賢者の部屋の秘密

お題『赤毛で睡眠不足な青年と高飛車で女学生な少女の最終回』

前編

 彼の部屋は薄暗く、埃っぽいような薬品臭いような、何ともいえない匂いに満ちている。
 あらゆる形状の書物や紙片が堆く積まれて山脈を成し、あちこちで雪崩が起こっている有り様だ。壁の棚には燐光を放つ鉱物やら干からびた生物の標本やら、やたらと気味の悪い品々がぎゅうぎゅうに詰めこまれていた。
 そして床に描いては消され描いては消されをくり返し、すっかり模様のようになってしまった魔術陣の白い痕。そういえば彼の指はいつもどこか粉っぽく、噛み癖のある短い爪の奥まで真っ白だったとふと思い出した。その証拠のように、握り潰された白墨の残り滓が魔術陣の周囲に散らばっていた。
(魔術師の研究室というのは、どこもこんなに汚いところなのかしら)
 クラリーセの身近にいる魔術師といえば彼くらいで、比較対象がいないためによくわからない。しかし、魔術師であることを抜きにしても彼がだらしない男だということはいやというほど知っている。
 当の部屋の主は留守だった。今頃は王宮の夜会で慣れない礼服に着られながら、華やかな淑女たちに取り囲まれて鼻の下を伸ばしているに違いない。
 クラリーセは眉根をきゅっと寄せると、余計な妄想を頭から振り払った。
(そんなことを考えている場合ではないわ!)
 裾を汚さないようにスカートをたくし上げ、おそるおそる魔術師の領域へと踏みこむ。この数年、毎日のように通った部屋だが、クラリーセが入ることを許されていたのはごく手前の空間までだった。軽口やちょっとした喧嘩すら交わすようになっても、それだけは変わらなかった。
 彼は、クラリーセの父が目にかけていた若手の魔術師だった。貧しい市井の生まれのために豊かな才能の原石をなかなか見出せられず、いざ学舎に進んでからも身分を理由に爪弾きにされていた。それでも独学で研究を重ね、せっせと書いては発表し続けていた論文が、たまたま父の目に留まったのだ。
 父は貴族の嫡男でありながら、若い頃は魔術に傾倒し、しかし才覚のなさを理由に泣く泣くその道をあきらめたという変わり者だった。魔術の才には恵まれなかったが商人としての才には富んでいたらしく、事業を成功させて家名ばかりとなっていた生家を見事に立て直してみせた。
 妻を娶ってひとり娘を儲け、それなりに年を取ってなお、青春時代の情熱を忘れられなかったらしい。父は彼に援助を持ちかけ、書生として屋敷に住みこみ、好きなだけ研究に没頭できる環境を提供した。そこで彼は大いに才能の花を咲かせ、わずか数年の間にこの国の魔術史を塗り替えるような発見を連発した。
 彼の打ち出した理論や術式によって魔術の技術力は驚異的に躍進し、国の文明水準は一夜で百年進化したとすら謳われた。もはや国内どころか世界中で彼の名を知らぬ者はなく、最も優れた魔術師に贈られる『賢者』の称号を彼が手にすることに、だれも文句など唱えるはずがなかった。
 今宵、彼は国王じきじきに最高位の勲章と相応の爵位、そして栄えある『賢者』の名を授与される。夜が明ければ、決してクラリーセには行き着くことのできない場所へ去ってしまうのだ。
(きっと二度とこの部屋には帰ってこない……もしかしたら、王宮に住むことすら許されるかもしれない)
 そう思うだけで、ツンと鼻の奥が痛んだ。慌てて瞬いたが、じわじわと涙とともに滲んでくる本音を隠すことはできなかった。ぽろりと雫がひと粒こぼれたかと思うと、あっという間に頬が塩辛く濡れた。
 クラリーセは嗚咽に喉を震わせると、とうとう顔を両手で覆ってうずくまってしまった。
