人魚姫は恋をする
この作品は、うつくしい少年や少女を描く『君はエフェメラ』企画・少年少女部門に参加させていただいたものです。企画の終了に伴い再録しました。
最後のチャイムの余韻が消えると、グラウンドはたちまち夕闇の底に沈んだ。
校舎の向こうの空ばかりが薄明るく、足元に落ちる影はいっそう濃い。みつるは瞬きをくり返して目を凝らしながら、ようやくグラウンドの隅にあるプールにたどり着いた。
更衣室やシャワー室のある小屋の脇を抜け、プールサイドに続く階段を上る。フェンスの一部が開閉できるようになっている扉は開け放たれたままだった。
五十メートルプールの揺らめく水面は、とろりとした蜂蜜を溶かしこんだようだった。塩素の匂いが染みついた静寂がツンと鼻の奥を刺す。
(間に合わなかった……)
思わず落胆したそのとき、ぱしゃんと水音が弾けた。
残照の鏡像がゆらゆらと乱れる。いつの間にか水の中に黒い人影が立っていた。みつるは小さく息を呑んだ。
「……朝倉さん?」
いかにも訝しげな声は、探していた相手のものだった。二重の意味で安堵しつつ、みつるはローファーと靴下を脱いでプールサイドに上がった。
「進藤くん」
クラスメイトの進藤薫人は器用に水を掻き分けて近づいてきた。くっきりとした奥二重に縁取られた眸が見上げてくる。
「なんか、用?」
同じクラスに所属しているといっても、彼とはそれほど親しいわけではなかった。そこそこ名の知れた水泳部の副部長を務める薫人に対し、みつるはほとんど同好会のような写真部の平部員に過ぎない。男子と女子、おまけに華やかな体育会系と地味な文系という決定的な差が加われば、自然と友人関係でのつながりも限りなく薄くなる。
だからこそ、薫人の素っ気ない態度はごく当然のことだった。もともと教室の日常においても、彼という少年は口数が少なく、周囲のおしゃべりにも頬杖をついて聞いているのかいないのかわからないといった具合の人物である。据えられた視線の冷たさに、みつるは反射的に怯みそうになった。
「あの、急にごめんね。練習中だった?」
「そろそろ上がろうと思ってたところだったから、別に……」
薫人は思い出したように水泳帽とゴーグルを外すと、額に張りついた前髪をぐしゃりと掻き上げた。濡れた頬から顎へのシャープな輪郭を夕陽の名残が淡くなぞる。
「それで、何?」
尖った顎の先から滴る茜色の雫を見つめ、みつるは「あのね」と切り出した。
「進藤くんに謝らなくちゃいけないことがあるの」
水気を含んだ黒目が瞬いた。スカートの裾が広がらないように押さえながら、ゆっくりと膝を抱える。
「…………俺、朝倉さんに何されたわけ?」
おそらく思い当たる節が見つからないのだろう、薫人は眉間に薄く皺を寄せていた。揃えた両膝に顎を乗せたみつるは、おそるおそる彼の目を覗きこんだ。
「去年の生徒会誌に載った写真、憶えてる?」
みつるたちが通う高校では、年度末に生徒会が一年間の学内の様子をまとめた会誌を発行する。各部活動や委員会活動の報告、文化祭などの行事の体験レポートなどを掲載したものだ。編集を行うのは主に生徒会役員だが、写真部や文芸部、漫画研究会などの文化部から素材や人員を提供することが多々あった。
かくいうみつるも、他の部員とともに掲載する写真の選別や編集に駆り出された。ただ、どの写真を使うか決めたのは顧問や当時の三年生であり、二年生だったみつるはもっぱらパソコンとにらめっこをしながらデータの編集に追われていた。
「ああ……『人魚姫』」
返ってきた呟きに、小さく頷く。
「うん。…………あれ、あたしが撮ったの」
薫人はもう一度睫毛を上下させた。その瞳の上をどんな感情がよぎったのか、暗くなっていくばかりの視界では掴み取れなかった。
