1:君のとなり(KIMInoTONARI)

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1章 運命の出会いなんて出会った頃は意外と気づかないもの

1章 運命の出会いなんて出会った頃は意外と気づかないもの

運命の誰かとは、前々に知らずしてどこかですれ違っていたりする。運命が動くその瞬間その場にその人がいる、それもまた必然。


 残暑とは言え、毎日茹だる様な暑さが増すばかりで授業など身に入らない。そんな二学期に入ったある日の事。
 老年の教諭が聞き取れない声で訳の分からない事をぶつくさ言っているだけで、正直授業の意味が無い。
 時折大きくなっては萎むように小さくなり、寄っては返す波のようなその話調は多くの生徒の眠気を誘う。
 二年四組西山(にしやま)ユウ。頭を支えていた肘がずれて微睡みの中から現実世界に引き戻された。
「今お前寝てたろ?」
 ふいに前の席の生徒が笑いながら話しかけて来た。
「……へ?」
 ユウはさり気なく口の端を拭う。
「まさか?」
 ユウが誤摩化すと目の前の男子生徒は鼻を鳴らした。
「寝てたよ」
 奴の名前は田所(たどころ)ケンジ。クラスの中でも目立ちたがりのリーダー格。しかしユウはその浮ついた雰囲気が苦手なため日頃接点は無い。
「退屈だもんなぁこの授業」
 田所ケンジは振り向き様ユウの机に肘をついた。
 ユウのクラスでは新学期になると席替えが行われた。新しい席は窓際の後ろから二番目という好ポジション。しかし前の席が選りに選ってこいつとはツイてない。
「じゃあ、退屈じゃなくなる話でもしちゃう?」
 椅子の背もたれに頬杖を付きこちらを見る田所。顔が仰向けになり、まるで見下されている様でいい気分がしない。
「西山って、綾瀬(あやせ)が好きなんだろ?」
 田所は顔を近付けて囁いた。
「はっ?」
 ユウは思わず眉を寄せた。ふと慌てて周囲の様子を伺う。
 隣の女子たちは机をくっつけ授業そっちのけで夢中で話している。他の生徒も別教科の課題をこなしたり、机に突っ伏して寝ている。
「何?急に……」内心焦っていた。
「あー、なんかこの前話してるの聞いたんだよ」
 ユウは怪訝に思い、記憶をたぐった。
 あっ!と思い出す。
 そういえば数日前、中庭の休憩スペースで元クラスメートにそんな話をした。大して仲もよくなかったのに昼食に誘われて正直ありがた迷惑だったときだ。
「西山も、例に漏れず綾瀬派か~」
 田所が茶化す様に片側の口角をあげた。
「あれは……!」
 ユウは誘導尋問に乗せられたのだ。
 この学園の中でも一、二を争うであろう美人の綾瀬マイコは多くの男子生徒の憧れの的だった。既に何人もの猛者たちが彼女の前で玉砕している。
「ちょっと意外だけど。まあ、美人だし?しかも真面目だしな綾瀬」
 そう言って田所は教室の反対側に座る綾瀬をチラ見した。
 綾瀬マイコは涼し気な顔で老年教諭の話に耳を傾けている様だった。確かに真面目でいい娘だ。俯き加減でノートを取る彼女は垂れた髪を耳に懸けた。その仕草が堪らない。
「でも、俺はどちらかというと吉川(よしかわ)みたいな明るくて元気な感じの女子の方がタイプだけどな」
 そっちの好みなんて誰も聞いてないよ。
 ユウは思わず心の中で突っ込んだ。でも、その吉川モエも確かにかなり可愛い上、モデルになれそうなくらいスタイルもいい。
 ユウは斜め前方の吉川をさりげなく見た。トレードマークのポニーテールが揺れている。
 このクラスは他クラスからも羨ましがられていた。
 華のナナヨン。
 それは次期『マドンナ候補』と謳われる四人の女子が二人ずつ四組と、七組に偏ったためそう俗される様になった。
 この学園には何故か毎年春に学園のアイドル的存在の女子生徒を決める式がある。それに選ばれると『学園マドンナ』と称され学園中の憧れの的となる。創立以来どうした訳かレベルの高い女子生徒が集まるので学園長がイベントの一つとして提案したとかしないとか。おかげで女子生徒のレベルは概ね平均以上だが、それ目当てに入って来る男子生徒のレベルは概ね残念だと聞く。
「俺は吉川派だな。お前は綾瀬派か」
「憧れるねって、話をしただけだよ」
「憧れるって、女子中学生じゃあるまいし」田所はバカにした様に笑った。「あー、まあでも綾瀬、先輩たちからも相当モテるからなぁ。野球部のキャプテン、柔道部の副将、散々玉砕してっけど。お前綾瀬のどこがいいの?やっぱ顔?胸?」
 ぶしつけな質問と、その品のない言い方に少し腹が立った。
「何でそれ言わなきゃいけないの。それに誰々派とか、彼女たちに失礼だろ」
「そうかぁ?」
「悪いけど、退屈なら他の人に話しかけてくれない」
 ユウがぶすっとして教科書を立てると田所は「あっそう」と言ってだるそうに前に向き直った。
 ユウはしまったなと思った。このクラスでは当たり障り無く過ごして来たつもりだったが、今のはやってしまったかもしれない。
 変に目をつけられて、イジメとか……不安がよぎる。
 放課後になると、クラスメートたちは一斉に散らばっていった。
 部活に急ぐ者や塾に向う者、放課後どこに遊びに行こうかと楽しそうに話しながら殆どの生徒が教室を後にして行った。
「お疲れ!じゃーな、西山」
 帰り際に後ろの席の男子生徒が肩をポンと叩いて声を掛けてきた。ユウは微笑んで返す。
 特に親しい友達はいないが、挨拶程度声を掛けてくれる者は何人かいる。話しかけられれば普通に話すし、人見知りはするが話すのが苦手という訳でもない。
 物珍しさに声を掛けて来る面倒くさい奴らにも、できるだけ穏便に対処する様にしている。最近愛想笑いが得意になってきたと自分でも思う。
 ユウはいつものように読みかけの本を取り出した。
 休憩中や放課後は図書館で借りてきた本を読むのが日課だ。
 今読んでいるのは結構昔のミステリー小説。話が中盤に差し掛かった頃だった。
「西山っていっつも本読んでるよな」
 ふいに声をかけられ驚いて目の前を見上げた。
 そこには田所ケンジの姿があった。
 夢中になって読みすぎていたせいか全く気が付かなかった。
 確か一度教室を出て行ったはずだが。教室内を見渡すと他に生徒はいなかった。
「……あの、何か用?」
「いや別に?ちょっと気になっただけ」
「そう……」
 ユウは早く続きが読みたかった。しかし田所は去ろうとしないばかりか自身の机上に座ったままこちらを眺めている。
「あの、だから何?」
 ユウが少し迷惑そうに笑うと田所がニヤニヤして再び話しかけて来た。
「西山ってなんていうか不思議だよなぁ。友達いないって訳でも無さそうなのに、いつも一人だしさ。付き合い悪い訳でもないのにどこか人と一線を引いてる……って感じ?」
 ユウは少し面食らった。こいつ、どうやらただの馬鹿じゃないのかもしれない。
 見た目は派手で軽い口調で頭悪そうなのに、スポーツ万能で意外と成績も悪くない、らしい。友達も多そうだし、バンドを組んでいるらしく女子からも人気がある。
「そんなことないよ……。それより田所、バンド練習は今日は行かなくて良いの?」
 ユウは話題をすり替えようとした。先週学園祭に向けてバンド練習がどうのとか言っていた。
「それがさぁ!ドラムのヤツが腕怪我してしばらく練習出来ないんだよ。マジ最悪だよな。あとひと月しかねぇのに」
 田所は両手を広げ欧米人みたいなオーバーリアクションをしてみせた。ユウはこういう感じが苦手だった。
「誰かに頼まねーとだけど、誰かいねーかなー」
 話題を振ったのは自分だが、すごくどうでもいい話だった。
「で、昼の話なんだけどさ」
「え?何……?」
 ユウは内心うんざりした。まだ話しかけてくるのか。続きを読むのを諦めて、しおりを挟み本を閉じた。
 どうやら昼の話とは綾瀬マイコの事らしい。
「西山告ったりしないの?」
「えっ?……出来るわけないじゃん。無理に決まってるよ」
「えーでもわかんなくね?いやほら意外と西山みたいな、ちょっと頼りなくて、女みたいな……文学少年が好きかもだろ?」
 田所は誤摩化したが、ユウに対してのイメージは残念な部分しか思い浮かばなかったようだ。考えて物を言わない適当な感じがなんとも苛つく。
 内心舌打ちしたが、ユウは笑って答えた。
「まあ、それは無いと思うよ」
「えー、でもお前さぁきれいな顔してるし意外とクラスの女子に人気あるの知ってた?」
「え……?」
 いやそれは初耳だ――しかしコイツの言う事は真に受けてはいけない気がする。少し期待したが、恐らくその”人気”というのは自分が求める物ではないだろう。
「っていうか綾瀬さんに釣り合わないってことくらい自覚してるし。綾瀬さんにはもっと男らしくて頭がよくて頼りがいのある人がふさわしいと思うし」
 ユウは綾瀬マイコの外見も含めその透明感と言うか、神秘的で時々見せる少し影のある様な危うい雰囲気が素敵だと思っていた。
 まだまともに話せた事はないが、中身もきっと優しくて穏やかで素敵な人だと思う。スラッとして細い体。彼女を支えるのは男の中の男くらいじゃないと。彼女の相手はそうであって欲しいと願う。
 田所は机に座ったまま、くの字に曲げた左足を右足の腿で支えるように浮かせると、その上に頬杖を付いた。
「へぇーっ、じゃあお前も日々おかずにして我慢してるってわけかぁ……」
「……はぁ?」
 ユウは眉間に皺を寄せた。
「えー、してんだろ?綾瀬の事想像して。何、照れんてんの?」
「しないよ」
 ユウは思わず侮蔑感が表情に現れてしまった。
「えっ?いやいや。……好きな子でオナニーくらい普通するだろ」
「普通ってなに?好きだったら尚更そう言う事できないと思うけど」
 こういう下世話は好きじゃない。同年代の男子はみんな下品過ぎる。
「えっ?何その理論!俺はガッツリ想像するけどなぁ。吉川とかぁ、まあ綾瀬でも?」
 そう言ってニヤつく田所を、ユウは軽蔑の眼差しで睨みつけた。
「気分悪い……。僕は帰るよ」
 ユウは本を鞄にしまって席を立った。
「お前もしかして潔癖ってやつ?」
 無視して教室を後にした。あーあ、というため息まじりの声が聞こえたが気にも留めなかった。


 LHRで来月行われる学園祭の委員を決める事になった。
 生徒会を中心としたメンバーが中核の実行役員を担い企画準備進行を行うが、クラス毎でも学祭委員を選出しなければならない。
 クラスの出し物も企画準備しなければならないとても面倒な役回りのため、そうそう自分から名乗りを上げる生徒はいない。
 担任教師の梶山が腕を組みながら呼びかける。
「他にいないかー。自薦他薦は問わんぞー」
 すると、だるそうに背もたれにすがりながら前の席の田所が手を上げた。
「はい」
「おっ!田所ー!お前めずらしくやる気になったか」
 梶山は嬉しそうに組んでいた腕をほどいた。
「いや、俺じゃないんすけどぉ」田所はそう言って少し後ろを振り返った。「西山とかいんじゃないすかねー?」
 ユウは動揺した。なぜ急に自分を推薦したりするのだろうか。
「あー、西山かぁ」
 梶山も意外とばかりに考える様に顎に指をかけた。
 前の席で書記にされた男子生徒は躊躇無く黒板にユウの名を連ねる。
 ユウの心に荒波が立った。
 嘘だろ?冗談じゃない。
 クラスメートの誰かが言った。
「そう言えば西山くん去年もなんか実行委員の仕事やってたよねー」
 それを聞いた梶山は「おっ、そうなのか?」と笑顔になり「いいじゃないか」と喜んだ。
 去年同じクラスだった女子だろうか。覚えてすら無いがとにかく余計な事を言ってくれたものだ。
「どうだ西山」と大勢の注目の中訊かれて、緊張してしまいはっきり嫌だとは言えなくて口ごもった。
「いや……その」
「おっと、もうこんな時間だな」梶山は腕時計を見た。
 結局時間的な問題のせいで、梶山はこの中から決めると言ってユウが候補に入ったままの黒板を叩いた。
「代表で誰かがやらないといけないことではある。がしかし、委員だけじゃなくてみんなで協力してやらなきゃならないんだぞ。押し付けるとかそう言う気持ちで選ぶなよー」
 ユウは悔やんだ。
 なぜはっきり嫌だと言わなかったのだろう。
 昨年は、小学校の時から仲良くしてくれている近所の幼なじみの先輩に頼まれて少し手伝っただけだ。その時も断れなかった。
 面倒ごとはなるべく避けたい。
 しかしながら女子の名前の中に綾瀬の名前があった。もしかしたら綾瀬と一緒に委員になるならそれはそれでありかも、などと少し期待してしまった矢先。
「先生」
「どうした岡澤」
 綾瀬と仲のいい女子だった。
「綾瀬さんなんですけど、部活の作品作りで忙しいみたいだから難しいんじゃ無いかと思うんですけど……」
 梶山が綾瀬に尋ねると「出来れば他の人にお願いしたいです」と答えた。
 残念ながらユウの目論みは一瞬にして崩れた。
 LHRが終わってユウは撃沈していた。思わず机に突っ伏した。
「西山良かったじゃん」
 苛つく声にユウはゆっくりと顔を上げた。
「何が良かったって?」
 ユウは憤りを感じていた。こいつが自分の名を挙げさえしなければ、学祭委員になんてならずに済んだ。
「え?だって、吉川と一緒にやれんだよ。超ラッキーじゃん」
 そう、最終的に吉川モエと共に選ばれた。
 陸上部に所属している吉川だが、足を怪我して暫く部活を休んでいた。
 女子からの推薦だが、嫌がる素振りもなく自分から買って出た。吉川って相当性格いいに違いない。
 それに比べて前の席のこいつは……。
「じゃあ自分がやればよかったんじゃない?っていうか、何で急に僕の名前出したりしたの?」
 嫌がらせ?という言葉は寸前で飲み込んだ。
「俺はほら、バンド練習とかで忙しいじゃん?いやさぁ……」田所はバツが悪そうに耳の後ろを掻きながら言った。
「本当は綾瀬とお前が一緒にやればいいと思ってたんだよ。二人で委員とかやれば仲良くなれたかもだろ?」
 ユウはため息を吐いた。田所が一体何を考えているのか分からない。
「それが本心なら、ありがた迷惑ってところかな」
 ユウは作り笑いを返した。
 荷物をまとめ席を立つ。
「あれ、今日は本読まねーの?」
「昨日は誰かさんに邪魔されてゆっくり読めなかったから、別の場所で読むよ」
 田所は口を尖らせて肩をすくめて見せた。
 ユウは無視して教室を出ると図書館に向った。結局ここが一番落ち着く。
 後で少し言い過ぎたかなぁと思った。
 何故か田所にはつい棘のある言葉を言ってしまう。本音がポロッと出てしまう様で恐い。
 自分のペースを乱される様で、もう極力関わりたく無いと思っていたが、そうはいかなかった。
 以来、田所は毎日声を掛けて来た。何の本を読んでるのかとか、兄弟いるのかとか。聞かれた事には仕方なく答えるが、苦手な人間から話しかけられるのがこんなに苦痛だとは思わなかった。
 LHRに学園祭でやるクラスの出し物を決める事になった。吉川は仕切り上手で、話をどんどん進めるしユウの出る幕はほとんど無かった。
 幾つか上がった候補の中から、吉川が票を投じたのがコスプレ喫茶だったのには少し驚いた。最終的に吉川と仲の良い女子グループがそれに賛同する形で決定した。
 それにしても、委員同士だと話す機会が増えるというのは事実だった。
 吉川は明るくて話し易いし、聞き上手な上に人を嫌味無く持ち上げる才に長けていた。
 しかも可愛くて頭も程良く非の打ち所がないと言うか、男女問わず人気があるのはよく分かる。
「西山くん、今日の放課後空いてる?もし良かったら、一緒に学祭の買い出し行かない?」
 吉川にそう誘われて、もちろん委員だからだとは分かっていたが少しどぎまぎしてしまった。
「もちろん!な?西山」ユウは背中を叩かれて驚いて横を振り返った。「買い出し大変だろーから、俺も一緒に行ってやるよ」自分の代わりに返事をしたのは田所だった。
 唖然とはこのことを言うのか。開いた口が塞がらなかった。
 結局田所はついて来た。いや、ほぼ自分が二人の後について行ったという方が正しい。
 学園から駅まで下り、電車で商業施設が立ち並ぶ繁華街に向った。
 コスプレ喫茶で使う衣装とテーブルクロス用の布を購入した。
 大手ディスカウントショップや、大型日用雑貨店などを回った。コスプレ用の衣装は勿論吉川が選んだ。田所がはしゃいであれやこれや持って遊んでいたが、奇抜過ぎる物は吉川にやんわり駄目出しを喰らい、それでも懲りずに色々物色していた。
「これなんか西山いんじゃね?」
 田所はセーラー服の衣装を面白そうに掲げていた。
 ユウは数秒無言のまま見つめ、何事も無かったかの様に無視して必要な物だけをかごに入れた。
 田所に感じていた苛立ちが若干の殺意に変わった瞬間だった。
 遠ざかる背後で「西山くんにはこっちの方が似合うよ」と聞こえた。
 まさかとは思うが、吉川の声であったような……。
 嫌な予感がして振り向かなかったが、案の定レジ前までいくと後から二人がやって来て、何やらニヤニヤしていた。
 吉川が清算している間に田所が楽しそうに囁いた。
「吉川が女医のコスチューム持って喜んでたぞ」
 田所は吹き出す様に笑った。
「こっちの方がお前に似合ってさ!」
 ユウは思わずため息を吐きながら顔を押さえた。
 吉川までそんな事を言うなんて……!
 買い物終了後、来週また喫茶用の物を準備するために出掛ける予定を立てた。
 吉川は用事があるからと言ってそこで別れた。
 夜の帳が下り、薄明るい月が昇っていた。
 週末の夜の車内は人が溢れていて発車直前に乗り込んだ時にはほとんど座る場所など無かった。長い座席に身なりの貧しそうな男が体をおおっぴろげに投げ出して爆睡しており、周囲の人間は迷惑そうにしながらその周りに座ろうとしなかった。
 ユウたちは扉付近の席の脇を陣取り他の人の邪魔にならない様荷物をまとめて置いた。
「吉川って案外茶目っ気あるよなー、ますます良いな」
 ドアの窓ガラスに外の景色を眺めながらニヤ付く田所の顔が映った。
 結局のところ田所は吉川目当てで付いて来た訳だ。
「なんか吉川って今までちょっとお高いイメージっつーか、なかなか話しかけにくかったんだけど。可愛い上に性格も良いって言うか、面白れぇ。もっと早く仲良くなっときゃあ良かった」
 じゃあいっそ委員を変わってくれよと思った。言っても無駄だと分かっていたので口にはしない。その代わり自分も吉川に対して思った事を口に出した。
「でも本当、吉川さんって気さくで明るくて、頼りがいもあるし……」
 クラスの学祭委員の仕事は吉川のおかげでほとんど滞りなく進んでいる。
 喫茶のメニューも飲み物やケーキは既製品を購入してアレンジすることになり、家庭科部の子と一部の女子たちが準備を進めてくれていた。パンフレット用のPR原稿も女子たちがやってくれたし、まさに吉川の人望の賜物だ。
 自分はほぼ何もしていない。吉川は「そんなことないよ」と笑う。ふと吉川の笑顔が浮かんだ。
「……笑顔も可愛いし……」
 あ、しまった。つい口に出た。
「あ、何?お前今更吉川に鞍替えかよ?綾瀬はどうした綾瀬~!」
 ユウは慌てて首を振った「ちがう……!べつに、素直にそう思っただけだよ」
 ああまた、なんでまた本音をポロッと言っちゃうんだろう。
「ま、別にいいけどさ。どっちも可愛いし~!」ヘラヘラと笑う田所はやはり苦手なタイプだ。
 ふいに車内アナウンスが流れ、車両がゆっくりとスピードを落とした。
「あ、じゃあ俺ここだから。またな西山!」
 田所は今日購入した品々の入った袋を抱えて車両から降りた。田所がまとめて来週学校に持って来てくれるそうだ。
 ドアが閉まり電車が動き出した。流れ去って行く田所の楽しそうな表情の横顔を見て、思わずフッと笑みが溢れた。
 なんだかんだたまにはこういうのも悪くない。
 今日は少し楽しかった。


