返事

幸せの一歩手前の葛藤。

午後六時。

たかだか電車で一時間、いつもどおりの距離が、今日はよけい長く感じた。
改札を出ると、彼の姿はまだない。

なんとなくそんな気はしていたけどな。
そう思いつつ、柱を背に、改札を眺める。

待ち合わせをする人たちの表情が、いつもより妙に目に入った。
恋人か、友人か、片想いかな…

どうでもいい想像をしていると、ふいに後ろから声がした。

「ごめん、待った?」

ごめんとは思っていない顔だな。

「ううん、今来たところ。」

なんてお決まりな返事だろう。
自分でも苦笑しながら、並んで歩き出した。

「どこいこっか?」

あっけらかんと聞く彼の声。
決めておいてよ、と思いつつ、

「どこでもいいよ、なんかおいしいところ。」

またお決まりの台詞を返す。

こんな会話も何度目かな。
とても勘定できない計算に想いを馳せているうちに、店を決めた。
なんてことない、ちょっと魚のおいしい居酒屋だ。

席について出されたおしぼりの暖かさが、不思議と心を暖める気がした。

注文を終えると、待っていたかのような早さで生ビールがテーブルに並ぶ。
ありがたい。
今は少しの間も気まずく感じそうだ。

「今週もおつかれさま」

軽くグラスをぶつけると、彼は見事に喉をならし、あっと言う間にグラスは空になった。

「いやぁ、喉渇いててさ!」

そういう彼の表情は、いつもと比べるとどこか硬い。
目の下のクマが、いつも以上にくっきりと見える。



「転勤になる。」

強張ってそう言った彼の表情が頭をよぎった。
もう1週間前のことだ。




「私、仕事やめるわ。」

親にも、友人にも、職場の先輩にも、もう話したし、心は決まっていた。

この一週間、彼との会話はどこか虚ろで、よそよそしかった。
まあそれはそうだよな、と思いつつ

いっそのこと連絡を取るのもやめようかと思ったくらいだったが、彼の気持ちを想像すると、さすがにそうもいかなかった。




1、2杯グラスを空けたあと、話が途切れる。

会ってみたら大丈夫、なんて淡い期待はどこへやら、なおさらよそよそしい会話。

うんうん、と相槌を打つだけで、内容なんて頭に入ってこなかった。
彼も自分でしゃべっている言葉の意味もわかってないのかもしれない。



そろそろかな。

「そういえばさ」


話し出すと、彼がぱっと目を上げた。

「な、何?」

わざとかと思うくらい震えた声に、逆に緊張が和らいだ。
普段の態度の割に、少し気の小さいところは、実は嫌いじゃない。




「こないだの話。いいよ。」

できるだけ、さらっと言おうと思っていた。成功のはずだ。


「いいよって・・・?」

やっぱりダメか。
大丈夫、二の矢くらい想定のうちだ。



「プロポーズ、お待ちしてます。」



ああ、失敗した。
なんてことない、普通の顔で言おうと思っていたのに。

つい、顔が緩んだ。



今日二度目の乾杯は、少し暖かい音がした。

返事

返事

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-25

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND