FATE/FAKER

〈開幕〉緞帳(どんちょう)は上がり、退屈そうな役者の独白(どくはく)で幕は開ける。

 人は見かけによりません。

 そしてそれは私がこの十七年という短いですが中々当てはまっている、的(まと)を射(い)ているなと感じる事の多い言い回しでもあります。
〈本は表紙からでは解らない〉とも言われるように、捲(めく)って実際にその内容をきちんと理解しなければその輪郭(りんかく)さえも揺れて解らなくなる。しかもその本は最後の一ページを捲るまでは、私たちの前に本当の真実と、エンディングを見せてはくれないという事も。
 私が体験したこの一夏のてんでリズムの狂った楽団の音楽の中で、割れて、砕けて、溶けて、それをくぐり抜けてやっと見つけ出したその答えは、私の中ではどんな音として耳に入って来たのか、それはとりあえずここでは置いておくことにしましょう。
 ただ、私がこの事で一つだけ言える事。確かな事は、「人は嘘をつく生き物であり、そして、そのちっぽけな嘘を守るために命を懸けて戦う生き物でもある」という事でした。


 そんな嘘にまみれたこの物語で、それは揺るぎの無い、唯一ぶれることの無い真実であったと、私は今でも言い切る事が出来ます。


 私は『運命』を信じているほうです。
 たとえどんな人間がそれを強く否定しようと構わない。
 それが私にとってどれほどの救いであったかは、おそらく一生あの人達に伝える事も、きっと、無いのでしょうから。

〈第一幕〉彼女の運命(うねり)の始め方。

  何故、この季節でも制服と言うものを高校生は皆着なければいけないのでしょう?中学生ならまだ解ります。日本の社会では中学生は義務教育という教育の籠の中にいる鳥のようなものだから、教師や大人が定めたルールに則って生活をしなければならない。
 教師が「お前たちはまだ学生でしかも教育を受けなければならない年代なのだから、キチンと制服を着て学校生活を送れ」と言われれば、いくら尾崎豊の歌の様に窓ガラスを割っていっても、全くそれが事態を好転させるような事は起こらず、ただ単純に「ああ、もう推薦はとれないな」という意外に大きなリスクを背負うことになるだけです。形だけ教師に取り入って、いい子ぶって内申上げるみたいな女子よかはまあマシと言えばそれまでですが。
 まあ、そんなことはどうでもいいんです。
 要は、私たちは一応もう無理に学習を強要される事も無い高校生なわけです。つまり、制服一つにしたって、その学校の生活指導や担任に、スカートの丈が短い、とかネクタイを緩めるな、とかいちいち言われる必要は本当は無いはずなんです。
 私たちだって、別に制服が嫌いなわけではないんです。
 むしろ好きだって言っても良い位なんです本当は。
「女子高生」という肩書がその制服を纏うだけで手に入るんですから、尚更でしょう。可愛い制服ならそこに通いたい子だって沢山いる訳です。ですから、私は制服を否定しているのではないのです。

 こんなクソ暑い中、夏服と言われる物を着て、炎天下のこの日差しの下、私が通う世湖鳥(よことり)学園までのこの緩い坂道を登らなければいけない理由について異議申し立てをしているだけなのです。

