砂漠の水平線

 地球温暖化から核戦争やら隕石の衝突などの騒動からそろそろ四桁ほど年数が経っただろうか。それとも既に五桁に突入してしまっただろうか。

 誰もが夢見た不老不死。
 今となっては、そんな体になってしまった者がいるなら心から同情する。
 死ななくなって何が嬉しいのだ。
 こんな風に荒れ果てた地球に何故何十年、何百年と生きていくことを強制されてしまうことに気付けなかったのか。
 今では不老不死の実験を繰り返していた科学者達に心底嫌気がさす。そのうえ、自分もその科学者達の一人であったことを思うと尚更嫌になって仕方がない。
 地球が死んでしまった少し前、オレはその実験台を名乗り出てしまったせいでここにいるのだろうか。
 どこまで歩いても、いつまで歩いても、こんなに歩いていても景色は変わらない。
 見渡す限りの砂。歩いても歩いても砂漠から抜け出せそうにない。
 こんなに地平線がくっきりと見える光景は人間だった頃は見られなかった。と感傷に浸っていられたのは最初のうちだけだった。
 こんな所にいるのは不老不死の実験台となって不完全な不老不死になってしまったことが根本的な原因なのかもしれないが、直接的な原因はオレの選択が間違っていたせいだろう。
 今の地球上で生き残った僅かな人間が暮らす町があった。その町の人間に見つかったあの時、オレはようやく死ねると思ったのに。

 「暇だなあ」

 オレの前を歩く小さな背中。
 オレを助けた馬鹿な人間。
 お前は本当に大馬鹿者だ。
 そんな人間にノコノコとついて来てしまったオレも大馬鹿者なのだろう。
 実験が失敗した結果、不老不死レベルではないにしろ長すぎる寿命と、歪で醜悪な姿を手に入れた。
 こんな怪物のような姿はそこに存在しているだけで忌避される。普通の人間からしたらゴキブリを見つけた時のように、殺さなくてはならないと反射的にそう思う程の姿。
 そんなオレを助けた大馬鹿者はボソッと呟いて、されど愛らしくも作り物めいた笑顔を浮かべて言った。

 「何か話しませんか?」

 話せる訳がない。
 オレの姿を見ろ。
 この見た目と同じように、喉だって歪に変形しているんだぞ。

 「はは……今、話せる訳ないだろこのボケナスって思ったでしょう」

 素晴らしい、正解だ。最後の一言を除けばだが。

 「そりゃあ、アナタが喋れないからって私までずっと黙ってたら寂しいじゃないですか。女の子はお喋りが大好きなんですよ」

 オレの方へ振り向き、歩みを止めることなく少女は言う。
 歩き続けたところで、この地球にはもう何もないのに。

 「……何ですか? 筆談でもするか? って言いたいんですか? 無理ですよ。私は話はできても読み書きができないんです。学校とか行ってなかったんですから」

 そう言ってオレの苦し紛れのジェスチャーを拒否した。
 学校に行っていないとは、貧民の娘か物乞いか何かだろう。学校と言っても簡素なテントの下で行われる程度のものだが、考えてみれば、少女の服装はボロ雑巾を身に纏ったような酷いものだ。靴も穴だらけで、どういう生活をしてきたかなんとなく予想がつく。

 「しかし、暇ですね」

 そんな悠長なことを言っていられる余裕があるのか。追っ手はこないにしても、人間にとってここは生きてるだけで地獄みたいな環境のはずだ。

 オレは少女が向けた言葉に答えることなくひたすら少女の後を歩いた。
 しばらくの間、少女は話すのを止め、曇り空の下の死んだ地面を一歩一歩小さな歩幅で踏みしめていった。
 太陽が雲の間から少しだけ顔を見せた。陽の傾き具合からして一時間は歩いただろうか。
 何の為にこんな無意味なことをしているのだろうか。
 何が望みでオレを助けたのだろうか。
 何がしたくて全ての人間を敵に回すようなことをしたのだろう。

 「カイさん」

 「カイサン」? 何だそれは。突然何を言い出すんだコイツは。

 「やっと思い付きました。『カイさん』です。アナタの名前はカイさんにします。『カイブツ』の『カイ』を取ってカイさんです」

 少女は変わらぬ笑顔でそう言った。
 まさか、さっきから黙っていたのはそんなことを考えていたからなのか? やはり大馬鹿者だ。それに失礼なネーミングだ。

 「これでようやくスッキリしました。ずっと『アナタ』って呼ぶのもアレでしたからね」

 オレのことはどうだっていいんだ。
 これからどうやって生きていくかを真剣に考えろ。

 「その冷めた目……女の子にここまで想ってもらえてるんですからもうちょっと喜ぶ素振りを見せるなり踊ってみるなり何かしてくださいよ。つれないお方です」

 いちいち例えが面倒な奴だ。
 普通に話せていたとしても今の言葉は無視していただろう。

 それから数日が経った、オレはまだ少女と二人で歩き続けていた。
 少女は前に、オレは後ろに。
 この順番に深い意味はない。行き先のないオレは連れられるがままについていくだけ。少女にも行き先などないはずだがな。

 「今日は過ごしやすいですね。砂漠がいつもこんな気温なら助かるんですが」

 そうだな。
 心の中で返事をする。

 「どこまで行っても砂しかないですね。あ、言い忘れてましたけど、私達『海』へ向かって歩いてますから。その辺、よろしくお願いしますね」

 何がよろしくお願いしますだ。大馬鹿者が。海など残っている訳がないだろう。
 そう言いたかったが言えないのでいつも通り黙っていると、徐に背負っていた荷物の中からボロボロの四つ折りにされた紙を取り出し、オレの横に来て歩みを止めることなくそれを広げた。

 「見てください。これは世界地図です。すっごく昔の奴ですけどね。ほら、緑色のところが陸地で青いところが海なんです。私とカイさんが出発した町は……確かこの辺です。二番目に大きい陸地の右下くらいの辺りですね。すっごく昔のなので、今と地形は色々と変わってるかもしれませんが、歩いていればそのうち海に辿り着くでしょう」

