ジローの伝言(1)
一
子供の頃から無鉄砲で、いい歳をした大人になっても損ばかりしている。
前の稼業を辞めたのも、そのせいだった。
十年ほど前、ある事件がきっかけで、ひと悶着を起こした。元から気に入らない相手だったことに加えて、騒ぎ出した天邪鬼な血を、抑えることができなかった。そこにきて生来の口の悪さも祟って、ついには辞表を書かざるを得なくなってしまったのだ。それ以来、その日暮らしが続いている――
職場を去ることになった日のことは、今でも覚えている。
その日――誰もが私を遠巻きに見つめるだけで、声をかけてこようとはしなかった。退職の事務手続きをする総務の担当者ですら、腫れ物にでも触るような顔をして、必要なこと以外は口にしなかった。そんな中、私に声をかけてきた〝勇気ある〟男がいた。声をかけてきたのは、荒川という名の上司だった。私に〝仕事のイロハ〟を叩き込んでくれた彼には、怒鳴りつけられることを覚悟していた。しかし、彼は廊下で私の姿を見つけるなり「なにもしてやれず、スマン」と深々と頭を下げてきた。廊下の片隅で、大きな身体を小さくした――身長は一八〇センチを超え、体重は百キロに近い――〝鬼軍曹〟の姿は、記憶に焼きついている。
その荒川も、先年亡くなってしまった。葬儀には事情があって出向けなかったのだが、小日向の養源寺で静かに眠っているそうだ。他人伝てにそう聞いている――
「――それで、電話がかかってきたのは、何時頃なのかしら?」
女の問いかけに、過ぎ去りし日々の思い出から、私は現実へと引き戻された。心を落ち着ける効果があるという淡いベージュ色の壁から目を離した。視線を移せば、化粧品のセールスレディと見まごうような若い女が正面に座っていた。
私は彼女に答えた。「ちょうど、日付が変わる頃だ」
「そうね。わたしたちが踏み込んだのが、〇時ちょうどだったから」女が私を正面から覗き込んできた。
若い女性と一時間近く密室で顔を合わせている。しかもふたりきり――他人がうらやむようなこの状況も、ここが渋谷署の取調室でなければの話だ。ましてや、彼女の職業が刑事ということであれば、誰もうらやむまい。
女刑事が尋問を続けた。「その電話は、どこからかかってきたのかしら?」
「確か……〈ドゥーシュバッグ〉という店だった」
「かけてきたのは、誰?」
「エミリとか言ったな。若い女だ」
「そのエミリ……という女だけど、彼女、どんな様子だったのかしら?」
「やけに、はしゃいでいた」
「それは、お酒? それとも〝別のなに〟か?」
「そんなことは、わからんさ。受話器から酒の匂いがしたわけじゃない」
「そう……それで、どんな話をしたのかしら?」
「話もなにも、俺は〝間違い電話だ〟と言っただけだ。俺はエミリという女を知らなければ、その……〈ドゥーシュバッグ〉とかいう店に、行ったこともない」
「話は、それだけ?」
「ああ。話の最中に、電話の向こう側が騒がしくなって、突然切れたんだ。騒がしくなったのは、あんたたちが踏み込んだからで……なんでも、ドラッグパーティーを開いてたそうじゃないか」
「あら、あなたは〈ドゥーシュバッグ〉に、わたしたちが踏み込んだ理由を知っていたのね?」
「今日の朝刊に書いてあったよ」
私が答えると、正面に座った女刑事――川田は左の親指と人差し指で、眉間の辺りを強く揉みほぐした。そこに溜まっていたなにかを、大きなため息にして吐き出す。かなり、お疲れのようだ。
くたびれているのは、こちらも同じだった。なにしろ、このやり取りがこの一時間ずっと続いているのだ。
――嘘を百回もつけば真実となる
かつてのドイツの宣伝大臣であれば、国家予算を湯水のように使って、嘘をつき続けることもできるだろうが、実際のところは、なかなかに難しい。偽りの回答を続けていても、答えている内容にわずかな〝ほころび〟が、どうしても生じてしまうのだ。だから、取り調べの席では、同じ質問を繰り返し、答えに〝ほころび〟を生じさせようとする。彼女の稼業では、定石のようなものだ。もっとも、質問の順番を変えたり、世間話を挟んだりして、相手の油断を誘うのも定石なのだが――残念なことに、川田の質問は、通り一遍なものだった。やはり、彼女は化粧品のセールスレディから転職したばかりなのかもしれない。とにかく、こちらにはわざわざ嘘をつく必要がないとはいえ、一時間もつき合わされているとなれば、さすがに骨が折れる。
ひとしきり眉間を揉んだ後、川田は首を捻った。一時間ほど前、彼女の相棒が出ていった取調室の扉に目をやる。彼女の相棒が姿を消してしまったことが、この不毛な尋問のきっかけだった。あの廃業したての相撲取りのような太鼓腹をした中年男――確か、冬木といったはずだ――が、戻ってくる気配は見受けられなかった。彼女は正面を向いて、そこにいるのが私だと認めるや、再び深い息をついた。
思い起こせば、この取調室で不当に〝監禁〟される羽目になったのも、今朝方に事務所を訪れた刑事たちが、そろって不遜な態度を見せたからだった。机を挟んで座る川田と、つい先刻までこの部屋にいた冬木が、昨晩の〝間違い電話〟について、事を荒立てることなく訊いていれば、私とてしおらしく回答していたものを。まあ、口の悪い天邪鬼を寝かしつけておけなかった私も、大人げないと言われれば、それまでなのだが。
そんな反省をする私を余所に、川田は机の上に置かれた調書に目を落としていた。やがて、手にしたボールペンの尻で机を叩き始める。
乾いた音が、取調室に響き渡った。さなががらスネアドラムだ。そして、耳を澄ましてみれば、刻まれているのは『ボレロ』のリズムだった。さて、これでフルートの音色が聞こえてくるようなことがあれば、たいそうなおもてなしになるのだろう。しかし、二十世紀初頭に作曲されたバレエの名曲も、この状況ではただの騒音に過ぎなかった。
軽く咳払いをしてみてたが、川田が気づく様子はなく、彼女の『ボレロ』はさらに四小節ほど続けられた。この曲はおよそ十五分の長さがある。最後まで鑑賞する気はさらさらない。
「――ひとついいか?」と、私は訊いた。
川田は答えなかった。
「あんたの相棒は、どこへいったんだ?」
無視を決め込んだのか、川田は顔すら上げずに、単調なリズムを刻み続けている。それならば、私にも考えがある――
私は右の掌で、机を細かく叩いた。リズムは彼女が奏でる『ボレロ』に合わせる。向こうがスネアドラムなら、こちらはさしずめティンパニといったところだ。
これには、さすがに彼女も気づき、机を叩く手を止めた。一小節だけ遅れて、〝ティンパニ〟の演奏をやめると、川田はようやく顔を上げて、私の方を見た。いらだちを隠そうともせずに、鋭い視線をぶつけてくる。
私は言った。「あんたの相棒は、どこへ行ったんだ? まさか、俺の事務所じゃないだろうな?」
「まず、ひとつだけ言わせてもらうわ。ここでは、質問をするのはわたしで、あなたはわたしの訊くことに、素直に答えるだけでいいの」川田は、リズムを刻んでいたボールペンから手を離した。
――憎まれ口を聞かされる羽目になったとはいえ、まずは作戦成功
川田が言った。「それとも、あなたの事務所に行かれては、困ることでもあるのかしら?」
「そうじゃない。都民の払ったなけなしの税金を、無駄にすることはないってことだ」
「あら……それは、ちゃんとした納税者が言う科白よ。あなたのような職業は、いろいろと税金をごまかせるんじゃなくて?」
「馬鹿言え。節税対策をきっちりとやってるんだ、俺は」この部屋に連れられてきて、初めて嘘をついた。いや、これは嘘ではない。単なる見栄だ。「それに、消費税ぐらいはちゃんと払ってるさ。その辺は、あんたらと同じだ」
川田の眉根の辺りが、グッと強張っている。どうも私は口が悪い。
構わず続けた。「……それとも、なにか? あんたの相棒は、別室で容疑者と一緒に、俺の顔でも拝んでいるのか? ひと昔前なら、壁のマジックミラー越しだったんだろうが……今は監視カメラか、なんかなんだろ?」
「あなたに答える義務はないわ」顔に似合わない低い声で、川田が言った。どうやら、私の〝当てずっぽう〟は的中したらしい。
「容疑者の名前は……嶋田と、原だったか?」私は言った。
彼女の表情は、化粧品のセールスレディが接客相手に見せるようなものではなかった。そう、彼女は警察官なのだ。
「今日の朝刊に、書いてあったことだ」眉間に深い立てじわを浮かべる女刑事に言った。「まァ……あんたらの上司か誰かが、記者連中に発表したんだろう。あんたが気にするようなことじゃない」
「あなたねェ――」川田は唇をきつく結ぶと、先刻のように眉間の辺りを指先で揉みほぐした。「質問を続けます」
私は「どうぞ」と答えた。
「鶴田エミリと口裏を合わせても、無駄よ」と前置きがあって、何度目かの尋問が始まった。「あなたの事務所に、電話がかかってきたのは、何時頃のことなのかしら?」
「ちょうど、日付が変わる頃……午前〇時十分前ってところで、〈ドゥーシュバッグ〉とかいう店からの〝間違い電話〟だった。電話をしてきたのは、やけにはしゃいだエミリという若い女で――」
「ふざけないで!」声を上げて、川田が私の発言を遮った。「さっきも、言ったでしょう? あなたは、わたしの訊くことだけに、答えていればいいの」
「どうせ、同じことを訊かれるのなら、一度に答えた方が、俺もあんたも、楽だと思ってね」
「あなた、わたしを馬鹿にしてるの? いい加減にしないと、こちらも考えさせてもらうわよ」
「法廷侮辱罪ってのは、聞いたことはあるが、〝取調室侮辱罪〟ってのは、聞いたことがないな」
どうも、私は口だけでなく、意地まで悪くなってしまったようだ。川田は顔を紅潮させて、こちらを怖い目で睨みつけている。唇を強く引き結んでいるのは、彼女が感情に任せて罵詈雑言を並べ立てるような真似をしないお行儀だけは、身につけているということだった。