 翌週から田所のお誘いに拍車がかかった。
「西山昼飯一緒に食おうぜ」
 お弁当を持って席を立とうとすると、半ば強引に腕を引っ掴まれた。
 これまで中庭や休憩スペースで本を読みながら弁当を食べるのが日課だったのに、その日常は田所によって崩された。
 しぶしぶ付き合う羽目になったが、田所はクラスの中でも中心的人物で、一緒にいると当然他の生徒たちとも同じ空間に居合わせなければならない事もしばしばだった。
 今までまともに話したこともない生徒からも色々個人的な事を聞かれるし、「最近よく一緒に居るな」とか「意外な組み合わせ」とか言われて注目されるようになった。
 確かに自分でもタイプが違いすぎると思う。
 今までせっかっく目立たないように過ごしてきたのに、たまにはいいかと思った罰かもしれない。
 学園祭を三日後に控えたある日、ちょっとした事件があった。
 この日からは学園祭準備のため午後の授業を返上して準備時間に充てられていた。特に前日なんかは丸一日がリハーサルなど会場準備に費やされる。今年の学園祭は特に力が入っていた。
 ユウは同級生たちと共に、コスプレ喫茶の看板や装飾作りを行っていた。
 早速ユウたちが買って来た衣装を着てふざけ合う男子たちもいたし、中にはお手製で人気アニメのキャラクターらしき衣装を作ってきた強者の女子までいた。
 田所はと言えば、他の生徒と一緒にぎゃあぎゃあと騒いでいてほとんど作業が捗ってなかった。
 一方、明るく声を掛けて激励してくれる吉川に対してはクラスメートたちは信頼を感じていたと思うし、男子は大体浮かれていた。
 綾瀬マイコも楽しそうに衣装作りに参加している姿が見えた。
 彼女の楽しそうな笑顔を見ると癒される。
 放課後も部活動や委員会などの用事がない者は出来るだけ集まって残りの作業をしていた。
 そんな中で突然校内が騒然とした雰囲気に包まれた。
 廊下を足早に駆ける音がして、ただならぬ様子で話す声が聞こえた。
 何人かの同級生たちが何事かと様子を聞くと、どうやら二階から誰かが転落したらしいという噂だった。
 するとまた向こうから他クラスの生徒がやって来て叫んだ。
「誰かが芸術棟の二階から中庭に落ちたらしいよ!」
「えっ、うそ!?」
 聞いていた同級生たちは皆驚いて教室の外に集まった。
「美術部の誰からしい」という言葉にユウはドキリとした。
 中庭に面する芸術棟の二階の部室で、学園祭に展示する予定の作品を仕上げている筈の彼女の顔が頭をよぎった。
 また誰かがやって来て「誰かが落ちた女子をキャッチしたらしい」とか「うちのクラスの生徒だって」と噂した。
 同級生たちが中庭に向って走り出す。ユウも気がつけば階段を駆け下りていた。
 中庭にはすでに多くの野次馬の群れ。
 集団に囲まれる中、数名の教師が女子生徒の様子を気遣っていた。
 建物の上部を見上げると、少し離れた二階の美術室から綾瀬マイコが心配そうに階下を見下ろしていた。どうやら落ちたのは彼女ではなかったようだ。
 ほっと安心して視線を地上に戻すと、人だかりの中心に田所ケンジの姿があった。
 転落したと思われる女子生徒は特に怪我も無く無事だった様だ。
 どうやら彼女は吹奏楽部員でパート練習中に貧血を起こし、フラ付いたところで運悪く開いていた窓から転落してしまったらしかった。
 女子生徒は同じ吹奏楽部の部員数人と保険医に付き添われて保健室へと向った。
 顧問の教師と教頭が何事も無くて良かったと安堵して笑っていた。
「いや~、それにしても田所くんだったね、君大した者だよ」
 教頭は薄くなった頭を撫でては、田所の背中を軽く叩いた。
「あーいやいや、もう全然余裕っすよ!たまたま通りがかりに落ちて来た所キャッチ出来たのは、運が良かったっつーかぁ」
 田所はヘラヘラと軽い調子で受け答えていた。
「ともかくありがとう。うちの大切な部員を助けてくれて本当に感謝するよ!」眼鏡をかけた爽やか数学教師の吹奏楽部顧問はそう言って田所の肩を叩いた。
 その後教師たちは野次馬の生徒たちに向って「はい終わり終わり!もう大丈夫だから戻りなさい!」と促しながら中庭を去って行った。
 田所は生徒たちに囲まれた。
「えーっ!どういう事なのか説明して!」
「マジでキャッチしたの?なんでこんなとこいたの?」
「キャー凄い!映画みたい」
 田所は持ち上げられてまんざらでもない様子で、自慢げに武勇伝を説明していた。どうやら芸術棟にある第二音楽室でバンド練習をしていたようだ。
 放課後だったが多くの生徒が学園祭の準備で校舎内に残っていたため、かなりの人だかりだった。
 おそらく明日の朝にはこの話題で持ち切りだろう。
 喫茶の準備は大体のメドが付いたところで解散する事になった。
 帰り際、教室に戻ってきた田所は同級生たちに囲まれていた。さっきの噂を聞きつけた他クラスの生徒もやってきて一躍ヒーロー扱いだった。
 ユウはそんな田所を尻目に教室を去った。
 昇降口で靴を履き替えていると、何故か田所が追いかけて来た。
「おーい西山!お前先一人で行くなよ。買い出し行くんだろ?付いて行ってやるってば」
 喫茶で使う小物や材料を買い足さなければならなかったが、吉川は急な用事ができたらしく、ユウ一人で買い出しに行くつもりだった。
 しかし田所に付いて来てくれと頼んだ覚えも無いし、他の生徒たちと帰ればいいのになぜわざわざ自分を追いかけてくるのか。
 本当に田所が何を考えているのか分からない。
「別に一人でも平気だよ。そっちこそバンド練習はいいの?」
「ああ、今日はお終い。一人より二人の方が荷物分けれるじゃん」
 ふと、気になったので尋ねた。
「……田所、腕、大丈夫?」
 田所は一瞬動きを止めてさり気なく右腕を引っ込めた。
「うん?何の事」田所はとぼけた。
「さっきから右腕をかばってる様に見えるし。それに鞄肩に掛けるのいつもと逆じゃない?」
 恐らく女子生徒を受け止めた時に痛めたのだろう。
「手当てしなくて良いの?さっき先生に言えば良かったのに」
 ユウが見つめていると、田所は観念した様に笑った。
「ん~、バレたかぁ。案外目ざといな。別に大した事ねぇし。それにせっかくカッコ良く助けたのに、腕傷めましたぁ……とかダッセーじゃん!」
 田所はそう言って顔を歪めて笑った。
「そうかな?」ユウはつい口にした。「誰かを助けて怪我をしたなら名誉の負傷ってやつじゃない?僕はダサイとは思わないけど」
 田所は一瞬真顔でこちらを見たが、すぐにプッと吹き出す様に笑った。
 ユウはしまったと思った。変な事を言ってしまったかもしれない。
「お前ってやっぱ面白いな~?」
「えっ?どこが?」
 ユウはバカにされたかと思い羞恥心で顔が熱くなった。
「いや……。心配してくれてサンキュな」
 田所は嬉しそうに笑っていた。
 ユウは少し面食らった。軽率でいい加減なヤツ、という印象しかなかったが案外素直なのだなと思った。
 校門に向って歩きながら話した。「腕本当に大丈夫なの?」
「だから、ダイジョブだって。ちょっと捻っただけだし。まあ名誉の負傷ってヤツだな~!」
「それは僕が言ったやつだよね」
「えっ、そうだっけ?」
 相変わらずいい加減でお調子者な奴だが、少しだけ、嫌いじゃないかも、と思い始めていた。


 学園祭当日が訪れた。
 ユウの通う紫雲(しうん)学園は、十数年前に小山を開いた土地に設立された私立図書館と私立高等学校の総称で比較的歴史は浅い。
 『紫冠祭』と名打つ学園祭は、毎年十月の第二周目の三連休と定められていた。春に行われる体育祭とは別に開催され、主に文化祭の意味を持つ。
 生徒たちが主体となって催し物やライブなどのイベントを企画して作り上げる一大イベントだ。
 敷地内に併設されている図書館は一般利用も多く、同時期に図書館でもイベントが催される。
 年間行事の予算の多くを費やされ、外部からゲストも招かれる。麓の町内会及びOB後援会もこぞって参加するため、町内は一気にお祭り騒ぎになる。
 商店街では学園祭のひと月前くらいから、徐々に街頭をポップに飾り付けたりセールを行ったりと慌ただしい雰囲気だ。
 近隣の学校とも日程がずれているため一般人も参加し易く、年々来場者数が増えているらしい。
 しかも今年は二日目に花火が打ち上げられることになっていた。
「今年夏祭り台風で中止になったじゃん。おかげでその時打ち上げるはずだった花火、うちの学校の学祭であげるらしいよ」
「えっ!やった!だから今年OBがやたら盛り上がってんのか!」
 盛り上がらないはずがない。
 ユウが教室に入る頃には、早めに来た家庭科部の女子たちが喫茶メニューの準備を整えていた。
 午前十時にメイングラウンドで学園祭の開祭式が行われ、一般客が開祭と共に波の様に押し寄せると瞬く間に人で埋まった。
 広大な敷地内にあるグラウンドには特設ステージが計二つ設けられ、数日前まで運動部が練習に使っていた陸上グラウンドも、前夜のうちにスポーツイベントエリアに様変わりしていた。
 校舎内のあらゆる施設は全面的に解放され、中にはOBや町内会主催の出し物や展示も行われていた。
 一、二年生のクラスごとの出し物が行われて居る校舎内も人で溢れ返っていた。
 今年は例年より遥かに来場客が多かった。町内会の予算も加算されて色々と豪華イベントが予定されていると口コミが広がったからだろう。
 ユウたちのクラスのコスプレ喫茶も初日から大繁盛だった。
 店当番はグループを分けて二日間を順番に回す予定だった。しかし午後の当番の連中が早くもコスプレ衣装に身を包み、キャッキャとはしゃぎながら訪問客と記念写真などを撮って盛り上がる始末。午後の店番がちゃんと務まるか少々懸念された。
 ユウは制服のシャツにタブリエを巻いてウェイター姿に扮していた。衣装の数には限りがあったし、こっちの方が動き易くて良かった。内心、変な衣装を着なくて済んでホッとしていた。
 そして吉川(よしかわ)モエはと言うと、驚いた事に自ら宣伝部長を買って出て早速衣装を身に纏い、何人かの女子と共に看板を持って校内を練り歩いているようだ。
「吉川さんのコス見た?マジ可愛いよね~!」
「さっき西棟の辺り宣伝して歩いてたけど、男共の反応がマジ面白かった!」
 客として来た他クラスの女子生徒が噂すると男子生徒たちも釣られて、マジやベェよな!などと浮かれている。
 オーダーされたメニューをほぼ一人で捌いていた体格のいい家庭科部の女子が、「閉祭式のときに人気投票で一番だったクラスは表彰されて賞金もらえるらしいからねー!吉川さんも頑張って宣伝してくれてるから私たちもマジ頑張らないと!」と鼻息を荒くしていた。
 女子は強かだ。
 正午を目前にメニュー用の材料の準備数が全然足りない事に気づき、梶山に急遽買い足しを頼んだ。
 明日はもっと人が多いだろうから、家庭科部の子たちと相談して業者に注文数を二倍に出来ないか交渉してもらう事にした。
 そんな事はおかまい無しに、スリットの入ったチャイナ服姿の吉川が大勢客を引き連れて戻って来た。
 確かによく似合っている。
 一瞬で満席になり、廊下に余った椅子を置いてウェイティング状態になった。
「恐るべし、吉川さん人気……!」
 家庭科部の女子生徒が流石に悲鳴を上げた。
 カエルとお姫様のコスプレをしていた生徒らと共に、次の当番である吉川たちに交替をお願いした。
「じゃあ次よろしく」
「うん、お疲れさま。任せて」
 吉川は満面の笑みを浮かべて頷いた。
 やっぱり可愛いなと思いつつ、「それにしても凄いたくさんお客さん連れて来たね」苦笑いにならないように気をつけて笑った。
「私もちょっと吃驚しちゃった。やっぱりチャイナ服って人気なんだね!どうせなら一番目指して頑張るね」
 今日はポーニーテールは揺れない。代わりに編み込んだ髪で作ったお団子がよく似合っていた。
 ようやく当番から解放され、羽を伸ばそうと西棟の二階の窓から中庭を覗いた。
 中庭には白いパラソルとテーブルセットが幾つも並べられ、芸術棟の下のスペースでは吹奏楽部の四重奏が音を響かせていた。
 食べ物など自由に持ち込んで休憩しながら演奏を楽しめる休憩スペースになっている。
 たしか時間毎にプログラムが変わる仕組みになっていた筈だ。パンフレットにそう記載されていた。
 昼食をどうしようかと考えていたところ、ふと芸術棟の中に綾瀬(あやせ)マイコらしき人物の姿を捉えた。
 ユウは思わず芸術棟の方へと足を運んだ。
 芸術棟では、文化部部員やOBの様々な作品が展示される展示スペースになっていた。まるで美術館の様な見事な作りだ。
 入り口付近の受付スペースのようなところに彼女はいた。少し離れたところから彼女の様子を伺っていた。
 すると彼女はユウの存在に気づき、微笑みながら声を掛けてきた。
「あ、西山(にしやま)くん?」
 胸が高鳴った。周りには誰もいない。
 ユウはドキドキしながら話しかけた。
「あっ綾瀬さん、ここにいたんだね……。当番?」
「うん、そうなの。……良かったら西山くんもゆっくり見て行って?」
 彼女の笑顔につい照れてしまう。誤摩化すために周りをキョロキョロ見渡した。奥の方では何人かの生徒や一般客が真剣に作品を見入っていた。 
 ふと壁にかかっていた大きな額縁の書道作品に目が留まった。
 かなり崩してあるが”空”と書いてある様だ。力強くバランスの良い見事な作品だと思った。
「これは書道部の先輩が書いたの。去年全国大会で入賞したのよ」
 綾瀬がそう言いながら近寄ってきた。ますます鼓動が早まる。
「す、凄いね。迫力あるっていうか。何かを感じるよ」
 ユウは言ってから自分のコメント力の無さに落ち込んだ。しかし諦めて話題を変えた。
「……綾瀬さんの作品もどこかにあるんだよね?」
「そうだけど、良かったら案内しようか?」
 綾瀬は笑って答えた。彼女の細く長い指は、自らの黒く美しい髪をすくって耳に掛けた。
 思わずその仕草に見とれてしまう。
 ユウの脳が勝手にその瞬間をプレイバックしてスローモーションした。
 頭の中で再び綾瀬が髪をすくい上げる。
「西山くん?」
 ハッとして慌てて問いかけた。
「あ、でも……いいの?」
「うん、もう交替の時間だから、大丈夫」
 そう言って綾瀬は受付のテーブルの方を指差した。既に別の生徒が椅子に座っていた。
 綾瀬にこっちよ、と言われて奥へ足を運んだ。
 こんな風にちゃんと綾瀬と話せたのは初めてで、嬉しさで口元が緩んだ。
 芸術棟内は部屋毎にテーマが設けられていて、”宇宙”とか“エレクトロニクス”といった部屋もあった。
 綾瀬の作品の一つ目は”春”というテーマの部屋にあり、生け花だった。
 そう言えば彼女は週一回活動している華道部も兼部しているという噂を聞いた事がある。
 黄色やピンクの花々が使用されて可愛らしかった。絶妙なバランス加減と言うか、きっと芸術はバランスなんだな、と思った。
 綾瀬は他生徒やOBのオススメ作品などを紹介しつつ、もう一つの作品がある部屋に案内してくれた。
 それは”悪魔”という部屋にあった。
 ”ナイトメア”という作品名のその絵には、濁った水面から顔を出して笑っている妖艶で美しい女の悪魔が描かれていた。
 ユウは正直驚いた。綾瀬マイコのイメージからはちょっと想像出来ない様な雰囲気の作品だったからだ。なんというか、”悪魔”なだけあって、恐さを感じる。
 しかしこう言う物を描けるなんて、綾瀬には才能があるんだなと感心した。
「本当はもう一つ描き直していたものがあったんだけど、間に合わなくて」
 綾瀬は無念そうに表情を曇らせていた。
 ユウが思い切ってもし完成したらそれも見てみたいと話すと、綾瀬はもちろん、と笑って答えてくれた。
 ユウは更に思い切って綾瀬を誘い、なんと一緒に昼ご飯を食べる事になった。
 断られなかったので、やっぱり綾瀬はいい娘だと思った。
 いや寧ろ、どうしてこんなに積極的に誘えたのかが謎だった。
 ふわふわと夢でも見てるんじゃないかと思いながら綾瀬と共に校舎の外に足を運んだ。
 グラウンドの一角、出店が立ち並ぶエリアは人混みでごった返し、歩き進むのもままならない。
 正門側にある特設ステージではトークイベントが、体育館側の奥のステージでも何かのイベントが行われていた。
 双方のマイクの音が入り乱れる中、更に人々のガヤガヤとした喧騒で耳がうるさかった。
 綾瀬とすれ違う人々の中にはハッと振り向いて、羨望の眼差しで通り過ぎる者も少なく無かった。
 綺麗だとか可愛いとか、そんな声が耳に届いた気がした。
「西山くん、何食べる?」
 当の本人は何も気にする素振りも無く笑った。
 そんな綾瀬と普通に話が出来ている自分にグッジョブしてやりたくなった。こんな風に隣にいて話しかけてくれている事など想像もできなかった。
 丁度自分たちのクラスの生徒が、カエルの着ぐるみを来て宣伝している所を見て、コスプレ喫茶の盛況ぶりを綾瀬に話した。
 彼女は午後からの当番で、巫女の衣装を着せさせられる予定だという事を恥ずかしそうに話してくれた。
 ユウは思わず想像して興奮した。絶対見に行こう!と心に決めた。
 最近なんか運が回って来たじゃないか、などと浮かれていた矢先。
 二人でハシマキを注文しようとした決めた直後だった。
「あっ……!ちょっとねえ!」
 同じクラスで運動部の女子が慌てた様にユウに声を掛けてきた。
「ごめん、本当悪いんだけど今すぐちょっと協力してくんない?お願い!ね?」
 両手を顔の前で合わせて拝む様に懇願して来る女子生徒。
「あっちでイベントやってんだけど、出る筈の男子がバックレちゃって参加者足りないの!ちょっと軽く体動かす程度だから出てくんない?お願い!この通り!」
 よく見ると腕に実行委員の青い腕章をしている。
 ユウは唖然として「えーっと……」と顎を掻いていると、その間に同じクラスで綾瀬と仲の良い女子が綾瀬に声を掛けてきた。
「ごめんマイコ、ちょっと時間遅れちゃって。行ったらもういなかったから探したよぅ」
 綾瀬の友人は少し半泣きの様子でごめんと手を合わせて謝っていた。
「チカ。もう来ないのかと思った」
 綾瀬は友人の方を向いて少し口を尖らせた。
 ユウは悟った。自分が誘って断らなかったのは約束をしていた友達がもう来ないと思ったからだ。そりゃあ友達とご飯食べに行く約束くらいしているに決まっている。
 綾瀬はこちらを振り返り、「西山くんごめん」と申し訳無さそうに謝った。
 そう、なるよね……。
 するとその様子を呆然と見ていた運動部の女子は気づいた様に、ユウの腕を掴んだ。
「ちょっとで済むからお願い!」と無理矢理人混みの中に引っ張った。
「えっ!?ちょっと……!」
 ユウは後ろ髪引かれる思いで綾瀬の方を振り返ったが、彼女たちはもう話しながら反対方向へと姿を消していた。
 やはり幸運はそう長くは続かないようだ。
 ユウは腕を引かれながらガクッと頭を垂れた。


