由枝さんの奇跡

８７歳の由枝さんが密かに起こした奇跡とは？

８７歳の由枝さん、今日も日々を生きている。

由枝さんは、若い頃からもてなかった。
決してえらが張っていたわけでも、不細工だったわけでもない。ただ、男っぽかった。

何が何でも男っぽい。
冠婚葬祭必ずパンツを履き、スカートには終ぞ足を通さなかった。
中学の頃、学生服でズボンをはくことが許されると、一人女子の中でその高い背に似合うチェックの新しい制服を着て、家庭科で縫うナプキンも一人だけブルー色。

２０代、飲み屋で再開した男友達が語るには、由枝さんはまるで男装しているかのように、髪が短かったという。
しかし品があり、たばこもビールもしない。飲まない。

由枝さんは、熱帯魚を長生きさせるのが趣味で、死んだら苗の寝床に飢え、自然と弱肉強食な世界を作り上げ、一人格安の一戸建てに住んでいた。

趣味は資格取得の勉強。
何もやることがないから、と若い頃に取っていた資格がここで生きてきて、最近知人の事務方の仕事を任され、手伝っている。
あなたこれじゃ遠回りよ、とパワーポイントで作られた粗末な資料を自分なりにちゃちゃっと直して、あなたがやったことにしときなさい、と事務の子に渡しておく。
そうすることで、その子が苛められないように、由枝さんは気を付けていた。

ある日、目の前で、由枝さんより小さなお婆さんから鞄を引っ手繰って、バイクが逃げようとした。
とっさに由枝さん、持っていたトイレットペーパーを体を一回転させてアタックし、バイクを転ばせた。

「お婆ちゃん、大丈夫？」
そう言った由枝さんの方が年上だったと知れたのは後になってからだ。

由枝さんの６０代になってからの日課は、体を鍛えることで、日々手羽先を食べてはスクワットに腕立て伏せと励んでいた。そして毎日、自転車に乗らず片腕で荷物を持つのがここに来て響いた。

バイクを倒してぶーたれている若者に、「あんた、無罪放免にしてやるから、ちょっと着いてきな」と由枝さんは襟首をつかんで立たせ、その小さな小男を連れ帰ると、まず手作りのカレーを食べさせた。
怪我の有無を確認してから、「あんた、ここに住んでみる気はないかい？管理人として、月々の金も出すよ」と言って、都心から離れた田舎の一軒家をパソコンで見せた。

それから一か月後、僕は由枝さんに連れられて、その田舎の一軒家に引っ越し、他にも同居人がいたのにびっくりした。
子連れの一家が一組と、犬が三匹。僕と似たようなのが二人と、女の子が一人、ソーシャルワーキングと言うのを展開しているらしい。
なんでも、由枝さんの起こした税理士事務所として運営しているらしく、ぼろ屋だが掃除は行き届き、全員が資格取得のため勉強中で、一人本物の税理士さんが社長として名義を貸している。
自給自足を目指して畑をして、鶏を放し飼い。NPOとして軽くペットの預かりもしているらしい。

「まだまだこんなもんじゃ終われないよ。あんたも力になっとくれ」
そう言って、まずは体力作りから、と由枝さんは僕に鍬を渡した。

朝はゴロー、秋、小春という犬の散歩をして、余った時間に畑仕事と掃除。昼は仮眠してから、夜にかけて勉強と徹底した事務仕事。
なんだかなよなよした一家も、不良少年達も千鶴ちゃんも、皆が皆後がないから、必死で働き、村人とも交流して、僕も少ない社会経験を通してなんとか皆に着いていき、それなりに形になる仕事ができるようになっていった。

それから僕は、MOSの資格と簿記二級を取得し、それなりに働けるようになったころ、由枝さんにこう言った。

「由枝さん、僕は、そろそろここを卒業しようと思います」

そして、仲間を大勢連れて、必ずあなたのもとに戻ってきます、そう言った。

由枝さんは笑って、「私がそれまで生きてると思うかね」と言った。「大きくなった」と背中を叩いて、「いつでも、戻っておいで」と言ってくれた。
千鶴ちゃんと僕は結婚して、今は東京で税理士事務所で働いている。千鶴ちゃんの方が敏腕で、やはり金融関係は女性の方が強いな、と舌を巻く毎日だ。

ときどき由枝さんの噂を聞く。なんでも魔法使いみたいな婆さんが、若者の更生に乗り出しているのだとか。でも、本人の写真は誰一人見たことがない。
あの人は人に尽くす一生なんだな、と僕は感慨深く、これまでの日々を振り返っては、由枝さんの次を行こうと、そう思う。

駅前で、路地裏で、迷ったようになっている若者に声をかける。コーヒーとパンを驕り、ある一軒の田舎の家を紹介する。悪徳業者と間違えられながらも、僕らは肥大していく。
人と繋がるとはこういうことなのだと、由枝さんに教わった通りに、僕は行きたいと思う。

ソーシャルワーキング。それは人と人が織りなす奇跡だ。
僕は由枝さんの起こした奇跡を、後世まで消したくないと、そう思う。

ソーシャルワーキングについて。