もりのロマンス
一 悪趣味なきりえちゃん
身を寄せ合うようにして眠るミルキーな色合いの二匹の猫が、リネンカーテンでやわらいだ日差しを受け、あわく輝いていた。
もりのは猫のそばに横になる。床暖のぬくもりを全身で楽しむ。猫を撫でると、熱めのお湯のように温かく、心地よかった。ピンク色の肉球をそっと手に取り、交互ににおいをかいだ。味わい深く、ほっとするにおいだった。
「またかいでるん」
あきれたように、きりえが笑った。無垢のオーク材のリビングテーブルの上にコーヒーカップを置いた。淹れたてのコーヒーの香りが漂う。
「ちょっとこっちにきて」
もりのの手招きに、きりえは応える。もりのと同じように寝そべる。もりのはきりえの髪のにおいをかぎ、目を閉じてうっとりする。
「いいにおい……」
きりえの髪を、長い指をくぐらせるようにして撫でながら、何度もにおいをかぐ。
きりえは笑い、「奥深くかぎすぎやろ」
「きりえちゃんのにおい、大好き」
もりのはひとしきりかぐと、きりえの口角のあがった形のいい唇にキスをした。
「コーヒー冷めるで」
きりえはもりのの手を取って立ち上がった。
もりのときりえが再び同居をはじめて二ヵ月が過ぎた。
もりのは新品同様の家具と家電を売り払うと、猫とキャットタワーと猫用品と自分の必需品だけをもって、およそ一年ぶりにきりえの家に戻ってきた。
この二ヵ月、きりえは忙しかった。全国主要都市を巡る公演に出演したためだ。短期間の稽古のあと公演が始まり、各所で好評を博した。
もりのは東京での公演を観劇した。歌とダンス、芝居の実力を発揮できるゴージャスな女優役ははまり役だった。きりえに対して何度目かの恋に落ちた。艶やかな美貌と色気、慰撫するように官能を高めるやわらかなアルトの歌声が魅惑的だった。
きりえはその夜、もりののリクエストに応えて、その歌を耳元でささやきながら抱いた。
年末年始を一緒に過ごすため、地方公演から戻ってきたきりえを、もりのは車で迎えに行った。
きりえはもりのを見るなり、歓声を上げた。
「ショートにしたん? ええやん、やっぱり似合うね」
「そうかな」
もりのは照れくさそうな顔をした。
もりのはタカライシ歌劇団を退団後、十数年ぶりに髪を長く伸ばした。在団中は男役のため常にショートカットだったから、久しぶりにロングにしてみたかったのだ。肩までの長さにしてしまうと、髪の扱いが楽だった。うしろで束ねてしまえば、髪型をセットしなくても外出できる点が気に入った。
とはいえ、髪をおろすとなると、スタイリングが手間だった。太くて多い、ややくせ毛の黒髪のため、ブローしなければならない。ショートのときのスタイリングと同じくらい手ごわい作業だった。むしろ、髪質的にはショートのほうが髪型をつくりやすく、扱いやすかった。
「久しぶりにショートにすると、やっぱりいいなって思った。髪を洗うのも乾かすのも簡単だし、すっごく頭が軽くなった」
「もりのは毛が多いから、重かったんやろな」きりえはもりのの厚みのある後頭部を撫でた。
「笑い事じゃなく、ほんとにそうなの。髪を長くしてから、初めて肩こりを経験したもん」
「ほんまかいな」きりえは愉快そうに笑い、目を細めた。「ほんまにショート似合うな。頭の形がええもんな。健康的でふさふさの黒髪やから、ええ感じやわ」
「きりえさんの頭もかっこいいから、ショート似合うよね。ベリーショートなんかも似合うの」もりのは甘く微笑む。「きりえさんはなんでも似合う。今のロングも大好き」
「そやろ」きりえは得意気に言った。
もりのはきりえをやさしく見ると、運転に集中した。
きりえはもりのの横顔をしげしげと見つめ、「いつでもタカライシの舞台に立てるな」
「それっていいのかな。退団してだいぶ経つのに。進歩なくないですか?」
「ええやん、素敵やで。両性的なモデルさんみたい」
「きりえさんが気に入ってくれてるなら、なんでもいいや」もりのはにっこり笑った。
年が明けると、きりえは二都市で公演し、大千秋楽を迎えた。
次の公演の稽古まで、まとまった休暇をとれた。もりのも休みをとり、時間をともにした。温泉旅行や、舞台の観劇を楽しんだ。
首都圏が急激に冷え込んだこの日は、どこにも出かけず、家で過ごしていた。猫と触れ合い、コーヒーを飲み、ごはんを作って食べ、専門チャンネルで映画をみて、ベッドの中で戯れるようにセックスした。それだけのことをしても、まだ日は高かった。
「寒い日に家にこもれるのは贅沢だよね」
もりのは目を閉じ、きりえの甘いにおいのする肌にそっと唇をつけた。
「大雨の日もええよね」
「うん、最高」
もりのは唇に微笑みを浮かべながら、目をそっと開けた。
きりえはやさしい目でもりのを見つめていた。くっきりとした二重まぶたとうす茶色の明るい瞳が印象的な、美しい目だった。いつ見ても目に力があるが、涼しくやさしいまなざしだった。
「もうずっとこの目の虜」もりのはそっと目を伏せ、ささやいた。
「私はこの身体の虜」きりえはもりのの腕から指にかけて、感触を味わうように撫でた。
「あなたの身体にも夢中」もりのはきりえの身体に腕をまわした。
「知ってる」
きりえは甘く笑うと、もりのの背中からわき腹、おしりにかけて愛おしむように撫でる。もりのは目を閉じてきりえのやわらかな手のひらの感触を楽しむ。
「今まで付き合った人も、みんなもりのの身体に病みつきやったやろ?」
「そんなことないよ」
きりえはもりのの目をのぞき込み、「私と付き合うまで、どんな恋愛してきたん?」
「さあ、普通じゃないかな」
「もりのちゃんの過去、聞いてみたいな」
「今さら?」もりのは苦笑した。「なんで?」
「なんでやろ、知りたくなってん」
「なんでだろ、急に」もりのは長い指であごをつまむ。「私は過去なんてどうでもいいんだけどな。今のきりえちゃんに夢中で、そんな余裕ないし……。あ、まさか私に飽きたの?」
心配するもりのに、きりえはあきれたように笑う。
「あほなこと言わんといて」
「だったらなんで? 過去なんてどうでもよくない?」
「もりのちゃん、恋愛体質やろ。私がいないと、ちぎりちゃんとちゃっかり寝てたし」
きりえは二人が別れていたときの、もりのの情事を指摘した。
「もうその話はよしましょう」もりのは咳払いした。
「責めてないで」きりえは甘く笑った。
もりのはほっとする。
きりえは感慨深げな顔をする。
「ちぎりちゃんの件を聞くまで、もりのに私以外の相手って想像できへんかってん。でも、私がいないと、現れるわけやん。そしたら急にリアルに感じられて。そしたら、 もりのがどんな人を好きになり、どんなことをしてきたのか興味わいてん」
「そうなんだ……きりえちゃんと付き合ってる今が最高なのにな」
「私もやで」きりえはもりのの頬をやさしく撫でる。
「私はきりえちゃんの過去なんて知りたくないよ。どの道、過去は今と地続きで、今のきりえちゃんを形づくってる要素の一つでしょ。わざわざ知る必要ないよ」
「そんなに嫌がらんでもええやん」きりえはいたずらっぽく笑い、「私の初体験は高一で、タカライシ時代は三人の男性と付き合ったで」と簡潔に言った。
「聞きたくなかったのに。在団中に三人と付き合ってたんだ。なんかショック」
きりえは、しょげるもりのの頭を撫でる。
「一人の人と長く付き合ってるよりマシちゃう? こんなにも長く深く付き合ったん、もりのちゃんが初めてやねんから」
もりのは感動してきりえを見つめる。きりえは甘く笑う。
「こんなに素敵な人と別れる人がいるなんて」
「私らも一回別れたやんな」
「そうだったね」もりのはきりえのまぶたにキスをした。きりえと目を合わせ、「男の人とはどうして別れたの?」
「みんなあっという間に私をおかん扱いしてん。私って世話好きなとこあるやん? ごはん作ってあげたり、いろいろと。めっちゃ当然のことのように受け入れ、だらしなく甘えてくると、あっという間に冷めてな」
「こわっ」もりのはぷるっとふるえた。「私、大丈夫?」
「大丈夫に決まってるやん。もりのはおかん扱いせえへんもん」
「当たり前でしょ。恋人なんだから」
「うん、もりのはずっと愛してくれてるし、敬ってくれてるね」
きりえはそっともりのを見つめた。
「愛してる」もりのは思いを込めて見つめた。
「なあ、そろそろ話したくなってきたやろ?」
もりのはため息をつく。
「悪趣味なきりえちゃん、何を聞きたいの?」
「エッチなもりのちゃんが、どうやってできたんか」
「あなたとこうなるまで、私は全然エッチじゃありませんでしたよ」
「またまた」
「ほんまです」
もりのはきりえの唇にやさしくキスをした。
「なあ、話して」
「最愛の人とベッドのなかにいるのに、なんでこんな流れに」
「教えて、もりエッチちゃん」きりえはもりのの頬にキスをした。
「仕方ないなぁ」もりのはため息をついた。
「もりのちゃんの場合、男女の内訳も教えてや」
「内訳って」もりのは苦笑すると、遠い記憶をたぐりよせる。「初体験は十四歳、相手は十五歳の男の子。初めての女の子は十六歳。タカライシ時代は……」と言いかけ、ちょっと悩む。「あの、付き合った相手ですか? それともセックスした人?」
「セックスした人やけど、なんでそんなん聞くん? こわいなぁ、すごい人数ちゃうやろな」
「きりえさんを除いて男、女ともに二人です」
「ふーん、私より多いな」きりえはもりのの鼻をかるくはじいた。
「ほんの少し」
「もりのちゃんにも男の人の経験があるんやね」
きりえは残念そうな声を出した。
「何を今さら」もりのは苦笑した。
「もりのの口から聞くと、嫌なもんやな。私のもりのを抱かんといてって」
「私の気持ちわかってくれた? 私も同じ気持ちだよ」
きりえはうなずいた。
「でも安心して、きりえちゃん」もりのは微笑む。「私の場合、男の人も主に抱いてたから」
「そうなん?」
「きりえちゃんが初めてだったの。抱くのも抱かれるのも、天に昇るくらい気持ちよくて、至福を感じたの」
「うん」きりえは照れる。「私もやで」
「私はもっとずっとそうなの。あなたとこうなるまで、私は抱かれ下手だったから。不感症かもと心配してたくらい」
きりえはもりのの目をまじまじと見つめ、「それはないわぁ」
「あなたとなら私は感度抜群だよ。それまでは違ってたの」
「またまた」
きりえはもりのの言葉を取り合わない。
「じゃあ、ほんとのことを話してあげる」
きりえは嬉しそうに微笑み、「手加減いらんから、ありのままに話して」
もりのはきりえの唇にキスをした。きりえはもりのの下唇を舐めて甘噛みした。
「好色一代物語ってとこやな」
「全然好色じゃないから」もりのは苦笑し、「なんだ普通やんってがっかりしないでよ」
二 初めての男の子
もりのが初めて付き合った男の子は太一郎という名前で、オーケストラ部の先輩だった。もりのと同じコントラバスの奏者で、コントラバス初心者のもりのに親切に教えてくれた。中学二年の同級生に比べ背は高い方で、高校生にみえた。目立つタイプではないが、なかなか整った甘い顔立ちをしていた。
もりのが中学一年の夏から一年かけて、時間をかけて仲良くなっていった。両親が共働きで不在がちな彼の家で音楽を聴いたり、遊園地や街中に出かけたりするような間柄になった。誕生日もともに祝った。
「彼氏素敵」と友達に言われると、顔がほころんだ。付き合ってる人がいると思うと、晴れがましかった。
初めてキスしたのは中学二年を目前にした春休みだった。いつものように彼の部屋で音楽を聴いていると、彼がもじもじした。もりのをちらちら何度もみた。何度か咳払いしてから、意を決したように切り出した。
「キスしていい?」
もりのはうなずいた。「あ、きた」と思った。
彼が唾を飲み込む音を今でも妙に記憶している。もりのの肩におそるおそる手をかけ、唇をあてた。感触はあわく、記憶にとどめられなかった。
彼は徐々に関係を進めていった。淡いキスの次は舌を入れるキス、その次は服の上から胸を触るといった風に。
もりのは中学に入ってから身長が急激に伸び、胸もふくらみ、生理もきた。しかし、異性への性的興味はまだ芽生えていなかった。正直、普通にデートするほうが楽しかった。
その一方で男女が付き合うということは、キスしたり触れ合ったりするものだということは承知していた。もりのは彼の興奮を感じながら、自分はどこか置いてきぼりだった。
「妙に冷静でね。そんな自分がショックだった」もりのはきりえに言った。
「いや、置いてきぼりって感覚、わかるよ。若い女の子ならそういうことけっこうあるんちゃう? 性欲が芽生える時期も、性欲の現れ方も、男女はけっこうちゃうと思うねん」
「うん」もりのはうなずく。「実は官能的なことは小っちゃい頃から好きだったの。弦楽器の響きや、ピアノの旋律に悶えたりしてた」
「さすがもりエッチちゃん。とくに感じた曲は?」
「ベタだよ」もりのはもじもじるする。「ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番」
「わかるわ、あれはセクシーやもん」
「でしょ、すっごい官能的」もりのは旋律を思い出してうっとりする。
「もりのちゃんはやっぱり小っちゃい頃からエッチなんやん」
「エロティックなのは好きだけど、実際にするとなんか違って……」
「たしかに現実はちゃうやんな。私のファーストキスなんて笑えるで。歯がゴチーンッって当たってな、あほ、歯が当たってるやろ、もうちょっと落ち着きって言った記憶ある」
「歯がゴッチンしたんだ、かわいいな」もりのは笑った。
「それで、置いてきぼりながらも、その子と初体験したんやろ?」
もりのはうなずいた。
もりのが中学二年の夏、ついに彼がもりのの下着に手をかけた。
「もりのちゃん、したいよ」彼は泣きそうな声で言った。
彼はもりののシャツのボタンをはずし、下着の上から乳房に触れた。ふと彼のズボンに目を落とすと、股間がふくらんでいた。
ついにこのときがきた。もりのは覚悟した。一年かけて付き合い、彼が信頼できる男だとわかっていた。あせらずゆっくり関係を進めてくれたことに感謝していた。もりのが一番嬉しかったのは、彼がアルバイトでお金を貯め、ブラームス交響曲第一番の演奏会に招待してくれたことだ。こんないい男が、中学生でいるだろうか。初めての相手はこの人がいいと決めていた。
「うちには鉄の掟があって」もりのがきりえに言う。「きりえちゃんのところもそうだけど、うちも二人姉妹だから、親が男関係に心配して。とくに母親が小さい頃から性教育に熱心で、いろいろ詳しく教えられたな。中学に入ると、コンドームをお守りにもたされて。セックスは簡単に許さないこと、するなら絶対コンドームをつけること。世の中には主体的に男遊びをしてるつもりになってる女の子もいるが、結婚する気もない人の子供を妊娠して傷つく可能性があるのは女の子だと。だから、自分を大切にしなさいと」
「うちも同じやで。お守りにコンドームもたされたわ。まあ、私はそれがおもしろくて風船みたいにふくらませて遊んでたけど」
きりえはその光景を思い出したような顔で笑った。
「うちの妹と一緒。下の子はやんちゃだね」もりのは愛しそうに微笑んだ。
「うん、やんちゃよ」きりえは笑い、「で、どうなったん?」と話のつづきを促した。
「驚くことばっかりだったよ」
もりのの乳房を触るにつれ、彼の息が荒々しくなった。クーラーが効いているのに、彼の身体は熱く、汗ばんでいた。脇から今までかいだことのない刺激的なにおいがした。身長も肩幅も手も大きさは同じくらいなのに、どれも横に大きく感じられた。下着をとり、もりのの乳房をじっと見つめ、乳首を吸うと、彼は突然腰をふるわせて果てた。明るい色のチノパンが汚れたのがわかった。
もりのは彼の唐突な反応に驚いたが、落ち込んでみえたので、さりげない態度をとった。
「かわいいなあ、太一郎くん」きりえは微笑ましそうに目を細めた。
「今思うとね。でも、そのときはほんとにびっくりしたんだから」
何度かそういうことがあったが、彼はやがてもりのの裸がもたらす刺激に慣れていった。
彼はついにもりのの中に入ろうと決意したようだった。彼は下着の中に手を入れ、もりのの状態を確かめた。もりのはほとんど濡れてなかった。
好きな人と触れ合っているのに、反応しない自分の身体がもりのは不思議だった。映画の美しいラブシーンや小説の性描写なら感じるし、自慰できるのにと。
「ごめん、まだダメみたい」もりのは正直に言った。
「お互い慣れてないから、仕方ないよ」彼はガッカリしながらも、やさしく言った。
もりのが帰ろうとしたとき、彼は村上春樹の『ノルウェイの森』を渡した。
「この本、読んでみて。刺激的だよ」
もりのはその本を一晩で読んだ。
彼の狙いはある意味、当たった。もりのは肉体的な刺激を受けたのだ。
数ある性描写の中で、ひとつの場面が強烈にもりのを揺さぶった。もりのはその場面を読み終えると、自慰した。驚くほど濡れていた。簡単な刺激で、激しくイッた。その日から、そうすることが習慣になった。
男女の様々な形の交わりよりも、女同士の交わりに感じた。そこで描かれていたのは一方的な性行為で、その結果がもたらすものは痛々しく、残酷だった。もりのは 痛々しい結果でなく、性描写がもたらす官能に反応した。
女同士の性行為に感じるなんて、自分にはその気があるんだと認めた。悩むべきなのだろうが、すんなり受け入れた。人生いろいろ、こういう人も世の中にいる。もりのは根本的に自己肯定感が強い。
「もりのちゃんのそういうとこ、好きやわ」きりえは微笑んだ。
「やったね」もりのは喜んだ。
一週間後に彼の部屋に行くと、彼は明らかにムラムラとした様子で、感想を求めた。
「好きじゃないけど、けっこうおもしろかったよ」
「人が死にすぎるところが気に入らない?」
「そうなの。生き抜いてほしかったな。彼らはわりと経済的には恵まれた人たちじゃない? 本当にサバイバルしてる人は、彼らのような死に方はしない。贅沢な不幸に思えたよ。まあ、自殺も落とし穴みたいなもので、誰も避けられないのかもしれないけど」
彼が適当な相づちを打ったようにもりのは感じた。
二人はベッドをソファ代わりにしていた。
彼は距離をつめ、「エッチじゃなかった?」とたずねた。
「エッチだった」
「エッチな場面限定で、どれが印象的だった?」
「言いにくいなぁ」もりのはぐらかした。
「感じた?」
「感じた場面もある」
「それを思い浮かべながら試してみない?」
もりのはびっくりして彼をみた。
「力をくれるかなって」
彼は切実な顔をしていた。もりのは胸を打たれ、実践してみることにした。
きりえはすかさず突っ込む。
「『ノルウェイの森』をおかずにしたんかいな」
「しちゃいました」
脳内で再生するのは簡単だった。毎晩、思い描いているからだ。いたましいはずの場面は美化されている。三十一歳のレイコを混乱に陥れる病的な嘘つきの十三歳の美少女は、脳内では健全な魅力的な女の子だった。
“筋金入りのレズビアン”とレイコが認定した美少女は、レイコを完璧なテクニックで導く。旦那よりも美少女に抱かれるほうが、より感じる。「男にやられるのと全然違うのよ」とレイコは言った。
もりのは今、その女の子だった。相手を思い通りにしたいのではなく、大事に扱いたい。感じてくれると嬉しい。キスや愛撫をすると相手が身体をふるわせて歓びを返してくれる。素直な反応がうれしかった。彼に呼応するように、身体が温まる。
息を荒げていた彼が、不意に口を開いた。
「あの場面でしょ、女の子の」
「なんでわかったの?」
「なんとなく」彼は吐息をもらす。「やさしいね、もりのちゃんは、あの女の子と全然違う」
もりのの心に慕わしい感情がわき、彼の求めにはたいてい応えてあげたくなる。
彼はもりのの手を自分の硬くなったところに導いた。もりのは男の子も濡れることに驚いた。手で愛撫すると、彼はすぐにイキ、出たものを自分のおなかですばやく器用に受けた。女と違って男はいろいろ大変そうだと思った。女なら濡れてもイッてもそのまま眠れるが、男はそういうわけにはいかないだろう。
彼はティッシュで出したものを拭き取ると、もりのの手をしげしげと見つめ、そっと触れた。それから眉根を寄せ、また硬くなった。彼はそれをそばにあったパンツで隠した。
「この手、すごい。形も皮膚も理想的」
「おおげさだね」もりのは笑ったが、ほめられてうれしかった。
このようにして彼を抱くようになった。抱いて、たかぶる恋人を感じると、もりのも濡れるようになった。
「この手は男の子も虜にしたんか」きりえはもりのの美しい手をとり、そっとキスをした。
もりのは照れ笑いを浮かべた。
