フィクションの運命

≪登場人物紹介≫
・河井 桜……主人公。自分がフィクションの中の登場人物だと気付いている。
・夏目リサ……黒髪の女。狂言回し。

・藍見ここね……人気ライトノベル『幼なじみと一緒に暮らすことになったんだけど何か質問ある?』のメインヒロイン。ストイック。
・鈴木花子……推理小説『楽器店クラプトンの事件譜』の短編ゲスト。ストーリー上、殺される役回り。

・魔王  ……子供向けヒーローもの『ハッピーマン』に登場する悪役。地響きするほど声が低い。
・側近  ……魔王の側近。優しい。

プロローグ

 私は気付いている。
 自分が、物語の中の登場人物であることを。

 私は今、六畳ほどの部屋の中に一人でいる。
 ベッドも机も何もない、無機質で静かな部屋。周囲は目に染みるほど真っ白な壁。窓も蛍光灯もないのに、なぜだか部屋は明るい。そして私の真正面には、仰々しい装飾がされた重たそうな扉がある。
 ここは、フィクションの世界の前室。そのことを、私は知っている。物語に登場するキャラクターはこうやって前室で生を受けることになっている。それは、別にここに限らない。小説やドラマなどのフィクションの世界には、すべからくこの部屋が存在しているのだ。
 そしてまさに今、私は主人公として目を覚ましたわけだ。
 名前は河井桜。十九歳の女子大生。顔は童顔気味。髪の毛はショートカット。父も母も健在で、成績は中の中。引っ越しを二度経験した。足は速いけど球技は苦手。——そんなプロフィールは頭に入っている。
 けれど、私が何をしたら良いのかは知らない。この作品がどんな物語なのか、全く分からない。ジャンルが何か、自分以外の登場人物がどのくらいいるのか。そもそもタイトルすら知らない。
 私はポケットに手を入れた。
 ポケットには、大きなリングが通った鍵があった。たぶん、目の前にある扉の鍵だろう。リングに通されたタグには、こう書かれている。
『運命』
 ……、うんめい?
 どういうことなんだろう。この作品のタイトルなのだろうか。それとも、この鍵が私の運命を握っているという意味だろうか。
 よくわからない。
 よくわからないけれど、とにかく私は今から物語を始めようと思う。
「……ふう、」
 小さく息を吐き、私は仰々しいほどの装飾がされた扉をにらみつけた。この向こう側に、私の物語(人生)が待っている。
 絶対に、面白い作品にしたい。私が主人公なのだから、この作品を後世にまで残るような面白いものにしてやりたい。私だからできる物語を、作りたいのだ。
 パチン、と両頬を叩く。
「――よし、」
 気合いを入れて、私は鍵を差し込んだ。
 ガチャリ、と世界を揺るがすほどの音がして、鍵が開く。
 ノブをひねる。
 重装な扉が、油の足りない音を立てて、開く。物語が始まる音がする。光が、漏れる―― 

