コップを洗いながら
ふと幸せの在りかについて考える。
洗い物をしながらふと見た夢のことを考える。
くるくるとスポンジで、誰かの残したコップを自分の分も一緒に洗いながら、先ほどから続けて見た夢のことを考えた。
一番目は、私の勉強机に白い蘭の花を活ける夢。
全体的に運が高まるらしい。勉学が成功するということだろうか。
二番目は、優しそうなお地蔵様の夢を見た。
ふと、祖母のことが気にかかる。
祖母はいつも孫達のことを炊事場の神様にお願いしていると言っていたから、何かあったのでは、と考えたのだ。
しかし何の音沙汰もなく、まぁ大丈夫だろう、あんなに元気なのだから。それにその時は、そっとお釈迦様に救われるように逝くはずだ、あんなに善人なのだから、と妙な覚悟を持っている自分に、本当に死に対して強いな、と思う。
昔、修学旅行先で、見事近所の良犬の死を当てたのだから、何か先天的な能力があると思われる。
新興宗教は大嫌いなのだけど、京都が近かったのもあって、昔からよく手を合わせに行った。
線香の匂いは、ふと嗅ぐと懐かしくなる。幼い頃、兄弟喧嘩で負けたか何かで泣いた後、一人静かに泣きやんで、ぼーっと台所や和室の掛け軸なんかを眺めていたのを思い出す。
お地蔵様の夢も、吉夢であった。全体運上昇。
弟がお茶を冷蔵庫から取り出すのを見て、洗ったコップ使って、と言ったところで、ふと幸せとはこういう小さな務めにより生み出されるのではないかと思った。
絶えず連れ人に声かけをすること。マメに犬の皿を洗うこと。毎日の掃除。勉学に励むこと。仕事をさっと終わらせること。人様のことに口を出さないこと。
お金は要ると判断したら使い、要らないと思ったらとことん使わない。幸せには手を抜かない。
こんな世の中だから、娯楽は欠かせない。ただし、長く付き合えるものに限る。
私がこの文を認めようと席を外したら、犬が後追いしてこたつから顔を出した。この子は幾つになってもミルクの匂いがする。
面白いドラマがやっている。ただそれだけのことが嬉しくて、母とダイエットのことなど話しながら笑い合う。
この幸せが失われる時が来る。しかし私は一人ではない。水木しげる氏の言葉を借りるなら、ほら、見えない誰かが其処彼処にいて、談笑などしている。
ふと氏の作品を亡くなった祖父と昔見たなと思い出しながら、何故幼い時はああも幸福に満ち溢れていただろうと考える。
やはり、目に見えぬ幸せが身の回りに溢れていたのだろうと、今では稀にしか幸福を感じられなくなった世の中の人に受けた手酷い記憶を思い出しながら、しかし私は守られているな、とまた感じた。
とても気温の良い春の夜更け。そろそろ寝なくては。
明日は通院日だ。増薬によりどのような変化があったか先生に伝える。素直に話そうと思う。
そして束の間、父が帰る。長く居られないと知りながらも、家族皆喜んでいる。
また犬が私に来なくなるな、と思いながら、父を何処へ連れて行ってやろうか考えた。
日々、務めにより之幸せは在り、放ったなら、糸が切れるように、或いはカンダタのように待つのは血の海だ。
しかし諦めぬと誓うなら、私の幸せを約束しようと、産まれる前に誰かと交わしたはずの約束を思い出す。
或いはあれは、母との幼い日であったか。
ここまで書いて、今日はもう止すことにする。
藤の花も見頃は過ぎた。実りの5月が来る。
惜しみながらも、季節の変わり目を心秘かに楽しみにしている。
平成28年、4月の終わり頃。
夜更け。
コップを洗いながら
機嫌よく目覚めながら。