東京都人並区
1 雨と開かないドア
いつまで降るんだろう。
夕暮れ時から降り始めた雨は、次第に激しくなっていくような気がする。普段はめったに見ない天気予報にテレビのチャンネルを合わせてみたけれど、ところにより大雨のおそれ、ぐらいしか判らない。
花奈子はリモコンを手にすると、番組をバラエティに切り替えた。お笑い芸人が友達からの差し入れだけで生活するという、最近始まったやつだ。「あんずりんぐ」のアプリコット清、今日の晩ごはんはオイルサーディンと素うどんにポテトサラダらしいけれど、花奈子の夕食だってあんまり変わらない。
電子レンジで温めた冷凍のグラタンと、昨日の残りの野菜炒め、冷凍の食パン一枚。それだけでは少し物足りないので、フルーツヨーグルトも冷蔵庫から出してくる。雨の音でテレビが聞こえない時があるので、花奈子は少し音量を上げた。
もう中三だし、一人で食事するのなんて慣れているはずなのに、こんな日はやっぱり誰かいてほしいと思ったりする。お父さんは予備校で教えているから、いつも帰りは十一時を回る。幸江ママは弟の拓夢の付き添いで、今週はずっと病院。
でも、本当の事を言えば花奈子はこの家にたった一人というわけじゃない。二階の突き当たりの部屋に、お兄ちゃんの孝之がいるのだ。彼は花奈子と六つ離れていて、花奈子が中学に入った年の秋からずっと部屋に閉じこもっている。冷蔵庫の食べ物が知らない間に減っていたり、朝起きると台所のごみ箱にコンビニのおでんの器が捨ててあったりして、それなりに飲み食いして、シャワーを浴びたりトイレに行ったりしている気配はあるけれど、その姿を見た事はない。
お兄ちゃんがどういう理由で部屋から出てこないのか、花奈子には判らない。それなりに問題かもしれないけれど、家族にはもっと大きな問題がある。弟の拓夢だ。拓夢はまだ四つなのに、重い病気でずっと入退院を繰り返している。花奈子たちとかなり年が離れているのは、幸江ママがいわゆる「継母」だからだ。
花奈子を生んだお母さんは、花奈子がまだ拓夢よりも小さい頃に病気で亡くなった。そして花奈子が四年生の時に、お父さんは幸江ママと再婚したのだ。それからすぐに拓夢が生まれて、家族五人で普通に暮らしていたのに、拓夢が病気になった頃から、何もかもぎくしゃくしている。
幸江ママは拓夢につきっきりで、お父さんも病院に行く時間を増やすために、高校の先生を辞めて予備校で教えるようになった。そしてお兄ちゃんは部屋にこもったまま。
とはいえ、花奈子はもう中三だし、身の回りの事は一通り自分でできる。料理だって今みたいにテスト期間じゃなければ、カレーやスパゲティぐらい作れるし、掃除だって手抜きだけれど、しないわけじゃない。
はっきり言って、家族にとって今の大問題は拓夢の病気であって、もう二十歳を過ぎたお兄ちゃんの引きこもりは「なかったこと」レベルの扱いになっている。それに、お父さんはともかくとして、幸江ママにとって実の子供ではないお兄ちゃんの事なんて、手におえないというのが本音だろうと花奈子は思っている。
一人の食事は本当にあっという間に終わってしまう。だからあんまり、時間をかけて準備する気になれないのだ。流しに食器を下げて、冷蔵庫のドアに入れていた野菜ジュースのペットボトルを出す。どうもお兄ちゃんが飲んだらしくて、朝よりずっと減っていた。
「んもう、自分で買ってくればいいのに」
つい文句を言って、一リットルのボトルに口をつけて、残った分を全部飲んでしまう。雨はどんどん勢いを増し、時おり台所のガラスに、まるで砂粒でも投げつけたような激しい音をたててぶつかってくる。一瞬、明かりが瞬いたような感じがして、それからしばらくすると、低い、地を這うような雷鳴が長く轟いた。
「うっわ!雷!やばい!」
雨はともかく、雷は大嫌い、というか本当に怖い。花奈子は部屋に戻ってベッドに避難しようと、大急ぎで食器を洗い始めた。そこへ居間の電話が鳴り始める。
「え!どうしよう!」受話器をとったらいきなり感電とかするんじゃないかな、と思ったけれど、ディスプレイには「お父さん」とあるから、出ないわけにいかない。
「えーと、もしもし?」と、異様に早口で電話に出ると、お父さんは「何を慌ててるんだ」と言った。
「だって、雷が鳴ってるから」
「おう、そっちもすごいか。こっちも雨がひどくて、学生が帰れないんだ。全員を家の人が迎えに来てから帰るから、下手したら十二時を回るかもしれない。場所によっては道路が冠水してるらしいし、近頃はやりの、ゲリラ豪雨って奴だな」
「そうなの?だったら車でも危ないんじゃない?」
「まあ、それ位の時間には雨も峠を越えてるだろうが、問題は水が引くかどうかだな。三津川の様子次第だけれど、最悪、こっちに泊まることになるかもしれない。うちの辺まで水がくることはないと思うけれど、とにかくずっと二階にいなさい。お父さんから寛ちゃんにも電話して、何かあったら迎えにいってもらうから」
「わ、わかった。まあ、こっちは大丈夫だよ」
そう言って強がってみたものの、受話器を置いた途端に何だか不安になる。何より、お父さんの真剣な感じが、この雨は普通じゃないという事をはっきりと物語っていたからだ。とにかく、さっさと台所を片づけて二階に上がろう。そうして洗い物の残りをようやく終わらせたところへ、また電話が鳴った。
「どう?花奈子、この雨でびびってる?雷、怖いだろ?」
やたら能天気な寛ちゃんの声。とたんに花奈子は何か反発したくなって「この程度でびびるわけないじゃん!」と言い返した。
「あっそ。だったらいいけど。お父さん何だか心配しちゃってたから、今から迎えに行こうかと思ったりして」
「大丈夫だよ。そんな事したら、寛ちゃんの方が途中で遭難するんじゃない?」
「そうなんです、なんつって」
自分で言ったオヤジギャグに自分でうけて喜んでいる、寛ちゃんは亡くなったお母さんの弟だ。三十代だけれど、なんか結婚する気配もなくて、ばあちゃんと二人暮らしをしている。
「まあとにかく、何かあったら電話してきなよ。こっちの方が高台にあるし。それにさあ、こないだ新しいぬいぐるみ買ったんだよ。ダイオウグソクムシ、超リアル」
「それはちょっと見たいな。また土曜日に行くよ」
「来て来て。じゃあねえ」
全く、同じ男の人でも、お父さんに比べると信じられないほど弾けてるけど、お母さんが生きていたら、こんな感じなんだろうかと思ったりもする。
「もう、邪魔ばっかり入るんだから」
ようやく洗い物を全部片づけて、二階にある自分の部屋に行く。カーテンをまだ引いていないせいで、外の雨音は台所にいた時よりも更に激しいように思えた。風向きの関係か、こちらに雨は吹き込んでいないようなので、花奈子は思い切って窓を開けてみた。湿った生暖かい空気と、水の匂いが押し寄せてきて、それと同時に空ぜんたいが薄紫に光った。
「わ!」
悲鳴を上げるのと同時に、雷鳴が天を渡ってゆく。一瞬の明かりに照らされた、普段見慣れた窓の外の景色は、叩きつけるような雨と、風に巻き上げられたしぶきの中で白く霞んで見えた。再び闇に戻ったのもつかの間、鉛色の空を引き裂くように青白い稲妻が駆け抜け、後を追うように雷鳴が炸裂する。花奈子は慌てて窓を閉め、カーテンを引くとベッドに飛び込んだ。
何か気の紛れる事をしようと思うのに、何も手につかない。雷鳴はひっきりなしに四方八方から吼えかかり、激しい風のせいか、家のあちこちがみしみしと音をたてた。その時になって花奈子は、自分の携帯を台所のカウンターに置き忘れてきた事に気がついた。あれがなくては、いざという時に助けを求めることができない。
仕方なくベッドから出て、それでもやっぱり怖いのでタオルケットを身体に巻きつけて廊下に出る。その短い間にも雷は頭上で荒れ狂い、その度に身をすくめて立ち止まるので、台所まで移動するのにかなりの時間がかかった。それからまた二階へと戻るのに、ふと思いついて玄関の様子を見ることにしたけれど、暗い廊下の明かりをつけた途端、花奈子は小さな悲鳴を上げていた。
ドアの下から濁った水が流れ込み、サンダルがぷかぷかと浮いている。水かさはまだほんの数センチというところだったけれど、この雨なら玄関を越えて床上まで流れ込むのは時間の問題だと思えた。
「嫌だ、どうしよう。どうしよう」
気がつくと膝が震えている。それどころ全身が震えていた。花奈子は廊下の明かりをつけたまま階段を駆け上り、ベッドにへたり込むと携帯を握りしめた。本当はお父さんの声を聞きたいけれど、今いちばん近くにいるのは寛ちゃんだ。落ち着けと、自分に言い聞かせて発信すると、寛ちゃんはすぐに電話に出た。
「ほら、やっぱり怖くなったんだ」と、相変わらず能天気。
「違うってば、水!玄関に水が入ってきたの!」
「花奈子、今、家のどこにいる?」
寛ちゃんの声は急に低くなって、何だかそれはお父さんの声を思い出させた。
「二階の、自分の部屋」
「絶対に下に降りるな。とにかく二階でもベッドの上とか、机の上とか、高い場所にいるんだ。もし三津川から水がきてるとしても、その辺なら二階までは浸水しないはずだから、落ち着くんだ」
「わ、わかった」
「でももし万が一、二階まで水が来たら、天袋に上がるんだ。そこから天窓を開けて屋根に逃げろ。廊下に入口があるだろ?」
「私ひとりじゃ開けられないよ。」
「大丈夫、できるから、それに…孝之がいるだろ?あいつはどうしてる?」
「わかんない」
「わかんない、じゃないよ。緊急事態なんだから、二人で力を合わせないと。花奈子、この電話、孝之に替わって」
「え~?」と情けない声をあげながら、花奈子は渋々廊下に出た。確かにお兄ちゃんに叩かれたりした事はないけれど、部屋に入ろうとしたお父さんにすごい勢いで怒鳴って、壁なんか蹴ったりしていた事があるから、怖いのだ。
「うーん、と、お、お兄ちゃん?」
ずいぶん長いこと直接話しかけていないので、この呼び方でよかったのか、判らなくなってくる。その間にも雷は情け容赦なく空を暴れ回っていた。
「寛ちゃんから電話だよ。雨すごいから、ちょっと替わってって」
そう言いながら、花奈子はドアを軽くノックしてみた。それを嘲笑うように、また雷が吠える。
「ねえ、入るけど、怒らないでね」
返事はないけれど、話をしないわけにいかないので、花奈子はドアノブに手をかけた。ゆっくりと内側に押すと、鍵はかかっていなくて、すんなりと開いた。しかし中は真っ暗で、稲妻に合わせて時々ほんのりと明るくなってはまた闇に沈む。まさかお兄ちゃんはこの大雨など気にもかけずに、眠っているんだろうか。
「電気、つけていい?」と言いながら、花奈子の指はもう、壁にある明かりのスイッチを押していた。正直、かなり散らかってると想像していた部屋はすっきりと片付いていて、花奈子の部屋よりもきれいなほどだった。勉強机、パソコン、本棚、ベッド。でも、肝心の人がいない。
「お兄…ちゃん?」
もしかして、自分がいきなり入ってきたから、クローゼットに隠れたんじゃないかと考えながら、花奈子は二歩、三歩と進んだ。その時、部屋が真っ暗になった。そしてひときわ大きな雷鳴が轟いたかと思うと、まるで地震のように家全体が激しく揺れ動いた。
2 東京の子はカッコいい
台風の後ともまた違う感じ。
ゆうべの大雨の余韻は風の中に湿っぽく残り、空もぼんやり曇っている。花奈子は引っ張ってきたホースをもう一度手繰ると、レバーを握った。勢いよく迸る水は、玄関に残っていた泥を洗い流してゆく。
ひと段落ついたところでデッキブラシに持ち替え、たまった水を外へと掻き出す。こうやって少しずつ綺麗にしていくと、ゆうべの恐ろしい時間も少しずつ遠ざかっていくような気がする。
あの、特別大きな雷だと思ったものは、土砂崩れだった。花奈子の家のすぐ近くにある、赤牛山という小さな山、というよりは丘が崩れたのだ。夜が明け、窓を開けて外の様子を見た時、まっさきに目に飛び込んできたのは、赤牛山の残骸とでもいうべきもので、灌木に覆われてこんもりとした、まさに牛が蹲っていたようなその姿は、大きな手が乱暴にかき回したかのように引き裂かれ、黒い土がむき出しになっていた。
丘の向こう側には公園があるけれど、あそこはどうなっているだろう。そう思うと何だか心配になって、花奈子は長靴を履いて外に飛び出した。まだ霧のような雨が降っていたけれど、水は引いていて、あちこちにゴミや木切れが落ちていて歩きにくい。それでもどうにか赤牛山の近くまで行くと、他にも何人かの人が様子を見に来ていた。
不安な予想は的中して、山の土砂はほとんどが公園に流れ込んでいた。シーソーや鉄棒は泥の中で、ブランコの支柱はひしゃげ、すべり台は道路に押し出されている。いつも学校の帰りやなんかに、友達とおしゃべりしたり、待ち合わせしたり、大切な場所だっただけに、この状態はショックだった。
しかし何より花奈子を驚かせたのは、崩れた斜面から顔を覗かせている、いくつもの巨大な石だった。大きいものは軽自動車ぐらい、小さいものでも冷蔵庫か洗濯機ぐらいで、どれも長方形に近い形をしている。たぶん元々は積木のように組み合わさっていたのだろうけれど、今はまるで作り損ねたサンドイッチみたいにばらけている。
それはとても奇妙な光景で、写真を撮っている人もいる。花奈子は自分も携帯を持って来ればよかった、と思いながら、あたりを少し歩き回ってみた。元通りにするのに、どれくらいの時間がかかるだろう。一週間?それとも三ヶ月ぐらい?小さいと思っていた赤牛山から溢れた土砂の量は、元の倍ほどもあるように感じる。花奈子は長靴の爪先で土を蹴ってみたけれど、それはねっとりと重く、簡単には運べそうになかった。
「大変だなあ」
思わず呟きながら、花奈子は濡れた土を繰り返し蹴った。と、その時、何かがきらりと光を反射した。不思議に思って更に深く蹴り込む。しゃがみこんで、手が汚れるのも構わず、土の隙間から顔を覗かせた、その光るものを掘り出してみると、ガラスのように透明な玉だった。胡桃ぐらいの大きさで、色はどこか青みを帯びた黄色、レモンイエロー。
「きれい…」
泥だらけでも十分に美しいのだから、水で洗えば、もっと輝くに違いない。ちゃんと磨いて弟の拓夢にプレゼントしようと思い、花奈子はその玉を持って帰ることにした。
「すいませーん」
玄関先にある観音竹の鉢を動かし、その下にたまった泥を流していると、誰かが声をかけてきた。顔を上げると門柱のそばに女の子が立っている。少し年上、たぶん高校生みたいで、すらっと背が高い。何だろう、と思いながら花奈子はホースの水を止めた。
「邪魔しちゃってごめんなさい、ちょっと、お手洗いかしてもらえないかしら」
まるで「いいお天気ね」とでも言うような笑顔で、そんな頼みごとをするものだから、花奈子は少し気圧された感じで「あ…はい、どうぞ」と答えていた。
「そう?ありがとう!」と彼女は更に笑顔になると、後ろを振り向いて「大丈夫だってよ!」と声をかけた。すると植え込みの陰から、彼女によく似た、やっぱり背の高い男の子が現れ、花奈子に向かって心もち頭を下げた。状況が呑みこめずに花奈子が「え?」と固まっていると、女の子は「ごめんごめん、お手洗い借りたいの、その子なのよ。って、弟なんだけど。恥ずかしいから自分で言えないなんて、困るのよね」と、説明しながら、男の子の腕を引っぱって、花奈子の方へと歩み寄った。
男だなんて、そんなの聞いてないよ、と思う一方で、まあ切羽詰まってるなら仕方ないか、という気もして、花奈子は「どうぞ」と、開けっ放しになっていた玄関に二人を案内した。
「そこの、二つ目のドアです」と、お手洗いの場所を教えると、彼は「すいません」と小声で挨拶して入っていった。
「まーったく、嫌になるわ。男なんだからその辺で適当にやりなさいよ、って言ったんだけどね」
女の子はあっけらかんとした様子で、花奈子の方に向き直った。間近に見るとやっぱり背が高くて、百七十三センチあるお父さんとそう変わらない感じだ。緩いウェーブのかかったショートカットがよく似合っていて、切れ長で少し色の薄い瞳はくるくるとよく動いた。なにげないTシャツとジーンズなのに、とてもかっこよく見えるのは、スタイルがいいからだろうか。
「昨日の雨、すごかったのね」
彼女はまだ泥だらけの前庭を見回してそう言うと、目の前に飛んできた羽虫を払った。
「土砂崩れで古墳が出たっていうから、亜蘭、って弟ね、連れて大急ぎで来たんだけど、立ち入り禁止にされちゃってて、収穫なしよ。全く」
「古墳?」
「そうそう、あの、赤牛山ってとこ」
「あれ、古墳なの?あの大きな石?」
「そうよ。あなた見たの?立ち入り禁止のテープ張ってなかった?どっか別の場所から入ったの?」
彼女はまるで噛みつきそうな勢いで、花奈子を質問責めにした。
「私は朝、六時ぐらいに行ったんだけど、その時はテープとかなかったよ」
「そうなんだ!私達はついさっき行ったんだけど、危ないからって全然近寄らせてもらえないの。せっかく夜通しタクシー飛ばしてきたのに」
「夜通しって、どこから来たの?」
「東京」
「東京?!東京からタクシー?」と、驚く花奈子を気にもせず、彼女は「ほら、ちゃんとお礼言いなさいよ」と、戻ってきた弟に声をかけた。彼は「どうもありがとう」と伏し目がちに声で言うと、「じゃあ、行く?」と女の子にたずねた。
「んー、やっぱ、私もお手洗い借りていい?あ、遅くなったけど自己紹介しておくと、私、夜久野美蘭っていいます。高校三年生。弟も。つまり双子なの」
そう正式に挨拶されてしまうと、ますます断る理由も見つからなくて、「どうぞ」と言うしかなかった。
「この辺、ファストフードとか全然ないんだもんね」と言いながら、美蘭はまるで我が家のように玄関から上がっていった。気がつくと花奈子は亜蘭とかいう男の子と二人きりで取り残されていた。
彼の髪も緩く波打っていて、こちらは肩のあたりまで伸ばしている。顔立ちはお姉さんによく似ていたけれど、彼女はよく笑うのに、彼はほとんど無表情で、何だか人形っぽくすらあった。
「東京から、来たの?」
黙っているのも悪いように思った花奈子は、そう質問してみた。彼は「うん」とだけ返事して、あとは何も言わない。まだ何かきいた方がいいのか、黙っていた方がいいのか、あれこれ考えて、それからようやく「あのさ」と口を開いたその瞬間、彼も同時に「あの…」と言っていた。
「何?」と花奈子が尋ねると、彼は「いや別に」と目を伏せる。だったらどうして話しかけたりするのかなあ、と思ったものの、花奈子も自分が何を言おうとしていたのか判らなくなってしまった。
「あんた、何をぼんやり突っ立ってるの」
気がつくと、戻ってきた美蘭が亜蘭を睨んでいる。
「こういう時は軽く世間話でもして、座を持たせとけっての。そんなだから人のおこぼれもらうような仕事しか回ってこないのよ。あんたね、そもそも自分でお手洗い貸して下さいって言えないような男だから駄目なの。そう思うよね?」と、今度はいきなり花奈子の同意を求めた。まあ確かに、美蘭の方がずっと男前な感じがするけれど、頷くわけにもいかない。盛大にけなされた亜蘭は慣れているのか、お説教を軽く受け流すと、ポケットから取り出したスマホに逃げ込もうとしていた。
「ほーんと、情けないったら」と、まだ鼻息の荒い美蘭に、花奈子は「仕事って、高校生なのにもう働いてるの?」と尋ねてみた。
「うん、モデルやってるの」
「そうなんだ!二人とも背が高いし、とっても綺麗な顔してるもんね!」
やっぱり、という気持ちで花奈子は頷いていたけれど、美蘭は少し眉を上げて「どこが」と言った。
「モデルやってるのは亜蘭だけ。でもって全く売れてないし。まあ、社会勉強のために事務所にぶち込んだけど、呆れるほど駄目よね。相撲部屋の方がまだよかったかも。ねえ、それはそうと、お礼の代わりに掃除、手伝おうか?一人でやってるんでしょ?」
彼女は花奈子が返事をする前に、立てかけてあったデッキブラシを手にすると「ほら」と、亜蘭の方に突き出した。
「とりあえずこの辺の泥を全部、綺麗にすればいいのかな。私が水を流すからさ、あなたは中の用事とか、してくれば?」と、今度は花奈子が手にしていたホースを持とうとする。花奈子は慌てて「大丈夫、自分でするから」と断った。
「でもまだ全然片付いてないじゃない。あ、そうそう、あなた名前は?」
「えっと、花奈子」
自分の名前に「えっと」もないもんだけれど、もう完全に美蘭のペースで、花奈子はそれについていくのに必死だった。
「可愛い名前でいいね。私なんか小学生の頃からずっと、ACミランって呼ばれてたりしてさ」
彼女はそう言ってあははと笑ったけれど、花奈子はそこで笑うべきかどうか、判断できなくて「そうなんだ」と頷いた。
「でもこれ、一人でやってたら一日かかるんじゃない?」
半ば強引に花奈子から奪い取ったホースでポーチのタイルに水をかけながら、美蘭は心配そうに尋ねた。
「大丈夫。もうすぐ親戚の人が来るから」
「そっか、ちゃんと助っ人頼んでいるのね。亜蘭!もっとてきぱき動きなさいよ」と、喝を入れているところへ、耳慣れたエンジンの音が聞こえてきた。それは段々と大きくなって、やがて門の外に白い小さな車が停まる。
「いやあ、かなりひどいな」
そう言いながら車から降りてきた寛ちゃんは、ジーンズに長靴、首にはタオルをかけ、ポケットには軍手を突っ込んでの臨戦態勢だった。
「あちこち見ながら来たら、遅くなっちゃった。ごめんな」
昨日の電話では随分と深刻な感じだったのに、寛ちゃんはもう、いつもの能天気な人に戻っている。
「こちらは、花奈子の、友達?」と、寛ちゃんは珍しそうに美蘭と亜蘭に向かって会釈した。美蘭は「に、なりたいなあ、なんて思ってますけど。ちょっとお手洗い借りただけなんです」と、にっこり笑顔で説明し、「フィアットのチンクエチェント、いいんだ」と続けた。
「え、君わかるんだ。嬉しいなあ。この車に乗ってて、ほめられたの初めてだよ。うるさいとか、狭いとか、故障多いとか、みんなボロクソに言うんだから」
実を言えば花奈子もその一人だし、ばあちゃんも「あの車で病院に送ってもらうの、窮屈でねえ」と文句を言っている。しかし美蘭は「やっぱり乗るんだったらこういう車でないとね」なんて絶賛しているし、亜蘭もデッキブラシ片手に傍まで行って眺めていた。
「よかっらた乗ってみる?」
寛ちゃんはすっかり有頂天だ。でもそこは美蘭の方が冷静で、「いえ、後片付けとか忙しいでしょうから、私達これで帰ります」と断った。
「でも、駅まで送ってもらったら?この辺はタクシーなんか走ってないよ」
二人が東京からタクシーで来た、という事を思い出して、花奈子は急に心配になった。
「ああ、それは大丈夫。待ってもらってるのよ。あの、時計台がある広場のところ」
「じゃあ、またタクシーで東京まで帰るの?」
「そうね、だってどうせ往復のお金払うんだし」美蘭はさらりと言ってのけた。こっそり寛ちゃんの顔を見ると、ぽかんとしている。
「それじゃ、本当にありがとうね。ほら、亜蘭、ちゃんとあいさつしなさいよ」
促されて亜蘭も低い声で「ありがとう」と頭を下げ、二人は現れた時と同じぐらいあっという間に去っていった。
「俺の聞き違いかもしれないけどさ、タクシーで東京まで帰るって言ってた?」
しばらくしてようやく、寛ちゃんが口を開く。
「うん。夜通し走って来たらしいよ。なんか、赤牛山って古墳なんだってね。それを見に来たって」
「え?本当か、それ」
「らしいよ。確かに、私が今朝見に行ったら、土の中から大きな石が幾つも覗いてたし」
「へーえ、近所にいると案外知らないもんだな。でもさ、あそこが崩れたから、ここはぎりぎり床下浸水で済んだんだぞ」
「どうして?」
「ほら、これが三津川だとすると、ここがこの家だ。で、間にある赤牛山が崩れたおかげで、溢れた水の流れがせき止められて、方向が変わったんだよ」と、寛ちゃんは泥の上にデッキブラシで図解してみせた。
「さっき回ってみたら、山の向こうは床上まで水が来たらしくて、後片付けも大変そうだったぞ。それはそうと、お父さんは?」
「きのう、十二時過ぎたぐらいにやっと帰ってきた。それで、朝は六時前にまた出てったよ。予備校も少し水に浸かっちゃって、夏期講習がじき始まるから、事務の人と先生と、総出で片づけるんだって」
「なるほど、で、幸江さんは拓夢のとこか」
「うん。でも少し前に電話をくれたよ。病院の辺も昨日は凄い雷だったって。拓夢は怖がって泣いたらしいよ」
「だろうな」と、寛ちゃんはうなずいて、ポケットから軍手を取り出した。
「孝之は、出かけたままか?」
「うん。本当のとこ、いつ出ていったのか判らないけど」
花奈子の脳裏に、昨日、思い切ってドアを開けた、お兄ちゃんの部屋の光景がよみがえった。ずっとひきこもっていたから、当然そこにいる筈だったのに、彼の姿はなく、部屋はすっきり片付いていた。そのがらんとした空間は、レースのカーテンごしに突き刺してくる稲光の中で、青白く瞬いていた。
「冷蔵庫のジュースが減ってたから、朝はいたと思うんだよね」
「これまでも、そんな風に出かける事ってあったのか?」
「ないよ。でも、コンビニとかはちょくちょく行ってたみたいだから、もしかしたら、出かけてるうちに、大雨で戻れなくなったのかもしれない」
「お父さんは何て言ってる?」
「まあ、お兄ちゃんも二十歳過ぎてるし、子供とはいえない年だから、少し様子を見ようかって。もしかしたら友達の所とかかもしれないし」
「心当たりあるのか?」
「わかんない。お兄ちゃんの友達っていったら、モリオくんとワッパくんぐらいじゃない?」
「なるほどな」と、あまり納得していない顔つきで頷くと、寛ちゃんはデッキブラシを手にとった。
「とにかく、できるところから片づけるか。晩めしはうちに食べに来いよ。ばあちゃんが春巻き作るって」
「本当?じゃあ頑張って、早く終わらせよう」
ばあちゃんが作ってくれる料理の中で、花奈子がとりわけ好きなのが春巻きだ。ばあちゃんもそれを判っていて、いつも食べきれないほど作って、残りは持たせてくれる。別に特別な材料が入っているわけでもなく、もやし、はるさめ、たけのこ、しいたけ、豚肉といった普通の中味なのに、何故だかとてもおいしくて、冷めたのを次の日に食べても、それはそれでまた別の味わいがあった。
「花奈子、今日はうちに泊まっていけば?明日も休校なんでしょ?」
デザートの葡萄が入ったガラスのお皿をテーブルに置くと、ばあちゃんはそう尋ねた。
「うーん、でもやっぱり帰ると思う」
花奈子は早速葡萄を一粒つまんで頬張る。軽く噛むと皮がぷちっと弾けて、甘い果汁が流れ出した。
「明日は拓夢の着替え持って、病院に行かなきゃ」
「そうなの?花奈子もお手伝い大変だね。言ってくれたらばあちゃんも手伝うのに」
「幸江さんもあんまり気を遣いたくないんだよ、な」と、言って、寛ちゃんも手を伸ばすと葡萄を口に放り込む。
「亡くなった先妻の実家なんて、下手したら姑より面倒だし、接触は最小限に留めとくに限るって。こっちも前線にしゃしゃり出るより、後方支援の方が喜ばれるんだよ」
「なーに判ったような口きいてるのよ、自分は気楽な独身さんのくせに」
ばあちゃんは半分呆れたような調子でそう言うと、自分も葡萄をつまんだ。「まあねえ、病院の付き添いは幸江さんのお母さんも手伝って下さってるから、それはそれでいいんでしょうけど」
そうやって一粒また一粒と葡萄を食べるうち、花奈子はふと思い出した事があった。
「ばあちゃん、あとでミシン借りていい?」
次々と出てくる端切れを見ていると、目移りしてきりがない。花奈子は散々迷った後で、赤を基調にしたマドラスチェックを選ぶと、「やっぱりこれにする」と宣言した。
「そう?じゃあ紐はこのワインレッドのにすればいいよ。大きさはこれと一緒でいいの?」
ばあちゃんは花奈子が見本に渡した、鏡とリップクリームを入れている巾着袋を手にとった。
「うん。それで、同じように両側から引っ張って、口が絞れるようにしたい」
「了解。じゃあ型紙はこれね」と言うと、ばあちゃんは分厚いファイルから型紙を一枚取り出すと、端切れに印をつけ始めた。いつも思うことだけれど、本当に手際がよくて、巾着だとか手提げなんかの小物はあっという間に縫ってしまうし、この端切れと同じ布地で作ってくれたサマードレスだって、半日かからなかった。
「はい、じゃあこっちから縫っていって」
ばあちゃんが小さなアイロンで折り目をつけてくれた端切れを、針の下に置いて押さえると、花奈子はゆっくりミシンを動かし始めた。ばあちゃんはいつも凄い速さで縫っていって、しかも縫い目がまっすぐだけれど、花奈子はこのスピードでないとおぼつかない。
「そうそう、上手ね。そこで針を刺したまま、向きを変えて」
言われた通りに縫って行くと、ただの布きれはいつの間にか小さな巾着袋に姿を変えてゆく。その変化が花奈子には面白かったし、ばあちゃんもきっとそれが好きだから、こんなに色んな物を縫えるようになったんだろう。ミシンで縫い終わり、糸の端をきれいに始末して表に返し、ワインレッドの紐を通して両端を縛ると完成。この袋に、今朝拾ったあの、レモンイエローの玉を入れて、拓夢にプレゼントするのだ。
「へーえ、上出来じゃん」
いつの間にか寛ちゃんが、ビールのグラス片手に覗き込んでいる。もう片方の手には灰色の、謎の物体を抱えていた。
「それ、もしかして」
「ダイオウグソクムシ」と言うと、寛ちゃんはその物体を投げてよこした。きゃあ、と声をあげて受け取ってみると、巨大なダンゴ虫にも似たリアルな外見のぬいぐるみだ。大きさはちょっとした猫ぐらいある。
「すっごい。キモカワだ」
花奈子は嬉しくなって、そいつをぎゅっと抱きしめてみた。寛ちゃんはもう立派に「おじさん」って感じの年なのに、こういう変なぬいぐるみを色々と揃えている。部屋には他にも実物大オオサンショウウオとか、ドイツ製のアリクイとか、色んな奴らがいる。
「本当に変な趣味にお金かけちゃって」と、ばあちゃんは呆れたように言うけれど、花奈子は心の底では寛ちゃんサイドだったし、これからどんな変なものが増えるかと思うと、楽しみでしょうがない。いつか拓夢が退院してきたら、一緒に寛ちゃんの部屋に乱入するのが花奈子の夢だった。
「あんた、明日は空いてるの?花奈子についてってあげたら?」ミシンを片づけながら、ばあちゃんは寛ちゃんに尋ねた。
「残念ながら明日は出勤。でも片道なら送って行くよ」
「いいよ、電車の方が早いから」
花奈子は片手にぬいぐるみを抱えたまま、ばあちゃんを手伝って、端切れや洋裁道具を片づけた。
「本当はフィアット嫌なんだろ。こないだエンストしたから」
「まあね。結局、途中から電車で帰ったし」とやり返すと、「あの車はそういう非日常なとこがいいんだよ」と変な正当化をされた。寛ちゃんは何だか難しい仕事をしているけれど、毎日会社に行く必要はなくて、週に二、三回でいいらしい。おかげで花奈子やお父さんは家の事やなんか色々と手伝ってもらえて、とても助かった。
「そういえばさ、今日来てたあの、東京の子、可愛かったよな」
「ん、そうだね」
寛ちゃんはどうやら、フィアットを絶賛してくれた美蘭の事を気に入ったらしい。
「やっぱり東京の子って、なんかカッコいいよね」
「いやあ、あれは東京でも相当ハイレベルかな」
大学に入ってから、五年前に転職してこの街に戻るまで、ずっと東京に住んでいた寛ちゃんが言うんだから、間違いなさそうだ。
「かもね。あの、男の子はモデルやってるんだってよ」
「へーえ、友達になっといたら、彼氏紹介してくれるんじゃないか?」
「やだよ、モデルの彼氏なんて。却って自分のいけてなさが際立つだけじゃん」
全力で否定する花奈子の頭の中には、亜蘭の顔が浮かんでいたけれど、モデルなんてみんな似たようなな感じじゃないだろうか。やっぱりああいう、何を考えてるんだか判らない男の子は苦手だ。美蘭が男だったらまだしも、亜蘭は、ないな。でも自分がそんな偉そうな事を言えるような容姿でないのは、ちゃんと判っていた。
身長はちょうどクラスの真ん中あたりで、太ってはいないけど、スレンダーって感じでもない。すぐに日焼けするし、髪が太くて多く、まとめても妙に重たい感じなのでショートボブでごまかしている。おまけに奥二重なせいか地味な顔で、去年ナルミちゃんに「なんか、こけしっぽいね」と言われたのを未だに引きずっている。
「いやいやいや、モデルとか、見た目重視の業界にいる奴ほど、外見にとらわれる事の無意味さをよく判ってるんだよ」
寛ちゃんは何だか逆効果な感じのフォローを入れながら笑った。正直なところ、見た目に関しては、花奈子は本当のお母さんよりも、幸江ママの子供ならよかったと思っている。
幸江ママはとても華やかな感じのする人で、目鼻立ちがはっきりしていて、すごく色が白い。細い髪はとても扱いやすくて、軽く束ねてバレッタで留めるだけでもなんだか決まっている。
ただ、そんな幸江ママの華やかさも、拓夢が病気になってからはすっかり薄れてしまった。いつもどこか疲れた表情をしていて、髪も傷みがちで、時には荒れた唇にルージュも忘れていたりする。優しかったその瞳は、いつもどこか遠い所を眺めているような、焦点を失った鈍い光に沈んでしまった。
3 お礼も言わないで
もうすっかり最短ルートを憶えてしまった、病院の長い廊下を何度も曲がり、階段を上って、花奈子は小児科と表示の出ているナースステーションを覗き込むと、「すみません、山辺です」と声をかけた。
「あら花奈子ちゃん、今日は学校お休み?」と、顔見知りの看護師さんが応対してくれる。
「一昨日の大雨で校庭が水に浸かっちゃったから、明日一日だけ終業式やって、あとはもう夏休みです」
「そっか、何か得した気分じゃない?」
看護師さんは花奈子の心の内を見透かしたように悪戯っぽく笑うと、「お母さん呼ぶね」と内線の受話器を手にとった。ここには色んな病気の子が入っていて、身体の免疫がとても弱っている子もいる。だからお見舞いの人が持っている、ちょっとした風邪のばい菌や何かでも、大変なことになったりするので、外の人は勝手に病室に出入りしてはいけないのだ。
花奈子はそうそう、と思い出して、カウンターに置いてあるアルコールの除菌ジェルのポンプを押すと、両手をきれいにした。病室には何人も子供がいるはずなのに、学校に比べると静まり返っている。それでも、壁に貼られたキャラクターの絵だとか、折り紙で飾られた「みんなのやくそく」といった貼り紙を見ていると、ここはやっぱり子供のいる場所だという気がしてくる。
「花奈子ちゃん、忙しいのにごめんね」
呼び出しを聞いた幸江ママが、廊下を足早に歩いてくる。肩まである髪を後ろで一つにまとめて、化粧っ気のない顔はいつもより白く見えた。
「もうテストも終わったし、全然忙しくないよ」と言って、花奈子は病室に向かおうとした、ところが、幸江ママはそれを押しとどめるようなしぐさをした。
「拓夢ね、午前中の検査がとっても痛くて、ずっとご機嫌ななめで、さっきようやくお昼寝したところなのよ」
そういう幸江ママの目元にもくまがあって、花奈子は何だか胸がしめつけられるような気持ちで「わかった、じゃあ拓夢にはまた今度会うね」と、できるだけ明るく答えた。
「わざわざ来てくれたのにごめんね。せっかくだから、下でお茶でも飲みましょう」と、幸江ママは花奈子が肩にかけていた、着替えや何かの入ったナイロンの大きなボストンバッグを受け取り、一度病室に引き返してから、小さな手提げを持って戻ってきた。
病院の外来は午前中で終わるから、昼下がりになると喫茶コーナーはがらがらで、窓際の特等席にも余裕で座れる。花奈子はすっかりここのメニューを憶えているので、迷わずキャラメルサンデーを選んだ。幸江ママはツナのホットサンドとコーヒーだ。
「お昼食べそびれちゃって」と、笑うけれど、それはつまり、ずっと拓夢が駄々をこねていたという事だ。花奈子がひいき目に見ているのかもしれないけれど、拓夢は年の割に聞き分けのいい子だし、その拓夢がそんなにぐずったというのは、よっぽど辛い検査だったに違いない。
「ねえ、家の後片づけはもう終わったの?お父さんは昨日も予備校に出てたんでしょ?」
幸江ママはわざと拓夢の話を避けているみたいで、水害の事をきいた。
「大丈夫だよ。昨日は寛ちゃんが来てくれて、家の周りとか玄関とか、全部きれいにしたから。今日は保健所の人が消毒して回るらしいけど、隣のおばさんが見といてあげるって」
「そう。本当に助かるわ。何から何までお願いして、ごめんね」
そんな風に幸江ママが申し訳なさそうなのが嫌で、花奈子はキャラメルサンデーをどんどん食べながら、まるで気にしてない感じで別の話をしようとした。
「そういえばさ、赤牛山が崩れたんだよ。うちの辺まで、地震みたいな感じで揺れたんだけど、おかげで床上浸水しなかったの。実はあそこ、ただの山じゃなくて古墳だったらしくて、土の中から大きな石がたくさんのぞいてたよ。今は立ち入り禁止になってて、全然見られないけどね」
「古墳?それって、お墓だったってこと?」
「ええと、そうか、そうだよね」
言われてようやく気がついたけれど、古墳というのは要するに、大昔のお墓で、ピラミッドみたいなものだった。
「嫌だわ、何だか気持ち悪いじゃない。家のあんな近くにお墓があったなんて」
幸江ママの不安そうな表情を目にして、花奈子は自分の間違いを悟った。お墓の話だなんて、縁起でもない事を言うべきじゃなかった。
「でも本当かどうか判んない。そういえばお父さんがさ、来週の時間割がうまくいったから、幸江ママと交代できそうって言ってたよ」
「ええ、メールにそう書いてあったわ」
「それでさ、塚本さんでゆっくりしてくればいじゃない」
塚本さん、というのは幸江ママの実家だ。病院からは車で二十分程の距離で、花奈子たちの家よりもずっと近いのだった。花奈子も何度か行ったことがあるけれど、広いマンションで、まるでモデルルームみたいに綺麗で、花奈子ママの両親と、トイプードルのアズキが住んでいる。
「それより、久しぶりに家のことをしなきゃ」
「でもさあ、家の事ならお父さんと花奈子でちゃんとやってるからいいじゃない」
「別に、それが駄目っていうわけじゃないのよ」
「じゃあ問題ないよ。少なくとも、花奈子が幸江ママなら、久しぶりにお母さんのところで、寝たいだけ寝て、好きなもの食べて、アズキと遊んで、あとはなーんにもしないでゴロゴロするけど」
幸江ママは少し困ったような笑顔で、黙って聞いていた。けれどふと思い出したように「孝之くんから、何か連絡とかあった?」と心配そうに尋ねた。
「ない、かな。携帯は持ってるはずだけど、電源切ってるみたい」
「お金とか、どうしてるのかしら」
「うーん。貯めてたお年玉とか、あるんじゃないかな。あんまり無駄遣いしない人だから」
「お友達とか、連絡してみたの?」
「一応、お父さんが連絡したけど、わかんないって」
適当にごまかしたけれど、本当の事を言えば、お兄ちゃんに友達といえる存在は二人しかいなくて、そのうちの一人、モリオくんはアメリカの大学に留学しているから、そこにいる可能性はほぼない。そしてもう一人のワッパくんは、半年ほど前に亡くなっていた。急性白血病だって聞いたけれど、部屋にこもったきりのお兄ちゃんはお葬式にも行こうとしなかったのだ。
ああ、何だか悲しい事が多いな。花奈子は溜息をつきそうになって、慌ててそれをあくびみたいにしてごまかした。幸江ママの前で、これ以上心配を増やすような事は絶対にしちゃいけない。
「多分さあ、外に出てみたら、以外と楽しいんで、そのままうろうろしてるんじゃないかな。銀行の口座は判ってるから、ばあちゃんが少しお小遣いを振り込むってさ。まあ、夏休みが終わるころに、めちゃくちゃワイルドな感じで帰ってきたりしたら、笑っちゃうけど」
本当にそうだったらどんなにいいだろう。正直いって、花奈子は段々とお兄ちゃんの顔や声を忘れていくように感じていた。もしかしたら、道でばったり会っても判らないかもしれない。いきなり電話なんかかかってきても、いたずら電話だと思って切ってしまうかもしれない。
電車の窓の向こうを、青々とした田んぼが流れてゆく。太陽は傾きながらもまだ西の空に白く輝き、その日差しに炙られながら小学生ぐらいの男の子が三人、力いっぱい自転車をこいでいるのが見えた。
病院から駅まで歩いて十分、そこから電車で三十分、駅から家まで自転車で十五分、合わせてほとんど一時間が、病院から家までの所要時間だった。といってもこれは乗り継ぎがうまくいった場合で、雨が降ったり、電車に乗り遅れたりすると三十分ほど余計にかかってしまう事もある。
それでも、花奈子は電車に乗るのが嫌いではなかった。田んぼがあったり、大きな川を渡ったり、高級そうな住宅地を眺めたり。そして電車に乗っている人たちを観察して、どこへ何をしに行くのか想像するのも楽しかった。真っ赤なキャリーケースを脇に置いて、ピンクのジャケットを着たお婆さん、ずっと本を読んでいる、眼鏡をかけた四年生ぐらいの女の子、ひっきりなしに扇子で喉元をあおいでいる、スーツ姿のおじさん。
電車はけっこう混んでいて座れなかったけれど、その方があちこち見られて気がまぎれた。吊り広告は遊園地のプールだとか、家族旅行だとか、夏休み気分を盛り上げるようなものばっかりだ。
でもうちは、無理だな。
途端に何だか、他の人たちに比べて自分だけつまらないような気がしてきて、花奈子は目を伏せた。つり革につかまって揺れながら、こんな状態がいつまで続くんだろうかと考える。別に頑張れないわけじゃないけれど、拓夢はこれからもずっと病院で、幸江ママもずっと付き添いで、お父さんはずっと忙しくて、お兄ちゃんはずっと帰ってこないのかと思うと、重たい石を背負ったような感じになる。
まあいいか、それでも夏休みが始まるんだし。
休みの間も美術部は週二回のペースで活動する事になっているけれど、授業に比べれば楽なもんだし、運動部や吹奏楽部みたいに出欠に厳しくないところも助かる。そうでもなければ、こんな風に病院に顔を出すこともできないところだ。
そうやってなるべく、いい事だけ選んで考えようと思いながら、花奈子はいつの間にか団地に変わってしまった外の景色を眺めていた。ベランダに干した布団、西日よけの簾、立ち話しているおばさん達、伸び放題の雑草。こういう場所に住むのはどんな気分だろう。
実を言えば、お父さんは今住んでいる家を売って、病院の近くに引っ越す事を考えているのだ。そうすれば幸江ママももっと簡単に病院と家を行き来できるし、お父さんの勤めている予備校はあちこちに教室があるから、転勤もできるらしかった。花奈子は転校するくらいなら、通学時間が伸びるのを我慢するもりだけれど、問題はお兄ちゃんだった。お父さんが引っ越しの話をしていたのかどうかは知らないけれど、時々ドア越しに聞こえてきた言い争いは、もしかしたらその事だったかもしれない。
とりあえず、お兄ちゃんと連絡がつくまでこの問題は棚上げで、それは少しほっとする事でもある。病院の近くに移るということは、ばあちゃんと寛ちゃんの家から遠くなる、という事でもあるからだ。そもそも、お父さんは北海道の出身で、東京の大学で勉強している時にお母さんと知り合って、お母さんの地元であるこの街で高校の先生になった。だから今の家だって、お母さんの実家に近いから、という理由で選んだのだ。
でもやっぱり、拓夢の事を考えると早く引越した方がいい。ただそれは、拓夢がこれからもずっと病気と闘わなければならないという事を意味していた。でも、ノーベル賞をとるような新発見があって、すごい薬がいきなり開発されるかもしれない。もう心配ばっかりするのはよそう。そう思って花奈子はまた顔を上げた。そうして何気なくドアの方を向くと、知った顔が目に入った。
同じクラスの沙緒美だ。
制服ではなく、白いカットソーにピンクのスカート。素足にウェッジソールの赤いサンダル。買い物に行ってきたみたいで、ショップの紙バッグを二つも手にしていた。声をかけようかな、と一瞬思ったけれど、やっぱり気が進まない。彼女は去年の秋に転校してきて、最初の頃は花奈子たちのグループに何かとくっついてきたのに、体育祭で瑠理たちと仲良くなってからは、あっちにべったりだ。別にそれが悪いとは思わないけれど、転校したての時の「ねえねえ」という親しげな笑顔と、最近の「は?だから?」みたいにちょっと馬鹿にしたような態度の落差が大きすぎて、何だか苦手になってしまった。
でもまあ、沙緒美はそういう、上から目線が似合うような美人だから仕方ない。色白で少し頬骨が高くて、つんとした感じの鼻に薄い色の瞳。同じように少し茶色がかった髪はいつもポニーテールにしていて、細いうなじはどんなに暑い日でも涼しげだ。
花奈子はいつの間にか、ドアのそばに立つ沙緒美の姿に見とれていた。けれど、よく見ると何かがおかしい。沙緒美が、ではなくて、彼女の後ろにいる男の人だ。何というか、電車がそんなに混雑していないのに、不必要に沙緒美に近づいている感じ。気のせいだろうか、と首を伸ばした花奈子は次の瞬間、声をあげそうになっていた。
沙緒美の後ろに立つ男の人の手は、彼女のスカートの下に伸びていた。沙緒美が持っている紙バッグに隠れる角度ではあるけれど、花奈子のいる場所からははっきりと見てとれる。これって痴漢って奴?
痴漢なんてラッシュアワーの満員電車にしかいないと思っていた花奈子には、目の前の光景が信じられなかった。周囲の誰も気がついていない様子で、男は平然としてその場から動く気配もない。そして沙緒美はというと、怒ったような目をしてじっと窓の外を睨んでいた。その口元はきつく引き結んだままだ。
どうしよう。
花奈子は自分が沙緒美になったかのように感じていた。心臓はバクバクして、足が震えてくる。大変だ、何とかしなきゃ。でもいきなり「この人痴漢です!」なんて叫ぶ勇気はないし、第一それでは沙緒美が可哀想だ。そうして迷っている間にも、男は電車が揺れたのに合わせるふりをして更に沙緒美に身体を寄せた。
駄目だ、もう我慢できない。花奈子は大きく息を吸い込んで、沙緒美の方へ近づくと「やーだ!ここにいたんだ!」とできる限りの大声で叫んだ。
「キリちゃんたちみんなあっちの車両にいるんだよ。早くおいでよ!」
花奈子が傍に行くと、男は何もなかったように沙緒美から離れた。驚いた顔でこちらを見ている彼女の腕をつかむと、花奈子はそのままぐいぐい引っ張って隣の車両まで移動した。そして男がついて来ていないのを確かめてから、ようやく手を離した。
気がつくと全身が震えていて、喉がからからだ。花奈子はドアにもたれて、ふう、と息をついた。しばらくすると胸の動悸が少しずつ収まってきて、沙緒美の顔を見るだけの余裕もできた。
「はあ、怖かったね」
そう声をかけたものの、沙緒美は花奈子から目を逸らして、じっと窓の外を見つめている。その横顔は何だか怒っているようだった。
「沙緒美、ちゃん?」
まさか人違いだったりする?と一瞬思ったけれど、やっぱり彼女である事に間違いはない。その時、電車がゆっくりと停まったので、花奈子はあわててドアから離れた。そしてドアが開いたその瞬間、沙緒美は何も言わずに飛び出していった。
「沙緒美ちゃん!」
まだ自分たちが降りる駅まで三つもあるのに。花奈子はもう何が何だか分からなくて、空いたばかりの座席にへたり込むようにして座った。
もうすっかり真夏の日差しの下、大雨で校庭に流れ込んだ泥は、作りかけのチョコレートケーキみたいな感じで固まっている。
「父兄で土建屋さんやってる人が、重機で泥をどけてくれるらしいんだけど、ボランティアだから来週まで待つんだってよ。別に再来週でもいいけどね。練習ずっと休みになるから」
陸上部のキリちゃんはそう言って窓の手摺にもたれると、「あ、菜穂ちゃん、バイバーイ」と、校舎から出てきたばかりの友達に手を振った。
「彼女さ、夏休みにハワイでホームステイするんだってよ」
「へえ、すごいね」
キリちゃんと並んで、三階の窓から外を眺めながら、花奈子は菜穂の後ろ姿を目で追った。
「やっぱ自営業は違うよね。まあうちもホームステイするけど」
「え?どこ行くの?」
「高知の婆ちゃんち」と答え、キリちゃんは「一応海外だし」と付け加えて笑った。
「たしかに、海は渡るね」と、花奈子も同意する。やっぱりみんな、夏休みはあちこち旅行したり帰省したり、楽しいイベントがあるのだ。
「あ、沙緒美だ。ほら、北沢君と歩いてる」
キリちゃんが小声でそう言って、目立たないように指先でプールの方をさした。
「あの二人、付き合ってるって噂だけど、やっぱそれっぽいよね」
バスケ部の北沢君といえば、背も高くて成績もよくて、しかも何だか不良っぽいのが人気だけれど、楽しそうに笑っている。そして沙緒美はというと、こちらも普段あんまり見せないような笑顔だ。
「はーあ、美男美女のカップルって奴かなあ」と言うと、キリちゃんは窓の手摺に両腕をのせ、その上に顎をついた。
「あのさ花奈子、噂っていえば、だけど、昨日電車で痴漢されたり、した?」
「えっ?」
キリちゃんの日に焼けた横顔は、並んで歩く沙緒美と北沢君を見たままだ。花奈子はわけがわからなくて、「どういう事?」と聞き返した。
「なんかさあ、沙緒美が言ってるらしいんだよね。昨日、買い物帰りに電車に乗ってたら、花奈子が痴漢に触られてて、それを偶然のふりして助けてあげたのに、お礼も言わずに先に降りてっちゃったって」
それは沙緒美の事だよ!
そう言いたいのに、ちゃんと説明したいのに、花奈子の口からは何一つ言葉が出てこなかった。キリちゃんはじっと前を向いたまま、黙って花奈子の答えを待っている。ブラウスの襟に結ばれた、緑のボウタイが風に揺れる。
「違うよ」
ようやく、本当に小さな声で、花奈子はそう答えた。
「昨日、拓夢の病院に行ったから電車には乗ったけど、そんな事、なかった」
「だよね!」
キリちゃんは駄目押しするようにそう言って、なんだか泣きそうな笑顔で花奈子を見た。
「沙緒美って時々変な事言うからさ、これもきっとそうなんだって」
「…でも、それ、みんなに言ってるの?」
「言ってないと思うよ。私はたまたま聞いただけだし。さ、もう帰ろっか。ユニショップで夕張メロンパフェ食べて行こうよ」
その、キリちゃんのやけに元気な感じが、却って花奈子の心を重くした。たぶん、知らずにいたのは自分だけで、この嫌な噂は皆に、女子だけじゃなくて、男子にも伝わっているに違いない。そう、北沢君にだって。
「夏休み四十日もあるしさあ、変な噂だってみんなすぐ忘れちゃうよね」
キリちゃんの優しい言葉は嬉しかったけれど、花奈子は頭から泥をかけられたような気持ちで、茫然としていた。何故?どうして?