 運動はあまり得意な方ではない。
 体育祭や球技大会でもできるだけ選手にはならない様にしていた。
「じゃあよろしく!」
 女子生徒に文字通り背中を押され、力なく俯きながら”参加者控え”と書かれた天幕の中に足を踏み入れた。
 結局断りきれず勢いに呑まれてしまった。いつも自分はこうなんだ。ハッキリ即断出来ないために押し切られてしまう。
 それにしても軽く体を動かす程度って一体何をするのだろう?
 プログラムにはスポーツ系イベントと記載されていたが、詳しい内容は載ってなかった。参加者が少ないのならやめてしまえば良いのに。
 ため息を吐いて顔を上げると、横にいた田所(たどころ)ケンジと目が合って驚いた。
 彼は「よっ!」と片手を上げた。
「……わっ!いたんだ。……って、何その格好?」
 田所は赤と青がカラーリングされた全身タイツに身を包んでいた。
「この格好?……吉川にさぁ、コスプレ喫茶アピールして来てねっ!って言われたからだなぁ、こうして……」
 田所が持っていたマスクを被り親指を立てた。それは蜘蛛の能力を持つ某アメコミヒーローのコスプレに違いなかった。田所の引き締まった身体にはよく似合い、様になっていた。
「その衣装どうしたの?」
「ネットオークション」田所はマスクを脱ぐとニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「で、お前こそ何でここにいんの?まさか出るとか言う冗談?」
 ユウは「まったく冗談じゃないよね」とゼッケン代わりの安全ピン付きの手作りバッチをひらひらさせた。
 田所に事情を説明すると、「マジか!そいつはツイてねーな。まあ、どうせ頭数なんだし適当でいんじゃね?」と他人事の様に笑った。
「ところでこのイベントって一体何するの?」
 尋ねてみたが、田所も首を傾げた。
「さあ?よく分かんねーけどちょっとしたスポーツ対決じゃね?」
 スポーツが得意でもないのに、誰かと対決なんて冗談じゃない。
 しかも制服姿のまま。いっそこのままばっくれてしまいたい衝動に駆られた。
 しかし悩んでいる間に「出演者はステージ上に上がってください」とアナウンスされ、田所に「ほら行くぞ?」と促されて仕方なくステージへと上がった。
 ステージ前には想像以上の観客が集まっていて思わず怯んでしまった。
 正面のステージよりは小規模だが、物珍しさに集まっている人々がこちらに注目していた。
 参加者は他にジャージ姿の運動部らしき男子生徒が数人、他にも一般参加者のマッチョなオヤジと体格の良いチャラそうな男と中肉中背の男。流石に女子の姿は無いようだ。
 コスプレ姿の田所は早速野次られていたが、笑いながら観客の方に向かって適当に手を振っていた。目立つことに慣れている人間の態度だった。
 それよりも、自分の制服姿の場違い感が半端ない。
 もう一人制服姿の男子生徒がいたが、自分と同じ様に無理矢理引っ張られて来たのかもしれない。
「皆さんこんにちは!本日は紫雲学園高校紫冠祭にようこそ!僕は司会進行をいたします三年の木村と申します。この競技では、参加者の方々にトーナメント制で対決していただきます」
 司会役の男子は慣れた様子で、明るくハキハキとイベントの概要を説明し始めた。
 対決方法は簡単な運動をした後、様々なジャンルを問題に答える。先に運動ノルマを達成した方が回答権を得るというもの。
「最後まで勝ち残った優勝者には当学祭執行部より豪華商品が贈られます!皆さん是非頑張ってください!」
 参加者たちの半数以上が「おーっ!」と拳を掲げやる気満々だった。
 ユウは不安になった。簡単な運動と言えど、一体どの程度なのかわからない。
 もしできなければ問題に答える事も出来ず大勢の人の前で醜態をさらす事になってしまう。
 やはり無理矢理にでも断るべきだったのだ。
 対戦相手はすでに番号順で組まれていた。出番でない者は舞台袖で待機する。
 初戦は一般参加の大学生と運動部の男子生徒の対決。
 運動と問題はくじ引きで決める。それぞれ二つの箱の中から一人が数字、一人がアルファベットの書かれたボールを引いた。
 最初の運動は腕立て伏せ三十回。ユウは腕立て伏せなんて十回程度出来ればいい方だ。
 この時点で青ざめた。
 係の生徒がそれぞれ競技者の腕立ての回数を数える。
 競技者が腕立てを行っている間に、ステージ後方で別の係がアルファベットと問題文の書かれた長い半紙を観客席の方に向けて広げた。
 腕立てに関してはいい勝負だったが大学生が先に三十回終えて問題文を見ると「えーっ!?」と言って頭を抱えた。
 問題文『G 征夷大将軍徳川家康により創設された江戸幕府において、五代、八代、十五代将軍を務めた人物の名前をそれぞれ漢字で答えよ』
 会場がざわついた。
 大学生にスケッチブックの様なものとマジックが渡され渋々名前を書いたが、『慶喜』の”慶”の漢字を間違えていた。
「あー!残念!」
 すると腕立てを終えて様子を伺っていた運動部の男子が、勝ち誇ったような笑みを浮かべながらすらすらと回答を記した。
 正解は『綱吉、吉宗、慶喜」だった。
「はいこちらが正解です!結果二番が準決勝進出~!」
 ここでようやく殆どの人間が『腕立て、意味ない』ということに気づいた。
 スポーツイベントのくせにどんなに早く運動ノルマを済ませても、問題に正解しなければ勝てない”トンデモ”企画。
 次にマッチョなオヤジが余裕で腹筋三十回をこなし、『昨年の流行語大賞に選ばれたのは?』という簡単な問題に即答してストレート勝ちした。対戦相手の男子生徒は半分程度しか終わっておらず、さすがに同情した。
 そして田所は運動部の男子と対戦した。
 ぐるぐるバット三十回の後、数式を解けという問題だったが相手に差をつけた上にすらすらと回答して勝っていた。
 歓声と共に生徒たちからどよめきが上がる。
 運動神経の良さはともかく、数式をすらすら解くイメージじゃない。どちらかというとそのバカっぽいイメージから頭が悪いと思っている人が大半だからだ。噂とはそう言うものだ。
 しかし同じクラスのユウは知っている。残念ながら田所の成績がユウよりも良い事を。
 田所ってやっぱり結構頭いいんだよなぁ、と首を傾げた。
 ついにユウの番がやって来ると、もういっそどうにでもなれ!とやけっぱちになった。
 対戦相手はあのもう一人の制服を着た男子生徒。
「おっと!制服対決!一応スポーツイベントなのに制服姿で参戦とは余裕の二人ですね!」
 無理矢理参加させられただけだし知った事か、と厚顔無恥を装った。
 競技はスクワット三十回。
 ユウはため息を吐いた。
 腕立てよりはマシかなぁ……。
 スタートの合図と共に渋々とやり始める。よりによってスクワットとか、制服のスラックスが動きにくいしシワにならないか心配だ。早くも腐っていた。
 自分も遅かったが、対戦相手もいい勝負だった。
「この二人、大丈夫なのか。お願いだから倒れないでくれよ!」司会役の男子生徒が笑う。
 それに釣られるように観客席からも笑い声が聞こえてきた。
 みんな他人事だと思って笑いやがって……!こっちはこれでも必死だっていうのに。
 なんとかスクワットを終え、ハアハアと息を切らしながら振り返って問題文を見た。
 問題文『C 長はSeptember、では文は?英語で答えよ』
「……はあ?」
 ユウは思わずぽかんと口を開けた。
 脳に供給される酸素が足りない。頭がクラクラして意味が分からなかった。
 ほぼ同時にスクワットを終えた対戦相手が息を切らしながらマジックのキャップを取り、サラリと書き出した。
「おっと後から七番!回答は”July”……正解です!」
 観客の方から「おーっ!」という声援が聞こえた。ユウは訳が分からず少し悔しい思いを味わった。
「旧暦の月名ですね。長は長月で九月、文は文月で七月でした!」
 司会者の言葉でユウはようやく理解し、ああ!と思わず手を叩いた。
 だが想定通り、初戦敗退でホッとした。
 ああ、やっとこれで解放される。後は呑気に残りの対決でも見ていよう。
 競技は進み、準決勝。
 決勝へと駒を進めたのはあのマッチョなオヤジだった。
 さらに田所も準決勝で相手に腹筋で大きな差をつけ難読漢字の読み方を見事に答え勝ち進んでいた。
「さあいよいよ決勝戦!勝ち上がった両者、運動能力はほぼ互角!勝利の栄冠を飾るのは芸能関係に強い三番か、はたまた頭脳派の五番か!命運は問題文のジャンル次第。そして決勝の運動量は三倍以上!頑張ってもらいましょう!」
 決勝戦は腕立て、スクワット、腹筋、ぐるぐるバットを各二十五回。これを制限時間五分以内に終えて問題に答えなければならない。
 ユウは思わず目を細めてははは、と笑った。自分だったら絶対途中で力尽きるだろう。
 いよいよ決勝戦の火蓋が切って落とされた。
 全力で高速腕立て伏せをこなす二人の姿に、会場からはどよめきと「うぉーっ!?」という歓声が上がった。
 舞台袖で見ていた隣の男子生徒が「おいおいおい!どんだけガチなんだよあの二人!」と叫んだ。ユウもあまりの凄さに思わず笑いが込み上げる。
 田所はかなり運動能力が高いと言えた。そのくせ運動部にも所属していない帰宅部だ。引き締まった腹筋といい、おそらく普段から鍛えているのだろう。
 最後のぐるぐるバットをマッチョなオヤジが先行して開始するも、田所が機敏性を活かして追いつき始める。
 その間、最終問題が発表された。
 会場がざわついた。
 問題文『F 47都道府県名を全て答えよ』
 袖で待機していた参加者たちは思わず笑い出した。
 ありえない。
「おーっとぉ!?……これはもしかしたら今日一番の難問でしょうか?果たして……っていうか時間間に合うのか?……チッ!誰だよこの問題入れた奴」
 司会役の生徒もさすがに焦った様子で、近くの仲間に言った言葉がマイクに拾われてしまい、あっ!と焦っていた。
 そうこうしている内に、問題文を見たマッチョなオヤジが案の定キレた。
「なんじゃこら?……んなもん答えられる訳無いやろうがぁっ!!」
 司会役の生徒に「問題を変えろ!」と食って掛かるマッチョオヤジ。反対側の袖にいた大学生が、まあまあと言う手振りで落ち着かせようとする。
 少し遅れて田所も問題文を見ると息を切らせながらこめかみを押さえた。もはや時間は残り少ない。
 決勝でこの展開って一体どうなるんだろう……。ユウは大丈夫かなと心配した。
 すると田所はマジックを手にして何の前触れも無くスケッチブックに書き連ね始めた。
 対戦相手はぎゃあぎゃあとイベントスタッフの生徒たちと押し問答しているし、その様子を観覧していた一般客も困惑した様子だった。 その間も田所の手が止まる事はほとんど無かった。紙面いっぱいになるとページをめくり書き続ける。田所のこめかみから汗が流れ落ちる。
 BGMをかき消す程の野次喧噪で辺りは騒然としていた。
 しばらくして田所は書き終えると静かにマジックのキャップを閉めた。
 制限時間を計ってる奴なんて誰もいなかったと思う。
 気付いたら田所は小さく手を挙げていた。
「……はい。書き終えたんすけど~」
 今度は会場が驚きの声でどよめいた。
「あっ……?はい、今確認します!」
 スタッフの生徒がスケッチブックの紙を破って全てを観客席の方へ向ける。観客席から感嘆の声が上がった。
 驚くべきことに、北東から順番に一つたりとも被る事無く最南端の県まで書上げられていた。会場のざわめきが一層増した。
 ユウは開いた口がふさがらなかった。都道府県なんて全部言えるかもわかない。
「これはお見事、完璧な回答です!よって優勝は、エントリーナンバー五番さんです!おめでとーうございまーっす!!」そのまま優勝商品が贈呈される。
「優勝商品、クオカード五千円分と!……昨日発売されたばかりの、神出鬼没のお庭番アイドル、ナナイロメイプルX!の最新アルバムDVD付き限定版の贈呈ですッ!!」
「おおおお~~~っ!!」
 田所は「っしゃーっ!!」と拳を突き上げて叫んだ。
 マッチョなオヤジは頭を抱えて悔しがり、他の参加者たちも残念そうに肩を落としていた。
 どうやら参加者は皆賞品の内容を知っていたと思われる。
 ユウも賞品の内容を知って少し残念に思った。ナナイロメイプルXといえば自分も姉も大好きな超人気アイドルグループ。しかも今回の限定版は完全予約制で、生産数に対して予約が殺到し即日販売終了したというまさに超限定品だった。
「では優勝者の方、自己紹介とコメントをどうぞ!」
 司会役の生徒は田所にもう一本のマイクを差し出した。
「こんちは~。二年の田所ケンジで~す。えっと、ナナプル限定版ゲット出来て最高っす!まあ、運が良かったと思います」
 田所の引いた問題は運がいいとかそういうレベルではなかったように思えた。
「いやぁ、運も実力の内っていいますからねぇ~」司会者は大袈裟に褒め称えた。「ところで皆さん、実はこの変態コスプレ野郎、もとい田所君は、ほんの数日前になんと運悪く二階の教室から転落してしまった女子生徒をキャッチして助けた本物のヒーローなんですよ!」
 会場から疑惑に満ちた笑いと驚きの声が上がる。
「いやいや~、変態は一言多いっすよね~?」
「だってそんなぴっちりした格好、ド変態かヒーローくらいしかしないよ」
「あ、はい、後者の方です」田所が片手を挙げる。
「あっそう?君、腕をゴムみたいに伸ばせる系?それともバラバラになる系?海賊王目指してるんだよね?」
「いや、海賊王は目指してないしどっちかっつーと蜘蛛の糸シャッて出す系の能力?」そう言って今度は手を伸ばすようなジェスチャーをして見せた。
「あー、そっちね、蜘蛛の糸系ね~?あー、俺は羅生門系」司会役の生徒がマイクを持ち替えた。
「羅生門系の能力ってなにそれ怖い」
「門の上からまきびしを巻いて踏んだ人が痛がるのをほくそ笑んでいる」
「ただの意地悪だなおい」
 会場のあちこちで笑い声が響く。まるでゆるい漫談のような二人の会話が少し続いた。
 ふんわり場内が盛り上がった頃、田所が思い出した様に「あ!ちょいいーすか?」と切り出した。
「ご来場の皆さん。俺らのクラス、見ての通りコスプレ喫茶をやってるんで、是非是非お誘い合わせの上二年四組のコスプレ喫茶にお越しください!……っていうか俺これ言うために頑張ったし!」
 田所は司会役の男子に「もっか賞品目当てだろ?」と突っ込まれてはぐらかしていた。
「あ!因に?今学年で一、二を争う可愛い女子生徒がチャイナ服やら巫女さんやら着たりしちゃってるんで?ぜえぇっっったい!見に来た方がいいスよマジで!」
 その言葉に雄々しい声援が上がる。
「まあーねー?巫女とか反則ですよねー?チャイナ服もスリットがチラリとか、くすぐるよねー?あ、でも手前の女子たちはイマイチどうでもよさそうだけど」
 司会役の男子が田所に反論してステージ手前の女子たちを指差した。
「あ!でも……」
 ふいに田所がボーッと脇で突っ立っていたユウのところへやって来て引っ張った。ユウは突然の事で吃驚してこけそうになった。
「明日はコイツがメイド服着ます!」
「はっ!?着ない着ないっ……!!」
 田所の爆弾発言にユウは咄嗟に首を振りながら叫んだ。
 爆笑の渦の中、ステージ手前にいた女子生徒たちが、え~?うそ~っ!?と叫びながら笑って興奮していた。
 ユウはサーッと血の気が引いた気がした。
 冗談だろうが、想像しただけで恐怖を感じる。
 田所は、去り際に司会役の男子生徒が「優勝者は神出鬼没ヒーロー、田所ケンジでした!拍手!」などと言ったときもすっかりその気になって手を振っていた。
 教室に戻ると、相変わらず満員御礼で驚いた。
 先ほど田所がアピールしたおかげで更に客足が伸びる事が懸念された。
 町内会の出店で買って来た焼きそばを、教室の隅っこにパテーションで区切られた休憩スペースで何人かの同級生たちと一緒に貪った。
「あー、明日のバンドのアピールもしときゃ良かった」田所は汗でベタベタになってしまったらしく衣装を着替えて制服姿に戻っていた。
「しまったなぁ~」とぼやきながら田所は焼きそばをふたパック平らげウーロン茶を一気に飲み干していた。
「ってかお前すげーずるいんだけど!それ限定版だろ!?」
 同級生の一人がナナプルのアルバムを指差した。
「はっはっはー!羨ましかろう!お前には貸さねー」
「んだと?くらぁっ!」
「まあまあ!」
 ユウは黙って同級生たちのやり取りを聞いていた。
 実は先ほどこっそり田所に貸してもらう約束を取り付けたのだ。嬉しくて笑いが込み上げたが我慢した。
 しかしユウはそれよりも、とパテーションの影から教室内を覗いた。
 本当に袴姿の巫女に扮した綾瀬マイコが、恥ずかしそうにオーダーを取っていた。
 その姿にユウは心の中でガッツポーズをして喜びを噛み締めた。
 ふと気づけば他の男子たちもこっそりコスプレ姿の女子たちを覗き見ていた。
 皆でニヤニヤしながらパテーションの影に戻った。
「いやぁ~、それにしてもこのクラス、コスプレ喫茶にして正解だったと思う」
 田所の一言に思わず、その場にいた男子全員が力強く頷いた。


 翌朝目が覚めると、涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
 理由は分かっている。
 大したことはない。またあの時の夢を見ただけだ。やはり少しだけ胸が痛むが、けれどもう仕方のないこと。
 ユウは何事もなかったかのように身支度を済ませ学校へ向った。
 学園の敷地内に着くと、昨日の盛況振りを聞きつけたのか開場三十分前には既に人影が列を成して待ち構えていた。
 学園祭二日目の今日は、午前中に商店街で人気のパン屋が数量限定で焼きたて新作パンを用意しているとあって、それ目当てらしき主婦の姿もあった。
 今日は朝から皆のテンションがおかしかった。
「はい!オーダー入ります!コーヒー一丁!」
「はいよコーヒー一丁~!」
「コ~ヒ~いっちょぉ~!!」
 まるで居酒屋チェーン店の様な異様なノリだった。
 朝一番クラスメートがマジックで『アイアムヒーロー』と書いた襷を田所(たどころ)ケンジに渡し、悪ノリした田所はそれをあの青と赤の衣装の上から襷掛けした。
 ユウは、”ヒーロー”の前に”ア”が足りないなぁと思いつつ、誰も気づいていない様子だったので何も言わないでおいた。
 昨日の盛況ぶりを聞いてやって来た校長が現れた時は流石にみんな緊張した。
 チャイナ服姿の吉川(よしかわ)モエが出したフルーツフレーバーティーを飲み干して、校長は満足そうに頷いて親指を立てた。
「人に薦めておくよ、イケメンヒーローと美少女がもてなしてくれるとね」
 そして襷には『校長お墨付き』と勝手に書き足された。
「そんな訳で更にテンションハイな僕たちがお送りしております」
 カエル姿の男子が他クラスの友達に事情を説明していた。
 ユウはこの日は午後からの当番だったが、人手が足りないのではないかと思い手伝っていた。
「ごめんね西山(にしやま)くん、当番午後からなのに手伝ってもらって。少し落ち着いたから今のうちに色々周っておいでよ?」
 そう言って吉川が気を遣ってくれた。
「でも、吉川さんこそ昨日も今日もずっと見てくれてるし」
「私はいいの、言い出しっぺだし、楽しいから!」吉川は満面の笑みを浮かべた。
 ユウは「わかった」と返事を返し、巻いていたタブリエを脱ぎ教室を後にした。
 適当に散策していると中庭での大道芸人によるショーステージが目に入った。
 昨日は吹奏楽部が演奏をしていたが、今日のこの時間はバルーンアート芸人とエレクトーン奏者のコラボレーションだった。
 中庭に降りて他の観客と共に適当に芝生の上に座った。
 ヘッドセットを付けた芸人が、中庭にいる観客に曲とお題をリクエストしてもらい、エレクトーン奏者の即興演奏に合わせてバルーンアートで色んな物を作って行く。
 中には『ガ○ダム』なんて言う強者がいたが、芸人は「初期でいいかな?おじさん頑張るよ!」と言って四苦八苦しながら手を動かし始めた。
 数分後、子供の背はあろうかという様な丸っこいガ○ダムをあっという間に見事完成させて、拍手喝采を受けていた。
 一区切りしたところでユウは思わず芸術棟の方に思いを馳せた。
 綾瀬(あやせ)マイコは今日も当番をしているのだろうか。それとも友達とどこかを周っているのだろうか。
 結局昨日お昼を一緒に食べれなかったことが悔やまれる。
 出店で簡単に昼食を取ってから少し早めに教室に戻った。
 しかしそこではとんでもない事態がユウを待ち受けていた。
「いやぁ、ほら、昨日公言しちゃったからさ~?」
 しれっと言い放つ田所の後ろから、昨日までは自分に何の関心も寄せていなかったはずの女子たちが、目を輝かせてこちらを見つめていた。
 彼女たちはどこからともなくメイド服とウィッグを取り出し、ユウの腕をがしっ!と掴んだ。
「ええぇっ!?……まさか、や、絶対やらないよ!?」
 ――嘘でしょ!?
 昨日の田所の爆弾発言は完全に冗談だと思って安心していたのに。まさか本気でやらせるつもりだなんて最悪だ。
 ムリムリと悲鳴を上げて拒むユウだったが、女子たちに更衣室として使っていた空き部屋に連行された。
「大丈夫大丈夫、絶対可愛いからぁ!」
 女子たちは楽しそうにはしゃいでいた。
 女子って案外乱暴っていうか、きゃっきゃっ言いながら平気で男子をパンツ一丁にするし無理矢理着替えさせられた上ウィッグも強引に被らされて痛かったし、ことさら泣きそうだった。
「ちょっとリップとか付けちゃおうよ」
「あ、いーじゃん。私の貸したげる」
 クラスでも気の強いグループの彼女たちに逆らうのが恐くて、仕方なくされるがままだった。
 彼女たちが一歩下がって自分を見ながらニヤニヤしている。
「ほらぁ、超可愛いじゃん~?」
「ねーねー、自分で鏡見てみなよー?」
 そう言って向けられた姿鏡。
 ユウは恐る恐る鏡を見てゾッとした。
 気づいてはいたんだ、自分が母親譲りの女顔な事も。んでもって体つきも細身な方だし、中学の時それでかなりいじられて嫌な思いばっかりしたから絶対こう言う事したく無かったのに。
 残念ながら、確かに似合ってる……。
 色々な意味で絶望してため息吐きながら顔を両手で押さえた。
「さっさと皆に見せびらかしに行くよ!」
 彼女たちはセンチに浸る暇も与えてくれず、また手をぐいっ!と引っ張って教室に連れて行かれた。
 恥ずかしさのあまりどうする事も出来ず俯き加減で走っていたが、両サイドに結んだゆるふわウィッグの毛先が動く度顎に当たって痒いし、ふわふわ揺れるミニスカートのフリルの下から伸びる足が自分の物だと思うと吐き気がした。ニーハイまで履かされて、もう救い様がない。
 クラスに戻るともの凄い勢いで騒ぎになった。
「うえー!?どうしたの?どこから沸いて出た!」
 十二時から同じ当番の何も知らない男子が興奮して叫んでいた。
 田所は自分で言い出しておきながら「お前似合い過ぎ!」と腹を抱えて笑っていた。
 しかもなぜか田所はアメコミヒーローの衣装を着替えて、執事のような衣装に身を包んでいた。
「なっ、なんで!?」ユウが田所の服を指さすと、田所はああ、と言って笑った。
「演劇部から借りてきたんだってよ。メイドがいるなら執事もいた方がいいってさ?女装メイドと男装執事も考えたんだけど、サイズ的に合わないし、まー仕方なく俺が?」
 田所は仕方なくと言いながらやる気満々の雰囲気だった。
「そ、そんなっ、ず、ずるい……!なななんで僕だけ……!」
 ユウは余りの恥ずかしさにまともに顔も上げれないし、うまく喋れない人みたいになってしまっていた。
 田所の執事姿は普通に格好良かった。羨ましいどころか憎らしい。
 当番を交代する時刻になり、これは自分ではなく他人事だと思うことにした。
 涙目になりながらも、オーダーを頼まれれば行くしかない。
「メイドさんだ~!可愛い~」
「ご、ご注文は……」
「えっ?男の子?」
 さっさと注文してくれればいいのに、大学生くらいのカップル客に物珍しそうにジロジロ見られた。
 ユウは口ごもりながら小さく返事をした。
「ウソ!男子なの?マジで可愛いんですけど!」彼女の方が大声で叫んだ。一斉に周りの客がこちらを見た。
「お前完全に負けてんじゃね?」
「はあ!?」
 早速客にいじられ、ユウは耳の先まで赤くなっているのが自分でも分かった。
 ユウは人々の視線が気になった。ニヤニヤしながら何やらヒソヒソ……。嫌な思い出が蘇る。
 もう学校に来れなくなるかも……、と結構本気で凹んだ。
 田所はというと、案の定女性客にもてはやされていた。
「へー、執事もいるんだー?あ、しかも超イケメン~!」
「お帰りなさいませ、お嬢様?」田所はそう言ってよく執事がやるお辞儀のポーズをした。
 本当、相変わらず調子こいている。
 僕にだけこんな格好させておいて、自分だけキャーキャー言われるなんて理不尽すぎる。
「すみませーん、メイドさん注文いいっすか?」
 一般客の男性連れに呼ばれて仕方なくその席に近寄った。
 男の一人がこちらに携帯電話を向けてきた。
 カシャッ、という撮影音が聞こえた。
「あ~っ、ねえもうちょっと笑ってよ~」
 男は残念そうに口を尖らせてユウに文句つけて来た。
 ユウは青ざめた。
 え……?勝手に写真撮られたりするとか、聞いていないんだけど……。 
「あ……あの、写真は……」
 ユウはしどろもどろになりながらも、なんとか写真を撮るのはやめてほしいと訴えようとした。
「え?何、駄目なの?別にいいじゃん減るもんじゃないし。撮られたくてそんな格好してんでしょ?」
「はははっ!まさか写真は有料オプション的な?」
「だったら金払うからさ、ついでに俺の事、ご主人様ぁ♡って呼んでよ」
「おいおい、お前マジかよ?」
 男達は笑いながら勝手な事を言って盛り上がっていた。
 ユウが固まっていると、田所が見かねた様子でやって来た。
「ご主人様ぁ~♥恐れ入りますが、勝手に写真撮らないでもらえますかぁっ?撮られるの嫌な子もいるんでぇ~?」
 田所がぶりっ子風な口調で忠告すると男たちは顔を歪めて侮蔑感を顕にした。
「はあ?キモっ!何お前」
「ああ?執事のくせに、ご主人様に楯突く気ですかよ?」
 すると田所は身震いするかのように両腕を交差させて手で覆った。
「……あー、確かに今のは自分でもキモかったわー。でもあんたらの方がキモいっすよ」
「あ゛?んだこら、てめぇ」男たちがキレて立ち上がった。
「はっ?スッゲー今ビックリしたんだけど何?客にキモいとか言う訳。最悪じゃね?」
 田所は怯むことなく年上の男性客に向かって毅然と言い放った。「高校生の学園祭に来てまでモラルの欠ける行動起こしちゃってるあんたらの方が最悪」
 確かに最悪の状況だと思った。
「ってめぇ……!」男たちが田所に掴み掛かかる。
「あーっ!もしかしてこれって暴行?警察呼んじゃうッスけど?」
 田所はやや引きつった顔で両手を挙げて、それでも口だけは達者だった。
 男は田所の襟元を掴んでしばらく睨みつけると、「勝手に呼んでろボケ」と言って田所をドン!と押しのけた。
 男たちはシラケた様に「さっさと行こうぜ」と捨て台詞を吐いて辺りの机や椅子に当たり散らしてその場から去って行った。
 その直後、体育教師が慌てた様に駆けつけた。
「おい大丈夫か?なんか一般客と揉めてる生徒がいるって聞いたんだが」
 田所は何食わぬ顔で「別になんでもないっス」と笑って誤摩化していた。
「そうか……くれぐれも問題起こさない様気をつけろよ」
 教師がそう言って去っていくと、周りの客や生徒達も何事も無かったかの様に平常運転に戻った。
「お前もさ、もっとハッキリ断われよ」
 田所に頭を軽く小突かれた。
 ユウは「だって……」と呟いて黙った。
 そりゃ田所みたいに誰にでもハッキリものが言えたなら、もっと違う人生だったと思う。
 元はと言えば、こんな姿にさせた田所のせいじゃないか。
 ユウは頬を膨らませた。


