、母さん。変なこと聞いていい?」
「なーに?」
「母さんがさ、もし重い病気にかかって入院したら、看病に来てほしいよね?」
「なーにその質問?」
「いいから」
「そうねぇ。もちろん来てほしいわ」
小雪おばさんはご飯を食べながらニッコリと笑う。
「そうだよね……」
「あ、でもねぇ、来てほしくない、って思うかも。ちょっとはね」
「え、どうして?」
「だって、家族に心配かけたくないもの。看病に来る度に心配な表情を見るのは、辛いだろうし。だから、私のことを意識せずに、何かにひたむきに頑張ってくれている方が嬉しいかも」
「俺は、もしそうなったら、看病に行かないかも。……なんて」
「心配してくれるだけで十分よ。子どもは親の心配なんてしないで、自分のことを精いっぱいがんばればいいの。心配するのは親の役割なんだから」
「じゃあ、もしも母さんが死にたくても死ねなくて、俺が手を施せば死ねたとしたら、俺に頼む……?」
「もう、さっきからどうしたの? 変な質問ばっかり」
「いいから答えてよ」
「そうねぇ……、もしそうなったとしても、最後の最後までそんなことできないわね」
「最後の最後まで?」
「そうよ。いくら辛くても、自分の子どもに自分の死なせる手伝いをさせるなんて、したくないもの」
「じゃあ、もしそれしか手段がなかったら?」
「もしそうせざるを得なくなるほど辛くなったら、お願いするかもしれない。そんな悲しい状況になるなんて想像もできないけど」
「そう……だよね」
「でも、例えそうなってしまったら、最後まで笑っている気がする。少しでも、その人が罪悪感に陥らないように、ありがとうってね」
母を思い出す。あの時、最後まで母は笑っていた――。母は喜んでいたのか。きっと、そうだ。母は嬉しかったのだ。
頬を涙が伝った。涙が出る前の熱い感情も感じることなく、気づくと涙が流れていた。
「ど、どうしたのよ?」
「ご、ごめん、何でもないから」
私は慌てて涙を拭いた。

 食事の後、優斗のお父さんが帰ってきた。私は意を決して、玄関まで行くと、バーベキューのことを話した。開口一番に『父さん』と呼ぶと、優斗のお父さんは驚いたようにこちらを振り返った。優斗の分まで頑張らなくてはいけない。
優斗のお父さんは、私の提案に「別にいいぞ」とあっさり乗ってきた。あまりにあっさりとしていたため、拍子抜けしてしまう。その後、小雪おばさんも加わり、バーベキューの詳細を話し、優斗と決めていた四月十九日にしようと伝えた。優斗のお父さんはスケジュール帳を開き、「分かった」と頷いた。あまりにうまく行き過ぎて少し不安になる。
優斗に電話でそのことを話すと、驚いてはいたが、やはりどこか不安げな様子だった。

 そして、翌日、兄からメールが入った。『参加するよ』。その文面を見て、私は飛び上がりそうになった。やった。まるで、何かを成し遂げたような気分になる。良かった。本当に良かった。明日には栞も退院するそうだ。大丈夫。一昨日のことはしっかり謝って、仲直りをしよう。私と優斗は詳細を決めて、皆に伝えた。それぞれから了解の合図が取れ、私は期待と不安に胸が高鳴った。大丈夫。さぁ、今こそ踏み出す時だ。
 それからは、私は疲れ果てるように眠りについた。少し精神的に参っていた部分があったのだろう。そして、数日が経過し、私たちはついに四月十九日を迎えたのである。

重なる面影

重なる面影

     11

 二〇一五年、四月十九日――。私たちはついにこの日を迎えた。元の世界に帰るための優斗の提案を受け入れ、私は牧野家と楠田家のパーーティーを企画。本来であれば、優斗は亡くなり、私と栞が一緒に出掛けることも、私と兄が一緒に出掛けることもなかった。
本来であれば、私はきっと優斗の死に思いを巡らせながら、家でひっそりと過ごしていたに違いない。しかし、この世界における私は優斗の身体を持つ。もはや、私ではない。優斗として私は生き、優斗として気づき、優斗として学ぶ。それは私にとって、今までにない考えを与えてくれるものとなったのだ。そして私は、今日、もう一歩先へ、優斗の提案した、人との繋がりが待つ未来へ、踏み出す――。
 
 だが、その日、唐突な出来事が起きた。つい一時間前のことである。
「え? 仕事?」
「すまんな、懇意にしているクライアントから急な呼び出しがあって、外せないんだ」
優斗のお父さんの突然のキャンセル――。優斗の不安が的中してしまったのだ。しかもバーベキュー当日になってのいきなりの仕事以来だった。
私が朝起きて玄関に行ったとき、丁度、優斗のお父さんが玄関に向かうところだった。既に出勤する直前で、私には彼を呼び止める時間すらなかった。
どうして……!? やりようのない怒りが込み上げる。
「そんな、だって約束したのに……」
「また今度だ」
靴べらを皮靴に入れ、丁寧に靴を履いていく。
「そ、そんなの……」
「すまん、急ぐから、話はまた今度な」
その素気ない言葉に私はショックを受ける。この前の晩、『約束を取り付けた』と報告した時の優斗の不安そうな返事が頭を過ぎる。優斗はこうなることを初めから予測していたのだ。今まで何度もこんな気持ちを味わってきたのか。私のショックは次第に怒りへと変わっていく。
「ふざけないで……!」
優斗のお父さんは立ち上がりながら、こちらを振り向く。驚いたように目を丸くする。
「約束を破ったの何回目だよ。俺も、栞も、楽しみにしてるんだよ。毎回毎回。父さんは……考えたことあんのか!」
私はついに怒りを露わにしていた。何事かと小雪おばさんが玄関へやってくる。出掛ける準備をしている最中といった格好だ。栞は扉の影からその光景を見ていた。
「ちょ、ちょっとどうしたの?」
「優斗、外せない案件なんだ。分かってくれるな?」
優斗のお父さんは手なれた手つきで、頭をポンポンと叩いてくる。その仕草も、態度も、表情も、すべてに余裕が感じられる。そうか、優斗はいつもこうやってやり過ごされてきたんだ。優斗のお父さんは、そのまま玄関を出て行こうとする。
「待てよ!」
優斗の、言動、声。怒りは優斗のものだ。そして栞のものでもある。私の大声に、玄関先で優斗の父は振り向いた。これが最後のチャンスになる気がした。
「家に金入れてくるだけが、父親の仕事なのか? 楠田家の家族なのか、企業の家族なのか? どっちだよ!」
「ちょっと、優ちゃん……」
「なんだ、その口の利き方は?」
優斗のお父さんは再び玄関へと入ってくる。
「今日約束を破ったことを、絶対に許さないから」
優斗のお父さんは何かを言いたげだったが、やがて目線を逸らし、小雪おばさんに「いってきます」と冷めた口調で言い、そのまま家を出て行ってしまった。私は、呆然と立ち尽くすし、玄関から見える外の景色を見ていた。

 しばらくは楠田家に気まずい空気が流れたものの、小雪おばさんが明るく振る舞ってくれたおかげで、何とかその場は持ち直す。残された、私と、栞と、小雪おばさんは、出発の準備を再開した。
私はがっくりとうなだれていた。せっかくのチャンスが失われてしまった。どうしてこうなる……。優斗に何て伝えればいい……。きっと優斗は「だろうと思った」と冷静に答えるだろう。でも、本当は辛いに決まってる。他人の私でさえ、ショックを受けたのだから。あんなに冷静に、当たり前のように約束を破られていたとは知らなかった。
「優ちゃん、珍しくお父さんに怒ったわね」
「珍しく?」
「だって、最近は、お父さんに何も言わなかったじゃない? 私から言ってもダメで、優ちゃんから言ってもダメだって、ずっと悩んでいたでしょ?」
そうか。やっぱり。優斗のお父さんの手なれた言動や行動を見れば分かる。もう何度もああやって、優斗や栞の気持ちをないがしろにしてきたのか。確かにああいった態度を何度も何度も続けられてきたら、失望するだろう。母が生きていた頃の父は、確かにあんな風だったかもしれない。私はあまり関心を寄せてはいなかったけど、兄は、こんな気持ちだったのかな?
「怒らなきゃ分からないよ。本気でぶつかり続ければ、きっと何かあると思う」
「そうね。私も応援するわ。お父さんのこと、よろしくね」
「うん」
気を取り直して、準備をする。現在の時刻はすでに八時半を過ぎている。急がなくては。九時になれば、楠田家の前に迎えの車が到着する。牧野家を乗せて、父が運転する車が来るのだ。バーベキューは、市内にある大きな国立公園にあるバーベキュー場で行うことになっている。車で行けば数十分で行くことができるが、歩くと公園内をかなり歩かなくてはいけなくなる。そこで優斗に頼んで父に車を出してもらうことにしたのだ。
そばにはフットサル場、バスケットコート、芝のフリースペースなど遊ぶにはもってこいの環境が整っている。そこで皆で一緒に遊べば、きっと良い方向に流れてくれる。
 牧野家は大丈夫だろうか。優斗は今何をしているだろう? しっかり準備できているだろうか。兄がキャンセルをしたりしていないだろうか。不安は過ぎる。しかし、考えたところで仕方がない。連絡を取ろうとして手に取った携帯を再びポケットにしまう。大丈夫なはずだ。
「お兄ちゃん」
リビングで待機していた私に、栞は声をかけてきた。あの病院での喧嘩の後、私と栞はちゃんと仲直りをしていた。
驚くことに栞の方から私に話しかけてきたのである。「ごめん」と一言謝ってくれた。ケーキのお礼も言ってくれるとは思わなかった。私も謝り、今は普通に会話をするほどに関係は回復している。
「何?」
栞は私の近くに座る。
「さっき、何であんなにお父さんに怒ったの?」
「おかしいか?」
「そうじゃなくて、いつもはもっと、冷めてたから」
「そうだね。でも、やっぱり大切なことだと思ったんだ。本当なら大好きな人たちに無関心でいるなんて、悲しいことだから。だから、父さんには、自分がしたことで悲しむ人がいるんだってことを、何回でも言ってやるんだ。俺と、栞のために。あと、父さんのためにも」
私の発言に、栞は目を丸くする。
「なんか、お兄ちゃん、変わったね」
「そう、か? どんな風に?」
「ううん。別に。私も『変わって』あげてもいいよ」
「え?」
「何でもない」
栞はそのままどこかへ行ってしまった。栞の言った『お兄ちゃん、変わったね』という言葉が胸に残る。優斗ではなく私なのだから、多少性格は変わるだろう。栞にとって良い意味での変化であることを願う。それに、栞自身が『変わってあげてもいい』というのは、どういう意味なのだろうか。
栞も、優斗のお父さんがいなくなったことに対して、あまり驚いてはいないようだった。慣れてしまったのかもしれない。ずっと、優斗の境遇に幻想を抱き、私に比べたらずっと生きやすいのだろうと考えてきたが、私の見えない部分で色々と大変だったんだ。

 時計を見ると、もうすぐ九時になる頃だった。そろそろ行かなくては。準備ができた小雪おばさんと先ほど出ていった栞がリビングへと集まる。
「何だか久しぶりね、牧野さんたちと一緒なんて。少し緊張しちゃうわ」
小雪おばさんはしきりに鏡を見て、自分の服装をチェックしている。小雪も自分の身なりをチェックしてかばんの中身に忘れものはないかを確認している。私も何だか緊張してくる。大丈夫。きっと上手くいくはずだ。ここまでやってきたのだから。
「さぁ、行こうか。楽しもう」
私たちは、玄関で靴を履き、バラバラと外へ出て行った。

 玄関先で待っている私たちのもとへ、牧野家の車はすぐに到着した。窓の中に見えるのは三人。運転をしている父。助手席に座る優斗、そして、その後ろに座っている兄の姿が見えた。兄が車に乗っている――。それを見て、ホッとする。良かった。運転席の窓が開き、父が顔を出した。
「いや、どうもどうも。狭いですが、乗っちゃってください」
父に軽く挨拶を済ませ、その先の優斗の姿を確認する。優斗と目が合う。お互いに頷くと、私も車に乗った。私は兄の横に座り、その後ろに、栞と小雪おばさんが座った。
「いやー久しぶりですね。あれ、義人さんは、どうされたんですか?」
車を走らせる父は、バックミラー越しに話しかける。義人とは、優斗のお父さんの名前だ。
「それが、急な仕事が入ったみたいで、せっかく皆で集まれるのに、ごめんなさいねぇ」
小雪おばさんが申し訳なさそうに言う。優斗の表情が見えない。いったいどんな顔をしているのだろう。冷めた顔をしているのだろうか。
「いえいえ、仕事なら仕方ない。そうだよな結衣」
「あ、うん……」
「それにしても、優斗君が企画してくれたんだって?」
突然父に話を振られ、動揺する。
「え、ええ、そうですよ。久しぶりに皆で集まって楽しく盛り上がりたくて」
「ありがたいよ、何たって家にいたんじゃ、ずっと映画を見ちゃって、運動もしたかったんだ」
父はいつもよりテンションが高い。本当に楽しんでいるようだ。
車内は初めこそぎこちない空気を醸していたが、意外な盛り上がりを見せた。途中、栞と兄が楽しげに会話するシーンもあり、思いのほか、良いムードが車内には広がっていた。この調子であれば、順調にことは運んで、それぞれにあったわだかまりもなくなっていくのではないか? そんな期待が私の胸に広がる。

 車はすいすいと走り、ようやく目的のバーベキュー場についた。私たちはぞろぞろと降りバーベキュー場にある自分たちの貸出スペースへと向かう。父は先頭を歩き、小雪おばさんと栞はその後を追う。私と優斗もそれを追うようにして歩き、兄は最後尾をゆっくりと歩いてきた。
「優斗、ごめん、優斗のお父さん、今朝仕事が急に入ったって」
「ああ、そんなことかと思ったよ。まぁいつものことだから」
「それで、私、かなり怒っっちゃって」
「え?」
「仕事に行こうとしてるところを、もう絶対に許さないって、大声で……」
「結衣、中々すごいことするなぁ。サンキュー、そこまで言ってくれて」
「うん……。それで、お兄ちゃんの様子はどう?」
「光一さんか。別にいつも通りって感じ。ほとんど口は利いてくれてないけどな」
「そっかぁ」
「それで、縁りを戻す良い方法はあるのか?」
「特別な策は、ないかな」
「おいおい。でもバーベキューなら何とかがんばれそうだな。栞にも積極的に声をかけてみようと思う」
「うん、よろしくね」