先に目を逸らしたのは、女刑事の方だった。ゆっくりと立ち上がり、淡いベージュ色の壁に目をやった。やはり、この壁色には高ぶってしまった感情を抑えつける効果があるらしい。彼女の顔からは赤みが薄れ、目の色は輝きを増していった。つけ睫毛で飾られた刑事らしくない瞳が、私を見下ろしている。どうやら、私に浴びせる悪態を思いついたようだ。
ただ、川田にとって乾坤一擲の悪態を、私は耳にすることができなかった。彼女が口を開こうとした矢先に、ノックとともにドアが開けられ、長めの髪をオールバックにまとめた巨漢が取調室に入ってきたのだ。廃業したての相撲取りのような男――川田の相棒、冬木だった。
取調室に漂う不穏な空気を察したのだろう、冬木は細長い目を取調室に行き渡らせた。「なにか……あったのか?」
川田は怖い目で私を見下ろすことをやめて、顎を上げた。川田の頭は、ようやく冬木の胸の高さ届くところにある。
「なにも、ないわ」川田は、絞り出すように答えた。
「そう……それなら、よかった」どこか間の抜けた感のある口調で、冬木が言った。
「あなたこそ、なにかあったの?」川田の口調は、冬木に答えを急かすように鋭かった。
「いやァ、私には、なにもないんだけど……」
「だったら、なにをしに来たの?」
「あの、それが……」冬木は、でかい図体に似合わない小さな声で答えた。
「はっきり言いなさいよ」はっきりとしたもの言いをしない冬木に、川田はいらだちを隠さなかった。
この点は、私も川田と同じことを感じていた。冬木がこんな調子では、不当な監禁時間が長くなるだけなのだから。
冬木は開けていた上着のボタンを閉じて、居住まいを正した。細い目を私に向けて言った。「今日のところは、帰っていただいて構いません」
「どういうこと?」突然の〝解放宣言〟に噛みついたのは、川田だった。「まだ、取り調べの最中なのよ? おかしいじゃない!」
「おかしくは、ないだろう? 俺はなにもしてないんだ」
「あなたは、黙ってて」当然のことを口にした私を怖い目でひと睨みして、川田は冬木に訊いた。「どういうこと? きちんんと、説明して」
「実は、弁護士が来てるんだ」
「弁護士?」川田が首を傾げた。
首を傾げたいのは、こちらの方だった。それを我慢して、彼らの次の言葉を待つ。
川田がまくし立てた。「こんな商売してる男に、弁護士が就くなんてことがあるの?」
――やれやれ、ひどい言われようだ
冬木が答えた。「彼の弁護士じゃない」
「じゃァ、誰の弁護士なの?」
「それが……」冬木が私を見て、言葉を濁した。
「……彼が言うように、俺は弁護士を呼んだ覚えはない」冬木に援護射撃をするわけではないが、私は正直に告白した。
「じゃァ、どうしてあなたのことに、弁護士がしゃしゃり出てくるわけ?」川田が訊いてきた。
――知るか。それを訊きたいのは俺の方だ
悪態は胸の裡だけにして、私は考えられるもうひとつの可能性について話し始めた。「私の事務所に〝間違い電話〟をしてきた……そのエミリとかいう女も、ここに参考人として連れてこられてるんだろう? ならば、彼女の弁護士だ」
川田は口を挟もうとはせずに、私の話を聞いていた。回答を知っているはずの冬木までもが、一言も発しなかった。結局、冬木が否定も肯定もしないので、話を続けるのは私の役目になった。
大きくため息をついてみせてから、私は言った。「エミリは今回の薬物事件とは、無関係だと主張しているんだろう。そして、駆けつけた弁護士は、不当逮捕だとかなんとか、騒いでるんじゃないのか? そして、彼女が電話をしていたのは、薬の取引相手ではなんかではなく、酔った勢いでしてしまった〝間違い電話〟だ……ともね。まァ、本当に〝間違い電話〟だったんだが」
「それは、おかしいわね」川田が言った。「鶴田エミリの弁護士は、どうして〝間違い電話〟だと主張できるの? 彼女の弁護士は、あなたのことは知らないはずよ」
「あんたの言うとおりだ。俺はエミリの弁護士を知らないし、弁護士も俺を知らないはずだ。それに、昨日の夜に連行されてから、今日のこの時間までに、通話記録を入手するのも難しいだろう。だとすれば、考えられることは、ひとつだけだ。あんたらの誰かが、俺がここに連行されてることを、エミリか、もしくは彼女の弁護士にしゃべっちまったんだ」
「馬鹿馬鹿しい」川田が鼻で笑った。「捜査情報を、ベラベラとしゃべる刑事なんかいないわ。そんなね、あなたに都合のいいことばかりじゃないのよ。馬鹿げた推理を聞かされるなんて、時間の無駄ね」
「時間の無駄は、こっちの科白だ」私は、冬木に目をやった。「俺の推理が当たっているかどうかは、彼に訊いてみるがいい」
先ほどから黙って私たちの会話を聞いていた冬木の目が、一層細くなっていた。〝当てずっぽう〟が、またしても的中したようだ。我ながら、今日は勘が冴えている。
「まさか……彼の言っていることは、正解なの?」と川田。
「残念だけど……正解だ」
せっかくの名推理を〝残念〟と評価されるのは、いささか心外だが、この場では不問にしておく。
冬木が言った。「彼が言ったとおり、鶴田エミリの弁護士が、彼女の勾留は不当だと主張している。それに……彼女がしたのは〝間違い電話〟で、その相手まで勾留しているのは、重大な人権侵害だって、課長を相手に騒ぎ立ててるんだよ」
冬木の話を聞き終えた川田が、顔をこちらに向けた。
――お前の稼業は、人権侵害で成り立ってるんだろう?
口にこそ出さないものの、私を見下ろす川田の表情が雄弁に語っていた。
――あんたらと、そう変わらんよ
反論のひとつでもしてやりたいところなのだが、これも今は不問にしておくことにする。
「……まったく、誰なの? 捜査情報を漏らした刑事っていうのは」川田が腕を組んだ。そうでもしなければ、怒りにまかせて、冬木か、私に手を挙げそうな剣幕だった。
冬木が口を〝への字〟にして、押し黙った。
「ねェ……もうわかってるんでしょ?」腕を組んだまま、川田が回答を迫った。「はっきり、言いなさいよ」
それでも、冬木は答えなかった。〝への字〟に口を閉じたまま、鼻息だけを荒くする。
「ああ、ごめんなさい。彼がいるこの場では、言えないわね。後で聞くわ」
川田から目を逸らした冬木が顔をこちらに向けたので、私は事実を突きつけるよう目顔で促した。彼も川田の勘の鈍さには、腹を立てているに違いない。
冬木が〝への字〟にした口を開いた。「捜査情報を漏らしたのは……きみだ」
「わたし?」川田が目を丸くした。
「ああ。鶴田エミリが用を足しに行ったとき、トイレまで立ち会ったきみが、彼女に言ったそうじゃないか。〝間違い電話〟なんて嘘を言っても無駄だ。電話の相手も、取り調べを受けている最中だから……とね」
冬木が話を終えると、先刻とは違う理由で、川田は顔を紅潮させた。力なく椅子に腰を降ろすと、組んでいた腕をほどいた。両手を顔に当てて、うつむく。不遜な女刑事にも、プライドだとか恥だとかいうものはあるらしい。
腹に溜めていたものを吐き出した冬木は、顔を伏せた川田の肩に、分厚い手をそっと置いた。
私は椅子から立ち上がり、ふたりの刑事に別れを告げた。
「これから反省会をやるのなら、俺は帰らせてもらうよ」
二
取調室を出ると、制服姿の若い警官が立っていた。額には、いくつかのニキビが浮かんでいる。
「俺は帰っていいんだろう?」
私が確認をすると、若い警官は上目遣いで訊いてきた。「はい。でも……冬木刑事は?」
「なんでも、これから打ち合わせを始めるそうだ」
「そうですか……」若い警官は背伸びをして、私の肩越しに取調室のドアを見つめた。内側からドアが開けられる気配がないことを認めると、「こちらへどうぞ」と言って、歩き出した。
廊下を歩きながら、若い警官は二度ほど、私が出てきた取調室を振り返った。不安げな視線を投げかける彼に、今さら〝彼らは、反省会の最中だ〟とも言えず、黙ったまま後に続いた。
階段を一階分降りてからは、若い警官は振り返ることはなく私の先を歩いた。彼の成長、自立に少しは役立てたのだと思うことにする。
若い警官の案内で連れていかれた一階のカウンターで、書類に必要事項を記入した。その後で、取り上げられていた携帯電話と煙草――ニコチンは、禁止薬物ではないはずだ――を返却してもらう。この組織は、〝不当な監禁〟から解放されるだけでなく、私物を返してもらうだけでも、なにかと手間がかかるのだ。
私の解放に尽力をしたという奇特な弁護士に、お礼のひとつでも言っておきたかったのだが、ロビーを見渡してみても、それらしき姿は見えなかった。そういえば、冬木は先刻、〝弁護士は課長に抗議をしている〟と、話していた。その〝抗議〟とやらは、別室で続けられているのだろうか。それを隣に立つ若い警官に訊ねてみたところで、要領を得ないに違いない。なにより、今日のところは厄介事に関わるのは、もうごめんだ。
手続きを終えた目の前の男を、このまま帰してしまっていいものか、再び不安を顔に浮かべ始めた若い警官に、一方的に別れを告げて、私は渋谷署を後にした。
我が国有数の繁華街、その玄関口にある渋谷署の前は、報道陣と野次馬で賑わっていた。彼らが構えるカメラや掲げられた携帯電話、スマートホンが一様にこちらを向いている。未だ渋谷署で〝監禁〟されているる鶴田エミリという女と、ゴンザレスだとかいったアートディレクターは、かなりの人気者らしい。
彼らのお目当てではない私は、フラッシュの光を浴びることなく渋谷署の階段を降りた。報道陣と野次馬をかき分けて、六本木通りを渡る歩道橋へと急ぐ。早々に事務所へ戻り、積み残された仕事を終えてしまわねばならない。
