粥ちゃんの聖地
■登場人物■
・五味 正 …通称「五位」。さえない大学生。悲願である「粥ちゃんの聖地」を目指す。
・藤原 …岐阜県出身。タンクトップにムキムキの大学生。なぜか五位を誘い、ともに故郷へと向かう。
第1章 五位と藤原
一昨年か、もう四、五年前の話である。月日はさして重要ではない。読者はただ、とある大学生の物語だということを、知ってさえくれればよいのである。
その頃、関東の某大学に、五味正(ごみただし)という青年がいた。しかし周囲からは「五位くん」ないし「五位」と呼ばれていた。ゴミだと可哀想とか、運動会でも成績でも五番目が多かったからとか、その所以は定かではない。とにかく、彼が、この話の主人公である。
五位は、ニックネーム同様、平凡で冴えない大学生であった。背は低く、鼻は花粉症だか鼻炎で常に赤く、声も高い。何かを説明するときは、それがさらに上ずり、ドモったり、早口になった。風采に至っては言うまでもない。吹けば倒れるような日照不足の華奢ボディに、顎には産毛のような弱々しい無精ヒゲを覗かせ、虫食いのTシャツを平気で着こなし、メーカー不明の薄汚れたスニーカーを履きつぶしていた。誰しもが一度は想像する、華々しい大学生活とは無縁の日々を、彼は無抵抗に送っていたのである。よって周囲の人間は彼を、年の上下に関係なく、軽蔑交じりに弄る対象としていた。だが、当の本人は、後ろで何を言われても、その一挙手一投足が嘲笑の的になっていたとしても、無感覚といった様子で、一人、携帯端末を弄っているのである。ある日、度の過ぎた悪戯が彼を見舞ったときでも、笑うのか泣くのかわからない笑顔で「そういうのは、危ないよ」と加害者たちに言った。その掴みどころのない反応に一同はたじろくものの、数日後には、また弄りの餌食となっていた。ただ、その時の五位の言葉に心を打たれた者もいた。地方から出てきた、ある1年生である。彼も初めは五位を弄る側の人間だったが、彼の眼には、その時の五位の表情、着飾らぬ風体、下らない悪ふざけに対して憐憫を投げるような言葉が、同世代を達観した深く澄んだ感性のように思われ、田舎者であることを必死で取り繕っていた自分に、ある種の慰めを与えたのである。以来、この18歳の少年にとって、五位は特別な存在として認識された。しかし、それは唯この少年に限ったことで、相変わらず、五位は軽蔑と嘲笑の素材であり続けた。
では、この話の主人公は、ただ軽蔑されるためのみに生まれてきた人間で、別に何の希望も持っていないのかと言うと、そうでもない。五位は数年前から、「粥川ちゃん」という少女に夢中で、異常な執着を持っていた。粥川ちゃんとは、『リバーラバー』というソシャゲに登場するキャラクターである。このゲームは、日本国内に実在する「河川」を擬人化し、水質を汚す人類と敵対するのが大まかな話で、分流や支流を合成して一級河川のレアキャラを育成したり、そのやりたい放題の設定や、文字通り湯水のごとく湧き出る可愛らしい「川」のイラスト達が、ユーザーを掴んで止まなかった。五位は、その中で岐阜県の「粥川」という女の子(二次元)に惑溺しており、愛情に比例する課金額は一般常識をすでに逸脱していた。いつしか、彼女の生まれた聖地に赴き、崇め、写真を死ぬほど撮ってきたいというのが、海外旅行にすら全く興味のない彼にとって、唯一の欲望となっていたのである。もちろん、それは誰にも話したことがない。いや彼自身さえそれが、その時の彼の一生を貫いている欲望だとは、明白に意識していなかったことであろう。が事実は彼がそのために生きているといっても差支えがないほどであった。
―――人間は、時として満たされるか満たされないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまう。その愚を笑う者は、結局、人生に対する路傍の人に過ぎない。
しかし、五位が夢想していた「粥川ちゃんの聖地に行く」事は、存外容易に事実となってしまった。その始終を書こうというのが、粥ちゃんの話の目的なのである。
* *
ある日の飲み会の席でのことである。名目は「懇親会」で、ゼミのメンバーがほぼ強制的に出席を余儀なくされ、大学の最寄駅からほど近い、洒落た居酒屋の座敷の中に五位もいた。始まって小一時間、宴席に一通りアルコールが回ったところで、偶然にも話題が『リバーラバー』に移り、酔いの回った五位は、つい、口を滑らせてしまったのである。「俺は、岐阜県の粥川を思い切り巡ってみたい」と。