 もう、いいんじゃないですか?水着登校OKにしましょうよ。
 健康にも、男子生徒の眼の保養にも、多分校長だって喜んで賛成してくれますよ。女子生徒からは真っ向から反発うけるでしょうけど。
「痴女」という言葉が何度も頭をよぎりますが、それと同じくらい今すぐ海に行って問答無用で飛び込んできたい気持ちで私はいっぱいです。割合的には海水浴六割、クーラー二割、扇風機一割、水着に着替えるが一割、といった所です。
 じりじりという擬音を考えた漫画家さん(多分ですけど)の、その音感センスには脱帽です。これは確かにじりじり以外に考えられません。UVカットの日焼け止めが悲鳴を上げています。殺人的な暑さの中、私はようやく校舎の中、玄関の下駄履き置き場に辿りつきます。太陽の視線からからがら逃げてきた戦士は、額にかかった髪を剥がして、ポケットのハンカチに汗を吸わせます。
「髪、切った方がいいかなぁ…」無意識に声に出ます。
 自分の髪は背中の半分ほどまであり、しかも天然の緩いパーマに脱色してもいない明るい栗色の髪のため、何も知らないヤンキーが入ってる先輩たちからは、入学当初は随分呼び出されたものでした。
 私が物おじせず、堂々と「地毛パーマの地毛色です」と四回程言い切った所、ぱたりとそんな事も無くなりましたが。長くすると冬には重宝しますが夏には汗と湿度とおまけに女の子にとってはタブーですらある〈臭い〉にまで気をつけなくてはならないので、かなり面倒臭いのです。しかし今そんな愚痴を言ってもこの髪が短くなるなんて特殊能力を私は有していないので、仕方がありません。
 私は玄関のすぐ右手の方にある二階への階段を登って、いつも通りの場所で、いつも通りの時間で、いつも通り騒がしい、私のクラスである二年D組の教室のドアを開けました。その喧騒とカオスな光景に暑さで参った私の身体は更に疲労を蓄積させます。
多少うんざりしながらも私は、自分の席に行って腰を下ろしました。来る前にコンビニで買った固めのハードグミを、学校カバンの外付けのチャックから出して口に入れ、一気に咀嚼します。もっぐもっぐもっぐもっぐ。もぐぐぐぐ。もっぐもぐ、ん、もぐ?
 すると、この教室のドアが再び静かにスライドし、クラスの中では一番仲のいい女子である涼風(すずかぜ)、蟋蟀(こおろぎ)涼風がゆっくりとドアを開けて入ってくるのが見えました。私は、彼女のその浮かない顔を見て、更にテンションが下降していくのが解りました。
私はなるべくその事を考えないように努めてみて、―まあ無理だと開き直り、せめてこの時だけは、彼女が今の辛い状況を少しでも和らげてくれればいいなと思い、彼女に声をかけてみます。
「おはようございます、涼風さん。私、もう本気で今日水着でここまで来ようかと本気で思っていたくらい―早く隕石でも落ちて氷河期でも来ねェかな―今の暑さには参ってしまっていますよ。涼風さんのような名前の方こそ、こういう時に自宅から扇風機を持ってきて私に涼を与えてくれるべきだと思います」半ば本気の提案を涼風さんに言うと、涼風さんはいつもの様に困ったような、それでいて人の良さが伝わってくるような微笑みを浮かべて、私に言ってきました。
「本当に、狸宝さんは、冗談が、上手いよね…、確かに、私も、水着で来れるなら、着ちゃいたいくらい、だもんね…」
「ああ、じゃあ、一着どうぞ?少しでも仲間を増やそうと思って、多めに持ってきたのは正解でしたね、もちろん、涼風さんの分も有りますよ?サイズは任せてください、私の眼はごまかせません、たとえそれがパッドであろうと重ねブラであろうと、私には偽物は通用しません。女性の胸はどんな大きさや形であろうと、美しいものなのです。そこには、誤魔化し隠す必要など微塵も無いのです。だから、私は全ての偽乳を見破る義務があります。全ての女性たちの胸のために…では、どうぞ?」
「ええええええええええ、っと。あの、狸宝さん、えっとね、私は、冗談で言ったんだけどね、ええっと、その、なんで私にぴったりのスクール水着を、事もなげに学校カバンから抜き出しているの?しかも、それって旧式だよね、何だか、ちょっと私には入れそうも無いお店の従業員さんが着る感じのものだよね、これって…あと、狸宝さん、そんな特殊能力をいつ覚えたの…」
 何故か戦慄した顔をして私の方を涼風さんは見ています。
 やりました。ちょっと際どいネタでしたが、これならば少しは「今」を忘れて、学校生活の間はスクール水着がらみでからかえるでしょう。

 ちなみに、私が全ての女性の胸の大きさ形色において平等に美しさを感じている事は、まぎれも無い事実です。


「狸宝さんって、やっぱり変わっているよね…」涼風さんはぽつりと、呆れ混じりに言いました。そうでしょうか?
「男に、産まれなかった、ことを、神様に、感謝しなくちゃ、ね」
 …それはどういう意味なのか詳しく訊きましょうか、涼風さん。