甲高い声に呼び止められたのは、歩道橋の階段を登り切ったときだった。振り返れば、薄紫のポロシャツを着て、カーキ色のカバンを襷がけにした小太りの男が立っていた。私の知っている男だった。武中という。
武中は立ち止まった私を見て、笑顔をたたえながら駆け寄ってきた。
「今、渋谷署から出てきましたよね?」挨拶を抜きにして、いきなり武中が訊いてきた。
「お前、あの中にいたのか?」武中の問いかけには答えずに、私は渋谷署の方に視線をやった。
「いましたよ。だから、訊いてるんです」
「だったら、どうだというんだ」
「ちょっと、訊きたいことがあるんです。時間、あります?」
「ない、と言ったら?」
「作ってもらうだけです」色白の童顔に、笑みを貼りつけたまま武中が言った。
外回りのサラリーマンやら、女子大生とおぼしき若い女たちが通り過ぎていく。キャッチセールに引っかかった哀れな中年男とでも映っているのだろうか、彼らの目には私に対する憐れみの色があった。もっとも、この武中は、繁華街に姿を見せる怪しげなセールスマン以上に厄介な男だった。武中は、竹橋に本社を置く新聞社の記者で、私が前の稼業に就いていた頃からのつき合いになる。この男に見つかってしまうとは、私は渋谷署の取調室で、今日の運を使い切ってしまったらしい。
武中に聞こえるように舌打ちをして、答えた。「少しだけならな、話を聞いてやる」
「じゃァ、行きましょう」グスっと鼻を鳴らして笑い、武中は先頭を切って歩き出した。
六本木通りにかかる歩道橋を渡り、明治通り沿いを一ブロック歩くと、武中は〈渋谷ヒカリエ〉の隣に建つ雑居ビルの前で立ち止まった。一階にあるコーヒーショップの看板を指し示す。
「ここで、いいですか?」
私が頷いて応えると、武中は着飾った若い女に張り合う年増女のように、無駄に派手な看板をくぐった。遅れて店内に入ると、武中が「ホットコーヒーですよね」と訊いてきたので、再び首を縦に振った。
武中がホットコーヒーとアイスカフェラテを注文している間、事務所を突線訪れたふたり組の刑事のせいで、切らしていたブックマッチを買いそびれていたことを思い出した。私はレジカウンターの脇に置かれた籠からブックマッチを手に取って、ガラス戸で仕切られた喫煙席へと向かった。窓際の席が埋まっていたので、一番奥にある四人がけの席に陣取る。どうせ、夏の名残を留める初秋の陽光を浴びながらするような話ではない。
定位置であるワイシャツの胸ポケットに戻ってきた煙草を一本取り出して、店名が印刷されたブックマッチで火をつける。〝不当監禁〟から開放されたことも手伝って、最初の一服はやけに美味かった。
武中がトレイを手に喫煙室に入ってきた。部屋中を見渡して私を認めると、一直線に歩いてきた。私の前にホットコーヒーを、アイスカフェラテはトレイに載せたまま自分の前に置いた。
「いつも、ホットコーヒーなんですね……」テイクアウト用のカップにストローを差しながら、武中が言った。
「なんか、問題でもあるのか?」
「問題ないですよ。ただ……飽きませんか?」
「飽きないから、こうして今も飲んでる」
「そうですか……だけど、なんかこう、いつもと違うものを飲んで、自分を変えてみようとは思いませんか?」
「変える必要があるのか?」
「なにも変わらなければ……いや、変えなければ、成長はしませんよ」
「その〝高級なコーヒー牛乳〟を飲むだけで、俺は成長するのか?」
「いや……そういうことじゃなくて――」
「なにかを変えなければ、成長できない……そう考えるのは、浅はかだと思うがね」私はプラスチック製の灰皿に、煙草の灰を落とした。
正面に座る武中が顔を曇らせている。私の口の悪さを、罵りたいのだろう。ただ、感情に任せてまくし立てないあたりは、先刻まで私の正面に座っていた女刑事とは役者が違っていた。
「訊きたいことってのは、なんだ?」私の方から話を切り出した。早々に済ませてしまいたい。
「そうでしたね……呼び止めたのは、僕でしたね」アイスカフェラテで喉を湿らせてから、武中は本題に入った。「さっきも言いましたけど、渋谷署から出てくるところ、ちゃんと見てたんですからね。今さら、とぼけても無駄ですよ」
渋谷署から出てくる私の姿を見ていたという武中の姿を、私は捕らえられなかった。胸の裡に湧いた幾ばくかの悔しさと、己への怒りは、煙にしてそっと吐き出した。
「だから、どうした?」
「どうしたって、昨日の夜、なにがあって――」武中は床に置いたカーキ色のバッグから、タブレット端末を抜き出した。慣れた手つきで操作して、タブレット端末を私に差し出す。「――今日になって、誰があそこに連れられてきたのかは、知ってるでしょう?」
タブレット端末のディスプレイには、武中が勤務する新聞社のニュースサイトが映っていた。タブレット端末を私に向けたまま、武中の指がディスプレイの上を器用に滑り、一本の記事が表示される。
『渋谷でドラッグパーティー開く クラブ店長らを逮捕
警視庁渋谷署は9日、大麻などを使ったドラッグパーティーを開いた疑いでクラブ「ドゥーシュバッグ」店長、嶋田学容疑者(三六)と、同店店員の原進(三三)を大麻取締法違反などの疑いで逮捕し、同日未明から渋谷区円山町の同店などを捜索した。
調べでは、嶋田容疑者らが同店で開いたドラッグパーティーには一〇〇人ほどの日本人や外国人のほか、アートディレクター、ゴンザーガ・ヤツさん(四二)=本名・谷津義雄=や、モデルでタレントの鶴田エミリ(二九)さん=本名・鶴田絵美李=らも参加しており、同署では事情を聴取している。』
今朝、ふたり組の刑事が来るまでの間、私が読んでいた朝刊に書かれていた記事だった。改めて読んでみれば、鶴田エミリとともに連行されたアートディレクターの名前は、〝ゴンザレス〟ではなく〝ゴンザーガ〟だった。我ながら、うろ覚えも甚だしい。
「渋谷署の中、どんな様子でした?」武中が言った。矢継ぎ早に質問を続ける。「鶴田エミリと、ゴンザーガの姿は、見ました?」
「答える前に、ふたつ訊かせてくれ」
武中はテーブルにタブレット端末を置いて、私の問いかけに身振りで「どうぞ」と応えた。
私はひとつ目の質問をした。「お前さん、芸能記者に鞍替えしたのか?」
「違いますよ」武中は強く否定した。床に置いたバッグから名刺入れを取り出して、名刺を一枚、タブレット端末の隣に滑らせる。「ちょっとした異動があったんですよ」
名刺の肩書きには〝ニューメディアセンター チーフ・ディレクター〟と記されていた。これが出世なのか、左遷なのか、私には知る由もない。
「最近じゃァ、新聞社も紙だけでは、やっていけなくて……この情報化社会に対応するために、こういうニュースサイトも展開してるんです」武中はタブレット端末を指先で軽く叩いた。「それでね、どういうわけか、ニュースサイトじゃ、芸能関連の記事が喜ばれる傾向があるんです。ニュースサイトってのは、紙以上に読まれて〝ナンボ〟ですからね……そんなわけで、今回は〝サツ回り〟の経験がある僕が、駆り出されたってわけです」
「なるほどな……じゃァ、俺が知らないだけで、彼女たちは相当の人気者なんだな?」
「どこまで、人気者なんですかね? この一年ぐらいですよ。テレビに出たりするようになったのは」
「そんなヤツらの記事でも、喜ばれるのか?」
「まァねェ、情報化社会だとか、なんとか言いますけど、ゴシップやら噂話が増えただけってこと、なんですかねェ……」
感慨をつまらなそうに漏らして、アイスカフェラテをすする武中が、歳の割には昔気質の〝ブン屋〟であったことを思い出した。だからこそ、私と気が合う部分もあるのだろうが。
「だが、お前さん……ただのゴシップで終わらせるような気じゃないんだろう?」私は短くなった煙草を消した。「この事件の裏に、なにがあるんだ?」
武中がストローから口を離して、唇の端をキュッと上げた。「それ……三つ目の質問ですよ」
目の前に座る色白で童顔の〝ブン屋〟は、昔気質なだけでなく、腕っこきの〝ブン屋〟――そう、厄介な男だったことに、改めて気づかされる。
したり顔の武中が訊いてきた。「僕の質問に答えてください。渋谷署の中で、鶴田エミリと、ゴンザーガ・ヤツの姿……見ました?」
「いいや、見ていない」
「ホントですか? 見逃したとか――」武中が言葉を途切らせた。再びタブレット端末を私に向けて、反対側から器用に操作する。記事の脇に掲載されている二枚の写真を拡大して表示させた。
右に配置された写真では、鮮やかな青を背景に、肩の辺りで髪を切り揃えた人物が、黄色いツバ広帽子をかぶって、こちらを見ている。深紅の口紅を塗った厚めの唇がキスをする直前のように、こちらに向かってすぼめられていた。左側の写真には、くせっ毛を短めにカットした痩せぎすの人物が写っていた。糸くずのような顎髭と口髭を伸ばし、茫洋とした表情でモノクロの画面に納まっている。
朝刊に写真は掲載されていなかったので、どちらも初めて見る顔だった。しかし、右の写真が鶴田エミリで、左の写真がゴンザーガ・ヤツであることぐらいはわかった。もし違っていたのなら、私は二度目の転職を考えねばならない。
「……まさか、ふたりの顔を知らない、とかじゃないですよね」
「どちらも、見ていない」
「嘘、言わないでくださいよォ」
「残念だが、俺が見たのは、警官だけだ」私は正直に答えた。
武中が身を乗り出して、声を潜めた。「今度、担々麺奢りますから……」武中の勤める新聞社の地下には、美味い担々麺を食わせることで有名な店があるのだ。
「あのなァ……ここで、嘘をついたって、なにも始まらんだろう」私は新しい煙草をくわえて、ブックマッチを擦った。「それにな……」
「それに?」
