こうして僕は世界を救う
一年前から書いている作品ですので文章力は話を追うごとに徐々に成長していっている……はずです(笑)
プロローグ そして僕は託される
「君にしか頼めないことがある」
全身黒ずくめの怪しい人間の典型とでも言えるような四十代くらいで背が高く、痩せた男がそう言った。
あまりに突然の出来事だった。
学校の帰りに乗っているこの電車は終点が近づくと乗客がかなり疎らになっていく。その男は、今僕がい る車両から人がみんな降りた後、おもむろに僕の目の前にやってきてそう言った。
「僕にしか頼めないというのは、どういうものですか?」
不思議と僕はその男の話を聞いていた。
普通ならこういう時どうするんだろうと思った。
怪しいとは思っても、とりあえず話だけは聞くんだろうな。その後に通報でもするんだろうか。でも僕 は、それを実行することは多分しない。
男がおもむろに小包を僕に差し出した。
「なんですか? これ」
男は答えない。
僕の背後の窓から射し込んでいる夕日が男の顔を照らす。
表情の変化はない。ただ淡々と自分の仕事をしているだけ、やるべきことをやったら余韻に浸ることもなしにさっさとその場から立ち去ろうとするような。僕も普段はずっとそんな表情をして日々を過ごしているのかもしれないな。なんて、この状況のことなんて何の気にも留めていない風なことを思っていた。
男は小包を持つ手を伸ばした。受け取れということだろう。
僕はそれを手に取る。
「……あの」
「中を見てくれ」
男の言うことに従って小包を開けた。
「これは……」
男を見る。表情はさっきと変わっていない。
しかし、男は声を低くして僕に言う。
「見ての通りだ。これは君にしか頼めないことなんだ」
「……本物……ですよね、これ」
「もちろんだ」
状況を理解するのに少し時間がかかったと思う。
僕と男の間にしばらく沈黙があった。
これは夢ではないかとさえ思った。
「私の罪の償いを君に手伝ってもらいたいんだ」
男は淡々とした口調でそう言った。
「こんな物で……僕に一体何をしろと言うんですか……? あなたの罪の償いとは何です?」
『間もなく○○。次の駅は○○駅です。お出口は右側の扉です』
電車のアナウンスが次の駅、僕が降りる終点の一つ前の駅名を告げた。
「私が生み出してしまった化け物共を消し去る手伝いをしてほしい」
男がそう言った時、少しだけ男の表情が変わったような気がした。
どことなく、悲しげな表情に。
僕は困惑して答える
「あの……一体何を仰って」
「それを使えば奴らを殺せる。君は私が見つけた、奴らと戦える特別な人間なんだ」
僕の言葉を遮るようにそう言った。
正直、訳がわからなかった。
第一僕は全部において普通の人間以下だ。
学校のみんなより背がずっと低く、運動や勉強もできない。
そんな僕に化け物を殺せ? そもそも化け物だなんてこの人は何の話をしているのかさえわからなかった。
「私が生み出してしまった化け物に直接傷をつけられたら最後、生きていようがその傷で死んだといようが同じ化け物と化す」
「あの……」
「普通の人間にはこんな事は頼めない。なぜなら奴らは強い。普通の人間が立ち向かったところで返り討ちに遭って化け物が増えてしまうことになるのが関の山だ」
僕はこの男の言いたいことがわかった。
同時に、それはとても腹立たしいことであるのかもしれないとも思った。
僕は答える。
「つまり……理由はわかりませんけど、僕ならそいつらに殺されても化け物になることはない。だから僕がそいつらを殺すことに失敗したとしても特に問題はないから僕にそんなことを頼むわけなんですね」
今度も少しだけ間があった。
少しだけバツが悪そうに男が言う。
「大方その通りではある。しかし、君には申し訳ないが、そのような卑屈な捉え方はしないでほしい。このようなことを頼まれて素直に『わかりました』と言えることはまずないことくらいはわかっている」
「だったら……そんな命懸けの危険なこと、僕なんかが引き受けるわけないじゃないですか」
「君には化け物と化してしまわない抗体がある。理不尽かもしれないが、奴らと戦えるのは君だけだ。これは人類の危機でもある。放っておけば、奴らは多くの人を襲い、仲間を増やして最終的に人類は消える。君の家族や友人たちもな」
男がその若干脅しのようなことを言ってすぐ電車が駅に着いた。
駅にはこの車両に乗ってくるであろう何人かがホームで携帯電話を弄っていたり、疲れた顔をしながら立っていたりしていた。
「突然化け物だなんて言われて信じられないだろうが。もう君しか頼れる人間はいない。どうするかは次に会う時までに考えておいてくれ」
男はそう言って電車を降りた。
男が降りた扉から、夏のむわっとした湿った空気が車内に流れ込んできた。
僕は男を呼び止めたり、追いかけようとすることもなく呆然としていたが、人がこの車両に乗ってきたのに気付くと、慌ててさっき開けたままにしておいた小包の口を閉じる。
乗客たちは僕のことを特に気に留める様子もなくガラガラの座席に一人一人距離を置いて座った。
その光景は、突然の非日常からいつもの変わることのない日常世界に戻ってきた感じがあったが、僕の膝の上にある小包の中身がそれを否定した。
電車を降りた後も、あの男が僕の中に残していった余波とでも言えるようなものが渦巻いていた。
結局男は何者だったのかさえ僕は知ることもなかった。タチの悪い不審者の一人として結論付けることもできずに薄暗くなった町を歩く。
「どうしよう、これ」
男が僕に与えた化け物を殺すことができるという物。
この手の分野に詳しくないから使い方は今ひとつわからないが、小包の中には灰色のリボルバータイプという種類であろう拳銃が一丁と、既に装填されている銃弾を合わせて11発の赤い銃弾がそこには入っている。
僕はそれを捨てることも警察に届けることもできないまま夜を越えた。
そしてこの日を境に、僕は十六年間の人生で、最も恐ろしく、儚く、そして狂気に充ちた日々を迎えることになる。
危険な街 怪物は屋上から
学校の退屈さには慣れた。
周りのみんなの視界に僕はいない。
いないと言うより、ただその視界の中にいるだけ。
そんな環境も、もう慣れた。
入学当初から僕は周囲から浮いていた。
身長が低かったところがまず一つ。次第に勉強ができないのも露見して、運動ができないのもみんなに知られた。
僕は自分のそんな弱さを隠すつもりでいたわけでもなかったし、慰めてほしかった訳でもなかった。
それでも、最初はみんなから仲間外れされている感じが辛くなかったというのは嘘になるし、周りの視線が苦痛であったのも事実だ。
でもそれにも、既に慣れた。
慣れというのは怖いものでもあって心強いものでもあるのだと思う。
そんな、とうとう誰の目の中心にも映らなくなった日々にも慣れた頃、昨日の夕方、僕を視界の中心に置いて、僕を頼った男がいた。
僕に化け物を殺せと。
頼ってもらえて嬉しいとは感じなかった。
あまりにもこんな環境に慣れてしまったからであろうか。それとも、男の言うことにあまりにも現実味がなかったからなのかもしれない。
実際のところ、僕は男の言うことは信じてはいないかったが、男から貰った殺しの為の道具は、なぜかこうしめ学校にまで持ってきてしまった。
「つまりこの問題を解く為の公式は……」
普段は授業をちゃんと理解している訳ではいなかったが、この日はいつも以上に授業が頭に入ってこなかったように感じた。
「というわけだが、じゃあ……木野、この式の解き方はわかるか? ……木野? おい何ボケっとしてるんだ? 木野?」
「あ……はい、すいません」
先生が僕を指名したことにしばらく気がつかなかった。
たまにこうして指名されて問題を解かされることがあるが、毎回僕は問題を解くことはできなかった。今回も。
「はぁ、仕方ない、木野、もういいぞ席に着け」
「はい」
僕は若干の気まずさを覚えて席に着いたが、クラスのみんなは特に気にしてはいない様子で、先生もこうなることはわかっていたかのように授業が進行していった。
次の授業も、その次も淡々と進んで、いつの間にか終わる。
そして放課後。
「木野くんさー、あたし昼休みにちょっと屋上に忘れ物したからちょっと取ってきてくんない?」
みんなが教室を出て、そのまま家路についたり部活をしに行く中、教室に残って談笑する女子のグループの一人が僕の方を見ずにそう頼んだ。
「ごめん、僕電車の時間とかあるから」
断る理由もなかったが、そんな使い走りを引き受ける理由もなかった。だから断ったが。
「いーじゃん頼むよー、すぐ見つかるからさぁ。木野くんお願いっ!」
「でも……」
「おーねーがーいー」
普通なら怒るところなのかもしれなかったが、僕にそんなことはできるはずもなく、キリがなかったので、仕方なく使い走りを引き受けた。
電車の時間はまだあるが、手短に済ませようと思い、拳銃と11発の銃弾が入ったスクールバッグを持ったまま屋上へ向かう。これを誰かに見られるのは流石にまずいと思ったからだ。
他の学校とは違ってうちは屋上が常に開放されている。
自由な校風が売りの本校ならではと言ったところだろうか。
屋上への扉を開く。じめじめした風が通り抜けた。
ここの校舎は五階建てで、ここからの眺めはかなり良い。町全体を見渡せる。
屋上には誰もいないだろうと思っていたが、屋上の端に、一人の女子生徒がいた。
よく見ると、煙草を咥えながら双眼鏡を覗いていた。傍には彼女のものであろうスクールバッグが置いてある。
何をしているか気になった。
しかし、彼女の方も僕に気付いたようで、彼女が双眼鏡から目を離して僕を見た。
彼女と目が合った。
彼女は僕より十センチほど背が高く、肩にかかるくらいの黒い髪で、何よりとても綺麗な顔立ちをしていた。
そんな彼女だが、他の女子生徒がやっているようにスカートを短くしているようでもなかったし、こんな時に一人で煙草を咥えながら屋上にいるというのは明らかに他の女子生徒とは違う何かが彼女にはあるのかもしれないと思った。
目が合ったままお互い何も言葉を発しないまま数秒経った後。
「何してんの?」
彼女の方から声をかけてきた。
僕はその問いに、特に恰好つけたり、強がることなく自然に答える。
「忘れ物を取ってきてくれって頼まれて来たんだ」
「なんだパシリか」
ぶっきらぼうに彼女が言った。
そう言ってまた双眼鏡に目を戻す。
その物言いに特にムッとすることなく彼女に質問する。
「あの……君は何してるの?」
「別に。ちょっとした捜査みたいなもん」
「捜査って?」
「なんでもいいだろ」
僕に教える気は無いようだった。
その後、僕も彼女のことを気にすることなく屋上を少し散策して目的の物を見つけ、教室へと戻った。
「はい、これ」
「あ、どーもどーも」
僕に忘れ物を取ってくるように頼んだ女子生徒はちらっと僕を見て特に感謝を込めずに言った。
だが、その女子生徒の言葉は続いた。
「屋上にさーなんか煙草咥えたなんとなく不良っぽい感じの人いたでしょー。あたしあの人苦手でさー最近よく放課後にあそこで煙草吸いながら双眼鏡覗いて一人で何してんだろうねー」
僕はその言葉に少し驚いた。
今日だけあんなことをやっていたわけではなかったのか。
「その人と何か話したりするの?」
「いや、あの人なんか話しかけづらいしなんか怖いもん。今年入ってきた転校生らしーけど、あんなんじゃあ友達いないんじゃないのー」
「いつ頃から放課後の屋上に?」
「あーどーだっけ? 二週間くらい前かなーごめん忘れたわ」
その女子生徒はどうでもよさそうに話した。
ほどなくして僕は学校を出た。
少し歩いて屋上を見てみる。彼女はまだそこにいた。
確か、捜査をしていると言っていたが、他に彼女のやっていることを知っている人はいるのだろうか。
昨日に続いて、今日も少し変わった人に会ったなと思った。
もう少し歩いて、もう一度だけ屋上を見てみた。
彼女はもういなかった。
もう帰ったかなと思い、気にせず駅へと向かった。
『ヴーッヴーッヴー』
駅に着く少し前に、マナーモードにしておいたままの携帯電話が鳴った。
相手は母さんからで、今夜は父さんと母さんが仕事で帰って来れそうにないから夕飯はお金は後でわたすから適当に済ませておいてくれといったものだった。
夕飯を買うために少し寄り道をして、いつもより暗くなり誰もいなくなった帰り道歩いた。
その間、言い知れぬ違和感が僕を襲った。
誰かに後をつけられている感覚。誰かが僕を監視しているような感覚だった。
徐々に足早になっていた。
ここからすぐに逃げ出したかった。
僕の足が早まるにつれて、その違和感も明らかに近付いてきていると思った。
「そんなに逃げるように歩かなくてもいいじゃないか」
振り返ると、そこには五十歳くらいのサラリーマンらしき男が立っていた。違和感の正体はこの人物らしい。
警戒しながら僕は言う
「僕に何か用ですか?」
男は不敵な笑みを浮かべて言う。
「いやはや、どうも病みつきになってしまったんだよ。酒や煙草と同じように、一度だけだと決めてはいたんだがやめられなくなってしまってね」
僕のヒトとしての生物の本能が告げている。
「逃げろ。殺される」と。
「君への用事はなんというかその……」
心底嬉しそうに話す。
そして、突然自分の左腕を胸ポケットのペンで傷をつけ、血を流した。
「サンドバッグになってもらえないかな!」
瞬間、僕はまた夢を見ているのかと思った。
目の前の人間が、この世のものとは思えない異形の姿へと変貌した。
血走った目をして、身体が一回り大きくなり、昆虫を思わせるような造形となった。
「キュゥゥゥゥ……キュェェアア!!」
「う……うあああああ!!」
その化け物は甲高い奇声を上げて襲い掛かってきた。
この時、僕は悟った。この化け物こそが、昨日の男が言っていたそのものだと。
しかし、バッグの中の拳銃を取り出すのにも、目の前の化け物が何なのかを認識するのも全て遅すぎた。
化け物の爪は、既に目の前に迫っていた。
バンッ!
「ギュッ!」
死を意識する準備ができたところで、耳に響くような音が聞こえたと同時に、化け物が仰向けに気色悪い色をした血を流して倒れていた。
「ビンゴ。やっぱこのオッサンだったか」
振り返ると、スクールバッグを肩に掛け、煙草を咥えた綺麗な顔立ちの少女が拳銃を右手に構えて立っていた。
「君は、屋上の……」
彼女はきょとんとした様子で僕を見た。
「あれ? 放課後のパシリくん。何してんの?」
「何してんの」とはこっちが聞きたいところだ。
「君こそ……それは一体」
「パシリくん」
僕の言葉を食い気味に言った。
「……はい」
僕は弱々しく返事をした。
「こいつに傷はつけられていないな?」
神妙な面持ちで声を低くして言った。
「う、うん」
「よし、なら今あったことは全部忘れな。ちょっとした変な夢を見たんだよ。キミは。このこと、絶対誰かに言うなよ」
彼女は僕が傷をつけられていないことがわかった途端に、まるで何事もなかったかのようにそう言った。
「じゃ、あたしは帰るから。夜道には気をつけろよパシリくん」
「あの……」
「ん?」
「僕の名前は木野裕太です。パシリくんて名前ではありません……」
彼女は「あー」と、一呼吸置いて答える。
「そいつは悪かった。何て呼んだらいいかわかんなくてさ。それじゃ木野くん。気をつけて帰んな。後、今日のことは絶対に口外禁止だからな。もし誰かに言ったらキミを殺す」
そう言って彼女は帰っていった。
この人なら本当にそうすると思った。
そういえば彼女の名前は聞いていなかったことにしばらくして気付いた。
後ろを振り返る。
そこに仰向けに倒れていた化け物の死骸は塵にとなって消えていた。
それを見て、今僕がすべきことは昨日の男に会うことが何より優先なのだと思い、男を捜すため、もしかしたらまたさっきの化け物に襲われるかもしれないという警戒心を抱きながら町を彷徨った。
奴らはそこにいる
「そろそろ来る頃だと思っていた」
昨日の黒ずくめの男が変わぬ出で立ちで抑揚のない声でそう言った。
この男は案外簡単に見つかった。
昨日、この男が降りた小さな駅の噴水の前に男はいた。
僕の記憶の中でこの男に関する情報はあの駅で降りたということしかなかったのだから。
「その様子……化け物に会ったな」
「はい」
「なら話は早い。立ち話で済ますには長くなる。着いてきなさい。折角だ、お茶でも奢ってやる」
僕は男に連れられるがままに近くのファミリーレストランに入った。知らない人について行ってはいけないという決まりを大胆に破っているな。なんてことを考えた。
「どうした?何か頼まないのか?」
「いえ、お冷だけで大丈夫ですので」
「いいや、若い内はしっかり食事は取っておくものだ。ましてや君のような食べ盛りの男の子はもっともだ。君の夕食はその貧相なコンビニ弁当なんだろう」
なんだか父さんを目の前にしているような気分であったし、怪しい外見からは想像できないような台詞とのギャップがどこか可笑しかった。
僕は男の言うことに従って、唐揚げ定食を注文した。男は「じゃあ私もそれにしよう」と言って会って間も無い高校生と黒ずくめの男がファミリーレストランで同じ物を食べて話をしている奇妙な構図がここにはあった。
「さて、それではまず自己紹介といこうか。木野裕太君」
「なぜ僕の名前を?まだ名乗ってはいないはずですが」
「君のことは既に色々と調べてあるんだ。まあ、話の過程でちゃんと話していくよ」
男はそう言って味噌汁を少し啜った。
つられて僕も味噌汁を啜る。
「私の名前は神田浩二という。昨日私が言った私が生み出してしまった化け物とは、他でもない君が私の元へ来る前に見たものがそうだろう」
「あの化け物は人間が自分を傷付けて変身?していました」
「そうだ。化け物共は普段は人間の姿をしていて、君の言う通り自身を傷付けることによって変身する訳だが……ああ、別に食べながら聞いてくれて構わない。いや、むしろ食べながら聞け。冷めた飯ほど味気ないものはないぞ」
「は、はぁ……」
神田さんが唐揚げを一つ頬張って続ける。
僕も箸を進める。
「ええと、君の言う通りに変身する訳だが、身体のどこを傷付けてもそうなる訳ではない。私が作り出してしまった薬を注射した部位に深い傷をつけることで変身が完了する。傷をつけるというよりは刺激を与えるといった感じか。まあ、それが結果的に深い傷をつけることで解決するのだが」
「神田さんが作り出した……薬?」
薬とは一体どういうことだろう。それに、この人は一体何者なのか。
「私はある研究所の研究員の一人だった」
昨日も見せた、悲しげな表情。
「奴らは私が湧き上がる研究欲に負けて作り出してしまったものだ。私は最初、人間を超えた人間……すなわち超人を作り上げようとした。そのために注目したのが生物兵器としての人間だ。私はゼロの状態から人間を超えた人間を作り上げた。もう十九年も前の事だが、今でもその時の事をよく覚えている。その超人の子供をある程度研究所で育てた後、そのような超人をもっと作ってみたくなった」
「その作ってみたくなった超人というのが、僕が見た化け物なんですか?」
「大体その通りだが少し違う。私が最初に作り上げた超人は完全な人間型だ。君が見たあの異形の化け物は最初に作り上げた超人をベースにした別物だよ」
ここで少し間があった。
「今思えば、そこで満足して研究をやめるべきだった。だがあの時の私にはそれができなかった。私は、二度と同じ超人を作り上げることができなかった。もう一度ゼロの状態から人間を作るというのは簡単な事ではなかった。私は仲間と何度も試行錯誤を繰り返し、何度も失敗して諦めかけた頃、仲間の一人がある提案を出した。『ゼロからではなくこの超人の子供をベースに作り上げたら新たな超人を生み出すことが出来るのではないか』と」
神田さんの箸が止まる。
僕はしばらく食べながら聞いていたが、やがて僕も箸を持つ手を止めた。今度は特に咎められることはなかった。
「その超人の子供の細胞をベースに何体か試作品を作った。だが、出来た人間は皆不完全で知能が欠落していたり満足に身動きできないような子ばかりだった。本当に非人道的な実験だった。あの頃の私は完全に狂っていた。研究欲に完全に支配されていた。そして、私は思い付いた。超人の子供の細胞をベースにした薬品を作り、元々確実な知能を持つ我々自身に投与すればどうだろうと。そうした過程で生み出されてしまったのが君が見たような化け物だ。私はあの化け物のことを『レプリカ』と呼んでいる。最初のレプリカは我々の仲間の一人が実験台を進んで引き受けた。その時彼に投与した薬は超人の子供の細胞にできるだけ手を加えずに作り上げたものだった。実験は成功し、オリジナルの超人に及ばないまでも、そいつは人間を超えた力を確かに手に入れた『プロトタイプレプリカ』と我々は名付けた」
「でも、僕が見た化け物……レプリカは人間の形はしていませんでした。なんだか、昆虫と人間を混ぜたような、本当に気持ちの悪いフォルムをしていました」
僕の言葉を聞いて神田さんは目を見開いた。
この人がこんなにわかりやすく表情を変えたのは初めてで、とても珍しいものに見えた。
「まあ、とりあえず話は最後まで聞け。当時我々はその程度では飽き足らず、もっと強い人間を作り上げようとした。その結果、超人の子供の細胞とあらゆる生物の細胞を合成した薬品が完成したが、ここから先ははっきり言って悪夢でしかなかった。合成した薬を投与された私の仲間の一人は異形の姿となり元に戻ることが出来なくなった。そいつは力は手に入れたが、自身の姿を見て発狂し、その時の我々は彼を真っ先に隔離する事しか出来なかった。その事件の後、仲間の研究員達はこの超人を作り上げようとする企画から降りる者が増え、自分が犯した罪の重さに押し潰されて、自ら命を絶った者もいた。私達は隔離した彼への罪滅ぼしの為にも変身を解く薬を残った仲間達と開発しようとしたが、それは出来なかった。代わりに出来たものは精々化け物と化した彼を安楽死させる薬だけだった。だが、完成したそれを彼に投与してやろうとした時には既にそいつは死んでいた。そいつも自ら命を絶っていたんだ。悪い意味で手間が省けてしまった。本来ならここで本当に研究を止めるべきだったのだ。その時の私は彼を死なせたのは薬が不完全であったからだと思ってしまっていたのだ。その後、私と私に同調したさらに数少なくなった研究員と共に超人の子供をベースにした薬をさらに改良し、任意で変身と解除が可能となるタイプの薬を開発した。変身後の醜悪な外見までは結局変えられなかったがな。その薬を使って変身したのが君が見たレプリカ。もっと言うと君が見たのは昆虫型のレプリカ。私と残った研究員が作ったに十七個の薬の内の一つだ」
「十七個の薬……ですか?」
「ああ、その十七個の薬はどれも一度しか使えない物だが、一度人体に投与してしまえば、レプリカ第二形態。つまり化け物の状態になっていなくても、人間の力を超えた状態が永続する。第二形態に変身すれば力はさらに飛躍する。その十七個の全部を全部私が作った訳ではない。だから正直、今現在は後何体どんなレプリカがいるのかもよくわからない」
「神田さんが残りのレプリカがわからない状態で、何故昨日はたった十一発の銃弾しか僕に渡さなかったんです?」
「十七体の内十四体までは昨日君に渡した銃弾で倒す事が出来る。実際に私は君と出会う前に三体のレプリカを同じ銃弾で始末している。しかし、最後の三体は違う……あぁ、申し訳ないがこの続きは話を全て終えてから君の意思を確認してから話すよ」
言われた通り、僕はとりあえずその話は頭の片隅に置いておくことにした。
「ええと話を戻すが、十七個の薬のうちの最初の一つは仲間の一人に投与され、奴は安定した自我も保ちつつも、レプリカ第二形態への変身も可能とした。そのうち、奴はその有り余るレプリカの力に溺れた。ある日、そいつは研究所を破壊し尽くし、私を含めた研究員を皆殺しにした。そうして奴に残りの薬は奪われ、今も奴は薬を悪用しているというわけだ」
そこまで聞いて、僕は驚愕し、話の間に口を挟んだ。
「ちょっと待ってください。その仲間の一人が研究所を襲った時の神田さんを含めた全員を皆殺しにしたということは……まさか」
「察しの通りだ」
神田さんは依然として変わらない口調で言った
「神田さんが電車で言ったことが本当だとしたら、レプリカに襲われた人間は同じレプリカに……」
「安心したまえ。私は確かにその時レプリカのレプリカとなってしまったが、力に溺れていたり、自我を失っていたりはしていない。殺された仲間達もレプリカのレプリカとして蘇ったが、蘇った瞬間にオリジナルのレプリカに頭を潰されて殺された。私はこの時初めてレプリカに襲われた人間はレプリカのレプリカとして蘇る事に気付き、あの薬の本当の恐ろしさを知った。蘇った仲間の中には自我が崩壊した者もいて見境なく暴れ回ったりした者が殆どで、私と同じ様に自我を保つ事が出来た仲間もほんの僅かだった。この時、さっき話した『プロトタイプレプリカ』であった仲間はそのレプリカと戦ったが、殺された。彼はそのレプリカと戦っている最中に、レプリカのレプリカとして蘇った私にこう言った。『逃げろ。あなたが全ての薬を破壊して、私達の犯した罪の償いをしてくれ』とな」
神田さんは自分が死んだという経歴を変わらぬ淡々とした抑揚のない口調で言った。
「『プロトタイプレプリカ』の人は、蘇ることは、なかったのですか?後、神田さん。あなたもレプリカのような化け物に変身出来るというわけですか?」
「ああ、彼は蘇らなかった。レプリカに殺されたレプリカは蘇ることはない。彼は塵となって消えてしまった。後、私は奴らのような姿に変身することは出来ないし、したくもないな。レプリカのレプリカというのは自身のオリジナルであるレプリカの十分の一程の力しか持っていないし変身することもできないが、オリジナルの『特技』は受け継いでいる」
「オリジナルの……『特技』?」
「例えば君が見た昆虫型のレプリカ……いや、昆虫型と言うよりはバッタ型だ。我々が過去に作り上げた薬の一つは昆虫型を作るためにバッタを採用したのだ。奴の特技はおそらく強靭な脚力にあっただろう。君がそいつを倒したと聞いた時は驚いたよ。バッタ型は作った薬の中ではかなり強い力を持った部類でな。最初に会ったレプリカがそいつで、君がそいつを無傷で倒したと言うのは想像していなかった」
この時、話すべきだと思った。彼女の事を。だが、彼女はあの時の事は決して口外しないように僕に釘を刺した。
とはいえ、既にここまで化け物について話していたら彼女のことも話さないでおくほうがかえっていけないことではないかと感じ、僕は彼女の言いつけを破った。
「あの、実はそのレプリカを倒したのは僕ではないんです」
神田さんの動きが止まった。
いや、元々動きながら話しをしていた訳ではいなかったが、この時、神田さんは瞬きを忘れ、呼吸をしているかさえも怪しい様子だった。
しばらくの間、その状態で僕と神田さんはお互いに何も言わなかった。
ようやく、神田さんがキョトンとした感じで聞いた。
「……なんだって?」
「バッタのレプリカを倒したのは僕と同じ学校の女子生徒で、名前は知らないんですけど、僕が襲われて殺されそうになっていたところを、彼女は僕の後ろから拳銃でレプリカの脳天を撃ちました」
「なんだと」
「彼女のことは知らないんですか?てっきり彼女も抗体とやらを持っているのかと思っていました。レプリカの排除も僕にしか頼めなかった訳ではなかったとも思っていたくらいです」
「確かにあの銃弾があれば誰にでもレプリカを倒す事は出来るが、抗体を持たないのでは、自我を持たないレプリカのレプリカとして蘇るリスクが非常に高い。そもそも、その抗体というのは、私が研究所が破壊された後、独自に研究を進め、様々な人物の献血で採取した血液を利用して抗体を作り上げようとしていた。何百人も試した後に、偶然君の血液を使った時、君の血液の中には既に抗体となるものが含まれていたのだよ。まさかと思って君と同年代の血液や君の血縁者の血液も調べてみたが、抗体を持っていたのは木野裕太君ただ一人だった」
「なら彼女は抗体を持っていたということになるんですか?」
「仮にそうだったとしても、銃弾の件は全く心当たりはない。木野君、疑うようで悪いが本当にそんな子はいたのか?」
「ええ、確かです」
「さっき置いておいた話を戻すが、まずこれを見て欲しい」
神田さんはテーブルの上に三つの青く塗られた銃弾を並べた。
「これは?」
「昨日君に敢えて渡さないでおいた銃弾だ。さっき、十一体は既に渡してある銃弾で倒す事が出来ると言ったが、最後の三体は特に強力でな。赤い銃弾よりレプリカに対して効果がある物が必要だと私は感じた訳だ。そうして作ったのがこの三つだ。これらは最初の生物と超人の細胞を合成した薬を投与した彼を安楽死させる為に作った薬を応用してつくった物だ。赤の銃弾でさえ作り上げるのにかなりの時間を要したが、青は赤の倍以上もの時間が必要だったため、二つとも最低限の数しか作る事が出来なかった」
「それで、もしも僕の身に何かあって銃弾を失う事があった時の保険のためにその三つは残しておいた訳ですね」
「君は鋭いな」
「それほどでもないです」
「君の言う通りだ。私が必要最低限の数の銃弾しか作れなかったのは事実。君の言う女子生徒の分の銃弾を作る余裕などなかった。まして、抗体を持っているかわからない人間の為に貴重な銃弾を預けたりはしない」
神田さんが嘘を言っている風には全く見えなかった。
しかし、彼女のあの『ビンゴ。やっぱりこのオッサンだった』といった物言いはレプリカのことを知っているようでもあった。レプリカを倒しているとはいえ、神田さんの敵であるかどうかもわからないし、そもそも彼女の目的もわからない。
「ともあれ、その女の子が青い銃弾と同じようなものを持っている可能性は低いとも高いとも言えない。もしあの三体に彼女が遭遇してしまったら最後だ。また我々が生み出してしまった化け物の犠牲者が増えてしまう」
神田さんが、僕に向かって頭を深く下げた。
「木野裕太君。今は君にしか頼める人物はいない。私と共にレプリカを排除してほしい。本当に勝手な頼みなのはわかっている。だが、私一人では全てのレプリカを排除することは恐らく無理だ」
淡々とした声で話すのは癖なのかはわからないが、神田さんの物言いには確かな必死さがあった。
「正直、僕は正義の味方ではないですし、たまたま抗体があってレプリカと戦うリスクが普通の人より低いというだけのひ弱な人間です。僕なんかじゃあ神田さんの足を引っ張るだけになると思います」
「私の言うとおりに行動してくれたら君の安全は保証する。主にレプリカと戦うのは私だ。君は隙を見計らって奴らの頭に銃弾を撃ち込んでくれたらそれでいい」
「だけど僕は…………!?」
「は……ぐっ…………」
神田さんの頼み事を断る理由を考えていた時、突如神田さんが呻き声を上げてテーブルに上体を伏した。
「か、神田さん!」
見ると首から多量の血を流していた。
これは一体、何が起きたんだ。
話しをしている間に時計は既に二十二時を過ぎて いて、周りの客は僕と神田さんだけしかいなかった。
「き……木野……く……ん」
「だ、大丈夫ですか!?すぐ救急車を!」
「やめろ……私……は…………ちり……に……なる」
「そんな!」
「レプ……リ……カだ……にげ……ろ……」
「誰だ!? 僕らの他に誰もいません! 店員も表にはいません!」
神田さんは、最後の力を振り絞って胸ポケットに入っていた神田さんと仲間の研究員の集合写真と思われるボロボロの一枚の写真を取り出し、その端に写っている一人の女性を指差した。
「これは、誰ですか?」
「さ……い…………しょ……の……ごふっ!」
首の傷口から大きな血飛沫が上がった。
僕の顔や既に冷めてしまった唐揚げ定食も赤く染まった。
「神田さん!!」
この時、後ろに何かの気配を感じて、それが何なのかを確信した。
僕の後ろにいるのは、神田さんを攻撃したレプリカだと。急いでテーブルの下のバッグの中にある銃を取ろうと身を屈める。
しかし、バッグは既に開いていて、銃はそこにはなかった。
「うぐっ!」
突然、背中に何か鋭利なものが掠った。
僕が身を屈めたことで、運良くレプリカの攻撃が僕に直撃することを避けられたようだ。
バンッ!
「ゲェッ!!」
店内に突如銃声が響いた。
神田さんが僕の銃を使って、僕の背後にいたレプリカを倒したようだ。
「れ……ぷり……か……を……たの……む」
次の瞬間、目の前の身長の高い痩せ型の体型をした神田さんの身体は一瞬で塵となった。辺りに散らばった血は、もうどこにも見当たらない。
そこには、神田さんが着ていた黒いコートとボロボロの写真だけが残っていた。
後ろにいたレプリカが塵となって消える瞬間が見えた。カメレオンを思わせる大きな特徴的な目をしているのがわかった。
一度辺りを見回す。一人の店員が銃声を聞きつけてか、厨房から出てきて、安全を確認したようだ。
だが、このレストランには僕一人と、二人分の食事と青い三つの銃弾が目の前のテーブルにあるだけだった。
僕は一万円札をレジに乱雑に置いて、席に残った神田さんのコートと写真と銃弾を持って足早にその場を立ち去った。
今日、この日。
僕の目の前で、人が死んだ。
救いの先は
「今日もパシリか?」
放課後の屋上。
昨夜、僕をバッタ型レプリカから一瞬で救い出して、そのレプリカを抹殺した彼女は今日も屋上の隅で煙草を吸いながら双眼鏡を覗いて町を眺めていて、また来たのかと言わんばかりにそう言った。
「あの……今日は君に用があって」
「あたしに用か、珍しいな。私の元にくるやつなんて大抵は煙草をやめろだの授業に出てこいなどガタガタ抜かしてくる糞教師共くらいなんだけどな」
「あ、やっぱりその煙草注意されるんだ」
というか、授業もサボってここにいるのか?
「キミも一服していくかい?」
「遠慮するよ」
ストレートに僕は断る。
「そうそう。危ない誘いはちゃんと断るのが正解だ。ま、もったいないからキミに吸わせるつもりはさらさらなかったけど」
そんな会話をしている間も、彼女は双眼鏡から目を離す事はなかった。
「で? 用って何? 告白ならキミはお断りだけど?」
こちらを一瞥することもなく彼女は言い放つ。
冗談のような口振りだが、冗談ではないだろう。
「昨夜のことなんだけどさ」
「そのことは忘れろっつったろ」
二度も言わせるなと言わんばかりに気怠そうにそう言った。
でも僕は続けた。
レプリカのことをもっと知るために。
その理由は神田さんの為だと言えばそれは嘘になる。
「あの後、また化け物に襲われたんだ」
そう言った途端、彼女の口から煙草がポロっと落ちた。
双眼鏡から目を離し、ゆっくりとこちらに振り返る。
「嘘だろ?」
「マジです」
僕がそう言ってからお互いに黙り合った。
湿った風が通り抜ける音と、グラウンドで練習している野球部の活気のある声しか耳に入ってこなかった。
「キミ、何かに取り憑かれたりしてないか?」
「それは多分ないです」
「一日に二回も化け物に遭遇しといてよく生きてたな。逃げてきたか?いや、そんなことより」
彼女の目つきが変わった。
昨夜と同じ質問を、昨夜と同じ神妙な表情をしながら僕に投げ掛けた。
「傷はつけられていないよな?化け物に」
彼女は決して僕の事を心配して言っている訳ではなかった。
その口振りに、身の危険を感じた。
「それよりまずさ、君はあの化け物が何なのかは知ってるの?」
とりあえず話を僕のペースにしようとしたが、彼女はそれを許さない。
「質問を質問で返すな。今に聞いてんのはあたしだろうが。あと、『君』はやめてくれ。なんか変な感じだ。あたしは『夏川真魚』。で? 傷は負ったのか? 負ってないのか? どっちだ?」
恐らく、いや、きっと彼女……夏川さんはレプリカに襲われた人間がどうなるのかは知っている。
実際、僕は背中にファミリーレストランでのレプリカに負わされた擦り傷がある。
もし、素直に答えたら僕はどうなる? 『僕は抗体を持っているからレプリカのレプリカにはなりません』と答えて素直に納得してもらえるだろうか? レプリカの脳天に弾丸を正確に撃ち込むことが出来る彼女なら、有無を言わさずに僕を殺す可能性も決して考えられなくはない。
冷や汗が頬を伝った。
彼女の眼差しは氷のように冷たく、鋭い。
「負った……と答えたら?」
彼女は舌打ちをして言う。
「二度も言わすな。今質問してんのはあたしだ。余計な事考えてないでさっさと答えろ」
ネバっとした唾を飲み込む。
彼女のどんな動きにも対応する心の準備だけはしながら、僕は意を決して僕は答える。
「負ったよ」
その瞬間、僕の視界から彼女が一瞬消えたように見えたのは錯覚だっただろうか。
逃げ出す準備は出来ていたはずの僕の身体を動かす事を許さずに彼女は自分と僕との距離を一瞬で消した。
「かはっ!!」
「妙な真似はするなよパチモン」
「……ぱ……ぱち……もん?」
僕の首には彼女の左手の白く細長い指が巻かれ、その五本の指で女子の握力とは思えない強い力で締めつけられて、後ろにあった屋上に入って来た扉がある小さな建物の壁に、僕の軟弱な身体が叩きつけられた。
今は彼女が言った『パチモン』という言葉について考える余裕すらなかった。
「悪く思うなよ。パチモンとはいえキミはもう危険な存在だ。キミに自我があろうがなかろうがそんなことはどうだっていい。強い力を手にした奴はみんなその力に溺れていくのが世の常なんでな」
僕の首にかかる力が強まっていく。
レプリカと対した時より、ずっとリアルに『死』を意識した。
「私に殺される理由は知らなくていい。昨日と今日しか会ってないが、キミとはこれでさよならだ」
彼女が傍から折りたたみ式のナイフを取り出し、刃を展開した。
「かっ……は…………あっ……ゔ……」
死ぬ。
このままでは夏川さんに誤解されたまま死んでしまう。
必死の思いで身体をばたつかせる。
途中、彼女は「じっとしてろ」と言ってさらに力を強めた。
終わりだと思った。
熱を持たないナイフが顎の下に触れて、脳に送られる血液の量が減ったことで意識が朦朧としかけた時、僕の制服のズボンのポケットから小さく細長い物体が屋上のコンクリートの床に落ちた。
その瞬間、僕の首にかかっていた力は大きく弱まった。
「っはぁ!はぁ……はぁ……はぁっ……」
僕は後ろの壁に体重をかけ、彼女に首を掴まれたまま呼吸を整える。
本当に死ぬかと思った。
「キミ、これはどこで見つけたんだ?」
コンクリートの床に散らばった物は二発の赤い銃弾だった。
彼女の手は僕の首にかけられたままだが、苦しさはない。
欲を言えばナイフも離してほしかった。
「見つけたんじゃない……貰ったんだ」
「貰った……?」
彼女は眉をひそめてまた僕の首に力をかけた。
「誰に?」
「……神田……浩二っていう……四十代くらいの……」
ギリッ
「ぐっ……!」
彼女がさらに首に力をかけ、ゆっくりと顔を近づけた。
「本当だな?」
「ほ……ほんと……う……です」
それから数十秒間、黙って首を絞め続けられた僕はようやく解放されたが、ナイフは依然として突きつけられたままだった。
「詳しく話せ」
この時の夏川真魚という人間は人使いが荒いと言う程度の優しい言葉では言い表せず、戦争で捕虜となった兵士に対してこれから拷問でも始めるかのようなオーラを放っていた。
開始の合図
僕は夏川さんに神田さんから聞いた話を嘘偽りなく全て話した。
話した後に「あれほどあたしの事を誰かに話すなっつったよな」と、ナイフを突き立てられるという過激なお咎めを受けたが、なんとか許してはもらえた。
そうして大体の話は信用してもらえたが、僕が抗体を持っているという事は信用できなっかた様で、それを証明することに一番手間がかかった。
まず夏川さんに「昨日やられた傷を見せろ」と言われ、ワイシャツのボタンが三つくらい取れる勢いで上半身の服を脱がされた。
レプリカのレプリカ……すなわち彼女に言わせればレプリカの欠陥だらけのパチモノということで「パチモン」。
パチモンもレプリカには及ばないが傷の治りが早く、掠り傷程度は数分で傷跡が綺麗さっぱりと消える程の回復力らしく、僕の背中の傷はまだくっきりと痛々しい形で残っていたため、僕がパチモンにならない抗体を持っていることは証明されたが、夏川さんはまだ信用できなかったらしく、念のためということで、彼女に持っていたナイフで小さな切り傷を腕につけられ、「その傷が十五分以内に治らなかったら信じてやる」と言われ、いわゆる殴られ損というものを味わった。
しかし、このような事をされたのに僕が夏川さんについて得た情報は少しだけだった。
夏川さんは「神田とかいうオッサンは随分と説明が下手くそだったんだな」と前置きして僕の質問に答えていった。
夏川さんが答えてくれたのは、レプリカのこと自体は知っていて、昨夜のバッタ型を合わせて三体倒してあるという事。薬についても知っていて、薬の数まではわからなかったが、投与した部位に黒い特徴的な痣ができて、それで薬を投与した人間を見分けている事。昨夜の中年の男は前からマークして監視していて、ようやく第二形態へと変身したから殺したのだという事。たまに授業をサボってここに来てレプリカを双眼鏡を使って捜している事。銃弾は僕のと同じ赤い方を三発だけ持っていた事。最後に神田さんが遺したボロボロの写真に写っている神田さんが最期に指差した女性の事を聞いたが知らないようだった。
対して、答えてくれなかった事は、レプリカの事を知ったきっかけ。銃弾を手に入れた理由と場所。レプリカを殺している理由。強いて言うなら危険だかららしい。
そうして彼女のいる屋上から去ってから二週間が過ぎた。
「なんか情報はあったか?」
「なんにもないです」
放課後の屋上。
夏川さんは相変わらず煙草を吸いながら双眼鏡を覗いている。
あれから僕は夏川さんと共にレプリカについての情報を集めていた。
僕らはまず、レプリカに一番関係がある神田さんが遺した写真に写っている女性……神田さんが最期に指差した女性を最初のレプリカという目星をつけて調べ始めた。
しかし、インターネットやその研究チームが発表した論文など様々な資料を漁ってはみたが、一向に収穫はなく、黒い特徴的な痣を持った人物を捜しつつその女性について聞き込みを繰り返したが、それは危険だと判断して聞き込みでの捜査は中断した。
その結果、何の成果もなく、だらだらと時間だけが過ぎてしまった。
「こう言っては悪いけど、レプリカが何か事件でも起こして報道されたら助かるんだけどね」
「それは無理だな。事件を起こすにしても大抵は殺人事件。奴らに殺された人間がパチモンになってもまた殺す。そうすりゃ殺された方は塵になって証拠は残らない。着ていた服もさっさと焼いちまえば証拠隠滅は完了。報道されるにしても行方不明事件。警察の方が先に見つけて終わりだろ」
「でも警察はレプリカと戦えないから返り討ちにされるのがオチだよ。レプリカに繋がりそうなが報道されるとしたら『捜査中の警官の行方不明事件』て感じじゃないかな」
「頭いいな、キミ」
夏川さんは煙を吹いて感心した様に言う。
「そんなことないよ」
「あたしはそんな考えてみればすごく単純な事に気が付かなかったよ」
彼女は「別に嫌味じゃないからな。あたしが気付けなかった事をキミが先に気付いた事を妬んだりして言う訳では決してない」と付け加えて続けた。
「もし本当にそうならなんでパチモンになってもブッ殺したりするんだ? 自我を保ったままパチモン化するのはともかく、ブッ殺したい奴が訳もわからずトチ狂う様は見ていて愉快だと思うんだけどな」
夏川さんは綺麗な見た目に反して考えている事はドス黒い。
「パチモンになっても憎いか、薬を与えた『最初のレプリカ』が証拠を残さないように指示しているんじゃないかな」
「『最初のレプリカ』? …………ああ、あの女か」
短くなった煙草を携帯灰皿に入れて新しい煙草を取り出して「今更だけど煙草の煙とか大丈夫だよな」と、僕に確認して火を点けた。
喫煙者としてのマナーは良いみたいだ。
「なるほどな……世間にレプリカの事を知られると自分が動きにくくなる訳か、納得」
「どうして薬を広めてるのかは見当もつかないけどね」
「麻薬と一緒でどうせ金が目当てだろ」
夏川さんはまるで他人ごとに様に大きな欠伸をして言った。
「そういや聞いてなかったけど」
彼女は思い出したように言った。
「なんでキミもレプリカと戦うつもりなんだ? あたしは手伝えなんて頼んでないし神田のオッサンの時は乗り気じゃなかったんだろ?」
「自分の為だよ。自分の身を守るためさ」
そう、僕はその単純な理由の為に動いている。神田さんの遺志を受け継いだ訳じゃない。
僕はそんな正義の味方のような真似はしない。
「レプリカ共に狙われるような事でもしたのか?」
彼女に訝しげに聞かれた。
「神田さんが突然襲われたのはレプリカについての情報を持っていたから、その口封じに殺されたんだと思ってる。だから僕も神田さんからレプリカの情報を得てしまったから、神田さんを襲った奴は死んだとはいえ、ひょっとすると僕に情報が渡ったことがレプリカに伝わるかもしれないと思ってさ。特に最初のレプリカの人のね」
「流石に考えすぎじゃないか?」
「レプリカが何をする連中かわからない以上じっとしていられなくてさ。後、僕はレプリカと戦うんじゃない。レプリカを殺すんだ」
「一応人間だぜ? キミに殺しができるのか?」
「殺さなければ僕が殺されるんだ。殺す覚悟はできてる」
僕がそう言うと、彼女は双眼鏡を覗いたまま僕の方を見て、軽く微笑んで言った。
「それは何とも頼もしい心がけだ。その言葉、口だけで終わらすなよ」
そう言って僕に双眼鏡を手渡した。
「これは?」
「あいつを見てみな。陸上部のとこの」
夏川さんに従ってトラックを軽快な走りで駆け抜ける爽やかな印象の男子生徒を双眼鏡で見てみた。
「キリッとしたかっこいい人だね」
「そうじゃねえバカ」
夏川さんが自分の太ももを指差した。
「? 綺麗だね」
「そうじゃねえ! あいつだセクハラ野郎!!」
頭を強めに殴られた。
「ごめんなさい」と弱々しく言って、走っている彼の太ももを見た。
そこには、言葉ではどう言っていいのかわからないような奇妙な痣があった。
「まさか……」
ニッと笑って勝ち誇ったように彼女が言う。
「そのまさかだ。キミがこの二週間の間見つけられなかったレプリカをあたしが先にマークしてたんだ」
「殺さなかったの?」
「普通の人間だったら取り返しがつかねえだろ? ボロが出るまで待つんだよ」
夏川さんの目はわかりきった事をわざわざ言わすなと言っているようでもあった。
「わかってるな? あれはキミが殺せ。あたしが囮になってボロをさらけ出させてやるから」
薬を投与した人間を「あれ」と言い、これから人殺し紛いの事をするというのに、まるで小学生の子供が虫取りの計画でも話すかのようなうきうきとした楽しみと冷酷さが彼女にはあった。
「いつから監視していたの?」
僕がそう聞くと。
「さっきだ。キミがレプリカが事件でも起こさねえかなって言ってた時だよ」
こうして、僕の初めての人殺し……あえて言うならレプリカ狩りが今夜行われようとしていた。
そしてその後も、僕は奴らを殺し続ける事になるのだろう。
エゴイストの愛 1
「まったくあのキザ野郎ふざけやがって」
夏川さんがあからさまにイライラした様子で言った。
「なんなんだよありゃあ。ナイフ向けられたら普通逃げるか応戦するかどっちかだろ、なあ?」
あと「大声で助けを呼ぶ」も追加しておいてください。
「そんな事、僕に言われても・・・・・・」
僕がレプリカ狩りを決行しようとして、夏川さんが囮になってターゲットの陸上部員の男子生徒をレプリカ第二形態へと変身させる計画を立ててから四日という時間が過ぎた。
「だけど『そんな危ない物、あなたみたいな美しい女性には不似合いですよ。ボクへのアプローチなら、こんな物騒な夜道ではなく、綺麗な海が代名詞の海浜公園などでお願いしますよ』は流石にないだろあの状況で! 昭和のアニメの王子様キャラかよあの変人は! ドン引き過ぎて何も言えなくなったくらいだぞ!」
「ちょっ! 夏川さん落ち着いて! 他のお客さんに聞こえるって!」
夏川さんは「あー思い出すだけですげームカつく」と言って、目の前の砂糖とシロップを四つづつ入れたカフェオレを一気に飲み干す事で怒りの熱を冷ました。
甘すぎないのかな、と思ったが、夏川さんは平然としていた。
少し口が悪くて考えが妙に野蛮で甘党だけどすごい美人。と、いったところが僕が純粋に思う彼女の大まかなイメージとなっていた。
今、僕と夏川さんは学校の駅前の小さな喫茶店に来ている。
今の夏川さんは半袖の白いTシャツに黒の長いジーンズというシンプルな出で立ちに迷彩柄のキャップを目深に被っている。
単に二人で遊んでいる訳ではない。そもそも僕などでは夏川さんには到底つりあいそうもない。
これもレプリカ狩りの一環なのだ。
「それにしても本当に現れるのかな?」
「その確率は百パーセントではないな」
イラッとした声でそう言った。
「沢木の彼女が昨日ここで九時半に沢木と待ち合わせするって事を小耳に挟んだだけだし、第一、彼女がいてあたしにあんなくさい台詞言ってくるような奴だぜ? 他の女と遊ぶ為に約束すっぽかしたりとか平気でできるタイプだろ、あれ」
「沢木」とはあの陸上部員の名前だ。「沢木真司」という、三年の先輩で、彼の彼女が夏川さんと同じクラスの「宮島結衣」と、いう人だという事は一昨日知った事だ。
ここには夏川さんが言った通り、沢木先輩が彼女との約束で待ち合わせしているという事を知って、彼の素性を暴く為に来ていた。
四日前に夜道で夏川さんが先輩を襲撃した時も一応変装はしていたが、念のためという事でキャップを目深に被って顔を隠していた。実際美しい女性って言われてしまっているしな。
「だろうけどさ……なにも夏川さんがそこまでカッカしなくても……」
「嫌いなんだよ。ああいう奴」
夏川さんは、チッ、と最後に舌打ちをした。
そのまま若干気まずい時間が五分ほど過ぎた頃、まず沢木先輩の彼女が入店して、僕らが座っている席からちょうど見える上に話し声も聞こえる位置の席に座ってくれた。
その様子を見て夏川さんは「ツイてるな」と、呟いた。
宮島さんが入店した時間は九時二十五分。
彼女は落ち着かない様子で、忙しなく腕時計を確認している。
それから更に三十分が経ち、夏川さんが三杯目の激甘カフェオレを飲み終えたところで、ようやく沢木先輩がやってきた。
「やっと来た……遅いよ真司」
宮島さんは時間に遅れて来た事に困ったようでもあり、ちゃんと来てくれた事に対して嬉しそうでもある様子でそう言った。
「ありゃマジでおせーぞ。ふざけてる」
夏川さんは腹の中にまた溜まった怒りを吐き出しているかのような物言いだ。
「ごめんごめん。身支度に時間がかかっちゃってさ。随分と待たせちゃったね。結衣のような可愛い女の子には、カッコイイ男でないと隣には立っていられないからね」
対する沢木先輩は特に悪びれる風もなく、笑顔で宮島さんの向かいに座った。
「誠意の欠片もねえなあいつ……てかいつもあんなんなのかよ」
「あの、夏川さん……とりあえず落ち着いて……」
今にも二人のいる席に物でも投げそうな感じだ。
「はぁ、まあいいよ。今日は真司にとことん楽しませてもらうんだからね!つまんない思いさせたら許さないから!」
「ボクの方こそ結衣にはいっぱい楽しませてもらうんだから覚悟しとけよ!」
「あはははは」と、楽しげに笑い合う二人を横目に夏川さんは「バカップルが……」と、煙たそうに呟いた。
夏川さんにはこういう時に煙草があれば似合いそうなものだが、流石に未成年なので人目につく場所では吸えないらしい。
ほどなくして二人は店から出て、僕らも後を追って店から出た。
会計の際、僕は何も注文してはいなかったのに割り勘という事になったのは気にしないでおこう。
「今日はどこ行くの?」
「そうだねえ、結衣が決めてって言ったら怒るよね?」
「当たり前だよぉ、ちゃーんと考えてきてくれるって約束でしょ」
「あははは、ごめんごめん、冗談。プクッとふくれた顔も可愛いなあもう」
「もう!からかわないでよ」
「事実を言って何が悪いのかなー」
「もう……真司のバカ」
若干離れた距離からでもわかるような照れまくりな声で宮島さんが言った。
「あたし帰りたくなってきた」
「まだちょっとしか経ってないよ……夏川さん」
まだ沢木先輩と宮島さんのデートは始まったばかりだが、夏川さんは疲れ切った表情をしている。
「なんかの拷問かよ……」
「わかるよ……僕もイラつくから」
二人はのらりくらりと街を散策し、僕らもその後を追う。
沢木先輩は特にこれといった妙な行動は取らず、キザな台詞をちょくちょく混ぜながらデートを楽しんでいた。
バカップルを一日中付け回す事がこんなにもやってられないものかと思っていても、二人は周囲にお構いなしにイチャイチャと甘え合っている。
「ちょっと煙吸ってくる。そのまま追い続けてくれ」と、夏川さんは耐え切れなくなったのか、近くにあった喫煙スペースへ行ってしまい、僕一人でしばらく尾行を続ける事になった。
夏川さんはもし何か言われたら二十歳だと言い張るつもりらしい。
「これもレプリカ狩り。レプリカ狩り」
声に出して改めて今回の目的を自分に言い聞かせる。
沢木先輩とは四日間の間に一度顔を合わせたが、僕の事は知らないようだった。
故に、レプリカに命を狙われているというのは流石に思い過ごしだったかとも思ったが、単に沢木先輩が僕の事を知らないだけの可能性も有り得た。