 少女が指差したのはアメリカのニューヨークの辺り。確かに、歩いていれば必ず辿り着く距離に海はある。方角もあっている。
 しかし、もう辿り着いていてもいいくらい歩いているのに景色は砂一色。
 この様子では地球上のほとんどの海は干上がったと考えていい。
 その旨を伝えるべきか否か、そもそもオレに伝える方法があるものか……。

 「カイさん、喉乾いてませんか?」

 オレは首を横に振る。
 醜い姿となったが、どういう訳か人間だった頃と違って栄養は摂取しなくても生きていける便利な体となった。
 だが、そのうちには死ぬだろう。
 そのうちと言ってもまだ数千年は生きられる気がするが。

 「他に町はあるのかなあ」

 ない。人間がいる場所は元いたニューヨークだったところだけだろう。
 あっても町があった痕跡だけだろうがな。

 「すっごい昔はこんな地平線なんてあまり見れなかったそうですよ。見られたのは水平線っていう海で見られる地平線だったみたいです」

 それならよく知っている。
 人間だった頃によく見た。
 だが、今となっては海などどうせ砂の中だ。

 「暇ですね」

 またそれか。

 「しりとりでもしませんか?」

 だから喋れないんだよ。

 「しりとりの『り』からいきますね。『りんご』」

 ゴリラ。と心の中で呟く。

 「カイさんだったら……ゴリラって言うでしょうね。『ランプ』」

 素晴らしい、正解だ。
 なら次は『プードル』だ。とうの昔に絶滅してしまっただろうが。

 「えーと……次にカイさんは……じゃあ『ジープ』で。昔そういう車があったみたいです」

 おい待て、何でジープなんだ。オレが思ったのはプードルだぞ。もしかしてこいつは『プ』で責めたいだけなのではないのか? 

 「次は……『コップ』です。どうです? カイさん」

 …………なあ、楽しいか?

 そんな下らないやりとりを三十分ほど続けた頃、砂だけのこの世界に変化が起きた。
 太陽が完全に雲に隠され、自分の影も見えなくなった頃に空からそれはやってきた。
 人間が生きていくのには必要不可欠なそれは一気に勢いを増してオレと少女と死んだ土地に容赦なく降り注いだ。

 「砂漠にも雨って降るんですね。海にはこのつぶつぶの水が一面に敷き詰められた感じなんだろうなあ……ちょっと想像しにくいですね」

 砂漠にだって雨は降る。最も、ここはニューヨークの辺りだったはずだから普通に降水量はあると思うが、土壌が荒れ果てているからこんな景色しかないのだろう。

 「カイさん、何止まってるんですか? 早く行きましょうよ」

 雨が降っている。下手をすれば風邪をひくぞ。
 という旨を苦し紛れのジェスチャーで表現する。

 「心配してくれるんですか。結構優しいところがあったんですね、ありがとうございます。だけど大丈夫です。さ、行きましょう」

 少女は嬉しそうに微笑んでそう言った。
 ならせめて水を調達しようという旨をジェスチャーで伝えた。

 「水なら出発前に飲んだじゃないですか。ストックもまだあります」

 何を言っている? いつから人間はそんなに燃費の良い生物となったんだ。
 砂漠だぞ? 正気なのか?

 「ああ、でも普通は風邪ひいちゃったりしますね……やっぱりここでテントを張りましょうか。そろそろ夜にもなりますし」

 少女はそう言って荷物を漁り、テントを広げつつ水を貯められそうな物を片っ端から並べ始めた。

 「念のため水も溜めておきましょうか。あれ? 何してるんですか? カイさんも手伝ってくださいよ。テントの方をお願いします。」

 おかしい。この娘、どこかおかしいぞ。

 ほどなくしてテントは完成し、かなり雨には打たれたものの安心して眠る場所は確保できた。

 「歩けないともっと退屈ですね」

 テントは小さく、少女だけで狭いと感じるほどの大きさしかなく、そんな中で二人でギリギリ接触しないでいられるスペースを確保して過ごすこととなった。

 「ごめんなさいカイさん。狭いけど雨だから我慢してくださいね」

 オレが逆にこんな醜い怪物とこんなに近くにいて気持ち悪くはないのかと聞きたかったが、嫌がる素振りは一向に見せない。
 変わった娘だ。

 「カイさん、明日はどこまで行けると思いますか?」

 イエス、ノーで答えられない質問にはわかっていたとしても首をかしげることしかできない。
 この少女が生きているうちは地球に青さは戻りはしないだろう。いや、地球規模の話となるとオレでさえ生きているか怪しい。
 そういえば、オレは最近ずっとこの少女といるが、まだコイツの名前すら知らない。
 この少女について、まだ何も知らなかった。疑念はあるが、腐っても共に旅をしている以上は互いを知っている方がいいだろう。

 「ん? 何ですか…………え、カイさんが……何です? 私? ……が、なんですか」

 オレはカイさんではない人間だった頃の名前があるはずだが今はカイさんである方がいいだろう。
 考えてみれば、こんな化け物に人間の名前は似合わない。
 オレはお前は誰だ。ということを伝えようと自分に指をさし、それから少女に指をさす。

 「カイさんが……私……?」

 そうじゃない。
 オレは「カイさん」じゃあお前は誰? と言いたいのがなかなか伝わらないのがもどかしい。

 「カイさん……私……私?」

 痺れを切らしたオレは声が出ない口で「ナ・マ・エ」という一連の動きを何度も繰り返した。
 自分に指をさしナ・マ・エと、少女に指をさしナ・マ・エと。

 「ア……マ……エ? カイさんアマエ……私アマエ……アマエ……あ! ナマエ! 名前ですね!」

 やっとわかってくれたか。
 ナ・マ・エの「ナ」の部分がわかりづらかったようなので口を大きく開けて舌の動きを強調したらよう やく上手く言った。
 声が出せないというのがこれほどまでに面倒なこととは以前は考えもしなかった。

 「なるほど、カイさんは私の名前が知りたかったという訳ですね」

 オレは頷く。
 少女は宿題を忘れた時の言い訳でもするように少し慌てて言う。
 いつもは冷静な印象を受けていたせいか、このような反応が妙に可愛らしく思えた。作り物のような笑顔とは少し違うような気がした。素の反応? とでも言えばいいのだろうか。

