闇の仮面

闇の仮面

 仮面をつけた闇が新たな装いをしてやってくる。私たちは、静かに最期を待ち受けるべきか?それとも、人間を前にした蟻のように、無情の抵抗を続けるべきか。私たちは、何故このような事態を招いてしまったのか?そもそもの始まりを思い出す。あれは、とても暑い夏だった。七月か、八月かは覚えていない。ただ、娘が帰ってきていたことをはっきりと覚えている。それが、事の発端でもあるのだ。そもそも、豊かな髪を持った娘の悲惨な叫びで目覚めた日、何かの予兆を感じ取るべきだった。しかし、私は、気付かずに、状況はどんどん悪くなっていった。病魔は知らず知らずのうちに体を蝕んでいく。それは生活の中に、入り込んでくる不幸と似たような恐ろしさを持つ。闇は黒だと多くの人は言うだろう。私も、闇をみるまでは、そう考えていた。しかし、闇はそう単純な物ではない。
 とにかく話を戻すと娘はつまり、焦げ茶色の生き物を見つけてしまったのだ。その結果、私たちの家は不機嫌という感情の楽園となってしまった。娘は、我が家の古びた様子を見て、ため息をついているのを悲しい気持ちで見ていた。人間は年をとる。そして、建物も年をとる。その事実。いや人間とともに、建物も年をとるという事実を娘が受け止めるには、いささか若すぎた。娘の思い出の中で、この家は美化されていたのだろう。それだけに、娘の現実を知ったショックはいかばかりか。そして、今さらながらに、妻の不在の大きさを感じた。男一人で暮らしていると、どうしても行き届かない部分がでる。もちろん、娘を迎えるにあたり、私なりの最善をつくした。でも、それは、一人の人間を二人にする程の効果はないし、急に私を熟達した主夫にする魔法ではない。結果、娘は、今回の問題に関して、思い詰めた顔で相談してきた。叫びから三日後だった。「私、早めに自分の家に帰ろうと思うの」その言葉を私は冷静に受けとめた。だって、娘はいつまでも私と一緒にいられない。外の世界で、恋をして、仕事して、幸せを見つけなければならないから。遅いか早いかの違いだ。いずれ、娘は私なしで生きなければならない。
「うん。そうか。わかったよ」私はそれだけ言った。そして気丈な顔を演じた。妻が去り、娘までが去る悲しみを誰にも悟られるはずがなかった。ただ一人、闇だけが気付いていたのは、後になってわかったことだ。人間が、一人になってまず考えるのは、まず自由だという。だが、私は自由には慣れていなかった。会社を定年後、趣味に走ることもなく、淡々と過ごしてきた。やることといえば、近所を散歩することくらい。これが、趣味といわれれば、そうかもしれないが、歩くというもっとも人間的な行為を趣味と分類することは、難しい。むしろ、歩くことは、「私」は歩けるんだという、一種の主張にさえなっている。このメッセージは、誰にも一顧だにされることなく、続いていたのだが、ある日、闇は現れた。娘が、去って一週間後だ。別れの悲しみは、すぐ来るものではない。少なくとも私の場合はそうだった。一週間後に、娘のために用意した布団を片づける時、その残り香で、私は娘が、ここにいないという事実を突きつけられる。それは、恐ろしく心を空洞にする。その空洞の冷たさに闇が目を付けたのは自然な流れ。私は、闇と出会ってしまった。闇はとても、愛らしい顔をしていた。私の心の中をすべて見透かすようなダークブラウンの瞳。見つめられると、私は、とても明るい気持ちになった。何故なのかはわからない。正直にいえば、誰かに声をかけられるだけで嬉しかったのかもしれない。闇はその時はまだ子どもだった。小さな体に警戒心など微塵も抱かなかった。私は闇をとても可愛がった。闇の頭を撫でると、闇は嬉しそうに声を出すのだ。今思い返すと、闇はずっとこう言っていた。「お前の光をもらいにきた」だが、鈍感な私は、自らの光に目を向けることもなく、闇を光と勘違いしていたのだ。だからこそ、闇は成長していったのだろう。愛情をかければかけるほど、闇は大きくなっていった。やがて、闇の重みに耐えかねてしまうまで、その遊戯は続いた。親子ゲームの結末は、悲惨なものだった。闇は娘と会ったと言った。そして、こう囁くのだ。「娘さんはあんたを憎んでいるよ」初め、その言葉は私には何の意味もなかった。そして、冗談めかして、闇が言ったので、私も一緒になって笑ったものだ。けれど、闇は、私の心の内に静かにそしてジワジワと忍びこんでいた。