 狸宝(たんぽう)田優(たゆ)、年齢、十七。身長百六十四センチ。体重「聴くんじゃねえよ」、趣味、「料理」、「掃除」、「裁縫」、「テレビ番組を見ながら突っ込む事」、「ピアノ(かじった程度)」、「読書(女性作家のエッセイが特に好き、最近は桜庭一樹がマイブーム。)」「豆から挽いたコーヒーをじっくり淹れて、自分の分だけ作って飲む事(何となく贅沢な気がするから)」
 顔に全くそぐわない口の悪さと行動力とS気質の持ち主だとよく言われる。特に可愛い子にはわざと意地悪するという正に小学校高学年男子とほぼ変わらない精神年齢とも言われたこともある。
(実際には、〝気になる男子にもしていた〟事は、絶対に明かすまいと誓っている秘密である。)


「狸宝、さんは、何だか、いつも、退屈、そうだよねぇ」
 そう涼風さんは言いました。
 退屈。私が?
「ううん、別に、悪い意味じゃ、無いんだけど。何だか、狸宝 さんって、いつも皆とは、少し違う、所を、見ているような気がするだけなんだけど…、それが、周りの人には、自分たちとは少し違う、困ったときには、相談できる、そんな、うん、大人っぽい、感じがするんだよ、ね」
そう言って、細フレームの眼鏡の奥のその小動物の様な可愛らしい瞳と笑顔で、私の印象を話してくれる涼風さん。
「…う~ん。…どうなんでしょうねぇ。実際、結構この生活が楽しいとは、正直、思ってはいないですよね。どっちかって言うと、確かに、退屈している、と言ってもおかしくは無いかもしれません。…ただまあ、それがこの国では普通の事なんでしょうし、そういった感想を自分の人生の中で浮かべられる分、幸せなんだろうとは思ってますね。感謝をするべき所なんでしょうねぇ。こうやって騒がしい教室でこうやってハードグミを四つ同時にもぐもぐ出来る事にも…。」
「狸宝さん、その、ハード、グミは多くても、三つくらいを、想定して、作られてると、私は、思うんだけれど…」
「グレープ味が好きなんですけど、まだ出る気配がないんですよねぇ…」
「…狸宝さん、って、驚く、くらいに、人の話、聞かないよ、ね…」涼風さんが下を見て少し首を振っています。あれ、何かおかしな事をしましたか、私。


 その後も、五分くらいなんでもない雑談をして、担任の大根付(おおねつけ)先生(通称タクアン。「大根漬け」から転じた。丸坊主で「外出すると、おばあさんに手を合わせて拝まれるのが心底嫌だ」と言っていました。宿命でしょう、我慢しなさい)が「うおーし、HR始めっぞー、お前ら席に着け―」とそのいかにも読経向きな低い安定感のある声で言います。私は距離のある、右斜め前方に座る涼風さんの、その背中を見つめました。その背中は、何かを必死に耐えるように、その小さな身体を精一杯伸ばしていました。

 涼風さんには、今年十歳になる弟さんがいらっしゃいます。彼は今、心臓の動脈が極端に細くなってしまうと言う難病を患っており、非常に難しい手術を行わなければ、残念ながら、秋までは持たないだろうと言われています。そしてその手術には、日本で行うのも難しいらしく、海外の心臓手術の権威、アルフレッド・タッグスナンバー博士が何度か成功しているに過ぎない、難易度Sクラスなものらしいのです。
海外の手術費用は全て合わせておよそ三千万。お前はブラック・ジャックかと言いたくなりますが、これは現実です。
 先程の発言が、私に後悔の念を募らせます。

〝それがこの国では、普通なんでしょうねぇ…″

 弟の命が消えていくのをただ見守るしか出来ない友人は、どれだけその『普通』が欲しいでしょうか。
 私は、そんな友人に、《スク水で笑いを取る事位しか思い浮かべない》ような、やっぱり〝退屈な人間″なのだ、と。
 その背中をただ見つめる事しか、出来ませんでした。