 「『ニッカ』っていいます。すいません、カイさんが全然聞いてこないからうっかり名乗り忘れてました」

 だから話せないんだよ。

 「この名前はお父さんがつけてくれたんです。お母さんと呼べる人は最初からいませんでした。だけど、お父さんには色々なことを教えてもらって、その時のことが昨日のように思えるんです」

 少女……いや、ニッカのその口振りからは既に両親は死んでしまっているみたいだ。だが、「お母さんと呼べる人」が「最初」からいないとは妙に引っかかる物言いだと思ったが、声に出さずにそれを質問する方法がわからなかったのでそのまま話を聞いた。

 「道具の使い方とか、お金の使い方とか……あと、さっきの世界地図もその時もらったんです。今となっては、あの地図が唯一の形見になってしまいましたが」

 そのように言うニッカは寂しそうに笑っているように見えた。

 「すいません。ちょっと白けちゃいましたね。聞かれてもいないのに急に辛気臭い話をしてしまいすいませんでした」

 気にするな。ということを伝えるためにオレは首を横に振った。
 ニッカは水がどれだけ溜まったか見に、一旦外に出た。
 テントにぶつかる雨の音は一向に収まる気配は見せなかったため、今夜はひとまずここで眠ることとなった。
 化け物となってから人の温もりを忘れていたせいか、眠りに落ちかけた頃に少しだけ触れたニッカの身体からは体温と呼べるものがほとんど感じられなかった気がした。

 砂漠に雨が降った日からおよそ二週間が経った。
 町を出てから一月が経とうとしたところだが未だに景色に変化はない。
 ひょっとしたら最初から進んでいないのではないか。巨大なベルトコンベアの上を延々と歩き続けていただけではないかと思わされる。

 「暇ですねえ」

 そろそろ三百回くらいは聞くことになった台詞だろうか。ニッカはこれだけ歩き続けても何の変化も起こらない環境の中で依然として落ち着いたままだ。
 この一月程の間に、オレは奇妙なことに一つ気が付いた。
 ニッカは水しか飲んでいない。食物を摂取していないのだ。
 理由をなんとかして聞いても海に着いたら話しますの一点張り。オレにはニッカの目的が単に海に行くだけではないことを疑い始めていたし、なによりニッカ自身の体力が何故こんなにも持続しているのか不思議で仕方なかった。

 「今日は暑いですねえ」

 確かに、今日は暑い。気温は四十度は越しているだろう。それなのに喋ったりして疲れる様子も見せない。

 「本当に砂しかありませんね」

 ニッカはこちらを見ずに間延びした声で当たり前のことを言い続ける。

 「どうですカイさん? 暇潰しに砂のお城でも作ってみますか?」

 面倒くさい。
 オレは首を横に降る。

 「つれないですねえ」

 断られることは最初からわかっていたように答える。

 「じゃあアレやってみましょうか? スナブロってやつ。海にはスナハマという小規模な砂漠みたいなところがあってそこに首だけを残して全身を埋めるとポカポカして気持ちがいいらしいですよ?」

 砂漠でそんなことしたら十中八九死ぬだろうが。
 ポカポカなら間に合っているだろう。

 「無視はやめてください。いつもみたいに身振り手振りで言いたいことを表現してくださいよ。寂しいじゃないですか」

 それは失礼。
 あまりに間抜けな発想だったものでつい放心してしまっていた。

 「おや? 私の……頭? ……くるくる……ぱー? ……くるくるぱー……」

 オレも確かに暇だったので少しからかってやった。

 「意味はよくわかりませんがなんとなく馬鹿にされた気分です。正直に言って不愉快です」

 おやおや、拗ねてしまったよ。
 口調は淡々としているが感情は豊かな娘だと思ったが、一瞬だけ作り物めいた笑顔を思い出したが、それは頭の片隅の置いた。
 もしオレに娘がいたとしたなら……いや、妙にくすぐったい気分になるからやめよう。今が依然としてヤバイ状況なのは明白なのだから。

 「カイさん、何か動くものが見えます。アレ、何かわかりますか?」

 拗ねたと思ったら何事もなかったかのようにけろっとした様子で動いているものを指差し、質問してきた。好奇心に忠実なんだな。
 オレはニッカが指差した方向を見る。
 小さく黒っぽい色をしていてハサミを持った特徴的なフォルムの虫がいた。
 サソリだった。

 「カイさん、どこ行くんです?」

 オレはニッカに向けて掌を突き出し、待っていろと伝えてサソリを捕らえにサソリのもとへ向かう。
 万一の時を考えて食料として集めておくのもいいかもしれないと考えたのと、ニッカが刺されてしまったら危険だろうと考えての行動だ。何故かニッカは食事を取っていないが。
 オレは尻尾の針に刺されないよう慎重に近付き、隙を見て素手で捕らえようとするが、意外にすばしっこい。
 枝か何かで突き刺せたらいいが、この砂漠には砂以外に何もない。サボテンもまだ見かけてはいない。
 素手以外に捕える方法はない。
 このっ……逃げるな! クソ、このサソリ野郎!
 中々捕まえられない。後ろからニッカが手伝いましょうかと言ってくるが、ニッカが刺されてしまったら取り返しがつかないしここで助けを求めるのも格好が悪い。
 久しぶりに意地になっている自分がいるのがわかった。この姿になってからは色々なことを諦めていたせいだろうか、何故か新鮮な気分でもあった。何故オレは急にこんな人間的な気持ちになれたのだろう。 ニッカの存在がそうさせるのだろうか。

 いつの間にかニッカの声は届かなくなり、サソリを追いかけてかなりニッカから離れてしまったことに気が付いた。
 これで手ぶらで帰るのはかなり恥ずかしい。
 オレは更に意地になってサソリを追いかける。すると、突然何かに躓いた。
 砂漠で何かに躓くのは初めてだった。
 サソリのことを頭の隅に一旦置いて足元のそれを見た。
 人間の腕が落ちていた。
 砂漠で野垂れ死したならまだわかる。だが、腕が千切れるのはどういうことだ?
 不思議に思ったオレはサソリのことを忘れ、落ちていた腕を手に取ってみた。
 断面を見た。鉄や配線のようなものがびっしりと詰まっていた。最先端の義手か何かか、人間型のロボットの腕だ。
 馬鹿な。そんなものが今の地球で作れるわけがない。何故こんな時代違いな物がこのような砂漠に落ちているのだろうか。
 仮に最先端の義手だとしたら持ち主が野垂れ死んだ後に義手だけ取れて風に飛ばされてきたか。あるいはロボットのものだとした場合は見当がつかない。
 一体何なのだ、これは。