 闇の心は、とても錯綜していた。つまり、彼は少年でありながら、千年生きた化石のような頑固さも持ち合わせていたのだ。ある時、私は、彼に言った。良く晴れた日の公園だった。「君は愛する人はいるのかい?」闇は、とても遠い眼をした。そして、悲しげに言った。その顔は、とても辛そうだった。まるで、千年前の恋人の先立たれた月の女王みたいに。「いないよ。もうずっと前からいない」闇は、一つのことをし出すと、熱中するタイプだ。彼は、そういう意味では、とても幸せな脳のつくりをしていた。彼は、よく笑う少年だった。でも、いつの日からか、その笑いは無邪気な物ではなくて、凄惨な魚の骨みたいにスッカスッカになってしまった。「娘さんは、元気かい?」何度も闇は、私の娘について聞いた。娘からは、最低限の連絡は来ていたから、私は、何の不満もなかった。はずだ。きっと。いや、できたら一緒に暮らしたかった。でも、それは、望みすぎなのだ。それを闇は独特の嗅覚で察知していた。ある時、私は、つい不満を漏らしてしまう。不満とは、欲望を叶えることができなくて駄々をこねることだ。わかっていても、つい愚痴のように、次から次へと娘を非難する言葉ができてた。でも、愛していた。今はいない娘にこれだけは言いたい。その時も、父さんは、お前を愛していたと。闇は、巧みに私のすべてを吐き出させようとした。彼は、とても無邪気そうに見えた。だけども、この時、私は、無邪気さ、無垢さが、これほどまでに恐ろしいなどと、露ほども想っていなかったのだ。ある日、娘から頼りが届いた。周辺で不吉なことが起こっているのだという。電話も盗聴されている恐れがあるため、手紙を書いてよこしたという。確かに、今は電子機器の全盛期だ。それでも、娘は、資産家でもなければ、人の恨みをかう人間でもない。何故?私は不思議に思った。そもそも、不吉なこととは、何だ?私への手紙には、いっさい書かれていない。ただ、何度も感情に訴えるように、娘は、書いている。この時も、一つの分岐点だったろう。だが、私は、娘の切迫感、緊迫感を感じ取れなかった。次の日、闇にこのことを話すと、闇は手紙を見たいと言った。私は、今は持っていないというと、「家まで見に行ってもいい?」と闇は、聞いた。娘を心配するそぶりをして、けれど、闇は、獲物を狙う狼のように、娘をその愛くるしい眼で見据えていたのだ。だが、その心は、どこまでも清潔だった。ただ、私のために闇はやったのだ。それが、何より恐ろしい。私のために、私の望みを叶えるために、闇は娘を奈落の底に落としたのだ。そして、一週間後、娘は川に飛び込み、遺体は惨たらしい姿で、見つかった。闇は、私にこう言った。「娘さんは、あなたのところに帰ってくるか、それとも、この運命しかなかったんだろうね」私は、闇が単純に慰めてくれているのだと信じて、ただ黙ってうなずいた。娘の葬式の後、私は、妻とともに、娘も”この世”から去ってしまった事実に、心が一層弱まるのがわかった。私にとって、闇と会うことだけが、生活の中心になり、世界の中心になった。そして、闇は、それを待ち望んでいたかのように、私の思いに応えた。彼は、「悲しむことなんてない。あなたには、僕がいる」と繰り返し言った。私は、やがて闇なしでは生きられない。人間中毒者となった。他の誰でもない闇に依存して生きる生活に、私は快感すら感じていたのだ。娘が死んだのは、なぜか?この時は、考えることもなかった。それほど、肉親の死は男寡にこたえるものだ。私と闇は、ある日、一緒に住むことに決めた。「ありがとう。嬉しいよ」孤児であった闇は、心底喜びを顔にだし、何度も私にお礼を言った。全ての手続きが終わり、正式に闇は、私の息子になった。そして、私は、巨大な塔の頂上から真っ逆さまに落ちていくように、全てを闇に明け渡し、やがて、一人で生きていく方法さえも忘れてしまった。闇が仮面をつけ始めたのは、この頃だった。