 自分の名前が「サクラ」なだけあって、桜が咲く季節の春は大好きだ。
 その女が話しかけてきたとき、私は河川敷にある喫茶店のテラスでコーヒーを飲んでいた。ちょうど河川沿いに咲く桜並木が見渡せて、休日の午後の時間を過ごすのにもってこいの場所だった。
「桜の木を眺めているとさ、こいつらは自分のことを主人公って自覚してるんじゃないかって気がするのよね」
 霧吹きで吹きかけた地面のように、女の声はしっとりと濡れていた。
「春になって新生活の幕開けに合わせてさ、まるでこれ見よがしに花びらを散らすでしょ。ほらキレイでしょ、みんなこれを望んでるんでしょ、って。勘違いするのも大概にして欲しいわよね」
 その女を、私は見たことがなかった。腰まであるつややかな黒髪に、いつも微笑んでいるような顔つき。私よりは少し大人びている容姿をしているが、時折見せる目の奥には幼さというか、底抜けに明るそうな様子が見て取れた。
「あながち間違ってはないような気がしますけどね」私はコーヒーを一口飲んだ。「実際に桜が咲く光景って美しいじゃないですか。ドラマや映画でも桜吹雪を背景にながすだけで画面が栄えるでしょ。そういう魅力は、やっぱり主人公としての存在としてありだと思うんです」
「でも、そうやって周りの環境があるとおもうの。周りの環境がそうしているだけで、風とか、人間とかさ、そういうのがあるからこそ、キレイだって思うんだと思うのよ」
「そんな周りの環境も全部ひっくるめて、結果として魅力があるのであれば、それは主人公としての素質があると思いますけどね」
 ふうん、と女が納得したのかしてないのか分からない声を出した。
「あなた、桜は好き?」
「好きですよ。キレイなので」
「そう。やっぱり、同じ主人公としては、どこか自分と重なるところがあるのかしら」
 私はコーヒーに付属している豆菓子の袋を開けていた。一粒口にいれようとして、
「——え?」
「いや、だから」女がにやりと笑いながら再び繰り返した。「あなたも主人公だから、同じ桜の木とどこか重なるところがあるのかしらって思って」
 私は残しておいたミルクを飲みかけのコーヒーに注ぎきり、スプーンでかき混ぜてから飲んだ。
「主人公? 何のことでしょう。私は普通にここで生活している普通の人間ですが」
「あら、役者ね」
 そいつはクスリと笑った。まるで子供を諭すかのような口調で、
「誤魔化さなくてもいいのに。そんなに片意地はってたら、作品がつまらなくなっちゃうわ。せっかくのフィクションなんだから、何でもありの気持ちでいなきゃ。柔軟な頭を持ってないと、興味を引けるストーリーなんて作れないわよ」
 そいつはコーヒーを飲んだ。黒くてつややかな髪がさらりと耳元を流れて、いい香りがする。
「あなたは誰ですか?」私は聞いた。
「私は夏目リサ。あなたの作品に出てくる脇役よ」
 私はまじまじとその女を見た。にこっと笑うそいつの顔に、嘘やはったりを言っているようには見えない。
「あの、」私は聞いた。「知ってるんですか? 私がこの作品の主人公だってこと」
「もちろん」女が言った。「それであなたが自分が主人公だって自覚していることも知ってるわ。ついさっき、プロローグであなたがそう自分で言ってたの聞いたし」
「わああ、ちょっと待って」
 私は慌てて両手を振った。
「え、え? どういうことですか? 知ってるんですか? あなたも自分が登場人物だって気付いてるんですか?」
「ええ」女が頷いた。「なにをそんなに慌てているの? あなたが意味深そうに散りゆく桜を眺めていたから、きっと意味があると思って桜の話題を振っただけなんだけど」
 別に深い意味なんてない。物語が幕を開けたものの、どうして良いのか分からなかったので適当にカフェに入ってぼんやりと黄昏れていただけだ。
「あの、すみません。私、本当に右も左も分からないんです。あなた、この作品のことを知っているようなので、ちょっと教えてくれませんか。これがどんな話なのか、私はこれからどうしたら良いのか」
「あなた、知らないの?」
「……はあ、知らないです。本当に、全然分からなくて」
「ああそう」女が頷いた。
「これ、どんな話なんですか?」
「これはね、あなたが何とかして物語を面白くしようとするんだけど、結局何もできずに家に閉じこもって自分のつまらなさに愕然とする話よ」
 その言葉が冗談なのかどうか分かりかねて、私は笑えなかった。
 私の表情を見て、彼女はケタケタと笑った。
「あなたは、どんな話にしたいの? 楽しい話にしたいの?」
「まあ。こうやって登場人物として生まれたからには、読んでくれている人に面白いって思って欲しいですよ。少なくとも、こんな変な物語にするつもりはなかったです」
「こんな変な物語って?」
「だから、こんなメタな話ですよ。登場人物たちが自分のことをキャラクターと認識してるなんて、奇妙にもほどがあるじゃないですか」
「あなたは、嫌なの? そういうの」女が聞いた。
「嫌ですよ。なんか、興ざめしちゃうもん」
「そう」そいつは言った。「じゃあ今から訂正しましょうか。今の私の発言をなかったことにして、やり直しましょう」
「……え、そんなことできるんですか?」
「さあ、知らない」
「知らないって……」私は呟いた。
「でもやるだけやってみましょう。今からでも気付いたふりをするの。そして、回想でも入れたらそれっぽくなるでしょ」
 ね、と女は笑いかけてきた。
「私はあなたの友人。中学校まで同じクラスで仲の良かった関係ってことにしましょ」
「ええ……」
 なんだかやっかいな人に引っかかってしまったと思う。
「ほら、練習だと思ってさ。主人公続けるんでしょ。このくらいのハプニングで動揺してたら、この先、主役なんて張れないわよ」
「そうですけど、」
「じゃあ決まり。私の名前は夏目リサで、あなたの中学までの友人。たまたまカフェに居合わせたってことで」
 ピースサインをして、ニコッと女が笑った。キレイ系な人だが、笑うとどこか戯けなさが出ていて可愛らしく見える。
 はあ、と私はため息をついた。
「……、分かりました」
 先行き不安だが、まあ、こうした出会いで物語は進んでいくのだろう。まあいい。ここはフィクション。何でもありのスタンスでいるほうが、面白いのかもしれない。