私たちはさっそくバーベキューの準備に取り掛かった。材料を調理するのに、小雪おばさんが主体となり優斗と栞もそれに加わった。男のメンバーはその他の作業を分担することになった。
「結衣ちゃん、そっちの袋から材料取ってもらっていい? 栞は玉ねぎ切るの手伝ってね」
女性グループは小雪おばさんが主体となって、上手くやっているようだ。
優斗が栞の方へ玉ねぎを持っていって何かを言っている。その光景は、不思議だった――。目の前で、私と栞が近づいて話をしている――。その会話はすぐに終わったが、栞は拒絶反応を示さずに、『私』と会話をしているように見えた――。
小雪おばさんと優斗が笑い合うところも見られて、私は微笑ましくなる。何だか、昔のビデオフィルムを見ている感覚になる。私は『私』を見ている。私と母が楽しく話している風景を――。懐かしさに胸が締め付けられる。
だが――、その光景を冷めた目で見ている人物が一人、私の隣にいた――。兄だ。小雪おばさんと優斗の楽しげな会話を聞きながら、いったい何を思っているのだろうか。それは想像に難くない。決して良い感情ではないだろう。
「光一さん、どうしました?」
「あ、ああ、優斗君。何?」
「いえ、ボーッとしてたので、どうしたのかなぁと」
「ああ、別に何でもないさ。それより、このチャッカマンの火はちゃんと付いたかい? 何だかさっきから調子悪くてね。お、付いた付いた」
兄は動揺を隠すように、作業に取り掛かる。
「光一さん、今日は来てくれて、ありがとうございます」
「あれほど頼まれたら断れないよ。ところで、優斗君」
「はい?」
「結衣のことなんだが、あまり僕に期待しないでくれ」
兄は再び優斗のことを見て、すぐに目をそらす。期待しないでくれ、か。何だか先手を打たれた気分だ。やはり、そう簡単にはいかないのだろうか。
「違う違う、玉ねぎはこうやって、そうそう」
優斗が栞に玉ねぎの切り方をレクチャーしている。優斗は、もともと料理ができる男子だった。だから、入れ替わっても料理に関しては心配していない。栞はぎこちなく優斗の教えを聞いている。まさかとは思ったが、こんなにも早く二人が打ち解けるとは思わなかった。最も、本当に栞が『私』に心を開いているかは分からない。けれど、ああやって一緒になって何かをするということですら、私にとっては奇跡に近いのだ。栞が野菜を切っていき、優斗は「うまいねぇ」と褒める。何だか、本当に姉妹のようだ――。私も少し、間に入ろう。
「栞、順調か?」
「う、うん」
包丁で野菜を切りながら、栞はぎこちなく答える。
「おお、なかなかうまく切れてるね」
「ほんと?」
「ああ、中々だよ。これ、結衣に教わったの?」
「あ、う、うん」
栞は恥ずかしそうに答える。私と優斗は目配せをして微笑んだ。
「ちゃんと結衣にお礼を言うんだぞ」
「さっき言ってくれたもんねぇ?」
「うん。ピーマンはどうすればいいの?」
「おお、ピーマンはねぇ」
すごい――。まるで魔法を見ている気分だ。栞が『私』という存在に心を開いている。これを見られただけでも収穫があった。
「おーい、優斗君。女性メンバーの中に混じってないで、こっちを手伝ってくれぇ」
父の呼びかけに私は持ち場に戻ることにした。もっと二人の会話を見ていたかったけれど、仕方がない。
父はレンガを地面に並べていた。コンロがなく、会場にあるレンガで自分たちのバーベキューの土台を作らなければならない。そのため、離れたところからレンガを自分たちの場所まで運ばなくてはならなかった。すでに兄もレンガを運んでこちらに向かってきていた。私もすぐさまレンガ運びに協力して、難なくコンロ代わりの焼き所が完成する。
そこまでの運動はしていないはずだが、妙に息切れがする。身体の調子が悪かったせいかもしれない。
「あら結衣ちゃん、上手ねぇ」
「いえいえ、これぐらい手なれたものですよ」
優斗と小雪おばさんは楽しげに料理をしている。それを栞が勉強をしているような眼差しで見ている。女性のメンバーがうまくコミュニケーションを取れているだけでうれしくなる。
「さて、火を起こせそうだし、こっちの準備は大丈夫そうだな」
父が暑そうに、額を袖で拭う。
「優斗君、ずいぶん疲れているようだけど大丈夫かい?」
「大丈夫です。最近少し運動不足なだけで」
私は休憩がてら地面に座り込んだ。父に敬語を使うことがあるなんて思ってもみなかった。
「義人さん、元気? 仕事が忙しくて来れなかったんだって?」
「はい、来る約束だったんですけど、直前に仕事が入ったみたいで」
「そっかぁ、そりゃ残念だったね」
「残念なんてもんじゃないですよ」
私がむくれると、父はハハハと笑って見せた。
「どう思う? お父さんのこと」
「ムカつきます。すごく。今朝、少し喧嘩みたいになっちゃって」
「喧嘩に?」
「つい感情的になって、『許さない』って大声で。今思えば恥ずかしいですけど」
「そっか、それで、お父さんは何て?」
「『親に向かってその口の利き方は何だ』って、少し険悪なムードになっちゃいました」
「ははぁ、なるほどな」
父は苦い表情を浮かべる。
「なぁ優斗君」
「はい?」
「義人さんのこと、嫌いにならないでやってくれ。たぶん義人さんも必死になってるんだ。今はただ、見えてないんだよな、きっと。実は俺も昔は、義人さんそっくりでな。そのせいで、光一に嫌われちまった」
父は苦笑いを浮かべながら、兄に聞こえないように小声で言った。
「知っています。結衣から聞きましたから」
「おお、そうなのか。結衣は、俺のこと何か言ってたか?」
「今は普通で……、良い父だって言っていましたよ」
「本当に? あいつ、嬉しいこと言ってくれてるみたいだな」
「あ、でも、映画を見るとき、もう少し、音量を絞ってほしいって」
「あは、なるほど、な」
父は苦笑いを浮かべて頭をかく。優斗の身体だから、不満も言える。
「智久さんは、結衣のこと、どう思いますか……?」
智久とは、父の名前だ。間違えてもお父さんなどと呼んではいけない。変な誤解をされても困る。
「結衣は、母さんが亡くなってから、家事を一生懸命がんばってくれてるよ。本当に助けられてる」
聞いていて胸が熱くなる。父がそんな風に見てくれているとは考えもしなかった。そうだったのか。父はちゃんと、私のことを、見ててくれてるんだね。
「今度、結衣に俺から言っておきますよ」
「ははは、頼むよ」
「ところで、智久さんは、どうして、俺の父さんみたいな性格から、今の性格に変わったんですか?」
この質問は、聞いてみたかった。私から父には直接聞いたことがなかった。母が亡くなった頃から変わったとは思うが、その真意は知らない。
「妻が亡くなった時に、ずいぶんと反省してね。自分は家庭のことを見ていなかったって」
やはりそういうことだったか。
「その時まで、気がつかなかったってことですか?」
「気づいているつもりになっていたんだろうね。でも、それは大きな誤解だった。妻が亡くなった時……、詳しくは話せないんだけど、色々とあってね。家族に迷惑をかけていたことを何も知らなかった自分が情けなくなったんだ」
詳しく話せないこと――。それは――、きっと私がこの手で母を死なせたことなのだろう。
「妻を死なせてしまった原因は、結局のところ自分にあったんだって、今でも後悔しているんだ」
そんな……、違う。父は、何もしていない。
「違いますよ。……智久さんは、悪くない。結衣は、そんな風には思ってないと思います。だから、自分のこと、責めないでください」
父は少しだけ笑った。
「そんなことを言ってくれるのは、優斗君だけだ。ありがとう」
「いえ……」
「そうだ、今度、義人さんと話してみようかな。優斗くんと栞ちゃんのためにね」
「ほ、本当ですか?」
願っても無い話だ。
「ああ、こんな話しに乗ってくれたお礼だよ。まだ以前のアドレスも残っているし、後で連絡してみよう」
「ありがとうございます!」
やった、やったよ、優斗。少しだけ、優斗と栞の願いに近づけた気がする。打開策が身内にあったなんて考える由もなかった。

 そうこうしているうちにバーベキューは始まり、私と父の会話をよそに、すでに串に通された肉や野菜などが火にかけられていた。ジュージューという食べ物が焼かれる音、香ばしい香り、これぞバーベキューだ。
「優斗、焼けたから、食べていいよ」
目の前の優斗に『優斗』と呼ばれ、びっくりする。そうだ、ここではお互いをしっかりと演じなければいけない。私はわざわざ『ありがとう、結衣』と分かりやすく乗って、焼けた串を頂いた。冷ましてから一番上の肉を頬張る。うん、おいしい。
「栞も、これおいしいから食べて」
「ありがとう」
優斗が栞に串を渡す。どうやら、栞は『私』に対して完全に心を許しているようだ。何だか、涙が出てきそう。
「小雪おばさん、口のとこ、タレ付いちゃってますよ」
「え? どこかしら?」
「あ、ちょっと待ってくださいね。今取りますから」
優斗はハンカチで小雪おばさんの口もとを拭いてあげる。「ありがとう~」と小雪おばさんがお礼を言う。
私は嫌な予感がした。その嫌な予感は、不快な音と共に露わとなる。ペコッ!とアルミ缶がつぶれる音が近くで響く――。兄だ――。左手に持った、コーラの缶をこれでもかというほどに、握りしめている。その手はかすかに震えているが、私以外の誰も気づいていない。事情を知らない人にとっては、ただ缶を潰しただけにしか見えないはずだ。
兄の目線はまっすぐに、優斗と小雪おばさんのもとに向けられている。その目は、怒りに満ちていた。まずい……。優斗にこのことを知らせなくては。でも今伝えるのは難しい……。とりあえず、今やるべきことは……。
「光一さん、向こうにスリー・オン・スリー専用のコートがあるんですけど、バスケやりませんか?」
私は兄の気持ちを逸らすことにした。
「あ、ああ……、良いけど、今から?」
「あのコート、すぐ埋まっちゃうんですよ。だから行きましょう!」
私は串の残りの肉や野菜を一気に頬張り、無理やり兄を誘いだして、バスケットボールのコートへと向かった。
これで何とか兄の意識を逸らすことができる。私はテニスをずっとやってきたけど、中学校の授業でバスケットボールをしたこともある。同じ球技だし、何とかなるだろう。サッカーよりはできるはず。
「優斗君、バスケできたっけ? 習ってるのってサッカーだよね?」
兄はコート隅に置かれた貸し出し用のバスケットボールをドリブルしながら、聞いてくる。兄はバスケットボール経験者。当然うまい。
「お、同じ球技ですから」
「言ったなぁ?」
兄は不敵な笑みを浮かべてドリブルを左右の手でつき始める。本当に大丈夫だろうか。私は見よう見まねで、ディフェンスの構えをしてみる。こんな感じだろうか?
「お、何かディフェンスっぽいぞ」
「あはは」
褒められて調子に乗ったのもつかの間、兄のフェイントに引っ掛かり、反対側をドリブルで抜かれてしまう。
「ハハハ、どう? サッカーとはまた違うだろ?」
ゴールを見事に決めた兄は微笑みながら、シャツを少しめくる仕草を見せる。兄の笑顔が戻る。楽しそうで何よりだ。
「今度は俺の番ですよ」
「おお、来い」
ボールを渡された私は、見よう見まねでドリブルをつく。だが上手くいくはずもなく、私がボールに遊ばれるような格好になってしまう。ドリブルをするほど、ボールがどこかへ行きそうになる。兄はそんな私の姿を見て、笑っている。
私も一瞬ボールから目を逸らして、兄を見る。純粋に楽しんでいる表情。兄の笑うところなんて、本当に久しぶりに見た気がする。懐かしい――。こんな笑顔を間近でずっと見られたらいいのに――。そんなことを考えている間に、兄は私のボールをひょいっと取り上げる。
「ドリブルは、こうやって体を入れて、敵から取らせないようにするんだよ」
私は兄の手本を真似てやってみる。
「そうそうそう! おお、うまいな。さすが、普段からスポーツをやってると覚えがいいね」
私はそのままぎこちないドリブルを見せながら、ゴールへと近づいていく。当然ボールを取られてもいい状況だが、兄はディフェンスをしながら、私のドリブルを見守ってくれた。ゴールまで行くと、私はボールを放った。中学校の体育を思い出して放ったボールは運良く、ゴールに吸い込まれていく。
「やった!」
「おお! さすが!」
自然と笑顔がこぼれた。ゴールが決まったことよりも、兄と同じ空間で喜びを分かち合えていることがうれしい。この調子でもっと楽しもう。
フェンス越しに芝生の広場を見ると、小雪おばさんと栞、優斗の三人はフリスビーで遊んでいた。何とも楽しそうな光景だ。父は何をしているのだろうか。キョロキョロと姿を探すと、近くの木陰で一人、本を広げて読んでいた。車であれほど運動ができて嬉しいと言っていたのに。まあいいか。
兄は時折、フリスビーをする小雪おばさんや優斗のことを見ている時間があり、そのたびに私が声をかけて、意識を逸らした。それから、しばらく私は兄と一緒にバスケットボールで軽い汗を流した。その時間は、本当にあっという間に過ぎていった。時々、教えてもらいながら、兄と一対一で勝負して、すごく容赦してもらって、喜んだり、悔しがったり、そんな一瞬一瞬の営みが最高に楽しかった。途中、隣のコートの人たちを含めて、三対三の試合をするなど、予想以上に充実した時間を過ごした。

 三〇分ほど、経って一旦求休憩をすることにした。フェンスにもたれ掛かるようにドサッと座り込む。思った以上に体力を消耗している。息が荒く、何度かむせてしまう。
少し違和感を覚える――。スポーツを通した気持のいい疲れではない、身体の内側から来る気だるさ。何だろう、この感覚――。
兄が飲み物を買ってくると言って、コートを出たあたりで、私の気の緩みを付くような出来事が起こる。それは一つの叫び声からだった――。
「痛っ!」
寄りかかったフェンス越しに、小雪おばさんの叫び声が聞こえてきたのだ。何事だ! 私は疲れた体を起こして振り返る。見えたのは、転んで尻もちを付いた小雪おばさんの姿だった。そして、栞と優斗が駆け寄っていく姿が見える。何があったのだろう?
小雪おばさんは肘を抑えるように抱え込む。その肘から、出血していた――。おそらく、転んだ拍子に、肘を打ちつけてしまったのだろう。大丈夫だろうか。
私は立ち上がり、彼らのもとへ向かった。優斗が何やらポケット中から取り出す。絆創膏だ。それをやさしく小雪おばさんの肘に張る。
 私がコートから出て、彼らのもとへ行こうとした時、ふと視界の端に、兄の姿が見えた。ハッとする。まずい……。兄は両手にスポーツドリンクを持ち、呆然と立ち尽くしている。。急がないと、まずい……!
「光一さん! ありがとうございます!」
「優斗君……」
兄は私を見て、再び彼女らの様子を見始める。
私は兄の視界から優斗たちを隠すように立った。しかし、兄の視線は変わらない。そして、兄は私の良く知る曇った声で、そっと言った。
「悪いけど、俺、先に帰るわ……」
「え、ど、どうして?」
くそ、そんな……。
「あいつ……、何でだよっ……!」
突然の兄の発言に、私は自分が言われたのかと驚いた。しかし、兄の目線は遠くを見ていた。その兄の向ける視線の先で何かが……。私は恐る恐る振り向く。
小雪おばさんは、優斗の頭を、『私』の姿をした優斗の頭を撫でていた――。ああ。あの時、優斗に言っておくべきだった……。
「これ、皆で飲んでくれ。俺はやっぱり駄目みたいだ……。それじゃあ」
「あ、ああの……」
掛ける言葉も見つからない。兄が行ってしまう。私は、その場に立ち尽くし、兄の背中をずっと見ていた――。

 その後、私は皆に兄が帰ってしまったことを伝えた。急用で止む無く帰ったという理由を付けて……。皆は『仕方がない』と納得していたが、優斗の目は誤魔化せなかった。
しばらくして父も交えてフリスビーが始まった頃、私は優斗に呼ばれ、木陰で話すことになった。
「結衣、何があった?」
私はがっくりとうなだれる。
「兄が、優斗と小雪おばさんの仲良くするところばかり見ていて、何度も気を逸らしたんだけど、怒って帰っちゃった……」
「そんな、まさか……」
「ごめん、私が小雪おばさんに距離を取るように言っていれば……」
「結衣のせいじゃないって。それより、どうして光一さんはそこまで……?」
「たぶん、優斗が小雪おばさんと仲良く接している姿を見て、あの時のことを思い出したんだと思う。それで、母への甘えを小雪おばさんにしているんだと思ったんじゃないかな……」
「そんな、光一さんはそう言ってたのか?」
「言ってないけど、でも表情を見てれば分かるよ……」
「聞いてみなけりゃ、分からないだろ?」
「分かるの……!」
「結衣……」
「分かるよ……。ずっと見てきたんだから……、私のしたことにずっと怒ってる……。もう、お仕舞いかもしれない。もう、何を言っても通用しないと思う……」
「まだ、何も話してないだろ?」
「それは……」
「俺に良い案がある」
「え?」
「おーい! ちょっと皆、時間いいかな?」
優斗の呼びかけに皆がフリスビーを止めてこちらを向く。
「ちょっとこっちに集まって」
「優斗、どうする気?」
「いいから」
小雪おばさんも栞も、父も、「どうしたんだ」という面持ちで集まってくる。
「さっき、お兄ちゃんが帰っちゃったのには別の理由があるみたいで、皆にそれを聞いてほしい。遊んでるところ悪いんだけど、大切な話だから」
まさか、皆にそのことを話すのか? そんなこと話したら、どんな風に思われるだろうか。優斗はどこまで話すつもりだ。まさか、母のことまで……?
「実は、私のお母さんのことで、お兄ちゃんは怒ってて、帰っちゃったのはそれに関係してるんだ」
本当に話すの……? 優斗は私の目を見て、『大丈夫』と頷く。
「おい、結衣」
「お父さん、この機会だから、楠田家の人にお母さんのこと、話したいんだけど」
「しかし……」
「お兄ちゃんがずっと私のことに怒ってる。もう私たちの中だけじゃ、何も解決しないんだよ」
毅然とした優斗の言葉に、父は言葉を失くす。そして、溜息の後に「……分かった」と頷いた。