 闇の仮面は、どこか原始人の野蛮さを備えているように私には見えた。でも、それは、裏を返せば、私たちが失ったものを闇が持っているという証明なのだ。闇の仮面を見て、声だけを聞いて表情を見ない日が続いた。その内、闇は、仮面を日常に取りこみ、仮面をつけた人間としての地位を確立したのだ。その瞬間、世界は、仮面をつけた人間を是認して、私たちは、当たり前のこととして、仮面を受け入れる。闇に友達ができたのは、この頃だった。闇は、友達を、よくからかっていたのだが、私のことも、少しずつからかうようになってきた。その歴史は、一筋縄では語れないが、迫害と愛の子供のような複雑なものだった。「娘さんが泣いているよ。奥さんもね」このような、心ない言葉が闇から語られるたびに、私の心は痛んだ。同時に、私の中の恐ろしい部分が目覚めていくのが、はっきりとわかった。これは、憎しみという怪物だ。妬みという悪魔だ。それらは、闇と私の関係を一層強固なものにした。憎しみは、友愛より時に、お互いを結びつけるものだ。闇と友達は、よく夜遊びをしていた。そのお金は、私が主に出していた。でも、ある日、闇が、そのお金で一体何をしているのか?と疑問に思い聞いてみた。「そんなことどうだっていいじゃないか」闇の反抗的な言い様に、内部に溜まっていたヘドロのような感情が、表に噴出した。「それならばお金は、渡せないよ」私は、言ってしまって後悔したのだが、もう遅かった。闇は、友達から電話がかかってくると、示し合わせて、その夜も出かけていった。闇は、私たちにないものを持っている。そのことが、重々と心の負担になっていった。何故、このような人間がいるのか。私は、悪夢を見ているようだった。その頃には、私は娘の遺品を整理するうちに、闇が娘に言葉をかけたことを知った。その言葉を受け入れることができるほど人は、強くないようだ。いや、その強さがあるとしたならば、人ではないのかもしれない。
 闇の友達は、どんどん増えた。ある日、闇は、友達を家に連れてきた。表にも人があふれて、大変な騒ぎになった。友達は、闇と同じように仮面をつけていたが、その目は、どこか濁りきっていた。闇の目は、相変わらず人を信用させる輝きを放っていたのだが、友達は、どこか虚無を心に感じている人間のようだ。近所の人が警察を呼んだらしい。闇は、連れて行かれ、私は、引きとりに行った。「ありがとう。やっぱり、お前は、ありがたいよ」私は、この時、闇を心底恐ろしいと思った。というのも、闇は、もう仮面をつけていたからだ。それも、極めて人間の皮に似た仮面だ。それは、仮面とは、呼ばないのかもしれない。でも、私の目に、その恐ろしい皮質が、現前に見えたのだ。「お前は……」私は、何を言おうとしたのかわからない。ただ、闇が大きな存在になっているのが、わかった。「なんだい?」闇は、もう私たちの家には、帰らない。闇は、自分の城を持ったのだ。それは、霧の摩周湖の夜に似た奇怪さを備えている。そして、私は、彼と関わらないことに決めた。
 それから、一ヶ月間、闇は不在だった。噂で、闇がとんでもない事件を起こしたというが、何の事件なのかは、わからない。ただ、闇の仮面が、社会のいたるところに出没し始めた。新聞、広告、テレビ、ネット。ある日、闇からの留守電が入っていた。「あなたには、僕がいるよ」私は、その言葉を聞いて、闇が仮面を自由自在に操っていることを知る。もう、闇という人間は、どこにもいない。仮面が、ただ世界を覆っているだけだ。