  * * *

「リサ?」
 その懐かしい響きに、コーヒーを飲もうとしていた私の右手が止まった。
 彼女の顔を見る。しっとりとした黒髪に、いつも微笑んでいるような優しい目。目尻の小さなほくろ。
 ――もしかして、
「あの、御月第三中学校だった?」
「ええ」とリサは頷いた。「覚えているかしら?」
 覚えている。夏目リサ。中学のときの同級生で、三年間通じて同じクラスだった。
 彼女は昔から、不思議な魅力を持つ女の子だった。特別明るいわけでもなく、休憩時間は一人で読書をしているような静かな子だったが、かといって人からの干渉を避けるような冷たい人でもなかった。話しかけたら愛想良く返事をしてくれたし、場を和ますための冗談も言った。決して目立ったりはしないが、でも目立つ子のすぐ横にさりげなくいるような人だった。そんな彼女と、陸上部で外を走り回っていた私がどうして仲良くなったのか、今でも私は分からない。でも、私は彼女のことが好きで、休み時間はいつも彼女のそばにいてしまうのだった。彼女の周りには彼女独自の世界が広がっていて、そこには底抜けに明るい彼女の性格が隠れているような気がして、そんな彼女の世界に私は魅了されていたのだ。
「わあ、久しぶり、リサ」私は彼女の手を取った。
 リサは懐かしそうに頬を緩めた。
「久しぶりね、咲ちゃん」
 ――あ、
 私は首を振った。
「違うよ。私は桜だよ。河井桜。もー、リサってば。もう忘れちゃったの? 咲ちゃんは別の陸上部の女の子でしょ」
「あら、ごめんなさい。間違えちゃった」
 リサはぺろりと舌を出した。けれど、いくら名前を間違えられたとはいえ、そんな彼女のことが懐かしいと思った。昔からそう。マイペースで、こうしてちょっとだけ抜けているところも、私の記憶の中にいる彼女と同じだった。
「長いこと会ってないと忘れちゃうわね」
 彼女は、申し訳なさそうに頭をかいた。この仕草も昔からの彼女の癖で、なんだかこうして久しぶりに会った友人の変わらないところをみて懐かしく感じる。見た目は記憶よりも大人びているが、でも彼女は間違いなく彼女だった。
「まさかこんなところで会えるなんて思わなかったよ」私は言った。