「ちょっと前になるか……お前さん、特ダネをすっぱ抜いたろ?」マッチの火が落ち着くのを待って、くわえた煙草に近づけた。最初の一服を勢いよく吐き出すことで、ブックマッチの火を吹き消す。
「ああ、あの記事のこと……ですか? 助かりましたよ、あのときは。だから、あのときみたいに協力を――」
私は武中の言葉を遮った。「あのときも、俺に担々麺を奢る……なんて、言ってたな?」
〝あのとき〟――〝ハルちゃん〟という女性を捜す依頼を受けたときのことだ。
夫と息子を残して失踪した妻の捜索という、この稼業ではありふれた依頼だった。しかし、失踪した妻――〝ハルちゃん〟が間違えて持ち出した息子の携帯電話に、夫が自身の勤める銀行の不正融資に関する情報を、密かに記録していたとなれば話は別だ。しかも、その情報を狙うフリーライターを騙る不埒な輩が登場することで、〝ハルちゃん〟の捜索は、依頼人の夫と息子も加えた一筋縄ではいかない〝冒険旅行〟になってしまった。
〝冒険旅行〟の末、私は〝ハルちゃん〟と携帯電話を見つけ出し、一件落着となるはずが、さらに問題が起きた。息子の携帯電話に仕込まれた不正融資の情報をどう扱うか、依頼人である夫が持て余してしまったのだ。そこで、私は武中を紹介することにした。小悪党のフリーライターに渡してしまうよりも、いくらかマシだと考えたからだ。
武中はよれば、不正融資については各社とも内定を進めていたそうだが、決定的な証拠をつかむことができず、足踏み状態だったらしい。内部告発者という強力な助っ人を得た武中が書いた記事は一面を飾り、各社を出し抜く形になった。さらには、不正融資を行っていた銀行の頭取やらお偉方たちが、国会に召還されるまでの事態に及んだ。
武中はジャーナリストとして、見事に社会正義を果たしただけでなく、〝特ダネ〟をすっぱ抜くことで社内表彰でもされたのだろう。後日、浮かれた調子で〝今度、担々麺を奢る〟と、お礼の電話を〝わざわざ〟寄越してきたのだった。
――期待しないで、待ってるよ
あのときした私の回答は、間違っていなかった。武中からの連絡は、それきりなかったからだ。
「あのときの担々麺……まだ奢ってもらってないぞ、俺は」
「いや、それはですね、あの後いろいろと忙しくなって……」武中は顔をくしゃくしゃにしていた。「ほら、それに異動もしたでしょ、だからバタバタとですね――」
「約束を守れんヤツは、信用ならないからな」
「わかりました、わかりました。担々麺は、今度ご馳走します。いつでも連絡をください」武中は背中を丸めて、床に視線を落とした。「あのネタで、新聞協会賞は獲れなかったったんだよなァ……」小さく呟く。
言い訳やら愚痴を訊いている暇はない。私は言った。「とにかく、俺が警官しか見ていないのは、本当の話だ」
「そうですか……」武中は肩を落とした。カフェラテをすすり始める。
私もコーヒーを飲んで、煙草を喫った。
「……だけど、なんで渋谷署なんかにいたんです?」
今度は私が答えに窮する番だった。事務所に事情聴取に来た刑事に、大人げなくたてついたせいで連行された、などとは口が裂けても言えない。
「なにか、あったんですか?」武中の目が輝いている。
やはり、こいつは〝腕っこき〟だ。事件の匂いを敏感に嗅ぎ取る。
――ジローに伝えて。ここには、来なくていいって
――お願いよ! ジローに伝えて!
受話器から聞こえた鶴田エミリの叫び声を思い出した。エミリから、ジローに伝言を頼まれた――そう考えてしまったことが、川田、冬木という刑事に悪態をつくきっかけになり、渋谷署で〝不当監禁〟される羽目に陥ったのだ。ただ、それを詳しく説明する気は、私にはない。
私は煙混じりに答えた。「ある……依頼絡みだ」
――おい、お前は本当にジローを捜す気か、探偵?
「依頼……ですか。それだと、あなたから聞き出すのは、難しそうですね」武中が言った。
〝腕っこき〟の記者は、理解が早い。私は言った。「わかってもらえて、うれしいよ」
「……だけど、なにか話せることがあるなら、教えてくださいね」と言って、武中は片目をつむって見せた。
〝腕っこき〟の記者は、諦めが悪い。私は小さく頷いて、コーヒーを飲んだ。
「お願いしますよ。今度こそ、ちゃんと担々麺を奢りますから」グスっと鼻を鳴らして笑うと、武中はストローに口をつけた。
調子がいいのは、〝腕っこき〟であることに関係あるのだろうか。
三
武中は他愛のない世間話と現在の部署に関する愚痴をこぼしながら、カフェラテを飲み終えると、渋谷署へと戻っていった。この場ではコーヒーを奢ってもらっていたことに、武中が立ち去った後に気づいた。まあ、この場のコーヒーと担々麺は別の話だ。
それから、半分ほど残ったコーヒーを飲む間に、もう一本煙草を喫い、私もコーヒーショップを後にした。
店を出た私の足は、事務所へと向かわずに、渋谷駅を背に歩き出していた。
――おい、お前は本気でジローを捜すつもりなのか、探偵?
自らに問いかけてみても、私の足は止まることはなかった。これでは、〝腕っこき〟の記者を嗤うことができない。ただ違うのは、彼には社会正義という〝立派なお題目〟がある一方で、私にとってトラブルは〝メシのタネ〟に過ぎないということだった。
補導するのすら野暮に思える制服を着た女の子たちが――平日のまだ昼前だ――出入りする〈109〉の前を通り過ぎて、道玄坂を登る。携帯電話ショップの隣に風俗店の紹介所があり、さらにその隣にはラーメン屋があった。建ち並ぶ店ばかりでなく、行き交う人々も雑多だ。大人びた恰好をした若者、若作りをした大人たち、初々しさを感じる背広に着せられた青年、痛々しさを覚える短いスカートの年増女――岡本綺堂が見た賑わいとは、さすがに様相は変わっているだろうが、この街には人を惹きつける〝なにか〟があるのに違いない。
道行く人の隙間を縫って歩き、道玄坂上交番の手前で、右に折れて円山町へと足を向けた。
昨晩、鶴田エミリとゴンザーガ・ヤツがいたという〈ドゥーシュバッグ〉なる店の正確な場所を知らなかった。さたには、〝クラブ〟と呼ばれる施設が、どういった外観をしているのかすらわからないので、自然と周囲に目を配って歩くことになる。道玄坂では〝お上りさん〟で済むような行為も、この辺りではご法度らしく、ラブホテルにしけこむ男女に――平日のまだ昼前だ――睨まれてしまった。私の前を歩く長袖の黒いTシャツの上に白いTシャツを重ね着した男には、一瞥もくれなかったというのに。
〝大層なご身分〟のふたりを見送ってから、二ブロック進むと、倉庫のようなコンクリート剥き出しの建物の前に、木製の警杖を突いた制服姿の警官が立っていた。ガサ入れがあったのが昨晩だから、現場検証はまだ終わっていない。いや始まったばかりのはずだ。あの建物が目指す〈ドゥーシュバッグ〉に違いない。
前を歩くTシャツを重ね着した男が、警官の姿に気づき、彼は倉庫のような建物に駆け寄った。カーゴパンツのポケットから取り出したスマートホンをかざした。そのまま、警官越しに建物の撮影を試みると、それまでおとなしく立っていた警官が、なにやら声をかけて男を追い返した。
Tシャツの男は渋々とスマートホンをしまい、未練がましく後ろを振り返りながら、警官の前を通り過ぎていった。仏頂面で男の後ろ姿を見据える警官の姿は、半七親分も見たであろう大名屋敷の門番のようだった。
私はTシャツの男のように軽くあしらわれないよう、道を尋ねる体を装うことにした。軽く右手を挙げて近づく。
私に気づいた〝門番〟は、手にしていた警杖を身体に引き寄せ、直立不動の姿勢を取った。渋谷署で私の解放手続きにつき合ってくれた警官が〝高卒ルーキー〟だとするならば、〝門番〟は、今年が勝負の入団五年目といった年頃だった。
「お疲れ様です」と頭を下げる。そのまま、教本に使えそうなきれいなお辞儀だ。
どうやら、〝門番〟は私のことを別の誰かと勘違いしているらしい。いや、私に似た誰かがいるというより、私自身が、あの稼業独特の雰囲気をまだ漂わせてしまっている、ということなのだろうか。あまり喜ばしいことではないが、ここは調子を合わせておいた方がいい。
「ご苦労だね」心なしか、いつもより声が低くかった。
「いやァ、とんでもないです」
緊張した面持ちで答える〝門番〟の肩越しに、建物の入口が見えた。鉄製のドアに誰かの筆跡を真似たのだろう、〝Douchebag〟と角張った書体で書かれている。
――ビンゴ
私は〝門番〟に訊いた。「まだ……誰かいるのかい?」
「はい。モモタさんが指揮を執られています」
当然、私は〝モモタ〟という人物に面識はない。それに気づかれぬよう、すかさず質問をかぶせた。「なにか、出てきたのか?」
「さァ、よくわかりません」〝門番〟は素直に答えてくれた。「ただ、なんの連絡もないんで、まだなにも出てきてないんだと思います」
「なるほどな……で、この店は、前から目星をつけていたのか?」
「そうです。〝半グレ〟の連中やら、胡散臭いヤツらが、出入りしてた店ですから」
「そんなヤツらが出入りしているのに、なんで芸能人が遊びに来るんだ? ヤツら人気商売なんだから、近寄らない方が身のため……なんじゃないのか?」
「仰るとおりだと思います」〝門番〟が目に力を込めて、答えた。「ですが、ああいう連中って、遊び上手なんです」
「遊び上手ねェ……」
「ええ。それに口も上手いから、ちやほやされて舞い上がっちゃうんでしょう」歳の割には、テレビのワイドショーあたりで、誰もがおしなべて口にするようなお決まりのコメントを漏らした。「ま、一流どころは、そんな手には、引っかからないんでしょうけど」
この手の話題に疎い私は、率直に訊いた。「鶴田……エミリだったか。彼女は一流どころじゃないのか?」