 「遅かったですね、カイさん。何してたんです?」

 オレは結局あの腕に動揺している内にサソリを見失い、手ぶらでニッカの元へ戻ってきた。
 いや、手ぶらというのは少し違う。正確には腕を背負っていたリュックに入れてある。これをニッカに見せる予定はないだろうが。

 「では行きましょうか。とにかく歩きましょう」

 オレが喋ることができたとしたらあのことをどう伝えるだろうか。

 「さっき立ち止まっていた分を取り返すために、今日は真っ暗になってもしばらく歩きましょう」

 そう言われて、オレは今はあの腕より、ニッカの目的の方が大きな謎であることを思い出した。

 それから四日。依然として砂。変化はない。

 「カイさん、今どの辺りだと思いますか? 地図渡しますから、大まかでいいので今私達がいる場所を指差してみてください」

 そう言われてオレはニッカの父親の形見である世界地図を受け取る。
 ニューヨークから東へ一ヶ月。大西洋のど真ん中には到達しただろうか。だとしなくても後戻りは容易にできない程進んでしまっている。この様子では大西洋は完全に干上がっているだろうな。
 そういえば海溝などは大丈夫なのだろうか?
 大西洋にはほとんど海溝は存在していなかったとはいえ、この地図が作られた時からは何千年も経過し ているだろう。新しい海溝と呼べるものがいくつかできていても不思議ではないかもしれない。
 オレはとりあえずニッカに大西洋の真ん中より少し左の地点を指差して見せた。

 「そうですか、地球は広いですね」

 ニッカはため息混じりにそう言うだけだった。
 この反応でオレは確信した。
 ニッカの目的はオレや普通の人間が知っている「海」を見ることではないことを。
 大西洋上を指されてまだ海があると思える訳がない。本当に何が目的だ?

 「あ、カイさん……あれは……」

 ニッカが日中の内に立ち止まるのは珍しく、余程のことが起きたということが瞬時に理解できた。
 いや、ニッカが立ち止まったことが原因ではない。オレも遥か遠くに見える「隙間」を目撃したからだ。
 あの隙間というより溝はおそらく海溝と呼ばれたものだろう。悪い予想が的中してしまったようだ。

 「どうしましょう、カイさん……」

 その海溝は左右どこまでも広がっているように見え、先に進むには海溝の中を通って断崖絶壁を登るしかないことがわかった。
 オレはニッカの不安が混じった問いかけに「とりあえず進んでみよう」という旨をひたすら前方を指差すことで伝えた。
 しばらく歩き、海溝の中を二人で覗いてみた。幸い、深さは底が見える程度で何とかはなりそうな深さであった。

 「やっぱり……ここしかありませんよね?」

 オレは頷いたが、頷くまでいささかの間があった。
 危険は大きい。オレはいいとして、問題はニッカだ。
 見たところニッカは十三歳程度だろうか? とても自力で突破できるような場所ではない。

 「カイさん」

 ふと、ニッカはさっきまでの不安げな口調から一転し、真剣な声色でオレをまっすぐに見据えて言う。

 「荷物をいくつか捨ててここを突破しましょう。見た感じ大回りしていくのはおそらく不可能です。先に私が降りてみますから、カイさんは後に続いてください」

 待て。それはダメだ。危険すぎる。

 オレは荷物を降ろして崖下に降りる準備をし始めているニッカを止め、ニッカはオレの背中にしがみ付いてオレが崖を降りようと提案する。
 しかし、ニッカはどこか言いにくそうに両目を左右に泳がす。

 「お気持ちはとても嬉しいです……けど、何と言うか……その」

 オレはニッカの言いたいことが何となく予想できた。
 そうだろうな、流石にオレのような気持ちが悪い怪物にしがみ付きたくはないだろうな。
 今までずっとそんなことは当たり前のことだと受け入れてきたが、悲しみとまでは呼べずとも胸の内に湧き出るこのもやもやとした感覚はなんだろう。

 「ほら……この岩壁、風化が進行しています。私がカイさんに掴まった時の二人分の体重に耐えられるかどうか危険です。ですから、私が岩壁の強度を確かめることも兼ねて先に降りてみますね」

 オレはニッカを止めることもできずにただそこに佇んでいた。
 ニッカの言うことは一理ある。その理屈がきっと本心であるのかもしれないが、オレは久しぶりに味わうなんとも言えない微妙な孤独感をひしひしと感じていた。
 おかしい。昔はこのくらいの孤独感など平気でいたはずなのに。

 少ししてオレはニッカの様子を見に崖を覗いてみた。
 ニッカはまだ少ししか降りられていなかった。底まではまだかなりの高さがある。

 「カイさん、もう少し待っていてください。すぐ降りられますから」

 慌てるな。オレのことはいいから気を付けろ。と叫びたかった。
 試しに手が届く辺りの岩壁を掴んでみる。かなり脆い。ニッカの体重でも十分に剥がれていってしまいそうな程だった。
 そして、オレの嫌な予感は的中してしまった。

 「……っ!……!!……っ」

 突如ニッカの足場が崩れ、まだ相当な高さが残っている地点からニッカは転げ落ちていく様を見たオレは、声にならない声で叫び声をあげた。
 しばらく転がってからニッカの小さな身体は薄暗い谷底に叩きつけられた。
 考えるより先にオレの体は動いた。
 岩壁がどんなに崩れてオレが谷底に叩きつけられようと関係ない。オレは一目散にニッカの元まで降りていこうとしていた。

 「ま……待ってください! 来ないで! 今は来ないでください!」

 何故かニッカは必死にオレのことを止めてくるが、オレはそれを無視してひたすら降りていく。

 「ダメ! やめて! 来ないでください! カイさん!!」

 ニッカは必死にそう言って身をよじってオレから離れようとする。
 これほどまでに必死なニッカの声は聞いたことがなかったが、オレはニッカを助けるために崖を降りていく。

 「ダメなんです! 本当にダメなんです! 来ないでください! 私を見ないでください!」

 ニッカの必死の制止を振り切って何度か足場を崩しながらなんとか谷底まで辿り着いた。
 そんなオレを見て、ニッカはひどく怯えながらオレから離れようとする。

 「お願いです……来ないでください……私を置いて、ここから脱出してください……お願いです……お願いします」

 ニッカは涙こそは流していないが声がひどく震えていた。
 急にどうしたというのだ。今までの冷静な態度からどうしてこんなに……。

 「本当に……来ないでください。私を……見ないでください」

 オレはニッカを助けるためにここへやってきた。
 何もせずに戻れるはずがない。オレはニッカの必死の願いに背いて彼女に近付く。
 ニッカは何故かひどく怯えたまま尚もオレから逃げようとする。オレが醜いからなのか?

