カエルの胸に咲く花は
お題『寂しがり屋のカエル×哲学的な少女、テーマ:種をまく』
それはよくあるおとぎ話だ。
登場人物は若く美しい傲慢な王子と、彼に恋する年老いた魔女。想いを告げた魔女を、王子は衆目の前で道化に仕立て上げてせせら笑った。愛は憎悪となり、魔女は王子を醜いカエルの姿に変えて復讐を遂げた。
『愛を知らぬおまえの呪いが解けることは永遠にないだろう!』
世継ぎを失った王子の国は滅び、王家が守り伝えてきた黄金の財宝は秘密のベールの向こうで永遠の眠りについた。しかし、この物語の変わったところはカエルになった王子の行く末だ。魔法の怪物に成り果てた彼は今も魔女の呪いに縛められ、死ぬことすら許されず解放の口づけを与えてくれる乙女を求めてこの世をさまよっているという。
もしも醜いカエルを心から愛し、彼に接吻すれば、美しさを取り戻した唇から感謝とともに眠れる黄金の在処を聞き出すことができるかもしれない――。
「実に俗物的な幻想ね。本当の愛というものは黄金なんて見返りを求めるわけがないでしょうに」
あどけなさの残る声に似合わない、すっぱりと切り捨てるような口調だった。
彼は苦笑し、ぬるりとした苔色の指で頬を掻いた。
「そうだね。でも、愛っていうのは打算的な部分もあるんじゃないのかな」
彼の隣に座った少女は、吊り上った大きな目をますます尖らせた。子どもにしてはきついまなざしが拗ねている証拠だとよく知っている彼は、少女の頭を丸呑みできそうな口で器用に優しい笑みを描いた。
「不満かい?」
「愛というものは無償の贈りものなんだって、シスターたちは言っていたわ」
俗世から遠く離れた修道院で育てられた少女は、年頃に見合わぬ知識と教養を身につけていたが、絡み合った糸のようにほぐしがたい人の情に疎かった。
「だれかを好きになると、たとえば自分と同じぐらい相手にも好きになってほしい、自分の望むとおりであってほしいという願いが生まれるものなんだ」
「好意の裏には期待があるということ?」
「そうだね。それは独占欲になったり、嫉妬になったり、ときには憎しみにも変わる。……王子を愛していたはずの魔女が彼に呪いをかけたようにね」
少女は黙りこんだ。彼女が彼女なりの答えを見つけているまでの間、彼はのんびりと昔のことを思い出していた。
ある古い王国に仕える魔女に生み出された使い魔、それが彼だった。建国の英雄を愛し、その血筋と領地を末永く守ると約束した、永遠に報われぬ恋に生きた魔女。主人が彼に命じたのは、英雄の残した秘宝――神代の奇跡を宿す魔法兵器の守護だった。もはや人の手には余る神話の遺物が決して解き放たれぬように。
王国が滅び、主である魔女が死んでも、彼はそこに在り続けた。伝説がおとぎ話に変わり、秘宝の守り手の事実が魔女の使い魔から呪われた王子にすり替わっても。それほどまでに彼を彼たらしめる魔法は、叶わぬ恋に生涯を捧げた魔女の誓いは、永遠の呪いのように強かったのだ。
だが、彼は知っている。魔女の愛は決して純白ではなかった。
(わたしの息子)
魔女はうっとりと彼をそう呼んだ。
(わたしたちの、愛しい息子)
彼の材料は、魔女の血と、ひからびたカエルの死骸と、密かに盗まれた英雄の血。醜い使い魔が血を分けた我が子であると、母は最期まで父に教えなかった。
教えられるはずもないだろうね。ひっそりと彼は笑った。
死した命を弄び、女の胎ではなく玻璃壜の中で生まれた魔物など、だれが祝福するだろう。まして父には真実愛する妻子がいたのだ。母は歪んだ妄執を捨てることも、よき友人に対する父からの信頼を捨てることもできない、ずるい女だった。
――ずるくて、かわいそうなひとだった。だから嫌いになれなかったし、死んでしまったときは悲しかった。
(ごめんなさい)
母はずっと泣いていた。
(あなたをひとりぼっちにしてしまうお母さんを、どうか許して)
母の涙の最後のひと雫がこぼれ落ちて、彼の長い永い孤独がはじまった。
時の流れからも忘れ去られた辺境の地で、彼は静かに母の言いつけを守り続けた。それだけが彼の生まれた理由であり、在る意義だった。おとぎ話に都合のいい夢を見た人間が武器を手にやって来ることもあったが、彼が魔物らしく脅かすとだれもが悲鳴を上げて逃げ出した。