4 万物は流転す
相変わらずうるさい割に、あんまりスピードの出ないフィアットの助手席で、花奈子は小さくあくびをした。寛ちゃんは目ざとくそれに気づくと、「お腹いっぱいで眠くなった?花奈子やっぱり子供だな」と笑った。
「まだ別に眠くないよ」
花奈子は身体を起こし、暗く伸びる道路の向こうに登ってきた満月を見つめた。今日は臨時収入があったとかで、寛ちゃんが夕食にイタリア料理をごちそうしてくれたのだ。お父さんは夜の授業があるし、幸江ママは病院、ばあちゃんはニンニクが苦手だからという事で、二人だけ。ぱりぱりに薄いピザが人気の店で、初めて食べたイカスミのパスタも、見た目とは正反対のおいしさだった。
「じゃあもう一軒回っていこうか。まだケーキとか食べる余裕ある?」
「もちろん」と花奈子が頷くと、寛ちゃんは指示器を出して左に曲がった。工業大学に向かう道で、欅の並木がずっと続いている。
「昔よく行った店があるんだけどさ、今も十時までやってるかな」
寛ちゃんは少し浦島太郎なところがあって、十年を超す東京生活の間に変わってしまった、この街のあれこれによく驚いている。「こんなの昔なかったよ!」なんて言葉は何度聞いたか判らない。
「寛ちゃんてさ、お父さんより昔話が多い感じ」
「俺のは昔話じゃないよ。青春の一ページ。高校の頃、その店でよく彼女と待ち合わせてさ、閉店までコーヒー一杯でねばってたの」
「んええ!彼女?」
花奈子は思わず奇声を発して、寛ちゃんの顔をまじまじと見ていた。
「何?俺だってそりゃ、彼女ぐらいいたよ」
「でも今まで全然そんな話、しなかったじゃん」
「別にわざわざ言う必要もないし」
へーえ、と、花奈子は少し安心した。何となく寛ちゃんのこと、彼女いない歴イコール年齢の人かと心配していたんだけれど。
「どんな感じの人?」
「普通に可愛い感じかな。でもちょっとヒネクレたところがあって、そこが面白い」
「今どうしてるか知ってる?」
「さあ。結婚して、隣町に住んでるらしいけど」
「マジで?会いにいったりしない?」
「するわけないだろ。ずっと昔の話だよ」
「でも寛ちゃん、いま彼女いないからさ、寂しかったりしないかと思って」
「じゃあきくけど、花奈子はいま彼氏いなくて寂しいのかよ」
「いや全然。彼氏なんかいらない」
「だろ?そんなもんさ」
何だか論点をすりかえられたような気もしたけれど、そう言われると花奈子も納得せざるを得なかった。
「でもまあ、寂しいって事で言えば、花奈子は長いこと我慢してるよな」
寛ちゃんはふいに声の調子を変えた。
「ばあちゃんがさ、何だか心配してるんだ。きのう花奈子に電話したら、すごく元気がない感じがしたって。夏休みだしさ、いつもより一人でいる時間が長いせいじゃないかって。例えばの話だけど、花奈子だけでも、ばあちゃんとこにずっと住まない?別に、家には好きなだけ帰ればいいし」
実のところ、そんな話は時々ばあちゃんがしていたから、それほど驚く提案でななかった。でもやっぱり花奈子にとって、自分の住む家はお父さんの家だ。
「私はやっぱり、ばあちゃんちに好きな時に遊びに行く方がいいんだ。それにさ、きのうの電話の時は、昼寝してたんだよ。寝起きだからいつもと違って聞こえたんじゃない?」
「そう?だったらいいけどさ」
寛ちゃんは、ばあちゃんほど花奈子たち家族の事をあれこれ言わないので、話はそれで終わってしまった。でも、本当の事を言えば、花奈子は昨日、キリちゃんから聞かされた噂のせいで、今もまだ果てしなく落ち込んでいるのだった。痴漢にあっているのを助けたはずの沙緒美から、痴漢されたのは花奈子で、沙緒美に助けられたのにお礼も言わずに逃げた、と話を正反対にすり替えられてしまうなんて。
でもこんな話、お父さんにはしたくないし、寛ちゃんにも相談できない。ばあちゃんは余計に心配しそうだし、幸江ママにも負担はかけたくない。
「あーっ!信じられん!」
いきなり寛ちゃんが大声で叫んだので、花奈子は飛び上がった。
「俺の青春が、スマホに乗っ取られてる」
どうやらすぐ前にある携帯ショップが、お目当ての喫茶店の生まれ変わった姿らしかった。
「ウラシマヒロシだ」と、花奈子は呆れてみせたけれど、寛ちゃんはそんなの耳に入っていない様子で「いい店だったのになあ」とか、唸っている。
「仕方ないじゃん。携帯の方が儲かるんだよきっと。美術部の田島先生がいつも、万物は流転す、って言ってるし」
「花奈子、その意味判ってんのかよ」
「え?つまり、全ての物は変わってゆくって事でしょ?先生そう言ってたよ」
寛ちゃんはそれには何も答えず、停めていたフィアットをまた発進させた。もう帰るしかなさそうだけれど、コンビニでアイスでも買ってくれたら嬉しいな、と思いながら、花奈子はシートベルトを調節した。
しかし、しばらく走っていくうちに、どうやらこれは家へ帰る道ではないという事に気づいた。
「まだどこか寄るの?」
「うん、ちょっと月見峠の方」
「マジ?元カノに会いに行くとか?」
月見峠といえば、隣町に続く県道の途中だ。青春の一ページがぶち壊しになったせいで、寛ちゃんはリベンジを考えているんじゃないだろうか。
「んなわけないだろ。ただちょっと、夜景でも見ようかと思って」
「六千円の」
「そう」
六千円の夜景、というのは誰が言い出したのか知らないけれど、月見峠からのこの街を見下ろす時の決まり文句なのだった。百万ドルには遠く及ばないけれど、まあそれなりに値打ちはある、といったところだろうか。
だんだんと寂しくなっていく夜道を走りながら、寛ちゃんはふいに「あのさ、俺、東京に移ることになったんだ」と言った。
「え?どういう事?」
「仕事なんだけどさ、こんど一つ、大きなプロジェクトを始めることになって、会社から東京に引っ越すように命令が出たんだ」
「でも、寛ちゃんの仕事って、家でもできるんでしょ?だから毎日会社に行ってないじゃん」
「でも次のプロジェクトはそうもいかない。何度も東北に出張することになるし、どうしても東京に住まないと無理なんだな」
「じゃあ、そのプロジェクト?には参加しません、って事にすれば?」
「言えなくはないけど、俺としては参加したいんだ」
「なんで?せっかく東京から戻ってきたのに、この街のこと嫌になったの?喫茶店が携帯ショップになったりするから?」
何だかわけが判らなくて、花奈子は意味もなく悔しくなった。
「ここが嫌なんじゃなくて、仕事のため、だ。東北のさ、震災の後の街をもっと住みよくしようっていう計画の一つなんだよ。何年もかかるけれど、やりたいんだ。だからもう、行くことに決めた」
「花奈子に相談しないで?ばあちゃんには相談した?」
「誰にも相談しない。一人で勝手に決めたよ。明後日にはもう引越しだ。今日の晩飯代、会社から出た引越し準備金だったりして」と、寛ちゃんは笑ってみせたけれど、花奈子は反対に、溢れてくる涙を必死にこらえていた。
「それで、花奈子にお願いがあるんだけど」
「ん?」それ以上長く話すと、声が震えそうになる。
「これからはとにかく、退屈だとか、腹へったとか、少しでもそんな気分になったら、ばあちゃんちに行くこと。たぶんばあちゃんも同じ事を考えてるから」
「ん」
「それと、天気のいい日には、俺の部屋のぬいぐるみたちを、風にあててやること。そのため特別に、オオサンショウウオを枕にして昼寝することを許す」
「ん」
返事した拍子に、つい洟をすすってしまう。しまった、と思ったところへ「ほら、六千円の夜景」という声がした。
月見峠はちょっとした展望台のようになっていて、車を停めるスペースがあり、滅多に見かけない電話ボックスと、自動販売機が三台並んでいた。その中の一つ、アイスの販売機でチョコミントバーを買ってもらって、花奈子は夜風に吹かれながらまた少し高くなった満月を見ていた。寛ちゃんは自分もアイスを食べながら、ガードレールにもたれて六千円の夜景を眺めている。何となくふてくされた気分で、花奈子はその後ろ姿から距離をとったまま、ぶらぶらと歩き回っていた。
時たま、思い出したように峠越えの車が走ってゆく。それを除けば辺りは静まりかっていて、耳を澄ますと救急車のサイレンだとか、クラクションだとか、そんな音が夜の底から泡のように浮かび上がってくる。足元には、自動販売機の作る影と、街灯の作る影と、それからもう少し淡い、満月に照らされた影がついてくる。月が明るいせいだろうか、少し離れた場所の、木の繁みだと思われる場所はひときわ暗く見える。まるで濃淡がないような、墨を流したような黒さ。
アイスを齧りながら、花奈子は何故だかその闇に引き込まれるような気がしてじっと目をこらした。闇それ自体が、まるで何かの生きもののように思えたのだ。生きて、水が流れるように少しずつ移動している。いや、こっちに近づいている?
急に強い風がふいて、梢がざわざわと揺れた。闇が動いていると思ったのは風のせいなのか。鋭い声をあげて、知らない鳥が夜空を横切っていく。何だかやっぱり怖くなって、花奈子は寛ちゃんの傍に行った。それでもまだ口はきかず、六千円の夜景を見下ろす。
ひときわ輝いているのは駅前の繁華街。それからさっき行った工業大学のあたりもまだ明るくて、あとは街外れの工場だとか、市営球場だとか、国道沿いにも点々と明るい場所はあるけれど、他はほとんどが普通の家やマンションの明かりだった。車のヘッドライトはまるで川のように流れていて、それとは対照的に動かない曲線は道路に並ぶ街灯だ。じっと見ていると、光ではなく、暗い部分が逆に形として見えてくる。あそこの長方形はきっと神社の森で、こっちのラインは三津川。ということはあの丸いのが赤牛山と公園だ。花奈子は身を乗り出して、その近くにあるはずの、自分の家を探した。
「気をつけないと落っこちるぞ」
食べ終わったアイスのバーをくわえたまま、寛ちゃんがこっちを見下ろしている。
「落ちないよ」とは言うものの、ふと下を覗き込むと、急な崖になっている。花奈子はそろりそろりと引き下ったけれど、「そういう風に子供扱いするのやめてくれる?」と言い返した。
「なーんかね、花奈子見てるとお母さん思い出しちゃって」と、寛ちゃんは笑った。
「お母さんって、花奈子の?」
「そう。しっかりしてそうで、そそっかしいの。ガラスのドアに正面衝突したりさ」
「その話はきいた事あるけど」
「あとさ、両手に荷物もったまま階段駆け下りて、勢い余って玄関突き破ったり」
「言っとくけど、私はそこまでひどい事してないからね」
「うん、まあお母さんほどじゃないかな。ほら、花奈子のお母さんと俺って、花奈子と拓夢ぐらい年が離れてるだろ。ばあちゃんも仕事してたから、俺はいっつもお母さんにくっついて遊びに行ってたんだよな。お母さんがちょうど、今の花奈子ぐらいの年だったから、思い出しちゃうのは、そのせいもあるかな。お母さんの友達には、奈央ちゃん誘うと、もれなく寛がついてくるって言われてたけど」
「よくみんな我慢してたね」
「本当になあ。おかげで未だにあちこちでお母さんの友達に、寛、最近どうしてんのって、声かけられるけど」
それは花奈子も身に覚えがあった。お母さんの同級生はこの街に何人か住んでいて、肉屋の神田さんはお使いに行くとおまけしてくれるし、ひまわり美容院の公子さんは、カットに行くたびに「お母さんに似てきたね」と言ってくれる。そして隣のクラスの佐伯くんのお母さんに至っては、参観日には必ず、花奈子のところも覗きに来るのだった。
そう、この街に住んでいるかぎりずっと、お母さんの思い出は花奈子と一緒に生きている。それを考えると、いくら拓夢のためとはいえ、ここを離れるのは何か大切なものを失うような気持ちになる。
「寛ちゃん、東京行って、そのプロジェクトっていうのが終わったら、また戻ってくるの?」
「多分ね。いつになるか判らないけど」
「フィアットはどうするの?」
「うーん」と、寛ちゃんは本気で困った声を出した。
「東京の駐車場は高いし、残念だけど、売るしかないかなあ」
その答えに、花奈子はあらためて、寛ちゃんが本当にここを離れていってしまうのだと感じた。誰に何と言われても大事にしているフィアットなのに。
「ばあちゃんが乗ってくれるといいんだけどな。かっこいいと思わない?七十近いのにフィアット飛ばしてるおばさんって」
「そういう変なこと考えるの、寛ちゃんだけだと思うよ」
「また人のこと馬鹿にして」
軽く頭をはたかれそうになるのを、間一髪でかわして、花奈子は後ろに飛びのいた。そこへ車が一台停まって、何となく邪魔してほしくなさそうなカップルが降りてきた。寛ちゃんは軽く目配せして「じゃあ行くか」と言い、花奈子もその後に続いた。
満月は更に高い場所から、夜道を走るフィアットを見下ろしている。もう花奈子の家まではあと少しだ。
「おっと、ここから先は回り道か」と、寛ちゃんは速度を落として、道路に立ててある看板に目をこらした。その向こうには大雨で崩れた赤牛山の土砂が積もったままだ。
「遺跡だからって、うかつに触れないないらしいな。迷惑な話だよ」
ライトの向こうに白い看板と、立ち入り禁止のロープが浮かび上がっているのを見るうち、花奈子は「ちょっとだけ待ってて」とお願いしていた。
寛ちゃんは「どうした」とサイドブレーキを引いたけれど、花奈子は返事をせずに車を降りた。車のライトがあたらない場所をたしかめて立ち止まると、たすき掛けにしていたバッグの中を探る。ハンカチ、携帯電話、手帳、それから、自分で縫った巾着袋。入っているのはあの大雨の翌朝、ここの泥の中から掘り出した透明なレモンイエローの玉だった。
拾った時には赤牛山が古墳だなんて知らなかったから、拓夢にあげるつもりで持って帰ってしまったけれど、よく考えたらこれは、古墳に埋められていたものに違いない。という事はピラミッドの宝物と同じで、勝手にもらってはいけない物のはずだった。
早く元の場所に返さなきゃ。そう思ってはみたものの、最初に拾った場所は今立っている所よりもずっと先だ。二、三日前にも来てみたけれど、散歩の人がいたりして、とてもこっそり入れる雰囲気じゃなかった。でも今なら、ちょっとあのロープをまたいで行って、誰にも知られずに地面に埋めて来られそうだ。
だんだんと目が慣れてくると、満月のおかげで車のライトがあたっていない場所もうっすらと見えてくる。花奈子は右手に巾着を握りしめたままロープをまたぎ、そろそろと前に進んだ。足元には雑草と、でこぼこの地面。そして顔を上げると、崩れた赤牛山が、暗い影の塊のように視界を遮る。
何故だろう、月明かりがあるのに目の前の塊はひたすら黒い。一体どこまで進めばいいだろうと思いながら、もう一歩足を踏み出すと、黒い塊がそれに応えるようにとろりと流れ出した。
動いてる?
そんな馬鹿な事はない。何とか気を落ち着けて。花奈子は自分に言い聞かせながら、手にしていた巾着から玉を取り出そうとした。もうここでいいから、とにかく地面に埋めてしまおう。その時後ろから「花奈子ぉ、どうした?」という呼び声がして、車のドアを閉める音が聞こえた。 咄嗟に巾着をバッグの中へと戻し、花奈子は大慌てでヘッドライトの方へと駆け戻る。
「何やってんだよ」
「ん、ちょっと車に酔ったような感じがしたんだけど、別に大丈夫だった」
「そう?山道走ったからかな、ごめんごめん」
「ううん、全然平気だよ」
あーあ、やっぱり失敗しちゃった、と思いながら、花奈子は助手席に座った。とにかく早いとここれを埋め戻さないと、本物の泥棒になってしまう。
そこから家までは五分とかからなかった。フィアットを門の前に停めると窓を全開にし、寛ちゃんは首を伸ばして中の様子をうかがった。
「お父さん、帰ってるけど、お風呂みたいだな」
「すぐ上がってくるよ。寄ってけば?エスプレッソ飲ませてくれるよ」
「遠慮しとく。お疲れさんだろうし。よろしく言っといて」
「わかった」とだけ返事して、花奈子は車を降りた。このままいつもみたいに別れていいんだろうか。本当は山ほど言いたいことがあるのに、「じゃあね」と窓越しに手を振ると、寛ちゃんもいつも通り「おやすみ」と手を振り返した。
5 どんな動物とも違う
帰ったらまずエアコンのスイッチを入れて、冷蔵庫の麦茶を飲んで、それからシャワーを浴びる。まだ熱気を含んだ夕暮れの風に向かって自転車を走らせながら、花奈子は何度もその段取りを考えていた。中三だし、自分一人では絶対に勉強なんかしないから、とりあえず塾の夏期講習に行ってはみたものの、やっぱり夏休みはのんびりしたかったな、と少し後悔している。
でも本当のところを言えば、問題はそこではなくて、塾の同じコースに沙緒美が来ていた、という事だった。何故だか残りのメンバーは他校の生徒ばっかりで、完全アウェー。だからといって沙緒美と一緒にいるのも違う感じ。というか、向こうが最初から、花奈子なんか別に関係ないし、という態度なのだ。やっぱりこの前の電車での事件と、変な噂の事があって、お互いに気まずいとしか言いようがない。
もう行くの止めようかな、と思ったりもする。今ならまだ授業料を返してもらえたりしないだろうか。でも、やっぱり受験は心配だ。それに、もしかしたら沙緒美の方がやめるか、コースを変わるかも知れないし、とりあえずあと一度は行こうと自分に言い聞かせる。
今日もお父さんは夜の授業で、幸江ママは拓夢の病院。花奈子は自転車を停め、寛ちゃんがくれたイカのキーホルダーを取り出すとドアの鍵を開けた。熱気がこもる玄関を突破してリビングに駆け込むと、まずエアコンのスイッチを入れる。どうも幸江ママが一度帰ってきて掃除をしたみたいで、部屋全体が何となくすっきりしている。それからキッチンに行くと、冷蔵庫からペットボトルの麦茶を出し、洗いかごに伏せたままだったグラスに注ぐと一気に飲む。
二杯目の麦茶を半分飲んだあたりで、ようやく生き返ったような気分になった。家の中は静まり返っていて、庭にいるセミの声だけが響いている。前は、部屋に引きこもっているとはいえ、お兄ちゃんがいるというだけで、とりあえず一人ぼっちではないという確信が持てたのに、今は本当に自分だけなのだという、心もとなさがつきまとう。
やっぱり晩ごはんは、ばあちゃんちで食べようかな。
いつ来てもいいけど、ごはんの時は先に電話だけちょうだいね、という約束を思い出して、花奈子は麦茶のグラスを持ったまま、リビングに戻った。
ソファに腰を下ろし、床に転がっている鞄を引き寄せて携帯を取り出す。アドレス帳でばあちゃんちの電話番号を呼び出そうとしたその時、幸江ママから電話が入った。
「花奈子ちゃん、今どこにいるの?」
「うち帰ったとこ」
「そう、よかった。あのね、本当に悪いんだけど、病院まで持ってきてほしいものがあるの。忘れ物しちゃったのよ」
「いいよ。何を持って行くの?」
「リビングのパソコンのところに、ファイルが置いてないかしら」
言われて立ち上がり、部屋の隅にあるパソコンコーナーに近づいてみる。デスクトップのモニターの脇に立てかけるように、黄色いクリアファイルが置かれていた。
「この黄色いのかな」
「そうそう、中に封筒が入ってるでしょう?病院の名前が入ってる」
「うん」
「それ、とても大事なものなの。まだ認可されていない、新しいお薬を拓夢に使って下さい、っていう手紙よ。ハンコだけ押して、持って出るの忘れちゃったんだけど、どうしても今日中に先生に渡さないと駄目なの」
「わかった。すぐ持って行くから」
「ごめんね。私、駅の改札のところまで迎えに行くわ。電車に乗ったらメールして」
「わかった」
花奈子はその封筒を鞄に入れ、いらない参考書やなんかはテーブルの上に出した。そしてグラスに残っていた麦茶を飲み干すと、大急ぎで玄関に向かった。
いつもより遅い時間の電車はけっこう混んでいた。病院のある駅でも大勢の人が降りて、いっせいに改札に向かう。花奈子は大切な封筒を入れた鞄を、両腕で抱えるようにして、人混みの中を足早に歩いた。改札の向こうも人の波で、幸江ママがどこにいるのか判らない。とりあえず改札を抜けて、外で電話しようと思っていると「花奈子ちゃん」という声がした。
幸江ママはいつもより白い顔をして、こちらへ走ってくる。どうやら花奈子が出てきた改札とは反対側にいたらしい。
「よかった。本当にごめんね、うっかりしちゃって」と言いながら、幸江ママは花奈子の背中を抱くようにして、人の少ないコインロッカーの方へ連れて行った。
「はい、これだね」と、花奈子は鞄から取り出した封筒を幸江ママに渡す。ママは「ありがとう」と中味を確認して、すぐに手提げにしまった。それから「晩ごはんまだでしょう?食べていかない?」と尋ねた。
「この手紙、渡さなきゃいけないんでしょう?」
「ええ。でも、花奈子ちゃんがその間待っててくれたら、病院の食堂がまだ開いてるから」
「いいよ、私このまま帰る」
「そうなの?」と、申し訳なさそうな幸江ママの顔を見ているうちに、花奈子はどうしても質問したくなった。
「ねえ、その新しいお薬を使ったら、拓夢はよくなるの?」
もちろん、という答えを期待してはいたけれど、現実がそう簡単ではない事も花奈子には判っていた。幸江ママは軽く唇を噛んでから、「試してみる価値はあるって事」と、自分に言い聞かせるように答えた。
「そうだね」と花奈子も頷くと、「じゃあね。拓夢に、今度はお昼に行くって伝えておいて」と言って、また改札に向かった。
家に帰るなりまた電話があって、幸江ママが弾んだ声で「花奈子ちゃん、今度のお薬はすごいの!拓夢、明日には退院するから!」と繰り返している。やったあ!と思ったところで気がつくと、花奈子は電車のシートに座っていた。
そうか、まだ帰る途中なんだ。気が緩んだせいか、冷房が入っていて涼しいせいか、二つ目の駅で座って、すぐに眠ってしまったらしい。ちょうど停まっていた駅の名前を見ると、降りる駅まであと三つだった。花奈子は両手を組んで軽く前に伸ばし、座り直して車内を見回した。行きとは逆に、こちら方向の列車は空いていて、立っている人がいない。
文庫本を読んでいる人、携帯を見ている人、居眠りする人。皆が俯いているその中で一人だけ、斜め向かいに座った男の人がこちらを見ていた。何だろう。いったん視線をそらしたものの、花奈子はやはり気になってもう一度そっちを見た。その瞬間、何か冷たいものが背筋を走るような感じがした。
この間の痴漢だ。
はっきりとそれが判ったのは、男の顎にある少し大きなほくろのせいだった。でなければ憶えていないような、とりたてて特徴のない顔立ちと、澱んだような目つきと、微かに笑っているような口元。年は三十代ぐらいに見えるけれど、この時間でもスーツ姿ではなく、くたびれたTシャツとジーンズに、埃っぽいサンダルを履いている。彼は花奈子と目が合っても全く表情を変えず、ただじっとこちらを見ていた。
私のこと、憶えているんだろうか。咄嗟に目を伏せて、花奈子はどうしようかと考えた。人違いかもしれないし、単なる偶然かもしれない。そう思って微かに視線を上げると、やはりまだ男はこちらを向いている。
花奈子は思い切って立ち上がり、隣の車両に移った。そして居眠りしている女の人の横、シートの端っこに腰を下ろすと、ほっと一息ついた。本当に、嫌な感じ。気分転換にメールでも打とうかと携帯を出したその時、目の前をかすめるようにして誰かが通った。
さっきの男だ。
わざと花奈子に触れるか触れないかという、ぎりぎりの場所を通って、通路の向こう側に、ドアを背にして立ち、腕組みをしてじっとこちらを見ている。花奈子は携帯を握りしめたまま、身体を固くして俯いた。どうか隣の女の人が降りたりしませんように。あの男がこれ以上近くに来ませんように。たった十分ほどの距離を、一時間ほどの長さに感じながら、それだけを祈って耐え続ける。
その間に二回、電車は停車と発車を繰り返し、それからようやく花奈子の降りる駅にゆっくりと停まった。ドアが開いた瞬間、花奈子は弾かれるように立ち上がるとホームに駆け出した。そして人の間を縫うようにして階段を駆け下りると改札を抜けた。そこでようやく一息ついて、こわごわ後ろを振り向いてみると、男の姿はなかった。
よかった、うまく逃げ切れた。何だか足が震えるような感じは残っているけれど、とりあえず安心して駅の外に出て、自転車置き場に向かう通路を歩く。今日は混んでいたので、随分と奥の方に停めたから、出すのが面倒くさい。おまけにあそこは風通しが悪くて、夜でもひどく蒸し暑いのだ。
そして「第二駐輪場」と表示のある通路を曲がった瞬間、花奈子は悲鳴を上げそうになった。行く手を塞ぐようにして、あの男が立っている。腕組みをして、ガムでも噛んでいるのか、口元を規則正しく動かしながら、どこか面白がっているような目でこちらを見ている。
逃げなきゃ。頭はそう命令するのに、足が思うように動かない。その間にも、男はこちらに近づいてくる。花奈子は地面から足をはがすようにして後ずさりすると、男に背を向けて駆け出した。その筈なのに、少しも早く走れない。人気のない通路の背後から、男のサンダルを引きずる、鈍い足音が響く。それは徐々に近づいているように思えた。
ふと上を見上げると、通路にとりつけられた防犯ミラーに自分が映っていて、その後ろには男の姿が見えた。距離はそんなに開いていなくて、どうやら花奈子を怖がらせようと、わざとゆっくり間を詰めているようにも思えた。
誰でもいい、一人でもここを通る人がいれば助けを求めるのに、聞こえてくるのは駅のアナウンスと、外を走る車の音だけだ。やがて通路は突き当たりになり、左右に分かれていた。いけない、改札の方に引き返すべきだったのに、うっかりして西出口の通路に来てしまった。こっちは昼間でもほとんど人の通らない場所なのに。しかしもう後戻りする事はできなくて、花奈子は仕方なく通路を右に折れた。
すぐ先に出口があり、その向こうは高架下の駐車場だ。辺りは暗くて、線路と平行している国道を走る車の轟音ばかりが響いている。一体どっちに逃げればいいのだろう。必死で見回すと、そんなに遠くない場所にラーメン屋さんらしい、赤い看板が光っている。とにかく、あそこまで全力で走ろう。そう決心して花奈子は飛び出したけれど、足元の低い階段を踏み外し、転んでしまった。
左膝と掌が痺れるように痛いのを我慢して立ち上がる。後ろを振り向くと、男はすぐ近くを、まるで散歩でもしているような足取りでついてきていた。その姿を目で捉えたまま後ずさりすると、停めてある車にぶつかった。明るいのはさっき通り抜けた通路だけで、逆光になっている男の表情はよく判らない。それでも、花奈子には彼の冷たい目つきが見える気がした。
サンダルの、鈍い足音だけがゆっくりと近づいてくる。花奈子は何とか距離をとろうと、停まっている車の間に後ずさりした。そうしながら、鞄に手を突っ込み、携帯を探す。
お父さん、助けに来て!
いま授業中だからとか、そんな事はもうどうだっていい。とにかく電話して、ここにいると知らせなくては。
その指先に何かが触れる。これは、土砂崩れの後で拾った、あのレモン色の玉を入れた巾着だ。一瞬、手を離しかけて、また思い直すと、花奈子はガラス玉を取り出した。よく考えたら、これは石ころみたいなものだ。だったら、あいつに思い切りぶつけてやれ。そして時間を稼ぐのだ。
軽く息を吸い込むと、花奈子は腕を大きく引いて、凄い勢いで玉を男めがけて投げつけた。しかし、それは悲しいほど目標をそれると、駐車場の区画分けをしている鉄柱にぶつかり、鋭い音を立てて真っ二つに割れた。男は少しだけそちらへ首を廻らせ、また花奈子の方を向くと今度ははっきりと歯を見せて笑った。
「足、血が出てるよ」
平坦な、感情のこもらない、くぐもった声。その時、花奈子は背中がフェンスにぶつかったのを感じた。
男のサンダルの足音が、一つ、二つと数えるようにゆっくりと近づく。何とかして、その脇をすり抜けて逃げられないかと、花奈子はフェンスに背中をつけたままで様子を伺った。思い切り体当たりすれば、向こうはバランスを崩して倒れるかもしれない。落ち着け、と自分に言い聞かせて、よく目を開き、相手の隙を伺う。けれど、その背後に不思議なものが見えた。
さっき二つに割れて、地面に落ちたはずのレモンイエローの玉が、闇に浮かんでいる。いや、それは玉というより、何か別のもの。もっと強い光を持った、まるで夜行性の生き物の瞳のように輝いて、こちらを見ているのだった。その一対の眼差しと花奈子の視線が交差した瞬間、闇だと思っていた空間は意志を持って動き始めた。とても濃く、粘り気のある液体のようにうねり、波打ち、やがて一つにまとまると、真っ黒な獣の姿をとった。わずかに開いた口の中は紫を帯びた青色で、白く光る太い牙を覗かせている。獣は地面近くまで身体を沈めたかと思うと、音もなく身を躍らせて、背後から男の首筋に食らいついた。
花奈子は声にならない悲鳴を上げて、必死で後ずさりした。男は自分に何が起きたか気づく前に地面へと崩れ落ち、その黒い獣に抑え込まれていた。どうやら気を失ってしまったらしく、目を閉じているけれど、血は流れていない。
怖くてたまらない、なのに花奈子などうしても、その獣から目が離せなかった。黒豹に似ているけれど、虎のようにも見えて、しかも虎より一回りは大きい。真っ黒なようでいて、どんな動物とも違った模様があり、それはいつか寛ちゃんに見せてもらった、電子部品の基盤に似ているように思えた。そしてその、黒だけで構成された模様は、まるで水面に浮かぶさざなみのように、刻一刻と身体の表面を移ろい、流れてゆくのだった。
「きれい」
思わず呟いてから、しまった、と後悔した。次は自分が襲われるかもしれないのに。けれどその獣はじっと動かず、倒れた男に太い前足をかけたまま、花奈子の方を見た。
「呆れたものだな。世の中がどれだけ移ろうと、こうした卑しい者は後を絶たないらしい」
しゃべった。とても低い、地面の底から響くような太い声。花奈子は急に両足の力が抜けるような感覚に襲われた。
「娘よ、この男をどうしてほしい?永らえたところでまた、似たような悪さを繰り返すだけだろうから、息の根を止めてやるというのも一つの考えだ」
花奈子は黙ってただ首を振った。そんな恐ろしいこと、駄目だ。獣は一瞬目を細めると、「ではどうする」と尋ねる。もう喉がからからで、声なんか出そうもないと思ったけれど、花奈子はようやく、かすれた声で「私のこと、忘れてほしい」と言った。
「なるほど。お前はどうやら賢しい娘のようだな。その願いは聞き入れられた」
そして獣は倒れている男を踏み越えて近づいてきた。その背中は花奈子の胸のあたりまであって、前足の大きさは花奈子の顔ぐらいありそうだ。獣は首を伸ばすと、その瑠璃色の舌で花奈子の擦りむいた膝を舐めた。予想していた感覚とはうらはらに、何故だかひんやりとした気持ちよさが広がる。
「お前の住まいへ送り届けてやろう。私に乗るがよい」
いきなりそんな事言われても、身体が動かない。ていうか、もうどこかに消えてしまってほしい。そんな気持ちが都合よく伝わるわけもなく、花奈子はただ黙ってフェンスに背中を押しつけたままで獣を見ていた。そうする内にだんだんと目の前がざらついた白黒になり、世界が暗くなり、何も聞こえなくなった。
6 仕事は決まってる
目が覚めるともうすっかり日は高く、外ではセミがさかんに鳴いていた。昨日はどうやら、着替えるのもカーテンを閉めるのも忘れて寝てしまったらしい。花奈子は起き上がると、バスタオルと着替えを持って階段を降りた。
熱いシャワーを浴びていると、ようやく目が醒めてくる。なんだかすごく長い夢を見ていた。そう、誰か怖い人に追いかけられて、逃げ回っていたのだ。ここ何日か、暑くて寝苦しい夜が続くせいで、そんな悪い夢を見たんだろうか。
この間、キリちゃんと入ったドラッグストアで買った、ミントフレーバーのシャワージェルで身体を洗ってゆくと、嫌な夢の記憶も流れ去るような気がする。腕、肩、背中とお湯をかけ、足まできた時、花奈子は不思議な事に気がついた。
左の膝に怪我をしている。でも、その傷はもう塞がり、かさぶたをはがした後ののように少しだけ赤くなっていた。
昨日は何ともなかったのに、いつの間に?
指で触れてみると、かすかにちりちりとした感じがする。その時、夢の中で転んだ事を思い出した。転んで、それから、どうしたんだっけ。考えてはみたけれど、立ちこめる湯気のせいで頭がぼんやりしてきた。きっと寝返りをうった時にどこかにぶつけたんだろう。そう納得して、しばらく冷たい水を浴びてから、シャワーを止めた。
リビングではお父さんがソファに座り、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。花奈子は「おはよう」と言ってからキッチンに行くと、冷蔵庫の野菜ジュースを取り出し、立ったままでグラスに一杯飲んだ。それからシリアルをボウルに入れ、上に無糖ヨーグルトを少しのせてから牛乳をかける。
「コーヒー、おかわり飲む?」と声をかけると、「ああ」という返事があったので、コーヒーサーバーを持ち、シリアルのボウルをもう片方の手に持ってリビングに戻る。お父さんはちょうどコーヒーを飲み干したところで、花奈子はその空いたマグカップにおかわりを注いであげた。
「ありがとう。昨日はご苦労さんだったな。ママが助かったって言ってたぞ」
「届け物のこと?」
「ああ。遅くに来てもらって、すまなかったって」
「別に大したことじゃないよ」
花奈子は何となく照れくさくて、そっけなく言うとシリアルを食べ始めた。お父さんは読みかけの新聞を畳むと、「今日はこれから病院に行って、ママと交代するから」と言った。
「わかった。ママは帰ってくるの?」
「いや、塚本さんちに用事があるんで、あっちに行くんだ。花奈子も今夜は一緒にご飯食べて泊まらないかって、ママが言ってたぞ」
「私は、やめとく。ばあちゃんちに行くよ」
咄嗟に、そう答えてしまった。塚本さんち、というのは幸江ママの実家だ。ママもたまには、自分のお父さんとお母さんのところでのんびりした方がいい。でも花奈子が一緒にいたら、そんなに寛げないんじゃないかという気がするのだ。それに何より、花奈子の方が塚本さんでは気を遣うというか、大事にされ過ぎて何だか疲れてしまうのだった。
花奈子ちゃん、これ食べる?これ持って帰らない?エアコン効き過ぎてない?どれが一番好き?塚本さんのおばあちゃんはどんな小さな事でも、そうやって声をかけてくれるけれど、正直いって自分がしたい事とか欲しいものとか、よく判らないので、答えに困るのだ。ばあちゃんみたいに適当だと楽なんだけど、と思うのは勝手過ぎるだろうか。トイプードルのアズキと遊べないのは残念だけれど、やっぱり塚本さんは遠慮しておいた方がいい。お父さんも「そうか」としか言わなかったので、花奈子は何だかほっとした。
「そういえば花奈子、自転車は駅に置いたままか?」
「え?」
「昨日帰ってきたら、自転車が停まってなかったから、まだ戻ってないのかって一瞬びっくりしたよ。でも先に寝てたんで、安心したけど。遅くなったからバスで帰ったの?」
「え?あ、そうかな」
適当に返事をしながら、花奈子は慌てて昨日の事を思い出そうとしていた。幸江ママに忘れ物を届けて、すぐにまた帰りの電車に乗って、それから、それから…
その時いきなり、インターホンが鳴った。
「何だろう、宅配便?」
「昨日、敏子おばさんからメロン送るってメールが来たから、それかもしれないぞ。ちょっと出てみて」と言われて、花奈子は受話器をとると「はい、どちらさまですか」と答えた。
「あっ、花奈子ちゃん?こんにちは、美蘭でーす」
大急ぎで玄関のドアを開けると、門のところに美蘭がいて、傍には亜蘭も所在なさげに立っているのが見えた。
「どうしたの?」
花奈子がサンダルをつっかけて出ていくと、美蘭は「はい、これ、この前のお礼」と言って、いきなり小さな紙バッグを差し出した。
「お礼って?どうして?」
「だってお手洗い借りたじゃない。いきなり見ず知らずの人間がそんな事言って、OKしてくれる人なんてあんまりいないし。って、馬鹿にしてるわけじゃ全然ないからね。むしろその反対。本当に感謝してるんだから。これ、最近ちょっと話題のショップで扱ってる、イタリア産の蜂蜜なの。独断で選んだけど、ヒマワリと、オレンジと、ローズマリー」
相変わらず美蘭ワールド全開という感じで、花奈子はすっかり圧倒されてしまい、「えっと、ありがとう」と、なし崩し的に受け取ってしまった。
「亜蘭ったらさ、チョコレートなんかいいんじゃないって言うのよ。この暑いのに、チョコ、どうよ?もらったって困るよねえ、ドロドロだよ?」
「うーん」と、言葉を濁しながら、亜蘭をちらりと見たけれど、彼は美蘭の毒舌なんて慣れっこなのか、顔色一つ変えずに立っている。
「今日は、何しに来てるの?」
まさかこの蜂蜜を渡すためだけに、東京から来た筈はないだろうけれど、美蘭ならそんな事でも平気でやりそうな気がした。
「あれよ、見学会。赤牛山の古墳」
「え、また古墳?タクシーで?」
「ううん。今日は自分で運転してきたわ。やっぱり夜通しだったけど」
「自分で運転?まだ高校生でしょう?」
「だって、もう十八だもんね。私達五月生まれだし。先週ようやく免許とれたの。まあ、ほとんど亜蘭がハンドル握ってたけど」
まるでアメリカの高校生みたいだなと思いながら、花奈子は「でも、車はどこに停めてるの?」と尋ねた。
「ああ、何とかセンターの市営駐車場。あそこ狭いのね。新車なのにドアこすっちゃったのよ。もちろん亜蘭が」
言っているのはどうやら、すこやか健康センターの事らしい。だったら歩いて十分ほどの距離だ。その時、「花奈子」と後ろから声がした。振り向くと、お父さんが玄関に立っている。
「お友達か?そんなところで立ち話してても暑いから、入ってもらいなさい」
言われて初めて、花奈子は自分の気の利かなさに呆れてしまった。日差しはまるで刺すようにきついというのに。しかし花奈子が何か言う前に、美蘭は「お構いなく。私たち、もう行きますから。お邪魔しましたあ!」と叫んでいた。そして小声で「ねえ、古墳の見学会、一緒に行かない?」と誘った。
「でも…」
「何か予定あるんだ?」
「別にないんだけど、古墳とかそういうの、よく判らないし」
「判らないから、見学して説明してもらうんじゃない。ね?行こう行こう」
古墳なんて、誰が興味あるんだろうと思っていたら、意外なことにかなり大勢、五十人程の人が見学会に集まっていた。一番多いのはお父さんよりも年上の男の人だったけれど、ばあちゃんぐらいのおばさんもけっこういたし、学生らしい人もいれば、日傘をさした若い女の人のグループもいる。大人に連れられた小学生も何人かいたし、みんなけっこう遠くから来ているみたいだった。
見学会に参加するには、事前にネットで予約をする必要があるらしかった。受付で一人ずつ確認しているのを見て、「やっぱり無理なんじゃない?」と聞いてみたけれど、美蘭は「何とかなるって」と自信満々で、係の人に「今朝、ちゃんと人数変更の連絡したんですけどぉ」とか何とか言って、うまくごまかしてしまった。
受付があったのは、それまで一番外側の通行止めのロープがはられていた場所で、今日は中に入れるようになっていた。崩れた山の裾を廻るようにして道が続いているけれど、少し整備したみたいで、大雨の翌朝に通った時よりもずいぶん広く、車一台通れるほどの幅がある。他の人に続いて緩やかなカーブを曲がると、見覚えのある光景、崩れたサンドイッチのように土の中から顔を覗かせている、幾つもの大きな石が目に入った。
みんな口々に「すごいね」と声を上げていたけれど、花奈子は二度目だからそうも驚かない。美蘭はどうだろうと横目で見上げると、じっと腕組みをして石を睨んでいる。亜蘭はやっぱりどこか、心ここにあらずな感じで立っていた。
参加者全員が石の見える場所まで来たのを確かめて、市の埋蔵物なんとか課の人が、ハンドマイク片手に説明を始めた。
「今、見ていただいている古墳は、先日の集中豪雨による赤牛山の土砂崩れが原因で発見されたものです。これまでにも、わが市の三津川流域には古墳が多数存在することが知られていますが、その多くが副葬品の売買を目的として、明治中期までに盗掘の被害に遭っていて、保存状態も不完全ですし、中には宅地として造成されてしまったものもあります。
赤牛山は航空写真その他の調査から、古墳である可能性が極めて高いと指摘されていましたが、予算不足により発掘調査が保留になったままでした。しかしこの度、豪雨被害という不測の事態の結果ではありますが、内部構造が露出し、古墳である事が確認されましたので、市としては急遽予算を申請し、埋蔵物の調査と保護を進めることになりました。今後、この一帯は調査が終了するまで立ち入り禁止となりますので、本日は皆さんが直接この古墳をご覧になる、貴重な機会と言えます。
尚、造営された年代と被埋葬者については詳細な調査を待つ必要がありますが、他の古墳と同じであれば四世紀後半ごろのものと思われます。また、現時点で確認されている副葬品その他の状況から、埋葬されたのは女性の可能性が大きいと見られています」
判るような判らないような。花奈子はぼんやりとその説明を聞きながら、風に飛ばされそうになった帽子を押さえた。美蘭は相変わらず仁王立ちだし、亜蘭はというと、もう飽きたのか、リュックサックに入れていたペットボトルの水を飲んでいる。彼は花奈子の視線に気づくと、こちらに近づいてきた。
急に、なんだか怖いような気がして、花奈子は後ずさりした。どうしてだろう、亜蘭が、というか、男の人が近寄って来るのがすごく嫌な感じ。そしてもう一歩後ろに下がったら、地面はまるでゴムみたいに、ぐにゃりと沈んだ。
「花奈子ちゃん、花奈子ちゃんってば」
気がつくと、美蘭が上からのぞきこんでいる。なんでそんな変な場所にいるの?と思ったら、変なのは自分の方で、どうしたわけか地面に寝転がっているのだった。
「ああよかった。いきなり倒れちゃったから心配したよ。熱中症かな」
「大丈夫」と言ってはみるものの、頭がぼんやりして、うまく言葉が出ない。何だか首が痛いと思ったら、枕の代わりに冷たいペットボトルが置いてあった。見上げると梢が風に揺れていて、その向こうに澄んだ夏の青空が広がっている。
「氷、もらってきたわよ」
知らない女の人が、ポリ袋を片手に走ってきた。美蘭は「すみません」と、それを受け取ると、バッグからハンカチを出して氷をいくつか包み、花奈子の首元にのせた。途端にすーっと意識が冴えてくる。
「具合どう?救急車呼ぼうかって言ってたんだけど」
「ううん、大丈夫だから。ちょっとふらっとしただけ」
花奈子は氷を包んだハンカチを片手で押さえて身体を起こした。どうやらここは、赤牛山の公園にあった、桜並木の下らしい。知らない女の人は「お家の人に電話した方がいいんじゃない?」と言いながら、手にしていた扇子で風を送ってくれた。
「今、亜蘭が車とりに行ってるから、家まで送るわ。でも、先にお父さんに電話しようか」
美蘭は花奈子が枕にしていたスポーツドリンクのボトルを手にすると、キャップを取って差し出した。素直にそれを飲んで初めて、花奈子は自分の喉が乾いていたのに気がついた。
「お父さんは多分、もう出かけてる。ママも用があるし」
「でも、一人で家にいて、また具合が悪くなったら大変じゃない。帰ってきてもらった方がいいよ」
美蘭は心配そうだけれど、お父さんは病院で幸江ママと交代しなくてはならないのだ。でないと拓夢が一人ぼっちになってしまう。それに、せっかく塚本さんでゆっくりする予定の幸江ママを呼び戻すわけにはいかない。でも確かに、一人で家で寝ているのも何だか心細い気がした。
「まあまあ、すっかりお世話になっちゃって」
ばあちゃんは切り分けた西瓜の入った鉢をお膳に置くと、皆に小皿を配った。
「ちょうどお隣に西瓜をもらったところで、こんなにいっぱいどうしようかと思ってたのよ。遠慮なく召し上がれ」
「じゃあ、いただきます」
美蘭は本当に遠慮なんて全くせずに、一番大きなのを選ぶと白い歯を見せて齧った。亜蘭も小さな声で「いただきます」と食べている。それを見ていると花奈子は自分も欲しくなって、ゆっくり起き上がった。
「あら花奈子、大丈夫なの?」
「うん。もう平気みたい」
お腹にかけていたタオルケットをたたみ、長い脚で横座りしている美蘭の隣に座る。
「じゃあちょっと、塩を持ってこようか。熱中症予防は塩分が大事って言うから」
ばあちゃんはそう言って立ち上がると台所に行って、小さな焼き物の壺を持ってきた。
「これね、アンデスの岩塩らしくて、お友達のおみやげなのよ。飛行機に乗って、ナスカの地上絵見たんだって」
「へーえ。すごいですね。ペルーまで行ったんだ」
「そうそう、あなたよくご存知ね。私、ナスカを飛鳥だと思ってて、奈良なのにどうしてアンデスなのって、あっはっは」
どうやらばあちゃんは美蘭と気が合うみたいだった。家に一人でいるのも何だか不安で、こっちに連れてきてもらったのは正解のようだ。
「あなたたち、お昼ごはんまだでしょう?よかったら食べて行かない?といっても冷麦ぐらいしか出せないけど」
「わあ、冷麦大好きです。でもいいんですか?」
「一人も四人も、手間は大して変わらないもの。ちょっと待っててね」
ばあちゃんはよっこらしょ、と立ち上がって台所に姿を消した。美蘭は「かなり図々しいねえ、私達」と言いながら、ほんのりピンク色をしたアンデスの岩塩を西瓜にぱらりとかけた。
「ばあちゃんはお客様が大好きだから、大丈夫だよ」
花奈子も真似をして岩塩を西瓜にふると、一口齧ってみた。西瓜だけの時とは違う、輪郭のある甘味が喉に広がる。
「よかった、花奈子ちゃん、元気になったみたい。さっきはちょっと目の焦点が合ってなかったから心配したよ」
「そう?」
「寝不足とかだった?ごめんね。暑いのに無理やり引っ張り出しちゃって」
「ううん。それより、古墳の見学会、途中で抜けちゃったんでしょう?こっちこそごめんね」
「ああ、そんなの問題ないって。別に私たち、説明が聞きたかったわけじゃないから」
「え?そうなの?」
「ただ、あそこに入って、傍でよく見たかっただけ」
「それは、古墳について、もう色々と知ってるってこと?」
「まあね」と悪戯っぽく笑うと、美蘭は脇に置いていたキャンバス地のショルダーバッグからタブレットを取り出すと電源を入れた。
「この街って本当に古墳が多いのよねえ。まあ、三津川という水源があって、土が肥えてて、海からもそう遠くないし、気候は比較的温暖。要するに昔から住みよい土地ってわけね。ほら、これが、空から計測したこの辺りの地勢図。ここが赤牛山で、ここ、ここ、それからこっちでしょ」
美蘭がタブレットの画面に出した地図にはたしかに、似た特徴を持った地形が幾つもちらばっていた。
「これを現在の地名に合わせてみると、田子山、根白丘、那須塚って感じで、どれも小高い場所、つまり古墳なの。でも、ぜんぶ中は荒らされちゃってて、市で保管してる発掘品にも、そんなに大したものはないのよね」
「ふーん」と頷きならが、花奈子は美蘭の白い指が次々と呼び出す画像を見ていた。
「まあ大体、古墳といえば銅鏡とかさ、うまくいけば刀や馬具でしょ?後は翡翠とか瑪瑙とか」
画面には、教科書で見たことのある、深い緑色の勾玉が現れた。
「あと、管玉とか、水晶の玉ね」
次に出てきたのは、青みを帯びた透明な玉だった。花奈子は突然、あの大雨の翌朝に拾ったレモンイエローの玉の事を思い出した。やっぱり、あれは古墳に埋められていたものだったのだ。いい加減どうにかして元の場所に戻さないと、本当に泥棒になってしまう。
ハンカチを取るふりをして、そろそろと自分のショルダーバッグに手を伸ばし、あのガラス玉を入れた巾着を探る。あった。けれど、中味がない。転がり出したのかと思って、バッグの底をかき回してみても、ない。この間、寛ちゃんと夕食に出かけた時にはあった。あの時、こっそり埋め戻すのに失敗して、それから、それからどうしたっけ。
「どしたの?探し物?」
「あ、ちょっと携帯が見つからなくて。大丈夫、あったから」
花奈子はそうごまかして、バッグを探るのを止めたけれど、その指先に自転車の鍵が触れた。あれ?やっぱり自転車は預けたままなんだ。だとしたら、昨日はどうやって家に帰ったんだろう。
「失くして困ってるものがあったら、言ってね。見つけるおまじない知ってるから」
「え、そんなのあるんだ」
「まあね。あと、迷子になった猫を見つけたりもできるよ。普通はちょっとお金払ってもらうんだけど、サービスしちゃうよ。っても、花奈子ちゃんは猫飼ってないか。」
そう言う間にも、美蘭は次々と画像を呼び出してゆく。錆びついた刀みたいなもの、腕輪、首飾り、壺かお椀の欠片らしいもの。お墓にこういうものを埋めるのは確か、死んだ後の世界で使うためじゃなかったっけ。
「ねえ、美蘭さんはどうして古墳のこと、そんなに調べてるの?クラブ活動とか?」
「美蘭、でいいから。古墳はさあ、部活ってわけじゃなくて、生活かかってるのよ」
「生活がかかってる?」
「まあ、詳しくは言えないけど、私、大人になってからの仕事はもう決まってるの。今はその準備をしてるわけ。そのために、古墳の事も知っておく必要があるのね」
「何の仕事?モデルじゃないんだよね?」
しかし美蘭はそれには答えず、ただその色の薄い瞳で花奈子を見つめた。吸い込まれてしまいそうな、切れ長の涼しい目。少しだけ、笑っているようにも思える。
「はあい、お待たせ!ちょっとお膳片づけてくれる?」
冷麦の入った深鉢を持って、婆ちゃんが戻ってきた。花奈子は慌てて立ち上がると、お箸やお椀を取りに台所へ向かう。その後から婆ちゃんの「あんた、今日はいいから座ってなさい」という声が追いかけてきた。
7 黒い蝶と黒い猫
駅前のロータリーでエアコンのきいたバスから降りると、外の熱気が絡みついてくる。まだ九時過ぎなのに、日差しは真昼のように厳しい。花奈子は小走りで日陰に逃げ込むと、自転車置き場へ向かった。
何故だかこの前、病院に行った帰りに、預けっぱなしにしたせいで、わざわざまた自転車を取りにくる事になってしまった。でもまあ、自分のせいだから仕方ないと諦めて、通路を歩く。
風通しが悪くて蒸し暑く、昼間も薄暗いこの通路。目の前を幸江ママぐらいの女の人が、小さな子を連れている。その向こうからは、大学生ぐらいの女の子が二人並んで歩いてくる。この前は誰もいなかったのに、今日は人が多いな。そう思ってから、花奈子は急に立ち止まった。
この前。
誰もいない夜の通路を、確かに自分は歩いていた。なのに何故か自転車を出さずに、家へ帰ったのだ。
そうする間にも、後ろからきた男の人が追い抜いて行く。そのサンダルの足音にどきりとして、花奈子は壁際に身を除けた。どうしたわけか、心臓が早く打って、足が震えてくる。何だろう、昨日も外で倒れてしまったし、ばあちゃんが心配した通り、貧血なのかもしれない。
何人かやり過ごして、花奈子はようやく息を整えると、また歩き出した。そして「第二駐輪場」の表示のある角を曲がった。その瞬間、全身が凍りついたような気がした。男が一人、行く手を遮るようにして立っている。
怖さのあまり、ぎゅっと目を閉じて、それからゆっくりと開く。そこには誰もいなくて、ただ、もやっと生ぬるい風が漂っているだけだった。花奈子はふらつかないように、壁に手をついて、今見たものの事を考えていた。
そうなのだ、自分は確かにここに来たし、この角も曲がった。でも自転車は出さなかった。それは。
まるで氷の上に立つように注意深く、壁についた手を離して、花奈子は一歩、また一歩と後ろに下がった。そして「西出口」と矢印のある方に向かって、誰かに操られているような足取りで進んだ。通路を突き当たり、右の出口に向かう。その段差を踏みしめ、高架下の駐車場に出て行く。
そう、夢なんかじゃない、私は確かにこの場所にいたのだ。あの男に、後を追いかけられて。
それから、ここで、こうして。ショルダーバッグに手を入れると、ばあちゃんと縫った巾着袋に触れる。そこに入っていたレモンイエローのガラス玉。力いっぱい投げつけて、柱にぶつかって割れてしまった。あの破片はどこにいったんだろう。
ごうごうと、高架の上を列車が通り過ぎて行く。花奈子はアスファルトの地面に何か、光るものが落ちていないかと目をこらしながら、俯いて辺りを歩いた。やがて列車の走る音は遠のき、どこからか涼しい風が吹いた。やっぱり、何も落ちてない。顔を上げると、目の前の白い軽自動車のサイドミラーに、黒い大きな蝶がとまっていた。
「クロアゲハだ」
どうしてこんな場所に飛んできたんだろう。不思議に思いながらも、目は自然と惹きつけられる。まだ蛹からかえったばかりなのか、傷ひとつない羽根の鱗粉がきらきらと輝いている。よく見るとそれは、普通のクロアゲハより一回り大きいような気がするし、模様も違っている。もしかしたら、知らない種類の蝶かもしれないと思って、花奈子は顔を近づけて目をこらした。
黒一色のように見えて、実は細かい、幾何学模様にも似た濃淡があって、しかもその模様は、流れる川の水面のように移ろってゆく。でもそんな事ってあるだろうか。光の角度でそう見えるだけ?じっと見つめていると、何かを思い出しそうな、ぼんやりとした気持ちになってくる。蝶はそれに応えるように、ゆっくりと羽を上下させた。
「きれい」
その言葉を口にして、花奈子は何かをつかまえたと感じた。今とそっくり同じ事が、この場所で…
いきなり携帯が鳴りだして、はっと我に返る。慌ててディスプレイを見ると、美蘭だった。
かどや旅館、という看板をたしかめて、花奈子は自転車を降りた。とりあえず道路脇の、邪魔にならない場所に自転車を停めると、門の中を覗き込み、そろそろと敷石を踏んで前庭を抜け、玄関の引き戸を開ける。ごめんください、と声をかける前に、廊下の籐椅子に座って新聞を読んでいる美蘭と目が合った。
「おはよう!暑いのに呼び出しちゃってごめんね」
「ううん」と言いながら、花奈子はその、古い旅館の玄関を見回した。たしかに、ここに旅館があるのは知っていたけれど、駅前に新しいホテルがいくつかあるんだし、いまどき旅館なんかに泊まる人はいないだろうと、ずっと思っていたのだ。
「なんでこんなとこ泊まってるの?って顔してるね」
いきなり指摘されて、花奈子は「うん。あ、そうじゃないけど」と、あたふたしてしまった。
「まあ好みの問題。ラグジュアリーなホテルより、風呂トイレ共同のレトロな旅館の方が落ち着くのよ。まあとにかく上がって」
美蘭の後について黒光りする廊下を進み、奥の階段を上がってすぐの部屋に入る。そこはこぢんまりとした和室で、座卓にはノートパソコンと本が何冊か置かれていた。襖を開けて入った正面が出窓になっていて、簾がかかっている。風が吹くと軒下の風鈴が軽やかな音で鳴った。
「なんか昭和チックでいい部屋でしょ?エアコンなくても風が通るからけっこう涼しいし」
「ここに、弟さんと泊まってるの?」
「ちょっと狭苦しいけどね。あいつ、別々だと嫌がるのよ。とことん面倒くさいわ」
「でも、今日は別行動なんだ」
「そう。気分爽快」と答えて、美蘭はにこっと笑った。昨日、東京から車を飛ばして古墳の説明会を聞きにきて、そのまま一週間ほどここに泊まるから、という話だったけれど、亜蘭は急に撮影の仕事が入ったとかで、東京に帰っているらしい。
「電車は面倒くさいから車使わせて、なんて勝手な事言っちゃって。レンタカー使えばいいのに。こっちは足がなくて動けないわけ。だからちょっと、花奈子ちゃんにつきあってもらおうって思ったの」
「花奈子、でいいってば」
「ふふ、可愛いからついつい、ちゃんづけしちゃう」
「可愛くなんかないよ」
そういう事を言われると本気で居心地が悪くて、花奈子は美蘭の傍を離れ、出窓に腰掛けた。簾の隙間から、狭いけれどきちんと手入れされた庭が見える。小さな池には睡蓮の花が咲いていた。
「あいたあ!」
不意に美蘭が叫び声を上げる。思わずそちらを見ると、明かりの笠が揺れていて、美蘭が額を押さえていた。
「ここさあ、レトロなのはいいけど天井低いのよね。私も亜蘭も、頭ぶつけっぱなしよ」と言いながら、花奈子の隣に腰を下ろす。
「ほら見て、ここ、赤いでしょう」と指さした眉間の少し上は、確かにほんのり赤くなっている。
「部屋の真ん中、通らないようにしたらいいんじゃない?」
「それが正論なんだけど、二人とも馬鹿だからね。でも、花奈子が舐めてくれたら、治るかもしれない」
「えっ?舐めるの?」
思わず聞き返すと、美蘭の眼は糸のように細くなり、「冗談!」と笑った。そこで初めて花奈子もからかわれた事に気がつく。なのに何故か胸がざわめき、左膝の傷痕に目が引き寄せられる。
「ここ、転んだの?」と、美蘭は冷たい指先でそっと触れた。
「あ、やっぱり目立つかな」
キュロットの裾を引っ張って隠そうとすると、美蘭は慌てて「そうじゃなくて、花奈子が見たから気づいただけ」と言った。
「心配しなくてもこんな傷は、すぐに消えちゃうよ。心の傷やなんかと違って」
美蘭は歌うようにそう言って、出窓の手摺に肘をかけると頬杖をついた。心の傷って、どういう意味?聞こうかどうしようか迷っていると、ふくらはぎに何かが触れた。
「きゃあ!」
反射的に立ち上がると、いつの間に来たのか、黒い猫がびっくりしたようにこちらを見ている。美蘭は驚きもせずに「あーら、豆炭、おはよう」と手を伸ばし、その黒猫を抱き上げた。
「ここの飼い猫なのよ。好奇心旺盛なんだよね。知らない声がするから見に来たんでしょ?」
言われて豆炭はニャ、と鳴き、美蘭の腕をすり抜けて畳の上に飛び降りた。金色に光る瞳。少し前まで子猫だったような、華奢な身体に艶々と黒く光る毛並。その表面に、さざ波のように流れる模様が浮かんでいる気がして、花奈子はじっと目をこらした。
「ねーえ、花奈子ってば」
気がつくと、美蘭は座卓においたノートパソコンを開いて、何やら検索している。
「この街ってレンタサイクルが存在しないのね。まあ、観光メインの街じゃないから仕方ないか」
「美蘭、自転車借りたいの?」
「だって亜蘭の奴、あさってしか帰ってこないし。図書館とか資料館を回るのに、タクシーいちいち使うのも面倒。バスなんて不便だし、この暑いのに歩くのもね。いっそ安い自転車一台買って、帰る時ここに寄付してこうかな」
「あのさ、だったら、うち、一台余ってるんだけど」
ついつい余ってる、なんて言ってしまったけれど、それは要するにお兄ちゃんの自転車で、正確には余っているわけではない。でもまあ、亜蘭が東京から戻るより早く、お兄ちゃんが帰ってくる可能性はかなり低いから、美蘭が少し借りたところで問題ない筈だった。
「パンクはしてないと思うけど、まず空気入れないと」
ガレージ脇の自転車置き場の一番奥に、ずっと停めたきりだったシルバーの自転車。高校のステッカーが貼りっぱなしで、サドルが少しひび割れしている。花奈子が物置から空気入れを取ってくると、美蘭は先に渡しておいた雑巾で、ひととおり拭き終っていた。
「完璧だわ。本当にありがとう」と、美蘭は早速空気を入れ始める。
「サドル、高くない?」
「ううん、これくらいなら大丈夫。先に自転車屋さん回って、ブレーキの点検だけしてもらうわ。それにしても、やっぱり持つべきものは年の離れた兄弟よね。双子なんてさ、同時に同じものが必要になるだけで、常に奪い合いなんだから」
その言葉に、花奈子は曖昧に笑うことしかできなかった。自分としては双子の方がいつも一緒で楽しそうに思えるんだけれど。
「よし、これで準備完了。で、花奈子はこれから塾に行くわけね」
「うん。二時からだけど。お昼、うちで食べてく?」
「いやいや、私はこのまま出かけるから大丈夫。でもさ、よければ夕食おごらせて。今日も一人なんでしょ?それとも弟ちゃんの病院に行くの?」
「ううん、一人だよ」
「じゃあ決まった。塾が終わったら電話して!」
それだけ言うと、美蘭はお兄ちゃんの自転車にひらりとまたがり、真上に近い太陽をものともせずに走り去った。本当に、自分は何があっても絶対、何かを調べるために遠い街に出かけたり、図書館にこもるなんて事はありえないと考えると、まだ高校生の美蘭がまるで大学生か大人みたいに思えた。
でも、お兄ちゃんも大学生ではあったけれど、あんな感じではなかった。
置きっぱなしだった自転車の消えた空間は、そこだけ時間が止まったように浮き上がって見える。お兄ちゃんは進学校を卒業して、東京の有名な大学の法学部に進んで、「秀才」という呼び名がぴったりだった。特に高校時代は、お父さんに叱られることもないし、花奈子みたいに遅刻ぎりぎりまで寝坊するなんて事もない、紛れもない優等生だった。
お兄ちゃんはどうしてあんなに頑張れるんだろう。夜遅くまで勉強している彼の部屋からかすかに聞こえてくる音楽を追いかけながら、花奈子はベッドの中で時々不思議に思った。リビングに置き忘れてあった問題集を手に取って、これをいつか自分が勉強する日がくるなんて、絶対ない、と確信した事もある。はっきり言って、叔父さんである寛ちゃんの方がずっと、子供っぽいというか、遊び好きで、適当だと思っていた。
なのに、大学一年の秋、お兄ちゃんは突然東京から戻ってきた。最初は学園祭で休みだから、とかいう話だったのが、なぜかどんどん休みが伸びて、ずっと家にいるようになった。朝と夜が逆になって、みんなが寝静まった頃にシャワーを浴びたり、食事をしたり、家にいるはずなのに、姿が見えなくなってしまった。
時々、夜遅くに、お父さんがドア越しに話をしているのが聞こえてきた。何か返事が聞こえる時もあれば、壁に何かを激しくぶつける音が響くこともあった。その頃は拓夢が最初の入院をしていて、家の中は何もかもがうまくいかずに軋んでいて、中一だった花奈子はいつも枕の下に頭を突っ込んで、何も聞こえないようにして寝ていた。
年明けに一度、お兄ちゃんは東京に戻って、それから半月もしないうちにまた帰ってきて、それからはずっと部屋にこもりっきり。下宿は引き払うことになったけれど、自分では何もせず、忙しいお父さんに代わって、寛ちゃんが荷造りとか、引越しの手配をした。
その年の三月でお父さんは高校を辞めて、四月から予備校で働くようになった。拓夢は何か月かおきに入院と退院を繰り返して、花奈子は進級して、お兄ちゃんは見えない人であり続けた。幸江ママはもちろん、拓夢の事で手一杯だから、あれこれ言うことはなかったし、お父さんもいつの間にか、話をしようとするのを諦めたようだった。奇妙に静かなバランスが生まれ、誰もそれを崩す勇気がなくて、更に一年と数か月が過ぎたのだ。
そしてあの、大雨の夜。
あれがなくても、いつかは誰かがあの部屋のドアを開けていただろう。でも、あの大雨がもう、花奈子に待っている事を許さなかったのだ。そして、全てが少しずつ変わり始めた。
万物は流転す。
美術の田島先生の決まり文句。寛ちゃんには「意味わかってんのかよ」と言われたけれど、今になってようやく、少しだけ本当の意味がわかってきたような気がする。
自転車の空気入れを物置に片づけ、勝手口から家に入る。時間は十二時五分前。先に塾に行く用意をしてから昼ごはんを食べることにして、階段を上がる。手前にある自分の部屋に入ろうとして、ふと足が止まる。そしてまっすぐ進むと、廊下の突き当たりにあるお兄ちゃんの部屋のドアを開けた。
あの夜と何一つ変わらない、すっきりと片付いた空間。たぶんお兄ちゃんは計画的にこの部屋を出て行ったのだ。でも、何のために?どこへ?そして何故、あの日?聞こうにも携帯の電源は切れたままで、ばあちゃんが口座にお小遣いを振り込んでも、何の連絡もなかった。一体、皆のこと、どう思ってるんだろう。思い出したりするのか、すっかり忘れているのか、憎んだり、嫌ったりしているのか。
そう、嫌いじゃなければあんな風に、皆の事を避けて部屋にこもりきりになったりしないはず。だったらやっぱり、花奈子の事も嫌いだったんだろうか。いざ実際その可能性について考えると、けっこう辛いものがある。
花奈子は溜息をつくと、勉強机の椅子を引いて腰を下ろした。この机に向かって、お兄ちゃんはいつも何を考えていたのだろう。目の前には静かに時を刻んでいる目ざまし時計と、オーディオプレーヤーのスピーカーと、ゲームのマニュアル本が何冊か。中学でも男子の間で人気のある、「追龍神伝3」や「ハンターコードエクリプス」なんかだ。
優等生やめて、ゲーマーになったのかな、と思いながら、花奈子はその中の一冊を手に取る。その時、本と本の間に入っていた、一枚のメモがはらりと舞った。
「おっと」
床に落ちたそのメモを拾い上げ、そこに書かれた字を読む。
東京都人並区
雲母
その二つ以外、何も書いてない。小さくて角張った、懐かしくすらあるお兄ちゃんの字。よく見るとその下に、坂、八千、という字もあった。ゲームの裏技か、パスワードだろうか。マニュアル本をぱらぱらとめくり、それからメモと一緒に元の場所に戻して、花奈子は頬杖をついた。
お兄ちゃんが急に大学に行かなくなったのは、もしかすると何か、嫌な事があったせいかもしれない。沙緒美と自分の間にあったような、もう学校に行きたくなくなるような事が。
しかし、だからといって、自分も塾に行かなくていいというわけではない。ふうっと溜息をついて、お昼ごはんはハムときゅうりとチーズを胚芽パンでサンドイッチにすることに決めて、花奈子は立ち上がった。ドアを閉めようと振り返ると、窓の外をクロアゲハが飛んでいるのが見えた。
8 火遊びしたくない?