 「見ないで……」

 ニッカが身体を引きずって逃げようとしたせいで服が捲れ、オレが少し近付いたことによって捲れた部分から痛々しく折れてしまった脚が露わになった。そして、その患部は血まみれの肉ではなくズタズタの金属のようなもので、数多くの配線が複雑に絡み合っていた。
 それは見覚えがあるものだった。この前見つけたロボットの腕のような脚だ。
 オレは更にニッカに近付き、来ていた服を脱がした。
 ニッカは抵抗しなかった。ただ諦めたように笑っていた。自然な笑みだった。

 「……バレてしまいましたね」

 ニッカの身体には至る所に金属の節があり、腹部に至っては鉄の背骨だけで胸部と腰部が繋がれていて肉と呼べるものは腹部だけでなくどこにもなかった。
 ニッカの手に触れてみる。
 体温のない冷たい手だった。
 人間の肌の質感はとても精巧に再現されているが、触れてみると偽物だというのがよくわかった。

 「ずっと黙っていてすいませんでした。気持ち悪いですよね、私。見ての通り、人間のふりをした人形です」

 こんな地球でこれほどまでに精巧なロボットがいることに驚くことより、オレはニッカもオレと同じような存在だったという不思議な安心感に包まれていた。

 「どう思いますか? カイさん。人間じゃないのに人間のふりしてカイさんに近付いて、砂漠を連れ回しに連れ回した醜いガラクタのことを。嫌いになりましたよね、私のこと。恨んでますよね。わかります」

 今以上に喋ることができないのをもどかしく感じたことはなかった。
 気持ち悪いですよね? だと? ふざけるな。
 オレに向かって言える台詞か? 鏡を見てみろ。お前はオレと比べたらずっと人間的な容姿だし淡々としているが優しさも十分にある。
 ロボットだからどうとか人間じゃないからどうとか上手く言えないがとにかくそんなことはどうでもよかった。

 「私を助けに来てくれたんですよね」

 ニッカはさっきは慌てていたが、今ではもういつもの落ち着き払った口調になっている。

 「だけど、私を置いてどこか安全なところまで行ってください。今まで本当にすいませんでした。勝手にこんなところに連れてきて。最後まで勝手ですけど、私を置いてどこかへ行ってください。こんな風に歩けなくなってまで助けてもらおうとは思っていませんので」

 オレは喋ることができない。
 だから、ニッカを殴った。

 「ははは……やっぱり何もせずにはいられませんよね。当然です。私はカイさんにそれだけのことをしたんですから」

 そうじゃない。そんな訳がない。
 わからずやのニッカをオレは殴る。怪物となり、筋力も増強されていたがそれでも殴った。
殴る度に、汗のようなものが飛び散った。
 汗なのか? 炎天下の下で一度も汗をかかなかったオレが何故?

 「もしかして、泣いているんですか? やっと私から離れられるのに……どうして泣いているんです? 私のボディが硬すぎて拳が痛かったですか?」

 自分でもわからない。確かに拳は痛い。
 しかし、それ以上に何故か胸が苦しい。

 「私には涙を流す機能は付いていません。食事も必要ありませんし、水を少し飲むだけで長時間活動ができます。いくら人間らしく振舞えても結局機械でしかないんです。ですから、人間の心を持ったカイさんの今の気持ちはよく理解できません。いつもみたいに、ジェスチャーで上手く伝えていただけませんか?」

 オレは今の感情の正体をはっきりとは知らない。
 なんとなく寂しい気分でいっぱいだった。
 まだ人間だったならちゃんと言葉に表すことはできたのだろうか。
 いや、研究しか頭になかったあの頃は今以上に人間味がないのかもしれない。
 理由ははっきりとわからずとも涙を流せているだけ、オレは人間に戻れているということなのか。

 「そろそろここから脱出した方がいいです。ひんやりして涼しいですが、暗くなる前にここから出ておかないと大変です。さあ、カイさん、一思いに私を殴り殺して脱出してください」

 脱出。
 確かに暗くなってしまったら登るのはかなり危険な作業となる。オレでさえ転落死する可能性もなくもない。
 だから、今のうちに脱出するのがベストだ。ニッカも連れて。

 「あの、私を背中にやってどうするんです? 掴まれと? 私を連れて脱出する気なんですか?」

 オレは頷く。

 「ダメですよ。危険すぎます。なんで私なんかを助けるんですか? あんなにひどいことしたのに……どうして見捨てていかないんです」

 オレはニッカの顎の辺りを殴った。このわからずやめ、黙って捕まっていろ。オレに黙って助けられろ。
 抵抗するニッカを抑えて岩壁に慎重に手をかけ、登っていく。
 やはり二人では厳しい。
 どこを掴んでもすぐに崩れていってしまいそうだ。
 しかし、登るしか選択肢はない。少し考え、怪物の体でしかできない登り方を考えた。

 「やめてください。ダメですよそんな。指を岩壁にめり込ませるなんて、両手の指が使い物にならなくなってしまいます」

 ニッカの言う通り、一回壁に突き立てる度に激しい激痛が両手の指に走る。
 だが、ニッカを救えるなら指など好きなだけくれてやる。

 「もうやめてください……どうして私なんかのためにそこまで」

 うるさい。黙っていろ。話は登り切ってからだ。
 オレは一旦止まってニッカの方へ振り向き、じっと目を見つめ、頷く。
 絶対に離すな。
 他の伝え方は思い付かなかった。
 だが、それだけはなんとしても伝えたかった。