レプリカが危険な存在である以上、警戒するに越した事はない。
二人は当てもなく歩きながら談笑しているだけかと思っていたがそうではなく、この辺りでも特に有名な映画館へと向かっているらしかった。
その事に気付いた僕はあわてて夏川さんに電話を掛けた。
「もしもし? 夏川さん、今どこです?」
『さっきの喫煙所だよ。何かわかったか?』
「二人は映画館に行くみたい。夏川さんもそろそろ来てくださいよ」
『やだ』
「へ?」
何の感情も込められていない夏川さんの声が電話越しに伝わった。
『あたしこのまま帰るわ』
「え!? いや、なんでそんな急に!?」
『すまん、冗談だ。でも映画館は勘弁してくれ。あんな狭苦しい座席なんかで見る映画は嫌いでな。見るなら部屋で横になってだらーっとして見ていたい』
「そんな勝手な……」
『まあ、そうしょげるなよ。映画館自体には向うから、キミは映写室の中までずっとくっついていてくれ。何かあったらメールしろ。場合によっては助けてやるから』
「ちょっ!」
ブツッ
電話を切られてしまった。
しかし、二人は僕にうなだれる時間さえ与えない。
二人はすたすたと映画館へ歩みを進めている。
二人を見失ってしまっては今日やった事が全て無駄になってしまう。
特に、二人がどの映画を観賞するのかわからないという事だけは避けなくてはならない。絶対に。
「何を見るの?」
「ボクらに合うのはやっぱりこういうジャンルだね。ま、映画の中の人物がいくら愛し合おうと、ボクらには及ばないけどね」
二人が観賞する映画は案の定、恋愛モノで、僕にとってはとても眠くなる映画だった。
そして僕は、眠気と戦いながら上映中は一言も言葉を発しない二人を映画そっちのけでポップコーンでも買っておけばよかったと思ってじっと監視し続けた。
こんな時、夏川さんの愚痴でも聞いていたら退屈しないだろうな。と、若干失礼な事も考えていた。
「お疲れ、眠かっただろ」
上映が終わると、夏川さんが外で出迎えてくれた。
「とっても」
ありのままの事実だ。
「それじゃ、眠気覚ましに早速あいつら追うか。ところで、あいつらから何か情報はあったか?」
「なんにも」
夏川さんは「だろうな」と、軽く笑って、二人とある程度の距離を保ちながら歩みを進め、僕もそれに付いていく。
休憩していた為か、心なしか夏川さんは元気そうだった。
それからしばらくの間、二人はデパートで買い物をしてから、その最上階にあるレストランで夕食をとる事にしたようで、僕らもそれに続いた。
「疲れたわ」
夏川さんは席に着いて注文を済ますとぐったりして言った。
「……僕が映画館にいる時に蓄えたエネルギーはどうなったの?」
「ああ? んなもんとっくに使い切ったよ」
まあ、そうなるのもわからなくはなかった。
相手は腐ってもレプリカであるかもしれないのだ。
常に尾行がバレた時の警戒をしつつ、二人の会話に何か情報になりそうなものがないかどうかも常に集中している。
ましてや、相手が夏川さんの嫌いなタイプともなると、彼女の疲労は僕よりも大きいのかもしれない。
「まあ、もうすぐデートは終わるはずだから、もう少しの我慢だよ」
いつの間にか、僕の目的が沢木先輩のレプリカとしての素性を暴くというものから、デートが終わるまでひたすら付き回るという単純で無意味なものになってしまっている事に気付き、慌てて思考を修正する。
「もう撃っちまうか? 銃?」
「相手がレプリカじゃなかったの時が危険すぎる。もしもだけど、本当に沢木先輩がレプリカじゃなかったらどうする?」
ちょっとした好奇心で聞いてみた。
「怖い事言うなよ木野くん。もしそうだったらショックでしばらく学校休むわ」
ぐったりとテーブルに体を覆い被せたまま言った。
「とはいえ、これもキミがあいつをブッ殺すまでの辛抱だ。あいつらのデートが終わってもあたしらのする事はまだまだ山積みな訳だからな。まずはキミがあのムカつくキザ野郎をブッ殺すのを楽しみにしてる」
「レプリカと面と向かって戦って勝てるのかな?」
「キミが面と向かってやり合う必要はない。ましてや、キミには一回殺されて、パチモンとして人間の力を超越するチャンスすらないんだ。あいつがレプリカだって確信できたら、不意打ちかもしくは前に言った通りあたしが囮になる」
「夏川さんは大丈夫なの?そんな危険な役割」
「心配すんな。あたしは強い」
夏川さんはぶっきらぼうに答えた。
確かに、レプリカを僕と会う前に二体狩っている以上、何かが夏川さんにはあるはずだと思ってはいるが彼女は僕にそれを教えようとはしない。
僕と同じように抗体を持っているのかと聞いた事もあったが、「知らない」の一点張りだった。
僕は二人の様子を観察し続ける。
互いに笑顔で語り合ってはいるが、何かパッとしないと言うか、どことなくぎこちなさが二人の仲にはあるように思えた。恋愛をした事がない僕がこう思うのは二人に失礼かもしれないが、なんとなく「仲の良い恋人」を互いに演じているだけの様に見えた。
それから、食事を続けて四十分ほど経った頃、楽しそうな雰囲気の中、沢木先輩が重たそうに口を開いた。
「結衣」
「どうしたの? 急にそんな怖い顔しちゃって」
宮島さんは恋人の急な変化に少し動揺した様子だ。
「何だ? さんざんクサい台詞を言った最後にプロポーズか?」
「そんなまさか……」
高校生だしそんな事はないだろう。と、思ったが、沢木先輩なら本当にプロポーズするのではないかと思ってしまう。
「結衣に言いたい事があるんだ……でも、ずっと言おうかどうか迷ってた」
「え、何……それ?」
「実は……」
「くるぞ」
「夏川さん、今はそういうのナシで」
沢木先輩はとても言いづらそうに目を泳がせ、対する宮島さんは「何? どうしたのよ真司?」と、不安気だ。
「ごめん。結衣」
「な、何が?」
「ボクと別れてほしい」
「「は?」」
僕と夏川さんの声が被った。
何も言えずに夏川さんと顔を見合わせた。
「うそ……だよね?」
宮島さんも「信じられない」と、いった表情で言う。
「そ、そんな事言って、どうせわたしをまたからかってるんでしょ! わかるもん!」
宮島さんの無理に作った笑顔が彼女の動揺を顕著に表している。
「さんざんあんなデートしといてそれはないだろ……」
夏川さんは呆れていた。
「ごめん、本当なんだ。他に好きな人が出来たみたいで、その人の事を忘れられそうにないんだ」
「は、ははは……誰よ……それ」
僕がさっき感じたぎこちなさは沢木先輩から来るものだったという訳か。
「実はまだ名前もわからない。四日前にちょっと会っただけなんだ」
「ん?」
もしや、と思い夏川さんを見る。
彼女は「また今日みたいな事をする事になるのかもな」と、言って笑ったが、コップを持つ手が震えていた。
「何よそれって……ウソでしょ……それだけでわたしと別れるなんて言うの?」
「ボクもひどい理由だと思っているよ……でも今回のデートを通じても、ボクのあの人への気持ちが揺らぐ事はなかった……完全に惚れてしまったらしい」
こっそりと浮気はせずに、こうして面と向かって自分の気持ちを伝える様は素直に男らしいと思ってしまった。
「ありえない……そんなのありえないよ……」
宮島さんはこの世の終わりであるかのような声をしていた。
「本当にごめん」
「どこで……その人と会ったのよ」
「部活の帰りに、その人は夜道で突然過激なアプローチをしてくれてさ……」
「ぶふぉっ!」
夏川さんが飲んでいたコップの水を吹きだしてしまった。
「そのアプローチがすごく不器用で、それでもすごく健気さがあって、その時は断ったんだけど……後から好きになっちゃったみたいなんだ」
「うそ…………だろ」
夏川さんの声色には生気が失われていた。
「だから……結衣には悪いんだけ」
「どんな容姿をしているの? その人?」
宮島さんが沢木先輩の言葉を遮って、泣きそうな声で言った。
「女子にしては背が高くて……髪は肩にかかるくらいだった。後、とても綺麗な顔立ちだったな」
最後の台詞だけ妙にうっとりした感じで沢木先輩は言った。
どうしてこんなにも宮島さんの逆鱗に触れそうな言い方ばかりするのだろうか。沢木先輩は怒らせるような事を言っている自覚がないのかもしれない。
きっと素直すぎる人なんだろう。
「どこの学校の人なの?」
「それはわからないけど……同い年か、一つ下くらい……」
しばらくの間、沢木先輩と宮島さんの間に静寂が訪れた。
そして、宮島さんが「はぁー」と、大きくため息を吐いて、その静寂を打ち破った。
「そうなんだ……付き合えるといいね。その人と……いや、真司……沢木先輩ならきっと付き合えますよね。カッコイイし」
てっきり怒り出すかと思っていたが、意外と引き際があっさりとしていた。
宮島さんはバッグを持って席を立った。
「結衣……その……今日は本当にごめん」
「いいですよ、別に。薄々思ってましたし。わたしなんかじゃ先輩とつりあわないなって」
宮島さんは沢木先輩の方を見ずに言ったが、僕らからは泣いている顔がはっきりと見えた。
「会計はボクが済ませとくから」
「そうですか……最後まですみません」
淡々とした声でそう言って、彼女は店を後にした。
二人がいた席には、一人俯く沢木先輩だけが残っていた。
「なあ、あいつが惚れた相手って……あたしだよな?」
うなだれた様子は変わらずに夏川さんは聞く。
「十中八九その通りかと……」
「だよなぁ……」
頭を抱えて更にがくりと首が傾いた。
「だ、だけど、これはある意味先輩の素性を暴くチャンスだよ! 夏川さんと先輩が付き合えば……」
「はあああぁぁぁ……冗談だろ……」
僕らはしばらく黙り込んだ。
目の前の食事は既に冷え切っていて、沢木先輩も席を立とうとしていたが、僕らはそれを追う事はしなかった。
「木野」
沈黙の後、夏川さんに初めて名前を呼び捨てで呼ばれた。
「何?」
うなだれた様子は見せず、僕の方をまっすぐ見て声を発し始めた。
「あたしはあいつと付き合う。だが、一度だけだ。絶対に化けの皮ひん剥いてやるからその時は必ずあいつをキミが殺せ」
「わかった」
殺気、とでも言うべきか。
今の彼女の声に乗せられた感情に名前を付けるとしたらそれくらいの物騒なものしか思い浮かばなかった。
とはいえ、夏川さんが沢木先輩の事をどう考えようと、僕らの目的は当初から何も変わってはいないのだ。
僕は自衛の為にレプリカを殺す。僕の思い過ごしでなければ、近いうちに夏川さんも狙われる事になるはずだ。
「次で最後にしよう。絶対にレプリカは殺す」
エゴイストの愛 2
沢木先輩と宮島さんが別れてから六日が経ち、明日は夏川さんと沢木先輩のデートの日となった。
沢木先輩が別れてから次の学校の時、夏川さんは朝一番に沢木先輩の下駄箱にラブレターを入れて、ベタではあるけれど体育館裏に先輩を呼び出して告白した。
「これ以上ないレベルの屈辱だ」と、その日の昼休みに夏川さんはがっくりとうなだれてそう言っていた。ちなみにその時にもう一つ聞いた事があって、宮島さんは今日も学校に来ていなかったと夏川さんはそう言った。
まあ、無理もないんじゃないかとは思った。
フラれた痛みと言うのはきっと僕が思っている以上に大きなものなんだろう。まあ、実際はどうか知らないが。
「ってことで血液が酸素を脳みそに運搬する訳で……っておーい、なーにボケッとしてんだよ木野くーん」
「あ、すいません」
いつの間にか考えていることがフラれた痛みはどんなものかという事になっていたことを先生に注意されることで気付いた。
僕は今、放課後に僕一人だけ補習を受けるように言われてそれを受けていた。
補習ははっきり言って嫌いだ。
理由は至極単純。面倒だからだ。
とはいえ、露骨に「あなたの行う補習授業は嫌いです」というような態度をするのは失礼だという事はわかっている。わかってはいるが、嫌いとまではいかなくても面倒だと感じている事はどうしようもない事実なのだ。
「ははーん、今君、先生とやる補習が面倒くさいからさっさと帰りたいって思ってるだろ」
表情や態度に表していたつもりはなかったが、ズバリと頭の中の事を当てられてしまった。
「そんなことないです」と口先では一応否定しておくが、この先生には言及されてしまう。
「いーや、絶対思ってたもんね。そのツラ見てたらわかるよ。てゆーか君相当わかりやすい顔してるから」
「クラスのみんなには大抵無表情だねとしか言われないんですけど」
「目は口ほどに物を言うーってね。ははは」
そう言っておどけたように笑う、担当教科は生物の、ジャージの上に白衣といった奇抜な格好の新人教師「百瀬凪」は黒板に文字を書きながら続ける。
「ま、補習を面倒くさいと思うのは仕方ないさ。先生も嫌いだ。そんなバカしかやらされない事したことないけど嫌いだね。だからさっさと帰れるようにはしてやるからもう少し我慢してくれ。こうなったのも木野君が赤点取るのが悪い」
教師ともあろうものがそんな言い方をして大丈夫なのかと思ったが、言っていることは大体事実ではあるので逆らえない、が。
「他に赤点を取った人もいますよね? なんで今日は僕一人だけなんです?」
「ごもっともな質問だね」
百瀬先生は短くなったチョークを持つ手を止めて僕の方に体を向けて「えーとね……」と置いてから話し始めた。
「なんつーか、先生のワガママかな。本当はF組の夏川君も一緒に呼んどいたはずなんだけどね」
「夏川さんも赤点だったんですか?」
「いや、赤点は軽く回避されたよ。夏川君にはサボりが重なって単位がヤバイって理由つけて呼び出しといたが、こんなに待っても来ないとなるとあの子またすっぽかしやがったなこりゃ」
「ったくホントに困った子だぜ」と、頭を掻いていかにも困っているようなポーズをする。
「おっと、話を戻そうか。今回の補習で君と夏川君だけ呼んだ理由は単純に君達に興味が沸いてね。それで少し話をしたかったのさ」
不敵な笑みを浮かべて言う。
その笑みはニヤついているだけとも言えるが、よくわからないが、なんだか不快な印象を受けた。
「興味……ですか?」
僕は警戒気味にそう言った。
もしかすると僕らのやろうとしている事やレプリカについての事を追及されるような気がしたからだ。
「いやね、この前ちらっと見ただけなんだけどさー、君らって……もしかして」
百瀬先生が声を低くして言うせいか、奇妙な緊張感が僕を襲う。
「な、なんでしょうか……?」
「ひょっとするともしかして…………君ら付き合ってるのかい?」
「へ?」
拍子抜け……ではあったが、恥ずかしいという感情より先に、僕と夏川さんのレプリカについての会話が聞かれていないかという不安が先立った。
「別にそんな関係じゃないですよ」
「んん~ホントかなぁ?」
心底楽しそうな百瀬先生の表情に少しだけ嫌だなと思う。
こういう人間の事は僕は苦手なのかもしれない。
「本当ですって」
「でもさでもさ、最近よく放課後に屋上で一緒にいるでしょ? あれはどう説明すんのさ」
何がこの前ちらっと見ただけだ。
僕は不愉快な気持ちを隠しきれなかった。
「今夏川さんは他の人と付き合っ」
しまった。
ついうっかり夏川さんが今は沢木先輩と上っ面だけだけど付き合っているという事を話してしまうところだった。
「なに! やっぱ誰かと付き合ってはいたのか」
「いや、それは違うんです。なんというか……僕以外の他の人と付き合う方がずっと似合うんじゃないかなーって」
苦し紛れの言い訳ではあるが事実だ。
実際のところ、僕は夏川さんはとても綺麗だとは思うけれど、今まで一度も彼女の事を好きだと思ったことはない。
「へえ、じゃあ夏川君が誰と付き合うか当ててやろうか」
「この場合、当てると言うより予言とかじゃないんですか?」
「細かい事は気にするなよ。そんな性格はモテないよ。えーとそうだなぁ……夏川君の事だから歳上の三年生と付き合う!」
ずいぶんとアバウトだなと思ったが、実際今のところは当たっている。
「その中でも特にイケメンな……パンダの沢木君……じゃ、ないのかな?」
百瀬先生は僕に確認するような口調で言った。図星だろう? と言わんばかりの。
この時、僕は思っている事を表情に出さないようにするので精一杯だった。
美男美女という点ではその考えに行き着く事はよくあるのだろう。
だが、その偶然が正解してしまっているとなると、僕は百瀬先生への疑いを持たずにはいられない。百瀬先生が僕らのやろうとしている事を知っているのかもしれないという疑惑を。
「さあ……わかりませんよそんな事。というか、パンダの沢木先輩ってなんなんです?パンダって?」
できるだけ平静を装って質問する。
百瀬先生のニヤついた顔は僕の反応を楽しんでいるかのようにも見えた。
「あれ?知らないのかい?沢木君といったらパンダだよ、パンダ」
先生は「有名なんだけどなー知らないのか―」と言ってニヤついた顔のままからかうように話す。
「沢木君ていう子はさ、生まれつき身体中にいくつも変な形の痣があるんだよ。特に背中なんかちょうどパンダの目と耳があるみたいに痣があるんだ。だから、パンダの沢木って呼ばれてんのさ。理解した?」
嫌な予感がした。
百瀬先生の言っている事が本当ならもしかすると、いやきっと夏川さんがあの時見つけた沢木先輩の痣は薬を投与した部位じゃなくて生まれつきのただの痣だったのかもしれない。
「ん? いや待てよ……沢木君は確か夏川君と同じクラスの宮島君と付き合ってたっけな? あーでも一年の頃は皆勤賞だったらしい宮島君が今週一回も学校に来てないっていうのは夏川君に沢木君を寝取られたショックからなのかな?」
「予言どころかもう断定しちゃってるじゃないですか……現在進行形で……しかも寝取るって……」
「あ、いけね。校長に言うなよ?」
口元で人差し指を立てて言うその仕草は「先生」という感じがこの人からはなかった。
僕は言う訳ないです、と言って、百瀬先生がわざとらしく安心した素振りを見せると、不意に一般下校時刻を告げるチャイムが僕と先生だけの静かな教室に鳴り響いた。
「やべ、無駄話が過ぎたなこりゃ。木野君、とりあえずマッハで板書しといて。君に長居されたら怒られんのは先生なんだからな」
なんて勝手な言い分なんだろうとは思ったが口には出さず、言われた通りに従った。
「あと三十秒で書いてくれよー時間やばいからさ」
「ちょうど今終わりました」
百瀬先生は「よし、さっさと荷物まとめろ」と僕を急かす。
これからは生物だけは赤点取らないように意識を高めようと思った。
「それでは、失礼します」
「ああ、さいなら。危険な遊びで怪我しないようにね」
僕が教室から去ろうとした時に言われたこの一言に妙な引っ掛かりを覚えた。
考えすぎかとも思ったが、どうしても百瀬先生に対する疑念が消えない。
「……百瀬先生は、誰かに僕らの事を聞いたんで」
「百瀬先生じゃない。ナギ先生だ。最初の授業の時からそう呼べって言ってあるだろ?」
僕の言葉を遮って自分の呼び方を訂正された。
「じゃあ、ナギ先生は」
「質問はまた今度。時間がやばいって言ったろ? 何度も言うけど、怒られんのは君じゃなくて先生なんだからな?」
この時も百瀬先生、いや、ナギ先生はさっきも見せたニヤついたどこかからかっている様な表情でそう言って僕を教室から早く出るように促した。
その物言いは、ますます僕のナギ先生に対する疑念を大きくさせた。
「それで、結局沢木先輩とはそのまま別れたの?」
「ああそうだ。ま、ある意味嬉しかったけどな。でもこれでまた振り出しからだ」
夏川さんが沢木先輩とデートするはずだった土曜日から二日後の月曜日の放課後。
夏川さんはデートの前に何度か沢木先輩と一緒に帰ったりして情報を聞き出そうとしていたらしい。
ただ、その行動も夏川さんにとってはかなり苦痛だったみたいで、結果的にデートをせずに済んでホッとしていた。
なぜデートをせずに済んだかというと、単純にそうする必要がなくなったからだ。
デートの日の朝、僕は夏川さんと沢木先輩の後を尾行してチャンスが訪れたら先輩を殺すつもりだったのだが、突然夏川さんから「今日はナシ、あいつを付け回すのもお終い」という連絡を受けたのだ。
その理由が、金曜日に沢木先輩と一緒に帰っていた夏川さんがパンダ沢木の話を知ったらしく、試しに先輩に傷を付けてみたところ、その傷が一向に治る気配を見せなかったためそう判断したらしい。
「なんていうか……お疲れ様」
「ホントだよ。この一週間丸々ドブに捨てた気分だ」
心底気怠そうに言う夏川さんはやっぱりその綺麗な見た目とは異なっていて、それでいてやはり魅力的でもあると思った。
「つってもこれからどうする? 屋上からレプリカを捜すのはやっぱり無理がある。ただでさえ見つからねえし、今回みたいなパターンもこれから起こりそうだ」
「やっぱりレプリカが警察沙汰を起こすのを待つしかないのかもね」
僕は冗談のつもりでそう言った。
「そうするか。ははは」
夏川さんは短くなった煙草を新しい物に変えてそう言った。
僕らはしばらくはまたレプリカ捜しという当てのない作業を延々と行うことになるのだろうと思った。
だが正直なところ、レプリカが誰かに危害を加えても自分に関係がなければそれでいいと思っている。夏川さんはわからないが、少なくとも僕はそうだ。自分の身に降りかかる危険を潰したいからレプリカ狩りをする。無理に探し出して消耗するよりは、待ちの姿勢で構えている方が合理的なのかもしれない。
それからの変化は割とすぐに起きた。
僕自身と関係がないようで関係のある出来事がわずか二日後に起きた。
「どう思う? 木野くん」
「夏川さんにフラれたショックとか?」
沢木先輩が失踪した。
話によると、土曜日からずっと家に帰っていないそうだ。
「あたしにフラれたショックねえ……少なくともその程度の情弱じゃあないと思ってたんだが、さすがにあの言い方がまずかったかな?」
「どんな風にフッたの?」
「ごめんなさい、やっぱり先輩のような変態キザパンダとは付き合いたくありません。さようならって」
「わーお清々しいレベルのド直球」
「これってやっぱあたしのせいになるのか?」
特に罪悪感を感じている様子もなく夏川さんは言った。
「大丈夫だよ。多分」
「まあ知ってた」
「そういえば夏川さん、今日補習じゃなかったっけ?」
僕はあれから何度かナギ先生の補習を受けていた。
その時に、ナギ先生から「いい加減夏川君にそろそろ来てくれるように君からいってもらえないかな」と言われていた事を思い出してそう言ったが、夏川さんは「そーいやそーだった」と言って大きな欠伸をするだけで何の気にも留めなかった。
「補習なんていう眠くなるもんより、木野くんは何かレプリカに関係しそうな事は見つけたか?」
「いや、僕の方は何も」
「あたしはあったよ」
ニッと口の端を吊り上げてさらりと言った。
「へえ、どんな事があったの?」
「宮島が来たんだよ。左腕を包帯ぐるぐる巻きにしてな」
僕は素直に驚いた。
そして、夏川さんの言おうとしている事も予想がついた。
「それがレプリカとどう関係するの?」
一応申し訳程度に聞いておく。
「わかりきった事いちいち言わすなよ。レプリカになって左腕に注射して沢木を消したんだろ。そしてあいつはあたしの事も消す気でいる」
「ただ左腕に包帯が巻かれているだけでそんな判断をするのは考えすぎなんじゃ……」
「いきなり変な痣ができてたら驚かれるだろうし、女として嫌でもあったんだろ、多分。それに今日一日中、ずっとあいつの視線を感じてた。今もな」
「今も?」
「いるんだろ? 宮島さん」
突然夏川さんは僕から視線を逸らし、僕の後ろの屋上への入り口の扉がある建物に向かって声を張り上げた。
すると、その陰から左腕を包帯で痛々しい姿に巻いた宮島さんが現れた。
その時の宮島さんからは、以前、沢木先輩と付き合っていた頃の活気のある印象は見受けられなかった。目にはくっきりと隈ができ、髪も適当に束ねているだけだった。
「……いつから気付いてたの?」
宮島さんがこちらに歩み寄って、ボソボソと夏川さんにそう聞いた。
「最初からだよ。一日中血走った目で見られてりゃバカでも気付く」
「へえ、そうなの」
不意に宮島さんが僕の方を見て言う。
「あんたが木野って人?」
僕の名前を聞かれることは予想外だったので、少したじろいだ。
僕がそうです、と答えると、今度は夏川さんが宮島さんに聞いた。
「単刀直入に聞かせてもらう。沢木を消したのはあんたか?」
物怖じすることなく淡々と質問する。
「ええ、もちろん」
「殺した理由は?」
「わたしを捨てたからよ」
「それだけなのか?」
「あんたにはわからないでしょうね。わたしは真司の事が好きで好きで仕方がなかった。その気持ちを裏切られたのよ?」
「生きてりゃ仲直りもできただろ」
「仕方ないじゃない。好きな気持ちが大きすぎた故に、憎しみもその気持ちに比例したのよ」
しばらく夏川さんが黙り込んで、また夏川さんが質問する。
「あたしを付け狙う理由は?」
「わかってるくせに。真司を寝取ったからよ」
「寝取ったとは心外だな。あたしは勝手にあいつに惚れられただけだ。そんなもん難癖以外の何物でもないぜ」
「難癖以外の何物でなくていいのよ。夏川さん、あんたさえいなければ真司はわたしを捨てなかった」
「勝手な女だ…………じゃあ一番大事な事を聞かせてくれ。あんたはあたしと沢木を消すためにレプリカになったのか?」
夕方の閑静な屋上に重たい沈黙が訪れた。
一触即発。まるで爆発寸前の爆弾を目の前にしたかのような緊張感があった。
僕は冷や汗をかくのと同時に、バッグの中の銃をいつでも取り出せるように身構えた。
「場所を変えない? ここだとなんかあったらあんたたちにとっても不都合でしょ?」
宮島さんが変わらぬ態度でそう言った。
「木野くん、付いてこい」
夏川さんが僕を促す。
僕は黙って二人の後を追った。
学校から数キロ歩いた先にある廃工場。
宮島さんの後を追った先にあったのはそれだった。
そこへ向かう間、僕らは一言も言葉を発する事はなかった。
「ここなら何も遠慮する事はないわ」
長い沈黙を打ち破って宮島さんが言った。
「それじゃあ、質問に答えてもらおうか。あんたはあたしと沢木を消すためにレプリカになったのか?」
「ええ、もちろん。木野君も後で殺すけど」
「秘密を知ったから? とか」
僕がそう聞くと、「まぁそんなところよ」と宮島さんは冷めた態度で答えた。
あくまで本命は沢木先輩と夏川さんで、僕の事はついでみたいなものみたいだ。
「どこで薬を手に入れた?」
「あんた何物? 一般人にしては詳しすぎない?」
「質問を質問で返すな」
いつか聞いたセリフを再び夏川さんは言い放った。
「わたしに薬をくれた人が言っていたの。最近お仲間が何者かに消されてるからそいつには気を付けろって。それってもしかしてあんたの事?」
「さあ、どうだろうな。いいからさっさと質問に答えろ」
「質問したら答えが返ってくるのが当たり前なわけ? 馬鹿じゃないの? そんなの教えるわけないじゃない」
相手を小馬鹿にするような物言いで夏川さんを挑発しているのがわかる。
しかし、夏川さんはまっすぐ宮島さんを見据えたまま動かない。
「だったら、ちょっと荒っぽく聞くしかないみたいだな」
大きくため息を吐いて夏川さんが言う。
「あんた、レプリカの事は知っているみたいだから詳しくは言わないけど、あんたの事はこの姿のままボロボロにしてやるよ。真司よりもひどい姿にしてから塵にしてやる」
「その心意気、あたしに殺される覚悟はしてきたとみなしていいんだな?」
「その言い方、やっぱりあんたがレプリカ狩りの犯人ね。何する気か知らないけど、ただの人間ごときに…………負ける気はしないわ!」
言葉を言い終えた瞬間、宮島さんは目にもとまらぬ速さで夏川さんに躍りかかった。
「夏川さん危な」
「木野! わかってるな!!」
「よそ見してられんのか!!」
宮島さんの攻撃で起きた土煙で視界がゼロになった。
僕は夏川さんに前から言われていた事を思い出し、物陰に隠れて様子を伺おうとする。
「逃げんなよ! 妙なマネしたらあんたから殺すわよ!!」
「テメーの相手はあたしだ!」
「ゲフッ!?」
宮島さんが僕に殺意剥き出しのセリフを言った瞬間、夏川さんの鋭い回し蹴りが宮島さんの顔面に直撃したのが見えた。
「舐めんな!」
「おっと」
宮島さんの攻撃を華麗なステップで見事にかわしていく夏川さんの動きは常人のものを超えていた。
宮島さんの僕への注意が逸れている間、急いで宮島さんに見つからないような場所に隠れるため、適当な物陰で、それでいて二人から離れすぎない距離に隠れて様子を伺う。
二人の動きはテレビで中継される格闘技などの試合とは全くの別物で、動きが常に倍速で行われているように見え、その上一方は完全に相手を殺すつもりでいるのがテレビで観る格闘技の試合との一番の違いだった。
「お前、本当に何者だ!? なんで人間を超えたはずのわたしの動きについてこれんのよ!」
「経験不足なんだよ、あんたは」
「ッ……クソッ!! クソッ!!」
完全に自棄になっている宮島さんの動きを冷静さを崩さない夏川さんは軽々とかわしていく。
そして、大振りなパンチでガラ空きになった宮島さんの胴体に、夏川さんは強烈な後ろ回し蹴りを食らわせた。
「うっ……ゴホッ!ゴホッ!」
夏川さんの蹴りに吹っ飛ばされた宮島さんは埃まみれの鉄製の棚の下敷きとなって。そこから這い出た宮島さんはひどく咳き込みながらも、夏川さんを殺そうとする事を諦めていない。
宮島さんは近くにあった五十センチ程の鉄パイプを握りしめて、再び夏川さんに襲い掛かった。
「殺す! 殺してやるぅ!!」
「おいおい、そんな使いやすそうな武器は反則だろ」
夏川さんは手近な物を手当たり次第に投げ付けて距離を取り、自分も同じ鉄パイプを手にして応戦した。
鉄と鉄がぶつかり合う音と、二人の力を振り絞った声だけが工場内に響いた。
縦に振ったパイプは身を翻してかわし、横に振られたパイプは後ろに飛んだりしゃがんだりしてお互いに振ってはかわし、振ってはまたかわし続ける。
そんな攻防が、およそ十分程続いた。
「はぁ……はぁ……っぐ!」
「あははは! そろそろバテてきたみたいね。このまま大人しく死ねや!!」
「夏川さん!」
「キミは黙ってろ!!」
夏川さんはそう叫んで、鉄パイプにだけ気を取られていた宮島さんの脚を払い、相手の体勢を大きく崩した。
「なっ!」
「お前の負けだ」
フルスイング。
夏川さんはよろけて上体が前に倒れかけた宮島さんの顔面にむけて、鉄パイプをピッチャーが投げた球を打ち返すように「オラァ!」と声を張り上げてフルスイングした。
「!!……ッ!」
宮島さんは声を出す間もなく後ろに飛ばされ、地面に倒れ伏した。
「はぁ……はぁ……そろそろ、お前に薬を打った奴のことを話す気になったか?」
すっかり忘れていたが、夏川さんは宮島さんを殺すために戦っていたのではなく、薬を与えた人物の情報を聞き出すために戦っていたことを思い出した。
「く……うぐ…………くぅ」
「嘘だろ……まだ立てんのかよ……」
宮島さんは血と埃に汚れた顔を夏川さんに向け、体を起こした。
彼女の顔面は崩れてしまっていて、可愛らしかった彼女の面影はそこにはなかった。
「殺してやる……これで……勝ったと思うな!」
宮島さんが包帯を外し、左腕の歪な痣を露わにし、その痣に傷を付けるためのボールペンを右手に持った。
「ふふふ……これであんたも……お終いよ……」
バンッ!
「残念ながらお前の負けだよ。これで、お前はもう立てない」
「…………は?」
突然の銃声に、宮島さんは状況が飲み込めないといった表情をしていた。
そして、自分の右脚からおびただしい量の血が流れていることに気がつくと、鼓膜が破れてしまいそうなほどの悲鳴を上げた。
「いやあああああ!!痛い!痛い!痛い!いだあいいぃぃぃ!!」
宮島さんの痛みにもがき苦しむさまを見ながら、夏川さんは煙草を取り出した。
「キミもなかなかやるな。相手が変身しようとしてる時の攻撃は、ヒーローものじゃ御法度だぜ?」
「この時が相手が一番油断すると思ったからね。夏川さんが途中でやられるんじゃないかと思ってハラハラしてたよ」
「言ったろ? あたしは強いって」
夏川さんが新しい煙草に火を点けながら誇らし気にそう言って「あーやっと吸える」と疲れた声を出した。
そして、近くにあった手頃な長さのロープを手に取り、脚の痛みに悶絶する宮島さんの両手を縛り上げる。
「はぁ……はぁ……あんたら……本当に何者よ」
「ただの人間だよ」
少なくとも僕は、と心の中で付け加える。
やはりさっきの動きを見たら、夏川さんも何か特別な力があるようにしか思えなかった。
「で? 話す気にはなったか? 大人しく吐いてくれたら、これからあんたを拷問しなくても済むんだがな」
「……わたしが、なんでこんなザコそうなチビに…………」
「殺す順番を間違えたな。あんたの始末は、最初から木野くんにさせるつもりでいた」
宮島さんは血と埃で汚れた顔を、悔しそうにさらに涙で汚した。
「傷が……治らない?」
「ああ、それはちょっとした手品みたいなものだよ。宮島さん」
僕が撃ち込んだのは赤い銃弾。対レプリカ用の限りある消耗品だ。
「それにしてもよく一発で上手く当てたな」
「距離も縮めてたし、何よりエアガンで練習してたから」
僕らの会話を聞いた宮島さんは「ふざけやがって……」とさらに悔しそうな顔をした。
「で? いい加減話してくれないか? 大人しく話せば本当に悪いようにはしないからさ」
「……お前らに話す事なんて何もない」
「じゃあ、拷問を受ける覚悟ができたとみなすが、それでいい……な!?」
夏川さんが最後通告のようにそう言った瞬間、宮島さんの口から大量の血が滝のように流れ落ちた。
「こ、これは!?」
「チッ、まさかこいつ、舌噛み切りやがったな! 何勝手に死のうとしてんだ!」
夏川さんが声にならない声を上げて悶え苦しむ宮島さんに駆け寄って噛み切った舌を吐き出させようとしている。
舌を噛んで死亡する原因が痛みや失血死ではなく、噛み切った舌が気管につまって窒息する事にあることを知っているようだ。
「ッ……ゴボッ……ゴ」
「クソッ! 死ぬなら喋ってから死ねってんだ!」
僕も宮島さんに駆け寄り、彼女の頭を押さえ、夏川さんが気管に舌や血が行かないように背中を必死でたたき続ける。
しかし、宮島さんは逆に気管を詰まらせて自殺を成功させようとしていた。
宮島さんの口から溢れ出る血が僕の白いワイシャツを赤黒く染め上げていく。僕らに抵抗する訳でもなく、ただただ必死に死のうとしかしていなかった。
「くっ! この!!」
「夏川さん……もう……」
とうとう宮島さんは動かなくなった。
動きを止めてすぐに、宮島さんは塵になって、廃工場の泥や埃と混ざっていった。
僕のワイシャツを染め上げた彼女の血も消えていた。
「この銃弾で撃ち抜かなくても……自殺はさせられるみたいだね」
「……帰ろう、木野くん」
「うん……」
これ以上何かができる訳でもなく、結果的に今日はレプリカを一体狩ったという事実だけが残った。
宮島さんとの戦いがいざ終わってみると、レプリカを消した達成感というより、胸の中がスカスカになったような虚無感だけがあった。
考えてみなくてもわかる事だが、今回のレプリカ狩りは後味が悪いと夏川さんは言った。僕もそう思う。あの時僕らが沢木先輩をレプリカだと誤認しなければ、宮島さんはレプリカにならずに、今も沢木先輩と仲睦まじくやっていたかもしれない。
「なにショボくれた顔してんだよ」
「別にそんな顔してないよ。これで良かったんだ……」
「そうだ、これでいいんだ。理由はどうあれ、レプリカは消さないといけない。それに、あんな自分勝手な恋愛観だったら、あたしらが行動起こさなくてもそのうちレプリカになってたさ」
半ば呆れたようにも言う夏川さんはどこか遠くを見ていた。
つられて僕もその方向を見ても、絵具で塗りつぶしたような鈍いオレンジ色の沈みかけた夕日しか見えなかった。
狂気の足音
ここは新聞部の部室。
部員は三人。
私、霧村千尋と三年の雨宮先輩と一年の霜野だけの存続が危うい部活動。
「うーん、このままじゃあ今月の新聞もつまらない出来になっちゃうね〜」
雨宮先輩ことアメ先輩が眉を潜め、ボールペンの先で頭を掻きながら毎月必ず言っているセリフを今月も言った。
「仕方ないですよアメ先輩。高校生の作る新聞なんてたかが知れてますし」
霜野ことシモちゃんは割とどうでも良さげであるが、彼女に退部されてはこの部活は廃部になってしまうので、彼女に積極的な意欲はなくても我が部にはなくてはならない存在だ。
「ネタさえあればいいんだけどねぇ、なーんかみんなの注目で穴が開くような特ダネが」
よくわからない例えではあるが、私もシモちゃんも突っ込まない。
「そこは先輩らの洗練された執筆技術で上手く補ってくださいよー」
「あのさシモちゃん、くだらないネタで新聞を書かされる身にもなってもみてよ。面白い新聞には特ダネってヤツが必要不可欠なわけ」
私がそう言うと、シモちゃんはムッとして答えた。
「じゃあキリ先輩がネタ探してくればいいじゃないですかー。こんなごく普通のありきたりな学校で特ダネ探して来いって言う方が無茶ですよー」
それはあんたの仕事でしょ? と言おうとしたところ、アメ先輩もまたシモちゃんに便乗して言ってきた。
「それだ! ナァイスシモちゃん! 折角だからキリちゃんやってきなよ。何か新鮮な発見があるかも」
気持ちよさげにウインクをするアメ先輩。
「ええ〜マジすかアメ先輩」
「うん、大マジ」
「ですってキリ先輩」
笑顔でそう言うアメ先輩と真顔で便乗して言うシモちゃん。
これは断れないなと思った私は大人しく二人に従う事にした。
とはいえ、こんな平凡な学校に生徒の目を引くようなネタがそうあるとは思えない。
私はただ投げやりに頼まれたままネタを見つけることができずにだらだらと数日が過ぎた。
「ねーキリせんぱぁい。もうちょっとで月が変わっちゃいますよー? まだネタ見つかってないんですかー?」
「もーうっさいなー、今まで見つかってなかったもんがいきなり見つかる訳ないでしょうが」
「でも先輩が見つけてこないとウチらみんなで徹夜コース確定ですよー? そんな甘ったれた事言ってられませんよ」
生意気で腹立たしい物言いだが、今回は言い返せないのがなんか悔しい。
あんたもちょっとは探しといてよと言った瞬間、部室の扉が音を立てて開き、アメ先輩が嬉しそうな顔で入ってきた。
「チィース、アメ先輩。イケメンに告白でもされましたー?」
「そんなんよりもっと凄い特ダネだよ!」
アメ先輩にとっては色恋沙汰より新聞の方が優先度が高いみたいだ。
しかし、特ダネということは私の出番はなくなったという事か。
内心ホッとして先輩の話を聞くと、私の安心感は瞬く間に消え去った。
「キリちゃん、早速仕事だ! コイツらを調査しろ!」
「は? 調査?」
呆気に取られている私にアメ先輩は携帯で一人づつ、合計七人の男女の写真を私に見せた。
その七人は全員ウチの学校の生徒だが、何というか全員個性的で、高校生の男子にしてはやたら背の低い子や長い髪の男子に団子みたいなデブなど、中には知っている顔も何人かはいたが、驚いたのは同じクラスで目立たないけど、とても綺麗な顔付きをした女子である夏川さんの姿があった事だ。
「なんなんですか?コイツら」
シモちゃんが相変わらずの無気力な様子で質問する。
「ほら、最近ニュースになってるじゃん? この街の連続失踪事件。この七人、どうやら行方不明者と深い関係があるみたいで、協力して犯人を自分達でとっ捕まえようとしてるみたいなんだよ」
「とっ捕まえる? この人達は行方不明者は誘拐でもされたと思ってるんですか?」
「同じ街で短期間の内に何人もいなくなりゃ誰でも誰かの犯行って考えますよ、キリ先輩」
私はムッとしてシモちゃんを、睨んだ。
「おっと」と、彼女は私からわざとらしく目を逸らした。
「まぁそういうこと。キリちゃんがこの人達取材してきてくれたら絶対良い記事が書けると思うんだよね」
「ここまで情報集めたならアメ先輩がやってきてくださいよー」
「ダメダメダメダメ、キリちゃんがやるって決まったんだからしっかりやり切ってくれなくちゃ。それにその情報わたしが集めた訳じゃないしー」
「じゃあどうやってこんな特ダネを……」
「えーと、それは新しく入ってきたあのナギ先生が教えてくれたんだよ」
ナギ先生とは誰だったかと記憶の中を漁ってみる。
確か生物が担当の不思議な雰囲気の先生で、百瀬先生と呼んだら怒られると聞いた事がある。
「でも相手が悪くないですか? 私こんな状況の人達に取材なんて悪い気がしてできませんよ」
「ここでキリちゃんがやってくれなくちゃわたしたち全員徹夜で面白くない新聞を書く事になるのよ! それでいいの!?」
「そーだそーだ」
確かにそうなるのは嫌だったので、私はこの彼らへの取材を渋々と受け入れた。
この時の私はちょっと我慢してこの七人から話さえ聞ければそれで終わりだと思っていた。
だが私は、ほんの数日でこの自分達の軽さを本気で後悔する事になる。
思えば私はここで気付くべきだったのだ。
特ダネの為に危険な場所へ赴くジャーナリストがいるように、私もそれだけのリスクを覚悟しておくべきだったと。
宴の前夜祭
話した事がないクラスメイトに突然話しかけられる時は大抵用事、いや、十中八九あたしに何か用がある場合でしかない。
話した事もない相手に向かっていきなり雑談を持ちかける奴がいるものか? もしいるのなら、あたしはそいつとだけは今後一切関わりたくもないものだ。
「それで……だから……」
最近は寝不足だから休み時間くらいは心置きなく眠ろうと考えていたあたしの元に、いきなり雑談で話を切り出した間抜けがここにいた。
今後一切関わりたくない……というにはこの女子は少し違う。
同じクラスの名前も思い出せない相手だが、何か用事があるといった様子は確かで、それで話を切り出すのは難しいと言ったところか。
「何というか……あのですね、そう言う訳で夏川さんにちょっとお話を聞かせて欲しいなぁって訳でして……」
「ごめん、眠くてよく聞いてなかった。あたしに聞きたい話とやらをもう一回言ってもらえないか?」
名前も思い出せないその子が一瞬だけ嫌そうな顔をしたのがわかった。
それからまた言いづらそうに言葉を発する。
「えと……不謹慎だとは思うんだけど、夏川さんが今活動してる行方不明者を探し出す会? みたいなのについて話を聞きたいなって。新聞部でそれを記事にしたいんだけどさ」
あたしはそれを聞いて色々と納得し、また、あの被害者共の馴れ合いの集団が結構有名だったのかと感心もした。
だが、それを話すかどうかの決定権はあたしにはない。
悪いけどあたしからは話せない。と丁重に断っておくが、彼女はそこをなんとかと言うように中々の粘りを見せる。
「お願い! 私このまま手ぶらで新聞部に顔を出す訳にはいかないんですよ! ちょっとだけでいいからさ!」
「あーもう、しつこいな。無理なもんは無理だよ」
「そこをなんとか!」
このままではキリがない上に、もうすぐ土下座までされそうな予感がした。
あたしは仕方なく取材を受け入れる事にしたが、あたしから何かを話す事ができないのは本当だ。例の馴れ合いの集団のリーダー格の女「結城蓮華」に口止めされている。
もし誰かに口を滑らせたら、貴重なレプリカの情報を得られなくなる可能性があった。
あたしと木野くんは今回の連続失踪事件にはレプリカが関係していると見て、目的は違えど、馴れ合いの集団と共に犯人を追っているのだ。
放課後、あたしは取材を求めてきた彼女を連れてある場所へ向かった。
「あの、夏川さん? お話の方は……」
「ああ、取材ならちゃんとさせてやる。リーダーから許可さえ降りればな」
「リーダー? 結城先輩の事ですか?」
「なんで知ってんだ?」
「新聞部の先輩からちょっと情報をもらってたので」
「だったら最初から結城に聞きゃよかったじゃねえかよ……」
「は……ははは……たまたま夏川さんが同じクラスですぐ近くにいたから」
若干気まずそうに頭を掻く彼女は悪い人間ではないみたいだ。
自分の事を嗅ぎ回るあたしらを始末しようとした犯人かとほんの少しだけ考えたが、さすがに気を張りすぎているなと思った。
やがて、あたしと彼女は一軒の洋風の立派な造りの屋敷の前に辿り着いた。
「ほぇ~でっけえ」
「ここにリーダーが居るはずだ。それにみんなも来てる頃だな。あいつらあたし以上に熱心だしな」
「夏川さん以上に?」
「気にするな。行くぞ」
あの集団は全員が身内や友人が失踪してしまった者だけの集まり。
レプリカの情報の為に友人が被害に遭ったという事にしたあたしと木野くんに彼ら程の情熱も信念もない。
そのままおよそ二メートル程はある大きな鉄格子の門を開き、屋敷の庭を行く。
彼女は周りにある物が全部珍しいようで、持っていたカメラで写真を撮ってもいいかと聞くが、そういう事は土地の権利者に言って欲しいものだ。
「なんかめちゃめちゃ広いですけど、メイドさんとかいないんですかね?」
「ああ、失踪したこの家の主人が人任せは嫌いだったらしいからな。今も使用人は雇わずに、結城の爺さんや結城自身がたまに手入れをしているらしい」
「お母さんは?」
「あんまり過ぎた事を聞くなよな。旦那が失踪したショックでそれどころじゃないとさ」
彼女が慌ててあたしに謝った。
だからそういうのはあたしに謝られても困るんだけどな。
そのまま広過ぎる庭を通り抜け、ようやく屋敷の玄関に着いた。
あたしが名乗ると、結城先輩が扉を開けて出てきてくれた。
「…………誰? その子は」
鋭い眼差しであたしの横の彼女を見る。
彼女の事を紹介しようと思ったが、名前を聞くのを忘れていた事を思い出した。
「えー……彼女は……」
上手く誤魔化してこの場を乗り切るべきと考えたが、彼女はあたしの言葉を遮って自分から結城に自身の事を説明する。
「に、二年で新聞部の霧村千尋と言います! 今回は先輩方の活動について取材をさせて頂きたく……」
「夏川さん、追い返して」
氷のように冷たい眼差しのまま冷酷に言い放った。
霧村は一瞬固まってから、また我に返ったように慌てて結城を説得する。
「あ、あまり聞いていいような話題でない事はわかっています! だけど、先輩方の活躍を我々新聞部が学校に広めたらきっと多くの協力者が」
「必要ない。消えなさい、部外者は邪魔よ」
結城の歯に絹着せぬ物言いに霧村が押し黙った。
どっちもどっちではあるが、流石に霧村が可哀想にも思えてきた。
「どうしても……だめですか?」
同情を買うような口調ではなかった。
ただひたむきに、良い新聞を作る為に尽力する姿が霧村にはあった。
対する結城の方もただひたむきに犯人を捕まえたいだけ。いや、それ以上の思いが込められているような気もする。
あたしは迷った。
残酷だがこのまま結城に言われた通りに霧村を追い返すか、霧村に味方して一緒に頼むかどうか。
「くどいわ。さっさと出て行っ」
「いいんじゃないんですか? この人には取材を条件に我々に協力してもらうって形で」
突然、あたしらの後ろから聞こえた声は結城と同じ犯人を捕まえるという目的を持った男、一年の「入間創」という人間のものだった。
入間は男にしては長すぎる髪が顔にかかったのを払いながらそう言った。
「邪魔にしかならないわ」
「そうは言っても人手が多い方がやりやすい作業ですし、無理に追い返すのも悪くないですか?」
「あたしからもお願いします。新聞部である以上、情報収集能力には多分長けているんじゃないかと……」
霧村が哀れに思えたので入間に便乗してあたしからも結城に頼んだ。
情報収集能力には長けていると言った時、視界の端にドキッとした表情の霧村が見えたが見なかった事にしておく。
入間も「お願いします」と頭を下げた。
結城はしばらく黙った後、ここで話している方が時間の無駄だと言って私を含めた三人を屋敷内へ通した。
「二人ともありがとうございます! 特に、えっと、背の高いあなた! 見ず知らずの私なんかの為に頭まで下げてもらって」
「俺はただ、単純に活動がやりやすくなると思っただけですから」
特に謙遜する様子もなく入間は言った。
結城が「遅いわよ、早くしなさい」とあたし達をもう既にみんなが集まっているという、大広間まで付いてくるよう急かした。
結城の父親が失踪し、今は彼女と彼女の母親と祖父しか住んでいないというこの大豪邸。
たった三人で住むには広過ぎる邸宅。
あたし達がここで集まるようになったのも成り行きのようなものだ。
大広間の前の扉に着き、結城が扉を開けた。
中には既に四人のメンバーが席に着いていた。
中にいる全員の視線が霧村に集まる。
一瞬木野くんと目が合ったが、彼の視線も霧村に向けられた。
「着いたわ、どうぞ」
「は……はい」
「緊張してんのか?」
「しますよそりゃぁ……」
霧村と小声でそう言葉を交わした。
「ここにいる全員の身内や友人が被害に遭ったの。一応彼らを紹介しておくわ。端から二年の鹿島君。一年の三橋さん。二年の木野君。三年の西君よ」
「俺は一年の入間です。よろしく」
「あ、あの! 新聞部の取材で協力させて頂きます。二年の霧村千尋と言います! その……足手まといになるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします!」
緊張しながらもハキハキと喋って深々と頭を下げる霧村の様子に、少しばかり好感を覚えた。
だが、霧村に向かって悪態を吐く男が一人いた。
テーブルの一番端にいる、ボールの様に丸々と太ったデブ、「西満」が彼女を罵る。
「ケッ、どうせネタの為だけに来て本当は俺たちに同情も何も感じてねえくせによく言うぜ。俺は認めねえぞ! こんなマスゴミの端くれのクソアマの参加なんてよお!!」
テーブルを叩いて唾を飛ばしながら西は叫ぶ。
はっきり言って、見ていて不愉快だ。
「そ、それは……」
否定しようにも否定しづらいといったように霧村がたじろぐ。
「ニシマン先輩! いきなりなんて事言うんですか! あんまりですよ!」
西を鎮めるように声を張り上げたのはいかにも運動部といった健康な色の肌とショートヘアが特徴の一年の「三橋楓」。
「俺をニシマンって呼ぶんじゃねえ!! ニシミツルだこのクソッタレが!!」
「そんな事はどうでもいいですから、霧村先輩に謝ってください! 今のは流石にひどすぎます!」
「じゃあ何か!? テメーはこんな奴の参加を認めるってのか!? あ?」
「当たり前です! 私たちの目的は一刻も早く犯人を追い詰める事。仲間は多い方が絶対に良いです!」
「仲間だとォ~? こんな邪魔にしかならねえ奴なんて仲間にしたところで百害あって一利なしだよ! んな事もわかんねえのかこの単細胞が!!」
「なっ……単細胞はどっちですか! 新聞部ってだけで人をそんな風に馬鹿にし」
「うるせえええ!! 先輩に向かって単細胞だとォ!? 一年のくせに生意気な事言ってんじゃあねぞコラァ!!」
「いい加減にしてくれよ!! 二人とも」
激しく言い争う二人の間にテーブルを強く叩いて仲裁に入ったのはいかにも好青年といった感じの男、二年の「鹿島龍之介」。
後輩にばかり色々と言われている西ことニシマンは苛立ちを隠せない様子だ。
興奮する三人をよそに、木野くんは退屈な授業を受けているかのように茫然と三人を眺めていた。なんと言うか、とても木野くんらしい。
「そうね、そろそろ本当にいい加減にしてくれるかしら? 私の家のテーブルを傷めつけるのも、汚い唾を飛ばしてテーブルを汚すのもやめてもらえないしら?」
「汚ねえ唾たあ俺に言ってんのか? おい!」
「あら、ちゃんと自分が唾を飛ばしていた自覚はあったのね。わかっているのならさっさと口を閉じて大人しく座っていて頂戴」
ニシマンの怒りが頂点に達したのか、彼は椅子を足で跳ね除け、結城に向かって飛びかかろうとしたが。
「殺すわよ」
結城のその一言で、ニシマンだけでなくあたしと木野くんも含めた全員の空気が凍りついた。これがいわゆる殺気というやつか。
あたしは人間が放つ明らかな殺意をこの時初めて目の当たりにした。
そしてこの女は、何か特別なカリスマとでも呼べるようなものを持っている気がした。
霧村にとってはいささか荒すぎるファーストコンタクトを迎えてから、ようやく今日の話し合いの時間となった。
取材の方は話し合いの様子でも見て勝手にメモでも写真でも撮ってくれという事になり、無事、霧村も話し合いに参加できた。
「ニュースにでも放送されている通り、連続失踪事件はこの街でしか起こっていないわ。それに一昨日も新たな被害者が出た事から、犯人はまだ街にいると考えていいわね」
結城がこの場を取り仕切ってそう言い、部屋の奥から持ってきた、至る所に印の付いたこの街の大きな地図を取り出した。
その印は被害者たちが失踪したとされている場所だった。
「情報によると被害者達が失踪したと思われる時間は不定期だけれど、地理的な範囲は限定されているわ」
結城は取り出した赤いマジックペンで地図上の印を繋いだ。
すると、その地図上には歪な円形が出来上がった。
「これ以上のんびりと捜しているようじゃ、警察に先を越されてしまいますね……」
悔しそうに爪を噛んで言ったのは鹿島だった。
やはりこいつらは、警察を当てにしていないと言うより、獲物を横取りしようとする商売敵とでも見ているようだ。
「犯人はきっとこう言った犯罪には手馴れています。何件も事件があるのにも関わらず、犯人に関する手がかりは犯行場所を予測する事しかできません。焦って捜したところで、俺たちが犯人に殺されやすくなるだけですね」
入間が犯人の捜査を急ぐ危険性を指摘した。
こいつは失踪事件は殺人事件として見ているのか?