 悪夢はそれで終わらなかった。
 あと少し、この当番さえ終われば解放される。そう思っていると先ほどの女子グループの二人に手招きされた。
 怪訝に思いながら教室の隅に行くと、今度はまた別の女子が数人すり寄って来た。
「西山くん、凄くよく似合ってて可愛いねーっ!で相談なんだけどぉ」
「実は今日Mr.美魔女コンテストってのがあるんだけどね!」
「多分絶対優勝出来るから出てくんない!?っていうか出て!」
「お願い~っ!!」
 一気に畳み掛けられて咄嗟に理解できなかった。
「えっと、待って、どういう……?」
「だからさぁ」
 田所が偉そうに腕を組んで近寄って来た。
「まー、いわゆる女装コンテストってやつ。お前に出ろって言ってんの!」
「……!?」
 ユウは唖然として言葉を失った。咄嗟にそのまま無言で首を横に振り続けた。
「えーっ?そこをなんとかお願い!私たちでもっと可愛くしてあげるからぁ!」
 コンテストなんて、学園中の晒し者にされてしまう。ただでさえこんな格好させられて泣きそうなのに、これ以上は耐えられないと思った。
「頼めるの西山くんしかいないんだってぇ!うちらがこんなにお願いしてるんだから出てよぉ~!」
「優勝したら結構賞金貰えるらしいよ?賞金は西山に半分あげるしぃ~」
「折角だから出ようよぉ?」
「おねがぁい!」
 女子たちから拝み倒されてテンパった。
 嫌だけど……!凄く嫌だけど、どうやったらこれ断れるの!?
 やると言うまで解放してくれないつもりだろうか。
「ね~、田所も説得するの手伝ってよ~!」
 女子に言われてやれやれ仕方なく、とばかりに田所がポンと肩を叩いて来た。「なー西山、こんだけ女子が頼んでんだからさー、引き受けてやれって」
「でも……」ユウが不満そうに呟くと、田所は女子に聞こえないように耳打ちしてきた。「こいつらお前がやるって言うまで諦める気ねぇぞ。断ったら多分相当根に持たれるだろうなぁ」ニヤリと笑った。
 そんなの、半ば脅しじゃないか。
「あーじゃあ、そうだ」田所はわざとらしく思いついたように大声で言った。「もしお前が優勝したら、俺がお前の言う事何っでも聞いてやるってのはどう?」
 強気の女子が顎に指を添えて「あっ!それいいじゃ~ん!!」と田所の提案に賛同した。
 何でも言うことを聞くだなんて、子供騙しなセリフ。……本当になんでも言う事を聞いてくれるのだろうか?
「……なんでも?」ユウは思わず田所に問い返した。
「おう!なんでも!男に二言はねぇ!」
 ふ~ん。興味が湧かなくもない。
 この姿で拒み続けたところで今更ではあるし、どうせ断らせてくれる気は無さそうだし。もう腹を括るしかないのかも知れない。
 それにしてもこんなタイミング良く女装コンテストがあるなんて、もしかして最初から狙っていたんじゃないかとさえ思えてきた。
「わかったよ……」
 観念して俯き加減でそう答えると、女子たちは「やったぁ~っ!!!」とハイタッチして喜んだ。
 大変な事態になってしまった。
 よくよく考えたら優勝なんてそう簡単に出来るわけがない。
 ただ大勢の人の前に醜態を晒すだけなんじゃないかと再び青ざめた。
 ユウの心を一言で現すなら、まさに絵画『ムンクの叫び』
 と、いうか田所も、さっきはハッキリ断れよと言っておきながら、断ることも許されない状況に追い込むってどういうこと?
 まんまとハメられた気がする。
 もう逃げられない状況だが、流石にメイド服はもう無理!となんとかそこだけは必死で訴えた。
 女子の一人が残りの当番を交替してくれ、またあの空き部屋に連れて行かれた。
「ちょっと、ガチで狙おう?」
 衣装はバレー部の女子が制服を貸してくれる事になった。
 どうやらスカートは避けられない様だ。でもフリフリのミニスカートよりはまだマシだった。
 戸惑いながら着替えると、彼女たちはどこからとも無く新しく自然色のロングウィッグを持って来た。
「時間無いから急ごう」とリーダー格の女子が言う。
 ユウは椅子に座らせられ、一人の女子がユウに下地メイクを施した。初めての感覚にくすぐったくてたまらない。しかも目を瞑れとか顎を上げろとか引けとか、ああしろこうしろ色々指示されて大変だった。
 ウィッグを被らせられ、他の女子が何やらウィッグの髪を構っている。その間にもユウのメイクは着々と進む。
「リップ、それよりこっちの色の方が似合うくない?」
「もっと編み込みの位置ずらした方が可愛い」
 彼女たちはいつの間にか真剣な表情だった。
 やがて頬にブラシをこしょこしょとされ、目を開けると、どうやら完成した様だ。
 自分を見つめる女子たちが何故か静かなのでユウは不安になった。
「うわっこれ……やばくない?」
「……やばいやばいやばい!絶対優勝でしょ!?」
 次の瞬間、キャーッ!と黄色い声を上げて喜んでいた。
「っていうかもう時間やばい!」女子の一人が腕時計を見て慌てた様子で言った。
「うそ!急いで行かなきゃ!」
 女子たちに三度腕を掴まれて、ユウは自分の姿を確認する間もなくグラウンド奥にある特設ステージに向った。
「はーい!エントリーしまーすっ!」
 ギリギリ駆け込んで、リーダー格の女子が受付の男子生徒に「まだ始まってないんだから間に合いますよね?」と食って掛かった。
 参加者バッチをもぎ取ると、急いでユウの着ていた制服に付けて肩を叩いた。
「じゃあよろしく!頑張って」
「頑張って~!」
 女子たちに文字通り背中を押されて、手を振って見送られた。
 ユウは仕方なく彼女たちに背を向けると、ギュッと拳を握り、いざ舞台袖の天幕へと足を踏み入れた。
 昨日のスポーツイベントの時にも入ったが、その時とは雰囲気が全然違っていた。
 そこには他の参加者たちがひしめき合って興奮した様に騒いでいた。体格のいい男子生徒がピンクやフリフリの衣装に身を包みながら雄々しい声を張り上げているのは、とても異様な光景だった。
 ああどうしよう!と思って頭が真っ白になった。とにかく今年は家族が仕事で来れなくて良かった。問題はこれからの学校生活かも知れない、と悪い事ばかり脳裏に浮かんでは消えた。
 昨日司会役を務めていた男子生徒が入って来た。
 どうやら今日も主にイベントの司会進行役の様だ。
「あれ、あんな可愛い子いたっけ?」
「えー、本当だ。一年?」
 司会役の男子は近くにいた男子生徒に話しかけていた。受付をしていた男子生徒から数枚の紙を挟まれたバインダーを手渡されると、出演者たちのところへ順番に確認して回った。
 やがてユウのすぐ側まで来た。少し辺りを見渡してからユウの番号札に気づいた時、ぎょっとした様な顔で二度見された。
 名簿を確認しながら「え?……君まさか、二年の西山……?」と自信無さそうに尋ねて来たので、ユウは黙ったままコクンと頷いた。
「ま、マジかよ……」
 その男子は顔を引きつらせて笑っていた。


「じゃあ出場者の皆さん、間もなく始まるんで。まず俺が先に出るから、暫くして呼んだら一番の人から順番に出て来て。簡単に紹介するので、一度舞台中央で好きな様にポーズでもとって、下手奥から斜めに詰めて並んで待ってて。八番から後の人は真ん中の登場口を開けてから続き順で並んで」
 司会役の男子生徒は慣れた様子で説明していた。
 ユウは最後の様だが、隅の方で未だにどうしようかと縮こまっていた。ガヤガヤと昨日よりも大勢の人の気配がする。
 心臓がドキドキして片腕を擦りながらソワソワしていた。やっぱり今すぐにでも逃げ出したい。
 なぜ女子の制服を身にまとい、こんなところにいるのだろう。
 気がついたらコンテストはすでに開幕し、先ほどの男子の声がマイク越しに聞こえた。
「それでは登場してもらいましょう!エントリーナンバー、一番!」
 次々と名を呼ばれて舞台上に上がって行く出演者たち。
 ユウはようやく自分の名前を呼ばれる事に気づいた。
 ただえさえ恥ずかしいのに名前ばらされるとか、イジメだ……。
 自分が最後尾に並ぶと、前にいた紅いチャイナ服を着た背の高い奴がチラリと後ろを振り返った後二度見した。ユウの番号札を見て驚いた様にこちらをガン見して来た。ユウは気まずくて後ろを振り返った。
 まさか自分が出場者とは思わなかったのだろうか。
 皆色々派手な衣装を着ているのに自分だけ制服とか、やっぱりインパクト弱くて駄目だったかも知れない。いや別に自分的には優勝なんてできなくてもいいけど……。
 そして前の奴が一瞥した後舞台上に出て行った。
「そして最後、エントリーナンバー十四番。二年四組西山ユウ!」
 ユウは躊躇したが、役員の男子生徒に促されて思い切って階段を駆け上った。
 ユウは舞台の真ん中で立ち止まり思わず固まった。
 昨日より全然人が多い!
「……彗星のごとく現れた、紫雲(しうん)学園最終兵器!リーサルウェポン西山!敢えての制服参戦んんっ!その類い稀な美貌で一体何人の男を惑わすのかぁああっ!!」
 芝居がかった司会役の生徒の煽り文句。勝手に変なことを言われている。
 会場に「えーっ!?」という大きなどよめきが広がった。
 他の出演者たちも身を乗り出してこちらを見ていた。ユウは注目を浴びて恥ずかしくなり、観客席に向けてぺこりと頭を下げて足早にチャイナ服の隣に立った。
「ではこれから順番に一人ずつアピールタイムです!美魔女らしくアピールポイントなどで観客を魅了してください」
 アピールタイム!?そんなの聞いてないし!
 ユウは混乱してキョロキョロしてしまった。するとステージの脇の方にクラスの女子たちの姿を発見。目が合うと手を振って飛び跳ねていた。
 彼女たちは笑いながら頭の上で両手先を合わせて丸を描く。何が丸なのかさっぱり分からない。
 ユウはつい眉を顰めた。すると女子たちは慌てた様に自分の頬を指差して口角をあげ、口をパクパクさせていた。
 暫くして察するに、『スマイル』とか『笑って』とか言っているみたいだ。
 ユウは困惑した。こんなに大勢の人の前で笑えないよ……!
 そんなユウとは対照的に他の参加者たちはそれぞれ個性的で楽しそうだった。
 ゴリラみたいな体格の奴がピンクのベービードールみたいな服を着て、爆笑とブーイングを浴びて喜んでいたり、マリリンモンロー風のボディースーツを着てバストがGカップあると言って茶化す者、ステージ上でブレイクダンスを披露する者もいた。
 ウケ狙いもいればそこそこ普通に可愛い男子もいた。中には結構なイケメンが中国大戦系戦国ゲーム風の衣装で、かなりの美女に扮していた。おそらく優勝候補だろう。
 みんな本格的で衣装もちゃんと用意してるし、面白いネタを考えて来たりしていて凄い。
 それに比べて自分は取るもの取り敢えず、女子生徒の制服を借りてメイクして取り繕っただけで、きっとこんなところに出るなんて本当に場違いだ。アピールポイントなんて何も考えてないし、面白い事も言えない。
 気がついたら自分の番になってしまっていた。
「どうぞ十四番さん前へ」
 どうしよう……!マイクを渡されて恐る恐る舞台中央に歩き進む。
 言葉が見つからないが、自分が何か言わないと観客をしらけさせてしまうかも知れない。
「えーっと……あの……その……」
 だめだ!頭が真っ白だ!
 ユウはピンチを感じて「すみません……!」と言って同じクラスの女子たちの元へ駆け寄った。
「ごめん!なっ、なんて言えばいいかな!?何も思い浮かばなくって!」
「えーっ!?なんでもいいよ、チャームポイントチャームポイント!」
「特技とか無いの?」
「無いよ、思い浮かばない!」
「好きなアイドルの歌とか歌えば?」
「……歌?」
「っていうか西山くん、パンツ見えてるから!」
「えっ!?」
 しゃがみこんでいたが、指摘され慌てて立ち上がった。
 その勢いでスカートの裾がめくれ上がって、ユウは思わず「あっ……!」と叫んで両手でスカートの端を押さえた。
 全力で恥ずかしかった。
 何よりまるで女子みたいな反応をしてしまった事が、自分の中で一番屈辱だった。
 会場のざわめきが止まない。
 本当に何やってるんだろう自分……!「……え~っとおっ!?」ユウは完全にテンパっていた。あまりの緊張に目頭が熱くなった。
「大丈夫だから落ち着けって!」
 司会役の男子に宥められる。会場から笑いが飛んだ。
 キャパシティを超えたのか、目の前に見えているはずの景色が見えなくなって、ユウは考えることをやめた。
「……じゃあ歌でも歌います……!」
 ユウはそう言って唐突に好きなポップミュージックアイドルの歌を歌い出した。マイクを持つ手が震えている。
 自分でもヘタクソだと思ったが、携帯電話のCM曲にもなっている曲だったためか、やがて会場から手拍子が聞こえて凄くホッとした。
「こんな、特技も無くて中途半端な僕が参加なんかして、本当ごめんなさい……。あの、手拍子ありがとうございました……!」
 最後にそう言って締めた後、司会役の男子にマイクを渡して逃げる様にチャイナ服の横に身を潜めた。
 会場が騒然としていた。
 きっと自分のせいで微妙な雰囲気にしてしまったに違いない。
 ユウは隣にいたチャイナ服の男子に声を掛けられたが耳を塞いで彼の影に隠れた。
 もう穴があったら入りたい……。
 司会役の男子が場を仕切り直してくれた。
「……はい!えー、以上アピールタイムでしたぁ!……個人的に、僕は今までノーマルでしたが、今日から別枠解禁したいと思います!」
 会場に悲鳴と爆笑が合い混じった。
 でもユウはやっと自分の出番が終わってホッとしていた。
 あぁあ、これでやっと解放されるぅ……!
 横一列に整列した。「最後に、会場の方々に百万ドルのスマイルをお願いします!」
 眼下にクラスの女子たちがいた。彼女たちは笑顔で手を振ってくれた。とりあえず怒っては無い様子で心底ホッとし、ユウは彼女たちに向けて出来るだけの笑顔を返した。
「出場者の皆さん、ありがとうございました~!」
 司会役の男子が観客に向かってコンテストについて説明を始める。
「それでは観客の皆様!この後人気投票によって、Mr.美魔女グランプリを決定したいと思います!このステージ横、各コーナーに設置してあります投票スペースにて、この中で一番良かったと思う人の番号を書いてご投票ください!尚、グランプリには賞金が授与されます!投票期限は午後五時半、期限までの時間は出場者は自由にアピールできます。ぜひ皆様ふるってのご投票お願いします!午後六時頃よりグランプリの発表予定です!それでは皆様また後ほどお会いしましょう!」
 ユウはようやく舞台上から降りることが出来た。
 とにかくすぐにでも着替えたいところだった。天幕の外にはクラスの女子たちが待ち構えていた。
「西山くぅ~ん!!」
 彼女たちの声に、少したじろいだ。
 ユウは咄嗟に「ごめん……」と口にした。
「は?何言ってんの?超良かったよっ!?」
「っていうかさ、めっちゃ可愛過ぎてキュン死しそう!」
「もう何なの!?女子なめんてんの!?」
「うちらより女子力あり過ぎだからマジで!!」
 褒められてるのか責められてるのかよく分からないが、彼女たちの表情はご機嫌そうだった。激励されているのかもしれなかった。
 しかし、ユウが早く着替えたいと言うと、それは駄目だと首を横に振られてしまった。
「だって、投票期限五時半まででしょ?だったらそれまでアピールしないと!」
 ユウはショックを受けた。
 こんなに頑張ったのに!もう発狂しそうなくらい恥ずかしかったのに!まだ醜態を晒ねばならないのか!
 口をパクパクしているとリーダー格の女子が叫んだ。
「あっ!?っていうか田所たちのライブそろそろ始まってるんじゃない?」
「あっ、本当だ。見に行く?」
 ユウもあっと叫んだ。
 そういえば昨日もコスプレ喫茶を閉めた後、ギリギリまで練習すると言っていた。
 なんだかんだやはり気にはなる。
「西山くんも一緒に行こう!」言うや否や女子の一人がユウの背中を押した。
「えっ……!?」この格好で行くのか。
 問答無用で連行され、仕方なく女子たちと共に急いで反対側の正門前のステージに向った。
 近づくに連れ人が増えて殆ど進めなくなる。昨年最近テレビで活躍中の人気芸人がゲストで来た時ですら、ここまで混んでなかった気がする。
 歌声と楽器の演奏音が聞こえる。
 もう既に始まってしまっているようだ。
 ユウたちは少しでも間に合わせようと急いだ。