 ――たまたま耳にした父と彼の会話で、彼への縁談を知った。
 王族の系譜に連なる名門のさる当主が、ぜひ娘婿になってくれないかと持ちかけてきたらしい。もちろん彼には王宮つきの魔術師としてこの上ない地位と援助を約束する、という好条件を添えて。
 彼を実の息子のようにかわいがっていた父は、自分のことは気にせず彼の好きなようにしたらいいと言った。彼はひっそりと眉をしかめ、「考えさせていただきたい」と唸った。
(でも、答えなんて最初から決まっているわ)
 何しろ彼は父に負けぬほどの魔術かぶれで、魔術馬鹿なのだから。
 一に魔術二に魔術、三四がなくて五に魔術。彼の日常というか人生を言い表すとしたらまさにそれだ。研究にのめりこむあまり、寝食どころか顔を拭くことすら忘れて目脂で瞼が張りついたなんてことはしょっちゅうだった。
 そんなだらしないどころか不衛生極まりない男のどこがよかったのか、自分で自分を問い質したい。鳥の巣のほうがよほどましな錆色の髪、寝不足が当たり前のために濃い隈のある目、おまけに無精髭。ひょろりとした長身は猫背のせいで不格好な印象を与え、ずるずると引きずるような長衣がそれに拍車をかけている。
 極めつけはその口の悪さだ。恩人の娘(しかもひと回り近く年下の相手に、だ)だろうと歯に衣着せぬ物言いで容赦なくやりこめ、何度泣かされたことか。クラリーセもクラリーセで気の強い子どもだったから、仔犬のようにキャンキャンと噛みついた。おかげで出会った当初はかなり殺伐とした関係だった。
(それが変わったのは……あの魔術じかけの小鳥を貰ってからだわ)
 屋敷での暮らしが半年を過ぎようとしていた頃、彼はちょうど当時の研究に行き詰まっていたらしい。そこへ父からの期待が重圧となり、かなり荒んだ生活を送っていたようだった。今思うと、げっそりと痩せこけ、まるでこれから憎い仇でも殺しに行くような顔をしていた。
 そんなある日、いつものように彼と鉢合わせたクラリーセは、いつものようにこまっちゃくれた口を利いたのだろう。日頃の彼ならば皮肉ひとつで受け流すところだったが、そのときに限って燻っていた鬱憤に油をたっぷりと注いでしまったのだ。
(確か、誕生日の祝いにお父様からいただいたきれいな小鳥を自慢したのよね。そしたら彼に鳥籠を取り上げられて、小鳥を窓の外へ逃がされてしまったんだっけ……)
 緑松石(ターコイズ)のように艶やかな青色をした、人懐っこく愛らしい小鳥だった。クラリーセの指先にちょんと乗ると、ピチュピチュと歌うようにさえずるのだ。それなのに鳥籠の扉が開くとあっという間に逃げてしまい、悲しいやら悔しいやらでクラリーセは大泣きした。
 泣きじゃくる少女の前で立ち尽くす彼の、ひどく途方に暮れた顔をよく憶えている。
 それから一週間ほど、ふたりは徹底的にお互いを避け続けた。クラリーセは決して彼の部屋に近づかなかったし、彼も部屋に閉じこもっていたらしい。父も母もすっかり手を焼いて、成り行きを見守るしかなかったようだった。
 しかし、膠着していた冷戦は思わぬ形で終結する。
 ある朝、クラリーセが目を覚ますと、きらきらと輝く小鳥が窓辺に止まっていた。それは逃げてしまった青い小鳥によく似ていたが、真鍮でできた人形だった。驚くクラリーセの目の前で、金属の小鳥はまるで生きているかのように羽ばたき、空っぽの鳥籠の中へ器用に入りこんだのである。
 ピィ、という鳴き声はおもちゃの笛の音だった。