普通は被害に遭った身内や友人の無事は願うものだとは思うが、入間の今の発言に突っかかる奴はいない。
「だけど、私たちがみんな一緒にいたら犯人が来たってやられる事はないんじゃ?」
「みんな一緒にいたら最初から狙われねえだろ」
三橋の意見をニシマンは速攻で否定した。
悔しいが、確かに正論だろう。
「捜すのが危険なら、いっそ犯人が来るのを待ってみたらどうでしょう?」
今まで興味なさげに何も言葉を発しなかった木野くんが突然妙な提案をした。
「……何言ってんだ?」
ニシマンも木野くんの発言に少し驚いているようだ。
「あの、それってもしかして……囮捜査とか?」
あたしの隣に座っていた霧村が言った。
なるほど、その手があったか。
霧村の問いかけに、軽く微笑んで木野くんは答える。
「そんなところだけど、そんな響きの良いものなんかじゃないです。最悪僕らの中から本当に死傷者が出るかもしれない危険な賭けです」
「要は、誰かが犯人を誘い出すエサになって襲われたところを俺たちが引っ捕らえるって訳ですか? 木野先輩」
入間が確認するように問いかけた。
木野くんはその通りだと答え、結城が更に提案を重ねた。
「そうね……その手段は危険だからまだ止めておこうかと思っていたけれど、状況が状況ね。警察の捜査が拡大している以上、その方法を実践する事にするわ」
「おい! あんた話ちゃんと聞いてなかったのか!? 一人をエサにしたところで俺たち全員で見張ってりゃ犯人に絶対勘付かれるって!」
ニシマンがまたキレながら言った。
頼むから落ち着いて話をしてほしい。
「誰も全員で見張るなんて言っていないし、そもそもエサを一人だけにするとも言っていないわ。話を聞いていないのはどっちよ」
「は?」
ニシマンだけでなく、あたしと木野くんを除いた全員が目を丸くした。
木野くんは最初から結城がこれから言うようにするつもりだったようだ。
「あたし達…………霧村さんにも協力してもらい、八人を幾つかの組に分け、今夜それぞれが担当する場所でエサになってもらう人を一人決めて、犯人を誘い出してもらうわ」
今までこの集会に何度か来ていたが、今回は最も効果を上げそうな方法が選択された。
見張りが少人数になる故、危険度は大幅に増すが、運が良ければこいつらと顔を合わすのも今日で最後になるかもしれないと思った。
最も、犯人があたしと木野くんが思っていた通りレプリカであったなら、あたしか木野くんがいない組は全滅するかもしれないが、木野くんはその事に心を痛めたりはするのだろうか。
Killer's day 1
結城先輩の目論見は察しがついた。この人は自分が犯人を捕まえることだけを考えているようだ。
僕ら八人の分け方がそれを思わせる。
三人の組が二つと、二人の組が一つ。
普通八人をグループ分けするとしたら四人を二つだ。仮に二つに分けることに不都合があったとしよう。そうしてこの分け方になったのなら、分けた本人は三人のグループにつきたいと思うのが自然だろう。
だが、結城先輩はそれをしなかった。
自分は誰もが嫌がるであろう二人組のところに進んで入り、そのうえパートナーとなる人物……と言うより、エサとなる人物に八人の中で最もひ弱であろう僕を選んだのだ。
結城先輩だってか弱い女の人だ。そんな人が誰かと得体のしれない危険人物を誘い出すとなると、自分がエサになって屈強な男の人にでも捕まえることは任せるものだろう。
結城先輩がしているのはそれとは真逆。
自身を敢えて狙われやすい立場に置き、僕の元に犯人が来ても、自分に来てもいいように動いている。
僕の察しが当たっているのなら、犯人に対する憎しみは他のメンバーより遥かに大きいのだろう。
「着いたわ木野君。あなたはそこのベンチにでも座って本でも読んでいて」
出発前に予め決めておいた定位置である犯行が集中している辺りの広い公園に到着し、結城先輩は僕に投げやりな様子でそう指示した。
「あの、結城先輩はどうするんです?」
「あなたを見張りながら散歩道でもうろついてるわ」
「それって……大丈夫なんですか?」
結城先輩は見るからに落ち着いている。
犯人に対して余程の自信を持っているということか?
しかし、結城先輩がどれほどの自信を持っていたとしても、聞かずにはいられなかった。
「大丈夫って何が? 質問をする時は、相手が自分は何を聞かれているのか理解しやすいように質問するべきではないかしら?」
結城先輩は真顔のまま早口だけど滑らかにそう言った。
「あぁ……はい、すいません」
悪気はないのかもしれないけどこの喋り方ムカつくなぁ。
気を取り直して僕は結城先輩に問う。
「えーと、仮に犯人が僕じゃなくて先輩の方を狙っていたら先輩は僕より危険なんじゃないんですか? ってことです」
「何? 危険だと言うのなら、あなたが私を助けるとでも言いたいのかしら?」
「それは違います。第一、僕じゃ先輩を助ける程の力はありません。だから、先輩一人で犯人と遭遇したらどうするのかなって」
「男らしくないセリフね。でも、無理をして見栄を張る男なんかよりはよっぽどマシか……」
結城先輩が初めて微笑み、どことなく聞き覚えのあるセリフを口にした。
「心配ないわ、私は強い」
その迷いのない物言いには確かな自信があった。
そのまま結城先輩は灯りのない真っ暗な散歩道へと消えていった。
散歩道は僕のいるベンチを囲むように続いているが、僕からは暗くて結城先輩の姿は見えなかった。
そういえば、結城先輩は僕に本でも読んでいろと言ったが、僕がここに持ってきていた鞄の中には、いくつかの教材と、神田さんにもらった拳銃が入っていた。
「みんなにはバレないようにしないとな」
ふと、僕がこの銃でレプリカを撃ったところを誰かに見られることを考えた。
「サイレンサー…………リボルバーの銃に使えるのかな?」
僕は犯人をレプリカと仮定して周囲を警戒しつつも、二十分程経過した頃に僕を襲い始めた眠気と戦うことで精一杯だった。
「それじゃあ、三橋さんは身の危険を感じたらすぐに俺らのとこへ戻ってきてくれ。もしくは、こう……犯人に勘付かれないように何か合図でも……」
「危険を感じたらポケットに入れてある携帯で俺たちに電話を掛けてもらう……とか?」
「お! じゃあそれ採用!」
私と入間君と鹿島先輩の三人のグループは結城先輩のグループ……と言うより、結城先輩と木野先輩の二人組のいる公園から数百メートル離れた場所に位置する閑静な路地裏を目指して歩いていた。
今の時間は深夜の一時。
辺りに見える住宅の明かりはほとんどなく、電気が切れかかって点滅する街灯の心もとない明かりだけを頼りに対策を練りながら歩いていた。
「さて、それじゃあ俺らはそろそろ三橋さんから離れて歩くとするよ。もう一度言うけど、危険を感じたら迷わず合図を出してくれ」
いよいよ始まったと言うように緊張した面持ちで私にそう鹿島先輩は忠告してくれた。
私はそれに力強く答え、真っ暗とまではいかない、暗闇の中へと足を向けるが、不意に入間君が私を呼び止めた。
「あ、待って三橋さん。やっぱり携帯を鳴らすのはやめよう。咄嗟の時に鳴らすのは難しいかもしれない」
「え? そんなことないと思うけど」
「三橋さんスマホだろ? ガラケーならともかく、タッチパネルじゃ押し間違いの可能性がどうしても高くなる。いざって時にそうなっちゃ危険すぎる」
確かにそれはよくある話だ。
「それじゃあ他に何か良い合図があるのか?」
鹿島先輩が入間君に問う。
「左手で首の後ろを掻くとかどうだろう? 自然な動作だから犯人に悟られにくいだろうし、第一お手軽にできるから」
「この暗さで見えるの?」
私が多少不安気に聞くと、入間君ではなく鹿島先輩が答えた。
「大丈夫。俺は結構目が良い方だし、暗さにももう十分に慣れたし、絶対に合図を見逃さないよう見てるから心配しなくていいよ」
「……って先輩も言ってる訳だし、大丈夫だよ。俺も見えるっちゃあ見えるから」
私はその事を了承すると、再び憎き犯人をおびき出す為、暗闇へと足を運んだ。
しかし、後ろでちゃんと二人が私のことを見ていてくれていると言っても、夜道を実質一人で歩いているようで、ましてやその道がひっそりとした路地裏となると、犯人とは関係なしにどうも恐怖を感じてしまい、私は首を横に振ってその恐怖を胸にしまい込み、大切なお姉ちゃんをどこかへやった犯人への怒りを思い出す。
今日までこの怒りを忘れたことはない。
「必ず捕らえてみせる」
私はそう口にしてみる。
できることなら自分の手で犯人を捕らえてやりたいが、やるなら確実に犯人を捕らえられるような男子にやってもらう方がみんなの為にもなる。
自分の手で捕まえることより、ただ犯人が私たちの手で捕まりさえすることの方が最優先だと思っている。
私はなんとなく後ろを振り返ってみると、入間君と鹿島先輩の姿がうっすらと見えた。
よし、どこからでも来い。お前の悪事もこれまでだ。
そう改めて意気込むと、不意にポケットの中のスマホが振動した。
「電話……誰からだろ」
スマホを取り出して画面を見ると、出発前に連絡が取れるよう、電話番号を交換したばかりのニシマン先輩からの着信だった。
私は周囲への警戒を怠らずに、嫌々ながらもそっとそれに応じた。
「……もしもし? ニシマン先輩?」
電話に応じてからの第一声は一体なんだろう? こんな時にまたキレてたら面倒くさいな……。
しかし、そんな私が勝手に抱いていた不安とは裏腹に聞こえてきた声は荒っぽい口調ではあったが、ニシマン先輩のような不快さはない声だった。
『いや、悪い、あたしだ、夏川だ』
「あれ? 夏川先輩? どうしたんですか? それに携帯電話は?」
舌打ち混じりに夏川先輩は言う。
『充電切れだった。そろそろ替え時かもな。それより、そっちの状況はどうだ? 怪しい奴はいた?』
「いえ、まだそんな人は見ていません。先輩の方は?」
『霧村を囮にして見張ってたところで変質者が釣れたよ。今は警察にそいつを突き出そうかってところだ。だけど、あたしの勝手な意見なんだけどさ…………連続行方不明事件の犯人はコイツじゃないような気がしてな。さっきからニシマンの短足で蹴られて大泣きしてんだよこのオッサン……こんな肝の小さい奴にあんな犯罪ができんのかって話だ』
電話の向こうからニシマン先輩の不愉快な罵声と情けない声で許しを乞う中年男性の声が聞こえた。
『とはいえ、それでもコイツが犯人な可能性もゼロではないから、今日のところは引き上げるなら引き上げてくれって連絡……。ま、そっちのことはそっちで決めてくれ。それじゃ』
ブツッ
終始イライラした調子で夏川先輩はそう言い終えた。変質者に野蛮人とは大変だな・・・・・・。
このことを後ろの二人に伝えようと思い、後ろにUターンをするが、先程振り返った時とは何かが違った。
「!!……っ……!」
人間は本当に驚いた瞬間に声は出ないと言うがその通りだ。
しかし、そんなことを考える余裕はすぐに消え、私の思考は恐怖に支配された。なぜなら、私の目に入ったのは二人のうっすらと見える姿ではなく、言葉では形容し難い、とにかく化け物としか呼ぶことができない「何か」が立っている姿がうっすらと見えたのだ。
「っ……は…………ひぃ!」
いざとなれば陸上部で鍛えた脚で逃げることも考えていたが、今の私は腰が抜けてしまい、その場にへたり込んで後ずさりをするばかりで、事前に考えておいた合図も出せずにいた。
化け物はキョロキョロと辺りを見回しているだけのように見えたが、何をするかわからないもの程恐ろしいものはないと痛感した。
怖い。殺されるかもしれない。
この二つの言葉だけが頭の中をグルグルと巡ってゆく。
「うっ……イヤ…………来ないで」
化け物がこちらの方へ歩みを進める。
私はそう言って服を汚し、身体を引きずりながらひたすら力の入らない脚で身体を化け物から離れようとする。
恥もプライドも全て捨てて逃げ出したかった。
化け物のぼんやりとした輪郭が徐徐に明確な線を形作っていく。
体の大きさは私よりも頭一つ分くらい大きく、刺々しい青白い肌が濡れているかのように薄暗い街灯の光が反射していた。
「こっちに来ないで!!」
私がそう叫んだ時、思いが通じたのか、化け物の歩みが止まった。
そのまま空高く飛び跳ね、古びた二階建ての住宅の屋根に飛び乗り、そのままどこかへ走り去っていった。
「・・・・・・っはぁ・・・・・・はぁ・・・・・・はぁ・・・・・・」
これは……助かったのか? そもそも助かるも何もアレは一体……。
とはいえ、ひとまずホッとして目を閉じると、まつ毛が涙で濡れていることに気付いた。まつ毛だけじゃない。頬の辺りを触ってみると、涙の跡がはっきりとわかった。
しかし、こうしてホッとして呼吸を整えているのも束の間、私はとても肝心なことを思い出した。
「二人は!?」
化け物がいなくなった暗い道の先に二人の姿は見えなかった。
私は一目散に来た道を引き返し、入間君と鹿島先輩を捜しに闇の中を駆け抜けた。
夏川さんと電話で話をしている間も歩いていたとはいえ、まだそう遠く離れた訳ではないはずだ。二人は私の予想した通りにすぐに見つかったが、またも衝撃的な光景を目にすることとなった。
「入間君! その傷……」
「三橋さん…………無事……だったか」
「鹿島先輩は…………」
そこには左腕から大量の血を流す入間君と、血だまりのうえで力なく横たわっている鹿島先輩の姿があった。見ると鹿島先輩の首からまだ血が流れていた。この場のあまりの異臭に、今まで味わったことのない吐き気が私を襲った。
「気が付いたら倒れていたんだ……俺はなんとか異変に気付いて対応できたから助かったけど、先輩はもう……」
悔しそうに歯を噛みしめて言う入間君の声は涙声で、目にもうっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
「犯人が……来たの?」
「一瞬のことだったから姿はよく見えなかった。俺は咄嗟に身を翻しただけだったから。でも、きっとやったのは例の犯人だ。俺たちが三橋さんに気を取られている隙に逆に俺たちが闇討ちされた!」
私は今、恐ろしい想像をしていた。思い返していくとだんだんと寒気がしてくるほどの恐ろしさだった。
私たちが捕えようとしているのはもしかするとあの化け物なのかもしれない。一瞬で鹿島先輩を殺し、姿を見せることなく入間君にも攻撃を加え、私の元にもやって来た。
「どうしたんだ……そんなに震えて?」
入間君にそう言われて自分が小刻みに震えていたことに気付いた。
ひとまず「何でもない」と伝え、持っていたハンカチで入間君の傷口を固く縛った。
「大丈夫? 痛くない?」
「な、なんとか」
私は「よし」と呟き、携帯電話を取り出す。
「どこに掛けるんだ?」
「結城先輩のとこ。今日はもう引き上げた方がいい。危険すぎる!」
「だけど、これはある意味ではチャンスだ。犯人に襲われた今、みんなを集めれば捕えられ…………いや、ごめん、なんでもない。そういえば犯人の顔がわからないんだった」
「顔がわかっていたとしても、多分、私たちが束になってかかってもみんな殺されると思う」
私がそう言ったのを聞いた入間君は私がこんなことを言うのは予想外だったのか、大きく目を丸くしてこちらを見た。
「それは……一体どういうことなんだ?」
「犯人は私たちが思っているような相手では決してない…………アレは化け物だったの」
Killer's day 2
「正気なの? あなたはそんな突拍子のない話がまかり通るとでも本気で思っているの?」
「嘘なんかじゃありません! 本当なんです!!」
「それじゃあ逆に聞かせてもらうけど、三橋さんが私の立場で、私が三橋さんの立場だった場合、あなたは私の言うことを信用してくれるのかしら?」
「そっ……それは…………でも、本当に」
結城先輩は大きく気怠く溜息をついて言う。
「話にならない……一旦黙って頭を冷やしてみたらどうなの?誰が見たって、あなたが錯乱しているようにしか見えないわ」
埒があかないと言うように吐き捨てる結城先輩。
三橋さんはそれでも諦めずに自分の正当性を訴え続け、入間君は痛みが引かない腕を抑えながら神妙な面持ちで二人を見守り、霧村さんはどうしていいかわからないと言った様子。ニシマン先輩話す間を見つけては三橋さんを口汚く罵る。
そんな状況を尻目に、夏川さんは僕にコソッと話しかける。
「木野くん、どう思う?」
僕は答える。
「三橋さんが見たのは十中八九レプリカだ。だけど、鹿島君を殺して入間君に攻撃を加えたのは人間だ。レプリカは死体を残せない」
「レプリカが武器を使って殺すとなると話は違ってくるんじゃないのか?」
「仮にレプリカがそうしたとして、入間君を殺し損ねる訳もないはずだ。奴らは生身の人間なんかじゃ到底太刀打ちできないし、三橋さんの前に現れただけで何もしなかったというのも説明がつかない……」
夏川さんは諦めたように溜息をつく。
「となると、やっぱりただの殺人鬼の仕業かね…………」
「後ろから首をナイフか何かで一突き……死亡推定時刻はいつ頃だ?」
鬼嶋警部が連日の捜査の疲れを見せる様子もなく僕に尋ねる。
「今から約五時間前の深夜一時十分頃。目撃者はなく、身元は所持していた生徒手帳からここから一番近くにある高校の生徒かと」
刑事として初めての仕事として舞い込んだ連続行方不明事件の捜査。
行方不明者たちの行方が依然として掴めない中で、今回の殺人事件は起こった。
「加賀君。君はどう思う?」
突然の警部の質問に、僕はその意図が掴めなかった。
「どう思う? と言いますと?」
「連続行方不明者の事件との関連性だ。前にも言ったが、私達は何者かの手によって行方不明者が発生していると考えている。誘拐かもしれない。もしくは殺して死体を隠したのかもしれない。今回は、殺したが死体を隠せなかった……という線についてはどう思う?」
「僕は事件と関係があるとは思いません。いや、特に深い理由がある訳ではありませんが、今回の事件を連続行方不明者の事件と繋げるにはまだ要素が少なすぎるように思います」
「君の意見は最もだ。いや、私も実際は君の言う通りだと思っている。しかし、刑事のカンと言ったら聞こえはいいが、私が犯人だとしたら、行方不明者事件としてあまりに報道されすぎた故、死体を隠すなどというまどろっこしい真似はしないのではないかと思ってね。死体を隠そうとする行為は単に殺すだけよりも誰かに目撃されるリスクがどうしても高くなるからな」
「そう言われてみるとそうですが、流石に考えすぎでは? 警部、ここのところ一睡もせずに働きっぱなしじゃないですか」
少し失礼な気がしたが、警部は特に気に留めた様子を見せることなく微笑んで言った。
「ちゃんと寝ているさ。睡眠など一時間で十分だ。そんなどうでもいいことより、この被害者の高校へお邪魔する連絡を入れておけ」
鹿島が死んでから最初の登校。と言うより、鹿島が死んでから約七時間後の登校だ。
あたし達は結局そのまま結城の豪邸に寝泊まりし、学校に行くと決めたのはあたしと木野くんと霧村だけだった。
「霧村さん、あんた平気なのか?」
「平気ではないよ。自分の身近で人が殺されるなんてあんまり想像できてなかった。でも、鹿島君の死体を直接見た訳じゃないからなんとか学校には行けるかな」
「別に今日くらい休んだってバチは当たらないと思うがね」
「そう言う夏川さんこそ、なんだかんだ言いながらも学校来てんじゃん」
「んー? あたしは別に用があるからな」
「用って何?」
「…………霧村さんには関係ないよ」
それからしばらく学校に向かうまで沈黙が続き、気まずさに耐えられなくなったのか、今度は霧村の方からあたしに話しかける。
「……ところでさ、夏川さんのこと、呼び捨てにしていいかな? やっぱり初めて話す相手だったとは言え、ずっとさん付けっていうのも変な感じだし」
気まずさを笑って誤魔化しながら霧村は言った。
「別に構わないよ。あたしも内心では勝手に呼び捨てしてたし」
「あ、そうだったの? なんか私だけ負い目感じて損した気分」
正直に言うとあたしは内心ではみんな呼び捨てにしている。別に見下している訳ではないが……。
「そう言えば、木野君は? あの人も学校行くんでしょう?」
「知らなかったか? あいつは寝坊だよ」
「……お、起こしてあげなかったの?」
「何であたしがやるんだよ」
霧村が意外そうな顔をして言った。
「だって二人、付き合ってんでしょ?」
「はぁ?」
おいおい、やめてくれよ。
あたしと木野くんは利害関係が一致したから一緒に行動してるだけだぞ。
「ん、違うの? 集会中もずっと二人で話してたじゃん」
「…………会話の内容、聞いてたか?」
レプリカに関する話は極力聞かれないよう気を配ってはいたはずだが、万が一聞かれていたとしたら面倒だ。
ここで始末する…………訳にはいかないが、なんとかしなくては。
「いや、仲良さそうに顔近付けてヒソヒソ話してたから全然聞こえなかったけど、ちょっと気になるかな」
あたしはひとまず安心して胸を撫で下ろし、これからは木野くんとの話し方にも気をつけようと思った。
「ヒソヒソ話しは知られたくないことなんだから詮索はしないでくれよ。それと、あたしと木野くんはビジネスライクってやつだよ、ビジネスライク」
「ビジネスライクねぇ……それじゃあ、木野くんのことは呼び捨てにはしないの?」
そう言われて初めて自分が彼のことだけは未だに心の中でも呼び捨てしていなかったことに気が付いた。何度か呼び捨てもした気もするが、何故だろう。
「木野くんは…………なんとなく『木野くん』なんだ。『木野』って感じじゃない」
それだけだ。彼はなんとなく木野くんだ。
「それはそうと、取材は上手くできたのか?」
「うーん……あんまり…………」
「霧村、あんたは犯人捜しから降りた方がいいんじゃないか? 人が死んでるんだし、元よりあんたは無関係のはずだ」
霧村はしばらく黙り込み、そして言った。
「確かに危険だし怖いけど、もう少しだけやらせてほしい。ちゃんと新聞にできるかはわからないけど、私は真実を掴みたい」
「ジャーナリスト魂…………ねぇ」
まったく、つくづく命知らずな奴が多いな……。
「それで、収穫は…………あったのかい? 夏川君」
「なくもなかった……って程度です。レプリカは確かにいた」
六月の太陽が傾きかけた頃。
昼間の眩しすぎる光を失いつつある太陽の光が斜めにこざっぱりとした生物教室に入り込み、それでも明るいオレンジ色の中にあたしとナギ先生の黒い影がそれぞれ別々の方向を見ながら並んでいる。
あたしが嫌々ながらも今日、学校に来た理由はこの人物に会うためだ。
ジャージの上に白衣を着た新人の生物教師「百瀬凪」。
この頃は暑さが増してきたためか、白衣の下のジャージは半袖に七分丈のズボンになっていた。
「その口振りじゃあどうやら仕留め損ねているみたいだね。先生は夏川君なら余裕でやっつけられると思ってたんだけどなぁ」
「買いかぶりすぎですよ、ナギ先生。あたしは確かに強くはなりましたが、流石に第二形態にはかないっこありませんし。そもそも仕留め損ねるも何も遭遇できたのはあたしじゃありませんので」
「てことは、遭遇したのは彼かい?」
彼、とは誰のことだ?
そんなあたしの疑問を表情から察したのか、いつものニヤついたやらしい笑みを浮かべて言う。
「彼と言ったら彼だよ。ほら、あのチビで運動も勉強もダメダメな国民的アニメの誰もが羨む青いお友達がいるあの子みたいな」
「その誰もが羨む青いお友達を持っている子にチビっていう設定はありましたっけ?」
「揚げ足を取るなよ。どうせわかったんだろ? 先生はその子が遭遇したんじゃないのかって聞いてんの」
この人は自分の思った通りにいかなかったらすぐに機嫌を損ねる子供みたいな一面がある。
「質問に質問で返すようで悪いんですけど、なぜ木野くんのことを知っているんです?あたしはナギ先生にあいつのことを話した覚えはないですよ」
「知りたい? んん~? 知りたいぃぃ?」
「そういうのいいですから……早く」
ナギ先生は口を尖らせて言う。
「まったくつれない子だな、夏川君は。まあいい。木野君のことは前々から夏川君と一緒にいるところをちらほらと見かけてね、それでなんとなく興味が湧いて補習に来させたんだ。最も、その時は君のことも呼んでおいてあげたのに見事にすっぽかしてくれたね。ん? 夏川君? そうだよな? 違うかな?」
あたしはナギ先生の言葉を最後の方だけ無視して聞き返す。
「彼を補習に来させてみて、どう思いました?」
あたしはこの時、ナギ先生がてっきりまた機嫌を損ねてブツブツ言ってくると思ったが、予想に反してナギ先生はニヤリと薄く笑って楽しそうに答えた。
「言ってもいいけど、まずは夏川君が彼のことをどう思っているのかが知りたいな」
そのからかうような口振りでもあった質問に、今朝、霧村に言ったことと同じことを返した。
「ビジネスライクですよ」
「好きとか嫌いかの問題じゃねえよ。人としてどうだ? って聞いてんの」
その質問にしばらく黙り込んで考える。
人としてどんな奴か?
考えたことはあったが、はっきりとした答えは未だに出てはいなかった。
それが何故なのかはなんとなくわかってはいる。
これまでの木野くんの行動には何かが引っかかる。あたしはその引っかかっている「何か」がわからないせいで、彼の印象をはっきりと描くことができないでいた。
「……とりあえず、不思議な奴って感じです。最初に会った時はただの情弱だと思ってたんですけどね。最近じゃその一言で彼のことは語れない気がします。それより……先生の方はどうなんです?」
ナギ先生の表情が少しだけ硬くなった。いつになく若干真剣そうな様子がその表情からは伺えた。
そして、腰掛けていた長机から飛び降り、窓の方へ向かって歩きながら話し始めた。
「もっと彼を知りたい。今のところは不思議な奴っていう印象は夏川君と同じだが、彼にはとてもそそられる『何か』がある。最初に自分で言っておいてアレだが、彼は便利な青くて丸っこいお友達を持っている子とは根本的に違う人間だ」
「その『何か』って、なんなんです?」
「何か」の正体がわかっていたら「何か」なんて言い方はしないような気がしたが、この時のあたしは何故かそう聞いてしまっていた。
ナギ先生は窓の前で立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り向いて微笑みを交えて言った。
「わからない。でも、運が良ければ君が先にそれを知ることができるだろう。多分、その時が来るまではそう時間はかからないはずだ」
ナギ先生はふざけて言っているのではなかった。
あたしは何故そんなことを自信満々に言えるのかわからなかったが、その言葉をこれから先に忘れることはなかった。
「ははは…………さて、話が脱線しすぎたかな? とりあえず昨夜のことを詳しく話してくれ」
気を取り直して……とナギ先生の態度はそう言っているようだった。
「んじゃあ、ちょっと一服させてください。しばらく吸えてなかったもんで」
「外でやれ。この教室に臭いが付いたらどうしてくれんだよ。怒られんのは先生なんだぞ?」
「つれないなあ」とあたしは言ってポケットから出しかけた煙草をそっと戻した。
そのままあたしは昨夜のことを知っている範囲で全て話した。その間、ナギ先生は相槌を打つこともなく黙って聞き続けていた。
そして、あたしが全て話し終えた後、大きく背中を伸ばして「なんだかなぁ」と置いて、気怠げな表情で言った。
「色々と気になるところはあるけど、そのレプリカの正体はすぐにわかるだろう。次誰か死んだらまた現れるはずだ」
「レプリカの目的と正体がわかるんですか?」
「先生の推測が当たっていたらね」
「その推測、教えてください」
「嫌だね」
ナギ先生は表情を変えずにそう吐き捨てた。
「何故です?」
自然と自分の語気が荒くなっていたことに気が付いたが、それを改めることはしなかった。
ナギ先生は変わらず気怠げな表情のままあたしの目をまっすぐ見据えて言う。
「ミステリーモノの主人公が頑張って謎解きしようって時にサブキャラがそいつにネタばらししてやって解決したらそれで終わりだろ? 君はそんな展開面白いと思うのかい?」
「読者や視聴者がどう思おうがその主人公はきっと大助かりで得したはずです。お願いします。教えてください」
「嫌だ」
「…………何故です?」
ナギ先生の理不尽な物言いへの怒りが隠せなかった。
そんなあたしのことなど気に留める様子は微塵も見せずに先生は言い放つ。
「その主人公がいくら得しようが先生はこの場合は視聴者の立場なんだ。先生は先生の思い通りになってくれりゃそれでいいと思ってる。だから今君に先生の推測を話してしまったら面白さが欠けちゃう訳なんだ。正直言って、結構自信ある推測だからさ」
湧き上がる怒りをぐっと堪え、冷静さを必死で装う。
「レプリカの目的を知る鍵が目の前にあるというのに、あえて自分で秘密を暴けと? なぜそうまでしてあなたの遊びに付き合わされなくちゃならないんですか?」
「逆に聞くけどなんで先生はそこまで教える必要がある? 忘れたのかい? 先生はただ見ていたいだけだって言ったのを。夏川君、君の頑張りをただ単に見ていたいだけだっていうことを」
その言葉を聞いた瞬間、あたしはナギ先生の胸ぐらを掴み上げていた。
「ふざけるな……」
胸ぐらを掴まれていても変わらず先生の表情は気怠げなままだ。それがまたあたしの怒りの火を大きくさせた。
「離しなよ」
「レプリカの目的を教えろ」
「この手を離せって言ってんだ」
先生の声色に苛立ちが混ざったのがわかった。だが、苛立っているのはあたしも同じだ。
「どうしても言わないつもりなのか……?」
「もう一度だけ言う。手を離せ」
「質問に答え」
「これが最後だ。離せ」
しばらく互いに何も言わなかった。
あたしがナギ先生の胸ぐらを掴み上げたまま時間が止まったかのような錯覚に陥った。だが、次の瞬間に止まったかのような時間は唐突に動き出した。
ガシッ!
「……っ!?」
「離せって言ったろ? 四回も」
突如、目にも留まらぬ速さで首を掴まれ、そのまま床に叩きつけられた。
首にかかる力が強くなっていき、あたしはナギ先生の腕を振りほどこうと腕を掴んだがビクともしない。
「夏川君、人間、世の中には勝てない相手というのが必ずどこかにいるものなんだ。夏川君にとっての勝てない相手とは他でもないこの『ワタシ』だ」
「っ…………くぅ……」
先生は力を緩めるどころか、どんどん首を絞める力を増していく。
「いいかい夏川君? 勝てない相手には容易に戦いを挑んではいけない。漫画やアニメの世界ではそんな相手に果敢に挑んで散った仲間がどうたらとかあるけど、そいつは先生に言わせてみればただの馬鹿だ。蚊やハエが人間と面と向かって戦って勝てると思うかい? 夏川君は蚊やハエに負けちゃったりするかい?」
冷淡。
いや、ナギ先生の口調に、既に名付けられてある感情の名前を当てはめることはできなかった。
その感情を例えて言葉にすることもできず、あたしはナギ先生の濁ったような真っ黒な瞳に射抜かれていられることしかできなかった。
「は…………っく……ぅぐ」
意識ははっきりとしたまま、首にかかる負荷と息苦しさだけをひしひしと感じさせられる力加減。
ナギ先生はあたしの意識が飛ぶことを許さない。
「だけど、君はやっぱり先生が見込んだ通りの子だ。もう少し経験を積んで強くなれば、先生と戦っても二秒は立っていられるようになるだろう。だから今はその物騒なナイフはしまってくれ。これ以上やると、夏川君が怪我をすることになる」
ナギ先生はあたしが取り出していたナイフにそっと手を置いて、首への力は緩めないまま耳元まで顔を寄せて囁く。
「夏川君の頑張りに免じて出血大サービスでアドバイスだけしてあげるよ」
ナギ先生が言うアドバイスに、あたしはただゾッとした。
それは恐怖などではなかった。
ただ「ふざけるな」と、今は腹の底からそう叫びたくなった。
Killer's day 3
学校が終わり、再び結城先輩の屋敷に集まった私達。
集まっているのは私、霧村千尋と夏川と入間君にニシマンさん。
夏川は一緒に登校した時とは違って何だか沈んでいる様にも見えて苛立っている様にも見える。
「ねえマナ、結城先輩ら遅いね」
「ん? ああ……そうだな」
探りを入れたつもりで思い切って下の名前で話しかけてはみたが生返事といったところ。
昨日のこともあってか、やはりみんなの空気は未だに重たい。
取材をしようにも、これは流石に取材どころじゃない…………が、個人的に犯人を追ってみたくなったのは本当だ。正義感に駆られてと言ったらおそらく嘘になってしまうだろう。
不謹慎。
我ながらつくづくそう思った。
今の私を動かしているのは新聞部の二人からの頼みでも新聞部魂でもない。
ただ純粋で、それでいて危険で迷惑な好奇心がそうさせているという事実を今ひとつ認めたくなかった。
「ごめんなさい。待たせてしまったかしら?」
結城先輩がそう言って広間に入り、後に続いて何故か俯いたように楓ちゃんが入ってきた。
三橋さんのことは昨日、ニシマンさんに罵られたのを助けてもらったことがきっかけで仲良くなったので楓ちゃんと呼ばせてもらっている。
二人は空いている席に着いた。
「木野君は?」
結城先輩の問いに答える者はいなかった。
確か、学校には行くはずだと朝言っていた気がするが。
「夏川さん、知らないかしら?」
「……はい。知りません」
「それじゃあ、夏川さんから彼に連絡を入れてもらえるかしら?」
結城先輩が夏川さんにそう頼んだのは普段から二人がよく一緒にいるのを考えてのことだろう。
夏川さんは黙ってその指示に従い、携帯電話で木野君に電話を掛けた。
昨夜の内にちゃんと充電は済ませたようだ。
「出ないですね」
夏川はそう言った。
「ケッ……あのクソチビ、どうせビビって逃げ出したんじゃねえの?」
ニシマンさんが相変わらずの悪態を吐く。
「やめましょうよニシマン先輩。それに、あれだけのことが起きたんだ。逃げ出すのは悪いことじゃない」
入間君がなだめる様に言う。
「善人ぶるなよ。鹿島の一番近くにいたくせに犯人に気が付かなかったマヌケが」
「あなたなら犯人に気付けて捕まえられたとでも?」
「何だ? その言い方じゃあまるで俺が犯人に対して何もできないとでも言いたげだな?」
「違うんですか?」
二人ともまるで爆弾の様だ。
下手に口出ししたらどうなるかわかったものじゃない。
特にニシマンさんは。
「……ニシマン先輩だけじゃありません。ここにいる全員、あんな化け物には敵いませんよ」
不意に楓ちゃんがそう呟いた。
それを聞いた結城先輩はあからさまに呆れ果てた表情をして溜め息を吐いた。
ニシマンさんも同じ様な反応をしつつ、「どいつもこいつも……」と不満そうに呟いた。
「三橋さん、いい加減にして。あなたの下らない作り話でこれ以上この場を混乱させないで。私はさっきまでずっとそうやってあなたに言い聞かせたわよね?理解力が乏しすぎるわ」
楓ちゃんは泣きそうになっていた。
その涙は二人から責められていることだけが原因ではないように思えた。
楓ちゃんの言う化け物への恐怖も影響しているのだろう。
「三橋、ちょっと聞いていいか?」
突然、さっきから特に沈んだ雰囲気だった夏川が立ち上がって楓ちゃんのところまで歩み寄ってそう聞いた。
「な、なんですか?」
「キミが見たとかいう化け物のことだが、本当にそんなのが存在するのだとしたら何故鹿島だけ殺してキミのことは襲わなかった?」
楓ちゃんは意表を突かれたようにハッとして目を見開いた。
彼女の視線が泳いでいる。何か言葉を必死で探しているようだ。
考えてみれば確かにその通りだ。
何故襲われたのが鹿島君と入間君の二人だけで、そのうえ入間君を殺し損ねているのは不可解な点だ。メモっとかなきゃ。
「どうなんだ?」
「それは……わかりません。化け物の考えることなんて…………何も」
「本当に?」
夏川の突き刺さるような視線が楓ちゃんを襲い、楓ちゃんは蚊の鳴くような声で本当ですと言った。
「じゃあ入間君。キミは彼女の言うことを信じているのか?襲われた張本人の意見をまだ聞いていない」
楓ちゃんの次はその隣に座っている入間君への質問だ。
「俺は…………何も見ていない。辺りも暗かったし」
「見たとか見てないとかじゃない。化け物の存在を信じているのか? と聞いているんだ」
「やめなさい夏川さん。これ以上の無意味な詮索は許可しないわ。大体化け物だなんてそんな非現実的な世迷い言の為にこの場をこれ以上混乱させないで」
突如、結城先輩が夏川の行動を止めるよう指示した。
しかし、夏川は。
「少し黙っていていただけますか。あたしは今、彼に質問をしているのです」
「いいからやめなさい。あなたの行為は無意味なのよ。これ以上続けるようならただじゃおかないわ」
気のせいか、落ち着いた口調のはずなのに結城先輩からいつものクールな雰囲気が見られない。どことなく焦っている様に見える。
「入間、どうなんだ?」
夏川は結城先輩を無視して質問を続けた。
入間君も楓ちゃんと同じように動揺しているが、その動揺には結城先輩が顔を真っ赤にしてこちらに迫ってくるのが見えたからでもあったろう。
その結城先輩の様子にニシマンさんですら目を背けている。
結城先輩が夏川の背後で立ち止まった。
「夏川さん」
「……先輩は黙っててくださいって言いましたよね?」
「この状況じゃ黙れと言われて黙れないわ」
「じゃあ、あたしもやめろと言われてやめられません」
「あ、あの、二人とも喧嘩は」
「黙りなさい」
やばいと思って仲裁に入ろうと立ち上がってった私だったが、結城先輩のその一言で何も言えなくなってしまった。
迫力というか凄味というか、二人の間には私達には出せそうにないオーラがあった。
「今日は色々あって虫の居所が悪いんです。頼むから好きにやらせてくださいな。お願いします」
「…………最後に言うわ。夏川さんこれ以上の無意味な詮索はやめなさ」
結城先輩が言葉を言い終える瞬間、夏川の素早い肘打ちが結城先輩の顔面をめがけて放たれた。が……。
「すいません。遅くなりました…………って、あれ?」
夏川の肘が結城先輩の鼻先に接触する直前、不意に開かれた扉の音と木野君の何だか間が抜けたような声のおかげで夏川は動きを止めた……というより、この場の時間が止まったようだった。
数秒後、夏川は決まりが悪そうに席へ戻ってゆき、結城先輩もそれ以上夏川に何か言う訳でなく、黙って元の席に着いた。
「あの…………」
「驚かせてしまってごめんなさい。木野君は適当に空いている席に座ってくれたらいいわ」
そう言われて木野君は何かを察したように黙ってたまたま空いていた私の隣に座った。
私はふと木野君の着ているワイシャツが随分とシワくちゃになっていることに気が付いた。昨日はこんな感じではなかったはずだ。
「木野君、そのワイシャツどうしたの?」
私がそう聞くと木野君は抑揚のない声で「体育の時に急いでカバンに詰めちゃったんだ」と、これと言った非日常的な答えは返ってっこなかった。
「ふーん……じゃあ朝はちゃんと間に合えたの?」
「ああ、うん、なんとか」
「おい! そこのチビにマスゴミ! るっせえんだよ!! 今がどういう時かわかってんのか!? 緊張感が足らねえんだよテメーらはよお!!」
突然怒鳴られ慌てて二人で謝ったが、ニシマンさんの怒り癖は最早病気ではないのだろうか? そんな性格で友達できるのかな?
それからの話し合いはこれといった解決策は出ず、結城先輩はまた昨日と同じやり方で犯人を誘い出そうと提案した。
鹿島君が死んだ今、その方法は危険すぎるかと思ったが、意外にも襲われた張本人である入間君が結束を高めれば大丈夫だと言って結城先輩に賛成した。
ニシマンさんも乗り気で化け物が相手な訳がないと言って強気だ。
一方で、夏川はグループ分けに自分を結城先輩と組ませてほしいと希望した。
「どうして? 女二人だけでは危険が大きいわよ?」
「ダメですか? あたしはその方が犯人を誘い出しやすいと思いました。女二人ならもう一人が隠れる必要性はあまりないでしょうし」
「隠れる必要はないとはいえ対抗する術が」
「腕っ節には自信があるんでしょう?」
夏川が結城先輩の言葉を遮って言った。
結城先輩は図星を突かれたようで目が泳いだ。
「自信がなけりゃ昨夜は木野君と二人だけになろうとは思わないはずです」
木野君は失礼なことを言われているはずだが気にしている様子はない。
結城先輩は負けましたと言わんばかりに渋々その要求を飲んだ。
「それじゃあ、私達はどんなグループになりますか?」
私がそう聞くと、予想だにしなかった答えが夏川から返ってきた。
「悪いけど、今回はあたし達だけでやらせてくれ。犯人の狙いを集中させるためにもな」
「先輩、いいですよね?」と最後に確認を取って言った。
結城先輩は夏川に従って同じようなことをみんなに言った。
正直言うと私も参加したかったが、無理に逆らうと怪しまれるかもしれないので黙っていたが。
「ちょっと待てよ! 俺たちはその間どうしろっつうんだよ!? 大人しくここで指を咥えてお留守番してろってのか!?」
ニシマンさんが不満を前回にまき散らした。
「悪いけどそういうことよ。今回だけ……我慢して頂戴」
「ふざけんなよ……俺にだって犯人への恨みはあんだぞ!! 俺はやるぜ。誰もついてこなくても一人でやってやる!」
「ニシマン先輩、流石に一人では……」
「構わないわ。木野君、彼はそのままにしてあげて」
木野君の制止を結城先輩が止めた。
「西君、くれぐれも邪魔はしないように」
「チッ……ほんっとムカつくんだよなテメーのその言い方。俺がそんなに信用ならねえかよ」
そりゃあなりませんよ……。
「私は誰にでもそう言うわ。邪魔になるような人物がいるなら、そいつから先に殺してさえいいと思っているから」
全く、この人が言うことは何一つ冗談には聞こえないよ……。
「それで? 私と二人きりになって一体何がしたいのかしら?」
外に出て早々それですか。全く鋭いお方だ。
「あなたは『普通』じゃないわ。木野君もね。この組織に入った時から何か目指している先が違っているようだったし、さっきの肘打ちからしても相当な手慣れだと感じたわ」
「そこまで気付かれているだなんてまるで心を読まれているみたいです」
「誰だって気付くわ」
「それはないでしょう。特に木野君は」
「そうかしら?」
「そうですよ」
コイツはどうにも他の人達とは元から感性がずれているみたいだ。
少ししてから結城に聞いてみる。
「それにしてもあたしが入った時から『普通』じゃないって気付いておきながらどうして追い出したりしなかったんです? 邪魔になる奴は殺してさえいいと思っているのでしょう?」
「別に……メンバーは多い方が行動しやすいと思ったからよ」
「そうですね。確かに動きやすいでしょう。人が多い方が犯人が誰かわかりにくくなります。ミステリ映画の登場人物も大人数なことが多いように」
「……何が言いたいのかしら? 最近眠そうだったのはミステリ映画の見すぎだったのかしら?」
「カンフー映画も見てました。特にあのスタントマンを使わない俳優のアクションがいいですね。椅子のアクションは特に有名です」
「あなたの好みなんて聞いていないわ。そろそろ本題に入ってもらっていいかしら?」
結城の目が本気の目つきになった。
あたしは今日、ナギ先生に言われたことを思い出す。やっぱり虫唾が走る。
だが、あの人は基本的に嘘は吐かない。何でか知らないが、あの人の言うことはほとんど当たる。
「そうですね。では単刀直入に聞かせてもらいます」
あたしは一呼吸置いてもう一度ナギ先生の言葉を思い浮かべた。
本当にふざけるなよな。
「結城先輩、あなた……レプリカですよね?」
Killer's day 4
重苦しい空気が漂っているように感じた。
二人が出て行ってから誰一人として言葉を発しない。何を考えているのか、誰の表情からもそれは読み取れない。鹿島君の死によって得体の知れない殺人鬼の存在に恐怖しているのか、それともさらに憎しみを増しているのか、取材をしようにもどうにもやりづらい。
「犯人を捕まえに行く。一応聞くが誰かついてくるか?」
そう言って席を立ったのはニシマンさんだ。
捕まえに行くと言っても、どうやって捕まえるつもりなんだろう。
誰も答えないまましばらく経って、ニシマンさんが何も言わずに部屋を出ようとした時、突然楓ちゃんが彼の前に立ち、道をふさいだ。その様子に驚いたのは私とニシマンさん自身だけで、木野君と入間君は神妙な面持ちのまま彼女を見守っていた。
「なんだよ」
苛立ちを隠さずにニシマンさんは言う。
「また化け物かよ?」
「本当に危険なんです……」
震える声で楓ちゃんは言った。彼女には悪いが、私も化け物の話を信じているわけではない。
「どけ」
楓ちゃんはじっとニシマンさんを見据えたまま動こうとしない。
「どけっつてんだろ」
楓ちゃんは動かない。
ニシマンさんは彼女を払いのけた。しかし、彼女はニシマンさんにしがみついて止めようとし続けた。
「一人じゃ本当に危険なんです! 考え直し」
「じゃあテメーがついてこい!!」
痺れを切らしたニシマンさんがそう言って楓ちゃんに掴みかかった。たまらず私は二人に駆け寄った。
「落ち着いてください! 相手は女の子なんですよ!」
「うるせえ! 女だからどうだってんだよ!」
「女じゃなくても落ち着いてください! 嫌がる人を無理矢理連れて行くのは」
「待ってください」
突然、木野君がそう言って席を立った。
「先輩を行かせてやってください。化け物も殺人鬼もどちらも比べる必要がないくらいに危険なことはわかっているはずです」
「だったら尚更やめた方がいいんじゃ……」
私がそう言うと、木野君は的確とも冷淡とも言える、ニシマンさんのことは心底他人事であると言うように続けた。
「やるからには、何か勝算があるから一人ででもやるのでしょう。何の当てもなしにそんな危険なことをしようとは普通は思いませんし。そうですよね?」
ニシマンさんはそう言われて何も言い返せずにいた。そのまま大きな舌打ちをして、楓ちゃんを突き飛ばして部屋から出て行った。
それでも楓ちゃんは先輩を止めようとしたが、私が何を言っても無駄だと言って彼女を諭した。
「……本当に大丈夫なんでしょうか」
あんな酷い扱いをされていてさえまだ彼の心配を続けているこの健気さはどこから来ているのだろう。
「なんとも言えない。まあ、死にはしないんじゃないかな」
木野君が落ち着いた様子でそう言った。
「木野先輩はどう思っているんです?化け物のこと」
入間君が聞いた。
「それもなんとも言えないかな」
愛想笑いを交えて木野君は言った。楓ちゃんが俯いたのがわかった。
続けて彼は私に話題を変えるように話しかけた。
「ん?」
「取材、今のうちにしておいたら? ほら、せっかくうるさい先輩もいなくなったことだし」
「木野先輩て、案外毒舌なんですね」
クスクスと笑って入間君がそう言った。つられて楓ちゃんも笑っていた。
「人付き合いは苦手だから」
人付き合いが苦手だから毒舌というのはよくわからないが、さっきまでの重苦しい雰囲気は少しばかり緩んだ気がする。私は今まで聞きたかったことを今のうちに聞いておくことにした。
「それじゃあ、まずはみんなが犯人を追う理由から聞いてもいいかな? 別に、話したくなければ、それでいいからさ」
私がそう言うと、まずは入間君から答えてくれた。
「俺は恋人が殺されました。その仇打ちですよ」
「僕は……友達が殺された」
続いて木野君がそう答えた。
「私はお兄ちゃんが殺されて……その仇打ちです。だけど、相手が相手です……」
ここにニシマンさんがいたらまたがなり散らすんだろうな。
そのまま取材は続けたが、あまり、いい内容の新聞にはならない気がした。
「痣はどこです?」
結城は答えない。
今の質問であたしがレプリカのことをどれだけ知っているかをなんとなく察したようだ。
「……何の話かわからないわ」
口では否定しているが、目に宿る殺気は全く隠せていない。
「レプリカになるには何者かに薬を与えられ、それを投与すれば人間を超越した力を手に入れることができる。そして、レプリカの証に薬を投与した箇所に歪な痣ができる。そこに一定以上の刺激を与えれば、三橋が見たような化け物へと変貌する。違いますか?」
結城は無駄な言い逃れを諦めたように目を閉じ、そして目を見開いて続けた。
「あなたは知りすぎているわ。夏川さん、あなたもレプリカなの?」
「いいえ、少し違います」
「私をどうするのかしら?」
「殺します」
結城は驚きを見せずに、淡々とした様子で言う。
「私のことは後にしてほしい」
「そのつもりです」
「え?」
あたしの返答は予想外のものだったらしい。
「犯人を殺すのでしょう。目星はついています」
「それは誰なの!?」
結城は知らない。いや、多分知らされていないだけだ。
彼女に薬を渡した人間は、レプリカが出来損ないの仲間を増やせることを知らせていない。
「その前に、三橋の前に現れた時、何をしていたんです?」
結城は少し考えて、言った。
「犯人を捜していたの」
「何故都合よく鹿島が殺された場所に居合わせたんです?」
「それは言えない」
「そういう能力があるんですか?」
「……」
これでわかった。コイツは最初から囮捜査をやるつもりだった。そして、誰かがやられた時、それを察知する能力を持っているというわけか。
「そんなことより、犯人の手がかりは」
「教えますが、条件があります」
結城は訝しげにあたしを見る。
ナギ先生があたしに囁いた通り、レプリカと協力体制を敷くことで、元凶に近づくことができそうだ。特に結城ほどの憎しみを抱えた奴なら。しかし、こんな奴らと協力なんて、やはりまっぴらごめんに思えてきた。考えてみれば、あたしが犯人を追う理由など最初からないのだから。
「あんたに薬を与えた人間のことを教えてくれ」
犯人のことはどうでもいい。今殺せるレプリカを前にすると、歯止めが効きそうにない。
「……教えられることは何もないわ」
なんだと?