 今までライブというものを殆ど観に行ったことがなかった。
 音楽は好きだった。
 最近は姉の影響で、主にクラブミュージックやポップミュージックをよく聞いていた。
 特定のアーティストのライブに参加したこともない。唯一姉に誘われて、ポップミュージックを歌うアイドルのインストアライブには、足を運んだことがある程度だった。
 学園祭ライブはグラウンドにある一番大きな特設ステージで行われていた。
 ステージ付近は響く演奏音と観客の熱気に包まれていた。
「すみません、通してください。ごめんなさい!」
 前を行く女子が人垣をかき分けるようにステージへと向かった。ユウはその後に続き、どうにかこうにかステージが見える前方までたどり着いた。
 やや距離があったものの、真ん中でスタンドマイクに向かってギターを弾いているのが同じクラスの田所(たどころ)ケンジだと分かった。
 衣装を着替えてロゴ入りの赤いTシャツを着ていた。
 彼のギター演奏をこの時初めて聞いたのだが、想像以上だった。
 中学の時に、音楽室に置いてあるギターを遊び半分で弾き語りしてみせる同級生がいた。ただコードを押さえて歌を乗せるだけ。それでも女子に持て囃されていたものだが、田所はそういうお遊びのレベルではなかった。
 ギターソロというやつだろうか、田所は指がつったりしないのかなと思うくらいの速弾きをしてみたり、歪みを利かせた演奏を惜しげもなく披露し観客を魅了していた。
 曲が終わり会場から拍手が沸き起こった。
 今年の学園祭はいつもより大規模で来場客の動員数も多いし、二日目の今日は特に一番盛り上がっている時間ではあった。
 前出のバンドが作り上げた雰囲気なのか、はたまた田所たちのバンドの人気なのかは分からなかったが、とにかく盛大に盛り上がっていて、ユウも会場の雰囲気に呑まれそうだった。
 曲の合間に移動する人たちの隙間を縫って、もう少し前に移動すると田所の様子がよく見えた。
「次の曲いきます」田所は「魔王」と囁いた。
 体の前にギターを立て、ネックを振り下ろすと共に重低音が鳴り響いた。
 印象的な歌詞とフレーズが鮮烈に耳に響いた。田所の歌声はまだ荒削りで美声とまではいかなかったが、バンドの雰囲気とよく合っていた。
 ユウは、初めて生のロックミュージックというものを体感していた。これまで余り興味がなく、聞くことのないジャンルだったが……。
 耳に残るフレージングで曲を終えると間髪入れずドラムカウントで次の曲が始まった。
 次の曲もスピード感があって、気がつけば心臓がバクバクと鼓動していた。鳥肌が立った。
 我を忘れて彼らが奏でる音楽に没頭していた。
 曲が終わると田所はペットボトルの水を口に含んだ。手の甲で拭う仕草をして再びマイクに向かった。
「あっち……いっそ頭から水をぶっかけたい」田所は観客に向けて笑いかけた。観客たちからも笑い声が返った。
「ここでちょっとメンバー紹介しちゃいまーす!」
 田所はマイクをスタンドから外し、ドラムの男にアイコンタクトするとドラムがリズムを刻みだした。
「本日は助っ人のモッチ先輩!」
 田所にそう紹介されるや否や、ドラムはソロを叩き出した。田所はその間に普段は違うバンドで活躍中だと、彼の本籍のバンド名を紹介した。
 そういえば、怪我をしたドラムの代わりに急遽別のバンドで活躍するドラマーに助っ人を頼んだという話をなんとなく聞いていた。
 その後、ベース、ギターと順番に紹介して行き、それぞれが音を乗せて行った。
 最後に田所は「ギターヴォーカル!俺!田所ケンジ!」と言って自慢げに速弾きを披露していた。
 勿体つけるように暫く全員で演奏をして最後にジャカジャカとギターをかき鳴らした。「NIKERUですよろしくぅッ!!」音が消える直前に田所が叫んだ。
「次は出来たてホヤホヤの新曲です」
 今度は爽やかなノリの曲が流れ出す。
 隣にいた三十代くらいのカップルがつぶやいていた。「今時の高校生バンドってレベル高いなぁ」
「うん、結構凄いね」
 ユウは人知れず小さく頷いた。正直全然期待してなかった。
 まさかあの田所がこんなにも興奮するライブを見せてくれるとは、夢にも思って見なかった。
 ライブって、凄い……!
 ユウはドキドキが止まらなかった。
 先ほどの曲が終わって田所が一段と声を張り上げた。
「本日は『紫冠祭』にご来場いただきましてありがとうございます!楽しんでますか!?」
 会場から歓声が上がる。
「楽しんでもらえてるようで何よりっす。俺たち一応トリやらせてもらってますけど、この後シークレットライブあるらしんで、まだ帰っちゃダメっすよ?……誰って?知らない?」
 田所は某人気ガールズバンドの名を告げた。すると観客たちは興奮に沸いた。
「って、何バラしてんの!」ギターとコーラスを担当していたメンバーの一人が、マイク越しに突っ込んだ。「一応シークレットライブだからさ~、そこは誰が来るかお楽しみに的なアレでしょ?ほら、先生方も慌ててんじゃん!」
「でもどうせ皆もう分かってるでしょ?なんか色々情報だだ漏れじゃん?」
「そうかもしんないけど、そこは気を遣おうよ?」
 二人のやり取りの合間にステージ下の最前列から「ケンジ、忘れ物!」と叫ぶ声が聞こえた。
 同級生の男子達だった。田所が受け取ったのは襷だった。
 田所は「あー、このダッサイヤツねー」と笑いながら、『アイアムヒーロー 校長お墨付き』襷を掛けた。
 前方の観客が爆笑した。おそらく仲の良い生徒たちだろう。ユウたちも思わずおかしくて笑った。
 ふと周りを見ると、同じクラスの生徒たちが何人も集まっていた。
 田所たちはバンドらしくライブの告知をした後、最後の曲に取り掛かった。
 流れたのはアップテンポなダンスチューン。ユウも大好きな曲調だった。気がつけば自然と体が動いていた。
 みんなノリノリで飛び跳ねていた。
 曲が終わると大歓声の渦に埋もれ、あちらこちらから、田所ー!とかケンジー!とか呼ぶ声が聞こえた。
 改めて田所は人気者なのだなと実感した。
 ユウも完全に舞い上がって、ついうっかり自分に似合わない大声で「田所ー!」と叫んで手を振っていた。
 田所は一瞬こちらを見た気がしたが、どうやら気がつかない様子だった。
 そういえばと、瞬間自分の姿を思い出し、壮絶に恥ずかしくなった。周囲の人間が驚いたようにこちらを見ている。
 ユウはすぐにでも入れる穴を探すところだった。
 こちらに近づいて来た田所と目があった。
 田所は一瞬の間の後、驚いたような顔をしてステージの端ギリギリに詰め寄ってユウに声をかけてきた。
西山(にしやま)!?……う、わ、マジかよ。わっかんねーよ!……いや、スッゲーな」
 田所が一緒にいた女子たちにも声をかけると、彼女たちは頷いて得意げに腕を叩いて見せた。
 ユウは苦笑した。前の人垣が割れ、女子たちに背中を押されてステージに近づいた。
 田所がしゃがんだ体制でユウに尋ねてきた。
「コンテストは?」
「……今、投票待ちってやつ」
 すると一緒にいたリーダー格の女子が田所に何やら耳打ちをした。
 田所は閃いた様に頷くと、ユウに手招きした。
 手を差し伸べられて、握手かな?と怪訝に思いながら手を握ると、グイッと思い切り引っ張り上げられた。慌てていると、後ろから女子たちが押し上げてきたので、仕方なくステージに手をかけてよじ登った。
 訳も分からず壇上に登ってしまったユウは、制服のスカートを整えてふと振り返った。
 そこからの景色は先ほどとは全く違うものだった。
 グラウンドを正面に構えるそのステージからは、何百何千人もの人混みを一望することができた。
 田所たちはこんな景色を目の前に演奏していたのかと、思わず息を漏らした。
 どこからか声が飛んで我に返った。
「おいこら田所ー!彼女なんかステージにあげてんじゃねーぞ!」
 観客から笑いが漏れたが、田所はマイクを握って言い放った。
「えーっと、ちょっとこの場を借りて紹介します。こいつ、俺の彼女……じゃなくて、同じクラスの西山ユウです。今、Mr.美魔女コンテスト?にエントリー中の、れっきとした男子生徒なんで……」
 途端に「ぇえ~っ!?」と会場にどよめきが広がった。
 再び注目が集まるのを感じて身を縮めた。
「ただいま投票受付中らしいんで、ここにいる皆さん、今俺らのステージ楽しんでいただけましたら、是非ともこいつに清き一票をよろしくお願いします!十四番で~す!お願いします!」
 田所が頭を下げたので、ユウもつられてお辞儀をした。
 目下観客はざわついている。
 田所がこちらを振り返って、じっと見つめてきた。
「……なんだよ?」
 ユがたじろぐと、田所はため息交じりに笑った。
「お前さぁ、絶対性別間違えて生まれてきたよな?」
 ユウは今更恥ずかしさが増して、熱くなった顔を腕で隠した。
「余計なお世話だよっ!」


 生徒たちの出演の後、田所の宣言通り町内会協賛のシークレットライブの準備が始まった。
 ピンク色のツアーTシャツを着た大人たちが、舞台上で大掛かりな装置や楽器類を運び込んで最終調整を行っていた。
 開始予定時刻までまだ時間があったが、多くの生徒たちがその場に留まっていた。
 ユウたちもそこいた。
 目隠し用に舞台脇を覆っている黒い布の前に立ち、心許ない思いでクラスメートたちに愛想笑いを浮かべていた。
「西山くんって前から綺麗な顔してるなぁって思ってたけど、やっぱり超似合う!」
「今までこういう格好したことは?」
「いや、な、ないよ……」
 普段話したこともないような女子たちに取り囲まれて、ユウは困惑の極みだった。
「いやぁ、でも西山本当に優勝できそうな勢いじゃね?」
 出演を終えたばかりの田所は、汗をかいたからと今度はベージュ色のTシャツに着替えていた。
「何言ってんの、絶対優勝に決まってんじゃん!」ユウを女子生徒姿に仕立てた女子たちがドヤ顔で自らの胸を叩いた。
「ケンジー、ライブ見てたぞ」
「おう、サンキュ!どうだった?」
「最高!また上手くなってた」
 田所の元には多くの生徒が声を掛けにやってきていた。
 ユウも田所にライブの感想を伝えてやりたかったが、今はそんな余裕はなかった。
 ライブが始まるまでの間、女子たちに紛れるようにそっと田所の影に潜んでいたが、それでも周囲の視線が突き刺さる様で痛かった。
 わざわざユウの姿を見ようと近くまでやってきて遠巻きに見る来場客も結構いた。
「あれが、西山?」
「あいつだよ、男だって」
「あれさっきの子でしょ、凄くない?」
「俺、十四番投票しまーす!」わざと大声でアピールしてくる者にはユウの代わりに女子たちが、ありがとうございまーす!と営業スマイルを返していた。
 突然壇上に上げられて、大衆の面前にその身を晒してしまったのだから、もはや諦めるしかなかった。
 いよいよシークレットライブが始まった。
 今か今かと待っていた観客たちは、ステージにゲストが登場するや否や途端に悲鳴の様な歓声をあげた。
 最近数多くの音楽番組にも出演している人気急上昇のガールズロックバンドだった。
 彼女たちは人気を博したテレビドラマの主題曲を披露し、会場は瞬く間に熱狂に包まれた。
 その後何曲か演奏して、最後の曲ではステージ前方から花火が吹き上がるサプライズ演出。すると前方にいた生徒たちの興奮は最高潮に達し、壊れたおもちゃのように激しく体を揺すっていた。
 ユウたちは中央からやや上手側の位置で彼女たちのライブを堪能していた。
「凄い人気だね」
 ユウが田所の方を見ると、田所が真剣な面持ちで呟いたのが聞こえた。
「……俺もいつかこんな風に観客を熱狂させてみてぇなぁ……」
 ユウは思わず口をつぐんだ。
 田所は遊びなんかのつもりでもなく、音楽に本気なのだと知った。どれだけ練習しているか知らないが、道理であんなに上手いのかと腑に落ちた。
 確かにこのガールズバンドのライブの熱狂ぶりには、先ほどの田所たちは及ばない。音楽のことはわからなが、どんな道でも簡単な道ではないだろう。
 ただ、さっきのライブを見て感動して、心が震えた。だから、田所なら可能性はあるんじゃないかとも思った。でも真剣だからこそ「頑張れ」とか「きっとできるよ」なんてそう易々と口にしちゃいけないような気がした。
 ライブイベントが終了直後、田所たちが思い出したように叫んだ。
「あっ!やべぇ、投票してない!時間ギリギリ!」慌てて近くの投票コーナーに駆け込んだ。
 ユウは少し離れたところからクラスメートたちが投票してくれているのをモジモジとして眺めていた。
 投票に来ていた一般客たちがジロジロとこちらを見て笑っている。
 恥ずかしい……。
 自分の姿を嘲笑われているような気がしてしまう。他の人が本当に自分なんかに投票してくれるのだろうか?
 ふと、近くにいた綾瀬(あやせ)マイコと目が合った。
 ユウは頭の中が爆発しそうだった。
 女装中に目の前に現れた憧れの女子。どう反応すべきか分からず固まってしまった。
「西山……くん……?」
 何人かの女子と共に向こうから話しかけて来た。
「あ……綾瀬さ……」
 ユウは更に硬直して頭が真っ白になった。視界が薄らいだ。
「えーっ!本当に西山くんなの?凄い!もう傍目からじゃ男の子だって絶対分かんないよ」別の女子が騒ぎ立てた。
 どうやら噂を聞きつけてやって来た様だ。他の女子から過大なくらい褒められた。しかし気になるのは綾瀬の反応。ユウは恐る恐る綾瀬の方を見た。
「……西山くん、凄く可愛い!」
 綾瀬は顔を紅潮させて笑っていた。ユウはその笑顔を見て何とも言えない気持ちになった。
 好きな女子に女装姿を褒められるの巻……。
 ユウは「ありがとう」と俯き加減で呟き、心の中で「綾瀬さんは何っ億倍も可愛いよっ!」と激しく叫んだ。
 投票するね、と言って彼女たちも目の前で一票投じてくれた。
 暫くして校内放送でMr.美魔女コンテストの出場者が呼び出された。
 ユウはクラスの女子たちに急かされて先ほどのステージに駆け足で向った。
 ステージ近くですれ違う人々が、どうやら投票数が多くて票が分かれたらしいと噂をしていた。
 不安な面持ちで再び出場者控えの天幕に足を踏み入れると、他の出場者が一斉にユウの方を見て来た。
 堪らず目をそらしてしまった。
 中にはすでに女装姿を着替えてしまっている者もいた。
 自分がこんな風にまだ女装姿でいると、張り切ってるとか思われているんじゃないかと落ち着かなかった。
「皆さんご投票ありがとうございました。集計結果が出ましたので、いよいよグランプリの発表です!それでは今一度出場者に登場していただきましょう!」
 係に促されて出場者たちはステージ上に出た。
「皆さん心の準備はいいですか~?」
 司会が煽るとわざとらしくドラムロールの効果音が流れた。
 ユウは無駄に緊張した。
 女子たちには悪いが、さすがに優勝はないだろうと思っていた。
 クラスメートたちは自分のことで舞い上がってくれていたが、きっと優勝はあの七番の男子だ。ユウはそう思いながら横目で戦国風の衣装を着た男子生徒をチラ見した。
「グランプリは……!」
 司会が勿体ぶって溜める。
 さっさと言えばいいのに。
「エントリーナンバー十四番!西山ユウ!」
 ほらね?……ん?
 ユウは呼ばれた番号が、自分が思っていたものと一致しなくて一瞬混乱した。
 七番の生徒は端から見ても分かるくらいため息を吐いて肩を落としていたが、すぐにこちらを見つめて手を叩き始めた。
 会場から歓声が上がっていた。
 ユウはハッとして前を見た。
 今更ながらに自分が呼ばれた事に気づいた。
「はい、驚いてないでこっち来てくださいよ」
 笑いながら手招きされて促され、呆然として司会役の男子の隣にフラフラと近寄った。
「いやぁ、二位の方と途中まで僅差だったんですが、やはり見事グランプリに輝いたのは可憐な少女に変貌した西山ユウくんでした!」
 ご丁寧に作られたトロフィーと優勝賞金の目録を手渡され、ユウはコメントを求められた。
「……あ、あの、ちょっとまだよく分かってないんですけど……」
「だから見事優勝したってば。はい、感想!」
 司会役の男子は気が短いのかマイクを頬にぐりぐりと押し付けて来た。
 会場から笑いが飛ぶ。
 ユウは仕方なく「投票してくださった方々、ありがとうございました。きっとクラスの女子たちが喜んでくれると思います」と適当な言葉を返した。
 ステージ下から「ユウちゃーん!可愛いよーっ!」という冷やかしの声が聞こえた。
 想像もしてなかった事態にユウは一気に嫌な記憶を思い出した。
 ああどうしよう、またああなるのかな。
 ユウはこれからの学園生活を想像して憂いた。
 すぐにでも立ち去りたかったのだが、他の出場者たちが退場したのに自分だけステージに引きとめられた。
「えっ?なんで?僕早く着替えたいんですけど……」困惑した。
「いやいや、グランプリはこの後のクイズイベントに参加する事になってるから」司会役の男子生徒が笑ってユウの肩を軽く叩いた。
 軽く目眩がした。もういい加減にして欲しいと、心から願った。


