聯繁
君ならで誰にか見せむ 梅の花 色をも香をも知る人ぞ知る
(他サイトにも投稿)
「昏能」―壱
朝、うるさいと家族に評判の起床アラームを無意識に消すと、光と音が頭に飛び込んできた。
光は太陽から。音は鳥の声だろうか。まあ、実に健全で、健康な朝だと思う。
僕はう~んと体を伸ばすと、気だるい気持ちに“さよなら”してベットからゆっくり起きた。
背伸びしてもまだ天井の高さには全然届かない。
「朝は伸びるって聞いたんだけどなあ。」
毎朝味わう小さな失意に対して、くだらないつぶやきをしつつ、自分の部屋を出て、光の差す階段を下りていく。
リビングの扉を開けると母さんに声をかけられた。
「祐樹、時間は大丈夫なの?」
やめてくれよ母さん。もうこう見えても高2なんだから。
「大丈夫だよ。」
と、寝起きの小さな声で返事をして、テーブルに向かう。
今日の朝食はハンバーグだった。なかなか母さんも気が利くじゃないか。
食卓につくと、隣に座ってる弟が、ご飯を口にかきこんでいる。
部活疲れの高校生おじいちゃんな俺に比べれば、弟はまだ小学生で、元気そうに見えた。
食事を済ませ、食器を片づけたら、あとは支度を済ませば体が登校への軌道に乗ってくれる。
制服に着替えたのち、形だけになった、
「いってきま~す」
で今日も家を出た。
家から最寄の駅までは、ほぼ一直線で、徒歩15分で駅に着く。
バックを背負って、駅に着くところまで毎日変化しない景色を見て歩く。まさに日常だと思う。
市民のために作られた、いかにも人工的な緑が目に痛い。
周囲の景色から意識をそらして、歩きながら考える。
学校についてしまえば、退屈な日常が始まってしまうと。
でも、そんな退屈な日常の中でも最近気になることがひとつある。
駅に着き、ホームで電車を待つ。
駅において、僕の視線は毎日ある空間に捕らえられてしまうのだった。
それは駅のホームと電車の間。あの隙間だった。
子供のころ、まあ今もまだ子供だけど、小さいころの僕は、あの空間に魅かれてた。
当時はまだひとりじゃ電車に乗れず、乗車するときは親と手をつないでた。
電車に乗り込むとき、ホームから足が離れ、その瞬間、僕はどこにも立っていない。
親の手を放してしまえば、眼下に映る小さく深い隙間にのまれてしまいそうな。
僕にとっては身近に味わえる深淵だった。
今ではそこまでの感動はないけど、当時の僕にとってはただ一つの神秘だった。
そんなことを考えていたら、気が付いたときにはもう電車が来ていた。
寂しいけど、ここからは日常がお出迎えだ。
バックを背負いなおして、電車から降りる人の列を見届けながら乗車のタイミングを待つ。
続々と降りる人の列が途切れ、僕は前にいるスーツケースの背広姿を追って乗車する。
乗車する瞬間、脳裏に小さい時の映像がよぎった。
一瞬だけ見える、僕だけの小さな深淵。
電車とホームの隙間を、頭にながれる映像をなぞるように覗き込む。
残念ながら、大人になった頭で見たそれは、もう深淵なんてものじゃなかった。
最後の一瞬目に映る、線路と敷石。
でも、その光景を見たとき、僕は違和感を感じた。
瞬間、脳裏によぎる映像がブラックアウトした。
あれ、何か忘れてる?
そう思って前を向きなおした。
僕を懐かしい寒気が襲う。
理由はすぐわかった。
―前にいたはずの、背広姿がいなかった。
残っていたのは放り出されたスーツケースだけだった。
日常は、もういない。
「昏能」―弐
―放り出されたスーツケース。
存在しない背広姿。
日常は、もういなかった。
唖然として、突っ立っている僕は、なかなか現実に戻してもらえなかった。
なぜなら、電車は発車しなかったし、この空間には僕以外に誰もいなかったから。
ありえないはずの空間が僕をとらえて離さない。
頭はフリーズしたままだった。
無駄なことを考えて、気を紛らわしたくても、この空間が許してくれなかった。
「あ・・・あ・・・・あ・・・・」
口から作れなかった言葉の残骸があふれる。
人間が普段忘れている感情を感じた気がした。
まだ野を駆けていたころの、原始的な感情。
未知の天敵に遭遇した時のような。
それを感じさせてくれるほどに、僕の前にあるのは、それほどに奇妙な、非日常な光景だった。
はっとして、僕の心臓は電撃を受けたように跳ね上がった。
体中の毛の逆立つ勢いの凄さを感じた。
意識と体が繋がった。
やっと動けるようになった僕は、ゆっくりと後ろを振り向く。
ドアは開いたままだった。
でもこの空間の呪縛はまだ続いているようだった。
ドアの向こうには何もなかった。
急いでまた前を向く。
鼓動が早くなる。
ドアの向こうには、たぶん、何もなかったんじゃない。
うまく表現できないけど、この世、空間自体の「影」がそこにあった。
そんな気がした。
確かにそこにある、「虚」の世界。
本能レベルで感じる恐怖が、僕の寿命を容赦なく削った。
もう二度と後ろなんか向かない。
そう、強く心に決めて歩き出した。
朝の藍色の空模様が映り込む車内。
ドアが開きっぱなしで、その先に何もなく、僕以外誰もいないことを除けば、いつもの光景だった。
足元のスーツケースにはわざと触れずに、普段は席をとるためにしかしない探索を始める。
今は、この空間から逃げ出すための探索だ。
自分のいる4号車を見渡す。
もちろん誰もいない。
車内は静寂そのものだ。
前後の車両も確認したが、だれも乗っていない。
思い切ってほかの車両も確認することにした。
バックをしっかり背負いなおして、後ろの車両に向かう。
この電車は6車両だけだから、確認にあまり時間はかからないはずだ。
でも、そんな僕の考えは、あざ笑うかのように壊された。
後ろの車両に行っても誰もいないことに変わりはなかったけれど、先に車両が続いているのが見えたのだ。
歩いても、歩いても、6号車にはたどり着かなかった。
それどころか、後ろに行くにつれて、窓の外が不穏に暗くなっていった。
見間違いではない。
ついに走り出したころには、窓の外の暗さは、深夜のそれになっていた。
泣きそうに熱くなる目頭から意識を逸らして走った。
慣性が働いていないから、まだ車両が動いていないと判断できた。
まだそれだけの判断ができる意識は残っていた。
やはりこの空間に常識を求めてはいけないのか。
そう後悔したときにはすでにかなり進んでいた。
そう思う。
いや、そのはずだ。
周りは、地球の景色が見せる暗さの限界を、すでに超えていた。
ここまで来たら、もう戻るわけにはいかない。
前を直視し、
「よし・・・!」
と、自分を気合いづけて走り出そう。
そう思った時だった。
僕の眼前に、
走るほどでもない距離に、
「それ」がいた。
もうすでに、僕は泣いていた。
こんな神秘を、
こんな深淵を、
見たいわけではなかったのに。
鼓動が、自壊する音が、聴こえた。
聯繁