「やっぱりなし。飽きたわ」リサが唐突に言った。「普通に考えて、つい十分前に初めて会った人と幼なじみを演じるなんて無茶よ」
「いやちょっと、……もー」
 私はうなだれた。リサの肩をパシンと叩いて、
「やめてよ。せっかく良い感じに進んでたのに、台無しになっちゃったじゃん」
「良い感じも何も、演技だってバレてるのに、それをやり続けるなんて虚しいにもほどがあるわ」
「いや、仕切り直ししようって言ったのリサでしょ」
「実際にやってみたらダメだったって気付いたのよ。だいたい、私あなたの名前すら知らない状況でどうやって話を合わせたら良いのよ」
「だからフォローしたじゃない!」
 私はリサを指さした。
「誰よ咲ちゃんって! 話しかけてくるなら事前に私の名前くらい把握しといてよ」
「私、人の名前を覚えるの苦手なの」
 リサは豆菓子を口に入れ、ボリボリと噛んだ。
「ま、どっちにしても幼なじみはやめましょ。あのままやってても混乱するだけね。やっぱり普通に行きましょう。私たちは作品に出てくる登場人物。面白い作品を作るためにせっせと動くってことで」
 なんだこいつ、と思う。
 私は本当に、とんでもない奴に捕まってしまったのではないだろうか。
「私、すでに先行き不安だよ」
「そうかしら? でも良いコンビだと思わない? 私たち。幼なじみって設定のおかげで、さっきまでの他人行儀な違和感もなくなったでしょ?」
 いけしゃあしゃあと、そんなことをリサが言う。
「別に、そんな親しくなったつもりはないけど」
「でも、私のことをリサって呼び捨てにしてくれてるじゃない」
 言われてみたら、その通りだった。
「ね。さっきのやりとりもぜんぜん無駄なんかじゃないわ。というわけで、よろしくね、サクラ」
 手を差し出された。
 なんだか納得はいかなかったが、それでも私はおずおずとその手を握った。メタな展開は嫌いだ。――嫌いだが、でもまあ、こういう話も、ありなのかもしれない、と思った。
「まあ。よろしく、リサ」私は言った。
 リサは一度、ぐっと私の手を握った。そして飲みかけのコーヒーを一気に煽って、
「よし、こうして友情が芽生えたところで、ちょっと外に出ましょ。こういうとき、あんまり座ったまましゃべりこんだって面白くないから」
「……メタだなぁ」
 ため息交じりに私は呟いた。さっさと店を出ようとするリサに続いて、私も帰り支度を始める。