 崖の中間辺りまで来た頃に指の感覚がなくなってきた。
 おそらく爪はほとんど剥がれた。骨も折れているかもしれない。それでも登るのはやめない。
 この際ニッカの目的などどうだっていい。今はここを登り切ることだけを考えればいい。
 オレは考えるのを止め、ひたすらボロボロの指を岩壁に突き立て続けた。しかし、オレの意志に反して体力は限界に達し、指を岩壁にめり込ますことができずに手を滑らせ、足場を崩した。
 なんということだ。もう少しだというのに……オレにはここまでしかできないのか。
 ひどく情けない気分になった。
 谷底からもう一度登る体力は残っているだろうか。その前に、落ちた時のダメージを上手く軽減する方法を考えることの方が先だ。

 身体のどの部位から先に地面に接触させようか考え始めた瞬間、オレの身体は空中で静止した。
何かと思って顔を上げてみる。
 ニッカがオレの左腕を掴んで右手の指をオレがさっきまでしていたようにめり込ませていた。

 「正直、置いていって欲しかったという気持ちは変わりませんが、カイさんがしてくれたことを無下にするのも気が進みません」

 ニッカは表情一つ変えることなくそう言った。
 その口振りから人間らしさはなく、正体を知られた以上は無理して人間の真似をする必要はなくなったと達観したような感情と言っていいのかわからないが、とにかくそう言ったものが読み取れた。
 だが、そのありのままの姿をさらけ出した声は前より聞き心地がなんとなくよかった。

 「上まで残り七八メートル程度です。とはいえ、私の足は使い物になりませんしカイさんの手ももう限界です。ですから」

 ですから何だと言うのだ。ニッカにオレを持ち上げてこの崖を突破する力があるのか。

 「カイさんは私の足になってください。私の折れてない部分の足を掴むことはできますよね。私が上まで引っ張っていきますから、しっかり掴んでいてください」

 まさかとは思ったがニッカの力は予想以上に強い。もしかしなくてもオレ以上だ。
 これだけの力があれば、すぐに上まで登り切ってしまうだろう。

 「着きました。傷の方は大丈夫ですか」

 オレが登った七八メートルの半分以下の時間でニッカは登り切ってしまった。
 ここまでの差があるとなると最早悔しさも感じない。

 「カイさん、少しだけ持ってきた荷物の中に、何か棒状のものは入っていませんか」

 オレは聞かれた通り少しの荷物の中から手頃な大きさの棒状のものを手渡した。それをニッカは、折れた脚を取り外し、棒を取り外した部分に突き刺して簡易的な義足とした。

 「私はカイさんの前では人間でいたかったんです。だから頑張って人間らしく振る舞い、この崖もすぐに突破できたのですが人間らしくないと判断し、敢えて、人間の少女が取るであろう行動を取ることにしました」

 ニッカは谷に向かって歩き出して続ける。

 「私はお父さんに『心』を教えてもらいました。喜怒哀楽といった基本的な感情がどのように生じるのか。それが少しだけ理解できた頃に私は世界を知りたいと思いました……欲が生まれたんです。鉄の寄せ集めの物体に欲望が湧いたんです。形見の世界地図の影響ですね。それ故、私は初めて『家』の外に出ることを決意し、歩けるだけひたすら歩きました」

 ニッカは立ち止った。

 「その時に寂しさを理解しました。半年ほど『家』の辺りの砂漠を歩き回りましたが何もありませんでした。地図の通りなら、どこかの陸地に辿り着いていいくらい歩きました。だけど何もありませんでした。今の地球は、一人で歩き回るには寂しすぎました。誰かと一緒にいたいという欲も、その時生まれました」

 海がないことは……わかっていたのか。

 「燃料切れで倒れた私は後にお父さんに助けられたそうです。私はお父さんに思いを伝えました。『海が見たい。お父さんと一緒にこの世界を歩きたい』と。お父さんは一つ目の願いは叶えてみようと言ってくれましたが、二つ目の願いは『お父さんには叶えられない。お父さんとは違う別の誰かじゃないといけない』と言いました」

 ニッカが俺と一緒にいた理由がわかった。
 ニッカの父親は高度な技術者で、ニッカは彼によって作られたことも。

 「置いてきた荷物を取ってきます。もう無理して力を抑える必要はありませんからね」

 オレはその必要はないと首を横に振る。
 小分けした荷物の中には必要最低限のものは入っているし、ニッカが活動するための燃料となる水も、ニッカの父親と呼ばれる存在の形見の世界地図も入っている。
 オレはもう何もいらないだろうという旨を伝えた。

 「確かにそうですね。では、私がカイさんにするべきことはもうないみたいですね」

 ロボットとしての本来の姿。
 人間らしさを捨てた本来の感情をさらけ出しているはずだが、その言葉はどことなく寂しそうに聞こえた。

 「私は引き続き海を目指します。カイさんはどうしますか。元の町に戻りますか」

 またこの崖を登れというのか? 馬鹿も休み休み言え。
 オレは黙って歩き出し、ニッカにも歩くように促す。

 「カイさんは私に着いて行く必要はもうないんですよ。何故私と同じ方向へ歩くんですか」

 元はと言えばオレは助けられただけで勝手に着いてきただけ。ニッカはそれを自然に受け入れただけだ。
 この地球に安住の場所はない。
 人間といると殺される。いや、オレは殺されることを望んでいたはずなのに、なんだこの考え方は。これではまるでその逆だ。生きていたくなったのか? オレは。

 「私への情けなら必要ありません。カイさんはカイさんの好きなように生きていてくださ」

 再びオレはニッカを殴った。拳が痺れる。
 ニッカにダメージはなさそうで、足はしっかりと地面に着いたままだ。
 オレは口をウ・ミと動かした。
 名前を聞く時と違って今度は一回で理解してくれただろうか。ニッカは頷き、再びニッカを前にしてあるはずのない海へ向かって砂漠を歩き出した。



 それから数日が経った。
 ニッカがありのままのロボットとしての態度を見せているとはいえ、結局ニッカはニッカのままで新鮮味は感じないことにまずはホッとした。
 ニッカは簡易的な義足には一日で慣れ、今では元の足があった時と同じ速さで歩いている。
 ふと、オレはこの前サソリを捕まえに行った時にロボットの腕のような物を発見したことを思い出し、伝えた。ニッカはそれを聞くと。