「本気で言っているのか?」
「あなたこそ、自分の立場を理解していない。」
そう言った瞬間、結城は服を捲り、腹部の歪な痣を露わにし、左手に握ったペンでその痣を刺そうとしたが、問題はない。
「ッ!?」
何が起きたかわからない、といった様子だ。結城は自分の左手に空けられた風穴を見て呆然としていた。
「予想していないとでも思ったのか?」
結城はゆっくりとあたしの右手に握られた拳銃へと目を向けた。
弾は対レプリカ用の物じゃない。無駄撃ちはできない。今のは木野くんが今日、あたしと三橋が学校に行っている間に警察から盗んだ銃に込めてあったものを利用させてもらった。
「妙な真似をしてみろ」
あたしは結城に銃を向けたまま、ゆっくりと近づいた。
「殺すぞ」
「あなた……ハンターね」
「何だそれは」
「薬を渡した人が教えてくれたわ。お仲間が何人か殺されているって。あなたがやったのね」
ハンター……そんな風に呼ばれていたのか。
「あたしがそのハンターなら、あんたはどんな行動を取るべきか……わかるな?」
「薬を渡した人間のことは話せない」
「このまま死ぬか?」
今すぐにでも殺してやりたい。
「私達には箝口令が敷かれている」
「関係ない」
「話せば殺される」
宮島が自殺したのはそのためか。
「好都合」
「私のことは後にしてほしい」
命乞いときたか。情けない。
あたしは結城の耳を撃った。真っ赤な血が辺りに飛び散り、彼女は呻き声を上げてその場に倒れこんだ
だが、こんな血は偽物だ。ヒトモドキの流す血など、蚊を潰した時に出る血を見るのと同じ感覚だ。
「他にもレプリカはいる。今あんたに聞かなくても、こっちはそれほど困らないんだぜ?」
「後で……話すわ」
「今話せ」
「約束する、本当に……犯人を殺した後なら……」
「ダメだ」
「お願い……犯人を殺させてくれたら全て話すと約束する!」
必死の叫びだった。
結城は普段の態度からは想像もつかない形相でそう叫んでいた。
「…………」
「お願い……本当に、何でも話すから」
彼女の目には涙が浮かんでいた。
「聞かせてくださいよ。あんたの犯人への憎しみの理由を」
銃は向けたまま、結城の返答を待った。
彼女はあたしが撃った耳を抑えて、静かに泣きながら自身の今に至る経緯を話し始めた。
話によると、結城は元からあの豪邸に住んでいたわけではなかった。幼い頃に実の両親から虐待を受けていて、小学校に上がる前に児童養護施設に預けられたと。それから三年後、その両親が薬をやって死亡し、その時に結城を養子として引き取ったのがあの家の持ち主である夫婦だったという。
「それで最近、その夫の方が失踪し、妻は精神を病んでしまったってとこですかね」
「幸せだった日々を奪われたの。せっかく幸せになれたっていうのに……だからこそ、許せない」
結城は泣き止んでいた。代わりに、彼女の声は怒りに震えていた。彼女をここまで動かしている根拠は家族愛か。
「お涙頂戴の感動的な話ですね」
結局、ナギ先生の言った通り、あたしが後手に回るしかないみたいだな。
「信用はしない。だけど教えますよ、犯人」
「それで構わない。本当にありがとう」
コイツの能力は、後で見せてもらうとしよう。そして、穏便に事を済ませたら、すぐに殺してやる。
やっておきたかった取材は一通りは済んだ。問題はニシマンさんや結城先輩にも同じ質問をしなくちゃいけないところか。
「それにしても、帰ってきませんね。ニシマン先輩」
楓ちゃんがそう言った。
「もう寝ちゃいましょうか。夜も遅いですし」
入間君が大きな欠伸をしながら言った。
「でも、ニシマンさんもそうだけど、結城先輩らも遅いよね」
私がそう言うと、入間君が返してくれた。
「確かに、女二人だけの方が確かに心配ですね」
「少し、捜してみた方がいいかな」
「なら、俺が行きますよ」
入間君が名乗り出た。
「待って、入間君怪我してるから、危険なことは……」
「大丈夫だよ、深夜にコンビニ行く連中もなんやかんやでザラにいるんだし、同じミスは犯さないさ」
そう言って、誰も彼を止めることなく、入間君は出て行った。それからしばらく話すこともなく、楓ちゃんがコーヒーを淹れてくると言って部屋を出た後、木野君がやはり心配だと言って入間君を追いかけて出て行き、私一人がしばらく部屋に残された。
「……眠いな」
コーヒーが出来上がるまでの間、少しだけ眠ろうと思い、机に突っ伏してみようとした瞬間、部屋の扉が開いた。
私は楓ちゃんかと思ったが、扉の方を見ると、見知らぬ七十歳くらいの背の高い老人が立っていた。
「おや、君一人かい? 他のみんなは?」
背の高い老人はしゃがれた声で私に聞いた。この家の人だろうか。
「一人、今はコーヒーを淹れてきています。他のみんなは出かけていますけど……あなたはもしかして、結城先輩のお爺さんですか?」
「ああ、そういえばまだ面と向かって会ったことがなかったね」
これは良い機会だ。結城先輩のことについて少し話を聞かせてもらおう。
「あの、私は新聞部に所属している、霧村って言うんですけど、よければお話を聞かせてもらってもいいでしょうか」
お爺さんはにっこりと笑って快く承諾してくれて、それと同時に楓ちゃんがコーヒーを三つ持ってやってきた。ちょうど木野君は出て行っちゃったから、三つ目のコーヒーはお爺さんにあげて、ゆっくりと結城先輩のことについて聞かせてもらえた。
お爺さんは懐かしい思い出を語るように結城先輩のことを話してくれた。なにより、お爺さんの息子夫婦には子供ができず、児童養護施設から養子として引き取った結城先輩を実の家族と同じように愛していたとかで、彼女の今やっていることにはあまり賛成しているわけではないみたいだ。
「復讐をしたところで誰も喜ばないことくらい蓮華もわかっているんだ。だけど、あの子は優しい子だ。殺された養父へ自分がしてあげられることはそれしかないと思い込んでしまっている」
「お爺さんは……犯人が憎くはないのですか?」
「憎いさ。だが、わしが犯人を殺したところでわしの気が晴れるわけでもないし、息子が戻ってくるわけでも元の家庭が戻ってくるわけでもない。それに、わしが犯人を殺してしまえば蓮華にわしが恨まれてしまう」
お爺さんは悲しそうな目をして笑った。
「蓮華の心の傷を癒すには、どうしていいのかわからないんだ。だから、いっそあの子の好きなようにさせてやろうと思ってね。方法はどうあれ、それで少しでもあの子の気が晴れるなら、それでいいと思っとる」
「……今すぐやめさせるべきだと思います。私は」
楓ちゃんが言った。
「このままだと、結城先輩が殺されることになるかもしれないんです。死んだら気を晴らすも養父への恩返しも何ともなりませんよ……」
「確かに……君の言う通りだな……」
このお爺さんも結城先輩の養母である人と同じように、疲れてしまっているんだ。
自分にできることがないせいで、最愛の孫同然の結城先輩がやっていることが、善か悪かなんて、どうでもよくなってしまっている。
ただ、好きにさせようという、一種の悟りとも諦めとも見られる感情を内に秘めているのだろう。
「取材は……以上です。貴重なお話、ありがとうございました」
礼を述べても、誰も話そうとはしなかった。
しかし、そんな重たい静寂は、突然の慌ただしい声によってかき消された。
その叫び声の主は扉を壊すような勢いで開けたニシマンさんだった。
「お前ら! 今すぐいない奴らも集めろ! 犯人が来る!!」
その言葉を聞いた楓ちゃんは青ざめ、お爺さんは息を飲んだ。
「その……犯人て、一体どんな人なんですか?」
ニシマンさんの慌てようから察するに、まさか本当に楓ちゃんの見た化け物なのだろうか。
「夏川だ!! 夏川が結城を射殺していた!! 俺らもきっとやられちまう!!」
Killer's day 5
憐れな被害者達の馴れ合いの場かと思って結城先輩主導のグループに入り、霧村さんには友達が殺されたという嘘を吐いてまで、仲間としてここまでやってきたが、彼らの状況はとてもじゃないが馴れ合いなんてものでは言い表せない。
ニシマンさんと三橋さん以外は、互いを利用し合っているはずだ。
当然、僕もそうだけど。
「つまり、レプリカが武器を使って二人を襲ったんじゃなくて、確かに別の犯人がいるって考えていいわけだね」
携帯電話越しに夏川の声が聞こえてくる。
声の調子からして、上手いこといったみたいだ。
『そういうことだ。そしてその犯人は入間かもしれないってことで話は進んでいるわけだが……ソイツのことはちゃんと見張れているのか?』
「夏川さん達をを捜しにいくと言って出ていったのを尾行してるけど、やっぱりまだ証拠がないね」
レプリカに攻撃されず、犯人に攻撃されたと言っていた彼だが、今まで死体を残さずに犯行を遂行していた犯人が死体を残したうえ、対象を殺し損ねるのは不自然だ。しかし、彼を犯人とみなすにはまだ証拠がないと二人は思っている。
「それはそうと、結城先輩の能力はわかったの? ていうか、今近くにいる?」
能力こと、レプリカ特有の特技。神田さんが生きていれば、今頃薬を持ち出したレプリカの特技もわかっているところだろう。
『ああ、なんなら代わろうか?』
「お願いするよ。その前に、先輩はパチモノのことは知っているの? 既に誰かをそんな風にしたっていうことはないの?」
『ああ、そのことについて色々聞いてみたが、本当にとぼけている様子はなかった。レプリカ共のボスが敢えて知らせていないのかなんだか知らないがな』
パチモノを増やされて起こる何か面倒なこと。それは、神田さんのようなパチモノが増えて、反乱が起こることを阻止しようとしているのだろうか。今の手がかりじゃどれも仮説にしかならないが。
『必要となれば、意図的にパチモンを作って利用するってやり方も案外使えるかもしれないな』
「意外だね。夏川さんが積極的にレプリカの力に頼ろうとするのは。何でも自分一人で切り抜けようとするものだと思ってた」
『まあ、パチモン程度なら素手でどうにでもなるし、結城のお願いに付き合う必要ができたことだしな。入間の証拠をあぶりだして、スッキリと事を済ませる為の手段は何だっていいよ』
「その辺りは夏川さんに全部任せるよ。あ、結城先輩に代わってくれない?」
しばらくしてから、携帯電話越しの声は結城先輩のものになった。
『もしもし』
結城先輩の声にどことなく垢抜けたような印象を覚えた。
「どうも、レプリカはやはり先輩だったんですね」
『夏川さんから聞いたら、直接気付いたのは木野君だったらしいわね。どうしてバレちゃったのかしら?』
「気付いたわけじゃないです。なんとなく怪しいと思ったので、夏川さんに鎌をかけるように頼んでみただけです」
しばらく返答はなかった。
電話越しに聞こえる風の音と、生の風の音が混じって耳に入ってきている。
『自分がレプリカであるという先入観のせいで勝手に喋ってしまったというわけなのね……』
その口振りからは僅かながらの悔しさを感じさせられた。
「そういうことです。似たような方法が入間君に通じるかはわかりませんけどね」
相手は連続殺人犯。もし彼が普通の人間であるなら、周囲への警戒は相当なものとなっているはずだ。ましてや、うっかり口を滑らすことなどには期待できないだろう。
「それより、先輩の能力を教えてもらってもいいですか? 一応正式に協力して犯人を捕まえるとなった以上、そのくらいは把握しておきたいですからね」
『……』
電話の奥から夏川さんが自分も聞きたいから話すように先輩を促す声が聞こえた。
『血よ。血の臭いがわかるの。それで犯人を追跡できると思う』
「三橋さん達の前に現れたのは、血の臭いを嗅ぎ取ったからなんですね」
しかし、犯人が誰かはわからなかった。それは鹿島君と入間君以外の血の臭いを嗅ぎ取れなかったから。
本当に犯人が入間君だと仮定するなら、この時点で辻褄は合いそうだ。
『ええ、そんなとこ』
「わかりました。念のため彼の尾行は続けてみます。何かあったら伝えますよ」
『犯人を捕まえるメリットはあなたにはないはずよ。どうして尾行なんて危険な真似までするの?』
「メリットならあります。僕が犯人に狙われる危険がなくなることと、そうすることで、あなたというレプリカを始末できますから」
『…………』
「くれぐれも、夏川さんの前で妙な動きは見せないことをお勧めします。それでは」
電話を切った。
レプリカにしては、人間味の濃い人だなと思った。何でかはわからないが、なんとなくだ。多分、他のレプリカもそうなんだろうけど、奴らが危険なことに変わりはない。薬を広めている人間の企みがわからない以上、結城先輩を信用することはできない。
全てが終わる前に、先輩を始末しなくては。
「頼んだよ」
そう言って僕は、彼に自分のレプリカを倒す術を一つだけ渡した。
夏川さんを裏切ることになるのかもしれないが、最終的には僕らの利益に還元される行為だ。
結城と結託したあの日、屋敷に戻ると誰もいなかった。正確には結城の爺さんがいたらしいが、あたしが会うことはなかった。
その日は金曜日だったので、次に学校へ行くまでは土日を挟んだ。
そして月曜日、あたしは霧村にあの後どうしたのかを聞いてみたら、ひどくよそよそしい態度で家に帰ったと言われた。あたしは彼女の態度が気になって聞いてみるも、なんでもないと逃げるようにそう言われた。
そして昼休み、来る途中にコンビニで買ったパンを音楽を聴きながら食べていると、あたしの元に霧村がやってきて、恐る恐るこう質問した。
「あの……さあ、この前、結城先輩と二人で外にいた時、何してた?」
結城を脅迫していた……とはさすがに言えない。
「別に、普通に見回り。特に変化はなかった」
霧村はどうしていいかわからないといったようにオロオロとしている。なんなんだ。
「今日、学校に来てる結城先輩て……結城先輩だよね」
「……何言ってる?」
ひょっとして、あのやりとりを見られていたのか?
「何があった?」
「ええと、それはなんと言うかその……ごめん! やっぱりなんでもな」
引き返そうとした霧村を捕まえてあたしは言った。
霧村の肩に手を置いた時、ひどくゾッとした顔をされた。
「詳しく話せ」
霧村が教室であたしと面と向かって話をしているところを見られると好奇の対象になるだろうから、人がほとんど来ない第三校舎へ先に行かせてしばらくしてからあたしもそこに向かった。
予想通り、廊下には霧村以外誰もいなかった。
霧村の表情に若干の怯えの色と、何かを期待しているかのような色が見える。何を考えているんだ。
「さっきの質問の意図は何だ?」
「……怒らないで聞いてくれる?」
「内容次第」
息を飲んだようにあたしを見ている。霧村の額に浮かんだ汗が眉間を伝って降りていっている。
霧村は悩んだ末にようやく切り出した。
「単刀直入に聞かせてもらうね。その……結城先輩を射殺したっていうのは……本当なの?」
「……誰がそんなことを言った」
無意識に声が低くなっていたことに気が付いた。
霧村はドキッとしたように身体を震わせた。
そんな質問をされるということはつまり、結城の耳の辺りを撃った場面を誰かに見られていたということか。
「二人が出て行った後にニシマンさんも出て行ったんだ。それからしばらくして、大慌てで帰ってきて、夏川が先輩を……」
あの脂身野郎……。
「それで……あたしは今、霧村達の間では犯人に仕立て上げられているわけだと?」
霧村は「いやいやいや!」と慌てて首を振った。
「あたしは信じてるわけじゃないの。実際、鹿島君が殺された時、一緒にいたわけだし。楓ちゃんの方は……よくわからないけど」
霧村に荒っぽい口止めをする必要はなさそうなのでひとまず安心した。
「今日、結城のことは見たんだろ? それがあたしが無実であるなによりの証拠だろ」
そうため息混じりに言うと、彼女は緊張した表情を緩め、苦笑いで脂身野郎の言ったことがどうしても気になっていたということを言った。
「三橋の方の説得は任せる。頑張って捜してやってくれ。ニシマンにはあたしから誤解を解いておくよ」
「ああ、うん、やっぱり……ニシマンさんの見間違いだったんだよね。ははは」
安心したようで、どこか残念そうに見えるのは何でだ?
「それじゃあ、ごめんね、急に変なこと聞いて。教室戻ろうよ」
「あたしといると変に思われるぞ」
「まあ、夏川のことを怖い人だとか色々言ってる子もいるけど、生死を共にしている仲間だし」
霧村は冗談ぽくそう言って笑った。
必要となればすぐにでも殺そうと考えていたのは言えそうもないが、最近のコイツの様子のはどこか引っかかる部分が多いように感じるのは気のせいだろうか。
「そうだ、一つ頼みがあるんだ」
「え、なに?」
今はとりあえず、面倒な仕事を手短に済ませることが優先だ。それはできるだけ早い方がいい。
「女の子らしさ全開の字、書けるか?」
被害者の鹿島君の通っていた高校に訪問し、彼の普段の様子などを担任の先生やその他のクラスメートにも聞いてみたが、絵に描いたようなごく平凡な男子生徒だったという。
成績は並、身長体重も平均的、スポーツの実績もまあまあといった少年で、特に悪い仲間との付き合いはなかったとのこと。
ただ、これらの証言は全て他の先生方やクラスメートの子達から得られたものだ。当の担任の態度といったらもう。
「ですから、鹿島君のことは普通すぎて大して印象には残っていないと言ったのです。犯人捜しは他所でやっていただけませんかねえ?」
「あんたそれでも教師か!」
「加賀くん、激昂しない」
「若い者がお騒がせしてすみません。しかし、本当に何も知らないのですか? 彼の交友関係や、ご家族の状況などは」
深見刑事が僕を軽く注意し、鬼嶋刑事が僕のことを謝罪して言った。
深見刑事は今朝、突然自分も捜査に加わりたいと願い出て、一緒に行動している。女性の刑事でお子さんを一人持っていらっしゃる先輩だ。
鬼嶋刑事は引き続き共に行動しているし、付き合いも長いし、尊敬している。だから、こんなろくでなしに頭を下げさせてしまった自分の非礼を反省した。
黒いジャージの上に真っ白な白衣を纏った鹿島君の担任、「百瀬凪」は早く帰りたいと言わんばかりに言い放った。
「ウチでは家庭訪問なんて実施してませんからね。交友関係もわからないのに家族の方もわかるわけないでしょう。どうせ犯人は連続失踪事件の奴でしょう? さっさととっ捕まえて、純真な青少年達が安心して暮らせる住みよい街にしてくださいよ」
煽るような言い方に対し、深見刑事は至って冷静に返した。
「ええ、必ず実現させてみせます。そのためにもまずこういった聞き込みも重要な捜査でして……」
「話すことは、全部話しましたよ」
静まり返った応接室に、外で部活動をしている生徒達の活気のある声が響いてくる。
鬼嶋刑事は埒があかないといった素振りは見せずにソファから立ち上がって、「捜査にご協力頂き、ありがとうございました」と深々と頭を下げた。不本意だが僕も同じようにそうした。深見刑事もそうすると思い、ふと彼女の方を見ると、座ったままじっと百瀬先生を見つめて動かない。
その視線に気が付いた百瀬先生も何も言わずに見つめ返す。
ボールをバットで打った甲高い金属音が聞こえた。友人達と談笑する女子生徒達の声が廊下側からも聞こえてくる。
「……何か?」
百瀬先生が問いかける。
「失礼、あの、以前どこかでお会いしませんでしたか?」
深見刑事がそう聞いたのに対し、百瀬先生はじっと深見刑事の顔を見てから言った。
「知りませんね。コンビニですれ違ったりでもしたのでしょう」
「ひどいもんですね。あの変な格好の教師。自分の教え子が殺害されたというのに、まるで他人事だ」
鬼嶋刑事がこちらを見ずに言う。
「実際他人事だ。刑事が一々感情的になるな」
「しかし……普通すぎて何も印象に残ってないという言い方は教師として駄目でしょう」
「素直な人間は嫌いじゃない。記憶に残る人間というのは大抵変わり者だ」
だからって社会的な面とか色々あるでしょうと言いたかったが、これ以上愚痴を垂れても仕方がないのでその言葉は飲み込んだ。
ふと、深見刑事が少し早いが夕食をとらないかと提案してきた。今日の捜査の予定はもうないので、僕はもちろん賛成し、鬼嶋さんもそれを了承した。
車に乗って駅の近くのファミリーレストランを目指す。運転は若手の僕の役目だ。助手席には鬼嶋さん、後部座席の深見さんは聞き込みをしたメモを見ている。
「しかし、失踪事件の類はこの辺りだけでなく、以前から捜査している方のもまだ解決しそうもないですかね」
僕がそう聞くと、深見さんが答えた。
「ええ、その件は県警でも総力を挙げて捜査中だけど、依然として手掛かりはゼロね」
「だが、目撃情報には興味深いものがいくつかある。失踪した人間の中には失踪する直前の週の辺りからやけに気分が高揚していたり、まるで人が変わったかのように活気の満ちた様子になっていた者もいたようだ」
鬼嶋さんに対して深見さんは言った。
「だけど、それはほんのごく少数の証言ですから、連続する事件との関わりは見出せませんね」
「まあ、これからの捜査できっちり解明していくさ」
そうこう話しているうちに目的の店に到着し、僕らは窓際の席に座った。
店内に人はまだ少なくこれから増えていくなる時間帯になる。
「ふうう、今日も疲れたね。加賀くん、最近彼女さんとはどうなの?」
深見さんが明らかにからかっている。
「もう、僕に恋人いたことのないの知ってるでしょう」
「モテると思うけどね」
「高校時代からそれだけは言われてきましたよ。それだけは」
「加賀くんは話してて面白くないからね。背は高いし顔も整ってるのにモテないってのはそこが原因なんだよね。女が求めてるのはイケメンだけじゃないんだよ?」
話してて面白くないって……面と向かってそれ言いますか。
「学生のような会話をしてないで、さっさと注文したらどうだ? 人が増えたら料理が来るのが遅くなる。私はもう決めた」
「ふむ、考えてみれば鬼嶋さんが結婚してるってのもすごいですよね。すっごい堅物なのに」
あんた一応相手は先輩でしょう……。
「妻と娘にはとっくに逃げられたよ。知ってるだろう」
「あはは、これは失礼」
しばらく深見さんがメインに談笑しているうちに、注文を終え、またしばらく経つと料理が運ばれてきた。高校時代、よく行っていたチェーン店だったので、久しぶりに味わうこの店の味にはお袋の味とも言えるような懐かしさがある。
「あっ、こら! 何してるの! あぶないでしょ!」
近くの席にいる家族連れの客の母親であろう女性がそう言ったのが聞こえてきた。
「ああ、大変! 血が出てるわ。ほら、手出して」
子供が爪楊枝で遊んでいて指を怪我したみたいだった。
「子供はかわいいですね。鬼嶋さんの娘さん、今おいくつでしたっけ?」
「今年で十三歳になる」
「あ、うちの子と同い年なんですね。そろそろパパ嫌いって言われちゃう時期じゃないですか?」
深見さんはかなり若く見えるが、それだけ早くに出産を経験したのだろう。
「逆に言われたいところだな。娘には半年ほど妻に会わせてもらっていない」
鬼嶋さんの口振りには特に気にも留めていないことを話すような感情が感じられた。仕事が生涯のパートナーとでも呼べそうな人だから、それはそれでいいのかもしれない。
「そんなことより、明日からも私達と一緒に捜査は続けるのか?」
「ええ、そうさせて頂くつもりです。迷惑でしたか?」
「捜査にはとても役立ってくれるが、加賀君の為にも色々と慎んでほしい発言がいくつかあるな」
「はは……善処します」
それからも深見さんのおかげで会話は途切れることなく続いてそれなりに楽しい食事の時間を過ごせた。
徐々に人が増え始めてきた店内には他の客達の笑い声が聞こえてきたりもして、明るい雰囲気の場所となった。
そんな増え始めてきた客の中、一人だけなんだか変な様子の女の子が入店してきた。見ると着ている服は鹿島君と同じ高校の制服で、所々薄汚れている箇所があるのが見える。
友達がいない人をけなすわけではないが、女子高生がこの時間帯に一人でファミレスに来るのも変わっているかなと思ったが、彼女はどうやらそんな優しい一言では言い表せそうになさそうだ。
「加賀君、わかるか?」
「ヤバイ感じですね、あの子」
深見さんは見極めるように彼女を観察している。
その怪しさを感じさせる女子高生はどことなく虚ろな目をしていて、足取りもおぼつかない。
「いらっしゃいませ、一名様でしょう……あ、あの、お客様!」
少女は店員を無視して奥へ進む。その先には、さっきの家族の席がある。
周りの人々も彼女の様子に違和感を感じ始めている。この子、何かヤバイぞ。
「……」
僕らは黙って様子を見守っている。警戒は完璧にできている。
そして予想した通り、少女はその家族に向かって襲いかかり、明るい雰囲気だった店内は一変して騒然としたものとなった。
Killer's day 6
月曜日ほど嫌になる日はない。理由は学校がまた始まるからという単純なものだが、今日は月曜という日が一つの記念日になろうとしている。
「はあ……はぁ……っはあ」
俺は今、放課後の生徒達がまばらになりつつある廊下を全速力で走っている。
手紙に書いてある時間には三十分も遅れちまっている。
「はあ……はあ、はっ……はっ」
ようやく俺にも……。
「はあ……はぁ……っどけ!」
ついに俺にも……。
「はあ……はぁ……まだいてくれよ」
こんな俺にもとうとう……やっと。
「春が来るっ!」
そして俺は、汗だくになりながら全速力で階段を登りきり、まさに希望の扉と化した屋上の扉を開けたのだった。
勢いの強い風が吹きこんだ。
生まれて初めて受け取ったラブレターには可愛らしい丸みを帯びた字で「ずっと好きでした! 十六時に屋上で待ってます。ひとりで来てください」と書かれていた。
最近はムカつく女どもとしか関わっていないから、清楚で純粋な心を持った子を熱望している。そのせいか、全身が脈打っているのが感じられる。その子はどこで待ってくれているのかを捜そうと辺りを見回そうとした。
だが、何故か俺は首を動かす動作を完了させることができず、いつの間にか視界が横になって見えていることに気がつくと同時に、口の辺りから鈍く持続している痛みにも気がついた。
「あ……はひ……? ふぇ……はほ?」
い、痛い! 何とか身体を起こすと、目の前に小指の爪と比べて少し小さく白いものが赤みを帯びて転がっていた。
前歯だ。紛れもない、正真正銘俺の……。
「ひいいいいいい!!」
「うるせえぞ、静かに叫べ」
振り返るとそこには、見たこともない冷たい目をして俺を見下ろす夏川が立っていた。コイツは火の点いた煙草を左手の人差し指と中指で挟んで持っていた。
こんな奴だったか? 俺はこいつに口を肘で打たれたのか?
「立て、殴りにくい」
俺は夏川に髪を掴まれて無理やり立たされた。それからすかさずコイツは俺の鼻に煙草を持ったままの手で裏拳を一発、そのまま頭を下ろされて膝で鼻を打たれた。
「んガッ! ぐ……げえッ!」
無言で夏川は俺の身体の至る箇所を殴っては蹴りつけ、壁に何度も叩きつけられた。
何故俺がこんな目に遭うのか考える一瞬の余裕ができた瞬間、俺はここで殺されるとだけ思った。ラブレターのことなどとうに忘れていた。情けないが、死にたくないとただ願うばかりだった。
「や……やめ……助け……うげえ!」
ただ殴られ、まだ殴られ、蹴られ、踏みつけられている。この強さ、コイツ本当に女かよ!
「お願いだ! もう許して! ね!? ね!? 許し……おうッ!」
「……」
た、玉が……潰れたんじゃないのか? 痛みが、ひどすぎる。このままだと本当に死んじまう!
夏川は一通り俺を殴り終え、最後に強めの一撃をくらって吹っ飛ばされ、日光で温められたコンクリートの地面に倒れこんだ。
「ふうう……」
夏川は大きく息を吐き、こちらに歩み寄ってきた。
嫌だ。もう殴られるのは嫌だ。
「余計なもん見ちゃいましたよね?」
この時、俺は思い出した。結城を殺した女が今目の前にいるってことに。
「うおおおおおおお!」
声の限り叫んだら頭を地面に叩きつけられた。
「だからうるせえよ」
叫ばずにいられるかってんだ!
「誰か! たす……んごッ!!」
「聞き分けの悪いデブだな」
今の行動で地雷を踏んでしまったのか、またさっきと同じように一通り殴られた。
最後に横たわっている俺の髪を掴まれ、右目にいつでも火の点いた煙草を押し付けられるように寸止めをされた。
「次叫んだら、わかるな?」
「は……はひ!」
俺は煙草が顔に当たらないように顎を引いて必死に頷いた。叫ばないからもう助けてくれ!
「質問する。アンタは質問するな。この前、あたしが結城を射殺したとかベラベラと言いふらしたのはお前だな?」
「は、はい!」
「だったら」
髪を掴む力が強くなった。
女を相手にここまで怖いと思ったのは今日が初めてだ。
「アンタを生かして帰すことはできない」
右目の前の煙草がさらに近付いた。
叫ばないという言いつけをまもっているわけでもないのに声が声にならない。荒い息を犬のように吐いちまっている。
「とは言わない。あたしが言いたいのはこれ以上誰にもあたしに関することを何も話すなってことだ。誰にも話さずに大人しくしてくれていれば、アンタに危害は加えないと約束しよう」
俺は声にならない声を発しながら必死に頷いた。よかった! これで助かる!
夏川は俺の髪から手を離して立ち上がった。左手の指で挟んでいた煙草は携帯灰皿に処分した。すると何故か、徐に携帯電話を取り出し、俺を一回撮影した。
その携帯電話を眉をしかめて見る夏川の顔は、まるで汚物でも見ているかのようだ。
「もし誰かに話したなら、今のアンタの写真を学校中にばら撒く。ですから、ご内密にお願いしますよ。『西先輩』」
夏川は皮肉混じりに俺の名を言って去っていった。まつ毛が濡れていることに気付いた。泣いていたのか、俺は。必死だったんでわからなかった。しかし、写真をばら撒くなんてどういうことだ?俺の写真なんて何にもならないだろと思って立ち上がったら、俺の足場とズボンがびしょびしょに濡れていることに気付いた。まさか……これは。
全てを悟った俺は、その場で立ち尽くし、もう一度静かに泣いた。
Killer's day 7
まだ眠気が残っていて脳が完全に機能し始めていない寝起きの時間。
いつものように歯を磨き、顔を洗ってリビングへと向かい、朝食はトーストを焼いて何も付けずに食べて済ませる。
その間テレビで放送されていたニュースには、昨日学校の最寄り駅近くのファミレスで女子高生による暴力事件が発生したとの旨が語られていた。事件は偶然その場に居合わせた刑事達が収集したそうだが、刑事達のうち一人が怪我を負ったと言われていて、女子高生はひどく錯乱していてとても話ができる状態ではないという旨も話されていた。
随分とパワフルな女子高生だなと思ったが、なんとなくそれらしい予感がしたので夏川さんに電話を掛けてみた。
通話を待ちながらコール音が何度も繰り返され、あと一回のコール音で留守番電話サービスに繋がるところで夏川さんのあからさまに苛ついた声が聞こえてきた。
『……なに?』
とりあえず、まずはおはようと挨拶をしてみた。
『モーニングコールをするほどキミとあたしは仲良しじゃないはずだ』
怒らせて電話を切られる前に本題に入ることにした。
「結城先輩を使って何かした?」
『……は?』
「パチモノのこと」
夏川さんはしばらく考えて欠伸をしながら言った。
『あー……もしかして襲われた?』
「襲われたわけじゃないよ。ニュースでデカデカとそれらしいのが報道されてた。早速誰を使ったの?」
『んー……今じゃないとダメか? 眠いんだよ』
「じゃあ、また学校でいいよ。とりあえず、自我を持てなかったパチモノを放置するのはやめてもらいたくてさ。それが言いたかった」
『は? なんで?』
「僕が襲われたら死ぬ」
夏川さんはいちいちそんな話で電話をしてくるなと言わんばかりに言う。
『勝手に死んどけ。キミがいなくてもレプリカは消せる』
「……まあ、否定はしないよ」
夏川さんは電話を切った。
死ねと言われたことがないわけではないし、今もストレートに死ねと言われたわけでもなかったが、彼女の僕に対する認識が決していいものではないということを察した。
しかし、僕の夏川さんに対する認識も決していいものではない。彼女は強い。ひょっとしたらボクシングのスーパーヘビー級チャンピオンとまともに渡り合うどころか圧勝してしまいそうだ。それ故に、彼女は自分の力を過信してしまっているのではないだろうか。レプリカを殺せる内に殺しておかないなんてどうかしている。結城先輩に弾丸を撃ち込めたのならそのまま射殺してしまえばいいものを……。
だが、そういった夏川さんの行動のおかげで僕は安全に危険人物達を排除することができるわけでもある。求めるのは完全勝利だけだ。それも、できるだけ僕が関与しないようにレプリカと殺人鬼を排除することが理想だ。夏川さんと結城先輩がどんな方法で入間君の証拠を掴み、彼を抹殺するのかは知らないが、殺す順番を間違えてはいけないし、危険な橋はできるだけ避けて通るべきだ。
「途中経過だけでも伝えておこうか」
最も、今の僕がそんなルールを守れているか自信はあまりないけど。
新聞部の部室に来るのがすごく久しぶりな気がする。今日までほとんど結城先輩の家で過ごしていたようなものだったから。
今は放課後だから、アメ先輩はわからないが、シモちゃんなら多分いると思う。
そう思って部室の扉を開けてみると、そこには予想通りシモちゃんが気怠そうに携帯電話を弄っていた。手の動きからして、やっているのはゲームだろう。
「あ、お久しぶりぶりっす」
彼女はこちらをチラッと確認してそう言い、そのまますぐ画面へと目を戻した。
「アメ先輩は?」
「取材です。今朝のニュースでやってたファミレスの暴力事件の例の女子高生、『三橋』っていううちの生徒だったらしいんで、ちょっと彼女のとこに行ってみるって言ってました。会えるわけないと思いますがね」
「ちょっと待って! 三橋って……まさか、一年の三橋楓じゃあ」
「あれ? 知ってたんですか? 話したことは全然なかった子だからこんなことするとは全然思えないなんて言えませんけど……先輩、関わりあったんすか?」
耳を疑った。楓ちゃんが暴力事件だって? そんな馬鹿な。唐突すぎる。彼女に何が起きたらそんなことになるんだ。
「知ってるも何も、私が今取材してる結城先輩のグループの一人よ。楓ちゃんがそんなことをするとは思えない」
「そうは言ってもそういう事実ですからね。人間ちょっとの付き合いだけじゃその人の本質なんてわかりはしませんよ。アメ先輩はこういうスキャンダル的な記事を書くことが好きみたいですけど、学校側からは止められるでしょうね」
シモちゃんはゲームを続けながらそう言った。
「学校側から止められそうなのは私が今やってるのもそうだろうけどね」
「じゃあ取材は打ち切って、無難な記事で今月はやり過ごしますか? 自分は徹夜コースになりさえしなければそれでいいですし」
確かに、死人が出ている以上私がこれ以上この件に関与するのは危険だ。夏川にも同じことを言われた。だけど、興味があるのだ。危険であるとはいえ、私は事件の真相を暴いてみたい。
「続けるよ。それなりに読み応えのある記事にしてみせる」
「今週が最後ですよ。月が変わる前に、警察でさえ解決できてない事件の真相なんて暴けるんですか?」
そのまま「あ、死んだ」と彼女は呟いた。
「そ……それは」
考えたけど……考え付くわけがない。
彼女は舌打ちしてゲームを止めて携帯電話をポケットにしまった。今度はしっかりと私の目を見て切り出した。
「アメ先輩は反対するかもしれませんけど、自分は手を引くことをお勧めします。先輩、下手したらガチで死ぬと思いますよ」
「個人的に気になるのよ。とにかく、なんとかしてやり遂げてみたいの。楓ちゃんの件も含めて、私なりにやり遂げてみたい」
シモちゃんは大きくため息を吐いた。「何を言っても無駄か」とでも言って諦めるように。
しかし、彼女の口から発せられた言葉は予想だにしなかったものだった。
「鹿島先輩が死に、三橋さんがおかしくなった。二人がそうなった理由に犯人が関係しているとして、尚且つまたグループの誰かが殺されたとしたら、犯人はグループの内部にいると考えていいんじゃないでしょうか」
「犯人が……内部に?」
そんなまさか……とは言い切れない。理にかなっている。私は結城先輩と夏川とニシマンさんの三人を除くメンバーに参加の動機を聞いたがあの場面に犯人がいたとしたなら、自分の動機について嘘を吐くことは簡単だ。どうにでもなる。
夏川か結城先輩を犯人と仮定するなら、二人だけになった時点でどちらかは殺されるはず。
「あくまで仮説ですけどね。現場を見たわけではない自分が言うのもアレですけど、身近な人間を注意して観察するのがいいと思います」
となると問題はあの二人を除いたメンバーだろうか。ニシマンさんがあの日一人で犯人を捕まえに行くといって出て行ったが、夏川の件は誤解だった。鹿島君が殺された現場にもいなかった。
「鹿島君の現場には……いなかった?」
グループの中に犯人がいるとしたら、鹿島君を殺せる状況にあったのは楓ちゃんと入間君だけだ。
楓ちゃんが殺したのか、入間君が殺したのか? 二人の態度からそれを察するのは現状では難しいが、楓ちゃんは今警察にいるはずだ。楓ちゃんを犯人と仮定するなら突然暴れ出したのは不可解すぎる行動だ。
犯人を入間君と仮定するなら、辻褄は合う。彼の負傷が犯人の存在を紛らわすものだとしたら尚更……。
「キリ先輩」
「え? ああ、なに?」
「ここで怖い顔して考えるより、もう少し確実な方法がありますよ」
最初に見た気怠そうな表情とは打って変わって真面目な表情で彼女は言う。
「ナギ先生なら何か知っているかもしれない。気は進みませんけどね」
ナギ先生……アメ先輩にグループの存在を知らせた張本人だ。
何故そんな人の名前がここで出てくるのか? 彼女曰く、ナギ先生は私にこれ以上事件に関与するのは危険だと忠告してくれていたらしい。望みは薄いが、一応聞いてみるだけの価値はありそうだということだ。
私はナギ先生と話をすることに決め、シモちゃんも私と一緒に行くと言ってくれた。
ナギ先生は確か生物準備室にいることが多いと聞いている。そこまで行ってみると、ナギ先生はおらず、隣の授業を行う方の生物室から「こっちだよ」とナギ先生の声が聞こえた。
先生は長机に無表情で腰掛けていた。
窓からさしかかっている夕日の光が先生の顔を二色に分けている。左側半分は真っ白な肌が照らされ、右半分は光が強いせいか、影になってよく見えない。
「ぐーてんもるげん」
ナギ先生が無表情のまま言った。
ぐーてんもるげん? なんだっけ、聞いたことはある。
「グーテンターク……と言いたいんですか?」
シモちゃんが指摘した。そう、確かドイツ語でおはようという意味だった。
「そうだった」
先生は微かに微笑んで続けた。
「霧村君だったね。来ないかと思っていたよ」
「隣のシモちゃんが教えてくれました。私が事件に関与することが危険だと言ったみたいですね?」
「ああ、まあね」
「事件のことはどれだけ知っているんですか?」
「霧村君と同じくらいさ。だから、先生は君にとって有益な情報を与えてあげられるわけじゃない」
どうも嘘臭い。この人、何か隠しているようだ。
「だけど、こんな先生にも霧村君にしてあげられることが一つある。一つだけ、普段は滅多にしない親切を君にしてあげようと思っていたんだ」
「それが……手を引くようにという忠告ですか」
シモちゃんが問いかける。
「忠告をしたつもりはない」
ナギ先生から微笑みが消えた。
「警告さ」
真っ黒と言うより、真っ暗な瞳がこちらに向いている。
警告。
間違いない、この人は私以上に事件のことを知っている。それを上手く聞き出せば、犯人に近付ける。
「教えてください。私に警告を告げる理由を」
恐らく、死人が出たから危険だなんて理由ではないはずだ。
「君にとっての敵は犯人だけじゃない。これ以上犯人に近付いてしまえば、もう一つの敵に霧村君は殺されてしまうかもしれないからさ。それと、グループの中に味方はいないと思った方がいい」
「先生は『グループの中に』と言いましたね? それはつまり、犯人はその中にいると考えていいわけですね? あと、もう一つの敵っていうのは一体なんです? 犯人は一人じゃないということですか?」
「さあ、どうだろう?」
「さあじゃないですよ。犯人とそのもう一つの敵っていうのを知ってるからそう言うんですよね? 何故教えないんです?」
シモちゃんが語気を強めて言った。
意味深なことだけを言って核心を教えようとしないナギ先生に対する怒りが込められていた。
「面白いからだよ、君達が色々な思惑を胸に秘めながら戦う姿がね。霧村君は思った以上の活躍をしていると思うよ。君の頭の中で組み立てられているであろう推理は正解と言っても差し支えない。だけど、このまま君が犯人と接触してしまうともう一つの敵にあっさりやられちゃうと思ったのさ」
「つまり、先輩があっさり殺されてしまったら見応えがないから警告したのですか? だったら事件から手を引けなんて、先生の眺めている舞台から降りてしまえば活躍も何もないんじゃ」
「霧村君はやめないだろう?」
シモちゃんの言葉を食うように問いかけられた。
「霧村君はもう事件の虜だ。事件に魅せられている。警告したのは君の気を引く為だ。そうすれば話がしやすいだろう?」
ナギ先生は長机から降りて、顔を夕日によって二色に分けられたまま私のもとへゆっくりと歩み寄りながらそう言った。私は意に反して後ずさる。
不気味な人だと思った。
この人の前だと全てを見透かされているような錯覚に陥る。
私はこの場所から逃げたくなった。
「キリ先輩……?」
私は何に怯えているんだろう。
身体が震えていたのがわかった。脂汗もかいている。
真っ暗な二つの瞳が近付いてくる。
「何か秘密を掴んだのなら、誰にもそれを話してはいけない。きっと、もう一つの敵の耳に入ることだからね。現に、お団子ボディの彼は半殺しにされたはずだ。犯人よりもそっちを警戒した方がいい」
視界が真っ暗な瞳だけになった。
その瞳が映しているのは私の顔なのだろうか? 私は一体どこまで見られているんだ。真っ暗な瞳は私の何を見ようとしているのだろうか。
「君には期待している」
目の前が明るくなった。
気がつくと、シモちゃんが不安そうな表情で私の肩を揺すっていた。ナギ先生は生物準備室へ戻っていったそうだ。
頭からさっきまでの光景が離れていってくれそうにない。目を閉じたら、またさっきの真っ暗な瞳が現れる。私はそんな幻影を振り払うように頭を振って、シモちゃんに向き直った。
「急にぼーっとしちゃって大丈夫ですか?」
「ああ、ごめん。大丈夫」
事件から手は引かない。他に敵がいるなら、そいつらの正体も暴いてやる。
「今日は帰った方がいいですよ。今日の先輩、ちょっと変ですし」
シモちゃんが心配してそう言ってくれたが、今日は集会がある。まずはそこで入間君をじっくりと観察してみよう。犯人が外部犯である可能性も否めないが、手近な可能性から潰していくのがいい。
「大丈夫。このまま集会があるし、そろそろ行くね」
私がそう言った途端、シモちゃんの表情が曇った。
彼女はどこか言いづらそうに切り出した。
「ナギ先生が何かを隠していることは確かでした。だけど……なんとなくですけど、先輩に対してほとんど嘘は言っていなかったと思います。味方が一人もいない状況で何をしでかすかわからない相手を前にするのは危険すぎます。記事のことはもういいですから、先輩の安全を第一に……」
「大丈夫」
それでも、私は知りたい。ナギ先生に何と言われようが、降りる気はさらさらなかった。
「死なないよ」
私は精一杯の笑顔を作ってそう言ったが、彼女の表情は曇ったままだった。
Killer's day 8
缶コーヒーを片手にジャングルジムの頂上に腰掛けている様子にはハードボイルドさの欠片も見られないことだろう 。その缶コーヒーがブラックであるならまだマシだっただろうが、僕が今手に持っているのはカフェオレだ 。
にしてもだ、結城先輩は今回の集会で勝負を仕掛けるつもりでもあるのだろうか。
何も知らない霧村さんやニシマンさんは何とも思わないで来るのかもしれない。だが、夏川さんと結城先輩が結託して入間君が犯人である証拠を割り出すということになっていて、それがまだ割り出せていない状況下で集会を開くということは今回のうちに証拠を掴む方法でもあるのか……あるとすれば、現行犯逮捕って感じで彼を仕留めるのだろうか。となると、そこで必然的に犠牲になる囮が必要になる。
パチモノを使うということは囮として使うのだろうか。そしてその囮は三橋さんでないことは確か。パチモノになった人物を知っているのは結城先輩だけ……その点に関して夏川さんは何も知らないと言っていた。これでは実質結城先輩一人で証拠を掴もうとしているようなものだが、まあ、夏川さんからしたら入間君のことよりその後に手に入る予定の「情報」が目当てであるわけだから当然のことと言えば当然なのかもしれない。
さて、入間君が囮を殺害しようとする環境を作り出すには彼と囮が二人きりになることが前提となるだろう。いや、入間君が自分の腕に自信があるのなら周りに三、四人誰かがいても犯行に踏み切るのだろうか。その自信があるならチャンスは今までに何度もあったはずだ。
「ねえ、君は喧嘩の方はどれくらい経験あるの?」
僕の隣でブラックの缶コーヒーを飲んでいる背の高い後輩は口からコーヒーを離すことなく目線だけをこちらに向け、軽く首を横に振った。
彼はブラックコーヒーを手にしているわけだが、ハードボイルドさは感じられなかった。場所が場所だし当然か。
「多人数を一度に相手にして遊んだことは?」
「遊び」とは僕と彼の間でのちょっとした隠語だ。誰かに知られたらかなりマズイ話しか彼とはしていない。
「多人数を相手にする時は一人ずつバレないように遊んでいきますね。経験はありませんけど。まあ、俺だって身体的には普通の人間ですから、誰かにバレて通報でもされたらちょっと困ります」
「これからどんな順番で遊んでいくつもりなの?」
「そうですね……とりあえず、結城さんとはできるだけ早く遊んでおきたいですね。木野さんの話を聞く限り、俺と遊ぶ気満々みたいですし」
彼は緊張する様子もなく、楽しみにしているような様子もなく淡々と語った。
「結城先輩と遊ぶ方法はあるのかい?」
「不意を突きます」
「それはどうやって? 君を前にした先輩が油断するとはとても思えないけど」
「しますよ。油断しないわけがない」
虚勢を張るわけでもなく、当然のことを話すような穏やかな口振りだ。
「怨敵を前にして、冷静に殺人を行えると思いますか? ははは……そんなわけないよなぁ。きっと結城さんが俺を殺そうとする時、腹の中が煮えくり返ってるなんてもんじゃないでしょうね。あんなグループを組織するくらいですから、俺への恨みはマジで相当なものだと思います」
「そういうものなのかな? あと、『殺人』を『遊び』に変換できてないよ」
彼は笑った。入間創は、普段の集会で見せていた仮面のような笑顔ではなく、怪しさを含み、それでいて純粋な笑顔を浮かべて続ける。
「思考が『殺す』って一言に支配された時、そいつはもう何も見えちゃあいないのさ。憎悪に支配された人間ほど……殺しやすい相手はいない」
入間君が僕の指摘を聞いていないのはさておき、確かにその通りかもしれないと思った。良い教訓にはなりそうだ。
「君のやろうとしていることはなんとなくわかった。けど、今日殺すのは僕だなんてやめてくれよ?」
「ははは……木野さんを殺すならとっくに殺してます。今すぐにでも殺せます。そうしないのは、あなたが持つ真っ黒な思想に惹かれたからですよ。俺はそんな木野さんの活躍をずっと見ていたい。自分の障害になるものはどんな手を使ってでも消していこうとするその姿勢は芸術的です」
芸術的……ねえ。
「木野さんは人畜無害な穏やかな人だと思っていたので、最初にあなたの目的を聞いた時は驚いたのなんのってところですよ。レプリカとやらを消すために警察を頑張って説得するのではなく殺人鬼の力を頼るんですから。そのうえ必要なら誰を殺しても構わないなんて言うなんて、面白いったらありゃしませんよ」
「自分の手をできる限り汚さずに復讐に燃える悲劇のヒロインを始末しようとする僕は最低の悪役かな?」
結城先輩を始末する前に、薬を所有している人間の情報も聞き出しておきたいところだ。
夏川さんのように後払いを待つのは危険だ。レプリカが裏切れば自分達の情報がそいつに知れ渡るかもしれないのだから。
「最高にクールなアンチヒーローですよ」
僕がヒーローと名が付くものに称されるとは思いもしなかったが、だからと言って嬉しいといった感情は湧いてこない。
「そろそろ時間だ。集会場へ行こう。君が先に行ってくれ。少ししたら僕も行く」
「了解っす」と言って彼はジャングルジムを飛び下りた。コーヒーの空き缶をゴミ箱に放り込み、僕の方に振り返った。
「今日、霧村さん殺して家で犯しまくろうと思います。木野さんもどうです?」
誰かに聞かれたらどうするんだ馬鹿。
「童貞を死姦で納めるのは考え物だよ」
今回の集会で結城が下した判断は依然と同じ囮捜査で犯人を捜そうというものだったが、あくまでそれは表面的な言い訳に過ぎず、真の目的は入間を屋敷に残して孤立させ、事前にパチモンにしておいた結城の爺さんを入間に攻撃させるというものだった。
分けられたグループは木野くんと霧村で一組、あたしと結城のもう一組で以上だ。入間が攻撃したかどうかを知るために今の結城は化け物の姿に変貌している。人間の姿の時より断然この方が鼻が利くとのことだ。そのため、結城は周囲に血の臭いを妨げるものがない廃ビルの屋上でその時を待つことにした。そして、そのことが致命的な誤算だったことに気付くまであまり時間はかからなかった。
「約束と違う」
結城の突然の攻撃をガードした利き腕である右腕が痺れている。次に同じ個所に攻撃を受けたら骨折は免れない。
「今、入間君とおじいちゃんの血の臭いがしたわ。証拠はこれで十分よ」
鮫は獲物の血の匂いを嗅ぎ取って追跡するという話を聞いたことがあった。結城はまさにそれだった。黒く湿り気のある肌に両手首には鮫の歯を模したような刃がいくつも並んでいる。
「情報を教える気は最初からなかったわけか」
「最初はあったわ。嘘じゃない。だけど夏川さん、私の人生はこれでまた再スタートを切るの。復讐を終えて、やっと私の時間が動くの」
マズイな、圧倒的に不利だ。このまままっすぐぶつかり合っても勝ち目はない。銃に対する警戒もできていることだろう。
「裏切るのか」
「その点に関しては本当にごめんなさい」
変身……というより変態の方が適切だな。
美しく整った顔立ちから一変した結城の容貌から表情は一切読み取れない。
「だけど、これは仕方のないことなの。薬を渡してくれた人間はハンターを見つけたら絶対に生かすなと言っていたから、あなたがハンターとわかった以上はこうするのが必然と言えるわ」
「ひどいことをする……あたしへの恩をこんな形で返すなんて」
こうなれば、先に情報だけはなんとかして掴まないと。
「どうせ殺されるなら、ちょっとくらい薬の所有者について教えてくれてもいいんじゃないか? 冥土の土産にでも……」
あたしが言葉を言い終える前に結城は向かってきた。繰り出された一撃を紙一重のところで身体を横に倒して回避し、そのまま受け身をとりつつ距離を取り、負傷していない方の左手でナイフを順手で握った。
結城があたしの手に握られているナイフを一瞥し、今度はゆっくりと近付いてくる。
「あまり時間をかけさせないで。あなたに恩を感じているのは確かよ。だから、痛みを感じる間もなく始末してあげるわ」
逃げることはできそうにない。周囲に障害物があればまだいいが、こんな場所じゃあな。
冷静になろう。殺意に呑まれたら負けだ。結城を変態させたという致命的な判断ミスは頭の片隅に追いやって、この状況をなんとかする方法を考えないと。
「もうなんともならないわ。覚悟を決めて頂戴」
物事はなんとかなって解決してる訳じゃない。結局は自分がなんとかして解決させているだけだ。運を味方につけようなんて甘い考えはもっと追い詰められた時までお預けだ。
「薬を渡した『女』はハンターについてどんなことを言っていた?」
これでさらっと受け答えしてくれれば所有者は神田という男が持っていたあの写真の女だろうが、あたしのそんな淡い期待は砕かれた。
「女? 何を言っているの。私に薬を与えてくれたのは男よ」
「……は?」
あたしと木野くんの仮説は間違っていたということか? いや、まだ間違いと断定するには情報が少なすぎる。もっとなにか引き出せないか?