「そしてついに初体験、やね。ドキドキするわ」
「よくある初体験だよ」もりのはさらっと言った。
そうして初体験を迎えた。もりのは痛みと、異物感を感じた。最初は痛いものだという知識はあった。慣れると気持ちよくなるという情報も。ここで逃げてはいけないと言い聞かせた。
「もりのちゃん、なかなか根性あるな」
「だって、女ならたいていくぐり抜ける通過点でしょ」
「うん、私も痛かったわ。痛いってことしか覚えてへんもん」きりえはそういうと、いたずらっぽく笑った。「いたいいたいいたい! ほんまに痛いねん! そこちゃうわ! このあほつて、相手をどついたわ」
「どついたの?」もりのは爆笑した。
「ま、場所は合ってたんやけど。とにかく痛くて。なんで女ばっかりこんな痛い思いしなあかんねんって腹立ったわ。痛い思いしてお産するのも女の人やん。男は楽してずるいって。でも、その強さをもった女に生まれてよかったとも思ったけどね」
「うん、男の人はお産の痛みに耐えられないらしいね。同じ痛みを与えたら、死んじゃうらしいものね」
「ま、私たち産んだことないけどな」きりえは笑った。「で、そのあとどうなったん?」
回を重ねると痛みはなくなった。けれど、自慰ほど気持ちよくないことにもりのは拍子抜けした。コンドームの中で彼がすぐにイッてしまうのとは無関係だと、わかっていた。
「大人になってから知ったんだけど、女の人ってクリトリス派と膣派がいるんだってね。そのときの私は明らかにクリトリス派だったの」もりのはきりえに言った。
「今はどうなん? けっこう気持ちよさそうやけど……」
「もちろんどっちも好き。きりえさんのおかげで」もりのはデレデレした。
「私もどっちも好きよ」きりえはうふふと笑った。
もりのの様子で、中を好んでないことに気付いた彼は、もりのの手で愛撫してくれたらうれしいと言った。もりのはときどき、手でしてあげるようになった。
その流れで一度だけ、彼が口でしてほしいと頼んできた。口の中にいれると、つっかえて苦しそうだったので断った。
彼はすぐに引き下がったが、とても寂しそうだった。もりのはかわいそうになり、指で愛撫しながら濡れたところをそっと舐めてみた。すると突然、彼がイッた。
「まさか顔にかけられたん?」
「ほんとにもうびっくりしたし、閉口しました」もりのはため息をつく。「まあ、わざとじゃないからいいけど、あれはいやだったなぁ」
「とんだハプニングやな。かわいそうに」
「そんなことしたのはあとにも先にもそれっきり」もりのはきりえをみて、「きりえさんってそういうことしたことある?」
「まあ、あるなぁ。ほとんどしたことないけど、相手してあげられへんときにちょちょっと」
「ちょちょっと」もりのは苦笑した。
「私が付き合ってた男の人ってみんなスポーティーで、ひと汗流したらじゃってタイプやったから。じっくり舐めあったことなんてないなぁ」
「私だってないよ」もりのはきりえの額を指先でやさしくはじいた。
「もりのちゃん、めっちゃじっくりしてくれるやん」きりえは赤くなる。
「それはきりえちゃんだから」もりのはきりえを熱っぽく見つめる。「きりえちゃんを舐めたいから」
「またそんなことをハッキリ言う」きりえは恥ずかしがる。
「ほんとに舐めたくなってきちゃった……」もりのは吐息をもらす。
「濡れた声で言わんといて。感じるやんか」きりえはうつむく。
「きりえちゃん」もりのはきりえを抱きしめ、唇に深くキスをする。そのまま唇を下の方へ移そうとすると、きりえに制された。
「あとでしよ」きりえはささやいた。「つづきを聞かせて」
もりのはため息をついた。
もりのはそれ以来、一度も彼を舐めなかった。彼はもりのの脚をひらいて舐めたがったが、それも拒んだ。脚を開かれるのも、舐められるのも、恥ずかしいというより、「そういうのは本当に結構です」という心境だった。ただ、好奇心もあった。『ノルウェイの森』のレイコさんを思い出したのだ。何事も経験と、あるとき舐めてもらった。正直、こんなものかと思った。変なポーズをとるのが恥ずかしいだけだったので、その後はやんわりかわした。
もりのはセックスする以前の関係を、なつかしむようになった。音楽を一緒に聴いたりしているだけの時間のほうが、彼にときめきを感じ、幸せだった。彼のことがセックスするほどには好きじゃなかったのかもしれないと思った。
彼が高校の受験勉強で忙しくなるタイミングだった。もりのは衝撃的な出会いをした。タカライシ歌劇だ。
親友に誘われて観劇した生の舞台に魅せられた。豪華な、息をのむほど美しい舞台だった。華麗に繰り広げられる世界に、生のオーケストラ。男役と女役の想像をかきたてる美しいラブシーン――。
初めて、息ができないほど強く惹かれる感覚を味わった。もしかしたら、これが恋なのかもしれない。彼の存在は吹っ飛んだ。
彼は希望の高校に進み、もりのはタカライシに夢中になった。さらに、進学校に進むための受験勉強もしなければならなかった。彼は何度か連絡してきたが、もりのは応えず、二人は別れた。
受験勉強中に力をくれたのもタカライシだった。受験勉強のあいまの息抜きに、タカライシのビデオを繰り返しみた。想像の翼が広がり、右脳が刺激された。左脳を使いすぎて疲れた頭に栄養をくれた。
希望する高校に入学すると、すぐに次の進路を求められ、もりのは戸惑った。文系だとか理系だとか、どちらもピンとこなかった。
タカライシを思うと、胸が熱くなった。タカライシの舞台に立ちたいという強い思いがわいてきた。もりのをタカライシに導いた友達も、もりののスタイルをみて、「男役になるために生まれてきた」とことあるごとに言っていた。そのときはとても無理だと思っていたが、チャンスがあるなら挑戦したいと思った。ダンスも歌も芝居の経験もないが、受験スクールに通えば、なんとかなるかもしれない。それからというもの、もりのはタカライシを目指し、芸事の習得に打ち込んだのだった。
「彼とはそれっきり?」きりえはたずねた。
「一度だけ会ったよ。ちゃんと別れるために。そのとき彼は、タカライシのビデオをみた感想を言ってくれて……。彼、なんて言ったと思う?」
「タカライシ気に入ってくれたん?」
「うん。彼はこう言ったの。タカライシってすごく素敵だね。もりのちゃん、男役が絶対似会うよ。僕は女に生まれてたら、娘役になりたかったなって」
「ユニークな人やなぁ」
「うん」もりのはにっこり微笑む。「初めての男の子は彼でよかったってしみじみ思ったよ」
三 初めての女の子
「もりのちゃん、棚からお麩とってくれる?」
すき焼きをつくるきりえが甘えるような声で言った。
きりえは男役にしては小柄だが、日本人女性の平均身長よりゆうに高いので、本当は取れることをもりのは知っていた。甘えてもらえるのが嬉しくて、もりのは急ぎ足でキッチンに来ると、棚から車麩を取り、「はい」と渡した。
もりのを見上げるきりえが嬉しそうに笑う。
「ありがと。すき焼きには車麩やんな」
「旨味をいっぱい吸って最高だよね」
今夜はすき焼きだった。年が明けたばかりの寒い日には、無性にすき焼きが食べたくなる。二人は関西風も、関東風も好きだった。今夜は割り下を使う関東風にした。大吟醸の日本酒を合わせた。
もりのは食べごろの牛肉をきりえの器によそった。
「たっぷり食べてね、きりえちゃん」
「ありがと。やさしいな」
「もりもり頬張るきりえちゃんが好きなの」
二人は微笑んだ。
もりのは恋人と温かな鍋を囲み、床暖の上でおなかを無防備にさらして眠る二匹の猫をときどき見守るこの時間が幸せだった。
早めの晩ごはんを終えると、吟醸酒のつづきを飲みながら、久しぶりにタカライシ歌劇のDVDをみた。九十年代の名作で、もりのがタカライシ歌劇を初めて観劇した作品だった。
「なんでこのDVDにしたと思う?」
きりえがたずねた。頬をほんのり赤く染め、色っぽい風情だった。
「きりえちゃん、色っぽいね」もりのはかすれた声で言う。
「そう?」きりえは含み笑いし、「このDVDって、もりのちゃんがタカライシ歌劇を初観劇した作品やろ」
「うん。なつかしいな」もりのは目を細める。
「そろそろ、もりの物語のつづきを聞きたいな」
もりのはグラスの酒をひと口飲み、「あれ、まだやるの?」
「当たり前やん」きりえはもりのの肩を抱き、「たっぷり聞かせて。時間もたくさんあるし」
もりのは額をぽりぽりかいて、「本気?」
きりえは大きくうなずいた。
「初めての女の子とはどんな感じやったん?」
もりのは長い指でふっくらとした唇を触りながら、古い記憶をたぐりよせた。
もりのの初めての女の子は歩美という名前で、タカライシ受験スクールで知り合った。もりのが高校一年生で、歩美は高校二年生だった。歩美はタカライシ音楽学校に入学できたら同期だからと、気さくに接してきた。
歩美はスクールで一番の美少女だった。茶色のロングヘアが映える白い肌、大きな茶色の目、筋の通った鼻、形のいい唇をしていた。華があり、よく目立った。小柄で娘役志望の歩美は、顔立ちの良さでは一発合格間違いなしと誰もが見なしていた。
しかし、歩美には欠点があった。ダンスと歌の経験がない上に、稽古に熱心でなかったのだ。本気で目指していないのがなんとなく伝わってきた。性格も際立って個性的だった。
先生の前では、お行儀よく言葉遣いもきれいに取り繕っているが、先生が姿を消すと、生まれも育ちも東京なのに、漫画『難波金融伝・ミナミの帝王』とお笑い番組でマスターしたという独特の関西弁を豪快に話し、お嬢様然とした他の女の子たちをギョッとさせた。
歩美を知るほどに、美少女の印象が遠ざかり、強烈なキャラクターだけが記憶に焼きつく。もりのはそんなユニークな歩美と交流するのが楽しかった。
タカライシを目指しながら、学業をこなすのは生易しいことではない。稽古にキリはなく、時間がいくらあっても足りなかった。それでも、なんとか時間を見つけて遊んだ。
もりのと歩美はお互いの家を頻繁に行き来し、ときどき泊まった。泊まるときは、たいていが歩美の家だった。部屋が戸建の離れにあり、気を遣わず過ごせたのだ。
歩美は『難波金融伝・ミナミの帝王』をもりのに読ませた。一本筋の通った主人公の萬田は、歩美が敬愛する人物だった。もりのもなかなか魅力的な人物だと思った。
「萬田はんかぁ。なかなかええ趣味やん」きりえが笑った。
「でしょ」もりのも笑った。
歩美の家に泊まっていたある夜、二人の関係に変化が訪れた。長袖一枚でちょうどいい、快適な秋の夜だった。
その日、歩美は妙だった。一緒にお風呂に入ると、「ボインちゃんやなぁ。目のやり場に困るわ」と嬉しそうに何度も見つめ、「お背中流しますよって」とはしゃいだ。
歩美のベッドの下に布団を敷くと、パジャマを着た歩美が自分の隣に座ってと言った。
もりのは座ると、歩美に微笑みかけた。
「その顔はあかん! 勘違いするさかい」歩美は赤くなった。
「勘違いって?」
「あんな、もりのちゃん――」歩美はもじもじし、深呼吸する。「もりのちゃん、めっちゃ好っきゃねん」
「私も好きだよ」
「友達の好きとちゃうよって」
歩美の言葉にもりのはドキッとした。『ノルウェイの森』の女の子とレイコさんの情景が浮かんだ。
「歩美ちゃん、女の子が好きなの?」もりのは単刀直入に聞いた。
「うん、めっちゃ好き」歩美は力強く言った。「バッキバキの女好きやねん」
「そうなんだ。意外」もりのはつぶらな目をまるくした。
「私の気持ち、わからんかった? めっちゃ好き好きアピールしててんで」
「そう言われてみたら……」
思い当たる節はあった。ボディータッチがたしかに多かった。けれど、それは思春期の女の子によくあることだ。肌がきれい・小顔・頭の形がいい・胸が大きい・肩幅が広い・脚が長い・手がきれい――等々の言葉とともに、もりのは女の子に身体や顔や頭を触られるのが日常茶飯事だった。
もりのが歩いていると、うしろから急に腕を組んでくる子も珍しくなかった。肩に手をかけて、突然ぶら下がってくる子もいた。だから、同じようなことを歩美にされても、自然なことと受け止めていた。
「もりのちゃんのほっぺた気持ちよさそうやな。触ってもええ?」
「いいよ」
歩美はもりのの顔を両手で挟むようにして、頬を撫でる。もりのは目をそっと伏せて、おとなしくしていた。
「もりのちゃんの顔、ごっつい小っちゃくてかわいいな。肌もごっつい白くてきれいやな」
歩美は吐息をもらした。
「歩美ちゃんこそ、きれいだよ」
「もりのちゃん、あんな、もりのちゃん、あんな、えっとな、あんな――」
「なあに?」もりのは笑った。「どうしちゃったの?」
「もりのちゃん、付き合うてくれへん?」
「付き合うって、恋人になるってこと?」
「わあ、言ってしもた!」歩美は長くてやわらかそうな髪を触りまくっていた。
照れる様子があまりにかわいらしく、「いいよ」ともりのは応えていた。
「やった!」歩美は飛び上がって喜んだ。
「こんな感じで、私たちは付き合ったんです」もりのはきりえに言った。「その年は私も歩美ちゃんも受験に失敗して。歩美ちゃんなんて、そもそも不純な動機でタカライシ受験スクールに通ってたから、落ちて当然なんだけど。歩美ちゃん、なんとかわいい女の子がいっぱいいそうだから、タカライシを目指してたんだよ。それと、本場関西で正式な大阪弁を学びたいという理由で。私は本気でタカライシに入りたかったから、もう一年目指し、歩美ちゃんは金融の道に進むべく、有名大学の経済学部の受験勉強にいそしむようになり、私たちは別れましたとさ」
もりのは概要を話した。
「まさかおしまい?」きりえが不満そうな顔をする。「えらいあっさり締めくくったけど」
「こと細かに話すことじゃないよ」
「太一郎くんのときは話してくれたやん」
「だって、異性は異文化コミュニケーションみたいなもんで、興味深いこといっぱいあるから。女の子のことは、きりえちゃんもなんとなく想像つくでしょ」
「つかへんわ」きりえはきっぱり言った。「だいたい、なんなん、もりのちゃんのあっさりとした受け入れっぷり。もりのちゃん、なんで女の子にいきなり行けるん」
「『ノルウェイの森』でその気があることは確認済みだったし、かわいいし、おもしろいし、楽しそうだから、いいかなと」
「初めての女の子との話、興味深いから、もっと身を入れて話してもらわな困るわ」きりえは食い下がった。
「えー」もりのはため息をつく。「今日はやけにしつこいな……」
「なんか言うた?」
「いえ」もりのは咳払いした。
付き合うことを決めた夜、歩美はもりのに「キスしたい」と言った。
歩美はもりのを至近距離で見つめた。もりのは歩美が美少女であることを久しぶりに思いだし、胸がキュンとした。
「うん、しよう」
もりのも歩美を見つめた。てっきり歩美からキスをしてくるかと思ったら、歩美は困ったような顔をしている。
「キスってどうしたらええの?」
初心な歩美がかわいくて、もりのはその唇にキスをした。唇を何度もあわせると、閉じられた唇をそっと開き、舌を入れた。唇の感触も、口の大きさも、舌の厚さも男の子と全然違った。もりのはキスの新鮮な感触を楽しんだ。
歩美が自分の身体にしがみついてくる。自分より身体がはるかに小さく、華奢だった。小柄だと思っていたけれど、これほど頼りない手ごたえとは予想していなかった。愛おしくなり、そっと腕をまわして撫でた。
唇を離すと、歩美がベッドにへなへな倒れこんだ。
「大丈夫?」もりのは歩美の髪を撫でた。
歩美は恥ずかしそうにもりのを見上げた。
「うまいな、もりのちゃん」
「そんなことないよ」
「初めてやけど、わかる。とろけそうやった」
もりのは照れ笑いした。
「思ったとおりやった。もりのちゃん、妙に色っぽいから。経験あるの?」
もりのはうなずいた。
「女の子やんな?」
「男の子」もりのは正直に応えた。
「男の子やと?」歩美はガバッと起き上がった。「私と付き合ってくれるって言ったやん。もりのちゃん、バイセクシャルなん? けだものや!」
「けだものって」もりのは噴き出した。「一生に一度、聞けるか聞けないかってセリフだね」
「どっちもいけるって、けだものやと思うねん」歩美はふてくされた。
「私、女の子と付き合うの初めてだよ。男の子とも一度しか付き合ったことないし」
「そうなん?」歩美は驚き、すまなそうな顔をする。「ごめんな、けだものとか言うて。もりのちゃんは柔軟な人なんやなぁ」
「柔軟かどうか知らないけど、興味あるの」もりのは正直に言った。
二人は見つめ合った。
「もりのちゃん、ひとつ聞いてええ?」
「うん」
「もりのちゃん、セックスもしたん?」
もりのはうなずいた。
「ショックや……」歩美はうなだれた。
もりのは歩美の肩を励ますようにポンポン叩いた。
「キスもその男の子に教えてもらったん?」
「独学」もりのは笑った。「彼には何一つ教えてもらってないよ。私は映画で学んだんだ」
「どんな映画?」
「ラブシーンが始まったら、美しい音楽が流れるような」
「なるほど。たしかにロマンチックやった」歩美は機嫌よくうなずいた。
「刺激的な日だったね。もう寝よっか」もりのは言った。
歩美は名残惜しそうな顔を一瞬したが、しおらしくうなずいた。
「明日も早いし、気張って寝るで」
歩美はベッドで、もりのは布団で眠った。
もりのは温かくやわらかなものが身体を撫でまわすのを感じて、重たい目をそっと開けた。女の子が繊細な小さな手で、もりのの腕や太腿を愛撫していた。女の子は もりのの上におおいかぶさる。羽毛布団のようにふわりと軽かった。吐息をもらしながら、もりのの首筋に唇をあて、パジャマの上から乳房に触れた。もりのの心臓は跳ね上がった。
「……歩美ちゃん?」
もりのは目を開けた。暗すぎて何も見えなかった。歩美がびくっとふるえて、もりのの身体の上からどいた。
「ごめん」歩美はささやいた。「勝手にこんなこと。最悪だよね」
「いいよ。ちょっと驚いただけ」もりのはささやいた。
「寝てるもりのちゃん見てたら、触りたくなったの。ごめんね」
「そんなに謝らなくていいのに」もりのは言いながら、歩美が標準語に戻っているのに気づく。
こういうときは素が出るのだろう。雰囲気関西弁の歩美もおもしろいが、標準語の歩美のほうが自然でいいと思った。ネイティブの言葉のほうがしっくりくる。
「もりのちゃん、一緒に寝てもいい?」
「いいよ」
歩美は布団の中に入ってくると、もりのの身体に腕をまわした。
「もりのちゃん、いい匂いがする」
歩美は首筋に鼻を埋めてきた。もりのはその髪を撫でる。歩美はもりのの上におおいかぶさる。もりのはドキドキする。ついに、女の子と初めてこういうことをするのだと思うと、気分が高まった。『ノルウェイの森』の女の子みたいに、気持ちいいことをしてくれるのだろうか。胸が高鳴る。
歩美はパジャマの上から遠慮がちに乳房を撫でた。男の子の力加減より好みだと思った。歩美は小さな口で乳首をそっと吸った。もりのは小さく声をもらした。歩美はパジャマのボタンを外した。
「ボインちゃん」とささやき、乳首を舐めた。やさしく繊細な舐め方も感じがよかった。目が暗闇に慣れたので歩美をみると、おいしそうに乳首を吸ったり舐めたりしていた。その表情がやらしくて、もりのは感じた。
これは期待できると思っていたら、「この先どうしたらいいんだろう」と歩美がつぶやいた。「もりのちゃん、どうしよう」
もりのは歩美の唇にキスをすると、上になった。『ノルウェイの森』を読んでいたので、おおまかな知識はあったし、男の子も女の子も基本的にやることは同じだと見当をつけた。
もりのは歩美を裸にし、唇と手でやさしく愛撫した。自分がしてもらいたい愛撫をした。歩美は声を上げ、高まっていく。自分が歩美の初めての相手だと思うと、責任の重さに気が引き締まる。繊細な身体を壊さないよう大切に扱った。内腿から奥の方へ手を進める。歩美は濡れていた。もりのは歩美の反応をみながら、感じるところを指先で探る。やさしく愛撫を重ねると、歩美は腰をふるわせてイッた。
その日から、二人はセックスするようになった。もりのは試したいと思っていたいろいろなことをした。もりのが導くことが多かった。歩美にしてもらうのは気持ちよかったが、イキきれなかった。
「私ばっかりイッて、ときどき寂しくなる」歩美はあるときぽつんとつぶやいた。
「歩美ちゃんがイクのを感じると、私もイクんだよ」もりのは本当のことを言う。「してもらうときも気持ちいいし」
「うん……。でも、スカッとイクもりのちゃんを一度みてみたいな。がんばろっと」
歩美は明るい笑顔をつくった。
もりのは心の中で思った。イク才能がほしいと。感度の良さは才能みたいなものだから。この思いを歩美に言うことはなかった。なんとなく傷つけそうな気がした。