           ☮


 冷蔵庫の中に必ず一本か二本は常備されているペプシ・コーラを、帰宅して真っ直ぐに取出し、開け、飲みます。
 痛いくらいの刺激が口の中一杯に広がり、そして甘さと冷たさが喉を通るたびに、熱くなった私の身体が冷やされていくのが解ります。 
「―ああ、最高……、やっぱりペプシが一番ですよね。暑い日にはやっぱりコーラじゃなきゃ始まりません」
 そう言いながら、最近手を抜いていた部屋の掃除を行う事にしました。
 といっても、私たちの生活するこのスペースでは、あまり必要の無いといっても良いくらいですが。
 
 私、狸宝田優は家族と呼べるものは、今現在父一人きりです。
 二人しかいなければ、特にマイホームだって必要ありませんでしたし、最低限の出費に抑えれば、その分を貯蓄に回せる事も出来ます。
 という訳で、父一人子一人の生活の中で自然と私が家計を預かる事になり、その他に洗濯料理炊事に掃除など、一般的な生活能力を私は手にしていました。
 そして、そんなこのアパートの三階の一部屋なんて、大きさもたかが知れています。私の部屋と父の部屋、そして大き目のキッチンと居間にはテーブルが置かれ、その部屋の隅ではデスクトップパソコンがささやかな机に置かれています。洗面所と風呂は女子高生である私でも充分納納得できるものでしたから、特に生活において苦労したという経験はあまり無かったとも言えます。

 母は、私が五歳の時に、交通事故で亡くなっています。
 その轢いた車の運転手は、当時酒をビール缶三本飲んで運転していました。男は「俺は悪くない!真っ直ぐなこの道を走ってたら、そいつがいきなりこっち側に倒れ込んで来たんだ!どうやって避けろっていうんだよ、畜生離せよ!飛び込んできた人間に、ドライバーはそこまで上手く避けなきゃいけねぇのかよ!」と主張し、必死に弁解をしましたが、それでも飲酒による過失致死という事で彼は罪に問われました。
 私は、母が、あんなに竹を割ったような母が、そんな事をするとは思いも寄りませんでしたし、何より母が世界で一番強い存在であるとばかり思っていた私には、この事は意外に尾を引く結果となりました。自殺にしろ飲酒をした彼が誤って轢いたにせよ、もう母は帰って来ないのだという事くらいは当時の私にも解っていました。
 どんなに力強い存在でも、何らかの原因によってあっけなく死んでしまう。そんな当たり前のことが、しかし当時の私には同時に理解する事が難しく飲み込みにくい事であったのだと思います。
 そしてそれが、例えば《運命》だと言うのならば、おそらく、そうなのだと思いました。
 目には見えない大きなうねり(・・・)は、誰かの心など全く考慮せず、あっけなく流し去っていって、所詮私達個人個人に出来ることなどたかが知れていて、そしてこのまま歳をとりながら、またはこのまま病気や事故に遭ったりして、死んでいくんだろう、と。
そう、思い始めるようになってからは。
 私は人に、それほど期待することをしなくなりました。
 愛情を求める事もしなくなりました。

 ただ、今はこの退屈な日常を愛そうと。
 非日常なぞ起こればそれだけ疲れるだけであり。
「母」という私にとってのヒーローがあっけなく消えてしまったのと同じように。何が起きても不思議では無いのだ。《非日常》なんてものも無く、そしてそれが《この世界》なのだ、と。
 ようやくそれが自分にとって普通の事なのだと、自分では気が付けない大きな力は確かに私たちにははびこっているのだ、と気づき、そして今の私に至った。
 十七の私には、そんな諦念がいつも付きまとい、そしてそのぬるま湯を愛しながら生きている。
 そんな感じだったのです。