 慌てて鳥籠を抱えて部屋を飛び出したクラリーセは、朝食を取っていた両親に朝の挨拶も忘れて小鳥の人形を見せた。すると父と母は顔を見合わせ、「ある『魔法使い』からおまえへの贈りものだそうだよ」と微笑んだ。
 彼のことだというのは、幼いクラリーセにもすぐわかった。彼女は再び走り出すと、あれほど避けていた彼の部屋の扉を何度も叩き、不機嫌そうに寝起きの顔を覗かせた『魔法使い』に飛びついたのだった。
(あれから、だんだん好きになっていったんだわ……)
 クラリーセと彼は、年の離れた悪友のような関係を築いていった。遠慮というものが一度なくなってしまうと、お互いに好きなことをずけずけと言い合うようになった。しかし、他のだれにも持ちえないその気安さがとても心地好かった。
 彼はクラリーセを他の使用人のように『お嬢様』ではなく『お嬢さん』と呼んだ。「あなたは私の小さな友人だから」といたずらっぽく笑う彼の言葉が、くすぐったく胸に響いた。
(本当に、あのひとの友人のままでいられたらよかったのに……)
 生まれてはじめて家族ではない異性に覚えた好意は、いつしか淡い恋心になっていった。それは少女にとってごく自然な変化だった。女学校に通うようになると、ふとした瞬間に彼が自分よりずっと大人の男性なのだと意識してしまい、ひとり舞い上がったり慌てたりした。
 だがどんなに時が流れようと、彼の態度が変わることはなかった。彼にとってクラリーセはいつまでも『小さな友人』でしかなく、それ以外の何者にもなりえないのだ。
 尊く特別に感じていたその関係は、小さな棘になってクラリーセの胸の奥に突き刺さり、彼と過ごす無邪気な幸福を疼くような痛みに変えた。きっと、この棘は生涯だれにも抜くことはできないだろう――彼以外には。
(いつかこんな日が来るとわかっていた。あのひとがこの部屋から消えて、わたくしはあのひとの一番近くにはいられなくなる。小生意気でかわいらしいだけの女の子には決してなれない、あのひとだけの、大切なひとが……)
 彼は知りもしないのだ。クラリーセがもうすぐ女学校を卒業し、ほんの少し先の未来にはだれかの花嫁になるということなど。
 とびっきりとはいかなくとも、クラリーセはそれなりに見目のよい娘だった。濃い金色の髪を絹のリボンで編みこみ、すんなりとした手足を藍色の地に白い襟が映える女学校の制服に隠した姿は、いかにも清楚で品のいい令嬢に見えた。肌は白く、甘い林檎のように色づいた唇は形よく微笑む。
 唯一の欠点といえば、父親譲りの吊り上った野葡萄色の双眸だった。どうやら生来の負けん気の強さがまなざしに表れてしまうようで、うっかり気位の高い相手と視線が合うと「なんと卑しい目つきなのか」と顰蹙を買ってしまうのだ。おかげで女学校や社交の場に出るときには、しおらしく目を伏せる癖がついた。
 彼はいかにも馬鹿馬鹿しそうに「そんなくだらない連中なんて鼻で笑って相手にしなければいい」と言っていたが、貴族の家に生まれ、唯一の跡取り娘であるクラリーセはその意見に同意してはいけなかった。
 いずれ彼女は相応の相手を選び、父から家名を譲り受ける婿を取らねばならない。それは遠い将来のことではなく、現に父の許にはいくつかの縁談が持ちこまれている。
 父はクラリーセとこの家にふさわしい若者を選りすぐり、彼女が卒業を迎える頃にそっと見合いを勧めるだろう。愛娘には甘い父のことだから「おまえが気に入らなければ断ればいいのだから」なんて言うかもしれないが、クラリーセは微笑んで受け容れるつもりだった。
(もう子どもではいられない。あのひとの小さなクラリーセのままでは。わたくしにはこの家を、お父様の功績を守り、受け継ぎ、そして末永く伝えていく役目がある)