     2

「それで、さっきの話の続きになるけど、サクラはどんな物語にしたいの?」
 河川敷を歩いていると、リサが私の顔をのぞき込んで聞いた。
 私は少し考えて、
「どんな話……。特になにかやりたいことがあるわけじゃないんだけど、とにかく面白い作品が作りたいっていうのかな。せっかくフィクションの世界に生まれたんだから、現実ではできないことをして、読んでくれている人に楽しんで欲しい」
「面白い作品って」リサが頭をかいた。「漠然としすぎね。それができるなら私達は苦労はしないだろうけど」
「まあ、そうだよね」私は呟いた。
「んー、一般的にはね」
 リサが言った。
「アクションが盛り上がるって言われるわよね。手に汗握る場面が続いて、ハラハラした展開だと見てる方も退屈しないかも」
「ハラハラ、ねえ。まあ確かに、だらだらと会話を続けるよりも、行動している方が楽しいって思うのはわかるけど」
「というわけで、これからアクションしましょ」唐突にリサが言った。
「え?」
「無理矢理アクションにしてしまいましょ。こんな河川敷を意味もなく歩くのはつまらないわ。これから悪の組織に追われるにしましょ」
「いや、それ口にしたら元も子もないんじゃ、」
 ばばば、と遠くからヘリコプターが飛んでくる音が聞こえた。
「――え?」
「ほら、来たわよ。悪の組織」
 ヘリコプターの音が近づいてきて、立ち並ぶビルの隙間から顔を出した。そのまま、こちらをめがけて一直線に急降下してくる。
 きらり、
 ヘリコプターの扉から、軍服を着た人が、ライフルを構えているのが見えた。
「狙撃される前に逃げなきゃね」リサが笑いながら言った。
「はあっ!? なにこれ、リサ、あんた何者なの?」
 パリン、
 すぐ横のビルのショーウィンドウが、ライフルで撃ち抜かれた。
「ああ、当然だけど、当たったら死ぬから」
 さらりと髪を耳にかけて、リサが言う。
 私はもう口がふさがらない。
「いやあんた、――あんたマジでなに言ってんの」
「そうそう、アクションの定番と言ったらこれも必要よね」
 リサはポケットから鍵を取り出した。
「これ、車の鍵。ほら、あそこのパーキングエリアに止まってる白のセダンあるでしょ。あれの鍵よ」
「え? 運転するの、私」
「当然でしょ。ヘリコプターから走って逃げ切れると思ってるの?」
「いや、でも乗り物に乗らない方が、隠れやすいんじゃ。地下とか、物陰に身を潜めやすいし」
「そんなのヘリコプターが困るじゃない。上空から見えやすい場所にいなきゃ」
「なんでこっちが向こうの都合に合わせなきゃいけないのよ!」
「ストーリーを作るってそういうものなのよ。何かに追いかけられたら走ってる途中に転ばなきゃいけないし、殺人事件が起きたら誰かが単独行動をしなきゃいけないのよ。そうしなきゃ物語が盛り上がらないの。――あとこれ」
 リサがポケットから何かを取り出した。私はそれを受け取る。
「これって……」
「時限爆弾。これ、十分後に爆発する仕組みになってるの」
 そんなもの見りゃ分かる。ルービックキューブほどの大きさの四角い箱。その上面にデジタル式のタイマーがついていて、一秒ずつ目盛りが減っていくのを見たら誰だってこれが何なのかくらい察しがつく。
「アクションシーンといえば、カーチェイスと時限爆弾は必須でしょ」
 はにかむリサ。
「……必須でしょって、なに言ってんの」
 私はもう泣きそうである。
 が、どれだけ泣きそうな表情を浮かべても、時限爆弾のタイマーのカウントダウンは表情一つ変えず時間を刻み続けている。
「もーっ!」
 私は車のほうに走り出した。
「あのさ、私嫌いなの! 死んだりとか、生きたりとか、そういう命にかかわることをあまり軽く扱わないで欲しいんだけどっ!」
「ここはフィクションなのよ。私達に命の重みなんてないわ。人権すらないのに」
 なかなかすごいことを言う。
「それで、私が死んじゃったら、どうなるの?」
「当然、物語は終わっちゃうわね。始まってすぐに主人公が死んじゃう物語。――傑作だわ」
 ケタケタと笑うリサ。
「あんたバカじゃないの!? っていうか、これ、町中で爆発なんかしたら、私が死ぬどころの被害じゃないよ」
「ああ、それは大丈夫よ。こんなこともあろうかと、この街は無人になってるから」
 ええ、と私の口から声が漏れる。
「一人もいないの?」
「ええ、人っ子一人、犬や猫、虫すらいないわ」
「——なにそれ。そんなこともできるの?」
「フィクションだからね」リサが歌うように言う。「それじゃあ始めましょうか」
「ちょ、ちょっと待っ、」
「はい行くわよ。よーい、どんっ」