 優斗はポイントを押さえて話していった。『私』が、母を死なせてしまったことを。そのせいで兄が『私』を憎んでいるということを。そして、そんな『私』が小雪おばさんと仲良くする姿に、兄はただならぬ怒りを覚えてしまったということを。
父は目を閉じ、黙って腕を組んでいた。栞と小雪おばさんは、驚いた表情を見せつつも、真剣にその話を聞いてくれた。私はただ黙って、皆の表情を見ていることしかできなった。

しばらくして優斗は話し終えた。場の空気は、張り詰める。
「それで、結局それを話してどうしたいんだ?」
たまらず父が重たい口を開く。
「私はお兄ちゃんとの関係を修復したいと思ってる。でも今のままじゃ何もできない。だから皆に話すことで打開策が生まれると思ったの」
「だが、やはり人様に聞かせるような話ではなかった……。すみません、こんな話を聞かせてしまって……」
父は頭を下げた。その時――。
「わ、私、結衣さんのこと、助けてあげたいんだけど……」
栞がその空気を断ち切る――。栞が、『私』を助ける……!?
「い、今まで色々あったけど……、今度は力になりたいなって。さっき、料理とか、教えてもらったし」
「栞……!」
優斗は栞に目を向ける。栞は恥ずかしそうに目を逸らした。栞の『変わってあげてもいい』という言葉を脳裏を過ぎる。そういうことなのか……!
「俺も、結衣の思いを叶えてあげたいんだけど」
私も優斗になりきって賛同する。
「栞ちゃんに優斗君まで、そんな……」
父は申し訳なさそうにたじろぐ。
「智久さん、さっきうちの父さんと話してくれるって言っていましたよね。それなら、楠田家だって牧野家を助けます」
「そ、そうね。少し驚いたけど、私でよければ光一君と話してみてもいいわよ?」
小雪おばさんも話を分かってくれた。
「本当ですか?」
「ええ、だって、悲しい話じゃない? 兄弟なのに。ねぇ優斗、この前私に聞いてきたことってこのことだったのね?」
私は静かに頷く。小雪おばさんが病気で入院して、看病に来てくれたらうれしいか、死ぬ手伝いをさせるかなどの質問のことだ。今の話を聞いて、思い出したのだろう。
「お兄ちゃん、お父さんと話してくれるって何のこと?」
「ああ、結衣のお父さんが、俺たちのお父さんを説得してくれるんだって。家族を大事にしろってさ」
「え? 本当に?」
「僕にできることは義人さんと話すことぐらいだからね。是非やらせてもらうよ」
それを聞いた栞は嬉しさに飛び上がった。微笑ましくなる。本当にお父さんのことが好きなんだな。優斗もびっくりした表情を見せている。優斗もこの件を今知ったのだからそれは驚くだろう。二人の喜ぶ顔が見たい。
 栞は、何やら父を呼んで話し合い始めた。何かを頼んでいるのだろうか。私は小雪おばさんに向きなおる。
「それで、小雪おばさん、本当に兄と話してもらえるんですか?」
「ええ、勿論、後で電話してみるわ」
「あ、ありがとうございます!」
「話しずらいことを話してくれて、どうもありがとう。大変だったのね」
小雪おばさんは、優斗を優しく抱きしめた。優斗はそっと身を寄せた。そこにいるのは、『私』であり、優斗であり、そんな少し不思議な錯覚の中で、私は胸の中にあった濁りが無くなっていく気がした。
初めから誰かを頼るべきだったんだ。今になってそれを実感する。簡単なようで、私には難しかった。一人で抱える方がよっぽど楽だったから。でも何も変わらないことは分かっていた。分かっていながら、怖くてできなかった。目の前にこんなに力になってくれる人たちがいるというのに、私は本当に馬鹿だったな。

当たり前というナンダイ

当たり前というナンダイ

     12

 『社会人は大変だ』世間は仕事に携わる人々をそんな風に捉えているかもしれないが、智久にとっては、その大変さこそ楽しみであり、生きがいであった。
しばしば家庭より仕事を優先してきた。それでも自分は家族を養っているという自負があった。だから、家族に何と言われようと、自分はたくさん働くことで、家庭は幸せになると信じて疑わなかった。
しかし、彼はその考え方を見直さざるを得なくなった。妻・千鶴の入院生活が長引き、彼女の容態が本格的に良くない方向へと向かっていることを薄々感じていた時のことだった。病院からの突然の電話に第六感が騒ぐ――。良くない知らせに違いない。そう思った。だが、まさか自分では想定もしていない事態に陥っていたとは予想すらできなかった――。

 四月二二日、バーベキューから三日が経ち、牧野智久は、再び仕事の現場に戻った。働けど、働けど、まだ週の真ん中、水曜日である。その日の仕事を終え、デスクで一息吐き、時計に目をやる。七時一五分、もうすぐだ。立ちあがり、オフィスの社員らに挨拶をして帰路につく。
「牧野さん、今日、一杯どうですか?」
「悪い、先客がいてね。また今度な」
「なんだぁ、残念。それじゃあまた今度誘ってくださいね」
智久は了解して、その場を去る。
ビルから出ると、小雨が降っていた。どうしてこう雨がタイミングよく降るのだろうか。やむを得ず、小走りをして待ち合わせ場所へと向かう。智久に対する会社からの評価は、一頃に比べて落ちた。会社の成績もあの頃に比べたら比べ物にならない。それでも、智久は満足していた。成績や評判が落ちた代わりに、自分を本当に慕ってくれる同僚や部下、そして家族が手に入ったのだから。
 小走りで走ること、五分。目的の場所へと到着する。オフィス街に佇む、飲み屋が何件も入ったビルだ。そこの二階に入っている安いバーで待ち合わせをしている。時計はすでに七時二五分を過ぎている。早くしなければ失礼だ。智久は、エレベーターを待たずに階段を上っていった。

 「義人さん、お久しぶりです。お待ちしましたか」
カウンターでメモ帳を広げていた楠田義人は、智久の声に気づき、「おう」と手をあげる。
「ああ、智久さん。いえいえ、丁度来たところですよ。ご飯食べられました? ここのカレー、すごく美味しいんですよ」
「ええ、お構いなく。僕は適当に飲みますから。義人さんも、何か頼んじゃってください」
「そうですか。それじゃあ、マスター。いつものよろしく」
義人の指示に、マスターは手際よくカクテルを作っていく。ほどなくして、きれいな青色のカクテルが差し出された。義人は「ありがとう」と言ってカクテルを口に運ぶ。常連なのだろう。智久はそのスマートな義人の振舞いに感心した。何を頼んでいいか分からず、自分も同じものを頼む。
「それで、急にお話があるなんて、どうしたんですか?」
「聞きましたよ、義人さん。子どもたちから。ちゃんと構ってもらえないって」
義人は意外そうな目をして、おどけて見せた。
「あは、もしかして話したいことって、そのことですか? てっきり、商談か何かの相談かと」
「義人さん、僕は真剣な話をしに来ています」
あまりに真剣な智久の表情に、義人はぎこちない反応になってしまう。
「それで、優斗や栞が、何か言っていたんですか?」
「お父さんと一緒に遊びたいって、怒っていましたよ。遊んであげてないんですか?」
カクテルを飲む手が止まる。
「最近は特に、約束を破ってばかりいるかもしれません。あいつら、そこまで怒っていましたか?」
「ええ、特に優斗君が。急に仕事が入って、約束を破られたって」
「そうですか……、あの日、珍しく優斗に怒られたんですよ。『絶対に許さない』って」
「それも、話していました」
「あいつが、あんなに怒ることなんて珍しくて、何か久しぶりにこっちもむきになっちゃいまいしてね」
義人は苦笑いを浮かべて、カクテルを口に運ぶ。
「そうやって、怒ってもらえるうちが家族としては最後の綱ですよ。優斗君と栞ちゃんのこと、もっと構ってあげてください」
「そうは言っても……」
「実は僕も昔、家族より仕事って時があって、息子の光一には口を利いてもらえなくなったんですよ」
「智久さんが……?」
カクテルを飲む手は止まり、義人は真剣に耳を傾ける。
「あの時は、自分ががんばることが家族の幸せになるって本気で信じていました。でも、全然違った。家族の中で、何かが壊れていくことに全く気がつかなかった」
「何が、起きたんです?」
智久は自分の前に置かれたカクテルに目を落とす。
「妻が命を落とす原因を、娘に作らせてしまった――」
「え……?」
「僕は何も知らなくて、病院からの電話で知ったんです。娘が妻の呼吸器を外したことで、妻が息を引き取ったことを。私は当時、忙しさにかまけて病院へはほとんど訪れていなかった。妻が、呼吸器をつけている状態すら知らなかったんです」
「そんな……」
「もし、しっかりと家庭を見ていたら、娘や息子のことに目を掛けていれば、あんなことにはならなかったって、今でも後悔してるんです」
義人は、何も言わずにカクテルを口に運ぶ。その手は、動揺を隠すようにかすかに震えていた。
「この前のバーベキューで、優斗君に同じものを感じました。彼は光一にそっくりです。それに栞ちゃんは、もっとあなたを必要としています。私が義人さんと話すと約束しただけで大喜びしていた。どうか、彼らのこと、ちゃんと見てあげてください。特にあの年頃の子どもたちはあっという間に成人しちゃいますから」
「……」
「働いてがんばることが彼らの喜びではありません。どうか、分かってあげてください」
智久はカクテルを飲みほすと、マスターに「おかわりをください」と頼む。義人は両手をカウンターの上で合わせる。その表情は自信を失っているように見えた。
「優斗に、玄関前で怒られた時に、ふと思ったんですよ。自分が当たり前のように、息子をなだめて、それに慣れてしまっていたことに……」
マスターは再びカクテルを入れると、静かに智久の前に差し出す。「どうも」と笑みを浮かべた。
「最初は……、あいつらのことも見てやるつもりでした。家庭と仕事を両立するつもりでね。でも、いつしかそれができないことが感覚的に分かっていって、家族のことを無意識に頭の中から消していました。それでも子どもは大人になっていく。ならば、その子どもたちのためにたくさん稼いでやるってね……」
義人は失笑気味に呟く。
「分かりますよ。僕もずっとそうでしたから」
「それで、……俺は、どうすればいいと?」
「簡単です。彼らと一日、どこかへ遊びに行ってください。家族で出かけたのはいつが最後ですか?」
「ここ最近はちっとも。最後に家族と出かけたのは、栞が小学校へあがる前、優斗が小学四年生の時の、キャンプです……」
「そんなに……?」
智久は改めて衝撃を受ける。もう七年も家族との貴重な時間を放棄してきたのか。優斗君や栞ちゃんの辛さが窺える。
「今週の土日は、空いていますか?」
「日曜は忙しい。土曜なら、キャンセルすれば何とか」
「じゃあ、ここへ行って来てください。都内から車で行けば近いですから」
智久は鞄から四枚のチケットを取り出し、それをカウンターに並べる。
遊園地の一日フリーパスチケット――。
「そんな、こんな良い頂き物、もらうわけには……」
「これは、優斗君と栞ちゃんからの贈り物です――」
「え……?」
「栞ちゃんは、毎月のお小遣いをずっと、義人さんと出かける時のために貯めていたんですよ。優斗君もこのチケットのために自分のお金を出してくれました。栞ちゃんから『お父さんによろしく』と伝えてほしいと」
「これを……俺に?」
義人はチケットを手に取る。
「彼らの心はまだあなたに向いています。今、あなたがそれに答えないで、誰が答えるんですか?」
義人はチケットを見ながら、微笑んだ。
「あいつら……。大したことをしてくれる」
義人はチケットをずっと眺めていた。まるで愛おしい存在のように。その目はさっきまでの義人のものとは違っていた。
「智久さん、分かりました」
智久は目を見開く。
「あいつらのこと、見てやることにします。こんなものを送られたんじゃ、仕方ない」
そう言ってチケットを嬉しそうにピラピラと振って見せる。
「義人さん……!」
義人はマスターに「もう一杯」と注文をする。
「智久さん、俺は、変われますかね? あなたみたいに」
智久はカクテルを飲み乾す。
「変りたいって思った時点で、もう変わっていると思いますよ」
その言葉に義人さんは笑った。吹っ切れたような、何か重い物が外れたような、そんな表情だった。
「このお礼は近いうちに必ずさせてもらいます」
そう言って、義人は深々と頭を下げた。
「お礼だなんて。僕はただの代理人です。お礼は、優斗君と、栞ちゃん、それから奥さんにしてあげてください。これは僕からのお願いです」
義人は何度も頷くようにして、了解をした。
智久と義人の話し合いはこれでお開きとなり、智久はそのまま帰路についた。義人はもう少しだけ、ここで飲んでいくと言い、カウンターに一人残った。義人は智久が去った後も、チケットにぼんやりと眺めていた。
時刻はもうすでに八時半を回っている。結衣が家で夕飯を作ってくれている頃だろう。光一は光一で、彼なりに過ごしているはずだ。智久自身も、これからもしっかりと子どもたちと向き合ってあげなくてはならない。そんなことを考えながら歩いていく。すでに雨は上がり、都心の夜はきれいに澄みわたっていた。

     13

 四月二五日、快晴。
この日、楠田家に取って、掛け替えのない時間が訪れた――。それは、優斗がずっと願っていたこと、そして栞がずっと願っていたこと。もちろん、小雪おばさんもずっと願っていたことだ。ずっと温めてきた思いが、今日叶うのである。彼らの思いを祝福するように空には一片の濁りもない。空は真っ青に澄み切っていた。
絶対に叶うはずがないその願いは、嘘みたいな世界で、本当のものとなった。優斗の死を乗り越え、彼らが求めていたことが実現するなんて、誰が想像できただろうか。父は、上手く優斗の父に説得をしてくれたのだ。私と栞のチケット作戦が功を奏した。あの日、 
つい三日前の二二日の夜、優斗のお父さんは夜遅くに帰宅してきて、まだ起きている私の頭を撫でた。それは、怒った私をなだめた時のものとは全然違った。
ありがとうな――。優斗の父はそう言った。その時は、優斗と入れ替わってあげたかった。翌日、優斗のお父さんが週末に遊園地へ一緒に行ってくれることを知った栞は、泣いていた。本当に、どれだけ待っていたのか、考えられない。私もそんな栞を見て、涙がこぼれてきた。自分が、人の喜ぶところを見てなくなんて思いもしなかった。この世界に来て、どれだけ人の思いに触れてきたのだろう。
優斗にそのことを知らせると、「信じられない」と驚きの表情を見せた。本当にそんなことが起こったのかと半信半疑だったが、詳しく説明すると納得してくれた。そして、自分もバレないようにこっそりと家族のことを見たいとチケットを購入していた。きっと私が同じ立場だったとしても、同じ行動を取っていただろう。身体を交換してあげたいけど、それはできない。だから、私は優斗のために楽しむことを決めた。