ちょっと油断すると涙がこぼれそうな気がして、何か別の、とびきり馬鹿げた事でも考えようと首を振ってみる。そんな花奈子の努力に気づいているのかいないのか、美蘭は「何でも好きなの選んでね」と、笑顔でメニューを差し出した。
そこはずっと前、お兄ちゃんの大学合格祝いに来たことのあるレストランだった。美蘭は「旅館の人が薦めてくれたの」と言ったけれど、近所の人なら一度は来たことがある、少し贅沢な気分になれる店だ。テーブルには赤と白のギンガムチェックのクロスがかけられ、クリーム色の土壁とよく合っている。まだ早い時間なせいか、店には花奈子たちの他にはもう一組、会社帰りらしい三人連れの女の人だけだった。
「飲み物とかも頼んでね。グレープフルーツの生ジュースなんて、おいしそうじゃない。私は炭酸水にしようかな」
「じゃあ私もそうする」
「真似する気?だったらお料理は、花奈子が決めるまで黙っとこう」
美蘭はいたずらっぽく笑うと、グラスの水を一口飲んだ。正直いってあんまり食欲がない感じだけれど、せっかくご馳走してくれるんだから、ちゃんと食べようと思い直す。そして、前に幸江ママが食べていた、きのこソースのオムレツとライスコロッケのセットを選んだ。
「なるほど、そう来るか」と、美蘭は腕組みをして、それから「サーロインステーキ!」と宣言した。
色が白くてほっそりしているから、野菜と果物しか食べないようなイメージがあるけれど、美蘭はまるで猛獣みたいに勢いよくステーキを食べた。付け合せのサラダはシャリシャリといい音をたてて噛み砕き、バゲットをちぎっては、お皿の肉汁に浸してから頬張る。出されたものは何一つ残さずに食べようという、気迫のようなものがあって、そういえば、ばあちゃんの家で出された冷麦も、わんこそばみたいな気合で食べてたなあ、と花奈子は思い出していた。
「やっぱ夏は肉だね。生き返るわ。花奈子もちょっと、どう?」
そして返事も待たずに、オムレツのそばにステーキを一切れ載せてくれる。花奈子もあわてて「オムレツ食べる?」と訊いたけれど、「いや別に、交換しようってつもりじゃないの。食べたいならちゃんと注文するから、気にしないで」と、あっさり断られた。
「花奈子はどっちかっていうと、暑いと食欲がない方なの?」
「うーん、まあ、そうかな」と、はぐらかしてみたけれど、美蘭に比べると自分のお皿は半分も進んでいなくて、差は歴然としている。オムレツはふわふわで、きのこソースはほんのりガーリック風味だし、ライスコロッケは中からとろけたチーズが流れ出す。おいしいのは確かだけれど、その事とは無関係に、花奈子の胃袋はまるで石みたいに縮こまっている感じだった。
今日の午後、遅刻ぎりぎりで塾の教室に駆け込むと、沙緒美が三、四人の女の子と何か盛り上がっていた。よその中学の子なのに、もう仲良くなったんだ、というのが正直な気持ちで、自分一人が取り残されたような気がした。おまけに、沙緒美は花奈子が入ってきたのを見るなり、さっと冷たい表情になって口をつぐみ、それに気づいた他の子たちも黙って自分の席についてしまった。
授業が始まるから、といえばそれまでなんだけれど、どうしたって自分と無関係とは思えない。それが確信に変わったのは休憩時間だった。うっかり水筒を忘れてきたので、自販機でペットボトルのお茶を買っていたら、ちょうど自販機の影になった場所から話し声が聞こえたのだ。
「あのさ、うちのクラスに二人だけ東中の子がいるじゃない。キレイな子と地味な子」
「へえ、彼女たち東中なんだ」
「それがさ、地味な子ってかなり性格悪いらしいから、関わんない方がいいよ」
「えー!なんでなんで?真面目っぽいのに?」
「なんかさ、こないだ電車で痴漢にあってたらしくて、沙緒美ちゃんが、ってキレイな方なんだけど、声かけて助けてあげたのに、シカトして逃げちゃったって」
「ひゃ~、感じわるぅ!」
「でしょ?後ろからスカートに手、突っ込まれて、ずっーと触られてたらしいよ」
「やだ!気持ち悪い、それ最低じゃん!私だったら一瞬でも我慢できない、絶対その場で怒る!」
「だよね?だからさ、もしかしたらあの子、かなりの変態で、喜んじゃってたのに、邪魔されたって逆切れ?みたいな」
そこで悲鳴のような笑い声や歓声が沸き上がり、それは少しずつ遠ざかっていった。辺りが静かになってようやく、花奈子は痛いほど握りしめていた拳を開き、震える手で自販機からペットボトルを取り出した。頭の中は真っ白で、何をどう考えていいのか判らない。それでも、授業の始まりを知らせる音楽が流れると、自動操縦のロボットみたいに教室に戻り、自分の席についた。
でも、花奈子はただそこに座っているだけで、先生が何を話しても耳には入らず、頭の中ではさっきの会話が無限ループになって回り続けていた。あの日、勇気を振り絞って沙緒美を助けたつもりだったのに、どうしてこんな事になってしまったんだろう。気がつくとワークブックの上に涙がぽとりと落ち、消しゴムをかけるふりをして、掌でこすり続けるしかなかった。
あれからずっと、胃が喉までせり上がってきたような、胸の中の窮屈な感じが消えない。だからどんなにおいしい料理も、すんなり入って行かないのだった。花奈子はとうとう手にしていたフォークを置くと、「おいしいんだけど、何だかお腹いっぱいになっちゃった」と言った。美蘭はきっと、せっかくご馳走してあげたのに、とがっかりしているだろう。怒っているかもしれない。でもとにかく、もう無理だった。
「そっか、じゃあ、あとはもらっていい?」
あっさりそう答えた美蘭に、花奈子は慌てて「でも、食べかけだよ?」と言った。
「うん。でもおいしそうだから」
そう言われて駄目という理由はない。呆気にとられる花奈子を前に、美蘭は自分の空いたお皿を脇に寄せ、オムレツとライスコロッケのお皿を引き取ると、あっという間に平らげてしまった。
「この、きのこソースがいい感じね。生のマッシュルーム使ってるんだ」
「あの…美蘭っていつもそんなにいっぱい食べるの?」
「そうね。亜蘭より多いかも」
「でも、全然太ってないね」
「燃費悪いのよ。生き埋めとかになったら、すぐ死ぬタイプかな」
そして彼女はグラスの炭酸水を飲み干すと、「デザート食べる?」と尋ねた。
「ごめん、もうお腹いっぱい」
「別に謝ることじゃないって」
お勘定を済ませて店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。少し離れた駐車場のすみに停めた自転車のところまで歩いていると、美蘭はいきなり花奈子の背中からおぶさるように両腕を回してきた。ほんのりと、甘い花のような匂いがするのは香水だろうか。彼女の柔らかい髪が花奈子の髪と触れ合い、滑らかな腕が頬を撫でる。彼女はそして耳元で「ねえ、火遊び、したくない?」と囁いた。
「美蘭、ちょっと待ってってば!」
花奈子の叫ぶ声なんかまるで気にしないで、美蘭は「ほら次っ!」と言うなり、ライターをカチリと鳴らした。一瞬の間があって、それからロケット花火は鋭い口笛のような音をあげて夜空に向かっていく。
これが美蘭の言うところ、正真正銘の「火遊び」。たくさん花火を買い込んで、三津川の河川敷で楽しもうというのだ。しかし花奈子と美蘭の間では「花火」という言葉の意味もどうやら微妙に違っているようだった。花奈子にとっては、手に持って火をつけて遊ぶものなのに、美蘭にとっては空に打ち上げて、音と光の両方を楽しむものらしい。
でもまあ、花火を買うお金を出したのは美蘭なので、花奈子は彼女の見解に従うことにして、三津川までついてきた。でも実際やってみると、これはなかなかハードな遊びだった。
「今度は五連発」と、美蘭が次の花火を地面に突き刺しているのを見ると、慌てて耳を塞ぎ、できるだけ遠くまで避難しなくてはいけない。
「花奈子ってば、なに逃げてるのよ」
「だって怖いんだもん。きれいだけど」
そう、赤や金、紫や銀色の火花をまき散らしながら闇を切り裂く花火は確かに美しいし、暗い川面に反射する光の粒はまるで万華鏡のようだ。それでもやっぱり、耳を刺す爆音には足がすくんでしまう。
「まあそのうち慣れるって」
そしてまた、乾いた音を盛大に弾けさせながら、五連発の花火が空中で炸裂し、閃光の余韻を残して溶けるように消えてゆく。少し離れた場所には、大学生ぐらいのグループが、こちらは花奈子の考えるところの花火を楽しんでいた。しかし美蘭の打ち上げる花火の、あまりの迫力のせいか、その手を休めてこちらをずっと見ているのだった。
「ねえ、私たち、ちょっとやり過ぎかもよ」
恐る恐るそう言ってみたけれど、美蘭は「大丈夫、今のが最後だから」と答えた。
「って、打ち上げ花火は、最後って意味だけどね」
「どういう事?」
「これよ、これ」と。美蘭が取り出して見せたのは、ねずみ花火だった。しかも、軽く十個以上ある。
「えっ!これ全部やるの?」
「当たり前でしょ。持って帰って夜食にするわけないし」と言うなり、美蘭はもう最初の一つに火をつけていた。花奈子は悲鳴をあげて駆け出したけれど、そこを狙うように「ほら逃げて逃げて!」と投げてくる。しゅるしゅる、ぱーん、という音と、自分の声と、煙と、火薬の匂い。
「ちょっと待ってってば!」
「次、そっち行くよ!」
何度も繰り返すうちに、怖いんだか楽しいんだか、もう判らなくなってきて、気がつくと花奈子は肩で息をしながら笑っていた。煙のせいか、喉が少しいがらっぽくて、何度か咳も出る。全ての花火を一人でやり尽くした美蘭は、一仕事終えた、という感じのすっきりした表情をしていた。
「これで、下らないものも吹き飛んだね」
「下らないもの?」
花奈子の質問には答えず、美蘭は花火の燃えかすを拾い集めると、家の物置から持ってきたバケツに放り込んだ。急いで花奈子もそれを手伝う。大学生たちのグループは、夢から覚めたような感じで、また自分たちの花火を始めていた。辺りには気持ちいい夜風が吹いていて、美蘭が盛大に打ち上げた花火の煙もすっかりどこかへ運び去られたようだ。
「花火って、蚊取り線香の代わりになるからいいわね」
「たしかに、そうかも」
そんな言葉を交わしながら、河川敷の細い階段を上がり、停めておいた自転車に乗って花奈子の家まで帰る。バケツは美蘭が自転車の前かごに積んでくれた。
「本当にゴミ、置いて帰って大丈夫?」
「うん。明日ちゃんと捨てとくから」
家の前まで来ると、花奈子は自転車を降りて、美蘭からバケツを受け取った。今までも時々、寛ちゃんと花火はしていたから、ゴミの捨て方は判っている。
「もうお父さん、帰ってるんだ。ご挨拶していこうかな」
美蘭は長い首をさらに伸ばして、家の様子をうかがった。
「まだ帰ってないよ。タイマーで明かりがついてるだけ」
お父さんは十時まで夜の授業だし、幸江ママは拓夢のところ。そう思うと花奈子は何だか美蘭と別れるのが寂しくなってきて、「ジュースとか、飲んでく?」と尋ねた。
もちろんそれを遠慮するような美蘭ではない。彼女をリビングに案内して、花奈子は冷蔵庫を開けてみたけれど、残念ながら飲み物は牛乳と麦茶しか入っていなかった。
「ジュースって言ったけど、これしかなくって。ごめんね」
とりあえず量だけはいっぱい、と思って、大きなグラスにたくさん氷を入れて、麦茶を注いだ。ソファに座ってスマホを見ていた美蘭は「のど渇いてたから、麦茶が一番いいわ」と、すぐに半分ほど飲む。
「亜蘭ってば、撮影って何の仕事かと思ったら、ホラー映画だってよ。主役が遅刻したから明日に伸びた、だって。迷惑な」
「モデルだけじゃなくて、俳優もやってるの?」
「んなもん、エキストラに決まってるじゃない。蝋人形にされた人の役らしいけど、本物の蝋人形の方がまだ演技力あると思うな。たぶん事務所が、売れてる子とセットにして無理やりブッキングしたのよ」
「それでもすごいと思うけど。映画の主役って誰なの?」
「森羅ゆみく」
「えっ!マジで?」
森羅ゆみくは癒し系のアイドルで、人気がある。大きくて少し眠そうな目が印象的で、ちょっと舌足らずで、「します」という語尾が「しむぁす」と聞こえるところが可愛いくて、真似している子もけっこういる。
「でも彼女、けっこうヤンキーらしいよ。普段はすっごい滑舌よくて、監督にタメ口だし。おまけに男癖が悪いって。遅刻したのは二日酔いらしいし」
「えっ、でも、ゆみくちゃんまだ高校生でしょ」
「でも、ゆみくちゃん芸能人だし。っていうか、まあ見た目のイメージと現実って違うものよね。可愛いから優しい性格だなんて、そんな単純なもんじゃないし」
それはそうだ、と花奈子にはうなずけるものがあった。花火やなんかで忘れかけていた、今日の塾での出来事。沙緒美だってあんなに可愛いのに、信じられないほど攻撃的だ。思い出すと途端に、周りの全てが憂鬱な色に染まっていくような気がする。お腹のあたりがすっと冷たくなって、それが全身に広がっていくような感じ。
「って、花奈子、聞いてる?」
「えっ?」
どうやら美蘭は何か話していたらしい。「ごめん、少しぼんやりしてた」と謝ると、美蘭はスマホで時間を確かめ、「もう遅いね。謝るのはこっちだわ。ごめんね」と言って、麦茶の残りを飲み干し、「じゃあ」と立ち上がろうとした。
「待って」
咄嗟にそう言ってしまってから、花奈子は自分で自分に驚いていた。でも、多分私は、この話を誰かに言わずにはいられないのだ。
全てを話し終えると、花奈子はまた一枚新しいティッシュを取って洟をかんだ。美蘭はもう氷もほとんど残っていないグラスを口に運ぶと、「それは辛かったね」と低い声で言った。
「助けたつもりだったんだけど、私のこと、怒ってるんだよね。どうしてなんだろう」
「たぶん、だけどさ、その沙緒美って子が怒ってるのは、自分自身なんだよ」
「自分?」
「痴漢にあって、何もできずに我慢してた、自分が嫌いなの。弱くてみじめな自分が嫌いなの。そんな自分のこと、人に知られたくなかったのに、花奈子に助けられたせいで、知られてしまった。だから、誰かに言いふらされる前に、その嫌いな自分を全部、花奈子に押し付けることにしたのかな」
「でも、私、誰かに言ったりしないよ。あんな事、人に言うわけない」
「それは花奈子の場合でしょ?沙緒美はたぶん、言っちゃう子なのよね。だから、花奈子が黙ってる可能性なんて、思いつかなかったのよ」
「じゃあ、やっぱり、私はあの時、何もせずに知らん顔していた方がよかったの?」
「難しいよね」と言って、美蘭は長い溜息をついた。
「私も似たような事あったな。五年生の時だけどさ、友達がある人に虐められて、すごく追いつめられてたの。だから助けるつもりで、その相手をひどい目に遭わせてやったの。きっと友達は喜んでくれる、そう思ったんだけど、大間違いよ。まるでお化けか何かの、恐ろしい物を見るような目を向けられて、二度と口をきいてもらえなかった。私も馬鹿だよね、やり過ぎって事、判らなかったの」
楽しかったパーティーを思い出すような感じで、あははと笑ってから、美蘭は花奈子の目をまっすぐに見た。
「私は花奈子のした事は、それでよかったと思う。でも、沙緒美って子はさ、ありがとうって言えるほど、強くないのよ。もし助けてくれたのが花奈子じゃなくて、知らない人だったら、素直にお礼が言えたかもしれないけど」
「私これからどうしたらいいと思う?あんな事言いふらされて、平気な顔して塾に行くなんてできないよ。でもお父さんにどう説明していいか判らないし、幸江ママに心配もしてほしくない」
何だかようやく涙が止まったような気がして、花奈子はもう一度だけ洟をかんだ。もう十時を少し過ぎていて、そろそろお父さんが帰ってくる。そう思うと泣いている場合ではなかった。
花奈子が時計を見たのに気づいたのか、美蘭は「さて、じゃあ私、そろそろおいとまするね」と背筋を伸ばした。そして花奈子の顔を覗き込むと、「大丈夫だよ。今夜ぐっすり眠って、そうしたら全てうまく行くから」と微笑んだ。忘れかけていた火薬の匂いが、ほんの一瞬戻った気がした。
9 ぬいぐるみに似ている
「ほら、動いちゃだめ」
自分でも気づかないうちに肘が下がっていたみたいで、注意された花奈子は慌ててポーズをとり直した。
「なんか、今度は上げ過ぎなんですけど」
「ていうか、向きが違うみたい」
みんながあれこれ言ううちに、タイマーが鳴り出して、花奈子はほっと息をつくと空いている椅子に腰を下ろした。ふだんからどうも遊びがちで、夏休みも集まっているだけという感じの美術部だけれど、たまにはそれらしい活動中。交代で十分間ずつモデルを勤め、全身像をクロッキーという、いつになく真面目な課題だ。
「はい、じゃあ次は夕香の番ね」と、部長の綾乃がタイマーをセットすると、夕香は「ちょっと休憩しようよ。ずっと描いてるし、疲れちゃったよ」とゴネた。
「そうね。今で六人終わったから、十五分ほど休憩しよっか」
「ていうか、もう今日は終わりにしちゃおうよ。あと自由制作」
「私も夕香先輩に賛成」
部員がたったの十四人で、女子ばっかりの美術部は、とにかく「自由制作」という名目でまったり過ごすのが大好きだ。おまけに今日は八人しか来ていない。花奈子もどちらかといえば夕香サイドだったけれど、それじゃ綾乃に悪い気もする。花奈子を含めた三年生五人の、誰も部長がやりたくなくて、仕方なく引き受けてくれているのに。
「でもはっきり言ってうちら、遊び過ぎだよ。同じ文化系でも吹奏楽部や合唱部なんか毎日午後まで練習してるのに、週二で午前だけって、何もできないじゃん」
綾乃が反論しても夕香は譲らず、後輩たちにも同意を求めようとした。
「だってさあ、そういうキツイ練習したくないから、みんな美術部選んだんじゃないの?実際、エアコンもないのに、暑くて絵なんか描いてらんないよね」
「だったら帰宅部の人と一緒じゃない。絵は描かないし、文化祭に何やるかだって全然決めてないし。去年は少なくとも、夏休み前にはテーマ決まってたのに」
綾乃は苛立ちを露わにして、何だか少しずつ険悪なムードになってきた。彼女は夕香のこと、あの子別に絵が好きじゃなくて、みんなで適当に遊びたいから入部しただけでしょ、って、醒めた目で見ていたりする。正直なところ、後輩をまとめたりするのは夕香の方がうまいのに、彼女はとにかく「責任」とか「代表」の絡む役割からは逃げ回るのだった。
とにかくこの場を何とかしようと思って、花奈子は「じゃあ、とりあえず、文化祭のテーマだけでも、決めとく?」と提案した。しかし夕香はいきなりスマホを取り出すし、綾乃はぶっきらぼうに「誰か意見ある人」と言ったきり、クロッキー帳に何やら描き始めた。後輩たちはうつむき加減で、もちろん黙っている。
あーあ。口に出してそう言いたい気分で、花奈子は自分のクロッキー帳を傍の机に置いた。ここに美蘭がいたらどうするだろう。じゃあ、もう私が決めちゃうね。今年のテーマは古墳。誰か異議ある人は?ない?それじゃ決定!なんて具合に、一瞬でまとめてしまうに違いない。そもそも美蘭は美術部みたいに地味なクラブ、入らないだろうけれど。
「おう、暑いのにご苦労ご苦労」
すっかり煮詰まったところへ、そう言って入ってきたのは、顧問の田島先生だった。ふだんから他の先生よりも適当な格好をしているけれど、夏休みなせいか、アロハシャツにジーンズで、それが不思議と五分刈の胡麻塩頭に合っていたりする。
「先生、来てたんだ」と、夕香が驚いた声をあげた。
「まあちょっと、職員会議って奴だな。先生なんかいてもいなくても変わらないのに、出席だけはしなくちゃならん」
いつも通り、いい加減な事を言いながら、田島先生はみんなのところまで来ると、花奈子のクロッキー帳を手にしてぱらぱらとめくった。
「頑張ってるな。先生に構わず、続けてくれよ」
「ちょっと先生、勝手に見ちゃ駄目だよ!」
クロッキー帳とは名ばかりで、花奈子のそれは落書き帳だった。友達の似顔絵とかイラストとか漫画のキャラを真似してみたのだとか、人に見せられないようなものばっかり描いてある。慌てて取り返そうとする花奈子を尻目に、田島先生は「なるほど」とか何とか言いながら、ページをめくっている。
「山辺さんはセイドウキに興味があるのか?」
「え?」一瞬、何の話か判らず、花奈子は思わず取り返すのも忘れて自分のクロッキー帳をのぞきこんだ。
「ほら、この模様、セイドウキじゃないのか」
先生が指さしたのは、あの、もしかしたら新種じゃないかと思った、クロアゲハの模様を思い出して描いたものだった。電子部品の基盤に似ているような気もしたし、顕微鏡で拡大した細胞の写真にも似ていたし。
「先生、セイドウキって何?」夕香がいつの間にか立ち上がって、先生の肩越しに覗き込んでいた。
「中国の遺跡とかからいっぱい出てくる、青銅でできた壺とかでしょ?」と、綾乃が冷静に言う。田島先生は「そうそう、しばしお待ちを」と、美術室の隣にある準備室の鍵を開けた。その隙に花奈子は急いでクロッキー帳を回収する。
「これが世間一般に言う、青銅器という奴だ」
先生がそう言って皆の前に広げたのは、週刊誌の倍ほどもある大きくて分厚い本だった。「ただし、青銅器とは言うけれど、色が青緑なのは錆びているからで、元々は金ピカだったんだ。色んな形のものがあって、それぞれに決まった名前がついている」
本には確かに、三本足の壺みたいなものや、蓋つきのマグカップみたいなもの、洗面器の両側に取っ手をつけたみたいなものと、様々な器の写真が載っている。そしてどの器の表面にも、歪んだ長方形を組み合わせた迷路のような、幾何学模様が刻み込まれている。その模様は確かに、かなり大雑把ではあるけれど、あの奇妙なクロアゲハの羽に浮かんだ模様に似ていた。
「これって、料理するのとかに使ってたの?」と、夕香が質問する。
「というよりは、神様に祈ったりする儀式に使われていたらしい。他にも、動物をかたどったものもあるんだよ」先生がページを何枚かめくると、綾乃が「鳥だ」と呟いた。
「そう。これはミミズクかな。他にも牛だったり、馬だったり。これは虎だ」
先生が指さしたのは確かに、虎のような形をした青銅器の写真だった。でもその身体にあるのは縞模様ではなく、他の動物たちや器と同じような、入り組んだ幾何学模様だった。
これもしかして、虎じゃなくて別の動物じゃないだろうか。
何故だか花奈子はそう思った。こんな模様のあるネコ科の、別の猛獣かもしれない。全身が真っ黒で、とても大きくて…
「山辺さんは青銅器を知らずに、あの模様を描いてたのか?」
いきなり田島先生に訊かれて、花奈子は我に返った。
「たぶん、偶然」と、ぼんやり返事すると、綾乃が「青銅器の写真なんて、みんな絶対見たことあるよ。忘れてるだけなじゃい?」と言った。花奈子は「そうかも」と答えるしかなかったけれど、田島先生は「もしかすると、こういう模様は人類が普遍的に心に抱いてるものかも知れないな」と言った。
「南米の古代文明にマヤ文明というのがある」
「あれだ、世界滅亡のマヤ暦作ったの」と夕香。
「うん。どうやらあれは外れたらしいな。で、そのマヤ文明の遺跡にある石の彫刻や何かに施された装飾は、どことなくこの青銅器と似通ったところがあるんだ。距離的には地球のちょうど反対側で、別々に栄えた文明なのに。で、ここからは先生の推測だけれど」
「あー判った!宇宙人でしょ?宇宙人が地球に残していった暗号なんだ。世界のあちこちに散らばってるっていう」と、夕香が声を上げると、綾乃は冷めた調子で「んなわけないよ」と突っ込んだ。
「まあ、それはそれで面白い説だけどな。先生が思ったのは、人が自然界の目に見えない大きな力を形に残そうとすると、共通してこういう表現になるんじゃないかって事だ。台風とか水の流れとか、渦を巻く自然現象というのは多いだろう?」
「鳴門の渦潮とか?」と綾乃が言うと、夕香が「ラーメンに入ってる奴?」とふざける。夕香、大人しくしといた方がいいのに、と少しはらはらしながらも、花奈子は視線を青銅の虎から逸らすことができずにいた。何だろう、この変な感じ。それは、すごくはっきりした夢をみていたと判っているのに、どんな内容だったかは思い出せないのに似ていた。
「だからまあ、その考えでいくと、山辺さんが自然発生的にこういう模様を描いたことも説明がつくわけだ」
そう先生が言った時、いきなりタイマーがけたたましく鳴り出した。
「休憩十五分でセットしたんだった」と、綾乃が慌てて止める。田島先生は「おう、邪魔したな。続きやってくれ」と言って本を閉じると、美術準備室に片づけに行った。しかし夕香は「もうやめやめ。文化祭のテーマは次までに考えてくるってのでいいでしょ」と、クロッキー帳を抱えて立ち上がる。綾乃はそれをちらりと見て「いいんじゃない?」とだけ答えた。
夕香に続いて後輩たちも帰ってしまい、田島先生も消火器の点検当番とかで出て行って、美術室には帰りそびれた花奈子と綾乃の二人だけになった。
「私たちも、行こっか」と、遠慮がちに声をかけると、綾乃は黙って立ち上がる。もう字も読み取れないほど古くなった木札のついた鍵で戸締りをして、職員室に返しに行く。そしてまだ練習を続けている、合唱部の歌声を背中に校舎を後にした。
水害で泥だらけになったグランドは、半分だけきれいにならされていて、残り半分は相変わらず溶けて固まったチョコレートみたいだった。きれいな側では野球部が練習をしている。花奈子と綾乃はそれを横目で見ながら校門へと歩いた。
「意味ないよね、こんなの」
足元にある小さな石を蹴って、綾乃が呟いた。
「え?」
「みんな夏休みに部活なんてしたくないのに、無理して集まって、イライラしてる」
「夕香のこと気にしてるの?」
「だってあんな事言われたら、何しに集まってるのよって、こっちがききたくなるよ」
確かに綾乃が怒るのも無理はない。でも、夕香はそう言いながら「家にいても面白い事なーんもないし」って、普段の部活でもなかなか帰ろうとしないのだ。
「たぶんさ、集まってみんなとしゃべりたいけど、絵は描きたくないんじゃない?」
「は!面倒くさい人。ねえ、花奈子はこの後の予定は?今日、塾だっけ」
「塾、の筈なんだけど。予定なくなっちゃった」
「どういう事?」
それは花奈子自身にとっても「どういう事?」という感じの、意外な展開だった。あの、最高に嫌な事が塾で起こった次の夜、テレビのニュースを見ていたお父さんが「おい、これ、花奈子の行ってる教室だよな」と言った。顔を上げると、画面には塾の建物が映っている。
「このビルが手抜き工事で、震度四ぐらいの地震でも倒壊する怖れがあるって言ってるぞ。塾から何か聞いたか?」
もちろん花奈子は首を振るしかなかったけれど、しばらくして一通のファックスが流れてきた。それは塾から送信されたもので、花奈子の通う教室の入っているビルの耐震性に問題があること、原因は手抜き工事によるもので、明日から一切このビルでの授業は行わないことを伝えていた。そして、この後の授業は他の教室に振替えで行うか、授業料を全て返金するか、どちらを希望するかを回答してほしいと書かれていた。
花奈子はもちろん、授業料返金希望だった。もうあの塾になんか二度と行きたくないし、それは別の教室でも変わらない。そして幸運なことに、振替えできる教室はずいぶん遠くて、通うのに不便だった。
お父さんはそれでも花奈子を塾に通わせたいみたいだったけれど、とりあえず通信教材で頑張ると約束して、あの嫌な塾とは縁が切れたのだった。
「なんか、言われてみれば壁にひびなんか入って、どことなくボロっちいビルではあったんだけど」と、花奈子はもう既に記憶から薄れ始めている、塾の様子を思い出していた。それと同時に、美蘭のまっすぐな瞳と「全てうまく行くから」という言葉がよみがえったけれど、次の瞬間には綾乃の声で現実に引き戻されていた。
「でもそんなんでさあ、受験心配じゃないの?」
「まあ、そりゃ心配だけど」
正直、塾に行かずにすむという事だけで浮かれた気分だったのに、実際はそう楽じゃない。夕べは幸江ママも遅くに帰ってきて、九月からの受験勉強をどうするかという話になったのだ。もちろん私立の高校に行く余裕なんてないから、絶対に公立に合格しなくてはいけないんだけれど、花奈子の成績はかなり微妙だった。
「花奈子ちゃんは、塾より家庭教師の方が合ってるんじゃないかしら」というのが幸江ママの意見だった。ママ本人も大学受験まで家庭教師だったらしいけれど、それは彼女が一人っ子で、塚本のおじいちゃんが大企業に勤めていたからできた事だろう。じっさい、お父さんはそれを聞いても「まあ、人それぞれだからな」としか言わなかった。
花奈子は時々、幸江ママはお父さんと結婚して幸せなんだろうか、と思う時がある。お父さんは年が一回りほど上だし、お兄ちゃんと花奈子という子供がいて、お金持ちというわけでもない。確かに優しくて、色んな事を知っているけれど、見た目は普通だし、頭のてっぺんが年々薄くなってきている感じもする。
一方の幸江ママは、女子では一番偏差値の高い聖桜女学院から東京の大学に進んで、卒業してからは旅行会社で営業をしていた。海外旅行だっていっぱいしたらしい。なのに何故か、修学旅行の仕事がきっかけでお父さんと知り合って、結婚することになったのだ。
幸江ママの独身時代のアルバムは、眩しいような写真があふれている。雑誌にそのまま載っていてもおかしくないような、完璧なファッションとメイク。同じように着飾った女友達と、素敵なレストランや、ドラマの舞台になりそうなホテルのバーにすんなりと溶け込んでいる。かと思えば石畳の美しいヨーロッパの街並みを歩いてみたり、日本とは比べようもない大自然を背景に、子供みたいな笑顔を弾けさせていたり。
花奈子は何故だか、たとえ自分が写真の中の幸江ママぐらいの年齢になっても、こんなにきらきらした世界には馴染めないだろうという、確信のようなものがあった。血がつながっていないから、と言ってしまえばそれまでだけれど、幸江ママは花奈子とは違う種類の人なのだ。たとえ今、家族として仲良く暮らしていても、その事は疑いようがなかった。
とはいえ、女の人は結婚したら落ち着くものよ、という幸江ママの言葉を信じるなら、彼女は昔の生活に未練はなさそうだった。でも時々、幸江ママがとても疲れて見えるのは、拓夢の病気だけが理由じゃないような気がするのだ。
「私は絶対に樟英館の美術コースに入りたいから、花奈子ほど気持ちの余裕ないんだ」
綾乃は溜息まじりにそう言って、鞄を肩にかけ直した。
「今日もこの後、デッサンと色彩構成の教室だよ」
「そうなの?別に習わなくてもいい位に上手じゃない」
お世辞抜きで、綾乃は本当に絵がうまい。それも部長にふさわしい理由ではあるんだけれど、鉛筆のデッサンはまるで本物みたいだし、ポスターのデザインなんかでも、花奈子には絶対思いつかないような色を上手に組み合わせる。もうこれ以上どこかで勉強しなくても、ちゃんと入試に合格しそうに思えた。
「何言ってんだか。私より上手な子なんていっぱいいるんだよ。教室に行くたびに、へこんで帰ってくるんだから」
「でも、絶対に美術コースなんだ」
「そう。どうせ美大狙いなら、高校から始めた方が有利だもん」
「すごいね。ちゃんと先の事まで考えて努力してて」
「だって美術以外にやりたい事がないんだもん。会社員なんてありえないしね」
なんとなく、このまま高校に進学して、大学に入って、どこかの会社でOLするのかな、と思っている花奈子には、同い年の綾乃がとても大人びて見えた。綾乃が美術部の活動に真剣なのは、ちゃんと理由があるのだ。ただ何となく集まって絵を描いている自分が急に恥ずかしくなって、花奈子は「次の部活はちゃんとやろうね」と言って綾乃と別れた。
とはいえ、急に空いた時間をいきなり自習に使うほど勉強好きな花奈子ではない。まだ美蘭たちはあの旅館に泊まっているけれど、何か調べものとかで、今日はどこかに出かけているので会えない。頭上を覆う空はきりりと澄み渡り、日差しは強くても、乾いた風が気持ちよく襟元を吹きぬけてゆく。
「よし、絶好のチャンスだ」
「本日は陰干しなり」とコメントをつけて、座敷に並べたぬいぐるみ達の写真を寛ちゃんに送信すると、花奈子はようやく茶の間に戻って、ばあちゃんの作ってくれた炒飯を食べ始めた。
「別にぬいぐるみは逃げないんだから、先にごはんを食べればいいのに」
一足先に食べ始めていたばあちゃんは、呆れた声でそう言うと、花奈子のグラスに冷たい麦茶を注いでくれた。
「だって干してる時間は長い方がいいじゃない」
振り向くと、外の明るさとの対比で余計に暗く見える座敷に、大小合わせて三十以上のぬいぐるみが並んでいる。一番大きいのはシャチで、それからナマズにオオサンショウウオ。アリクイにワニにウリ坊。最近入ったダイオウグソクムシも一緒に、縁側から入ってくる午後の風に吹かれている。後でちょっと、オオサンショウウオを枕にして昼寝してやろうと思いながら、花奈子は炒飯を口に運んだ。焦げた醤油が香ばしく、刻んだしば漬けが小気味のいい音で歯に当たる。小さな頃からずっと食べてきた、ばあちゃんの定番。
「本当にもう、やりたい事はすぐにとっかからないと気が済まないんだから。花奈子はお母さん譲りだね」
「そうなの?」
「中学から帰ってくるなり鞄放り出して、制服も着替えないで、そこの座敷に寝転がって、友達に借りた本を読んでるの」
そう言われると、なんだかそこの座敷にまだ中学生のお母さんが寝転がっているような気がする。少なくとも、ばあちゃんの目にはそれが見えているのだろう。お母さんの子供の頃のアルバムはこの家に置いてあるから、花奈子は何度も見た事があった。自分と似ていると言われると、そんな気もしてくる、どこか負けん気の強そうな表情の女の子。傍には笑いたくなるほど頼りなくて、引っ込み思案な感じの寛ちゃんがいつもくっついている。
「じゃあお母さんは誰に似たの?」
「そりゃあ、じいちゃんだね。あの人は思いついたらすぐ行動だったから、朝起きていきなり、今日は海に行くぞ!って。言われたこっちはもう大変よ。大急ぎでおにぎりだけ用意して」
大変、という割にばあちゃんの口調は意外と楽しそうで、花奈子はたぶん、ばあちゃんも同じタイプじゃないかと思ってしまう。でなければ、あっという間にミシンでスカートやパジャマを縫ったり、貰い物の夏蜜柑でママレードを沢山つくったりできないはずだ。
炒飯を食べ終えて一息つくと、花奈子は座敷に並んでいるぬいぐるみを全部ひっくり返した。日差しには注意して、全身が風に当たるように置き直す。そうすると何となくだけれど、みんな喜んでいるように見えてくるのだ。
無理な話だとは思うけれど、こういうぬいぐるみを作ったりする仕事ができればいいのに。まだ誰も作ったことがないような、三葉虫とか深海魚とか、キモカワのリアルな奴を売り出すのだ。でも、やっぱりそんなの夢物語で、現実には普通に会社で働いたりするんだろうか。
進路についてしっかり考えている綾乃の話を聞いたせいか、花奈子は何だか妙に将来の事が気にかかるのだった。やりたい事を早く見つけなさい、なんて先生達もよく言うけれど、仕事以前に何の勉強をしたいかもよく判らなかったりする。そんな自分は何だか中味がふわふわで、ぬいぐるみに似ている。そう思いながらオオサンショウウオを抱き上げた時、傍に置いていた携帯が鳴った。
「ちゃんと約束守ってくれてるな」
「寛ちゃん、メール見たんだ」
「そっちは天気いいんだな。東京は曇ってて蒸し暑いよ」
「今お昼休みなの?」茶の間の時計を確かめると、二時近くを指している。
「午前中の打ち合わせが長引いたから、遅めの昼休み。俺は夏野菜カレーだったけど、そっちは?」
「しば漬け炒飯」と答えると、「夏の定番だな」と笑い声が返ってくる。
「ばあちゃんがさ、お盆はいつ帰ってくるのかな、って言ってたよ」
「ああ、それなんだけど」と、しばらく間があって、寛ちゃんは「今年のお盆は帰らないよ。まだこっち来たばっかりだし」と言った。
その途端、花奈子は胸の中がひんやりとしたように感じて「でも、夏休みはあるんでしょう?去年は一週間ぐらい休みだったじゃない」と反論していた。
「うん。仕事は休みになるけど、ちょっと自腹で東北を回ることにしたんだ」
「でも、東北には出張で行くようになるからって、東京に転勤したんでしょう?なんでお休みの時にわざわざ行くの?」
「うん、何ていうか、仕事は抜きにして行っておきたいって思ってるんだ。だからさ、そう怒るなよ」
「別に怒ってなんかないよ」
自分がわがままだと咎められたような気がして、花奈子は不服だった。
「だったら、花奈子も一緒に来ない?五日ぐらいかけて、福島から北上するつもりだけど」
「行かない。受験生だもん」
「そっか。そうだよな。失礼失礼」
塾に行かずにすんで喜んでいる自分が、どうして受験生だからって東北に行かないのか、はっきり言っておかしいのは判っているんだけれど、そこは無視しておきたかった。
「まあ東北は無理としてもさ、夏休みの間に東京に遊びにこない?三日ぐらいなら大丈夫だろ?うち、狭いけど2DKだから、花奈子が泊まる場所はあるし」
「東京?どこ遊びに行っていいか判らないもん」
「そこは俺が案内するよ。大体わかるから、花奈子の行きたいところぐらい」
ぐらい、と言われたのが何だか子供あつかいされた感じで気に食わない。でもやっぱり東京となると、何だか行ってみたいという気持ちがわいてくるのだ。その時、花奈子の脳裏に忘れかけていた言葉が浮かんだ。
「あのさ、東京に人並区ってある?」
「は?ひとなみく?」
「そう。人間の人、並ぶの並みに、区役所の区」
それはこの間、お兄ちゃんの部屋で見つけたメモに書かれていた言葉の一つだ。東京都人並区。
「それを言うなら杉並区だろ。でも、あれば面白いかもなあ。人並区か。まあとにかく、考えといて。俺からもお父さんに話はしとくから」
どうやら昼休みの終わりが近づいているようで、寛ちゃんは慌ただしくそれだけ言うと、「じゃあ、ぬいぐるみ、よろしくな」と電話を切ってしまった。
台所からはばあちゃんが洗い物をする音が聞こえるだけで、家の中が余計にしんとしたように感じる。どこかの軒下の風鈴が澄んだ音色で鳴り、それに答えるように犬が吠えた。もう一度サンショウウオを抱えて、ひんやりとした座敷に寝転がると、目の高さにぬいぐるみたちが並んでいる。ワニ、サイ、クラゲ、そしてアルマジロの上には、黒いアゲハがゆったりと羽を休めていた。
10 お小遣い稼ぐのつきあって
あんなに欲しがっていた、はしご車のミニカーなのに、拓夢は少し遊んだだけで放り出してしまった。そしてベッドに寝転がったまま、「ジュース飲みたい」とねだった。
「たっくん、ジュース朝からもう二本も飲んだから、こんどは麦茶にしようね」と幸江ママが言っても、「やだ、ジュースでないと飲まない」と繰り返す。下のコンビニまで買いに行くのは簡単な事だけれど、それが拓夢に良いわけではないと十分判っているので、花奈子は「じゃあ、私は麦茶を飲もうかな」と言ってみた。案の定、何でも真似をしたがる拓夢はちょっと気持ちが動いたみたいで、花奈子の方をじっと見ている。
「それじゃみんな麦茶にしようね」と幸江ママが宣言して、ストローつきの拓夢のコップにペットボトルのお茶を入れる。花奈子はその間に自分と幸江ママの使う紙コップを用意した。
日本ではまだ正式に使用が許可されていない薬を、拓夢は先週から使い始めた。効き目が強い代わりに副作用も激しいらしくて、ここ三日ほど熱が下がらないのだ。そのせいでずっと機嫌が悪いし、幸江ママが少しでも傍を離れると大声で泣くらしい。
だからママはずっと病院にいて、あとはできるだけお父さんが交代したり、花奈子が着替えや荷物を運んだりしているのだ。でも、やっぱり一番大変なのは拓夢自身だと思いながら、花奈子は麦茶を飲む小さな弟を見ていた。寝乱れた柔らかな髪、まだ涙の雫が残っているように見える、長いまつ毛、苦しい時でも決して光を失わない大きな瞳。丸い頬は熱のせいでりんごのように赤い。
小児病棟の四人部屋。真夏の昼下がりなのに窓は閉め切られ、ブラインドが下ろされ、エアコンがよく効いている。隣のベッドには六年生ぐらいの女の子がいる筈だけれど、いつ来てもカーテンが引かれていて、ほとんど顔を見たことがない。もう一つのベッドには小百合ちゃんという一年生の子がいて、この子は拓夢とよく遊んでくれる。そしてもう一つのベッドにいた泉ちゃんは、アメリカで移植手術を受けるために先週出発して、今は空きになっている。
拓夢はもう長いこと入院と退院を繰り返しているけれど、大体いつもこの部屋にいる。そして今までに二回、とても具合が悪くなって、集中治療室に入ったことがある。もうあの時のことは思い出したくないけれど、みんな心の底ではいつも、またあんな風になったらどうしようと、不安を抱えて拓夢を見守っているのだった。
麦茶を飲んだら気分も落ち着いたのか、拓夢はうとうとし始めた。ここでお昼寝してくれると幸江ママも助かるに違いない。花奈子は拓夢から見えない場所にそっと移動すると、「じゃあ、行くね」と小声で言った。幸江ママも目だけで「ありがとうね」と返してくれて、花奈子はそのまま静かに病室を後にした。