 彼のように貧しい、あるいは身分が低いというだけで有望な将来を閉ざされる若者が少しでも減るように。移ろう時代が、この国の可能性を担う芽吹きを踏みにじる暗澹へと向かわぬように。
 それが、誉れ高き賢者の『小さな友人』である自分の矜恃であり使命だと思うのだ。
(だからこそ、未練は捨てなければ)
 クラリーセは涙を拭い、赤く泣き腫らした目で前を睨んだ。彼が帰ってくるまでに、この部屋のどこかにあるだろう手紙を探し出さなければならない。
 かつて、幼く愚かだった自分が密かに隠した、彼への恋文を。

中編

「何かお探しですか? お嬢さん」
 聞こえるはずのない声に呼ばれ、クラリーセはびくりと肩を震わせた。
 慌てて振り返ると、ひょろりとした長身を気怠げに扉へ凭せかけた彼がいた。赤みの強い髪を後ろに流し、漆黒の礼服に身を包んだ姿は、意外にも様になっている。無精髭をきれいに剃り落とし、目元の隈を脂粉で薄く隠しているせいか、いつもよりずっと健康的な紳士に仕上がっていた。
 しかし、クラリーセをじっとりと半眼で見つめる緑灰色の双眸には、見慣れた皮肉屋の笑みが浮かんでいた。クラリーセはきゅっと眉根を寄せて男を睨み返した。
「……ずいぶんとお早いお帰りね、賢者殿」
「ええ、貰えるものだけ貰ってとっととずらかってきました。煩わしい連中の相手をしているほど、私は暇ではないので」
「またお父様が甘やかしたのね。あなただって爵位を賜ったからにはれっきとした貴族なのだから、そういう方々のお相手をするのも必要な仕事の内ではなくて?」
 すると、彼はわざとらしく肩を竦めてみせた。
「爵位とはなんのことですか? 私はそんなものは一切貰っていませんが」
「……え?」
 きょとんと瞬くクラリーセに、彼は唇の端をゆるく吊り上げた。ハッと気づいたときには距離を詰められ、長身を屈めるように彼が片膝を折って顔を覗きこんでいた。
「私が国王陛下からいただいたのは、〈真赭(ますほ)の賢者〉などというたいそうな称号だけですよ。貴族の身分も重苦しいだけの勲章も、すべて辞退させていただきました」
 クラリーセは今度こそ茫然とした。何度も何度も彼の言葉を反芻し、悲鳴を上げる。
「あっ、あなたなんてこと……!」
「大きな声を出さないでください。旦那様にお許しをいただいたとはいえ、途中で祝いの席を抜け出してきたと知られたら奥様から大目玉を食らう羽目になる。お嬢さんだって、なぜ私の部屋に忍びこんだのか問い質されたくないでしょう?」
 恩人である父にすら飄々とした態度を取る彼だが、母のことは昔から苦手らしい。魔術狂いの変わり者と呼ばれた男に嫁ぎ、一代で家を建て直す苦労を内助の功で支えた母は、聖母の微笑みと烈婦の豪胆さを併せ持つ女だった。やはり一代で貴族に成り上がった商家の出で、実家で培った知識と生来の機転で幾度も夫と婚家の危機を救ったそうだ。おかげで政略結婚であるにも関わらず夫婦仲はたいへん睦まじく、娘が嫁入り前の年頃になった今なお新婚のような熱愛ぶりである。
 そしてこの屋敷の頂点に君臨するのは、実は当主たる父ではなく母だったりする。普段は良妻賢母の鑑のように夫を立てている彼女だが、決して譲らぬ部分は巌のごとくびくりともしない。クラリーセの知る限り、夫婦喧嘩(というほど両親のそれは激しくないのだが)で父が母に勝てたためしは一度もない。にこにこと笑いながら叱る母ほどおそろしいものはない、というのがクラリーセと彼の共通の認識だ。