 楠田家は早朝から車を出し、遊園地へと向かった。栞も小雪おばさんも嬉しそうだった。優斗のお父さんは、まるで私の父を見ているようだった。仕事ではなく家族を思う父親そのものだった。
これが家族なのかな――。何度そう思っただろうか。普段何気なく過ぎていく日々の中で、こんなに一瞬一瞬が充実したのは初めてかもしれない。私は完全に優斗になっていた。優斗のお父さんと、小雪おばさんと、栞が楽しそうに遊園地を巡っている。私も我を忘れて楽しんでいる。一方で、もう一人の本当の自分が、その光景を眺めている。優斗のお父さんが普段見せてこなかった、純粋な笑顔、そして愛おしそうにじゃれる栞、それを見守る小雪おばさん――。こんなに幸せな風景があったんだ――。今、優斗はどんな気持ちでその光景を見ているんだろう? 泣いていたりして。仮に泣いていたとしても全然笑わないけど。だって、私が泣いてしまいそうだから。
 観覧車に乗って、遠くの建物を指さす栞、それを探して、説明する父、ジェットコースターで共に絶叫する親子。何枚も撮られていくカメラ。昼ごはんや、売店でのアイスクリーム。当たり前にありそうな光景の数々がこんなに愛おしく思えるなんて、想像もしていなかった――。

 一日があっという間に過ぎた――。気がつけば、あたりは夕日に包まれていた。「そろそろ帰りましょ」小雪おばさんの一声で帰ることに決まった。「もう少しいようよ」という栞のことを、私はなだめた。大丈夫、また何度でも来てくれる。私はそう確信していた。栞にもそれが伝わったのか、素直に頷いてくれた。
きっと今日、楠田家は変わった。たった一日、たった一日で世界は色を変える。この四月二五日という今日が、楠田家にとって大切になるんだ。これからも、ずっと。
帰りの車の中、眠る栞の横で、私は彼女の寝顔を見ている。まぶし過ぎる夕日が、彼女を照らす。どんな夢を見ているのだろう。良い夢でありますように。

     14

 帰ってきて夕飯を食べ終わった頃に、優斗からメールが届いた。

『話したい。公園に来れる?』

私はすぐに返信をして、公園に向かうことにした。思えば、こっちの世界に来た時も、公園で集合した。あれから数週間、まるで遠い過去のように思える――。外へ出ると、そこまで寒さを感じなくなっていた。季節は知らぬ間に移ろっていく。

 公園に着くと、ブランコをこいでいる優斗が待っていた。
「優斗、お待たせ。用事って?」
私は優斗のもとまで小走りに駆けて行く。私に気が付いた優斗はブランコをこぐのをやめて、立ち上がった。近づいてくる私を待つ。
そして、私が優斗のもとまでやって来た次の瞬間――、優斗は、私を抱きしめた――。
「ちょっ、優斗、やめてって……。恥ずかしいよ」
優斗は何も答えず私を抱きしめる。
「優斗……」
「結衣、ありがとう……」
「……うん」
優斗はしばらく黙ったまま、私を抱きしめた。

優斗の目は、わずかに腫れていた。きっと泣いていたのだろう。私はブランコに乗った。優斗も再びブランコに座って、こぎ始める。
「結衣は大丈夫だ。きっと帰れる」
「どうして?」
「分からないけど、今日、そんな気がしたんだ」
「何それ?」
おかしくて笑ってしまう。確かにこのまま順調にいけば、私たちの目標は達成できる。ただ、私には、一つだけ引っ掛かることがあった。それは、私ではなく……、優斗のことだ。それは……。
「後は光一さんだな」
「う、うん……。そうだね」
「小雪おばさんが光一さんと話す機会を作ってくれたみたいで、二八日に決まったって。光一さんがゴールデンウィーク前日に休暇取ってくれるみたいだよ」
「そうなんだ」
二八日、ということは、三日後か。ずいぶん早く決まったものだ。
「それで、俺が結衣の代わりに話そうと思う。とは言っても、俺が行くって言ったら光一さんは来なくなると思うから、頃合いを見て話しに加わるつもりだけどな」
「大丈夫かな?」
「大丈夫。俺に任せろ。今日のお礼は返させてもらうよ。それで、結衣も見に来るか?」
「私? 私は、行かないよ……。怖くて」
この後に及んで、私はまだ決心が付いていなかった。あの時の、バーベキューでの兄の目付き。私を怨んでいるその表情を思い出すだけで、辛くなる。できればもう、あんな兄を見たくなかった。話し合いを見に行けば、その辛さをまた味わうことになる。それは酷な話だった。
「そうか……、まぁ無理することはない。後で俺が報告するよ」
「ありがとう」

私たちはその後、帰ることになった。「帰ろう」とブランコから立ち上がろうとした時――、少しだけ身体に違和感を感じた。足にうまく力が伝わらない、棒のような感覚。そして、わずかに揺れる地面。おかしい。何かがおかしい。最近の私の身体は、何だか自分のものではない気がしてならない。もともと自分のものではないのだが。
私は何事もなかったかのように立ち上がり、優斗と並んで歩く。
「なぁ結衣」
「うん?」
「身体、平気か? 何ともないか?」
「どういう意味……?」
私の体調を見透かされたのか。
「いや、その、平気か?」
「う、うん。別に」
「そっか、それなら別にいいんだ」
優斗はぎこちない笑みを浮かべる。私は変な心配をされたくないと思い、とっさに嘘を付いた。この時の私は、その優斗の発した言葉の意味を理解することができなかった。

     15

 四月二八日、世間はゴールデンウィーク前日で、浮かれ気分になっている。牧野光一もその中の一人であった。大学院卒業後、就職してからもう丸二年が経った。光一の働きぶりは順調で、社内でもトップクラスの成績を上げている。自分にできないことなんて何一つ存在しない。そんな傲慢な考えすら浮かんでくる昨今、彼にも未だに拭いきれない後悔の念が一つだけあった。
それは今から二年前、牧野千鶴が亡くなったこと――。原因は呼吸停止による窒息、及び身体機能、脳機能の停止によるもの。そして、その原因を作ったのが、光一より十歳年下で、当時十四歳の妹・結衣だった。
あの日、光一は就職活動の面接を控室で待っていた。誰もが入りたがる超一流企業の最終面接。その企業は光一も入りたいと願った企業。自然と緊張感は高まっていた。
しかし、ポケットでしきりに鳴りだす携帯電話――。もうすぐ自分が呼ばれるかも知れないというのに、煩わしい。電源を切ろうと電話を手に取り、携帯の画面を見る。電話は、母が入院している総合病院からだった。嫌な予感が光一を襲う。電話に出ないわけにもいかない。担当の人に急な電話が入ったことを伝え、ブースを抜けて電話に出た。
電話の向こうからはナースの声が聞こえてきた。その声を聞いただけで、光一は良くない知らせが入ったことに感づく。
「至急、病院までお越しください」
無理だ。もうすぐ最終面接があるんだぞ?
「何があったのか教えてください」
光一の切迫した質問に、ナースは電話を代わるのでお待ちくださいと一言残し電話を離れた。ふざけるな、こんな大切な時に。苛立ちが募る光一のもとに、電話はすぐに代わりの人に切り替わる。
「状況をお聞きになりますか」
母の主治医を担当している人だった。まさか……。いや、そんなはずはない。落ちつけ。「お願いします」
消え入りそうな声で答える。「落ち着いて聞いてください」主治医の言葉に心臓が飛び出そうになる。止めてくれ、お願いだから、頼むから……。

「お母様が先ほど、お亡くなりになりました――」

持っていた携帯がするりと手元から落ちていく。極度のショックからか、強い吐き気が襲ってくる。壁にもたれかかるように何とか態勢を維持し、ハンカチで口を抑える。うそ……だろ。違う、聞き間違えに決まっている。光一はもう一度携帯を拾い上げる。
「光一さん! 光一さん!」主治医が心配して何度も呼んでいた。「はい」と声にならない声を上げる。
「もう一度、お願いします……」
聞きたくない。でも聞かないといけない。「お母様が……」主治医がそう言った時点でもう何も聞けなくなっていた――。
終わった……。何もかも……。母は……亡くなった……。あまりの衝撃に涙すら出てこない。世界がスローモーションのように感じる。自分は、今、何を、しているんだ……? 全身から力が抜け、生気が抜けたようにうなだれる。
 どうして……? どうして母は、亡くならなければいけなかったんだ……? どうして……!?
「どうして、母は亡くなったんですか……?」
力が尽きる寸前で、そのことだけが理解できなかった。
「それが、呼吸器が外れたことによる、身体活動の停止によるもので……」
何だ、それ……? そんなことで、母は亡くなったのか……? 死ななければいけなかったのか……!?
「どうしてですか!?」
抜けていた力は、怒りという負の感情によって再び呼び戻される。
「それが、誠に信じがたいお話なのですが……」
心臓が飛び出すほどに高鳴る。

「妹さんが……、外されたようです……」

頭を鈍器で殴られたように、気を失いそうになる。何だ……それは……! 結衣が、結衣が、母を殺したということか……?
「妹さんは、『お母様に頼まれた』と言っています。とにかく、すぐに病院へ……!」
主治医はそれだけ告げると電話を切った。
ツーッ、ツーッ、ツーッ。
その音だけが耳元でこだまする。一歩も動けなかった。母が、頼んだ……? 意味が全く分からない。どういうことなんだよ……!? 結衣…………!
 光一の胸に、煮えたぎる黒い感情が生まれる。妹は、母を殺したのだ――。理由が何であろうが、絶対に許さない――。

 光一は面接をすることなく、もつれそうな足取りで病院へと向かった。思考は既に停止していた。
携帯が再び鳴りだした。光一は携帯の画面すら見ずに電話に出る。
「牧野様の携帯でよろしいでしょうか」
その声には聞き覚えがあった。
「先日は最終面接にお越し頂き……」
よく聞き取れない。企業の人事の人だろうか。
「おめでとうございます。牧野様を採用します」
それは、先日光一が受けた一流企業からの採用通知だった。消え入りそうな声で、返事をし、電話切る。複雑に絡み合った感情が、胸の中で渦を巻く。嬉しいのか哀しいのかも分からない……。光一にできたのは、手からすり抜けそうな携帯を何とか支えることだけだった。

 病院に到着した光一は、覚束ない足取りで母の待つ病室へと向かう。階段を昇り、廊下に立つと、すぐに状況が分かった。何人かの看護師が出入りし、あたりは幾分慌ただしい様子を醸し出している。
ああ、本当に……。一歩一歩、歩を進める。まるで死刑台に上がるような感覚。そして辿りつく病室。中を覗き込むと同時に、強い向かい風が、光一に吹きつけた――。
その風に乗って、一枚の白い布が光一の足もとにひらりと舞い落ちた――。中にいた看護師や、主治医が光一の姿を見る。対照的に、光一はベッドに眠る『その人』だけを見た。そして、ゆっくりと、一歩一歩近づいた。
 母が眠っている……。安らかな表情をしている。本当に寝ているんじゃないか?
「母さん? 来たよ? 光一だよ……?」
母は何も答えない。いつもなら少しぐらい反応があるのに。そのまま肩にそっと触れる。温もりはある。肩を揺らす。
「母さん……、ほら……、起きてって。母さん……!」
次第に光一に力が入る。「光一君!」主治医が止めに入ろうとしたが、光一は止められなかった。
「さっき企業から電話があって、採用だって。ねぇ、母さん聞いてよ。ねぇ! 母さん!」何度揺すっても母は起きない。どうして!? どうしてなんだよ!? どうして……こんな……。
「止めるんだ! 光一君!」
光一は主治医に抑えられ、母から放される。そして、看護師の一人が先ほど舞ってきた白い布を母の顔にそっとかける――。
「母さん! …………!」
力なくその場に崩れ落ちる。ぼろぼろと涙がこぼれてくる。どうして、どうして……!?
 その時、光一は目に飛び込んできたのは――、部屋の片隅で父に抱きしめられながら、表情もなく母を見ている結衣の姿だった――。
こいつが……、こいつが……! 
憎悪の感情が再び渦を巻く。結衣は兄の目線に気が付き、目が合う。光一と視線が合った結衣の表情は、蛇に睨まれた蛙のように、恐怖と驚きに満ちていた――。

 ゴールデンウィーク前日の昼下がり、町は、社会人にとっては貴重な長期休暇前とあってか、既に大勢の人が私服で歩きまわる。
光一は約束の場所、近所のファミレスで待ち合わせをしていた。光一も今日から事実上ゴールデンウィークに入った。気分はすっかり休み気分である。しかし、今日はそんなに頭を休めるような気分でもない。
つい最近、一通のメールが送られてきた。それは楠田家の母・小雪さんからだった。『あなたの家族のことで少しお話をしたい』すぐに例の件であることが分かった。おそらく結衣が話したのだろう。きっと自分が帰った後で理由を聞かれ、おいそれと自分たちの間柄を話したに違いない。それで小雪さんが仲裁役を買って出た、といったところだろう。
正直、気乗りはせず、断ろうとも考えた。しかし、断わりのメールを打つ手が、なぜか動かない。そのまま、メール文を修正し、いつの間にか『分かりました』という返事を送っていた。
そして予定や場所を決めるまでに至り、今日、ゴールデンウィーク前日の午後、話をすることが決定したのだ。正直、自分としても、この一件についてはどこかでけりをつけたかったのかもしれない。何を聞かれるのか自分でも分からない。しかし、自分の思いは決して変わらない。
腕時計を見ると、集合時間を少し過ぎている。社会人なら、こんなことは許されない。正直、ここへ来るか、何度も悩んだ。迷いは思った以上に強かったことを今さらながら自覚する。光一はファミリーレストランの前で深呼吸をし、中へ入った。約束していた時間から既に十分が経とうとしていた。

真相究明

真相究明


     16

 ファミレスは平日だというのに、多くのお客さんで賑わっていた。もうお昼過ぎだというのに、意外と人の行動は分からないものだ。
そんな中、楠田小雪は、牧野光一を待っていた。時計を確認する。既に十分近く経っている。本当に彼は来てくれるのだろうか? 不安が頭を過ぎったその時だった。入口の戸が開く音が聞こえ、牧野光一がゆっくりとした足取りで姿を現した。
「光一君、こっちこっち」
小雪の手招きに、光一はすぐに気が付き、歩いてきた。一礼すると、少し広めのソファの反対側に腰をかけた。
「すみません、こんなに遅くなってしまって……」
「正直、もう来てくれないかと思ったわ。でも来てくれてよかった。何か頼むかしら?」
「そうですね。じゃあコーヒーを」
小雪がウェイターを呼び、コーヒーを二つ注文する。
「それで、お話とは……?」
光一の緊張した表情に、小雪は少し微笑んた。
「そのお話に入る前に、せっかくなんだから、リラックスも兼ねて、違うお話をしましょ」
光一の表情が少し緩む。
「そ、そうですね」
「光一君、いくつになるんだっけ?」
「今年で、二六になります」
「あら、もうそんなになるのね。子どもの成長は早くて困っちゃうわ。うちの子どもたちも、もう一七歳と一三歳で、あっという間に育っちゃうのねぇ」
「そういうものですか」
「そうよ」
二人の会話は小雪の質問で繋がれ、自然とした会話が成り立っていく。ただの会話、しかし光一にとっては、それは思いもしないことだった。
亡くなった母と話している感覚――。懐かしいあの頃の何気ない会話を思い出して、笑顔も自然とこぼれるようになっていく。

 楠田優斗はその会話を、聞いていた――。仕切りを挟んだ隣の席で一人、いつ会話の中に入るべきか窺っている。光一には全く悟られていない。今日、兄と直接対面することで兄妹のわだかまりを解消することが、優斗に与えられた使命だった。
必ず結衣を元の世界へ戻してあげなくてはならなかった。自分が消えることは必然。だから、結衣はここにいてはならないのだ。仕切りを挟んで、二人の会話が聞こえる。それは、緊張したものではなく、和やかで楽しそうな話し声だった。本当にこの状態から会話を切り出せるのか。しかし、自分のやることは決まっている。それをやるまでだ。入るタイミングは感を頼るしかない。大丈夫だ。

 「そうなのね。それじゃあ、今日はよくお休みで来れたのね?」
小雪は微笑みながらコーヒーを口に運ぶ。いつの間にか、コーヒーは飲みきっていた。
「うちは結果を出しさえすれば、いくら休んでも、問題ないですから。あ、コーヒーお代わりしますか? 僕が持ちますよ」
「悪いわよ」
「平気です。もっとお話ししたいですし」
光一は小雪に母の面影を見いだし、彼女と話すことを心底楽しんでいた。
「それじゃあ、お言葉に甘えちゃおうかしら」
「お構いなく、飲んでください」
「ありがとうね。それにしても、私みたいなおばさんなんかと話していて、そんなに楽しいかしら?」
「え、ええ。変ですか?」
「ううん、おかしくなんてないわ。ただ、何だか目がきらきらしていて、楽しんでもらえてるなら良かったと思って」
「そうでしたか。何となく小雪さんが、母に似ている気がして、ついはしゃいじゃってるのかもしれません」
光一は微笑しながら、もう残り少ないコーヒーを啜る。
「お母さん、亡くなってからもう二年かしら?」
「ええ、そうです。もう二年かって思う自分と、まだ昨日のことのように憶えてる自分と、両方いるって感じで」
追加のコーヒーが運ばれてくる。小雪はそれをもらって、新しいコーヒーを口に運ぶ。
「辛いかしら?」
「ええ……、とっても」
「光一君は、お母さんが大好きだったのね」
「そうかもしれません」
「そうよ」
少しにやりとほほ笑む小雪に、光一はつられて笑う。
「お母さんのどんな所が好きだったの?」
「母は、いつも笑顔でした。どんな時も。家事や仕事に追われてるのに、こっちが心配すると『大丈夫』って言って、常に笑っていました」
「そういう所が好きだったのね」
「はい」
光一は少しはにかんだ笑みを見せる。
「きっとお母さん、幸せだったわね」
「分かるんですか?」
「そりゃそうよ。同じ母だもの。私も子どもたちがそんな風に思ってくれてるといいなぁって思ったわ。きっと光一君のその気持ちに、お母さんは救われてきたと思うわ」
「そうだといいですけど……」
少しの沈黙。小雪はコーヒーを少しだけ飲んだ。
「でも、結局母は救われなかったんです……」
光一は、わずかに目を落として呟いた。
「……実は、母が亡くなる前、母は何度も僕に訴えてきたんですよ」
「訴えてきた……?」
「ええ、……『死なせて』って――」
小雪は唖然とし、言葉も出ない。動揺のせいか、そっと置いたはずのコーヒーカップが、カチャンッと音を立てる。
「僕には出来ませんでした。母が辛かったのは、重々分かってはいたんですけど……。母には生きていてほしかった。そのために、僕は何でもしました……」
光一は下をうつむいたまま、顔を上げようとしない。
「お母さんは、それで幸せだったかしら……?」
「それは……。でも幸せだったと僕は思ってます」
「どうして?」
「だって僕は、ずっと看病に来ていて、僕が来れば、母はいつも笑顔で迎えてくれた……。だから、母の力になりたくて、母が弱音を吐いても、勇気づけてあげたかったんです……」
光一は、まるで自らの母に言うように、言葉を並べていく。
「それは、光一君のエゴ、だったんじゃないかしら?」
小雪の言葉に、光一は顔色を変える。
「そんな、だって、家族を支えることが、家族の役割でしょう? どんな時も、力を与えてあげることが……」
「それでも、お母さんは、最後は結衣ちゃんを頼ったのよね? だから、お母さんは救われなかった、ということかしら……?」
「――っ。……それを、聞いていたんですか?」
「ええ。全部聞いたわ。お母さん、本当はあなたに、本当の意味で力になって欲しかったんじゃない?」
「それは……」
「あなたに言ってもダメだった。主治医の先生には当然頼めない。だから今度は結衣ちゃんに頼んだ。結衣ちゃんは、お母さんの願いを叶えてあげたんじゃないかしら?」
「違う……! だって、母は死なずに済んだんです。生きていられるはずだった……」
光一は両手にぐっと力をこめて、歯を食いしばる。
「お兄ちゃん、それは違うよ――」
その声に、光一は驚きのあまり目を見開く。そして、突然姿を現したその人物を、驚いた表情で見つめた。
「ゆ、結衣……!」
優斗は、満を持して小雪と光一のもとに姿を現した。静かに歩み寄り、小雪の隣に腰を下ろす。
「お前……。聞いていたのか……」
優斗は黙って頷き、黙って兄を見つめる。
「お兄ちゃん、よく聞いて」
「……っ」
光一は視線を逸らす。よほど聞きたくないのか。下手をすると、このまま帰ってしまう危険がある。優斗は思い切って言葉を発した。
「お母さんは、余命だった。もう助からなかったんだよ」

     17

 小雪と、光一。二人の会話をずっと聞いている人物がいた――。優斗ではない、もう一人の人物が――。気づかれないように身を潜めながら、二人の会話を近くで聞いている。バレないように深くフードを被り、ずっと光一のそばで彼の発言を聞いていた。
兄は、どんなことを言うのだろうか。牧野結衣は、そんなことを恐る恐る考えながらじっと客の一人に同化していた――。

 あの時、優斗にはこの話し合いに参加することを断った。しかし、どうしても兄の考え、言葉を自分自身で確かめずにはいられなかった。優斗に連絡しようとした手が止まってしまった。私は、兄に言われることを、優斗の前で見ていたくなかったのかもしれない。自分はここいはいなかった。何も知らないことにした方が、心穏やかにいられる気がした。そう考えたがために、優斗に連絡せずに、たった一人で、こんな風にこっそりと彼らのやり取りを聞きに来てしまったのだ。当然、誰にもバレていない。小雪おばさんにも、光一にも、優斗にも。
 そんな私は聞いていた。兄の考えを。まさか、兄も母から『死なせて』と言われていたなんて……。兄は母が助かると信じていた。そして、ひたむきに看病を続けていたんだ。だからこそ、母を死なせたくなかった。だから、私が母を死なせたことを、あんな風に憎んでいたのだ。
「お兄ちゃん、それは違うよ」
急な言葉に、思わずハッとする。この声は、優斗――。ついに兄妹が対面する。優斗は私の座る席をすり抜け、私の後ろの席まで向かった。そして座った音が背後から聞こえてくる。顔がバレないように背中を向けて座ったため、彼らの声しか聞こえてこない。この状況なら仕方がない。
「お兄ちゃん、よく聞いてね」
何だ? 何を言い出すのだ? 優斗、お願い……。
私は、上手くいくことを目を瞑って祈る。
「お母さんは、余命だった。もう助からなかったんだよ」
え――。優斗が何を言っているのか、さっぱり分からなかった。母が余命……? 何だ、それ……? そもそも優斗がそんなこと知るわけがない。それとも作戦……?
「バカな……、はったりだろ?」
「はったりなんかじゃない。事実だよ」
ふざけないで、優斗。そんなこと言ってどうしたいの?
「ふざけるな、この後に及んで、よくもそんなことが言えたもんだな……!」
兄が怒っている。声で分かる。ああ、最悪だ。どうしてそんな嘘を。
「嘘じゃない。主治医の松木先生なら、本当のことを言ってくれるよ。お兄ちゃん、黙っててごめん」
「松木先生が……。そんな……」
「お母さんは、そのことを言えなかったんだよ。私たちにはね」
「私たちだ……? お前が言われたんじゃないのか……?」
「これは優斗から聞いた話」
「ふざけるな!」
ガチャンッという食器の音が兄の怒鳴り声と共に響き渡る。
「嘘を吐くな……! 全部俺を言いくるめるための罠なんだろう!?」
「お兄ちゃん……」
「この前からおかしいと思ってたんだよ……! 急にバーベキューをやろうだなんて、優斗君まで巻き込んで、俺を丸めこもうとしていたんだろう!」
「光一君……! 落ち着いて」
小雪おばさんは何とかなだめようとしているが、兄のヒートアップは収まらない。
「お兄ちゃん、本当のことを話して謝ろうとしただけなの。だから怒らないで」
「謝る? 何をだよ?」
「お母さんを死なせてしまって、ごめんなさい……。でもこれだけは信じて。お母さんはもう助からなかった。松木先生に聞いてもらえれば……」
「……っ。どうして、俺らに言わずに、優斗君にわざわざ自分が死ぬことを告げる……!?」
「それは……」
口ごもる優斗。途端に、兄からため息がこぼれた。
「時間の無駄だったようだな……」
「優斗から、お母さんの伝言を聞いてるの!」
立ち上がろうとした光一がその言葉に立ち止まる。
「『余命は言えなかった。でも看病ありがとう。家族と仲良くしてね』って……」
「……」
「あのね、優斗も意味が分からなかったんだって。私が余命ってことを言うことになったら、伝えてって」
「……お前」
光一は消え入りそうな声で呟く。
「……ごめんね、黙ってて。でも私、全然知らなくて、だから言うこともできなかった。でも、もし良ければ、これからは仲直りして……」
ダンッという轟音が響いた。兄が拳をテーブルに叩きつけた。周囲からの視線が集まる。
「いい加減にしろ! 全部、でたらめだろ? この後に及んで、母さんまで利用しやがって!」
「光一君……」
一瞬で店が静まり返る。駄目だ。私も優斗の言っていることが分からない。兄なら尚更そう思うだろう。どうすれば……。
「お兄ちゃん……、信じて」
「黙れ!」
そう言うと、勢いよくその場を去る。私の横をすり抜けて、入口へと向かう。
「お兄ちゃん!」
優斗は立ち上がって兄を止めに行く。私は正面で鉢合わせる二人を上目で見る。優斗に腕を掴まれた兄が勢いよく振り向く。その顔を見た私は凍りついた。その鬼のような形相は、母が亡くなった時、兄が病室にやってきて、私を睨みつけた時の顔だ……。
「俺の前から……、消えろ!」
その言葉、その表情、その雰囲気、全てが走馬灯のように、こだまする。まるで、ストンとその場が崩れ落ち、奈落の底へ真っ逆さまに落ちていく――。私は、今、繋がれていた唯一の糸を断たれた。大事に、切れないように守ってきたものが、音を立てて切れてしまった――。
「光一……さん?」
入口に佇む一人の女性。彼女は、心配そうに兄と、優斗を見る。
「な、奈緒子……」
兄は彼女を見つめる。その表情は、驚きと、悲しみが混じっていた。
「くっ……!」
兄はそのまま店を出て行ってしまった。窓越しに走っていく兄を目で追う――。行ってしまう――。走り去る兄は、泣いていた――。お兄ちゃん……。ごめんね……。
「光一さん!」
その女性は、兄を追いかけるように、店を飛び出していった。優斗は、呆然とその場に立ち尽くし、動かなかった。私は頭の中で鳴り響く兄の最後の声を、消えてしまいそうな意識の中で聞いていた。

     18

 『公園に来てくれ。優斗』
私は優斗から届いたそのメールを何度も消そうとした。あの騒動が終わり、夕方になった頃、優斗からメールが届いたのだ。私は、彼に会って何を話せばいいのか。優斗から今日の出来事を話されることは分かっている。わざわざそんなことをしなくても私はもう知ってるんだよ? もうお仕舞いだ。諦めの言葉が脳をかすめる。
だが、メールを消去しようとする指は、最後の最後で動いてくれない。くそっ……。どうして……。私にまた傷つけっていうの? 
どうして今まで兄と分かり合おうとして来なかったのかという後悔の念が渦を巻く。たぶん、罰なのだろう。そう、全ては罰なのだ……。私が、今まで人の気持ちも考えず、ただ自分勝手に生きてきた罰……。私はそれを受け入れなければならない。
そうでしょ? 優斗。
 私は気が付くと優斗のメールに従って、公園に向かっていた。公園に着くと、既に公園のブランコに優斗がいた。私は、なるべく心中を悟られないように彼に近づく。何だか足もとがふらついてしまう。いつもの体調不良? それとも精神的な動揺?
「優斗……」
「お、おう、結衣。来てくれたか。メールの返信がなかったから来てくれないかと……」
優斗はずっと俯いていた。私が話しかけるまで、私に気がつかなかった。私は何も言わず、優斗のとなりのブランコに座った。
「……」
「……」
何て切り出せばいいか分からない。優斗も黙ったまま、何も言いださない。優斗、もういいから、話してよ。
「今日、お兄ちゃんと会えたの?」
なるべく自然に話しかける。声も、表情も、仕草も。
「あ、ああ、会えたよ。小雪おばさんと三人でな」
「それで、どうだった?」
私は優斗の方を見れない。優斗もきっとこっちを見ていない。私は、夕焼けに染まる公園を眺めながら聞いた。
「光一さん……、怒ってた」
知ってる。知ってるよ、優斗。
「そう……」
「でもさ、でも……」
優斗がこっちを向いた。
「ありがとうって……言ってたよ。話してくれて、ありがとうって」
え――? 優斗は、嘘を吐いた――。
「そう……なんだ」
私は見てたんだよ。知ってるよ、優斗。
「ああ。結衣は、悪くないって。言っていた……。だから結衣は、もう何も心配しなくていいんだ」
優斗は必死に笑顔を作っている――。そんな優斗を見た時、私の中で、何かが込み上げた。
「そう……」
頬を熱いものが伝う。
「そんなこと、言ってたんだね」
涙は止めどなく零れてくる。私は少し笑いながら、ごまかすように涙を拭う。でも、拭えば拭うほど、感情の波は止まらない。
「結衣……」
「どうしてかな……」
哀しかった。悔しかった。惨めだった。でも、嬉しかった――。優斗が私のために嘘を吐いてくれたことが、嬉しかった――。私はブランコ座ったまま、泣き続けた。

 その時だった。
 地面が揺れる――。さっきよりも強い――。大地震? いや違う。揺れているのは私だけだ。私、どうしたんだろう――? 
「結衣……?」
優斗、大丈夫だから。何だか、最近、少し身体の調子がおかしくって……。
しかし、その揺れの感覚は収まるどころか、次第に激しさを増していく。何だ? 今日はおかしい。どうしたんだろう? 疲れたかな? ダメだ。
私はブランコにすら座っていられず、そのまま地面に倒れこんでしまう。
「結衣!」
優斗が駆け寄ってきて私を見る。大丈夫だって。心配しないで。そう言おうとしたが、なぜか声が出ない。あれ? 私、どうしちゃったんだろう? 
次第に意識が遠のき、視界の中で、優斗が必死に私を呼んでいる姿が、徐々にぼやけていく。結衣、結衣、そう呼ぶ声も聞こえなくなる。もうダメだ……。意識が急速に世界から離れていく。私は成す術もなく、瞼を閉じる。暗闇に落ちていく意識の中で、優斗に身体を支えられる感覚だけが、最後まで残っていた――。

夜明けに残るのは

夜明けに残るのは

     *1

 夏が始まってまだ間もない頃の話。楠田優斗は、総合病院の診察室を訪れていた。優斗の正面には松木先生が座っている。
「最近の調子は、どうなんだい?」
深刻そうな表情で、彼は優斗に問いただす。
「まだまだ平気ですよ」
そう言いながら、二の腕をポンポンと叩いてみせる。松木は苦い表情を浮かべた。
「そうかい。何かあればすぐに来なさい」
二人はいつものように面談を済ませる。帰ろうとする優斗を、松木は呼びとめた。
「優斗君、面会してほしい方がいる」
その言葉に、優斗はピンときた。何度か会っているし、あの人しかいない。優斗は二つ返事で了解すると、その人の待つ部屋へと向かった。
その病室から呼び出しがかかったのは何度もあった。病室は三階にある。優斗はその部屋が誰の部屋であるかを知っていた。その部屋の患者は、優斗のよく知る女性。彼女は、つい三週間前にここに来たのだ。優斗は松木先生からそれを伝えられて以来、彼女に呼ばれることが何度かあった。部屋の前まで来ると、軽くノックをする。返事が一向に帰ってこない。仕方なく、扉を開けながら声をかける。
 彼女は、ベッドに座りながら、外をぼんやりと眺めていた。優斗のしたノックには気がつかなかったようで、彼が部屋に入ると、優しく彼を迎えた。