「違いますね」〝門番〟が即答する。
「その根拠は?」彼の言う一流とはなにか、その定義に興味が湧いていた。
「そりゃァ、〝ポッと出〟ですもん。それに、読者モデル上がりのタレントなんて、掃いて捨てるほどいますから。それに――」
〝門番〟が、昨今はいかに芸能界に入ることが容易になってしまったのか、について語り始めた。こちらから質問を振っておいて申し訳ないのだが、彼の話は私の耳に届いてこなかった。
理由はひとつ――
つい先刻、追い払われたはずの男が、三十メートルほど先で、こちらをうかがっていたからだ。〝門番〟は話に夢中で、男の姿に気づいていない。
「――つまり、僕が言いたいのは、プロとしての意識を持って欲しいってことなんです」
「確かに、きみの言うとおりだ」この場は、熱弁を振るってくれた〝門番〟の肩を叩いて、ねぎらってやる。なんにせよ一家言あるということは、いいことだ。ただ、本職は忘れないでいて欲しい。
視界の端に男を捉えながら、私は質問を続けた。「ゴンザーガ・ヤツは、どうなんだ? やはり、彼も〝ポッと出〟なのか?」
「いえ、ゴンザーガは〝ポッと出〟では、ないです。三年ぐらい前からかな……テレビで見かけるようになったのは」
三年間テレビに出続ければ、〝ポッと出〟では、なくなるらしい。ひとつ利口になったと思うことにする。
「そのゴンザーガってのは、アートディレクターなんだろ?」
「そうみたいですね。最近は本を書いたり、役者やったり、いろんなことしてるみたいですけど……」
「それでも、彼は一流どころではない。そういうことか?」〝門番〟の後を継いだ。
「はい。要するに、文化人気取りのタレントなんです」
文化人を名乗れる資格について、もう一席ぶっていただきたいところだが、いつまでも彼と芸能談義をしているわけにはいかない。話が長くなる分だけ、こちらの身分を悟られてしまう恐れが高くなる。そろそろ潮時としよう。
私は〝門番〟に言った。「いろいろと、教えてくれてありがとう」
「とんでもないです。お役に立てて、なによりです」
――役に立ったのか、どうやら……
「モモタさんにお会いになりますか?」彼は右肩を開いて、〈ドゥーシュバッグ〉を私の視界に入れた。彼の仕種は〝門番〟ではなく、ドアボーイにでもなったかのようだった。
「やめておくよ。俺は、別件で動いてるんだ。邪魔しちゃ悪いからな」私の回答は決まっている。〝門番〟の余計な提案は、丁重にお断りした。
「そうですか……残念です」〝門番〟が少し寂しげな顔をした。
「きみから、伝えといてくれ」
「わかりました。モモタさんには、僕から伝えておきます」
「頼んだよ」〝門番〟に背を向けた。
――彼といい、先刻の川田といい、渋谷署の署員は口が軽い
〝モモタ〟という見も知らぬ上司に、少しだけ同情した。二歩進んで、足を止める。私は振り返って〝門番〟に忠告をした。「いろんなヤツが来ると思うけど、ベラベラとしゃべるんじゃないぞ」
「了解しました」〝門番〟は目を輝かせて、深々と頭を下げた。
この調子では、せっかくの勝負がかかったシーズンを、二軍暮らしで終わらせてしまうに違いない。私は〝門番〟に背中越しに手を振って、〈ドゥーシュバッグ〉の前から立ち去った。
〈ドゥーシュバッグ〉を背にして、神泉駅に向かって歩く。最初の四つ辻を右に曲がると、松濤を目指す恰好になる。それから二ブロック歩いて、私は路地に入った。煙草が喫いたかったこともあるが、目的はもうひとつあった。五メートルほど進んで、立ち止まる。
アパートのブロック塀に寄りかかり、煙草を喫っていると、男が覗き込むようにして路地に入ってきた。男は、黒い長袖Tシャツの上に、白いTシャツを――胸のところには、梨がモチーフの〝ゆるキャラ〟がプリントされていた――を重ね着していた。〈ドゥーシュバッグ〉の前で、〝門番〟に追い返された男だ。男は、路地を入ってすぐのところに私がいるとは思わずにいたのか、慌てて後ずさった。
来た道を戻って道玄坂へ向かわなかったのは、芝居を続けていたこともあるが、〈ドゥーシュバッグ〉を立ち去る際に、私たちのやり取りをうかがっていた男が、私の後ろをつけてきたことに、気づいていたからだ。警官と話をしていた男を尾行するような男が、ただの野次馬であるわけがない。
私は訊いた。「なんか用か?」
「なんか用って言われてもさァ……」Tシャツの男が口を濁した。
「じゃァ、どうして俺の後をついて来た?」
「はァ? なに言ってっか、意味わかんねェ」男はカーゴパンツのポケットに両手を入れて、私から目を逸らした。
男は六尺に寸足らずの私よりもう二寸ほど低く、褐色の肌をしていた。ただ、マリンスポーツなどで自然に焼けたものではなく、日焼けサロンかなにかで人工的に色づけられたものだった。恰好も、言葉遣いもかなりの若作りをしているが、しゃくれた顎の上にある頬の辺りの弛みから察するに、男は五十歳を超えているに違いない。
「あの店の前で、俺たちのことを見てたことは、わかってるんだ」私は語気を強めた。「ごまかしたって、無駄だぜ」
男は舌打ちをして、「しゃーねェなァ」と呟いて頭をかいた。
「俺になんの用だ?」私はもう一度、訊いた。
「あんたが、なにを調べてるのか、気になってさァ……」男が私の目を覗き込んで続けた。「だって、あんたデカじゃ、ないじゃん」
この男とは初対面だ。なぜ彼は私が刑事ではないと見抜いたのか。〝門番〟はあっさり騙されたというのに。
「俺……渋谷署のデカの顔、全部知ってるんだよね」
「本当に、そうなのか?」
「嘘でーす」男が舌を出して、白目を見せた。
「お前なァ……」私は男に詰め寄った。煙草を手にしていなければ、胸ぐらをつかんでいたところだ。
私が詰め寄った分だけ、男は後ろへ下がった。「冗談だよォ……そんな、怖い顔しなくても、いいじゃんか」
「ちゃんと話せ」私は煙草をくわえた。これで両手が自由になる。
「あのね、デカとはちょっと雰囲気が違うんだ、あんた。だからさ、ひょっとしたらと思って、訊いてみたの」
「雰囲気?」
「そう、雰囲気。俺、そういうの、すぐわかっちゃんだよね」
先刻の〝門番〟が騙されたのは、やはり私に似た刑事が渋谷署にいるということだからなのだろうか。とにかく〝雰囲気が違う〟という男の言葉は、私が〝社会復帰〟できている成果なのだと思うことにする。
「俺がなにを調べているのか、そんなに気になるのか?」
「昨日、あんなことがあった店だよ。そこを調べてるヤツがいたら、気になるに決まってんじゃん」男が唇の両端を上げた。
彼の言うことは、あながち間違っていない。前の晩に事件があった場所をうろつく見知らぬ男を気にするな、という方が無理な話だ。
「ねェ、あんた……マスコミの人?」おもねるような口調で言った後、男は眉をクイっと上げてみせた。
――〝マスコミの人〟なら、さっき渋谷署へ帰ったよ
とにかく、この場も適当に話を合わせることにした。「いいネタが、あるのか?」
男が再び眉をクイっと上げた。それ相応の対価を要求しているのだ。
「まずは、話を聞いてからだ」私はワイシャツの胸ポケットから煙草の箱を取り出した。一本だけ振り出して、男に差し出す。
先刻のように「しゃーねェなァ」と呟いてから、男は煙草を箱から一本抜き出した。口には運ばずに、右の耳に挟み込む。今どきの若者ならば、まず見せない仕種が、彼の年齢を感じさせた。
男が言った。「俺さ……昨日、〈ドゥーシュバッグ〉にいたんだよね」
私は短くなった煙草を携帯用灰皿に押し込んで、両手を自由にした。これで再び〝嘘でーす〟などと言おうものなら、今度こそしゃくれた顎に拳を叩きつけてやる。
「ホントだって。〝おまわり〟たちが来る前に、帰っちゃたけどさ」先刻のように、後ずさりこそしなかったものの、男は怯えの色を隠さなかった。
「どうして、先に帰ったんだ?」私は訊いた。「……まさか、ガサ入れがあることを知っていたのか?」
「知るわけないだろう、そんなこと」男は目を丸くして、否定した。
当然と言えば、当然の答えだった。目の前の男が、ガサ入れの情報をつかんでいたとすれば、渋谷署はおしゃべりが過ぎるどころの騒ぎではなくなる。
「つまんなかったんだよねェ……昨日の夜は」
新しい煙草をくわえて、ブックマッチで火をつけた。「だが、昨日は鶴田エミリとか、ゴンザーガとかいうのがいたんだろう? 盛り上がったんじゃないのか?」
「馬鹿騒ぎしてただけだよ。あいつら、羽振りがいいからさ」男が口を尖らせる。
「仲間に入れてもらえなくて、拗ねてるっていうわけか……」
「そんなんじゃないよ。羽振りのいいヤツの回りを、うろちょろするのは遊びじゃないもん」
「そうか? 遊び上手なヤツってのは、羽振りのいいヤツを、目敏く見つけるんじゃないのか?」〝門番〟の受け売りを、そのまま口にした。
「それ、ただの〝たかり〟じゃん」男は鼻で笑ってから言った。「まァ……最近の若いヤツはさ、その辺をわかってないのが、多いんだけどね」
男の口調は若者のそれだが、年寄り、いや年長者だけが口にできる科白だった。こみ上げる笑いを、煙草を喫うことで抑え込む。
「それにさ、羽振りがいいなんてのは、〝ポッと出〟にだって、できることじゃん……つまんなくね?」
彼に言わせれば、鶴田エミリやゴンザーガ・ヤツは、〝ポっと出〟となるらしい。ひょっとしたら、〝門番〟と目の前の男は、立場が違えば、随分と歳の離れた友人になれるのかもしれない。
私は質問を変えた。「それで、昨日の夜は、どんな様子だったんだ?」
「さっきも言ったけどさ、馬鹿騒ぎだったよ。どいつも、こいつもテンションが高くてさ……あァ、そうだ」男が左の掌を右手で叩いた。「〝ジローは、まだか〟って、誰かが言ってたな」
――お願いよ! ジローに伝えて!