「へー、五位は、粥川が好きなのかー」
「意外と…っつーか、まんまマニアックだねー」
「オレ、木曽川ゲットしたぜ」
「なんでも聖地しちゃうんだね、何が楽しいの?」
縦横無尽に行き交う言葉に嘲笑が混じっていても、五位は普段通り聞き流した。だがその中で、
「岐阜の粥川か!」
と野太く反応した男がいた。それは五位とは対照的な、筋トレの成果をむさ苦しいまでにさらけ出す、タンクトップの大男、藤原という学生である。
「粥川行ってみたいのか?五位」
「まあ、うん」
五位は、明らかに苦手なタイプのこの男に、適当な返事をした。しかし酔いの悪戯か、藤原は執拗に絡んでくる。それには普段のような悪意は感じられなかった。
「俺の実家、ちょうどそのへんでさ、今度の連休帰る予定なんだけど、どうだ?なんなら一緒に来るか?」
「え…?」
思いもよらぬ提案に、五位は猫背の首をゆらし、例の笑うのか泣くのかわからないような笑顔で、藤原と空のグラスとを見比べていた。
「いやか?」
「……」
「どうよ」
「……」
五位は、衆人の視線が、自分の上に集まっているのを感じた。答え方ひとつで、また嘲りを受けなければならない。あるいは、どう答えても結局、馬鹿にされそうな気さえする。彼は躊躇した。もし、その時に相手が少し面倒くさそうな声で「いやなら別にいいけど」と言わなかったなら、五位は、グラスと藤原をいつまでも見比べていたことだろう。
彼はそれを聞くと、慌てて答えた。
「いや、そいつァ、どうも」
この問答は衆人の失笑を買い、「いや、そいつァ、どうも」などと真似る奴もいた。だが、一番快活に笑ったのは、藤原自身であった。
「じゃあ、明日、詳しいことメールすっから!いいな!」
「そいつァ、どうも」
五位は赤くなって、ドモりながら、また、前の言葉を繰り返した。一同が今度も笑ったのは言うまでもない。言わせた藤原も、一層可笑しそうに、広い肩をゆすって哄笑した。この脳筋タンクトップは、基本、酒を飲み、笑う事の2つしか動作しないような男であった。その男が、なぜ五位を誘ったのか。まだこの時の五位には知る由もない。五位本人、そこまでの気が回っていなかったというのが正しいところである。
幸いにも談話の中心は程なくこの二人を離れてしまった。一座の興味は、教授のヅラ疑惑云々の話に移っていた。が、五位だけは、まるでその話が聞こえていないらしい。おそらく粥川の二文字が、彼のすべての思量を支配していたからであろう。目の前に、好物のつくねチーズが運ばれてきても、手が伸びなかった。彼は、ただ、両手を膝の上に置いて、お見合いをする娘のように初心らしく上気しながら、いつまでも空になったグラスを見つめて、他愛もなく、微笑しているのである。
それから、四、五日たった日の朝、東京駅、銀の鈴広場に集合する二人の男がいた。一人は、体感気温を物ともせず、20代の湧き出る野性味を、タンクトップからはみ出させている男。もう一人は、シワを重ねたチェック柄の上着に、黒いズボン、薄汚いスニーカーの、青白い優男である。この凸凹コンビが、五位と藤原だということは、わざわざ断るまでもないだろう。
「新幹線で行くんだよね?」と五位が言うと、
「帰省するときはいつもそれだから、今回は変えてみたいんだ。節約してーし」
「え?」
藤原の歩みは、東海道本線の10番ホームへ向かっていた。家族以外での旅と言えば修学旅行程度にしか記憶にない五位は、おどおどした様子で、
「どれくらいかかるの?新幹線なら2時間くらいだと思ったけど」
「まあ、心配すんなって。」
雪男のように大きな肩を揺らしズンズンと進む藤原に、五位は付き従うしかなかった。
「3時間くらい…だよね?」
「まあ、そう深く考えんなって」
藤原は、微笑を含みながら、わざと、五位の顔をみないようにして停車している列車に乗り込んだ。乗車したのは、快速アクティー熱海行であった。八時ごろ出発した列車は、快速と言いつつ結構な頻度で駅に捕まるようだ。藤原は、終点の熱海まで行くので爆睡しても構わないぞ、と言って太い足を前に延ばした。五位は、小さなため息とともに、流れ始める景色を背にして、唯一つの希望の窓口である携帯端末を開いた。
粥ちゃんの聖地
芥川龍之介の「芋粥」をモチーフにした青春旅物語です。
エンタメ方向への偏り、稚拙な文章等々、ご容赦頂いた上で、気軽にお楽しみ頂ければと思います。