 「そういう重大な発見はもっと早く言ってください」

 抑揚のない感情も込められていないロボットらしい口調だったが何となく苛立ったということが理解できた。
 すまない。と手を顔の前に合わせた。

 「そういうことなら、海はもうすぐかもしれません」

 どういうことだ? ロボットと海に何の関係があるというのだ。
 そこまで考え、一つ思い出した。
 そうか、ニッカの父親と呼ばれる人間が作った別のロボットの物だとしたら、彼にもう少しで会えるということなのかもしれない。彼に会えば、ニッカが目指している海の秘密がわかる。

 「カイさんが拾ったその腕はおそらく私の物です。カイさんに出会う旅の前に一度歩けるだけ歩いたって言いましたよね。その時、出発してすぐに砂嵐に遭ってしまい、ゴタゴタしているうちに腕が取れてしまったみたいで、おそらくその時の腕が風に飛ばされていったのだと思います」

 少しばかり壮絶な話だったが、ニッカの声が少し弾んでいる事に気付いた。
 旅のゴールがもう少しだという期待を隠せないようだ。

 「やっと海が見られる……」

 ニッカは水を一口飲んだ。これでしばらく持つ。
 オレ達は歩き続ける。
 まだ景色の変化はないが、淡い期待が湧いてくるのがわかった。何故? オレがこれから会うのは人間のはずなのに。きっと忌避されるにきまっているのに、何故楽しみになっているんだ。本当に海が見られる確証などないのに。

 「見えてきました。私が生まれた家が」

 ニッカは遠くにうっすらと見える緑色の物体を指差した。その物体は多数あり、砂漠のど真ん中に不自然な程綺麗に並んでいる。
 サボテンだった。
 そのうちの一つは花をつけている。
 間もなくサボテンの元へ辿り着いた。ここの何処にニッカの父親がいるんだ? 

 「方向感覚は人間の比ではありませんからね。まあ、とりあえず無事に着けてよかったです」

 何だと? 場所はここで合っているのか? サボテンが家?
 不思議に思ってサボテンに触れてみる。ただのサボテンだ。トゲが少し手に刺さった。

 「違いますよカイさん、そのサボテンじゃなくてこっちの花が咲いているサボテンの方です」

 ニッカはそう言って花が咲いているサボテンにトゲが刺さらないように手をかけた。
 すると、そのサボテンを強く曲げたが、何故かサボテンは折れずに「ガチリ」と音を立てた。
 何かと思ってそのサボテンにオレも触れてみた。なんとこのサボテンは作り物だ。周りにあったサボテンは本物で、それらと比べて見た目は花をつけている以外は何の違いも見られない。
 触れて初めて偽物だと気付く。まさか、ニッカを作った人間がこれを?

 「こっちです」

 ニッカはそのサボテンの少し近くに向かう。
 驚いたことに、ニッカが向かう先の地面が少しずつ横にずれながていき、地下へ続く階段が現れた。

 「ようこそ、私の家に」



 階段を下りた先にあった真っ暗な空間に薄暗い明かりが灯った。ニッカが電気を点けた。
 辺りを見回してみる。鉄の壁が張り巡らされ、狭いとも広いとも言えない部屋の中央には実験台のような物が置かれていて、その側には複雑に絡み合ったケーブルがあり、その先にはいくつものコンピュータが設置されていた。
 すごいな。こんな地球上でまだこれほどの設備が整えられているなんて、ニッカの父親は一体どんな人間なんだ。
 会ってみたかったが、それは少しためらわれた。今のオレはこんな姿をしている。

 「お父さんを捜してきます。気になる物があれば、適当に触ってみてもいいですよ」

 そう言ってニッカは扉を開けて別の部屋に入っていった。
 ニッカが開けた扉からちらりと見えた部屋は普段の生活で使うような部屋のようだった。
 オレはこのような充実した文明の利器に触れるのは何百年ぶりか何千年ぶりかという程だったので触ってみてそれが何なのかはすぐには思い出せなかったが、どれもこれもひどく懐かしさを覚えるものばかりだった。
 ふと、いくつもあるコンピュータのうちの一つに電源を入れてみた。コンピュータは一斉に起動し、くぐもった機械音が部屋の中に響いた。電気はどこから供給しているのだろうか。

 しばらくこの部屋を物色させてもらった頃、誰かが実験台の下に倒れていたのを発見した。
 壮年の男だった。
 まずは脈を取ってみたが、脈はなく、身体は冷たくなっていて呼吸もしていない。目を開けたまま倒れている。
 死んでいるなら死臭などがするはずだし長い間放置されているとすれば身体は腐敗しきっているはずだ。
 しかし、その息をしないで倒れている男の身体は綺麗なままで、かなり埃をかぶっていることと目が開いていることを除けば酔っぱらって眠っているだけだと考えられなくもない。まさか、この男もニッカの父親が作ったロボットの一つなのだろうか。

 「カイさん、向こうの部屋にこんな物がありました。何か書かれています。わかりますか」

 扉を開けてそう言ってニッカがカセットテープのような物を持って入ってきたが、オレの側にいるこの男を見た瞬間、そのカセットテープはまるで摩擦を失ったかのようにニッカの手から滑り落ちた。
 ニッカの目は虚ろだった。
 彼女は虚ろな瞳のままこちらに歩いてくる。

 「お父さん…………?」

 この時、オレはニッカをロボットだとは思わなかった。
 ニッカのこの男への態度は子供が肉親に向けるそれであったから。

 「どうして……動かないんですか? 帰って……きたんですよ?」

 男は答えない。

 「せっかく……一緒に海を見る人も連れてこれたのに……お父さんに、会わせてあげたかったのに」

 この男がニッカに一緒に海を見ることができないと言ったのは自分の機械としての寿命がもう長くない事を知っていたからなのであろうか。
 今となっては、オレには知る由もない。ニッカは納得できるのだろうか? こんな悲劇的な再開を。
 ニッカに涙を流す機能が付いていたなら、少しは心を晴らせるのだろうに。