「そもそもだ、何故アンタはそいつに従う? レプリカという超人的な力を手に入れたのなら、そいつに取って代わろうとか考えなかったのか」
あたしの言葉でひどく動揺したような様子が表情をうかがえなくても察知できた。
声を震わせて結城は話し始める。
「あの人は私では絶対に勝てない。それだけは言えるわ」
「そいつに背くことがそんなに恐ろしいのか?」
「……そいつから制裁を受けたレプリカを見たわ」
そう言ってから先は話そうとしなかった。結城はもう有無を言わさずに向かってくる。
あたしは悪あがきでしかない回避でところどころ攻撃を受けつつも直撃だけは避けてビルの端まで逃げた。攻撃が打撃だけだったのはあたしをパチモンにしないためだろう。おそらく、切り傷などの菌などが直接入りそうな攻撃でパチモンと化すのだろう。
「あなたのことは忘れないわ」
そう言って結城はビルの断崖を背にしたあたしに全力のボディブローを入れ、砕けた肋骨の痛みを確かに感じながらあたしの身体ははそのまま冷たい地面へ向かって落下を始め、これ以上思考を働かせることがあたしはできなくなった。
祝杯
「おーおー、まさか普通の人間である君が人間を超えた人間を真っ向勝負で倒しちゃうとはね。君、やっぱり喧嘩得意でしょ?」
結城先輩が囮として選んでいたのは彼女のおじいさんだった。
僕は夏川さんと結城先輩が去った後、再び屋敷に戻って入間君の様子を見に行ったところ、ちょうど彼が殺人を行おうとしている場面で出くわした。そこには当然、僕と一緒に霧村さんもいたわけだけど。
「わかっていませんね、木野さんは」
入間君は塵と化した結城先輩のおじいさんを足で小突きながら言った。
「殺しと喧嘩は根本的に違うんですよ。まあ、ちょっと骨はありましたけど、殺す事を前提としている自分からすれば自分を守ることしか考えていない相手はやりやすいんですよ」
頬の引っ掻かれた傷を撫でながら憮然とした様子で語る。
「相手が殺す気なら殺す気で返さないと」
「……全部、入間君だったの?」
霧村さんが警戒しながらそう言ったが、その表情や口調からおびえている様子はなかった。
「ええ、三橋さんは知りませんがね」
霧村さんに驚いた様子も見られない。入間君が犯人であることは大方予想ができていたのだろう。
「警察に知らせるつもりはないからさ……」
警察に知らせるつもりがないのなら一体何をしようというのだろう。命乞いだろうか。
「殺人の動機と今の状況を教えてくれないかな」
「……何が目的なんです?」
「別に、ただ知りたいだけ。強いてかっこよく言うなら、記者魂みたいな?」
「記事にして広めるつもりですか?」
「そんなことをすれば間違いなく入間君に殺されちゃうね」
どのみち殺されるよ。
「記者魂の癖して記事にしないならただの好奇心ですね。殺人鬼の俺が言うのもアレですけど、俺に殺されなくてもそのうち誰かに殺されますよ」
呆れたように入間君は言った。その通りだと思う。
霧村さんは恥ずかしそうに笑っていたが、こんなえげつない面子でほのぼのとした雰囲気を作っている場合ではない。そろそろ結城先輩が来るはずだ。
「入間君、そろそろ」
入間君は目で返事をし、僕はとりあえず霧村さんを連れて屋敷内の安全な部屋にでも待機しに行こうと思って今いる部屋の扉を開けた瞬間、その人は既にここに来ていた。
これにはさすがに驚いた。
「……何故あなた達二人がここにいるの?」
霧村さんがまるで悪いことをしていたのがバレたような焦りと何故ここに結城先輩が来たのかという混乱が入り混じった様子で僕を見た。ここで結城さんに話す言い訳を考える必要はないが、問題なのは結城先輩だけしかここに来ていないという点だ。
「……夏川さんはどうしたんですか」
僕がそう聞くと、結城先輩は一言「殺した」と言っただけで、僕らのことは眼中にないといった様子で僕らを押しのけて入間君のもとへ向かった。その際、先輩は僕に向けて「あなたもすぐに殺す」とも言った。
「おじいちゃんは……殺したの?」
入間君は「ええ、もちろん」と足元の塵を指して言った。
「……どうして殺したの? おじいちゃんのことはあなたから守る為にこんな風にまでしたというのに」
結城先輩はやりきれなさを隠さずに言った。
「俺の正体を知りうる人間は生かしておけません。それだけです。あと、俺からも聞きたいのですが、三橋さんの件についてはどのような理由があったのですか? 犯そうと思ってたのに、一体何してくれたんです?」
一瞬、霧村さんが隣で引きつった表情をした。
「死の恐怖から解放したの。彼女からそう頼んできたわ。私がおじいちゃんをあんな風にした時にね」
それで失敗してああなったわけか。
「もう一つ聞かせて」
怒りをぐっと堪えて結城先輩は言った。感情を剥き出しにしてしまえばすぐにでも自制が効かなくなってしまうのを理解しているかのように、震える声で続ける。
「お父さんを殺したのはどうしてなの」
「殺した人間のことはあんまり覚えてませんねえ」
必死で感情を押し殺した問いかけに、入間君は軽い調子で答えた。明らかに怒りを誘っているのが僕にはわかった。
「…………何故……あなたはそうやって殺人を犯すの?」
「特にこれといった理由はありません。何となく楽しいからですよ。先輩こそ趣味について深く聞かれたら結局それが楽しいから、面白いからとかそんな風な単純な理由に行き着くと思います。僕の殺人なんてそんなもんです。あ、女の子を殺す際の主な理由はセックスですけどね」
にこやかな笑顔で最低の殺人動機を述べた彼に対し、遂に結城先輩はキレた。
「……来たな」
僕はそう呟いた。
結城先輩は腹部の歪な痣をさらけ出し、その部位の肉を抉るように爪で深く引っ掻き、レプリカ第二形態へと姿を変え、咆哮を上げながら入間君を殺しにかかった。
だが、先輩は負ける。ここでなす術なく死んでいくのだ。入間君には銃と赤の弾丸を渡してある。
今の結城先輩にあるのは、殺意と憎悪だけだ。
殺意と憎悪に支配された者がどうなるか、結果は彼が僕に夕方話した通り、あっさりと弾は命中し、親の復讐の為に人間であることを捨てた結城先輩の末路は……文字通りあっけないものだった。
弾を胸に受けた結城先輩は崩れるようにその場に倒れ、彼女の身体は徐々に崩壊し始めた。
「ご愁傷様」
入間君がそう言った。そんな彼を鋭い目で睨みつけたまま、呪詛の言葉を吐くように結城先輩は何かを言っているが、上手く聞き取れない。入間君が聞き返すと、身体の三分の二は塵と化した結城先輩は最後の言葉を彼に向けて言った。
「殺して奪ったものは殺されて奪い返されるのよ」
入間君は高笑いをして「それって俺が殺されるって言いたいんですか?」と言った。
やがて結城先輩は崩壊を終え、残ったのは感情のない静寂だけだった。
「これじゃパコパコできねえよ」
入間君は塵となった結城先輩だったものを蹴り払い、そう吐き捨てた。そういえば、情報を聞き出すのを忘れてしまったが、こうして安全にレプリカを一体始末できたことだし良しとしよう。
「……え? 今のは……は……?」
霧村さんは何が起きているのか全く理解することができずに混乱していた。まあ、当然の反応だ。
「この家に死体は残っていない。ここでは何もなかった。そういうことで、とりあえずどこか落ち着ける場所にでも行きましょうか」
入間君は少しも取り乱してなどいなかったくせにそう提案し、僕らは屋敷を後にして当てもなく町を彷徨った。霧村さんはもう一つの敵がどうとか呟いていたが、おそらく結城先輩のことなのだろう。
「ここの公園でちょっと駄弁っていきましょう」
古びたアパートを前にした小さな公園だった。確かあのアパートが入間君の住居だったはずだ。ということは、このまま霧村さんをお持ち帰りするわけなのだろう。
「こんな場所で……?」
霧村さんは異変に気付きつつも付いてきたのだろう。でなければすぐに一人で帰ろうとするのが普通だ。
「霧村さん、一連の取材の感想はどうでした?」
他愛のない世間話をするように入間君が聞いた。
「二度と味わえそうにない非日常を味わえた。正直、楽しかった」
意外な台詞だ。
「楽しんで頂けて光栄ですね」
「入間君を褒めたわけじゃないよ……」
少しだけ残念そうな表情をして霧村さんは続ける。
「お願いがあるの」
「命乞いですか?」
「それを含めて、最後に取材させてもらえるかな」
「……それも純粋な好奇心ですか」
霧村さんは微かに微笑んで返事をした。この人もこの人で中々の異常者だな。
僕らはしばし霧村さんの最後の取材を受けた。僕と入間君は互いの安全の為に裏で結託して結城先輩を始末しようとしていたこと。夏川さんと僕が本当はどんな目的であの組織に入っていたかということ、結城先輩がレプリカであるという化け物であることや、神田さんに聞いた話も少し話した。
その間の霧村さんの輝いていた目を忘れることは多分ない。
非日常に憧れ、それを身をもって経験した少女、霧村千尋は最後の最後に命乞いを入間君に対して行った。それも、土下座をして。
「私……死にたくないの。だからこのことは絶対に誰にも話さないと誓う。記事にもしないし警察にも絶対に話さない。これから先、入間君が他の誰かを殺すようなことがあっても絶対に誰にも話さないと誓う。もちろん、木野君のことも話さない! だから……」
霧村さんの額が地面に擦れる音がした。僕と入間君は黙ってその様子を見守った。
「私のことは殺さないでください……」
茂みの方から虫の鳴く声が聞こえた。空にある月がちょうど雲に隠された。
入間君は怒るわけでもなく、蔑むわけでもなく、至って穏やかな口調で霧村さんに語りかける。
「頭を上げてください。霧村さん、俺が殺人を犯す理由は覚えていますよね。特に、女の子の方」
霧村さんは入間君から若干目を背けつつ、言った。
「必要なら、私の身体を好きにしても……その……構わないから」
この人なら確かに僕らの秘密は守り通してくれるのかもしれない。僕なら信用するだろうか、どうだろうかは今ひとつ自信はないが、入間君が彼女をどうするかに関してははっきりと言える。
「霧村さん、気の毒だけどそれは違う」
僕は霧村さんに言った。あまり自分の口からは話したくもないことをこれから話すんだ。
入間君はこれから起こることを想像しているのだろうか、とても楽しそうな笑顔だ。
霧村さんの好奇心では入間君でなくても、運が悪ければ夏川さんに殺されることになっていたかもしれない。どのみち秘密を知った以上は僕にとって危険な人物となってしまったわけなので、この状況は僕にとっては非常に助かるものだ。彼女にとっては本当に、申し訳ないとは思うけどね。
「霧村さんの身体を好きにする条件はなんの意味もないんだ」
「え……でも、入間君が女の子を殺す理由は確かに」
困惑したようにそう聞く彼女のことを心底哀れに思った。人前で土下座までして自分の好奇心を貫き通した姿勢には素直に敬意を払うほどだが、これから起こることを僕が止める必要はないのだ。
「彼はネクロフィリアなんだ」
霧村さんが僕の言葉を聞いて表情を絶望したものへ変えるよりも、彼女の首に深々とナイフが突き立てられる方が早かった。
入間君は家に運ぶまで我慢できないと言って茂みのなかででお楽しみの間、僕は最後の仕上げをなす為にまずは自販機で夕方に買ったコーヒーと同じ物を買った。一つは僕の好物のカフェオレで、もう一つは彼の好物のブラックだ。
僕は彼がお楽しみを終えるまでの間ベンチに座って待つことにした。向かいの茂みの方からガサガサとした木々の擦れる音と荒い息遣いが聞こえてくる。
早く終わらないかと思いながらぼうっとしていると、ポケットの中の携帯電話が鳴り出した。
画面に表示された電話の相手を見て目を疑った。電話の主は、結城先輩が殺したはずの夏川さんからだった。
「……もしもし?」
『ああ……木野くん……生きてるか?』
かなり苦しそうな夏川さんの声がした。
「僕の台詞だよ。結城先輩に殺されたんじゃなかったの?」
『上手いことやってなんとかやり過ごしたんだよ。おかげで身動きがほとんど取れないけどね』
「パチモノにはなってないの?」
『ああ、その辺の心配は無用だ』
レプリカを相手にしてパチモノになることなく生還するなんて……一体どうやったというんだ。
「じゃあ、身動きが取れない状態ってことは相当ひどくやられたことなんだね」
『いや、今の傷の八割はビルから落ちた時の傷だ。廃ビルで結城と対峙したんだ、逃げようにも逃げられないわけでちょっと逃げ方について工夫した』
夏川さん曰く、ビルは老朽化していたせいか何かで若干傾いていたという。逃走にはその限りなく垂直に近い斜面に身体を何度もぶつけて衝撃をやわらげつつ地面に激突したとのことだ。人間離れした荒技だ。
「……助けに行こうか?」
『いや、いい。そんなことより……結城はどうなったんだ?』
「もう始末したよ。正直、夏川さんが先輩にいつ裏切られてもいいように対策は練っておいたから」
僕の言葉を聞いた夏川さんは怒り出すわけでもなく、ただ驚いていた。ただ純粋に。
僕は結城先輩を始末するまでの経緯を影で入間君と組んでいたことまで全部話した。それも踏まえて、夏川さんはただ驚いていた。
『……殺人鬼を味方にして安全にレプリカを始末する……あたしにも先に教えてくれよ』
「ごめん、伝えない方が警戒されにくいと思っていたから」
夏川さんは疲れ切ったため息を吐いた。茂みの方からは依然として音は止まない。
僕はこれから行うことの為に……完全勝利の為の最後の仕上げをする為に、通話をしながら彼の分のコーヒーに一手間加えておく。
『まあ、結果オーライだな。そうだ、ちょっとだけ薬の所有者の情報を掴んだ。ちょっと複雑なことになってそうだ』
「それはまた今度話そう。ああそうだ、こっちでは霧村さんが入間君に殺されたよ。気の毒だったけど、これで僕らのことを知る人物はいなくなる」
『知られたのか、色々?』
「色々教える必要もなかったけどより安全に最後の仕上げを済ます為には使えると思ってさ」
『仕上げ……?』
「僕らのことを知る人間を放っておくのは危険なんだろう?」
『……キミのことは……』
「あ、ごめん夏川さん」
茂みの方から音が止み、入間君が満ち足りた表情でベルトを締めているのが見えた。
僕は電話を切り、コーヒーを両手に持って入間君のもとへ向かう。こちらに気が付いた彼は爽やかな笑顔で会釈した。
「もういいのかい?」
「腐敗して使い物にならなくなるまで使いますよ。今日はこれくらいで」
茂みの中で力なく横たわる霧村さんの死体を見てみた。動かなくなった霧村さんをまじまじと見てみると、不思議な恍惚を覚えたのがわかった。だからと言って行為に及ぶ気はないが。
「とりあえず、祝杯に一杯どう? これで君が犯人だと知る人間はいなくなったんだし」
「ありがとうございます。これ、先輩の奢りですか?」
彼は僕からブラックコーヒーの入った缶を受け取り、蓋を開け、警戒することなくあっさりとそれを飲んだ。
「たまにはこんな僕に先輩面させてよ」
僕はカフェオレを飲み、二人でベンチに座って語り合う。
「入間君は、僕を殺そうとは思わないの?」
「思ってますよ」
当然でしょうと言わんばかりに彼は言った。
「木野さんはダークな魅力溢れる素敵なお方だと思っているのは嘘じゃありません。その点においては尊敬しています。ですが、そういう人間だからこそ先輩は危険なんだと思います」
入間君の表情がなくなった。結城先輩を殺した時も、霧村さんを殺した時も一瞬だけこんな表情になっていたと思う。
「申し訳ありませんが、先輩のことは殺させてもらいますよ」
「僕も殺した後に犯されるのかな?」
「そっちの気はありませんよ」
僕らは笑った。今の笑顔に、互いに嘘はなかった。
一通り笑った後、彼は「失礼します」と言って霧村さんを殺したナイフを取り出した。僕がここで殺されるとしたらどんな殺され方をするのだろうか考えた。彼なら彼女達を殺したみたいに一思いにやってくれるのだろうか。
「僕はここで死ぬ予定はないんだ」
「命乞いには応じませんよ」
困ったように入間君は言った。
「先手は打たせてもらっている。そろそろ毒が回るはずだ」
彼は僕が何を言っているのかわからなかったようだが、少し考えて僕が何をしたのか気付いた瞬間、今まで見せたことのない表情で僕に襲いかかったが、残念ながら少し遅かったみたいだ。
「うご……ぐぎっ……」
彼は僕に触れることもできずにその場に倒れ込んでのたうち回るだけだった。
彼に渡したコーヒーの飲み口には毒を塗らせてもらった。これで、僕のことを知る人間はいない。レプリカを安全に始末し、残った殺人鬼もこうして始末できる。僕の損害はゼロ。これでいい。
「君は始末させてもらう」
彼は喚き苦しみながらも僕から決して目を離さずに声にならない声を上げ続けている。彼の死体はこのまま放っておいた方がいいかもしれない。この場にある僕が彼を殺したという証拠はあのブラックコーヒーの缶だけなので、彼が動くのをやめてからそれを回収し、僕が預けておいた銃も返してもらった。
こうして僕は完全勝利を収めることができた。明日からはまた、新たなレプリカを見つける作業が始まる。できれば次に会うレプリカはもう少し手早く始末したいところだ。
ふと、また僕の携帯が鳴った。今度はメールで、相手はまた夏川さんだった。文は全部ひらがなで句読点も打たれていない粗末なものだったが、あの夏川さんにこんなことを言われるとは夢にも思わなかった。
『きみのことをかろんじていたごめん』
ジレンマ
朝のニュースで入間君のことが話題になる前に彼を始末した場所に向かい、既に多くの野次馬が集まっているその場所に偶然を装って近付いてみることにした。
「何かあったんですか?」
近くにいた話しかけやすそうな初老の男性にそう聞いてみると、男女の死体が見つかったというその通りの事実を話してくれた。霧村さんの方はともかく、今の時点で入間君の死因は推測できるのだろうか。仮にできたとしたら、まさか犯人が僕であるという結論に達したりはしないだろうか。こういった考えれば考えるほど不安になる悩みの種が生まれるからあまり自分で直接手を下すのは嫌なんだ。まあ、証拠になるものは一応残してはいないはずだから大丈夫だとは思うけど、日本の警察は優秀みたいだからどうしても嫌な不安は残る。
僕はがやがやと騒いでいる野次馬達をかき分けて現場を見に行った。七、八人程度の警察官達が色々やっている。奥に見えるあのシートにはどちらかの死体が包まれているのだろう。
警察官のうちの二人に刑事と思しき男女がいる。一人は若い男性で、左腕を怪我している。もう一人は男性の上司と思われる女性だが、二人に年齢の差はほとんどないように見えるくらい若い女の人だった。
ただ、気のせいかもしれないが、女性の方の刑事の顔にどこか見覚えがあった。どこかですれ違ったかな。
僕がここに来た理由の一つは単なる好奇心と警察の持つ武器にサイレンサーがないかどうか探りにきたのだが、日本でそういった道具にお目にかかれることは期待できそうにない。これからのことを考えると必要性はどうしてもというほどでもないが持っておけるものなら持っておきたい。誰かに銃を撃ったところを知られて通報なんてされた日には一巻の終わりだ。
「あの、すいません、ちょっといいですか?」
ふと、僕に話しかける同年代くらいの女の子の声がした。
声がした方向に振り返ると、そこには同じ学校の制服を着た僕より少し背の低い女子が僕をじっと見ていた。
「……はい?」
「急にすいません。自分、一年の霜野一紗と言います。霧村先輩と同じ新聞部です」
念の為僕は彼女に対して警戒し、余計なことを口走らないよう意識した。
「あなた、木野先輩……ですよね?」
「そうだけど」
「いくつか聞きたいことがあるんですけど、今、いいでしょうか?」
僕は断った。しかし、霜野と名乗る後輩は引き下がらなかった。
「木野先輩達が霧村先輩と共に連続失踪事件の犯人を追っていたのは知っています。その点を踏まえたうえでお話を聞きたいのですが」
それを知られているのでは彼女がどこまで知っているのかを探ることも兼ねて上手く誤魔化した方がいいのかもしれない。
「僕以外のメンバーには話を聞いたの?」
「いえ、まだです。後で聞いてみようとは思ってますがね」
彼女が話を聞くことができるメンバーは今のところ僕とニシマンさんだけだろう。夏川さんは多分今日は学校には来ない。
「……ここだとうるさいから、場所を変えて話そう」
僕らは野次馬の集団をかき分け、ひとまず野次馬達から少し離れたベンチに座った。入間君を始末したベンチはちょうど入れない。そこに死体があるから当然か。
「まず、どこで僕のことを知ったの? 霧村さんから?」
「いえ、最初に木野先輩のことを知ったのは事件のタレコミをしてくれたナギ先生が持っていた写真からでした。他のメンバーの写真も先生は持っていました」
何の真似だ? 霧村さんがメンバーに入った理由の根源にはナギ先生が関わっていたのか? だとしたら何故そんなことを。
「じゃあ、霜野さんがこうして僕に話を聞こうとする理由は何かあるの? 君も霧村さんと同じように犯人を追うつもりでもあるのかい?」
「なくもないですけど、深入りする気はありません。現に霧村先輩は犯人の正体を掴みかけていたけどこうして殺されています。おそらく思っていた犯人が違ったか、または知りすぎた故に殺されたかのどちらかと考えています」
霜野さんは真剣な表情をしていた。彼女の憶測は後者が半分正解だ。
知りすぎた故に霧村さんは僕が見殺しにした。見殺した……という表現がしっくりくるだろうか。
「……それじゃあ、君は犯人があのグループの中にいたと考えているのかな?」
「今のところは」
まさかとは思うがこいつ……僕を疑っているのか?
探るような目で霜野さんは僕を見ている。ここでなんとかしておかないと僕への疑いはきっと深まることだろう。
今更ながら失敗したと感じた。完全勝利を掴み取ったはずがいささか悪い意味で完全すぎたのかもしれない。
鹿島君と霧村さんに入間君は死亡。ニシマンさんは脱落。結城先輩は死んだが、扱いとしては行方不明だろう。夏川さんは重傷。僕はご覧の通り傷一つついてない。
霜野さんは後に僕だけが万全であることを知るだろう。そうなる前に疑いを晴らしておかなければ何をされるかわかったものじゃない。
「単刀直入に聞かせてもらう」
僕は快楽殺人鬼じゃない。だからこそ、殺すべき人間は無闇に増やしたくはない。
「僕が犯人だとしたらどうする?」
「そのままあっちにいるお巡りさん達に通報しますね」
「霧村さんの復讐を考えたりはしてないの?」
「……」
「余計なお世話かもしれないけど、復讐ならやめたほうがいい」
「誰だってそう言います」
歯を食いしばって霜野さんは言った。
「まあ……どんな理由か知らないけど、僕は見た目の通りの小心者だからね。鹿島君が殺されてしばらくしてからあのグループからは抜けたんだ。だから、霜野さんに話せることなんてほとんどないよ」
彼女は何か言いたそうな表情をしている。僕が何者であるか見極めてから話そうとしているのか、それとも僕の言葉を単に信じることができていないだけなのか……それを知る方法は僕にはない。
「……そうでしたか、すいませんでした。突然こんな話をしてしまって」
「別に、気にしなくていいよ」
彼女は口ではそう謝罪しているが、僕を疑うことはまだやめていなさそうだ。
「とにかく、あまりこの手の事件には手を出さないほうがいいよ。知っちゃいけないところまで知って、それを知られたがらない人間に消されるかもしれないんだから」
「脅しですか?」
「ただの親切心さ。まだ公にはなっていないけど、結城先輩はおそらく失踪した。犯人を捕まえることに一番熱心だったのはあの人だったから、もしかしたら何かを知りすぎたせいで殺されたのかもしれない」
これは真っ赤な嘘だが、牽制にはなるかもしれない。いや、なってくれたらありがたい。
入間君が犯人だとわかるのは最早時間の問題だ。その時まで誤魔化しきれば、彼女は納得してくれるだろうか。いや、そうなればそうなったで誰が入間君を殺したかという新たな疑問が生まれることだろう。その時にまた僕が疑われたらかなり面倒だな。
「……」
「今のうちに手を引いた方がいい」
でないと、僕が安心して日々を過ごすことができなくなるじゃないか。
「あるお方から気になることを聞いているんです」
話を変えるように霜野さんは言った。これから言うことが自分の本来の目的であるかのように。
「今回の事件では殺人鬼の他にもう一つの敵にあたる人物が先輩方のグループにいるみたいなんです」
「なんのことかわからないな」
「自分でも持っている情報が漠然としすぎていて質問しようにも質問ができないといったところが本音です」
「……それじゃ話にならない」
「ですよね」
もう一つの敵にあたる人物……彼女の言っている通りそんな人物がいるとしたら消去法で僕か夏川さんかニシマンさんか。
ニシマンさんに何らかの企みがあったとは考えにくい。なら僕のことだろうか? いや、きっとそうだ。第三者の視点から僕の行動を振り返れば結城さん達の味方では全くなかった。現に、危険だと判断した霧村さんには上手いこと消えてもらったわけだし。
「霜野さんは犯人の他にそのもう一つの敵っていうのを追っているの? ていうか、そもそもなんでこんなことしてるのさ? って……そこは復讐だったか」
霜野さんはしばらく考え込んでいた。
それにしてもだ、新聞部の人はみんなこうなのか? どうしてわざわざこんな知らなければいいことを知ろうとするんだ。馬鹿なのか? 危険だということくらいわからないのか? 深入りする気はないと言ってはいるがそこまで都合よくさじ加減ができるわけではない。人殺しを追ったら逆に自分が殺されるかもしれないという簡単な予測すら立てられないのか?
「復讐なんかしません」
「はい?」
至って真面目な様子で答えたので変な声が出てしまった。
「先輩が死んだのはわたしが先輩をちゃんと止めてやれなかったせいです。わたしが先輩を見殺しにしたも同然なんです……だからわたしが先輩にしてやれることはこれくらいしかないので」
やる気のなさそうな顔をしていた割に随分と先輩思いな優しい人だ。しかし馬鹿だ。
「本気なの? 君はそんな理由で犯人を追おうと言っているのか?」
「っ……そんな理由とはなんです!」
「深入りしないにしても霜野さんも霧村さんと同じ目に遭うかもしれないんだぞ。そうなれば君の友達とかは君を止められなかったと言ってまた同じことをするかもしれない。そうしたらまたその友達が……といった具合にどこまでも負の連鎖は続く。君がやろうとしていることはその第一歩じゃないのか?」
「……っ」
「死んだ人間は勝手に死んだんだ。君の償いの理論は因果を辿れば誰のせいにもなり得る。そうやって心を痛めるのは死んだ人間からしても迷惑なことだと思う」
「だけど」
「自己満足を他人の為と言って正当化するのはやめた方がいい」
世の中そんな人間ばかりだ。だからこそ僕は一人で平穏に生きていたい。人付き合いが苦手な理由もそこにあるのかもしれない。
僕の意思に同調してくれるならば、霜野さんはこの件から手を引いてくれるだろうか。頼むから大人しくしていてくれ。こうして知ったような言葉を吐くのも偽善者のようで気分が悪い。
「……またお話を伺うことがあれば、その時はまたよろしくお願いします」
憮然とした表情でそう言って霜野さんは去っていった。正直、二度とこの件で話したくはない。
彼女のことはどうしようか。大事を取って殺しておくにも、それはそれで新たな不安が生まれてしまうことだろう。それに証拠を残さずに人を殺すのは楽じゃない。
「……疑心暗鬼かな」
こんな頭の使い方をするのは久しぶりだからなのか、一度深く考え出すと迷走していってしまう。
考えるのをやめればそこまでだが、考えすぎも心を病むだけか。いや、僕のしたことがバレるのは割と本気でマズイことだ。こういった状況下では少し考えすぎているくらいがちょうどいいのだろうか。昔のようなミスを再び犯したら今度こそどうなる? 間違いなく今度こそ僕の人生は終わりを告げることだろう。
…………これもまた考えすぎだ。一日はまだ始まったばかり。今日はこんな気分で過ごさなくてはならないのか? 冗談じゃない。
白い監獄
目を覚ますと白い天井が見えた……という経験をしてから今日で十日。
肋骨は砕け、左足は足の裏が上に向いていたり頭からはおびただしい量の血が流れていたわその他もろもろなんやかんやでとにかくひどいものだったらしい。
そういうわけで市内の大学病院で入院しているのだが、完治するまではしばらくかかりそうだった。
「おはようございます。お嬢様。もうそんなに動いて大丈夫なんですか? あと、怪我に悲観して早まるのはどうかおやめください」
あたしが松葉杖を突いて向かった屋上で煙草を吸っていると、気品を感じさせる声でそう言ってきたのは我が家で住み込みで働いてくれている家政婦の「鳥飼ミチル」だ。手には映画のDVDが入った袋が提げられている。
年齢は二十七歳。なんでもうちには彼女の祖父の代から仕えているとのことだ。
「お嬢様はやめてくれっていつも言ってるだろ。で、その見舞いの品とやらの映画……今度はちゃんとしたやつなんだろうな? あと死なねえから」
「おや? 前のやつは苦手なジャンルでしたか? おかしいですね、真魚さんの好みには合っていたと思うのですが」
「ああ、すごく面白かったよ。あの戦争映画はすごく面白かった。文句なしだ。アンタがドイツ語の主題歌を片言で歌っていたのが録られていた点を除けばな」
「まあ、ご冗談を」
「アホ」
変わった人だが、まあ信頼はしている。
ミチルとはあたしが小学生だった頃から色々と世話になっている。
あたしの家は誰かに自慢したりしたことはないがかなりの金持ちだ。住んでいる家は結城の洋館とは違って和風のものだが、敷地面積はあたしの家の方が上だろう。
あたしの両親はもういない。父親の方はあたしが生まれてすぐ死んで、母親は小一の頃に死んでいる。残されたあたしは母方の実家に引き取られ、そこが今の馬鹿でかい家だというわけだ。だからこそミチルのような住み込みの家政婦が数人いるのだ。
「入院生活は楽しいですか?」
「早く帰りたいよ。それと、欲を言えば個室がよかった」
「おじいさまが貧乏性でしたので」
ミチルは隣に来てあたしが吸っていた煙草を取って大きく煙を吸い込み、吐いた煙で雲一つない大空に白いリングを飛ばした。
「自分の吸ってよ」
「大人として未成年の喫煙は咎める義務がありますので」
「あたしに煙草を教えた張本人が言う台詞じゃないな」
その後、ミチルはあたしに見舞いの品だけを渡して帰っていき、あたしはもとの退屈な入院生活を再開させに病室へ向かう。
病室は女だけの四人部屋。入り口から左のベッドにいるのはプリンのような色合いの髪のヤンキー女がバイクで事故って左足を怪我して入院している。右のベッドには腕を怪我した老婆。階段から落ちたそうだ。あたしのベッドは左側の窓に面した場所にあり、その向かい側に位置するベッドにはバスケットで右足の靭帯を切ったという中学生がいる。
あたしが病室に入った時の松葉杖を突いた音で目が覚めたのか、ヤンキー女はボサボサの髪を撫でながら驚いた顔をした。
「お前、もう松葉杖かよ!?」
「一番新しく入院してきたくせに」とでも言いたそうだ。
「医者からの許可はもらってないけどね」
「マジか……ウチなんて三週間入院してるけどまだ車椅子だぜ」
「まあ……丈夫なんで」
「そういや、どうやって怪我したんだ? お前。なんか身体中に包帯巻かれてるけど」
「ちょっと高いとこから落ちてね」
「へえ、自殺志願者?」
「んなわけない」
ヤンキー女を通り過ぎてベッドに横たわった。
暇だ……と思うより早く昼食の知らせの放送が流れたので病室に戻って早速食堂まで向かうことにした。ただ、病院の飯は正直どれも味気ない。好きな食べ物でさえ美味しいと自信を持って言えないほどだ。まあ、出されたものは食事はきちっと完食する主義なので我慢して飯ははいただいている。
食堂に着くと、既に集まっている人間は十人いた。おそらく、ずっとここで見舞いに来た人と雑談でもしていたのだろう。
一度あたしは結城から掴んだレプリカの少しの情報を話題にして見舞いに来た木野くんと話したが、それっきり彼は電話すらかけてこない。その辺りは別にどうでもいいけど、彼は死体が残る殺人を犯した。レプリカを消すならともかく、殺人鬼とはいえ人間を殺したのだ。警察に目を付けられていたら気の毒だなと思った。
味気ない昼食を取りながら増え始める人数をぼうっと眺める。この階が整形外科棟である為か、入院患者の年齢は若い人が多い。一度他の階の食堂を見る機会があったが、ほとんどが老人だった。
増えていく人数の中で同じ病室のヤンキー女はすげえ頭の彼氏とイチャついている。向かいのベッドの中学生は見舞いに来た友達と楽しそうに昼食を取っている。
そんな入院患者の中で、一際目立つ壮年の男が一人現れた。
名前は知らないし話したこともないが、身長190センチ程度はありそうな男で片足を引きずって歩き、左腕は骨折でもしているようだった。
そいつはあたしの隣の席を一つ開けて昼食を取り始めた。
それに続いて同じ病室にいたあの老婆がやってきて、あたしと大男の間の一つの席に「よろしいですか?」と断りを入れて座った。
しばらく黙って食べていると、老婆は穏やかな口調であたしに向かって話しかけてきた。
「同じ病室の夏川さんでしたっけ? ずいぶんと健康なお体をしているんですね」
「ああ、まあ……どうも」
言う人によってはセクハラだった。
続けて老婆は隣の大男に同じように話しかけた。
「お兄さんは背がとてもお高いのですねえ。お仕事は何をなさってるんですか?」
「工事現場でアルバイトをしています。定職には就いていません」
大男は目線を目の前の食事に向けたまま低い声で言った。
いい歳してフリーターだったのか。しかし、改めて大男の身体を見てみると至る所に傷があるのがわかった。昔はやんちゃしていたのだろうか。
「まあ……お二人ともお若くていいですねえ。お仕事ならきっと見つかりますよ。あなたは頼りがいがありそうですもの。夏川さんは高校生なんですか? あ、そうだ! あなたお名前はなんというんですう?」
ころころと話し相手が変わる婆さんだな。
「山田です……自分は山田太郎といいます」
えらくシンプルな名前だな。ありふれた名前というより履歴書の記入例にありそうな名前だ。いや、実際記入例に使われているか。
「数か月前から記憶を失っているんです。言葉以外全部なくした感じで、名前も履歴書の記入例にあったものを使わせてもらっています」
あれ、マジだった。
「あれま……でしたらあの噂はご存知ありますか? 『天の使い』の噂を」
なんだそりゃ。
「少しだけなら」
「そうでしたか。なんでもこの病院にどんな願いも叶えてくれるという天の使いが現れるというあの噂。山田さんなら記憶を取り戻してくれとお願いしますか?」
なんだそのあからさまに嘘くさい噂は。
「願いを叶える?」
その時、目線を食事に向けたまま淡々と受け答えだけしていた山田さんは表情を歪め、老婆の方を向いた。
「オレが聞いたのは病の苦しみから死をもって解放させるという天の使いの噂でしたよ。そんな都合のいいことまでしてくれるものなんですか?」
それを聞いた老婆は「あれま」と困惑した。
「どちらも初めて聞きました。お二人とも噂の方は信じてるんですか?」
あたしがそう聞いたところ、老婆の方は中身のない話を楽しそうに話してくれたが、山田さんは違った。
「オレが知っている噂自体は信じているわけではない。だが、こうして噂に様々な尾ひれが付いて広まっているとなると、噂の根源である天の使いはいるのかもしれない」
「といいますと?」
「別の階のご年配の方々の話を何度か聞いたのだが、退院の見込みがないとされていた人々が次々に全快に回復しているという話を聞いた。これは事実だった。だから、天の使い自体はもしかすると実在するのかもしれない」
その言葉を聞いて老婆は「素晴らしいことではありませんか」と喜んでいたが、レプリカの存在を考えるとどうにも嫌な予感はしてしまう。やっていること自体は良いことに聞こえるが、人を回復させるなんてパチモンにでもしているとしかかんがえられない。もしかしたら病を癒すレプリカなのかもしれないが、そんな能力のベースになるような生物がいるのか。
どちらにせよ、できることなら怪我を治してからレプリカと戦いたいのだけれどな
正義の味方は孤独であれ
「む……」
「あ……」
最上階の患者図書館でばったり山田さんと出くわした。
あたしは挨拶をすることなく通り過ぎようとしていたのだが、向こうがあたしがちょうど後ろに来た時点であたしに気付いたせいで「ああ、気付きませんでしたこんにちは」と言うには嘘くささが丸わかりの位置で互いに固まってしまった。
「どうも」
とりあえずあたしは軽く頭を下げた。
「君は……どんな本を読むんだ?」
山田さんがそう聞いた。
「読むなら小説ですね。恋愛モノでなければ大体のものは読みます」
「ふむ……そうか」
「山田さんはどうなんですか?」
「読書は趣味でもあるし記憶を戻す手がかりにもなると思って読んでいる。大方のジャンルは読破したが、恋愛に関してはピンと来なかったな」
「記憶を失う前のことはまだなにもわからないんですか?」
「少なくとも今のような生活をしていたと思う。オレがどこかの企業にでも勤めていたり交友関係があれば誰かしらオレのことを捜してくれているのかもしれないが、記憶を失ってからそんなことは今までで一度もない」
「大変ですね」
無責任な励ましはできない。だからこそ無関心な返しがちょうどいい。
「まあ、正直なところ記憶より明日の生活の方が重要な身分なんだがな」
山田さんは愛想笑いも苦笑いもせずにそう言った。記憶を失ったことを全く気に留めていないかのように。
「そうだ、山田さんが天の使いの噂を知ったのはどこの階ですか?」
「五階の循環器科の老人達からだ。なんだ? あの噂が気になるのか」
「まあ、一応」
レプリカが関わっているかもしれないなら下見の感覚で調べるつもりでいる。
それから図書館を本を借りることなく後にし、山田さんの言っていた例の五階まで足を運んでみることにし、まずは看護師から話を聞いたりして、食堂で駄弁っている人達からも色々と聞いて回った。
その結果、噂を知っている人と知らない人の割合は四対六といったくらいで、内容については願いを叶えてくれる派と安楽死派と傷を癒す派がメインだった。他は超スレンダーな看護師のことを指しているだけだとか小児科のたまに遊びに来るミキちゃんとやらの可愛さが広まったとかいうものだったが、実際の退院患者数から察すると傷を癒す派が正解な気がした。
「真魚ちゃん、いわゆる七不思議系の話は興味ある方?」
病室に戻り、採血に来た看護師の「日垣潤」にそう聞かれた。
「そうですね。その中に気になるものがあった場合だけですけど」
「天の使いとやらがあるでしょ。知ってるかな?」
「知ってます。患者が次々に治っていったやつでしょう?有名みたいですね」
「そうそう。そんなのが実在してたら私達の仕事がなくなっちゃうな」
日垣さんは笑った。
しかし、退院した患者のデータはどれも死期が近い者ばかりだったそうなのでこの病院から一度に全ての患者が退院するなんてことはないだろう。
「その天の使いの噂、いつ頃から広まったんですか?」
「割と最近だよ。やっぱり真魚ちゃんも気になるよね?」
「まあ、実際起こっていることですし」
「天の使いとやらなら一番情報を持ってそうな人を一人知ってるよ」
「誰ですか?」
「牧師さんがいるんだよ、四階の方に。よく食堂で教えを説いてるような感じだから行けばすぐわかると思うし、話しやすくていい人だと思うよ」
牧師か……確かに天の使いという言葉には詳しそうであるし天の使いそのものな気もするが会いに行く価値はありそうだ。
「にしても本当、病気を治すのは勝手だけど私の患者さんには手を出してほしくないかなあ」
「まあ、患者があっての病院ですしね」
「ちょっと違うんだけどね」
「え? どういうことです?」
「じゃ、ちくっとしますからねー」
あたしを無視してそう言ってから日垣さんは注射器を手にしたが何故か手が震えている。初めは新人だからかと思っていたが大して痛みはないから上手ではある。だけど、最近では息を荒くして注射をしていることにも気付いた。
緊張するほど繊細な仕事なのだろうか。
「あの、緊張してるんですか?」
聞いてみたが、返事はない
「あの……」
「うるさい!」
「……」
怒られたことに納得はいかないが、今回も痛みもなく針は刺さったのでその点はいい。だが、注射している時の日垣さんの表情を改めて見てみると、口の端が若干吊り上っていることがわかった。正直気持ち悪い。
「おい真魚ちゃん、もしかして知らなかったのか?」
採血を終えて日垣さんが去ると隣からカーテン越しにヤンキー女の声がした。
「なにが?」
「日垣さんかなりの注射フェチだから邪魔されるとキレるんだよ」
あの表情はそんなしょうもないことだったのか。
「アンタもキレられたことあるのか?」
「ちょっと腕動かしたせいで乳首刺されたことある」
「……よくクビにならないな」
「普段はすごくいい人だからな……」
それから特にやることもなく夕食まで淡々と入院生活を謳歌した。すぐに牧師とやらに会いに行ってもいいと思ったが、食堂に現れるなら一番現れやすそうな時間まで待つことにした。
そして、夕食を手早く済ませて牧師のいる四階までやってきた。
その階の食堂には数人の老人と四人ほど子供もいて中年の男が一人いた。
みんなで和気あいあいと雑談をしているわけではなく、一人の中年が老人達と子供達に話をしているようだった。それも、老人達と子供達は食い入るように耳を傾けている。どうやら例の牧師とは話をしている男のようだ。
あたしも混ざって話を聞こうと空いている席に腰掛けた。
牧師の話を途中から聞くことにはなったが、話の内容はいたってシンプルなもので話の筋もすぐに掴めた。
牧師は正義について話していた。
悪いことをする人間がいるから悪いことが起こりまた新たな悪が生まれる。悪によって生み出された復讐心なども一つの悪であり、このような負の連鎖を断ち切り、絶対的な正義の登場によって悪は消え去るということ。
だから、常に正義の心を忘れるな。正義に理由はいらない。決して悪に染まることはするな。絶対的な正義として君臨するのは私達なのだから。世界を救うのは私達が絶対的な正義を身に付けることから始まるのだ。
ガキかこのオッサンは……。
それから一通り話を聞き終え、集まっていた患者たちは皆嬉しそうに礼を述べ、みんな「牧師様のお話には希望がある」と互いに言いながら散り散りになっていった。宗教嫌いの人間から見れば異様な光景だったと思う。実際にあたしもそう思った。
そして、あたしは直々に牧師と話ができるようになった。
「こんばんは」
まずは軽く挨拶をする。
「この階の患者ではなさそうだね。私に何か用事でも? それとも、私の話をわざわざ聞きに来てくれたのかい?」
丁寧な口調で牧師は言った。
「用事です。看護師さんからあなたのことを聞いてやってきました」
「ふむ……それで、用事とは一体?」
「天の使いの噂についてです。知っていますか?」
「患者を急激に回復させてくれる人物のことだね? 誰かは知らないが、噂自体は知っているよ」
「君もその人物に傷を治してもらいたいのか?」と牧師は何かを探るように聞いた。
「できれば……ですけど」
嘘だ。傷はもう少しすれば完治する。わざわざそんな怪しい手段に頼るつもりは毛頭ない。最初から否定するよりはこういう言い方の方が会話は進む。今はただ、重症患者が次々と退院していくというありえない状況を引き起こしている奴がいるか? いるならそいつは人間なのかどうかを確かめ、そいつの顔と名前まで確かめることができればベストだ。
牧師は一旦席を立って二人分のお茶を汲みに行き、一つをあたしの前に差し出した。
礼は述べたが、喉は乾いていなかったのでまだ飲むことはしない。
「君が『正義』を貫くことができる人間であれば、天の使いは現れるさ。神の使者とはそういうものだ」
「さっき話していたやつですか。言っては悪いですけど、あたしは無神論者です。それに、正義を貫き続けるなんて無理じゃないですか? どんな善人でも悪いことはします」
いい質問だとでも言うように牧師は頷き、「神の存在を無理に認めさせはしない」と断ってから彼の持論を展開し始めた。
「いかなる善良な人間でも悪いことをする……確かにそうだ。人間は心の中の悪を完全に捨て去ることはできない。ただ、自力ではな」
「他人になんとかしてもらうんですか?」
「そう、そしてその他人こそが絶対的な正義を持つ者だ」
真面目な顔でまた何を言い出すんだ……。
「絶対的な正義を持つ者とやらはどうやってそれを身につけたんです? そこがはっきりしてなきゃ正義の起源がわかりません」
「君は今の世の中が平和だと信じているか?」
牧師はあたしの言葉を無視してそう言った。ムッと来たが、目上の相手なのでここは抑えた。
「日本に関してはそうだと思います」
「そう思う根拠は?」
どうでもいいだろそんなもん。
「治安の良さからそう考えます」
レプリカを抜きにした場合での意見だ。あんな危険な奴らはそこにいるだけで有害なのだから。
「その治安の良さとは?」
知らん。
「犯罪率の低さですかね」
「それは浅はかな考えだ」
パッと思いついたことを言ったところ、怒るわけでもなくそう一蹴された。
「治安が他国と比べて良いのは認めよう。だが、それでも現に犯罪は頻繁に起こっている。この現状を無視して平和を語ることができるだろうか? いやできるわけがない」
「何が言いたいんですか? 手短にお願いします」
「簡単なことだ。平和とはこの世の全ての犯罪が撲滅され、人が人を安心して助け合える世界のことだ」
確かに非常にシンプルで理想的な世界だ。誰でも思いつく。同時に、そんな世界を実現させることは到底無理な話だということも瞬時に理解できる。コイツの話を聞いたガキとジジババ共は随分とお花畑な思考回路をしているようだ。
「そのような理想論が天の使いとどう関係するんです?」
「天の使いは正しい心を持つ者のもとに現れるのだ」
「何故そんなことがあなたにわかるのです?」
「どんな怪我や病気も瞬時に治すという現実離れした力を持つ者が無差別に治療し回るとは考え難いだろう? 現に退院した人々は皆善良な人々はばかりだった」
「その考えに明確な根拠はありますか?」
牧師は間髪入れずに答える。
「ない。しかし現れると言ったら現れるのだ、天の使いは。君も天の使いに傷を治してもらいたくはないかね?」
牧師はあたしに顔を近付けて誘うようにそう言った。
「治してもらいたければ善良な人間になれと? そう言いたいのですか?」
この男からはどことなく危険な香りがする。「正義」の押し売りとでも言うべきか。
「私の理想とする世界を創る為にも……是非協力してもらいたい。全ての人間が絶対的な正義として存在するそんな理想郷を創る為に」
「それより、なぜ退院した人々の人柄まで知っているんですか? 見たところ牧師さんは患者のようには見えませんが」
そう、牧師の服装はラフなものであったし極めて健康な肌の色もしていた。きっと現役で何かのスポーツをしていると言われても不思議に思わないだろう。
あたしが話題を面倒な方向へ傾きかけていたところを修正する問いに対して牧師は知人の見舞いに来ている内に患者達と交友を持ったと答えた。
「それで……天の使いとやらは誰かはわからないんですよね?」
牧師はそうだと頷いた。
「申し訳ありませんが、あたしはあなたの平和論を聞きに来たわけではないのです。天の使いについての情報がないなら失礼させていただきたいのですが」
これ以上話をしても無駄と判断したあたしは慣れない敬語でこの場から立ち去ろうという意思を伝える。しかし、牧師はそれを許す事はせず、正義の尊さ、正義が作り出す豊かな社会、正義が全ての問題を解決するなど話をやめようとはしない。
異常だった。
この男は正義の盲信者。言っていることは正しい。だが実現できるわけが本当にない理想論でしかないのだ。
「あの、本当にもういいですから、あたしはこれで」
「人の話を最後まで聞けッ!!」
「聞きたくないっつってんだよ! わかんねえかこのタコ!!」
牧師は凄まじい剣幕でテーブルを叩いてそう叫び、痺れを切らしたあたしもたまらず殴るようにテーブルを叩いて叫び返した。食堂にいた人々が驚いて一斉にこちらを見たことで沈黙がこの食堂に訪れた。ここから見えるナースステーションにいる看護師達もあたし達に驚いていた。
そして、気がつくと彼らの視線の先はあたしと牧師に向けられているのではなくあたしだけに向けられていた。
「失礼します」
声を極めて冷静なものにしてそう言い、あたしは席を立った。
「君、煙草をやっているな?」
牧師も落ち着いた声でそう問いかけたがあたしは無視して松葉杖を両脇に構えた。
「未成年の喫煙がよくないことなのは周知の事実。モラルに反する行動は『悪』だ。悪がそうして広がりを見せるように、正義もまた同様に広がりを見せる」
「聞くだけのことは聞きました。あなたは天の使いについての情報を持っていない。それがわかっただけ十分です」
動き出す準備が整ったあたしに向かって牧師は「せめてお茶だけでも飲んでいけ」と促したが、喉が乾いていない以前にこんな奴の汲んだお茶など飲みたくもなかったので拒否してエレベーターへと向かう。
「君のような悪には必ず正義の鉄槌が下される。今ならまだ間に合うぞ。私の話を聞け」
牧師は諦めることなく理想論でしかない正義を押し付けようとする。この男は頭のネジが相当緩んでいるに違いない。
「正義は普遍的になるものじゃない」
「お前のような小娘が易々と正義を語るんじゃない」
牧師の言葉には怒りというよりも敵意に近いものが含まれていた。
あたしは疲れ果てて自分の病室へと戻ろうとした。最後に牧師を一瞥した時、あたしの視界には食堂にいた全員が睨みつけるようにこちらを見ている光景も映っていた。
狂戦士と魔王 1
夏川さんが入院してから二週間が過ぎようとしていた。
レプリカの情報も何も掴めないまま時間は過ぎていくかと思ったが、僕はレプリカ達に対して優位に立てるかもしれない情報を掴みかけている。おそらく、レプリカ達からしてみれば致命的な情報だろう。そうであってほしい。
「おや? なんだいその薄汚く黄ばんだ紙切れは?」
雑音が絶え間なく耳に入る中、神田さんが残したたった一つの手掛かりであるボロボロの集合写真を手に取って端に写っている女性を確認していたところをナギ先生に見られ、そう聞かれた。写真を頭より下に置いて見ていると気持ちが悪くなってくる。
「いえ、別に」
この女性が僕の思っている通りの最初のレプリカであり薬を広めている人間であるなら僕は自分のことを知られずにこの人物を始末できる。とは思ったが、薬を広めている人間は男だという情報を夏川さんから仕入れたうえ、この写真の女に近づく手段を僕は持っていない。警察関係者とはそもそも関わりたくもないのに。
「別にってことはないだろう。そんな思い出が詰まってそうなもんを持ち歩いてんだから何かしらあるでしょう」
「思い出なんかありませんよ。そんなことより聞きたいことがあるんですけど」
「君の質問の察しはつくけど一応聞いておこう」
「僕は補習に呼ばれたはずなのにどうして先生の車に乗せられてるんですか?」
僕は何故か誘われるがままにナギ先生と一緒に車に乗ってしまったのだ。どうしてかはよくわからないがとにかく乗ってしまった。もうすぐ日は沈む。先生と生徒が二人きりでドライブとは禁断の関係のように聞こえたりもするが僕とナギ先生に限っては有り得ない。
「別に大したことではないけれど重要なことだ」
「どっちなんですか……」
「まあ、重要だね。何を隠そう木野君に見てもらいたいものがあってね」
「いや、車に乗る前に教えてくださいよ。電車の時間とかあるんですし」
「冷たいことを言うなあ。いつも君の学力向上に貢献してやってるんだから君の方も先生に何かしてくれてもいいんじゃないかなあ」
言っては悪いが、教師が学力向上に貢献するのは大前提だろう。
「夏川君のこと、わかってるよね?」
日が完全に沈んだ頃に先生は僕に問いかけ、僕は入院の件かと聞いた。
「正確には夏川君の病院のことさ。君、見舞いには多分行ったんだろ?」
「行きましたけど、何か?」
「こんな噂は聞かなかったかい? 『死霊術死』が重病の患者を蘇らせているとか……いや、この噂はパターンがあったっけ。何かこんな感じの聞いてないかな?」
「いえ、全然」
「ふむ、そうか」
今日のナギ先生は珍しく表情に乏しい。いつもの不快な笑みを浮かべることが今のところまだない。
「これから行く場所で君にテストを行う。合格基準は現場で言い渡すから、しばらく寝てていいよ」
あからさまに怪しい一言だった。
「僕に一体何をさせるつもりなんですか? 生物のテストなんかじゃあないですよね?」
ナギ先生はにぃーっといつもの三割増しには不気味な笑みを浮かべた。まるで今まで我慢していたかのように。
「生物のテストさ。ちょっとした『実技』テストだよ」
ナギ先生が運転する車が辿り着いた先は使われなくなった港の格納庫のような大きくだだっ広い空間だった。真っ暗な場所だが、穴が開いた高い天井から月の光が漏れてきている。
ナギ先生が持参したランプを照らすと、生気のない無機質な風景が広がったと同時に、狼に怯える子羊のように身体を震わせる人影が奥の方に四つ見えた。
「あの人達は?」
「夏川君の病院から劇的な回復をして念願の健康体を手に入れたジジババとロリだよ」
ナギ先生が彼らのもとへ歩み寄り、僕もそれについていく。彼らに当たる光がより濃くなったことで彼らの容姿もあらわになった。
高齢男性が二人、高齢女性一人、小四くらいの女の子一人。全員手足を拘束されて口にはガムテープが貼られていた。
ナギ先生が一人ずつガムテープをはがしていき、高齢男性のうち気性が荒そうな人の拘束を解いた。
「このクソガキが!」
男性は拘束を解かれるやいなやそう叫んでナギ先生に掴みかかろうとしたが、先生に触れることすら叶わず鳩尾を殴られてその場にうずくまった。その様子に三人は声にならない声で怯えた様子を表した。
「テストの内容及び合格基準を言い渡す!」
ナギ先生はうずくまった男性を一瞥することもなく僕の方を振り返ってそう言った。
「こいつらを殺さずにレプリカの情報を入手してみなさい。合格基準は一人でも生き残っていればオールオッケー」
レプリカのことを知っているだと?
「先生は何者なんですか?」
「先生のことはどうだっていいんだ。今重要なのは君のことだ」
「信用できません。僕みたいな一般的な男子高校生に拷問でもしろと言っているのですか? そもそもレプリカってなんですか?」
「おいおい、見苦しすぎる言い訳をするなよ。君のことはもう全部知ってるんだよ。宮島君から結城君のことまでその間の過程もね」
口から出まかせで言えるようなことではなかった。どうやら僕は本当にレプリカを消したことを知られているようだった。何故バレたのか? 情報はどれくらい広げられたか? 抱えていた不安が一気に舞い上がった。
「自棄になって先生をその鞄に入れてある銃で殺そうとすることはお勧めしないな。やったことはないが、先生は弾丸を避けることくらいは朝飯前だ。大丈夫。誰にも君のことは話していない」
「仮にあなたがそう言われたとして、それを信用できると思いますか?」
ナギ先生は少し思案する素振りを見せた。わざとらしい素振りだった。
「なら、先生のことを話そう。これで公平だ。限りなくフェアな条件が整うだろう」
そう言って先生は近くにあった鉄の箱に腰かけ、僕にも何かに腰かけるよう促した。四人は抵抗しようとはしていなかった。
「ワタシは夏川君の支持者だ。彼女に銃と弾丸を与えたのは他でもないこのナギ先生だ」
狂戦士と魔王 2
ナギ先生は自分のことを夏川さんの支持者だと言った。
起き上がった気性の荒い男を三人への見せしめのように殴りつけて簡単な経緯を話してくれた。レプリカの存在を知ったので弾丸を入手し、後は夏川さんに任せたと。
何故そんなことをしているのか理由を聞いても「その点は夏川君のプライバシーに関わる」と言って教えようとはしなかった。
「つりあいませんね。僕の方が多く弱みを握られたままだし、先生の説明では結局あなたが何者なのかはわからない」
ナギ先生は顎に手を当てて唸った。
「本当に信用してくれて大丈夫なのになぁ……どうしたものか」
「レプリカを知った経緯を教えてください。内容次第で一応信用はします」
「む……教師に対してずいぶんと上からだね。『過去』に関する話はタブーにしておいた方がより良い関係を持続できると思うんだけど? 特に君の場合はね」
心が臓器として体内に存在しているとしたら、今まさにそれに直接触れられたような気分になった。
運動して流す汗とは別の不快な汗が脇を流れた。頭の中が自分を落ち着かせることだけになっていた。
「僕の過去を知っているんですか?」
「いいや何も知らない、推測さ。ごく普通の日常を送ってきた男子高校生にあんな冷酷な戦い方はきっとできないだろうしそもそも首を突っ込まないさ」
「……」
「君の過去に興味がないと言えば嘘になるが、今はそんな時じゃないね。仕方ない……君から信用を得るために、先生今から君に対して誠意を見せることにしよう」
徐に先生は折り畳み式のナイフを取り出した。夏川さんが持っていた物と同一のタイプだ。ナギ先生は右手でそれを持ち、左手で左の耳を掴んだ。その瞬間、何をするのか予測はついたが、あっと驚く間もなく先生は自らの左耳をナイフで削ぎ落とした。
四人が状況がわからずにオロオロとしているのが見えた。
ナギ先生は削ぎ落とした耳をつまんで僕の方へ突き出した。
「今回のところはこれで勘弁してもらいたい。この通り、先生は本気だ。言わなくてもわかるだろうけどめちゃくちゃ痛いからな?」
無表情で先生はそう言い、これ以上先生の解体ショーを見るわけにもいかなかったのでテストを受けることにした。
四人を全滅させずにレプリカの情報を聞き出す。拘束を解かれた男がいつまでも変身しない様子から察するに、この人達はレプリカではない。重病が急激に回復したということならパチモノにでもされたのだろうか? 何にせよ、これは願ってもないチャンスだ。
「二つ確認させてください」
僕はナギ先生にそう聞くと、ハンカチで止血をしながら先生は応じた。
「なんだい?」
「僕は情報を聞き出すだけでいいんですよね? 僕の身は僕が守らないと駄目なんですかね?」
「先生が護衛してやる。君の本領は腕っ節じゃあないからね」
「ありがとうございます。それを聞いて安心しました」
本題である質問を僕は先生にする。
「不合格だった場合、僕はどうなりますか?」
「どうなると思う?」
どうなるか? レプリカと戦う資格がないと見なされて銃を奪われたりされるのだろうか?
思った通りにそう言ってみたがそんなことをするつもりはないと先生は言った。では何だろう?
「先生の秘密を知った木野君を始末する」
「……!!」
ハメられたのか? 僕は?