去年の夏、みつるは新調したばかりのデジタルカメラを持って放課後の校内をぶらついていた。新しい相棒の性能を試すにふさわしい被写体を探していたのである。
だれもいない教室に忍びこみ、窓辺に立つと、プールで練習中の水泳部員たちが目についた。
すでに陽は傾き出し、グラウンドに長く伸びた影の上に焦げつくような蝉時雨が降り注いでいた。じっとりとした空気に浸っていると、冷たい水の中を自由に泳ぎ回る彼らが羨ましくなった。
みつるは自然とカメラをかまえていた。
レンズ越しに視線をさまよわせていると、ひとりの男子生徒に吸い寄せられた。金色の光の粒になって散る水飛沫。日に焼けた両腕が力強く水を捉え、しなやかな筋肉が発条のように弾み、前へ前へと進んでいく。そのフォームは、素人のみつるにも美しいと表現することしか許さなかった。
シャッターを切る。切って、切って、一瞬でも少年の姿を取りこぼさないように切り続けた。
ついに少年は五十メートルを泳ぎきり、飛びこみ台の下に手をついた。上で待ちかまえていた部員がストップウォッチを片手に話しかけている。
肩で息をしていた少年は、ゴーグルを外し――唇を噛んで俯いた。
きつく引き結ばれた口元が、歪んだ眉が、伏せられた双眸が、どんな言葉よりも雄弁だった。全力を尽くしても報われない結果に、理想に追いつけない自分自身に、悔しいと、絶対に負けたくないんだと叫んでいた。
(恋をしてるんだ)
天啓のように閃いた。たった五十メートルの小さな水の世界に、彼は焦がれてやまないのだ。愛を歌う声を失い、叶わぬ想いが痛みとなって両足を苛み、それでも自分のすべてを捧げて海の泡になった人魚姫さながらに。
みつるは大きく息を吸いこみ、そして何度目になるかわからないシャッターを切った。
永遠のような刹那、彼の表情を切り取った写真をこっそり保存して、『人魚姫』というタイトルをつけた。だれかに見せるつもりも、ましてや資料として提供するつもりなど微塵もなかったのだ。
「ミスで会誌用のデータファイルに紛れこんじゃったの。タイトルを面白がった先輩があたしに内緒で掲載を決めちゃったらしくて」
編集作業に忙殺され、気がついたのは発行された会誌を手にしたあとだ。何げなく開いた水泳部のページにしっかりとタイトルつきで掲載されていた写真に、みつるは悲鳴も上げられずにへたりこんでしまった。
すでに会誌は全校生徒に配布され、件の『人魚姫』が水泳部の次期部長候補のひとりである進藤薫人ということはあっという間に知れ渡った。
「三年になってからしばらく、進藤くんがそのことでからかわれたって聞いて……」
「まぁ、うん……ぶっちゃけ迷惑だったけど」
薫人の正直な告白にみつるは項垂れるしかなかった。じわりと目の奥が熱くなったが、それは卑怯だと顔を膝に押しつけた。
(ううん、あたしはずっと卑怯だった)
本当はもっと早く、一学期の時点で謝罪すべきだったのだ。会誌には撮影者の名前は記載されなかった――たったそれだけが免罪符になり、みつるの心を竦ませた。
盗撮にも等しい行い、単純なミスで彼を晒し者にしたこと、そして時が経てば経つほど膨らんでいく罪悪感と向き合い、自分の非を認められなかった。このままなかったことにできるのではないかとすら考えた。
「なんで今更?」
怒鳴るでもなく詰るでもなく、薫人は淡々と尋ねた。みつるはわずかに視線を持ち上げた。
「……進藤くん、この間の大会で最後だったんだよね」
「うん」
「クラスの子が何人か応援に行ったでしょ? あたしにも声がかかって……」
「来てくれたんだ」
水面から黄昏の色は消え、空と同じ夜の群青に染まっていた。ぱしゃりと水が跳ねたかと思うと、少し間を空けて薫人がプールサイドに腰を下ろしていた。