階段を降り、外来の患者さんもまばらになったロビーに行くと、ショートパンツから伸びた長い脚を組んで、タブレットを見ている美蘭の姿が自然と目にはいった。探したりしなくても、まるで彼女のいる場所だけスポットライトが当たっているかのように、視線が吸い寄せられてしまうのだ。
「お待たせ」と声をかけると、美蘭は顔を上げ、「もういいの?もっとゆっくりして来ればいいのに」と言った。
「お昼寝しそうだったから、こっそり抜け出してきた」
「そっか」と頷いて、美蘭はタブレットの画面を閉じると、隣の椅子に置いていたバッグに無造作に放り込んだ。
「亜蘭は?」
「たぶん外のコンビニじゃない?あいつ病院苦手なのよ。怖がりだから」
「病院が好きな人なんていないよ」と言って、花奈子は洗濯物や何かの入ったボストンバッグを肩にかけ直した。
外に出ると一気に熱風が吹きつけてきて、花奈子と美蘭は思わず「うわぁ」と声を上げていた。ここから駐車場まで、ほとんど日陰になる場所がない。
明日東京に帰るから、今日ちょっと会おうよ、と誘われたのはいいけれど、花奈子は病院に荷物を届けないといけなくて、だったら送ってあげるよ、と美蘭たちの車でここまで来たのだった。電車に比べると時間は大差ないけれど、大きなバッグを抱えて歩き回らずにすむのですごく楽だ。
「美蘭!」
どうやら亜蘭はコンビニで雑誌を立ち読みしながら、外を見ていたらしい。気がつくと花奈子たちに追いついてきていた。
「ほら、あんた花奈子の荷物持ちなさいよ」と、美蘭に促されて、彼はボストンバッグを持ってくれようとした。「大丈夫」と断ろうとしたら、「持たせてやってよ。こういう練習しないと、本当に気の遣い方ひとつ判らないんだから」と美蘭は懇願する。
とはいえ、亜蘭が手にすると、花奈子が持て余し気味だったバッグが一回り小さくなって、随分軽くなったように見えるから不思議だ。彼はそのまま二人を追い抜いて、先に歩いて行ってしまった。
「ゆっくり行こうね。どうせ車ん中は蒸し風呂なんだから」と美蘭は共犯者めいた口調で小さく耳打ちする。
「亜蘭ってば、花奈子は僕のこと嫌いみたいだって、ぐちぐち言ってんの。なんか、近づくと離れてくとかってさ」
そう言って美蘭はいたずらっぽく笑うけれど、花奈子は少し後ろめたい気持ちになった。
「別に、嫌いって事じゃなくて…」と弁解してはみたけれど、正直いって亜蘭のことはちょっと苦手だった。無口で、何考えてるのか全然判らないし、ほとんど笑わないし。それに何より、花奈子はこの前の痴漢事件以来、知らない男の人が傍に来るのが嫌な感じで、できるだけ距離をとろうとしてしまうのだ。亜蘭は美蘭の双子の弟だし、知らない人ってわけでもないのに、何だか少し怖い。でもやっぱり向こうもいい気分じゃないんだと思うと、自分が悪いという気がしてくる。
「いや、普通に嫌われてもしょうがないよ。あんな図体ばっかり大きくて気もきかない、無愛想な奴。花奈子、別に私に気を遣う必要ないから、亜蘭がいない方がよかったら、言っちゃってよ」
でも花奈子は、自分がもし拓夢の事をそんな風に言われたらすごく悲しいと思うので、「そんな事ないから」と否定した。さすがに、いない方がいいとまでは思っていないし、美蘭も亜蘭の事をあれこれけなしている割に、一緒にいた方が何となく勢いがある。やっぱり同い年でも、弟って可愛いんじゃないだろうか。
駐車場では亜蘭が一足先に車のエアコンを全開にしていたけれど、そんなもので収まる暑さじゃなかった。
「まだ乗らない方がいいかもね」と、美蘭は車の傍に立ったままだ。その隣で花奈子は、ようやく見慣れてきた二人の愛車をあらためて眺めた。本当は寛ちゃんのフィアットみたいなのがよかったって言うけれど、何故か最新モデルのスポーツタイプで色は黒。近所ではほとんど見かけない感じだし、病院の駐車場で見ると更に違和感がある。
「まあ、乗りたい車は色々あるけど、スポンサーがこの辺りにしろって言うんだから仕方ないわ。しかも黒じゃないと駄目だって」
スポンサー、というのが要するにこの車を買うお金を出した人らしくて、でも美蘭たちの家族ではないみたいだった。
ようやく車のエアコンが効きだして、美蘭はドアを開けると運転席の亜蘭に「あんた、後ろ」と命令して、自分がハンドルを握った。行きは後ろに座っていた花奈子は、促されて助手席に座る。
「これからどうするの?」と、ダッシュボードから取り出したサングラスをかけている美蘭に尋ねると、彼女は「ちょっとお小遣い稼ぐの、つきあって」と言った。
「今日のうちに旅館の支払いするんだけど、カードじゃ駄目らしいから」
一時間と少しは走っただろうか。花奈子にはその街が一体どこなのか見当もつかなかったけれど、美蘭はカーナビも使わずにすんなりと目的地に着いた。いや、カーナビの代わりに、亜蘭を使ったのだ。彼はまるで頭の中に地図でも入っているかのように、「右に曲がって」とか、「そこから二つ目の信号を左」とか、次々に道順を教えるのだった。
「すごいね。どうして判るの?」と花奈子が感心すると、美蘭は「人間、一つぐらい特技がないとね」と、事もなげに言った。
そして車が停まったのは、静かな住宅街だった。真夏の昼下がりの、誰も歩いていない、時間が止まったような場所。そこは花奈子が住む町よりもお金持ちっぽいというか、まあ要するに道路が広くて、一軒の敷地が花奈子の家の軽く二倍か三倍はあって、生垣や塀のおかげで中の様子が簡単には窺えなくて、おまけに門に防犯カメラがあったり、警備会社のステッカーが貼ってあったりという家ばかりだ。そのうちの一軒、二階に綺麗なステンドグラスの窓がある家の前まで来ると、美蘭はインターホンを押した。
「知ってる人なの?」
「初対面よ。でもまあ気後れすることないし、堂々とね」と、美蘭は微笑んでみせた。
「私、車で待っててもいい?」
「一緒に来なよ、こっちは三人だって言ってあるんだから。ジュースぐらい出るって」
その家で花奈子たちを迎えてくれたのは、ばあちゃんより少し若いぐらいのおばさんと、その娘だという女の人だった。二人はとてもよく似た顔立ちで、声や話し方も似ていた。
「もう一週間になるんです。他の業者にも頼んでみたけれど、結局何の手がかりもなくて」
広い応接室に通され、よく冷えたマンゴージュースを出されて、花奈子はただぽかんと、目の前で起こる事を眺めていた。美蘭は名刺みたいなものを出すと自己紹介をして、亜蘭と花奈子の事も「スタッフです」と紹介した。そして「じゃあ、猫ちゃんがいなくなった時の状況を教えていただけますか?」と尋ねた。
「パフはずっとこの家の中で暮らしていた子ですし、今まで一度だって脱走なんてした事がなかったんです。でも、あの日はたまたまエアコンが故障して、朝から業者さんに来てもらっていて。臆病な子ですから、私の寝室でベッドの下に隠れているだろうと思っていたら、業者さんがドリルか何かを使い始めた途端、その音にびっくりして階段を駆け下りてきて、作業のために空いていた窓から飛び出してしまったんです」
娘さんが一気にそう言うと、お母さんが「本当に臆病な子でね、私達が何かの拍子に変な音をさせても、それだけで怯えて半日隠れているような子なんですよ」と念を押すように付け加えた。
「だから外なんて、怖くてたまらない筈なのに。ずっと帰って来ないのは、迷子になったとしか考えられないんです。もちろん、事故や何かの可能性も考えて、保健所には毎日電話していますが、全然手がかりがないんです」
娘さんはとても心配そうで、話している間も猫の写真をじっと握ったままだった。ふっと暖かい風を感じた花奈子が首を廻らせると、猫が帰ってきた時のために、窓が少し空いたままになっていた。
「判りました。では、その写真と、あと、パフちゃんの首輪とか、身に着けていたものはありますか?」
「寝るのはいつも私のベッドですけど、昼間はよくこのクッションにのっていました」
そう言って娘さんが差し出した、羊の形をした小さなクッションを受け取ると、美蘭はそれを亜蘭に渡した。彼はそれを膝に置くと、両手をのせて目を閉じた。花奈子は一体何が起こるのだろうと、ただ黙って見守るしかなかった。
真夏の午後の日差しは容赦なく、アスファルトの照り返しも半端じゃない。花奈子は帽子のつばが作る小さな影の下から、美蘭の長い指が糸巻から繰り出す細い糸を見ていた。彼女はその端を自分のショルダーバッグのリングに結びつける。そして糸巻の方を何かの金具にセットしていた。よく見ると糸そのものはばあちゃんが使うミシン糸と変わりないようだ。細くて光沢があるからきっと絹糸だろう。金具の方は糸をどんどん引っ張り出せるように作られていて、キーホルダーのような輪がついている。
「これは商売道具って奴ね。まあ別に、無くても大して困らないんだけど」
美蘭はその金具を亜蘭のジーンズのベルト通しに取りつけた。そして「出発」と声をかける。すると彼は後ろも振り返らず、見知らぬ住宅地をどんどん歩いていってしまった。
「どこに行くの?」
「それがあの子の、今日のお仕事。まあ、ひと段落つくまで涼んでようか」
さっき自分のショルダーに結んだばかりの絹糸をぷつりと切ると、美蘭はそれを道端にある「止まれ」の標識に結びつけた。
黒蜜のかかったかき氷のあちこちに埋め込まれた白玉は、つやつやと涼しげに光っている。何となくそれを崩すのが勿体なくて、花奈子がためらううちに、美蘭は早くも「うん!生き返るね!」と、こちらは抹茶のかき氷を口に運んでいた。
「でもなんか、亜蘭に悪くない?」
「いいのいいの、たまにしか働かないんだから」
炎天下に亜蘭を歩き回らせたままで、美蘭と花奈子は住宅地の近くにある、古びた商店街の甘味屋さんに入っていた。外からは昭和そのままの感じで、眠っているように見えたその店は、若い女の人が一人で切り盛りしていた。
「私ね、アメリカっぽいコーヒーショップとか、貴族の館みたいなサロン・ド・テより、こういう店の方が好きなの」
美蘭は早くも氷の山を半分ほど平らげている。
「そうだと思った。あの古い旅館が好きなくらいだから」と、花奈子は二つ目の白玉を頬張る。とはいえ、サロン・ド・テって正確には何のことか、よく判らないんだけれど。
「できる事なら、私もこんな感じのお店を持って、ちょっとした食事なんか出して、なんて風に暮らしたいんだけどね」
「だったらそうすればいいじゃない。美蘭がやる店だったら、ぜったい人気が出ると思うよ」
お世辞やなんかではなく、花奈子は本気でそう思った。誰だって、一度美蘭に会った人は、きっともう一度会いたくなってやって来るに違いない。
「どうもありがと。無理って判ってても、ついつい言っちゃうのよね」
「無理なんて事ないよ。うちの伯母さんだって、北海道だけど食堂やってるんだよ。そりゃ、店を始めるのにけっこうお金がいるかもしれないけど、実現できない事じゃないと思う」
「そういう意味じゃないの」
美蘭は少しだけ肩をすくめたけれど、それがかき氷の冷たさのせいなのか、もっと別の理由なのか、はっきりしない。
「そういう意味ってどういう意味?」
「私の将来の仕事は決まってるって事」
「それ、前も言ってたよね。お家の仕事を継がないといけないの?」
「うーん、お家、って言えばそうなのかな。まあ要するに、今やってるような事よね。今日はさしあたって、亜蘭の奴が頑張ってるけど」
「え?猫を探す事?」
「まあ、似たような事かな。面倒くさいんだけどね」
「美蘭はその仕事、嫌なの?」
「嫌とかどうとか言う前に、約束は果たさなきゃ」美蘭はそこまで言うと左手で頬杖をついて、何かを考え込んでいるようだったけれど、花奈子の視線に気づいたのか、「ごめんね、下らない事言って。今のさっくり忘れてちょうだい」と笑った。
そんな簡単に言われたって、と思ったけれど、何だか普段と比べて元気がない感じの美蘭を前にして、文句を言える花奈子ではなかった。ただ頷いてスプーンを握り、黒蜜のかき氷をすくい続けるだけだ。美蘭は頬杖をついたまま、店の入り口の方を眺めていたけれど、「そういえば、塾はどうなった?」と尋ねた。
「それがね、予想外の展開になっちゃって」
花奈子は勢いこんで事の顛末を説明した。美蘭は「へえ、それはラッキーだったね」と笑顔で聞いてくれたけれど、何故だかふいに、花奈子は妙な違和感を覚えた。
「美蘭、変なこと言うと思うかもしれないけど、この事、私に聞く前から知ってた?ビルの工事が手抜きだったりとか、震度四ぐらいで倒れちゃうとか」
「え?知るわけないじゃない。なんで私がこんな田舎の、って失礼、雑居ビルの耐震構造を把握できるのよ」
「それはそうなんだけど」
確かに根拠のない、ただの閃きに過ぎないんだけれど、奇妙に心にひっかかるのだ。どうして美蘭に相談した途端に、あんな事になったのか。美蘭は「花奈子ってさ、漫画家とかになるといいんじゃない?関係ない事でもうまく結び付けて、物語にしちゃいそう」と、涼しい顔で笑っている。そして通路の方に軽く身を乗り出して、また入口の様子を窺い、「あらら、急に暗くなってきたと思ったら、夕立みたいよ」と囁いた。
雷こそ大したことはなかったけれど、外はかなりの土砂降りで、雨宿りに駆け込んできたお客さんの髪からは水が滴っていた。それでも三十分もしない内に小降りになって、いつの間にかまた、日が射している。
雨上がりのアスファルトの匂いに包まれて店を出ると、虹が見えた。と言ってもアーチの片側、根元のあたりだけが、住宅地の裏手にある雑木林から空に向かって、柱みたいにまっすぐ立ち上がっている。
「何だか縁起がいいみたいね」と、美蘭はご機嫌だけれど、花奈子は亜蘭の事が心配だった。
「傘持ってないし、さっきの雨でずぶ濡れなんじゃない?私たちの事、怒ってるんじゃないかなあ」
「大丈夫、ちょっと涼しくなったな、ぐらいしか思ってないわよ」
そして美蘭はさっき糸を結び付けた「止まれ」の標識まで戻ると、糸を切り、それを左手の指先に巻きつけてたぐりながら、亜蘭の歩いた後をたどり始めた。花奈子はさっきの家の人から預かって美蘭の車に置いていた、猫のキャリーケースを運ぶ係だ。
「やっぱり二人いると楽でいいわ」と、美蘭は鼻歌まじりに糸をたどって歩いてゆく。家と家の間の、ちょっとした隙間にも平気で入って行くので、怒られたりしないかと花奈子はドキドキしたけれど、辺りは本当に静かで誰も出てこない。ただ遠くで思い出したように鳴る、澄んだ風鈴の音が風に運ばれてくるだけだ。
道を何度も曲がり、同じ場所も幾度か通り、小さな川を渡り、雑草の生い茂った空き地を抜け、また角を曲がり、気が付くと花奈子たちはさっき虹が立っていた雑木林まで来ていた。どうやら奥に神社があるらしくて、古びた鳥居が見下ろしている。美蘭は「あと少しって感じね」と、歩調を早めて前に進む。さっきの夕立と、木立が作る日陰のせいで、林の中はひんやりと涼しく、木のいい香りがした。
雨は降ったものの、足元はずっと石畳なので、ぬかるんではいない。あちこちでせわしなく鳴いているセミの声も、ここだとそんなに暑苦しい感じはなく、花奈子は手にしたキャリーケースを軽く振りながら、明るい木陰を歩いた。拓夢はずっとエアコンのきいた病室にいるけれど、熱はあってもこういう場所にいた方が気持ちいいんじゃないだろうか。毎日消毒薬の匂いがする空気を吸っているより、ずっと身体にいいに違いない。
「おーっと、ビンゴだ!」
美蘭の歓声にはっと我に返ると、前の方に何か見えた。それは、神社にお参りする前に手を洗う場所で、小さな屋根の下に石の水槽があり、その端に取り付けられた小さな龍の口から水が流れ落ちていた。その屋根を支える柱の根元に誰かいる。
「まあまあ上出来ね」と言いながら大股に歩いていく美蘭の後を、花奈子は慌てて追いかけた。
「亜蘭!」と、思わず声を上げてしまったけれど、彼はぼんやりとした顔つきで、柱にもたれて地面に座っていた。腕には綺麗な銀色の毛並をした猫を抱いている。その猫は、いなくなったというパフの写真にそっくりだった。
11 あいつ、優しいのね
「レトロな旅館で最後の夜だっていうのに、出前ピザなんてイマイチよね。まあ今日は亜蘭が働いたから、希望きいてやるけど」
美蘭は不満そうに宅配ピザのチラシで襟元を扇ぎ、それが気になるらしくて、黒猫の豆炭がさかんに前足でパンチを入れる。
「おっと、やる気ね」と、美蘭はチラシを丸めて豆炭をじゃらし始め、花奈子はテーブルに頬杖をついてその様子を見ていた。今日もお父さんは夜の授業だし、幸江ママは病院。だからここで美蘭たちと一緒に夕ご飯を食べて帰っても大丈夫なのが嬉しい。
美蘭が操るチラシに釣り上げられるように、ぴょんぴょん跳ねる豆炭を見ていると、迷子だったパフを連れて帰った時の、おばさんと娘さんの様子を思い出す。歓声をあげたかと思うと、まあまあ痩せちゃって、と心配して、次の瞬間には、もう駄目かもって諦めかけてたの、と泣き出したり、本当に大騒ぎだったのだ。当のパフはというと、何食わぬ顔で水を飲み、羊のクッションの上で昼寝を始めたんだから、猫って本当に気ままな生き物だ。
「ねえ、亜蘭はどうやってパフの居場所が判ったの?」
「さあね、どういう仕組みなのか私にもよく判んないわ。とにかく、身に着けてたものとかをさわると、どこにいるか感じとれるらしいのよね」
「一種の超能力ってこと?」
「さあね。人間とはろくに通じ合えないくせに、動物とは相性がいいみたいよ。でもさ、欲を言うなら、ちゃんと自分で戻ってきてほしいのよね。ああやって見つけた時点で、猫に同調してフリーズしちゃうから、こっちは糸をたぐって探さなきゃいけないんだもの」
「同調、って?」
「うーん、猫の気持ちになってるのかな。とにかく、もうずっと小さい頃からああなのよ。いつの間にかいなくなって、私が探しに行くと、犬とか猫とか抱いて、焼却炉の裏とか、変なとこでぽかーんとしてるのよね。寄宿学校にいた頃は、神隠しの亜蘭って呼ばれてたし」
そこまで美蘭が言った時、ついに豆炭は彼女が手にしていたチラシを奪い取るのに成功した。前足でがっちりと抑え込み、白い牙をたてて噛みついたかと思うと、首をはげしく左右に振って引きちぎってしまう。
「寄宿学校って、美蘭は寮のある高校に通ってるの?」
「いや、それは小学校時代の話。いくら亜蘭がとぼけた奴でも、さすがに今はそこまでフラフラしてないから」
「えっ?でも小学校って家から通うもんじゃない?」と、花奈子が驚くのを、美蘭はにやにやしながら見ている。
「世の中には色々と変わった学校ってあるのよ。お金はあるけど子供の面倒みたくないって親にはぴったりよね。表向きは、自立心と協調性を育む理想的な教育環境、なんて言って」
「それって外国の学校?」花子の頭の中には、アニメで見たイギリスかどこかの寄宿学校が浮かんでいたけれど、美蘭は「神奈川よ。東京からそんなに遠くない」と言いながら、豆炭がひきちぎったチラシを拾いあつめてゴミ箱に放り込んだ。
「中学までその寄宿学校にいて、高校は同じ系列の学校に移ったの。都内だし、寮はもううんざりだからマンション借りてるわ」
「もしかして、亜蘭と二人?」
「そう。残念ながらうちの親って、子供と一緒にいられない人なの。母親は独りで気ままにしてるし、父親には会ったことないけど、他の人と結婚して、平和に暮らしてる」
全く予想もしていなかった答えが返ってきたので、花奈子は何とか話を整理しようと、必死で頭を回転させていた。それを手助けするかのように、美蘭は話を続ける。
「つまりね、私達の両親は結婚してないの。問題はほとんど母親にあるかな。とにかく何もかも面倒くさいっていう、うちの一族の代表選手みたいな性格で、しかも自分しか大切じゃない。まあそんないかれた性格なのに、父親はほんの出来心で彼女とつきあってしまったのね。で、あっという間にご懐妊。その時、母親は高校生で父親は大学生よ。幸か不幸か、母親は中絶するのも面倒くさくて、そのまま私と亜蘭が生まれてしまったわけ。まあ、自力で産むのも面倒くさいから、無理いって帝王切開してもらって」
「じゃあ、お母さんは一人で美蘭たちを育てたの?」
「無理無理」と、美蘭は膝に抱き上げた豆炭の前足を使って、花奈子の言葉を打ち消した。
「でもね、うちの一族ってそういう、どうしようもない人の集まりだから、ちゃんとセーフティネットが機能してるのよ。簡単にいうと、よその家族に寄生してるの。お金持ちの一族よ。彼らは私達が生活するために必要なお金を全部出してくれる。その代わり、うちの一族は彼らのために色々と仕事をしてあげる。と言っても働くのはほんの一握りの、貧乏くじをひいた人だけで、あとは全員、面倒くさいって思いながらぶらぶらしてるの。だって死ぬのも面倒くさいから」
「でも、美蘭は面倒くさいなんて全然言わないじゃない」
「しょうがないんだもん、自分で貧乏くじひいちゃって…こらあ!」
いきなり美蘭が叫んだので、びっくりした豆炭は彼女の膝から飛び降りた。花奈子が顔を上げると、夕立で濡れたから、先にお風呂に入っていた亜蘭が戻ってきたところだった。
「あんた、なんでそういう失礼な格好でうろつくのよ」
「着替え持ってくの、忘れた」と返事した亜蘭は、ジーンズの上は裸で、首にタオルをかけただけ。肩に届そうな髪も濡れたままだった。
「全くもう、淑女の前で」と美蘭の言う「淑女」に自分も含まれているのかと思うと、花奈子は何だかそっちの方が照れる気がして俯いた。それをごまかすように、傍にきた豆炭を抱き上げた時、階段の方から「美蘭ちゃーん、ピザ届いたわよ!」という女将さんの声が聞こえた。
美蘭は「はぁい」と返事をして、財布を片手に部屋を飛び出して行った。その後になって花奈子は、亜蘭と二人きりで残されてしまったことに気づいた。何だか気まずい。でも、今から美蘭の後を追いかけていったら、やっぱり避けている、と思われてしまうかもしれない。とりあえず、うまい具合に自分に抱かれている豆炭に集中するふりをして、花奈子は美蘭が戻るのを待った。
でも、ここの女将さんは美蘭のことが大好きみたいで、つかまると必ず長話になるらしい。「ここの旦那、結婚前から続いてる愛人がいるんだってよ。だから女将さん、下の子が就職したら離婚するんだって。慰謝料代わりにこの旅館もらうつもりらしいわ」なんて、どう考えても高校生相手にするような話じゃないけれど、もともと美蘭が高校生らしくないんだから仕方ない。
「ごめんね」
ふいに、亜蘭から声をかけられて、花奈子は思わず顔を上げた。手を緩めた拍子に豆炭は逃げ出して、白いTシャツを着たばかりの彼の脛に尻尾を絡ませてすり抜けようとする。それを片手でつかまえて抱き上げると、亜蘭は腰をおろした。まだ首にかけているタオルに、豆炭は早速じゃれつこうとしたけれど、濡れた髪はどうも苦手らしくて、前足を出したりひっこめたりしている。
わざわざ謝られてしまうと、花奈子も「別に、いいから」と言うしかない。それに安心したのか亜蘭は、「美蘭ってさ、裸アレルギーなんだよね」と言った。
「裸、アレルギー?」
聞いたこともない言葉だけど、一体何だろう。
「人が裸でいるのが嫌いなんだけど、それは自分の裸を見られたくない事の裏返し。小学校の頃から、ずっとそう。本気で暴れるんだよ。体育の時間なんか、茶道部の和室を占領して、勝手に更衣室にしてる。だから学校の女子は全員、美蘭の裸見たら殺されるって怯えてるよ」
「そうなの?」
「でも本当はきっと、貧乳コンプレックスだよ。変なとこに自信ないんだ。誰もそんなの気にしてないのに」
ふだん無口な亜蘭が、いきなり話し出したと思ったら、何だかどう返事していいかわからない内容で、花奈子は流れに沿って「だよね」と言うしかなかった。
「誰が貧乳コンプレックスだあ?」
いきなり、開ききっていなかった襖を勢いよく足で蹴りながら、ピザの紙箱を抱えた美蘭が入って来て、「私はあんたと違って文明開化してるだけだよ!判ったらさっさと飲み物取って来な!」と吠えた。亜蘭は「あーあ」とうんざりした声を出して、一階の冷蔵庫に預けてある、ジンジャーエールとジャスミンティーを取りに行った。
「全く、たまに口開けばロクなこと言わないんだから、腹の立つ。さあ花奈子、先に食べちゃおう」
美蘭はいそいそと箱を開けて、シーフードピザを一切れ手にとると、勢いよくかぶりついた。
「亜蘭は待たないの?」と聞くと、「あいつの希望きいてピザなんだから、それで十分じゃない」と、気にしてもいない。
「まあ、私も別にピザを嫌いじゃないけどさ、最後にこう、花奈子のおばあちゃんちの冷や麦みたいなの、食べたかったんだよね」
「冷や麦?でも、ピザの方が全然高いよ?」
「値段の問題じゃないもの。花奈子には当たり前で判らないだろうけど、ああいう、ふつうの家でふつうに出てくるような食事って、一番おいしいんだから」
「寄宿学校とかじゃ、食べられないから?」
「まあね。茹でたてでさ、まだ氷の角が残ってて、刻んだ茗荷とか葱とか、海苔とか錦糸卵とか添えた、そんな風に誰かが自分のためだけに作ってくれたものなんて出ないもの。まあ、食べたいならお前が作れって話なんだけど」
「だったらまた食べに来ればいいよ。ばあちゃん美蘭のこと好きだから、きっと喜ぶよ。春巻きもおいしいから、次に来るときは、冷や麦と両方食べるといいかも」
「ありがと」と美蘭は笑顔で返してくれたけれど、本当のところ、またこの街に来てくれるんだろうか。急に彼女との別れが近づいた気がして、「次」の予定をきこうと思った時、亜蘭が戻ってきた。
「グラスも借りて来るの、ようやく憶えたね」
美蘭は彼の手からグラスを受け取るとテーブルに並べ、「花奈子どっち飲む?」と訊いた。「ジャスミンティー」と答えると、亜蘭が注いでくれる。「私もジャスミンね」と言って、美蘭はマルゲリータにかぶりつく。いつの間にか豆炭は彼女の膝に乗って、チーズを分けてもらえないかと首を伸ばしていた。亜蘭がシーフードピザを手にしてから、花奈子もようやくマルゲリータを齧る。溶けたチーズの香りと、バジルのきいたトマトソースが口の中に広がって、やっぱりこっちの方が冷や麦より上等じゃないかな、という気がしてくる。
でも本当のところ、小学校から寄宿舎ってどんな感じだろう。テレビなんて全然見られないんだろうか。それとも、放課後もずっと友達と一緒で、案外楽しかったりするんだろうか。さっき聞いた美蘭の話はあまりにも現実離れしていて、花奈子にはどうしてもうまく想像する事ができなかった。
「おおっと」
三枚目、照り焼きチキンのピザを頬張りながら、美蘭が思い出したように唸った。
「そういえば私達、豆炭抱っこして、そのまま手づかみでピザ食べてるね。ちょっとヤバいかな?」
その瞬間、花奈子は「どうしよう」と不安になった。幸江ママと一緒だったら絶対に手を洗ってから食べるのに、何だかおしゃべりに夢中で、添えられていたウェットタオルで手を拭くのさえ忘れていた。
もしこれが原因で変な病気になったりしたら、拓夢のお見舞いにも行けなくなってしまう。荷物運びも出来なくなって、幸江ママもすごく困るに違いない。そうしたら拓夢だって、また具合が悪くなってしまうかもしれない。色んな心配事が一気に押し寄せてきて、胸のあたりが重苦しくなり、手が震えてきた。それと同時に冷たい汗が首筋を流れてゆく。
「花奈子、どうしたの?」
気がつくと、美蘭が顔を覗き込んでいる。
「大丈夫?顔色が悪いよ?」
大丈夫、と答えたかったけれど、言葉を返すのも無理で、花奈子は大急ぎで部屋を飛び出すとお手洗いに駆け込んで、いま食べたものを何もかも吐いてしまった。
「だからさあ、このクソ暑いのにピザみたいな脂っこいもの、ふつう無理だから」
美蘭は床の間に置いてあった団扇で花奈子に風を送りながら、また文句を言う。亜蘭は何度目かの「ごめん」を繰り返しながらも、残ったピザを完食してしまった。美蘭も文句をつけていた割に相当食べたと思うけれど、やっぱり男の子は違うな、と感心しながら、花奈子は美蘭が敷いてくれた布団に横になっていた。
「少し顔色よくなってきたみたいね。お茶は飲んだけど、何かすっきりしたもの食べたくない?亜蘭の腹ごなしに、コンビニまで行かせるよ」
「ううん、いらない。ありがとう」
さっき苦しくて滲んできた涙が、まだ少しだけ睫毛の辺りに濡れた感じを残している。今日は美蘭たちがこの街で過ごす最後の夜で、楽しく食事する筈だったのに、自分がそれを台無しにしてしまったのだ。さっき突然襲ってきた不安は、落ち着いて考えたらそんなに大した事じゃないと思える。そりゃ確かに、猫をさわった手でそのままピザを食べるのは、あんまり清潔とは言えないけれど、いきなり病気になるなんて、大げさすぎる。
「やっぱり私はアイス食べたい、っていうか、爽やかなところで氷レモンがいいな。頼むわ」と、美蘭はお財布から千円出して亜蘭に渡した。彼は何も言わずに立ち上がると、そのまま出ていく。
それから美蘭はしばらくお茶なんか飲んでいたけれど、「そうそう、忘れちゃいけない」と言い、ショルダーバッグをがさこそやって、白い封筒を取り出した。
「今日のあいつの稼ぎ、幾らだと思う?」
「え?あの、迷子のパフを見つけたの?」
何だかもう何日か前のような気がする、今日の午後の出来事。
「なんと十五万円。もう少しふっかけても出してくれたと思うんだけど、欲張っちゃ駄目よね。で、少ないけど、これが花奈子の分。包まずに失礼」
そう言って、美蘭は封筒から一万円札をぴっと抜くと三つ折りにして、花奈子のリュックサックのポケットに差し入れた。
「なんで?駄目だよそんなの!私、何もしてないもん」
慌てて起き上がると、花奈子はそのお札を返そうとした。しかし美蘭はそれをかわすように立ち上がり、「キャリーケース運んでくれたじゃない。じゃ、ちょっと宿代を払ってくるね」と言い残して出ていった。
一万円なんて冗談じゃない。美蘭が受け取ってくれないなら、このまま彼女のバッグの中に戻して、こっそり帰ってしまおうか。幸江ママから預かった荷物はかさばるけど、ここからなら歩いて帰れるし、夜道といってもそんなに寂しいわけでもない。あれこれ考えて、やっぱりそうしようと決心した時、こちらを見上げて座っている豆炭と目が合った。
「ねえ、私の代わりに、美蘭に謝っておいてくれる?」
お願いしてみると、ニャ、と短い返事があった。美蘭は無理でも、亜蘭には伝言してくれるかもしれないと思いながら、花奈子は大急ぎでさっきの一万円札を美蘭のショルダーに突っ込んだ。豆炭はきょとんとした感じで花奈子を見守っていたけれど、いきなり耳をぴんと立て、窓の方を向いた。
不思議に思って豆炭の視線の先を追ってみると、ふいに目の前を黒いものが横切る。
「あれ?蝶々?」
部屋の明かりに誘われたのか、窓から黒い蝶が迷い込み、ひらひらと宙を舞っている。どこかにとまりそうに見えて、また舞い上がるという動きを繰り返しながら、それでも少しずつ、下の方に降りてくる。けれど、喜んでそれに飛びついてもよさそうな豆炭は、立ち上がったものの、じっと固まっている。そしてようやく蝶が畳の上に羽根を休めた途端、何か熱いものでも踏んだように全身をびくっと震わせると、部屋の隅っこに後ずさりして行った。
「どうしたの?」
怯えたような感じの豆炭を目で追いかけ、それからまた黒い蝶に視線を移した時、花奈子は小さな悲鳴をあげていた。
蝶が、蝶であったものが溶けて流れ出している。黒い影が、水が溢れるようにこちらへ押し寄せてくる。最初は平らだったその影は、やがて盛り上がり、何かの形をとろうという意志を伴って動き始める。
この感じをいつか夢で見たことがある。だとしたらこれは夢で、本当の私は今この部屋で眠っていて、傍では美蘭が優しく風を送ってくれているはずだ。夢!夢なら目を覚まさなくては!
けれど黒い影はそんな花奈子を嘲笑うように、はっきりとした形に収斂していった。その表面に、夜の数だけある様々な深さの闇で描いたような、幾何学模様を絶えず浮かべながら、いつしか四本の太い足で立ち上がり、長い尻尾で空気を薙ぎ払い、大きな獣の姿をとった。
「しばらくだな」
茫然と座り込んでいる花奈子を見下ろして、獣はそう言った。部屋の半分を占めるほどに思える真っ黒な身体の中で、レモンイエローに光る一対の眸と、白い牙に縁取られた青紫の口が一際目をひく。
「お前は私を夢の世界の住人だと決めつけたいらしいが、それは無理というものだ」
でも、やっぱり夢だと思いたい。花奈子が思わずぎゅっと目を閉じたその時、誰かが勢いよく襖を開け放った。
「ようやく来たね」
思わずまた見開いた花奈子の瞳に映ったのは、美蘭だ。見たこともない筈の大きな獣を前にして、彼女は全く怯む様子もなく、声にはむしろ楽しそうな響きがあった。
「お前に用はない」
獣は低くそう告げると、まるで日に当たった雪だるまのように輪郭を失い始めた。
「逃げる気?亜蘭、影踏め!」
美蘭がそう叫んだのと、亜蘭が窓からよじ上ってきたのはほぼ同時だった。彼もまた、怖がるそぶりも見せずに飛び込んでくると、裸足で獣の影を踏みつけた。彼が放り出したコンビニの袋は、カサカサと音をたてて畳を転がる。
「しっかり踏んでろ!」
腰を低く落とすと、美蘭は右手を背中の方に回した。いつの間にか獣は再びはっきりとした形をとり、牙をむき出して雷鳴のように低く唸りながら彼女を睨んだ。
早く逃げて、と思いながら花奈子は美蘭を見つめていた。彼女はじっと獣を見据えたままで何か白く光るものを手にすると、口笛のように鋭い息を吐いて畳の上、亜蘭の足のすぐそばに突き立てた。
それは、刀だった。といっても侍が腰にさげているような長いものではない。いつか時代劇で見た、お姫様が身を護るために持っている懐剣のような、短くて細い刀。それでも、畳の上にまっすぐ立っている銀の刃は、その冷たい光だけで切れ味の鋭さを十分に物語っていた。
気がつくと、獣はさっきまで唸っていたのが嘘のように静かになって、ただ美蘭と睨み合っている。
「お前と取引したいの」
肩で息をしながら、美蘭はそう言った。
「お前たちの考えなど、とうに知っている」
そう答える獣の声は、とても落ち着いていた。
「だったら話が早いじゃない。どうかしら」
「お前たちは、大きすぎる獲物を狙っている」
「そうかもね。でもこうするしかないの」
「私を呼んだのはこの娘だ。知っているだろう」そう言って、獣は光る眼で花奈子の方を見た。途端にびくりと、身体が震えるのを抑えられない。
「そう。私達、出遅れちゃったの。だから取引したいって言ってるのよ」
「無駄だ。刃も満足に操れない小娘が、偉そうな口をたたくものではない」
その時、花奈子の目の前の畳にぽたり、と赤いものが落ちた。見上げると、美蘭の指先から血が滴っている。彼女は「ちょっと慌てちゃったみたいね」と笑ってみせた。
獣が「その手を出せ」と言うと、彼女は素直に腕を伸ばした。左の親指のつけ根あたりが切れているらしくて、血はどんどん溢れてくる。その傷口を、獣は瑠璃色の舌で何度か舐めると、「その刃を収めろ。私に用があるなら、まずはこの娘に問え。全てはそれからだ」と言った。
美蘭は「わかった」と軽く頷くと、畳に深々と刺さっていた短刀を抜いた。その途端、獣は息を吹き返したように長い尻尾をしならせて伸び上がると、亜蘭に向かっていきなり「小僧、借りたものを返す覚悟はあるか?」と尋ねた。もちろんその奇妙な質問に即答できる亜蘭ではなくて、ぽかんとしている彼の目の前で身を躍らせると、獣は部屋の隅の小さな暗闇に、吸い込まれるように飛び込んで消えた。
「暑い。汗かいちゃった」
美蘭は背中に隠していたらしい、黒い鞘に短刀を収めると、テーブルに置いた。よく見ると、とても細い木の皮が編み込むように巻かれていて、その隙間から下地の紅色が菱形にのぞいている。まるで持ち主の美蘭をそのまま写したような美しい鞘だ。彼女はそれから、亜蘭が畳に落としたままだったコンビニの袋を拾い、氷レモンを二つ取り出した。
「食べなよ」と花奈子に一つ差し出し、もう一つを自分でおいしそうに食べ始める。さっきはいらないと言ったけれど、花奈子の喉はからからで、素直に受け取って口に含むと、レモンの冷たい酸っぱさが心地よく舌の上を滑っていった。亜蘭はもう一つ残っていたソーダ味のかき氷を食べ始め、三人はしばらく、何も言わずにシャリシャリと氷の音だけさせていた。
「あれちょっと、ヤバいよね」
亜蘭が思い出したように、美蘭の短刀が畳にあけた深い穴と、点々と残る血の痕を指さす。
「まあ弁償はするけどさ。きょうだい喧嘩、って事にしとくか」と、美蘭は平然としている。そして花奈子に「あいつ、優しいのね」と微笑みかけた。その左手の、さっき傷ついていた場所には、うっすら赤い痕が残っているだけだった。
12 あなたの名前を教えて
長いカウンターに座り、脚をぶらぶらさせながらクランベリーソーダを飲む。目の前の歩道を通り過ぎる人たちはひどく足早で、自分以外は誰の存在にも気づいていないように見える。花奈子はまた携帯を開いて、寛ちゃんのメールが入っていないかと確かめたけれど、見るだけ無駄だった。
東京に遊びに来いよって自分から誘ったくせに、いざ花奈子が来たら急な会議とかで、このハンバーガーショップに待たせっぱなし。そのくせ「誰かに声かけられたら、彼氏と待ち合わせって言うんだぞ」だとか、余計な一言だけは忘れない。
溜息をついて、携帯をしまいかけて、やっぱりもう一度開くと美蘭の名前を呼び出してみる。あの黒い獣が再び現れた後で彼女が語った事を、何度繰り返し考えただろう。
あの夜、彼女と亜蘭は花奈子を家まで送ってくれた。そして亜蘭だけ先に帰って、彼女はお父さんが戻るまで一緒にいてくれた。その時こう尋ねたのだ。ねえ、もしかして花奈子、いっぱいいっぱいなんじゃない?
そんな事ないよ。
花奈子の答えは、考える前に口から出ていた。けれど美蘭は尚も続けた。
自分じゃ大丈夫なつもりかもしれないけど、暑さで倒れちゃったり、さっきみたいに急に不安になったり、気分が悪くなったり、身体が悲鳴をあげてるんじゃないかな。両親に心配かけずに、弟のためにいいお姉さんでいようとして、すごく無理してるんじゃない?
無理なんか、してない。
でもどうしてだろう、口ではそう言えるのに、わけもなく泣きたくなってしまうのは。美蘭はそんな花奈子の気持ちを判っているのか、嫌だとか、寂しいとか、辛いとか、どんな風に思ったっていいし、思って当然だもの、と言った。
私そんな事、思ったりしてない。
言おうとして、言えなかった。だからといって、何が嫌だとか、そういうはっきりした考えがあるわけでもなくて、ただ名前のつけようがないものが、喉元で絡まっているような感覚だけがある。それはどこか、あの不思議な獣に似ている気がした。
ねえ、美蘭はさっきの黒豹みたいな生き物を知っていたの?
そうね、と、いつものあの、悪戯っぽい微笑みを口元に浮べて、彼女は左手に赤く残った傷の痕を右の人差し指でなぞった。そもそも私たちがこの街に来たのは、あいつを見つけるためだったの。
あれは一体、何なの?
とても古い生き物、といっていいのかしら。ずっとあの、赤牛山の古墳を守ってきたのよ。人にはない、特別な力を持った獣。あいつは水晶の玉に封じ込められて、長いあいだ地中にとどまっていた。私はその封印を解いて、彼の力を借りるつもりだったの。ところが何の偶然だか、花奈子、あなたが先に彼を見つけてしまった。崩れた赤牛山を見に行って、水晶を拾ったのね?
うん。とてもきれいなレモン色だったから、拓夢にあげようと思ったの。
なるほど。で、何があったか知らないけど、その水晶を割った。そしてあの獣を呼び出してしまったのね。だから、あいつは花奈子にだけ力を貸してくれる。
美蘭はどうやって獣のことを知ったの?
それはまあ、うちの一族で、仕事をしてる人の間では常識みたいなものよ。会社を経営するにも従業員は必要でしょ?それと同じこと。ある人は鴉や梟といった鳥を使うし、ある人は蜘蛛やなんかの虫を使う。鼠や蛇も役に立つわね。でもそれより何より、あの獣よ。あいつには力があるし、知恵もある。そして人間よりもずっと長く生きる。ただ問題は滅多に見つからないって事。まだ誰にも開かれたことのない古墳が千あったとして、その中の一つにでもいたら大当たりね。だからまあ、話には聞いていたし、探してもいたけれど、じっさいお目にかかったのは今回が初めてよ。
幸いなことに、あの獣は力が強い分、遠くからでも地上に現れた気配を感じ取ることができた。あの大雨の夜、赤牛山が崩れたその時に、またとない機会が廻ってきたと知って身震いしたわ。だから大急ぎで駆け付けたのに、一足遅かったってわけ。
わかってたら、あの水晶を美蘭のためにとっておいたのに。
嬉しいこと言ってくれるじゃない。でもまあ仕方ないわね。花奈子が封印を解くまで、私達にもあいつの居場所ははっきり判らなかったんだもの。
じゃあ、うちに来たのは偶然なの?
まあね。そこは亜蘭の奴に感謝すべきかも。とにかく、私はあいつが目当てで花奈子の傍にいるわけじゃない。信じなくても別に構わないけど、お友達のつもりなの。
だいじょうぶ、ちゃんと信じてる。
ありがと。じゃあ一つだけお願いしておくわ。次にあいつに会ったら、名前を聞いて、その名前を私に教えて。
それだけでいいの?でも、どうやったら会えるの?