「冗談だよ。本気で驚いた顔をするなよ。君ならそう言うと思って言ってみたくなっただけさ。ほら、そろそろ試験開始といこうか。特別なペナルティーはないにしても、不細工な結果に終わるのは感心しないからね?」
光のないナギ先生の目に射抜かれた僕は銃を持って四人のもとへ歩み寄るしかなかった。弾はレプリカ用の赤い弾丸が三つと青い弾が一つ、残りは警察の銃から拝借した普通の弾丸だ。
手足を拘束されて横たっている三人は僕を見上げ、拘束を解かれていた気性の荒いおじさんは立ち上がり、僕を見下ろした。
「坊主、俺達をどうするつもりだ?」
威圧するような問いに僕は答える。
「話がしたいんです。正確には僕の質問攻めに応じてもらうだけですが、聞かれた通りにちゃんと答えてくれれば決して危害は加えないと約束します」
「ちょっと待て、お前もあの薄気味悪い奴の仲間だな? 何故俺達にこんな仕打ちをするんだ!」
この様子ではナギ先生からは何も聞いていないようだ。
「ですから、僕の質問に応じていただく為です。大人しくしていただければ安全ですから」
「質問なんか知るか! 早く俺達を家に帰らせろ!!」
「まずはこの写真に写っているこの女性を見てください。皆さんはこの人物について何か知っていますか」
おそらく最初のレプリカであり薬を持ち出した張本人。僕はこの人物を入間君を始末した翌日のあの公園で見かけていた。
その時は気付かなかったが、二人いた刑事のうちの一人の女の方はこの写真の女と全く同じ顔をしていたのだ。
男は僕が指差した位置を少し見て、
「そんな奴知らん!! いいから早くここから」
興奮したおじさんが言葉を言い終える前に僕は彼の脳天をめがけて発砲した。知らないなら他の三人に聞けばいい。すぐ怒る人は嫌いなんだ。
支えを失ったようにおじさんはがくりとその場に倒れ、少ししてから残りの三人が悲鳴を上げたので静かにしてもらう為に銃を彼らに向けた。
「やるねえ」
ナギ先生が感心して言った。
「恐怖政治は為政者が死なない限り最も効率的な統治の仕方であると思う。僕はされたくないけど」
僕は三人に向けて言った。
「質問に応じなければこうなります。発言にはくれぐれも注意してください」
僕みたいな奴が本当に人を撃たないとでも思っていたのか、怯えの中に驚きの色が色濃く表れていた。
まずは何て質問しようか考えていると、僕はある違和感に気付き、ナギ先生に質問した。
「レプリカに攻撃された人間は死んだら塵になることはわかりますよね?」
「もちろん」
「今殺した人……塵になりませんけど?」
そうなのだ。普通のパチモノならすぐに塵になるはずなのにいつまでも原型を留めた死体はそこにある。
「それは先生に聞かないでそこのお三方に聞くといい。パチモノでないことは確かさ」
なんてことだ、軽率だった。死体が残るということはまたも警察沙汰になるのは目に見えている。クソ、一人死んでも残り三人もいるからいいなどと考えるべきではなかったな。
「安心していいよ。死体の処理は先生がしておくから、君は心置きなくテストを続けてくれ」
ナギ先生がそう言ってはくれたが、本当に大丈夫だろうか。
ひとまず気を取り直し、僕は三人に向き合った。
「……というわけで、まずはこの写真の女性についてとあなた達がなんなのかを教えてください」
三人は顔を見合わせ、温厚な印象の七十代くらいの男性が代表して答えた。
「そこに写っている人は知りません。それと、ワシらはあるお方に救われたのです。話せることはそれだけです」
一番知りたかった情報だったが、まあこんなに簡単にわかるものと思っていなかったからその点は別にいい。
「答えになっていませんね。救われたとはどういうことか、あるお方とは誰かを教えてください」
「それは話せない」
「殺しますよ?」
弾を通常の物に全て詰め替えた。
「箝口令が敷かれている。話した瞬間、ワシらは今の健康な身体を失ってしまうのです」
僕は俯き加減でそう言った老人の頭に銃口を押し付けた。
「なら、選んでください。話してもとの入院生活に戻るか、ここで殺されることで健康体のまま死ぬか……選ばせてあげます」
「そんな惨いことを!」とお婆さんは言ったが無視する。
老人は口を閉ざしたまま話そうとしない。気の毒だが、僕は黙秘権を容認するつもりは毛頭ない。
「十秒待ちます。それまでに答えてください」
僕は秒読みを開始した。
お婆さんが涙を流して僕に制止を訴えかけるがやめる気はない。僕と同じように、老人も黙ることをやめようとしなかった。
「七…………六…………」
お婆さんが拘束されて身動きがままならないまま自分を無理やり土下座の体制にして僕にこの老人を殺さないでくれと懇願した。
「三…………二…………」
まだ答えない。そのまま十秒が経ち、僕は引き金に指をかけたが、指をそれ以上引くことはしなかった。
老人はゆっくりと頭を上げて僕を見た。
「わかりませんね」
僕は大きく息を吐いた。
「箝口令くらい誰も咎めたりしませんよ。あなたがそこまで意地になって秘密を守ろうとする理由が僕にはわかりません。本当は撃たないとでも思っているんですか?」
「秘密を守るという約束を交わしたのだ。約束を破ることは『正義』に反する『悪』の行為だ」
老人は力強くそう言った。
「健康な身体が失われるのが怖いのではない。君が撃たないと高をくくっているわけでもない。ただワシは……最後まで正義を貫きたいだけだ」
なんだこの人? 正義を貫く? そんな理由しかないのか?
「それだけですか? 出まかせ言って誤魔化そうとしていませんか?」
「正義という言葉をこんなずる賢い使い方はしない」
僕の目を見てはっきりとそう答えた。
「後ろのお二人もそうなのですか?」
そう聞くと、二人は頷いた。これは普通じゃない。
「病院で何かされたんですか?」
「正義の素晴らしさを教えてもらっただけ……」
ずっと黙っていた女の子がそう言った。
「誰に?」
これはまるで新手の宗教か何かだな。
僕の問いかけに答える者はいなかった。少し話の仕方で別の方法を思いついたので僕は老人から離れ、女の子の方へ向かった。
「何を……?」
態度は毅然としたものであったが、女の子が明らかに怯えているのがわかった。
「この子を人質にします。なので、もう一度だけする質問に答えなければこの子を殺します」
二人の老人の顔が一気に青ざめたのがわかった。ナギ先生は離れた位置でニヤニヤしている。
「あなた達を救った人物及びその方法について教えてください」
子供が関わると老人は一気に動揺した。二人にとっては究極の選択だろう。子供の命を救うという正義を為すか、秘密を守り続けるという正義を為すか……さあ、どうする?
「わ……ワシらを救ってくださった方は……」
「ダメ! おじいちゃん! 言っちゃダメ!!」
「余計なことを言ってはいけない」
そう言って僕は女の子の太ももを撃った。
女の子は突然の激痛にのた打ち回り、お婆さんは僕のことを人でなしと罵った。
「痛い! 痛い!」
「静かに。さあ、この子を見捨ててでもあなた達は正義を貫きますか?」
老人は苦虫を噛んだような表情をした。お婆さんの方はひたすら女の子の名前を叫んでいる。気の毒だが、話してくれさえすれば楽にしてやるさ。
「わかったよ……話す」
老人のその言葉を聞いた女の子は激痛に耐えながら声を張り上げて「絶対にダメ!」と叫んだ。一体何がこの人達をそうさせているのか。この時僕は、秘密を守るために舌を噛んだ宮島さんのことを思い出した。
「やめてえ! わたしは大丈夫だからあ!!」
少女の必死の呼びかけには応じず、決意を固めた老人は僕を貫くような目つきで睨みつけた。
「これがワシの貫く正義だ。よく聞け悪魔め! そんなに知りたいのなら教えてやる! ワシらをお救いくださったお方は」
この瞬間、老人は言葉を言い終えることはなかった。
彼の意思ではない。一体どこの誰が自分の意思で自らの首をはねることができようか。
老人が言葉を言い終える前に老人の首は弧を描いて宙を舞い、僕と少女の前にごろんと転がってきた。その表情は覚悟を決めた漢の顔だったが、目から光は失われていた。
はっきり言おう。何がなんだかわからない。食い破られたような断面から判断するに第三者に斬られたわけではない。
これはきっとレプリカの仕業であろうことだけが……僕には理解できた。
「い……いやああああああ!!!」
小学生には刺激が強すぎるなんてものじゃないだろう。ゲームでこんなシーンを見たことはあるが、僕だってこんなもの生で見せられたら平気ではいられない。
「ナギ先生……一体……これは?」
「試験管への質問は問題文の不備と印刷が悪くて読めない文字に関することだけだ。今の状況は問題の核心だよ?」
僕は首のない老人の死体を観察する。首の断面を見ると、突然首が飛んだ答えがそこにはあった。
「これは…………何だ?」
血で赤黒く染まったのか? 遠目からではわからないが近付いて見てみると無数に蠢く赤黒い塊が首の断面を埋め尽くしている。
見たこともない形の生物だが、既存の生物をそれに当てはめて表現するならば「蟲」という言葉が一番似合うだろう。
「ナギ先生、ナイフ貸してもらえますか?」
僕は先生からナイフを受け取り、それで最初に射殺した男の首元を切った。
すると予想通り、首の切れ目から赤黒く蠢く蟲が姿を現した。
もう一つ僕は思い立って女の子の太ももに撃ち込んだ弾丸の箇所を覗かせてもらった。首ほどでもなかったが、目を凝らすと蟲は確かにいるのがわかった。
「二人とも、自分の身体がどうなっているかはご存知ですか?」
二人とも質問の意味が分からないという風に僕を見上げた。
急激に病気から回復したのはこの蟲が原因なのだろうか? だとしたらこれは新種の病気というより「寄生虫を操るレプリカ」がいるのかもしれない。
四人を救った方法が寄生虫を寄生させることにあるならば間違いなくレプリカはそうした張本人だ。寄生虫にどれほどの能力があるのかは知らないが、レプリカは自分の正体がバラされそうになったら宿主を殺すように蟲をコントロールしているのだろうか? それを知ることがこのテストの合格にもつながりそうだ。
「二人に質問します。あなた達はどのように救われたんですか?」
これで答えようとしてくれればまた蟲に殺されるかもしれない。そうなることで寄生虫のレプリカの特性が少し把握できる。
二人は答えなかった。ここでどちらかを殺してしまうのは賢明ではない。恐怖とは死ぬことだけじゃない。僕は自分の知っている限りの恐怖や緊張の瞬間を考え、今手元にある道具を使って何ができるかを思案した。
「ではこうしましょう」
そう言って僕は椅子になる物を三つ並べて二人の拘束を解いてやった。その様子をナギ先生は訝しげに見守っている。
僕は二人に座るよう促し、妙な真似をすればナギ先生に殺されるぞと釘を打って今さっき考え付いた方法を二人に告げた。
「ロシアンルーレットをしましょう。危険と判断したら先ほどの質問に答えるという条件でゲームを降りてもらって構いません」
狂戦士と魔王 3
ロシアンルーレット。それは行き過ぎた悪ふざけのような遊戯であり、実際に行われた例は少ないらしい。
「二人ともこのゲーム自体は知っていることでしょうが、一応ここでのルールを説明させてください。ただし、危険を感じて天井に向けて撃つという行為はあなた達には認めません」
ひたすら痛めつけて寄生虫を寄生させた人間のことを吐かせてみる方法もないわけではなかった。だが、その方法は目に悪いしうっかり無駄死にさせてしまうかもしれない。
これは満点のスリルを味あわせることと、ひたすら正義に拘るその姿勢がどこまで通るかという残酷な好奇心からの発想でもあった。
「弾数は一発。公平性を重視して僕も参加します。僕が死んだらあなた達は解放します。また、あなた達のうちどちらかが死んだ場合、生き残った方は解放です。もし危険を感じたら天井に向けて撃つのではなく病院での情報を話すこと。さらに公平性を重視してお二人には『パス』の権限を一回ずつ与えます。でも、僕はあなた達が恐怖に屈して情報を話す道を選ぶことを期待しています。僕とて危険なわけですからね。順番は僕からお婆さん、そして女の子の順で行います」
「はいはーい!先生から意見がありまーす!」
元気よく子供のようにナギ先生は手を振ってそう言った。削いだ耳に当てられているハンカチは痛々しい赤色に染まっていた。
「五発目まで弾が残っていたら次の順番の人は天井に向けて撃つのは禁止。ただしパスが使える状態の二人に銃が渡っていたらパスの使用は可ってことにしておいて」
「わかりました。そうします」
先生は必ず死者を出すつもりか。まあ、その方が第三者からすれば面白いと言えば面白い。
僕もこのルールは取り入れる予定だった。
「あの……」
お婆さんが恐る恐る右手を挙げた。僕はなんでしょう? と丁重に対応した。
「疑問に思ったのですが……なぜあなたのような方が公平性を重視してくださるのですか? 正直、今はあなたの方が私達よりも立場は上ですし……」
「別に深い理由はありません。僕だって正義の心は持っています。現に今、このように手の震えが止まらないんです。さっきあなた達の仲間を一人軽い気持ちで殺してしまったことが今になって心に来るんです……これはせめてもの罪滅ぼしです。僕だってあちらの方に脅されて無理やりこんなことをやらされているだけなんですから」
もしこのお婆さんがバカとお人よしを履き違えてくれた人なら僕に憐れみを覚えてくれるだろう。
現に、この人の僕を見る目が怯えの一色だけではなく可哀想なものを見る目にもなっていた。
「うそつき……」
ふと、女の子が呟いた。
「わたしわかるもん! おまえは天使様が言っていた悪魔だ! そんなわかりやすいうそになんかひっかからない!!」
「信じてくれないのなら別にそれはそれで構わない。あんなことしておいて信じろだなんて流石に虫が良すぎるだろうからね」
女の子の目に宿る敵意は一層大きくなってしまったか。まあいいさ。このゲームは二人からすれば対等どころか有利な条件のルールだ。僕はこれほどの好条件を提示した。乗らない手は二人にはないだろう。僕が勝つけどね。
それにしても天使とはまた奇妙なワードが出てきたな。おそらく寄生虫のレプリカの呼称だろう。
「わ……私らだけに『パス』を認めてくれるのはどうして……」
お婆さんは早くも恐怖や憐れみなどの気持ちがごちゃ混ぜになって冷静さを失っている。
「おばあちゃん、思い出して」
女の子の方はか弱い見かけによらずなかなかの芯の強さを持ち合わせているみたいだ。お婆さんの方とは違い、僕に対してまったく憐れみを感じてなければ一方的な恐怖も感じていない。
彼女はきっと今までにない闘争心に胸を燃やしていることだろう。
「正しいことのために争うことは『悪』じゃない。あの人はそう言っていた。こういうのは『聖戦』なの。このゲームに勝ってここから逃げてみんなになにがあったか伝えることで『正義』をつらぬいたことになる」
「……余計な弾は抜いたよ。さあ、始めましょうか」
二人が緊張した様子で僕に視線を向ける。運が良ければこの一発で自分達は解放される……とでも思っているのかな。
引き金を引く為にハンマーを親指で倒し、右手に持った銃をこめかみに当て、目を閉じる。深呼吸をして引き金に指をかける。
「死んじゃえ」
女の子がそう言った。僕は引き金を引く前に閉じた目を開けて彼女に微笑みかけた。
「ご愁傷様。まだ生きてたよ…………次はお婆さんの番ですね」
一発目はハズレ。
二人とも一発目にはあまり期待はかけていなかったのだろう。驚きは表情からは読めなかったが、僕がハンマーを倒しておいた銃を渡されたお婆さんの手は途端に震えだし、「ひっ……はっ……」と荒い息を漏らし始めた。
「もちろん、今パスを使っていただいても咎めることはしません。ここでパスをして女の子に銃を渡すことは……別に悪いことだとは思いません。あなたの選択が彼女を殺した結果に終わってしまっても、僕は責めたりしませんよ。ご自分の信ずる正義を尊重してしてください」
「大丈夫……まだ弾が出る確率は低い。あいつに屈しちゃダメだよ……パスを使うならもう一周目にしよう。もう一周目からは二人で連続でパスを使えばきっと勝てる」
一周銃を回して再び僕が自分に撃つ場合、弾が出る確率は三分の一。そこでまだ僕が生きていた場合、二人が立て続けにパスすることで僕は二分の一の確率に挑まなくてはならないということになる。
「その作戦は僕にとってはなかなか堪えるね」
「お前が決めたルールなんだ! パスをどう使おうがひきょうなことにはならない!」
「ああ……卑怯と言ってなじったりはしないさ。僕には天井に向けて撃つという選択があるからね」
逆に、僕が勝ったとしても二人は僕をなじることはできない。いや、実際はきっと違うだろうけどそれでも僕は満足のいく結果を迎えることができるだろう。
「あ……あの……やっぱりこんなことは不毛です。やめに……しませ」
「いえ、その提案は流石に飲めません。ここで引き下がれば僕はあっちの人にきっと殺される」
さあ迷え。僕に情けをかけて情報を吐くか、それとも女の子の意思を尊重するか。あなたの正義はどっちだ?
「あ……ああ……わ……私らを…………す」
「ダメ!! 反逆は極刑だよ! 落ち着いて! あれは悪魔なの! 人間と思っちゃダメ!」
悪魔とは心外だがこの子からすればそれ以外の何者でもないのだろう。それにしても今確かに「極刑」と言ったな。さっきの老人がああなった理由は例の人物からの極刑というわけだったのか?
「さっきの人がああなった理由がわかるのか?」
「お前なんかに話すわけがない……! そもそも情報を話すのはわたしたちがあきらめたときだけでいいんだろう!」
嫌われてるねえ、僕。
「まあ、ルールだけは守ってもらうよ。二人にはパスを認めてあげてるんだから」
お婆さんは虚ろな目で涙を流し始めていた。極限の緊張状態のせいで自棄にならないといいが。
「うぅ……ごめんなさい」
そう言ってお婆さんは引き金を遂に引いた。倒れたハンマーが破裂音を鳴らすことはなかった。
おそらく、この人はパスを認められていなければ次に銃が回った時は折れてしまうことだろう。
「お婆さん、辛いでしょうが、銃を彼女に渡してください」
放心しかけたお婆さんにそう促した。お婆さんは涙を流したまま謝罪の言葉をうわ言のように呟きながら銃をゆっくりと渡した。
「撃ち方はわかるかい?」
「うるさい。バカにするな」
女の子のこの強さは正義の信仰に因るものなのだろうか? ただの怖いもの知らずの小学生のメンタルとは思えなかった。
女の子は僕がやったようにハンマーを倒し、まっすぐ僕を見つめたままこめかみに銃を当てた。
「パスしてもいいんだよ?」
「空きが減るのがこわいの?」
「君こそ本当は怯えているんじゃないのかな」
「怯える? わたしをなめないで。正義の名の下に、これで勝ちが決まることにウキウキしてるところよ!」
「勘違いしてないか? 君がここで助かってパスを連発したとしても、僕はまだ二発残った状態で銃を手にするんだ。二分の一は決して百パーセントではないんだよ?」
僕と女の子は静かに睨み合った。
「君の言う正義は……君を救った人から授けられたものなのか?」
「それだけじゃない。呼吸をしていただけのわたしに生きる意味も同時に教えてくれた。あの人のためならここで死ねるよ!」
生きる意味……か。
「なら、死んでみろ。今パスを使って次に二分の一の確率に挑んで僕を確実に殺すか、無難に四分の一の確率を乗り越えて僕を二分の一で殺すか……選んでみなよ」
「だったらお前を確実に」
「だが、失敗すれば君は犬死するかもしれない。僕はさっき生き残った方を解放すると言ったがこれは僕の独断だ。君が死んだことで助かったお婆さんはあっちの不気味な人に殺されるかもしれない。その点を踏まえて全てをお婆さんに託して名誉の戦死を遂げてみるかい?」
女の子が動揺して身体を震わせたのがわかった。女の子はお婆さんの方を見たが、お婆さんの心はもうボロボロだ。小学生でもお婆さんの状態は察せるだろう。
「ほら……選びなよ」
「……なめるなって言ったはずだよ」
女の子は足を痛めているのにもかかわらず勢いよく立ち上がり銃口をぐっとこめかみに押し付けた。
「このゲームが運に左右される以上、わたしには正義の加護がついているんだ!! 神様は正義を貫く人間を見捨てたりはしない!」
まあ、確かに神様がいるのならここで僕より彼女の方に味方することだろう。仮に神様がそうしたとしても、僕は神様もろとも彼女を打ち負かしてやるがね。
「君は単細胞の馬鹿なのか? ここで君がパスを使わないということは間接的にお婆さんを君が殺してしまうことにもつながるんだよ?」
「な……なにを……?」
「君が計画通りにパスを連発して僕に二分の一の戦いをさせて僕が勝ったとしよう。そうなれば残りの一発はお婆さんのもとに渡る。ここでのルール上、最後の弾は必ず撃たなければならない。君のやろうとしていることでお婆さんは死ぬか、情報を吐かざるを得なくなるか、そんな状況が生まれるわけだ。君がやっとのことで手に入れたであろう健康体を失いたくなければ確率の低いうちに今撃ってしまうことが無難だろう。君の正義の心がそれを許すのかどうか……僕は興味あるよ」
彼女のこめかみに当てていた手が空気が抜けたようにだらりと下がった。
自分の行いによって自分の信じる正義が損なわれようとしていることを意識したのか、表情が引きつり、手が震えだした。
「だ……だけど……わたしはあの人のためなら……死ね……る? ……いや、わたしが死んだら……あっちの人に……おばあちゃ……え……あぁ……あ」
壊れた機械のように誰に向かって発するわけでもなく混乱してぼそぼそと呟いている。
「いや……でも……わたし、病気……治ったし……え? でもそれは利己的な悪……あ……あぁ」
「利己的でいいのさ。人が人を助ける理由も掘り下げていけば総じて利己的なものさ。みんなそれを意識していないだけで、心の底には必ず利己的な理由を持っている。この人を助けることで親切に思われたいとか、放っておくのはなんとなく後味が悪いから助けておこうとか……まあ色々あるよね」
焦点の定めらない目で女の子は僕を助けを乞うように見た。我ながら性格の悪い行動だと思ったが、行き過ぎた正義の心は見ていて気持ちが悪い。そういうのは無理やりにでも壊してみたくなる。
「さあ、どちらに転んだ方が正義を遵守できるかな」
ひとしきり荒い息とともにうわ言のように言葉を吐いてからしばらくして、彼女はようやく引き金を引き、ここで死ぬことはなかった。
僕の話に耳を傾けなければ正義をないがしろにした気分にはならなかったことだろう。正義を教えた人物への反逆が極刑なら、法律違反程度のこれにはどんな罰が下されるのだろうか。
「ぐっ……! ああぐぅ!!……っあああああ!!」
脱力して腰かけようとした彼女が突然苦しみだした。何故そうなったか? これも寄生虫の力であることはなんとなく理解できた。問題となるのはやはり何故そうなったかだ。さっきの老人が問答無用で首を刎ねられたところと比べると、彼女は全身に血管を浮かべて苦しんでいるだけだった。
これがいわゆる法律違反のペナルティーなのだろう。
お婆さんは彼女が悶え苦しむ様をただじっと見ているだけだった。
やがて彼女は大人しくなり、痛みや苦しみのおかげで頭が冷えたのか、目から光を取り戻していた。
「あんなことになるのはあれが最初で最後だ」
「そう……」
「おばあちゃんは死なせない……わたしも死なない。おまえが死んであの不気味な人がわたしを殺しにかかっても勝ってみせる! さあ撃ってみろ!! 確率に殺されろ!!」
正義の味方の台詞じゃないな。
あのペナルティーは客観的な悪事ではなく主観的な悪事によって発動されるものなのだろう。僕が寄生虫のレプリカなら今の発言はこの子の今後の成長にも関わりそうなので許さない。
「立ち直りが速いのは結構。それでも勝った気になるのは早い。さっきも言った通り、二分の一は百パーセントなんかじゃない」
僕は最初の一発を撃った時に演技で行った深呼吸も目を閉じることもしないで銃を受け取ったらすぐに自分の頭に押し当てて撃った。
「セーフ」
そう言って銃口の向きを変えずに親指でハンマーを倒し、もう一発を撃った。
「っ……!?」
「……だから……言ったろう?」
銃から放たれた音は彼女が期待していたような破裂音ではなくカチンといった乾いた音だった。そして、銃はお婆さんの手に渡ることとなった。
「残念だったね、僕の勝ち。お婆さんのことは気負わなくていいよ。これってそういうゲームだから」
「あ……いや……まって」
「待たない。ゲームが終了する条件はお婆さんが死ぬか話すかのどちらかしかない。君は正義どころか公正なルールまで破るのか? 僕は正々堂々と君達と運試しをしたというのに、僕を悪者にしてゲームの勝敗を覆そうとでも言うのかい?」
実際すごい悪者だけど。
女の子は何も言わなかった。いや、言えないと言った方が正しい。この結果は自分の判断ミスによるものだと無意識に理解してしまっているはずだ。もし彼女が正義の為なら何でもできるという覚悟があったなら僕に向けて銃を撃っていたことだろう。それにそもそも、ナギ先生は僕が死んだくらいではきっと動いてはくれなかったことだし、彼女らの僕が死んだ後の心配は杞憂でしかなかったのだ。
「さあ、お婆さん。最初に言った通り、あなたが情報を話してくれることを僕は期待しています。僕の予想では情報を話そうとした瞬間にあのおじいさんと同じようなことになると見ています。自分で死ぬか、自分を救ってくれた人の力によって死ぬか……選ばせてあげます」
「あなたは本当はこんなことを強いられていたわけではなかった……嘘を吐いていたのですね」
力のない表情で俯いたままそう言った。
「強いられていました。強いられたからベストを尽くして情報を引き出そうとしました。あなた達の口から情報を得ることはできないということがわかったので、確認の為にあなたには情報を喋ってみてもらいたいのですが」
お婆さんはどのみち助かることはできないと悟ったのか、僕の要望に素直に応じて情報を話してくれた。
やはり予想通り、情報の核心を話す前にお婆さんの首は老人と同じように宙を舞った。断面には同じ気持ちの悪い蟲が何匹も蠢いている。
「先生、こいつらはおそらく寄生虫を操るレプリカによって行動が制限されている人間です。そのレプリカにとって不都合なことをすれば死ぬようになっている…………これが、今回僕が得た情報です」
「写真の情報が掴めなくて残念だったね」
「まあ、いいですよ。これはこれでなかなか有益な情報でした。これは予想ですが、もし寄生虫の奴が薬を広めているのだとすればどのレプリカも口止めされていることでしょう。心当たりも一つだけありますし、その通りだったらこれからは有無を言わせずにレプリカを始末できるようになります」
ナギ先生は僕のもとに歩み寄り、ハンカチを傷口から離して僕にテストの結果を言い渡すと言った。
「文句なしで合格だよ。君の冷酷さと性格の悪さは嫌悪を通り越して敬意を覚えるほどだ。それも含めて木野君は本当にセコイ男だね。まったくもって男らしくない……でもそんなところがス・テ・キ!」
おどけてウインクをしてみせる先生だったが、グロテスクな傷口が見えてしまうせいもあって目を背けた。
「ところで……あのロリはどうするんだい?」
「先生がこれで始末してください。今日は人を殺しすぎました」
僕は先生に銃と一発の弾丸を与えた。
「ふーむ……じゃあ、あの子にネタ明かしていいよね?」
「やっぱり気付いてましたか」
「君のような奴が自分を危険に晒すことするわけがないからね」
ケラケラと笑ってナギ先生は女の子のもとに歩み寄り、敗北感に打ちのめされている彼女の目線の高さに合わせて空っぽの弾倉を見せた。
「これ、漫画とか映画で見たことあるよね? この通り空っぽ。あのお兄ちゃんにまんまと騙されちゃったね」
それを聞いた女の子の顔は瞬く間に怒りに満ちたものへと変貌し、同時にこれから自分がどうなるか全てを悟った彼女はただ叫んだ。ろくに動かない足では僕を殴りに行くこともできないということもちゃんと理解できていたのだろう。
先生は女の子が叫び終わるのをじっと待ってからゆっくりと銃口を彼女に向け、無慈悲にも放たれた弾丸は彼女の脳天を貫いた。
陰鬱な月に照らされて
一本だけで十分になった松葉杖を駆使して屋上の十三階に上がり、鉄柵に寄りかかって満天の星空のような夜景とずいぶんと大きく見える満月を眺めつつ、携帯電話越しの頼りなさげだがきっとどのレプリカよりも危険な男の声に応える。
「心当たりがありすぎる特徴だな、そいつら。ひたすら『正義』を誇示する奴なら知っている。それも親玉みたいな奴をな」
『それはそれは……話が早くて助かるね。どんな人なの?』
「中年の牧師で入院患者ではないが正義の布教みたいなことはしている。まだ確証があるわけじゃないが、そいつをレプリカと見ていいだろう」
『絶対に世間にバレない自信があれば今の状況で殺してみるのもいい。レプリカだったら勝手に消えてくれるしね』
「違ったら死体が残って危険なわけね。だけど、証拠を掴むなんて悠長なことしてる余裕はないんじゃないか? 放っておけばキミがずる賢いやり方でぶっ殺した奴らのような人が増えていくばかりだ。レプリカの手下は何をしでかすかわかったものじゃない」
おそらく、重病患者以外に寄生されている人間はたくさんいる。寄生でもされない限りあんな夢物語に耳を傾けるはずがないのだから。
『そうだね。僕もそんな危ない奴らが身近にいる日常は想像したくない。だけどもうそんな奴らはたくさんいると考えても不思議じゃない。ここは少し我慢して証拠が上がるまで待ってもそんなに問題じゃないさ』
「いわゆる愚問というやつを提示せてもらうけど、寄生された人間のことを可哀想とか思ったりしてる?」
『言うほど愚問でもないさ。普通に同情するし気の毒だとは思う。だけど、始末するとなれば少しも抵抗はない』
そう言う木野くんの声は淡白なもので冷たさを感じさせた。
「前から気になっていたんだけどさ」
木野くんの第一印象は冴えない根暗男子。だが、一緒に行動していくうちに本性というか普通の人間にはない残虐性が露わになった。思えば、宮島を殺した時も彼はひどく冷静に絶好のタイミングで彼女を躊躇いなく撃った。
「キミ……人殺したことあるだろ」
電話口からはしばらく返事がなかった。無言の肯定と受け取っていいのかどうかは判りかねる。
夏休みが近くなった時期にしては冷たい風が吹き、あたしの髪を乱した。
彼はあたしの出自以上に秘密を孕んだ過去を持っているのだろうか。
『そんな経験は最近だけだよ。初めて殺した人間と呼べるものは入間君だ。僕は誰も殺したことはない』
「なら、キミのそんな戦い方を裏付ける過去とは一体どういうものなんだ?」
『それを話すには、夏川さんの過去を教えることを条件にしたい』
彼はムキになるわけでもなく、いつも通りの口調で対等な交換条件を提示した。
こういった点からしても、彼は自分の情報を守ることは徹底している。もしあたしが木野くんで木野くんがあたしなら、最初にレプリカを始末した瞬間を見られた時に彼はあたしを殺していたことだろう。
「キミのことは頼りにしているつもりだが、そういう踏み込んだ話をするほど仲良しでもないな」
『奇遇だね。僕もまったく同じことを考えてたよ』
彼ならあたしを捨て駒として扱うことが十分に考えられる。戦い方は弱い人間が強い奴に勝つという面では尊敬に値するが、信頼できる戦い方ではないからだ。
あたしもそんなに信頼できる人間ではないけどね。
「程良い距離で仲良くならずにレプリカを消していこう。今日は情報をありがとう」
『一人の異性として仲良くなりたいっていうのはダメかな?』
「ふざけんなバカ」
電話越しで彼は笑った。つられてあたしも笑った。
仲良しじゃないにしても、この世界のどこにこんな物騒な会話をする高校生の男女が他にいるだろうか。異常な人間が社会に溶け込むことは難しい話ではない。だが、互いの異常性を理解しながら話をするという機会は滅多に訪れはしないだろう。
あたしも側から見ればもちろん危険なんだろうが、木野くんとナギ先生ではどちらが危険度が高いのだろう。あたしよりも何倍も強いうえに頭も回る先生のほうがタチが悪そうだ。
聞くだけのことは聞いたあたしは電話を切って病室に戻ろうかと思った。だけど、美しくも汚れたような夜景と黒い雲がかかった満月を改めて見たことで、電話を切る前の皮肉交じりの一言を思いついた。木野くんが自分のことも含まれていることに気がつくだろうか? 結果はどちらでもいいけどな。
「この街には危険な奴らが多すぎる。そう思わないか?」
太陽の見えない夏 帰省
俺は人生で二度死にかけたことがある。
一度目は中学生の頃、学校で火災に見舞われた時に左腕が瓦礫に挟まって逃げ遅れたせいで焼死しかけたことがある。そんな絶望的な状況で俺が無事こうして今を生きている理由は瓦礫に挟まった左腕を切り捨てて逃げたからだ。その時に負った火傷は全身の至る箇所に痛々しく残っているが、中でも顔の約左半分を覆う焼け爛れた皮膚が炎の恐ろしさを物語っていることだろう。
二度目は一年前、通り魔に後ろから襲われて意識を失った。具体的にその時のことを説明すると、俺は突然何かを首の辺りに刺され、その瞬間から呼吸ができなくなってその場に倒れた。
しかし、意識を失う瞬間は死を意識していたもののいざ目を覚ますと身体は何ともないどころかその日を境に生命力が満ち溢れているかのような感覚を今でも感じている。身体能力も気のせいではなく確実に跳ね上がっているのもわかった。何より、俺もあの時の通り魔にされたように相手の意識を失わせることができるようになったのだ。
方法は至って簡単。指先から滴る液体を相手に指を突き刺して注入するだけ。毒と言った方が適切だ。もっと言うと神経毒だろう。量を増やせば死に至らしめることだって可能だ。俺はいつでも人を殺せる人間になった。しかしそんな野蛮な力を使う機会は一度もなかった。そう、今この瞬間までは一度も。
「あと一滴その傷口に垂らすだけで致死量だろう。逆に、今ならまだ助かる。言えよ、その『レプリカ』とやらの薬は誰に貰った?」
呼吸が徐々にできなくなっていく溺れるような苦しみに顔を歪める少年は頑として口を割ろうとしない。
薄暗いボロアパートの一室にいる俺の目の前でもがく少年は鳥だった。鳥の化け物、すなわち鳥のレプリカ。レプリカに攻撃された人間はそのレプリカの超人的な力と能力を少しだけ引き継ぐが大半の人間は理性を失うらしい。少年から得た情報から考えると俺は毒を扱うレプリカに一度殺されたというわけだ。
「それだけは……言えない。言ったら……死ぬ」
俺は少年の小指を折った。彼は掠れた声で悲鳴をあげたがそれでも口を割らない。一体何がおそらく中学生くらいであるこの少年をここまで動かすのか。言ったら死ぬと言った彼の声に嘘はなさそうだった。あれは本気で恐怖している人間の出す声だった。ここでこの少年を殺してしまうのは正直、惜しいと思う。
「死ぬとは、薬を君に与えた人間に殺されるのか? じゃあ、そいつもレプリカか? 能力は何だ? それも言えないのか? ん?」
「あ……あなたは……何の目的でこんなことを」
「知りたいか? それは金の為だ。単純で薄っぺらい理由だろう? 俺は欲に素直に生きてきた。今は金が欲しい。楽して金を手に入れたいというクズの考えを前向きに持っているしその為のちょっとした努力くらいは覚悟している。レプリカの力をちょっとわけてもらっただけでこんなにパワフルになれるんだ。こんなに素晴らしい力の元になる薬が存在するなら高く売れないわけないだろう? そう思わないか? ん?」
少年は苦しみに顔を歪めながらも唖然とした表情で俺を見上げた。
「薬を……全部……独り占めにする気ですか」
「問題はあるか?」
「無茶だ……殺される」
「その言い方、相手はレプリカと考えていいんだな」
「っ……そうでなくても、あなた一人では絶対に無理だ。もし狙いがバレたら……きっと他のレプリカがあなたを殺しに」
「俺は君というレプリカを倒した。誰かを倒す方法は正面から向かい合って殴り合うだけじゃない。勝てない相手には勝てる環境を作ってからやり合えばいい、いっそ俺が戦わずに他人を上手いこと使ってそいつにやっつけてもらうのも手だ」
「だからって……そんな簡単に」
この少年、俺のことを心配しているのか? こんな余裕のない状況でのそんな心配はとてもじゃないが俺には優しさとは呼べない。自分の立場を見失っているだけだ。それとも、この少年の知るレプリカはそれほどまでに恐ろしいということか。
「自分を過信しているわけじゃないさ。昔、自分が絶対的に不利な相手との戦いを経験しているだけ。今の俺は強いが、直接やり合うことは極力避ける。多分、俺の弟もそんな戦い方をすることだろうな」
俺は長年会っていない忘れもしない肉親の姿を思い浮かべた。背が低く、運動が苦手で頼りない印象の弟の姿を。弟だけでなく家族ともあの火災の日から会っていない。俺は表向きにはあの日に死にかけたのではなく死んでいるのだから。俺が木野裕一という人間だったことを知っているのは燃え盛る校舎から虫の息で逃げていた時に会った弟だけだ。
「せめて場所だけでいいから教えてくれ。難しいなら大雑把に町の名前だけでいい。それを教えてくれたら命は助けてやる」
少年は俺にすがるようなまなざしで本当かと質問した。俺はその問いに本当だと捻りもなく返す。そして、少年が口にした町の名前は俺のよく知る町であったというか俺の故郷だった。
これは何となく縁というか因果のようなものを感じるな。あの町には近付きたくはなかったのだが……仕方ない。
「ど……どこへ?」
この場所に俺がいたという証拠になる物がないことを確認し、片方しかない腕で着ている簡素なシャツを整えた。
「その町に行く。いや、その町に帰ると言った方が適切だなレプリカの治癒力なら折れた骨も毒もなんとかなるだろう。後は勝手にしろ。警察に通報してもいいよ。君がレプリカだとバレていいならな。優しいだろ」
さて、金のなる木を求めて旅立つとしよう。会いたくもない弟に出会わないことを願って。
I am justice 1
あたしの入院している病院に時折現れて正義の尊さを説く牧師の名は「高遠善一」というそうだ。あたしと木野くんはその男が寄生虫を駆使するレプリカだと睨んでいる。理由はやたらと正義を主張する連中の体内から無数の赤黒い蟲を彼が目撃したことからだ。
安直と言えば安直な判断だろうが、実際問題、理屈めいた証拠を必要としなくとも高遠がレプリカである疑いは十二分にある。
あたしは退院が迫る中、松葉杖を一本突きながら高遠の動向を見守り続けていた。その甲斐あってあたしは高遠にはある法則性があることに気が付いた。奴が現れるのは必ず食事時だった。もっと言うとある程度患者達が食事を進めた辺りに食堂に何食わぬ顔でひょっこり現れ、正義を信じ、悪のない世界を共に創造するのだとかわけのわからないことを口走る。そして、それを患者のみんなは食い入るように聞いている。
そんなことから考えられることは一つだ。高遠は入院食に細工をしている。その細工が蟲を食事に混ぜているというものだとしたらと思うと胃の中のものを全部吐き出してしまいたくなる。
「夏川君の言い分はわかった。確かに蟲が入ってそうな飯なんて誰だって食べたくはないだろうね。先生だってそうだよ」
病室のベッドの上で横になっているあたしの横で不満そうな表情を浮かべてナギ先生は言った。服装は相変わらずの白衣の下にジャージ。今日は髪をちょんまげのように結っている。
「でもね夏川君、そんな飯が食いたくないからといって先生にコンビニ弁当買ってこいなんて図々しいというかそもそも頼む相手がおかしいでしょうよ。先生は君のパシリなんてまっぴらゴメンだからね。パシリは木野君が適任だろう? 彼に弁当持って来させなよ」
「一回頼んだらあたしが頼んだ弁当がなかったとか言って手ぶらで戻ってきやがったんですよ。木野くんは信用できない」
「君んち金持ちだろ! 召使いがいるだろうが! 何でそいつらに頼まない!?」
「じいさんがそんなことで家政婦を使うな。大人しく病院の味のない飯でも食ってろってさ」
「だからって君ねえ……他に友達いないの?」
「うっさいよ。大体先生ならここの飯が食えない理由を説明しやすいだろ?」
ナギ先生は諦めたようにわかったよとだけ言って自分の分の弁当に手をつけた。あたしも目の前に置かれた弁当に手をつける。病院の飯よりは美味いと確信を持って言える味だ。
「もしその高遠とかいう奴がこの階にやってきたらどうするんだい?」
不満そうな表情からいつもの薄い笑みに表情を戻し、白身魚のフライを頬張りながらナギ先生は聞いた。
「今は戦わない。こんな脚でレプリカとやり合うのは自殺と同じだ」
「先生が言ったのはここの患者達のことさ。高遠がやってきたら、患者達を止めずに蟲の入った飯を食わせるのかい?」
「どうやって止めたらいいんです? 実際に食事を持ってくる業者に取り合ってはみたが、まるで相手にされなかった。ここの患者達にこれから出される飯は危険だから食うなっつって信じてもらえるとでも? 別に高遠さえ消せれば、蟲の支配もなんとかなるんじゃないんですかね」
「実害が及ぶかもしれないパチモノは始末する。それが君のスタンスじゃなかったっけかな?」
「寄生された人間は塵にならない。証拠が残る相手は殺せない。警察に嗅ぎつけられたくはないから」
単調な台詞を稚拙な文章にして並べて寄生された人間を殺さない理由を伝えた。
「まあ、確かにそれが賢明な判断なんだろうね。今の夏川君にとって高遠は『勝てない相手』だそんな相手には無暗に突っ込んではいけない」
「わかってる。アンタに思い知らされてるよ。何回も……」
苦い記憶が蘇った。最初にコイツに完膚なきまでに叩きのめされたのは中学の頃だったな。あの頃よりはかなり強くなれたとは思っているが、先日、見事にやられちゃってるからな。
あたしはここ最近の軽率な己の行動を恥じた。認めたくはないが。
「とにかく、高遠はいつかちゃんとあたし一人でやる。シンプルに嫌いっていうところもあるからな。」
「一人で結城君とやり合ってそんな身体になったんだろ? 本当に一人でやれるのかい?」
その点はずっと考えていた。あたしは人間の姿の時のレプリカよりは強い自信がある。パチモン相手は言うまでもない。だが、化け物になったレプリカと正面から殴り合えるほど強くはない。変態された場合、あたしにできることは逃げるか不意を突くかだけだ。もし変態したレプリカと向き合ったのが木野くんだったら彼はどうするのだろう。いくら彼でも計画がなければなす術は流石にないか。
「レプリカ程度をサシで負かせないようじゃアンタは倒せない」
ナギ先生……いや、百瀬凪は常に浮かべている薄い笑みを消し、濁った黒色の瞳を真っ直ぐこちらに向けた。
「君の今までの戦い方はレプリカ程度さえサシで負かしたことにはなっていないと思うけれど? 大抵変態した瞬間銃で一発だったろう? それに結城君には銃の存在を見破られていたからなす術はなかった」
「サシで戦うとは一対一という意味を指す。正々堂々とは違う。あたしにとって変態後のレプリカは勝てない相手だ。そんな相手を前にした時どうすることが最善か……アンタはよくわかっているはずだ」
「……それで? 結局君はどうするんだい?」
「変態される前に何が何でもケリをつける」
「計画性のない台詞だね」
「だが、それが真理だろ? そうやってレプリカを消すしか方法はない」
「それでワタシを打ち負かせるとでも? Defeatできるとでも?」
「あたしは殴り合いの強さを身に付けることより戦いの勘ってやつを身に付けたいと思ってレプリカ共を狩っている。危険だから殺すなんて理由は建前でしかない」
食事を終えた同じ病室で寝ているプリン頭のヤンキー女が戻ってきたのが見えた。彼女はこちらが険悪な雰囲気で向き合っているのに気がつくと、ぎこちない笑みを浮かべてそそくさと自分のベッドのカーテンを閉めた。
話を聞かれることはマズイと察したのか、百瀬凪は残っている弁当を一気にかき込んで話す。
「まあ、夏川君の言うことにこれといって訂正すべき点もないね。先生に近づく方法は確かに一つではない。これからの君の成長を楽しく見守らせてもらうとするよ」
百瀬凪は一人称をワタシから先生に戻した。これは百瀬凪にとって表の向きの顔に戻ったという切り替えだ。あたしもひとまずは教え子としての自分に切り替えた。
「ええ、必ず先生を負かしてみせます。あたしなりのやり方でね」
この時、あたしは以前にも似たような台詞を言ったことがあったと思い出した。
そして、ふと今のレプリカ狩りも本質的には以前やっていたヒーローごっことなんら変わりのないものなのかもしれないとも感じた。
誰にも話さなかったあたしの過去の諸行の数々。あたしがまだ気弱な性格だった小学生の時に始まった百瀬凪とのヒーローごっこという名目の裏の習慣。このことを誰かに話すなんてことはあたしのプライドが許さない。少なくとも百瀬凪に追いつけていない今は。
百瀬凪が宿題だという様々な教科のプリントを置いて立ち去った。去り際にここに来る時にすぐ下の階で高遠を見かけたと言った。おそらく、明日にはこの階に奴は現れるのだろう。
それにしても、結局今も昔もあたしは百瀬凪の手のひらの上で踊らされているだけなのかもしれないと改めてそう思った。あたしが必死こいてレプリカを狩っているのもアイツにしてみれば暇潰しの一環でしかないのだから。
I am justice 2
煙草の煙を肺にひとしきり吸い込み煙の逃げ場が極力小さくなるよう口の形を整えてゆっくりと吐き出す。
「スッとする」
蒸し暑い昼下がりの曇り空を見上げてそう呟いた。
ここはあたしが廃ビルから転げ落ちて入院している病院の屋上。今ここにいるのはあたしと記憶を失った壮年の男「山田太郎」だ。あたしは鉄柵に寄りかかって煙草を吸っていて、対する山田さんはベンチに座ってそんなあたしをじっと見つめていた。あたしの横にはいまだに松葉杖が一本ある。
おそらく高遠は今日、あたしの入院している階に現れると踏んでいた矢先に突然一緒に屋上まで来て欲しいと彼に言われた。話の内容はどういうわけか高遠のことだった。
「オレにも一本くれないか」
あたしは箱に入っていた煙草を一本取りやすいように少しだけ取り出して彼に箱を向けた。彼はあたしからライターを借りると慣れた手つきで着火し、おおきく煙を吸い込んだ。
「煙草のこと、注意しないんですね」
「これの味を知ったら誰だってやめられなくなる。自分ができもしないことを誰かに押し付ける気はない」
ベンチに寄りかかって欠伸をするように彼は言った。そして、本題に入ろうとでも言うように背筋を伸ばし、口元から煙草を離した。
「天の使いの噂を覚えているか?」
「ええ、もちろん」
「オレは高遠がその人物だと思っている。君が天の使いの情報を集めているのを見てオレの方も勝手にやらせてもらった」
「……」
余計なことに首を突っ込むのはやめた方がいいですよ……なんて台詞は野暮だな。いわゆるブーメランをくらうだけだ。レプリカを狩り続けているのだから高遠もターゲットの一人という立派な理由を持っているつもりだが説明はできない。
あたしは相槌も打たずにじっと次の言葉を待った。
それからの彼の言葉はほぼあたしが把握していた高遠の情報そのものだった。アイツの話を聞く患者達はどこかおかしい。何かされたのかもしれない。それが食事時であることから食べ物に何かをしているかもしれないと。
「それで、あたしに言いたいことは何なんですか? あたしも山田さんの思う結論には辿り着いていますが」
「なら話は早い。君はここで出される飲食物には一切手をつけないでいてくれ」
「そりゃ当たり前です。とっくにやってますよ」
「なおさら話は早くなった。オレ達の階の患者全員に食事に手を付けないよう一緒に回っていほしい」
冗談じゃない。単純に面倒な上に患者達が信用してくれるとも思えないぞ。特に身動きの取れない患者に関しては突然断食しろと言いに行くようなものだ。
「上手くいくわけないでしょう」
「だからといって見過ごすことはできない」
「あたしはやりたくない」
山田さんは何も言わなかった。自分が良ければそれでいいのか? とか他人を思いやる気持ちは持ち合わせていないのかなどといった言葉が返ってくるのかと思っていたが、山田さんは一度煙を吸い込んでから「そうか」とぽつりとこぼしただけだった。その時の山田さんの表情からは残念だとか悲しいといった負の感情は読み取れなかった。
今一つ気まずい空気のまま屋上を後にしたあたしはベッドで横になり、ミチルが持ってきてくれたアクション映画をワンセグで再生して時間を潰していた。有名なハリウッドスターが演じる主人公の男がドバイにある世界一高いというビルの窓に便利な手袋で張り付いている場面が印象的だ。あの手袋があったら何に使おうかと他愛のないことを考えながら意識を画面に集中させていると、廊下の方から耳障りな怒号が響いた。老人の声だった。
向かいのベッドの中学生がその声に気になったのか、慣れた様子でベッドから車椅子に移って部屋を出て行った。
なんとなく心当たりがあったのであたしも様子を見に行くと案の定、山田さんが車椅子に座った老人にどやされていた。
「なにやってんだあの人は」
頭を押さえ、思わずそう口にしてしまった。
「知り合いなんですか?」
先に部屋を出ていた中学生に意外そうな様子で聞かれた。
「まあな、ホントにちょっと会って話をした程度の関係だよ」
そう、ただほんの少し話した程度の関係でしかない。その程度のつながりで山田さんと面倒ごとに付き合うかどうかにしては全然付き合う義理はないわけだ。
しかしだ、だからと言ってあの人を放っておいたらまたどこかから怒号が響いてくるかもしれない。自分が趣味に浸っている間に外部から影響を受けるのは嫌だ。それはとにかく避けたい。
「すいませんおじいさん。まるで理解はできないかもしれませんが、この人の言うことを信じてやってください。この人の話に嘘はないはずです」
山田さんと老人の間に入り、下げたくもない頭を軽く下げてそう言った。いつの間にか増えていた数人の野次馬が驚いた顔をしていたのが見えた。老人も、山田さんも。
しかし、老人は気圧されまいとするように鋭い眼差しでさっきのほどでもでもないが、声を張り上げて老人虐待じゃーやら若者はそんなからかい方をするのかーだとか自分の立場を利用して言いたい放題だった。こういうジジイは嫌いだ。早く死ねばいい。
「でしたらお好きにどうぞ。無理強いをする気はありません」
「おい、真魚ちゃんそれは」
「黙ってろ」
話しても無駄な相手だってこの世には腐るほどいる。記憶と一緒にそんなことも忘れたのかと言ってやりたかったが流石に抑えた。
「おやおや、一体何の騒ぎですかこれは!?」
聞き覚えのある声が野次馬の中から聞こえ、その声の主はそのまま老人の側までやってきてよくそんなに次から次へと言葉が浮かぶなと感心するほどの速度で老人に質問を繰り返していた。そうだ、確かコイツは同じ病室のおしゃべりな婆さんだ。食堂で一度山田さんとも会話をしている。
その婆さんは一通り状況を把握すると、何を思ったか突然持っていた杖を山田さんに投げつけ、あたしの方にも向き直って怒り狂ったように叫んだ。
「この悪魔め!」
辺りが静まり返った。ナースステーションの方から数人の看護師が慌ててやってくる足音だけが廊下に響いていた。
駆け付けた看護師の一人は理由は後で聞くと言いながら老人の車椅子を押し、また一人は婆さんの手を取ってゆっくりと病室まで連れて行こうとした。しかし、婆さんはこちらを睨み付けたままその場から動こうとしない。老人の方も必死に抵抗していた。
「……あのイカレた牧師は元気か?」
あたしがそう聞くと予想通りに二人は激昂し、暴れだした二人を野次馬の何人かも一緒になって取り押さえた。
そんな様子を側にいた中学生は始終わけがからないといった様子で見守っており、山田さんは取り押さえられている老人二人は既に高遠の狂信者になってしまっていることに気が付いたようだ。
「すぐに高遠の耳に入るだろう。お互い、やっちゃいましたね」
去り際に山田さんに向けて呟いた。彼は声を張り上げて「この二人のようになりたくなければ食事には一切手を付けるな」と野次馬に向けて言った。牧師に狙われるのはおそらくあたしと山田さんだ。今日のうちに攻撃を仕掛けてきたとしたらかなりマズいだろう。腕ならまだしも脚の怪我では逃げることさえできない。
何にしても、取り返しのつかない面倒な状況になってしまったことだけは確かなことだった。現にこの日の晩に高遠は現れ、あたしと山田さんを呼び出したのだから。
I am justice 3
診療時間終了の十分前。国立大学病院のだだっ広いロビーは照明が少し落とされていて薄暗かった。辺りに人はもういない。受付のカウンターに二人の受付嬢がいるだけだ。
そんな時間のそんな場所に高遠はあたしと山田さんを呼び出した。念のため、赤色の弾丸を詰めた銃は持ってきておいた。
「来てくれたか」
高遠は紳士的な態度でまず座るように促した。あたしはこのままでいいと言った。要件を手短に話せと。
「君たちは私のことを色々と知っているみたいだね。どれくらい私のことを把握しているのか、教えてくれないか?」
事前に山田さんに言っておいたことがある。絶対にあたし達の情報は高遠に知られるなと。どんな些細なことであってもだ。だからこの質問にはお互い無視をきめた。そんなあたし達二人に高遠は余裕の笑みを浮かべている。
「質問をするのはオレ達の方だ。お前じゃない」
「呼び出された側の分際で言ってくれるじゃないか」
「それだよ。なぜオレ達を突然こんな場所まで呼び出した」
「深い理由はない。広々としていて話がしやすいと思っただけだ。そんなことよりも……だ」
高遠は徐に脇からペットボトルのお茶を取り出し、こちらに向けた。
「どうだね?」
高遠に対し山田さんは冷ややかに「飲むと思うのか?」とだけ言った。高遠は諦めたように息を吐く。しかし、余裕は消えていなかった。
「私は最初にこの力を手にした時は助かる見込みのない患者達を救っていった。それが正しい行いだと信じたからだ。患者の皆が言っていた天の使いとはその時の私のことだろう」
「その時の……と言うと?」
山田さんが訝しげに聞く。
「今は無闇にやたらと患者を救っているのではないということだ。君たちはこの世に悪人がいてもいいと思うか? 私は思わない。だから悪人を助けたいとも思わない」
あたしは特に山田さんにバレないように隠し持っている銃のハンマーの部分をそっと倒した。理由は彼にバレると高遠にも悟られる気がなんとなくしただけだ。
「だから私は患者を矯正してから救うことにした」
ふざけた話であることには変わりない。だが、一から十まで全部間違っているのかと言われればそうでもないと思う。世界中の人間が高遠のもとに下れば悪人はいなくなる。それは確かだと思った。しかし、そんな状況が永続することはきっとない。そんな状況が世界の理想的なあり方だとも思えない。
「人々を統率する方法について最も効率的なやり方を考えたことはあるか? イカれた牧師さん」
高遠は露骨に嫌そうな顔をした。あたしに意見されるのは気に入らないみたいだ。
「早い話王様にみんながついていけばそれで解決。ならそれを目標として考えるならどうすればいいと思う?」
「一体何が言いたいんだね?」
「あたしの友達は恐怖政治が手っ取り早く効率的だと言っていた。中学生みたいだな。まあ、今の日本にはそんなことできないだろうけどな。これは月並みな意見だが、『哲人王』ってやつが現れてくれさえすれば本当にその時点で丸く収まるわけだ。アンタのやり方だと後にアンタが世界の王様になるだろう。そして、アンタの能力なら哲人王とやらにもなれる。その辺はどう思ってる?」
高遠は当然のことを言わせるなと言うように「なれるに決まっている」と言った。やはり、その言葉から躊躇いや迷いはなかった。
あたしは今すぐコイツを殺そうと思う。コイツはきっとあたし達を始末するつもりだ。レプリカを知る者は誰にとっても邪魔者なのだから。最も、レプリカの件を差し引いても高遠はあたしらを殺すだろうが。
「アンタが哲人王かどうかを決めるのはアンタじゃない。だが、アンタの創る世界にそれを判断する人間は誰もいない。そもそも人間はいない」
コイツの世界の人間と呼べるものは皆、コイツの人形でしかない。そんな世界の住人になんてあたしはなりたくないし、誰かのおもちゃにされるのは一度でもう十分だ。
「……! 真魚ちゃ」
引き金を引くだけで弾が出るように準備ができた銃を高遠に向けた。人差し指にかかったトリガーを引くだけで赤色の弾丸がヤツの脳天を貫くはずだった。少なくともあたしはそう確信していたが、甘かった。
「コイツ!? 離せ!」
高遠をに向いていた銃はロビーの奥にいた受付嬢によって小ぎれいに手入れされた床へと向けられた。ふと、あたしの手を掴んでいる受付嬢の顔を見た。目の焦点が合っていない、抜け殻のような表情をしていた。その割にこの腕力……普通の女が出せる力じゃない。高遠に何かされたな。
「私の創る世界に人間は誰もいないと言ったな。しかし、私の世界の住人が人間であるかどうかを決めるのはお前ではない。その世界のルールである私だ。私に同調しないお前達は善人だけの素晴らしい世界を創るのに邪魔だ。消えてもらう。矯正する価値もない」
高遠がエレベーターに乗って上の階へと移動した。それを追いかけようとした山田さんはもう一人の受付嬢に取り押さえられてしまった。ヤツがどこの階まで行くのかはわからない。王様気取りのアイツは高いところが好きそうなので屋上にでも行ったのだろうか。流石に安直すぎるか?