二人の関係は、タカライシの受験失敗で終わった。もりのは引き続きタカライシ受験の道を、歩美は別の道を選んだ。
「これが私と初めての女の子との物語です」もりのはきりえに言った。
「もりのちゃん、セックスしすぎで一回目の受験落ちたんかいな」きりえはあきれた。「もりのらしいっていうか」
「セックスのしすぎで落ちたんじゃないから。そんなにしてないし。ものすごく芸事にも打ち込んだんだから。まだ機が熟してなかったから落ちたんですよ」
「そういうことにしといたるわ」きりえはそう言うと、「歩美ちゃんは希望の大学に行けたん?」
「現役で合格したよ」もりのは微笑んだ。「興味のあることなら、やればできる子だったの。今は都市銀行でバリバリ働いてるみたい」
「金融道を貫いたんやな」きりえは笑った。「魅力的な子やん」
「ほんとに」
もりのは微笑んだ。
きりえがそっともたれかかってきた。もりのの太腿をやさしく撫でる。
「なあ、もりのちゃん」
きりえは色気を含んだまなざしでもりのを見つめ、「感じたやん……」と甘く笑う。「歩美ちゃんになって、もりのちゃんと初体験した気分やったよ」
「なんてこと言うの……興奮しちゃうよ」もりのはかすれた声でささやき、きりえをそっと抱き寄せた。「そんな効果があるのなら、こういう話もっとしようかな」とつぶやいた。
四 タカライシの先輩
海上に浮かぶパーキングエリアをあとにしたもりのときりえは、東京湾アクアラインを快走していた。やさしい空色の快晴で、眼下には、深い青色の海が広がっている。
「この橋と明石海峡大橋ってどっちが長いんだろ?」
もりのがたずねた。サングラスの奥で、目が輝いていた。高いところに架かる大きな橋から眺める風景が好きだった。
「アクアブリッジのほうが長いで。アクアブリッジは四〇〇〇メートル超で、日本一長いねん。明石海峡大橋は二位で、たしか三九〇〇メートルくらい」
きりえはすらすら応えた。
「さすが、物知りだね」もりのは感心した。
「ほんの雑学やで」きりえはにっこり笑った。
二人は南房総の温泉宿に向かっていた。目的は海鮮料理と温泉だった。タカライシ時代は、一、二月にカニを目当てに城崎や香住に繰り出したものだ。関東には地産のカニがなかったので、早々にカニはあきらめた。房州海老と呼ばれる伊勢海老をはじめとする海の幸と、温泉を楽しめる宿のある南房総に行くことにした。
「関東のドライブもいいね」
「場所によっては関西と共通点あるよね。アクアブリッジは明石海峡大橋に似てるし、房総半島は和歌山に似てる。千葉の銚子、和歌山の湯浅と、しょうゆの産地もあるし」
「しょうゆの産地か、なるほど」
きりえは得意気な顔をしていた。もりのは微笑んだ。
「ドライブって楽しいね」もりのは至福をかみしめる。「この車とも、今年で十年の付き合いなんだ」
「私もこの車と六年の付き合いやで」
「すごい、私たち、もうそんなになるんだ」もりのは感動する。「嬉しいな」
「あちこち行ったな」
「これからもいっぱいドライブしようね」
きりえはもりのを見ると、大きな美しい目をまぶしそうに細め、「うん」と笑った。
海岸線にさしかかると、適当なところできりえと運転を交代した。高い鼻に、サングラスをかけたきりえは、クラシカルなフランス女優の雰囲気があった。美しく、凛として、自然体だった。落ち着いたブラウンのふわりとした髪を無造作に束ねていた。もりのは美しい横顔に見惚れた。一緒にいられる幸せをかみしめた。
「この車に最初に乗った恋人の話を聞かせて」きりえが唐突に言った。
「え?」
「昨日の続き」
「まだ続いてたの」もりのは苦笑した。
「もちろん。当たり前やん」
「きりえちゃんの知ってる人だよ」
「え、誰?」
「その人が、私がタカライシで初めて付き合った人。車に乗ってもらったときは、もうそういう関係じゃなかったけど」
「誰なん?」
もりのは咳払いをする。
「どしたん? めっちゃ話しにくそうやけど」
「いえ」もりのは口ごもる。
「もりのが初めて本気で好きになった人なんやな」きりえはニヤッと笑った。
「本気で好きになったというか……特別な人でした」
「へえ、特別な人なんや」
「もちろん、きりえちゃんを除いて」
「遠慮せんでええよ」
「ほんとのことだから」
「で、誰なん? はよ言いや」きりえはもりのの脚をポンポン叩いた。
もりのは髪を触り、「ゆうきさんです」
タイミングよく信号が赤になる。きりえはサングラスを外し、もりのをまじまじと見つめた。
「ゆうきさんって、あのゆうきさん?」
もりのはうなずいた。
「うわぁ、全然気づかへんかった」きりえはもりのをしげしげ見つめ、「あ、もりのちゃん、ゆうきさんのお付きしてたね。その頃?」
「そう」
もりのはタカライシに入団した年の秋にダイヤ組に配属された。「懐の深い男役」という目標に近づくため、理想の芸風をもっていたゆうきに、お付きをしたいと申し出た。ゆうきに快諾してもらい、ゆうきがサファイヤ組に異動するまでの二年半、公演中のゆうきの身の回りのサポートをした。
タカライシ歌劇団には、後輩が先輩の付き人となる伝統がある。強制ではなく、任意だ。後輩はサポートする見返りに、先輩から舞台化粧をはじめ、様々な芸を学び、盗み、アドバイスをもらう。自分と顔の系統や体格が似ていたり、目指す芸風であったりする先輩に付く。
「お付きの人と、そんなことってあるんやな」きりえはつぶやいた。
「あ、青になったよ」
きりえは車を発進させ、サングラスをかけた。
もりのは当時を振り返りながら、ゆっくり話す。
「気が付いたらそうなってたんです。きりえさんへの感情とは全然違って。私とゆうきさん、似てたんですよね。人生経験を重ねたもう一人の自分と一緒にいるような感覚でした」
「似てるかなぁ」
「見た目は全然似てないよ。ゆうきさんは面長で切れ長だし、骨太な渋い人だから」
「見た目はもちろんちゃうねんけど……」
「なに、どうした?」
「もりのに似てるんやったら、私、ゆうきさんとも相性ええはずやん?」
「ちょっと、どういうこと?」もりのはあわてる。「その口ぶり、まさかしたことあるの?」
「キスしたことあるねん」
「え! いつですか?」もりのはびっくりしてきりえの横顔を見つめた。
「もりのが入団する前かなぁ」
「そんなことがあったんだ」もりのはしょんぼりする。
「なによ、もりのの好きなゆうきさんが私とキスしてたことが嫌なん?」
「ゆうきさんに妬いたんです。きりえさんとキスしてたなんて」
「ほんま? 私に妬いたんちゃうん」
「あほやなぁ、そんなわけないやん」もりのは大阪弁で言ってみた。
「その言い方、なんかむかつくわ」きりえは厳しい口調だが、笑顔だった。
「キスだけですんだの?」
「うん。宴会の席でふざけてしただけやから。私たちだけやなくて、みんなふざけてチュッチュッしてたで」きりえはのんきな口調で応えた。
「おそろしい先輩方」
「ゆうきさんとそうなったんって、何歳やったん?」
「お付きをしてしばらくしてだから、二十歳くらいかな?」
「どっちからなん?」
「どっちからだったかな……」
どうしてそうなったのか、もりのもわからなかった。ゆうきのことは人として大好きだったが、性的魅力を感じていたわけではなかったのだ。
ゆうきは、もりのの理想とするスケールの大きな懐の深い男役だった。身長はもりのより数センチ低いが、包容力から大きな男役という印象を与えた。
「どうしてそんなに大きいというか、スケール感があるんですか?」ともりのがたずねたことがある。
ゆうきは切れ長のクールな目に不敵な笑みを浮かべ、「背がもりのほど高くないのに?」と付け加えた。
「はい」もりのは遠慮がちに応えた。
「それは、顔が大きめだからだよ」ゆうきはさらっと言った。
「大きくないですよ」もりのは自分が感じていることを言った。誰かと比べて大きいと感じたことはなかった。小さいと感じたこともなかった。
「うん、まあ、大きくはないか。娘役よりは大きいってことだよ。だから、男役としていいバランスを出せるんだ」
ゆうきは自分を見つめるもりのの顔を大きな片手でひょいっとつかむ。
「もりのはくそ小っちゃいからなぁ」ゆうきは笑う。「娘役泣かせだよね」
「私みたいなのはどうしたらいいんですか?」
「何を言ってるの、背が高いだけで得してるんだよ。大丈夫だよ。男役として精進してりゃ、もりのなりの包容力とスケールの大きさは、必ず出てくるから」
ゆうきは必要としているときに適切なアドバイスをくれた。
お付きとして、身近に接すれば接するほど、魅力を感じた。熱心な顔でひたむきについてまわるもりのを見て、ゆうきはよく笑った。
舞台化粧を盗めないものかと観察していると、
「私のお化粧は参考にならないんじゃないかな。顔の系統が違いすぎだよ」ゆうきは鏡に映る二人の顔を指差した。「まず、顔の長さが違う。面長の私は大人っぽいでしょ……ま、大人なんだけど。顔がうんと短いもりのはかわいい童顔。目と眉の間隔が私は広めだけど、もりのは狭い。私は目が切れ長だけど、もりのはつぶら。私は鼻がごついけど、もりのは小作り。唇もね、私は普通だけど、もりのはやけにふっくらしてる。とまあ、正直に言って、私は舞台メイク映えする顔だけど、もりのは工夫がいるね。今でも個性的でエキゾチックな味があるけど、お化粧がうまくなれば、超二枚目になるから。腕を磨きなさい」
衣裳の着こなしを観察していると、
「私は全身のバランスを考えて補正をオーバーにするけど、もりのはこれを真似しちゃダメだよ。もともと肩幅あるし、顔がくそ小っちゃいから、同じ風にすると、ケンシロウになるよ」とゆうきは笑った。
「ケンシロウ?」もりのは笑う。「『北斗の拳』のケンシロウですか?」
「うん、おっきなガタイにちょこんと顔が乗ってる感じ。悪くないけど、シャープじゃないな。もりのはシンプルな補正でいいよ。胸板も厚くて、ほんとに恵まれたやつだ」
胸板が厚いというのは、胸が大きいということだ。大きな胸をつぶすと胸に厚みが出て、男役らしさが増す。
「もりのは不器用で、お化粧もお衣裳の着こなしもまだまだだけど、ひたむきに取り組む姿勢がいい。類まれなスタイルの良さを生かして、スタイリッシュな男役になるんだよ」
「私は懐の深い男役になりたいんです」
ゆうきはもりのをやさしく見つめ、「それはここ次第」と自分の胸をぽんと叩いた。「いろんなことを感じ考え、もがいて悩み、自分と向き合いなさい」
「ゆうきさん、ええこと言わはるなぁ。器の大きい、ええ人やったよね」きりえは懐かしそうな顔をした。「私もかわいがってもらったわ」
「ゆうきさんには、組み替えされてからも退団されてからも、ずっと目をかけてもらってました。なぜかすごく見込んでくれて。抜擢が続いたとき、嬉しさよりも戸惑ってた時期があったんです。なんで、私なんかが抜擢されるんだろうって。私よりお芝居も歌もダンスもうまい人なんていくらでもいるのにって。そしたら、『圧倒的にスタイルがよくて、舞台映えするからだよ。どこにいても目に入ってくる。顔立ちも個性的だし、華もある。その気になればトップスターにもなれるよ。きっと大器晩成型だから。長い目で、期待してるよ』って言ってくださって。トップスターなんてとんでもないけど、ちょっと自信を持てたんです」
「そやで。もりのは男役としてめっちゃ恵まれてるんやで。みんなスター性に気づいてたよ。気づいてないんは、とぼけたあんただけや」きりえは笑った。「もどかしかってんから。ま、私はゆうきさんみたいに親切ちゃうから、自分で気づくまで放置してたんやけど」
「教えてくださいよ」
「放任主義なの」
「ゆうきさんはほんとに親切で。外部の舞台の観劇とか、後援者との食事会とか、いろんなところに連れ出してくれて、いろんな経験をさせてくれました」
「で、もりのはすっかりなついたんやな」きりえは目を細めた。
「なついちゃいました」もりのはえへっと笑った。
「もりのは物腰が柔らかいから、人なつっこくみえるかもしれへんけど、簡単には心を開かへんタイプやもんな。気を許して寛いでいるもりのは、ほんまにかわいらしいよね。犬みたいに愛くるしい」
「犬? やだなぁ、ペットみたい」もりのは唇をとがらした。「色っぽくないなぁ」
「でも昔っから、ときどき、ハッとするほど色っぽい目つきすることあったやん? あのギャップに年上は弱いねん。私もちょっと気になっててんよ」
「そうなの? そんな話、初めて聞いた」もりのは大喜びする。「気になってくれてたんだ、めっちゃ嬉しい!」
「で、どんな風に進展したん?」きりえが促す。
もりのは唇を長い指で触りながら、記憶の引き出しを開ける。
「ごはん、ちゃんと食べてる?」
あるとき、ゆうきがたずねてきた。
「コンビニとかスーパーの惣菜を食べてます」
「だろうね。お肌がちょっと荒れたね。肌が白いから、目立つよ。ちゃんと栄養とってきれいに保たないと」
「そうですよね……」
「うちに食べにくる?」
「いいんですか?」
「いらっしゃい」とゆうきは笑った。
「なんか、既視感あるんやけど」きりえはもりのを甘いまなざしで見る。「私らもそんな感じで始まったやん?」
「全然違うから。家に伺う前にキスしてたし、家ごはんに誘ってくれたときなんて、私、下心の塊だったし」
「そやったね」きりえは照れたような顔をする。「でも、ゆうきさんとそうなったんやろ?」
「いえ、しばらく何もなかったです」
「手の早いもりのが?」
「早くないから」もりのは苦笑した。
その夜、もりのはゆうきの家で、牛肉と野菜をとろとろに煮込んだビーフシチューをごちそうになった。赤ワインをおいしそうに飲むゆうきは、大人の男役の魅力をたたえていた。
もりのはふと思った。ゆうきはどんな恋愛をしてきたのだろう。濃厚な色気を発するゆうきは、その手の噂話が豊富だった。その相手は、組内外のそうそうたる男役スターだった。それが真実なのか、ただの噂なのかはわからない。確かめたいと思ったこともなかった。それなのに急に気になった。
タカライシ音楽学校に入学するため、大阪府宝石市にやってきて以来、もりのは誰かと恋愛したことがなかったし、したいとも思わなかった。日々やることが目白押しで、その余裕がなかった。そもそも、タカライシ歌劇団は、ロマンスの気分を満たしてくれる場所だった。華麗な男役と娘役が集い、芸として疑似恋愛を繰り広げる。そこにいるだけで恋愛に似た高揚感を味わえた。
しかし、その夜は妙に気になった。飲みなれない赤ワインのせいだろうか。
ゆうきと目が合う。色気を含んだ目つきに、ドキドキした。
もりのは温かい食べ物とアルコールのせいで、身体が熱かった。シャツのボタンを上から三つまではずした。ほてった唇についたソースを、ときどき舐めた。
「かわいい顔して、誘ってるの?」
ゆうきがたずねた。舞台の上でみせるようなニヒルな笑みを浮かべていた。
「そう見えます?」もりのは赤くなる。
ゆうきは妖しいまなざしで、「長い指とか、首筋から鎖骨にかけてのラインとか、白い肌とか、唇を舐める仕草とか、エロい」
もりのはびっくりしてゆうきを見た。
「そんなこと……ゆうきさんこそ、誘ってるんですか?」
ゆうきは応えず、笑いを含んだ目で見つめた。
もりのはワインをひと口飲むと、甘い微笑みを浮かべてみた。
ゆうきが動揺したのがわかる。うふんうふんと咳払いした。
もりのは意外にかわいいゆうきの反応に惹かれた。
「今日は隣で寝てもいいですか?」
もりのの言葉に、ゆうきは驚いたようだが、「いいよ」とうなずいた。
シングルベッドの中で身を寄せ合った。ゆうきは自分を落ちつけようとするような、ゆったりとした呼吸を繰り返していた。もりのは身体をゆうきの方に向けた。その気配を感じ、ゆうきがもりのの方を見た。ゆうきの顔は常夜灯にほのかに照らされていた。まなざしにやさしさがにじんでいる。
「いつまで待てばいいんですか?」もりのはもうすっかりその気だった。
「え?」
「したいと思ってるのは私だけですか?」
「もりのちゃん……」
「ゆうきさんが来てくれないなら――」
もりのは目を伏せると、唇をそっと押し当てた。ゆうきは口を半ば開いて受け入れた。二人は抱き合った。もりのは唇と舌を使い、唇と口のなかの柔らかなところや歯の感触を心ゆくまで味わい、味わってもらう。ゆうきはもりのの頭や首のうしろを撫でていた。求められているようで、もりのの気分は盛り上がる。
唇を離すと、もりのは首筋に唇を移し、「裸で抱き合いたいです」と耳元でささやいた。
「もりのちゃん、こういうの慣れてるの?」
「いえ、慣れてないと思います……」もりのは服を脱ぎながら、あいまいに応えた。
「キスだけで濡れたの初めてだよ」
経験豊富そうなゆうきにそんなことを言ってもらえて、もりのは正直、すごく嬉しかった。
裸になると、抱き合った。
「いい身体」ゆうきが吐息をもらす。「肌がとってもなめらかで柔らかいね」
「女の人ってみんなそうでしょ?」
「そうでもないよ。人によってけっこう違うから」
もりのは長い指ですくようにゆうきの髪を撫でて額にキスをした。唇と手でゆったりとしたリズムで愛撫した。
「手慣れてるじゃない」ゆうきは嬉しそうに微笑んだ。
宿はもうすぐそこなのに、きりえが急に進路を変えた。車も人の姿もない海岸に乗り入れた。
「どうしたの? 少し散歩する?」ともりのはたずねた。
きりえは応えず、サングラスを外してもりのを見つめた。唇には微笑みが、美しい目には艶やかな色気が浮かんでいる。もりのの胸は高鳴った。
きりえはシートベルトを外すと、もりのの首のうしろに手を差し入れ、やわらかな身体を押しつけるようにしてキスをした。すべてを味わいつくそうとするような、濃厚なキスだった。やわらかくなめらかな感触と、唇からもれる吐息、唇と舌が立てるかすかな音、ぬくもりに包まれ、もりのは陶然とする。
唇を離すと、もりのは吐息をもらした。身体がうずいていた。
「大胆……」もりのはかすれた声でささやいた。
きりえはシートに座り直すと、髪の毛を触りながら、
「もりのの描写が生々しいからあかんねんよ」
「話すのやめた方がいい?」
「続けて」きりえは恥ずかしそうに言った。
もりのはゆうきをやさしく愛撫した。ゆうきの身体の反応を感じとり、繊細に、大胆に、奔放に応えた。ゆうきは何度もイッた。呼吸が整うと、大笑いした。
「え、おもしろかったですか?」もりのはちょっと傷ついた。
「こんなにイクって笑える」ゆうきは笑い涙をふいた。
もりのもちょっと笑った。
「もりのちゃん、あなたにはびっくりさせられる」ゆうきはもりのの髪を大きな手でくしゃくしゃにした。もりのはそうされるのが気持ちよくて、ゆうきの身体の上でおとなしくしていた。
「先輩の貫録をみせないとね」
ゆうきはもりのの上になると、首筋に唇をはわせた。乳房をやさしく手で愛撫し、「ここの色素もすごくうすいんだ……かわいい」とささやき、乳首をやさしく舐めた。
愛撫してもらうのは気持ちいいが、もりのは少し落ち着かなかった。
もりのの戸惑いを感じたゆうきは、やさしい声音でたずねる。
「いやなの?」
もりのは首を振り、つぶやく。
「してもらうの、うれしいです。でも、慣れてなくて」
「そうなんだ。もりのちゃんは女の子を抱いてばかりだったの?」
「男の子も抱いてましたよ」もりのは言った。「あわせて二人だけ」
「ユニークな人」
ゆうきはやさしく笑い、もりのを抱いた。時間をかけてキスをしながら、髪を撫でた。頭の形が気に入ったようで、「このまるみ最高」と何度もささやいた。
もりのはリラックスしてゆうきの愛撫を楽しみはじめた。愛情につつまれ、身も心も解き放たれるようだった。自分以外の愛撫では濡れにくいところが、温かく濡れるのを感じた。ゆうきの大きな手がやさしく触れる。指の形も感触も違うけれど、リズムやタイミングやアクセントが自分のやり方と似ていた。快感の波にのまれ、もりのは自分以外の手で初めてスカッとイッた。
「おめでとう、もりのちゃん」きりえがもりのに言った。
「ありがとう」
「めっちゃ喜んだんやろ」
「ええ」もりのは髪をちょいちょいと触った。
「絶叫系のアトラクションに乗ったときみたいやったんやろな。『やったぁ!』『ばんざーい!』『気持ちいい!』とか無邪気にはしゃいだんやろ」
「なんでわかるの?」もりのは目をまるくした。
「付き合い長いねんで」
「うん、そうだね」もりのは微笑んだ。
「もう、かわいいな。嬉しくて、何度もやったんやろ。おさるさんみたいに」
「最初だけね。一ヵ月くらい」
「もりのちゃんやのに?」
