彼女の翅

 会社で三番目に美人といわれている笹宮さんの背中には「はね」が生えていることを、会社の人たちは知らない。わたししか知らない。もしかしたらうすうす気づいている人もいるかもしれないけれど、まったくいないかもしれない。
 笹宮さんの「はね」は「翅」である。
「羽根」ではない。
「翅」だ。
 翅は、昆虫の翅を指す。つまり、笹宮さんの背中には昆虫の翅が生えているのであるが、会社で三番目に美人といわれる笹宮さんに相応しいような極彩色の蝶の翅、などではない。ステンドグラスのようなそれではない。
「とんぼ」
とわたしは思わず、声に出していたのだった。
 そう、とんぼ。
 通勤に着てきた白いワイシャツを脱ぎ、会社の制服である白いワイシャツに袖を通しながら、笹宮さんは頷いた。濃紺のベストを羽織り、深紅のリボンをきゅっと結ぶ。笹宮さんの背中に生えていた翅に見とれて、わたしは通勤に着てきたパステルピンクのカーディガンさえ脱いでいなかった。ふたりきりの更衣室。虫のにおいが、する気がする。
「それ、ほんもの?」
「ほんものよ」
「生えてるの?」
「そう、生えてるの。引っこ抜いたら、血が出るよ」
 笹宮さんは愉快そうに口角を上げた。瞳の黒々しさや、鼻の作りなんかを比べてみても、会社で一番と評判の美人より、笹宮さんの方がわたしは美人だと思うのだけれど、おそらくこういう、つかみどころのない態度が一番二番になれない所以であろう。隙があるようで、ない。笑っているようで、目が笑っていない。同僚の男の子や上司からの誘いを断るのが、うまい。嫌味を受け流すのも、うまい。地に足がついているようで、ぷかぷかと宙に浮いている感じ。
 とんぼの翅って、あみあみしてて気持ち悪い。
 わたしは思った。笹宮さんの背中にとんぼの翅が生えていることについては、気持ち悪いとは思わなかった。
 肩甲骨のあたりから、翅は伸びていた。洋服に収まるなんてすごいなァと感心したし、とんぼの翅って乾くとぱりぱりくだけるから大変そう、なんて心配にもなった。笹宮さんの着ているワイシャツの裾から、スカートの中から、はらはら落ちてくる翅の残骸。むかし、翅の部分を持ったらぱりぱりくだけて、地面にぽとんと落ちたとんぼのことを思い出した。すでに弱っていたとんぼはぽとんと落ちて、そのままぴくりとも動かなかった。
「誰にも言わないでね。わたしの背中に翅があること」
 ロッカーを閉めながら、笹宮さんは言った。わたしに翅を見られて焦っている様子はなく、深刻そうな口ぶりでもなくて、いつものつかみどころのない笹宮さんであった。
「誰にも言わないよ」
 言ったところで、信じるわけがないもの。
 笹宮さんの背中にとんぼの翅が生えているなんて、わたしがばらしたところで誰が信じるものか。美人でないわたしが。同僚の男の子や上司どころか、そこそこおつき合いのある部署の女の子たちの飲み会にも誘われない、このわたしが。(ちなみに笹宮さんは、ふだんほとんど係わりのない部署からも、飲み会参加のお声がかかるのだった)
 よかった、と笹宮さんは笑って、更衣室を出て行った。
 よかった、が、ものすごく薄っぺらいような気がしたので、ほんとうはばれてもかまわないとでも思っているのかもしれないな、と思った。虫のにおいが、しなくなった。代わりに笹宮さんがつけている香水のにおいが、ひとりになった更衣室に満ちた。
 なんだかとても、いらいらした。

彼女の翅

彼女の翅

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-19

CC BY-NC-ND
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