19

 私は暗闇の中を、さまよい歩いていた。ここは、どこ? もうどれぐらいの時間、ここにいるのかも、どれぐらいの距離を歩いてきたのかも分からない。ただ、真っ暗な道をひたすら歩いている。この道はどこへ続くのだろうか。先が全く見えない。この先に道が続いているのかすら分からない。怖い、それに悲しい、そして孤独だ。
そう、私は、ずっと孤独だったのだ――。
この道は、そんな私の人生を表しているのかもしれない。
「結衣さん――」
誰かに呼ばれて振り返る。
そこにいたのは、栞だった――。栞どうしてここに? 話しかけようとしても、なぜか声が出ない。
「今まで、ごめんね」
栞は悲しそうな目でこちらを見る。そんなことないよ。栞は、間違ってない。謝らなければいけないのは、こっちの方だ。
栞に笑顔が戻る。次第に栞の身体は背景に同化していき、そのままゆっくりと消えていった。栞? どこに行ったの? 私は辺りを探す。しかし、いくら探せど彼女の姿はどこにも見当たらない。
「結衣――」
「結衣ちゃん――」
どこからかまた呼ばれる。今度は誰? どうして私を呼ぶの?
気が付くと、目の前に父がいた。その隣に、小雪おばさんと、義人さんの姿もある。三人ともこちらを見て微笑んでいる。
「結衣、よくがんばったな――」
お父さん、どうしたの、今さら。
「結衣ちゃん、本当にありがとう――」
小雪おばさんはそう言い、頭を下げる。義人さんもそれに合わせて礼をした。
三人は、栞と同じように静かにその場から消えていった。
皆、どこに行っちゃうの? 私を置いていかないで……。
私は不安に駆られ、走りだす。ねぇ、ここはどこなの? 私はどうすればいいの? 誰か……。誰か……。
「結衣、大丈夫よ――」
お母さん……。気が付くと、目の前に、エプロンをした、懐かしい母の姿があった。お母さん! 私は母に飛びつくように抱きつく。しかし、私の両手は母を通り越し、風を切った。お母さん……?
「結衣――」
背後から母の声が聞こえる。私は振り替える。
そこにいたのは、先ほどの母ではなかった――。病院にいた時の、患者の服装に身を包んだ、弱った母――。頑張って笑おうとしているが、目が虚ろだ。母は私に何も言ってこない。一歩一歩、母に近づいた。お母さん、ごめんなさい……。ごめんなさい……。
涙が零れる。お母さんは、辛かったのに、私は何も分かっていなかったね……。ごめんなさい……。母は彼らと同じようにゆっくりと消えてしまう――。
お母さん……! 声にならない声をあげる。しかし、そこには既に誰もいない。どうして……。涙がぽたぽたと地面に落ちる。
「俺の前から――」
その声に、ハッと顔を上げる。お兄ちゃん……? 
「俺の前から……、消えろ!」
兄の鋭い目つきから、私は目を逸らさない。うん……、そうだね……。身勝手に生きてきて、たくさんの人の気持ちを踏みにじってきた。甘かったなぁ……。本当に、甘かった……。こんなことで許してもらおうとしていた自分が悔しい。
兄の姿は、もうなかった――。
私はその場で、目を閉じる。もう、終わりにしよう。もう、疲れた……。疲れたよ……。私はその場に横になる。そうだ。これでいい。旅は終わりだ。もう休んでもいい頃だ。
 結衣――。
どこかから、聞こえてくる声。結衣――、起きろ――。誰? 誰なの? 声の主が分からない。私は目を開く。だが、あたりを見渡しても誰もいない。結衣――。声はまだ、私に呼びかけてくる。早く姿を現してよ。
結衣――いつでも、俺がそばにいるから――。
 その時、遠くに今にも消えてしまいそうな小さな光が見えた。あなたなの? 名前は分からない。でも、孤独だった私に、いつも手を差し伸べてくれた人。さぁ、結衣――、こっちへ―― 私を呼んでいる。
私は重たい身体を持ち上げて、一歩一歩歩き出す。そうだ――。もうすぐだよ――。
その瞬間、光は大きくなり、全ての闇を一瞬で吹き飛ばす。私は、眩しい閃光に包まれた――。

 気が付くと、私はベッドに横たわっていた。ピッ――、ピッ――、と心電図のような音が聞こえてくる。窓から差し込む太陽の日差しが眩しい。ここは……?
「結衣!」
ベッドの横にいた『私』……、ではなく、『私』の姿をした優斗が、目を覚ました私の横にいた。右手が温かい。その手は、ずっと優斗が握りしめてくれていた。
「良かった……! 無事で……!」
優斗は安堵の表情を浮かべながら、泣きそうな目をこする。
「優斗、ここは……?」
「総合病院だ。結衣は昨日の夕方、公園で倒れて、俺が手配を頼んでここに連れてきてもらったんだ」
ということは、今は四月二九日、ゴールデンウィーク初日ということか……。
「手配……?」
「ああ。そのことで、結衣にずっと黙っていたことがあるんだ……」
「黙っていたこと……?」
「うん、そのことなんだけど……」
優斗が、何かを言おうとした瞬間、部屋の扉が急にガチャッと開いた。優斗はそれに気がつき、一旦言葉を切る。
「優斗君! 目が覚めたのか!」
顔を覗かせたのは、私の良く知る医者、松木先生だった。かつて母の主治医として、お世話になったことがある。その松木先生が、どうして優斗と面識が……?
「良かったよ……。それで、君も分かっているとは思うが、伝えなければいけないことがある」
「何を……ですか?」
松木先生は優斗のことを見る。
「結衣ちゃんも、優斗君の事情を知っているみたいだから、ここに残ってもらうよ。いいね?」
優斗は頷いた。「はい、私はもう聞きましたから」優斗は毅然と答える。何をだ……?
「優斗君」
先生は私をじっと見つめる。そして大きく息を吐いた。
「君の身体は、もういつ朽ち果ててもおかしくない。つまり、いつ死んでもおかしくない状態まできているんだ――」
え――? 目の前が真っ白になる――。この人は、いったい何を言っているんだ? 私が、死ぬ――? いや、違う、『優斗が』死ぬということか……。
「すまない、余命期間はあと半年はあると、診断しておいて……。死期が早まったのは、おそらく君が抱えた疲れやストレスが原因だとしか言えない。本当にすまない」
余命が……、半年……、あった……。あまりの衝撃に、思考が追い付かない……。どういうこと? どういうことなの? ねぇ優斗……、どういうことなの?
「しかし、家族にまで黙っていた君が、結衣ちゃんには話していたなんて驚いた。これからでも遅くはない。しっかりと家族にも話してみないか?」
「え……」
言葉が出てこない。どういうこと……。少し落ち着いて考えろ。私の思考は猛スピードで回り出す。
優斗は、寿命だった――。
あの時にはもう、助からなかったということか……? 
 トラック事故に巻き込まれそうになった優斗は、私を守った――。あの時、既に優斗の身体は――。
「ゆ、優斗君」
私は微動だにせず、遠くを見つめる。
「少し時間を置こう……。何かあれば、私を呼んでくれ」
松木先生は静かに部屋を出ていった。部屋には、私と優斗、二人だけが残される。私は彼の顔を見る。
「優斗……」
「結衣、今までずっと言えなかったんだ。本当にごめん……」
思えば、今日まで、ずっと体調が優れなかった。身体の疲れや痛みが何日も続いた日さえある。だが、まさかここまでとは思いもしなかった。優斗が私の身体を心配したのも、それが理由だったのか。
「どうして、言ってくれなかったの……?」
「この世界から帰れる方法も分からないのに、君を焦らせたくなかったんだ……。無事帰れれば話す必要もない。でも、まさか、死期が早まっていたなんて……」
そうだ。優斗はいつも焦っていた。早く私を元の世界に返すって……。それは、常に私が死と隣り合わせだったからだったのか。
「じゃあ、どうしてトラック事故の前に言ってくれなかったの? どうして、ずっと黙ったまま、私をかばって死んだの?」
「家族や結衣、周りの人に迷惑をかけたくなくて……。言えば、悲しむ。俺は誰の悲しむ顔も見たくなった。ごめん……」
反論しようとしたが、言葉が出ない。私が何かを言える立場じゃない。私に、優斗を責める権利なんて、何もないのだ。
「お兄ちゃんは……、もう帰ったの?」
記憶では、兄はゴールデンウィークには、牧野家を出ていき、また一人で暮らし始める。それも、大阪の方まで行ってしまうのだ。
「あ、ああ。今朝、出て行ったみたいだ……。朝一の新幹線に乗ってね」
行ってしまったのか……。もう打つ手は何もない……。
「これで、お仕舞いだね」
私は失笑する。人は諦めると、最後の最後には笑いが出てくるのか。
「結衣……。まだだ、まだ決まったわけじゃない」
優斗の言葉すら、皮肉に聞こえてくる。
「もう決まったよ……」
「結衣……!」
「もう、決まったんだよ……! 全部……!」
涙がぽたぽたとシーツを濡らしてく。両手でシーツを思い切り握りしめる。
「私、見てたんだよ……!」
「え……?」
「昨日、お兄ちゃんと優斗が話しているところをさ……! 全然ダメだったね……! ダメかなって思いながら、見てたけど、期待した私がバカだった……! だからもういい……もういいよ……」
本当にバカだった。でも、これで分かった。願っても叶わないものもある。がんばったとしても、むしろ何かを失うことさえある。
「結衣……、俺は……」
「優斗、一人にさせて……。お願い」
「でも……」
「お願いだから……!」
彼を睨みつける。こんなはずじゃなかったのに。優斗はあまりの私の剣幕に成す術もなく、俯いた。
「お願い……、頭を整理したいの……」
私の必死の訴えに、優斗は「分かった……。一旦帰って、家族に説明だけしておく」と言い残し、病室を静かに出て行った。優斗の言う説明とは、おそらく家族に今のこの状況は教えず、嘘を通すということだろう。
しばらくして、病室の窓越しに、帰っていく優斗の姿が見えた。優斗、ごめんなさい。帰っていく優斗の背中を目で追う。私が、去っていく。牧野結衣が、私から離れていく。私はその面影を、見送った――。

 何もしないまま、夜がやってくる。私は何も考えていなかった。ただ暗くなる部屋で、一人、ずっと外の世界を眺めていた。携帯が何度か鳴っていたが、それを取る気にもならない。
この世界でも、やっぱり優斗は死ぬ運命だった――。『事故を回避すれば、優斗は死なない』という方程式は、通用しなかった。事故が起こった時、優斗は私をかばわなくても、数カ月以内の命だった。だから、私をかばったのだろうか……。優斗が私をかばったのは、先が見えていたからということだろうか……。
 私は、もう、いつ死んでもおかしくない。松木先生はそう言っていた。いったいこの身体のどこが悪いのだろうか? 詳しい病名は聞いていない。だが、確実にこの身体は崩れかかっている。そして死へのカウントダウンはもう終わりを迎えようとしている。運が悪ければ、私は昨日の夕方に倒れたきり、目を覚まさなかったかもしれないのだから……。

私が、消える――。いったい、どんな感覚なのだろう。元の世界からは、私は消えているのだろうか。しかし、『私』がここにいるだけであって、もしかしたら、違う私が今も生きているかもしれない。この世界でこうして生きていること自体が不思議なのだから、可能性は無限にある。
優斗は、私を元の世界に返すと約束してくれたが、果たして本当に帰れるのか。それにもう私には時間がない。残念だが、打つ手なしだ……。
「死ぬ前に、お兄ちゃんと話せてよかったぁ」
誰もいない真っ暗な部屋で一人呟く。当然誰の反応もない。
死ぬ時は、誰でも孤独なのか。帰り方も分からず、命の時間がないのなら、もうお手上げだ。
 私はようやくベッドから立ち上がる。足取りが覚束ない。身体が思うように動かない。死が近づいているのか? 私は部屋を出ると、そのまま廊下へ出る。
暗い廊下を一人、手すりを頼りに進む。行く場所はもう決まっていた。廊下を渡りきり、階段を上る。ゆっくりで大丈夫。今だけは無限の時間が流れているのだから。やがて四階へと到着する。あと少しだ。
 四階から伸びる階段を見る。その先に、夜空が見えた。なんて、綺麗なのだろうか。私は階段をゆっくりと上り、扉を押してみる。鍵はかかっておらず、扉は私を待っていたかのように音もなく開く。扉の先には春の夜風が吹いていた。

     *2

 楠田優斗は、松木先生の言う『面会してほしい方』の待つ病室へと向かい、彼女の待つ部屋へと入った。
 彼女は、ベッドに座りながら、外をぼんやりと眺めていた。優斗のしたノックには気がつかなかったようで、彼が部屋に入ると、優しく彼を迎えた。
「こんにちは。千鶴さん」
優斗は彼女に礼をする。彼女は、結衣の母、牧野千鶴。優斗が牧野さんと呼ぶと、『千鶴でお願い』と訂正されて依頼、『千鶴さん』と呼んでいる。
「どうしたんですか? 何か話したいことでも?」
優斗が部屋に入ると、牧野千鶴は手招きをした。
「良いものをあげるから」
まるで、誘拐犯のように、微笑みながら、手招く。優斗もなれたように彼女のもとへと向かう。
「手を出して」
優斗は言われるままに右手を彼女の前に出した。千鶴は何かを握っていたが、それを優斗に見せないようにしている。そして、優斗の手をもう片方の手で握ると、自分の持っているものを優斗に優しく握らせた。小さな布のようなもの――。優斗は握りしめた瞬間、そんな感覚を抱いた。
「見てもいいですか?」
優斗の質問に、千鶴は「どうぞ」と頷く。それを見ると、ゆっくりと握りしめた手を開いた。
「これは……? すごく綺麗ですね」
優斗が渡されたものは、藍色の小さなお守りだった。
「諸願成就のお守り? これを、どうして?」
優斗は、これのどこがいいものなのか、さっぱり分からなかった。
「優斗君、結衣のこと、好き?」
突然の質問に思わずせき込んでしまう。どうしたんだ急に。動揺しながら「はい」と答え、「友達として」と即座に付け加えてしまう。それを見た千鶴は少し笑った。
「諸願成就、色々な願いが叶うって意味よ」
そんな意味があるのか。
「私の願いは叶わなかったけど、優斗君には、希望がある。だから、大切にとっておいて」千鶴は優しく笑った。優斗にはその意味が痛いほどに分かった。お守りを握りしめ、頷く。千鶴はお守りにはたくさんの効果があることを教えてくれた。
「このお守りは、渡した人と渡された人を繋いでくれる。その人たちの大切な人たちも一緒にね。だから、私の思いは、優斗君に託すわ」
渡した人と渡された人を繋いでくれる――。素敵な効果もあったものだ。
「それで、最後のお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
千鶴の質問に、優斗は迷わず頷いた。何でも叶えてあげる覚悟は既にできていたから。
「結衣のこと、よろしくね」
千鶴の願いはそれだけだったが、優斗にはその意味が何となく分かった。
「はい」
優斗が強く頷くと、千鶴は安心したように笑った

     20

一歩一歩、前へと進む。屋上には他に誰もいない。よかった……。見渡す限り、小さな明かり、明かり、明かり――。その一つ一つが、小さな命のようだ――。その中の一つに私の家もある。優斗の家も。見ているだけで、自然と涙がこぼれそうになる。
目の前にある手すりに触れる。ひんやりとしたその手すりは、私にとっての境界線――。これを越えた先にはいったい何が待っているのというのか。そんなばかげた質問を自分に投げかける。
何もないことは、分かっている。それでもいっその事、越えてしまいたい。もう自由になりたい。もしかしたら、帰れるかもしれない。また『私』に会いに行けるかもしれないではないか。どうせ僅かな命しか残されていないのなら、そういう決断もありでしょう?
ごめんね……。優斗……。ごめんね……。皆……。ごめんなさい……。
涙はまた、頬を濡らす。私は腕に力を込める。この高さなら、簡単に乗り越えられる。さぁ、行こう。力を込めて足を持ち上げる――。
 
その時――。
私の身体は、背後から強い衝撃を受け、抑えられた――。
え――? 最初は何がどうなったのかさっぱり分からなかった。誰かが私の身体に手を回し、抑えつける。細い腕で、ガッシリと私を押さえつけるように――。
私は手すりから手を放し、その場に降り立った――。私に回されたその手は、私を抱きしめるように肩へと回る。その人の身体が、私の背中にくっつく。その温もりは、今までの、どんな温かさよりも温かく、私の全身を覆った。
「バカ野郎……!」
その人は涙声で言った。何でいるの? どうして?
「結衣……!」
その人は、私を呼んでいる。私は彼の腕に触れる。細くて、きれいな腕。
そうだ、いつもそうだ。いつもこうして私を守ってくれる……。だから、今もこうして助けに来てくれたの?
「約束したんだ……!」
約束……? 彼は私を放さずに言う。
「結衣のこと、守るって……! だから、絶対に一人になんかさせない……!」
彼の抱きしめる腕が強くなる。また、春の夜風が屋上に吹いた――。