「私も相手によって変わるんだよ。ゆうきさんとは、しばらく快楽を探求しました。軽やかにね。気心の知れた相手と、いろいろ旅する感じ。私たち、お互いに好色なのか淡泊なのかわからなかったな。あってもいいし、なくてもいいの。旅する一ヵ月が終わると、ほとんど触れ合わなくなりました。ただそばにいるだけでよかったな」
「なんやそれ」きりえは形のいい唇をとがらせる。「そばにいるだけでええって素敵やん」
もりのは、きりえのとがったかわいらしい唇にキスをする。
「私はきりえさんがいい。あなたをもっと知りたい」もりのは熱い口調で言った。「あなたへの情熱が尽きないんです。見たことのないあなたや自分を見つけることができて、終わりがない……」
もりのはきりえのシートを倒そうとした。
きりえは全力で制する。
「あかんあかんあかん、いくらなんでもここじゃあかんよ」
「あとでね」
もりのはきりえの唇に軽くキスをした。
旅館の駐車場に車を停め、二人は肩を並べて歩いた。
「ゆうきさんとは今も会ってるん?」
「うん。東京に来てからほとんど会ってないけど」
「私とのことは話してるん?」
「当たり前じゃないですか」
「なんて言ってはった?」
「付き合うことになってすぐに報告したんです。そしたら、『恋したんだね。よかったね』って喜んでくれました」
「それだけ?」
「遠くにいっちゃうんだねって言われました」
「たぶん、ゆうきさんはもりのに特別な愛情を持ってはったんやと思うよ」
きりえはそうつぶやくと、空を見上げた。
「私はゆうきさんには感謝でいっぱいで……そう、足を向けて寝られない人なんです」
もりのは同じように空を見上げた。白をたっぷり含んだあわい空色が広がっていた。
五 男役が好きな男
オープンしたばかりの露天風呂付客室に案内された。洋室だが、モダンな和の趣もある。明るい色調の広々とした無垢床に、クイーンサイズのベッド、ぬくもりを感じさせる照明、二人掛けソファ、テーブル、壁掛けテレビが配された、シンプルな部屋だった。寝具はやさしい白で統一され、清潔感があった。
きりえがベッドに真っ先に飛び込んだ。もりのはその隣に横になった。
「ふっかふか」きりえは顔を輝かせてはしゃいだ。「めっちゃ快適」
もりのは頭のうしろで手を組んで枕にし、甘く微笑んだ。
きりえはもりの身体に腕をまわすと、脇に顔をうずめた。もりのはブルーグレーのシルクニットを着ていた。
「かわいい顔を見せて」もりのはささやいた。
きりえはもりのをチラッと見て、また顔をうずめた。
「ここの匂い好き」きりえは深く息を吸う。「いつもいい匂い……」
もりのは手をほどき、きりえを包み込むように腕をまわした。
「私もきりえちゃんの匂いが好き」
そのまま黙って抱き合った。
「お風呂入る?」きりえがささやいた。
「入ろっか」もりのは微笑んだ。
露天風呂は大きな窓で区切られているが、部屋から中が見えた。
「丸見えやな」きりえが赤くなった。
「完全にカップル専用の部屋だね」もりのが笑った。
「ほんまや」きりえも笑った。
「どっちから入る?」
「もりのちゃんから」
「あとから来てね」もりのはきりえの形のいい額にキスをした。
もりのが湯につかると、きりえがやってきた。もりのはきれいな裸に見惚れた。
「じっと見んといてよ」きりえは恥じらった。「せっかくやから、景色見いや」
外から見られないよう目隠しでほとんど遮られているが、湯船につかったまま海の夕景を楽しめた。
きりえはもりのと向かい合って湯につかると、気持ちよさそうな声をあげ、大きく伸びをした。
「きりえちゃんの位置からも景色見える?」
「見えるよ」
「露天風呂の醍醐味だね」
「極楽やね」
どちらともなく近寄り、滴を舐めとるように唇や首筋にキスをした。
浴衣を着ると、ソファで寛いだ。
「お茶どうぞ」もりのが煎茶をいれた。
「ありがと」きりえは微笑み、ひと口飲む。「おいしい」
もりのもひと口飲んだ。とろっと甘く、かすかな渋味があった。
「いいお茶だね」
「今何時?」
もりのはスマホの表示を確認する。
「五時前」
「ご飯まで一時間ちょいやな」
「めっちゃ楽しみ」
「それで、もりのちゃん」きりえはいたずらっぽく笑った。「続き聞きたいな」
「そうくると思ってた」もりのはニヤッと笑った。「一つ訂正があって。タカライシ時代に二人の男性と関係があったって言ったけど、間違いです。一人はカウントするような関係じゃないので省くね」
「省いたらあかん。いったんカウントしたってことは、そういう関係やったんやろ?」
もりのは困った顔をする。
「性的な関係はなかったよ。友達として半年付き合っただけ。それでも話さないとダメ?」
きりえはうなずいた。
もりのが立て続けに男性と交流したのは、入団から七年経ち、新人公演を卒業してからだ。新人公演とは、若手を育成するための公演で、大劇場公演と東京公演の期間中にそれぞれ一回だけ、通常公演を若手だけで演じる。新人公演の出演者は、通常公演の終演後に新人公演の稽古を行う。そのため、役付のいいスター候補は時間に追われる。
新人公演を卒業したもりのは、タカライシ歌劇団の外の刺激がほしくなった。外の世界に触れることが、芸のこやしになると思った。
そう思っていたタイミングで、早い時期に退団した同期から、パーティの誘いを受けた。様々な職業の人が集うことに興味を持ち、参加した。
そこで出会った一人が、中田という新聞記者の男性だった。彼は大手新聞社に籍を置いていた。東京から転勤になって二年だという。専門分野は流通業界で、企業回りをしていた。彼はなかなかの物知りで、話を聞くのも、話すのも巧みだった。
彼はもりのより五歳年上だった。長身で、ジムで鍛えているという引き締まった身体をしていた。清潔な髪型をしていて、面長で、眼鏡が似合った。眼鏡の奥の細めの目はどちらかというと冷たい印象を与えた。
彼は帰り際、連絡先を交換したいと言ってきた。異性なので警戒し、そういうのは困ると断った。けれど、彼との縁はそれで終わらず、そういった会食の場で何度か出くわした。そのたびに彼は連絡先の交換を求め、もりのは断った。
いつものようにもりのが断ったときに、「結婚を前提に付き合ってください」と彼は言った。
もりのは即座に断った。結婚どころか付き合う気はないと。彼は好みのタイプではなく、性的魅力も感じなかった。
かりに魅力を感じた相手だったとしても、付き合うことには慎重だった。タカライシ歌劇団では恋愛は御法度なのだ。すごく惹かれていたとしても、信用できる相手でないと付き合えないと思っていた。軽率な振る舞いで、劇団に泥を塗れない。
断るもりのに、彼は食い下がった。
「まずは友達から始めてもらえませんか」
もりのは「友達」という言葉に反応した。好奇心がむくむくわいてきた。彼の職業には興味があり、いろいろ話を聞いてみたかった。
「友達ならいいですよ。でも、その先は絶対にないと思ってください」
もりのはそう応え、連絡先を交換した。
月に一度のペースで会った。異性だったので、ファンと遭遇して妙な誤解をされないよう、会う場所を注意深く選んだ。
会うのはたいてい平日の夜だった。彼は新聞記者のイメージと違い、パリッとしたスーツを着ていた。有名ブランドの機能的なナイロン製の鞄の中には常に小説と、モバイルパソコンが入っていた。企業回りをしているだけあって、たまに対面する芸能記者と雰囲気が違い、堅い会社員の印象を与えた。
彼の仕事のエピソードや、世の中に対する見解は興味深かった。友達として過ごすのは楽しかった。彼はシニカルで、人や物事をあまりほめないが、もりののことはよくほめた。
「もりのちゃんは新聞記者に向いてるよ。聡明で公平で聞き上手だから」
彼の言葉は望むところであり、もりのは素直に喜んだ。
「けっこうええ感じやん?」ときりえが言った。
「友達として、いいなと思ってたよ。でも、結局はね」もりのは肩をすくめた。
半年経ったある夜、シティホテルのバーで飲んだ。切り上げる頃合いで、彼はホテルの部屋に誘った。もりのが怪訝な顔をしていると、「もりのちゃんを知れば知るほど好きになったんだ。結婚を前提に付き合ってほしい」と言った。
もりのはびっくりし、「最初にその気はないと断ったはずだけど」
彼もびっくりしたようだった。目を見開き、「その気もないのに、男と会うの?」
「友達だから会ってたんだけど」もりのは髪をかきあげ、ため息をついた。
「俺は男女の友情を信じないよ」
「そうなんだ」もりのはため息をついた。「それなら、もう会わないほうがいいですね」
彼はうろたえた。
「ちょっと待って。ほんとにタカライシって恋愛禁止なの? 年頃の女性が恋愛しないでいられるなんて、信じられない」
「もちろん恋愛は禁止です。でも、私が中田さんと付き合わないのは、なんていうか……。単純に惹かれないんです。ごめんなさい」
「はっきり言うね」彼はがっくりと肩を落とした。隣のもりのを上目遣いで見ると、「よくわかったよ。もう会わないから、最後にもう一杯だけ付き合ってくれる?」
「いいですよ」もりのはうなずいた。
彼はシングルモルトウィスキーをストレートで飲んだ。
それで勢いづいたのか、「一回だけさせて」と照れくさそうに誘ってきた。
「もちろん、私はきっぱり断りましたよ」もりのはきりえに言った。
「中田さんは引き下がったん?」
「けっこうしぶとくて。断り続けたら、『やらせろ、けち!』って大声で。参りましたね」
きりえは爆笑した。
「私はそのまま去り、二度と会いませんでした」
「“男女あるある”かもなぁ」きりえは笑った。「向こうに少しでもその気があるなら、まあ、最初から関わらへんほうが面倒がないよね」
「うん、そうだよね」もりのは苦笑した。「それを学んだはずなんだけど、次の人もこんな感じで始まったの。といっても、かなり独特で、奇妙な付き合いになったよ」
「なによ、それ。ドキドキするやん」
「ちょっと覚悟してね」もりのはニヤッと笑った。
もりのがタカライシに入団して十年目のことだった。
その年は、もりのの正念場となる公演が続き、多忙を極めた。まず、新進気鋭の男役のみりとともに小劇場公演のダブル主演を務めた。その後、ダイヤ組は海外ミュージカルに挑戦し、もりのはまずまずの役を得た。続いて、ダイヤ組トップスターのあさと、二番手のきりえがそれぞれ主演を務める公演が行われ、もりのはあさの公演で重要な役に抜擢された。
もりのが奇妙な関係を築くことになる圭介と出会ったのは、海外ミュージカルの公演期間中だった。彼はダンサーで、様々な舞台にアンサンブルキャストとして出演していた。彼を紹介したのは、退団後に英国留学を経て女優として活動を始めたゆうきだった。
「え、元カノが元カノを男の人に紹介したん?」きりえは複雑な顔をした。
「いやいや、そういうんじゃないの。ゆうきさんが舞台に出演したあとに、共演者と一緒にダイヤ組公演を観劇してくれたの。たいていの男性は、きりえさんのチャーミングな魅力と歌声に反応したんだって。おじさんの役で、ひげをつけててもね。その中で一人だけ、私に惚れこんでくれた人がいると教えてくれて。舞台活動してる人に評価されたのが嬉しくて。それで、ゆうきさんもまじえて食事したの」
もりのは懐かしそうな顔をした。
彼はもりのより少し若く、少し背が低かった。若いダンサーらしい、ストリートファッションを身にまとっていた。ぱっちりとした二重瞼で、男性にしては小さめの、かわいい顔をしていた。ひげがうすく、肌はつるんとして見えた。
彼はもりのと会うなり、パッと顔を輝かせ、握手を求めた。
「お会いできて光栄です。ゆうきさん、こんな機会を作ってくださり、ありがとうございます」
彼は身長のわりに低めの声で、礼儀正しく言った。言葉に心がこもっているように感じられた。堺市出身の彼の言葉は、敬語におっとりとした大阪弁の抑揚がついていた。
もりのは彼に好感をもった。昔馴染みのような心地よさを感じた。
彼は料理をまめに取り分けてくれた。相手に気を遣わせない、自然なホスピタリティにあふれていた。
「もりのさんの男役に一目惚れしたんです」彼はかわいらしく笑った。「めっちゃ舞台映えしますよね。ほんまにかっこよくて、目が離せませんでした。オープニングの場面で、女役さんをお姫様だっこして微笑みながら伏し目しますよね。あれがたまらないんです。僕のタイプど真ん中なんです。ほんまにかっこよくて色気があって、悩殺されました」
「すごく丁寧に見てくださってたんですね。嬉しいです」もりのは笑顔を浮かべた。
「もりのさんの大ファンになりました。また観に行きますね」彼は目を輝かせた。
彼の言葉は、本心からのものだと信じられた。初対面なのに心を許し、リラックスできた。
何回か食事してから、彼が真面目な顔で切り出した。
「もりのさん、大好きです。結婚を前提に付き合ってください」
「圭介くんと一緒にいるのすっごく楽しいよ。でも、恋人として付き合うのはちょっとイメージできないの。結婚もまったく考えてなくて」
もりのは正直に言った。
彼はもりのをひたむきなまなざしで見つめた。
「友達から、チャンスをくれませんか」
「今まで通り、友達なら歓迎だよ」もりのは微笑んだ。
「こら、また同じことを繰り返して」きりえが突っ込んだ。「誤解されるで」
「だって、友達でいたかったから」もりのは髪をかいた。「それに、圭介くんとは、中田さんとは全然違う展開になったんだよ」
その後も楽しく過ごした。彼が下心を持っているように感じられず、もりのはたびたび彼の家に遊びにいった。もりのの家から車で二十分ほどの場所に住んでいた。彼の部屋は明るく清潔で居心地がよかった。彼は舞台出演の合間にアルバイトをしていたが、時間に余裕があるようだった。いつも手料理でもてなしてくれた。栄養士と調理師の免許をもっており、栄養バランスも味付けも完璧だった。
「胃袋をつかまれたんかいな」きりえはもりのを小突いた。
「ええ、まあ」もりのはお茶を飲む。「あ、冷めちゃった」
「あったかいの入れたるよ」きりえはやさしく言った。
「ありがとう」
彼に対して、もりのはおそろしいほど気を遣わずにいられた。それでつい、自宅にいる感覚でリビングのソファで眠ってしまった。
「そんなとこで寝たら、明日がしんどいで」彼はやさしくもりのを起こした。「疲れがたまってるんやから、今日はもう泊まり」
眠くてたまらないもりのを布団に寝かせ、彼は自分のベッドで眠った。身の危険は一切感じなかった。幼馴染や気心の知れた同期の家に泊まるような、安心感があった。
あくる日は、彼の服を借りた。入り出待ちがあり、同じ服で行くわけにはいかなかったからだ。彼は袖を通してない、ゆったりとしたシルエットのパーカーとTシャツを貸してくれた。丈が長すぎたが、ほぼぴったりだった。
「めっちゃ似合う! スタイル抜群の人が着ると、こんなにかっこいいんや! もりのちゃんにプレゼントする」
彼はもりのをうっとりと眺めた。
「ありがとう」もりのは微笑み、その服をときどき着た。
それからというもの、彼はちょくちょくもりのに服をプレゼントした。もりのは遠慮するのだが、「似合う人に着てほしいんねん。僕の道楽やから」というので、甘えた。
ふと気づくと、彼がいかにもうっとりとした表情で自分を見ていることがあった。目が合うと、「もりのちゃんはほんまに素敵やね」とはにかむのだった。そんな彼がかわいらしく、もりのの心はあたたまるのだった。
二人の関係に変化が訪れたのは、もりのがリビングのソファでうたた寝していたある夜のことだった。
もりのは何かとてつもなく幸福な夢をみていた。「こんなとこで寝ちゃダメだよ」とやさしく揺り起こす彼をぼんやり見つめた。かわいい顔が心配そうに、上からそっと覗きこんでいた。もりのの幸福感は続いていた。自然に彼の頭のうしろに手をまわしていた。彼の身体はかすかに震え、目のなかに高まりが感じられた。そのまま彼の頭を引き寄せ、唇にキスをした。つづきのないキスだった。もりのは決定的な何かを悟った。唇を離すと、夢遊病者のような足取りで布団の中にもぐりこみ、夢のつづきに身をひたした。
彼が手早く作ってくれた朝食を食べたあと、ソファに並んで淹れたてのコーヒーを飲んだ。次の公演の稽古が始まっていたもりのにとって、久しぶりの休日だった。しなければならないことが山積みだったが、気になっていることを聞かずに、帰る気がしなかった。
もりのはおもむろに切り出した。
「ぶしつけなことを聞いてもいい?」
彼は緊張した面持ちでうなずいた。
「圭介くん、もしかして男の人が好き?」
「……うん」
「どうして結婚前提で付き合いたいなんて言ったの?」もりのは素朴な疑問をぶつけた。
「もりのちゃんにほんまに惚れてるから」彼は大きな目でもりのをじっと見つめる。「昨日、キスしてくれたやん? 頭のうしろに手がまわされたとき、めっちゃドキドキしたし、嬉しかってん」
「それは感じた。でも、実際してみると違ったんだね」
彼は申し訳なさそうな顔をした。「なんて言ったらええか……柔らかすぎてん」
「けっこうほめてもらってきたんだけど」もりのは苦笑した。
「ええ唇やと思うよ。僕には柔らかすぎるだけで」
「突然キスしてごめんね」もりのは心から詫びた。「これからも友達として、いいお付き合いできたらいいな」
「ちょ、ちょっと待って」彼はあわてふためき、「僕、嬉しかってんよ。今も結婚あきらめてないし。こんなに女の人を好きになったの初めてやねん」
「でも、欲情しないって致命的だと思う。正直、私も何も感じなかったんだ」
「すぐに結論出さんといてよ」彼は寝癖のついた短い髪をかく。「結婚にはそんなことより、絆のほうが大切やと思う」
もりのは彼をしっかり見つめ、「結婚する気ないの。結婚願望すらないから」
「わかってる。いつかできたらいいなって話」
「圭介くんの考える結婚ってどんななの?」もりのは好奇心からたずねた。
「一般的な結婚とちゃうかも……」
「男の恋人が必要ってこと?」もりのは核心をついた。
彼は正直にうなずいた。
「今もいるの?」
「まさか」彼はあわてて否定した。「今はもりのちゃんだけ」
「圭介くんの結婚って、偽装結婚だよね。私には無理」
「友情結婚って言ってほしい」
「そうなの? ものは言いようだなぁ」もりのは苦笑した。「かりに私に結婚願望があったとしても、私は一対一がいい」
「うん。そやな。もっともな感覚やわ。でも、結婚すると家族の感覚になってしまって、色恋を外に求める人も多いやん? 友情結婚はそれをお互い承知してる分、悪くないと思うねん」
「まあ、ね」もりのは肩をすくめた。「どっちも欲張りって点では一緒か。どっちも好みじゃないけど。結婚しないで恋愛を楽しみ続ければいいのに。そのほうが潔い」
「もりのちゃんの倫理観、好きやわ。やっぱり理想の人やわ」彼はもりのをうっとりと見つめた。「お願いやから、チャンスちょうだい」
「結婚はないから」
もりのはぬるいコーヒーを飲み干した。
「さっきは言葉足らずやった」彼は真面目な顔をした。「僕は好きな人と長く付き合いたいし、結婚もしたい。でも、男は刹那の肉体関係でいいってやつが多すぎて、うまくいかへん。男との結婚はあきらめてる。それでええねん。僕は結婚するなら女の人がいいと思ってるから。世間体のためとちゃうよ。僕は、女の人と気が合うねん。そういうタイプのゲイやねん。女の人とうまくやっていけると思う」
「でも、一人の人と添い遂げる男の人もいるでしょ? それこそ、相手が男でも女でも」もりのは冷静に指摘した。
「女同士のカップルは長く続くのに、男同士のカップルはサイクルが短いって知ってる?」
「そうなの?」
彼はうなずき、「男女の場合、女の人の努力でもってるんとちゃうかな」
もりのは興味深い考察だと思った。その上で、「男の人でも長く付き合いたい、圭介みたいな人もいるじゃない。そういう人と一緒にやっていくのが一番いいよね」
「僕、見た目重視やねん。なかなか好みのルックスで、そういう中身の人おらんくて。おっても、パートナーがおったりな」
「なかなかうまくいかないんだね」
「だから、もりのちゃんやねん」彼はもりのの手を力強く握った。「見た目も中身も全部大好き。性別以外、完璧やねん。僕に男の恋人ができても、すぐに終わる。僕がずっとやっていきたいのはもりのちゃんやねん」
もりのはため息をつくと、そっと手を離した。
「私は無理だよ。ごめんね」
彼はがっくりと肩を落とした。
「圭介くん、無茶言うなあ」きりえはあきれ顔だった。「ちゃんと、あきらめてくれたん?」
「結婚前提のお付き合いは、あきらめてくれたよ。でも、新たな提案が飛び出して――」
彼は二杯目のコーヒーを淹れた。隣に座ると、かわいらしく笑った。