 彼の指摘に、クラリーセはぐっと押し黙るしかなかった。たとえ家族同然の間柄とはいえ、未婚の若い娘がやはり未婚の男の部屋に忍びこむなど許されることではない。
「ところで、お嬢さんはいったいなんのご用で私の部屋に?」
 ささやくような低い声に驚くほど近く問われ、クラリーセはぎくりと全身を強張らせた。扉に続く前方を塞ぐように彼がいるため、逃げ場は部屋の奥しかなかった。
 ずるずると座りこんだまま後ずさるクラリーセに、彼は面白くなさそうに目を細める。広がったスカートの裾を押さえられ、少女の喉がひゅっと小さく鳴った。
「……あれほど私の部屋には勝手に入らぬよう、口を酸っぱくして言いましたよね? 魔術師の研究室というのは危険な薬や品がどこに転がっているかわからないんですよ。もしあなたがうっかり暗殺用の呪いでも発動させて死んでしまったら、私は旦那様や奥様にどんな顔を向ければいいんですか」
「そ、そんな物騒なものをどうして持っているのよ!?」
「あくまでたとえ話です。しかし、あなたを簡単に傷つけられる魔具があることも事実です」
 淡い灰色に煙るみどりの瞳の奥で、冷え冷えとした怒りが炎のように揺らいでいる。研ぎ澄まされたナイフよりも鋭く彼の言葉はクラリーセの良心を抉り、彼女は唇を噛んで俯いた。
「……ごめんなさい」
 膝の上で痛いほど握り締めた両手が小さく震えた。引っこんだはずの涙がこぼれ、青ざめた手の甲にぽたりぽたりと落ちる。
 彼はそっとため息をついた。
「何をしようとしていたか、お聞きしても?」
 呆れたような、だが優しい口調で問われ、クラリーセは唇をいっそうきつく噛み締めた。言えるわけがなかった。
「お嬢さん」
 再び言外に促されるが、クラリーセは黙ったまま頭を振った。ぱたぱたと涙が散り、埃の積もった床に点々と痕を残した。
 嗚咽だけでも洩らさぬよう必死に押し殺していると、とうとうぷつりと下唇の薄皮が破けた。滲む苦い血の味にクラリーセはなんともみじめで情けなくなり、ますます涙が溢れてどうしようもなくなった。
(今すぐ彼の目の前から消えてしまいたい……)
 ――その手紙をしたためたのは、女学校に上がって間もない頃だった。
 彼への恋心を自覚し、なんとか振り向いてもらえないかとまだ甘い幻想に浸っていたときの話だ。どれほど思わせぶりな振舞いをしてみせてもとんと気づかぬ彼に腹が立ち、悔しさに駆られるまま思いの丈を――今になってみれば悲鳴を上げて転げ回りたくなるほど恥ずかしい内容の――書き連ね、彼が広げたまま放り出していた魔術書の(ページ)の間に挟んで隠したのだ。
(思い知ればいいなんて、なんて恥知らずで浅慮だったの!)
 その後もやはり彼は相変わらずのままで、手紙は見つかることなく部屋のどこかで眠っているはずなのだ。今となっては早急に回収し、びりびりに破いて燃やし尽くしてしまいたい。いいや、必ずや成し遂げなければならない。
 それなのになぜ彼が目の前にいるのか。追い詰められたクラリーセはすっかり顔を上げることができず、狼の牙に晒された野兎のように震えることしかできなかった。
 黙秘を続けるクラリーセの耳に、二度目の嘆息が重々しく響いた。お嬢さん、と彼は少し温度を下げた声で彼女を呼んだ。
「あなたは昔から利口なようで向こう見ずな跳ねっ返りですね。……でもね、私はそんなお馬鹿なあなたが嫌いじゃありませんよ」
 密やかに続いた言葉に、クラリーセはわずかに困惑した。掠れ気味の口調が、まるではじめて聞いたもののようだったのだ。
 不意に乾いた男の指先が顎にかかり、更には唇に触れた。荒れた肌の冷たさに、クラリーセは濡れた双眸を見開いた。
「こんなに噛んだら、傷痕が残ってしまいますよ」