驚きに固まったみつるを、彼は「それで」と促した。
「俺の引退試合の何を見て、心境が変わったの?」
癖のない黒髪が夏服の肩をさらさらと撫でる。薫人に会う前に入念にリップグロスを乗せた唇を噛み締めると、甘くて苦い味が滲んだ。
「――笑ってたから」
少女は繊細な睫毛を震わせ、懺悔した。
「泳ぎ終わった進藤くん、すごくいい顔で笑ってた。あの写真を撮ったときは悔しそうな顔だったのに……本当に、きれいに笑ってたから」
水泳部において、進藤薫人の実力は決してずば抜けたものではない。キャプテンでもある部長候補のひとりに数えられていたものの、結局その座を別の選手に譲り、三年生になってからは次代のエースと目されている二年生にあっさりタイムを抜かれてしまった。大会などでの成績も、三年間を通して『まあまあ』という評判だった。
だが、彼はいつも力の限り泳いでいた。全身全霊でプールに恋をしていた。苦しくても、つらくても、自分の想いにひたむきだった。
最後のレースを泳ぎ抜き、ゴールした少年は――なんの悔いも憂いも残っていないというように、晴れ晴れと笑み崩れたのだ。きっと恋心を貫き通し、七色のあぶくになって溶けていく人魚姫もこんな風に笑っていたのだろうと、思わずにはいられなかった。
薫人は表彰台には上れなかった。だが、高校三年間での自己ベストタイムを更新した。
「あたしも自分に正直になりたいって思ったの。まっすぐで、強くて、きれいで、進藤くんを人魚姫みたいだって感じたあのときの自分に、嘘をついたままでいたくなかったの」
みつるは薫人と向き直った。もはやその表情を読み取ることすら難しかったが、じっと見つめてくる瞳ははっきりとわかった。
「隠し撮りみたいなことした上にずっと黙ってて……ごめんなさい」
ためらいなく頭を下げた。遠くで鳴きしきる虫の声と微かな水音だけが絶えず響いていた。
長いようで短い沈黙のあと、薫人が口を開いた。
「……わかった」
ふ、と小さく息がこぼれる気配がした。
「とりあえず顔、上げてくれる? 女の子に頭下げられたままじゃ居心地悪いから」
「あ、うん、ごめんねっ」
そのとき、バチッと電気が弾けて白い光があたりを覆った。まぶしさに目を細めると、夜間用の大型ライトが煌々とグラウンドを照らしていた。
見れば、夜間にグラウンドを借りている地元の草野球チームが練習をはじめている。
「もうそんな時間か……」
薫人はひょいっと身を起こすと、呆けたように座りこんだままのみつるに声をかけた。
「朝倉さんもそろそろ帰ったほうがいいんじゃない?」
「えっ、あ……うん、そうだね……」
言われるままのろのろと立ち上がる。強烈な人工の光は夏の夕闇の残り香を徹底的に漂白し、時折聞こえる虫の焼ける音がひどく生々しい。
無性に残念な気分になってため息を洩らすと、先に歩き出していた薫人が振り返った。
「あのさ、ひとつ言い忘れてた」
彼は今まで見たことがない表情で、にやりと笑った。
「朝倉さんって結構ロマンチストなんだな」
「え?」
「俺、案外その感性嫌いじゃないよ」
立ち尽くすみつるを置き去りに、薫人はすたすたと階段に向かっていった。「送ってくから外で待ってて」とつけ足された台詞に、みつるはもう一度「え?」とくり返した。
(……褒められた?)
いや、それよりも、もっと大変な事態になっていないだろうか。
まるで夕陽に照り映えたように、少女の頬がみるみる赤くなっていく。ローファーと靴下を取り落とし、みつるは熱が上がるばかりの顔を両手で押さえてしゃがみこんだ。
まずはどんな言葉を交わせばいいのだろうかと、人魚姫よりも贅沢な悩みで頭がいっぱいだった。
人魚姫は恋をする