「……なんか企んでる?」もりのは警戒した。
彼はもりのを何度もチラチラ見ては、ためらっている。
「何か言いたいことあるなら言って。もう何言われても驚かないから」もりのは助け舟を出した。
「抱いて、もりのちゃん」彼は恥ずかしそうに言った。
「ん? 抱いてって言った?」もりのは思わず聞き返した。
「僕、女性との可能性をあきらめたくない。突破口を開けてほしいねん」
「なんで私が」もりのは頭を抱え、ため息をついた。「勝手な人」
「身勝手やけど、切実やねん」彼は大きな目で訴えかけた。「僕な、女の人とけっこう気が合うから、今まで何度も女の人に誘われてきてん。何人かと試してもみた。でも、あかんかった。まるっきりのインポやった。最初からあきらめも入ってたんやけどな。でも、もりのちゃんやったらいけそうな気がするねん。男役さんやし、上手に抱いてくれるんちゃうかなって」
彼は深呼吸をひとつした。「この際やから、打ち明けるわ。僕な、どちらかというと抱かれたいねん。理想の相手は、昼は紳士で夜は野獣ってタイプ。言葉で責められるのもいいし、黙々と激しく抱かれるのもええわぁ」
彼はセックスの好みを赤裸々に語る。盛り上がってきたようで、表情が嬉々としてきた。
もりのもだんだんおもしろくなってきた。好奇心が刺激されてきたところで、彼が殺し文句を言った。
「もりのちゃんは役者さんやから、僕を抱いてみるのもいい経験になると思うねん。芸の肥やしになるよ。めったにない経験やと思うねんな。今度のお芝居で色悪やるって言ってたやん? 色悪こそ、僕のタイプやねん。僕を抱いたら、役に生かせると思う」
「わかった。抱いてあげる」もりのはついに提案を受け入れた。「どうすればいい?」
「ほんま? やった!」彼は嬉しそうに拳を握りしめた。
「もりののあほ!」きりえはもりのの頭をペシンッと叩いた。「あんた、何やってんねん!」
「痛い」もりのは叩かれたところを触った。「男役魂に火が付いちゃったんですよ……」
「そんなとこでつけんでええの」きりえはもう一度叩いた。
「だから痛い……」
「あんた、そんな自在なん? 頼まれたら誰でも抱けるん?」
きりえは傷ついたようだった。もりのはそっと抱き寄せ、背中をやさしく撫でた。
「話すのやめる?」
「こんなとこでやめられへんわ」きりえはもりのをやさしくにらみ、「わかってるやろ?」
「だよね」もりのはちょっと笑った。「当たり前だけど、誰でも抱けるわけじゃないよ。彼のことは好きだったし、キスしようと思ったくらい魅力を感じたから。一肌脱いでもいいって思えたの」
きりえはうなった。
「ところできりえさん、『鳴かぬなら~ホトトギス』の句で、家康、秀吉、信長の誰派?」
「なんや急に。そやなぁ……三人の中なら家康かな」
「私もそう。きりえさんならどう詠む?」
「鳴かぬなら放してやろうホトトギス」ときりえは詠んだ。「もりのちゃんは?」
「鳴かぬなら飛んでおゆきよホトトギス」ともりのは詠んだ。
「似てるな」きりえは嬉しそうに笑った。
「似てるね」もりのも笑った。
「で、なんなん?」
「あ、そうそう。彼に対してはね、私は家康じゃなくて秀吉だったの」
「というと?」
「たたぬならたたせてみせよう――」
きりえはもりのの口をふさいだ。
「なんてこと言うん! 恥ずかしい人やなぁ」
「すみません」もりのは髪を触った。「当時の心境に近かったもので」
「それでたちはったん?」
「そんなこと言っちゃダメ」
「あんたが言い出したんやろ」きりえはすまし顔で、「たたぬならたたせてみせようオチ――」
もりのはキスをし、続きを言わせなかった。
唇を離して目を合わすと、爆笑した。
「で、どうなったん?」
「あんがい、うまくいったよ。私には全部話してしまってたから、リラックスできたんだと思う。今まで試した女の人には隠してたらしくて、それってプレッシャーだよね。圭介くん、のびのびいろんな注文してきたわ。演出家の先生みたいにね。演出がほんとに細かくて」
もりのは思い出して苦笑する。
「どんな演出つけられたん?」
「舞台さながらだったよ」
圭介は注文が多かった。やわらかい胸より厚い胸板がいいというので、舞台と同じようにノースリーブの胸押さえをした。その上からTシャツを着た。真夏に窮屈なかっこうをして男を抱くとは、さすがに奇妙な経験をしていると思った。
彼はというと、ボクサーパンツ一枚だけと、涼しげだった。
もりのは彼にキスをした。「もっとグイグイきて。唾液でべちょべちょにして」と彼は要求した。べちょべちょにならないと、「顔が小さいと口も小さいのか」と物足りなさそうにつぶやいた。身体を手と唇で愛撫すると、「もっと強烈なメリハリを頼むわ。ソフトタッチは完璧やけど、強いのが苦手やろ。強くいくときはもっと強く!」と刺激を求めた。
彼の身体は熱く、男性らしいむせるような匂いがした。もりのは彼を抱いていると、締め付けの強い下着のせいもあって、汗をかいた。すると彼は、「もっと汗かいて。そんなさらっとしたんじゃなくて、汗だくにして」「もりのちゃんの匂いはやさしいなぁ。眠くなるやん。もっとセクシーな匂いを頼むわ」と無理な注文をするのだった。
へこみそうになりかけたとき、もりのはふと彼の願望を思い出した。厳しい表情で言葉責めしてみた。彼の反応はたちまちよくなった。ちょっと引いてしまうくらい、オーバーないい反応をした。
そのかいあって、「やった! たった!」と彼は大喜びした。
「よかった」もりのも喜んだ。
「中に入っていい?」と彼はたずねた。
もりのは手でするのだと思っていたので、ためらった。
「きっと心配やんな? でも、定期的に検査してるから大丈夫。保証するわ。しっかりつけるし」彼は先回りして言った。
「いや、そうじゃなくて。濡れてないんだよね」もりのは正直に打ち明けた。「身体がついていかないっていうか……」
「そりゃそうやんな」彼は考えを巡らすように、自分のあごを指でつまんだ。
「注文をこなすのに精いっぱいで……」
「仕切り直しでどう? その、淫らなことをもりのちゃんも考えて」
「淫らなこと?」
「僕に感じないんやったら、他の誰かを思い浮かべるとか」
「さすがにそれは倒錯しすぎじゃ……」もりのはそう言いつつも、『ノルウェイの森』の女の子の力を借りたことを思い出した。
「倒錯がええんやん。絶対に、役者としていい引き出しできるから」
もりのは決心し、「わかった、やってみる」と応えた。
うまくいくか心配だったが、杞憂だった。それは思いもよらぬところからやってきて、もりのはどうしようもなく興奮した。誰かの夢にさまよいこんだようだった。夢のなかでは何でもありだった。もりのは彼を受け入れ、彼はすぐにイッた。もりのは達成感を味わった。
「よかったやん」きりえは言った。「圭介くん、喜んだやろ?」
「いや、それがショックを受けたの。セクシャリティーが揺らぐって」
「ややこしいやっちゃな」きりえは顔をしかめた。
「そのくせ、実際は揺るぎなくてね」
次に会うと、圭介はあれはまぐれかもしれないからと、セックスを試したがった。もりのが渋いニヒルな表情で言葉責めをすると彼の準備は整い、彼を愛撫しながら違う誰かを抱くともりのの準備も整った。二人は何度か交わり、まぐれでないことがわかった。
しかし、すぐに終わりがやってきた。もりのは肌と肌を重ねないセックスにむなしさを感じ、彼も物足りないようだった。「もりのちゃんは、よくも悪くも生々しくないねんなぁ」彼は残念そうに言った。
決定打は、おしりだった。彼はもりののおしりに入れたい願望と、自分のおしりに入れてほしい願望を口にした。
「それは無理。絶対無理」もりのは完全に拒否した。「もう十分でしょ。圭介くんは男の人を求めてるんだよ」
「……うん」彼は残念そうに認めた。
もりのが部屋を出ようとしたとき、彼がおずおずと話しかけた。
「ずいぶん失礼なこといっぱいしたけど、友達でいてくれる?」
「いいよ」もりのは微笑んだ。「圭介くんにお礼を言わないと。実は、役作りに行き詰まってたの。今は、自分なりにやってみようって自信がついたよ。圭介くんと経験したことがプラスに働いたのかも」
「ほんと? よかった……」彼は心底ほっとしたような顔をした。「今までありがとう。舞台、必ず観に行くから」
「これで、この奇妙な関係はきっぱりと終わり、友達に戻ったよ」もりのはきりえに言った。
「今も会ってるん?」
「私が東京で暮らしてから、ほとんど会ってないです。在団中は、毎公演必ず観てくれたよ。彼氏を連れてね。相手はちょくちょく変わってたけど、望みどおり、交際期間をじわじわのばしてるみたい。そうそう、この間久しぶりにメールがきたの。なんと、今の彼氏とは二年になるって言ってた。彼にしてみれば奇跡なんだよ」
「昼は紳士で夜は野獣の彼氏に会えたん?」きりえは含み笑いを浮かべた。
「かもね」もりのはニヤッと笑った。
「圭介くんに私のことも話してるん?」
「もちろん。『さすがもりのちゃん! めっちゃ素敵! めっちゃお似合い!』って、自分のことのように喜んでくれた」
「ふうん。なかなかええとこあるやん」きりえはまんざらでもなさそうな顔をした。
「でしょ」もりのは微笑んだ。「この話はこれでおしまい」
「なあ、もりのちゃん」
きりえはもりのを見つめた。もりのがやさしく見つめると、まぶたをそっと伏せ、「もりのちゃんは、誰を思ってしてたん?」
もりのは赤くなった。「それ、スルーしてくれないんだ」
「私の知ってる人?」
「うん、よく知ってる人」もりのはきりえを見て、甘く微笑んだ。「ある分野の大スターで、私の憧れの人。とってもやわらかな大阪弁を話すの」
「誰やろ……」きりえは考え込む。「全然わからへん」
「本人に言いにくい」もりのは照れくさそうな顔をした。
「え! 私?」きりえの顔はみるみる赤くなった。
「『堂島の相場師』のときに、きりえさんが吹き込んでくれたテープのせいだと思う」
『堂島の相場師』は、きりえともりのが共演した作品で、もりのは大阪弁のセリフを当てられた。イントネーションに苦戦するもりののために、きりえはセリフをテープに吹き込んでくれたのだ。
「睡眠学習のために毎晩枕元で聞いてた時期があったから。やわらかないい声を、毎晩ですよ。たまらない気分になりますよ」
きりえはもじもじする。
もりのは自分の指をもてあそぶ。「私はきりえさんにずっと憧れてて……好きでした」
「はよ言ってくれたらよかったのに……」
「あまりにも崇高な存在だったから。言うどころか、自分の気持ちを認める勇気がなくて」
「もりのちゃんったら」きりえはもりのの髪をやさしく撫でた。
もりのは撫でられてうっとりしながら、話を続ける。
「彼は、きりえさんと同じやわらかな大阪弁を話したの。そのせいなのか、きりえさんの声が私の意識のなかにもぐりこんできて……。そのいい声で、とってもやらしいことを言うの。気持ちええよ、もっとして、もっと強くして、そこやないよ、うん、そこ、そこをもっと強くして、ぐしょぐしょにして、めちゃめちゃにして……とか。とっても淫らな表情で。そうしてるうちに、身体が温かくなって、たっぷりと濡れたんです」
もりのは話しながら、感じる。
「もう、恥ずかしいっ」きりえはうつむいた。「そんなこと言わへんもん……」
「きりえさん、ずっと好きでした」
もりのは当時の心境になって告白した。胸がドキドキしていた。
きりえはもりのの一途なまなざしを受け止める。髪や首のうしろをやさしくつかむように撫でながら、ふっくらとした唇に何度もキスをした。
「ベッドに……」もりのは吐息とともにささやいた。
もりのはベッドに横になってきりえを見上げた。きりえは浴衣の帯を自分でとく。そばに座ると、慈しむようなまなざしでもりのを見つめた。それからおもむろにもりのの浴衣の帯をとき、前をそっと開いた。光沢をおびたミルク色の肌と豊かなふくらみ、うす桃色の形のいい乳首があらわになる。
きりえはもりのの身体をやさしく撫でる。
「きれいやね……もりのちゃんの身体が好き……」
きりえはささやくと、もりのの上になった。奥行のある頭を手で包み込み、両腕のなかに閉じ込めるようにして、小さく音を立てながら深くキスをした。きりえのやわらかな髪が肌を甘くくすぐる。もりのがきりえの肩をそっと撫でると、浴衣がはだけた。
着ているものを脱ぎ、裸体をからませた。どこまでもなじみ、とけあうようだった。
きりえは、もりのの長い首筋や鎖骨のあいだのうすいほくろ、豊かな乳房からひきしまったおなかにかけて、なめらかな肌の感触を確かめるように唇で愛撫した。もりのは唇のやさしい感触に陶然とする。
「もりのちゃんのここ、ピンクでかわいい」
きりえは甘い微笑みを浮かべてそうささやくと、乳首をやさしく吸い、舌先で味わうようにころがした。かわいらしくかたくなった乳首をやさしく何度も口のなかで愛撫すると、もりのの呼吸が乱れ、白い肌が紅潮する。
きりえはそのままおへそにかけて唇をはわせ、長い脚を開いてキスをした。唇と舌でやさしく愛おしむと、とめどなくあふれてくる。もりのの息は荒くなり、呼吸にあわせて胸が大きく上下する。
見つめ合い、何度もキスを求め合う。その間も、きりえはもりのの濡れたところを指先でやさしく愛撫していた。
きりえは浅い息を繰り返すもりのの口をふさぐようにキスをする。もりのは息をとめ、身体をふるわせて昇りつめた。
呼吸が落ち着くと、きりえはもりのをそっと抱き寄せた。
「きりえちゃん、最高……」もりのはうっとりと吐息をもらし、至福の笑みを浮かべた。白い肌は艶のあるバラ色に輝いていた。
「もりのちゃん、かわいかった」
「きりえちゃんも……」
もりのはきりえの下腹部に手をあてた。太腿までたっぷりと濡れていた。もりのは熱い吐息とともに首筋にキスをしながら、指先を進めようとする。きりえはその手を太腿に押し付け、動きを封じた。
「あとでして」きりえは甘く笑った。
「たっぷりと?」
「たっぷりと」
部屋はいつの間にか暗くなっていた。
「ご飯の時間だね」もりのは笑った。
「めっちゃおなか空いたね」きりえはおなかをポンッとたたいた。軽い音がした。
「いい運動したもんね」もりのは爽やかに笑った。
六 タカライシの後輩
食事処は、モダンな和の個室だった。伊勢海老とあわび、金目鯛の煮つけのついた、漁師町ならではの地魚料理に、白ワインを合わせた。
伊勢海老のお造りを食べると、とろりとした甘みが口のなかに広がり、もりのは思わず目を閉じた。
「おいしそうに食べるなぁ」きりえは微笑んだ。
「すっごくおいしいよ」
「どれどれ」きりえは伊勢海老のお造りを味わうと、「おいしっ!」とろけそうな顔をした。
もりのはきりえをとろけそうな顔で見つめた。
刺身を新鮮なうちに平らげると、金目鯛の煮つけを食べた。目と目を合わせてにっこり笑う。食の好みが似ていてよかったとかみしめる。
もりのはワインをひと口飲む。ふと、魚介類が苦手なあさを思い出した。
「あささんとは、こんなとこ絶対来られへんな」きりえはふふっと笑った。
「今、同じこと考えてた」
「魚介を食べると、ときどき思い出すねん。あんなに魚介があかん人も珍しいやん」
「きりえさんはあささんにやさしかったね。たこ焼きパーティーでも、たこを使わないでいろいろ工夫してたでしょ」
「キムチとかチーズとか牛スジ使ったりしたわ」きりえは懐かしそうな顔をした。
「私もそれ、食べたいな」
「たこが一番おいしいで」
「それはそうなんだけど」もりのは金目鯛の身をお箸できれいにとる。「私にも特別なのを作ってほしいな」
「羨ましかったん?」
「特別扱いしてもらっていいなって思ってたよ」
もりのは金目鯛の身を食べる。ワインをひと口飲むと、きりえの目をチラッと見て、気になっていたことを思い切って言う。
「付き合ってるのかなって思ったこともあった」
「へえ」きりえはもりのをしげしげと見た。
「へえって、それだけですか」
「私も、もりのちゃんとあささん付き合ったことあるんかなって、ちょっと思っててんよ」
「そうなの?」もりのはワイングラスを指先で撫でる。
「どうなん?」
「付き合ってないよ」
「私も付き合ってないで」
二人は苦笑した。
「あささんってそういう人だよね」もりのは微笑んだ。「何かあるって思わせる」
「男役の色気にあふれてるってことよね」
「そういう人好きでしょ?」
「好きやけど……」きりえは美しい目を上に向けてちょっと考える。「あささん、思わせぶりなところはあったけど、誘われたことは一度もないねん。誘われても、なんもなかったと思う」
「どうして?」
「私、あささんの女房役みたいなポジションやったやん。おかんみたいに世話やいて。そんなんしてたら、恋愛感情なんて芽生えへんよ」
もりのはあごをつまむ。「私もそうかも。思わせぶりな雰囲気を感じたことはあったけど、雰囲気を楽しませてくれるだけなんですよね。そこがまた、心地よくて。それに、いつも癒しの存在と言われて。癒し癒しって言われると、恋愛感情は起きにくいよ」
きりえはうなずいた。「そもそも、あささんには、長い付き合いの彼女がいたし」
「でも、別れちゃったよね、あささんが退団してすぐに」
「詳しくは知らへんねんけど、新しい道を進む上で、あささんは内助の功を求めてたんやけど、彼女はそんなタイプじゃなかったみたい」
「で、今の旦那さんに出会った」もりのは旦那の前でのびのび振る舞うあさを思いだし、心が温まる。「旦那さんとお会いして、すごく納得したの。あささんの旦那さんって母性愛にあふれてるよね」
「ほんまやね」
「それで思ったんです。あささんは母性を求めてるんじゃないかって。拠点というか、源というか。母性愛のあるしっかり者の旦那さんのおかげで、あささんは元気に働けるんじゃないかなって」
きりえはうなずいた。「ええ人に出会えたな」
「うん」もりのは微笑んだ。
磯の香りただよう焼き伊勢海老を食べる。深い旨味がしみわたった。
「お造りもええけど、焼きはまた格別やな」
「最高だね」
次々と運ばれてくる海鮮料理を味わうと、鯛茶漬けと赤だし、リンゴのシャーベットでしめくくった。
温かいお茶を飲むきりえの頬は、ほんのり紅潮していた。唇は赤く濡れていた。
「早くきりえさんを食べたい」もりのはつぶやいた。
「いきなり何よっ」きりえは恥ずかしそうな顔をした。ちらっともりのを見る。「めっちゃやらしい顔してる」
「そう?」もりのは自分の顔を思わず触った。
「触ってわかんの?」きりえは笑った。
部屋に戻るなり、ベッドに寝転がった。
「ほら、パンパン」きりえはふくらんだおなかを触らせた。
「ほんとだ」もりのは笑った。「といつつ、私もすごいの」
きりえはもりのの立派なおなかを触って、笑った。
「温泉はおなかがこなれてからにしよ」
「そうだね」
もりのは目を閉じた。きりえはもりのの手を握る。
「で、誰なん?」
「誰って?」もりのはきりえの目を見た。
「タカライシ時代のもう一人の相手。あささんちゃうなら、誰なん?」
もりのはきりえの手をやさしく撫でると、照れくさそうに笑った。
「みりちゃんだよ」
「みりちゃん?」きりえは驚き、反射的にもりのの手を放り出した。「全然知らんかった」
みりはもりのより四年下の男役だった。きりえともりのの退団後、ダイヤ組からルビー組に異動し、現在トップスターを務めている。
「わからへんもんやなぁ。いつなん?」
「圭介くんとの関係が終わってしばらくして」
「どっちから?」
「どっちからだろう」
もりのは長い指で小さな顔を触り、首筋を撫でた。
「ふつう、もりのちゃんからやと思う」
「思い出してみるね」もりのは人差し指でこめかみをトントンとたたいた。
付き合うきっかけとなった日、みりは稽古場でうなだれていた。季節は秋で、大劇場公演の稽古中のことだ。
みりはスター候補の一人として早くから抜擢されていた。そのため、負荷が大きくかかっていた。もりのはみりの様子が気になり、声をかけた。ひどく疲れて見えたのだ。
「みりちゃん、もう上がる?」
みりはもりのを見上げた。二重瞼の目に高い鼻を持つ美人で、万人が好みそうなかわいい顔をしていた。鼻は顔のバランス的にやや大きく、先端がややふくらんでいて、かわいさの中に芯の強さを感じさせた。
「はい、そろそろ」
みりは応えた。大きな門歯がのぞき、口もとに愛嬌をそえた。小柄な体つきとあいまって、リスのような愛らしい小動物を思わせた。ぎこちない笑みを浮かべている。目に力が入っていなかった。
「明日はお稽古休みだし、ごはん食べに行かない? しゃぶしゃぶでもご馳走するよ」
「いいんですか? ありがとうございます!」
みりは目にする誰もが嬉しくなるような愛らしい笑顔を浮かべた。