高遠を追うため、あたしの手にしがみつく受付嬢に頭突きをかましてふりほどいた。逃げるべきなのだろうが、それでは高遠の手下が地の果てまでも追ってくるだろう。それに何より、もう一つ問題ができた。
「よせ! 追うな死ぬぞ!!」
山田さんは自分を取り押さえていた看護師を振りほどいておぼつかない足取りで駆け出した。
「高遠が何をしたのかわからないが、操られた人達を放っておくわけにはいかない! それに正気の人々も心配だ!!」
「待て! 行くな!」
エレベーターが停止されていることに気が付いた山田さんは片足を引きずって階段を駆け上がった。あんな走り方ではすぐに転んで新しい傷を作ることになるだろう。何故山田さんはあんなにも他人のために行動できるのか。このままだと山田さんは間違いなく殺されるだろう。あたしには彼を助ける義理もなければメリットもない。どうする? 放っておくのがきっと正解だ。銃を見られた以上、今この身体で高遠に挑んでも上手くやり合える自信ははっきり言ってない。
「…………フゥゥゥゥ」
廊下の方から高遠に操られたのであろう看護師達がくぐもった呼吸音を発しながらゾンビのような足取りでこちらに近づいてきている。ふと見ると、出口にはシャッターが降ろされていた。高遠はどうあってもあたしを殺したいらしい。
皮肉だが、これで今高遠を始末する理由ができた。山田さんを助けるのはついでだ。恩を売っといてやろう。
あたしは一本だけの松葉杖をできるだけ早く突きながら階段を昇っていく。この病院は十二階まであるため、襲い掛かる高遠の人形どもと戦いながら屋上まで向かうのはかなり骨が折れるだろう。だが、もうやらないわけにはいかない。
「真魚ちゃん! くるんじゃない、逃げるんだ!」
「こっちのセリフだ。逃げるんならアンタが逃げろ! 逃げ場はもうないけどな!」
三階の辺りで操られた患者と組み合っている山田さんの援護に松葉杖の底の部分でで組み合っている相手の頭を思い切り殴りつけた。その患者は下から追ってきた看護師達のもとへ階段を転げ落ちていった。
上を向いてみるとまた別の患者たちがゴキブリのように沸いて出てきている。このままこの階段を上るのは無理があった。
「こっちだ!」
あたしは山田さんの手を引いて一旦三階の病棟に入ることにした。階段はここだけじゃない。東側にもある。今はそれを目指すんだ。
追ってくる高遠の人形は病人や怪我人が中心だからなのかわからないがあまり頭はよくないようで、何もない場所で転んだり互いにぶつかり合ったりしている。互いに足を負傷しているあたしと山田さんでも急げば何とか追いつかれることはないといった具合だ。しかし、少しでも立ち止まれば追いつかれる。前からヤツらが来たらかなりマズイ。
そう思った矢先に、ヤツらは前からやってきた。そう幅があるわけではない廊下で見事に挟み撃ちの形となってしまった。
「仕方ない、少しお邪魔させてもらうか」
「ここは個室だぞ? 失礼じゃ」
「言ってる場合か!」
脇にあった個室の引き戸を急いで開けてその中に避難した。扉はすぐに閉じて鍵をかけ、万が一を想定して持っていた松葉杖をつっかえ棒として利用した。おかげで患部の脚にかかる体重が増えたのでかなり痛かった。
「あんた達は何なの?」
この部屋で入院している女は何故か至って落ち着いた様子で質問した。見ると腹が異様に膨らんでいる。ここは産婦人科の階だったか。
「オレは山田太郎。わけのわからない連中に追われている。あなたは無事なんですか?」
扉を力任せに叩く音が聞こえる。さっきの看護師の腕力から察するに、寄生虫によって身体のリミッターってやつが外されているのかもしれない。だとしたらこの扉が破られるのも時間の問題だ。あたしは扉が破壊されないよう背中から扉に体重を預けてヤツらの侵入を阻止することを試みた。
「無事……ね。あんた変な質問するわね。まあ、事情はわかってるけど。そっちの女の子の方は何だい? 名乗りなよ」
「夏川真魚だ。事情がわかってるんならしばらく匿わせてくれ。多分、屋上にいるイカレた牧師をブッ飛ばせばこの状況は解決する」
「マナだって!?」
驚いた声を上げたのはあたしと同じ病室のプリン頭のギャルだった。彼女はベッドの横でしゃがんでいたため気が付かなかった。見てみると同じ病室の車椅子に乗っていた中学生もいる。しかし、車椅子には乗っておらず、二本の松葉杖を壁にかけてしゃがんでいた。プリン頭の分の一本もあった。確かまだ一本で動き回れるほどプリン頭は回復していないはずだ。
「真魚ちゃん! 無事だったのかよ! いやぁよかった!」
「二人ともどうしてこんなところにいる?」
「突然他の患者達が暴れだしたんだ。特にあの婆さんを主導にな。あたしが知っている正気だったヤツはウチら二人と看護師の日垣さんだけだ。最初はエレベーターを使って逃げようとしたんだが、この階で急に停止したんだ」
プリン頭は鬼気迫る表情で現状を説明し、中学生は頭を押さえて震えていた。二人がここにいるのはおそらく、高遠がエレベーターを停止させたタイミングだったのだろう。
「日垣さんはどうなった? ここにはいないみたいだが」
日垣さんといえば確か注射フェチの変わった看護師のことだ。普段は模範的な看護師だが、彼女はどうしたんだ?
「怪我人のウチら二人の囮になって九階に取り残された。早く何とかしないとヤツらに……」
プリン頭の話を聞いた山田さんが大きく舌打ちをした。まるで自分のせいだとでも言うように。
そんな彼を後目にあたしはただ考えていた。この追い詰められた状態から脱するための手段を。このままここにいては間違いなくやられる。
「状況はわかった。時間はかけない。すぐに解決させに行こう」
気休めにそう言ってはみたものの、本当にどうしようか……。最初から高遠のもとへなんか行かないでさっさと逃げればよかったと、心から思った。
I am justice 4
「とりあえず、煙草いいかな? 落ち着きたいんだ」
ここの病室の妊婦は自分の腹を撫でて顔をしかめた。
「イカレてるの? 妊婦に向かって何言ってるかわかってんのかい?」
まさに袋の鼠といったこの状況。背中で押さえている扉を叩く音は一向に鳴りやまない。ここは大人しく助けを呼ぶのが先決なのだろうが、警察では高遠の始末がやりづらくなりそうだ。話が通じる相手は木野くんだけかな。そうは言っても、最後は必ずあのムカつくカス野郎はあたしの手で殺してやる。何が矯正する価値もないだ。舐めやがって。
「それはそうと真魚ちゃん、すぐに解決させると言ったが、どうするつもりなんだ?」
普段は至って冷静な山田さんだが、今の声には明らかな焦りの色があった。
「この病室に隠し通路みたいなものはないのか? もしくは天井が開いて上に行けたり」
「あんた本格的にイカレてない? 相部屋の患者かどうか知らないけど、個室に夢見すぎよ」
「……そういうことならこの扉を開けて正面突破しかないわけだな」
場の空気が凍り付いた。みんなのそれだけはしたくなかったという思いがひしひしと伝わってくる。何故か、妊婦を除いてだが。
「私とお腹の子の安全だけは保障しなさい。こっちは勝手に押し入られた上にあんた達と心中する気はさらさらないのよ」
「なら一つ聞かせてくれ。あんたはヤツらに狙われていないのか? 奥の二人はヤツらから逃げてきたということらしいが……いや、そもそもアンタらはヤツらとは違うのか?」
プリン頭曰く、彼女と中学生はあたしと山田さんが起こした昼間のトラブルを目撃して何となく病院の食事に手を付けるなという言葉を信じたそうだ。
妊婦の方は最近入院したばかりでそもそも高遠との接触はなかったそうだ。おそらく、単純に存在を知られていないから狙われていないというだけなのだろうか。そもそも高遠の狙いはあたしと山田さんだけではなかったのか?
「つまり、高遠とかいう牧師が原因で患者がおかしくなっているわけなのね。でもさ、それを解決させるってことはあんた達その人を殺すつもりなの?」
妊婦は疑惑の眼差しを全員に向けた。その目はどこか試しているようでもあった。その眼差しに怯まずに山田さんは力強く血迷ったことを言い出した。
「説得するんだ」
本気かどうかはわからない。高遠がいくら何でも話の通じない相手だということくらいは山田さんも理解できているはずだ。そうであってほしかった。あたしの手を煩わせる真似はしないでほしい。
何故なら、単純に高遠を始末するつもりでいるあたしと対立する意思を持ったヤツが側にいると面倒だということと、もうそんな甘いことを言っていられる余裕なんて微塵もなかったからだ。
「みんな、そろそろ限界だ。この扉壊れそうだ。だから、これからあたしがすることをどう思ってもいいが、絶対に口外だけはするな」
臨戦態勢に入った山田さんと中学生を守るように抱きしめたプリン頭。そして、冗談じゃないという風な表情をした妊婦。
扉にかかる重さから察するところ相手は多くて十人といったところだろうか。どちらにせよ、あたしはかなり無理をしないといけないということは明らかだった。
ナイフを構え、松葉杖を扉から離し鍵を開けた。患部の脚にかかる体重など気にしてはいられない。回復は多少遅れることになってもここで死ぬことよりは遥かにマシだろう。
そして、鍵を開けた扉からヤツらが一気になだれ込んできた。
「ひいっ!」
まず一人目の喉から発せられた血しぶきが宙を舞った。この声はあの中学生のものだ。まあ、当然の反応だな。
すかさずナイフを隣の中年患者の頸動脈の辺りに滑らせる。この時、一人目より多くの血が舞った。
大きく一歩踏み込み、まず肩をぶつけて体勢を崩してから喉元を切りつけ、そのままの勢いでもう一人にも切りかかった。
そのままひたすらナイフを高遠の人形の首に滑らせ続けた。一撃で仕留められるよう、確実に。
しかし、何人かはあたしの脇を通って奥へ侵入してしまう。一撃で始末できる技量はあってもそれを向かってくる全員に当てられるかどうかは別の問題だ。
「山田さん! 任せるぞ!」
後ろを見ている余裕などなかった。コイツらも本気であたしを殺しにかかってきていたからだ。メスを持った看護師に注射器なんて痛みが簡単に想像できる物まで持っているヤツもいる。患者の方に至っては車椅子を振り回す輩までいやがる。
「……っ!」
死角から繰り出された打撃を思わず顔に受けてしまった。おそらく寄生虫によって身体のリミッターを外されているだけあってかなり重い一発だった。
脳が揺れた気がした。
しかし、おかげで相手の位置が確認せずともわかる。目の前の看護師が振り回すメスをなんとか紙一重のところで避けつつ、拳が飛んできた方向にナイフを突き立てた。
人肌を突き刺した感覚がナイフ越しに手に伝わった。あたしはこの時の感覚を数分間何度も味わうこととなった。もし、今のあたしが本調子だったなら、後ろにいるみんなを人殺しにさせることはなかっただろう。
相手は知能が高くないようで全員考えなしに突っ込んでくるが、そのバカさを補うに十分なレベルのパワーがある。予想以上に長引く戦いに疲労を感じたその時の隙を見事に突かれた。
「な……! ぐっ!」
倒れていた女にあたしの患部の方の脚に思い切りしがみつかれ、興奮状態で忘れていた痛みに思わずそのまま横に倒れてしまった。
「ううっ……ぐうああっ……くぅっ」
脚の痛みに呻きながら見上げると三人の男があたしを囲んでいた。全員あたしを殺すための道具を持ってあたしを見下している。
そして、それぞれの道具が一斉にあたしに振り下ろされようとしたその瞬間、ソイツらは何かに払いのけられたように吹っ飛んだ。
次いで、あたしの脚にしがみついていた女は頭部が見事に潰されていた。一番臆病だと思っていた、あの中学生の手によって。
「はぁ……はぁ……はぁ……あ、あああ……」
両手で持っていた点滴用の薬を固定しておく柱のような台が手から離れ、支えを失ったように彼女もまた床に尻をついた。彼女はきっと夢中だったのだろう。相手が相手だったとはいえこの中学生は初めて殺人を犯したわけか。正直、知ったことではないが。
「ありがとう。キミのおかげで助かった」
肋骨も折れているため、脚だけでなくとにかくもう全身が痛かった。マジに無理をしすぎた。そんな身体を無理やり立ち上がらせて、中学生に向けてそう言った。今回は本当に感謝している。アレは死んでもおかしくなかった。
プリン頭は中学生の分の二本の松葉杖を持って彼女の前に置き、それから強く彼女を抱きしめた。
「よく頑張った……本当に。無事に退院しよう。みんなで」
中学生はプリン頭の腕の中で泣いていた。見ると、みんな血まみれだ。返り血だろう。病室にも高遠の人形の死体がいくつか転がっていた。ほとんど手を下したのは山田さんだろうか、彼はひどく苦い顔をして佇んでいた。彼は患者を救うことも考えていたはずだ。それがこんなことになるとは、ひどい本末転倒だな。
「オレはなんてことを……」
照明が落とされ、所々赤く染まった病室には重苦しい空気が流れていた。ひとまずこの場は切り抜けられたにしても、大量殺戮の現場をみんなは目撃したわけなのだから。そして、それが責められるような行動ではないこともわかっているからだ。
「確認するが、このことはあたし達だけの秘密だ。絶対に誰にも言わないことと、気付かれないことを約束しろ」
病室にいる全員に向けてあたしは言った。誰かにバラされてあたしがレプリカ狩りのハンターだと知られることはあたしの死に直結する。そう考えると、ここでコイツら全員を始末しても問題はないのかもしれない。周りには既に大量の死体が転がっているのだから。
「……っ! しれっと無神経なこと抜かしてんじゃねえぞ!!」
プリン頭は感情をむき出しにして言い放ち、あたしの胸倉を掴んだ。
「人を殺したんだぞ! 殺した直後に何様のつもりで意見してんだオイ!!」
「巻き込んでしまったことに関しては謝るよ。それ以外にこうしてキレられる理由があるとするならあたしにはそれがわからない」
「なんだと……」
「大方、人を殺して混乱しているところなんだろう。だけど気にすることはない。コイツらは人間じゃないんだ。正気に戻る可能性はあったとしても、やらなきゃ間違いなく殺されていた」
「だからってお前……こんなに殺すことは」
軽く舌打ちをした。面倒な話はしないでもらいたい。
「わからないヤツだな。アンタなら誰も殺さずに切り抜けられたとでも言いたいのか? コイツらを説得できたとでも言いたいのか」
「そういうことじゃ……」
あたしはそっと彼女のあたしを掴んでいる手をほどいた。
「うじうじするのは勝手だ。だけどあたしに当たるのはやめてくれ。迷惑なんだよ」
彼女は何か言いたげではあったが、歯を食いしばって何かをこらえるだけで何も言わなかった。そして、痛みに耐えながら歩みを進め自分の松葉杖を拾いに戻り、中学生の肩を空いている腕で抱いて言った。
「日垣さんが心配だ。ウチは九階まで行って様子を見に行く。だから、えっと……そこのあんちゃん、この子を病院の外まで連れて行ってもらえないか?」
バカなことを言うなと山田さんが彼女を止めるのと同時に中学生が驚いて声を上げた。
「わ……わたしも行きます! 絶対に足手まといにはなりません!」
「いや、そっちの傷はまだ深いだろ? ここはウチに任せてほしい」
コイツどうやら本気らしい。コイツはそこの中学生のことといい何故大した付き合いもない相手に対してこんなにしてやれるんだ? この行動だけ見れば高遠よりよっぽど正義の味方という感じではある。あたしはそんな風にはなれないと思うが。
「アンタら、せっかく逃がしてもらえたのにわざわざ戻る必要がどこにある?」
「それでも心配なんだ。やっぱりウチには放っておくことはできない」
「一人で行くのか?」
そう聞くと、プリン頭は言い辛そうに視線を下に泳がせて言った。
「真魚ちゃんのおかげで敵はいなくなっただろ? 仮にちょっと残っていたとしてもウチにはこれがある」
そう言って徐にスタンガンを取り出し、バチバチと電流を流した。
「オレが日垣さんを助けに行く。君達はみんなと一緒に脱出すべきだ」
「いや、山田さんが脱出の案内をした方がいい。さっき見てたからわかると思うけどあたしは強い。次に強いのは普通に考えて山田さんだ。弱いヤツが集まって行動し、もしまだ残っているヤツに遭遇したらどうするんだ?」
「真魚ちゃん……ウチと来てくれるのか?」
「屋上まで行くついでだ。ヤバくなったらいつでもアンタを切り捨てるけどな」
あたしに人を守りたいという情が芽生えたのではない。山田さんについてこられたらいざ高遠と向き合った時に本当に説得を始めそうで怖かっただけだ。
正義の味方はコイツらだ。それでいて正義の味方というヤツはめんどくさい。
「わかった。巻き込んでしまった責任だ。この人達は命に代えても守る。妊婦さん、あなたは今のうちに旦那さんを呼んでおくんだ」
「……そうね、それがいいわ」
妊婦と目が合った。不思議と、この女の顔には見覚えがあった。前に一度だけ……本当に一度だけ見たことがある気がした。というのは、今考えることでもないな。
「気をつけなさいよ」
妊婦は一言だけそう言った。その言葉にそれ以上の意味はなさそうだったが、この妊婦からはナギ先生に似た雰囲気を感じるのは気のせいだろうか。
「それじゃあ、あたしは行く」
あたしはそれだけ言って松葉杖を手に取った。立っているのが……本当に楽になった。そんなあたしに山田さんは心配そうに声をかけてくれた。
「そんな身体で……本当に行くのか」
「できることなら万全を期して行きたい。はっきり言って今は痛みで余計なことには頭が回らない。だけど今逃げたら絶対にあたし達の情報が広まるんだ。それを阻止するには、今やるしかないだろ」
「この人たちを外まで送ったら君達と共に行動したい」
「アイツをやるのはあたし一人でいい。みんなが出口を見つける前に終わらせてくるよ」
そうして、あたしとプリン頭、山田さんと中学生に妊婦で別れてしばらく歩いた。別れ際まで中学生は不満そうな表情を崩すことはなかったが、彼女にとって病院から脱出することは最良の結果だろう。
「ごめんな……真魚ちゃん、さっきはいきなりキレたりしてさ」
黙々と階段を上っている中、ふとプリン頭は切り出した。
「気にしてないよ。アンタの反応は普通だ」
そういうと、彼女は少しだけ微笑んだ。
「ウチさ、こんなナリだけど中学の時はすごくいい子ちゃんだったんだ。高校もこの県で一番偏差値の高いA高校に行ってた。真魚ちゃんはどこ通ってんの?」
突然何を話し出すんだ? コイツ。
「S高。偏差値は並みの公立だよ」
「へえ、あの辺はのんびりとしたいいところだね。その学校、剣道部が強かったよね?」
「さあ、忘れたね」
「高校、やめちゃだめだよ」
「あ?」
何なんだコイツ、いきなりしんみりとした様子で何言ってんだ? やめねえよ。
「真魚ちゃん不良っぽいからな。年上としてのちょっとした忠告。にしても、真魚ちゃんのあの強さは何なんだ? 怪我しててあの動きって……一体」
「そういうのいいから。早く行こう」
あたしのことで踏み込んだ質問はされたくない。それにしてもこのプリン、いきなりキレるヤツかと思えば謝って関係のない雑談をしてくるとはよくわからないヤツだ。結局何が言いたかったのだろう。
おっと、そんなことを考えるよりせっせとこのクソ長い階段を上らなくちゃな。
一段一段踏み外さないよう慎重に。されども急ぎ目に、急ぎ目であっても慌てずに上へ上へと進んでゆく。そうして、ヤツらと遭遇することなく九階までたどり着いた。明かりは非常口と書かれた看板から発せられる緑色の光だけで、その光に照らされている院内はかなり荒れていた。
自分が入院している階なので見慣れてはいるはずだったが、この時のどんよりと暗いここからL字に広がっている廊下はどこまでも続いているような錯覚に陥った。
「それじゃあ頑張れ。あたしはこのまま――――」
「屋上に行く」と続けようしてプリン頭の方を振り返った。「あとは構っていられない」と言葉を準備しながら。
しかし、振り返った先には誰もいなかった。ただずっと、底なし沼のように暗い階段が続いているだけだった。
あのプリンのような色合いの頭をした心優しいヤンキー女は自分がいた場所を真っ赤な血で染めて消えていた。
「これは……聖戦」
聞き覚えのあるしわがれた声が上へ続く階段の方から聞こえた。あのおしゃべり好きで次から次へと話題を変えて自分のペースでひたすら会話を展開し、果てには高遠を貶されただけで激昂するような忠実な下僕となったあの婆さんの声が。
「反逆は……極刑……逃走も……また然り……」
婆さんの患部は腕だった。確か階段で転んだとの理由のはずだ。今の婆さんのギプスで固定されていたはずの腕は赤黒い触手のようであり凶悪な宇宙人の腕みたいだった。その伸縮自在の腕の先に、プリン頭はいた。
「ガハッ!」
彼女の吐血があたしの爪先に降りかかった。彼女は背後から胸を貫かれていて、そのまま布を縫うように彼女の身体は触手に貫かれていく。
「……ッ……! ……か…………ォッ!」
彼女は小刻みに痙攣しながら声にならない声を上げ続けている。遠目から見ればただ巻き付かれて持ち上げられているいるようにしか見えないだろうが、彼女の身体はきっともうスカスカだ。流れてくる血の量も減ってきている。
彼女はもう助からない。
そう直感した。本当に、頭の中がただそれだけになった。その後の動作は惰性とでも言うべきなのだろうか。どうやらあたしは自分が思っている以上に普通の女の子とは遠い存在になっているのかもしれない。
虚ろな夜
婆さんは蟲だ。木野くんは寄生虫は赤黒かったと言っていたことから婆さんの腕の触手のようなものは寄生虫の一部だ。なぜこの婆さんだけ異様に寄生虫がデカいのかはわからない。だが、そんな婆さんを始末することは簡単だった。そのことは銃というものがそれほどまでに強力な道具であることを改めて認識させてくれた。
プリン頭が婆さんに貫かれている間、あたしは彼女を悼むようなことは何も思わず淡々と機械のように銃を撃つ準備をしていただけだった。呼吸をするような当たり前の動作で。
そうして撃った弾は普通のものだ。対レプリカ用の赤い弾ではなく、木野くんがくれた普通の人を殺すための弾。
その弾丸はプリン頭をいたぶるのに夢中だった婆さんの脳天をいともたやすく打ち抜いた。九階に上がり、プリン頭が殺されてあたしが婆さんの形をした蟲を殺すまでの時間は三十秒もなかったのではないだろうか。
「……あっけないな」
実際、人の命が尽きる瞬間というものは劇的である方が遥かに少ないだろう。こんな風に、散り際に何も残さずに死んでいくのが当たり前の死に方だし、あたしが殺してきてヤツらもみんなあっけなくあたしに殺された。因果応報という言葉が本当なら、あたしもいつか死ぬときはこんな風にあっけなく死んでいくのだと思う。
『プルルルルルルルル』
携帯に着信だ。木野くんからだった。
「なに?」
『あ、ごめんもしかして寝てたかな?』
「何言ってんだ。寝たら殺されるような状況だったっつの」
一体何を思って「寝てた?」と聞いたのか。そんなに眠そうな声だったのだろうか。
『あ、じゃあひょっとして高遠さんはもう殺したの?』
「これからだ。なんで?」
『あ、本当? いや、よかったよかった間に合ったみたいだ』
「何だよ?」
『うん、実はこれから少し手間をかけてほしいんだ……いいかな?』
「具体的に的に言え。めんどくさい」
『高遠さんを拷問してほしい』
電話越しの微妙なノイズが入り混じった木野くんの声はまるで明日提出の宿題を教えてくれとでも言っているような軽い印象をあたしに与えた。
「薬を与えたヤツのことを聞けばいいってんだろ?」
『いや、寄生虫の力を手に入れた経緯のことを聞いてほしい』
「は? それが薬の話じゃないのか」
『違う、高遠さんはレプリカじゃない。きっとパチモノだ』
耳を疑った。パチモノの力はオリジナルのレプリカの十分の一がいいところだ。十分の一の力でこれほどまでに大規模な攻撃を仕掛けられるなんてレプリカの方は一体どれだけ……。
「根拠はあるのか?」
『人を操る能力なんて危険すぎる。薬を与えた人間がそんな力を正義云々とわけのわからないことで裏切りそうな人間に与えるとはとても思えない』
「……それだけか?」
『僕が薬を与えている人間ならそうする』
予想通り、高遠は屋上にいた。数メートル先のベンチでのうのうと缶コーヒーなんか飲んでスカしてやがった。
「あの大男が来ていないな。おそらく死んだな。それにしてもここに来たということは佐久間さんを倒したということか。予想外だ。彼女は特別だった」
高遠は星の見えない夜空を見上げてそう言った。山田さんが別れた後どうなったかは知らないが、高遠は憶測で言っているだけだろう。また、「彼女は特別だった」とはあの婆さんのことだろう。
「その返り血はほとんどの患者を殺したな。並の人間がなせる業ではないぞ。君が何者なのか非常に興味がある」
高遠は顔だけこっちに向けてあたしに何かを投げた。あたしはそれを難なくキャッチし、ヤツが何を投げたのか確認する。蓋の辺りに中身がこぼれない程度の小さな穴の開いたあたしの嫌いなブラックの缶コーヒーだった。
「二分待とう。その間にそれを飲んで我々と同じ力を手に入れるのだ。一緒に争いのない平和な世の中を築き上げていこうじゃないか」
そう言うとヤツはベンチから腰を上げ、あたしに向き直った。
「さっき一階のロビーで君に矯正する価値もないと言ってしまったことについて詫びさせてくれ。本当にすまなかった。君のような人間には何物にも代えることのできない大きな価値がある。君の強さがそれを物語っている」
結城は薬を与えた者は男だと言っていた。ならその男は高遠なのか? 答えはノーだ。今までのレプリカは全く正義を意識していない自分勝手なヤツしかいなかった。自分勝手という点では高遠も同じか。また、木野くんが持っている写真の女を最初のレプリカとして考えるとその女も薬を与えているのかもしれない。結城が会った薬の売人がたまたま男だっただけという線も考えられる。
この仮説なら敵は組織を形成していることになる。どうして薬を広めているのか? 目的は一切不明だが、高遠がそういう組織に属せるような人間でないことは何となくわかる。
「君が私に同調してくれるならその脚を瞬時に治してあげよう。私の力は応用が利くのでね」
「二秒やる。あたしの質問にイエスかノーで答えろ」
「……なんだね?」
「アンタはハンターを知っているか?」
高遠は一瞬間を置いてノーと答えた。この質問でヤツとおそらく組織である売人との関係がないことがわかった。最も、高遠の言葉が嘘でないかどうかは実際のところわからないが、もういい。
あたしは高遠に銃を向けた。その瞬間、ヤツはあたしがそうすることを予想していたかのような動きで横へステップを踏み、一気にあたしとの間合いを詰めた。そうしてあたしを冷たくなったコンクリートの地面に組み伏し、銃を持つ手はヤツに握られた。
「それが君の答えか」
腐ってもパチモノ。人間以上の動作は可能というわけか。
「君が銃を持っていることなどわかっていた。ただ、銃がなければ君は何もできないただの小娘だ」
どうやらコイツはあたしがここまでこれたのは銃のおかげだと思い込んでいるようだ。こんなアホ丸出しなヤツに操作されるくらいなら舌を噛んで腸を切り裂き、自分の身体をメッタ刺しにして徹底的に自分を殺してやる覚悟だ。
最も、ここでそんな事態に陥ることはありえない。そしてこれからもな。あたしはもうコイツに勝っているからだ。
「ッ!?」
あのプリン頭は本当に良い物を残して死んでくれた。これを試したいがためにあえて組み伏せられてみることは多少無茶が過ぎたかもしれない。が、結果オーライだ。アンタのスタンガンは形見としてこれからあたしが愛用してやるよ。
あたしは空いている方の手でスタンガンを用意し、高遠の太腿にバチッと電流を流してやった。ナイフと違ってただちょっと当てるだけでいいんだからこんな風な満足に腕を動かせない状況にはもってこいの代物だ。プリン頭にはもったいない。
「カッハァァァァァ!!」
太腿の痛みに怯んだ高遠の右目に遠慮なくもう一撃バチッと見舞ってやった。今度は倒れこんでのたうち回っている。すげー痛そう。
「さて、もう一つ質問する。その力はどこで手に入れた?」
暴れる高遠を馬乗りになって押さえつけて質問した。悶えながらも質問は耳に入ったようだ。
「わ、わからない! いつの間にか身についていアアアアアアアア!!」
「今度はこっちの耳にするからな。もう一度だけ聞いてやる。その力はどこで手に入れた?」
「だ、だからわからないんだ!! 本当にいつの間にか身についていたんだ!! もうやめてくれぇ!!」
みっともない姿だ。両目を潰すのはやめてやろうと思っていたが、気が変わったので三秒くらいバチバチと左目にスタンガンを押し付けた。これ以上叫ばれてどこかに聞かれるのもマズイので顎が外れる勢いで開かれた口に松葉杖の先端を咥えさせて黙らせた。
コイツがあたしには勝てない相手とナギ先生は言っていた。あの人はコイツがパチモンだと知らなかったということか。何だか意外だ。
「『私の正義は薄っぺらな自己満足でした。ごめんなさい』と言ってみろ」
「わ私の正義は薄っぺらな自己満足ででした!! ごめんなさ」
銃は音が響く。レプリカを消す時は赤い弾をブチ込むためにどうしても使わざるを得ないが、パチモン相手なら普通に人を殺す要領で殺してしまえばいい。
「もう死んでいいよ。ゴミが」
ゴミの脳天に深々と突き刺したナイフを引き抜く。噴水のように血が溢れてくることがなくてよかった。汚いから。
そのままヤツは塵になって消えた。文字通りゴミになって高遠は死んだ。揺るぎない信念を抱いているという点において少しは尊敬の念を持っていたが、あたしの目が節穴だったということらしい。
結局今回の騒動で得られたものはどこかに寄生虫で人を操作できるレプリカがいるとわかったことだけ。病院内は地獄絵図。警察に嗅ぎ付けられるのも遅くはない。朝までには必ず現れるだろう。その点を考えると今回の収穫とこの疲労はいくら何でも割に合わない。
それにしてもこれからどうしようか。山田さんに会ってしまうのは面倒な気がする。ここはミチルを呼んで車で帰るべきか……いや、家じゃ血まみれの服と身体は洗えない。他の家政婦には驚かれるだろうし、じいさんに何を言われるのかもわからない。ナギ先生はこの状況を面白がって一人で何とかしてみろとでも言ってくるに違いない。
となると、残りは必然的に彼だけになってしまうのか。
「もしもし? 起きてるか?」
『いや、寝てたけど……どうしたの? 拷問の成果は明日でいいよ……』
正直かなり気が進まない。ただでさえ運動能力は信用ならないと言っている木野くんにこんなことを頼むことは全部のネジが緩んだままの飛行機に乗るくらい危険な行為だからだ。
「大至急チャリで病院まで来てくれ。繰り返す、『大至急』だ」
電話の向こうで彼の間の抜けた声が聞こえる。うるせえ、いいから来いとあたしは言った。
「それと、キミんち今親はいないって言ってたな。お風呂と洗濯機借りるからよろしく」
『そ、それはそうと夏川さんはそんな脚でどうやって家まで来るつもりなのさ? まさか僕に二人乗りしろなんてことは言わないよね?』
なんだ、既に想像できているじゃないか。
「キミは怪我人の女の子を歩かせる気か? いいから大至急こっち来てよ。マジで」
『えぇ…………』
気が進まないのはこっちも一緒だ。そのくらいの運動は我慢してもらいたい。
電話の向こうで木野くんは渋々わかったよと言って寝床から身体を起こしたみたいだ。そのうちお礼はしてやるよ。
「あ、お風呂覗いたら殺すからな」
写真の女
「ひどい有様ね」
私の仲間が薬を与えた内の一人が潜伏している病院に警察仲間がやってくる一足先に足を運んだ。院内はまるで戦争をした後のようだった。
こんな風にでしゃばるのは禁じているはずだが……劣等種にまではそんな命令は行き渡らなかったか。
「やりすぎよ……あの間抜け」
寄生虫タイプのレプリカ。本当は私が使いたかったけど、今の段階ではそこまでの贅沢はできない。アレの性能テストとして劣等種を泳がせてはみたが失敗……とも言えないか。
「寄生された人間の動きはどうだったの? 潤ちゃん」
この病院に潜伏していたレプリカ、日垣潤。彼女は高遠の監視役だった。
「言ってしまえばゴミ同然でしたね。やつら一対一なら生身の人間でも工夫次第で戦える程度でした。与えられる命令も限りがあるうえに単純な行動だけみたいでしたしね」
「ふーん」
やっぱり、寄生虫タイプはあの子一人にとどめておいた方がいいか。
「それで? 例のハンターは見つかったわけ? ここの患者達やったの多分そいつでしょ?」
そう聞くと潤ちゃんは口ごもり、急にうやむやな態度を取り始めた。
「ああえっと……あのですね……自分も患者と同僚に襲われててそれどころじゃなかったんですよ……あはは」
「すぐバレる嘘吐くんじゃないよ。レプリカがあの程度の人間に苦戦するわけないでしょう。どうせ原型留めなくなるくらいにいたぶってずっと遊んでたんでしょ。普段から注射で遊んでるような看護師なんだもんね」
「失礼な! 遊びなんて生やさしい言葉で一括りにしないでくださいよ!」
潤ちゃんのこだわりを延々と聞かされる前に話を変えようかと考えたところ、彼女は思い出したように言った。
「そうそう! 女子高生がいました! 高遠と何度か揉めていた脚を怪我した女子高生がいたんですよ!」
「その子が高遠を倒したのかもしれないって言いたいの?」
全くの予想外だ。ハンターが女でしかもまだ高校生だなんて。もし本当にそんな子がハンターだとするなら一体何者だ? 普通の人間であるとは考え難い。かと言ってレプリカであるはずもない。劣等種も無闇に作り出すなと言ってある。だとしたら…………。
「まあ、あくまで可能性の話ですけどね。その子の死体が見つかればその線はなくなります。あと、怪しいやつとして大男もいました」
「一応その二人の写真を見せて。後で刑事としてここ漁るからその時に探してみる」
「わかりました! それじゃあ自分はこのままずらかるとしますかね。上手く揉み消してくださいよ。深見さん」
名前を呼ばれ、私は頷いた。警察という立場はつくづく便利なものだ。さて、これから加賀君や鬼島さんが一緒だと少し面倒だな。ここはヒグマちゃんの大堂デカを呼んでおくか。
「そうだ、もしハンターが誰か確認できたら簡単には殺さないでよ。存分にレプリカの性能をテストしたいからね」
まあ、拷問好きな潤ちゃんならすぐにハンターを殺すことはないだろう。私は私でやることは山積みだ。まずはレプリカの存在が公にならないよう、この事件をうまく揉み消してやるのが最優先か。
暗躍者
切符代をケチって自由席を選択した特急に乗って二時間半ほど電車に揺られて俺は帰ってきた。金のなる木を求めて。
周囲の目がチラチラと俺に向けられる。左腕がなくて顔の左側に大きな火傷があるのがそんなに珍しいかよ。いや、珍しいな。
今日の予定は家族に顔を合わせるのではなく、鳥のレプリカから聞いた情報をもとにした事前準備だ。
「やあ、ちゃんと帰ってきていたみたいだね。君がこの街の人間で助かったよ」
駅のシンボルである大きな噴水の縁に腰かけていた少年に声をかけた。彼とはここで待ち合わせをしていたんだ。レプリカをやすやすと逃がすのはもったいないからな。
「……っ」
「そう身構えるなよ。何もしやしないよ」
鳥のレプリカである少年、佐伯誠くんは俺に対する怯えを隠せないようだ。
「じゃああれかな? 俺が解放すると言って後からまた君を捕まえたことについて怒ってるのか?」
「そんなんじゃ……ありません」
「そう、まあいいよ。とりあえず、今日はずっと二人で行動をするんだ。仲良くしてくれ」
「……」
周りに聞こえないよう彼の耳元に囁く。
「一応聞くが、俺に逆らえば……わかるな?」
「っ……」
「返事は? ん?」
誠くんの身体が震えた。よほど俺が怖いみたいだな。いや、レプリカになる前の生活に戻るのが怖いのかな。
彼は蚊の鳴くような声で「はい」と言ってくれた。本当に、ひどく弱々しい声だった。
佐伯誠くんと行動を共にして数時間後。俺は目的のレプリカを見つけた。奇しくも、その子がいた場所は弟の通うS高だった。
俺の姿を見られるのはあまり好ましくないと思い、目的の子の帰宅ルート付近のファストフード店で待ち伏せをすることにした。誠くんには今回、釣り餌として活躍してもらう。この街のレプリカは少し、大人しすぎる。これから会うレプリカには派手に暴れてもらいたいのよね。
「虐殺事件について知ってることをもっと教えてくれ」
この街に来るまでの間、何か妙なことがあれば何でも連絡しろと誠くんには指示してあった。その連絡で俺の気を最も引いたのがこの街の国立大学病院で起こった集団虐殺事件だった。このことは、俺が街に来る時間をより早める理由となった。
俺がこの街に来た理由はレプリカの薬を独占するため。そのためには薬を持つヤツらと接触するのが必須だ。そしてその薬の所持者はおそらく……。
「警察関係者だろう。君に薬を与えたヤツは」
誠くんの目が見開かれた。図星のようだ。
「何で……それを」
「君が教えてくれた病院の件だが、あれ一切公表されてないぞ。絶対におかしいだろ。その辺を操作できるのはテレビ局の連中か? いや、最初に捜索する警察の連中だ。俺の推測は間違ってるかな? ん?」
「それが今回とどういう関係が?」
「ひ・み・つ」
余計な詮索は無用だ。それよりも……だ。
「行け。時間だ」
誠くんを目的の子に接触させ、俺のもとへ連れてくる。そして、俺の言うことを聞いてもらう。今日一日でその子に言うことを聞かせる材料を用意するのは少し骨があったな。
ビデオカメラをリュックから取り出し、さっき撮った映像をミュートで再生した。そこには公園で微笑ましく散歩をする親子の姿が映っている。
「家族が毒で悶える姿を見たら、どんな反応をするのかな」
うーん、俺ってやっぱ悪党かなあ。悪党なんだろうなあ。ま、気にすることじゃないがな。
ファストフード店の次は安物のビジネスホテル。そこで誠君が目的の子を連れてくるのを待って一時間。扉を開いてやってきたのは誠君と紛れもないレプリカの女の子だった。
「誠くん……? この人が?」
肩にかけている物は竹刀が入ったバッグだろう。誠君にレプリカのことを教えたという少女、「太刀川梓」は動きやすそうなショートヘアに健康的な肌の色をしており、胸は残念だったが引き締まった身体をしていた。
「S高剣道部の期待の新人であると同時にスーパーエースの太刀川梓ちゃん……だね?」
「えっと、誠くんのお友達……なんですよね。スーパーエースだなんて……恐縮です」
この子は直感で俺がどういう人間かを感じ取っている。その証拠に、警戒しているのがバレバレだ。
「世間話は苦手でね。わかりやすく要点だけまとめて話すよ」
彼女の側にいる誠君はひどく罪悪感に満ちた表情で震えていた。
「君の『蜘蛛』の力でこの街の人間たちを襲ってほしい。できるだけ派手にね」
「あなた何者です?」
彼女の目つきが変わったが変わったのと同時に背負っていたバッグから木刀を取り出し、構えた。あのバッグに入っていたのは竹刀ではなく木刀……やる気満々のようだ。
照明の点いていないビジネスホテルの一室。隻腕で火傷負った男とそんな男に敵意むき出しで木刀を構える少女、そしてただ怯える少年。中々えげつない構図だな。
俺は彼女に言うことを聞かせたい。あえて目立つ行動を取ってもらい、警察が動かざるをえない状況を作り薬を持ったヤツのことを知る。そのためには彼女の力がいる。
俺は備え付けのテレビにビデオカメラを接続して録画した映像を流した。映っているのは彼女の母親と、まだ幼稚園児のかわいい妹ちゃんだ。
「何の真似だ……?」
「俺に逆らえば君の家族は……わかるか? 言うことは聞いてもらうよ」
言い終えてしばらくの間、沈黙が訪れた。絶望……というほどでもないが、彼女の目に生き生きとした輝きは失われている。何も考えていない顔ではない。きっと彼女はこう考えてそのように行動する。家族が危険な目に遭う前に何としても目の前の男を殺してやると。
沈黙を破ったのは彼女が床を蹴った音だ。レプリカなだけあって俺よりも速い。まともにやりあえば俺は間違いなく無傷ではすまないし化け物の姿になってしまわれたらお手上げだ。
目前に振り下ろされる木刀を横にかわすが、すかさず次の一撃がやってくる。左腕があれば攻撃を防いで攻撃といけるが、ないものは仕方がない。
俺も人間の形はしてるが人間ではない。そんな身体の回復力を信じ、木刀をモロに頭に食らいつつ彼女の首を掴むことに成功した。攻撃を受けながら突っ込んでくるとは思わなかったみたいだな。
「……痛いとかじゃないな……脳が……とにかく気持ちが悪い。この不快感、どうしてくれる? ん?」
彼女が俺の手を振りほどこうとするよりも速く、指を細い首に刺し込んで毒を流した。頭をやられたことで少しムカついたので、予定の量より少し多めに流し込んでやった。
「あ……かっ……か…………ぐ」
首から手を放すと、彼女は支えを失ったように倒れて苦痛にうずくまった。
「うっ……ああああ!……っぐ……はあはあ……」
「死にはしない。そういう毒だからな。でも痛みは強烈だ」
激痛に悶える彼女の首は紫色に変色し始めている。常人なら気絶するほどの痛みのはずだ。そんな彼女の様子に、誠くんはうずくまってすすり泣くだけだった。
「逆らえば、君の家族にもこうする。わかったな? まともに喋れないだろうからイエスかノーかは頷いて答えてくれ。これから君は俺に協力し、言うことは何でも聞く。OK?」
苦痛に顔を歪めながら涙まで流している。悔し涙かな? この子はどうしても屈服させたくなってきたな。
彼女はぎこちない動作で首を縦に振り、俺の要求を飲んでくれた。これで今日の目的は完了したというわけだ。いや、よかったよかった。
次にやらなきゃならないことをするには、この子にしっかりと暴れてもらわなくてはな。正直、別に誠君に暴れる役は任せてもよかったが、この街にはレプリカを狩るヤツがいる。手元に置けるレプリカを全部失うのは惜しいからな。
それにしても、レプリカの治癒力は目を見張るものがある。俺はまだ気持ち悪いってのに……毒を流してからたった数分で回復が始まっている。
徐々に和らいでいく苦痛に少しずつ彼女の呼吸が整っていくが、まだ荒い息遣い。そして、のたうち回ったことではだけた制服に汗ばんだ健康的な素肌。捲れ上がったスカートから覗く彼女の太腿は、細い足が美しいと思って骨と皮だけの脚にしてしまうクソ女と違って引き締まった理想の肉付きをしている。
「誠君、今日はもう帰れ。また連絡するから、変な気は起こさないことだ」
「は……はい! じゃあ、梓ちゃんも連れて―――」
「俺は君に帰れと言ったんだ」
「いや、だけど……」
「行け」
これ以上突っかかるとどうなるのか悟った彼は足早に部屋を出ていった。最後まで、この子から視線を外すことはしなかったが、それだけだ。
「さて……」
倒れている彼女を抱え上げ、ベッドにそっと寝かせる。俺の突然の優しげな行動に戸惑っているようだ。その少し怯えた表情も可愛らしい。
さっきの悶える姿を見て発情した俺は部屋に鍵がかかっていることを確認し、歳の割には小柄な少女の汗をかいたことで少し冷えた身体に悲鳴をあげさせる間もなく覆いかぶさった。
禁忌 1
県立S高校の生徒の行方不明者数及び死傷者数は今年で十人を上回った。その中の死傷者数の中にはキリ先輩が含まれている。身近な人が死んだのは初めてだった。そこにあるはずで、あって当たり前だったものが急になくなってしまったような虚無感を抱きながら淡々と日々は過ぎていった。
アメ先輩はキリ先輩を危険な目に遭わせたのは自分だと責任を感じて学校を休みがちになった。わたしだってあの時先輩を止めることができていたならと何度も考えた。だけどどうすることもできない。どうすることもできなかった事件直後のわたしは荒れてたんだと思う。先輩の弔いのために犯人を突き止めようとして、だけど突き止めたからどうしようっていうビジョンは全く見えていなくて、ただ自分勝手な都合で危険なことをしていただけだった。
あの時のわたしは見ようによっては、駄々をこねる子供と変わりはなかったのだろう。なら今はどうかと聞かれたら、よくわからない。自分が何をしたいのかが……わからない。
『死んだ人間は勝手に死んだんだ。君の償いの理論は因果を辿れば誰のせいにもなり得る。そうやって心を痛めるのは死んだ人間からしても迷惑なことだと思う』
事件現場にいた木野先輩があたしに言った言葉はとても冷たく、無情でありながらも的を射ていたように思う。だけど、残された人間が去っていった人間のことを気にせずにすぐにもとの生活ができるようになるとは思えない。でも、もうもとの生活に戻らなくてはならない時なのかもしれない。
今日も浮かない気持ちのまま、帰りの電車に乗った。わたしの家は終点の一つ前の駅を降りた先にある。そこに至るまで、時間はそこそこかかる。いつものように仮眠を取ろうと思ったその時、右足を誰かに踏まれた。
「あ、すいませ……あ」
「あ」
足を踏んだ人物の第一印象は「頼りなさそう」だった。そして、わたしはそんな頼りなさそうな人を知っていた。以前、キリ先輩が死んだ場所で出会った人だった。
「木野先輩ですよね?」
「ああ……うん。覚えてたの」
何の気もなしにそう言ってみたところ、木野先輩はどこか嫌そうに返事をしたように思えた。そのまま去っていこうとした先輩をわたしは止めた。
「ここ、よかったら座りませんか?」
一瞬先輩の顔が引きつった。やはり、あの時木野先輩を少し疑っていたことを悟られてしまったんだろうか。悪いことしたな……。
先輩は渋々といった様子でわたしの隣に腰を下ろした。先輩の方からは何も言ってこなかった。
「犯人、見つかったみたいですね」
わたしのメンバーの中に犯人がいるという大まかな推測は当たっていた。警察の調査によってその犯人は入間創だとわかった。彼はすでに何者かにより殺害されていた。
「……そうだね」
「正直、先輩のことを疑っていました」
「だと思ってた」
「そのことは……すいませんでした。本当」
「……もう、気にしてないよ」
それっきり、しばらく会話が続くことはなかった。日が徐々に傾いてきて車内に光が差し込んできた。
木野先輩は無口な人だと思った。こうして互いに黙っている状況に気まずさを感じたりはしないのかな。
「入間君を殺したの、誰なんでしょうね」
「……僕が知るわけないだろう」
そう言う木野先輩の横顔はあからさまにわたしから背けられていた。
「夏川さんは……元気ですか? 入院したって聞いてるんですど」
「さあね、僕は何も知らないよ」
『間もなく○○。次の駅は○○駅です。お出口は右側の扉です』
わたしの降りる駅を知らせるアナウンスが人がまばらになった車内に響いた。わたしは夕日が車内をオレンジ色に照らすこの時間帯が好きだ。今の季節ではここでそれを長く味わえないのが残念だ。
「じゃあ、僕はこれで」
「あ、わたしもこの駅です。奇遇ですね」
木野先輩は少し諦めたような顔をした。
改札を二人で出たところ、携帯に着信が来た。画面を見ると、わたしにとっては身近でありながらも意外な人物からの着信だった。木野先輩に一言断って電話に対応する。
『もしもし、一紗かい?』
電話の向こうからはよく知るのんきな声が聞こえた。
「お兄? 珍しいね、わたしに電話なんて」
わたしの兄は県外の大学に通う十九歳。今年で二十歳になる。昔からどこか抜けている性格の人だ。中学生の頃に事故に遭い、その時の傷のせいで一人暮らしすることは家族から止められたしわたしも止めたけど、お兄はそれでも意志を変えることはなかった。そんな風に、お兄には頑固な一面もある。
『たまには電話くらいするさ。それよりお前、新聞部だったろ? 面白いネタがあるんだけど、知りたくない?』
「それ言うために電話してきたの?」
『何だ? 乗り気じゃなさそうだな』
「あまり意欲的な部員じゃないこと、お兄は知らなかったっけ? 後で聞くだけ聞いとくから」
『そう言わず今聞けよなぁ。特ダネだと思うぜ』
「くどい」
『巨大蜘蛛の噂なんだ』
「巨大蜘蛛ぉ? そんなの野生研の分野じゃん。新聞部が取り上げる話題じゃないっしょ」
『別名は人食い蜘蛛と呼ばれている。興味ないか?』
今は他の新聞を書かなくちゃならない。それ以外の話はそれからだった。ていうか、その噂は第一嘘くさい。
「だーかーらー! くどいって言ってるの! わっかんない?」
そう言って強引に通話を切った。強情なお兄にはこうすることが一番手っ取り早い。ちょっと悪い気はするんだけどね。
「ねえ、巨大蜘蛛ってどういうこと?」
木野先輩からの突然の質問に驚いた。今までわたしから話しかけない限り何も反応してこなかったというのに……虫が好きなのかな?
「いや、詳しくは全然聞いてないんですけどね。人食い蜘蛛とか噂されてるみたいです。知ってますか?」
木野先輩は何かを考え込んでいる。急にどうしたんだ?
「調べてみないの?」
「生憎、ちょっと忙しいので」
「なら、それが終わった後でいいから調べてみてよ」
「先輩もお兄みたいなことを言うんですか? まあ……視野に入れておくくらいはしますけど……」
ひとまず、曖昧に返事をした。
「ありがとう、是非頼むよ。何かわかったら教えてほしいな。僕も僕でやりたいことがあるからさ」
「それって、何なんですか?」
「聞きたい?」
「まあ、そりゃあ」
「ひ・み・つ」
一言、ごめんと付け加えて木野先輩は夕日が差す方向へ去っていった。少しだけきまり悪さを感じながらわたしも自分の帰る場所に向かい、歩み始める。この辺りは駅の前であっても何もないに等しい。何もないというのはお店や若者が楽しむような施設がないという意味合いであって、辺り一面が荒野なんてわけではない。
人通りの少ないこの路地の真正面に夕日が位置する時間帯がちょうど今だった。眩しさはそれほどでもない。夕日が普通の太陽と比べて眩しくない理由は習った覚えはあるけど忘れた。綺麗なものが直視できるなら、それでいいと思う。ちょうど周りに人もいないのであの夕日の写真を撮ろうと思い、携帯電話を取り出した。タッチパネルに指を重ねるよりも速く液晶画面が光りだす。今度はアメ先輩からの着信だった。わたしは写真は後回しにして少し微笑んで応答する。
「もしもし? 何だか久しぶりですね」
『そうね、久しぶり……になるね。元気?』
そう聞く先輩の声に元気は感じられない。
「わたしのことより自分の心配した方がいいんじゃないんですか? あんまり学校休んでると受験に響くんじゃないんですか」
『まだ余裕でいられる時間だって。それより、今時間ある?』
「いや、もう帰ってるとこなんで」
『つれないこと言わない。人食い蜘蛛の噂なんだけどさ、まずシモちゃん聞いたことある?』
アメ先輩までその話を振ってくるとは思わなかった。わたしはさっきお兄から聞いたと答えると、話は早いと言わんばかりに先輩は続ける。
『絶対に夜は出歩かないようにして』
先輩は真剣だ。わたしは先輩のこんな声を知らない。今まで何事もなく過ごしてきた中でここまで本気でわたしを心配する声なんて聞いたことがなかった。
「何か知っているんですね」
『……昨日、直接見かけたの。信じられない光景だったけど』
「人を……食べるんですか? マジで?」
『わからない。でも、人間サイズではあったし、二本足でも歩いてた。正真正銘の怪物よ……』
二足歩行の巨大な蜘蛛……。到底信じられる話じゃないと思う。そもそも、その怪物は本当に蜘蛛なのか?二足歩行の蜘蛛って何だ?着ぐるみか何かじゃないのか?と思うのが普通なんだろう。
だけど、先輩は嘘を吐いていないと「確信」できる。何故なら、その怪物が夕日の向こう側からこちらへ向かってくるのが見えたから。
「その怪物が今わたしの目の先にいるって言ったら……信じますか?」
そう言いながら怪物から離れるために進行方向を右へと変えて走り出していた。そうして入った路地はさっきの場所によりも人通りは少ない場所だった。
『すぐに人通りが多い場所へ行って!』
後ろを振り返ると怪物は私を追いかけてきていた。 やばい! 追いつかれたら絶対にやばい! 何をされるかわからないってことが一番やばい!
何とか先輩の言った通りに人通りが多い路地を目指して走り続けるが、そんな場所はあの怪物がいる方向だ。このまま逃げ続ければ追い詰められる。いや、その前に追いつかれる。
どうする? どうしたらいい?