  * * *

 車に飛び乗る。鍵は開いていて、私は国産車のセダンに乗り込んだ。
「……マニュアル? 嘘でしょ」
 思わず声を漏らす。が、カーチェイスをATでするのもどうかと思って、エンジンをかけてクラッチを踏んだ。発車する。
 ヘリコプターに見えないよう、細い小道に入り、一旦距離を置く。
 ストーリーの都合で無人な街が、却って恐怖心を煽る。廃墟、と言うわけでもない。当たり前のように生活感にあふれた町並みと、どこまでも無人なその様子が不釣り合いすぎて不気味でならない。犬や猫どころか、いつもはうっとうしいとすら感じるゴミを漁るカラスの姿すら見当たらない。
 静かすぎる。
 そう思った。
 どこまでも不安になりそうになりながら、私は車を走らせる。
「作戦を言うわ」
 助手席に座ったリサが言う。
「これから、駅横の高層ビルの間に入って。底の細い道路に縁を誘い込むの。ヘリコプターは狭いところだと移動が困難だから、一度誘い込ませたらなかなか逃げ出せない。そこに時限爆弾を設置して、その爆発に巻き込むの。チャンスは一度きり。タイミングが鍵になるわ。そこら辺のタイミングは私が言うから、サクラは運転に合図を出したら一目散に車で逃げて。いける?」
 いける、としか言いようがない。たとえ無理でも、選択肢がそれしかないのなら嘘でもそう言う。
 時限爆弾の時刻は六分を切っていた。
 敵に気付かれないように細い道を進む、が人通りがないので渋滞や飛び出しに注意する必要がないので、道路の上では独断場だった。移動も都心とは思えないほどスムーズ。あっという間に目的地に到着した。このまま待機。まだヘリコプターはこちらの場所に気付いていない。
 一旦車から出て、時限爆弾を道路の真ん中に置いた。
「置いてきたよ」私はリサに言った。
「じゃあ、時間が来たらクラクションを鳴らして相手に私達の場所を知らせましょう」
「うん」
 私は言った。

 背中からは音が漏れ、遙か彼方から音が聞こえる。が、まだ余裕があった。バックミラー越しに見ても、まだまだ追いつかれている様子はない。考えてみたら人がいないと言うことで、ダウンタウンの長い道のりがあるはずがどうしても誰にも会わないのがホラー映画のようにすら感じる。すぐそこの物陰からゾンビが出てきても、何らおかしくない。
 私はシートにもたれかかった。自覚はなくても体は緊張していたようで、体の節々ががちがちになっている。アドレナリンが吹き出している感覚。奥歯に知らず知らず力が入り、ハンドルを握る両手が震えている。
 大丈夫。
 大丈夫、なんてことはない。後はヘリコプターがやってくるのを待って、最も近づいたときに発車したら良い。時間はまだ三分ある。
 ごおん、と遠くで音がする。
 ビルが崩れる音。姿も形も見えないが、その音はここまで地を伝って肌で感じる。まるで生き物の呻き声の用にも聞こえて、身が震える。自分の身の回りで起きていることが現実のことであるとは思えない。なんだか夢を見ているかのような、ふわっとした感覚。脳に血液が集中して、なんだかぼうっとする。
「向こうに私達の居場所を気付かせるわ。私が合図をしたらクラクションを鳴らして」
 リサが腕時計を見つめながら言った。
 私は一度、鼻からゆっくりと息を吐いた。ハンドルの真ん中を、手の平で覆う。ちょうど、音は背後から聞こえる。
「いくわよ。さん、にい、いちっ、押して!」
 押した。
 パアァ————、とホーンが震えて、滑稽なほど大きな音が私の神経を研ぎ澄ましていく。その音が無人の街に染みいるような心地を味わいつつ、ついに相手に立ち位置をばらすことに気が遠くなるような緊張感を覚える。こめかみがドクドクと脈打つ。
 もう言い訳はできない。
 ちょっとタンマも、お情けの「もう一回」も通用しない。
 作戦は始まった。ここに安全策も保険もない。一発本番の大博打。ちょっとでも計算が狂えば、もう奴らから逃れる術はない。
 私はハンドルから手を離した。
 クラクションが消え、静寂が耳をついた。
 自分の鼓動がうるさい。私は全神経を耳に集中させ、敵の動きを。遙か遠くから、音が聞こえる。
 遠くから、音がする。
 崩れる。すぐ近くのビルが崩れる音。まだだ、まだ距離がある。