そうやって、彼は生きてきた。
だがあるとき、ずいぶん変わった迷子が訪れた。そう、彼女は迷子だった。
辺境の修道院で隠されるように育ち、彼女自身にはどうしようもない生まれのために養い親と家を焼かれ、命からがら魔物の棲処まで逃げてきた小さな少女。人の世に帰ることのできない彼女を、彼は困惑しながらも受け容れた。
最初は暇潰しの話し相手にちょうどいいかもしれないなんて軽い思いだった。年端も行かぬ少女は利発で機知に富み、彼女とのおしゃべりは飽きることを知らぬほど楽しかった。少女もまた、おそろしい外見にそぐわぬ知性と品性を秘めた彼に興味を持ち、やがてそれは博識な先達への尊敬と好意に変わった。
彼のねぐらには母の遺した秘録が山のようにあった。それらもまた大いに少女を魅了した。ふたりはたくさんのことを語り合い、教え合い、いくつかの季節をともに過ごした。孤独に冷えきった彼の心と理不尽な喪失に傷ついた少女の心が癒え、そして近づくには充分な日々だった。
「わたしはあなたが好きよ」
不意に少女が言った。宣言するような声だった。
「たとえば、ここにわたし以外のだれかがやって来て、わたしよりもあなたと仲良くなったりしたら……すごくいやだわ」
彼は思わず微笑んだ。少女はふっくらとした頬を仄かに染めて、視線を逸らした。
「つまり、こういうこと?」
「そうだね。たぶん、それが正解だ」
水掻きの生えた大きな手で少女の頭を撫でる。少女はくすぐったそうに首を竦めて笑った。
「僕もきみが好きだよ。きみがいなくなったら寂しいし、きみに僕よりも好きなひとができたら悲しい」
「わたしたち、似た者同士ね」
内緒話のようなささやきは、とても幸福な真実だった。ふたりは顔を寄せてふふふと笑い合った。
「ねえ、そういえばおとぎ話のカエルは愛するひとからのキスで人間に戻るけれど、あなたはどうなの?」
少女の問いに、彼は首を傾げた。
「僕は最初からこの姿だから、別に人間にはならないんじゃないかな」
ふと思いついた彼は、ちょっぴり意地悪く尋ね返した。
「きみは人間の王子様のほうがいいかい?」
案の定、少女は思いきり眉根をひそめた。
「見た目がよくても中身が醜いわがままな王子なんてごめんだわ。わたしはあなたのままのあなたがいい」
その答えに、彼は満足感と安堵を覚えた。
彼女の答えを知りながら敢えて言わせるなんて、自分はやはりずるい魔女の息子なんだなとしみじみ思った。ずるくて、汚くて、それでいて透きとおったように美しく見える、そんなものを愛や心と呼ぶのだ。人はそれに惹かれ、憧れ、自らの胸に種を蒔く。いつか咲く、愛の花の種を。
愛の種を育むには愛の水が必要だ。彼の種は母の懐かしい手によって蒔かれ、そして今、傍らにいる少女の小さな手によって芽吹き、今にも綻びそうな蕾を膨らませている。
「ありがとう」
にっこりと微笑んだ彼を、少女はじいっと見つめた。どうしたのかと口を開きかけた彼の頬へ、大きく背伸びした少女の唇が触れた。
摘みたての野苺のような口づけだった。
「……本当だわ、変わらない」
実験の結果を観察する学者のごとく、彼女は思慮深げに呟いた。思わず固まった彼はぎょろりとした眼を忙しなく瞬かせ、ようやっと言った。
「……呪いを解くには、口へのキスじゃないと効力を発揮しないんだよ」
「あら、そうだったの?」
むうっと顔をしかめ、それではさっそくとばかりに少女は太いカエルの首に齧りついた。彼はこれまでの人生でこの上なく慌てふためいたが、制止の言葉は最後まで形にならなかった。
「ちょっ、まっ……」
それからふたりがどうなったのか、物語の結末を知る者はいない。だが、おとぎ話の法則に従うならば、『こうしてふたりは結ばれ、末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし』と締め括られるのだろう。
醜いカエルの胸に咲いた花の色と香りは、彼の愛しい姫君だけが知る永遠の秘密である。
カエルの胸に咲く花は