僕が最後に泣いた日

僕はそれを街の外に置いてきた。でも彼女はまだ、持っていた。

 窓ガラスを叩く雨の音で目を覚ました。何の夢も見ていなかった。誰もいない汽車の座席から、灰色の景色が後ろへと流れていく様子を僕はぼんやりと眺めた。汽車はあと数分で目的地へ着くようだった。ペットボトルの水を全部飲み干してから、もう一度窓の外を見た。期待も不安もなかった。ただ、たぶんうまくやっていけるだろうという漠然とした自信はあった。物事に対する感情の起伏が波打ったものから直線へと補正されていくような感覚を、このとき僕はなんとなく感じ取っていた。ほどなくして汽車は終点に着いた。
 駅はがらんとしていて人気がなかった。荷物を持ち上げたとき、その軽さに少し驚いた。これから新しい街で生活するというのに、ほとんど何も持ってこなかった。お金と数日分の着替え、筆記用具、本、そして通行許可書。ざっとこれくらいだろうか。荷造りをする暇もあまりなかったため、後のものはすべて置いてきた。今となっては何を置いてきたのかほとんど思いだせない。持っていても邪魔になるものばかりだったのかもしれない。あるいは初めから何も持っていなかったのかもしれない。ただひとつだけ、心残りがあった。向こうに置いてきたもの、もっと言えば切り捨ててきたもの。でも、今はそのことについて考えたくなかった。
 駅の外に出てみたが、やはり人気はなかった。雨だけが忙しなく薄汚れた石畳の地面に降り注いでいた。ここへ来て僕は傘を持っていないことに気付いた。そういえば街ではよく雨が降ると、どこかで聞いたことがあった。事態に直面してから肝心なことを思い出すことは多々あった。僕の悪い癖だ。とりあえず雨が止むの待つしかないと思っていたら、数メートルとなりで傘の開く音がした。透明の安っぽいビニール傘は、大げさな音を立てて雨粒を弾いていた。
「入っていく?」
傘を持った彼女は僕の方を見てニッと笑った。

 引っ越しの手続きをするために、僕は役所へ行かなければならなかった。彼女は僕を傘に入れ、役所まで送ってくれた。黒いフードの下からのびた彼女の長いオレンジ色の髪は、雨でくすんだ街によく映えていた。パーカーの下からはチェックのスカートがのぞいていた。スカートはこの街の学校指定のものだった。どうやら彼女は僕と同い年らしい。
「今年になってから街に来たのって、あんたがはじめてよ」
彼女は嬉しそうに言った。何もないときは口を固く結んでいて一見怖そうに見えるが、笑うと可愛いらしかった。彼女は、僕がいつか見た天使を彷彿とさせた。どこか危なっかしくて、無邪気で、完全な天使になりきれなかった天使。よくある宗教画に描かれるような立派な翼は持っていないけれど、気づけばそこに座っているような、そんな天使だ。
「君はこの街に来てどれくらいなの?」
「…忘れた」
「そう」
忘れたということは、街に来て随分と経つのだろうか。引っ越してから一年で去る人もいれば、寿命まで残った人もいると聞く。ただ、一度外を知っているものにとっては、街は非常に空虚なものに感じられるに違いなかった。食べるものも、着るものも、住むところも、何もかもそろっていて生活するには充分だった。ただ、それ以上でもそれ以下でもなかった。
 役所に着くまで、彼女は学校のことを説明してくれた。街に学校はひとつしかない。クラスの大半はさぼりか既に街を去ったかのどちらかで、真面目に登校しているのはごく少数だと言う。毎月テストがあることや、いくつか部活があること、近くに駄菓子屋があることなんかを、彼女は淡々と話した。
 彼女の話を聞きながら、僕はずっとある視線が気になっていた。彼女の黒いパーカーのフードについている目玉の模様である。それはちょうど僕の視線と同じ高さにあったため、常に見られているような気がした。どうしても気になったため、僕はそっと目玉の方に視線を移すと、目が合った。
「うわっ…」
「…ねぇ、ちゃんと話聞いてる? 急にどうしたの」
彼女が不満そうに尋ねてきたので、僕は愛想笑いでごまかしておいた。再びフードに視線を戻すと、目玉はこちらを見ていなかった。きっと汽車での長旅のせいで疲れているのだろう。そういうことにしておこうと、自分に言い聞かせた。言い聞かせていないと、僕はあの視線に再び捕らわれるような気がした。そうこうしているうちに、僕たちはあっという間に役所の近くまで来ていた。

「この街はさ、夕方になると絶対晴れるの。ほら」
役所に到着すると、彼女は傘をたたんだ。気が付くと目の前には夕焼け空が広がっていた。霧雨で霞んでいた街はすっかり色を取り戻し、赤茶色の煉瓦の屋根がずっと向こうまで続いていた。地面や外壁に残った水滴には夕日が反射していて、辺り一面が輝いて見えた。僕は思わず立ち止まり、目の前に広がる街の景色を眺めた。
「綺麗だね」
「…そうね」
「傘、入れてくれてありがとう」
「…あげるよ。持ってないんでしょ?あんたがここを出る頃にはどうせまた降ってると思うし」
「そうなの?」
「…そういうことになってるのよ、ここは」
彼女はそう言うと、僕に傘を押し付けた。
「…君はどうするの?」
「別のがあるから大丈夫」
鞄の中に折り畳み傘でも入っているのだろうか。街ではよく雨が降るということを、僕はここに来てようやく実感した。そしてお言葉に甘えて彼女の傘をもらうことにした。細くて白い傘の柄は、不思議と僕の手にしっくりと収まる形をしていた。
「じゃあ、またね」
彼女に手を振ると、僕は役所の中へと足を進めた。二、三歩進んだところで立ち止まり、振り返ってみると、彼女の姿はもうそこにはなかった。それでも一瞬、彼女は飛んだような気がした。きっと彼女は僕が向こうに残してきたものをまだ持っているのだと思う。でも僕はもう、それを手放した。それでよかったのだ。

 引っ越しの手続きは思っていたよりも早く終わった。新しく住むことになったアパートへの簡単な地図と彼女にもらった傘を持って、僕は役所を出た。雨はまだ降り出していなかった。
 路地の所々にできた水たまりは、くっきりと街の輪郭を映しだしていた。僕はその鮮明さに震えてしまった。水たまりの中の世界はあまりに美しかった。本当の世界はこの中にあるのではないかと錯覚してしまうほどに美しかった。
 立ち尽くした道の真ん中で、この街でのこれからを思い浮かべた。頬を伝う雫が、ゆっくりと地面へ溶けていった。この涙の理由を考えたとき、悲しみや寂しさという単語は全く役に立たないなぁと思った。言葉に置き換えると、途端にひどくチープなものになってしまう気がした。
「夕日が眩しいからってことにしたら、少しはかっこつくかなぁ」
このとき流した涙が、最後の一滴だった。僕の中にまだ残っていた欠片は、一つ残らず空を焦がすような夕焼けに消えてなくなった。ようやく僕は空になれた。
 それ以降、僕が泣くことは二度となかった。

僕が最後に泣いた日

僕が最後に泣いた日

僕はそれを街の外に置いてきた。でも彼女はまだ、持っていた。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-21

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