「きゃあっ!!」

 悲鳴が聞こえた。
 リサのでも、ましてや自分のものでもなかった。
 私は体を起こして、周囲を見た。大型商業ビルのすぐ横。崩れたビルの瓦礫に挟まれた女の人が、必死に自分の足の上に落ちてきた瓦礫を動かそうともがいている。
 ――なんで、
「街に人はいないはずじゃなかったの?」
 私は助手席のリサを見た。リサも驚いた顔をしている。
「……いないはずだけど」
 私は後ろを振り返った。まだ姿は見えないが、ヘリコプターは着実に迫ってきている。
 見過ごそうか、と一瞬だけ思った。
 一瞬だけ思って、すぐに私は運転席を飛び出した。
「すぐに助けます!」
 私は駆け寄ってその女の人に言った。そこで気付く。彼女は学生服を着ている。女の人というよりは女の子と言った方がいいような顔つき。幼なさの残る顔は、痛みでゆがんでいた。女の子の足の上に乗っかった瓦礫をはずそうとする――が、重たい。生半可な力では動かない。破壊されたビルの壁なんて初めて触るわけで、下手に握ったらその重さと鋭利な断面で手の平が切れてしまいそうになる。埃で体が一瞬で真っ黒になる。
「い、……痛い」
 体全体の力を使って瓦礫を動かそうとすると、下敷きになっているその女の子が歯を食いしばった。下手に動かそうとすると、断面が足にめり込むようだ。
「ごめんなさい! 足を抜くことはできますか?」
 その子は涙目で首を横に振った。足首が他の瓦礫でつっかえているのだという。どうにもならないその状況に私は泣きそうになる。
「サクラはそっちを持って、」
 リサが来た。
 てっきり傍観に徹するものだと思っていたので、そのリサの言葉に私は少し驚く。が、一人よりも二人のほうが力は強い。リサの背中に後光が差し込んだのを私は確かに見た、
 ――いや、
 後光ではない。すぐ後ろのビルが爆発した光だ。ようやく自分の現状を把握する。ヘリコプターの音が、明らかに近づいている。
 奴らの手が、すぐそこまで迫っている。
「サクラ、早くそっちを持って!」
 リサが声を荒げる。私はコンクリートから突き出た鉄棒を両手で握り、せーのっ、で持ち上げる。さっきまでテコでも動かなかった瓦礫が、ぐるりと回転して、その女の子の足が解放された。彼女の膝には、血が滲んでいる。
「肩につかまって、」
 顔をしかめるその女の子の肩にリサが腕を回す。私もそれを手伝おうとして、
 影、
 ヘリコプターがビルの隙間から顔を出した。
 見つかった――そう思った。腹の底がぞくりと冷える。膝が震える。ヘリコプターに顔も表情もないのに、明らかにあれはこちらを見ていた。早く、早く車に戻らなきゃ、
 ドンと音がして、ヘリコプターから放たれたランチャー弾が私達のいるすぐ横のビルに突き刺さった、――爆発、アホみたいに地面が揺れ、それでなくても恐怖で震える私の体は傾き、その場に崩れ落ちる。
 瓦礫が落ちてくる。
 私はその様子を、地面にペタリと座り込んだまま惚けたように見ていた。
 まるでスローモーションの映像を見ている感覚。空からゆっくりと瓦礫が落ちてきて、その距離が迫ってきている。逃げろ、逃げろと頭でどれだけ思っても、腰が抜けて体が言うことを聞かない。あと数秒で、――いや、一秒にも満たない時間で、瓦礫が私の脳天を踏みつぶす。焦り狂う心の中の片隅で、ちょっとだけ冷静な自分が「ああ、私は死ぬんだ」と他人事のように思う。
「サクラっ!」
 ぐい、と驚くほどの力で襟を引かれ、私は道路を転がった。
 ドカン、と耳をつんざくほど大きな音がして、ついさっきまで私がいた場所に瓦礫がめり込んだ。その音で、私は我に返る。
「車に乗って、――早くっ!」