鶴田エミリが電話を着る直前に発した言葉。昨晩の一件、そして私がこんな厄介事に巻き込まれてしまったのも、すべてはジローという男が原因のようだ。
私は訊いた。「そのジローってのは、誰だ?」
「さァ、聞いたことはある名前だけど、どんなヤツかは……」男が首を捻った。「気になるのかい?」
「ああ。お前がいるときに、すでに馬鹿騒ぎをしてたヤツらがいたんだろう? そいつらが、待ち焦がれてるんだぜ。ジローが来たら始まるのは――」
――ジローに伝えて。ここには、来なくていいって
「そういうことね」男が大きく頷いた。
なかなかどうして、察しがいい。〝亀の甲よりなんとやら〟ということだ。
「確かに、あんたが思ってるとおりかもしんないね。もう〝葉っぱ〟始めてるヤツらもいたし――」
〝葉っぱ〟――大麻のことだ。となれば、ジローが来れば始まること、それは、大麻よりもっと〝強烈ななにか〟を使った〝遊び〟ということになる。
「あの店じゃ、そんなことは、しょっちゅうあったのか?」
「〝葉っぱ〟は、いつものことだけど……昨日の夜みたいなことは、年に三、四回ぐらいかなァ」
〝門番〟によれば、渋谷署は〈ドゥーシュバッグ〉には監視の目を光らせていたというが、男の様子は悪びれるでもなく、仲間内での飲み会の回数を答えるような口振りだった。
「あ……言っとくけど、俺はもう〝葉っぱ〟とか、クスリはやめたからね」男はしゃくれた顎を突き出して、胸を張った。「娘が、できたからさ」
昼の日中に、自慢げに言うことなのかどうかは、この際口にしないでおく。私はニコチンで心を鎮めた後、ため息混じりに煙を吐いた。
用を済ませた二本目の煙草を、携帯用灰皿で消した。「ありがとな。なかなか、面白い話だったよ」男に背を向ける。
「ちょっと待てよ」
男に呼び止められた。振り返ると、男が右の掌を上に向けていた。
私は言った。「煙草やったろ」
男は、目を鋭くして一歩踏み込むと、右の掌を私の顔の前に突き出してきた。
「俺は、手相は観ないんだよ」
「なに言ってんだよ……情報料だろ、情報料」
「生憎とな、俺は〝マスコミの人〟じゃない」
「え、違うの?」
「ああ、そうだ。それにな、〝マスコミの人〟なら、渋谷署の前で、たむろしてるよ」
「じゃァ、なにやってる人なんだよ?」
「聞かない方が、身のためだぜ」
男の顔が蒼白になった。唇の片端を上げて微笑んでみたつもりなのだが、今の私はかなり凶悪な顔をしているらしい。まあ、機嫌が悪いのは確かだ。
「じゃあな」私は立ちすくむ男に別れを告げた。
四
渋谷駅まで歩き、地下鉄を乗り継いで最寄り駅まで戻った。
道すがらにある〈三幸園〉、〈キッチン南海〉といった人気の飲食店には、行列を作る人の姿が見え始めていた。そろそろ、昼メシ時を迎えようとしているのだが、私はどの店にも立ち寄らなかった。食欲がないというより、ひとまず事務所で心を落ち着かせたかった。
――わざわざ〈ドゥーシュバッグ〉まで行って、一体なにがしたかったんだ、探偵?
天邪鬼な血が騒いだせいとはいえ、これ以上厄介事に関わるような真似はするべきではない。それに、私には昨晩のうちに書き上げた〝メシのタネ〟――調査報告書があるではないか。一カ月に及んだ五億円の遺産相続に関する三人の身元調査についての報告書だ。あの調査報告書を依頼人に届ければ、当面は食うことに困らないだけの収入を手にできる。〝トラブル・マイ・ビジネス〟とは、そういうことを言うのだ。自らに言い聞かせながら、明るい未来が待っている――といっても、しばらくの間だが――事務所へと急いだ。
立ち食い蕎麦屋の前で路地に入ると、私の事務所のある雑居ビルの前に、一台の車が停められているのが目に入った。きれいに磨き上げられた黒のジープ・コマンダーで、運転席側のドアに西洋のドラゴンをモチーフにしたロゴが、白抜きで描かれていた。車内を覗いてみると、誰も乗っていなかった。辺りを見回してみても、私以外に人の姿はない。駐車違反の対策として、この図体のでかい車を駐車しておくには、この路地は狭すぎる。
嫌な予感がした。
私は事務所のある五階まで、エレベータではなく階段を使うことにした。一階と二階は、近所の大型書店が倉庫として使っているため、閑散としていた。三階は司法書士と弁理士の資格を持った夫婦が、それぞれの事務所を開いていたのだが、つい最近になって事務所をたたんで、田舎に引っ込んでしまったために、一フロアごと空き部屋になっていて、人の気配はない。三階までは、ジープ・コマンダーのオーナーが乗りつけるような用事はなさそうだ。
ひとつ上がった四階は、学校教材を扱っている出版社で占有されていた。入口は〈学朋出版〉とプラスチックプレートのかかった磨りガラスのドアになっていて、中にジープ・コマンダーのオーナーがいるのかどうかは、知る術がなかった。
〈学朋出版〉に顔を出す口実を考えていると、向こう側からドアが開いた。茶色いおかっぱ頭の女と、同じ色の長い髪を頭のてっぺんでまとめた女が姿を見せる。どちらも地味な事務服を身につけて、大きな財布を手にしていた。これから、昼メシにでも出向くのだろう。ふたりは階段に立つ私に気づくと、揃って会釈をした。
私が会釈を返すと、おかっぱ頭が訊いてきた。「あの……表の車、あなたのですか?」
「いや、違うよ」
「そうなんですか……困ったなァ」おかっぱ頭はむくれた顔を作って、エレベータへと向かう。
「え、表に車が停まってるの?」後を追いかけるもうひとりの女が訊いた。
「そうなのよォ。一時には、業者さんが来ちゃうでしょ。どかしてもらいたいんだよねェ……」
ジープ・コマンダーのオーナーは、四階にもいない。
私は事務所のある五階へと向かった。同じフロアには、鈴木という老人が事務所を構えているのだが、今日の午前中は不在にしていると聞いていた。そして、五階はこの雑居ビルの最上階だ。となれば――
厄介事の匂いが次第に濃くなっていくのを感じながら、階段を一段ずつ上がった。
階段の踊り場から廊下が延びている。エレベータに近い方が鈴木の事務所で、入口のドアには筆ペンを使った雄渾な筆跡で、〝午前中不在〟と書かれた張り紙がしてあった。その奥にある私の事務所の前に、三人連れの男たちが立っていた。
三人の男たちは、髪型がバラバラならファッションもバラバラだった。デニムの上に紺色のジャケットを着た金髪頭、都市迷彩の上下を着た肩まで伸びたドレッドヘア、黒のハーフパンツにパーカー姿のスキンヘッドが、きれいに背の順で並んでいた。一番背の低いスキンヘッドは、底の厚いワークブーツを履いているにもかかわらず、身長は一七〇センチに届いていなかった。そのスキンヘッドが羽織った緑色のパーカーの胸の当たりに、〝西洋のドラゴンをあしらったロゴが白抜き〟で描かれている。
ジープ・コマンダーのオーナーは、彼らだ。
――あの図体のでかい車に、三人しか乗っていないとは、贅沢なヤツらだ
彼らはじゃれ合うでもなく、三人がそれぞれ手にしたスマートホンにじっと目を落としていた。彼らを夢中にさせているのがゲームなのか、今流行りのSNSなのかまではわからないが、急速に発達するテクノロジーは、人の行動を画一化させてしまうらしい。もっとも、こうしておとなしくしているおかげで、彼ら迷惑駐車の犯人たちは、階下の住人に気づかれずに済んでいるのだが。
廊下に立つ私に、最初に気づいたのは金髪頭だった。スマートホンを上着にしまうと、顔をこちらに向けた。張り出した頬骨と細い顎が、逆三角形を作っている。大きな目が離れていることもあって、カマキリを思わせた。
「お客さァん、ごめんなさい……ここ、通行止めなのよォ」金髪頭のカマキリが言った。
――このビルは、わたしのものよ! あんたなんかに、なんの権利があるの!
