蒼天秘話
空が青い。
そんな当たり前のことを、サフィラは今更のようにしみじみと感じていた。
春の空は流れる雲を溶かしこんだような淡い色をしている。降り注ぐ陽射しもやわらかく、ぬるい陽気のなか荷馬車に揺られていると、気づかぬうちに眠ってしまいそうだ。深く息を吸いこめば、褥代わりの乾草の匂いがした。太陽の匂いだ、とぼんやり思う。
なんと呑気で穏やかなことか――思わず自分の置かれている状況を忘れてしまいそうだ。
「おまえの瞳と同じ色の空だな」
しかし、隣にいる者の存在がそれを許してくれなかった。
サフィラは声の主へ顔を向けた。彼は頭の下で手を組み、やはり乾草の山に埋もれていた。青鈍色の瞳は、飽きることなく蒼天を見つめている。
ゆるく結わえた長い髪は青みがかった漆黒。はらりと前髪の落ちた額は白く、輪郭の細い顔はすっきりと整っている。身につけているのは薄汚れた旅装だが、どこか身形にそぐわぬ気品を纏った青年だった。
当然だ。何しろ彼は、この国で最も貴い位に就く男なのだから。
楠国聖帝・洸廉蓉月――それが彼の名である。
蓉月の父である先帝が崩御したのがひと月前。それを受けて太子であった蓉月が即位したのだが――。
待っていたのは帝位簒奪。先帝の弟、つまり蓉月の叔父による謀反だった。
宮廷に仕える方士たちを掌握した叔父の軍は、瞬く間に宮城を占拠。後宮から城外に脱出しようとしていた甥とその后を捕らえ、斬首したと市井には伝えられている。
だが、当の本人たちはこうしてぴんぴんしている。そろそろ反逆者たちも気づくだろう。自分たちが殺したのは聖帝夫妻ではない。そもそも人、生きものですらなかったと。
「サフィラという名は、西域の言葉で『春』を意味するのだろう? 瞳の色にちなんでつけられたのか?」
「いえ、ただ単に春に生まれたからです」
「なんだ、つまらぬな」
本当につまらなそうに鼻を鳴らした蓉月に、サフィラは何度目になるかわからぬ脱力感を覚えた。
「呑気ですね、主上。追われている身なのだとわかっていますか?」
「蓉月と呼べと言っているだろうが。なぜ妻に臣下と同じように呼ばれなければならぬのだ」
「だってそれがしきたりなのでしょう? わたしはそう習いましたよ」
「そのしきたりは宮廷において守るべきものだ。今の俺たちに従う道理はない」
「屁理屈……」
「だいたいおまえ、追われていると言いながら主上と呼ぶなど、俺を聖帝だと言いふらしているようなものではないか」
不機嫌な口調は拗ねた子どもそのものだ。確か彼は、十六歳のサフィラよりふたつも年上のはずなのだが。
「……はいはい。わかりましたよ、蓉月」
「ああ、そうだ」
思いきりため息混じりに言ってやると、蓉月はそんな嫌味を跳ね返すような満面の笑みを広げた。心から嬉しそうな笑顔に、どうして自分は彼についてきのだろうと考える。
サフィラの故郷はこの中原よりも西、俗に西域と呼ばれる地にある。ひしめき合う藩王国、そのなかのひとつが彼女の母国だ。
国の思惑によって定められた政略結婚。王族の娘に生まれた以上、それは果たすべき義務――使命だった。
涙も思い出も、すべて置いてきた。あきらめにも似た覚悟を握り締めて、どんな運命も受け入れるつもりだった。
まさか婚礼を挙げる間もなく内乱に巻きこまれるとは思わなかったが。
蓉月とサフィラを救ったのは、蓉月に憑くこの国の守護神――帝系の祖である地祇・洸宇だった。洸宇はふたりにそっくりなまやかしの人形を創ると、サフィラたちを城外へ『放り出した』のだ。
反乱軍が捕らえたのは人形だ。ふたりは庶民に身をやつして逃げ延びた。
あれからひと月。逃亡中とは思えぬほど平穏な日々を送ってきたが、それももう終わりだろう。じきに追っ手が差し向けられる。いや、すでに国中へ放たれているかもしれない。
叔父はなんとしてでも蓉月を始末しようとするに違いない。大地に根を張り、人の世に最も近い神々である地祇の守護を受ける神坐国において、守護神に認められなければ玉座に就くことは許されないのだ。楠国では、守護神の憑坐である神器は国主が務める。だからこそ聖帝と名乗ることができるのだ。洸宇の神器が蓉月である以上、叔父は聖帝になれない。
これから、この国は荒れるだろう。大地も民も、偽りを許さぬ神の怒りを受けて。
しかし、神はぎりぎりの瀬戸際でしか手助けをしてくれない。力を貸しはしても、それを振るうのは人――蓉月自身だと。
「……これからどうするのですか?」
自然と声をひそめて尋ねると、蓉月の顔からふっと笑みが消えた。
人形めいた無表情は、彼の涼しげな美貌を冷ややかなものに見せる。