「じゃ、出待ちが終わったらね」
もりのはみりを車で拾うと、気に入りのしゃぶしゃぶ店に行った。タカライシファンも集う店だが、個室に案内してもらえば問題ない。もりのはこの店のごまだれが好きだった。
しゃぶしゃぶを楽しみながら、いろいろな話をした。みりは男役なのに芝居やショーで女役をしばしば当てられることに抵抗と不安を感じていた。
「戦々恐々としてるんです」みりは菜箸で野菜を鍋に追加しながらつぶやいた。「劇団は、私を娘役にしたいんじゃないかって」
「そんなわけないよ。みりちゃんはトップ男役になる人だよ」
「トップだなんて」みりは手を振って謙遜するが、まんざらでもないようだった。
「みりちゃんかわいいし、演出家の先生が女役にしてみたくなるんだよ」
「ありがとうございます。やさしいですね」みりは微笑んだ。
「ほんとのことを言ってるだけ」
みりはもりのを見て、羨ましそうな顔をする。「もりのさんみたいに背が高ければ、こんな心配無用ですよね。男役として理想のスタイルだから」
「女役を経験できるのは、いいことだと思うな。女役さんの気持ちがわかると思うんだよね。絶対にプラスになる」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
みりはすっかり元気を取り戻したようで、お肉をさっとお湯にくぐらせると、パクッと頬張った。
もりのはそんなみりがまぶしくて目を細めた。みりにはトップ候補に必要な確かな自信があると感じた。
ほろ酔い加減のみりを、車で送った。
みりが車を降りるのを待っていると、もりのの手を触ってきた。小さな手は冷えていた。
「よかったら、寄ってください。もりのさん、車の運転で飲めなかったじゃないですか。飲み直しましょうよ」
もりのはおもしろそうだと思い、誘われるままに、みりの部屋に上がった。
部屋は暖色系のファブリックが多用された、ポップなインテリアだった。なかなか心地よかった。
みりはナッツとレーズンとワインを用意した。「かんぱーい」と言うと、晴れやかな笑顔を浮かべた。
みりはくるみを三つ、小さな手の中に大事そうに置くと、一つひとつ丁寧に味わった。
「こんなにくるみが似合う人、見たことない」もりのは温かな気持ちになる。「リスみたい。かわいい」
「小動物みたいってよく言われます」みりは笑うと、わざとリスらしく前歯でかじった。
二人でワインを一本空けた。もりのは顔色こそ変わらないが、いい気分だった。みりは酔いが回ってるのか、ふやけた顔をしていた。
「みりちゃん、そろそろ寝るよ」
「はーい」みりは上機嫌で応えた。「お風呂入ります?」
「そうだね、さっとシャワーだけ」
もりのから先にお風呂に入り、用意された空色のパジャマを着た。長袖Tシャツの袖も、ズボンの丈も、完全に長さが足りなかった。
「腕も脚もほんとに長いですね」
「こことここもきつくて」もりのは振り返り、肩と胸を触った。
みりが自分の胸のあたりを見て、息を呑んだようだった。
もりのはTシャツが窮屈で仕方なかった。フィットするように、肩をぐるぐるまわした。
「マッサージしましょうか?」
「あ、凝ってるわけじゃないよ。大丈夫だよ」
「してあげたいんです。うまいんですよ」
「酔っ払いのくせに」もりのは苦笑した。
「酔ってませんよ」みりはかわいく笑った。
「なら、甘えちゃおうかな」
「甘えてください」
「ありがとう」
「そこにうつぶせになってください」
もりのはベッドにうつぶせになり、目を閉じる。寝具から甘い匂いがした。
みりはもりのの腰にまたがると、なかなか上手にマッサージした。
「上手だね」
「身体が冷えやすいからか、凝りやすいんです。それで自分の身体をしょっちゅうマッサージしてるうちに上達したんです」
上半身を終えると、みりはベッドサイドに立ち、おしりの辺りを揉みしだく。
「何するの、くすぐったい」もりのはくすぐったくて笑った。
「おしりって意外と凝るんですよ」みりは甘く笑った。「気持ちよくなるので、耐えてください」
もりのはくすぐったくてたまらなかった。結局、すぐにやめてもらった。
「仕方ないですね」みりはやれやれとため息をつく。「あおむけになってください」
「ありがとう、もう大丈夫だよ」もりのは遠慮した。
「リンパマッサージしますよ」みりは有無を言わさぬ表情を浮かべた。
もりのはあおむけになった。
「腕を広げてください」
もりのは腕を広げ、目を閉じた。
みりは脇のリンパを両手でさすった。ときおり、胸を包まれる感覚があった。撫で方がどこか官能的だったし、乳首を指先がかすめる感覚があったので、ドキドキした。みりの性欲を感じるが、まさかと打ち消す。しかし、なおもそういう感覚が続いたので、そっと目を開けた。
みりはやらしい顔でもりのの身体を見ていた。
「みりちゃん、やらしい顔してる」もりのは笑った。
「やらしい顔してました?」みりは赤くなった。
「触ってたでしょ」
みりは顔を覆う。「無意識です、ごめんなさい」と小さな声で言うと、指と指の隙間からもりのを見た。
もりのは笑い、みりもつられて笑った。
みりは脚のつけ根のマッサージを始めた。もりのはくすぐったがった。
「くすぐったがり屋さん」みりはクスッと笑った。「こしょこしょこしょ」と内腿をくすぐった。
「勘弁して」もりのは悶えた。「マッサージはもういいよ。ありがとう」
もりのはお返しに、みりの身体を心を込めてマッサージした。
「気持ちよかったです……うまいですね」
みりは頬を上気させ、ささやいた。
「私はどこで寝ればいい?」
「ベッドでもいいですか? 一緒に寝てほしいんです」みりは甘えるような声で言った。
「狭いよ」もりのは苦笑した。
「私は気にしません」
ベッドに入ると、みりが肩をつんつんしてきた。
「もりのさん……ハグしてもらえますか?」
もりのはみりを包み込むように腕を回した。華奢な身体をいたわりたくなる。
「背中を撫でてもらえますか?」
もりのはやさしく背中を撫でた。みりは首筋に顔をうずめた。
「もりのさん、いい匂い」
みりの吐息が首筋をくすぐった。その手がもりののTシャツの裾をたくしあげ、わき腹から背中にかけて撫でる。もりのはドキドキする。思わず吐息がもれた。みりは淫らな目つきをしていた。目が合うと、挑むように見返す。
もりのが抵抗しないでいると、みりは華奢な身体を押し付けながら、肩甲骨のあたりまで撫でまわしてきた。もりのは気づいた。みりはセックスしたいのだ。恋心というより、欲望と好奇心から。
かわいい人は得だと思う。みりはただのスケベなのかもしれない。かわいいスケベとなら、恋心がなくても、セックスするにやぶさかでない。
「なにが、やぶさかでない、やねん。スケベなんはあんたやろ」きりえが突っ込んだ。「もりのが仕掛けたんとちゃうん?」
「いやいやいや、それはない」
「そのきれいな長い指で、自分の唇とか首筋を触ったり、指で指をいじったりしてへん?」
「私、そんなクセあるんですか?」
「自覚ないんかいな」きりえはため息をつく。「あんたの自分をいじるクセ、妙に色っぽいんやから」
「そうなんだ」もりのは長い指で自分の首を触った。
「それ!」
「あ」
「みりちゃんの視線感じへんかった? 唇とか指とか見てるなって」
「それは気づかなかった」
「たぶん、見てるで」きりえはもりのの形のいい額を小突く。「たぶん、無意識にもりのちゃんが誘ったんやで」
「そうなの?」
みりと抱き合いながら、もりのは態度を決めなくてはと思った。後輩と関係を持っていいのか、悩ましかった。みりとセックスしてみたいと思ったが、誰かと付き合いたいわけではない。そんな自分でいいのだろうか。
「もりのちゃんって、そんなにあっさりセックスしたいって思うん?」
「あのときは誰とも付き合ってなかったから。あんなにかわいい子にその気になってもらったら、ね」
「なにが、ね、やねん」きりえはもりのの鼻をはじいた。「そういう感覚わからへんねん」
「わからなくていいの」
「おもんないなぁ」きりえはふてくされた。
もりのはそっと身体を離すと、みりの熱っぽい目を見た。
「したいって思ってる?」
「何を……ですか」みりは目をそらした。
「気のせいならいいの」もりのは照れ隠しに微笑んだ。「おやすみ」仰向けになって目を閉じた。
しばらくして、みりがもりのの肩をつついてきた。もりのはみりの方に身体を向けた。
「どうしたの? 眠れないの?」
「気のせいじゃないです」みりはもりのの手にそっと触れる。「したいです」
もりのは黙ってみりの細い髪をやさしく何度も撫でた。
「もりのさん?」
「みりちゃんが男役として精進する上で、私との関係が邪魔にならないか、ちょっと心配なの」
「邪魔になんか……」
みりはもりのの手をギュッと握りしめた。
「でも、後輩と関係を持っていいのかなって……。今は誰ともちゃんと付き合う気がないし……」
「そんなに難しく考えないでください」
「みりちゃん、女の人と経験ある?」
「女の人としか経験ありません」みりはどこか誇らしげに応えた。
もりのはベッドサイドにあるライトを消そうとした。
「消さないで」
みりの言葉に動きを止め、もりのはみりを見つめる。少女の面影を残すかわいい顔立ちだった。誘われるような感覚で、みりの首筋に大きな手を当て、そっと撫でた。
みりもまた、もりのの頭と顔をたなごころで味わうように撫でた。
もりのはそっとキスをした。やさしい口付けを繰り返すつもりだった。けれど、みりは後頭部にあてた手に力を込め、性急なほどに情熱的なキスをしてきた。激しすぎて、歯と歯がぶつかった。
もりのは唇から逃れると、笑ってしまった。
「私たち、ガツガツしすぎ」
「私が、ガッツキすぎましたね」みりも笑った。「歯が大きいから、ときどきぶつかるんです」
「かわいいね」
「かわいいのは、もりのさんの歯ですよ」みりはもりののあごをくいっとつまんだ。「口を開けてかわいい歯を見せてください」
「いやです」もりのは笑った。
「見えた、かわいい」みりは嬉しそうな顔をした。「もりのさんの小さく粒のそろったかわいい歯が好きなんです」
「けっこうマニアックなんだね」もりのは感心した。
「まあ、こんな感じで始まって、しばらく付き合い、あるとき終わったんです」
もりのはしめくくると、和やかな顔をした。
きりえはしびれをきらす。
「それでどんな風やったん?」
「それ聞くかなぁ。ちょっと身近すぎやしませんか」
きりえは目に力をこめてもりのを見つめる。
「はい、わかりました」
もりのはしぶしぶ先を続ける。
もりのはみりにやさしいキスを繰り返した。みりは積極的にもりのの唇と舌を求めた。互いの鼓動が高鳴るのを感じる。
もりのは窮屈なTシャツを脱いだ。解放感に包まれる。
みりもパジャマを脱いだ。華奢な身体をしていた。
「肌が真っ白……」みりはもりのの身体をギュッと抱きしめ、「最高にいい身体ですね」
「みりちゃんも素敵だよ」
「もりのさんに触れたい……」
みりはやらしい表情でささやいた。可憐な少女と性に目覚めた少年が同居していた。
みりはもりのの上になって、もりのの顔と頭を何度も撫でた。
「手にすっぽりおしゃまりましゅ」みりは甘く笑った。
「おしゃまりますか」もりのはクスッと笑った。
みりはえへっと笑い、「小っちゃくてかわいいでしゅね」
「みりたんは、こういうときに赤ちゃん言葉になるんでしゅか」
「そんなことないでちゅよ」
みりは甘い声でそう応えると、もりのの首筋から乳房にかけて唇をはわせた。乳首をやらしい目でじっと見つめ、「色も形も理想的……」とつぶやき、やらしい表情でしゃぶった。
「けっこういきなりやな」きりえは赤くなって突っ込んだ。
「みりちゃんは、好きなものを先に食べる派なんだって」
「そうなん? 私はあと派やわ。がまんできへんときもあるけど」
「私は先に少し、で、あとにじっくり」
「もりのちゃんが言うと、なんかやらしい」きりえは恥ずかしそうな顔をした。
もりのはきりえの手をとると、そっと唇をあてた。
「きりえちゃんをちょこっといただこうかな」
「だから、あとでして」きりえは甘く笑った。「それで、みりちゃんの好物は乳首やってんね」
「うん、フェチだったよ」もりのは苦笑した。
みりは唇を離すと、もりのの乳首をうっとりと見つめながら、指先でそっと撫でた。心から嬉しそうな顔をしていた。
「みりちゃんって、乳首フェチなの?」
「んふふ、そうです。もりのさんは完璧です」
「どう完璧なの?」
「小さくて、あわいピンク色で、うぶな感じで、清潔な色気があるんです」
「へえ……嬉しいな」
「ずっとしゃぶってられそう……」みりはささやくと、おいしそうに何度もしゃぶった。
「そんなに舐められたら、かさぶたができちゃうよ」もりのは小さく笑った。
「やらしいな、みりちゃん」きりえはおほんと咳払いした。「しつこそうやな……もりのちゃんみたいに」
「私みたいかどうかはともかく、しつこそうだなって期待するでしょ。でも、全然しつこくないの。自分が満足するとすぐに寝ちゃうんだよ。ピロートークもないし」
「それはさみしいなぁ」
みりは乳首をしゃぶるのに満足すると、もりののうっすらと濡れたところに指をあてた。自信をもって愛撫するが、好みとしては、じらしながら繊細にしてほしかった。
時間をかけて高まりたくて、もりのはみりをさりげなく導こうとする。おおいかぶさっている身体を、唇や指先で愛撫すると、みりは身体の力が抜けたように横になった。
もりのはみりの上になり、いろんなところをやさしく愛撫した。みりの身体は、慣れているところと慣れていないところがあった。慣れていないところは、より注意深く丁寧に愛おしんだ。
恥ずかしいのか、みりは声を出すのをこらえているようだった。もりのは控えめだが積極的に、感じてるときの声や吐息をもらした。それに呼応するように、みりが自分をさらけだし、どん欲に楽しみはじめたのがわかった。みりが身体をふるわせてイクと、もりのに歓びがおりてきた。
みりの顔は上気し、汗ばんだ額に明るい茶色の髪が一筋はりついていた。
「参りました」みりは艶っぽい笑みを浮かべ、大きな吐息をもらした。「これがセックスなんですね……じゃれあいと全然違う……」
もりのはやさしい表情で、みりの髪をかきあげた。
「気持ちよかったです……」みりは急激に睡魔に襲われたようだった。まぶたが今にも閉じてしまいそうだった。「身が持ちません……おやしゅみな……」もにょもにょつぶやき、眠りに落ちた。
「おやすみ、みりちゃん」
もりのはやさしくささやいた。
「私とみりちゃんはずっとこんな感じだったの。ほんとにいつも寝ちゃうの」もりのは苦笑した。
「もりのちゃん、つらくなかった? してほしかったやろ?」
きりえは心配そうな顔をして、もりのの脚のつけ根にやさしく手をあてた。
「きりえちゃんはやさしいね。でも、感じちゃうからこっちに――」
もりのは手をそっと横に置いた。
「もちろんしてほしかったよ。でも、そのために揺り起こすのもどうかと。みりちゃんはあまり体力がないことを自覚してたから、すっごく睡眠を重視してたの。実際、たっぷり眠らないともたないみたい。だから、あきらめてたよ」
「悶々としたまま寝れた?」きりえは気の毒そうな顔をする。
もりのはちょっと赤くなった。
「あ!」きりえはパッと笑顔になる。「もりのちゃんはひとり上手やった」
「ちゃんとすっきりしてから寝てたよ」もりのは微笑んだ。
きりえは笑顔でうなずくと、腕を組んで考え込む。
「みりちゃんはしてもらうのが好きなん? それとも、もりのちゃんがあまりにうまいから自信なくしたん? へそまげたん?」
「みりちゃんが自信をなくすなんてこと、絶対ないよ」もりのは断言した。「私も気になって思い切って聞いてみたの。そしたらね、『何事も、得意な人にしてもらうほうがいいと思うんです。もりのさんにはかなわないから、してもらおうと。それだけです』とケロッとした顔で。合理的ですよね」
「なるほど、みりちゃんらしいな」きりえは笑った。「みりちゃん、そんな子やったなぁ。真面目やしストイックやねんけど、要領がいいというか、省エネというか、抜いていいと自分で判断したところは、こっそり抜いてたもんな」
「きりえちゃんも気づいてた?」もりのも笑った。
「天然なところあるから、本人はこっそりでも、周りにバレてるねん」
「かわいいよね」
「でも、ちょっと残念よね。してもらうばっかりなんて」
「いや、してあげることもあるんだよ。相手によって変わるの。抱かれる相手には抱かれる、抱く相手は抱くんだって」
「そうなん? 同じ相手にしてもらったり、してあげたりが楽しいのに」
「世の中、いろんな人がいるでしょ。私はきりえちゃんといろいろと好みが合ってよかった」
「そやね……」
きりえはもりののふっくらとした唇にキスをし、甘く笑った。
「終わらせたのはもりのちゃん?」
「みりちゃんだよ」
朝食の片付けをしてるときに、みりが別れを切り出した。季節は真冬を迎え、年も明けていた。
「私たち、終わりにしたほうがいいと思うんです」
もりのは振り返り、みりから目玉焼きの黄身がついたお皿を受け取る。
「もりのさんといると、満足しちゃってだめになりそうなんです……。ほんとは私、誰かと寝て、一緒に朝を迎えるなんて、ありえないタイプなんですよ。でも、もりのさんと一緒だとぐっすり眠れて、頼ってしまいそうで……。身勝手な話ですけど、わかってくれますか?」
もりのは洗ったお皿を水切りに立て掛け、蛇口の水を止めた。
みりの言わんとすることは理解できた。身体がなじんでいたので、さみしくなると思ったが、引き止める気はなかった。
「わかるよ。そうしたほうがいいと思う」もりのはやさしく微笑んだ。「さみしくなるけどね」
「もりのさん……私もさみしいんですよ」みりはきれいな目をうるませた。
もりのは手のしずくを払うと、みりの肩をポンポンとたたいた。
「そんな風に終わったの。その後、ハードな役替わり公演をやったり、厳しく、めまぐるしい時期に突入したから、終わるのは必然だったと思う。とくに私は、きついときは一人でいたいタイプだから」
「私と関係を持ったときは?」
「もちろん、きついときを乗り越えた、めっちゃいい時期でした」
「よかった」
きりえは微笑んだ。もりのは甘いまなざしで見つめ、長くやわらかな髪を撫でた。きりえはうっとりと目を閉じた。もりのは唇を撫でる。キスしようと顔を近づけたとき、きりえがパチッと瞼を開き、キリッとした目つきをした。
「ほんまにそんなにきっぱり終わったん?」
「あ、はい、いや……」もりのは自分の鎖骨のあたりを触る。
「ずるずる引きずったんやな」きりえは厳しい表情を浮かべた。
「違うんです。えっと、そのあともちょっとだけ、たまに……」
きりえはため息をついた。「もりのから誘ったんちゃうやろね」
「それはもう、先輩として、私からそんなことは。みりちゃんがムラムラしてるときがあって、誘われるとついって感じでした。でも、初夏を迎える頃には、二人とも役替わり公演でそんな余裕がまったくなくなり、完全に終わりましたよ」
きりえは疑わしそうな顔をしていたが、「たしかにあの公演中は無理やな」と納得したようだった。
「みりちゃんには、いろいろと教えてもらいましたよ」もりのはしみじみした口調で言う。
「エッチで?」
「じゃなくて、もっと真面目な話」
「そうなん?」
「もちろん」もりのはちょっと笑い、話を進める。「教えてもらったのは、主にスターとしての心得です。みりちゃんはリスみたいなかわいい外見と振る舞いをするけど、中身はオスのライオンでね。生まれながらの王者なんです。ちやほれされて当然、抜擢されて当然、主役で当然という感じでした。トップスターになるという、自分の使命を完全に受け入れてるんです。だから、まったく嫌味がないの。謙虚だし、ストイックだしね。ちゃんと向上させるの」
きりえは相づちを打った。
「みりちゃんは、私のことがもどかしかったようで、よく叱咤激励されました」
「後輩にまでおしりたたかれてたんかいな」
「ごはんを作ったり、食べたりしてるときにね。みりちゃんは誰かに何かをしてもらうのが当たり前って人だったけど、必ず朝ごはんは作ってくれてね。私もそれを手伝って。そんなときにね、『もっとやる気出してください。トップになる気あるんですか』と、もどかしそうに言ってくるの。もりのさんはかっこいいけど、いい人すぎる。トップになるための戦略戦術はあるの。舞台の上でかっこいいだけじゃダメ、お客様のニーズをくみとり、やりすぎなくらいアピールしないと。ライバルを押しのけないとダメ。私とダブル主演したときもひたすらやさしかったけど、そんなんじゃダメですよ。このくそ後輩ってくらい思わないと――とか、ダメだしばかり」