 いつの間にか辺りは宵闇に包まれ、西の空にわずかに陽の光が居残っている。グラウンドの一角、出店スペースでは屋台の提灯の光がぼんやりと宙に浮かび連なっていた。
 そんな中、会場でひと際明るい光を放つ特設ステージ上でユウは退屈を持て余していた。
「正解はCでした~!皆さん残念!」
 司会は別の男女二人組に代わっていた。
 ユウ以外の四人の回答者は全員女子生徒。割と可愛い子たちばかりだったが、いかんせん皆お馬鹿キャラの立っている子たちだった。
 ユウですら「この子たち天然過ぎてヤバい」と思う程の強者ぞろいで、簡単な筈のクイズの正解率はとてつもなく悪かった。
 そもそも正解する気も無く適当に答えていた自分がトップ争いをしているとはどういうことだろうか。
 ユウの肩にはグランプリと書かれた赤縁の襷がかかっていた。
 眼下に広がる光景は、広い敷地を埋め尽くす人、人、人。
 山間に吹く風の音と、人々の喧騒が絶え間なく耳に届いていた。
 ここに来てユウが苛立っている原因は、このクイズイベントが詰まらないというだけじゃなかった。
 なぜかクイズの優勝者への景品が『ホームエステセット』とか、急遽追加された『神出鬼没ヒーローのお姫様だっこ』だった。
 神出鬼没ヒーローが誰の事だか分かっていた。ステージの下手側の袖に田所の姿が見えた。他の生徒と笑いながらおしゃべりしている。
 全くどこのどいつが企画したのか知らないが、天然お馬鹿キャラの女子生徒たちを集めクイズの珍回答でウケを狙うバラエティ番組的な企画に、女装コンテストの優勝者を参加させようというのは無理がある。
 しかも景品がエステセットとかお姫様だっことか?女装した男子生徒にとっては全く無意味というかむしろ不要の代物。
 そこへさらに田所ケンジを無理矢理ねじ込んで、話題性を得ようという魂胆が見え透いて正直うんざりする。
 一体このイベントのどこが面白いのかユウには理解できなかった。昨日夕方頃にやっていた先生たちのコントの方がよっぽど面白かった。
 半数の問題を終えたところで、あろうことかユウが単独トップになってしまった。大半が単純な三択問題なのに、他の女子たちはどれだけ見事に外しているのだろうか。
 この先慎重に間違いを選ばなければ……。間違っても優勝なんかできない。
 二位の子と一点差、ユウがトップのまま迎えてしまった最終問題。三角錐の体積を求める式で正しいものを選ぶ、という問題だった。
 ユウは考えてあえて間違っている番号札を上げた。
 すると、他の回答者も全員同じ答えをあげたのだ。
 これは完全に優勝フラグ……。ユウはため息を吐いた。
「正解は2番でしたー!皆さん残念!」
 はい、僕残念!
「……結果、優勝はなんと!Mr.美魔女コンテストグランプリの西山ユウさんです!凄い展開になりました!」
 言うまでもなく会場はざわついていた。彼女たちは全員サクラで、仕組まれていたのではないかとさえ思う。
 司会役の女子生徒の方が、ユウではなく悔しそうに腕を上下に振る女子生徒の方にマイクを向けた。
「惜しくも二位の方、残念でしたね~!」
「悔しいですぅ~!私もヒーローにお姫様だっこされたかったんですけどぉ。一位の人が羨ましいですぅ~!」
 中でも一番不思議ちゃんそうな彼女は、本当に残念そうに見つめてきた。
 サクラではなかったのか。いや、全然嬉しく無いし寧ろ代わって欲しい。お姫様抱っこなんて冗談じゃない。
 ふとステージ袖を見ると、コンテストで司会役を行っていた三年の男子生徒が田所に何やら耳打ちしているのが見えた。
「あの、僕男なんで景品は要らないです。二位の人に譲ります」
 ユウがそう言うと司会役の生徒が顔を見合わせた。男子生徒の方が袖で田所と一緒に居た三年男子の元へ駆け寄り、暫くして戻って来るとこう言い放った。
「一応優勝者の変更は出来ないので!西山さん、エステセットで更にその美しさに磨きをかけてください!」
 会場から吹き出す様な笑い声が漏れたが、ユウは全然笑えなかった。
 一応って何だよ、一応って!
「おめでとうございます!優勝した西山さんにはまず、当学園マドンナよりホームエステ五点セットの目録が渡されます!」
 拍手の中、冷やかしの声と指笛が響く。
 舞台袖から三年生の女子生徒が現れ、笑顔で手を振って舞台上を闊歩した。
 現学園マドンナスリートップの一人だ。
 凄く大人っぽくて、隣クラスの担任の女性教師並の色気を醸し出していた。
 彼女は完璧な笑顔でユウに「おめでとうございます」と言ってエステセットの目録を手渡して来た。
 その後マドンナが去ると、司会役の男子生徒がカンペを見ながらの棒読みで叫んだ。
「それでは続いて、神出鬼没、乙女のヒーローに、登場していただきましょう!」
 司会役の二人がどうぞ!と袖の方に向けて手を上げると、某アメコミヒーロー映画の主題曲のBGMと共に田所ケンジが出て来た。「今注目を集める男子生徒、田所ケンジくんです!拍手ー!」
 田所は観客席の方に向って楽しそうに手を振っていた。
 ユウはエステセットの目録を持ったまま立ち尽くしていた。
 コイツは本当呑気でいいよな……。心の中に殺気を感じた。
「数日前運悪く、二階から落ちた女子生徒、を見事キャッチした、ヒーイズヒーロー!さあ、その時のお姫様抱っこを、ここで再現してもらいましょう!」
 相変わらずの棒読みで煽る司会者。当の田所はユウの隣まで来ると、プッと吹き出した。
「いやぁ、俺が言うのもなんだけど、お前って今日結構な災難続きだよな」
 そう言うとまたプククッ!と吹き出す様に笑った。
「お前が言うなよ……!」ユウは怒って小声で叫んだ。
「さあそれでは田所ケンジくんからお姫様だっこの贈呈です!」
 そう言って司会役の男子生徒が会場に抱っこコールを促した。
 観客たちは面白がるように叫び声をあげ、ユウたちを煽った。
 ユウは慌てて首を振りながら司会の生徒に訴えかけようとした。しかし、彼らも笑いながら叩く手を止めなかった。
「ほ、本当にやるの?僕重いし、また腕傷めるよ。やめときなよ」
 ユウは半分投げやりに田所に断ってよと頼んだ。
「あー、無理無理。あいつにやれって言われてるから」
 田所はそう言って、袖にいた三年の男子の方を一瞥して顎で示した。
 あの男子の事は良く知らないが、周りの態度から確かに相当権威があるだろうことは伺えた。
「まあ、なんていうか……。悪い、先に謝っとくけど俺さっき買収されたから」
「えっ?」
 ユウが眉を潜めた瞬間、異様なテンションの抱っこコールが響く中、田所は「ほら行くぞ」と言ってユウの肩に手をかけて押し倒した。
 ユウが慌ててバランスを崩した隙に、田所はユウの体を抱きかかえる様に持ち上げた。
 会場から歓喜の声と悲鳴に似た叫び声が上がる。
 顔から火が噴き出しそうなくらい恥ずかしかった。
 いやだ、こんな格好、まるで子供みたいだ。
「あいつ三年の木村っていうんだけど、結構仕切屋でさ、頭がキレるけどムカつく奴なんだよ。家も金持ちだしさぁ」田所は苦もなくユウを抱きかかえながら小声で話して来た。
「でもギターがすげー上手くて有名でさ。俺も何度か対バンしたことあんだけど。来年就職できっぱりバンド引退するからあいつが使ってたギターくれるって言いやがったんだよ。ヴィンテージの超レア物なのにさ!」
 最後に田所は申し訳無さそうに苦笑した。
「だからさ、西山本当悪く思うなよ?」
 田所はそう言ってユウを下ろした。
 しかし、抱きかかえたユウの肩を離さないまま、田所はおもむろに唇に口付けて来た。
 先程より大きな悲鳴が響いたと共に、ユウの中で何かがぷつんと切れた音がした。

 ユウはドン!と目の前の男を押した。
 すると自分の方が倒れる様に尻餅をついた。
 見上げた先には田所(たどころ)ケンジの姿があった。
 ユウは田所を睨みつけたが、涙が込み上げて無言でステージを去った。
 もう何も耳に入らないし、何も目に入らなかった。
 腕で顔を押さえるようにして走った。さっきの一部始終を見ていたたくさんの人々の手に捕まりそうになりながら、とにかく走ってその場から逃げた。
 ようやく一般客がいなくなった校舎まで逃げ戻り、着替えに使っていた空き部屋に入ると、バンッ!と音を立ててドアを閉めた。
 ドアを背にすがると、我慢していた思いが込み上げて来た。
 うっ……!と声をあげて、ずるりと崩れる様にしゃがみ込んだ。
 だって今日はもう色々最悪だった。
 メイド服なんて無理矢理着せられるし、一般客には絡まれるし、勝手に写真撮られるし、更に女装コンテストに参加させられるし、詰まらないクイズイベントに参加させられるし……!
 でも一番最悪なのは田所だ!
 何もかもあいつが悪い!あいつのせいで自分はこんなにも惨めで散々だ!
 しかもなんであんな大勢の人の前で突然あんな事するんだ!
 僕にとっては……!
 ユウは頭を抱えてブンブンと激しく横に振った。
 がばっと立ち上がって着ていた制服を脱ぎ出した。
 なんて屈辱だろう。何もかも、酷過ぎる。人権なんて無視されてるとしか思えない。
 ウィッグも無理矢理脱ぎ捨てた。ゴムネットで押さえられていた頭が解放されてすっきりした。
 置きっぱなしだった自分の制服に着替え始めた。
 シャツを羽織ってボタンを留める。ようやく涙が引いて来た。
 そこへ、ガラッ!と音を立てて扉が開いた。
「……西山(にしやま)?」
 それは田所の声だった。
「電気も付けねーで」
 田所はそう言って教室の電気を付けた。ユウは一瞬目が眩んだ。
 頬を拭ってぶっきらぼうに言った。「……何しに来たの」
「西山、泣いてんの?……悪かったって」
 田所は呟く様に謝った。
「それは何に対して謝ってるの……?僕に無理矢理メイド服着させた事?それとも女装コンテストに参加させるよう仕向けたこと?それとも……さっきの事かよっ!?」
 ユウは珍しく声を荒げていた。
「いっやぁ……まあ……。コンテストは女子たちが……。いや、じゃあ全部だよ、全部ってことにしとく」
 謝りながらもそうやってどことなく責任逃れするような言い方に余計腹が立った。
「そうだよ、全部お前のせいだ。お前が変な事言わなきゃメイド服なんて着なくて済んだし、変な奴らに絡まれたり冷やかされたり笑い者にならなくて済んだ。コンテストに出させられてあんなに大勢の人の前であんな恥ずかしい姿晒さなくて済んだ。第一さっきのあれはなんだよ!悪く思うなだって?先に謝ればあんな事していいのか?大勢の人の前で侮辱しといて、よく平気で僕の前に現れたよな!」
 ユウの剣幕に田所はたじろぎ「いや……それは……」としどろもどろになり困惑した様子でこめかみを掻いていた。
「あ、そいや忘れて行ったろ、色々。一応持って来た……」
 田所は手にしていたものを近くの椅子の上に置いた。スタッフに預けていたコンテストの小型のトロフィーと賞金目録、ステージに残してきたエステセットの目録までわざわざ持って来た。
 ユウは腹が立ってまた涙が込み上げて来て拳を握りしめた。
「おいおい、そんなに興奮すんなよ。……あいつに、木村に言われたんだよ、盛り上がるからヤレって……。マジで悪かったって!確かにちょっと調子乗りすぎたとは思うけど……そんな一瞬ちょっとキスしたくらいで」
 ユウはカッとなって近くにあった椅子を投げた。
「ちょっ!」田所は流石に驚いた様に体をかがめたが、床にワンバウンドして勢い余り壁に激突しそうになった椅子を咄嗟に腕をのばして受け止めた。
「アッブねーな!学校壊すなよ!」
「馬鹿野郎ッ!」
 ユウは涙をにじませながら叫んだ。
「あーっ、もしかしてお前、初めてだったとか言う?大丈夫だって男同士はノーカンノーカン!」
 田所が半笑いで茶化す様に言って来たのでユウはすっと目を閉じた。
 もう何も言うまいと無表情で立ち尽くした。
「あれ?……西山?」
 瞼を開けると田所が伺う様にユウの顔を覗き込んできた。
 ユウは無言で田所をにらんだ。
 暫く睨み続けると流石に少し堪えたのか、田所は困惑した表情で再びユウに謝りだした。
「西山、マジ俺が馬鹿だったって。流石にお前が泣くとは思わなかったし。俺が全部悪かったから、許してくれよ。この通り。……お前が言うなら土下座でもなんでもしてやるから」
 田所はそう言って今にも土下座しそうだった。
 ユウはそんなんじゃ気が済まないと思って言った。
「……土下座なんてそんな詰まらない事しなくていい」
「んじゃあどうすれば許してくれんだよ?」
 田所は食い気味で目の前に顔を突き出してきた。
「土下座なんて意味無いよ。そうだな、本当に悪いと思ってるなら、お前も女装して校内一周して来いよ」
 ユウは冷たく言い放った。脱いだ制服とスカート、ウィッグを持って田所にほら!とばかりに差し出した。
 田所は動揺した表情で「俺が?」とユウの持っていたアイテムを恐る恐る受け取った。
「わかったよ。そんなんでお前の気が済むなら……」
 予想外に素直な田所は、手にしたアイテムを教室後部に積み重ねてあった机の上に置くと、自分の着ていたTシャツを脱ぎ始めた。
 ユウも近くに置かれていた椅子の一脚に腰を下ろし、両手で頬杖をついてその様子を監視した。
 筋肉質で引き締まった肉体が露になった。思わず見とれた。
 体育の授業で着替える時も、ユウは更衣室の隅で隠れる様に着替えているからわからなかったが、上腕とか腹筋とか背筋とか、普段シャツを着ている分には想像できない程鍛えられている。
 どうしたらこんな体を手に入れられるのだろうと羨ましく思った。
 ジッと見つめていると、田所はブラウスが小さくて入りきらないらしく、肩がパツパツでボタンも留らない様だ。
 貸してくれたバレー部の女子は背も高く体格も良いほうだったが、さすがに田所ではスカートもファスナーは途中までしか上がらず、腰回りがキツそうで今にも音を立てて破れないかと少し焦った。
 細身のユウとはそもそも体格が違う。
「ちっちぇなぁ!入んねーよクソ」田所はブラウスを諦めたのか無造作にウィッグを頭に乗せた。
 田所が頭に被せるとテレビで見た昔のヒッピー世代の人か、怪しい宗教団体の教祖様みたいな感じで思わず吹き出しそうになった。いっそ地毛の方がマシだ。
「この格好で一周すればいいんだな?」田所は開き直ったように腰に両手を当ててユウの方を見た。
 ユウは不満げに首を傾げた。スネ毛だらけの足にスカート、前が全開きのブラウスとベストにロングウィッグ。確かにこの格好で学園内を闊歩したらただの変態だが、開き直った態度の田所に自分と同じほどダメージを与えてやれるとも思えなかった。
 正直詰まらない。「……やっぱりいいや」ユウはむくれた。
「は?なんで?」
「詰まんない。そんなんじゃ面白くない」ユウが呟くと田所が目を丸くした。「えっ?お前がやれっていったんじゃん」
「そうだけど」
「面白いことして欲しいの?」
「いや、別にそういう訳じゃ……」ユウが口ごもっていると、田所は突然片手を上げて宣言した。「ハイ、じゃあものまねやります!」
「は?」ユウは豆鉄砲を食らった鳩のような気分だった。
「チャ~ン、チャラッチャッチャッチャ~ン♪」
 田所は唐突に口三味線を口ずさみながらその場でボックスステップを踏み出すと、某ビ○ンセものまねの女芸人のごとく激しいダンスを踊りだした。
 ウィッグの毛先がものすごい勢いで振り乱れ、ユウは堪らず吹き出してしまった。
 さらにその後田所は、数々の芸人のリズムネタや歌ネタのものまねに、有名人のものまねを幾つか挟みつつ、後半ではワンフレーズ毎に組み合わせ技を使う高度な真似をした。
「このバカちんがっ!チャ~ン、チャラッチャッチャッチャ~ン♪」
 ユウは不覚にも腹を抱えて笑うハメになった。
 某アイドルグループの元センターのものまねをする女芸人のキレキレダンスを田所が歌いながら再現しだした時は、ユウも手を叩いて爆笑していたのだが、調子に乗った田所が途中で足を滑らせて後頭部から転倒した時、ユウはあまりの可笑しさに膝から崩れ息もできず無言で床を叩きまくった。
 被っていたウィッグは勢みで宙を舞い、悶絶する田所の顔面に舞い降りていた。
 ユウも呼吸困難に陥り、あまりの苦しさに涙が滲み出た。
 暫くの間、二人とも床に横たわっていた。
 田所が倒れているところから、クックックッ!と笑い声が聞こえる。
 うつ伏せに倒れていたユウは頭だけ動かして田所の方を見た。
 片手にウィッグを掴み、仰向けで額にもう片方の腕を乗せて、自嘲するかのように笑い声をあげていた。
「あー、いってぇ。頭と背中強打した。脳シントウ起こした」
 ユウは再び笑い声をあげ、涙を拭いながら言った。
「田所ってやっぱり馬鹿なの?」
「いやー、否定できねーな」
 爆笑しすぎて息が出来なくなるなんて、一体いつぶりだろう。
 腹筋がいたい。ユウはやっとの思いで起き上がった。
「笑いすぎて疲れた」ユウは思い出してまた笑いが止まらなくなりそうだった。
 不思議とさっきまでの怒りが綺麗さっぱりどこかに飛んで行ってしまった気分だ。
「……まあ、色々面白ろかったからとりあえず勘弁してやるよ」
「そうかよ」同じく体を起こした田所もなぜか嬉しそうに頭を掻いた。
「そういえば優勝したらなんでも言うこと聞くって言ったよね?」
「ああ、勿論!男に二言はねぇからな!」田所は自慢げに口端を吊り上げた。
「じゃあこれからずっと僕のパシリね」
「ああ!?何だよそれ」
「なんでも聞くって言ったじゃん」
「いやそうだけど、いやでも流石にパシリって酷くね?」
「一生」
「一生!?たかだか女装コンテストで優勝したくらいで?」
「冗談だよ、ばぁか」ユウはからかうように笑って見せた。
「てめぇ」田所も口ではそう言いながら笑っていた。
「ちゃんと考えとくから、覚悟しとけよ」
 フンと鼻を鳴らした。
 そうだ、田所にはまだ貸しも残っている。自分が優位状態にあると思うと気分が良かった。
「西山って実はいい性格してるよな……。俺学んだわ、お前怒らせるとキレてヤバイってこと」
 ユウは「まあね」と言って意地悪に笑った。「笑ったらお腹減っちゃった」
 田所は「俺も」と言って笑った。


「流石にその顔、なんとかした方がいいな」
 今夜は花火大会もあることだし、外の屋台でお腹を満たそうという話になったが、自分の服に着替えた田所が見かねたように言ってきた。
 ユウは女子たちにメイクを施されていたことを思い出した。
 鏡を見ていないので分からないが、泣いたせいで目元が黒く滲んでパンダみたいになっているらしい。
「ちょっと待ってろ」田所がスマホを構いながらその場から離れると、暫くして何か携帯用のウェットティッシュのようなパッケージを手に戻ってきた。
「メイク落とし借りてきた」
 どこからともなく借りてきたようだ。商品名は『拭くだけメイク落とし』と記されている。たまにテレビとかのコマーシャルでやっているやつだ。
 促されて中身を取り出すと、液がたっぷり染み込ませてあるコットンシートで、とりあえずそれで頬を拭いた。すると途端に表面がベージュ色に変わった。
「うわっ!?」驚いて声をあげ、目の当たりを拭うとなんとも言えないグラデーションに染まった。
 新しいシートを手にしては何回か顔面を撫でると、一瞬で汚れる。
 顎周りやおでこの生え際まで拭くと、シートはほとんど残っていなかった。
「まだ落ちてねーとこある」
 そう言って田所が最後の一枚を手にとって、ユウの顔に手を近づけた。
 一瞬ビクついて咄嗟に身を引いたが、田所は構わずもう片方の手をユウの額に当てがいコットンで瞼をゆっくりと拭った。
 液が目に染みて堪らず目を瞑った。
「よし、オッケ」田所の手が離れたのでゆっくり瞼を開けた。
 手にしたシートは黒っぽくなっていた。
 使い切ってしまったことを気にすると、田所は「あー、大丈夫。俺買って返しとくから」と答えた。ユウは呟くように「ありがと」とお礼を言った。
 グラウンドに向かいながら、先ほどの田所の姿を思い出して吹き出した。それを伝えると田所は頭を抱えて「ぐぁああっ!」と叫んだ。
「猿も木から落ちるっていうだろ……クッソ、頼むから忘れろよ、な?」
「無理。調子に乗るからだよ」
「お前が面白いことしろって」
「言ってない。田所が女装しても大して面白くないって言ったの」
「はあ~?女装しろって言ったのはどの口だよ」田所がむくれたように口を尖らせたので、ユウはツーンとしてそっぽを向いた。
「元はと言えばそっちが悪いんだろ」
「へいへい、俺が悪~ござんしたよ」
「ははっ、何その言い方」
 気がついたら田所と一緒に笑っていた。
 その時は誰のせいで嫌な思いをしたのか、すっかり忘れてしまったような気分だった。
 外はまさしく夜祭の光景が広がっていた。
 昼間よりもさらにで店屋台が軒を増やし、この後ある地元自治会協賛の花火大会を待ち望む多くの人間で賑わっていた。
 りんご飴に肉巻きおにぎり、焼きそばにフライドポテト、ジェラートにフラッペ。B級グルメの屋台も軒を連ねていた。他にも金魚すくいなどのミニゲームや蛍光ライトなどの雑貨店や景品くじの店など。
 今年の夏は結局お祭りに行かなかったので、ついついはしゃぐ気持ちを抑えられなかった。
 ふと目の前の屋台に目が留まった。
 ちょうど誰かが猟銃の様なものを手前のテーブルに置いて、何かを受け取り残念そうに腕を振り下ろして去って行くところだった。
 足を止めて覗くと、そこは射的の店だった。
 ゲーム機やブランド品など結構豪華な景品が奥の棚に陳列されている。
「えっ?西山射的とかすんの?」田所が声をかけてきた。
「ううん、した事無い」
「おっ、じゃあしようぜ」
「いきなり無理だよ」
「じゃあ俺が先に見本」田所はそう言って店主に声を掛けた。
 田所は小銭を払うと二つある射的用の銃を見比べて片方を選んだ。何か違いでもあるのだろうか。
 実はルールもよく知らない。段に並べられているのは何等と書いている小さな箱。どうやらこれを狙うらしい。
「あの箱を倒せばいいの?直接景品を落とす訳じゃないんだ」
「えっ?お前そんな事も知らねぇの?そうだよ」
「へえ~。どれを狙うの?」
 田所は四等と書いてる奥の隅っこの箱を指差した。
 どうせなら一等狙えばいいのにと言うと田所は「こういうのは確実に落とせそうなヤツ狙うんだよ」と笑った。
 何個かあるうちのコルクを選び押し込んだ。
 田所は伸ばした片腕の肘をカウンターに付き、片目をつぶって狙う様に構えた。
 間もなく、パン!と言う音と共にコルクが空を切った。
 しかし箱には当たったが、倒れない。
「だめじゃん」
 ユウは笑った。当たったのに倒れないなんて、わざと倒れない様に出来てるのかも知れない。店主を疑った。
 店主は近くのカップルを勧誘していた。
 田所は「やれやれ」と言って、またコルクを選んだ。
 そこでなぜか田所はリップを取り出して自分の唇に塗り出した。
「え?何でそこでリップ塗るの?」
 田所は「んー?いやちょっと乾燥が気になっちゃって~」と笑いながら、リップの先を親指にぐりぐり押し付けてそれをこっそりコルクの表面に塗り込んでいた。
 ユウが何かを言おうとすると、田所はニヤリと笑いながらシッ!と人差し指を立てた。
 田所は何食わぬ顔でそれを銃にぎゅうぎゅう押し込んだ。
 そして再び狙って、撃った。
 すると、パン!と言う音と共に今度は箱がクルクルッ!と一瞬宙を舞った。
「あっ!」
 ユウは思わず声を上げた。
「すごい!落ちたー!!」
 ユウが叫ぶと田所がドヤ顔で笑っていた。
 結局その後三発撃って反対側の端にあった三等の箱も撃ち落とした。
「兄ちゃん上手いな」
 店主が苦笑いして景品を入れた袋を田所に手渡していた。
 田所はご満悦な様子だったが「やるんなら他の店を当たった方がいいかもな」とこっそりユウに耳打ちした。
 それを聞いてどうしようかと悩んでいた時、誰かが声を掛けてきた。
「あーっ!?お前ら!」
「おやおや、どこの有名人かと思ったら、田所ケンジくんじゃないですか~!」
 同じクラスの男子たちだ。
「さっきから他のクラスのヤツにスゲー絡まれんだけど!お前らのクラスにオカマがいるとかホモがいるとか、あいつらデキてんのかよとか!ど~なってんのまったく!」
 クラスの中でも特に頭の悪そうな奴がガムを噛みながら、片手をズボンのポケットに突っ込んだまま田所の肩に腕を回した。ユウは思わず眉を潜めた。
「ケンジさっきの見てたぞ~?何ぁんだよぉっ!おまえらデート中?まさかマジでデ~キ~て~ん~の~?」
 いつもながらにウザいが、今日は特に三割、いや五割増しだ。
 こちらをジロジロ見ながら冷やかして来たので、ユウはムッとして少し睨んだ。
 田所がうんざりしたようにうつむきながらそいつの腕を引っぺがした。
「ブァ~ッカ!アホ言うな。お前がすげー絡んでんじゃねーか。あんま調子のんじゃねぇぞ。悪いことは言わねぇ、その辺で止めとけ」
「あんなの全然面白くねーよ!もっとゴリラみたいなヤツとキッスしろよ!」
 思い出して、ついピクッと口元が引きつった。
 すると田所が慌てたようにそいつの肩を押して遠くへやった。
「黙れ蜷川!せっかく機嫌落ち着いたのに、また眠れる獅子を呼び覚ます気かお前……」
 そう言いながら田所はちらりとこちらを見た。
 っていうか、本当我ながらキスのこと一瞬忘れそうになっていたことに驚きだ。
 ユウが不満顔で大きくため息をつくと、そこへまた他の生徒がやって来た。
「おー、ケンジ、さっきのライブ見たぞ!スゲー良かったよ!って、あれ、噂の西山じゃん!あ、流石にもう着替えたんだ」
「お前らさっきのアレ見てねーの?」
「アレって?」
「あーっ田所くん!西山くん!」
 そこへ更に別の女子たちが声をかけてきた。
「田所くんライブ見たよー!超良かった」
「西山くんもコンテストお疲れー!優勝おめでとう!めっちゃ可愛かったし!」
「一緒に記念撮影しとけばよかったなー!」
 その後もまるでこませ網漁のごとく、通りすがりのクラスメート達がそこで足を止めてどんどん群がった。
「あ!ちょっと田所!」
 さらに最初にユウを女装させた気の強い女子たちのグループ。
「っていうかさっきのアレ、一体何なの?完全ウケ狙いでしょーっ!?」
 目撃していなかった様子のクラスメートが追求して来た。
「さっきのアレって、どういう事?どういう事?」
「だからぁ!」
「だからよぉ!」
 頭の悪そうな男子と気の強そうな女子の声がかぶった。
 二人は一瞬にらみ合うように間をあけ、再び声を揃える様に言った。
「ケンジが西山に……」「田所が西山くんに……」
「キスしたんだよ!」「だってば!」
「えーっ!?」
 その場が騒然とした。
「ヤバ!敢えて触れなかったのにそれ言っちゃうんだ~?」女子の一人が嬉しそうに笑う。
 田所はバツが悪そうに噤んだ口元を歪ませていた。
「キスしたってどういう事?」
「ノリでしょ?」
「ウケ狙いだろ?」
「見た目完璧女子の西山にキスするとか、ちょっと洒落にならないから」
「何嫉妬してんの?」
「は?んなわけないでしょ田所なんか」
「あ、そっち?」
「えーでも盛り上がらなかった?」
「寧ろ俺ときめいた」
「ときめいてんじゃねーよ!」
 クラスメートたちは当の本人であるユウたちをそっちのけに騒ぎ立てていた。
 田所が頭を抱えてはあぁっ……!と大きくため息を吐いたかと思うと彼らに向かって叫んだ。
「あ~のさ!とりあえず少し移動しねぇ?さっきから俺ら完全に邪魔になってるっぽいんだよねぇ~……」
 後ろを振り向くと、射的の店主が腕を組んで迷惑そうに顎を突き出してこちらを睨んでいた。
 店の真ん前で話し込んでいた事に気付き、慌てて邪魔にならない道の中央にぞろぞろと移動した。
「っていうか西山くん可哀想じゃん!走って逃げてたし」
「えーでももう平気そうじゃん?」
「だいたい田所が調子に乗るからでしょ?いっつもノリだけじゃん!」
「何言ってんだよ、お前らがノリノリで西山女装させたんだろ?」よせばいいのに頭の悪そうな男子が女子に向かって指をさしながら嫌味な言い方をした。すると案の定女子達が目を吊り上げて舌打ちし、その男子にメンチを切り出した。
「はぁ~?何言ってんのよ、蜷川?あんただってヤベェ!とか言って鼻の下のばしてたでしょ?」
「あっ!バカ言うなよ!」
「それに田所がやれよって唆してきたのよ!」
 今度は女子に指を指された田所が意外そうに口を尖らせた。
「なんだよ、結局俺のせいかよ」
 ここまで聞いていたユウはそこで口を開いた。
「そうだよ、何もかも……」
「お前のせいだよ!!」 
 気がつくとユウを含めた何人かの声が重なり、田所は困惑したように「あ、ハイ、すんません……」と肩身を狭くしていた。