 二人目の仮面は、遠方からやって来た。小さな唇と短い頭を持った生き物。だいぶ疲れているようだった。それが、唯一電話で聴いた奴の声だ。私は、この生き物を”光”と名づけた。低い声の主は、激烈な感情を爆発させて、笑った。その時、やはり私は知ってしまったのだ。あの仮面が闇と同じ血をひいていることを。生物学的な意味ではない。およそ、血をひくとは、神の血のことだ。2千年前のあの日、羊小屋に誕生した男の後継者である。光は怒りをともなった闇をひきとった唯一の仲間だった。光がどこから来たのかは誰も知らない。およそ、人間の顔とは異質な仮面を、つけていた。仮面の主として、二人は、一種のライバルだったのだろう。闇と光。どちらが、世界を統べる者かの疑問は、私には、存在しなかったが、一方で二人のうち、どちらかが死なねばならないことに、早くから気づいていた。二人は水と油だった。そして、現代風に言うならば、アップルとマイクロソフトなのだ。この二つが交わることはない。同様に、闇と光は、同時に存在できないのだ。そこまで、厳しい人生を宿命づけられた二人に私の心に同情心が湧き出てきた。
 光は、ある日言った。「あなたは闇が好きだね?でもね、闇を恨んでもいる。そう。娘さんのことだよ」私は、その時になって、再び闇への憎悪を感じてしまう。それから、私は光に協力して、闇を陥れることに子供のように夢中になる。私の心にあるのは、復讐心。それだけだった。ある日、闇が自分の家に帰ってきたときには、全て準備ができていた。闇の家から火が噴き出して、全てが終わった―――――――――――
 かに光も私も思った。けれども、闇はやはり闇だった。光が歓喜の涙を流している間に、闇はすでに自分の分身をつくることに、成功していたのだ。
 翌朝、二十人の闇の仮面をつけた人間が、光を殺した。リンチだった。そして、私にこう言った。『闇は永遠に不滅です』
 私は、その時、恐怖とともに、闇を崇める決意をする。それが、私の生き残る唯一の道だったのだ。闇の仮面をつけた一人が、こう言った。「久しぶりだね」その声は、まぎれもなく闇だった。
「今回お前からは、いろんなことを学ばせてもらったよ。お前は、全部僕のせいにしたね?隠しても無駄だよ。お前は、弱い人間だ。自分が娘さんを死に追いやったなんて、まったく忘れている。そうだろ?思い出してみるんだよ。お前が、娘にしたことを!さあ、思いだせ!!そして、生きながら罪悪感に苦しんで生きるがいい」
 『泣き叫ぶ娘、それを私は……。妻は黙って見ている。私を見る目が、異様に興奮している』
 「思い出したかい?お笑い草だね。お前は、自分がやったことを、ずっと忘れていたんだよ。そして、僕に全ての責任を追わせて、殺そうとした。でもね、因果応報って言葉知ってるかい?お前は、簡単には、殺さない。生きて生を味わい尽くすがいいさ。僕のことを闇って呼んでいたそうだね?さて、闇が巣食っているのは、どちらの心かな?」
 私はしばらく立ち上がれなかった。そして、私自身が闇なのだと知ってしまった。

闇の仮面

闇の仮面

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-29

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