「やるなぁ、みりちゃん。いい意味で、あざといねんな」
「そう、なかなかあざといんです」
「ええことよね。そのくらいの根性がないとな」
「そうですよね」もりのは深く同意する。「それで、これまたびっくりしたんだけど、みりちゃんがあるとき、こんなことを耳打ちしてきたんです。『まささんに大きなスポンサーがついたみたいですよ。自分で探して交渉したみたいです。うかうかしてると、もりのさんのトップの芽は完全に摘まれますよ』って」
まさはきりえの後任として、本人の望みどおりダイヤ組トップスターに就任した、もりのの二年下の後輩だった。
「私は、『へえ、すごいね、さすがやり手だね』って感心したんです。だって、ほんとにすごいと思ったから。みりちゃんはもう、心底あきれたという風に首を振ってね。『もりのさんのバカ、やる気ないなら身長ください』って――」
「言われてしもたなぁ」きりえは笑った。
「言われちゃいました」もりのも笑った。
「みりちゃんは、なんでもりのを応援してたんやろ。ある意味、ライバルやのに」
「私のことが好きだったからでしょ、なんてね。そう思いたいけど、ほんとのところは、キャリアの近いまさとガッチリ競合するのを避けたかったんだよ。私はキャリアも年齢も、きりえちゃんとみりちゃんの間だから、ちょうどいいの」
「なるほどねぇ。もりのちゃんはやさしいし、長身で包容力があるのもポイントやったんやろな。私もそうやけど、小柄な男役と相性ええから」
「かもしれないね」もりのは微笑んだ。「みりちゃんにいろいろ教わったのに、何一つ役立てなかった私ですが、ひとつだけ、強烈に刺激を受けたことがあるの」
「へえ、なに?」
「きりえちゃんのことだよ」もりのはニヤッと笑った。
「え、なんなん?」
「みりちゃん、きりえちゃんのことを狙ってたんだよ」
「え! そうなん?」きりえは驚き、顔を赤くした。
「やっぱり気づいてなかったんだ」もりのはきりえの高い鼻を指先でやさしくはじき、「鈍感さん」とからかった。
「そんなん、わからへんもん」
「みりちゃん、とろけそうな顔で言ってたよ。『きりえさんが外見も中身もサイズも全部タイプなんです。女らしくてやんちゃで、しっかりされてて、サイズも好みにぴったりなんです。お付き合いできたら最高です』って」
「私ともりのちゃんじゃ、サイズが全然ちゃうやん」きりえは突っ込んだ。
「私も突っ込んだよ。そしたら、『もりのさんはお顔がものすごく小っちゃいから、寝てると守ってあげたくなるくらい小柄に感じるんです。それに、最高峰の乳首をお持ちだから』って」
「どんだけ乳首好きやねん」
きりえが突っ込み、二人は爆笑した。
「みりちゃん、けっこうおもろいな」
「でしょ」
「付き合っといたらよかったかなぁ」きりえは愉快そうに言った。
「それはあかん」もりのは強い口調で言った。
「冗談やって」きりえは甘く微笑んだ。
もりのは照れ笑いした。
「もりのちゃんはどう返したん?」
「きりえさんは後輩なんて眼中にないから、あきらめたほうがいいよ、と。今思うと、自分に言い聞かせてたんだと思う。みりちゃんの言葉を聞いて、雲の上の存在だったきりえさんをかつてなく身近に感じて――どうしようもなく、胸が熱くなってしまったから」
「あら」きりえはうふふっと笑う。「恋愛感情を認めたん?」
「すぐに心の引き出しにしまったけど」
もりのはそうつぶやくと、きりえの首筋にそっと手をあててキスをした。きりえはキスを受けながらもりのの頬を撫で、いたずらっぽくささやく。
「その前に温泉に行きましゅか」
「いいでしゅね」
二人の間で初めて使った赤ちゃん言葉をひとしきり楽しむと、先客のいない貸切状態の大浴場を満喫した。
七 憧れのきりえさん
冷たい水がのどを伝ってしみわたり、のどの渇きと身体の火照りをしずめる。
もりのは水滴のついたグラスをテーブルに置くと、露天風呂と部屋とを仕切る窓のほうへゆったりと歩いていった。
しんとした室内の照明は、控えめに灯していた。窓辺に佇んで、外の景色を眺めた。濃紺の空にまたたく星が美しかった。
タカライシ時代から、夜景にひたるのが好きだった。公演や稽古のあとに、一人でドライブしたものだ。純粋な楽しみのため、気分転換のため、自分と向き合うために。
みりと別れたあと、もりのは夜景を求めることが多くなった。男役として進むべき道を見失いそうになっていたのだ。
その頃、もりのは憧れていた大役に抜擢された。先輩のはるき、後輩のみりとの役替わり公演だった。後輩のまさは、さらに大きな役を得た。まさとみりの躍進により、トップ候補の一人としてキャリアを積んできたもりのは、崖っぷちに立たされた。
季節は夏で、もりのは宝石山をひた走った。夜景を堪能できるポイントに駐車すると、窓を開けた。買っておいた冷たい飲み物を口にしながら、眼前に広がる景色に見入った。星の輝きや、街の明かりを見ながら、ぐちゃぐちゃの思考を一つひとつほどいて風に流すと、シンプルになれた。
この役に全身全霊で臨み、持てる力を出し尽くすことができれば、それを潮時に退団しよう。そんな考えに行きついた。もりのは潔くありたかった。
公演は成功し、納得の演技ができた。タカライシの舞台に立ちたかった自分が、憧れの役を演じ切れた。これ以上、何を望むことがあるだろう……。
そんな思いとうらはらに、実際は退団の考えは遠のいていた。自分に欲が出たのと、きりえともっと芝居がしたいという思いがわいてきたためだ。
この公演できりえともりのは、いがみ合う父と息子として対峙した。きりえに圧倒されそうになりながらも、一歩も引かずに向き合った。
「もりのちゃん、ええお芝居するようになったね。これから一緒にお芝居するん楽しみやわ」
きりえはそう言うと、もりのの肩をやさしくたたいた。認められたようで、もりのは飛び上がりたいほど嬉しかった。
それからほどなく、敬愛するきりえが、ダイヤ組次期トップスターに就任することが正式に発表された。新しい風が吹き、もりのの心は奮い立った。新体制できりえを支えたいと思った。
きりえは、もりのが入団したときにはすでにスターだった。その存在が心に刻みつけられたのは、初舞台公演の新人公演だった。きりえが主演を務めたこの新人公演は、きりえの強烈なパワーとカリスマ性と圧倒的な歌唱力により、伝説になる。
舞台上にいたもりのは、スタンディングオベーションしている観客以上の興奮に呑まれた。電流がかけぬけ、エクスタシーとしかいいようのない快感に我を忘れた。
そんな強烈なスタートだったから、しばらくはきりえを畏怖していた。新人公演できりえの役を演じるようになると、敬愛するようになった。気さくな人となりや、意外に人見知りだったり照れ屋だったりする一面を知るにつれ、美しくチャーミングなルックスとあいまって、かわいらしい人と思うようになった。
その公演で、きりえは軽度ではあるが完治の難しい病にかかり、休演した。
もりのはいてもたってもいられず、お見舞いに行った。きりえは迷惑がらずに歓迎してくれた。
きりえはベッドに上体を起こし、やさしい表情でもりのを見ていた。治療の影響で、きれいな卵型の顔はむくみ、大きく美しい目は腫れぼったくなっていた。それでも美しいことに驚いた。
「顔パンパンでびっくりしたやろ」きりえはニヤッと笑った。
「むくんでもきれいで驚いたんです」もりのは本当のことを言った。
「うまいこと言って」きりえは照れ笑いを浮かべた。
「ほんとにきれいです」もりのは真っ直ぐ見つめた。
きりえは照れくさそうに髪をかきあげた。
「マスカットが好きだとおっしゃってたので……」
もりのは新鮮なマスカットを箱から出した。
きりえは顔を輝かせた。
「皮ごと食べれるやつやん。ありがとう、めっちゃ嬉しい!」
もりのはくすぐったいような甘い気持ちになった。
きりえは水滴のついたマスカットを、皮のままおいしそうに食べてくれた。病室で二人きりでマスカットを食べていると、距離が縮まるようだった。
「復帰できるから心配せんといて」きりえは安心させるように微笑んだ。「私がせっかちに突き進むから、神様がちょっと休みって言ってくれはってん。立ち止まって自分を見つめ、周りに感謝するんやでって。いろいろええ機会やわ」
きりえの瞳は澄みわたっていた。もりのは胸を打たれた。
「ところで、なんか相談あるんちゃうん?」
「きりえさんにはお見通しですね……」もりのはため息をついた。「きりえさんの演技が素晴らしすぎて、打ちのめされそうなんです。どう演じても、きりえさんにかなわないって」
「私と同じことやったら、そりゃキャリアの分だけ差が出てまうよ。自分なりのアプローチで臨めばええねん。体格も持ち味も全然ちゃうねんから。舞台映えする恵まれたスタイルやねんから、堂々としたらええねん。頭でああだこうだ考えへんと、若者らしく全力でぶつかり」
もりのはうなずいた。むくむく力がわいてきた。
もりのは病院をあとにすると、夕空を眺めた。きりえのためなら、自分にできることはなんだってする。力になりたいと願った。
きりえは退院し、無事に舞台復帰を果たした。この先は、持病とうまく付き合っていかなければならない。体調が安定するまで、しばらく通院した。その帰りに、ふと癒されたくなり、ペットショップに立ち寄った。そこで、愛犬のハルオキと出会った。
きりえは楽屋の個人スペースにハルオキの写真を飾ったり、入り出待ちの際にハルオキを伴ったりして、幸せそうだった。もりのはそんなきりえを見ると、自然と笑みがこぼれた。
休演を経たきりえは、芸事に対するストイックな姿勢や、劇団随一のパワフルさ、天真爛漫な魅力はそのままに、やわらかさとやさしさをたたえるようになった。
もりのはきりえをついつい目で追ってしまう。無邪気な明るい笑顔と、慈愛にあふれた静かなまなざしに惹きつけられた。
きりえは美しく、明るく、楽しく、率直で、聡明で、やさしく、しなやかな感性を持つ、奇跡のように素敵な女性だった。目と目が合うだけで心躍った。デレデレするような、くすぐったいような感覚を覚えた。同じ組にいて同じ時間を共有しているだけで、この世に存在してくれているだけで、幸せだった。
「きりえのことをよく見てるね。妬けちゃうくらい」
あるとき、ゆうきが冷やかした。サファイヤ組に異動したゆうきとは稽古場が違った。たまたま通りかかったのだという。
「そんなんじゃないです」もりのは顔を真っ赤にした。
「ムキにならないの」ゆうきは笑った。「きりえはきれいだから、誰だって見惚れるよ」
もりのはきりえをずっと見てきた。華奢だけれど頼もしい背中も、美しい横顔も。トップになるきりえを支えたい。そんな思いに胸が熱くなった。
その思いはまもなく欲に変わった。きりえのトップスターお披露目公演として『君主ヴァイオラ』が再演されることが発表されたのだ。トップ男役がヒロインのヴァイオラを演じ、二番手男役がその相手役のフレイを演じる珍しい作品だった。
フレイは懐の深い男役を体現できる、憧れの役だ。キャリアでは、はるきが演じるのが妥当だが、その数日前に、あさの退団公演ではるきも退団することが発表されていた。
勢いのある、まさとみりの可能性もある。しかし、キャリアも年齢も、きりえに釣り合わない。相手役として重要な身長差もほとんどない。男役の包容力もまだまだ足りない。
もりのは自分にもチャンスがあると思った。もしも自分が射止めるようなことがあれば、これがキャリアのピークだと確信した。これ以上の役は自分にはない。
そう意欲をもった矢先、もりのはショーで怪我をした。娘役をリフトしているときに、誰かの脚がひっかかった気もするし、何かにすべった気もする。どうしてそうなったのかわからないが、足を取られ、転びそうになった。
素直に転んでいれば、怪我を避けられたかもしれない。しかし、舞台上で娘役を抱えたまま転ぶわけにはいかないと、やってはいけない体勢で踏ん張った。それがあだとなって股関節をねん挫し、休演を余儀なくされた。
数日入院してから自宅で静養した。休演から一週間後の休演日に、きりえがもりのを訪ねてくれた。
もりのが右足をかばいながらドアを開けると、もりのの脇の下に肩をあてて支えてくれた。肩は思っていた以上に華奢で、髪からいい匂いがした。シャツ越しにぬくもりを感じ、もりのの胸は高鳴った。
リビングテーブルに向かい合って座った。きりえは果物ナイフで、お見舞いに持ってきてくれた洋ナシの皮を鮮やかにむいていく。
もりのはきりえをそっと見つめる。長いまつ毛がかげを落とす美しい瞳、筋の通った高い鼻、口角の上がった形のいい唇、指先で触れたくなる細いあご、なめらかな肌触りを想像させる長い首筋、果汁に少し濡れた手――。
きりえに触れたい。突然やってきた思いを振り切るように、洋ナシを一口食べると、目をつむった。甘い匂いと果汁ときりえの残像に、官能的な気分にさせられた。
もりのが目を開けると、きりえと目が合った。
「おいしそうに食べるなぁ」
きりえはそう言うと、洋ナシを頬張る。果汁のついた唇と、飲みこむときののどの動きが艶めかしい。
「めっちゃおいしい」きりえは無邪気に笑った。「実は自分の好物もってきてん」
「私も好物なんです」
「どんどん食べて」きりえは美しい目を細めて、やさしく笑った。
もりのは、このいつも笑っているような甘いまなざしが罪だと思う。こんなまなざしに触れたら、誰でも恋してしまう。
ふいに心がざわつく。きりえには今、恋人がいるのだろうか。こんなにも素敵な人にいないはずがない。相手はタカライシの先輩だろうか。それとも男性だろうか。誰にでも可能性があり、誰にも可能性がない。きりえの私生活はうかがいしれなかった。
「そんなにじっと見んといて」きりえが恥ずかしそうな顔をした。「なんかついてる?」
照れ屋なきりえがかわいくて、もりのは大胆になる。「ここに……」ときりえの唇に何かがついているかのように、そっと触れた。しっとりとやわらかかった。指先が熱くなり、心拍数が上がる。
もりのは何気ない風を装って、何かをとったふりをすると、そのまま指先を自分の唇にあてて、パクッとした。
「食べた!」きりえは頬を染めた。
「食べちゃいました」もりのも赤くなった。
「なんか知らんけど、ありがとう」きりえはつぶやくと、うつむいた。
きりえは紅茶をいれた。もりのがおいしそうに飲んでいると、宝石大劇場公演と東京公演の間に小旅行を計画していると切り出した。
「りょうさんと計画してるねん。もりのちゃんもどう? みそのにも声をかけるつもり」
りょうは組長で、もりのより一年先輩のみそのはダンスリーダーと、ダイヤ組の支えとなるメンバーだった。二人ともとぼけた魅力と天然のおもしろさがあり、一緒にいると笑いが絶えない。素敵な旅行になりそうだった。
けれど、もりのはショックを受けた。きりえの恋人は、組長のりょうなのだと早合点したのだ。
「お邪魔じゃないですか?」もりのはおそるおそるたずねた。
「なんで?」きりえは不思議そうな顔をした。
「だって、りょうさんときりえさんは付き合ってるんじゃ……」
「なんでそうなるん?」きりえは爆笑した。「りょうさんと付き合ってるって思ってたん?」
「いや、そうなのかなって、今思ったんです」
「おもろそうやけど、付き合ってないで」きりえはいたずらっぽい笑みを浮かべる。「ほんまのこと言うと、新生ダイヤ組をよろしく頼むでって感じの企画やねん」
もりのはほっとすると同時に、そんな大事な旅行に誘ってくれたことに感激した。
「すごく嬉しいです。ぜひ参加させてください」
きりえは笑顔でうなずいた。
紅茶を飲み干すと、きりえはもりのの患部に触れたいと言ってきた。
もりのはベッドに背中をつけ、ジャージ素材のパンツに包んだ長い脚を伸ばした。
「ここやね」
きりえは右足のつけ根にそっと手を当てた。癒される気もするが、きわどい場所に今にも手が触れそうで、もりのはドキドキした。息遣いが聞こえるほど、きりえが近くにいた。押し倒してくれたらいいのにと思った。
きりえの手が少し内側に動いたとき、もりのは思わず感じたときの声をもらしてしまった。自分の声に動揺し、もりののミルク色の肌はみるみる赤くなった。
「色っぽい顔したらあかんよ。変な気分になるやん」
きりえは冗談っぽく笑った。形のいい耳は心なしか色づいているようだった。
「すみません」もりのは髪をかきあげた。
「あやまらんでええよ」きりえは笑った。「もりのちゃんの股関節とお話しててんけど、だいぶいい感じやって」
「よかったです」もりのは微笑んだ。
「これもええ機会かもしれへんよ」きりえはもりのを慈しむようなまなざしで見つめる。「もりのちゃんの流れるようなダンスも素敵やけど、重心が高いから、ちょっとふわふわしてるやん。この際、ちゃんとしたトレーナーについて、体幹をしっかり鍛えたほうがええと思う。トレーナー紹介しよっか?」
「ぜひ」
きりえはさっそくトレーナーに電話をかけ、もりののためにアポイントをとった。フットワークのよさに、もりのは感心した。
きりえは去り際、こう保証した。
「休演ってな、自分がもがいてるときに経験するものやねん。乗り越えると、舞台に立つのがもっと楽しくなるで」
きりえの言葉は真実だった。あさの退団公演で、もりのは芝居のみ復帰できた。心は晴れやかで、舞台に立てる歓びをかみしめた。
トレーナーについたのもよかった。きりえお披露目公演でショーの復帰を果たしたとき、本調子ではなかったものの、ダンスは格段にレベルアップしていた。身体の仕組みと正しい使い方を学ぶとともに、体幹を鍛えた成果だった。ダンスが好きになり、自信をもてるようになった。
きりえとりょうが企画した小旅行は、『君主ヴァイオラ』の配役が発表される前に実現した。旅行を思い出すたび、もりのの胸はキュンとする。山に接した川沿いの細い道を、もりのが運転した。助手席にはきりえがいた。愛車に乗り、きりえに笑顔で話しかけられると、二人きりでデートしているような気分になった。
温泉旅館に泊まった。四人で寝る場所を決めたとき、もりのの隣をきりえが選んでくれたことが嬉しかった。期待どおり、きりえはもりのの方を向いて眠った。もりのは眠ることができず、きりえの安らかな美しい寝顔を一心に見つめた。
こっちにもっときてくれないかな……。願いが通じたのか、きりえが大きく寝返りを打った。「うん……」とかすかに声をもらすと、布団の上からもりのの身体に腕をまわしてきた。きりえの唇が自分の首に今にも触れそうだった。ぬくもりと甘い匂いに、たまらない気持ちになる。いったいどんな夢を見ているの。恋人かハルオキと間違えてますよ……。
きりえに触れたいと思う。布団ごと抱きしめられているので身動きができない。心臓が狂ったように跳ねつづける。ふいに、きりえが目を開けた。夢うつつな目をしていた。一瞬、腕にギュッと力をこめた。ドキドキしながらきりえを見つめていると、きりえはふっと微笑み、眠りの世界へ戻った――。
あたたかくやわらかな感触が、もりのの背中をやさしく包み込む。
「つかまえた」
きりえはやわらかな声でそうささやいた。もりのの身体に腕をまわし、うなじに唇をつける。もりのの長い指に自分の指を絡める。
「きりえちゃん」もりのは悩ましげに目を伏せ、かすれた声でささやいた。
きりえはうなじに吐息とともにキスをする。腕をとくと、もりのの身体を自分のほうへ向かせた。
「どこに行ってたん?」
「のぼせちゃったから、先に戻るって」
きりえはもりのの手を取り、つぶらな瞳をのぞきこむ。
「今、遠くに行ってへんかった?」
「よくわかるね」もりのはやさしく握り返す。「昔のことを思い出してたの」
「何を思い出してたん?」
もりのは初々しいまなざしで、「あなたをずっと好きだったんだなって」
きりえは照れくさそうな顔をする。
「私もな、湯船をちゃぷちゃぷしながら、つらつら思い返しててん。もりのちゃんのこと、いつから気になってたと思う?」
「たしか旅行でしょ。運転が気に入ったって言ってくれた」
「実はもっと前やねん」
「へえ、初耳」
きりえはもりのの手を取ったままベッドに向かい、
「もりのちゃんが新人公演を卒業してすぐに、今乗ってる車買ったやん。出待ちのときに、もりのちゃんがあのかっこいい車に乗って、すっと窓を開けて、ファンの人たちに手を振るところを見かけてん。それがめっちゃかっこよくて」
もりのは嬉しくて、髪をちょいちょいと触った。
ベッドに横になると、きりえは片手を枕にし、もりのの方へ身体を向けた。