 戦犯田所。なぜかその呼び名でひと落着した。
 クラスメートたちは人目も臆さずぎゃあぎゃあと騒いで、気がつくと今度は通路の真ん中で通行の妨げになっているようだった。
 ユウは彼らの様子を傍観しながら、そういえばと思い出した。
 女装させてきた女子の一人に制服の事を尋ねた。
「さっき借りた制服、どうすればいいかな?」
「あっ、後でもらうね。教室?」
「うん。あの、でもクリーニングとか……」
「ああ、大丈夫!少しの時間着ただけだし、気にしないで」
 借りた服はクリーニングに出して返すべきだと、姉から言われていたのだが、ここはお言葉に甘えることにした。
 田所も相変わらず皆と騒いで盛り上がっていた。ユウは少し気疲れして皆が話している隙にふらりと歩き出した。
 少し先に先ほどの店とは別の射的屋があったのでそこで足を止めた。
 店主は年配の女性だった。
「やるのかい?一回五百円だよ」
 尋ねられ、ちょっと高いと感じて悩んだが、やはりやってみたいと思い頷いた。ポケットから財布を出し、小銭を渡した。
 弾のコルクが幾つか入った容器を渡され、適当に射的用の銃を選んでコルクを詰めた。
 見よう見まね、適当に的をめがけて撃った。しかし、まったく見当違いなところへ飛んで行ってしまった。
 もう一度コルクを詰めて、次はもう少し狙って撃ったつもりだった。弾は的のはるか上を掠めて消えた。
 するとすぐ後ろで声が聞こえた。
「そんなんじゃ一生当たんねぇな。っていうかいつの間にかやってるし」
 振り返ると田所が隣に来た。
「初めてなんだから仕方ないだろ。あっちはいいの?」
「なんかいろいろ責め立てられるから逃げて来た。なぜかエンジェルのハゲまで俺のせいにされるしよぉ」
 エンジェルこと教頭の顔が浮かんだ。頭皮の薄さを笑いのネタにしている芸人に激似な上、面白くて人気があり生徒たちからは親しみを込めてそのあだ名で呼ばれている。
 ユウがぷっ!と笑うと田所は口を尖らせた。
 田所が射的のコツとやらを教えてくれた。「打つ時は台に肘をついて安定させんだよ。肩と頬でこう挟む感じで。やってみ?」そう言って見本を見せた後、銃を差し出してきた。
 少し離れたところからクラスメート達の騒ぎ声が聞こえていた。
「っていうか、賞金っていくらくらいもらえんだろうな?」
「俺も賞金欲しい!」
「だったらあんたが出場して優勝でもすればよかったんじゃな~い?」
「ばーか!俺が女装とかキモイだけだろ!」
「確かに」
「結構他のクラスの男子もレベル高かったよねぇ?八組の朝比奈とか!」
「ああ、準グランプリの」
「いやでも西山は鬼懸かってたからなぁ」
「で、実際いくらなの?賞金」
「数万って噂だよ。先輩が言ってたもん」
「えっ!マジで!?それ山分けしようぜ!」
「はあ?馬鹿なのあんた?体張ったのは西山くんなのよ。あんたのどこにそんな権利があるわけ?馬鹿なの?」
「馬鹿って二回も言うなよ!」
「まあ、お前が馬鹿なのは事実だから仕方なくね?」
「なんだよー、よってたかって!」
「山分けといえば、模擬店の人気投票があるじゃん。クラス優勝したいなぁ」
「だよねぇ~!めっちゃ頑張ったし」
 ユウは銃を構えて的を狙いつつも、彼らの会話が気になっていまいち集中できていなかった。
 参加賞として図書カードが千円分、それと優勝賞金を女子と山分けしたら合わせてかなりの臨時収入になる。欲しい物が買えるなと、つい金勘定をしてしまった。
「狙う時は左上の角がオススメ」
 お節介にも田所が後ろから手を伸ばして銃口の向きを修正してきた。
 一瞬振り返りそうになったが思いとどまった。
「この辺じゃね?」
 田所の声がすぐ耳元で聞こえた。今振り返ったらまた事故が起こりかねない。
 言われるがまま引き金を引くと、なんと見事的に当たって落ちた。
 思わず「やった」と呟いた。人生初の射的で初景品をゲットした。
 しかもそのあともう一個的に当てて倒すことができた。
 ビギナーズラックってやつかもしれないが、的を落とせたことがすごく嬉しかった。
 店主の女性から景品を受け取りお礼を言うと、田所が「イェ~!」といって手の平を掲げてきた。あえて無視してやろうと目を背けると、再び視界に入ってきて「イェ~イ」といってきた。仕方なくその手を叩いてやった。
「あぶね、スルーされるかと思った」
 ユウは「そのつもりだったんだけど」と笑った。
「ひっでぇ。でもお前結構筋いいんじゃね?」
「そうかな?」ユウは少し得意な気分なった。
 その時他クラスの三人組の男子が通りがかりに「イチャついてんじゃねーぞ」と野次を飛ばしてきた。
「ウッセェ、ボケ!」田所が凄んで叫んだので少し驚いた。連中は一瞬怯み、顔をしかめて去って行った。
 するとようやくユウたちに気づいたクラスメート達が、こっちを指差しながら叫んだ。
「っていうかあいつらいつの間に!?完全に俺ら無視して遊んでるし!」
 田所がヘッヘッ!と笑いながらいい加減な感じで手を振った。
 そこへ今度は柄の悪そうな男子グループが通りかかった。
「おい、こいつらイキがってる二年と女コンで優勝した奴じゃね?」ユウたちに気づくと、足を止めて冷やかしてきた。
「ああマジだ。よぉ、お前らこんなとこでイチャついてんじゃねーぞ」
「なあお前、もっかい女装して俺らと遊ばねぇ?」
 確か三年の不良グループだ。以前問題を起こして停学処分を喰らったと噂されていた。
 からかうように口笛を鳴らされてムッとしたが、怖かったので何も言い返せなかった。
 だが、田所が振り返りざま「ウッセーよバーカッ!」と叫び、三年だと気づくと途端に顔色を変えた。
「やっべ……」
「あんの馬鹿!」田所の友人たちも彼の思わぬ失態に顔を押さえていた。
「あ゛んっ!?おいゴルァ誰に向ってバカっつってんだぁッ!?」
 三年男子たちが眉間に皺を寄せて突っかかって来た。
「やべーわ、逃げんぞ!」
 田所に腕を掴まれて、ユウも咄嗟に一緒に走り出してしまった。
「別に僕何も言ってないのに!」
「もう走って逃げんてんだろ、キョーハンだよキョーハン!」
 後ろで三年や同級生たちの声が聞こえたが、逃げ足の速い田所に引っ張られ走る。
 足が縺れて転びそうになりながらも、なんだか愉快な気持ちになってユウは声を上げて笑いながら走った。
 自分が口には出せない事を、田所が言ってくれたことが爽快だった。
 あんな恐い連中に追いかけられるのはまっぴらだが、久しぶりに全力で走って凄く楽しい気分だった。
 途中で人混みに紛れて屋台と屋台の隙間から出店行列の裏に回り、しゃがんで身を隠した。
 二人とも息を切らしながら、しばらくその場に留まり追っ手をやり過ごした。
「……もう行ったかな?」
「多分」
「なんであんなこと言ったんだよ」
「まさか三年だと思わなかったんだよ。また誰か知り合いが絡んできたものだとばかり」
「どうしよう、目を付けられちゃったんじゃ……」
「ま、なんとかなるっしょ。そろそろ戻ろうぜ」
 田所が連絡を取り合ってクラスメート達と合流した。
 パパパァーンッ!という空砲の合図と共に花火大会が始まった。
 夜空の下、人々は次々と舞う色とりどりの花火に酔いしれていた。
 先に場所取りをしていたクラスメート達が陣取ってくれたおかげで、非常階段の二階あたりから特等席で花火を鑑賞することができた。
 それぞれポーチにもたれかかったり階段に腰掛けたりして空を見上げていた。
 ユウはお腹が減ってペコペコだったので、他の男子と共に屋台で買ってきた焼きそばやたこ焼き、串焼きなどを貪っていた。
 爆音と共に花開く鮮やかな光の粒。歓声と共にシュワッと火花が消える音までも耳に届いた。
 ユウはこんなに近距離で花火を見るのは初めてだった。花火が打ち上げられる度に、カッと閃光が走り、ばかでかい爆発音と共に明るい光がグラウンドを照らした。
「たーまやー!!」
 ふざけて叫ぶ同じクラスの男子たち。
 誰かがあっ!と国民的アニメのキャラクターの名を叫んだ。
 思わず焼きそばを吸ったまま空を見上げようとして、危うく咽せかけた。
 見るのも食べるのも忙しい。
 すると他の男子が口の中にたくさん頬張ったまま喋ろうとして吹き出し、女子たちが汚い!と大騒ぎしていた。「ちょっと男子ー!食べるか見るか喋るかどれかにしなさいよ!」
 気の強い女子が呆れた様に顔をひきつらせていた。
 ユウは慌てて残りの焼きそばを一気に平らげた。
 ようやく胃袋が落ち着いた頃、ふと名前を呼ばれ見上げると、吉川(よしかわ)モエが笑顔でこちらを見下ろしながらジュースの入ったコップを差し出していた。
「お疲れ様。これ先生から差し入れだって」
「ありがとう」ユウは両手でプラスチックのコップを受け取った。
 彼女は階段を一段降りるとユウの隣に腰掛けた。
「吉川さんもお疲れ様」
「今日は西山くん、色々大変だったみたいだね?」
「あっ!え?いや……」
 今日の事を色々思い出して、どっと疲れが襲いかかってきた。
「コスプレ喫茶も大成功だったし、模擬店一位になれたら嬉しいなぁ。明日はもう鑑賞会とかぐらいだから、とりあえず私たちの委員の仕事ってもうほぼ完了って感じだね。西山くんと一緒に色々準備出来て楽しかった、ありがとう」
「そんな、こちらこそ。僕なんか殆ど役に立ててなかったし」
「ううん、そんなことないよ。残念ながら見れなかったけど、メイドとか大活躍だったんでしょ?まさか本当に女装してくれるとは思ってなかったから……」吉川は嬉しそうにニヤリと笑った。「コンテストで優勝までしちゃうなんて、流石!」その言葉には苦笑いを返すしかなかった。
 じゃあね!と笑顔で手を振る吉川に手を振り返し、ユウはあれ?と目を細めた。
 吉川って、よく考えたらもしかして、最初から僕に女装させるの狙ってたのかな……。
 田所から聞いた女医のコスプレ衣装の話を思い出した。
 やっぱり女子って腹の底で何考えてるのか……恐ろしい。
「おい、西山!」
 ポーチに立つ田所に呼ばれて返事を返した。田所は「こっちこいよ」と手招きした。
「……うん」先ほどまで誰かいた場所が空いていた。ユウは田所の隣に立ち、田所と同じようにポーチの手摺りに両肘を乗せてもたれかかった。
 ユウは楽しくて自然と笑みがこぼれていた。ちらりと横を見ると田所の顔も笑顔だった。
 ふと田所もこちらを向いて、目が合った。すると田所の表情が少し真面目な顔になった。
「西山、なんていうか……」
 何かを話しかけてきたが、花火の音で良く聞き取れなかった。
「えっ?ごめん、良く聞こえない!」
 ユウが叫ぶと、田所は目一杯笑って首を横に振った。
「なんでもない!」
 高く高く打ち上げられた今日一番の超特大花火を見上げた。
「スッゲー、でっけぇっ!」田所が爆音に負けない大声を張り上げた。
「うん、凄い……」
 今日みたいな日は初めてだ。
 嫌な事も結構たくさんあったはずなのに、今この時間が凄く楽しいと感じるのは何故だろう。
 もうこんなに楽しい時間は二度と来ないかも知れない。
 そう思うと少し切なくなった。
 空では満開の花火が咲き乱れ、クライマックスを迎えていた。
 全員が天を仰ぎ、わぁ!と夢中で花火を見つめていた。
 ユウは間近で見る特大花火の光と爆音を浴び、酷く感動していた。
 この楽しい瞬間がこのまま永遠に続いてくれればいいのに……と、生まれて初めて心の底から願った。