因業ババア、いや大家がこの場にいれば、そう怒鳴り散らしていたに違いない。しかし残念なことに、正当な賃貸人は、他人様から巻き上げた金で、先週末からベトナムはハノイに遊びに出かけてしまっていた。
そうなると、残された店子が毅然とした態度で対応するべきなのだろう。問題があるとすれば、今朝方に〝不当な監禁〟を受けていたせいで、このフロアにいるただひとりの店子の機嫌がおそろしく悪い、ということだった。
「聞こえなかった? ここは、今日は通行止めなの」金髪のカマキリが、先刻よりも高いトーンで言った。「今度は、聞こえたっしょ? いい子だからさァ……帰った、帰った」
薄笑いを浮かべて、右手を振って追い払う金髪のカマキリの仕種は、私の神経を逆撫でするには充分すぎた。罵声を浴びせるだけでは、治まりそうもない。
三人との間合いを計りながら、私は一歩踏み込んだ。金髪のカマキリは、逆三角形の顔にあからさまに怯えの色を浮かべて、私が踏み込んだ分だけ後ずさった。
――ふざけた口を利く割には、度胸のないヤツだ
私がさらに一歩踏み込むと、ドレッドヘアが立ちふさがるようにして、割って入った。背は私とさほど変わらず、肩まで伸びた髪の毛で大きくエラの張り出した顎を隠していた。金髪頭がカマキリなら、斑模様の都市迷彩を着たこの男はさながらカミキリムシで、一歩も動かずに私を睨み上げる緑色のパーカーを着たスキンヘッドは、コガネムシだった。
「ひょっとして、あんた、この事務所の探偵かァ?」カミキリムシの後ろで、金髪のカマキリが声を上げた。
「だとしたら、なんの用だ」
「いろいろと、聞きたいことがあんだよ」金髪のカマキリが続けた。
「悪いが、今日はよしてくれ」〝お断り〟を告げた後に、私は大事なことをつけ加えた。「それと、私に頼みごとをするときには、ちゃんと依頼料を持ってくるんだな」
「はァ? なに調子くれてんだよ、オッサン!」金髪のカマキリが言った。カミキリムシの後ろでは、威勢がいい。「なんで、俺たちが金払わなきゃなんないんだよ」
「金を払えんのなら、なにもしゃべらんぞ」
「意味わかんね。こいつ、頭おかしいんじゃね?」金髪のカマキリは、右手の人差し指を自分の頭の辺りでくるくると回した後で、手を開いて掌を宙に向けた。
それを見ていたスキンヘッドのコガネムシが、唇の端を上げる。
金髪のカマキリが言った。「とにかくさァ……黙って、俺たちの訊くことに、答えりゃいいんだよ」
「嫌だ……といったら、どうする気だ?」
「だからさァ、調子くれてんなっての……オッサン」カミキリムシの後ろは居心地がいいのか、金髪のカマキリは威勢のいい科白を続けた。「あんたも、痛い目見たくないだろ?」
都市迷彩を着たドレッドヘアが、一歩前に出た。荒事は、この斑模様をしたカミキリムシの担当らしい。ただ、誰が荒事を担当しようと、あと一歩で私の間合いに入ってしまう。三人足してもIQが一〇〇に満たないような〝ガキ〟を相手にするほど愚かではないつもりだが、実力行使には応えねばならない。
「だーかーらァ、正直に話しゃいいんだって。ジローのこと」と、金髪のカマキリが言った。
「今、なんと言った?」ジロー――聞き捨てならない名前だ。
「あァ? ジローのことだよ」ようやくカミキリムシが口を開いた。奥歯を擦り合わせるように、こもった声だった。「知ってんんだろ?」
金髪のカマキリが続いた。「昨日の夜、ジローのことで、オッサンのところに電話があったろ? エミリからさ」
彼らは昨日の夜、なにがあったのかを知っている。むしろ、話を聞き出したいのは、こちらの方だ。
「腕ずくで、話してもらってもいいんだぜ」カミキリムシが、さらに一歩踏み込む。
私はカミキリムシに合わせて、半歩下がった。
「だっせェ」金髪のカマキリが吐き捨てた。「ほら、痛い目、見たくないっしょォ?」
カミキリムシとコガネムシが唇を歪めて、私を眺めている。
私は浅く腰を落として、左脚を後ろへ引く。軸足となる右脚に〝溜め〟を作った。
――我に撃つ用意あり
「よォ、どうすんのんか、はっきりしろよ」カミキリムシが左の掌を、右の拳で二度叩いた。現代風の恰好で気取る割には、仕種は使い古されたものだった。
「腕ずくだ……そう言ったよな?」
カミキリムシが首を傾げた。「オッサン、なに言ってんだ?」
「お前じゃ話が通じない……」
「あァん?」顎を上げて、カミキリムシが唸った。
「どきなよ、若いの。目障りだ」
右脚に作っていた〝溜め〟を解放させる。跳ね上がった左脚が、カミキリムシの股間を撃ちつけた。呻き声を漏らして崩れ落ちるカミキリムシの脇をすり抜けて、一気に二歩分の間合いを詰める。その勢いのまま、左腕を伸ばした。左の拳がカマキリの顔の中心を捉える。当たりが浅い。右脚を軸に腰を返して、右フックを放つ――までは、よかった。
カマキリの側頭部に届くはずの左拳は宙を泳ぎ、私の身体からは重力が失われた。六尺に寸足らずの高さから、リノリウムの床に後頭部から落ちる。鈍い痛みが全身に走り、鼻の奥がツンとした。霞む景色の中で、緑色の服を着た男――コガネムシが立ち上がったのが、かろうじて視界に入った。左の脇腹を、コガネムシが蹴り上げてきた。深淵に沈みかけた意識が、肋骨にぶつけられたワークブーツの硬いつま先によって引き戻される。咄嗟に頭を抱えて肘と膝を引きつけた。急所を守った左腕に二度、三度とコガネムシの蹴りが入る――
「なにやってるんだ! あんたら!」
五階のフロアに男の声が響き渡った。カマキリの口調は軽薄で、ここまでせっぱ詰まっていない。カミキリムシは低くこもっていて、ここまで高くはなかった。コガネムシの声を聞いていないが、私を蹴りつけるのに必死な男が吐く科白とは考えられない。
「警察呼ぶぞ!」再び男の高い声。
コガネムシが、私を蹴るのをやめた。
手の届くところにワークブーツが見えた。足元をすくって、コガネムシをひっくり返す。そして、倒れたところに、お返しの蹴りを――といきたいところなのだが、身体を捻っただけで頭の先まで響く脇腹の痛みに邪魔をされる。
「ほら、立てよ」
初めて聞く声。このかすれた声が、コガネムシの声なのだろう。どこか優しい響きがある。しかし、私にかけられた言葉ではなかった。その証拠に、引き起こされることもなく、床に横たわったままでいる私の目の前を、ワークブーツと血の滴り落ちたモカシンが通り過ぎた。少し遅れて、スウェードのスニーカーが、跳ねるようにして続く。
ドタドタと遠ざかる足音の中に、小さな悲鳴が混じって聞こえた。女の声。先刻、すれ違った〈学朋出版〉のOLたちの姿が、頭の中をよぎる。床に手をついて、上体を起こした。膝をついた後、奥歯を噛み締めて一息に立ち上がる。呼吸をするたびに、脇腹が痛む。構うものか。コガネムシたちの後を追いかけるため、一歩踏み出したが、逸る気持ちとは裏腹に、足取りは重たいものだった。脇腹の痛みよりも、リノリウムの床に後頭部をぶつけたせいだろうか。
階段を上がってくる人影が目に入った。コガネムシたちが戻ってきたわけではない。ましてや、隣に事務所で開いている鈴木でもなかった。糊の利いた半袖のワイシャツを着た中肉中背の私より幾分歳上の男。こちらの様子をうかがっている。私の頭に浮かんだのは、杉浦という名前だった。〈学朋出版〉の営業部長で、なんどか挨拶を交わしている。もっとも、後頭部を打ちつけたことが、私の記憶に影響していなければの話だが。
壁を支えに歩く私に気づくと、中年男は廊下を駆け寄ってきた。
「大丈夫かい?」かすれ気味の高い声で、中年男が言った。
「大丈夫……と言いたいところですがね」
「そうでもない……みたいだね」
「……それより、女の子の悲鳴が聞こえましたけど、そちらの方こそ大丈夫なんですか?」
「ああ、それは大丈夫。なんかエレベータを降りたところで、三人組と出くわしたみたいでさ。なんにもされてないみたいだよ」中年男は、笑みを作った。
「……杉浦さんは、大丈夫ですか?」
「僕? 僕も大丈夫。階段ですれ違うとき、突き飛ばされたけど……昔、柔道やってたおかげで、ちゃんと受け身がとれたから」中年男は、私が呼びかけた名前を否定せずに、話を続けた。後頭部をリノリウムの床にぶつけた後遺症はない。
「そうですか……それなら、ひと安心です」私は中年男――杉浦に言った。「柔道やってたのなら、あいつら投げ飛ばしてくれれば、よかったのに……」
「それは、無理だよ。そんなことができるんだったら、今頃はオリンピックに出てるよ。高校の三年間で、やっと黒帯になったんだよ。無理無理」顔に笑みを作ったまま、杉浦が答えた。「ま……そんな軽口を言えるようなら、大丈夫そうだね」
私は痛む左の脇腹に右手を当てた。「死なない……程度には」
「相当、痛むみたいだね」私の仕種を見て、杉浦が言った。「ひとりで、事務所まで戻れるかい?」
私が頷いて応えると、杉浦は「ちょっと待ってて」と言って背を向けた。
小走りで階段へと向かう杉浦の後ろ姿を見送ってから、私は踵を返した。廊下に点々とカマキリが垂らしていった鼻血の跡があった。このままでは、あの因業ババアよりも前に、鈴木に〝出て行け〟と言われてしまう。後で拭いておかなければ。
事務所に戻り、デスクの端に浅く腰をかけた。本当のところは、応接セットのソファに倒れ込んでしまいたいところなのだが、姿勢を変えるだけで、脇腹がひどく痛む。この姿勢が一番楽だった。ワークブーツの硬いつま先の当たった肋骨は、折れてはいないにしろ〝ひび〟ぐらいは入っているかもしれない。
