星降る夜に
一年に一度だけ、星降る夜には奇跡が起きる
もうたくさんだった。もう、何もかもたくさんだった。私には何もなかった。勉強も、うまくいかない。人間関係も、うまくいかない。ずっと頑張ってきて唯一希望をみせてくれた音楽でさえも、私の手のひらから零れ落ちていった。そうして何もかも無くした大学二年生の冬に私は現実世界からの逃亡を決めた。
コンクールが終わったそのままの荷物で、私は電車に乗った。終電ひとつ前くらいのぎりぎりの電車に。どこに行こうというわけではなかった。ただただあの場にいることに耐えきれなかったのだ。車両の中には、私と、ひげをはやした初老の男性がひとり。荷物を置いて私はゆっくり腰かけた。なんとなく、静かな電車だな、と思った。車内に人が少ないから、というだけでは説明のつかないような、そんな静けさだった。気持ちの高ぶりが、なんとなく落ち着くような気がした。いったい、どれくらいの時間が経ったのだろうか。そういえば、私がこの電車に乗ってから、一度も駅に止まっていない気がする。違和感を感じながら、正面をみると、もう一人の乗客である初老の男性と目が合った。どこかで見たことのあるような、かつてあったことのあるような不思議な既視感をおぼえた。
「何か、欲しいものがあるのではないかね?」初老の男性が唐突に口を開いた。
「はい。」と、戸惑う気持ちとは裏腹に、すんなりと言葉が出た。男性はにっこりして、
「君はどうしてこの電車に乗ったのかな?」と言った。瞬間、つい数時間前の出来事が心の中に溢れ出してきた。今日はピアノのコンクールだったのだ。ピアノは、3歳の時にはじめた。私の中には常に音楽が響いていた。大学生になったとき、自分は何者なのかわからなくなってしまった。勉強にやる気がなくなってしまった。本当の友達と言える人も作れなかった。自分が何のためにピアノを弾いていたのかも分からなくなった。音楽は自分の心を映す鏡である。そんな心の状態で、人にとどく演奏が奏でられるはずがないのだ。ピアノを弾くことがただの義務と化していた。ステージの上で心から音楽を楽しんでいた私はもういない。今日のコンクールでも、散々な演奏をしてしまった。鍵盤が氷のように冷たかった。会場が極寒の地のようだった。
「あれが自分だと…信じたくなかったのだと思います。だから…逃げたくて。」私は独り言のように男性の質問に答える。男性は慈しみ深い笑顔を向けて無言でうなづいた。電車はトンネルに突入した。そのトンネルは普通とは違っていた。きらきらした、星のようなものがたくさん瞬いていた。私は窓の外に見えるその無数の星たちに夢中になっていた。瞬間、そこはステージの上だった。そこにいたのは5歳の私だった。何にも悩んでいなかったころ。世界中が自分の味方だったころ。初めての、ピアノの発表会だった。そこで奏でられる音楽には、不思議な力があった。その音楽は、何もかも無くした私に一輪の花を授けてくれた。トンネルを出るゴーッという音とともに、私はステージの上から電車の中へと戻っていた。今のはいったい、何だったんだ。
「逃げたくなる時期は誰にでもあるものさ。そういう時は昔の自分に聞いてごらん。」口を開こうとする私を制するように男性は言った。電車が止まった。男性は「降りなさい。」といった。聞きたいことはたくさんあった。きっと答えてはくれないだろうと思った。降り際に男性が「メリークリスマス」といった。そうか。今日はクリスマス。一年に一度、誰にでも奇跡が起きる夜。
星降る夜に