 ゆるやかに、だが有無を言わさぬ強さで顔を上向けられる。されるがままのクラリーセの目に、どこか甘さを滲ませた緑灰色の瞳が映りこんだ。
「ゼ、ルグ?」
 たどたどしく彼の名前を呟いた唇を、魔術師の指が優しくなぞる。林檎色のそれをいっそう赤く染める傷口で止まり――男は、当たり前のように少女へ顔を寄せた。
 ぺろりと。
 熱く、生々しいほどやわらかい何かが、クラリーセの血液を舐め取った。
「…………苦い」
 わずかに顔を離した彼は、眉をしかめて呟いた。「あなたの血は、なんだか甘そうな気がしたんですが」と訳のわからない理論をのたまっている。
 自分の唇に触れた舌が、まるで血の味を確かめるようにちろりと蠢いたのを認めた瞬間、クラリーセは大きく利き手を振りかぶった。
「おっと」
 しかし彼の頬に打ち下ろす前に、その手によってあっさりと捕らわれてしまう。
「あいかわらず直情的ですね」
「はっ……恥を知りなさい、ゼルグ・リュヒトッ!」
 先ほどの忠告を忘れ、クラリーセはこれまでの人生で上げたことのない大音声で叫んだ。
 怒りとも混乱ともいえない、ぐちゃぐちゃに混ざり合った感情が怒濤のように押し寄せ、痛々しいほど紅潮した頬の上を涙となってぼろぼろとこぼれ落ちていく。クラリーセは激しくしゃくり上げると、彼の胸を力なく叩いた。
「ど、どうしてこんなことができるの。わたくしのことなんてなんにも知らないくせに、今でも子どもだと思っているくせに! あ、あなたにとってはただの悪ふざけかもしれないけど、こ、こんなの、ただの辱めだわ……!」
 ひどい、ひどすぎると泣きじゃくるクラリーセを、長い男の腕がゆるゆると閉じこめた。
 掌に少し余る金色の頭を撫でながら、彼はなぜか楽しそうに笑って答える。
「いいえ、あなたのことならよく知っていますよ。小生意気で、意地っ張りで、負けず嫌いで。けれどとても聡明で誇り高い、私の自慢の友人です。……そしてこんな男を好いていてくれるらしい、けなげでかわいい女の子だということも」
 クラリーセは息を忘れた。
 おそるおそる視線を持ち上げると、悪党のように微笑む彼と目が合った。いつになく男臭く艶めくような表情にめまいがする。
 いっそこのまま気を失いたいと願うクラリーセの鼻先に、ぴらりと古ぼけた封筒が差し出された。
「お嬢さん、あなたがお探しのものはこれですか?」
 それは間違いなく、彼女が探し求めていた恋文だった。

後編

 見覚えのある封筒には、やはり見覚えのある幼い筆跡で『わたくしの親愛なる魔法使いへ』と記されていた。
 記憶に間違いがなければ、裏には『あなたの小さな友人より』と書いてあるはずだ。切なさと皮肉をこめて走らせた筆の感触をはっきりと思い出せる。
「そ、その手紙……いったいどこで……!」
 とっさに手を伸ばすが、届く前にひょいっと後方へ放り投げられてしまった。白い封筒は床に散らばるありとあらゆる魔術師の品々に埋もれ、見えなくなった。
「ゼルグ!」
「ちゃんとあとで回収して大事に保管しておきますよ。もちろん、返却はできません」
「返してちょうだい! 今すぐに!」
「なぜですか? あれは私宛ての手紙でしょう?」
「そうだけれど……っ! でも、もう必要ないものだわ!」
「……お嬢さんは何か誤解しているようですね」
 うっすらと目を眇める仕種に、クラリーセは音を立てて凍りついた。逃げ出すことを考える暇もなく懐深く抱き寄せられ、あまつさえ旋毛に唇を寄せられる。
(なななな、何が起こっているの!? この状況はいったいどういうこと!?)