あいつはいつも花奈子のそばにいる。ただ、ちゃんと見ないから現れないだけ。
ちゃんと見るってどういう事だろう。目の前を通り過ぎてゆく人の波はいちだんと速さを増したようで、何だか眩暈がしそうだ。花奈子は視線を落として、グラスに挿したストローについている小さな泡を眺めた。赤くて透明なソーダと、半分ほど溶けてしまった氷。
東京に遊びにおいでよって、半分は冗談だと思っていたのに、寛ちゃんは本気でお父さんに話をしていたらしい。花奈子が別に「行きたい」と言ってもいないのに、新幹線の切符が送られてきて、ばあちゃんがお小遣いをくれたけれど、それでもまだ半信半疑だった。拓夢は新しい薬のせいで、相変わらず時々熱を出していて、幸江ママは落ち着いて家に帰ることができずにいたし、お父さんは夏期講習でずっと授業がつまっていて、病院に荷物を届けたりするのには花奈子が必要なはずだった。
その事を幸江ママに確かめてみると、「大丈夫、塚本のおばあちゃんが手伝ってくれるから、花奈子ちゃんはゆっくり遊んでくればいいわ」と笑顔で言ってくれたけれど、やっぱりどことなく無理があるようで気がかりだった。
でも結局、寛ちゃんが忙しくてこんな風に待たされるんだったら、別に来る必要なかったのに。思わずため息が出て、更に視線を落とした先に、奇妙なものが見えた。サンダルを履いた花奈子の足元に、黒いものが蹲っている。
「豆炭?!」
呼ばれてこちらを見上げたその小さな黒猫は、ニャ、と微かな声で返事した。でもそんな事ってあるだろうか。豆炭はかどや旅館の飼い猫で、東京のハンバーガーショップなんかにいるはずないのだ。じゃあこれは、ただの黒猫?にしては、肩のところに少しだけある白い毛の場所までそっくりだ。
「花奈子ちゃん?」
背中からいきなり呼ばれて、思わず背筋がびくりとなった。
「ごめん、驚かせちゃったかな」
振り向くと、知らない女の人が立っていた。明るい色に染めた髪をうしろで束ねて、赤いフレームの眼鏡をかけている。少しだけそばかすのある顔に笑顔を浮かべているけれど、どうして花奈子の名前を知っているんだろう。この場合、「彼氏と待ち合わせしてる」と言うべきかどうなのか。
「私、叔父さんから花奈子ちゃんのこと迎えに行くように頼まれたの。葛西初美といいます。ちょっと待ってね」と言いながら、女の人は肩にかけていたバッグからスマホを取り出した。
「あ、沢井さん?いまお店に着いたとこ。花奈子ちゃんに代わるね」
「いや本当にごめんな、まさかの緊急会議でさ。葛西さんも本当なら有給のところを、申し訳ない。という事で、何でも好きなものおごるから、どうぞ遠慮なく選んで」
相変わらず、謝ってるようでどこかふざけた感じの寛ちゃんだ。それでも、少し会わないうちに痩せたように思える。寛ちゃんの同僚だという葛西さんは、「じゃあ一番高いお料理いっちゃおうかな」と、メニューを開いたけれど、そのまま花奈子の方に向けてテーブルに置くと「何にする?」と尋ねてきた。
「え、私よく判らない、です」
そこに書いてあるのはたしかに日本語なんだけれど、テリーヌとかアンディーブだとか、何のことだか想像がつかない。
ハンバーガーショップの前から、いきなりタクシーで連れて来られたのがこのレストランだ。他にもお客さんはいるけれど、とても静かで、あちこちに本物の花が飾られていて、クロスのかかったテーブルにはナプキンやグラスがセットしてあって、俳優みたいにかっこいい男の人が席に案内してくれて、椅子まで引いてくれた。そんな場所で知らない女の人と二人きりで待っているだけで、もう花奈子の緊張は限界ぎりぎりで、「お待たせ~」と寛ちゃんが現れた瞬間には、ほっとしたのを通り越して腹が立ったほどだ。
「ここを紹介してくれたのは葛西さんだから、お任せしてみるか」
「高くつくわよ、というのは冗談で」と、葛西さんは笑いながらもう一度メニューを手にとった。
「この店、ディナーはそれなりのお値段だけど、ランチはすごくお手頃なの。本日のAコースでいいかしら。前菜か冷製スープと、メインはお魚かビーフ、それからデザートとコーヒーか紅茶よ。前菜はホタテのテリーヌ。スープはヴィシソワーズっていう、ジャガイモの冷たいポタージュね。本日のお魚はスズキのグリル、ビーフは頬肉の赤ワイン煮。デザートは木苺のソルベとキャラメルアイスクリーム。こちらはチーズに変えることもできるって」
葛西さんはまるでお店の人みたいにてきぱきと説明してくれて、花奈子も寛ちゃんも「じゃ、それにします」ぐらいしか言わずに、食べたいものを選ぶことができた。そして食事を終えて、さあこれからどうするんだろうと思っていたら、寛ちゃんは葛西さんに「この後何か予定あるの?」とか聞いていて、葛西さんはといえば、「買い物でもしようかと思ってたんだけど、ついてっていいかしら」と、一緒に歩き始めた。
何だかこれって変じゃない?そう思いながらも、花奈子は寛ちゃんの後についてあちこち行くしかなかった。まず駅のコインロッカーに荷物を預けて、それから地下鉄を乗り継いでスカイツリーと水族館と浅草あたりを見て回ったら、あっという間に夜になって、晩ごはんは中華料理で、どうせなら人数が多い方が色々頼めるからという流れで、けっきょく葛西さんは最後まで一緒だった。おまけに、別れ際になって「私、明日も大した予定入ってないから、そっちに合流していいかな?」とか言い出した。やっぱりそれって変じゃない?なんて言えるわけもなく、おまけに寛ちゃんは「いいよ、なあ花奈子」と、即OKなのだ。
駅のロッカーに預けていた荷物は持ってもらったけれど、花奈子は何だか重い足取りで寛ちゃんのマンションにたどり着いた。東京だから、どんなに賑やかなところに住んでるのかと思っていたら、案外普通の住宅街で、しかも古い建物で裏が墓地というまさかの立地条件。
「エレベーターないけど、二階ならどってことないだろ?」と、全然気にしてない寛ちゃんは、墓地に面したベランダの窓を全開にすると、「ほら、風通しもいいし」と得意げだ。確かに、一度だけ遊びに行ったことのある、学生時代のワンルームマンションに比べると、狭くてもキッチンは独立してるし、お風呂とトイレが別で寝室とリビングの二部屋があるのはすごい進化かもしれない。
「花奈子は隣の部屋のベッドで寝ろよ。ちゃんとシーツとか替えてあるからさ」
「寛ちゃんどこで寝るの?」
「そこのソファ。ベッドになるんだ、よっ、と」説明しながら寛ちゃんはソファの背もたれを倒して、本当にベッドみたいにしてしまった。
「水とかお茶とか、冷蔵庫にあるもの何でも飲んでいいから。ただし賞味期限までは保証しないから、自分でチェックしろよ」
帰り道にコンビニで買ったばかりの牛乳を冷蔵庫に入れている寛ちゃんの背中を見ながら、花奈子はずっと迷っていた。でも、やっぱり言うなら今かもしれないと思って決心する。
「あのさ、葛西さんのことだけど」
「何?」冷蔵庫のドアを閉める音がして、寛ちゃんがこっちを向く。
「あの人、どうして明日一緒に来るの?」
「どうしてって、大した予定ないから合流したいって、言ってたじゃないか」
「でも、だったら別に一緒に来なくてもいいじゃん」
実のところ、花奈子もどうしてそこがひっかかるのか、自分でよく判らなかった。ただ何となく、変だというか、おかしいというか。寛ちゃんは一瞬、ぽかんとした表情で花奈子を見ていたけれど、すぐに訳知り顔の笑いを浮かべた。
「なになに?要するに俺と二人っきりでいたいって事?葛西さんには邪魔するなって?」
「えっ?私ひとっこともそんなの言ってないですけど!」
「言ったも同然じゃない。俺のこと独り占めしたいんだろ?悪い悪い、花奈子がまだお子ちゃまだって事、すっかり忘れてた。葛西さんには断っとくから安心しな」
そう言ってポケットからスマホを取り出すものだから、花奈子は慌てて阻止しようとした。
「違うってば!そういう意味じゃないの!断ってなんて言ってない!」
夢中でスマホを奪い取ったら、寛ちゃんは「あっそ。なら問題なし」と、平然としている。何だか自分の大騒ぎが馬鹿みたいで、花奈子は仕方なく手にしたスマホをテーブルに置いた。その時、寛ちゃんが「あれ、お客さん」と言って、ベランダの方を指さした。見ると、手摺の上に黒い猫がのっかっている。
「ここ、裏が墓地なせいか、よく猫が来るんだよね。でもお前、見かけない顔だな」
寛ちゃんが舌を鳴らして呼んでやると、猫は怖がる様子もなく手摺から飛び降りて、部屋の入口まで近づいてきた。真っ黒で、子猫より少し大きいぐらいで、肩のところに少しだけ白い毛があって…
「豆炭?」
思わず声をかけると、猫はニャ、と返事して中に入ってくる。
「どっかの飼い猫かなあ、人に慣れてるし、綺麗だし」と、寛ちゃんもびっくりしている。花奈子は半信半疑でその猫を抱き上げてみたけれど、顔つきといい、身体の大きさといい、豆炭だとしか思えない。
「この子、かどや旅館で飼ってる猫にそっくり」
「かどや旅館って、青松通りの?なんで花奈子があそこの飼い猫知ってるんだよ」
「友達が泊まってたの。ほら、フィアットほめてくれた東京の女の子。あれからしばらくして、また来たの」
「あーあ、あの綺麗な子。そうだ、花奈子せっかく東京に来てるんだから、連絡とってみれば?ケーキぐらいご馳走するけど」
寛ちゃんは美蘭のことをよく憶えてるみたいだった。やっぱり美蘭って魅力的なんだ、と改めて実感しながらも、花奈子は「忙しいだろうから、やめとく」と言った。半分は本気だけれど、また半分は約束が果たせていないから。あの黒い獣にもう一度会って、名前をきくこと。
寛ちゃんは「そっかあ、残念」と言いながら、豆炭らしき黒猫の喉をくすぐった。そして「俺、ちょっと仕事関係のメールをチェックするから、先に風呂でも入れば?タオルとかはベッドの上に置いといたよ。でも脱衣室ないから、その辺はうまくやりくりしてね」と言うなり、ノートパソコンを開いて仕事の体勢に入ってしまった。
こうなると、寛ちゃんはちょっと別世界だ。花奈子は荷物を持って寝室に移動し、着替えを取り出してお風呂に入る準備にかかった。豆炭らしき黒猫も一緒についてきて、足元でじっと花奈子を見上げている。
「お前、豆炭でしょ?」
相変わらず返事はニャ、で、それはきっとイエスだと思いながら、花奈子はブラウスのボタンを外した。脱衣室がないんだから、ここで外側だけパジャマに着替えておいて、下着はお風呂場で替えようという作戦だ。ところがブラウスを脱いだところで、豆炭はいきなり寝室のドアをガリガリやって、外に出ようと暴れだした。
「もう!何なの?自分でついてきたくせに」
仕方なくブラウスを羽織ってドアを少しだけ開けてやると、豆炭は大慌てで飛び出して行く。寛ちゃんはそんなの全く気にしてない様子で、キーボードを叩き続けていた。これならバスタオルだけで部屋を通っても気づかれないかもしれないな、と呆れてドアを閉め、またブラウスを脱ぎながら花奈子は、裸アレルギーだという美蘭の事を思い出していた。
亜蘭は「貧乳コンプレックス」なんて言っていたけれど、そんなの気にする必要もないほど、美蘭のほっそりとしなやかな身体つきは美しくて、テレビやなんかで見かけるグラビアアイドルよりもずっと素敵だ。それに比べて、寝室の姿見に映っている自分は、本当にどうって事ない感じ。
思わずため息が出て、すぐにパジャマを着る。そして、タオルやシャンプーなんかを持って寝室から出ると、豆炭はドアのすぐそばに座って待っていた。花奈子と目が合うと、ニャ、と鳴く。
「何よもう!出たい出たいって大騒ぎしたくせに」
そんな事言われても、ニャ、としか言わず、豆炭は花奈子の足にまとわりつくようについてくると、またお風呂場の外でじっと待っているのだった。
はっと気がついて、時計を確かめると十二時を少し過ぎていた。
ベッドに寝転がって、使ったお金をメモしておこうと思ったはずなのに、うとうとしてしまったらしい。もういいや、明日まとめて書こうと観念して明かりを消すと、ドアの隙間からリビングの光がさしこんでくる。寛ちゃんはまだ仕事メールを打っているんだろうか、テレビもつけていない部屋は静かで、ただ外からぼんやりと車の走る音が近づいたり遠ざかったりしてゆく。
だんだんと暗さに慣れてきた目に、広いとは言えない寝室の様子が見えてくる。まだ引っ越してそんなに経っていないせいか、ベッドの他は本棚と姿見ぐらいしかなくて、あとは段ボールが三つほど積んであるだけ。枕元にはスピーカーが置いてあるから、寛ちゃんはふだん音楽を聴きながら寝ているんだろう。ベッドの端っこには一匹だけ連れてきたぬいぐるみのモモンガがいる。これは「ヤマモトくん」といって、どうやら寛ちゃんにとって特別な存在みたいだ。
花奈子はちょっといたずら心を起こして、足の先でヤマモトくんをつかまえてみようとした。簡単そうに思ったのに、ヤマモトくんは意外と丸っこい体型で、つるつると逃げてゆく。三度目のチャレンジでとうとうベッドから落っこちてしまった。
「あーあ、ごめんね」
慌てて拾い上げようと、ベッドの端から覗き込むと、暗がりの中で一対の目が光った。一瞬びくっとして、それからやっと豆炭の事を思い出す。また外に出たがるかと思って、窓を少し開けておいたのに。
「まだいたの?ここに泊まるつもり?」
花奈子がヤマモトくんを拾い上げるのにつられるように、豆炭はベッドの上に飛び乗ってきた。それからうーんと伸びをして丸くなる。どうやらここで寝るつもりらしい。この猫が本当に豆炭だとして、一体どうやってここまで来たんだろう。それより何より、どうしてなんだろう。
「ねえ、誰にも言わないから、何しに来たのか教えて」
こっそりそう尋ねても、花奈子なんか存在しないみたいに目を閉じたまま。
「ひとんちにお邪魔しといて、ちょっと図々しいんじゃない?」
やっぱり反応なし。でもまあ、ひとんちにいるのは自分も同じかと思いながら、花奈子は寝転んだまま人差し指で豆炭の鼻先をかるく押してみた。何しに来たの?そう言う自分は、何しにここまで来たんだろう。
拓夢は今夜も病院だし、幸江ママは寝る時間もないほど忙しくて、お父さんはきっと今ようやく家に帰って一息ついた頃。なのに自分一人、こんな風に遊んでいていいんだろうか。寛ちゃんだって、誘ってはくれたけれど、会議だったり、この時間になってもまだメールだったり、本当はすごく忙しいのを無理してるんじゃないんだろうか。そして、お兄ちゃんは今どこで何してるんだろう。
新幹線には家族連れの人がたくさん乗っていたけれど、うちの家族はいつになったら全員揃って旅行に出かけたりできるんだろう。それとも、ずっとこうやって、少しずつすれ違いながら、ばらばらの生活を続けるしかないんだろうか。だとしたら、お兄ちゃんが出て行ったのは「いち抜けた」の合図のように思える。
そこまで考えると、急に悲しくなって涙が溢れてきた。変なの。夏休みで遊びに来ているのに、どうして泣く必要があるんだろう。楽しんでいればいいのに、どうしてこんな事考えるんだろう。でも、そんなもう一人の自分にはお構いなしに涙は頬を伝い、ぽたりと落ちて、シーツに吸い込まれてゆく。
「また泣いているのか」
聞き覚えのある低く太い声に、花奈子はびくりとして起き上がった。ちょうど目に入る姿見の奥から、レモンイエローに輝く鋭い瞳がこちらを見ている。どこか別の場所につながる洞窟みたいに黒くて大きな身体と、わずかに開いた瑠璃色の口元で冷たく光る牙。思わず後ろを振り向いたけれど、リビングに続くドアの前には何もいない。
「私はこの世に一つしか身体を持たないのだ。そんな所を探しても意味がない。鏡とは嘘をつかないもの。お前が朝な夕なに長々と鏡を覗いているのは、そこに己の真実を見ようとしているからではないのか?」
そんな難しいこときかれても、答えようがない。というか、一瞬で喉がからからになって、舌が貼りついたように動かなくなっていた。
「私のことが恐ろしいか?」
鏡の奥から獣が尋ねても、花奈子は声も出せず、ただうなずくしかなかった。獣はそのまま、足音もたてずにゆっくりと歩き出す。黒い前足が姿見の木枠を越え、鏡の世界から寝室へと踏み出して近づいてくる。その頭はちょうど、ベッドに起き上がった花奈子の顔と同じくらいの高さにあった。
「何かを恐ろしいと思う時、そこには二つの異なる理由がある。一つは、それを知らないが故、そしてもう一つはそれを知るが故に。お前は私の事をよくは知らないのだから、答えは前者だろう。知らないが故に、余計な考えで恐ろしさを募らせているのだ。さてお前は私が何をするのではないかと怯えているのだ?」
「ひ…」
自分でも驚いたけれど、花奈子の喉から細い声が出た。
「ひっかく、かも」
「なるほど、それから?」
「噛みついて、殺す」
「それは何のためだ?」
「た、食べるから」
獣は更に近づいて、花奈子はその分少しだけ下がった。お尻のあたりに豆炭の暖かい身体が触れたので首を廻らせると、豆炭は蹲ったまま大きな目を開いて獣をじっと見ていた。
「私は無用な殺生などしないし、人を食らって命をつないでいるわけでもない。ただ、それはできないという意味ではない。私の顎は人の頭など造作なく噛み砕いてしまうし、私の鉤爪は一撃でその胴を二つに引き裂いてしまう。さあ、よく知るがいい。恐れを鎮めるために」
そして獣は花奈子の膝の上に、片方の前足をのせた。そのずしりと重い掌は花奈子の顔ほどもあって、黒い毛並の表面にはあの不思議な模様が滑るように流れている。獣はそれきり何も言わないし、気持ちも少しずつ落ち着いてきたので、花奈子はこわごわ手を伸ばし、前足に触れてみた。毛並、と思っていたものは実際には毛ではなく、何か水のようなもので、その奥に固い身体がある。けれどその身体は豆炭のように暖かくはなく、ひんやりとしていて、今日のような夏の夜には心地よいほどだった。
獣の前足に重ねた花奈子の細い指の上を、不思議な模様が通り過ぎてゆく。手を持ち上げてみると、そこには何もなくて、また手を浸すように下ろすと、流れる模様を透かして指が見えるのだった。何だか面白いような気がして、花奈子は両手で前足をひっくり返してみた。豆炭と同じような、でもずっと大きな肉球があって、撫でてみるとやっぱり柔らかですべすべしている。そして太い指を一本一本、確かめるように触って、豆炭にしてみたことがあるように、鉤爪を出してみる。それは銀色に輝いて、まるで金属でできているようだった。
「きれい」
花奈子が思わずため息をつくと、獣は「飾り物ではないのだが」と、何だか照れているように言った。
「お友達はあなたのこと、優しいって」
まだ両手でその前足に触れたまま、花奈子は美蘭がこの獣について教えてくれたことを思い出していた。
「そうだ、名前」
まるで誰かの手を握りしめるように、獣の前足に触れる指に力をこめ、花奈子は身を乗り出して叫んだ。
「あなたの名前を教えて!」
「ツゴモリ」
獣がそう答えたのを聞いたと思った瞬間、花奈子の身体はくるりと転がって床に落っこちていた。
13 東京都人並区
「それでさ、どーん!ってすごい音がしたから見に行ったら、花奈子がベッドから落ちてたんだよ」
寛ちゃんの言葉に、葛西さんはケラケラと声をたてて笑った。
「いつもと違う場所だから、寝ぼけちゃったのかな?でも可愛いわね」
そんなのフォローになってません。言い返したいのを我慢して、花奈子は寛ちゃんに反撃する言葉を考えていた。朝から並んで「ザ・深海魚大博覧会」を見て、アンコウのぬいぐるみも買って、楽しくはあるんだけれど、葛西さんが当然みたいに一緒にいるのがやっぱり納得いかない。おまけにこうして、昨日の夜ベッドから落ちたことまでネタにされるなんて。そんな花奈子の気持ちも知らず、天ざるを食べている寛ちゃんは、大切にとってあった海老天にかぶりついた。
遅めのお昼に入ったお蕎麦屋さんはけっこう賑わっていて、ひっきりなしに注文の声が飛び交っている。花奈子は、あの海老天、奪い取ってやればよかった、と思いながら割子蕎麦を食べ続ける。葛西さんは生湯葉のかけ蕎麦。「夏でも身体は冷やしちゃ駄目なのよ」、って、たしか幸江ママも言ってたなあ、と思い出す。
「なんか大人ぶってるけど、まだお子ちゃまなんだよね」と、寛ちゃんがまたさっきの話を続けるので、ついに花奈子も反撃を決意した。
「そんなこと言うけど、寛ちゃんなんか、おじさんなのにまだモモンガのぬいぐるみと寝てるんだよ」
えーっ!信じられない!という葛西さんの反応を期待していたのに、彼女はぱっと笑顔になって、「そうそう、ヤマモトくんね!」と嬉しそうに言った。
「そう、だけど、どうして知ってるの?」
「あっ、葛西さん、引越し手伝ってくれたもんな!」
寛ちゃんは半分かじった海老天をお箸にはさんだまま、早口で説明した。何か言いかけていた葛西さんは口をつぐみ、それから「うちの部署って、本当に色んな雑用あるものね」と言ってお茶を飲んだ。
「じゃあ、寛ちゃんのこと、お子ちゃまだと思ったでしょ?」
「え?うん、そうね」
「もう、その話はいいからさあ」と、残りの海老天を平らげた寛ちゃんが割り込んでくる。
「それはこっちの台詞だよ。何かっていうと人のこと子供扱いしてさ」
「はい殿、お手打ち覚悟でございます」
そう言って深々と頭を下げられると、花奈子もさすがにそれ以上追及できない。でも昨日のことは夢なのか、そうでないのか。夢ならリアルすぎる、あの獣の前足の重さや、ひんやりとした身体、滑らかな肉球、そして三日月のように鋭い爪。名前はツゴモリ、確かにそう言ったけれど、どんな意味なんだろう。
「ちょっと、花奈子」
「え?」と、慌てて聞き返すけれど、寛ちゃんはさっきのしおらしさが嘘みたいに「許してつかわすって言ってくれないと、話がまとまらないだろ?」と、不満顔だ。
「はいはい、じゃあ許してつかわすよ」
仕方なくそう言うと、葛西さんがまた面白そうに笑った。
「本当に、沢井さんって仕事モードとおうちモードが違うのね。会社でももっと、おうちモード全開でいけばいいのに」
「いや、俺はいつだってピシっとしてるよ。東京に来る前はさ、イケメンすぎて困るって、しょっちゅう近所から苦情がきてたもんな」
アホくさ。もう相手にしない事にして、花奈子は黙ってお茶を飲んだ。寛ちゃんは東京に移って間がないから、まだ会社で猫をかぶってるに違いない。そのうちきっと、どれだけふざけた人間か知れ渡って、みんなに馬鹿にされるのだ。でも、葛西さんは寛ちゃんの下らない冗談にもいちいち大笑いで、そういえば三課のミウラさんがね、なんて会社の話ばっかりしている。それに比べて花奈子の心に浮かぶのは、拓夢の事だったりお兄ちゃんの事だったり、心配ごとだけなのだ。
ともあれ、食事をすませ、今度はテレビでも紹介していたスイーツのお店に移動する。大きなショッピングビルの中にあって、色んなフレーバーのアイスやフルーツを好きなように組み合わせて、自分でオリジナルパフェを作れるのが最大のポイント。それだけじゃなく、お店の内装が童話に出てくる不思議の森みたいになっていて、椅子の背もたれに葉っぱが茂っていたり、天井から葡萄の房が垂れていたり、ペーパーナプキンのホルダーが赤い笠のキノコだったり、あちこちにリスやウサギといった小さな動物が隠れていたり、もう写真を撮りまくりたいような素晴らしさなのだ。
花奈子はラズベリーアイスとチョコアイスにイチゴを組み合わせ、カスタードクリームをかけてワッフルをのせたパフェ。寛ちゃんは黒ゴマのアイスとビターチョコのアイスにコーヒーゼリーをのせて、更にチョコクリームを絞った「暗黒パフェ」というのを開発した。葛西さんはアイスじゃなくて、注文してから焼いてくれる桃のタルトと紅茶。それはそれで十分においしそうだった。
「このビルに何軒か面白そうな雑貨屋とかあるからさ、ちょっと覗いてみようか」
店を出る前に、寛ちゃんはスマホを検索してそう提案した。
「それから動物園に移動して、夜間開園だね?」と確認すると、「その通り」と返事がある。
夜の動物園ってどんな感じだろう。何だか楽しみにしながら、「これちょっと預かってて」と、アンコウのぬいぐるみが入った袋を寛ちゃんに押しつけ、トイレに行っておくことにした。葛西さんもいつの間にか姿を消してるから、きっと目的地は一緒だろう。
このビルのトイレはやっぱり、花奈子の地元のショッピングモールなんかと格が違う感じで、並ぶ必要がないほどたくさんの個室があって、明るくて清潔で文句なしというレベルだった。よく、洗面所で化粧直しをする人の順番待ちで手を洗えない、なんて事があるけれど、ここにはパウダールームという、三面鏡とちょっとした荷物を置けるカウンターの並んだ小部屋があって、みんなそこでお化粧を直したり、髪を整えたりしている。
花奈子もちょっと背伸びした気分でそこに入ると、髪に手櫛を入れ、リップクリームを塗り直してみた。また少し日焼けしたような気がして、面倒くさくてもちゃんと帽子は被らなきゃ、と自分に言い聞かせる。そこへ、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。
「でさ、朝から深海魚だよ。なんだかねえ、って感じでしょ?」
葛西さんだ。
「夜はまた動物園だって。私ああいうとこ苦手なのよ、なんか臭いじゃない。あそこで夕食なんて話になったら最低かも。トイレで食事、みたいなもんだし。でもしょうがないよね。姪っ子命って感じだし。そう、亡くなったお姉さんの子供。といっても新しいお母さんもいるし、家族サービスなんてお父さんに任せとけば、って思うんだけどね。せっかく合わせて休みとっといたのに、悪い、その日は姪っ子くるから、でしょ?そう、家に泊めてるの。中学生なんだから、ビジネスホテルに一人で泊まれるよね。結婚して義理の家族とつきあうのってこんな感じかな。ほんと疲れちゃう。また今度ゆっくり話きいて」
声はトイレの壁に反響しながらどんど近づいてきた。花奈子は咄嗟にどこか隠れる場所はないかと周囲を見回したけれど、パウダールームにそんな空間はなくて、振り向いた時にはちょうど葛西さんがスマホを片手に入ってくるところだった。
一瞬、彼女は表情をこわばらせた。でも、花奈子の方がひきつった顔をしていたかもしれない。
「あら」彼女は素早く笑顔を浮かべると、「綺麗になった?身だしなみ、大事よね」と声をかけてきた。花奈子は「先に行ってます」とだけ小さな声で言うと、逃げるようにして飛び出した。
どうして逃げるんだろう。決まりが悪いのは葛西さんのはずなのに。でもその場から消えてしまいたいのは自分の方だった。葛西さんはきっと、寛ちゃんとこの週末にどこかへ遊びに行こうとしていたのだ。なのに花奈子が来ることになって、計画を台無しにされたと怒っている。葛西さんのことをずっと、勝手についてくる人だと思っていたけれど、花奈子の方が突然やって来た迷惑な姪っ子だったのだ。
「動物園、とりやめにしてもいい?」
雑貨屋さんを幾つか回って、さあそろそろ移動しようかという時になって、花奈子はようやくそう切り出した。
「え?なんで?夜間開園、あんなに楽しみにしてたのに」
寛ちゃんは言ってる意味が判らない、という口調だ。
「なんか、あちこち行ってくたびれたみたい」
「何、気分悪いとか?そういや顔色悪いかな」
寛ちゃんは慌てた様子で、花奈子の顔を覗き込む。そうして心配させるのも嫌だけど、このまま葛西さんも一緒に、苦手な動物園に連れていくのはもっと嫌だった。
「別に病気とかじゃないよ。ただ、動物園はもういいの」
「そう?まあ、少し予定詰め過ぎたかな」と、寛ちゃんは花奈子の頭を軽くたたき、葛西さんに「ちょっと帰って休憩するよ。ごめんな」と言った。
「私は全然かまわないわよ。まだ買い物とかあるから。花奈子ちゃん、人が多すぎて疲れちゃったのかな、お大事にね」
葛西さんの声はすごく優しくて、さっき電話していたのと同じ人だとはとても思えなかった。もしかして、他の誰かがしゃべっているのを、自分が勝手に葛西さんだと思い込んだだけなのかも。だったらどんなにいいだろう。
時間はかかるけど、乗換なしで帰れるから、という理由で、寛ちゃんは花奈子を連れてバスに乗った。一番後ろの席に並んで腰かけて、窓から外を眺める。どれだけ走っても、東京のバスは田んぼや河原に出ることはなく、ずっと街の中だった。
「しばらく昼寝すれば?着いたら起こすからさ」
寛ちゃんは花奈子の代わりに、アンコウのぬいぐるみが入った袋を抱えたままでそう言った。
「眠くなったら寝るよ」
「なんか、ごめんね。花奈子の意見とかあんまり聞かないで予定たてちゃってさ。過密スケジュールだったかな」
「そんなことないよ。ただちょっとくたびれただけ」
目を閉じて、無理やり眠ってみようとする。でもやっぱり、さっきの葛西さんの言葉が耳から離れなかった。花奈子はまた目を開けると、俯いたままで寛ちゃんに「私、どっかよそに泊まる」と言った。
「え?何で?もしかして、葛西さんにベッドから落ちた話をしたの、そんなに怒ってる?」
「そうじゃなくて、もう中学生なんだから、一人でホテルかどこかに泊まる。婆ちゃんにお小遣いもらったから、お金は大丈夫」
「小遣いって、そりゃ宿泊費じゃないよ。何?風呂に脱衣室ないから嫌だとか?実はベッドが臭かったとか、ゴキブリ出たとか、言いにくいこと?」
言いにくいって、自分で言ってんじゃん、とつい苦笑いしながらも、花奈子は「そういうんじゃないよ」と打ち消した。
「とにかくもう、あんまり花奈子のことあれこれ考えないで」
口から出た言葉は、百パーセント自分の気持ちを表現できていなかった。でも、それ以上どう言えばいいのかもよく判らない。寛ちゃんはしばらく黙っていたけれど、「花奈子のこと考えるのは俺の勝手だろ。いちいち人の思想まで取り締まるって、KGBじゃあるまいし」と不満そうに言った。
「何?その、カゲベエって」
「カーゲーベー!ソビエト連邦の秘密警察」
「そんな昔の話知らないもん」
「世界史で習ってるって」
「中学じゃ習わない!」
なんで話が世界史にすり替わってるのか、よく判らないけれど、いつの間にかよそに泊まるという話が消えてしまっている。仕方ない、もう一度言うか、と思っていると、寛ちゃんが「なんか自分でも、ちょっと強引かな、とは思ったんだよね」と呟いた。
「花奈子のお母さんが東京で大学に通ってた時にさ、四回生の夏休みに、これが最後だから遊びにおいでって言われたんだ。俺まだ小学生だったけど、一人で新幹線に乗って、お母さんに東京駅まで迎えに来てもらって、下宿に泊まって、あちこち遊びに行って、すごく楽しかったんだよね。だから花奈子も遊びに来ればいいや、なんて安易に考えたんだけど。まあそれは俺の一方的な押しつけだったな」
「ううん、私だってすごく楽しいよ。ただ…」
でもやっぱり、葛西さんの事を言うわけにはいかない。まるで告げ口するようなものだから。
「ちょっとくたびれただけ」
ふりだしに戻った気分で、花奈子は窓の外を見た。さっきから何だかバスがのろのろと運転していると思ったら、反対側の車道を大勢の人が歩いている。頭の上に何か書いた大きな紙を掲げたり、三、四人で横断幕を広げたり。先頭の人がハンドマイクで何か叫ぶと、それに応えるように言葉を繰り返し、拳を振り上げるのだった。
「この暑いのに、大変だな」
寛ちゃんも花奈子の肩ごしに外の様子を見ている。確かに、わざわざ真夏の昼下がりにこんなキツイことしなくてもいいのに、一体何を呼びかけているんだろう。そう思いながら、紙に書かれた「NO非正規!」「女性の貧困を見過ごすな!」といった言葉を眺めていたけれど、その中に一際、はっきりと目に飛び込んでくる文字があった。
東京都人並区
あれは、お兄ちゃんの部屋にあったメモに書かれていた言葉だ。慌てて目で追ったけれど、ちょうど人の波は終わりにさしかかっていて、花奈子たちの乗ったバスはいきなりスピードを上げ始めた。
「私、ここで降りる!」
花奈子は大急ぎで降車ボタンを押すと立ち上がった。背中から寛ちゃんの「どうしたの!」という声が追いかけてくるのを聞きながら、ちょうど停まったバスを飛び降り、もと来た方へと駆け出した。けれど歩道はけっこう混んでいて、歩いている人や自転車をよけていると、そう簡単に前へ進めない。おまけにバスは思ったより遠くまで走っていて、さっきの人たちを見たはずの場所に戻った頃には、もう誰もいなかった。
風の音に混じって、ハンドマイクから流れる声が聞こえてくるけれど、どっちの方に行ったのか判らない。右?左?少し走ってみて、やっぱり違うと迷っていると、ようやく寛ちゃんが追いついてきた。
「ちょっと!一体どうしたんだよ!」
アンコウのぬいぐるみが入った袋を抱えて走ってきたせいか、息を切らせて汗だくだ。でもそれは花奈子も同じで、今頃になって思い出したように汗が流れ出す。
「あの人たち、お兄ちゃんのこと、何か知ってるかもしれない」
「全くなあ、そういう事はもっと早く言ってもらわないと」
寛ちゃんは文句を言いながら、マウスを動かし続けている。
「だから電話で言ったじゃない。そしたら、東京にあるのは杉並区だって、それでおしまいだったもん」
「でも、花奈子は孝之のこと、何も言わなかっただろ?だから、冗談か何かだと思ってたよ」
「それはそうだけど」
次に来たバスに乗って、寛ちゃんの家まで戻って、汗だくだったので二人ともシャワーを浴びて、ようやくパソコンで「東京都人並区」という言葉を検索開始だ。そして傍には、当然という顔をして豆炭が上り込んでいる。二人が帰ってくるのを待っていたように、ベランダに現れたのだ。
「まあ要するに、NPOって奴だな。若者を中心とした非正規雇用者の待遇改善とか、ホームレスの支援とかをしている団体みたいだ」
「ヒセイキコヨウって何?」
「何ていうか、アルバイトとかパートとか、契約社員とかの人だよな。正規雇用の人、つまり正社員ってのは、いったん働いて下さいって言われたら、定年になるまで働くのが約束だけれど、そうじゃない人は働き続ける気があっても、短い期間しか雇ってもらえない。そうしたら、また新しい仕事を見つけないといけない。給料だって少ないし、ボーナスが出なかったり、病気になったらすぐに辞めさせられたり、仕事が減ったら週に二日でいいとか、もう来なくていいと言われたり、待遇も良くないっていうか、立場が弱いんだ」
「でもたくさん働かなくていいから、楽じゃない?」
「そりゃ、学生とか、家の用事が忙しい人だったら、その方が都合のいい場合もあるけどさ、たくさん働いていっぱいお給料がほしい人なら、同じところで長く働いて、ちゃんと法律で色々な権利が守られている方がいいんだよ」
言われてみればそうかな、と思いながら、花奈子はパソコンの画面を覗き込む。膝には買ったばかりのアンコウのぬいぐるみがのっているけれど、隙を見せると豆炭がチョウチンのひらひらに飛びついてくるので、油断できない。
「俺もさあ、孝之の大学とか、下宿の近所とか、あたってはみたんだけどね」
「え?探しに行ったの?」
「手がかりなしだったけど。まあ、大学に行かなくなったのが始まりだから、こっそり舞い戻るって事はないだろうけど、一応」
「なんで教えてくれなかったの?」
「別に、俺の勝手でやってる事だもの」
目はパソコンの画面を追いかけたままで、寛ちゃんはそう答えた。お兄ちゃんが出て行った事について、ばあちゃんほどあれこれ言わずにいたけれど、やっぱり気にかけていたんだ。
「しかしこうなると、やっぱり東京に来てるのかなあ。なんだかんだ言っても、選ばなければ仕事の口は色々あるし、身体さえ健康なら、とりあえず食っていける」
「そうなの?」
「ん」と、我に返ったような顔つきで花奈子の方をちらりと見てから、寛ちゃんは「それは大人の場合」と付け加えた。
「そりゃ、お兄ちゃんはもう二十歳過ぎてるけど。でも、こんな風に黙って家出してるのはよくないよ。引越しの相談もできないし」
「ああ、病院の近くに移るって話?」
「お父さんに聞いた?」
「ちらっとね。花奈子は賛成してるの?」
「うん。拓夢のためには、いいと思うよ」
「花奈子は何でも拓夢が最優先だな」
「だって、うちじゃ拓夢が一番小さいんだもん」
「そうだな。いいお姉さん持って、拓夢は幸せだ」
それはどうだろう、と花奈子は思った。自分がいる事なんて、拓夢にとっての幸せとは何の関係もないかもしれない。それよりも早く病気が治って、また幼稚園に通えるようになって、友達と遊んだり、外を走ったり、本物のパトカーやブルドーザーを見に行けることの方がずっと嬉しいんじゃないだろうか。
「あ!」
ふいに引っ張られる感じがしたと思ったら、豆炭がアンコウの尻尾に飛びついてガジガジと齧っている。
「こら駄目!買ったばっかなのに!」
慌てて引き離しても、まだ前足でパンチを繰り返す。寛ちゃんは「嬉しがって出すからだよ。ちゃんとしまっとかないと」と呆れ顔だ。
「わかったよ」と、しぶしぶ立ち上がり、寝室に置いていたキャリーバッグにアンコウを避難させる。その間も、豆炭は足元を縫うようについてくるのだった。
「ねえ、私達が出かけてる間、どこにいたの?」
「ニャ」
「まさかずっと後つけてたりしないよね」
「ニャ」
全くもう。ふと顔を上げると、昨日の夜あの獣、ツゴモリが現れた姿見が目に入る。一瞬びくっとして、でもそこには自分と豆炭しか映っていないことに何だか落胆して、またリビングに戻る。寛ちゃんはすごく真剣な顔つきでパソコンに見入っていた。
「何か判った?」
「うーん」と唸って、寛ちゃんは首をぐるぐると回すと「この東京都人並区、ちょと怪しげな感じだな」と低い声で言ってから立ち上がった。
「何が怪しいの?」と、花奈子が画面を覗き込もうとするのを遮るように、腕を伸ばしてパソコンを閉じる。そしてキッチンに姿を消してしまった。
開けたい気持ちは山々だけれど、人のパソコンで勝手にそんな事をしてはいけないので、花奈子は仕方なく寛ちゃんが戻ってくるのを待った。ここで豆炭が代わりにやらかしてくれればいいんだけれど、関係ない、といった顔つきですましている。
「大事な時に役立たずなんだから」
「ニャ」
「ニャ、じゃニャイよ!ほら!」
抱き上げて、後ろから前足をつかまえて、パソコンを開けさせてみるんだけれど、爪すら出そうとしない。それでも何とか、丸っこい足の先を隙間にねじ込もうとしていると、「こらあ」という声が降ってきた。
「猫の手借りるのは反則だぞ。はい」と、寛ちゃんは麦茶の入ったグラスをテーブルに置く。自分はもう片方の手に持ったグラスから飲みながら、腰を下ろすと「とにかく、この事はもうちょっと俺が調べとくから。弁護士やってる友達に、こっち方面に詳しい奴がいるんだ」と言った。
「それより、今からこの、東京都人並区の事務所みたいなところに行っちゃ駄目なの?」
「たぶん門前払いだと思う。今時は個人情報保護だの何だのうるさいし。例えば家族とトラブルになってる、なんて話になってたら、孝之のこと知ってても知らないふりをされるかもしれない」
「でも、私が一人で行けば大丈夫かもしれないよ。子供なら怪しまれないじゃない」
「いつもは子供扱いするなって言うくせに、都合のいい時だけ子供かあ?」
「そういう意味の子供じゃないよ」
「子供に意味もへったくれもあるか。あとは大人の問題」
そう言って一方的に話を終わらせると、寛ちゃんは「晩ごはん、どうする?」と尋ねた。テレビの脇に置いてある時計を見ると、もう六時を回っている。
「なーんか、葛西さんがさ、帰り道で近くまで来てるから一緒にどう?なんて言ってきてるけど」
寛ちゃんは片手でスマホに触れながら、グラスの麦茶を飲み干した。
「スーパーで何か買って行って、私が作りましょうか?簡単なものしかできないけど、だって。簡単なものって、何だろうな」
「カレーとかじゃない?」と答えながら、花奈子は胸の奥がぎゅっとねじれるような感じをなだめていた。この調子なら寛ちゃんは、じゃあ、お任せします、なんて返事をするに違いない。確かに、そうすれば葛西さんも嫌いな動物園に行かずに済むし、花奈子も後ろめたさを感じずに済む。そのはずなんだけれど、ちゃんと葛西さんの顔を見て話をする自信がなかった。
「私、晩ごはんは友達と食べてくる」
「は?」
「だから、寛ちゃんは葛西さんとごはん食べればいいじゃない」
「いや、だって、友達なんて東京にいないだろ」
「いるよ。美蘭。高校生の、フィアット好きな」
「でも昨日、連絡しないって言ってなかった?」
「大丈夫。今から行って来る。もしかして遅くなるか、泊まってくるかも」
それだけ言うと、花奈子は傍においていたショルダーバッグをつかみ、マンションを飛び出していた。
14 一番したい事
長い夏の夕暮れもいつの間にか終わって、空は夜の色。窓からそっと離れて、花奈子は壁際に並んだ椅子の一つに腰を下ろし、携帯電話を取り出した。寛ちゃんからの着信履歴が三回、メールが二回。
いくら立ち読みしても大丈夫な本屋さんなんて、冗談かと思っていたのに、東京には本当にあるのだった。美蘭からここで待つように言われて、かれこれ2時間ちかく。さっきメールで「駐車場いっぱい!もう少し待ってね」と連絡してきたけれど、こんなに車が多そうな場所での運転、大丈夫なんだろうか。
漫画、動物、東京のガイドブックと手芸に画集と写真集。あれこれ立ち読みして、途中で喉が渇いたので外の自販機でジュースを飲んで、拓夢が好きそうな絵本を探して。でも、さすがにちょっと退屈してきた。辺りを見回すと、絵本のコーナーなのに、お客さんは大人ばっかり。まあ、時間も時間だし、当然かもしれない。
手にした絵本を膝に置いてめくりながら、美術部で文化祭に絵本を作ってみるのはどうかな、と考える。さすがにお話を作るのは難しいから、好きなのを選んで絵だけ描くとして、何がいいだろう。
「気に入ったのある?」
ふいに聞き覚えのある声がして、顔を上げると目の前に美蘭が立っていた。
「びっくりした!ていうか、そのドレスすごく似合ってる」
今までショートパンツとかジーンズ姿しか見たことがなかったのに、今日の美蘭は青い花をモチーフにした、鮮やかなプリントのサマードレスを着ている。胸元の大きくあいたフレンチスリーブで、白い肌が眩しいほどだ。首には銀のペンダントが光り、しなやかな手首には同じく銀色の、ブレスレットみたいに細い腕時計が輝いていた。足元はドレスに合わせた青いストラップが涼しげなサンダルだ。
「ありがと。長々とお待たせしてごめんね」
「ううん、私の方こそ、急に連絡したりして」
「それは全然大丈夫。さて、じゃあいったん戻るとしましょうか」
「え?戻るって?」
「おじさまのところ」
要するに、美蘭としてはまず寛ちゃんに会って、今夜花奈子と食事をして、自分のところに泊まらせる許可をとりたいらしい。
「家出みたいなことしちゃうと、大人って心配するじゃない?だからこそ礼儀正しくご挨拶したいのよ」
勢いよく飛び出してきたのに舞い戻るっていうのも、何だか格好がつかないなあと思いながら、花奈子は車の助手席に身を沈めていた。
「今日は亜蘭、一緒じゃないの?」
「そう。せいせいしてる」と言いながらも、美蘭はカーナビを見ながら運転するのは少し面倒みたいだ。何より、寛ちゃんが住むあたりの道ときたら、美蘭の車で走るには狭すぎる。ようやくマンションのそばにあるコインパーキングまでたどり着いて、そこから夜道を歩いてゆく。電話だけはしておいたから、寛ちゃんは家で待っている筈だけれど、怒ってるだろうか。そんな心配をしながらマンションの入口まで来ると、郵便受けの下に例の黒猫が尻尾をくるりと身体に巻きつけて座っていた。
「おーう、豆炭、久しぶり」
美蘭はドレスの裾も気にせず腰をかがめると、指先でその頭を軽く撫でた。
「やっぱりこれ、かどや旅館の豆炭だと思う?」
「うん」
「でも、なんで東京にいるのかな」
「遊びに来たかったんじゃない?」と、平然とした顔で言うと、美蘭は立ち上がり、足音もたてずに階段を上がってゆく。花奈子も何となくその言葉に納得して後に続いたけれど、その足元をかすめるように豆炭もついてくる。
「203号室だよ」と、声をかけなくてもわかっているみたいに、美蘭は寛ちゃんの部屋の前まで行くとインターホンを押した。
「おじさま、お久しぶりです。そのせつは花奈子ちゃんにすっかりお世話になりまして」と、美蘭は仕事モードの笑顔と声で挨拶した。寛ちゃんは何だかしどろもどろで「あっ、どうも、この前は」なんて、まるで大人の女の人としゃべってるみたいに落ち着きがない。その後ろでは葛西さんが、これまた呆気にとられた感じで二人を見比べていた。
「まあ、狭苦しいところだけど、ちょっと上がってお茶でもどうぞ」
「それには及びません。私、このまま花奈子ちゃんを家にお連れして、泊まっていただこうと思ってるんです。でも、おじさまもたぶんご心配でしょうから、どうでしょう、一緒に来ていただいて、どんなところかご覧いただくのは」
そう言って美蘭がにっこりしただけで、魔法にでもかかったみたいに寛ちゃんと、何故だか葛西さんまで、車に乗って彼女の家に行くことになってしまった。
大人っぽいとはいえ、美蘭はまだ高校生だし、寛ちゃんのとこと変わらない感じのマンションかと予想していたのに、それは大間違いだった。駐車場が地下、というのでまず驚いて、そこから直接エレベータで上がれる、というのにまたびっくりして、二十七階という高さに感心し、ドアから一歩中に入るとその広さに呆然とした。
「うわあ、なんか、ドラマに出てくる部屋みたい」
天井が広くて、照明は高級ホテルみたいに落ち着いている。テーブルやなんかの家具は、美蘭に似つかわしい、すっきりと無駄のないデザインのものばかりだ。そしてベランダに続くリビングの窓からは、息を呑むように美しい夜景が見渡せるのだった。
「あれ、スカイツリーだよね」と、葛西さんが呟き、寛ちゃんはただただ「いやあ、すっごいねえ」と唸っていた。そりゃたしかに、裏が墓地という自分の部屋に比べたら言葉も出ないだろう。
「大して広くもないですけど、お客様用の部屋もありますので、花奈子ちゃんに使っていただければ」
寛ちゃんは「あ、はあ」とか言っていたけれど、ようやく思い出したように「そういえば、弟さんがいたよね?彼もここに住んでるの?」と尋ねた。
「あの子はもう、売り払いました」
「えっ!」と、声を上げたのは花奈子だ。美蘭はちらっと目配せすると「というのは冗談ですけど、お互いもう十八ですし、別のところに住んでいるんです」と説明した。
「じゃあ、ここに一人なんだあ」
葛西さんはまだ信じられない、という感じで夜景に見とれている。
「よろしかったら、お食事召し上がって行かれますか?簡単なものでよければ作りますから」
「いやあ、とんでもない」と、寛ちゃんは即座に断り、花奈子に向かって「じゃあ、せっかくご招待いただいてるんだし、今回は特別に一晩だけ外泊許可するけど、失礼のないようにな」と念を押して帰っていった。美蘭はもちろん「車でお送りします」と申し出たけれど、寛ちゃんはこれもかたく辞退した。
「美蘭、ほんとにありがとう」
ようやく二人だけになって、花奈子はあらためてお礼を言った。美蘭もそれまでの営業モードから普段の自分に戻った感じで、軽く息を吐いて両腕を前に伸ばしてから「あれじゃ花奈子も大変だね」と言った。
「え?何が?」
「あの女の人よ、葛西さんだっけ。おじさまにターゲットロックオンしちゃって、ずっとくっついて来てるんでしょ?」
「まあ、たしかに、昨日から一緒だけど」
「わかるけどね。おじさま優良物件だし、花奈子とも仲良くなって、がっちり食い込むつもりでいるんだ」
「優良物件?寛ちゃんが?」
「高学歴で、いい所にお勤めで、三十代で、性格が良くて、悪い遊びもしないし、適度に鈍感。葛西さんは同僚でしょ?職場恋愛は初動の速さが基本だけど、ちょっとがっつき過ぎてバレバレかな。まあ、おじさまは気づいてないみたいよね」
「それって、葛西さんが寛ちゃんのこと好きって意味?」
「私の見立てだけど。だからってぐいぐい割り込んでこられても、花奈子が迷惑だよね」
驚いた。何も言っていないのに、美蘭はあっという間にこの二日間のもやもやした感じを整理してしまった。
「別に悪い人とかじゃないんだよ」
「悪気ないのが、一番たちが悪いの」と断言すると、美蘭はテーブルに置いていたバッグからスマートフォンを取りだし、ぶっきらぼうに「帰ってきていいよ。晩ごはん忘れないでね」と告げた。
エビチリソースと焼きビーフンと、麻婆茄子に春巻きに鳥の唐揚げ、セロリとイカの炒め物、それから杏仁豆腐。亜蘭が提げて来た袋から次々に取り出してテーブルに並べながら、美蘭は「近所だと、ここのが一番おいしいんだよね。出前やってくれれば言うことないんだけど」と言った。そして「早くお皿出して、飲み物準備して」と命令する。
「あ、私がやるから、どこにあるか言って」花奈子は慌てて立ち上がったけれど、美蘭は「お客様は座ってればいいの」としか言わない。代わりに亜蘭がキッチンから食器を運んでくる。
「お茶はジャスミンティーの温かいのいれてね」と、また命令して、美蘭は「先に食べよう」と割り箸を花奈子に手渡した。
「でも、買ってきてくれたの亜蘭だし、待っててあげようよ」
「甘やかさなくてもいいの」
「だって、急に私が来ることになって、お部屋の掃除したのも亜蘭なんでしょ?」
「まあ、かなりとっ散らかってたけど。でも私はおじさまにお目にかかるのに、ちゃんとしたドレスがないから買いに行くという、大事な用があったの」
「いつもの服で大丈夫なのに」
「それは私の勝手。素敵な殿方にお目にかかるのに、ジーンズなんてありえないし」
「寛ちゃんは殿方なんてのじゃないよ。ただのおじさん」
美蘭はそれには何も言わず、口元に笑みを浮かべてみせた。ようやく亜蘭がジャスミンティーの入ったポットを片手に戻ってきて、花奈子はあらためて「いただきます」と言った。
「でも亜蘭もやっぱりここに住んでたんだね。さっき売り払ったなんて言ったから、驚いたよ」
「まあ、人畜無害だけど、おじさまが心配なさらないようにね。でも、今日は食事の後片付けがすんだら出てってもらうから、安心して」
美蘭は平然とそう言って、セロリをシャキシャキと噛み砕いた。
「え?よそに泊まるってこと?」
「そう。だってむさ苦しいじゃない、乙女だけで過ごした方が空気も清らかだし」
「でもそれじゃ亜蘭に悪いよ。私が急に泊まりに来たからでしょ?」
別に同じ部屋に泊めてもらうわけじゃないし、これだけ広ければ亜蘭がいても平気だと思えた。
「僕は、構わないから」
今日はじめて、亜蘭の声を聞いたような気がした。花奈子が思わず「でも」と言うと、彼は「外で泊まるのなんてしょっちゅうだし、どこででも寝られるから」と続けた。
「この人ね、花奈子が想像してるのよりずっと下等生物だから。どっかに閉じ込められて三度三度同じ食事を出されても、監禁されてることに気づかないタイプよ」
さすがにそれは冗談だよね、と思いながら、花奈子は大きな海老を頬張った。本当に亜蘭って無口というか、彼の分のおしゃべりを、美蘭が全部奪い取って生まれてきた程に思える。それだけじゃない、笑ったり楽しんだりといった気持ちまで美蘭が担当して、まるで二人は日なたと日陰みたいだ。逆に彼が美蘭より多く持っているものって何だろう。
「花奈子、明日はどこ遊びに行こうか。新宿二丁目とか、変わったとこ行ってみる?」
「え?新宿二丁目?って何があるの?」
「いやまあ、それは冗談だけど、おじさまとは行かないような場所がいいかしらと思って。すっごく可愛い下着のお店だとか、コスプレでメイクから撮影までやってくれるスタジオとか。それとも、マイナス二十度の北極カフェなんかどう?爬虫類カフェもあるけど、あそこの白いニシキヘビ、冷たくて気持ちいいわよ。あと、オーラの色見てくれる人がいるけど、彼女シンガポールから帰ってるかな。代わりに手相みるのでも構わない?」
「ええと、どうかな」と、花奈子は何だか目が回るような気分で考えていた。ちょっと興味があったり、でも恥ずかしかったり、怖そうだったり、美蘭の住む世界はやっぱり自分の世界とずれていて、しかも奇妙に魅力的だ。