 前日までの晴天と打って変わって、三日目は朝から雨が降り出していた。
 ユウは雨の音で目覚めたが、体が酷くだるくなかなかベッドから抜け出せなかった。
 昨日色々ありすぎて疲れたのかもしれない。少し熱っぽかった。
 それでも休む気にはならず、風邪薬を飲んで学校に向かった。
 三日間ある紫冠祭のうち、醍醐味は多数のイベントや一、二年の出し物がある二日間。最終日は主に文化部の公演や三年のクラス発表がメインだが、今年は雨のためか前日までと比べてかなり一般客の人影が少なかった。
 町の人たちも昨日盛り上がりすぎて疲れたのかも知れない。
 雨のせいでグラウンドで予定されていたイベントも幾つか中止になってしまった。
 町内会の屋台が体育館の軒下に申し訳程度に並んでいる。
 一、二年の出し物は終了したが、一部の教室内には生徒が授業で制作した課題や作文などがまとめて展示され、保護者や一般客が自由に観覧出来る様になっていた。
 簡単な朝礼のため生徒たちは一応教室に集まったが、そのあとすぐ自由行動になった。
 いつの間にか田所(たどころ)たちの姿も見当たらなくなっていた。
 音もなく降り注ぐ雨のせいで気温が下がり、ブレザー越しにも肌寒い。
 頭痛がして体も重かった。昨日と打って変わって憂鬱な気分だ。
 朝飲んだ風邪薬は古くなっていたのか、全く効いた様子がない。
 ユウは公演を見る気も起きず、ハッキリしない頭を抱えて校内をフラフラと歩いた。人知れず休めるところを探していた。
 屋上に続く階段を昇り、ドアのすぐ手前の階段部分に座り込んだ。
 ホッとすると同時に体がずしりと沈む様だった。
 暑い様な寒い様な感覚に襲われ、そのまま瞼を閉じた。
 またあの夢を見ていた。
 それは母親の夢だ。
 幼い頃、よく母親に連れられて色んなところに二人で遊びに連れて行ってもらった記憶がある。
 その頃は優しくて美人な母の事が大好きだった。
 ユウは小さい頃よく女の子に間違えられていた。
 母が冗談半分でユウにわざと女の子の格好をさせて出かけたこともあった。見ず知らずの大人たちはユウを女の子と疑わなかった。アイスクリームを買ってもらい「本当に女の子みたいに可愛いわね」と抱きしめられた。ただ母が可愛いと褒めてくれることが嬉しかった。
 ユウには五つ年上の姉がいた。だが母は、姉を一緒に連れて何処かに行ったりした事は殆どなかった。自分との扱いが違うことは幼心に気づいていた。
 その理由を知ることになったのは、中学になってからだ。
 中学一年生の夏のこと。
 その夜は熱帯夜で、真夜中に暑さで目が覚めた。水を飲もうとダイニングに降りた時、両親が言い合っているところを目撃してしまった。
 母がヒステリックに父を責め立てている様子だった。
「あなたこの前は浮気してないって言ってたじゃないッ……!」
 普段大人しい母があんなに取り乱しているのを初めて見て、怯えながら階段の影に隠れて聞いていた。
 父の浮気が母にバレたのだ。まさに修羅場だった。
 食器の割れる音がし、ヒステリックに叫ぶ母の声が耳をつんざき、耳を塞いだ。その場から動けなくなった。
 すると階段の上に現れた姉がおいでと呼んだので、涙ぐみながら姉の部屋に行った。
「お父さん、浮気してるの?」
 ユウが尋ねると、姉はそうみたいだね、と悲しそうな顔をした。
 その時姉の口から衝撃の事実を聞いた。
「あのね、私お母さんの本当の娘じゃないの」
 姉は、自分は父親が結婚前に付き合っていた女性との間の子供だったと明かした。
 両親は婚姻前、その女性と三角関係にあった。元々付き合っていた女性からユウの母が略奪する形で結婚したのだ。
 しかしその数年後、その女性が急病で亡くなったのだが、彼女は父と別れた後に子供を密かに出産して育てていた事が判明した。
 ユウの母は大反対したが父が押し切って引き取った。
 まもなくユウが生まれると、母はユウばかり可愛がって、姉の事は必要以上の世話はしなかった。
「本当は私が邪魔で仕方なかったのよ」姉の言葉だ。
 姉はユウの母からイジメの様な仕打ちを受けていた。「お母さんは私を憎んでいたんだと思う」
 やがて母は、自分がそうしたように今度は他の誰かに父を奪われるのを恐れるようになっていたのかもしれない。
 いつ頃からだっただろう。
 姉が高校生になり美容院に行ったり化粧をしたりするようになると酷く叱っていた気がする。
 女の子らしくすると怒られるので姉はいつも髪を短くしていた。
 姉が高校を卒業すると共に家を出て行くと、今度は成長したユウにも嫉妬する様になった。
 中学二年生になる頃には母の機嫌が悪いと、やたら顔の事を詰られた。悪い時はいきなり頬を叩かれた。
 ――あなた男の子なのに、どうしてそんなに女の子みたいなの?
 若くて綺麗なユウの顔に腹が立ったらしい。自分によく似た息子にすら嫉妬するとは。
 小さい頃は可愛いと言って褒めてくれていたのに。
 母の愛はいつの間にか歪んでしまった。
 追い打ちをかけるように、ユウはその頃学校でも問題を抱えていた。
 クラスの中でも力を持つ生徒に、たまたまよそ見をして廊下でぶつかってしまった。
 すぐに謝ったつもりだったが運悪くそのままイジメの標的になってしまった。「お前ちょっと目立ってるからっていい気になるなよ」
 顔が女みたいだからという理由で女だと冷やかされて笑われたり、足をひっかけられたり絡まれたりした。
 その子は典型的ないじめっ子で、皆その生徒に逆らえなかった。
 以前いじめに遭っていた生徒はいじめに耐えきれず転校した。ユウもいつ自分にその番が回ってくるのかと怯え、黙って見ぬふりをしていた一人だった。
 ユウはすぐに孤立した。
 一番辛かったのは、小学校の頃から親友だと思っていた友達が影で自分の悪口を言っていた事を知った時だ。
 でも誰にも相談出来なかった。
 学校でも家でもこの顔のせいで詰られ、罵られ、そのうち別人の顔に整形したいと考えるほどだった。
 二年の終わりごろには母は被害妄想も多くなり、急に泣き出したり叫びだしたりすることもあった。母はすっかり心が病んでいたのだ。
 この頃は父親は仕事で出張も多く、ほとんど家にいた記憶がない。
 殆どの時間を母と二人っきりで過ごす日々が続いた。
 母は機嫌が良い時と悪い時でまるで別人のような態度をとった。
「お前なんて嫌いよ」と言ってみせては人前では仲良さそうに振るまい、二人きりになるとまたユウを詰って責め立てる。かと思えば父親が早く帰って来たりすると急に機嫌が良くなって、ユウにもすっかり優しい態度をとったりするのだ。
 母が機嫌の良い時に尋ねた事があった。
 お母さんは本当に僕の事が嫌いなの?どうして時々酷い事を言ったりするの?
 でも母は表情のない顔で「さあ、お母さんよく覚えていないわ」と答えるだけだった。
 ユウも気が狂れてしまいそうだった。
 学校では陰湿ないじめに耐え、家ではヒステリックな母親と対峙しなければならない。
 どこにもぶつけられない悲しみと怒りをどうする事も出来ず、もう何もかもずっと限界だった。
 ーー助けて誰か!助けて!
 叫ぶと、途端に自分を悲しそうに見つめる母親が現れ、目の前からスーッ……と遠ざかって行った。
 ユウは思わず手を伸ばした。
 ――!?待って母さん、行かないで。
「……、……ま……!」
「う゛ぅっ……!」
「……西山(にしやま)!」
 誰かが呼びかける声で気がついた。
 顔や首もとに脂汗が滲んでいる。
 どうやらうなされていたようだ。 
 揺らぎぼやける視界の中でようやく田所の顔を捉えることができた。
「……田所……?なんで……」
「大丈夫か?熱あるじゃん!保健室連れてってやるから」
 田所が手を貸してくれ、ユウの体を担ぐようにして起こした。フラフラと立ち上がったが足元がおぼつかない。
 すると田所はユウを背負った。体に力が入らず抵抗することもなくおぶさった。
 廊下ですれ違う人々に注目され、何か噂する声が聞こえたが、もう気にしなかった。
 何故あんなところに来たのか不思議だったが、あの悲しい夢から呼び覚ましてくれたことだけでも田所に感謝しなければならい。
 熱のせいかいつもより何倍もリアルで長く感じたし、当時の苦しみが蘇った気分だった。
 やっぱり今日くらい休めば良かった。
 保健医に薬をもらい、暫くベッドで横になる事にした。
 柔らかなベッドに横になって布団をかぶったが、落ち着かず動悸が止まない。
「ゆっくり休めよ」
「うん……ありがとう」
 ユウはなんとか声を振り絞ってお礼を言った。
「じゃあ俺行くけど、また後で来るから」田所はそう言って去った。
 過去の記憶が脳裏を駆け巡り、心と体が緊張して強張っていた。
 しかし暫く後、ようやく薬が効いて来たのか意識が遠のいた。また少し昔の夢を見ていた。
 高校受験を控えた中三の冬、事件が起きた。
 母が父の出張先のホテルに乗り込み、浮気現場に遭遇して刃物を振り回し警察沙汰になった。
 何も知らないユウが学校から帰ると家には誰もおらず、夜遅くに帰ってきた両親はひどく疲れた様子だった。
 夜中中、父と母は話をしていた。時々階段の陰からユウが覗くと、母が泣きながら時折父の言う事に頷いていた。
 翌朝の母の顔は忘れられない。
 暫く見なかった優しい笑顔で、ユウもつられて久しぶりに笑顔を返した。母が最後にユウを見送るとき「ごめんね」と謝った。
 学校から帰ると、両親が離婚する事を父から伝えられた。
 母が家に戻ってくる事は二度と無かった。
 自分を虐めていたクラスメートは皆ちがう高校へ進学した。
 元より、通っていた中学校は通学に一時間半もかかる遠方だったので、この学園にわざわざ進学する者が殆どいなかったのもある。
 中学は母の希望で母の母校に通っていた。しかし高校は父が家から近いという理由で勧めてくれたのでこの学園に決めた。
 高校進学して暫く後、母が出て行った事を知った姉が、男二人の生活を見かねて家に戻って来た。
 姉は眼鏡を掛けていたユウの姿を見て首を傾げた。視力が悪くなったのかと訊かれて首を横に振った。
 なぜ、だて眼鏡をしているのか。それはユウの心の傷を隠すためでもあった。この顔で人と面と向かって話すことが怖くなっていたのだ。人と深く関わりを持つことが。
 問いただされて、父にも話せなかったことを唯一姉にだけ話した。
 中学校の時虐められていた事も、母との出来事も泣きながら全て話した。
 姉の頰には涙が一筋流れた。
「私はお母さんから逃げた。自分のことで精一杯だった。だからあんたを置いて……」彼女は「守ってあげられなくて、ごめんね」と謝った。
 姉に言われて眼鏡をかけるのはやめた。でも、人との関わりをできるだけ避けるように心がけた。
 母親によく似た女顔、それは自覚している。でもそれは苦しい思い出を伴う。鏡を見るたびに思い出してしまう。だから必要以上に鏡は見たくない。姉だって、こんな自分の顔を見るたびに母のことを思い出してしまうのではないかと思うのだが、気にかける素振りも見せない。
 ユウには忘れたくても忘れられない。
 小さい頃母に女の子の格好をさせられたことも、友達だと思っていた人に裏切られるのも、人よりも目立ってしまうことも。
 ーートラウマなんだ……。
 あれから常に人と一線を置く様にして過ごし、人間関係に悩む事をし無くなった。そうやって平和な日々を過ごして来た。
 もう誰も信じないと決めたから。


 再び目を覚ますと、汗をかいて幾分体が軽くなっていた。しかし、心は鉛を喰らったようにズシンと重い。
 ユウは保健室の天井をボーッと見つめた。
 もう誰かに傷つけられたり裏切られたりしたくない……。
 小声で話す声が聞こえた。横を向くと仕切られたカーテンの外に数人の人影が見えた。
 ユウはゆっくりと体を起こそうとすると、背中が痛んで思わず「うっ……!」と声を漏らした。
 人が立ち上がる気配がしてカーテンが開いた。吉川(よしかわ)モエが顔を出した。「西山くん。目が覚めた?」
「吉川さん……どうして」
 ユウが首を傾げると吉川がニコリと笑った。
「倒れてたって聞いて。大丈夫?具合どう?」
「うん、ありがと……」ユウは頷いた。
「あ、西山くん大丈夫?」クラスメートの女子がひょこっとカーテン越しに覗いた。吉川と仲の良い女子だった。
 ユウが答えようとすると、カーテンがシャッと音をたてて開き田所が姿を現した。体操着姿で黄色いゼッケンを着用していた。
 近づいたと思ったら不意に田所の手の平がユウの額を覆った。
「熱は下がったみたいだな」
 ユウは少し驚いて「う、うん」と頷いた。
 田所からはかき立ての汗の匂いがした。こめかみ部分の髪が汗で濡れている。
 ユウはゆっくりとベッドから抜け出た。
「もう少し休んでなくて大丈夫?」吉川が心配して声をかけてくれた。ユウは大丈夫と頷いた。
 カーテンの外には楕円形のテーブルがあり、彼女たちは先ほどまで座っていただろう椅子に再び着席した。
「今田所くんに話すところだったんだけど、演劇部の公演、すごく面白かったの!」
「そうなんだ」
 ユウも田所の隣の空いてる椅子に腰掛けることにした。壁掛け時計は既に一時半を指していた。
 田所がスポーツドリンクのペットボトルをユウの目の前に置いた。
「喉乾いてるだろ。飲めよ」
「あ、ありがと」妙に気がきくと思って驚いた。田所ももう一つ同じものを飲んでいた。
「西山くんお腹減ってない?こんなのしかないけど」今度は吉川がキャンディ菓子をユウに差し出してきた。ユウはお礼を言ってそれを頬張った。
 吉川たちの話に耳を傾けながら、隣で田所が体操着の中に制汗スプレーを噴射していた。
 どうやら田所はバスケのミニゲームに参加していたらしい。
「一回戦敗退とかありえねぇ」と苦笑いしていた。
 ユウも汗をかいていたのを思い出しスプレーを拝借した。
 戻ってきた保健医がおしゃべりをしている自分たちを見て、少し呆れたようにため息をついた。「こんなところでおしゃべりしてないで、三年生のクラス発表でも見てきたら?」
 吉川たちは「はーい」と笑って席を立ったので、ユウも立ち上がった。
「俺ゼッケン返し忘れてっから、体育館戻るわ。西山どうする?」
 ユウは田所についていくことにした。
「そう、じゃあまた後でね」
 吉川は笑って手を振り保健室を去って行った。
 入れ違いに、ゼッケンを着た体操服姿の男子生徒が片足を引きずりながら友人に抱えられて保健室に入って来た。膝を擦りむいたのか赤く血が滲んでいた。
 痛そうだな、と思いながら田所の後についてユウも保健室を後にした。
 いつの間にか雨は止んで空には日の光が差し始めていた。グラウンドには水たまりができていて、雲の隙間から覗く青空を足元に映し出していた。
 やはりまだ体がだるい。階段を上る足が鉛のようだった。
 先を行く田所の背中を見上げた。
 田所はなぜ自分を見つけてくれたのだろう。
 田所は、チャラくて強引で自分勝手で、本当は嫌いなタイプだ。しかも無理やり女装させられてあんな恥さらし……されたけど、でもなぜか嫌いになれない。
 気がつけば、一緒にいると楽しいと思うようになっていた。
 友達になりたいと、思ってしまうけど正直怖い。
 また昔のように裏切られるんじゃないかと思うと、一歩が踏み出せない。信じるのは無理だ。
 体育館の二階の広い空きスペースには、グラウンドでやるはずだったアスレチックコーナーを簡略化されたものが急遽用意されていた。一般客が多く、大人も子供も楽しそうに遊んでいる。
 二階の手すりから一階のコートを覗いた。
 キュッキュッ!というシューズが床に擦れる音が響き、黄色いゼッケンが揺れている。
 決勝戦の試合が行われていた。彼らはバスケットボールを巧みに奪い合い、真剣な様子でプレイしている。
 ユウは手すりの前で三角座りをして彼らの試合を眺めた。
「さっきは保健室に連れて行ってくれて、ありがと」ユウはお礼を言った。
 田所は立ったまま手すりにもたれかかって観戦していた。
「あー、いいって。でもなんであんなとこ居たんだよ。保健室行って休めばいいじゃん」
「それは……」返答に困った。自分でもよくわからない。「そっちこそ、どうしてあそこに僕がいるってわかったの」
「まあ、なんとなく?お前朝顔色悪かったから、途中でやっぱり気になって。保健室とか探したけどいねーし、どっかでぶっ倒れてんじゃねぇかと思ったら、案の定だったな」
 田所は鼻を鳴らして笑った。
 午後四時、水たまりが残るグラウンドにて閉祭式が行われた。
 登壇した校長が今年の学園祭の成功を喜んで、生徒や多くの関係者に慰労の言葉をかけていた。
 その後の各部門での人気投票の結果が発表され、模擬店部門では見事ユウたちのクラスが優勝だった。
 クラスメート達はこぞって「わーっ!」と湧いた。歓びの声をあげながら吉川モエが代表として表彰を受け、賞状と大きな賞金の目録を手に掲げて満足そうに笑みを浮かべていた。
 その他校長賞や芸術部門や展示部門、イベントなどOB部門での表彰も行われた。
 学園祭の盛り上げに貢献した人物に送られるMVP賞では、何人かの名前と共に田所の名が挙がった。
 田所は驚いた様に喜んでいた。表彰台に上がり賞状と記念品を受け取ると得意げに両手を掲げて振っていた。
 最後に今年は町内会長が締めの挨拶を行い、その場にいた全員で一本締めをした。鳴り響く拍手の中、紫雲(しうん)学園学園祭『紫冠祭』はその幕を閉じた。
 ユウは学祭実行役員のところへ、昨日のクイズイベントの景品の引き換えとコンテストの賞金を受け取りに行った。
 クラスの女子たちが見つめる中、賞金の中身を確かめて思わず固まった。
「いくらいくら!?」
 彼女たちも金額を確認すると嬉しそうに叫び声をあげた。
「うぎゃあ!マジで!」
 女子が叫ぶと例の頭の悪そうな男子たちがハイエナの様に集って来た。
「ウヒョー!クラス優勝の分と合わせたら……!ヤベェ!これはもう派手に打ち上げやろうぜ」
「だからこれは個人賞だって言ってんでしょ!」
「おいケンジ、お前もコイツらになんとか言えよ!お前がライブん時西山引っ張ったおかげで追加票入って優勝出来たかもしんねーんだからぁ!」
 田所は腕を引っ張られて面倒くさそうに眉間に皺を寄せていた。
「なんとか言えっつったって、優勝したのはコイツらが頑張ったからだろ。お前はなんもしてねーのに集ってんじゃ、ね、え、よ!」田所はそいつの額を指で突っついた。
 その夜、繁華街にあるファミリーレストランで打ち上げする事になった。
 ギリギリで到着するとすでに殆どの同級生たちが集まっていた。
 ユウはシャツだけ着替えて制服姿で来たが、ほとんどの生徒は私服に着替えて来ていた。
 私服だと全然イメージが変わる。普段頭の悪そうな男子もキレイ目系の服装に身を包むとだいぶまともに見えた。
 思わず探したが、綾瀬(あやせ)マイコの姿はなかった。女子たちの会話ではどうやら家庭の都合で来れないらしい。
 ユウは隅っこの方に座りながら残念に思った。
 MVPに選ばれた田所が代表して乾杯することになった。
 イメージ通りのカジュアルなロックスタイルに身を包んだ田所が、遠くの席で立ち上がった。
「え~っと、とりあえずお疲れさまでした。……んじゃあ乾~杯!」
 田所がそう言ってコップを持ち上げたが、ほぼ全員からブーイングを浴びた。
「もっとなんか気の効いた事言えよ」
「MVPが聞いて呆れるぜ」
「そーだそーだー!」
 田所は「え~っ、めんどくせぇ!」と渋りながらも頭を掻いて仕切り直した。
「……え~っと、模擬店も一番だったしコンテストでグランプリ取った奴もいたし、俺もなんかMVP賞とかもらっちゃったりして?まあなかなか他にはこんなクラスないんじゃないかと思う。皆が一致団結して頑張った結果だと思うので……。なんつーか?……わかんねーけどとにかく四組最高ってことで!?カンパーイッ!!」
 そう言って田所がコップを掲げると、今度こそ全員がそれに続いて「カンパーイ!」と勢い良くコップを掲げた。
「イエーイッ!!」と叫びながら近くの者同士でも乾杯し合った。
 パーティー用のコース料理が運ばれてきたが、ユウは食欲がなかったので食べれそうなものだけ食べることにした。
 中盤を過ぎると席替えが始まっていた。
 何故か例の女子たちが近くに寄って来て話しかけられて驚いた。
「西山くんまじお疲れー!」
「賞金、うちらで半分もらっちゃってごめんねー?」
「いいよ、その約束だったし」
 ユウには半分でも十分な金額だった。
「ところで西山くんって普段休みとか何してるのー?」
「趣味とかあるー?良かったら連絡先教えてよ?」
 ユウはたじたじで飲み物を飲みながら適当に誤摩化した。女子から話しかけられて戸惑ってしまう。
 質問攻めに耐えれなくなり、トイレに行くと言って席を立った。
 洗面所で手を洗ってため息をついた。
 トイレから出るとき田所たちとすれ違った。そういえば席が遠いせいか始まってから一言も喋ってない。
「おー西山、体調大丈夫?」
「えっ?あ、うん」
 田所は「まあ無理すんなよ」と言ってもう一人の男子と連れ立って男子トイレに入って行った。
 席に戻ろうとしたとき中から声が聞こえた。「今西山、女子トイレから出て来なかった?」
 ユウは思わず足を止めた。
「は?いや男子トイレから出て来たじゃん」田所の声だ。
「いや冗談だけどさ、西山の女装見てから実は女なんじゃないかと思っちゃって」
 すると田所の笑う声が響いた。「確かにあれは凄かったよな。俺もマジかと思った」
「だからキスしたのかよ」
「ちげーってあれは!」
「西山って、中身もなんか女子っぽくね?あんまりハッキリもの言わないし。さっきも女子と仲良さそうにしてても違和感ないし」
「そうかぁ?……まあでも結構すぐ泣くし、女々しい所はあるな」
 笑う田所の言葉に、ユウはショックを受けた。
 自分が女々しい事くらい、自分でもよく分かってる……!
 ユウは早足にその場を去った。
 部屋に戻るとさっきまで座っていた場所に別の女子が座っていたので、ユウは空いているスペースを見つけて腰掛けた。
 ユウはさっきの田所たちの会話を思い返していた。
 中学のときの記憶が被った。
 ――あいつって顔だけじゃなくて性格まで女々しい。オカマの西山。
 親友だと思っていた奴の言葉。
 いつの間にかどこかで田所は違う様な気がしてしまったけど、結局田所だって自分の事をそういう風に思って皆と一緒に笑っている。
 ほんの最近一緒にいる事が多くなっただけで、実際は大して仲が良い訳でもないんだ。もう誰も信じないって決めてたはずなのに……。勝手に自分が思い込んたのがいけない。
 どうせあの女子たちも面白がって声を掛けてきただけだし、また自分をおもちゃにして遊びたいだけだ。
 すっかり意気消沈してしまった。心が苦しい。もう何も楽しく無い。無理して打ち上げなんか来るんじゃなかった。
 食事が終わり、ファミレスを出ると二次会にカラオケに行く話がまとまっていた。どうやら全員参加するようだ。
 体調も芳しくなかったが一人だけ帰り辛いなと、ユウは思わずため息をついた。
 すると少し離れたところから田所が声をかけてきた。
「西山、キツいなら無理せず先帰ればぁ?」と言った。
 その言葉がなぜかひどく胸に刺さった。
 ーーお前なんかさっさと帰れ。
 そう言われた様な気がしてしまった。
 心が乱れて言葉に詰まった。
「あ……じゃ、じゃあ、悪いけどお先に……」
 皆にろくに挨拶もせずその場から立ち去った。
 ユウは顔を歪ませた。
 帰れてちょうど良かったじゃないか。
 でも、いいようのない孤独感に襲われていた。寂しさで胸が痛む。
 悪気があった訳じゃなかったかもしれない。被害妄想かもしれない。でも今は悪い方にしか考えられない。
 顔も性格も、あんな母親に似るんじゃなかった。
 泣き出さないように必死に平静を装い、イヤホンを耳に挿し音楽を聴きながら家路についた。

1:君のとなり(KIMInoTONARI)

(2章へ続く)
第2章
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1:君のとなり(KIMInoTONARI)

私立高校二年に通う男子生徒、西山ユウは目立つことを恐れ地味で平凡な高校生活を送っていた。 二学期のある日、前の席からクラスの中心的存在でお調子者の田所ケンジが声を掛けて来た。一方的に絡んでくる彼を苦手に思っていたが、学園祭の準備などを経て次第に親しくなっていく。 学園祭で急遽女装をする羽目になってしまったユウは、戸惑いながらもグランプリに輝いてしまい注目を浴びる。 さらに壇上で、田所に突然唇を奪われ意味がわからないまま突き飛ばしてしまう。 いい加減で調子良くてマイペースな田所に振り回されてばかり。 それでも嫌いになりきれない田所に心を開きかけるのだが、自分を他の連中と同じ様に思っていることを知り、ショックを受ける。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-02

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  1. 1章 運命の出会いなんて出会った頃は意外と気づかないもの