 実験台の裏にはいくつもの手足から胴体まで様々なパーツが揃えられていた。
 この男は自分で自分のメンテナンスを繰り返し、少しでも長く生きようとしていた。こんなところで息絶えてしまったのも、最期までメンテナンスを繰り返し、生きる意志は捨てていなかったということなのだろうか。オレにはそうであってほしかった。ニッカの父親は、なんとしてでも娘と海を見ようと思っていた風に思いたかった。

 オレはニッカの落としたカセットテープのような物を手に取った。
 そこには文字が書けるように白いシールが張られており、端正な字でこう書かれていた。

 『Ocean』

 この男はニッカという娘が旅立つ前に約束した通り、海を見せるという願いだけは叶えることができたということなのか。 
 どちらにしても、今オレがやるべきことは何だろう。
 ニッカを慰めることか? おそらくそうかもしれないし、そうではないかもしれない。
 オレがこれからやること、するべきことに正解はない。 

 Oceanと書かれたテープのような物をはめ込めそうな窪みが実験台の上にあった。
 ニッカは動かない父親の身体を抱きながら俯いている。涙を流すことができなくても泣いているのだと思う。しかし、これから行うことはニッカが可哀相だから行うのではない。
 こうすることが旅の目的だったから行う。
 二人の悲願を叶える為に行う。ただそれだけ。
 海を見る為に歩いてきた過程で、オレは変わった。

 「……え」

 テープをはめ込んだ瞬間、鉄の壁に囲まれた薄暗い部屋は青すぎる空と澄んだ一面の水に囲まれ、実験台の辺りは小さな島のようなものになっていた。

 オレ達の目の前に見えていたのは、紛れもない『海』だった。
 さっきまで大西洋だった場所を歩いていたが、そこに海はなく無限に広がる砂漠だけ。
 そんな砂漠の一角の地下に、地球が生命を失う前の当たり前にあった海があった。

 「これは……もしかして…………まさか」

 ニッカの様子は言うまでもない。

 「これが……お父さんが言っていた……海なんですね。約束、ちゃんと覚えていてくれてたんですね。素晴らしいです……本当に…………きれい」

 オレはニッカと男を後にして海に入ってみたが、少し進んだ先に見えない壁があった。見えない鉄の感触がする壁が。

 「お父さん……紹介しますね。向こうにいる大きくてちょっと変わった感じの人が私と一緒にここまでやってきた大切な人なんです。カイさんっていうんです……名付け親は私なんですけどね。極端に無口な人なんですけど、一緒にいると言葉がただの情報伝達の一手段としか思えなくなってくるんです。まあ、それでも私は喋りっぱなしだったんですけどね」

 無口じゃない、喋れないんだ忘れるなよ。

 「この海は私達の海です。私達だけのものです。また……ここへ戻ってきます。何処に行っても、最後にはまたここに戻ってきますから」

 この二人は誰かよって作られた存在であり、オレの今の肉体も科学者達に作られたもので、この海もオレ達と同じように作られた。
 ここにあるのは全て作り物。人間の『偽物』から海の『偽物』がここにはあるが、、全て何物にも代えられない、唯一無二の『本物』なのだ。 



 「カイさんを元の人間に戻す方法があるんです」

 海を後にして、隣のニッカと男が生活に使っていた部屋に入り、ニッカが男を彼のお気に入りだったというソファに寝かせてそう言った。

 「薬があるんです。一種の万能薬のような物でしょうか、お父さんが長い生涯をかけて完成させた薬があるんです。どうしますか」

 信じられない話だった。
 一昔前のオレならここでニッカを殺してでもその薬を手に入れようとしているところだろうが、今は薬を欲しいとも思わない。何故だろうか? 答えはわかっている。

 「そうですか」

 オレはニッカから薬を受け取ることを拒否して再び砂の大海に足を踏み入れた。
 行先はない。海を見るという目的もなければ誰かに会いに行く目的もない。オレには住処がないし必要もない。何故かニッカも黙ってオレについてきた。
 折れた足には研究室にあった予備の足のパーツがはめ込まれていた。おそらく彼の足を上手く調節したのだろう。
 父親のことはいいのか? と男が眠る地下の方を指して伝わるまで身振りをし続ける。こういった動作にも慣れたもので、割とすぐに伝わるようになった。

 「私は世界を知りたいんです。どこまでも砂漠だったとしても、それはそれで一つの世界なんです。生きている限り、何かをし続けていたいんです。最期まで何かを作り続けたお父さんのように」

 答えは決まった。再びオレとニッカは歩き出した。
 行先はなくても何かをし続けるという目的はできた。それだけで心が弾む。
 不老不死の成り損ないの長すぎる寿命が尽きるまでは生き続けよう。こんな世界も、隣に誰かがオレの寿命についてこれるほど一緒にいてくれるというのなら、案外捨てたものでもないかもしれない。

 「カイさん、どことなくにやけているように見えますが、何か卑猥なことでもお考えですか」

 ニッカにゲンコツを食らわせる。
 拳に鈍い痛みが走る。ニッカは平気なようだ。

 「まあ、色々ありましたが、世界を知るという立派な目的の上でカイさんと旅を続けられるわけですから、早速新しい楽しみができて良かったです。人間誰しも楽しみを持つだけで生きているのが楽しいものになりますからね」

 そうだな。とオレは頷く。
 何だかんだで地球はかなり広い。全てが砂漠でも、それが昔で言う海のようなもので、三割程度陸地の代わりになるものを見つけられたらそれはそれでいい。
 日は沈みかけていたが、今日は夜通しで歩いて、昇りゆく朝日を浴びて明日の夜にテントを張って二日分眠ろう。
 その後はまた、下らないやり取りでもしながら何か見つかるまで真っ直ぐ歩き続けよう。
 今は二人並んで歩ける。ニッカにただついていくだけではない。

 「どちらが長生きできるか、勝負です。手加減はナシですよ」

砂漠の水平線

砂漠の水平線

遠い未来の地球には陸と海の代わりにどこまでも砂漠が広がっていた。 怪物のように醜く変わり果ててしまった男と、そんな男に恐怖を覚えずに近付いてきた十三歳程度の小柄な少女は自ら安全な町を捨てて砂漠へと歩き出す。 男は少女について行き、次第に目的のわからない少女へ疑念を募らせてゆく。『小説家になろう』にも掲載している短編小説です

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-25

Copyrighted
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