     *3

 お守りが千鶴から優斗に渡って数週間後、千鶴は、亡くなった――。
優斗はただ、彼女から渡されたお守りを、握りしめていた。結衣のことを気にかけながら、特別何かをしてあげることもなかった。しかし中学三年生になると、結衣と同じクラスになり、彼女とも再び信頼関係が生まれていく。
この時期から、優斗はお守りを結衣に渡すことを考えていた。千鶴が自分に寄せてくれた思いも、自分の思いも、残念ながら叶うことはなさそうだと分かってきたから――。でも結衣にこれを渡せば、思いは繋がる。千鶴は言っていた。『渡した人と渡された人を繋いでくれる』と。だからきっと、このお守りは役に立つ――。
「結衣、これ、持ってて」
中学三年生、最後の春休み。お守りは優斗の手から結衣の手に渡った。それが千鶴からもらったものであることは、言わなかった。言ってしまえば、自分のことがバレる。千鶴が家族のために隠していたこともバレてしまう。だから、ただ渡すだけ。『結衣のこと、よろしくね』千鶴の声が聞こえてくる。
「いつでも、俺がそばにいるから」
優斗の言葉は、結衣には聞こえていなかった。でも、それでいい。
咲き誇る桜を見る。優斗はこれからもずっと結衣を守り続ける。そう誓った。桜は、綺麗に二人の上を舞った――。

     21

 「優斗……」
後ろから回された腕は、まだ、私を放してくれない。
「これ」
優斗は一旦左手を私から放すと、しばらくしてから、再び左手を私の前に差し出した。その手には、あのお守りが、乗せられていた――。綺麗な藍色をした『諸願成就』のお守り――。これは優斗の家にあるもの。どうして、牧野家にいる優斗がこれを……?
「栞が事故に遭った日、自分の部屋で、これだけ回収させてもらったんだ」
あの時、四月一二日。私がリビングで待っている間に、優斗は自分の部屋に行った。その時に回収したのだろう。でもどうして?
「これは、結衣のお母さん、千鶴さんにもらったものなんだよ」
「お母さんに……?」
母が、これを優斗に……?
「昨日の光一さんとの会話を聞いていたなら、俺の言うことも聞いたと思うけど、千鶴さんは、病院に来た時、余命宣告をされていたんだ……」
「どうして、優斗が知ってるの……?」
「俺はもっと前から身体が悪かった。とっくに少ない生存率を突き付けられていたんだ。俺も千鶴さんも、家族に内緒にしてくれって、松木先生に頼んだのさ。それで、千鶴さんは、俺にだけは自分のことを話してくれた。このお守りは、千鶴さんと最後に会った時にもらったものなんだ。『俺の病気が良くなるように』って。その時に、千鶴さんに頼まれたんだ……」
「頼まれた……?」
「『結衣のこと、よろしく』って、頼まれたんだ」
優斗は、また強く私を抱きしめる。その腕は痛いほどに、私の心に染み渡った。母はそんなことを……。涙が込み上げてくる。先ほどとは違う、温かい涙が頬を伝った。
「だから結衣 可能性がある限り、諦めちゃダメだ」
「うん……」
バカだった……、本当にバカだった……。大切なことをまた見落として、何も知らないまま、いなくなろうとしていたなんて……。優斗の顔を見る。彼も泣いていた――。ああ、またひどいことを……。
「優斗、心配ばかりかけて、ごめんなさい……。もう、こんなこと絶対にしないから……」
優斗は頷き、優しく私を放した。

「これはさ、『人と人を繋いでくれる』んだって」
優斗は屋上のベンチに座った私にお守りをひょいと見せて言った。
「これは、俺の勝手な解釈だけど、結衣がここに来たのは、俺たちと、俺たちの大切な人たちが幸せになる為だったんだよ。俺たちがここにいるのはさ、結衣のお母さんの『幸せになってほしい』っていう願いでもあるんだ。だから結衣の気持ちを聞いた時、俺たちがやるべきことは『人との繋がり』だと思ったんだ」
そういうこと、だったのか。母は、私たちを励ましながら、ずっとそばで幸せを願っていた。
「優斗、聞いてもいい?」
「何だ?」
「優斗がトラック事故に遭った私をかばって助けてくれたのは、余命だったから……?」
「……。そんな訳ねーだろ」
「じゃあ、どうしてそこまで、命を張れたの……?」
「理由がなきゃ、ダメか?」
「あるなら教えてよ……」
優斗は大きく息を吐く。
「結衣のことが……、好きだからだ」
思いもしなかった優斗の言葉に、正直驚いた。優斗が、私を?
「大切な人を守るのに理由なんかいらないだろ。どうだ? 満足か?」
 あっけらかんとした優斗の表情に何だか面白くて笑ってしまう。
「お、おい、笑うなんて酷くないか?」
「ごめん、ごめん。それなら理由もいらないね」
「結衣は、どうなんだ? 俺のことさ。返事ぐらい聞かせてくれよ……」
「無事帰れることになったら、教えてあげるよ」
優斗は「なるほどな」と苦笑いを浮かべた。そんな優斗を愛おしく見ている自分がいた。そして、私の中には、先ほどまでの私はもういなかった――。

屋上は誰もいない、二人だけの寂しい空間。そこで、私たちは最後の晩餐をするように、最後にやるべきことを話し合った。
「優斗、もう時間がないよ……」
「ああ、分かってる」
「帰れる方法はたぶん、優斗のそのお守りと、優斗のお墓にあるんだと思う」
優斗の持つお守りを見る。
「そうか、結衣は確か、このお守りをお墓に供えた時に、こっちに来たんだよな?」
「うん、でもこっちの世界では、まだ優斗は亡くなっていない。この前霊園を見に行った時も、お墓はなかった……」
あの時は、帰れる方法を試すことすらできなかったのである。
「それって、いつの話だ?」
「優斗が亡くなる予定だった四月一二日の少し前だったかな」
「ああ、なるほどな。それなら、今行けばあるぜ」
「え?」
「業者が俺のお墓をあの霊園に運んで来たのはつい最近だからな。そう言えば、この世界に来たのは、三月二一日だったよな? あの時、俺が霊園にいた理由、ずっと気にしてただろ?」
そう、その件もずっと気になっていたのだ。
「あれは、急に葬儀屋の手配で呼ばれてさ。お墓の設置場所を決めてほしいって言われて、行くしかなかったんだ。ごめんな。俺たちが入れ替わった後、結衣の身体になった俺は、優斗にお墓の件を聞いている呈で、彼らに話をつけておいた」
「そうだったんだ」
話はようやく繋がりを見せる。優斗のほとんど全ての行動は、彼の亡くなる前の準備として費やされていたんだ。
「こうなれば、後はやることが二つだな」
「二つ?」
「光一さんとの和解、そして……、俺の余命を家族に告げること……」
優斗は視線を落とす。
「この二つができれば、俺も結衣もやり残したことが無くなる。そうしたら、きっと帰れる。二人でお守りをお墓に返しに行こう」
「お兄ちゃんと和解なんてできるかな……。それに、本当に余命を告げるの?」
「以前の俺なら、言わなかっただろうな。家族に心配かけないって、一人で抱え込んでいたから。でも今なら、言えるよ。結衣のおかげだ」
「私の……?」
「そうだ。栞も、父も、母も、俺も、みんな結衣に助けられた。結衣は俺になって、俺の家族を変えたんだ。誰かを頼る、思いを伝える、分かりあう。それが大切だってこと、結衣が示してくれた。だから結衣が変えてくれた家族になら、俺は喜んで頼る。きっと、家族もみんな、話してほしいと思うからさ」
優斗は優しく笑った。
「そんなこと言ってくれて、ありがとう。もしかしたら、私のお母さんも自分のことを話してくれていれば、きっと違ったのかもしれないね。私も同じだよ。今まで、人の気持ちなんて考えてこなかったことを、この世界に来て何度も思った。だから大切な人のこと、もっとしっかり見て、しっかり思いを伝えないきゃいけないんだって、今はそう思う」
私たちは数秒間見つめ合う。きっと今、私たちの思いは繋がれたのだと思う。
「光一さんとは和解できなかったとしても、結衣の気持ちはもう伝わっているはずだ。それに、千鶴さんの余命や伝言のことも知った。だからきっと大丈夫だ。俺に作戦があるからよく聞いて」
「うん」
「明日、俺も含めて、牧野家と楠田家に俺の余命を発表する。その情報は、光一さんにもいくだろうから、それで光一さんに会えたら最後のチャンスだ。話したいことを全て話そう。もし、光一さんと会えなくても、お墓には行く。これでどうだ?」
優斗の目には迷いがなかった。私も、全く異論はない。
「いいね。じゃあ、そうしよう」
私たちは笑い合う。きっと大丈夫。優斗となら、きっと。

大丈夫よ――。

「え?」
私は誰かの声に思わず反応する。その声は……。
「どうしたんだ?」
「え、ううん。何でもない」
「そっか」
今でも私を見てくれているのかな。私は、何もない空間をしばらく見続けた。

私たちは、しばらくして解散した。明日、皆には松木先生を通して余命を告げる。なんて残酷な役なのだろうか。しかし、それは私に課せられた義務。凛として、臨もう。
本当に帰れるとしたら、優斗とはもう、お別れということになる。帰れなかったとしても、優斗の身体が無くなった時点でお別れになるのだが。どちらにしても、哀しい現実だ。いや、哀しい夢――? 例えどちらだとしても、この世界に来られたことを、今では嬉しく思う。優斗に、もう一度逢えて、本当に良かった。

【完結】戻ろう、日常へ。

【完結】戻ろう、日常へ。

     22

 翌日、私たちにとって、運命の日がやって来る――。ゴールデンウィーク初旬。もう肌寒さも抜け、薄着でも平気な温暖な空気がこの病室にも流れていた。空は、これからの私たちの不安を暗示するかのような曇天。
 私はこの日、松木先生を呼び出し、余命を家族に伝えることを告げた。松木先生は「そうか」と胸をなで下ろした。その方がいい。松木先生は何度も私に頷いた。
その後、先生は、家族に電話をした。家族にとっては運命の電話だろう。もしかしたら、栞は立ち直れないかもしれない。優斗の両親はどんな反応をするだろうか。優斗にメールを打つ。『家族に電話がいった。父と兄によろしく』これで優斗も、私の家族に『優斗が余命数日』と伝えてくれるだろう。

 しばらくして、優斗の家族が部屋へとやって来た。栞、小雪おばさん、そして義人さんの姿もあった。皆顔が緊張している。「優斗、平気か?」、「どうしたの、優ちゃん……?」、「お兄ちゃん……」それぞれから声を掛けられ、私の胸は張り裂けそうに痛んだ。この場にいられないほど、辛く、哀しい……。しばらくして扉が開き、松木先生は慎重な面持ちで部屋に入って来た。「息子に何があったんですか!?」突然の理由も分からない呼び出しに小雪おばさんは不安になっている。「楠田家のご家族の方々ですね?」松木先生が確認をして、皆一様に頷いた。外は雨がポツリポツリと降り始める。「落ち着いて聞いてください」松木先生の言葉に、私は目を閉じた――。

     23

 あの日から――、数日が過ぎた――。私はもう、病院にはいなかった。家族に余命が告げられ、私は残りの余生を家で過ごすという選択をすることになったからだ。優斗の家族は、絶望に暮れていた。私は何と説明すればいいか分からない。松木先生は、私が今まで黙っていたことを隠した上で、私の余命を告げてくれた。突然、家族の死を宣告された人たちの表情を私は見られなかった。
冗談だと、そこにいる誰もが思った。だがあまりの真剣さと、私の様子を見て、怒りだす。「いい加減にしてくれ!」義人さんまで声を荒げていた。でも、それは次第に悲痛な声となり、底のない悲しみを生んだ。栞はずっと私のことを放さなかった。そんな私は、ただ機械のように振る舞っていたかもしれない。なるべく感情移入しないように。残酷なことかもしれないけど、そうでもしないと、本当に呑まれてしまいそうな気がしたから。こんなことなら言わない方がよかったのではないか。何度も浮かぶその考えを振り払う。違う。たとえ底のない悲しみが生まれたとしても、家族にはそれを聞く権利がある。聞いた上で、余生を選択する権利があるのだ。だから、迷ってはいけない。

 病院にいる間、すぐに牧野家の人たちもお見舞いに来たが、そこに兄の姿はなかった。残念だと落ち込んでいた私に、一本の電話が届く――。
それは、病院から出て、自宅での生活が始まった日の朝、すなわち、先ほどの出来事だった――。
「もしもし、優斗君か?」
その声は、兄だった。
「光一……さん?」
私は、弱弱しい声で兄の名前を呼ぶ。
「君に会って、伝えたいことがあるんだ。お昼に時間、取れるかな?」
「え? 光一さん、大阪に行ったんじゃ?」
「帰って来た。だから時間を作ってくれ」
「は、はい……」
帰って来た? 余命だと聞いて、駆け付けてくれたのだろうか。
 しばらくして、約束の時間になる頃、家のチャイムが鳴った。私は、家族に自分が出ることを伝え、玄関を開けた。
「優斗君」
兄が立っていた。心配そうにこちらを見つめる。「どうぞ」家の中へと通そうとするが、二人だけで話したいと外へ呼ばれた。「立ちっ放しは疲れるだろう」と近所の喫茶店に行くことを勧められ、私たちは、喫茶店で話すことになった。

 「俺のことは気にしないで、何でも話してください。今日はどうして?」
私から切り出した。そうでもしないと、死を前にした人間に対して遠慮が出て、言いたいこともいえなくなってしまうと思った。
「驚いた……。その、先日、家族から聞いてね。君が余命だなんて……。それで、松木先生から連絡があったんだ。あの人が母の主治医でもあったって聞いて……」
兄は視線を落とす。
「結衣の言っていたことは本当だった……」
まさか……。兄がそんなことを言うとは思わなかった。
「俺は、母が亡くなったことをずっと受け入れられなかったんだ……。彼女の余命を知らず、助かると信じて疑わなかった。でも、それも全部幻想だったことに、気づかされたよ……」
「光一さん……」
「それで、色々と考えたんだ。ここ何日も、ずっとね。あの日、結衣と話した日からずっと……。もし、母の死を知っていたなら、どうしていたのかって……」
「どうしていたと……?」
「俺も……」
固唾を呑む。
「きっと、結衣と同じことをしていたかもしれない……。そう考えてしまう自分が、いつまで経っても消えてくれなかった……」
兄の言葉に、私は時が止まるような感覚に陥る。お兄ちゃん……。
「だから、結衣は、間違ってなかったのかもしれない……」
兄は、悲しい表情でうつむいた。兄は……、私を許してくれたのだろうか……。
「あいつのことをずっと憎んでいた俺は、結局あいつ以上に何も分かっちゃいなかったのかもしれない……。ひどい言葉も並べて……、本当に、最低だった……」
「光一さん……」
「結衣と優斗君のお母さんと三人で話した時に、つい感情的になってしまってね。その時、偶然居合わせた彼女に、ビンタをお見舞いされたよ」
兄は自分の頬を叩く真似をして苦笑いを浮かべる。そうか。あの時、店から出て行って兄を追いかけたのは、兄の彼女だったのか。
「じゃあ、結衣のしたことを……、許してくれるんですか?」
「許すだけじゃ済まない……だろうな」
その言葉だけで、充分だった――。絶対に叶うはずがないと思っていた私の夢は、突如として叶ったのだ――。
「光一さん。光一さんに最後のお願いがあります。聞いてくれますか?」
「ああ……、何でも聞くよ」
私は兄に微笑む。
「結衣のこと、よろしくお願いします――」
それは、母が優斗に言った言葉――。まるで、その時だけ、自分が本当に優斗になったような気がした。でもこれは兄に届けたい私の言葉。私が兄に言うなんて少し傲慢かもしれないけど。優斗の身体、借りさせてもらうね。
兄は凛とした表情で頷いた。
「優斗君、君には、本当に感謝してる。結衣のことを守ってくれて、ありがとう」
「いえ。こちらこそお世話になりました」
その時ふと、私の中でアイデアが降りてきた。
「そうだ、光一さん。ゴールデンウィークはまだありますよね。また、皆で行きませんか? バーベキューに」
兄は、優しく微笑んだ。
「勿論だ」
私はこの日、私たちのやるべき全てのことが終わりを告げたように思えた。無駄ではなかった。優斗、全ては無駄なんかじゃなかった。