「でも…まだ拓夢のおみやげ買ってないんだった。東日テレビの夏フェスタでしか買えない、限定モデルのハイパーポリスFXっていう、戦隊ヒーローのミニカーを買いたいんだけど、なんか朝から並んで整理券貰わないといけないらしくて」
「はいはいはい、期間限定夏フェス商法って奴ね。でも大丈夫、亜蘭に行かせるから」
「えっ、なんで?!」
「だって花奈子は他にも行きたいところがあるし、亜蘭なんかどうせ暇だもん。いまの、メモったよね」と、美蘭が指を立てると、「東日テレビの夏フェスタで売ってる限定モデルのハイパーポリスFXミニカー」と即座に返ってきた。
「すごい、憶えてる」
亜蘭は二人の会話なんてまるで聞いてないという感じだったのに、答えは完璧だ。
「でもやっぱり、悪いよ」
「私がいいって言ったらいいの。で、どうする?別に国会議事堂でも構わないよ。寄生虫博物館もなかなかだし」
正直、考えれば考えるほど判らなくなる。美蘭とだったら、どこでも楽しいだろうし、結局いつもの花奈子のくせで、本当のところ自分が何をしたいんだか、よく判らないのだ。いっそ決めてもらった方が楽かもしれない。今、一番したいこと。東京でしか、できないこと。
「そうだ!」
自分でもびっくりするほど大きな声が出た。
「東京都人並区に行きたい。なんか、そんな名前のNPOっていう、団体みたいなところ」
美蘭は別に驚くでもなく、涼しい目で花奈子の方をまっすぐ見ると「わかった」と答えた。
「で、そこに行って何をするの?」
「お兄ちゃんが来てないか、きいてみるの」
本当にこれ、夢みたい。
両手で泡をすくって勢いよく吹いてみると、雪みたいに宙に舞った。甘いピーチの香りがする泡に首まで埋まったまま、花奈子はバスタブの中で足を思い切り伸ばした。
食事をすませて一息つくと、美蘭は「先にお風呂に入ってね。その間に亜蘭を追い出しとくから。すっごい泡の出る入浴剤があるの、面白いよ」と、準備を始めた。花奈子の家に比べると倍ほどの広さがあるバスルームは、正面に天井から床までの大きな窓があって、夜景を楽しめるようになっていた。
「明かりは消しとくのがお勧め。ちょっと宇宙船気分が味わえるから。私、このマンションなんか別にどうって事ないと思うけど、お風呂だけは好きなのよね」
その言葉通り、暗くしたバスルームで泡にもぐって煌めく夜景を眺めていると、地球を離れたどこか別の場所にいるような気分になる。少しぬるめのお湯は心地よくて、このまま眠ってしまいそう。でもまばたきするのさえ勿体ないほど外の景色は美しく、月見峠が六千円の夜景なら、ここにはどれ程の値段をつければいいのか見当もつかない。
これで流れ星が見えたりしたら最高なんだけど。でもそれは贅沢というもので、空は晴れているけれど、街が明るすぎて星はほとんど見えない。でも、半月よりもうすこし太った月が、あまり高くない場所に輝いていた。
まるであの、黒い獣の眼みたいだ。本当は漆黒の空に身を隠していて、月だと思わせるために片目を閉じて、こちらをじっと眺めているんじゃないだろうか。そう考えるとだんだん本当に思えてきて、花奈子は月をよく見るために身体の向きを変えた。静かなバスルームにちゃぷん、と水の波打つ音が響いて、その後に泡の弾ける囁きが続く。
あまりにも静か過ぎて、世界に自分一人しかいないような寂しさすら感じて、花奈子は大急ぎで地上の光に目をこらした。大丈夫、みんないる。車だって走ってるし、電車も動いてる。そう言い聞かせてまた空を見上げると、月は二つに増えていた。いや、そうじゃない。あれは、レモンイエローに光る一対の眼だ。
「ツゴモリ」
思わず名を呼ぶと、彼は空中から、そこに螺旋階段があるような弧を描いて一歩また一歩と降りてきた。そして窓ガラスを通り抜けると、花奈子の目の前の何もない空間を踏みしめて歩き、音もなくバスルームの床に降り立った。
「どうしたの?」
何故だか、前ほど怖くはなくて、花奈子は自分を見下ろしている黒い獣、ツゴモリにそう話しかけていた。
「どうもしない。お前が私のいることに気づいたのだ」
「じゃあ、ずっとあそこにいたって事?」
だったらお風呂に入るところから丸見えじゃん。そう思うと何だか腹立たしくなってくる。
「私はいつも存在するし、いつも真実を見ている。お前が服を着ているかどうかなど、意味のない話だ」
花奈子の考えなんかお見通し、といった感じで彼はそう答えると、何かを確かめるように太い首を廻らせた。
「いい匂いがするでしょ?入浴剤だよ」たぶんこの、ピーチの香りがどこからくるのか不思議なんだろうと思って、花奈子はそう説明した。ツゴモリは小さなくしゃみのような音をたてて鼻を鳴らすと、「これは作り物の匂いだ。お前は本当の桃の香りをよくは知らないだろう」と言った。
「本物の桃だって知ってるよ。あんまり食べないけど」
「お前の住まいからしばらく川を上ったところに、南向きの丘がある。今は皆が家を建てて暮らしているが、あそこには昔、桃の木がたくさん生えていた」
うちから見て川上にある丘っていえば、ちょうどキリちゃんの家のあたりだろうか。でもあそこはずっと前から住宅地のはずだ。
「春になると主人は私を伴って桃の林へ出かけ、咲きこぼれている花を手折ると髪に挿し、雲雀の声を追いかけてどこまでも歩いた。夏になり、桃の実が熟れるとそれを摘んで籠に盛り、父母に食べさせようと持ち帰った。両の腕で抱えてもまだ重いので、彼女は時折、籠を私の背にあずけた。桃の香りに誘われた蝶や蜂が私の周りを飛び回ると、彼女は声をあげて笑ったものだ」
いったい、いつの話をしているんだろう。もし美蘭の言う通り、ツゴモリが古墳に埋められていたとしたら、千年以上前のことだろうか。
「その、主人、って誰のこと?女の人なの?」
「そうだ。私は彼女が幼い頃から仕え、十五の年に身罷るとそれに殉じて地に眠った」
「みまかる、って?」
ツゴモリの銀色のヒゲがかすかに震えて「亡くなる、ということだ」と、答えがある。
「彼女は定められた相手の妻にならず、密かに心を通わせた男と結ばれた。そのため罰を受けて命を召されたのだ」
「それは、殺されたっていうこと?十五って私と同い年だけど、もう結婚したの?」
「別に早すぎるという年でもない」
「まあ、子供じゃないけど」
でもやっぱり早いよ、と思いながら、花奈子は泡の中で膝を抱えた。
「若い娘というものは臆病そうに振舞うが、そのくせ途方もなく向こう見ずだ。この館に住むあの娘にしても、まるで恐れを知らない」
ツゴモリは首を伸ばし、中の様子を窺うように耳を何度か動かした。
「美蘭なら、あっちにいるけど、今は会わない方がいいんじゃないかな」
実のところ今夜、花奈子は車の中で美蘭に「ね、約束していた事、わかったよ。名前はツゴモリだって」と教えていたのだ。約束は約束だし、それを隠して彼女に会うのはずるいと思ったから、正直に話した。でもツゴモリにしてみれば、それは迷惑な事なのかもしれない。いずれにせよ、二人が顔を合わせれば、美蘭がまた刃物を振り回すような気がして怖かった。
「あの娘に、用などない」
ツゴモリはまるで興味がなさそうにそう言うと、長い尻尾を左右に振った。花奈子はその、鞭のようにしなやかな動きを目で追いながら、美蘭の言った事を考えていた。
あいつには力がある。あいつは花奈子にだけ力を貸してくれる。
「ツゴモリ、お願いがあるんだけど」
バスタブの中で背筋を正し、思い切って尋ねてみる。
「何だ」
「もしあなたに特別な力があるなら、拓夢の、弟の病気を治してあげてほしいの」
いいだろう、その願いは聞き入れられた。
いつか耳にした、その答えを期待しながら、花奈子は泡の中で両手を握りしめていた。
「私はもちろん、お前の弟にとりついた病のことを知っている。だが、お前は病というものについてよくは知らない。一言で病と呼ぶにも、弱いものから強いものまで様々だ。人の命を揺るがすものもあれば、通り雨のように過ぎ去るものもある。およそ人間というものは病を忌み嫌うが、実のところ、病を得ることによってその強さを増す命があるということについては、考えが及ばないようだな。故に、病を得たものから徒にこれを取り去るという事が、却って命を細くするという結果にも思い至らない。お前の弟に関して言うなら、今はまだその時ではない」
その、とても長い答えが正確に何を意味するのか、花奈子には判らなかった。ただ、自分の願いが聞き入れられなかった事だけは、わかった。
「どうしても駄目なの?代わりに私が病気になるのは?」
「人にはそれぞれが負うべき病がある。お前は弟の病を引き受けることはできない。だがいいか、待つこともまた、病を退けるために必要なのだと知るがよい。大いなるものが動く時、人の目にはとりわけ緩やかに映るものだ」
それだけ言うと、ツゴモリは一歩前へと足を踏み出した。その前足は冷たいバスルームの床に音もなく沈み、続いて出されたもう片方の前足はもっと深く沈んだ。そうやって、彼の黒い大きな身体はバスルームの床に呑みこまれて消えてしまった。
一人取り残された花奈子は、急に冷めてしまった感じのするお湯に首までつかり、ツゴモリの言葉を考え続ける。待つことも必要、という事は、拓夢の病気はすぐではないにしても、いつか良くなるに違いない。だったらやっぱりお兄ちゃんに会って、病院の近くに引っ越すことを相談しなくては。
15 私が何を話しても
「おっそいなあ。いつまで待たせるのよ」
美蘭は細い銀色の腕時計をちらりと見て、軽く溜息をついた。もうかれこれ三十分近く、公園にある木陰のベンチに座って亜蘭を待っているのだけれど、道が混んでる、というメッセージが来ただけで、あとは沈黙。
「別に亜蘭に来てもらわなくていいと思うんだけど。私たちだけじゃ駄目なの?」
「あれはあれで、使い道があんのよ」
せっかく「東京都人並区」の事務所のすぐそばまで来ているのに、美蘭はずっと動こうとしない。まだ十時にもなっていないのに日差しはきつくて、頭の上からは工場の機械みたいに、止むことのない蝉の鳴き声が降ってくる。
「その腕時計、ブレスレットみたいで素敵ね」
少し話題を変えようかと思って、花奈子はそう話しかけた。今日の美蘭はまたいつものようにTシャツにジーンズだけれど、そこだけ昨日のまま、優雅な雰囲気だったのだ。
「ん?ああ、こんなのしてくるんじゃなかった」と、美蘭は急いでその細い銀色の腕時計を外すとショルダーバッグの中に入れた。
「どうしたの?」
「だってダイヤ使ってる時計なんかしてたら、話に信憑性出ないし」
「ダイヤ?ちょっと見せてもらっていい?」
「気に入ったのならあげるよ。昨日、ドレスに合わせて買っただけだし」と、美蘭は腕時計を取り出すと花奈子の掌に落とした。言われてみれば、文字盤の十二時と六時のところにきらきらと輝いているものがある。昨日は夜だったからよく判らなかったけれど、高いのに違いない。寛ちゃんや葛西さんは気づいていただろうか。
「これ、いくらぐらいしたの?」
「案外安いの。百万と…」美蘭が言い終わらないうちに、花奈子は「わっ!」と叫んで腕時計を彼女の手に押し戻していた。
「ごめんなさい、そんなに高いなんて思わなかった。ちゃんとしまっておいて」
「だから高くないっていうの。いらない?」
黙って首を振る花奈子を面白そうに見ながら、美蘭は腕時計を無造作にバッグに戻す。そしてぼんやりした声で「なんかもうお腹すいて来たんだよね」と言うけれど、花奈子にはまだ満腹感が残っていた。
美蘭が用意してくれた朝ご飯は、シリアルに牛乳をかけたものだった。といっても花奈子がよく食べるコーンフレークスみたいに軽いのじゃなくて、胡桃やアーモンドといったナッツや、麦みたいな粒粒が何種類も混ざったもので、すごく噛みごたえがあって、大げさに言うと、食べているうちに顎が疲れてくるほどだった。
「一時期、夏休みになるとスイスのサマーキャンプにぶち込まれててさ。大して面白くもなかったけど、朝ご飯だけはおいしかったのよね。だから今もこれ食べてるの」
そして彼女は冷蔵庫から冷凍のブルーベリーをどっさり出してくると、シリアルのボウルに惜しげもなく放り込んだ。
「これ入れると牛乳が青くなって、不気味な感じがいいのよね」
確かに色は少し違和感があったけれど、冷たさを増した牛乳は眠気の残った頭をしゃきっとさせてくれた。昨日はお風呂から出て、いつの間に眠ったのか、気がつくともう朝になっていて、美蘭と一緒に調べるつもりだった「東京都人並区」の事務所の地図なんかは、ちゃんとプリントアウトされていたのだ。
「まったく、どんだけ待ったと思ってんのよ」
美蘭の声に顔を上げると、ちょうど公園のそばに停まったシルバーのBMWから、亜蘭が降りてきたところだった。ハンドルを握っているのは女の人で、年はお父さんぐらいだろうか。わざわざ窓を開けて笑顔で手を振っているのに、亜蘭はちょっと振り向いただけで、まっすぐ花奈子たちのところへ来た。
「ごめん。道が混んでて」
「だから何よ」と、つっけんどんに言うと、美蘭は「あれ、ちゃんと手に入れたの?」と尋ねた。「うん」という返事とともに、亜蘭はたすき掛けにしていたバッグをがさごそやって、青い袋を花奈子に差し出した。
「え?何これ」
「ハイパーポリスFX」
言われて中を確かめると、それは拓夢が欲しがっていた、限定バージョンのミニカーだった。
「あ、ありがとう。でも、夏フェスって九時からでしょう?一番で並んだの?」
「そんな面倒くさいこと、するわけないわよ」と、美蘭が割って入る。
「さっきのマダムね、東日テレビのプロデューサー夫人なの。陰で女帝って呼ばれるほど、旦那の職場にしゃしゃり出るのがお好きな方だから、旦那の部下も顎で使っちゃうのよねえ。可愛い亜蘭ちゃんがおねだりすれば、尚のこと」
「つまり、どういう事?」ときいても、美蘭は眉を上げてみせるだけで何も言わない。とにかくミニカーのお金を払おうと財布を出すと、亜蘭が「もらったんだから、お金はいらないよ」と言った。
「さ、死ぬほど待ったし、行くとするかな」
何が何だかよく判らない花奈子の事は気にもかけずに、美蘭は立ち上がって歩き始めた。
昔やっていたお弁当屋さんの名前がうっすら透けて見える白い看板に、「東京都人並区」という赤い文字が並んでいる。建物は二階建てで、一階の正面は全部ガラスの引き戸になっていたけれど、イベントやボランティア募集のポスターやなんかが貼りまくられていて、中の様子はほとんど見えない。
「入口」と書かれた引き戸の真ん前に停められた自転車に向かって、「ほら、亜蘭みたいに考えなしの奴が他にもいるよ」と悪態をつきながら、美蘭は前に進んだ。そしてちらっと振り向くと「花奈子、ここで私が何を話しても、えっ?とか、本当に?とか言っちゃ駄目だよ」と念を押した。
「わかった」と返事はしたものの、花奈子には自信がなかった。こうしてようやく「東京都人並区」の事務所まで来たというのに、なんだか怖いような、回れ右して帰りたいような気持がこみあげて、足が震えそうになってくる。
駄目だ、しっかりしなきゃ。自分にそう言い聞かせて、花奈子は美蘭の後に続いて事務所に入った。
「あーのお、ちょっと、相談したい事があって来たんだけど」
正面のカウンターからぐいっと身を乗り出して、美蘭は中にいる人に声をかけた。奥には事務机が四つほど並んでいて、その上にはファイルやノートパソコンが置かれている。壁際には予定を書き込んだホワイトボードがあったり、ロッカーがあったり、職員室に似た感じだった。スタッフらしい人は五、六人いて、そのうちの一人、大学生みたいな女の人が「はあい」と返事をしてこちらに来た。
「相談の予約はされてますか?」
肩にかかる髪をかき上げながら、彼女はカウンターに立ててあったクリップボードを手に取って何か確かめている。
「予約っているの?マジよく判んなくて、とりあえず来てみたって感じなんだけど」
普段とはちょっと違う口調で、美蘭は首をかしげた。後ろでは亜蘭が黙ってそれを見ている。
「ええと、だったら別に構いませんけど、どういった相談ですか?」
女の人は笑顔を浮かべたままでそう尋ねた。
「うん、お兄ちゃんにマジ連絡とりたくて。ここに来てるはずだから。なんかここで仕事の相談するって出てったきりだし。でもそれからちょっとして、お母さんも出てって。あ、うち、前からマジ母子家庭だし。それで、お母さんが置いてったお金なんかマジですぐなくなって、うちらの貯めてたお年玉とか全部使っちゃって、でも弟とかマジすっごい食べるし、家賃も電気代も払えないし」
まさかの作り話を美蘭が続けるうちに、花奈子の口はぽかーんと開いていって、女の人の笑顔はそのまま固まってしまった。
「ちょっと、二階でお話ししましょうか」
そう言われて案内された二階は、三つの個室と、本棚やベンチを置いた図書室っぽいスペースに区切られていた。ここにも一階と同じ位の人がいて、本を読んだり、笑いながら何かおしゃべりしたりしていた。一番手前の、どうやら一番狭そうな個室に三人を通すと、女の人はいったん事務所に降りていった。
「美蘭、これどういう事?」
折り畳みのテーブルをはさんで置かれた二対のパイプ椅子に彼女と並んで座るなり、花奈子は小声で尋ねた。
「まあ、作戦みたいなもの。私たち、花奈子の兄さんも含めて四人きょうだいだから」
「そんな…」無理。だって美蘭や亜蘭と花奈子じゃ見た目に違いがあり過ぎる。でも反論する前にさっきの女の人が戻ってきたので、黙るしかなかった。
「お兄さんのお名前は?」
「山辺孝之。もしかしたら別の名前使ってるかも。マジ借金取り来るから」
「お兄さんに借金があるって事?」
「そう。生活費だけど、お母さんブラックリストでマジ借りれないから、お兄ちゃんが借りてたし」
「あなたたちはいくつなの?学校は?」
「あたしが十七で、高校は辞めてる。弟は高一で半分プー、妹が中三で、この子だけちゃんと学校行ってる」
「それで、お金の事でお兄さんと連絡をとりたいのかしら」
「そう。あとちょっと他の話もあって、急がないとヤバいから」
「他の話って?」
「うん、マジお金なくて困ったから、あたしが風俗で働くことにしたんだけど、なんか本番なしとかいうのマジ全然嘘で、しかも強引な客に無理やり中で出されて、いきなり妊娠しちゃって、マジ堕ろすしかないし」
「えっ、ああ、それは、それは大変ね」
女の人は平静を保とうとしていたけれど、額に汗が浮かんでいた。しかしそれを見ている花奈子も心臓がドキドキして、胃のあたりがおかしくなってきた。
「早くしないとマジ堕ろせなくなるし、病院行ってる間はお金稼げないし。弟ちょっとアタマ弱いから、お腹すくとマジ暴れるし。仕方ないしお店の人に借金申し込んだら、あたしが休んでる間は妹が来ればいいって。でもこの子まだ男とやった事ないから、マジ無理かもしんないし」
「ち、ちょっと、お手洗い」
花奈子はやっとの思いで立ち上がると、どうにかしてこの場から脱出しようとドアに向う。なのに足がもつれていきなり前につんのめってしまった。
「まあ、大丈夫?」女の人は急いで助け起こしてくれたけれど、美蘭は椅子にふんぞり返ったまま「貧血かな。あたしと妹はおとといから何も食べてないし」と言っただけだった。
そうか、これはお芝居なんだ。ここで変なことになったら、それこそ全て無駄になる。花奈子はやっとの思いで起き上がると、振り向いて「お姉ちゃん、本当にお金残ってないの?」と言った。
「あるわけねーじゃん。外で自動販売機の下でも見てくれば?」
「わかったよ」
できるだけ不満そうに言うと、花奈子はドアを開けた。すると後ろから「俺もいく。こんなとこウザいし」という声がして、亜蘭がついてきた。
手摺をつかみ、そろそろと階段を降り始めると、背中から亜蘭が「大丈夫?」と声をかけてくる。
「近くにコーヒーショップがあったから、そこ行って休もうか」
「大丈夫。公園に行くから」
さっきまでいたベンチにまた腰を下ろすと、花奈子は大きく息をした。頭では判っているのだ。美蘭はお兄ちゃんの事を聞き出すために、わざと大げさな話をしている。でも彼女が口にすると、嘘でも本当のように聞こえ始めて、何が現実か判らなくなってしまう。
「これ」
いつの間に買ってきたのか、亜蘭はスポーツドリンクのペットボトルを差し出した。
「こんなの飲んでたら、嘘つきってばれるじゃない」
「販売機の下に五百円落ちてたんだよ」
普通の顔してそう答える亜蘭に、花奈子はつい笑ってしまった。じゃあいいか、と思い直し、「ありがとう」と、飲む。
「ごめんね」と、亜蘭は立ったまま、俯き加減にそう言った。
「え?何が?」
「美蘭って、ああいう話はじめると半端なく強烈だし」
「大丈夫だよ。私のためにやってくれてるって、判ってるから」
亜蘭は少しだけほっとしたような顔になった。
「僕ら、母親にほったらかしにされてたから、小さい頃から大人相手に色んな嘘ついて何とかやってきたんだ。といっても、美蘭が一人で頑張ったんだけど。そのせいかな、とんでもない嘘でも平気でつくようになっちゃった」
「お母さん、病気なの?」
「別に、元気だよ。ただ、自分の子供は邪魔だし、興味もない。もしかしたら、産んだのも憶えてないかも。友達の子供にはすっごいクリスマスプレゼントとか贈るのにね」
まさか、と言いたかったけれど、亜蘭の諦めたような顔を見ていると言葉が出てこなかった。お母さんは自分の子供が命と同じくらい大切。幸江ママと拓夢を見て、当然だと思っていた事が、美蘭と亜蘭にとってはそうじゃないのだ。花奈子の本当のお母さんはもういないけれど、生きていて、しかも興味を持ってもらえないとしたら、それはお母さんがいないよりもっと寂しい事かもしれない。
「ねえ、さっきのミニカー、本当に貰ったの?」
もうお母さんの話はよそうと思って、花奈子はそう尋ねてみた。
「そう。美蘭が言ってただろ?あの女の人、テレビ局の偉い人の奥さんだから」
「色んな人、知ってるのね」
「まあね。美蘭だったら、あんなの百台ぐらい巻き上げてくるんだけど。僕はあれが精一杯かな」
「一台あれば十分だよ」
「でも百台あれば、残りの九十九台は売れるだろ?」
さすが毎日美蘭と一緒にいるだけの事はある。亜蘭も案外しっかりしてるなあ、と花奈子は感心して、もう少し色々きいてみたい気持ちになった。
「昨日はどこに泊まってたの?お友達の家?」
「え?だからあの、女の人のところ」
「そうなの?ええと、いきなり行って、家の人とか大丈夫だったの?」
「だってあそこの旦那さん、仕事でほとんど家にいないし、娘さんはピアニスト目指してドイツで勉強してるし。彼女はすごく退屈してるから、いつ泊まりに行っても大歓迎なんだ」
「へえ、すごいね。どうやって友達になったの?」
「飼い猫。三日ほど迷子になってたの探して。僕としてはそれで任務完了だったんだけど、美蘭がキープしとけって言うから」
「キープ?」
「要するに、ちょくちょく連絡とっておけば、何かと便利な人ってこと。だからまあ、友達ではないよね。それ、もらっていい?」
亜蘭は花奈子が手にしていたペットボトルを指さした。
「ごめん、私ひとりでいっぱい飲んじゃった」
「それは別にいいんだけど」と、亜蘭は花奈子の差し出したボトルを受け取った。そこへ「おうおうおう、何いい感じでまったり寛いでんのよ」と唸りながら美蘭が近づいてきた。彼女はいきなり亜蘭の手からスポーツドリンクを奪い取ると、天を仰いで一気飲みした。
「美蘭、ごめんね。逃げ出しちゃって」
花奈子は慌てて立ち上がると謝ったけれど、彼女はにこりと笑って「結構うまくやれてたじゃない。この後もその調子でね」と言った。
「この後って?」
「あそこ、パーティションが薄っぺらだから話が筒抜けなのよね。でもおかげでさ、お兄さんを知ってるって人がこっそり声かけてくれて」
美蘭が一体あの後どんな話をしたのか、ちょっと想像するのが怖いけれど、とにかく効果はあったみたいだ。
「なんかお兄さんは今、よそにある研修所みたいなとこいるらしいって。ちょうどそこにボランティアに行く人に欠員が出たから、一緒に車に乗せてもらえる事になったわ」
「本当?いつ行くの?」
「すぐだよ、すぐ。あの車」
そう言って美蘭が指さした先の角から、白いワンボックスカーがゆっくりと出てきて事務所の前に停まった。
「さ、行くよ」
身を翻して足早に歩きだす美蘭の後を追って駆け出しながら花奈子は、一応おとといから何も食べてない設定だし、よろめいたりした方がいいかな?なんて考えていた。車の傍には小柄な女の人が立って、手招きしている。
「あーら、弟さんも背が高いのね。ちょっと窮屈かもしれないけど我慢してね」
年は葛西さんぐらいだろうか。ふっくらした丸顔に大きな前歯が、なんだかリスを思い出させる。車には他にも人が乗っていて、花奈子たちは一番後ろに三人並んで座ることになりそうだった。美蘭が真ん中に座ってくれるといいな、と思いながら順番を待っていると、遠くから聞き覚えのある声が聞こえた。
「花奈子!何してんだ!」
はっとしてそちらを向くと、すごい勢いで走ってくる人がいる。
「寛ちゃ…」と言いかけた花奈子を突き飛ばすようにして、美蘭が後ろから「ダラダラしてんじゃねーよ!」と押し込んでくる。その間にも寛ちゃんは聞いたこともない大声で「花奈子!」と叫びながら突進してくる。
「マジヤバい!あれ、借金とりだから。うちらのことつけてたんだよ。速攻発車しちゃって」
美蘭は勢いよくドアを閉めるなり、身を乗り出して運転席の男の人に命令している。後ろのシートにもぐりこんだ花奈子は、怖くて窓の外を見る勇気がなかった。寛ちゃん、今晩帰ったらすごく怒るだろうな。でももうどうしようもない。今はとにかく、お兄ちゃんを見つけるのが先だ。
16 そっちの入り口
「山辺さん、きょうだいがいるとは聞いてたけど、みんなで四人とはね。驚いちゃった」
「東京都人並区」の事務所で美蘭に声をかけてくれた女の人は、ワンボックスカーの一つ前の席に座り、まじまじと花奈子たちを見比べた。本当は、全然似てないわね、とか思っているんだろうけど、そういう態度は出さずにいる。
「そういえば、まだ自己紹介してなかったわね。私、新田純子です。あなたが美蘭さんで…」
「こいつが亜蘭で、こっちが花奈子」
美蘭は一番後ろのシートの真ん中で足を組み、おまけに腕も組んで一人半のスペースを確保している。亜蘭はその隣で窮屈そうに寝る体勢に入っていて、花奈子は隅っこに小さくなり、事の成り行きを見守っていた。
「うちらマジあんまり似てないし。お母さんは一人だけどお父さん三人だから。あたしと亜蘭だけ同じ父親で、あとバラバラ。お母さん、マジ誰とも結婚してない。全員に逃げられたからね」
「そうなの?山辺さん、あんまりお家の話はしなかったから、全然知らなかった」
「マジ自慢できる話じゃないし」
いつの間にか車は高速道路に入ったみたいで、停まることなく走り続けている。運転席と助手席はどちらも若い男の人で、途切れ途切れに何か話しているけれど、こちらを気にしているようにも見える。そして運転席の後ろにはお父さんぐらいのおじさんが座っていて、こちらは車が出てすぐに眠ってしまった。その後ろで半分こちらを向いているのが新田さんだ。
「じゃあ、おうちでは山辺さんがお父さんの役目をしてたのかしら。あの人、すごく優しいし、頭もいいしね。美蘭さんたちにも頼れるお兄さんだったんでしょ?」
「まあね、お母さんよりは」
お兄ちゃんのことを知らない美蘭が、お兄ちゃんの話をしている。それは何だか不思議な感じだった。そして、頭がいい、はともかくとして、すごく優しい、という新田さんの言葉はまるで別人の事のように思えた。
まあ確かに、花奈子はお兄ちゃんとまともな喧嘩をしたことがない。それはしかし、優しいという事とも少し違っていて、正直なところ、避けているのに近かったような気がする。六つも離れているんだから仕方ない、と言えばそれまでだけれど、花奈子が小学校に上がった頃には、お兄ちゃんは塾やなんかで毎日忙しかった。ゲームをして遊ぼうといえば、三十分ぐらいはつきあってくれるけれど、あとは「勉強」といって、自分の部屋に引き上げてしまうのだった。
花奈子にとって拓夢がとても大切なのに比べて、お兄ちゃんにとって花奈子は、別にどうだっていい存在なのかもしれない。そうでなければ、もっとお互いの事を色々と判っているはずだ。今日これから、もしお兄ちゃんに会えたとして、花奈子だと判ってもらえるだろうか。もう忘れてしまったんじゃないだろうか。
「そいで、お兄ちゃんまだ仕事見つかってないわけ?研修って、マジお金もらえるの?」
美蘭は足を組み換えながらそう尋ねた。新田さんは少し困ったような顔になって、「研修って、何ていうか、心の土台作りみたいなものでね、まだ働いていないと思うわ」と言った。
「マジ?まだ金稼いでないの?そいじゃここにきた意味ないし」
「でもね、お兄さん、私が最初に会った時は、随分疲れてたのよ。弱っていたって言うか。ここを頼って来る人って、けっこうそういう状態の人が多いの。無理して悪い条件で働き続けたり、ちゃんとした食事してなかったり、家がなくてあちこち泊まり歩いてたり。まあ、私も似たようなものだったけど」
「働き過ぎって感じ?」
「そうね。私の場合は、前に勤めてた会社の、上司のパワハラが凄くて」
「それ何?」
「ん、正しくはパワーハラスメントって言うんだけど、要するに、強い立場の人がその権力を使って弱い立場の人に嫌がらせをする事よ。学校でいえば先生と生徒とか、先輩と後輩みたいな関係ね。私は毎日のように馬鹿呼ばわりされて、お前みたいな無能者見たことない、給料泥棒、なんて怒鳴られてたの。おまけにサービス残業ばっかり。それでも正社員で雇ってもらえるのはまだマシな方だと自分に言い聞かせて我慢してたんだけど、お婆ちゃんが亡くなって、お葬式のために休んで三日ほど帰省したら、なんだか目が醒めたみたいになったの。私どうしてあんなひどい生活を耐えてるんだろう、人生一度きりなのにって」
「へーえ」
「それで、ここに相談して、結局仕事は辞めたんだけど、もう心も身体もボロボロになってて、髪の毛もごっそり抜けちゃって、なのに今の倍ほど太ってたの。顔も吹き出物だらけだったし。体調が戻るのに半年以上かかったわ。その間に研修をうけて、何ていうのかな、そういう、パワハラに服従しちゃう自分の性格なんかも見直したりしてね。色々問題ある人って、そうやって立て直してから社会復帰しないと、また同じような事になる可能性が大きいから」
「でも、お兄ちゃんは家じゃ仕事の話とかしてないし、マジどんなだったか知らない。てか、マジ死んだみたいにいっつも寝てたし」
「そうよね。変なところで働くと、仕事以外に使えるエネルギーなんか残らなくなっちゃうのよ。東京都人並区って、奇妙な名前だと思うでしょ?これはせめて人並みの生活を取り戻したいっていうみんなの願いなのよ。だから今、大阪とか名古屋でも人並区を作る準備をしていて、将来的には全国的な組織にする計画なのよ」
熱っぽく語る新田さんとは対照的に、美蘭は「はーん」と、気の抜けた返事をした。
「んで、新田さんは今、仕事してんの?」
「パートしながら正社員の仕事を探してる。あとはここのボランティア。でもはっきりいって生活は苦しいよ。ここで知り合った人とルームシェアして、何とかやりくりしてる」
花奈子はじっと黙って二人の会話を聞いていた。お兄ちゃん、家で引きこもってただけで、新田さんみたいに一生懸命働いてたわけでもないのに、どうしてそんなに疲れきってたんだろう。何がそんなに苦しかったんだろう。
「おめー、車酔いかよ」
いきなり、美蘭の肘が脇腹にくいこんできた。顔を上げると彼女の視線にぶつかる。それは「大丈夫?」という目だった。
「そんなのするわけないし」
ぐいぐい押し返す感じで身体を立て直す。そう、しっかりしなきゃ。新田さんはもう不自然な姿勢をやめて、こちらに背中を向けている。もしもこの後、お兄ちゃんに会えたら、最初に何と言えばいいんだろう。そう思いながら花奈子はぼんやりと前を見つめた。フロントガラスの向こうには、真っ青な空とがらがらの道路が続いている。何だか夢の中みたいな光景。先を行く車は随分と離れていたけれど、それはどことなく自動車ではないように見えた。
あれ、何だろう。
軽自動車に比べると幅が狭いし、バイクにしては大きすぎる、黒い塊。それは道路のど真ん中に動かず、じっと留まっているのだった。なのに、運転席の男の人は全く気にしていない様子で車を走らせ続ける。その奇妙な物体が、あっという間にフロントガラスの前に迫り、レモンイエローの一対の眼がこちらを見た瞬間、花奈子は悲鳴を上げていた。
「ぶつかる!」
そう叫んだつもりだったのに、気がつくと美蘭の掌が口を塞いでいる。ツゴモリの黒い大きな身体は、フロントガラスや運転席を一気に突き抜けて車の中に現れた。花奈子を抱え込むようにしている美蘭を更に押し潰すように、頑丈な顎がのしかかっている。さっきまで窓にもたれて眠っているように見えた亜蘭は、身体を傾けたまま、目だけはちゃんと開いてこっちを見ていた。なのに他の人たちは誰も、ツゴモリに気づいた様子がない。
「おひさしぶり」
目の前に鋭い牙が並んでいるというのに、美蘭は怯むことなく、笑顔で囁くようにツゴモリに挨拶した。彼はそれを無視して花奈子を睨むと、「お前は自分がこれからどこへ行くか、判っているのか」と言った。まだ美蘭が口を塞いでいるので、花奈子は小さくうなずくしかなかった。
「このまま行けば、お前は兄の消息を知ることができる。ただし、知りたくない事をも知るだろう。そして今までの自分でいることは、もはや叶わなくなる。引き返すなら今だ」
知りたくない事。
それは、どういう事だろう。ふと、口を押えている美蘭の手が緩んで、彼女と目が合った。もし美蘭なら、ここで迷ったり不安になったりしないだろう。今、何より大事なのはお兄ちゃんに会う事だ。今までの自分でいられなくなると言っても、それはつまり、万物は流転す、っていう事で、当然の結果じゃないだろうか。
「このまま行く」
花奈子が少しかすれた声でそう答えると、ツゴモリは首を引いて身体を起こした。その頭は車の天井につかえそうだ。よく見ると片方の前足は美蘭の肩を押えつけていて、彼女の白い首筋がツゴモリの身体を流れる黒い模様の中に透けて見えた。
「いいだろう。では行け」
それだけ言うと、彼はいきなり消滅した。
今のは一体何?そう尋ねようとする花奈子に軽く目配せをして、美蘭は後ろを指さした。慌てて身体をよじり、窓から外を覗くと、遠ざかる道路の上にツゴモリが立っていた。真夏の太陽の下、彼の身体だけが切り抜かれたように真っ黒く浮き上がっている。その姿はやがて、車がカーブを切るにつれて見えなくなった。
「今のは何?どうしてみんな平気なの?」
花奈子ができるだけ小さな声できくと、美蘭は「見えてないんだよ」と答えた。
「あれが?見えなかったの?どうして?」
「見ようとしないから」
そして美蘭はツゴモリが押さえつけていた肩と首筋を指先で撫でると、「気持ちいいんだ、ひんやりして」と笑った。そして自分の笑い声に、しまった、という顔になって「おめーが寝ぼけてるだけだろ」と、また花奈子の脇腹を肘で押した。
研修所、というのは、とりたてて何ということもない、横に広がった三階建てのビルで、花奈子の街のすこやか健康センターを一回り小さくしたような感じだった。周りは住宅地で、前の道路にはバスも走っている。建物の裏手に広い駐車場があって、屋根つきの駐輪場には自転車や原付が何台も停まっている。
車を降りて表に回り、自動ドアの玄関を入ると、右手にはカウンターのついた小さな部屋があり、中で誰かが電話をしている声が聞こえた。
「マジこっちの方が、あそこより立派だし」と、美蘭が率直な感想を述べると、新田さんは笑って答えた。
「まあ、この規模の建物が街なかにあれば言うことないんだけど。ここね、経営破綻した信金の保養所だったの。競売にかけられたのを、うちの幹部の家族が買って寄贈してくれたんだって」
「は?寄贈?人並区って、マジ大金持ちがヒマつぶしでやってんの?」
「そういうわけじゃなくて、まあ善意の寄付よね。おかげさまで、住む場所がない人とかの一時避難先になってるし、私も一ヶ月だけお世話になったことあるのよ」
「ふーん。で?お兄ちゃんはどこにいるわけ?いつ会える?」
美蘭がそう訊ねると、新田さんは少し困ったような顔になった。
「今日はあなたたち、欠員の出たボランティアの代わりってことにしてあるから、とりあえず作業をしてほしいの。研修中の人は自由に外の人と会えない決まりになってるから」
「嘘、マジで金もらわずに働けっつうの?」
「そんなに大変な仕事じゃないわ。午後から始まるイベントの準備よ。ほら、そこに出てるでしょう?」
そう言って彼女が指さした先の掲示板には、「つながるサマーナイト 語り合おうみんなの明日」と書かれたポスターが貼られていた。
「他のNPOとの交流とか、弁護士やライターを招いたパネルディスカッションとか、夜までやるの。近所が住宅地だから、賑やかにやれないのが残念だけど。昨日は都内で前夜祭的なデモがあったのよ」
じゃあ多分、花奈子がバスから見たのはそのデモ行進だったのだ。もう少しよく話を聞くために美蘭のそばに行こうとすると、廊下を曲がってきた男の人が「新田さん、第二集会室が担当だから、昼前に終わらせてね」と声をかけて通り過ぎた。
「ほら、ちゃんと二人分働けよ。あたし悪阻で気分悪いから。妊婦ってマジ大変」
美蘭は長椅子の上に横たわり、肘枕をついて指図している。言われた亜蘭は黙々と、新田さんがホワイトボードに貼っていった図面通りに折り畳み椅子を並べていた。花奈子もそれを手伝っていたけれど、一応おとといから何も食べていない設定なので、そんなに張り切るわけにもいかない。車を運転していた男の人と、助手席の人は他の仕事があるみたいで、さっき居眠りしていたおじさんだけが、一緒に椅子を並べている。
どうやら他にも準備に来ている人はいるらしくて、ひっきりなしに廊下を誰かが通り過ぎるし、スピーカーで「会議室の最終チェックお願いします」という連絡が流れたりする。
そんな作業もあと二列で終わりだ、というところで新田さんが戻って来て、「お昼休みにしましょう。これ、お弁当とお茶」と、白いポリバッグを置いていった。
「うっわ、マジ一番安い海苔弁だよ。不動産買う金あるのに、マジ食費はケチってるし」
美蘭はまっさきにお弁当の蓋を開けてそう叫んだ。亜蘭は「悪阻で気分悪いのに食うのかよ」と突っ込んだけれど、「ばーか、あたしのは食べ悪阻っつって、食わないとマジ気持ち悪いんだよ」とやり返されている。本当のところ、悪阻ってどんなのかな、と思いながら、花奈子は海苔弁当を食べたけれど、喉のあたりがつかえて進まない。何だかこうしてはいられないような、落ち着かない気分がして、食事なんかどうでもいいというのが本音だった。
もう食べられないや。
三日前から絶食中という設定のお芝居とはうらはらに、花奈子はこっそりお弁当に蓋をしてしまった。ところが美蘭は目ざとくそれを見つけて「おめー半分しか食わないのかよ」と不満顔だ。
「なんか、もういらないし」
「あれだな、ロクに飯食ってないから、マジ胃袋縮んだんだな。よかったじゃん。これからおめーの食費、マジ半分で済むわ」
「つうか、だったら俺が食うし」
亜蘭が花奈子の手からお弁当を奪い取ると、すかさず美蘭が「馬鹿、あたしに半分よこせ」とひったくる。おじさんはその間も黙って食事を続けていた。この人がいるおかげで、花奈子たちはずっと貧乏きょうだいのお芝居を続けなくてはならないのだ。でも正直いって、こういうのも意外と楽しかったりする。本当に美蘭がお姉さんで、毎日賑やかにご飯を食べられたらいいのに。
「あのさ、余計なお世話かもしれないけど」
いきなり、背中を丸めてお弁当を食べていたおじさんが、ぼそっと言った。
「妊婦さんは、カフェインとらない方がいいと思うよ」
ちょうど緑茶のペットボトルをごくごく飲んでいた美蘭は、うさんくさそうに「はあ?」と聞き返す。
「緑茶とかコーヒーとかって、カフェインが入ってるだろ?そういうの、お腹の赤ちゃんによくないんだよ」
「うるさいな、おっさん保健所の回し者かよ。あたしはマジこいつ産まないから、カフェインでもヘロインでも気にならないし」
「うん、それはそれで君の自由だけど、後で気が変わって、やっぱり産みたいってなった時に困るかと思って」
おじさんは何だか奇妙に真剣だった。でもそれは少しも美蘭に伝わってないみたいで、彼女は「マジ変わるわけないし。金でも貰えるなら別だけど」と、また緑茶をがぶ飲みした。
「貰えるかもしれないよ」
空になったお弁当箱をポリ袋に入れながら、おじさんは低い声でそう言った。
「何?金?子供産んだら?児童手当?」
「君はそのお金のことが聞きたくて、人並区に相談に来たんじゃないのか?」
美蘭が返事をする前に一瞬の間があって、彼女の眼が光ったように見えた。
「さあね。とにかくお兄ちゃんは、ここに来れば貧乏人はマジ助けてもらえるって言ってたけど。それがつまり金がもらえるって話?」
「残念だけど、何もせずにいきなりお金なんか貰えない」
「だろ?マジ無駄な期待させんなっていうの」
「ただし、君がもしその子を産めば、まとまったお金が貰えるだろう。子供と引き換えという条件だけれど」
「へーえ」
美蘭は口元についた緑茶の雫を手の甲で拭うと、獲物を狙う猫みたいな顔つきで「マジいい話じゃん。人並区の誰と話つけたらいいんだよ」と尋ねた。
「人並区は、そういう話とは無関係だ」
「は?言ってることマジ矛盾してるし」
「まあ、表向き無関係、って事だよ。実際にはお金の話はこんな感じで、雑談からこっそりと始まる。あなたは子供を産めるような経済状態じゃないかもしれないけれど、世の中にはお金があっても子供に恵まれないご夫婦もいるんですよ。そんな人たちの力になってあげる優しさはありませんか?赤ちゃんが産まれるまでの生活はすべて面倒をみます。あれこれ買って準備する必要もありません。産まれたらすぐに新しいご両親に引き渡すことになるので、慣れない育児の心配もありません。それに、ささやかですが、謝礼を受け取っていただく事になります。そしてあなたの善意の行いは、必ずあなた自身やあなたの大切な人のところに戻ってきます。近いうちに必ず、運が開けて幸せな生活を送れるようになりますよ」
おじさんは声の調子を変えて、たたみかけるように言った。それから一息つくと「たぶん今日のうちに誰かが、こんな話を持ちかけてくるだろう」と続けた。
「いい話じゃん。でもな、あたしは面倒みてもらえるとして、弟と妹はどうすんだよ。子供生まれるまでは何か月もあるけど、まとめて食べさせてもらえるわけ?」
「そこは交渉次第かな。でも多分大丈夫だと思うよ」
おじさんはそこで言葉を切ると、背筋をのばして「だけど」と言った。少し無精ひげが生えていて、よく日焼けしていて、短い髪にはけっこう白髪が混じっていて。工事現場なんかにいそうな人だなと思いながら、花奈子は次の言葉を待った。
「自分の子供と引き換えにお金を貰うなんて、絶対にしてはいけない。そんなのは奴隷と同じだ」
「なんで。金払ってでも欲しがってる奴がいるんだから、くれてやるのに問題あんのかよ」
「人間は決して売ったり買ったりできない。いいか、他にもそんな風に、どうしても子供を育てられない女の人を助けてくれて、生まれてくる子供に新しい家族を見つけてくれる組織はある。でもちゃんとしたところは、お金のやりとりなんか絶対にしないんだ。もし君が少しでも、その子を産みたいという気持ちがあるなら、そっちの連絡先を教えるよ」
「いらねえし。産まねえし」
どれだけおじさんが真剣に言っても、美蘭は気持ちいいほど態度を変えなかった。もちろん、最初から妊娠なんてしてないんだけれど。
「おっさん、いちいち説教くさいんだよ。どうせこんなとこに出入りしてるくらいだから、ロクな仕事してないんだろ?自分こそ奴隷みたいにしてこき使われてたんじゃないのかよ」
「うーん、まあそうも言えるけど」
「ほら見ろ。他人に余計なちょっかい出す前に、マジ自分の心配してろっつうの」
美蘭は面白そうに笑うと、また緑茶をがぶ飲みした。おじさんは決まり悪そうに顎をなでまわしていたけれど、「でもとにかく、注意だけはしておくよ」と言った。
「もし誰かが、君をキララザカさんに会わせる、と言い出したら気をつけるんだ。もしかしたらヤチヨさま、と呼ぶかもしれない」
「はあ?キラキラ?」
「キララザカだ。漢字はこう」と、おじさんはシャツの胸ポケットにさしていたボールペンを取り出すと、割り箸の髪袋に「雲母坂」と書いた。
「これでキララザカと読む。名前が八に千に代でヤチヨ。けっこうな年のおばさんだ。お兄さんは人並区のこと以外に、この人の話はしてなかったか?」
「するわけねーし」と美蘭が言い返すのとほぼ同時に、花奈子は「私、知ってる」と言ってしまっていた。
「おめー、なんで黙ってたんだよ」と、美蘭は半分本気で花奈子の顔を覗き込む。
「知ってるっていうか、お兄ちゃんのメモの、東京都人並区って書いたその下に、雲、母、坂って、書いてあって。その時は別に関係ないと思ったんだけど」
そう、あの日、お兄ちゃんの部屋にこっそり入って、机に立ててあった本を手に取った時にひらりと落ちてきたメモ。「東京都人並区」ばかり気になっていて、「雲母坂」のことはすっかり忘れていた。
「そっちの入口か」
おじさんは何かを考え込むような顔つきでまた顎を撫でる。美蘭は「入口ってどういう意味だよ」と、答えを促すようにそちらを見る。
「いや、お兄さんはもしかしたら、仕事の問題じゃなくて、別の理由で雲母坂さんに会うために人並区に来たのかもしれないと思って」
「は?お兄ちゃん妊娠してねえし。ありえないし」
「いや、持ちかけられる話は人によってそれぞれだ。若い男の人だと、病気の人にあなたの腎臓を移植してあげませんか、なんて話だったりする」
「そんな事したらマジ死ぬし」
「死なないよ。腎臓ってのは二つあって、健康な人なら一つを誰かにあげても別に大丈夫なんだ」
「判った。それを売るって事だろ?お兄ちゃんいくらぐらい稼いでくるかな」
「たぶん一円も貰えない」
おじさんは少しだけ眉を上げてみせた。
「ただし、素晴らしい善意の行いをしたんだから、必ず運が開けて良い事が起こる」
「何をマジ眠い事言ってんだよ。世の中、そんなうまい具合に行くわけねえし」
明らかに苛立った顔つきの美蘭を見ながら、おじさんは「そう信じこませるのが、雲母坂さんの恐ろしいところだ」と言った。
「そして彼女はお兄さんの健康な腎臓を取り出して、病気で苦しんでいる人に高くで売りつける。お金は全て彼女のものだ」
「マジで?早いとこお兄ちゃんに知らせないとヤバいし。まあ手数料で五パーぐらい払ってやるけど、あとの金はこっちのもんだよな。できるだけ高く売らないと」
「駄目だよ!腎臓を売るのなんか駄目!」
気がつくと花奈子は必死になって美蘭の腕をつかんでいた。恐ろしくて、不安で、黙って聞いていられなかったのだ。
「金が貰えりゃいいんだよ。問題は、騙されてタダで持ってかれるって事なんだから」と、美蘭はうるさそうに花奈子の手をふりほどいた。嘘でもすごく悲しくなって、思わず涙が溢れそうになる。助け舟を出すようにしておじさんが「臓器売買はれっきとした犯罪だ」と言った。
「そんなの、ばれなきゃいいんだよ。ばれなきゃ」と、美蘭が言い返しているところへ、新田さんが戻ってきた。
「ごはん終わった?急かして悪いんだけど、男の人、手伝いに来てくれないかしら。ちょっと力仕事」
おじさんと亜蘭が新田さんについて出ていくと、美蘭は「ふう」と息をついて立ち上がった。
「じゃあ、私達も行こうか」
いきなり普通に戻った美蘭に、なぜか花奈子は調子が狂ってしまって、「え?どうして?」としかきけない。美蘭は花奈子の腕を引っ張って立たせると、「とりあえず一回り。お兄さんを探してみるの」と言った。
17 後ろの正面誰だ
なんだか去年の校外学習で泊まった、「青少年の家」みたいな感じだなと思いながら、花奈子は美蘭と並んで研修所の廊下を歩いた。片側が窓で、反対側にはドアが並んでいる。中には「ゴミ当番」という札のかけられた部屋があったり、壁に「廊下では静かに」という紙が貼られていたりした。
「保養所だったっていうけど、社員寮に毛が生えた程度だよね」と、美蘭は臆することなくどんどん歩いてゆく。細長い研修所の建物は、一階が会議室や何かになっていて、二階と三階のほとんどが人の泊まる部屋らしい。
「誰もいないね」と花奈子が言うと、「たぶんイベントの準備に駆り出されてるんでしょ。タダ飯食うなってことで」と美蘭が推測した。
「じゃあやっぱり、みんながいる一階を探した方がいいんじゃない?」
「まあ、そう慌てることないって」
「でも、さっきの話、本当だったらどうしよう。腎臓を人にあげるなんて」
「大丈夫でしょ。一つ残ってりゃ問題ないって、おっさん言ってたじゃない」
「違うよ、私が心配なのはそういうんじゃなくて…」
あんまり美蘭が平気そうなのでつい反論したけれど、どう説明していいのかよく判らない。自分でも不思議なくらい、あっという間に喉がつまって涙が浮かんでくる。美蘭は困ったような顔で立ち止まると「ごめんごめん。花奈子が焦ってるのはよく判るから」と謝った。
「でもさ、赤の他人どうしで腎臓移植なんて、事前の検査もあるだろうし、そう簡単に、はい頂戴しました、って事にはならないはずだよ。何より、まだそうと決まった話じゃないでしょ」
言われてようやく、はっとする。確かに、悪い方にばっかり考えていたけれど、お兄ちゃんはここで仕事を探しているだけで、今もどこかで椅子なんか運びながら、面倒くさいな、とか思っているのかもしれない。
「ついでに三階も回ってみるか」と美蘭はまた歩き始めた。階段を上がるとまた同じような部屋が続いているけれど、さっきと違ってドアにポスターやなんかが貼ってあったり、廊下にカエルの格好をしたゴミ箱があったり、どことなく楽しそうな感じがある。
「こちらは女子フロアらしいな」
美蘭は首を伸ばして様子を窺うと、「収穫なし」と呟いて階段を降り始める。そのままさっきの部屋に戻ると、亜蘭だけが壁にもたれてスマートフォンを見ていた。椅子はちゃんと並べ終わっていて、空いた場所には大きな液晶ディスプレイが運び込まれていた。
「おっさんは?」と美蘭が声をかけると、亜蘭は顔を上げて「車の運転頼まれて、どこか行った」と答える。そして「これ、預かった」と、ジーンズのポケットから何か取り出した。
「何?それ」と花奈子が覗き込むと、亜蘭は「ICレコーダー」と言った。
「雲母坂さんの話が出たら、録音しといてって。うまく録れたらお金くれるらしいよ。携帯の番号も渡された」
「あの人、何する人なの?」
「おおかた、週刊誌か何かの下請けライターあたりでしょ。潜入レポート、東京都人並区の並みじゃない悪評、とかってね。私達に対してこれだけガードが緩いって事は、もうそろそろ潜入もおしまいなのか、単に舐められてるだけか。ま、どうでもいいわ。猫の鳴き声でも入れといてやれ」
そう言って美蘭はICレコーダーをポケットに入れると、壁際にある机に近づいた。さっきはなかったノートパソコンが置かれていて、その横に分厚い紙の束。上にはホチキスが二つ載っている。
「新田さんが、その紙をページ順に並べて綴じといてってさ」
「ふーん。よろしくね」と、自分は全くやる気を見せずに、美蘭はノートパソコンを開いた。
「ちょっと、美蘭、駄目だよ人のパソコン触っちゃ」
怖くなった花奈子が止めても、「無防備にこんなとこに置いてく奴が悪いの」と、聞く耳を持たず、「パワーポイントで、プレゼンですか」とにやにやしながらキーボードを触っている。亜蘭はといえば、いつの間にか部屋を出て、廊下の壁にもたれている。誰か来ないか見張っているみたいだ。さすがは双子、黙っていても連係プレーなんだ、と感心する一方で、花奈子は自分たちがここに来た目的をあらためて思い出していた。