ワイシャツの胸ポケットから煙草を取り出した。まだ半分は残っている煙草の箱は、つぶれてしまっていた。一本抜き出してくわえると、渋谷のコーヒーショップで頂戴してきたブックマッチで火をつけた。勢いよく喫い込んでしまうと、またぞろ脇腹が痛みそうなので、煙は慎重に肺の奥まで行き渡らせた。普段よりも、ゆっくりとしたペースで精神安定剤――ニコチンの血中濃度が上がってゆく。
二回ほど煙草を吹かして、灰皿はデスクの上に置きっぱなしにしていたことを思い出した。このままでは、灰皿を取るには、上体を捻らなければならない。移動するのが億劫な上に、怪我のせいなのか、煙草はあまり美味く感じられなかったので、上着から取り出した携帯用の灰皿に、まだ長いままの煙草を押し込んだ。
しばらくして、事務所のドアがノックされたので、私はデスクから腰を離して「どうぞ」と応えた。控えめにドアが開き、杉浦が顔を覗かせた。
「よかった……倒れてなくて」デスクの前に立つ私を認めて、目を細めた。「倒れてたら、死んじゃうかもしれないって、ことだもんね」優しい表情で、毒を含んだ物騒なことを口にする。
「倒れてた方が、よかったですかね」私は応戦した。口が悪いことでは、引けを取らない。「そして、杉浦さんの会社に化けて出るってのは、どうです?」
「そういう冗談は、やめてよ」杉浦が顔を曇らせた。「……そんな馬鹿なこといってるけど、痛いんでしょ? 正直に言いなよ」
「正直なことを言えば、あまりいい状態ではないです」今度は、正直に告白をした。
「でしょ。だったらさ、これ使ってよ」杉浦が持参してきたものを差し出した。「去年、会社でギックリ腰やっちゃってさ。そのときに買ったヤツ。〝あばら〟にも、使えると思うんだ」
「ありがとうございます」お礼を告げて、私は肌色をしたコルセットと、緑色をした湿布薬の箱を受け取った。
「それとね、これ……」杉浦がワイシャツの胸ポケットから、折りたたんだメモ用紙を取り出した。「さっきのヤツらが乗ってた車のナンバー。昼休みのときにも、駐車してあったら、通報しようと思って書き留めてたんだ」
「品川 343 な――」私は頭に浮かんだ数字を口にした。
「すごい、大正解だ」メモ用紙を広げて、杉浦が目を丸くした。「やっぱり、本職の人は違うなァ……」
「あまり、おだてないでくださいよ」
本当のところは、リノリウムの床に頭をぶつけていることもあって、正解しているかどうかは、いささか不安だったのが、我が灰色の脳細胞も、なかなかどうして捨てたものではない。
私は訊いた。「あの車、いつから停まってたんです?」
「今日は、コジカ先生のところに寄ってから出社したから……十時前、いや九時半か。そのときには、停まってたね」
川田と冬木という刑事が、私の事務所を訪れたのが九時過ぎ。そのときには、ジープ・コマンダーは雑居ビルの前に停められていなかった。カマキリたちがやって来たのは、ふたりの刑事に事務所から連れ出されたすぐ後のことだ。〈ドゥーシュバッグ〉から私の事務所に間違い電話があったということを知っているのは、渋谷署の連中だけではない。
「なんか……難しい顔してるけど、事件か、なにか?」
「いや、事件というほどのことじゃありません。ただの厄介事です」
「厄介事ねェ。大変な仕事なんだね」
「ここまでしてもらって、言うことじゃないですけど……あまり、この件には、関わらない方がいい」
「そうさせて、もらうよ」杉浦が軽い口調で言った。「いや、ほら、こっちにも生活とか商売とか、あるから。ちゃんと、そちらで対処してよ」
ここまであからさまに突き放されるのも、悪くはない。要するに正直が一番だということだ。
「杉浦さんたちを、巻き込まないようにします。それと、今日のお礼は、すべてが片づいたらきっちりとさせてもらいます」
「わかった。じゃあ、全部片づいたらさ、〈やまだ屋〉で一杯奢ってよ」
〈やまだ屋〉は、この雑居ビルの近くにある居酒屋で、私の行きつけの店だった。ただ、〈やまだ屋〉を私に紹介した鈴木と顔を合わせることはあっても、杉浦を見かけたことはなかった。
「六月かな、ウチの暑気払いを〈やまだ屋〉でやったのね。そのときにさ、見つけちゃったんだよ」杉浦は頬をゆるめていた。「あなたの名前のボトル……あれ、紅乙女でしょ」
この手の謝礼は〝お安い御用〟なのだが、舌なめずりでもしそうな彼の表情を見る限り、高くつくことになりそうなことは、容易に想像できた。〝他人の不幸は密の味〟というが、今の杉浦には胡麻焼酎の味がしているのに違いない。
「……わかりました」私は言った。「ケリがついたら、必ずお声かけします」
「とにかくさ、厄介なことは早々に片づけて、一緒に美味しい酒飲もうよ……ね」そう言うと、杉浦は笑みをたたえたまま、私の事務所から去っていった。
杉浦が姿を消してから、私は傷めた脇腹の治療を始めた。脇腹を捻らぬよう苦労して上着を脱いだ後、痛みに怯えて行動している自分に腹が立ち、ワイシャツは呻き声を上げながら一息に剥ぎ取った。ぷっくりと腫れ上がった脇腹に、湿布薬を貼る。湿布薬の冷たさが、心地よかった。脇腹以上に蹴りつけられた左腕は、痛みはあるものの、日常生活に支障を来すほどではない。ワークブーツのつま先が肋骨を打ちつけたのは、偶然だったのだ。見事なタックルの割に、こんな蹴りをしているようでは、コガネムシにフルバックは任せられない。
「――ちょっといいかい? 探偵さん」
ノックもせずに杉浦が事務所に飛び込んできたのは、コルセットを巻き終えて、ワイシャツを羽織ったときのことだった。
「なにが、あったんです?」私はワイシャツを着る手を止めて、訊いた。まさか、とは思うが、カマキリたちが戻ってきたというのか――
私の心配を余所に、コルセットを巻いた私の姿を見て杉浦は、にやけた顔を作った。
「どう……しました?」
「いや、あのさ。なんか〝出入り〟に行く前に、晒しを巻いたみたいに見えて……昔、任侠映画で見たんだよね、こんなシーン」
「杉浦さん、冗談を言いに来ただけなら、とっとと出てってください」
「いやァ……ごめん、ごめん」杉浦は、ばつが悪そうに頭をかいた。
「……で、なんの用です?」
「あのね、これ……なんだけど」杉浦がワイシャツの胸ポケットを探った。「ウチにね、小橋って女の子がいるんだけど、その彼女がさ……あの連中に、ナンパされたらしいんだよね」
「ナンパ……ですか」他人様の事務所に、暴力沙汰覚悟で押しかけて来るには、随分と余裕のあるヤツらだ。いや、それとも私が〝なめられていた〟だけなのか。
「そうなんだって。なんでも、金髪のヤツに声をかけられて、〝きみ、かわいいね〟なんて、言われたらしいけど……そんな、かわいくないんだよ」余計な情報をつけ加えた後、杉浦は話を続けた。「それでね、金髪のヤツに、これを渡されたんだって。いつでも、電話してきてって」
杉浦が差し出したのは、一枚の名刺だった。〈オフィス・クリザンテーモ 菊地良明〉とある。先刻はジープ・コマンダーのナンバーが記されたメモで、今度は金髪のカマキリこと、菊地良明の名刺。杉浦のワイシャツのポケットは、四次元に繋がっているのかもしれない。
「これ、役に立つかな?」と杉浦。
「役に立つ……なんてもんじゃないですよ。紅乙女じゃもったいない。森伊蔵をごちそうすることにします」
「森伊蔵かァ。芋、苦手なんだよねェ――」
「じゃァ、宿酔い覚悟で、紅乙女を飲んでください」
「ありがとう」杉浦が相好を崩した。
その表情は、彼が筋金入りの〝左利き〟であることを証明していた。
軽い足取りで杉浦が四階の〈学朋出版〉に帰った後、私はやらなければならない、いくつかのことをした。まずは、ワイシャツの前を閉じて、身だしなみを整えた。それから、廊下の突き当たりにある共用トイレからモップを持ち出して、廊下の掃除をした。杉浦が貸してくれたコルセットの効果は〝てきめん〟で、先刻までのような鋭い痛みを感じることなく、金髪頭のカマキリが残していった血痕を拭き取ることができた。
掃除を終えてからは、温め直したパーコレータのコーヒーを手に、デスクの椅子に腰を降ろした。黄金比率のブレンド――キリマンジャロが「2」、モカが「1」、ブルーマウンテンが「3」――で淹れられたコーヒーを飲みながら、杉浦が届けてくれた金髪頭のカマキリ――菊地良明の名刺に目を通した。
名刺には、名前のほかに住所が記されていた。〈オフィス・クリザンテーモ〉――〝クリザンテーモ〟は、確かイタリア語で〝菊〟のはず。なかなか、しゃれた名前をつけたものだ。カマキリのくせに――は、清澄白河にあるらしい。
これ以上、この件に関わるべきではないのかもしれない。しかし、杉浦たち〈学朋出版〉の人々を巻き込むわけには、いかなかった。
私は煙草をくわえて、ブックマッチで火をつけた。
――門前仲町には、鴨南蛮の美味い蕎麦屋があったな
煙をくゆらせ、コーヒーを飲みながら、そんなことを思い出した。随分と顔を出していないが、今でも営業しているのだろうか。清澄白河から門前仲町までは、充分に歩いて行ける距離だ。あの蕎麦屋が閉店していたとしても、なにがしかの美味いものはあるだろう。
――散歩がてら、深川めしも悪くない
きっちり根元まで煙草を喫った後、私は腰を上げた。余程、腹が減っていたのか、自分で思っていたよりも、勢いよく立ち上がったらしい。
脇腹が、少しだけ痛んだ。
ジローの伝言(1)