     24

 五月五日、牧野家と楠田家のバーベキュー、第二回が開催となった。
外は、雲一つない晴天。まさに絶好のバーベキュー日よりだ。まさか、こんな展開になるなんて誰が予想していたことだろう。私は重たくなった身体を元気いっぱいに持ち上げる。優斗の家族は心配してくれたが、決して悲しみを見せなかった。今日は絶対に楽しむ。誰もがそう考えた。
あの時のように、牧野家の車が到着する。車にはしっかりと三人が乗っていた。運転席に父が、そして、後ろの席には――、私と兄が並んで座っていた――。
不意にこみ上げる涙を抑え、私は元気よく挨拶をする。父も兄も、いつものように振る舞ってくれた。車内はあの時より、ずっと盛り上がる。まるで一つの家族のように、私たちは冗談を言い合い、笑い合った。
「智久さん、少しだけ、寄りたい場所があるんですけど、いいですか?」
「え? 寄りたい場所かい? どこだい?」
私は優斗を見る。優斗もこちらを見て頷く。
「霊園に少しだけ寄りたいんです。結衣と一緒に。すぐに戻りますから」
「二人だけで?」と車内で冷やかされながらも皆から了解を得た私たちは、霊園で一旦降ろしてもらうことになった。
私と優斗は事前に約束していたのだ。今日のバーベキューの前に、霊園へ寄り、そこでお別れをしようと。優斗は嬉しそうな、切なそうな表情を浮かべていた。

 やがて車は霊園へと到着する。私たちは車から降りると、広い霊園を並んで歩いた。
思えば、全ての始まりがここからだった。私はお守りを返しにここへやって来て、気がつけば、私の意識は一年前の優斗の身体の中にあった。それから、一月半が過ぎ、私はこの身体で多くのことを感じて、多くのことを学び、多くのことを変えてきたのだと思う。
「結衣。俺さ、ずっと考えていたことがあるんだ」
優斗は歩きながら言った。
「考えていたこと……?」
「ああ。俺たちが入れ替わった理由」
私たちが入れ替わった理由か……。深くは考えなかった。
「俺たちは幼いころから、大人に人の気持ちを考えろって言われて育てられてきただろう? でも、それって簡単なようですごく難しい。それで、話は俺たちの目標になるんだけどさ」
「『人との繋がり』のこと?」
「そうそう。人と繋がるためには、まず人の気持ちを理解しないといけない。人を理解する一番簡単な方法こそが、『身体の交換』だったんじゃないかな。結衣は前に『優斗の身体に入って、人の気持ちが少しだけ分かった気がする』って言っていただろう? つまりそれこそが、入れ替わった理由なんだよ、きっと」
「なるほど……」
「勿論、原理も原因もさっぱり分からないけどな。ただもし、このお守りがそういう力で俺たちをこの世界に導いてくれたのだとしたら、感謝しないとな」
「うん」

そして、あの場所に到着する。優斗のお墓は、あの日と同じように建てられていた――。
「本当にあったんだね」
「嘘なんか付くかって」
優斗はそっと、お守りをポケットから取り出した。
「これで、ようやくお仕舞いだな」
「まだ、分からないよ。これでダメだったら、優斗がお兄ちゃんとお父さん、支えてあげてね。あと、栞ちゃんも」
「バカ言え」
優斗は思わず笑い出す。
「結衣、最後になるけど……、色々とありがとな」
優斗はまっすぐにこっちを見て言った。
「結衣がここに来て、見るもの全てが変わっていった。栞も、父も、そして光一さんも変わった。全てが良い方向へと変わっていった。でも、俺が一番嬉しかったのは、結衣自身がどんどん変わっていく姿だった」
「優斗……」
「俺が死ぬ前の頃は、何だか周りに壁作って冷めていたけど、この世界に来て、結衣は人のことを思える人間になったよ」
「そうかな……?」
「そうさ」
「だからさ、本当に、結衣に逢えてよかった。元の世界に戻ったら、栞のことよろしくな」
私は笑って頷いた。
「うん。私こそ、たくさんのことに気付いたよ。家族や優斗に支えられてたってこと。もう何一つ見落としたりしない。優斗、ありがとう」
優斗は微笑みながら、何度も頷いた。
「優斗、あっち見て――」
「え?」
私は遠くを指差した。優斗はそっちを振り向く。
次の瞬間、私は優斗のほうにキスをする――。自分にキスをするなんて変な話だが。でもそれでもいい。
「お、お、おおおい」
動揺している優斗が少しかわいい。
「お礼だよ」
「な、なるほどな」
「あと、この前の返事だけど、好きだから……」
「はい?」
「……。もう二度と言わない」
「ちょちょちょ、ごめん。もう一回だけお願い」
ため息が出る。まったく……。
「優斗、大好きだよ」
そう言った瞬間、優斗の表情が止まった。そして、それはゆっくりと微笑みに変わっていく。ポリポリと頭をかくと、恥ずかしそうに私を見る。
「ありがとう。最高の土産だ。結衣、俺も大好きだからな、忘れるなよ?」
私たちはお互いに見つめ合うと、小さく笑った。

「さて! 最高の土産もらったところで、そろそろいこうか」
優斗はそう言うと、お守りを私に渡してきた。
「これ、結衣が置いてくれ、何だか思い切りがつかなくてさ」
「一緒に置こうよ」
私はお守りを優斗に差し出す。
「そうだな」
私はお守りの右半分を、優斗は左半分を持った。私たちは向かい合う。
「結衣、元気でな」
「うん」
これを置けば、全てが変わるかもしれない。もう優斗とはお別れをしなければならない。
「優斗こそ、元気で」
「ああ」
私たちは、ゆっくりと、お守りをお墓に持っていき、それをそっと、お墓に供えた――。

 その瞬間――。
私の視界が――揺れ始める――。あの時と、全く同じ感覚――。ぐらぐらと地面が揺れていく。ああ。本当にこれで戻れるのか――。これでお仕舞いなのか? 
朦朧とする中、視界が急激に強い光に、包まれていく――。
「結衣、大成功だ――」
優斗は私を抱きしめる。私は朦朧とする視界のなか、彼の顔を捉えた。何て澄んだ笑顔をしているのだろう――。
「優斗、大好き――」
「ははっ、結衣、俺も大好きだ――!」
強い光の中で、意識が遠のいていく。私は最後の最後まで、優斗の笑顔を見続けた――。

     25

 私は夢を見ていた。よく知っている二人と一緒に、三人で道を歩く夢――。右には、よく知っている女性がいる。左にはよく知っている少年がいる。私たちは仲良く、話をしながら歩いていく。どこまでも、どこまでも。
だが、突然、道は二つに分かれた。どっちへ行こうか。私が迷っていると、二人は迷わず左の道へ進む。私もついて行こう。彼らの背中を追い始めた瞬間、二人は振り返る。
何? どうしたの? 私も行くよ? だが二人は微笑みながら、首を振る。そして右の道へ進めと指を指した。不思議と、私は何の疑問も抱かなかった。彼らが言うのだから、きっと私は右の道へ進むべきなのだ。
私は黙って右の道へ進んだ。歩きながら、左の道を見る。歩いていく二人はこちらに手を振っている。女性は、優しく微笑みながら小さく手を振り、少年は元気いっぱいに笑いながら大きく手を振る。私も、そんな彼らに微笑みながら、大きく手を振って歩いた――。
 
結衣――。結衣――。遠くで私を呼ぶ声が聞こえる。幻聴? 結衣――。起きて――。結衣――! 歩いている道の先で、小さな光が、私を呼んでいる。分かった。今行くから、ちょっと待ってて。
左の道はもう見えない。さようなら。私は、その光に向って走っていった――。

     26

 視界がぼやける――。歪んだ世界に、私はいる。いや、そうではない。意識が朦朧としているだけだ。誰かが、目の前で私を呼んでいる? 誰だ? 
世界は徐々に彩りと音を取り戻していく。
「結衣――!」
ハッと顔を上げる。私の視界に彩りが戻り、目の前にいる人物の顔が鮮明に映る。そこにいたのは――。私の良く知る人物。
優斗――?
「どうしたの!? 大丈夫!?」
その人は私に呼びかける。どうやら私は完全に倒れてしまっているらしく、頭はその人の膝の上だ。私に呼びかけるその人は……、その人は……!
「優斗……!」
呼びかけた瞬間、視界に入るその姿が、ゆっくりと変化していく。優斗だと思ったその姿は、少しだけ伸びた髪を後ろで結んでいる女性へと変わっていく――。
「栞……?」
私はその人物に呼びかける。
「そうだよ……!」
栞……。そう、私を呼んでいたのは、栞だった――。
「こ、ここは……?」
私は辺りを見回す。たくさんの仏壇が置かれている場所……。そこは、私たちが先ほどまでいた霊園だった。
「霊園だよ! どうしちゃったの?」
次第に身体に力が入っていく。私は、その身体を持ち上げた。ふと自分の手が見える。
その細い手……。まさか……!
「栞、鏡ある?」
「え、うん一応」
「見せて」
「ええ?」
私は栞から鏡を受け取ると、何も考えずに自分の顔を映す。その顔、表情、目鼻立ち、口元、輪郭――、全てが、『牧野結衣』そのものだった――。帰って来た……のか! 数秒間、思考が停止する。
「栞、今っていつ?」
「え? 五月五日だよ」
「今年って、何年だっけ?」
「二〇一六年だよ。大丈夫?」
二〇一六年――。元いた世界ではないか……! 私は……、本当に帰ってきたんだ……!
「栞、優斗は……」
言いかけた言葉を止める。目の前に見えるお墓に刻まれた文字が目に飛び込んできたからだ。

『楠田家之墓』

優斗は、やはり、この世界にはいなかった――。
「お兄ちゃんとはお別れできたの? 皆待ってるんだから、もう行こう?」
「あ……。う、うん……」
私が立ち上がると、栞は私を支えてくれた。そのまま催促され、私はお墓を離れる。
 優斗――。さようなら――。

私はもう大丈夫であることを栞に伝え、二人で並んで歩いた。気になっているのは、栞が私に優しいという、元の世界ではなかった現象だ。
「ねぇ、栞、優斗のことだけど……怒ってない?」
「お兄ちゃん? 何が?」
「私のせいで優斗は亡くなったんだよね……?」
「結衣さん、大丈夫? お兄ちゃんは病気で亡くなったんだよ――」
結衣の発言に言葉が出ない。優斗が病気で? 栞に加えて、優斗の死までもが変わっている――。この世界は、もしかすると私たちが夢みた世界なのか――。
「ねぇ、これからバーベキューに行くんだよね?」
「違うよ。結衣さん、やっぱり病院に行く?」
「だ、大丈夫……。それで、じゃあどこに?」
「結衣さんが海に行こうって言ったんだよ? 皆と一緒に」
「牧野家と楠田家?」
栞は「うん」と頷く。そうか。この世界は先ほどまでの世界とは違うのだ。しかも、一年も誤差があるではないか。

 やがて、霊園の入口付近に止まっている車へと到着した。
「遅かったな。優斗君に会えたか」
ドアを開けると、兄が笑い掛けてきた。
「お兄ちゃん……!」
「お姫様二人がお帰りだ」
後ろから聞こえた声に驚く。優斗のお父さんもいる……! 優斗、見てる――? 
私は大空を見上げた。世界は、変わったのだ――。

 私たちの乗った車は走り出した。私は運転する父の隣に座る。後ろでは、皆盛り上がって話していた。
しばらくして、私はある物に気付いた――。フロントガラスの隅に、ぶら下げられている物――。あの小さな、お守り――。
「お父さん。そのお守り、どうしたの?」
父は運転しながら、そのお守りを見る。
「これは、母さんがお前にくれたものだろう? 忘れたのか?」
「え――?」
母が、私に――?
 その時、後ろで栞が歓喜の声を上げる。
「海だーー!」
「おお、綺麗だな!」
山道を抜けると、左手に大海原が見えた。たまらず、栞の歓喜に、兄も声を上げた。海は太陽の光を浴びて、キラキラと煌いている。
「これ、取ってもいい?」
私は海から目を逸らすと、そのお守りに手を伸ばした。
「もともとお前がそこに付けたんだろう? 皆が集まるここに付けたいって。外したいなら好きにすればいい」
私は頷くと、ぶら下げられているお守りをそっと外す。この藍色の布、そして『諸願成就』の字。何一つ変わらない、綺麗なお守りだ。これを、優斗にではなく、私に――。
それをそっと握ると、手にあの時と同じ感覚が伝わったきた――。クシャッと、中で薄い紙切れのように物が折れる音――。
 私はそっと、そのお守りを開いた。中には同じ紙切れが入っている。ノートの切れ端を二つ折りにしたような紙切れだ。それを優しく取り出す。
皆が海に夢中になっている中、私は、それをそっと開いた――。少し焼けた古い紙切れには、一言だけ言葉が記されていた。

『 ありがとう 』

その言葉の下に、それを書いた人物の名前が添えられていた。

『 母と優斗より 』

それを見た瞬間、紙切れを持つ両手に自然と力が入る。途端に感情がこみ上げてきて、目がしらに力を込めたが、涙はぽたっと零れ落ちた。歓喜の声を背中で聞きながら、私は人知れずそれをそっと抱きしめた――。

     *

 初夏――。広い病室に穏やかな時間が流れていた。太陽の光と、心地良い風がそこを包み込む。鳥が近くの木々にとまっては、戯れ、また飛んでいく。空は澄みわたり、太陽が天辺に登り始めていた。
「お母さん、これ、何?」
結衣は、ベッドに腰かけた千鶴から、ある物を受け取った。それは、小さなお守り。紐を持ち太陽にかざすと、藍色の生地が、光に照らされて綺麗に光った。
「それは、お礼よ」
千鶴は優しく微笑んだ。
「お礼?」
「結衣が強くて優しい子に育ってくれたお礼」
結衣は母親の顔を見る。その優しい表情を、ただただ見つめた。お守りをそっと握りしめ、頷いた。
「お母さん、ちょっといい?」
結衣はそっと、千鶴を抱きしめ、目を閉じた――。千鶴も結衣の背中にそっと手を回す。温かく、優しい時間が流れた――。
 ノックの音が聞こえ、結衣は、反射的に千鶴から離れた。千鶴が「はーい」と返事をすると、扉がゆっくりと開いた。
「結衣、ここにいたのか。さ、行こうぜ」
扉の先には、優斗が立っていた。
「栞も待ってる」
そう言い、親指をクイクイと指し示す。
「うん」
優斗は千鶴を見て「行ってきます」と手を振った。千鶴も笑って手を振った。結衣も千鶴に振り返った。
「お母さん、川で釣った魚、持って帰ってくるから、楽しみにしていてね」
千鶴は目を開いて喜び、「楽しみにしているわ」と手を振った。
彼らは太陽に照らされた初夏の道を、楽しそうに駆けていったーー。

ヤサシイナンダイ

ヤサシイナンダイ

1年前に幼馴染の優斗を失った結衣。 優斗が亡くなる前に結衣へと手渡されたお守りが、彼女を「あの日」へと誘うーー。 ※以下の投稿サイトにも掲載されています。 ・小説家になろう ・カクヨム ・暁

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-05-03

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  1. 季節はずれの雨
  2. 静かな空間
  3. 光と影
  4. 虚構の囁き
  5. 重なる面影
  6. 当たり前というナンダイ
  7. 真相究明
  8. 夜明けに残るのは
  9. 【完結】戻ろう、日常へ。