「私、もうちょっと見てくるね。戻ったら、紙綴じるのやるから」
そう声をかけると、美蘭はパソコンの画面を睨んだまま「了解」と答える。相変わらずぼんやりした顔つきで立っている亜蘭の前を通り過ぎ、花奈子は廊下を玄関の方へと歩きだした。美蘭も亜蘭も、花奈子がお兄ちゃんを探したいと言うからつきあってくれているだけ。本当に一番頑張らないといけないのは花奈子自身だ。とにかく人のいる場所は全部覗いて、自分の目で探してみよう。
この研修所に着いた時よりも、人の数は随分と増えたように思える。一階はどの部屋も椅子や机の準備が済んだみたいで、何人かで輪になって打ち合わせをしていたり、マイクやスピーカーのチェックをしていたりで、学園祭やなんかとそんなに変わらない雰囲気だ。でもその人たちの中に、お兄ちゃんらしき姿はなかった。
全部の部屋を見てしまうと、あとは玄関だ。ホールには会議机が並べられ、その前に「受付」と大きく印字した紙が垂らしてある。そして女の人が三人、足元に置いた箱からパンフレットらしきものを取り出して、机の上に積んでいた。
薄暗いホールから外を眺めると、地面が白く光って見えるほど午後の日差しが強い。それでも少し風にあたりたくなって、花奈子は玄関の自動ドアを抜けた。とたんに、オーブントースターを開けた時のような空気が押し寄せてくる。アスファルトに反射した光の眩しさに目を細めながら、花奈子はその熱気を胸の奥深く吸い込んだ。
寛ちゃんとあちこち見て回った、街中の埃っぽさとは違って、同じ東京でもここの空気は柔らかい。もしかしたら、もう東京じゃない場所まで来てるのかな、と思いながら両手を後ろで組み、軽く伸びをしたその時、いきなり強い風が吹きつけてきた。あっという間にくしゃくしゃになった髪をかき上げると、目の前を何かが横切った。
日傘だ。
それは風にのって落ちてくると、弾んでふわりと浮きあがり、こんどは地面をどんどん転がってゆく。花奈子は反射的に飛び出してそれを捕まえた。思ったよりずっと軽く、艶のある紫の生地に黒いレースを重ねた美しい日傘。持ち手の部分は飴色の竹でできていて、同じく紫色のタッセルがついている。日傘よりもパラソルと呼ぶ方が似合ってる、と思いながら、花奈子はもう飛ばされないようにそれを畳んだ。
「すいませーん」という声がして、ポニーテールの女の人が駆け寄ってくる。花奈子が日傘を差し出すと、彼女はひったくるようにしてそれを受け取り、小走りに戻って行く。その向こうから、小柄なおばさんがゆっくりと歩いてくるのが見えた。
ポニーテールの人が何か言いながら頭を下げて、大慌てで日傘をおばさんにさしかけると、彼女はそれを受け取り、まっすぐに花奈子の方へ歩いてきた。髪を高く結い上げて、まるで日傘とお揃いのような、紫の地に黒いレースをあしらったジャケットに、とても細かい襞のついた黒いプリーツスカートを合わせている。生地にはラメが入っているらしくて、歩くたびにきらきらと光を反射する。おばさんはずんぐりした体形で、これまた紫のハイヒールでその体重を支えるのは、けっこう大変そうに見えた。
そしてお化粧も服装に負けないくらい豪華だ。金のフレームに紫のレンズの大きなサングラスをかけていて、目元は弓なりにくっきりと描かれた眉しか見えないけれど、この暑いのにきちんとファンデーションを塗って頬紅ものせ、真っ赤な口紅はグロスで艶々と輝いている。耳には大きな黒真珠のイヤリング、お揃いのネックレスは厚みのある胸元を二重に飾っていた。
その姿に花奈子がぼんやり見とれているうちに、彼女はすぐそばまでやって来た。そうか、建物の中に入るんだ。どうやら自分が玄関を塞いで立っているらしいと気がついて、花奈子は一歩下がった。しかし彼女は立ち止まると、「ついうっかりして、日傘を持って行かれてしまったわ。どうもありがとうね」と笑顔で話しかけてきた。
「そんなところにいちゃ暑いでしょ、こっちに入りなさいよ」
彼女は、驚いて何も言えずにいる花奈子の背中を押すようにして玄関から中へと入れると、紫の日傘を畳んだ。すかさず、後ろに控えていたポニーテールの女の人がそれを受け取る。
「今日はまた、ずいぶん若い方もお見えになってるのね。あなた、高校生?」
「中三、です」
花奈子はようやく、小さな声で返事をした。いつの間にか喉がからからになっている。
「あら、そうなの。今から色んな事に興味があって、偉いのね」と、おばさんはサングラスを外し、絵でも鑑賞するみたいにして花奈子を上から下までしげしげと見た。重そうなつけまつ毛に縁取られた目が、まばたきもせずに光っている。小さいけれど、吸い込まれるような不思議な力があった。
「ママに愛されてない子の目だ。あなた、随分と寂しい思いをなさってるのね」
彼女はそう言って、花奈子の腕を強くつかんだ。その太くて短い指には緑色の大きな宝石をあしらった指輪が光っている。
「私とちょっとお話ししてみる?きっと、ずいぶん楽になると思うわよ。大丈夫、別にあなたが悪いってわけじゃなくて、ママも大変なのよ」
そして彼女は指の力を緩めると、こんどは花奈子の手をとり、両手で包み込んだ。
「どう?冷たいものでも飲みながら、一休みしない?」
優しそうな笑顔に暖かい声と掌。花奈子はしかし、返事もできすにじっと立っていた。それでもおばさんは急かす事もなく、手を握り続けている。何か言わなきゃ、そう思った時、ポニーテールの女の人が少し焦った様子で「お約束は四時です、八千代さま」と小声で呼びかけた。
この人が八千代さま?じゃあお兄ちゃんのこと、知ってるかもしれない。慌てて花奈子が口を開こうとしたその時、彼女は握っていた手を離して「あら、もうそんな時間なの?」と後ろを向いた。それからまた花奈子の方を見ると、「楽しんでらしてね。ここでお友達が見つかるかもしれないわ。何かあったら私のところにいらっしゃい。みんな私の可愛い子たちだからね」と言って、サングラスをかけ直すと足早に歩きだした。その先では、周りの人が次々に会釈をしたり、頭を下げたり、道を譲ったりしている。よく見ると、ポニーテールの人以外にも、ボストンバッグやなんかの荷物を持った女の人がまだ二人後に続いていて、ちょっとした大名行列みたいだった。
その後ろ姿が階段を上がって行くのをぼんやり見送ってから、花奈子はようやく我に返った。
「美蘭!」
慌ててさっきの部屋に駆け込むと、彼女は椅子にふんぞり返って、死ぬほど面倒くさそうに紙の束をホチキスで留めていた。その横では新田さんが、こちらはてきぱきと紙を順番通りに並べてまとめている。亜蘭は美蘭より多少まし、というスピードだ。
「てめー、戻んのが遅いんだよ。トイレ行ったぐらいで迷子って、ハツカネズミ以下だな」
美蘭は有無を言わさず、といった感じで、ホチキスと紙の束を花奈子に差し出した。まあ確かに、戻ったらやるって約束したし、と思って受け取ると、彼女の隣に腰を下ろす。どんな風にやればいんだろう、と美蘭の作品を見ると、どれも角がばらけていて、完全にやっつけ仕事だった。
とりあえず角だけはきちんと揃えておこうと、紙をまとめていると、美蘭が「お前やっぱりお兄ちゃんに似て、真面目ってか几帳面ってか」と呆れ顔で言った。新田さんはかなり焦っているのか、こちらのやりとりには見向きもせず、すごい勢いで紙をまとめ続けている。花奈子は一か八かで「あの人、来てた」と言ってみた。
「誰だよ」
「おじさんが言ってた人」
その一言で美蘭は判ってくれたらしくて、ちらっと新田さんの方を見てから「何かしゃべった?」と尋ねた。
一瞬、どうしようかと迷って、花奈子は「私を見て、ママに愛されてない子の目だって…そう言った」と答えた。普通に報告したつもりだったのに何故だろう、口にするとひどく悲しくなってきて、涙が溢れてきた。どうして八千代さまは、会っていきなりあんな事言ったんだろう。まるで、幸江ママが本当のおかあさんじゃないのを知ってるみたいだ。でも、幸江ママは絶対に花奈子の事を嫌ったり、いじめたりしてるわけじゃない。なのに何故だろう、こんなに悲しいのは。
「ばーか!」
いきなり、美蘭は両手で花奈子のほっぺたをつまむと左右に思い切り引っ張った。そして鼻がぶつかるかと思うほど顔を近づけると「それが奴らの作戦なんだよ。マジ誰にでも最初にそういう一発をかますんだから。言われて少しでも、当たってる、なんて思った奴がカモられるんだ」と吠えた。あまりに突然だったので、零れそうになった涙もそこで止まって、花奈子は「本当?」と聞き返していた。
「当たり前だろ。マジつまんない事でビビるんじゃねえ」
美蘭はさんざんひっぱった花奈子の頬を、今度は両側からむにゅーっと押し潰す。さすがに「もう!わかったよ」と言って逃れたけれど、彼女の冷たい指先は、頬から離れる前にそっと目尻の涙を拭い去っていった。
「美蘭ちゃん、お姉さんなんだからもう少し頑張れない?全体ミーティングまでにこれを終わらせなきゃいけないの。お願い」
新田さんは二人がふざけていると思ったのか、けっこう容赦ない。美蘭は「ったってあたしマジ妊婦だし」と言いながら立ち上がると、いきなり彼女の後ろに回り、両手で目隠しをした。
「新田さん、後ろの正面誰だ?」
ふざけるのもいい加減にして!という反応を予想していたのに、新田さんは何も答えず、手にしていた紙はぱらぱらと床に落ちてしまった。
「今から、何をすればいいか教えるよ。さあ、一緒に来て」
美蘭はそして目隠ししていた手を離すと、こんどは新田さんの腕を軽くつかんで歩き出した。新田さんは無言で、どこか虚ろな表情を浮かべてそれに従う。そのまま部屋を出てしまった二人について行こうか、と一瞬考えて、でもやっぱり言われた仕事は片づけなきゃと思い直し、花奈子はしゃがみこむと床に散らばった紙を拾い集めた。そして立ち上がろうとした時、こっちを見ている亜蘭と目が合った。もしかして、さっき美蘭に頬をぐいぐい引っ張られたりしたの、ずっと見てたんだろうか。その気まずさが伝わったのか、亜蘭は目を逸らすと「美蘭の愛情表現って、独特だから」と言った。
「好きな男の人の前に行くと、すっごい変なことしたりするし」
さらりとそう続けると、彼はホチキスで紙をパチンと綴じた。
「え、美蘭、好きな人いるんだ。それって、彼氏?」
何だか少し、その男の人が妬ましいような胸の苦しさを感じて、花奈子は慌てて聞き返した。
「その気になれば彼氏にできると思うけど、美蘭の片想いっぽいかな。うちの事務所のマネージャーで、美蘭をスカウトしてさ、美蘭は多分その時から好きなんだ。でも、モデルなんて絶対に嫌だからって、代わりに僕にやらせて自分は知らん顔。まあ、本当はやりたいのに、例の貧乳コンプレックスで勝手に諦めてるのかも。それで、僕が仕事に行って帰ってくると、マネージャー何してた?とかって必ず色々聞くんだよ。だからやっぱり好きなんだろうと思って、口実作って会わせたりすると、もう変になっちゃうんだよね」
「変って、どんな感じ?」
「いきなり、オムライス十人前食べたら無料、みたいな店に引きずり込んで、みんなでチャレンジだ!とかって、自分だけ本気で十人前完食しちゃったり」
「すごいね。でも完食って、カッコいいじゃない」
「男から見たら、かなり引くよ」
亜蘭はうんざりした調子で言ったけれど、豪快にオムライス十人前を平らげてみせる美蘭は、やっぱりカッコいいと花奈子は思った。
「そのマネージャーさんって、素敵な人?」
「まあね。たまに現場であなたもモデルですか、って聞かれてる。頭もいいし、皆に好かれるし。あと独身なら完璧だったのにね」
「つまり、結婚してる人?美蘭は知ってるの?」
「もちろん。だって奥さんが大事にしてる猫が家出したのを探したのが、知り合ったきっかけだし。猫を見つけて、連れて帰って、お金を貰って、ではさようなら、ってところでマネージャーが仕事から帰ってきたんだ。そこでいきなり美蘭をスカウトした」
「それって、マネージャーさんが美蘭のこと一目惚れしたんじゃないの?」
「ある意味そうかな。けどね、スカウトされて美蘭がどうしたと思う?」
「さあ…」
本気でこれは難しい質問だな、と思って花奈子は考え込んだ。
「奥さんの飼い猫つかまえて、噛みついたんだよ。背中の痛くないとこ。親猫が子猫くわえるみたいな感じで」
「えっ、マジで?」
「それで仁王立ちしたもんだから、猫は宙ぶらりんでびっくりしてたけど、奥さんの方がパニックで、悲鳴あげちゃって」
「それは驚くよ」
「僕がすぐに猫を助けたけど、奥さんショックで三日ほど寝込んじゃった」
「寝込むって、ちょっと大げさじゃない?」
「すごく身体が弱い人らしいよ。しょっちゅう熱出したり、頭が痛かったり。でもまあ猫も無事だったから、とりあえず許してもらったけど。美蘭はもちろん、全然反省してないよ。初対面でいきなりスカウトなんかする方が悪いって、開き直ってた」
「でも結局、猫に噛みついたっていうのは、美蘭がすごく嬉しかったって事なの?」
「たぶん。いわゆる、胸キュンって…」
急に亜蘭が言葉を呑みこんだので、花奈子が後ろを振り向くと、ちょうど美蘭と新田さんが部屋に入ってくるところだった。美蘭は新田さんをさっき立っていた場所まで連れて来ると、また両手で目隠しをした。
「はい、これで全部おしまい。後ろの正面には誰もいませんでした」
そう言って彼女が目隠しを解くと、新田さんはきょとんとした顔つきで自分の両手を見た。そして思い出したようにまた慌ただしく、紙をまとめ始めた。美蘭はというと、花奈子に向かって「秘密だよ」とでも言いたげに、人差し指を唇の前に持って行く仕草をした。それからいきなり亜蘭に歩み寄ると「お前、なんかあたしの話してただろ」と言うなり、さっき花奈子にしたみたいに、両側から頬をつかんだ。
「言ってない」と否定しても、「あたしに嘘つこうなんざ百年早いんだよ!」と聞き入れない。亜蘭の整った顔が容赦なく引っ張られるのを横目で見ながら、花奈子はこれも独特な愛情表現って事かな、と考えていた。
少なくとも、美蘭は口で言うほど亜蘭のことを邪魔になんか思っていない。でも、これだけされても喧嘩にならない亜蘭は、美蘭の事をどう思っているのか、不思議といえば不思議だった。
「ちょっともう本当に、二人ともいい加減にして。お兄さんのこと探す前に、やらなきゃいけない事はすませないと駄目なの」
新田さんがさっきより更に厳しい声をあげたその時、部屋の入口から男の人が顔だけ覗かせ、「全体ミーティング、始まるよ」と声をかけた。新田さんは「わかった」と返事して、「あなたたちも一緒に来るのよ。ここにはボランティアで参加してる事になってるんだから」と花奈子たちを促した。
18 いづら、いづら
「マジで腹へった」
美蘭がそう呟くと、前に座っている新田さんが振り向いて「我慢して」と囁く。やたら長くて退屈だった「全体ミーティング」がやっと終わったと思ったら、またさっきの部屋で資料作りを手伝って、並べた椅子の上に配った。それから五分もしないうちに部屋にはどんどん人が入ってきて、花奈子たちも後ろの方に座らされてしまったのだ。
「満席になったら出してあげる」と言われたけれど、席はあと少しだけ空いている。美蘭はつまらなそうに「サクラなんだよね、賑わってます、って思わせるための」と低い声で唸っていた。
教室でいえば黒板の場所に置かれた大きな液晶ディスプレイには、「正規雇用のためには泣き寝入りもやむなし?」という言葉が映し出されている。その前にマイクを持った男の人が立ち、「本日は皆さん、暑い中を集まっていただき、ありがとうございます」と挨拶している。
なんだか自分もお腹が空いてきたな、と思いながら、花奈子は話を聞いていた。どうやらこの男の人も「東京都人並区」のメンバーらしくて、ふだんはどこかの法律事務所で働いているみたいだ。彼が「次、お願いします」と言うと、ディスプレイに円グラフや「これはパワハラです」といった文字が映し出されるのは、さっき美蘭が盗み見していたパソコンで操作しているらしい。
部屋にいるのは、学生っぽい人から寛ちゃんぐらいの年の人までさまざま。男女の割合でいえば、少し男の人が多いだろうか。よく見るとちょっと離れたところに、ここで一緒に椅子を並べていたおじさんが座っていて、彼もどうやら「サクラ」にされてしまったらしい。そして花奈子はいつの間にか、さっき出会った八千代さまの事を考え始めていた。
ママに愛されてない子の目だ。
すごく目につく髪形だとか、派手な服だとか、濃いお化粧だとか、そんなものより何より、八千代さまの言葉は花奈子の記憶に深く突き刺さっていた。いくら美蘭が「誰にでもそう言うんだ」と否定しても、一度聞いてしまったものはそう簡単に消えていかない。それどころか、気がつくと頭の中で何度も反響していたりする。
やっぱり、八千代さまって何か特別な力があるんじゃないだろうか。だからお兄ちゃんも、引きこもりを止める決心をして、彼女に会いに行ったに違いない。そこまで考えて、花奈子はまたそっと周囲を見回した。お手洗いに行くふりをしてここを抜け出し、少しだけ八千代さまに会ってはいけないだろうか。山辺孝之の妹ですと言えば、何か教えてくれるんじゃないだろうか。
どうやら美蘭はこの長い話が終わるまで寝る事にしたらしくて、腕組みして目を閉じ、深くうなだれている。その隣の亜蘭は前を向いていたけれど、心ここにあらずという感じでぼんやりしている。
行くなら今のうちだ。そう思って立ち上がろうとした瞬間、急にあたりが騒がしくなった。花奈子は反射的に身体の動きを止め、目だけで周囲の様子を窺う。
「あ、すいません、何か変なのが出ちゃって」
マイクを持った男の人は、慌てた様子でパソコンを操作している人に近づいた。ディスプレイには黒地に赤く大きな文字で「臓器売買疑惑!?」と映し出されている。
「ちょっと、画面とめて!」
「すみません、勝手に動いちゃって、止まらないんです」
マイクに拾われた二人の会話が聞こえ、その間に画面は真っ赤に変わり、更に赤と黒の市松模様になったかと思うと、今度は白地に黒で大きく「東京都人並区=カルト」と浮かび、それが一瞬で消えると次は色んなメッセージが左から右へと流れ始めた。
若者の就労支援は表の顔で、裏の顔はカルト宗教です
臓器移植のドナーになれば、悪運を断ち切れると勧められました
シングルマザーの方から養子縁組できると言われ、大金を払いました
パワハラのダメージでメンタルに特殊なケアが必要だと言われ、セミナー参加のためにローンを組まされました。
正規雇用を目指すには気持ちを鍛えろと言われ、半年以上無償でスタッフとして働き、深夜まで作業しています
「何これ」とか「ちょっとヤバいんじゃない」といった声があちこちで上がり、男の人はマイクを通すのを忘れて「すみません、誰かにいたずらされたみたいで!」と叫んでいる。もしかして、美蘭?花奈子がそう思った時、「でもそれ、本当の事じゃないんですか」と、ひときわ大きい声が聞こえた。思わずそちらを見ると、さっき一緒にいたおじさんが立ち上がっている。
「複数の人から聞いた話ですけど、東京都人並区では活動に加わった人の一部を、ミタマケンシンカイという宗教組織に勧誘しているらしいですね。御靈獻身會、読んで字の如く、自己の魂と肉体を捧げることで、霊的に浄化させるという触れ込みの、カルト教団だ」
おじさんはさっきよりもずいぶん勢いのある話し方で、怖い感じさえした。話をしていた男の人は少しうろたえた様子で、「僕はそういった話は一切聞いたことがありませんし、今回のテーマとは関係ないですから、今は発言を遠慮してもらえませんか?」と言った。
「関係ないとは言い切れない。人が労働の現場で不当に扱われることと、助けを求めているのに、金目当ての宗教組織に餌として引き渡されるのと、どこが違うって言うんだ?それでもまだ、占いやなんかで金を払わされているうちは、自己責任かもしれない。でも確かに、生体腎移植のドナーになったという人はいるし、それが神奈川の私立病院で行われたという事も判っている」
大きな声でおじさんが話すうちに、ざわめいていた部屋は静まり返ってしまった。男の人は「あなた一体どういう人なのか、まず名前や所属先を名乗るのが礼儀じゃないですか」と言い返したけれど、その声は少しうわずっている。おじさんは落ち着いた様子で「失礼しました。僕は金井拓郎といいます。週刊誌などに記事を書いていますが、フリーランスです」と自己紹介した。
「取材ということなら、まず広報の担当者を通すべきだ」と、男の人が強めに反論すると、また部屋がざわつき始める。その時、眠っているとばかり思っていた美蘭がそっと前に身を乗り出すと、新田さんの耳元で「後ろの正面、誰だ?」と囁いた。途端に、新田さんは席を立ち、何も言わず足早に部屋を出て行ってしまった。それをちらりと見届けてから美蘭は立ち上がり、よく通る声で「いまの話、本当です」と叫んだ。
ざわめいていた人たちが一瞬で静まり、おじさんは驚いた顔でこちらを見た。
「実は、私が今日ここに来たのは、大勢の人に御靈獻身會の臓器売買について知ってもらうためなんです。隣にいる、私の弟ですけど、人づきあいがうまくできなくて、職場でひどい嫌がらせを受けて、人並区のお世話になりました。でも、彼自身の心に問題があるからという事で御靈獻身會を紹介され、研修を受けることになりました。そして、子供の時の悪縁が原因で、人間関係は全て破綻する相に陥っているという話を信じ込まされました。悪縁の連鎖から脱け出すためには、自分の一部を犠牲にして他の人を救うしか方法がないと言われて、見ず知らずの人に移植するために、腎臓を片方提供したんです」
マイクを持った男の人が何か言おうとする前に、美蘭は「証拠をお見せします」と言った。すかさず亜蘭が立ち上がり、片手でTシャツの裾を捲りあげ、もう片方の手でジーンズのウエストを少し下げた。
亜蘭、こんな人前でいきなり何するつもり?思わず目を逸らしそうになって、でもよく見てみると、亜蘭のうすい脇腹の下の方に、縫ったような大きな傷跡があった。これは一体どういう事だろう。混乱しているのは他の人たちも同じらしくて、あちこちからざわめきが起こっている。
「弟に何が起こったのか、私達家族が知ったのは全てが終わった後です。彼は自分の身体の一部を人にあげた事、これを御靈獻身會では身御供というそうです、そのおかげで何もかもうまく行くと思い込んでいました。でも、もちろんそんな結果にはなりませんでした。次に見つかった職場でも周囲の人とトラブルになって、警察のお世話になるような暴力沙汰を起こしてしまいました。母は自分の育て方が間違っていたせいだと気に病んで、自殺を図りました。命だけは助かりましたが、後遺症があって一人では生活できません。最近になってようやく、弟には先天的な脳の障害があって、人とうまく意思の疎通ができないということが判ったんです。子供の時の悪縁とか何とか、そんなの全部ウソでした」
あまりに真剣な美蘭の口調に圧倒されて、部屋は完全に静まり返っていた。花奈子までが、彼女の話は本当じゃないかという気持ちになってくる。亜蘭はいつの間にかまた座って、ぼんやりした表情のまま前を見ている。
「き、君は一体」そう言いかけて、おじさんは言葉につまった。言いたいことはあるけれど、皆には聞かれたくない、という感じだ。美蘭はそちらに顔を向けると、何か答えようとしたけれど、その声はけたたましいベルの音にかき消された。
何?どうしたの?という声があちこちから上がる。それは学校の避難訓練で聞いたことのある、火災報知器のベルだった。誤作動じゃないの、と平気そうな人もいれば、一応避難した方がいいよ、と立ち上がっている人もいる。花奈子も不安になって、思わず美蘭の方に身体を寄せると、彼女は屈みこんで「大丈夫。ちょっと騒ぎになるけど、落ち着いてね」と耳元で囁いた。
「すみません、皆さんいったん外に避難して下さい!」
そう叫びながら部屋に飛び込んできたのは、さっきふらりと出て行った新田さんだ。その声に我に返ったように、マイクを持っていた男の人も「皆さん、慌てずに玄関の方に移動してください」と呼びかける。それに反応するように、座っていた人たちも次々に立ち上がって部屋を出ようとした。花奈子も腰を浮かせたその時、ビニールか何かが焦げるような匂いがしてきた。不安に思って辺りを見回すと、部屋の入口から、うっすらとではあるけれど、煙が流れ込んできているのが見えた。
「やばいよ、本当に火事だ」
絶え間ないベルの音に少しずつ慣れそうになっていた人たちも、一気に慌てだし、入口に向かって動き始めた。火事よりも、騒然とした人の動きが怖くなって、思わず美蘭にしがみつこうとしたその時、誰かが花奈子の腕をつかんで強く引っ張った。
「あなた、ぼんやりしてちゃ駄目よ、早くいらっしゃい!」
顔を上げると、学校の先生みたいな感じの女の人が、心配そうにこちらを見ている。私は美蘭といるから大丈夫、と説明したかったけれど、彼女は有無を言わさず、ぐいぐいと花奈子を引き連れて人をかき分け、廊下に出ると玄関へとつき進んだ。他の部屋からも次々と人が出てきて、外へ避難してゆく。その間にも廊下を流れる煙は勢いを増しているように見えた。
ようやく外に出てきれいな空気を吸って、今更のように建物の中に煙がたちこめていた事に気がつく。あたりには夕暮れが近づいて、空の一部が赤く染まっていた。
「ここからじゃ、どこから火が出たのか判らないわね」
花奈子を連れ出した女の人は、そう言ってようやく腕を放してくれた。美蘭とはぐれてしまったけれど、自分を心配して避難させてくれたんだから、花奈子は「ありがとうございました」とお礼を言った。
「あなた、中学生?どうして今日ここに来たの?」
「あの、夏休みの宿題で」
とりあえず適当にごまかそうと思ってそう言うと、女の人は「ああ、自由研究?えらいね、非正規雇用をテーマにするなんて」と、勝手に解釈してくれた。
「もう帰った方がいいと思うけど、家の人とか、迎えに来てくれそう?」
「ち、近くだし、自転車で来てるから、大丈夫です」
「そう?じゃあ、暗くならないうちに、急いだ方がいいよ。気をつけてね」
女の人はそれだけ言うと、軽く花奈子の背中を手で押してから、友達でも探しているのか、玄関へ近づいていった。その隙に、彼女から隠れるようにして花奈子は人の少ない方へと移動した。いつの間にか自分も咄嗟に嘘がつけるようになってきたようで、妙な気分だけれど、とにかく今は少し離れた場所に行って、美蘭の携帯に電話をしよう。
気がつくと花奈子は駐車場に入り込んでいた。建物の裏側にあたる場所で、近くに非常口があるのか、何人かで固まって不安そうに立っていたり、大声で電話をしながら誰かを探している人がいる。もしかしてその中にお兄ちゃんがいたりしないかと、花奈子は一人一人の顔を確かめるようにゆっくりと歩いた。その時、見覚えのある姿が目に入った。
高く結い上げた髪と、ずんぐりとした体つきに、細いハイヒール。八千代さまだ。そばにはやはりお供の女の人が三人ついていて、花奈子のいる方へと歩いてくる。思わず後ろを見ると、軽自動車が並んでいる中に一台だけメルセデス・ベンツがあって、どうやらそれが八千代さまの車らしかった。
三人のお供のうち、ポニーテールの女の人が先に小走りで花奈子の脇を通り抜けて車の方へ行き、後の二人は両側から八千代さまを守るようにしてゆっくりと近づいてくる。どうしよう。さっきまであんなに八千代さまと話をしたいと思っていたのに、いざチャンスが来ると怖気づいてしまう。目を伏せて、知らないふりをしようかと考えて、美蘭ならどうするだろうと想像する。そう、彼女なら絶対にためらったりしないのだ。
「あの!」
自分でも驚くほど大きな声が出て、花奈子は面食らってしまった。どうしよう、何と言えばいいんだっけ。八千代さまとお供の人たちは、いっせいにこちらを見ている。
「あの、私…」と、また口ごもってしまった花奈子を助けるように、八千代さまが声をかけてきた。
「あら、あなた、さっき日傘を拾って下さった方ね」と言って、親切そうな笑顔を浮かべると、花奈子の腕に手をそえる。
「震えてるのね。大丈夫よ、火事だなんて本当じゃない。どこかからネズミが入ってきて悪さをしただけよ」
言われて初めて気づいたけれど、花奈子は小刻みに震えていた。でもそれは絶対に火事のせいではない。
「あの、私、やまべ、山辺孝之の妹です。お兄ちゃんに、どうしても会いたいんです。どこにいるか、教えて下さい」
叫ぶようにしてそう言うと、八千代さまは「おやまあ」という感じに目を丸くした。それから一番近くにいた女の人に「山辺さん、といえば、先週から道場にいらしてる方ね」と尋ねる。「はい、山辺孝之さんです」という返事があると、八千代さまは深く頷いて「やっぱり」と呟いた。
「お兄様は、あなたの事をとても気にかけてらしたから、呼ばれたのね」
「私の事、ですか?」
何だかすごく意外な気がして、花奈子はぽかんとしてしまった。家にいてもずっと顔すら合わせていなかったお兄ちゃんが、どうして私の事なんか気にかけているんだろう。
「そもそも、お母様が亡くなられた時の犠牲縁にずっと引きずられているから、お二人とも大変お気の毒ね。でも大丈夫よ、お兄様がちゃんと清めて下さるから」
そう言って、八千代さまは両手で花奈子の手をとった。
「ぎせいえん、って何ですか?」
八千代さまの手を振りほどきたいような、もっとしっかり抱き寄せてほしいような、正反対の気持ちに挟まれたまま、花奈子は問い返していた。
「誰かの身代わりになって死ぬことよ。あなた方のお母様は、お兄様が川に流されて溺れそうになった時に、助けようとしてお亡くなりになったのよね。お兄様はそのせいであなたを母親のいない子にしてしまった事を、深く後悔していらっしゃる」
「ち、違います」
八千代さまの暖かい手に包まれているというのに、花奈子の指先は急に冷たくなっていった。
「お母さんが死んだのは、心臓の病気のせいです。自分でも病気だって知らずにいたから、眠っている間に心臓が止まって…」
「それはお家の人が、あなたを傷つけないために嘘をついているのよ。でもお兄様ははっきりと自分で憶えているから、余計に苦しんでいるの。それに、新しいお母様が授かられた弟さんの病気ね、これはもう、あなた方のお母様からもたらされた怨念のせいですから、早く手を打たないとどんどん悪くなる。お兄様が私を訪ねて来られたのは、本当にいいタイミングだったわ。あと少し遅れていたら、どうなっていたか」
遠くから、消防車のサイレンが聞こえる。でももしかしたらその音は花奈子の頭の中で鳴っているだけかもしれない。薄闇の中でじっとこちらを見ている八千代さまの目の光も、本当は幻かもしれない。だってお母さんは病気で死んだのだ。溺れかけたお兄ちゃんを助けようとしたなんて、嘘に決まってる。
「あなたが混乱するのも仕方ないでしょうけれど、お兄様を信じて待ってあげてちょうだい。今は魂を清める、とても大切な修行をされている最中なの。これが終われば何もかもうまく行きますからね」
八千代さまがひときわ力をこめて花奈子の手を握ったその時、視界を何かが横切った。思わず目で後を追うと、それは黒い大きな蝶だった。ひらひらと、夕闇に溶け込もうとするかのように舞い上がり、やがて風に吹かれるようにして遠ざかる。八千代さまは「まあ、大きな蛾だこと」と、気味悪そうに肩をすくめ、また何か言おうとしたけれど、その声は「花奈子!」という鋭い呼び声にかき消された。
はっと顔を上げると、人をかき分けるようして美蘭が駆けてくる。亜蘭も一緒だ。彼女は花奈子と八千代さまの間に割って入るように立ちはだかると、「この子に何の用?」と詰問した。八千代さまは驚くどころか、面白がるような口調で「おやおや、お言葉だけれど、声をかけたのは私じゃなくて、こちらのお嬢さんだからね」と答えた。
「どうせ、聞かれもしない事ばっかり適当に並べたてたんだろう。金儲けがしたいなら、もっと素直にやりな」
「憎まれ口が得意なのは、誰からも愛されなかったからね。あなたたちは水子だ。母親に憎まれるどころか、記憶の闇に流されて、夢にも思い出してもらえない。死んでいるのに生きているのはどんな気分かしら?」
八千代さまは何を言っているんだろう。ぼんやりした頭で、花奈子は美蘭のまっすぐな背中を見ていた。
「お嬢さん、こんな毒蛇みたいな子に関わると、そのうち噛まれるわよ。早くお家に帰って、お兄様とお母様のためにお祈りをなさい。いいわね」
八千代さまは美蘭の脇から覗き込むようにして花奈子に声をかけると、エンジンをかけて待っていたベンツに乗り込んだ。ちょうどけたたましいサイレンを鳴らしながら入ってきた消防車とすれ違うようにして、ベンツは急発進で出て行く。何も言えず立ち尽くしている花奈子の傍らで、美蘭は空に向かって右腕を高く差し上げ、人差し指をたてると「いづら、いづら」と唱えた。
一体どこから飛んできたのか、大きなスズメバチが一匹、その指先にとまる。その禍々しい姿に花奈子が思わず後ずさりすると、亜蘭が「刺したりしないから、大丈夫」と言った。美蘭はゆったりと腕をおろし、スズメバチを口元に近づけると、ふうっと息を吹きかけた。そしてまた腕を伸ばすと、スズメバチはベンツの走り去った方向へと飛んでいった。
「さて、あとはどうやって追いかけるか」
美蘭は軽く首を振ると、花奈子の方に向き直った。
「はぐれちゃってごめんね。おかげでちょっと嫌な思いしたみたいね」
「ううん、私のせい。私が勝手に、八千代さまに、自分で話しかけたから」
花奈子は何とかそれだけ言うと、もうその後を続けることができず、しゃがみこんでしまった。八千代さまの言った事は本当なんだろうか。お母さんが死んだのはお兄ちゃんの身代わりになったから。そして拓夢が病気なのは、お母さんの怨念のせい。
「花奈子、しっかりして」
気がつくと、美蘭もしゃがんで花奈子の顔をのぞきこんでいる。
「駄目だよ、あいつの言葉に呑みこまれちゃ駄目だ。あいつは花奈子がお兄さまみたいに、自分が張った蜘蛛の巣に落ちるのを待ってる。ちゃんと目を開いて、本当の事を見るんだ」
涙が次々に溢れてきて、美蘭の顔もよく見えない。もうこんなんじゃ、本当の事なんて見えるわけない。
「君たち、そこにいたのか!」
不意に、大きな声がして、誰かが走ってくる足音がした。
「おや、おっさん、じゃないわ、金井さん、だっけ」と言いながら、美蘭は立ち上がる。
「全く、驚かされたよ。君たちは一体何なんだ。どうしてここに来た?」
「だからさ、うちの弟が騙されて腎臓とられちゃったから、告発してやろうと思って」
「違うだろう。弟さんのはドナーの傷痕じゃない。あれは、移植を受けた側の傷痕だ」
一瞬、空気の流れが止まったような沈黙があって、それから美蘭が「あら、よくご存知ね」と言った。
「まあそこは、ちょっと話にリアルさを加えようとしたんだけど、やり過ぎたって事かしら」
「お兄さんを探してるというのも嘘か?」
「それは本当。まあ、この子のお兄さんだけど」
「じゃあ君が妊娠してるってのは?」
「嘘に決まってんじゃない。私、処女だから。何なら確かめてみる?」
こんどは向こうが黙り込む番だ。美蘭は平気な様子で「ところで金井さん、タクシー拾ってきてくれないかしら。この子をおじさまのところに帰らせてあげるの」と言った。
「自分でやれよ。君の妹だろ?いや、友達か?」
「大事な友達だけど、私にはする事がある。このお願いきいてくれたら、あんたが週刊誌に連載で特集記事書けるぐらいのネタは用意してあげるよ」
「つまり、八千代さまと御靈獻身會のことか」
「そうね」
「じゃあ、こういう条件にしよう。俺もこの後、君たちと一緒に行動する。それと引き換えに、さっきここで運転を頼まれた車を提供するよ。タクシーは途中で探せばいいだろ?」
おじさんはそう言って、ポケットから車のキーを取り出して見せた。これには美蘭も納得したらしい。「交渉成立」という短い返事の後、彼女はまた花奈子のそばにしゃがんだ。
「いい?花奈子、おじさまのところに着いたら、メールだけ送って。あとは私たちでちゃんとやるから、何も心配することないわ」
花奈子は黙って、しゃがみこんだまま頷く。足元の地面に、零れた涙の痕が黒く光っていた。
19 一つだけ質問
何度目かの寝返りを打って、花奈子は長い溜息をついた。頭の芯がずっしりと重くて、とても疲れているような気がするのに、少しも眠くならない。時間を確かめようと身体を起こすと、足元にうずくまっていた豆炭がこちらを見て、「ニャ」と鳴いた。
東京都人並区の研修所から少し離れたところで、美蘭たちと別れて一人タクシーに乗り、ずいぶん長くかかって寛ちゃんのマンションまで帰ってきた。途中で高速を通ったような気もするけれど、よく憶えていない。もうすっかり夜になっていて、重い足を引きずるようにしてマンションの階段を上り、部屋のインターホンを押すと、寛ちゃんはドアのすぐ裏側に隠れていたような勢いで出てきた。とりあえず電話はしておいたけど、すごく怒られるに違いない、そう思っていたのに、言われたのは「お帰り」と、「晩ごはん、冷や麦でいいかな」だけだった。
「お腹空いてないから、いらない」
「まあとりあえず、食べてみなよ。先にシャワー浴びておいで」
何だか、朝、人並区の事務所の前で追いかけてきた時のテンションと全然違うなあ、と思いながら、花奈子はお風呂場に行った。そこで鏡を覗き込んで初めて、理由がわかった気がした。泣きはらした目の、ちょっと自分じゃない感じの顔がこちらを見ていたのだ。
これじゃちょっと、ガツンと怒れないか。
ほっとしたような、更に力がなくなってしまったような気分でシャワーを浴び終えて出ていくと、テーブルには冷や麦の準備ができていた。
「海苔しか薬味がなくてさあ、茗荷なんかあるとよかったんだけどね」
寛ちゃんの声には、取り繕ったような明るさがあって、それが却って花奈子を苦しくさせた。でも、せっかく作ってくれたんだからと思って、少しずつ食べてみると、不思議なほどすんなりと喉を滑り落ちてゆく。ゆで加減とか、ばあちゃんにそっくりだからだろうか。そう言えば、美蘭はばあちゃんちの冷や麦がごちそうだって言ってたっけ。
お互い何も喋らず、花奈子と寛ちゃんはボウルに山盛りになっていた冷や麦を食べ終えた。といっても、半分以上は寛ちゃんが食べたのだけれど。そしてボウルの底に溶け残った丸い氷を眺めていると、時間の流れるのがひどく遅いような気がした。
「なんか、すごく疲れてるみたいだね」
寛ちゃんがようやく口を開く。
「早く寝た方がいいよ。それで、明日の午前中の新幹線で帰るんだ。俺、向こうまで送って行くから」
「いらない。一人で帰れる」
「駄目だ。お父さんと、そう約束したから」
もう、なんで?お父さんに今日のこと、話しちゃったの?そんな花奈子の気持ちを察したのか、寛ちゃんは「人並区と、孝之の事はお父さんにはまだ内緒だ。ただ、花奈子はちょっと体調がよくないからって、そう言ってある」
「体調なんて、悪くないもん」
「花奈子」
今日帰ってきてから初めて、寛ちゃんの本当の声を聞いたような気がした。怒っているような、それでいてどこか悲しいみたいな。
「俺だって、色々言いたいことはあるんだけど、とにかく今日はもう営業終了だ。話は明日、新幹線の中でする。だから、一緒に帰るからな」
それだけ言って寛ちゃんは立ち上がり、麦茶のペットボトルを片手に戻ってくると、空になった花奈子のグラスに半分ほど注いだ。テレビもつけず、部屋は静まり返っているけれど、どこからか、カタカタという音が聞こえるのは風だろうか。
「あっれえ、花奈子が帰ってきたの、わかったのかな」
寛ちゃんの声に、俯いていた顔を上げると、ベランダのガラスの向こうに黒いシルエットが見えた。豆炭だ。中に入りたいのか、前足でしきりに窓をひっかいている。
「そう慌てるなって」と、寛ちゃんは座ったまま、思い切り腕を伸ばして窓を少しだけあけた。その隙間から勢いよく飛び来んでくると、豆炭はまっすぐ花奈子のところに駆けてきて膝にのり、今日は何してたの?とでも言いたそうにこちらを見上げた。
「全く、誰が入れてやったと思ってるんだよ」と、寛ちゃんは苦笑いしているけれど、豆炭のおかげで少しだけ、お互いの気持ちが楽になった気がした。
「寛ちゃん、一つだけ質問していい?それ聞いたら、寝るから」
「…いいよ。何?」
「お母さんが死んだのって、心臓の病気じゃなくて、お兄ちゃんが溺れたのを助けようとしたからなの?」
寛ちゃんは口元まで近づけていた麦茶のグラスを、そこでとめてしまった。目だけが、何か考えているみたいにほんの少し動いて、ゆっくりとまばたきして、それから「誰にきいた?」と言った。
「人並区の、八千代さまっていうおばさん。お兄ちゃんはそのせいで、私をお母さんのいない子にしてしまったこと、気にかけてるって」
膝にのせた豆炭の丸い背中を撫でながら、花奈子は泣き出さないように一生懸命自分を押さえながら答えた。寛ちゃんはいったんテーブルに置いたグラスを、また持ち上げると一気に飲み干して、それから、ビールじゃなかった、という感じの、少し驚いたような顔をした。
「その話をするのは、本当はお父さんの役目かもしれない。でも、質問していいって約束してしまったから、答えるよ。確かに、お母さんは川で溺れて亡くなった。悲しい出来事だし、花奈子はまだ小さかったから、病気だったって嘘をついてたんだ」
「何があったのか、ちゃんと話してくれる?」
寛ちゃんは返事の代わりに長い溜息をついて、それから口を開いた。
「お母さんの命日、五月十四日。春なのに、日本中まるで夏みたいに暑い日だったのを憶えてる。花奈子はまだ二つになってなかったはずだ。孝之が入ってる子供会で、ハイキングとバーベキューをすることになった。ふだんそういう事があると、お父さんが行ってたんだけど、花奈子が産まれてから、あんまり孝之と遊んであげられなかったからって、お母さんが行くことになったんだ。車に分乗していって、途中から歩いて一山越えて、その後河原でバーベキューっていう計画。お母さんの同級生も何人か親子で来ていて、まるで同窓会みたいだったらしい。お腹がいっぱいになった後は、大人たちはおしゃべりで盛り上がって、子供は水遊びに夢中になった。でも、夢中になり過ぎて、孝之は川の深いところに入ってしまったんだ。足をとられて、流されてしまった。周りにいた子が大声で大人に知らせて、大変だ、ってなった時には、お母さんはもう駆け出して、川に飛び込んでいた。
でもね、服を着たままで泳ぐっていうのは簡単な事じゃない。おまけに流れがあって、気が動転している時は尚更だ。もちろんお母さんにそんな事心配している余裕なんてなかった。ただ、孝之を助けようと、それだけ思ってたんだから。でもやっぱり、すごく難しい事だったんだ。いったんは孝之に追いついたかと思ったんだけど、あっという間に姿が見えなくなってしまったって、お母さんの同級生は後で俺にそう話してくれた。
幸いなことに、少し下流で釣りをしている人がいて、孝之はその人たちに助けられた。かなり水を飲んではいたけど、命に別状はなかった。でもお母さんは、助からなかった。お父さんも、ばあちゃんも、俺も、みんな悲しいのを通り越して、呆然としてしまった。でも、一番かわいそうだったのは、孝之だ。それからずっと自分を責めて、泣いてばかりいたし、夜中に飛び起きて大声で叫び続けたり、髪の毛をどんどん抜いてしまったりした。
それでも、孝之の気持ちは、少しずつではあるけど落ち着いていった。周りの皆も、お母さんの分も、いっぱい頑張るんだよって、そう言って励ましてきたし。そのせいもあるんだろうね、孝之は年より少し大人びた子供になったと思う。おまけに優等生だったし。でも、今になって俺が思うのは、ああいった励ましは孝之にとって、すごく重荷だったかもしれないって事だ。
孝之が勉強やなんかで頑張ってる姿を見ることで、俺たち周りの大人は、よかった、もう大丈夫だって、そういう風に自分を安心させていたんだと思う。それはつまり、自分が立ち直るのに孝之を利用していたという意味だ。
お母さんが亡くなっても前向きに頑張る、それは素晴らしい事だけれど、時には立ち止まったり後戻りしたり、色々あって当然なんだ。でも俺たちの期待が孝之にそれを許さなかった。孝之はそれを感じ取って、必死で努力していたんだろう。そして第一希望の大学に受かって、東京で一人暮らしをして初めて、自分自身に戻ることができた。そこでたぶん何か、ずっと張りつめていたものが切れてしまったんだろう」
寛ちゃんはゆっくりとそれだけ言うと、しばらく黙ってしまった。花奈子が膝に置いた手の甲を、豆炭の尻尾が音もなく撫で続けているので、時間が流れていることだけはわかる。
「お父さんだって、この事をずっと秘密にしておくつもりはなかったはずだ。でも物事にはふさわしい時期ってものがある。少なくとも花奈子が知るにはまだ早いと思ったんだろう。とにかく、孝之の事で花奈子が自分を責めたりする必要は何もない」
「でも、花奈子がいるだけで、お兄ちゃんが辛い気持ちになるのはどうすればいいの?」
だから、自分はお兄ちゃんにずっと避けられていたんじゃないだろうか。花奈子にそのつもりがなくても、責められているように感じていたのかもしれない。
「花奈子が家にいる限り、お兄ちゃんは帰ってこないって事なの?」
「それは違うよ。とにかく、孝之は辛い思い出から離れているためにしばらく、家に、というか、うちの街に帰りたくないのかもしれない。さあ、質問の答えはこれが全部だ。あとはまた明日」
枕元に置いた携帯を確かめると、十時半だった。いつもならまだ起きている時間なのに、こうして横になっているのは、なんだか病気になってしまったみたいで変な感じだった。でも、ある意味では病気というか、まるでひどい怪我でもしたみたいに動きたくない。豆炭は足元から移動してくると、一緒に携帯を覗き込む。
寛ちゃんのアパートに帰ってきたと、美蘭にメールはしたけれど、返事はまだない。今頃どこにいるんだろう。お腹すいたって言ってたけど、晩ごはんは食べたんだろうか。花奈子がお兄ちゃんを探しに行きたいと言ったから、美蘭と亜蘭は一緒に人並区に行ってくれたのに、自分だけこんな風に帰ってきて、シャワー浴びてごはん食べて、ベッドでぐったりしている。なんて情けないんだろう。
花奈子はあらためてツゴモリの言葉を思い出していた。
「このまま行けば、お前は兄の消息を知ることができる。ただし、知りたくない事をも知るだろう。そして今までの自分でいることは、もはや叶わなくなる。引き返すなら今だ」
あの時自分は「このまま行く」と答えたはずだ。なのに、「知りたくない事」を聞かされただけで、逃げ出してしまった。
できるなら、時間を巻き戻して今日をやり直したい。人並区なんて行かずに、美蘭と買い物に出かけて、彼女のお勧めの店で可愛い雑貨だとか、持ってるだけで嬉しくなるような下着だとか一緒に選んで、外国みたいなオープンエアのカフェでケーキを食べて、色んな場所で写真を撮って、そんな一日をやり直したい。
でも、もうそんな事は無理だ。自分の心には大きな穴があいていて、そこから何か大切なものがどんどん流れ出てしまっているような気がする。お母さんが死んだのは病気じゃなくて、溺れそうになったお兄ちゃんを助けようとして、叶わなかった。もしあの時お母さんも一緒に助かっていたら、自分たちはどんな生活をしているだろう。毎日学校から帰るとお母さんがいて、一緒にお料理したり、買い物にいったり、時々怒られたりして。そしてお兄ちゃんはもっと楽しそうで、花奈子ともいっぱい話をしてくれるかもしれない。それから拓夢は…
拓夢。
花奈子の手から携帯が滑り落ちた。豆炭は一瞬飛びのき、それからまた戻ってくると、どうしたの?と言いたそうに前足を膝にのせた。
もしお母さんが生きていたら、お父さんは幸江ママと再婚することもなかった。だから当然、拓夢だって生まれていないことになる。でも花奈子には、拓夢のいない世界なんて想像できなかった。
「私、どうすればいい?」
そう言って抱き上げると、豆炭は「ニャ」と鳴いてその小さな頭を花奈子の顎にこすりつけた。どうすればいい?でもあの時、「このまま行く」と答えたのは自分なのだ。
「ツゴモリ」
花奈子は顔を上げ、この前の夜、彼が現れた姿見の中を見た。でも、そこには何もいない。一体、この薄暗い部屋のどこを探せばいいんだろう。彼はいつもそこにいて、ただ花奈子が見ていないだけと言うけれど、どこを見ればいいんだろう。
目を閉じて、ツゴモリの真っ黒で大きな姿を思い出す。鋭く輝く一対の眸と、鋭い牙、瑠璃色の舌、逞しい四本の脚と、長くしなやかな尻尾、そして絶え間なく移ろい続けるその美しい模様。はっきりとその姿を思い出したと確信した時、花奈子は静かに目を開いた。
「ようやく判ったらしいな」
ツゴモリはそう言うと、空中から花奈子の座っているベッドに音もなく飛び降りた。
「ずっと私のそばにいたの?」
「まあそういう事だ」と、ゆっくり返事をして、彼は前足を伸ばしたままで腰を下ろす。その大きな身体はベッドの半分以上を占領し、長い尻尾は花奈子の足元まで届いた。前はあんなに恐ろしかったその姿が、何だか今夜は懐かしいような気がして、花奈子は両腕を伸ばすと彼の太い首筋に触れた。ひんやりとした心地よさが、指先から浸み込むように広がってゆく。
「私、どうしたらいい?」
ツゴモリは何も答えない。でも、こうして彼の体に手を浸していると、わけもなく気持ちが鎮まってゆく。それを確かめるように、花奈子は膝立ちになってもっとしっかりと彼を抱きしめた。ちょうどその頑丈な顎の下、柔らかな喉元にすっぽりと花奈子の頭が収まってしまう。水のように流れるその身体の表面に顔を埋めても、息苦しさは少しも感じなかった。
「冷たくて気持ちいい」
思わずそう呟くと、ツゴモリは「不思議なものだ。こうして天の暑い時期には、人は私の体を冷たいと言い、地の凍てつく季節になれば暖かいと言う」と、面白そうに呟いた。
「きっとその両方なんだわ。怖いけれど優しいもの。だから、冷たくて暖かい」
「私は己でそうあろうと企てたわけではない。お前が勝手にそう思っているだけだ」
そしてツゴモリはゆっくりと首を低くした。自然と、花奈子の身体もそれにつられて倒れてゆく。やがてツゴモリは、寛いでいる時の豆炭がそうするように、脇腹を下にして横になった。花奈子はその喉元に顔を埋めて横になり、もっとしっかりと身体を寄せた。
腕に、掌に、首筋に、爪先に、ひんやりと柔らかな、水のような感触が寄せては返してゆく。重く脈打っていたこめかみはいつのまにか、ゆっくりと穏やかなリズムを刻んでいる。まるで空にでも浮かんでいるみたいに、身体が軽くなってゆくのを感じて、花奈子はそっと目をひらいた。
真っ黒なはずのツゴモリの喉元は、どこかほんのり明るいような、果てしない海のような空間で、気がつくと花奈子はそこに浮かんでいた。冷たくもなければ熱くもない、水のような、でもそれよりもっと濃いものが周囲に満ちていて、どこか一つの方向を目指してゆっくりと流れている。辺りには小さな泡のようなものがふつふつと浮かんできたかと思うと、集まって大きな塊になり、また散り散りに消えてゆく。かと思えば、ずっと下の方から黒い大きな輪が浮かび上がり、花奈子をゆったりと呑み込むと、いつの間にか細い糸のようにちぎれて広がってゆく。それらはしばらくすると再び集まり、絡まりあって雲のように広がってゆく。見渡せばあちこちで同じような動きが繰り返され、稲光のような青白い輝きが呼び合うように明滅した。
これは一体何なのだろう。ツゴモリの身体の中というにはあまりにも広くて、まるで世界の全てがこの流れゆく空間に浸されてしまったみたいだ。いつの間にか身体中の力をすっかり抜いて、花奈子はただその大きな流れに身を任せていた。
どのくらいそうしていたのか、花奈子は我に返ると、ツゴモリの喉元からゆっくりと顔を上げて、肘を支えに身体を起こした。豆炭が、傍に蹲ったままじっとこちらを見ている。
「何だか、いっぱい眠ったような気がする」