「このまま西へ向かいますか? 今の状況で、父が助力するとはわかりませんが……」
「――おまえはどうしたい?」
「え」
静かな声で問われ、サフィラはぽかんと呆けた。
「これから旅は厳しく、つらいものになるだろう。だがそれ以上に、きっとこの内乱は帝位をめぐる争いだけでは終わらぬ。国中……いや、中原全土を呑みこむやもしれぬ」
「それは……どういうことですか」
「なぜ叔父上が、あれほど神に背くことをおそれていた方士たちを掌握できたと思う? 真の黒幕は叔父上ではない。叔父上の陰に、この地を乱さんとうごめく悪意がある」
サフィラの背筋を、恐怖にも似た寒気が這い上がってきた。
「まさか――方士たちは操られて?」
「よほど強大な力を持った術者か、妖鬼か、あるいは神仙か。正体はわからぬ。気づいたときには、もはや宮廷の深部まで蝕まれていた」
蓉月は皮肉げに喉を鳴らした。
「まったく、聖帝が聞いて呆れる。神器だのなんだのと言ったところで、肝心なときに役に立たねば意味も価値もない。ただの神の傀儡だ」
「そんな――」
「だが、こんな木偶の坊でも叔父上はなりたくてしょうがないらしい。これから起きる戦いの中心は、間違いなく俺だ。俺とともにいれば、必ず火の粉を被る。火傷では済まぬような目に遭うかもしれぬぞ」
蓉月はサフィラの髪に手を伸ばした。かつて腰にまで届いた艶やかな橙色の髪は、今は肩につかぬほど短い。宮城から落ち延びたあと、男装のために彼女自ら切ったのだ。
織の粗い少年用の衣。雪のようと褒めそやされた肌は日に焼け、鼻の上にはうっすらとそばかすが浮きはじめている。
聖帝の正妃、この国で最高位の女性として栄華も幸福も約束されていたはずの姫君とは思えない、あってはならない姿だった。
「俺と別れて、西域に戻るか?」
見つめてくる蓉月の瞳は、凍てついた水面のように揺らがなかった。だがサフィラには、彼の顔がひどく歪んで見えた。
まるで、泣き出す寸前の幼子のような。
「…………馬鹿ですか、あなたは」
深く長いため息とともに言葉を押し出すと、蓉月の双眸がゆるみ、大きく震えた。
「今更そんなことを訊かないでください。わたしは、あなたの妻なのでしょう?」
ああそうだ、と思い出す。
出会ったあの日。身がまえずにいられなかったサフィラに、蓉月はにっこりと、なんの屈託もなく笑いかけたのだ。
(ようこそ楠へ。会えて嬉しい、俺の花嫁)
そこにあったのは、純粋な歓迎の思いだった。氷のような一瞥でも打算的な作り笑いでもない、サフィラという人間をあたたかく迎え入れてくる両腕。
このひとなら、と思った。
このひとなら好きになれるかもしれない。形ばかりの夫婦でなく、本当の家族になれるかもしれないと。
落城のときも、強い声で名を呼んで手を引いてくれた。見捨てることもできたはずなのに。
「夫婦はいつも一緒にいるものでしょう。ならばわたしは、あなたについていくだけです」
呆れながら、だがどこまでも優しく微笑むサフィラを、蓉月は言葉もなく抱き締めた。縋りつくように回された腕は少し苦しかったが、サフィラは何も言わずに抱き返した。
たとえばどんな苦境のなかでも、蓉月の隣にいることが楽しいと――幸せだと思うくらいには、もう充分好きになっている。
『――まったく』
荷馬車の御者台に腰かけた老人は、ちらりと背後を一瞥したあと、顔をしかめた。
『最近の若い者は……先祖をなんだと思っとるんじゃ』
ぼうぼうと膨らんだ白髪、腰の曲がった小柄な体躯。一見どこにでもいそうな老人だが、ぶつぶつ呟く声は空気を震わさずに響いている。
居心地が悪そうに前を睨む瞳は、青鈍色。
人使いならぬ神使いが荒い子孫に召喚され、御者役を押しつけられた楠国帝祖・洸宇は、遠い目で春の空を仰いだ。
『ああ……今日も空が青いのぅ』
のどかな田舎道を、荷馬車はのんびりと進んでいく。
楠国中興の祖にして、中原全土を震撼させた〈婀香の禍〉を鎮めた英雄として名高い洸廉帝。
後世、彼にまつわる伝承は数多く残されているが、その妻に関するものが特に有名である。
一夫多妻が常である支配階級において、洸廉帝は生涯ただひとりの妻しか娶らなかった。政略結婚でありながらふたりの仲はたいへん睦まじく、三男二女をもうけ、洸廉帝が齢六十三で逝去するまで変わることはなかったという。
歴史書に記された、聖帝が愛した女性の名は春后。
その瞳は、美しい蒼天のようであったと伝えられている――。
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