「詳しく聞いたら、あの車に一目惚れして、自分で貯金して一括購入したって言うやん。ローンは金利が高いから、がんばって貯金したって。親にも後援者にも頼らず、自分でっていうのが素敵やってん」
「普通のことですけどね」
「普通が貴重やねん。人にもらって当たり前っていう人もけっこうおるから。もりのちゃんは自立してて、金銭感覚もしっかりしてて、いいなって思った。高級車じゃなくて車格が身の丈に合ってるのも好感もてた。運転も駐車もうまいし。ほめたら、『車高が高いし、見切りもいいし、取り回しがよくて、どこでも停めやすいし走りやすいんです』って爽やかに笑ってん。キラキラキラッて。なんか、グッときてん」
もりのは嬉しくて、にやにやする。
「今からどこ行くんって聞いたら、夜景を一人で見に行くんですって。かっこよすぎるやろ。そんときに今度乗せてって言ったのに、乗せてくれへんかったな」
きりえはもりのの鼻をはじいた。
「もりのちゃんはスターやのに、自分で通い続けたやん。そういうところ、かっこいいなって思っててんよ」
「運転したかっただけなんだけどね」
きりえはもりのの手をそっと撫でる。
「もりのちゃんは何を思い出してたん?」
「怪我で休演したときのこととか、そのあとの旅行のこととか。きりえちゃん、私が休演したとき、なんであんなに親身になってくれたの?」
きりえは微笑みながら、もりのの髪を撫でる。
「もりのちゃんと自分のためかな。私にとって必要な人やったから」
もりのは感動する。「もしかして、フレイは私だって知ってた?」
「もりのやったらええなって思ってたよ」
「旅行したときは知ってた?」
「知ってた」きりえはいたずらっぽく笑った。
「やっぱりそうだったんだ……。あの夜ね、寝てるときに、きりえちゃんが私を抱きしめてくれたの。覚えてる?」
きりえは大きな目を見開く。「ほんまに抱きしめてたん? 夢やと思ってた」
「しっかり抱きしめてくれたよ」
「そうやったんや」きりえはもりののすべらかな頬を撫でる。「あの夜、夢のなかで待っててん。もりのちゃんが仕掛けてくるのを」
「ほんと?」もりのは目を輝かせる。
「もりのちゃん仕掛けてくれへんから、自分から行ってん。その気はありそうやのに、じっとしてるから、あきらめてん」
「あ~もったいない」もりのは大きな手で顔をおおって嘆いた。
きりえは微笑ましそうに目を細めた。
「でも、きりえちゃんにとっては夢だったんだよね」もりのはきりえを見つめる。「私が反応してしまって、きりえちゃんを求めたら、応えてくれた?」
「りょうさんもみそのもいたからどうやろ」きりえは妖しい笑みを浮かべる。「もしかしたら応えたかもしれへんね」
もりのはきりえの言葉に身悶える。
「無意識に、もりのちゃんに惹かれてたんやろね」
やわらかなアルトのささやき声と、妖艶なまなざしに、胸が高鳴る。目を閉じると、きりえと付き合う直前の自分が現れた。恋人同士の役柄で見つめ合い、手を合わせ、やわらかな肌の感触と体温を感じたとき、宿命的な恋に落ちたのだ。それからは無我夢中で、きりえを求めた。
もりのは目をつむって静かにしていた。
「もりのちゃん、まさか寝てるん?」
困惑した声だった。もりのの身体をやさしく揺する。
もりのは熱っぽい目で見つめ、「あなたにどうしようもなく恋に落ちたときのことを思い出してたの」
「寝たらあかんよ」
きりえはささやくと、もりののふっくらとした唇にキスをした。
「きりえちゃんをゆっくり味わいたいな」もりのはかすれた声でささやいた。
きりえは恥ずかしそうに目を伏せ、うなずく。
もりのは長い腕を伸ばして、ベッドの灯りを調節する。
「わ、明るくした」
「ちょうどいい明るさでしょ。暗すぎず明るすぎず、きれいなきりえちゃんを、すみずみまで、ね」
「エッチ」
「ええまあ」もりのは笑うと、「白いキャミソール持ってきてるんだよね。着てもらっていい? あれを着たきりえちゃん、すっごく素敵なの」
「もりのちゃんは、白シャツ着てくれる?」
浴衣を脱いで着替えると、ベッドに横になって見つめ合った。
「ワクワクする」きりえは笑った。
「うん」
もりのは微笑むと、きりえを眺める。薄明りに照らされたきりえは、ため息のでる美しさと艶めかしさだった。
くっきりとした二重瞼の大きな目には穏やかなやさしい笑みが浮かんでいるが、蠱惑的で、その目に見つめられると虜になってしまう。
少し上を向いた高い鼻はチャーミングで、しっとりとした形のいい唇ときめの細かな白い肌、様々なところにあるほくろに色気を感じた。ほくろは目元や頬、鼻先、口元、小さなあご、首筋や肩にうっすらとあり、繊細な魅力をそえていた。
二の腕はしなやかな筋肉がついていて優美だった。胸元は、形のいい乳房のまるみが感じられ、うっすらと乳首がすけてみえた。視線をおろしていくと、肌なじみのいいやさしいオレンジ色の下着から、細いけれどむっちりとした脚がすらりと伸びていた。
「色っぽい……」もりのは吐息をもらす。「たまらない……」
きりえも吐息をもらす。「もりのちゃん、なめまわすように見てる」
「まずは目で味わいたくて」
きりえはもりのをそっと引き寄せる。
「湯冷めしちゃうやん」
もりのはきりえの上に覆いかぶさる。きりえはシャツの上からもりのの背中を撫でる。
「あったかいなぁ。ぬくもるわ」きりえは湯船につかったときのようにうっとりとした。
もりのはきりえの両腕を開くと脇に顔をうずめ、甘い匂いをかぐ。腕の内側に唇を移し、吸い付くような肌の感触を楽しむ。白いキャミソールにすける乳首に触れるかふれないかのキスをする。
きりえの吐息と、背中を撫でまわす手の感触にたきつけられる。首筋にふっくらとした唇をあてると、きりえは首筋を無防備にさらした。耳たぶから頬にかけてやさしくキスをすると、きりえを見つめた。
形のいい額から小さなあごにかけての美しいラインを、大きな手ですっぽりと包み込む。きりえの頬は上気し、見つめ返す美しい瞳は潤んでいた。中高の整った顔立ちの、頬のカーブとすべらかな肌の感触を楽しむように撫で、吐息をもらす。
「きりえちゃん、どんどんきれいになるね。知ってる?」
「いい恋してるから――って言わせたい?」きりえは甘く笑った。
「それはもちろんあるでしょ?」もりのはちょっと笑うと、額にかかったやわらかな髪をかきあげるように撫で、生え際にキスをする。「体調が絶好調なんだろうね。今の仕事のペースが体力的にちょうどいいのかな。タカライシにいた頃は馬車馬のように働いてたから。お芝居とショーの二本立てを一日に二公演やり、しかもきりえちゃんは、組の中で誰よりもハードだったから」
「こんなときにも冷静な分析するねんな」きりえはちょっと笑い、「ほんまにすごい運動量やったな。タカラジェンヌの凄さは離れてみるとよくわかる。めっちゃ尊敬する」
もりのはうなずいた。
「身体を酷使してたのに、夜な夜なしてたな。“洗濯機”覚えてる?」
「お急ぎ、標準おまかせ、しっかりコース」もりのは苦笑する。「私がしつこいから、コースを決められちゃったの」
「もりのちゃんのこういうときのスタミナ、ほんまにすごいから」
「今はたいてい毛布コースでうれしい」もりのはにっこりした。
「ほんまもう、スケベやな」
「相手がスケベなきりえちゃんだから。相乗効果ですね」
きりえは甘く笑うと、もりののシャツのボタンを慣れた手つきで外す。中ほどまで外すと、鎖骨のあたりに触れた。
もりのはきりえのやさしい手の感触に陶然とする。首筋から華奢な肩にかけてやさしく撫で、うすいほくろの一つひとつにキスをした。高まりを感じながら、きりえをそっと見つめる。
「もりののほしがってる顔が好き」きりえは艶やかな笑みを浮かべる。「唇が半開きやで。キスしてほしいん?」
きりえはささやくと、首のうしろに手をあてて引き寄せ、やわらかな唇と舌を触れ合わせた。至近距離で、めまいがするほど魅惑的な笑みを浮かべている。
小さな音を立てながらやさしい口づけを重ねると、きりえのほうから深いキスを求めてきた。口のなかのあらゆるところを味わおうとするきりえの濃厚なキスに、もりのは高まり、濡れるのを感じる。情熱的なキスを返しながら、きりえの脚のあいだに太腿をすべり入れ、なめらかな肌の感触を楽しむ。
服を脱ぎ捨てると、身体の境目がなくなり、とけあうようだった。わけがわからないほどの愛しさを感じながら愛撫を重ねると、きりえの下着に触れる太腿がしっとりと濡れた。太腿をこねまわすように動かすと、きりえはあえぎ声をもらし、もりのの背中にしがみつく。
「触って」
切なげな表情できりえはささやいた。
もりのは熱い吐息をもらし、長い指をおろしていく。下着のあたりに触れると、あふれて濡れていた。下着のなかに手をもぐりこませ、熱く濡れたところを指先でそっと触れると、きりえはうっとりとした表情でため息をもらした。
きりえの下着をとると、うるみを舐めとるようにキスをする。あふれたもので顔を濡らしながら愛撫をつづける。あえぎながら、もりのの髪を狂おしそうに撫でていたきりえは一瞬息をとめ、身体をふるわせてイッた。
二人は身体を重ねあわせてぐったりしながら、呼吸が落ち着くのを待った。
上気した頬にうっとりとした微笑みを浮かべていたきりえは、身体の上でまだぐったりとしているもりのを見つめ、「今日の舐め方はワイルドすぎちゃう」とささやき、小さな顔をやさしくぬぐった。何事もなかったかのように肌はさらりとしていた。
「あんまりにもぐしょぐしょだったから、夢中になっちゃった」もりのはやらしい顔をした。
「もりのだってぐしょぐしょやん」
「うん、キスだけで濡れちゃった」
きりえはふさふさの髪の毛の感触を楽しむように、後頭部をやさしく撫でる。もりのは気持ちよくて、うっとりと目を閉じる。
「最初にしたときのこと、覚えてる?」きりえがささやいた。
もりのはきりえを見つめ、「忘れられないよ」
きりえは嬉しそうに、「もりのちゃん、冷たい布団をあっためといてくれてん。もりのちゃんはジェントルで、誰にでもやさしいけど、私に特別やさしいねん」
「うん、特別待遇だよ」もりのはにっこり笑った。
「もりのちゃんは不思議な人やな」きりえは目を細めて、もりのの髪に指をからめる。「いつでもそばにいてくれそうで、ふいにどこかにいってしまいそうな、風のような人やなって思う」
「どこにもいかないよ」
「わかってる」
もりのは首筋に顔をうずめた。甘い匂いが強まって感じる。唇で肌に触れていると、愛おしさに胸がしめつけられる。「愛してる」と耳元でささやいた。
もりのの背中を撫でていたきりえは、「私も」とささやき、腕に力を込める。
もりのはきりえのことが愛しくてたまらなかった。黙って見つめていると、「もりのちゃん、もっとして」ときりえが艶っぽい表情でささやいた。
「そんな色っぽい表情でそんなかわいいこと言われたらもう……」もりのはとろける。「もちろん、まだまだ眠らせませんよ、きりえ様」
「どうしよ」きりえはうふっと笑った。
もりのはきりえの髪をやさしく撫でると、大好きな顔のほくろにやさしくキスをする。
「きりえちゃんのほくろ、色っぽいな」
「ほくろ多くて、嫌やねん」
「きりえちゃんのほくろは素晴らしいんだよ。あんまりにも魅力的だから、何か意味があるかもしれないと、調べてみたの。そしたらね、料理とエッチが上手で、異性にモテて……同性にもだけど、食べ物とお金に困らないってことが、全部顔のほくろに裏付けされてた」
「ほんま? どこがどうなん? 教えて」きりえは興味津々そうだった。
「自分で調べましょう」
もりのはそうささやくと、きりえの唇にそっとキスをした。首筋から乳房へと唇を移し、やさしい色合いの乳首をくすぐるように、かるく触れ合わせた。先ほどのセックスの余韻で敏感さがました身体は、それだけでふるえる。きりえは小さな声をもらした。
もりのは引き締まったわき腹、きれいな縦型のおへそ、背中のくぼみ、弾力のあるおしりにかけてやさしくキスをする。上のほうへ戻り、乳首をまわりからやさしく舐め、口のなかに大事そうに含んだ。かわいらしくかたくなった感触に、愛しさがこみあげる。やわらかな唇と舌と指先でやさしく愛撫をつづけると、きりえはもりのをかき抱きながら、身悶える。
きりえを抱きしめながら、やわらかく濡れたところに触れた。時間をかけて繊細な愛撫をつづけると、きりえは乱れ、官能を深める。切なげだったり、苦しげだったり、淫らだったり、恍惚としたり、変化する表情を逃すまいと、きりえを見つめる。
きりえの身体に呼応し、没頭していると、たしかに自分が愛撫しているはずなのに、どちらが愛撫しているのかわからなくなる。二人をとりまく空気の湿度と温度が上がり、どちらとも区別のつかない、浅くせわしない吐息が響く。
昇りつめるきりえを全身で受け止め、もりのはきりえでいっぱいになる。
もりのは呼吸を整えると、きりえから身体を離した。身体は熱く、しっとりと汗をかいていた。一緒に昇りつめたはずなのに、激しくうずいていた。きりえをそっと見ると、上気した頬に艶やかな笑みを浮かべていた。匂いたつような色香に、めまいがする。
「この人最高……ほんまにすごい」きりえはかすれた声でささやいた。
「相性がいいから」もりのはささやいた。
「もりのちゃんのこっち系のスタミナと情熱と創意工夫すごいわ」
「創意工夫」もりのは苦笑した。
「私のひもになってもええよ」
「ひも?」もりのは顔をしかめる。「そういうの絶対に嫌です」
「ほめ言葉やって」きりえは甘く笑い、「この人、手放せへんわ」
もりのは照れくさそうに髪をかきあげた。
「私のために経験積んでくれてたんやな」
「経験とかそんなんじゃないから」もりのはキリッとする。「愛情と相性のたまものだから」
きりえは適当に受け流すような笑顔を返すと、「ほんまに最高やったわ……」とつぶやき、目をつむった。満たされた表情を浮かべている。今にも寝息が聞こえてきそうだった。
「寝ちゃうの?」もりのはかすれた声でささやいた。「こんなんじゃ寝れないよ」
きりえはもりのを見ると、やさしく微笑む。
「してほしいん?」
もりのは熱っぽい表情で、素直にうなずいた。
「ほしがってる顔の最高潮」きりえは嬉しそうな顔で見つめる。
「からかわないで」
「はじめてしたときと同じ顔してる。覚えてる? もりのちゃん、もう我慢できませんって言ってんよ」
「きりえちゃんのことがほしくてどうしようもなかったの」
「抱きたかったん?」
「抱きたいし、抱かれたかった」
きりえは半身をもたげ、もりのの半開きの唇を指先でなぞった。
「もりのちゃん、私と付き合うまで、ゆうきさんにしかイカせてもらってなかったんやね」
もりのはうなずき、赤くなる。
「だから、めっちゃほしがってたん」
もりのは首を振り、「いつでもあなたがほしい。今もそう……」
きりえはいたずらっぽく笑い、もりのの濡れたところに手をあてがう。もりのは気持ちよくて声をもらす。
「こんなに濡らして」
きりえはとろけきったところにやさしく刺激を加える。どこをどうされても、気持ちよくてたまらない。思いもよらぬタイミングで鋭い快感がはしり、もりのは突然イッた。きりえは一瞬目を見開いたが、愛しそうなまなざしをそそいだ。
「やめないで……」もりのは切なげにささやいた。
「どうしてほしいん?」
「やらしくして」
「ええよ」
きりえは艶やかに微笑んだ。
冬の曇り空のもと、コンパクトタイプのSUV車が快走していた。
きりえは東京湾を横切る高速道路の流れに乗る。口元にリラックスした微笑みを浮かべる奥行のある横顔は端正で、美しい横顔の見本のようだった。茶色の髪を無造作に束ねていて、頭の形のよさを際立たせた。
助手席に座るもりのは、白のコットンシャツの上にネイビーのショールカラーのニットジャケットを着ていた。
シャツは、ベッドの上できりえの下敷きになっていたものだ。朝、くしゃくしゃになったそれを見つけると、顔をうずめて胸いっぱいに吸い込んだ。
恋人の余韻を残したそれに袖をとおすことは、幸せを身にまとうことだった。朝風呂で汗を流したあとのさらりとした肌の上に着ると、心がふんわり温まった。
シャツとジーンズというシンプルな格好のもりのは、窓辺で外の景色を眺めていた。視線を感じて振り返ると、眩しそうにこちらを見ているきりえがいた。
きりえはクリーム色のゆったりとしたタートルネックに、同色の上質なニットコート、濃色のジーンズを合わせていた。両手で写真型に切り取る形をつくると、「無駄に絵になるな」と笑った。
もりのが照れ笑いを返すと、きりえは手招きし、ソファの上で膝枕をせがんだ。甘えるきりえが愛しくて、もりのはやさしく微笑みながら、やわらかな長い髪を指でからめ、すくようにして繰り返し撫でた。
「シャツくしゃくしゃやん」
きりえはシャツのしわを嬉しそうにいじった。
他愛ない会話をしながら、運転するきりえをそっと見つめる。パーツの一つひとつに色気を感じる。美しい目がどんなに淫らだったか。やわらかい唇が、ちらりとのぞく健康的な舌が、やさしい指先が何をしてくれたか――。思い出すだけで甘いふるえがはしる。
きりえはどん欲だった。二人きりの濃密な空間がそうさせたのかもしれない。穏やかで落ち着きのあるハルオキと一緒だった頃と違って、やんちゃな若猫のかずまとふさえが、ときどきじゃまをする。官能にふけるのに、旅先は打ってつけだった。
きりえはもりのの濡れたところを口でやさしく愛撫すると、「久しぶりにあれしよっか」と淫らな顔でささやいた。身体の柔軟性といろんな相性の良さが求められる、とっておきのやらしい交わりだった。もりのはきりえの脚を抱えるように大きく開いて、お互いの濡れたところを密着させる。熱とうるおいとやわらかい感触を直に感じて、甘いときめきに包まれる。抱き合い、呼応するように身体を動かすと、深い官能の波が押し寄せる。
高まる表情を間近に見ながら、きりえの耳や唇にキスをする。あえぎ声と、重なりあったところからもれるやらしい音が、静かな部屋のなかで強調される。鼓動が高まり、呼吸が早くなる。紅潮した肌にしっとりとした汗が浮かぶ。あまりの気持ちよさに、身体がもたない。二人のあいだに、強い快感が駆け上がった。
もりのはそっと吐息をもらす。思い出すだけで甘いうずきを感じた。昨夜も、今朝も、これまでも、きりえと抱き合いながら死んでもいいと何度思っただろう。
きりえは車のライトをつける。車は海底トンネルに吸い込まれる。
「もりのちゃん、不謹慎なこと言ってもいい?」きりえがおもむろに口を開いた。
昼間からセックスの余韻に浸っていたもりのはドキドキしながら、「不謹慎なこと?」
「ハンドルを思いっきり左に切ったら、一緒に死ねるな」
さらりと言うきりえの表情は、穏やかだった。
生命力にあふれたきりえらしくないセリフだった。もりのはある種の感動に打たれる。
「私も同じこと考えたことあるよ。幸せすぎて……」
「そうやねん」きりえは微笑んだ。「壁に衝突して死んでしまうのも悪くないかも」
きりえは前方の遠くに視線を置き、適宜ルームミラーで後続車の様子を確認し、運転に集中している。
「そうだね」もりのはうなずいた。しかし、すぐに思い直す。「やっぱりダメ。かずまとふさえを孤児にできない。飼い主として看取る責任があるから」
「そやな」きりえはやさしい笑顔で応えた。
「人が誰にも迷惑をかけずに突然死ぬなんて、なかなかできないね」もりのは引き締まった表情でつづける。「たとえば、高速道路での事故死。後続車を巻き込んでしまうかもしれないし、それを回避できたとして、事故渋滞を起こしてしまう。渋滞になると、事故が起きやすくなる」
きりえはうなずく。
「仕事も、突然死んじゃったら、仲間に迷惑をかける。友達も家族もファンも悲しませてしまう」
「大人やな、もりのちゃん」きりえは眩しそうに目を細める。「自分のことより周りのことを考えるようになるのが、年を取るってことやねんて。十四歳のときでも、同じこと言うと思う?」
もりのはちょっと考え、「たぶん、言うと思う。若いきりえちゃんがそんな私の言葉を聞いたら、つまらないって思うかもね。現実的すぎるって」
「たぶん、結局気に入るんとちゃう」きりえは笑った。
もりのは理想的な死について、考えを巡らせる。
「腹上死はどう?」
「腹上死?」きりえは苦笑する。「逝くほうはええけど、残されたほうはかなわんなぁ。喪うだけでもつらいのに、周りに大騒ぎされるし、恥ずかしいし」
「ダメか」もりのは残念そうに言った。
「あかんなぁ」きりえは甘く笑った。
二人を乗せた車は、海底トンネルを抜け出す。もりのは白い空を見上げながら、腕をうしろのほうへやり、思いっきり伸びをした。
もりのロマンス