 クラリーセがすっかり借りてきた猫のようになっているのをいいことに、彼は金髪をまとめたリボンの垂れ下がった先で遊んでみたり、項の後れ毛を指先に絡めてみたり、ほっそりとしたくびれを描く腰をするすると掌でたどってみたり、とにかくクラリーセの心臓に悪いことばかりしでかしていた。極度の混乱の嵐から羞恥の海に投げこまれたクラリーセは、とうとう耐えきれずに懇願した。
「ゼ、ゼルグ、お願いだからちゃんと説明してちょうだい……っ」
 だんだんとあやしくなりはじめていた手の動きがぱたりと止まった。
 耳まで真っ赤に染めたクラリーセを見下ろし、彼はふと口元をゆるめた。なぜだろう、先ほどから自分に注がれるまなざしがどんどん甘くなっているような気がする。
「何から説明すれば?」
「ど、どういうつもりでこんなことを……」
「どうもこうも、長年に渡って自分に想いを寄せてくれている年下の女性を心から愛でているだけですが」
「手紙を読んだの!?」
「ええ、あなたが魔術書に忍ばせたその日のうちに」
 彼の片手が頬に触れ、するりと撫でられる。それだけでクラリーセの体温は跳ね上がり、堅い指先が掠めた耳が焼け落ちそうなほどだった。
「う、うそ……だってあなた、そんなそぶりぜんぜん見せなかったじゃない!」
「まだ社交界での披露も済ませていなかった子どものあなたに、まさか応えるわけにはいかないでしょう? ……それに、所詮は年頃の少女によくあるいっときの勘違いだと、見くびっていたんです」
 彼はわずかに目を逸らしてつけ足した。途端に涙を膨らませた野葡萄色の目に顔をしかめ、こぼれ落ちる前にそっと拭い取る。
「私はあなたを泣かせたいわけじゃないんですよ、お嬢さん。あなたの想いは私が考えていたよりもずっと深くて、まっすぐで、そして尊いものだったと今ならわかります。年を追うごとにきれいになっていくあなたを見つめながら、あなたの心が変わらず私に向き続けていてくれると確信した私の喜びが、あなたに理解できますか?」
 どこか苦しげに打ち明けられた告白は、クラリーセの胸の真ん中にすとんと落ちた。彼女は何度も瞬き、彼の表情をよく見ようと雫を払った。
「…………ゼルグは、わたくしのことが、好きなの?」
 ぽろりとこぼれた問いは、いつになく素直なものだった。彼は視線をクラリーセに戻すと、一瞬顔を歪め、それからほろ苦く笑った。
「ええ、お嬢さんが考えているよりもずっと昔から。あなたは私の心の安らぎなんですよ」
「それは、気心の知れた友人ということではないの?」
「友人というだけで満足する時期はとっくに通り過ぎました。いったい私がどれほどあなたの成長を待ち続けていたと? 旦那様と奥様のお許しをいただいて、あなたに求婚できるようになるまで、すっかり待ちくたびれましたよ」
「……ちょっと待って」
 おそろしい予感と戦いながら、クラリーセは尋ねた。
「お父様とお母様のお許しを貰っている、ですって?」
「はい。あなたからの手紙を読んでいただいた上で、もしもあなたの想いが変わらなかったらぜひお受けしたいということをお伝えしました。おふたりとも『がんばってくれ』と笑顔で快諾してくださいましたよ」
 それまでの苦悩を感じさせる顔はどこへ行ったのか、彼はにっこりと微笑んで言った。クラリーセはもはや悲鳴を上げることすらできなかった。
(あ、あの狸夫婦……!)
 貴族令嬢にあるまじき罵倒をあらん限り心の中で両親に叩きつけ、ついでに憎ったらしい想い人の胸をどんどん殴る。彼は喉の奥で笑いながら、どこまでも赤くなるしかないクラリーセの頬に軽く口づけた。
(おかしいわ、絶対におかしいわ。わたくしの知っているゼルグ・リュヒトがこんなに優しいというか色っぽいわけがないのに! だいたいどうして、こっ、恋人にするような真似をあっさりしてくるの? いつの間にこんなことができる間柄になったというの!?)
 父と母が許したということは、つまり自分と目の前の魔術師は将来を誓い合った仲という話になる。……では、彼に来ているという縁談はなんなのだ?