「先輩! 生きてたらまたかけます!」
携帯をしまって両手を自由にし、急いで運よく道の脇に放置してあった自転車を走る速さを落とさないように押して加速してから跨った。怪物との距離は変わっていなかったが、依然としてわたしを追い続けている。自転車を全力で漕いでいるというのにまったく距離が離れない。
クソ! 何なんだ一体。お兄が怪物の話をした直後にあんなのが現れるなんてまるで出来すぎた物語だ。
「はあ……はあ……っはあ……」
かなりの距離は漕いでいる。なのにあの怪物はずっとわたしの後ろにいる。距離もそのまま。
日は完全に隠れつつあり、体力ももう限界に近い。ここで力尽きて止まってしまったらわたしはどうなるんだろう……やっぱ食べられるのかな? 人食い蜘蛛なんて言われてるくらいだし。食べられたら……やっぱ死ぬよなあ……。
「……死ぬわけにいくかあああああ!!」
自転車をドリフトさせながらハンドルを持ったまま飛び降り、後輪の遠心力を利用して走り寄る怪物の頭にに思い切り自転車をブチ当てると、怪物は道の端にあった田んぼへと転倒した。
今がもと来た道へ帰るチャンスだった。すぐに盗んだ自転車の向きを直し、全力で漕ぎ出そうとした。
しかし、自転車の向きを直したところでわたしの動きは止まった。向こうからパトカーがやってきたのが見えたからだ。パトロール? いや、誰かが通報してくれたのか?
パトカーはわたしの目の前で止まり、降りてきた二人の警官はすぐさま銃を構え怪物に向けた。
わたしは怪物がここで襲い掛かってくるのかもしれないと思った。だが、怪物は何事もなかったかのように立ち上がり、目にも止まらぬスピードで走り去った。今のスピードで追われていたら一瞬で捕まっていた。わたしをつかず離れずの距離で追いかけていた目的は何だったんだ?
「君、怪我はないかい?」
「ああ、はい……おかげさまで」
警察が言うには詳しい話が聞きたいから署まで来てほしいとのことだ。わたしは事態が事態だったので素直に応じた。
パトカーに乗るのは悪いことをしていない確信はあってもあまり良い気分はしないなと思った。警察署へ向かう間の特に会話もない中、わたしの携帯電話に着信が来た。警察に断って電話に出ると、お兄からだった。
『よう一紗。お前今どこにいるんだ? 帰りが遅くなるなら連絡入れてけよ』
わたしの状況と違ってのんきなものだ。
「今パトカー。警察署に向かってる」
『はあ!? お前何した!?』
「その反応されることは知ってた。例の人食い蜘蛛のことだよ」
『っ!? 会ったのか?』
「いきなり追いかけられたよ。誰かが通報してくれたおかげで助かったけどね」
『その蜘蛛は死んだのか?』
「いや、逃げた。運が悪けりゃ会えるんじゃない?」
『それはご遠慮願いたいな。それはそうと、俺も署に行くよ。この街の署でいいんだろ?』
「あれ? お兄帰ってきてたの? 大学は?」
『いいんだよ気にするな。それより、俺も警察に話を聞いてみたいから署に行きたいんだが、それはこの街の署でいいのか? ん?』
「いや、S高のほうみたい。そっちの方がよくわかんないけど都合が良いとか」
『わざわざそんなところにね……きっと怪物に詳しい人でもいるのかな』
それにしても驚いた。滅多に帰ってこなかったお兄がこんなに早く連絡もよこさずに帰ってくるなんて。何か帰ってこなきゃいけないような理由でもできたのかな?
いや、こんな考え方をするのはお兄にちょっと失礼だったかな? まあいいや。
禁忌 2
警察署に着く前に通報してくれたのはアメ先輩だとわかった。わたしが帰っている途中と言ったことで大方の位置がわかったんだろう。
署に着いて招かれた先はガラス張りの個室でそこには向かい合った長いソファがあり、わたしが座ったソファの向かいのソファには若々しい女の刑事さんが座った。案内してくれた警察官が立ち去るとわたしは彼女と二人きりになった。
「リラックスしていいからね」
スキンヘッドで大柄な男性刑事がお茶を持って入ってきた。この人はどうやら女の刑事さんの部下らしい。二人が並んで座る姿は美女と野獣のようだ。
「私は深見藍よ。こっちのデカいのは大堂くん。まあ、ちょっとの間よろしくね」
「あ、はい……ご丁寧にどうも」
「よろしく!」
強面に似合わず爽やかな笑顔で大堂さんは握手を求めてきた。恐る恐る握手に応じると、大堂さんの手はわたしの手を軽く潰してしまいそうなくらい大きく感じた。それでいてひんやりと冷たかった。
それから行われた質問は何というか奇妙な質問だった。まず怪物に会った時間帯や場所を聞かれたのはまあ、普通のことだと思う。だが、それからは友達付き合いで何か変わったことはあったか? 学校の様子はどうか? など、やたらとわたしの周囲のことを聞かれた。
深見刑事と大堂刑事は何か探りを入れているようにも思える。だけど確信はない。奇妙な質問の中にちょくちょく怪物のことについても聞かれる。
「すいません、他に怪物が出たなんて事例はあるんですか? わたしが見た蜘蛛みたいな怪物は噂になっていたらしいんですけど」
大堂刑事の眉が一瞬ゆがんだのを確かに確認した。
「いや、特にそんな現実離れした事例はここにはこなかったわね」
「噂としても聞いたことはないんですか?」
「さあ、どうだったかしら」
「怪物のことはこれからどうするんですか? 逮捕とか……するんですかね?」
「霜野さん」
突然、大堂刑事が太く低い声でわたしを制した。
「私らの質問にだけ答えていてください。そちらからの余計な詮索にはあまり応じられません」
「こら、大堂君」
大堂刑事はすごく怖い顔でそう言い、深見刑事は落ち着いて彼をなだめたが、彼の意見には賛同しているようだった。深見刑事のわたしに向けられる視線には余計な検索をするなとけん制するような思いが込められていたように感じた。
「深見さん、一紗ちゃんのお兄さんという方がお見えになられているのですが」
そう言いながら部屋に入ってきたのは若い刑事さんだ。左腕に包帯が少し巻かれている。
「加賀君、迎えなら外で待っているように伝えてきて」
「いえ、一紗ちゃんと話をしている方と直接話がしたいと聞かなくて……」
「ダメ、外で待ってもらってて」
こういう事情聴取みたいなのはたとえ身内であっても当事者以外は関わってはいけないのだろうか? とはいえ、こうして一人で二人の質問を受け続けるのも正直キツくなってきてる。何とかお兄に来てもらえたらいいんだけど……。
「そうだ! 兄から噂のことを聞いたんです。兄なら怪物のことについてもっと知ってるかも」
深見刑事と大堂刑事の二人は一度顔を見合わせて大堂刑事が深見刑事に何かを耳打ちすると、深見刑事はお兄がここへやってくることを許可してくれた。
そうして招かれたお兄を見て二人は一瞬驚いた表情をするが、すぐに元の引き締まった表情に戻るあたりさすが刑事さんといったところなのかな。
「いやあどうもお騒がせしてしまい申し訳ありません。妹が心配で飛んできたもので、下のおまわりさんには少々汚い言葉を吐いてしまいました。あはは」
白々しい笑い方だった。だけどふざけているわけじゃない。お兄はきっとあの怪物のことを聞き出そうとしている。『霜野一哉』とはそういう兄貴なのだ。
そんな兄貴に大堂刑事が質問する。
「あなたが怪物の噂を一紗さんに教えたというのですね? その噂をあなたがどこで知ったのかを教えていただけませんか?」
「その前に僕が来るまでに一紗と話していたことを教えてください。まだ右も左もわからない状況でしてね。それに僕からもお伺いしたいことがいくつかありますし」
大堂刑事はこれまでの話をわかりやすくまとめて少しの言葉で的確に表現した。お兄も理解したようで、さっきの質問に答える。
「友達から聞きました。夜な夜な街で怪物が人を襲っているってね。僕は怪物を実際に見てはいませんし半信半疑だったのですが、妹が実際に被害に遭ったということはその怪物は実在するのでしょうね。怖い話です」
「それだけなわけ? 噂については。その噂がどれくらい広まっているのかは知らないの?」
「はい、知りませんね」
「でしたらここでお引き取り願いたいのですが」
「僕からも質問させてくださいよ。ていうか、何でそんなに僕を避けようとするんですか? 寂しいじゃないですか」
「被害者の身内とはいえあまり世間に広まっていいような話ではないのですよ。わかりますか? いたずらに世間を騒がせる要因は作れないのですよ」
最初は爽やかな印象を受けた大堂刑事だが、今は苛立ちの色が表情に強く出ている。お兄も相手が苛立っていることがわかっているはずだ。なのにまったく退こうとするする様子を見せない。
「世間に怪物の存在が公になる前に警察は何をするのですか? まずそれが知りたい」
「当然それなりの対策を取らせてもらいます。ご心配なく」
「それは全国の警察が一丸となって行動を起こすほどのものですか? この署の警察だけで行う対策なんですか?」
「それはこれから検討をしていく次第です」
「それじゃあその対策とはなんです? 怪物の討伐ですか? それとも住民に避難勧告とか?」
「それもこれからの検討次第です」
「……まるで話にならない」
呆れたような言葉を吐くお兄だが、表情には何故か余裕があるように見える。いや、頭に手を当てていかにもそれらしいポーズは取っているのだが、どこか演技風なところがある。よほど怪物のことが知りたいみたいだ。
「それじゃあ根本的な質問をさせてください。一紗がわざわざここの署に連れて来られた理由は何ですか?」
「お答えできません」
「何故です?」
「それを言ってしまえば一紗さんにここへ来てもらった理由を言うのも同然なのでやはり言えません」
この返答にはわたしも納得いかない。早く帰りたかったのにちゃんとしたした理由もなくまた学校の近くにまで連れ戻されるなんて考えてみればムカつく話だ。わたしからも言ってやろう。でもなんて言おう? 待てよ、そういえばお兄は……。
「ここに怪物のことをよく知っている人がいるから連れて来られたんじゃないんですか?」
わたしがそう言うとこの場の空気が一気に緊張したように思えた。すごく居心地が悪い。何なんだ? 一体。この人達は何を隠しているんだ?
妹を車に乗せて警察署から家まで送り届けた後、車から妹だけを降ろして自分はそのまま梓ちゃんに連絡を入れた。
「お疲れ、良い働きだったよ」
何ということはない。妹を追いかけまわした蜘蛛の怪物は太刀川梓。そうさせたのはこの俺、霜野一哉こと木野裕一というわけだ。いつまでも優しい一哉お兄ちゃんを演じなくちゃならないのも疲れるものだ、まったく。
『警察の方々は何と言っていたんですか?』
一紗が怪物のことを知っている人がいるのかという質問をした時は心の中でガッツポーズをとったくらいだ。俺からそこまで踏み入ったことを聞いていたら流石に怪しまれるかと実はドキドキしていたからな。
「それなりの対策は取らせてもらいますとのことだ。俺の予想通り警察はレプリカのことを知っているだろう。何とか隠そうと必死そうだったよ」
電話の向こうで梓ちゃんは息をのんだ。自分がヤバイことをしたという自覚があるのだろう。
「薬を与えられたレプリカ達は色々と命令というか制約みたいなものを課せられているだろ? ん? その制約の一つに目立つような行動は取るなとかなんとかあるんじゃないのか」
『……』
「そして制約のことを話してはいけないということも」
『……あなたは一体何が目的でこんなことを』
「薬をいただいて一儲けさ。わかりやすいだろ?」
それもいいが、薬の力も手に入れたいとも思う。他人を自在に支配できるそんな夢みたいな能力があったらいいなと心から思う。
「引き続き騒ぎを起こし続けてくれ。警察のことをもっと知りたいから。頼んだよ」
このまま騒ぎが広まっていけば警察も動かざるを得なくなるだろう。しかし、それはあくまでさっきの署以外の話になるだろう。薬を与える側の人間が騒ぎを起こしたくないと考えるとなると、間違いなく梓ちゃんに接触を図るはずだ。その時がレプリカの親玉に会えるチャンスになるかな。
『私はいつまでこんなことを続ければいいんですか?』
「俺がいいと言うまでだ。というか、レプリカなんかになっておいて人を襲うのがそんなに嫌なのか? 君は何が目的で人間であることを捨てた?」
『……家族を守るためです』
力強い意志に満ちた物言いだ。この子の行動原理はすべてそこにあるというわけっだたか。俺にあんなことまでされておいて壊れずにいるのは全部家族のため……ね。
俺とは大違いだ。
「家族を守りたいなら俺に従え。忘れるな」
ポケットに携帯をしまい、少し背伸びをして家の中に入ろうと車から降りた。しかし、俺は今の行動を瞬時に取りやめて運転席に戻り、エンジンをかけて親父のワゴン車を急発進させた。俺をそのように行動させた理由は暗闇の向こうから飛来する巨大な蟲がかろうじて見えたからだった。
禁忌 3
夏場には鬱陶しくてたまらない蟲っているだろう? 小さくて羽音がやかましく刺されたら痒いあいつ。俺には片腕しかないものだからあいつを見かけたら手で潰さずにすぐさま殺虫剤をシュッと一発浴びせてやっつけているわけなのだが、現在法定速度を軽く超える速度で走っている車の屋根の部分に乗っかっている『あいつ』に殺虫剤は効きそうにないと思った。心から。
屋根のレプリカは俺が人通りの多い道路に出るとすぐさま飛び立ち空から追跡を行う。そしてまたとんでもないスピードで屋根に張り付いたと思うとあの恐ろしい攻撃が繰り出される。
「うおお!? くっ」
屋根を突き破って吸血の際の針のような口を突き刺してくるのだ。俺はこの日まで『蚊』をここまで恐ろしいとは思ったことがなかった。
ハンドルを瞬時に左右に切って振り落とす。レプリカは自身の身体が路面に接触する前に体勢を立て直して再び屋根にしがみつく。
蚊に刺された際の痒みは蚊の持つ麻酔によるものらしい。しかし、上の蚊は麻酔などほとんど使わずに刺してくるためとてつもない痛みが痒みに勝ってしまう。上手いこと避け続けてはいるが、頭に当たった時にはそれでアウトだ。そうでなくともすこしずつ血が吸われているためこのままでは俺が先に力尽きるのは目に見えているのかもしれない。じわじわとせりあがる痒みも鬱陶しい。
「おまわりからの差し金か……?」
俺は所詮レプリカの偽物だ。レプリカ相手に本物というのもおかしな表現だが本物よりかなり弱い。誠君と梓ちゃんに勝てたのは運みたいなものだったからな。今も運に任せて何とかなるのを待ってみるか……そんなに甘いわけはないか。
今は互いに不利でありながら俺には有利な点がある。それは互いの状況が明確にわからないことだ。そして俺に有利な点としてもう一つはレプリカの偽物であることを知られていないことがある。
だから蚊には俺が何をするのかわからないはずだし、何をしてきていたのかもわからないはずだ。
俺は屋根を突き破って伸びてきた針にできる限りの毒を塗り付けた。ハンドルを抑える手がないので少し恐怖感はあったが、そんな情けないことを言っている場合ではない。
それでも再び針は屋根を貫き、俺の左肩に深々と刺さった。しかし、これでいい。これで大量に毒を流し込んでやる。
それからは根競べだった。俺の血が空っぽになるまで吸われるのが先か、蚊に毒が回るのが先か。普通に考えれば俺の力の元になったレプリカの少しの力しかない俺の毒でレプリカを瞬時に黙らせることは多分無理だ。それに引き換え人間サイズの蚊が一度に血を吸う量は半端なものではない。本気で吸われたら一瞬で干物になるかもしれないのに、上の蚊は何故かそれをしない。相手を痛めつけるSな性癖でも持っているのか知らないが、それが運を分けることになる。
針がゆっくりと肩から抜かれた。勝ったのは俺の方みたいだ。とはいえこの出血では生身の人間だったら致死量ってヤツだろう。人間じゃなくてよかったと思った。心から。
フロントガラスの向こうに蚊のレプリカがフラフラと飛び去って行く様が見えた。レプリカの回復力なら数分後にまた襲い掛かってくるかもしれない。おそらく全力で。それよりもある意味怖いのはヤツが警察の手先であることだ。このまま俺を襲わずに俺のことを警察……というより薬の所持者に伝えられることがマズイ。いや、仮にヤツが本当に警察の手先ならヤツを始末しても怪しまれるのは同じか。
「先が思いやられるわ……こりゃ」
ボロボロになった車を止め、光の当たらない夜空でもがく巨大な蚊を眺めながらそっと呟いた。
蚊がもがき苦しむ夜空に近づくため、側に会ったビルの屋上まで少し休憩をしてからやってきた。ちょうどその場には蜘蛛の姿の梓ちゃんがいた。
「やあ、奇遇だね」
「何があったんですか?」
「これから話す。ここ、どう歩いたらいい?」
「縦の糸を踏んで歩いてください。横のはくっつきます」
俺の質問に彼女は事務的に応じる。
「チャンスだよ……俺を殺さないの?」
「……わたしは人殺しじゃない」
「そっか」
俺は車で闇雲に逃げていたわけじゃなかった。梓ちゃんの狩場へ一直線に向かっていたのだ。それでまんまとヤツは空中に仕掛けられていた蜘蛛の巣に引っかかったというわけだ。
ヤツの側に寄ると、既に変身が解けて人間の姿へと戻っていた。俺よりは年上だが若い女だった。全裸で糸に張り付かれている姿は正直興奮する。ていうかしている。苦しそうな表情から毒がまだ少し効いているみたいだということがわかる。よく見ると身体のいたるところに黒ずんだ痣のようなものが見える。多くは毒によるものだろうが、その中でも特に目を引いたのが鎖骨の少し下辺りの歪な痣だ。その痣によって化け物の姿に変わるのだろう。
「何故俺を殺そうとした?」
「……」
女は答えない。緊張した眼差しでこちらを見据えるだけだ。
俺は彼女の首筋に指を突き立て、毒を少しだけ流した。
「んぐッ!」
「何故俺を殺そうとした?」
彼女の緊張した眼差しは怯えを含んだものへと変わった。
「め、命令されたの」
「警察にか?ん?」
「ッ!?」
当たりだな。いきなり図星を突かれたことで表情がすべてを語ってくれたよ。
「あなたの名前は何だ?」
「ヒガキ……ジュン」
「ヒガキさんか、漢字は後で教えてもらうとしよう。OK、じゃあヒガキさん、俺はあなたを無事に帰すわけにはいかないということはわかるな?」
「う……うん」
「かといって俺はレプリカを殺す手段も持ち合わせているわけでもないし、あまりに残酷なことはしたくない。それにヒガキさんには利用価値がある」
俺は梓ちゃんに彼女を糸で拘束するよう頼み、下に止めてある車まで運ばせた。ヒガキさんをどうするのか、どうやって利用していくかはまだ考えていない。これからも俺に刺客がやってくるのかどうかもわからないが、可能性はあるかもしれない。
そういえばこの街にはハンターとかいうレプリカを狩り回っているヤツがいるそうだったな。ヒガキさんが戻らないのは上手いことそいつらのせいになることも考えられる。なんてのは甘えだろうか。
「私をどこへ連れていくつもりなの?」
「しゃべるな」
車にヒガキさんだけを乗せて梓ちゃんにはあと三日が経てばしばらく人は襲わなくてもいいとだけ言って車を走らせた。このタイミングで人を襲う動きがなくなったことを知られたら怪しまれるかもしれないと思ったので念のためだ。
「ヒガキさん、あなた達レプリカは何らかの方法で行動を制限されていたりしていませんか?」
「……だとしたら何なの?」
「自由になりたいとは思いませんか?」
「私は自由よ。君にはわからないでしょうけどね」
「本当に?」
「本当よ」
嘘ではなさそうだ。こういうの厄介だから嫌いなんだ。
「君、これから無事に生活できないと思うわよ」
「……でしょうね」
虚ろな背徳 1
霜野さんが言っていた巨大蜘蛛もとい蜘蛛のレプリカの件は一切の手がかりが掴めなくなってしまった。最近は波がプッツリと途絶えたように平和に時間が過ぎている。期末テストですべて平均点以下をたたき出した点についてはまったく平和ではないが、それはいい。いつものことだ。
僕は蜘蛛のレプリカの混乱乗じて警察と接触して写真の女に迫ろうかと思っていたわけだけど、その方法には期待できそうにない。だけど、方法がなくなったというのとは違う。僕は死体を上手いこと隠してくれていたナギ先生に感謝をしていた。
「第一発見者は君なんだね。とりあえず名前を教えてくれ」
ナギ先生が試験と称して僕に殺させた三人の老人と一人の少女。いや、少女を殺したのはナギ先生……もっと言うと二人の老人は寄生虫によって殺されたと言っていい。僕は彼らの死体を隠したナギ先生に隠し場所を教えてもらい、第一発見者を装って警察に近づいた。
「木野裕太です。えっと、ゆうたのゆうは余裕の裕で」
「ああ、大丈夫だ。とりあえず君を一旦署で保護する。ここは危険だからな」
若手の刑事と仏頂面のベテランそうな刑事が僕を車に乗せ、S高の近くにある警察署までは若手の刑事の方が送ってくれてその後の対応もしてくれた。確かこの若手の刑事は入間君の現場に写真の女といた人だ。あの時は腕を怪我していたっけ。
「この辺りは最近ひどく物騒だよな。ちょっと前は行方不明事件が多発していたんだ。犯人は君と同じくらいの高校生だったり、やたら力の強い女の子はファミレス内で暴力沙汰まで起こした。その女の子には怪我までさせられちゃったくらいさ」
「それは怖いですね。詳しいことは全然知りませんでした。僕の街でそれほどまでに悲惨なことが起こっていたなんて……」
末端には情報が行き渡っていないのかとぼけているだけなのか……今の段階ではわかりかねるところだ。
「そうだ刑事さん、巨大蜘蛛の噂って知ってますか? 友達がよく話しているんです。そいつが人を襲っているんだって」
「ああ、知っているさ。僕なりに捜査していたけど手がかりは掴めなかった。上に話してもちっとも取り合ってはくれなかったよ」
本当だろうか? パッと見て嘘をついているようには見えないが、どうなんだろう。
署に着いて案内された先はガラス張りの個室に小ぎれいなソファが二つ置かれていた。そこにやってきたのはスキンヘッドの屈強な男とあの写真の女だった。
「深見藍です。こっちは大堂君。リラックスしていいからね」
大人びた微笑を浮かべる深見さんと強面からはイメージできないような爽やかな笑顔で握手を求める大堂さん。この二人もレプリカなのだろうか。
僕を案内してくれた若い刑事さんを離し、事情聴取が始まった。若い刑事さんのは『加賀』という名前みたいだ。ここで得られる情報は覚えておくに越したことはない。
事務的な会話の中、僕は何も知らない一般的な高校生を演じながらひしひしと感じることが一つあった。
『若すぎる』
神田さんの写真はざっと二十年前のものだ。そこに写る女と深見さんの姿に大きな違いがまるで見られない。女性という生き物は二十年間も美しさを保てるものなのだろうか? レプリカになったら若さが保たれるのか? もしくは今僕の目の前にいる女は写真の女とは別人なのか? 様々な憶測が頭の中を飛び交った。言うなればここは敵陣のど真ん中である可能性がある。僕はどう行動するのが正解なんだ。
「木野君?」
「へ? ああ、すいません」
深見さんが僕を心配そうにのぞき込んだ。近づけられた深見さんの顔はやはり若々しかった。何の話をしていたのか、割と当たり障りのないことを話していたはずだ。それなら、アレを少し聞いてみるのもそろそろいいのかもしれない。
「あの、巨大蜘蛛の噂を知っていますか? 友達の一人はそいつに父親を攫われたと言っているんですけど」
友達の父親が攫われたなんてもちろん嘘だが、二人の表情は微妙に強張った。刑事として見過ごせない事件だからなのか、レプリカが世に知らしめられることを恐れてのことなのか……どうなのだろうか。
大堂さんが答える。
「我々に任せておけば大丈夫です。君は危ないことはくれぐれもしないよう気をつけてくれ」
「えっと……身内の方とかで、そういった噂をされていたとかはありませんか?」
「さあ、娘の学校では特に何もないみたいだけどね。君ってS高なんでしょう? その隣の中学校に通わせているけどそんな話は聞かないわね。正直、君がホラを吹いているようにも思うのだけれど?」
「中学生は大人が思っている以上に大人です。それでいて歳の近い僕らが思っている以上には子供だ。そんな掴みどころのない世代の子が何から何まで親に話すとは思えませんよ」
「随分と知ったようなことを言うのね、君は」
「ちょっと前まで中学生だったんですから、その辺の気持ちは大人よりは知っていると思います。あ、決して大人を貶しているわけじゃないですが」
深見さんは腑に落ちないといったような表情で話を修正する。大堂さんも今の発言をあまり快く思わなかったようだ。
「とりあえず巨大蜘蛛の件ね、君は安心していいよ。何とかしてみるからさ」
「はあ……」
ダメだ、僕にはこれ以上踏み入る勇気がない。『身代わり』が欲しい。僕の代わりにレプリカについてもっと踏み込んだことを誰かに聞いてほしい。これ以上聞いてしまうのは奴らにマークされる要因になるのかもしれない。夏川さんはまだいいとしても非力な僕の存在が知られることはそれだけでアウトなんだ。
だからこれ以上は何も聞かない。今後、僕は都合のいい身代わりを見つける必要ができたということがわかっただけでも進展はあったのか。
「…………」
娘……か。
虚ろな背徳 2
西満という人に会うのは久しぶりだった。入間君の一件以来の再開で正直二度とこうして面と向かう機会はないと思っていた。
僕は西満ことニシマンさんには良い印象を持っていなかった。いつも怒ってばかりですぐに周りに不平不満を当たり散らす子供のような先輩だと思っていた。そういう感情をコントロールしない人間は嫌いだった。
「この子がそうなのか? 深見らんってのは」
学校の近くのファストフード店の隅っこのテーブルに座る僕と夏川さんの前にいくつかの写真が提示された。これらはニシマンさんが携帯で撮って現像したもので、それらの指示をすべて行ったのは夏川さんだ。夏川さんにはニシマンさんを好きに扱える『とっておき』があるらしいが、それを僕に教えてはくれなかった。
「すぐ見つかったぜ。S中に深見らんを知らない奴はいねえ。後輩に聞いたらあっという間にわかった」
一枚の写真を手に取って奇抜な制服姿の少女の姿を目に焼き付ける。派手に染めた金色の髪の毛には赤いメッシュが入っていてびっくりするくらいに短いスカートを履いている。耳にはピアスが開けられていて見るからに不良少女といった様子だった。夏川さんとは違う、何だか軽そうなイメージの不良だ。そんな少女があの「深見藍」の娘である「深見らん」だった。
「確かに……こんなヤツは嫌でも目に付くだろうな、中学校なら」
「この子、友達は多いのかな?」
「逆だ。S中の生徒はこいつを避けてる。一応ギャルグループはあるにはあるらしいが、こいつは周りに分厚い壁を作っているんだそうで気取った奴としても見られている。そいで、結構トラブルが起こっていたらしいぜ?」
「へえ、見た目に依らず意外だね」
こういう感じの子は似たような仲間と四六時中群れているのが当たり前だと思っていたが、それは僕の偏見だったってことなのか。
「外で何してるかまではよくわからなかった。エンコーでもしてんじゃねえかって噂とかなら色々あったけどよ、まあこっからはそっちで色々やれよ。学校が関係しないのなら好きにやれるだろ?」
そもそもの話、僕が夏川さんに深見藍の娘のことを話して夏川さんがS中にコネを持っていそうなニシマンさんを利用したというわけだ。
「必要があればまた連絡する。今回は助かった」
そう言って席を立ち、指で何かを弾いてテーブルの上に投げ出した。それは百円玉だった。
「それ、バイト代ね」
「割に合わねえ」
「じゃ返せ」
僕と夏川さんは土曜日に集まって深見らんを探そうという結論に落ち着いた。探す方法はほぼ行き当たりばったりでしかなかった。それもそうだろう。こんな田舎の中高生が集まりそうな場所は駅前のショッピングモールくらいだろうと考えるくらいしか友達の少ない僕らには想像が及ばない。だから今日はそこに集まった。
夏川さんはショッピングモールの一階から六階までを貫く中央ホールに面した四階の席に座ってコーヒーを啜っていた。テーブルの上には五つの使用済みのガムシロップと同じ数の破かれたグラニュー糖の袋が置かれいる。
「ごめん、待ったかな?」
夏川さんの向かいに座って言うと、夏川さんはこちらをチラッとだけ見てコーヒーに目を戻した。
「とりあえずこれ飲み終わるまで待って」
「ああ、うん」
私服の夏川さんを見るのは久しぶりだった。僕らはレプリカのことに関してはいつも学校でひっそりと情報交換をしていたから。
制服という個性が封じられた装束から解放された夏川さんの姿は至って簡素なものだった。黒のタンクトップにそこら中で見かけるようなジーンズに迷彩柄のキャップ。少し使い古した感じのするスニーカーとアクセサリーは質素な腕時計だけしか身に着けていないという、同年代の女子の格好と比べたらすごく個性的な恰好のようにも思えた。
「深見らんってさ」
夏川さんがコーヒーに目を向けたまま話し出す。帽子の陰から見えた表情はどこか憂鬱そうだ。
「レプリカの娘なんだよな」
「多分ね。深見藍が薬を持っているかもしれないからっていう割と安直な判断によるものではあるけど、夏川さんはその辺どう思ってるの?」
「あたしは……」
夏川さんは腕を組み、天を仰いで考え始めた。屋内だから天井を仰いでと言った方が正しいのかな。
「わかんない」
「珍しく曖昧な態度だね」
「キミは深見らんがレプリカの娘だったら殺すのか?」
「夏川さんならどうす」
「今質問してんのはあたしだ」
そうだった。この人は質問を無視されることを人一倍嫌っている。しかし、今回はいつものようなあからさまな苛立ちの様子は見られない。
「能力を親から受け継いでいるのなら殺す」
「一応理由を聞かせてくれ」
「レプリカを殺す理由と同じさ。向こうに僕を殺す気がなくても強大な力を持っている以上、いつどんな形で僕に害が及ぶか想像できない」
それだけのことだ。言ってしまえば念のために殺してるだけだ。自分の平和な日々のためだけに。それ以上もそれ以下の理由もない。
夏川さんはそんなことを聞いてどうしたいのだろう。
「そっか」
それだけ言って夏川さんは席を立ち、深見らんを捜しに行くことになった。その声はどこか諦めたような力のなさがあった。
「何か僕に隠してない?」
「それを素直に言っちゃ隠し事の意味はないな」
「まさかとは思うんだけどさ……夏川さんはレプリカなんじゃないのか?」
普通に考えれば気づくことだったが言い出すタイミングがなかったんだ。夏川さんは強くて異常にタフだ。脚の治りもちょっと頑丈な人のという言葉には収まらないレベルなのだから。
僕の少し前を歩いていた夏川さんはピタリと足を止め、ゆっくりと振り返る。その表情はどこか人をからかうようでありながら、暗い何らかの不安のようなものを感じさせる不確かさがあった。
「あたしはレプリカの敵だよ」
「それで……僕の味方なの?」
重要なのはそこだ。
「キミがあたしを信用してくれているなら敵になることはまずないよ」
雑踏のど真ん中だというのに音がなくなった気がした。僕は夏川さんを信用しているのか? そう自身に問いかけてみても曖昧な答えしか見つからない。夏川さんがレプリカを狩る理由を僕は知らない。レプリカを全滅させてどうしたいのかも。
そんな相手を僕は信用していいのか?
「冗談だよ。あたしがレプリカなんかじゃないことは確かだ。ほら、深見らんを捜すんだろ」
いつもの口調でそう言って歩き出した夏川さんに対して僕は何も言うことができなかった。
深見らんを見つけたのは日が沈んでからのことだった。いや、もっと言うと街が夜になってからだ。
闇雲にモールをうろついていても埒が明かないと判断した僕らは二手に分かれた。僕はショッピングモールの最も人通りの多い出入り口を監視し、夏川さんはショッピングモールの他に人が集まりそうな場所を当たった。
そして、まもなく閉店時間という頃に差し掛かった時、深見らんは現れた。
痛々しく染め上げた金色の髪の毛をなびかせ、やけに大人っぽい服装にリュックを背負って閉店間際のショッピングモールにやってきた。写真で見た軽そうなイメージは一目で払拭された。彼女の持つ切れ長の目には他者を一切寄せ付けようとしない拒絶感が浮かんでいる。ひどい目つきだと心底思った。
深見らんは僕から少し離れた席に腰かけると、そのままじっと時が経つのを待っていた。
ほどなくして一つの店舗から小太りの中年男性が現れ、深見らんのもとへ歩み寄った。まさか父親? そう思ったがどこか様子がおかしい。並んで歩きだした二人の背中にはどこかぎこちなさがあった。何より、男性の深見らんへの執拗な手つきが一般的な親子である可能性を否定させる。
『外で何してるかまではよくわからなかった。エンコーでもしてんじゃねえかって噂とかなら色々あったけどよ』
まさかだろう。中学生の身分で本当にそんなことを?
追ってみるしかなかった。とりあえず夏川さんを呼び戻し、二人を尾行する。尾行していけばしていくほど二人が親子である可能性がより顕著に否定されていく。夜の街で実の娘と二人きり、そのうえ万札を四枚も渡す男親がいるものなのか?
「なるほど、そういうことをしてるのか」
合流した夏川さんはどこか冷めきった様子で深見らんのことを言った。レプリカにでも襲われてくれればすぐに本性がわかるかもしれないのにと夏川さんはぼやいたが、最近はレプリカの情報はない。強いて言うなら蜘蛛のレプリカが存在する可能性があったものの、蜘蛛に関する情報は綺麗に途絶えてしまった。
もしも僕がレプリカを手下にでもできていたなら、今すぐあの二人を襲わせてみるだろう。手段は思いつくのにそれができるはずもないというのはどこかもどかしい。
やがて二人は駅でタクシーを拾ってどこかへ行ってしまいそうになったが、夏川さんが別のタクシーを拾ってくれて「前のタクシーを追ってくれ」と運転手に言った。一度言ってみたかったそうで口角が若干吊り上がっていた。
数十分タクシーが走ると、閑静な住宅街にたどり着いた。そして、三階建てのマンションの中に深見らんと中年男性の二人は入っていった。
僕らも少し時間を置いてからタクシーを降りた。しかし、マンションの中に入られてしまったんじゃ僕らとしては打つ手がない。
「タクシー代が無駄になったな」
「僕は……あの公園で張ってみるよ」
そう言ってマンションから少し離れた公園を指さした。公園からはかろうじてマンションの出入り口が見える程度の距離だろうか、どちらにせよこの機を逃すわけにはいかない。深見らんと接触できれば僕はレプリカの重大な情報に近づけるのかもしれないのだから。
「キミ、焦りすぎてないか?」
「そう見えるかい?」
「普通のヤツならここで引き返すと思うけどね」
「普通のヤツがレプリカに勝てるとは思えないな」
夏川さんは「言うようになったな」と笑った。僕も笑った
公園にはブランコと象の滑り台とベンチの三つしかなかった。真夏の夜を過ごすには十分だろう。冬場なら風よけになるものがなくて厳しそうな環境だ。
誰かと二人きりで夜の公園で過ごすというのは以前にも経験した。僕は入間君を今と似たような環境の中で毒殺した。人を殺すことに思っていたよりも抵抗を覚えなかった自分が恐ろしい。
「キミがそこまで平和を追求する理由を聞いていなかった」
眠そうに欠伸をしつつ夏川さんは言った。
「よかったら聞かせてくれよ」
そう言われて僕は昔のことを思い浮かべた。忘れてしまいたくなるような……いや、忘れてしまいたかった過去の話だ。このことを誰かに知られるのはすごく嫌だと感じているし、誰かに話したことすらない。しかし、この話を知っている者は僕以外に存在する。この話の当事者だった人間がこの世界にはいる。
今の僕が僕であるのは忌まわしい過去の当事者である兄さんの影響が色濃く反映されているからだろう。
「怖いんだよ。予想だにしていない何かに日常を壊されてしまうのは」
今はまだそれ以上話す気にはなれなかった。やはり心のどこかで夏川さんを疑っているからなのか? それとも……最初から夏川さんを信用する気がないからなのか?
「誰だってそうじゃないのか?」
そうかもしれない。誰でも自分の知る世界が突然醜く変わってしまうことを望みはしないはずだ。だけど、自分の知る世界が醜く変わってしまう瞬間を経験した人間はどれくらいいるんだろう。僕の今の行動は後に世界が醜く変わってしまうことを阻止したことにもつながるはずだ。
「だからこそ、こうして僕は世界を救おうとしているのかもしれないね」
「あたしはレプリカを絶滅させることが世界平和になるとは思えないけどね」
「僕の世界が守られればそれでいいんだ。僕の知らない場所や僕のいない百年後の世界なんかに興味はないよ」
「情熱のない男は嫌われるぞ」
夏川さんはからかうように笑う。
「少なくともレプリカを始末することには情熱を燃やしているつもりだよ」
我ながら気の利かない返事のような気がした。情熱があったところで僕を好きになってくれる女性が現れるのだろうか?
会話が途切れてから音のないような時間が淡泊に流れていった。腕時計を確認すると深夜の二時を回っている。夏川さんは気まぐれにブランコを漕いだり滑り台を立ったまま滑り降りたりして暇を持て余していた。僕はその間、ただじっと深見らんが入ったマンションの出入り口を見つめていた。
眠気を感じ始めた頃には援助交際という言葉が何度も頭の中を巡っていた。表向きなのかどうかは知らないが刑事という職業である母親を持っておきながらなぜそんなことができるのだろう。もしくは深見らんは薬の売人で街で受け取った金は薬の代金だったのか? それなら金と薬を交換して終わりのはずだ。二人きりでマンションに入って長時間過ごす理由が見つからない。やはり僕の頭では彼女が援助交際をしているとしか考えられなかった。
女子中学生が援助交際をする理由を高校生男子なりに考えてみる。家庭の環境などの理由でお金を稼ぐ必要ができた。いや、そんなこと刑事の親が許すわけがない。だとすれば何になる? 深見らんは何のためにあんなことをしているんだ?
「木野くん」
思案にふけっていた僕を現実に引き戻したのは夏川さんの一声だ。いつの間にか僕の隣に腰かけている。
「交代で見張りをしよう。深見らんはよくて朝帰りってとこだろう。先にあたしが一時間寝る」
夏川さんの提案に了解の意を示すと彼女は象の滑り台の上で寝そべった。気に入ったのかな?
とにかく、これで僕はある意味孤独な状況に立たされてしまった。このまま日が昇るまでの間、どれくらい頭を働かせられるか正直自信がない。深見らんを監視すると言い出したのは僕の方であるが、今は深見らんを監視するというより眠気に打ち勝つという目的の方が大きくなってしまっている気がした。
やがて空が徐々に明るさを取り戻し、夏川さんと見張り交代して僕が二度目の眠りに落ちようとしたその時に動きがあった。
まどろみの中僕の頭を乾いた音を立てて叩いた夏川さんが目で合図をする。マンションの出入り口に人影があった。その人影は遠目からでもわかる髪の色をしている。そう、ついに深見らんのお出ましというわけだ。
深見らんは特に警戒する様子を見せることもなくこちらに向かって歩いてきている。対照に僕は身構えた。相手は何をするのかわからない。これは決して考えすぎだということにはならないだろう。
深見らんはついに僕らの目の前、声でのやりとりが難なく行える距離までやってきた。そして、僕と夏川さんを交互に見遣ってから言った。
「おたくら何? こんな時間までアタシのことつけ回して何がしたいの?」
どうやら尾行はとっくにバレていたらしい。
虚ろな背徳 3
爆弾を扱うことと同じ状況だと思った。深見らんが母親の味方であるなら僕らの正体がバレることがあれば勝ち目は完全になくなるかもしれない。もしそうなればここで始末するしかなくなる。下手をすればすぐにそんな状況に陥ることは簡単に想像できる。
深見らんの僕らを見る態度は一見すると苛立っているように見える。それ以上の感情は僕にはわからなかった。
「えーと、つけ回したっていうのは何のことかな? 僕らはたまたま―――」
「そういうのいい。ウザいから」
無意味か。予想はできてたけど。
「何なの?」
深見らんはそれだけしか言わなかった。彼女の質問に対してどう答えるのが正解なのか? 僕らはレプリカを全滅させるために根源である君のお母さんを始末しようと思っている。そのために君の力を貸してほしい。場合によっては人質として利用することにもなるかもしれないけどいいかな? と、そう言って説得を試みるのか? 馬鹿か。
ならば当たり障りのない嘘でこの場は切り抜けるか? 考えてきたものはいくつかある。だけどどれも確実じゃない。こういう時は妙なことをされる前に確実に言うことを聞かせられる状態にするのがベストだと思う。
幸い今は早朝。周りに人の気配はない。
僕は銃を取り出し深見らんの右足を撃とうとした。我ながら手荒な手段だと思う。だが相手が相手だ。こんなやり方を誰かに非難されることは問題じゃない。目的さえ達成できればそこに至った過程の見栄えくらいは良くなるさ。
僕は引き金には完全に指をかけていた。気持ち的には撃ったつもりであった。なのに、撃つことはできなかった。
銃を持つ僕の手首は夏川さんにガッチリと掴まれていた。それはもう、握り潰しにかかっているようなすごい力で。
「何のつもりなんだ? 夏川さん」
「それを使うのはまだ早い」
深見らんは驚きたじろいだ様子を見せたがすぐに落ち着きを取り戻し、今度はあからさまな警戒の色が表情に表れた。
夏川さんは力を緩めることなく一言「あたしを信じろ」とだけ言い、深見らんに向き合った。僕の右腕は固く握ったまま。
「場所を変えて話そう。なんなら朝飯奢る」
場所を変えて僕らが向かった先は二十四時間営業の有名ファストフード店だ。この前ニシマンさんと会った場所とは違うけど。
夏川さんはコーヒーを注文。いつも通りガムシロップとグラニュー糖を鷲掴みして。僕はまず深見らんに何がいい? と聞いてみると、彼女は何も言わずに一番値段の高いものを指さした。
「やっぱちょっとは払えよ」
「話が違う」
「遠慮を知ってから言え」
店内に僕ら以外の客は誰もいなかったが、それでも僕らは人目を避けるように一番奥の目立たない席を選んだ。まあ、これから話す内容を思えば当然だろう。
夏川さんは僕に絶対に撃つなと釘を刺してから話を切り出した。話題はもちろん、レプリカについてだったが、上手いことレプリカを連想させるような言葉を避けて深見藍についての情報を聞き出そうとしていた。
こんな回りくどいやり方でなくとも、深見らんを抵抗できないような状況にしてから根掘り葉掘り聞くことが一番手っ取り早かったのに。さっきの公園での状況ならやれたぞ。僕が銃を見せてしまった以上、僕らがハンターだと深見らんに悟られるのは時間の問題だ。
「キミはあのオッサンと何してたんだ?」
「ずっとつけてたんだから想像つくでしょ? アタシの口から言わせないで」
僕の拙い男子高校生の頭での予想は当たっていた。衝撃的ではある。
「何故そんなことを? 『親』とかに問題でもあるのか?」
「関係ないじゃん……あんたには。ていうか何なの? 何が知りたくてアタシと話なんてしてるわけ?」
「キミの家庭環境について知りたい」
「何で?」
「それには答えられない」
「おたくらハンターでしょ?」
いかにも自然な様子で深見らんは僕が特に恐れていた言葉を口にした。焦りの気持ちはあった。だけど慌てるべきじゃない。最大の問題は彼女が母親に服従しているかどうかなのだから。
「ハンターなんて知らない。だけどレプリカについては知っている。キミはレプリカか?」
そうだ、単純に嘘をつけばいい。とりあえずはそうするしかないが、それが一時しのぎにすらならないことは理解できていた。
「会っていきなり拳銃向けておいて何言ってんだか」
深見らんは僕の方を見てそう言った。咄嗟に「そんなんじゃないよ」と口に出したが、何がそんなんじゃないのかと自分でツッコミを入れたくなるような苦し紛れの言葉だった。
「ああ、ひょっとしてアタシのこと警戒して嘘ついてる? まあそうだろうね。レプリカはヤバイもんね。ハンターが誰かさえわかっちゃえばすぐに殺されるだろって思ってるっしょ」
飄々とした態度は余裕の表れなのか? ハンターと呼ばれている僕らはレプリカ達にとっては危険な対象のはずだ。普通は慌てる様子を見せるだろうと思っていたし銃を向けた時だって慌てていた。だけど、何なんだ? この妙な違和感は? 深見らんから敵意と呼べるような感情がまったく見受けられないのは一体。
「アタシはレプリカでもないしおたくらの邪魔をする気もない。中立なの。アタシを訪ねてきたってことはきっと『あの女』のことを嗅ぎ付けたんでしょ? だからそんな危険人物の娘であるアタシを警戒するのは至極当然のこと……そんなとこでしょ? どうせ」
「……信用できると思う?」
僕は率直に思ったことを言った。それにしても母親のことを「あの女」呼ばわりか。それだけ不仲だから深見らんはあんなことをしているのだろうか。
「信用しなくても話はできる」
夏川さんは一言吐き捨てるように言った。そして、僕を睨み付けてから続けた。
「キミの能力は何だ? 親から受け継いでいるはずだ」
夏川さんの睨みは僕に深見らんを殺すなという意味合いだったのだろうか。昨日、僕は深見らんが親から能力を受け継いでいるなら殺すと言ってしまったせいだろう。
「言わなかった? 中立なの。どっちかが有利不利になるようなことは言わない。レプリカなんて親が勝手にやってるだけで娘のアタシには何の関係のない話。そういうわけだから」
深見らんは言い終えてから食べかけのバーガーを頬張りながら席を立った。
冗談じゃない。このまま帰せるわけがない。中立なんて便利な言葉を使ってはいるが、それを裏付ける証拠なんて何もない。
僕は深見らんに待てと命じた。身動きできなくさせてやりたかったが、ここは店の中だし夏川さんの目もある。
深見らんは面倒くさいそうに僕を振り返った。
「君が中立の立場ならそれを僕に信じさせてみろ。それができないならレプリカについての情報を一つ喋ってもらう。そうでもしないと割に合わない。君は僕らというハンターだと疑わしい人間の情報を掴んだんだから」
これくらいなら問題ないだろう? と夏川さんに確認を取ると、夏川さんは頷いてくれた。
深見らんは来るんじゃなかったと言うように大きくため息をついた。ため息をつきたいのは僕も同じだ。
「大堂っていうゴツイおっさんには気をつけな。あの人に狙われたらホントの
「……どうせなら君のお母さんのことを知りたかったな」
「あの女に近づくんならどう頑張っても必ず大堂とやり合うことになるよ。ま、大人しく手を引いた方が身のためだね。それじゃ」
「待て」
今度は夏川さんが深見らんを呼び止めた。二度も呼び止められたことで苛立ったのか、舌を打って横目で夏川さんを見据えた。いつの間にか夏川さんの口には火のついた煙草が咥えられていた。まホントにもうおしまい。とんでもない馬鹿力のレプリカってことだけ頭に入れておくといいよ。ハンターであろうおたくらがどれくらいのレプリカを狩ったか知らないけど、あの人とだけはやり合わないで逃げるんだね」た、手元には何かが書かれていたノートの切れ端のような紙があった。
夏川さんはその紙を彼女に手渡し、言った。
「情報ありがとう。何か困ったら連絡しな」
「はあ?」
素っ頓狂な声を深見らんは上げた。僕も上げた。夏川さんが手渡した紙には彼女の携帯電話番号が書かれていた。
「何のつもりなのさ?」
「疑うような目で見るなよ。ただの親切心さ。身体だけが目当ての男よりは気楽に頼れるだろ?」
女でしかわからない友情のようなものなのだろうか? 男である僕には想像も及ばないが、夏川さんが他人にこんなに親切心を見せるのは初めて見た。何を考えているんだ? 夏川さんは。信頼を得てから少しずつ情報を得ていくつもりなのか? そうであれば心強い気はするが、そうでなかったら僕はどうなるんだろう。
輪郭のない不安が僕の心に満ちていく。深見らんのことは信用できないし、夏川さんの妙に深見らんを庇うような姿勢も僕には理解できない。こんな不安はすぐに拭い去りたい。そのためには何としても深見らんを逃がすわけにはいかないが……今後のことを考えると殺すわけにもいかない。僕は未だに深見藍のことについて理解できていないのだから。
殺したい。だけどできない。もどかしいと思う。
「好意は受け取る」
不愛想にそう言って夏川さんの手から紙切れを取り、去っていった。
僕が夏川さんよりも強ければこんなことにはならなかったのだろうか? 貴重な情報源をみすみす逃してしまうなんて……。
「不服そうだな」
夏川さんが大きく煙を吐き出して言った。
「不服じゃないわけないだろ」
「あの子のこと……あたしに任せてくれないか?」
「夏川さんは……深見らんのことをどう思っているんだ」
「気になるんだ。個人的に」
「馬鹿じゃないのか? その程度の理由で逃がしたっていうのか?」
「馬鹿はキミだ。野蛮なやり方だけがすべてじゃない。最近のキミちょっと変だぞ」
「相手が相手だ! 上のヤツらに僕らのことを知られたらアウトなんだ!」
こんな風に激昂したのはいつ以来だろう。僕は初めて女子に向かって大声を出した。大声を出して鬱憤が晴れたわけではない。夏川さんを説得できたとも思えない。ただ、自分に対して虚しい気持ちが湧いただけだ。
「今日は帰るよ」
「あの子、殺すなよ?」
夏川さんは深見らんを殺せばお前も殺すとでも言いたげだ。
「善処するよ」
平穏の裏側 1
僕は何をしていたんだろう。夜通しで中学生をつけ回した挙句何の成果もなくその子には逃げられた。夏川さんは深見らんを気に入りでもしたのか。不良どうしで通じ合える点でも見つけたのか? だとしても納得いかない。
「……ムカつくな」
あれから一晩経っても思い出しただけで途方のないやりきれなさと理不尽さが僕を襲う。僕にもっと力があればあの場で二人を屈服させて思い通りに事が運べたのだろうか。だけど面白くないことに僕はパチモノにはなれない。レプリカになれるかはわからないが、なりたいとは思わない。腐っても僕は人間なのだから。
ベッドから重たい身体を起こして時計を確認すると授業開始までほんのすぐだった。どうしようか……今から急いだところで遅刻は間違いないし、電車の時間も合わない。何より面倒だ。月曜日だし。
ぼーっと寝起きの頭を働かせて結論を出す前に、僕はもう一度ベッドに身体を倒した。それがある意味では結論であった。
だけど、僕は再び眠りに落ちることはなかった。
どうにかして眠ろうと身体を丸めて心地の良い姿勢を模索したりタオルケットの位置を調整したりなど数十分間芋虫のようにもぞもぞとしていた。
何だかこうしていつまでもベッドにすがりつくのも面倒に思えてきた僕は今度こそ身体を起こし、自分の足で立ち上がった。家族は今家にはいない。歯磨き、洗顔と一通りの身なりを整えてから朝食を買いに近場のコンビニまで足を運ぶことにした。おにぎり系統かパン系統かどちらにしようかとくだらないことで頭を働かせながらのろのろと歩いていると、背後から迫る軽自動車に唐突にクラクションを鳴らされた。
不愉快だと思った。クラクションを鳴らす人は嫌いだ。正直、死ねばいいと思うくらいに。
「なーにやってんだい?」
僕が死ねばいいと思ったドライバーは僕の側まで車を寄せて停止し、窓から顔を覗かせ馴れ馴れしくそう言った。
「ナギ先生?」
「授業はとっくに始まってるよ。でもそのカッコじゃ学校に行く気はさらさらなさそうだね。成績が悪いくせに堂々とおサボりとはずいぶんと余裕があることで」
そう言うナギ先生の恰好は上下とも真っ白なジャージで不良っぽく見えた。少なくとも人前で生物の授業をするような恰好ではないと思う。僕はそんな教師に会ったことはない。
「そういう先生は何してるんですか? 授業はとっくに始まってるんでしょう?」
「教師だっておサボりしたくもなるさ。今頃生徒諸君は自習という名の休み時間ができて喜んでるところだろうさ」
「サボりって……怒られないんですか?」
「怒られるだろうね。最悪クビかも。先生は他の先生ウケがあまりよろしくなくてね。職員室じゃ話し相手がいないんだよ」
ナギ先生は笑顔でそう話すがどこか嘘くさく、本当のような気もした。正直僕もこの人のことは好きじゃない。何を考えているのか何がしたいのかがちっとも見えてこないからだ。
「乗りなよ、ごはん奢る。募る話もあることだろうしね」
「わかりました。お言葉に甘えて回らない寿司なんかどうですか? おいしいですよ」
「ざけんな」
普段なら間違いなく断る誘いだ。しかし、今僕は「募る話」がある。とても大事な話だ。車に乗るということで僕は先生に対し優位に立てる。後部座席に乗れば、先生を始末することができるかもしれないと考えた。
平日の近所の道路は閑散としていた。みんな仕事に行っているんだろう。周りに人は全然いない。
「木野君は先生のことが嫌いなのかい? 前は助手席にちょこんと座ってくれていたじゃないか。何だってまた後ろに座ったりなんてするんだよ。寂しいじゃないか」
ナギ先生は運転しながら相変わらずの軽口をたたいた。
そんな先生の後頭部に銃をそっと押し当てた。厳密には車のシート越しではあるが、このくらいなら弾は貫通するだろう。
「感心するよ参考書を持ち歩かないで拳銃持ち歩くなんて。殺人がバレる前に銃刀法違反で君捕まるんじゃないの?」
「その耳はどうした?」
ナギ先生は前、僕に対して誠意を見せると言って自身の耳を躊躇することなく削ぎ落とした。ナギ先生の側頭部に開いた穴の形は今でも覚えている。中々みられるものじゃないからね。
そんな耳がまるで傷口の辺りだけ時間が戻ったかのようにあるべきはずの器官が元通り存在してた。傷跡も違和感も何もなく、そこには確かに耳があった。
「治った」
「どうやって治した?」
「治したわけじゃない。治ったんだよ。自然にね」
「妙なことは言うな。僕はいつでもあなたを殺せる」
「君は切った爪がまた生えて『どうやって生やした?』なんて聞かれたら気合で生やしたとでも言うのか? そういうことさ」
「シンプルに聞く。あなたレプリカですよね?」
「シンプルに答える。ワタシはレプリカじゃない」
僕は引き金を引いた。確かに言ったよ、妙なことは言うなって。
弾は確かにナギ先生の頭を貫き、先生の血は車内を点々と赤く染め、真っ白なジャージには大中小と赤いドット模様が新たに付与された。ナギ先生の頭はゴツンとハンドルに倒れ、車はコントロールを失った。
このまま心中なんてごめんだ。僕は身を乗り出してハンドルを握り、そのまま上手いことブレーキペダルのある位置まで足を伸ばした。死体の処理は考えなくていい。ナギ先生はもうただの塵になるのだから。
こうして僕は世界を救う