花奈子はそう言うと、ツゴモリの顎を掌でなぞってみた。彼は嫌がりもせず、黙ってされるがままになっている。
「ツゴモリ、どうすれば、私も美蘭みたいに強くなれる?」
「あの鼻っ柱の強い娘のことか。あの娘とて、元からというわけではない」
「美蘭のこと、前から知ってるの?」
「私にはお前たち人間のことは大体察しがつく。それに」と言って、ツゴモリは花奈子の指があたる場所を変えようとするかのように、首を傾けた。花奈子はその柔らかくて丸い耳の根元に触れてみる。
「流した血を舐めてみれば、その者が生まれてから今までの事。そして生まれるまでの血筋も全て判ろうというもの。それはお前も同じだ」
言われて、花奈子は転んですりむいた膝をツゴモリが舐めてくれたことを思い出した。そして、美蘭が誤って傷つけた指の根元を、彼が同じように治してしまったことも。
「あの娘は確かに、激しい気性を備えて生まれてきた。しかし弱い心も十分に持っている。ただ、長い時間をかけてその心を硬い殻で覆ってきたのだ」
「どうすればそんなことができるの?」
「別に難しいことではない」
ツゴモリは笑うように言うと、また首の向きを変えた。こんどは耳の後ろ、首筋から肩のあたりに花奈子は指先を滑らせた。
「守りたいものがあれば、人とは強くなれるものだ。或いは恐れを忘れる、というべきか。お前の母親もそうではなかったか?」
「え?おかあさん?」
花奈子はツゴモリの首筋を撫でていた腕の動きを止めた。どうして急にそんなことを言うんだろう。
「たとえお前が自分で憶えていなくても、その身に起きたことは判る。お前の母親は我が子を救おうとして水に飛び込んだ。どんなに速く激しい流れだろうと、一瞬も迷わず、恐れることもなく。人が強くあるというのは、時としてそういうことだ」
「誰かを守りたいってこと?」
花奈子はツゴモリの首に腕を回してもたれかかった。私が今、一番守りたいのは拓夢だ。あの子を病気の痛みや苦しみといった、全ての辛いものから守ってあげたい。もしかしたらお兄ちゃんも同じように、拓夢を守ろうと思っているんじゃないだろうか。
「ツゴモリ、八千代さまの言ったことは本当なの?拓夢の病気はお母さんの怨念のせいで、お兄ちゃんが片方の腎臓を誰かにあげれば、そのおかげで拓夢はよくなるって」
「お前は、あのような世迷言を信じるのか?」
ヨマイゴト、というのは、でたらめとか、そういう意味だろうか。
「信じたわけじゃないけど、本当だったらどうしよう、って」
ツゴモリはくすん、と鼻を鳴らすと、「犠牲とは、三に六を加えれば九になるという具合に簡単なものではない」と言った。
「ましてそれを、人の手で操れるとは、考えるも愚かな話だ」
「つまり…できないってこと?嘘なの?」
「あの向こう見ずな娘も、そう言ったではないか。全くお前は、信じやすいのか、疑り深いのか判らぬな」と、からかうように言って、ツゴモリは長い尻尾を左右に振った。
「だって、もし、もし本当ならお兄ちゃんのおかげで拓夢の病気が治るかもって、そう思ったから」
きっとお兄ちゃんだって、それを信じたいのだ。だから八千代さまのところにいるに違いない。花奈子は身体を起こして座り、ツゴモリと向き合った。冷たい、レモンイエローの目がじっとこちらを見ている。
「ツゴモリ、私を、お兄ちゃんのところに連れていって」
「いいのか?お前はまだ、知りたくない事の全てを聞いたわけではないかもしれないのだぞ」
「だからって、逃げても何も始まらないもの。とにかくお兄ちゃんに、八千代さまの話は嘘だって知らせなきゃ」
ツゴモリは確かめるように、首を伸ばし、花奈子の目をしばらく見ていた。そしていきなり前足を伸ばすと、傍に蹲っていた豆炭をひっかけ、仰向けにして押さえつけた。
「聞いたか小僧、お前の姉にそう伝えるのだ」
「ツゴモリ、何言ってるの?そんな事しちゃ豆炭がかわいそうだよ」
花奈子はあわててツゴモリの前足を持ち上げようとしたけれど、まるで柱のようにびくともしない。
「お前はこいつを、ただの猫だと信じているのか?」
「ど、どういうこと?」
「この猫には、あの娘の弟が憑いている」
「亜蘭のこと?どうして?」
「元々、あの者たちはそうした技を操る一族なのだ。どうやらこの猫とあの小僧は相性がいいらしい。あいつはこの猫の目と耳を借りて、お前の様子を見ているのだ」
「でも、何のためにそんなことするの?」
「さて、それは本人に確かめるしかあるまい?」と言って、ツゴモリは前足の鉤爪をむき出しにした。豆炭は「ニャ」と悲鳴をあげて身をよじり、花奈子は咄嗟に「ダメだよ!」と、鉤爪と豆炭の間に手を差し入れようとした。
「まあ、邪な考えではないとしてやろうか」
ツゴモリはどこか笑いを含んだ声でそう言うと鉤爪をおさめ、豆炭をベッドの上から払い落とした。
「ろくに口もきかぬというのに、臥所には平然と忍んでくるとは、図々しい奴だ」
くるりと一回転して体勢を立て直すと、床に落ちた豆炭は「ニャ」と鳴き、ツゴモリに押さえられていたあたりをせっせと舐めて毛づくろいをした。
「ほ、本当に亜蘭なの?」と花奈子が尋ねても、こちらを見ようともしない。
「無駄だ。小僧はもうこの猫を離れてしまった」
そう言って、ツゴモリは身体を起こすとベッドから降りた。毛づくろいをしていた豆炭は慌てて跳びのくと、積んであった段ボールの上に避難する。
「さて、お前の先ほどの言葉に偽りはないか?」
花奈子は黙って、深く頷いた。
20 どんなお母さん
大急ぎでパジャマからブラウスとジーンズに着替えて、花奈子はベッドの脇にある窓を開け、身を乗り出した。裏の墓地からは、ひんやりした夜風が漂ってくる。サンダルは玄関だから裸足だけれど、何とかなるだろう。
「まだ寛ちゃんは隣の部屋で起きてるから、ここから出よう」
振り向いてそう声をかけても、ツゴモリは「まず私に乗れ」と言ったきり、動こうともしない。
「え?今ここで?それじゃ窓から出られないよ?」
「時間がない」
ぴしりとそう言われて、花奈子はおそるおそるツゴモリの大きな背中にまたがった。
「そう、足は曲げて、両の腕で固くつかまり、身は低く伏せておくのだ。私は速く駆けるからな」
花奈子は教えられた通り、上体を前に倒した。顎から鼻のあたりまでツゴモリの流れる模様の中に沈んでしまったけれど、息苦しいということは全くない。ツゴモリはゆっくりと身体の向きを変えたかと思うと、床すれすれまで沈み込み、いきなり姿見に向かって大きく跳躍した。
鏡が割れる!と思ったのは一瞬で、何か冷たいものが全身を貫いたかと思うと、あとはすごい勢いで風が吹きつけてきた。周りの様子を見ようにも、目が開けないほどの風だ。何だか空気も薄いような気がして、花奈子はじっとツゴモリの背中に顔を埋めていた。腕や足、胸やお腹からじかに、ツゴモリの力強い動きが伝わってくる。とても速いはずなのに、そのリズムはどこかゆったりしていて、ひと跳びで随分と長い距離を進んでいるように思えた。
どれほど遠くまで駆けたのだろう。ふいに、ずっと吹きつけていた風が緩んだかと思うと、潮の香りが押し寄せてきた。慌てて目を開くと、辺りは真っ暗だ。顔を上げると、黒く深い空いっぱいにちりばめられた星が見えた。これは東京の空じゃない。一体どこに来たのかと目線を下げてみると、花奈子を乗せたツゴモリは、海辺にある大きな家の屋根に立っているのだった。
近くには同じような、広い庭のあるお屋敷のような建物が幾つか建っていて、明かりはついていたり、いなかったり。そして遠くに目を向けると、弧を描いた海岸線のずっと先の方、まるで対岸のように見えるあたりには、背の高い建物が幾つも建っていて、そこだけ別世界のように明るかった。
「ここは、どこ?」
まだその背にまたがったまま、花奈子はツゴモリに尋ねてみた。
「ここがお前の兄のいるところだ」と答えて彼が顎をしゃくったその先は、広々としたバルコニーだった。その端っこ、海に一番近いあたりの手摺の上に誰かがしゃがんでいる。白っぽい、作務衣みたいな上下揃いの服を着て、足元は裸足だ。
「あ、あれ、お兄ちゃん?」
暗くてよく判らないけれど、部屋から漏れる光に照らされたその人の顔はお兄ちゃんに似ていた。何か話しているみたいなのに、絶えず響いてくる波の音にかき消されて、その声は聞こえなかった。
「近くまで行っていい?」とツゴモリに呼びかけると、彼は返事の代わりにゆっくりと屋根の斜面を下り、そのまま宙を踏みしめてバルコニーへと降り立った。
「あーら、いいのに乗ってるんだあ」
聞き覚えのある声に振り向くと、バルコニーに面した大きな窓に美蘭がもたれていた。花奈子は急いでツゴモリの背から滑り降りると、駆け寄っていった。夕方別れたばかりなのに、もう何日も会っていないほど懐かしい気がする。美蘭は腕を広げ、まるで外国の人が挨拶するみたいに花奈子を抱き留めた。
「思ったより早かったね。ほら、お兄さま、私が言った通り、花奈子が来たわよ」
そう呼びかけられても返事すらせず、お兄ちゃんはバルコニーの一番端っこにしゃがんだままだ。どうやらツゴモリの姿は彼の目に映っていないらしくて、何か疑っているような、険しい表情でこちらを見ている。もしかすると、花奈子が空から降ってきたように感じているのかもしれない。その顔色は、花奈子の記憶にあるよりもずっと青白かった。
「ねえ、お兄ちゃんはどうして、あんなところにいるの?」
「私としては、眠らせといて攫ってくるつもりだったんだけど、なんか金井のおっさんが張り切っちゃってさ、僕が説得するから、なーんて、八千代さまの事をあれこれ暴露しちゃったの。そしたらお兄さまブチ切れちゃって、僕は生きてても何の役にも立たないって、ただいま自殺準備中」
あまりにもケロッとした調子で美蘭がそう言うので、冗談にすら思えたけれど、実際、お兄ちゃんのいる場所から海に面した崖までは、ほんの少しの距離だった。
「他の人だったら、もう面倒くさいから放っておくんだけど、花奈子のお兄さまはさすがにそうもいかないし。全く、金井さんて、無駄に熱くて真面目で役に立たないから、引っ込んでもらってるの」と、美蘭は視線をちらりと部屋の奥に投げた。そしてお兄ちゃんの方に向き直ると「ねえ、いくらなんでも、妹の前で身投げするほど、ひどい人じゃないよね?」と呼びかけた。しかし返ってきたのは「うるさい!」という、どこか怯えを含んだ叫び声だった。
お兄ちゃんはそのまま腰を浮かせると、身体を低くしたままで手摺の上を更に移動し、いきなり跳んだ。花奈子は思わず「わ!」と叫んでしまったけれど、彼の姿は消えてはいなかった。危なっかしくバランスをとりながら、こちらに背を向けて中腰で立っている。
「バルコニーの向こうに塀があるのよ。このお屋敷をぐるっと囲んでる」
美蘭はそう言うと、自分も手摺に上ろうとした。花奈子は慌てて「待って、私が行く」と引き留め、まだ同じ場所にじっと立っているツゴモリの背中によじ上った。
「ごめんね」と頭を踏み台にすると、簡単に手摺の上に立つことができた。幅は平均台ほどしかないけれど、歩けないわけではない。そうしている間にも、お兄ちゃんはこちらに背を向けて少しずつ塀の上を遠ざかってゆく。塀の内側は広い庭だけれど、外は垂直に近い岩場で、その下は海だった。
「言っとくけど、この程度の高さから落ちたって一発じゃ死ねないからね。あちこち切ったり打ったりして、海にはまって、傷口からフジツボに寄生されちゃうのがオチだから」
美蘭の脅しだか励ましだか判らない言葉に背中を押されながら、花奈子はそろそろと前に進んだ。
「お兄ちゃん!死んだりしちゃダメだよ!」
一歩、また一歩と足を踏み出す。
「お母さんのこと、花奈子に何も話してくれてないじゃない。お父さんも、ばあちゃんも、寛ちゃんも、お母さんのこと色々おしえてくれたけど、お母さんがどんなお母さんだったかは、お兄ちゃんしか知らないでしょう?別に今すぐじゃなくていいけど、ちゃんと話してくれないと、花奈子は将来、自分がどんなお母さんになればいいのか判らないよ」
何故だろう、今まで考えてみたこともなかった言葉が溢れてきた。そう、お母さんはお父さんにとっては奥さんで、ばあちゃんには子供で、寛ちゃんにはお姉さん。本当の意味でお母さんをお母さんと呼べるのは、お兄ちゃんと花奈子だけなのだった。
お兄ちゃんは花奈子の声でようやく、後を追ってきたのだと判ったらしくて、立ち止るとゆっくり振り返った。その間も花奈子は少しずつ進んでいった。お兄ちゃんは簡単に跳んだけれど、手摺と塀の間にはけっこうな段差がある。でも塀の上の方が幅が広いんだから、きっと大丈夫。花奈子は自分にそう言い聞かせて、跳び下りた。
着地した瞬間、大きく身体が後ろに傾き、それを持ち直そうと足を踏み出すと、今度は前のめりになって、バランスを保つために次々と足を運ぶしかなくなってしまった。何だかもう走っているような勢いで前に進みながら顔を上げると、お兄ちゃんがこちらへ両腕を差し伸べているのが見えた。
よかった。お兄ちゃんは、私を避けてるわけじゃないんだ。
そう思って、なんとかその腕につかまろうとした瞬間、左足が宙を踏んだ。そのまま身体が大きく傾いて、目の前の世界がぐるりと回転する。
「花奈子!」
バランスをとろうと必死で振り上げた花奈子の指先と、お兄ちゃんの指先は一瞬触れ合って、また離れてしまった。美蘭の言ってた、フジツボが寄生ってどういう事かな、と思いながら、花奈子は頭上に覆いかぶさる星空を見上げていた。
ふいに、柔らかいものが背中にあたり、身体がそこへ沈み込む。ひんやりとした、水のような肌触り。
「ツゴモリ…」
一体どうやってそこに移動したのか、彼は広い背中で花奈子を受け止めると、しばらく動かずにいてくれた。その間になんとか身体を起こし、彼の首にしっかりと腕を回す。
「ふう、びっくりした。ごめんね、上まで連れていってくれる?」
返事の代わりに彼は一瞬で切り立った岩場を登りきって、塀の上に立った。でもそこにはもう誰もいない。
「きょうだい揃って運動神経、ちょっと鈍いんだ」
いつの間にか、美蘭がバルコニーの手摺の端に立ってこちらを見ている。
「お兄ちゃんは?」
「花奈子と反対側に落ちちゃった。ま、逆じゃなくてよかったわ」と言って、美蘭は手摺から塀の上に飛び移ると、まるで普通の地面を歩くように滑らかな足取りで、花奈子とツゴモリに近づいてくる。
「お兄ちゃん?私は大丈夫だよ」
ツゴモリの首にしがみついたまま、花奈子は庭の方に向かって声をかけてみた。塀のすぐそばには植え込みがあるから、落ちてもクッションになったかもしれない。美蘭も下の方を覗き込んでいたけれど、「おっと、気づかれた」と呟いた。
気づくって、誰が?と尋ねようとしたその時、ふいに目の前が明るくなった。見ると、庭に面した建物の、廊下らしい場所に明かりがついている。人が何人も行ったり来たりして、引き戸を開けると庭に降り、懐中電灯であちこち照らしたりしている。
「あの人たち、どうして判ったんだろう」
「塀に防犯センサーでもあるんでしょ」と言うと、美蘭は口笛よりもっと高く鋭い音を短く二度吹いた。そして宙に手を伸ばしたかと思うと、どこから飛んできたのか、その指先にスズメバチがとまった。
「庭から連れ出せ。眠らせておく」
彼女は低い声でスズメバチにそう囁くと、手首を振って飛び立たせた。そしてもう一度腕を伸ばすと、また別のスズメバチがとまる。今度はそれに軽く息を吹きかけただけで放した。
「何してるの?」と花奈子が尋ねると、美蘭は少しだけ笑って「お兄さま、ちょっと痛い思いしてもらうけど大丈夫よ」と答えた。そして「しばらく隠れておいて」と、ツゴモリの背に乗った花奈子の頭を軽く押さえたかと思うと、自分はいきなり塀から跳び下りた。
がさり、と梢の揺さぶられる音がして、美蘭の「いったあーい」という、わざとらしい悲鳴が聞こえた。
「そこで何してる!」
男の人の太い声が響き、庭のあちこちに散らばっていた人が一斉に、美蘭の声がした方に集まって来る。何本もの懐中電灯に照らされながら、美蘭は植え込みの下からのろのろと這い出し、身体についた枯葉や何かをはたき落しながら立ち上がった。
「あなた今日、研修所に来ていたわね」
厳しい声を出して美蘭の腕をつかんでいるのは、ずっと八千代さまの傍にいたポニーテールの女の人だった。
「一体何のつもり?中に入りなさい。話を聞かせてもらうわ」と、彼女は美蘭を引っ立て、美蘭は抵抗もせず、黙ってそれに従う。ツゴモリの背中に深く身体を沈めたまま、花奈子は美蘭のすっきりと伸びた背中が建物の中に消えていくのを見守っていた。そして辺りが静かになり、廊下の明かりが消された頃、「花奈子」と低い呼び声が聞こえた。
見ると、バルコニーの手摺の端、さっき美蘭が立っていたあたりに亜蘭がいる。彼も美蘭に負けないほど軽やかに塀の上に跳び移ってきたけれど、花奈子たちにあまり近寄らずに立ち止った。そして庭を背にして塀の上にしゃがむと、両腕をかけてぶら下がるように足から降りてゆく。塀を蹴って植え込みに跳び下りると、器用に枝を伝って地面に降りた。
「私も行く」と花奈子がツゴモリに呼びかけると、彼は仕方ないなあ、という風に、ずいぶんゆっくりと宙を踏みしめて降りていった。じれったくなった花奈子は、途中で思い切って柔らかそうな苔の上に跳び下りた。そのまま、ぱきぱきと小枝を踏む足音がする方へ進むと、ちょうど亜蘭が木の下からお兄ちゃんを引っ張り出している最中だった。頭でも打ってしまったのか、目を閉じてぐったりしている。
「お兄ちゃん!」
声をかけて腕に触れ、あらためてその顔をよく見たけれど、何だかずいぶんと頬のあたりの輪郭が鋭くなって、険しい面立ちになっている。
「大丈夫だよ。美蘭がちょっと眠らせてるだけで、どこも怪我してない」
そう言う亜蘭の首筋には、みみずばれのように赤い傷が三本も走っている。
「亜蘭、怪我してる。枝にひっかけたの?痛くない?」
「これは別に、今じゃない」と低い声で答えると、亜蘭は急に顔を背けた。
「ごめん。最初は美蘭に言われて、花奈子がちゃんと一人で東京に来て、おじさんに会えるか見てたんだけど、後は、ただ、気になって。別に覗き見しようとか、そんなつもりじゃなくて」
「え?何のこと言ってるの?」
話が見えずに困っていると、後ろでツゴモリが馬鹿にしたように鼻を鳴らした。ふと、彼の鉤爪に押さえつけられていた、豆炭の姿が脳裏に浮かぶ。ツゴモリの言ったこと、本当だろうか。
「ねえ、亜蘭」
そう呼びかける花奈子から逃げるようにして、彼はお兄ちゃんを背負い、建物の方へと歩きだした。けっこう力あるんだ、と驚きながら花奈子は後を追いかける。ツゴモリは少し離れたところから、まるで高みの見物といった風情でこちらを見ていた。
「ちょっと手伝ってもらっていい?」と声をかけたその時、いったんは閉められた廊下の引き戸を開ける音がした。
「大丈夫か?」と、周りの様子をうかがうようにして庭に降りてきたのは金井さんだった。彼は花奈子と目が合うと「あれ?」と固まってしまった。
「きみ、タクシーで帰ったはずじゃ…」
「やっぱり引き返してきたんだ」と、適当にごまかして、亜蘭は金井さんに「足の方持って」と頼んだ。
「右に行った突き当りの階段を下りると、ガレージに出るドアがあるよ」
まるで自分の家みたいに道順を教えると、亜蘭はお兄ちゃんの両脇を抱えて廊下に上がった。花奈子もその後に続いたけれど、連れていかれた美蘭のことが心配で立ち止った。それに気づいたのか、亜蘭は振り向くと「美蘭なら、一人でも大丈夫だよ」と言った。
「うん、でも…後からすぐ行くから」
花奈子の言葉に、亜蘭は何か言いたそうだったけれど、「車、防波堤のとこに停めてるよ」とだけ言って、また背をむけると歩き出した。
いつの間にか傍に来ていたツゴモリの首に腕を回し、花奈子は「美蘭のいる場所に連れて行って」と頼んだ。彼は「乗れ」とだけ言うと、花奈子がまだしっかりつかまらないうちに宙を踏んで歩き出した。
見る間に天井が近づいてきて、なんだか背筋がくすぐったいような感じがしたと思ったら、もう天井を突き抜けて二階に出ていた。誰もいない真っ暗な部屋で、ツゴモリはその部屋の壁を通り抜け、次の部屋と廊下を抜け、いったん外に出てからまた壁を突き抜けて建物の中に入った。
「これ全部、同じ家なの?」
「他人に大きく見られたい者は、嵩高くて入り組んだ屋敷を好むようだな」
最後にたどりついた場所は、暗い廊下だった。目の前には重そうなドアがあって、その下から明かりが漏れている。耳を澄ますと、人の話し声が聞こえた。
「中に入れないの?」
「入ったところでどうするのだ?お前に何ができる?」
そう言われると、返す言葉がない。何人もの大人を相手に美蘭をかばうなんて、自分には無理だった。
「せめて美蘭に、一人じゃないって判ってほしいの。すぐそばにいるって」
「いいだろう」
あっさりと花奈子の願いを聞き入れると、ツゴモリは少しだけ身体を後ろに引き、跳んだ。次の瞬間、目の前が明るくなる。そこは広い部屋で、ツゴモリは天井から下がっている大きなシャンデリアの上に、花奈子を乗せたまま身をひそめているのだった。
壁のあちこちには油絵が飾られ、床にはペルシャ絨毯が敷かれ、ヨーロッパのお城にあるようなソファやテーブルが置かれている。ただ、その豪華な部屋の雰囲気にそぐわないのは、床に座らされている美蘭と、彼女を取り囲んで険しい顔つきで立っている、男女合わせて十人ほどの大人たちだった。
ツゴモリと花奈子がのっているのに、シャンデリアは微動だにせず、大人たちは誰もこちらの存在に気づいていない。でも美蘭は判ってくれるだろうか。そう思いながら首を伸ばして下を覗き込むと、ちらりとこちらを見上げた彼女が軽くウインクしてみせた。跳び下りた時にぶつけたのか、誰かにぶたれたのか、唇が切れて血がにじんでいる。
本当に大丈夫なんだろうか。心配になってツゴモリの首を抱きしめたその時、ドアが開いた。大人たちはいっせいにそちらへ向き直り、頭を下げて道を譲る。その真ん中へとゆっくり姿を現したのは八千代さまだった。
21 これが私の答え
「わざわざこんなに遠くまでお越し下さるとは光栄だわ。でも、次は電話を先に頂戴ね。私けっこう夜が早いのよ」
部屋に入ってきた八千代さまはそう言って、絨毯の上に座っている美蘭を見下ろした。
「ほんと、結構なお屋敷ね。これも信者さんから巻き上げたの?」と、美蘭は笑顔を浮かべる。八千代さまは何も答えず、すぐそばにある椅子にゆっくりと腰を下ろした。すかさず、脇の小さなテーブルに、ハーブティーのような色の薄いお茶が入ったカップとソーサーが出される。
八千代さまは昼間とは違って、髪は結わずにまとめ、ラベンダーのターバンで巻いている。お化粧はしていないけれど、眉だけが妙にくっきりとアーチを描いていて、クリームでも塗っているのか、肌はつやつやと光っている。ターバンと同じ色のガウンを羽織り、その襟元には真紅のレースがのぞいていた。足元はバラが刺繍されたピンクのルームシューズだ。
「それで?こちらにお見えになったのはどういうご用件?こんな物騒なものまで持って」と言いながら、彼女はそばにある小さなテーブルの上から何かを手にとった。美蘭の短刀だ。何度か鞘から抜こうとしたけれど、うまくいかない。
「そんなに物騒なもんじゃないわよ。私にしか抜けないんだから」と美蘭が言うと、八千代さまは「なんとかに刃物って言うものねえ。恐ろしいこと」と大げさに怖がってみせ、それをテーブルに戻した。
「さて、もう十分に警察を呼べる条件は揃っているけれど、通報していいかしら?」
「いいけど、捕まったら色々しゃべっちゃうかも。この人たち、信者さん食い物にして臓器売買してるんですけど、なんて」
八千代さまは笑うように口角を上げてみせたけれど、少しも楽しそうではない声で「面白い話をしてあげましょうか」と言った。
「うちがお世話になってるお医者様がおっしゃったのよ。十年ほど昔に、初めて非合法の移植手術をしましたって。なんでも、母親に毒の入ったミルクを飲まされた子がいたらしいの。自分で産んだ子なのにそんな事をするなんて、母親にとってさぞかし嫌な、憎らしい子供だったんでしょうね。男の子と女の子の双子で、小学生だったんですってよ。女の子はずる賢くて、ミルクを捨ててしまったけれど、男の子は素直に飲んでしまったらしいわ」
八千代さまはテーブルに出されていたカップとソーサーを手にとり、ハーブティーをおいしそうに飲んだ。美蘭は表情も変えずにそれを見上げている。
「毒はゆっくりと男の子の身体に回って、周りの人が気づいた時にはもう手遅れだった。腎臓をやられてしまったのよ。その子たちの親戚は、お金は持ってるくせにとにかく自堕落で、警察沙汰は面倒だから事件は秘密にして、このまま死なせてしまおうという話になったの。ところが、無事だった方の女の子が、自分の腎臓を分けてあげてって、泣いてお願いしたんですって。何だってするから、弟を助けてあげて。でないとお母さんのこと、警察に全部ばらすからって。子供のくせに、本当にずる賢いのね。彼女があんまりうるさいものだから、親戚も面倒になって、先生にこっそり手術をして下さるように頼んだの。その代わり、女の子には大人になったら一族のために働いて、汚いお金をたんまり稼ぐようにって、約束させたらしいわよ。何ていったかしら、その妖しげな一族。たしか、夜久野って名字だったと思うんだけれど、あちこちで耳にするのよね。あなた、聞いたことないかしら?」
「ないわよ。それに、そんなこまっしゃくれた子供の話なんて、聞いてて吐き気がするわ」
「あらそう。でも、この物騒なものを取り上げた信徒が、あなたにの身体には手術したような傷跡があったと言っていたけれどね」と、八千代さまは美蘭の短刀を再び手にすると、こつこつとテーブルを叩いた。
「タトゥー消そうとして失敗したの。彼氏の名前なんて、入れるもんじゃないわね」
「何とでもお言い。どのみちあんたは毒蛇だ。でもとにかく、その毒は一級品ね。ここはひとつ考えを変えてみない?お金がほしいなら、うちだって持ってないわけじゃないのよ。鬱陶しい親類縁者に義理立てしなくてもいいように、話をつけてあげましょうか?蛇遣いもなかなか面白そうだからね」
「悪いけど、何の話してるんだかさっぱり判んないわ」
美蘭はそっけなく言うと、露骨にうんざりした表情を浮かべた。
「そう」と、八千代さまは眉を上げる。
「まあいいわ。あなたくらいの器量なら、売り飛ばす先は幾らでもあるから。私から見ると、ちょっと痩せすぎだけれど、殿方の好みなんて人それぞれだものね。旅行は好き?遠くまで連れて行ってあげる。いろんな男の人とお友達になれるわよ」
「ありがたいけど」
美蘭はゆっくりと身体を起こし、「私は自分ちで昼寝してるのが一番好きなの」と言いながら腰を浮かせ、いきなり八千代さまの脇にある小さなテーブルの脚をつかむと、大きく振り上げて窓に投げつけた。
「こいつ!」
ガラスの割れる音とほぼ同時に、美蘭のすぐ脇にいた男の人が彼女を押さえつけ、右腕を後ろに捩じりあげた。咄嗟に立ち上がりかけた八千代さまは、また椅子に腰を下ろすと、自分を落ちつかせようとするかのように、深呼吸して微笑みを浮かべた。
「あなた、正義の味方になってみたいの?弟を助けてくれたお医者様を警察に売ってでも?残念だけど、何をしたって薄汚れた世界からは出られないからね」
美蘭はまだ腕を捩じられた体勢のまま、八千代さまを睨んだ。
「正義なんて、私には関係ない。ただ、あんたが私の友達とその兄さんにしたのと同じ事を返してやろうと思ってるだけ」
「私が何をしたというの?住む場所を用意して、食事も出して、悩みだって十分に聞いてあげたのに。あんたと違って、人の役に立ちたいという清らかな志のある人だから、心を尽くしてお手伝いしたのよ」
「よく言う…」
美蘭の言葉が終わらないうちに、彼女の腕はさらにきつく捩じられ、その口からは苦しそうな息が漏れた。
「美蘭!」
花奈子はツゴモリの背で身体を強張らせていた。さっきから心臓はまるで全力疾走した後みたいに激しく打ち続け、背筋には冷たい汗が流れている。そして何か、低いモーターのような、わんわんという耳鳴りが頭を包み込んでいた。
「ツゴモリ、美蘭を助けてあげて。あのままじゃ骨が折れちゃう」
一生懸命そう頼んでも、ツゴモリはじっとしていた。
「まあ見ていろ、あの娘が本当に毒蛇かどうか」
彼が落ち着いた口調でそう言った時、鋭い悲鳴が響いた。最初は一人、そして次々に。部屋にいた十人ほどの人たちは、狂ったように逃げ惑っていた。何だろう、そう思った花奈子の頬をかすめたのはスズメバチだった。よく見ると、割れた窓からまるで煙のようにスズメバチの群れが入り込んでくる。耳鳴りだと思ったのはその羽音だったのだ。
けれど本当に恐ろしいのはスズメバチよりも、我を忘れて逃げ惑う人々の姿と、怯えきった獣のような叫び声だ。他の人を突き飛ばし、逃げ場を求めてやみくもに走り回る人もいれば、凍りついたように突っ立って、悲鳴だけを繰り返している人もいる。美蘭の腕をつかんでいた男の人も、耐えられずに腕で顔を覆い、椅子の下に隠れようとした。花奈子はいつの間にか自分が、まるで氷水につかったみたいに震えていることに気づいた。
正気を失った群舞の只中で、美蘭は一人、白い顔に冷たい笑いを浮かべて立ち上がり、絨毯の上に丸く縮こまっている八千代さまを見下ろしている。ようやく、一人が部屋のドアを開けて外に出ると、他の人たちも我先にとその後に続いたけれど、誰一人として八千代さまの方を振り返ることはなかった。
他の人たちがいなくなった途端、全てのスズメバチは八千代さまの方に向かった。頭を抱えて縮こまっている彼女の上で、群れ全体が黒とオレンジのモザイクでできた一つの生き物のように集まり、形を変えながら飛び続けた。
「あんたが何もしてないと言うなら、私だって何もしていないわ。いい?これから百日の間、あんたが外に出ようとすれば、必ずこの蜂たちが現れるだろう。運が悪ければ刺されるかもしれないね。何度刺されるかはお楽しみ。そして夜眠ろうとすれば、この蜂たちの羽音があんたの耳について離れないだろう。きっといい夢が見られるよ。もし眠れたら、の話だけれど」
それだけ言うと、美蘭は絨毯の上に転がっていた短刀を拾い上げ、確かめるようにほんの少し鞘から出すとまた納めて腰に差した。そして悠然とした足取りで部屋を出て行く。花奈子は慌ててツゴモリに「一緒に行こう」と声をかけた。彼は「どうだ、恐ろしい娘だろう、あれは」とだけ言うと、シャンデリアから音もたてずに跳び下りた。
まだ丸く縮こまったままの八千代さまに気づかれることもなく、ツゴモリと花奈子は開けっ放しのドアを抜けて廊下に出た。美蘭はここまで来た道筋を憶えているのか、迷うことなく足早に歩いてゆく。花奈子はツゴモリの背中を下りると、走って追いついた。
「美蘭、腕は大丈夫?」
彼女はちらりと振り向くと、「あんなの大したことないわ」と言った。暗く静まり返った廊下には誰もいない。さっき逃げていった人たちはどこにいるのだろうと思いながら、花奈子は美蘭に寄り添って歩いてゆく。やがて見覚えのある場所に来て、その突き当りにある階段を下りてドアを開けると、半地下の広いガレージに出た。
「亜蘭の奴、ちゃんと靴拾っといてくれたかしら。花奈子ったら、サンダル持って来なかったの?」
自分も裸足で歩きだしながら、美蘭は呆れたように言った。
「玄関を通れなかったからね。でも、どうってことないよ」
ガレージに続くアスファルトの地面は、ひんやりして気持ちよかった。目の前には二車線の緩くカーブした道路が通り、その向こうは暗い林だ。ガレージの入り口にあるセンサーライトを除けば、あとは道路沿いに所々、思い出したように青白い街灯が立っているだけの寂しい風景だった。右手の方から微かに波の音が聞こえてきて、美蘭はそちらに向かって歩いてゆく。
「どう?私が毒蛇だってあの女が言った意味、判ったでしょ?あれよりずっと恐ろしい事だって、私は平気でやるよ」
まっすぐ前を向いたまま、美蘭は低い声でそう言った。花奈子はつい先ほどの、全身が凍りつくような感覚を思い出して唇を噛んだ。
「それでも、私は、美蘭のことが好きだよ」
そう、さっきの出来事だけで美蘭を嫌いになるなんて、不可能だった。スズメバチがとても獰猛なのと同時に、美しくて魅力的なのと同じ事じゃないだろうか。毒蛇は悪いから猛毒を持っているわけじゃない。
手を伸ばし、さっきまで強く捩じられていた美蘭の白い腕に触れ、その手に指を添わせてみる。冷たい指先がそっと握り返してきて、花奈子の胸の奥に暖かいものが灯った。
「お兄さまは少しの間眠ってるけど、ちゃんと目を覚ますからね。おじさまのところに戻って、これからどうするか相談するといいわ。家には帰りたくないみたいだから」
「どうして帰りたくないの?何か言ってた?」
「さあね。でもいいんじゃない?どうせ一生部屋にこもって暮らすなんて、無理な話だし」
相変わらず突き放したような美蘭の言葉に、何故だか花奈子はほっとしていた。美蘭は軽くため息をつくと、道端に血の混じった唾を吐いた。
「口の中、怪我したの?唇も、痛むでしょ?」
「大丈夫よ。あのひとがディープキスしてくれたらすぐ治るんだけどね」
後ろにいるツゴモリをちらりと見て、美蘭はくすりと笑った。彼は何も答えず、静かにゆったりとついてくる。
「ツゴモリ」
花奈子は立ち止り、彼に声をかけた。
「いいよ、今の冗談だから。タバスコでも塗っとけばすぐ治るわよ」と、美蘭は先を急ごうとした。
「違うよ。美蘭はツゴモリの力を借りたいんでしょう?仕事をするのに、ツゴモリに助けてほしいって言ったよね。だからそうしてあげてほしいの。さっきみたいに美蘭が辛い目に遭わないように、守ってあげて」
「そうすれば、私はもう二度とお前の傍に仕えることは叶わなくなるが、それでよいのだな」
花奈子は黙って頷いた。本当を言えば、ツゴモリといれば何が起きたって安心だろうけど、誰よりもその助けが必要なのは美蘭に違いない。彼女は何も言わず、じっとツゴモリの方を見ていた。
「いいだろう。花奈子、お前の願いは聞き入れられた。ただし、この娘は私の封印を解いた者ではない。だから彼女に仕えるには取引が必要だ。娘よ、お前にできるか?」
こんどは美蘭が頷く番だ。
「では、私はお前の身体の一部を食らわねばならない。お前自身がその手で切り取って私に差し出すのだ。いいか、指の一本や二本といったつまらぬ物では駄目だぞ。肉を裂き、身体の中から取り出してみせるのだ」
美蘭の白い喉がごくりと唾を呑み込む。
「さすが、面白いこと言うわね」
「一刻の猶予もならない。今すぐだ」
「待って、そんなのひどいよ」
花奈子は慌てて二人の間に割って入った。今にも吐きそうに胸がざわいている。
「どうしてそんな残酷な命令をするの?お願いだから、何も言わずに美蘭を助けてあげて」
「お前たち人間は、自分の感じるままに私を優しいだとか残酷だとか、好きなように品定めしているが、私は常に変わらずにある。己の心の揺らぎを、影のように私に投げかけるのは誤りというものだ」
「ツゴモリ…」
どうして判ってくれないのだろう。まるで岩か何か、心のないものを相手に話しているようだ。美蘭はただ黙って何か考えているようだった。その時、誰かがこちらへ駆けてくる足音がした。
「美蘭!花奈子!」そう呼びかけているのは亜蘭だった。美蘭はちらりとその姿を見ると「馬鹿、来るな!」と叫んだ。それでも彼は駆けてくる。ツゴモリは首をおこすと「これはまた、いい頃合いに現れたな、小僧」と言った。
ようやく何かおかしいと気づいたのか、亜蘭は走るのをやめ、そろそろとこちらへ近づいてくると、美蘭とツゴモリを交互に見た。
「まさに私の欲するものにうってつけではないか。この小僧はお前が腹を裂いて与えた臓腑によって、今日まで生きながらえた。言い換えれば、今日この時のために、お前の臓腑を預かっていたという事だろう。この小僧の命は幼い頃に尽きていたのだ。さあ、その刃で奴の腹を裂いてお前の臓腑を取戻し、私に捧げるがよい」
「やめて、ツゴモリ!お願いだからそんな事言わないで!私にできる事だったら何でもするから!」
花奈子はツゴモリの首筋に顔を埋めたまま叫び、揺さぶったけれど、彼は根が生えてしまったかのように動かない。亜蘭は何か、はっとしたような顔でツゴモリの言葉を聞き、美蘭に向かって「この腎臓、車にはねられて死んだ子のだって、言ってたよね」と尋ねた。
「そうに決まってんだろ」
美蘭は腕組みをして、彼とは目を合わせずに答える。
「あの時美蘭も入院してたけど、本当に食あたりだったの?」
「そうだよ。私はあいつに、腐った魚を食べさせられたんだから」
「裸が嫌いなのは、貧乳コンプレックスのせいだよね?」
「うるさいな!足りない頭で色々考えるんじゃないわよ!」と叫ぶなり、美蘭は背中に腕を回して短刀を抜いた。何だか目が座っていて恐ろしく、花奈子は「こんな時にきょうだい喧嘩しないで!」と大声でわめいていた。
美蘭は「ごめん、ちょっと静かにしてて」と言って左手を天に伸ばし、その指先に一匹のスズメバチを捉えると息を吹きかけて飛ばした。それはまっすぐに花奈子めがけて飛んでくると、素早く頬をかすめた。一瞬、ちくりとした痛みが走り、気がつくと全身が動かなくなっていた。目は見えるし、耳だって聞こえるのに、声を出すこともできない。
そのわずかな隙をついて、亜蘭は美蘭が短刀を持っている腕をつかみ、彼女のTシャツを捲り上げようとした。
「何すんだこの変態!」
美蘭は何とか逃れようとしたけれど、亜蘭の方が背が高いし、力も強い。美蘭はバランスを失って地面に倒れ、亜蘭に押さえつけられてしまった。彼の手で露わになった彼女の白い素肌に、何かの印のような傷跡があるのは、花奈子の目にも明らかだった。
「この野郎ぉ!」
美蘭はお腹の底から絞り出すような唸り声を上げると身をよじり、すごい勢いで亜蘭の股間を蹴り上げた。彼は声も出せないほど苦しそうに身体を丸めて、その場に蹲ってしまった。
「うるさいうるさいうるさいんだよこの馬鹿が!」
美蘭の髪が逆立っているのは、地面に倒れてもみ合っていたからではないようにも思えた。彼女は亜蘭の事など気にもかけない様子で立ち上がると、ツゴモリに向き直った。
「待たせて悪いわね。約束はちゃんと守るよ。これが私の答えだから、受け取って」
そう言うと、彼女は自分の身体に向けて短刀を両手でしっかりと持ち、腕をまっすぐに伸ばした。
やめて!美蘭!
花奈子がどれだけ大声で叫ぼうとしても、喉からは空気が漏れてゆくだけだった。次の瞬間、美蘭はその短刀を自分の左目に突き立てていた。
「さあ、食べるがいい」
彼女はそれだけ言うと、膝から地面に崩れ落ちた。見る間にその白い横顔の下に血溜りが広がり、力を失った指は短刀の柄を離れた。その瞬間、花奈子の身体には自由が戻ってきた。
「美蘭!お願い美蘭、しっかりして!」
駆け寄って、いくら呼びかけても返事はない。早く救急車を呼ばないと、このままでは死んでしまう。けれど携帯電話は置いてきたままだし、亜蘭はまだ地面に蹲っている。気がつくとツゴモリがすぐそばまで来ていた。
「ツゴモリ、ひどいよ。どうして美蘭がこんな目に遭わなきゃいけないの?お願いだから治してあげて。また目が見えるようにしてあげて」
花奈子は美蘭の血で赤く染まった両手を差し伸べると、倒れ込むようにしてツゴモリの太い首を抱いた。その身体からじかに、波の音のように低く、深い声が響いてくる。
「その娘の目は自分で思い定めて傷つけたのだから、元には戻らない。それに、身体から取り出すこともできなかったのだから、私か彼女に仕えることも叶わない。だが花奈子、お前と、そこの情けない小僧に免じて、私の片方の目をこの娘に貸し与えよう。私はもうこの姿をとどめることはできなくなるが、それもまた物事の流れゆく定め。いつの世も人は愚かしく、娘たちは恐れ知らずだ」
「明るくなってきたね」
亜蘭が辺りを見回してぽつりと言った。花奈子はまだ気を失っている美蘭の頭を膝にのせたまま、ほの明るく藍色を帯びた空を見上げた。
「誰か通る前に、ここを離れた方がいいよ。僕が背負っていくから」
「でも、無理に動かさない方がいいんじゃない?気がつくまで待ってあげようよ」
もうずいぶん長い時間が経ったような気もするし、ほんの二、三分前のようにも思える。気がつくと花奈子は道端に倒れていて、すぐ傍には美蘭が横たわっていた。慌てて抱き起すと、彼女は傷ひとつない姿をしていて、血まみれだった花奈子の手もきれいになっていた。そしてツゴモリの姿は消えてしまっていた。
「別に、眠ってるだけじゃないかな」
少し離れた場所に膝を抱えて座っている亜蘭は、首を伸ばして美蘭の様子をうかがっている。そう言う自分は大丈夫なのかな、と花奈子は少し心配だったけれど、蹴られた場所が場所だけに、わざわざ聞くのもためらわれた。
「でもさ、さっきみたいに取っ組み合いになったの、久しぶりなんだけど、美蘭、なんだか前より弱くなってた。どうしちゃったんだろう」
「それって、前より亜蘭が強くなったんじゃない?男の子だし」
けっこう当たり前だと思えることを花奈子に指摘されて、亜蘭はびっくりしたような顔になった。そして何も答えずに、草むらから拾い上げた美蘭の短刀を指先で弄びつづけた。花奈子も黙ったまま、美蘭の柔らかな髪を指で梳きながら、藍色の空に吸い込まれるように消えてゆく星たちを見上げる。ゆるやかに低く繰り返す遠い波の音に、なんだか頭がぼんやりとしてきた頃、亜蘭がふいに口を開いた。
「病院で手術してもらった時、僕ほとんど死にかけてらしいよ。何日も意識が戻らなかったって。自分じゃ判らないけどね。それで、やっと気がついたら、美蘭がベッドの脇の、すぐ目の前でこっちを見てたんだ。いっぱい涙を流しながら、よかった、って、それだけ言った。
このごろはいつもひどい事ばっかり言うし、威張ってるし、身勝手で乱暴だし、もう出てってやろうとか、絶縁してやるとか何度も思うんだけど、どうしてもあの時のことが忘れられないんだ。美蘭ってさ、あれから一度も泣いたことないんだよ。少なくとも僕の前では。そりゃ、たまにお寿司のわさびがツーンとなって泣いてるけど、そういうのって、違うよね?」
「そうね」と頷いて、花奈子は美蘭の長い睫毛の端に、朝露みたいな涙が溜まってゆくのを見つめていた。そうするうちに自分も目の前がぼんやりしてきて、涙のしずくが美蘭の白い頬にぽたりと落ちた。
猫が喉を鳴らすような、低いうめき声を漏らして、美蘭は寝返りを打とうとした。「美蘭?美蘭、大丈夫?」と声をかけると、「ん、だい、じょうぶ」という返事があって、起き上がろうとする。しかしいきなり「わ!眩しい!」と悲鳴を上げて、身体を丸めてしまった。
「目を開けない方がいいよ。怪我をしたの、憶えてる?亜蘭が背負ってくれるから、そのまま動かないで」
花奈子は慌てて美蘭の背中をさすった。なのに彼女は「いや、別に痛いとかじゃないし」と言いながら、地面に両手をついて身体を起こした。そしてまだひどく眩しそうに何度か瞬きを繰り返してから、ゆっくりと目を開いた。本当に大丈夫なんだろうかと、花奈子は食い入るように彼女の顔を見ていたけれど、次の瞬間、思わず声をあげていた。
「ツゴモリの目だ」
まだ少し心もとない感じで開かれた美蘭の左目は透き通るようなレモンイエローに変わっていた。でも幾度かまばたきを繰り返す内に、それは右の目と同じ深さに染まっていった。
「見える?ちゃんと私の顔が見える?」一生懸命そう繰り返すと、美蘭は少しだけ笑顔になって「花奈子、また泣いてる」と言った。それから彼女は立ち上がろうとしたけれど、「おっと」と呟いて何か胸元から転がり落ちたものを拾い上げた。
「これは花奈子のだね」
そう言って手渡されたのは、ちょうど半分に割れた、レモンイエローの玉だった。
「私が死んだら、あのひとはまた花奈子のところに戻ってくる。今夜かもしれないし、まだ何年も先かもしれないけど」
「ずっとずっと、百年ぐらい先の話だよ」
「まあ私もそんなに粘る気ないけどさ」と言って、美蘭は立ち上がった。いつの間にか亜蘭が傍に来ていて、彼の差し出した短刀をいつも通り身に着けると、美蘭は「お腹すいたんだけど」と言った。
「あんた、コンビニでおにぎりとか買っといてくれなかったの?」
「買ってない」
「私が起きるの、ただぼーっと待ってたわけ?」
「まあ、そうかな」
「目が覚めたら何か食べたくなるに決まってるじゃない!ほんと気が利かないんだから。いいよもう、ひかり亭の牛丼で。ここ来る途中にあったよね?せっかく海辺に来てるのに牛丼なんてどうかと思うけど、しょうがないわ」
ひとしきり文句を言い終えると、美蘭はすたすたと歩き始めた。一瞬ぽかんとして、それから花奈子は慌てて彼女を追いかける。その後ろから亜蘭が「牛丼だって、朝から」とため息混じりに続いたけれど、その足音はなんだか弾んでいた。
22 空と同じ明るさ
縁側から吹き込んでくる乾いた風が、ばあちゃんのしまい忘れた風鈴を鳴らしている。花奈子はしば漬け炒飯を食べる手を休めて、もう何度目かのメールチェックをした。
「まだ何にも言ってこない。そろそろ着いてもおかしくないよね」
「今日はお祭りでお神輿が出てるから、道が混んでるんでしょう。それより先に、ごはん済ませないと、拓夢くんに笑われるよ」
ばあちゃんは呆れ顔でそう言うと、熱いほうじ茶の入ったお湯呑を置いた。花奈子は携帯を閉じると、少しだけ残っていた炒飯を平らげてお茶を飲んだ。
「別にそんなに慌てなくても、今日はここで晩御飯食べていくんだし、ちょっと落ち着きなさいよ。本当にそういうところがお母さん譲りなんだから」
「でも、明日は模擬テストだし、月曜からまた学校だし、ゆっくりできるの今日だけなんだもの。早くぬいぐるみ虫干ししないと」
「だったら先に並べておいたらいいでしょう」
「やだ。拓夢と一緒にやりたいの」
ちょっとお行儀が悪いけれど、畳の上にそのまま仰向けになると、縁側の軒から青く澄んだ空が見える。昼間はまだ半袖で平気なほど、穏やかな十月の土曜日だ。
辛くても頑張った新しい薬での治療がうまくいって、拓夢は半月前に退院した。今日はようやく、ずっと約束していた、寛ちゃんのぬいぐるみ部屋を見せてあげることができるのだ。拓夢の反応はどんなだろうと想像すると、勝手に笑顔が浮かんできてしまう。
自分の心の中もあの空と同じ明るさだ、そう思いながら首を廻らせると、目の端に黒いものが見えた。はっとして、急いで起き上がると、縁側にちょこんと顔を覗かせた黒猫と目が合う。
「豆炭」と呼んでから、やっぱり「亜蘭?」と呼び直してみる。猫は「ニャ」とだけ答え、首を伸ばして中を覗き込んでいる。
「上がってもいいよ。でも、そこの雑巾で足ふいてね」
豆炭は言われた通り、縁側に置いてある雑巾の上で器用に足の裏を拭いてから上がってきた。初めて会った頃は子猫が少し大きくなった位だったのに、今はすっかり大人の猫で、そのせいなのか、もう膝にのって甘えてきたりしない。いつも少しだけ距離をおいて立ち止るけれど、撫でられるのは嫌いではないらしい。花奈子は手を伸ばし、その滑らかな毛並みを頭のてっぺんから尻尾の先まで、何度か撫でてやった。
「今日はお父さんと拓夢が遊びに来るんだよ。幸江ママはお友達の結婚式なの」
「ニャ」
「親戚やお友達の、結婚式とか行ったことある?」
「ニャ」
きっと、今日は豆炭の目と耳を借りて亜蘭が来ている。はっきり見分ける方法となると難しいけれど、聞き分けとか行儀のよさで大体察しがつく。いつもはたいてい夜、部屋で問題集なんかやっていると、彼と豆炭は窓辺に遊びにくる。そのまま入れてあげると、スタンドの脇に置物みたいに座って、花奈子が勉強するのをじっと見ているのだ。
美蘭にはしょっちゅう馬鹿にされている亜蘭だけれど、実は理数系と英語がけっこう得意らしくて、花奈子が答えに困っていると「ニャ」と正解を指さしてくれたりする。でも、猫の前足は丸っこいから、どの答えをさしているのかはっきり判らない。「これ?」と指さしてみると、またその上から「ニャ」と押さえてきたりして、しばらく指相撲みたいにやりあって、「もう、邪魔しないで」と怒るつもりが、つい笑ってしまう。
たぶん、亜蘭は寂しいからこんなによく遊びに来るのだ。
あの日、ツゴモリに目をもらってからしばらくして、美蘭は「個人的な修学旅行」とだけ言い残してロシアのカムチャツカへ旅立ってしまった。亜蘭は置いてきぼりで、きっと生まれて初めてこんなに長い間、美蘭と離ればなれ。美蘭がどうして単独行動で、聞いたこともない場所で何をしているのかは全くわからないのだけれど、メールだけはたまに送ってくる。そこには「猫と遊んでばっかりいちゃ駄目だよ」なんて、全てお見通しのような事が書いてあったりする。
「本格的に寒くなる前に帰るね。でもこっちは露天風呂だらけで、帰りたくないわ」と、写真も送ってくるんだけれど、どう見てもただの川原とか岩場に湯気が立っているだけで、お風呂とは言い難い場所ばかり。呑気に入浴していたら熊に襲われそうな、大自然のど真ん中の風景だった。でも彼女なら、真夜中でも全然怖がらずに、降るような星空の下で温泉を満喫しそうに思えた。
そして亜蘭はメールなんて少しも送ってこない。ただ、豆炭の身体を借りて遊びに来るだけで、「一人で毎日何してるの?」と尋ねても「ニャ」としか返事しないのだ。いつもそうやって、何となく花奈子の受験勉強につきあい、そろそろ寝ようかな、という頃になるとまた窓から帰ってゆく。いくら退屈してるからって、こんな事してて何が面白いんだろう。東京にはもっと楽しいことがいっぱいあるはずなのに、男の子って何考えてるんだか、本当によく判らない。
でもまあ、花奈子の受験勉強を実際に支えているのはお兄ちゃんだった。
あの日、美蘭たちに送ってもらって、二人で寛ちゃんのアパートに戻り、花奈子だけが家に帰った。お兄ちゃんはそのまま残って寛ちゃんの東北旅行につきあい、その後も居候を続けて、九月からまた大学に通い始めた。といっても授業に出てるのは週二日ぐらいで、あとの時間はネットの学習塾で、不登校の子に勉強を教えるボランティアをしている。そのついでに、花奈子の勉強もみてくれているのだ。
たぶん今までで一番長く、お兄ちゃんとしゃべっていると思うのだけれど、それがネット経由でカメラ越しというのは何だか不思議な感じだった。家の事やなんかだと、お互いに何をどう話せばいいのか判らないのに、勉強の質問や説明だったら、いくらでも普通に話すことができた。そしていつの間にか、時々ではあるけれど、勉強以外のことも話題にするようになっていた。そんな時には豆炭と亜蘭は絶対に現れなくて、その代わりというべきか、たまに寛ちゃんが乱入してくる。ともあれ、授業はけっこう順調で、模試の成績も目に見えて上がってきた。
寛ちゃんは近いうちにもっと広い部屋に引っ越して、お兄ちゃんが卒業するまで一緒に住むつもりらしい。でもそれじゃ葛西さんが黙ってないだろうな、と花奈子は気がかりだった。それとなくお兄ちゃんに探りを入れてみても、そんな女の人知らないなあ、なんて言うだけで、もしかして寛ちゃんは、ふられてしまったのかもしれない。
「ねえ、拓夢が来たら、撫でさせてあげていい?乱暴する子じゃないから」
そう言って抱き上げようとしても、豆炭はするりと腕から抜け出して、少し離れたところでこちらを見ている。
「もう!私のこと嫌いなの?」
「ニャ」
「だったらどうして遊びにくるの?」
「ニャ」
もういいや、と思ってお膳に向き直り、ばあちゃんが出してくれたベビーカステラを頬張っていると、柔らかい尻尾の先が肘のあたりを行ったり来たりする。でも腹が立つからわざと知らんぷりして、ぬいぐるみ部屋に入った時の、拓夢の反応を想像してみる。大喜びで、すごくはしゃいで、声をあげて飛びついたりするだろうか。でも、もしかしたら、自動車の方がいい、なんて言って、あんまり喜ばないかもしれない。そう、男の子って、やっぱりよく判らない。
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