「ゼルグ、ゼルグ・リュヒト! まだわたくしの質問のすべてに答えていないわ!」
「……もう充分ご理解いただけたと思うんですがね、私の愛しいクラリーセ」
 滅多に口にしない名前を悩ましげに耳元で呼ばれ、クラリーセは危うく失神しそうになった。ほとんど意地と気力だけでなんとか堪える。
「わ、わたくし、あなたに縁談が来ていると確かに聞いたのよ! あなたの未来を思えばこの上なく最高の良縁だと! だ、だから、わたくしは……っ」
「その話ならとうに断りましたが?」
 あっさりとした回答に、勢いをくじかれたクラリーセはぱちぱちと睫毛を上下させた。
「こ、断った?」
「ええ、旦那様から話を聞いてすぐに」
「だ、だってあなた、『考えさせてほしい』って!」
「今後余計なちょっかいをかけられないようにするにはどんな方法がいいか『考えさせてほしい』という意味ですよ。まあ、それは私が考える間もなく旦那様が進んで引き受けてくださったたんですが」
「お父様だって乗り気だったじゃない!」
「私の心変わりをおためしになったんでしょう。その程度の嫌がらせは、あなたを手に入れられるのなら喜んでお受けしますよ」
 彼はにやりと薄く笑い、鼻先が触れ合うほどに顔を寄せてきた。
「そしてかわいらしい勘違いをしたあなたは、私のためを思って身を引こうとしたというわけですね?」
 もはやぐうの音も出ないクラリーセは、涙目になりながら彼を睨むことしかできなかった。しかし、男は心底嬉しげに双眸を細め、先ほどとは反対の頬に唇で触れた。
「あなたは本当にすばらしい女性です。それなのに、血統と毛並だけが取り柄の能なしどもにあなたをくれてやるなど許しがたい。旦那様のご意志を理解し、それを受け継ぎ、そして私の魔術を託すことができるひとは、あなたしかいないのに」
「そんな……わたくしは、ただ……もう二度とあなたのように謂れのない理由で、道を閉ざされるひとがいないように……あなたの隣にいられなくなるのなら、せめて、賢者の友人としてふさわしい努力をしようと……」
 くしゃくしゃに顔を歪め、クラリーセは彼の胸にしがみついた。苦しいほど抱き締められ、祝福のような接吻の雨を、額に、こめかみに、眦に、次々に贈られる。
「旦那様は最初からあなたを跡継ぎにと考えていらっしゃいましたよ。確かに女性の当主や爵位持ちは少ないそうですが、前例がなかったわけではないと。それに、時代は変わる。社交性のかけらもない引きこもりの魔術師と、万魔が蠢く宮廷を生き抜く術を知り、なおかつ高い志を持ったたくましい淑女と、どちらが偉大な成功者の後継にふさわしいかなど一目瞭然ではありませんか?」
 そっと瞼に触れた熱に促され、クラリーセはゆるゆると目を開いた。緑灰色の瞳はすっかり痺れるほどの熱情を湛え、彼女だけを映していた。
「……わたくしは、あなたにとって必要な人間?」
 怯えるような問いに、彼は「ええ」と小さく、だが力強く頷いた。
「あなたがいなければ、私は途方もない魔術の神秘に食い潰されていたでしょう。私を魔法使いと呼んだ小さな女の子が、どんな他愛ない発見にも目を輝かせて喜んでくれたから――私は、もう一度世界の謎を解き明かすすばらしさを思い出せた」
 あなたがいてくれないと困るんですよという答えだけで、充分だった。
 クラリーセは崩れるように泣き笑い、いつか恋文に綴った言葉を唇に乗せた。
「『わたくしはあなたの友人だけではなく、恋人にもなりたいの』」
「――喜んで。そして、願わくはそれ以上のひとになってください」
 賢者もまた笑みを返し、ようやく明かされた秘密の味を確かめるようにやわらかく唇を重ねた。それは仄かに苦く、だが赤々と熟れた林檎のように甘い、幸福な恋の味だった。

賢者の部屋の秘密

賢者の部屋の秘密

歴史に名を残す大魔術師〈真赭の賢者〉が生まれた夜、クラリーセはある男の部屋を訪れていた。栄光の階を上ろうとしている彼への想いを断ち切るために。だが賢者の部屋の奥深くで眠っていたのは、思いもよらぬ秘密だった。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-23

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 前編
  2. 中編
  3. 後編