 リサに腕を引かれ、私は何とか立ち上がった。よろよろと千鳥足で運転席に転がり込む。女の子とリサは後部座席に乗った。
 瓦礫が落ちてくる。右のサイドミラーが壊れ、フロントガラスの隅にヒビが入る。一つ落ちるごとに、世界が揺れる気がする。
「時限爆弾があと十秒で爆発するわ。すぐに車を出して!」
 リサが叫ぶ。リサにもたれかかって、女の子が肩で息をしている。後方から近づくヘリコプターの音に頭が真っ白になるほどの焦りを覚える。
 ――あ、あれ、
 どうすれば車は発進するんだっけ。さっきまで運転していたのに、なにをどうやったら良いのか分からない。アクセルを踏んでバカみたいにエンジンが回転し、それからシフトをローに入れてふたたびアクセルを踏むものの、それでも車は発進しない。
 ドン、と衝撃を受ける。
 リアガラスに蜘蛛の巣のようなひびが入る。狙撃されている、ヘリコプターが信じられないほど近づいている。ビルの間、狭い空間に、じりじりと入り込んでいる。撃たれる、タイヤが狙われたら一巻の終わりだ。
 ――早く、
 早く発進したいのに、車が言うことを聞いてくれない、どれだけアクセルを踏んでも、車が進まない、
「サイドブレーキ!」リサが叫んだ。
 下げた。すんでの所で堪えていたエンジンの動力が解き放たれ、きゅきゅきゅとタイヤが悲鳴をあげて車が急発進する。むち打ちになるほどのGがかかり、シートに押しつぶされそうになりながらも、私は決してハンドルを離さない。「捕まってて!」と後部座席の二人に叫び、アクセルに乗せた右足に体重をのせる。
 急げ、急げ急げ、
 右へ左へ、尻を振りながら車は進んでいく。
 一メートルでも、一ミリでも遠く、あの爆弾から距離を取らなきゃ――
 爆音。
 後方で、時限爆弾が爆発した。生き物かと思うほどビルが飛び跳ね、真っ赤に光ってから四方飛び散るのがミラー越しに見えた。——と同時に車が宙を舞い、爆風でひっくり返りそうになるのを間一髪で堪える。その爆発が、ヘリコプターまで飲み込んだのかどうか、それはさすがにミラー越しには確認できなかった。
 人通りの一切ない不気味なほど静かな大通りを、私は一直線に突っ走る。なんだか運転しながら変な気持ち悪さがあると思ったら、先ほどの衝撃のせいで車体が曲がり、自然と左に傾くからだった。人はいないくせに、いっちょ前に路上には駐車された車があって、いくら止まってるとは言えどバカみたいにスピードを出している私からしたらいきなり飛び出してくる車となんら変わりない。意味をなさない赤信号を無視し、「飛び出し坊や」をなぎ倒し、違法駐車に車体をこすりつけながら車を走らせる。リサが「もう大丈夫」と後ろから言っても、私はスピードを緩めない。どこまでも続く大通りを、焼き付きそうになるほどエンジンを回してボロボロの車で突き進む。
 
     3
 
「お疲れ」
 ガソリンが尽きるまで走り、運転席でぐったりとハンドルにもたれかかっていると、リサが缶コーヒーを買ってきてくれた。
「なんとか物語が終わらずに済んだわね」
「……私、アクションなんてできない。無理」
 ハンドルに顔を埋めたまま、私は呟いた。くたびれきった声が、なんだか自分の声には思えなかった。


(つづく)

フィクションの運命

フィクションの運命

「っていうかさ、メタフィクションって題材がそもそもややこしいんだよ」

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ホラー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