海底に棲む月

手製のボートの上では、彼の白く細い腕が朝日に照らされて透き通っていた。
僕にはそれが、冷たい蝋燭か石膏のように見えてならない。
魂が離れた彼の肉体に、彼の面影を感じることが出来なくて、初めて触れる死はこんなにも冷たいものなのかと思った。
体温のない肉体が、こんなにも寂しいものだということも、初めて知った。
寒い季節ではあったが、植物園に咲いている花をかき集めて船底に敷き詰め、二人掛かりで浜辺に運んできた。
精一杯尽くしたが、粗末な棺桶には違いない。
彼は朝を迎える前に亡くなった。
僕たちの世界は、小さなドームと森と、この海だけがすべて。
物心ついたときから人工知能の備わったロボットたちに囲まれ、自分たち以外の人間を見たことはない。
ドームの中にある書架に詰め込まれた本の中で、文明や人類についてはおおよそ学ぶことが出来た。
それでも一つだけ、「なぜ自分たちはここにいるのか」それだけが、その膨大な書物の中の文字から見つけ出すことが出来ない。
真っ黒な瞳で僕を見つめて静かに笑う、月人(ツキヒト)。
『存在する理由を考えているのは君だけかもしれないよ、彼方(カナタ)』
そう言った彼の声のか細い感触を、僕はいまも覚えている。
隣に立つ陽(アキラ)は、波間で木っ端のように右に左に揺れながら、それでも頼りなく沖へ進むボートをじっと見つめている。
明るい茶色の瞳に朝日が射し込んで、水を湛えたように潤みながら輝いていた。
白いワンピースに白いサンダル、白いカーディガン。
金色に近い明るい茶の髪が、風になぶられキラキラと絹糸のように輝いている。
「このまま泳いでいけたら、なんてね?」
遠くを見つめたまま、ふと思いついたように陽はつぶやいた。
その声の頼りなさに、僕は心の底が冷えるような心地がする。
かつて、この海の果てを、目指したこともあった。それでも、僕たちはこの島から離れて生きてはいけないことを、ロボットに言われるまでもなく、何となく理解していた。
だから、計画は潰えた。
「朝日を拝むためだけに生きているようなものだから」
片手で髪の毛を押さえて目をすがめるその仕草は、彼女の年齢より少しだけ大人びたものを感じさせる。
僕たちの命がどれぐらいもつものなのか、僕たちは知らない。
月人のように病気になってしまえば仕方ないが、僕たちの命はさほど長くはないというようなことを、ある時言ったロボットがいた。
追及する間もなく、その機体は魔法のように消えうせ、それから他の機体に対して寿命を問うと、以降は警告音を出すようになった。
僕は何も言えずに黙り込んでしまう。
毎晩眠りに就く前に、いつ死ぬとも分からない恐怖が襲うことがある。
朝を迎える安堵は、筆舌に尽くしがたい。
涙が出てしまう朝も少なくない。
ここで生きている理由さえ分からないのに、それでも生きたいと願うものなんだなと、そう思う。
月人は以前僕に対して存在理由について考えることは、と諭したけれど、陽も月人もそれを考えなかったことはないはずだ。
月人の棺桶が、浜から離れて遠くへ行くにつれ小さくなっていく。
黙ったままの僕に、陽はこちらを見ないままで苦々しく言った。
「……笑ってよ」
この世界に二人きり、取り残された、僕たち。
身の回りにあるのは、波の音と、森の緑と、小さなドーム、ロボットたち。
果てしない孤独。静寂。
陽が望むように穏やかに笑える気はしなかった。
月人が死んだことを知ったとき、それがまるで悪い夢を見ているようで、現実感がないまま二人とも黙々とボートを作った。
僕たちより少しだけ年上の月人。
真っ白な髪に、真っ白な睫毛。
彼は太陽の下に出ることが出来なかった。陽に当たればたちまち皮膚が赤く腫れあがり、酷い時には爛れてしまうからだ。
彼はいつも、外に好きに出られる僕たちに笑いかけた。穏やかに、静かに、羨望と失望が入り混じった複雑な眼差しで。
「今夜は、酔いつぶれてもいいよね」
ロボットたちに、酒は禁止されている。
嗜好品である酒、煙草、珈琲、刺激物や糖分など、ロボットたちはなぜか口うるさく規制する。
いいんじゃないか、と言おうとして開いた唇は、なぜか言葉を放つことがないまま閉じてしまった。
誰かいないのかな、この世界には。もう、僕と君だけになってしまった。
僕は、陽がずっと月人を想っていたことを知っている。
だから、死ぬなら僕が良いのに、なんて思ったりしたこともあった。
発症してからと言うもの、月人は、あっという間にやせ細っていった。
その姿があまりにも痛ましいと、月人の入れないような場所で――天井が硝子で出来た植物園に、彼は昼間出入り出来ない――陽は声を殺して泣いている。
世界の初めから僕と君だけならば、こんなにも痛ましくないだろう。
そして大量の書物の中に、人々の「営み」を、「温度」を感じなければ、こんなにも孤独に思うことはなかっただろう。
君はきっと、月人ほどでもないにしても、僕を失うことを恐れている。
そして、僕は。
いつか、海を見ながら、僕は君を殺めるだろうか?
いつか、朝日を見る前に、僕は君を手に掛けるだろうか?
そんな自問自答が、泡のように浮かんでは、胸の内で死に絶えていく。
繰り返し呼吸する度に動く健やかな胸。
お互いの、体温。
けれどこの孤独だけ、どうしようもなく分かち合えない。
海の底に沈む月は、そこを住処に水面を見上げるだろう。
僕たちの営みとは、一体どうあるべきなのか、ロボットに聞いたところで答えなど帰ってこない。
寂寞としたこの孤独と共に、僕たちは先に逝った彼を見送る。
僕たちにも死は訪れる。
けれど、それは今日明日ではないかもしれない。
何より、彼女の行き先は、僕だけが知っているのだ。

<了>

海底に棲む月

海底に棲む月

海の向こうには誰がいるだろう?そう思っていたある日、月人は死んだ。

  • 小説
  • 掌編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-20

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