 父は、母の事を、今でも深く愛しています。
 私は、正直そういった方面には深い知識や知恵には持ち合わせていないので何とも言えないのですが、たびたび父から今でもその当時の事を何度も幸せそうに語られると、父がラッキーだったのでは無く、むしろこんなにまで一途に愛情を向けられたた母がラッキーだったのだと私は思っています。幼い私を抱いて、まだこの広めのアパートでは無い所に結婚したばかりの父と母と私の写真が、以前の住居だった所の庭で笑っている写真が残っています。
 私の物心つく前からざっくばらん、大雑把、大胆不敵な人間の塊のような人で、良きにしろ悪きにしろ、周りの人に知らず知らず強い影響を与えてしまう、そんな独特なオーラを持っていた人でした。
 それが、相手にとって非常にいい場合もあれば、逆に相手を深く傷つけてしまうこともあったりし、結婚する以前はトラブルメイカーとしても中々有名な人物でもあったそうです。
 しかし、たとえあんなに互いを思いやり、支え合っていた父にでさえ、自分の事は全く言わなかった母が、ぽつりと『昔、縁談が決まっていた相手の性格が酷過ぎて、《あんたがそうやって今までしてきた事は、あんた以外の、一体誰を幸せにしたっていうのよ!金が幸せを運んで来るわけじゃないなんて詰んない事は言わないけど、それでもアンタのしていることに、私は不快感しか感じない。もう悪いけど、私の前にその顔を見せないで!》って言って、逃げてきたこともあったわね…、結局、私の世間知らずだったって事なんだろうけど…そんな時に、パパに出会ったの、そう、『運命』っていうものがもしあるのなら、きっとあれがそうだったのかもね…』と言っていたことがあったのを、今でも覚えています。
 母は当時、今となっては調べる事にも興味が無い事では有りますが例えるならば〝抜身の刀〟とでも呼べるような存在だったのではないか、と私は勝手に想像しています。
 どんなに切れ味が鋭くて芸術品としての価値も高かったとしても、それがずっとそのままの状態で扱われたら、周りは堪ったものではないでしょう。
 それが美しく、そしてよく切れれば切れる程、その刀は丈夫でしなやかな『鞘』を必要とします。
 少し小柄な、でもそれでいてそれを上回る心の大きさや温かさを持つ父を見る度に、この人は、母が必要としていた、彼女の鞘だったのであろうと強く感じるのです。

 母と父は、ある公園で出会いました。今日のような、蒸し暑い七月の後半の事だったそうです。
 当時父は二四歳。入社二年目のピカピカの新人で、「いつまで経ってもスーツに着られていたなあ」と苦々しく思っていたそうです。 
 入社した食品メーカーで『販売』を先輩について回って学び、覚える事の多さに四苦八苦していた頃だったそうです。昼食休憩の時、父はいつもと同じベンチに座って、そこで自分で作ってきた弁当(大体がご飯にふりかけをかけたものと冷凍食品、それに茹でたブロッコリーやほうれん草を無造作に入れたもの)を広げて、そのベンチの真後ろにある大きな樹によってちょうどよく日陰が出来るそこには、大体ホームレスの住人か定年退職したはいいものの日中することが無くなってしまい、家にいても長い間連れ添った妻の冷たい視線から逃げるように、あても無くぶらぶら散策して、ここいらで一端一休み、と腰かける老人も多く、その前に自分の弁当を広げるため、休憩時間と共に急いでそのベンチへと向かったそうです。
 しかしその日は、とても奇妙なことにホームレスも定年後の暮らしをどうするか考える者もおらず、そこにいたのは、強気な目線とへの字にした口でガムをくっちゃくっちゃ噛みつつベンチの背もたれの裏側に腕を落とした高校生の制服としか思えないモノを着ている高校生としか思えない年齢の女の子が、だらしなく座りながら周りは全て敵だとでも言うかのようにその敵意ある視線を周囲に振りまいていたそうです。
もちろんその明らかに不良少女のような女性が、今の私を産んだ母でした。
 この子の制服には見覚えが無いな。どこかから電車でも使ってやって来たのだろうか?
 そんな疑問を父は浮かべたそうですが、それよりも食事です。
 保冷剤が入っているとしたって、悪くなる可能性は否定しきれない程の暑い日だったので、その子から一番遠く離れた所で父は座って弁当を食べ始めたそうです。

 母はそれを、食い入る様に見つめていました。
 まるで、肉食動物が、獲物の草食動物に狙いを定めたかのように。
 その視線に耐えられず、父は他の場所に移ろうと腰を上げかけたそうなのですが(当然の反応ですよね)、その瞳がきらきら光って自分を下から見上げている彼女を見て、おずおずと弁当箱を差し出すと、「た、食べる?」の「食べ」までの所で弁当箱は奪い取られ、ご飯をかきこみ、おかずを飲み込み、そしてその間に父は自販機に向かって、ペプシコーラを買ってきて、食べ終わったと同時に母に差し出しました。きょとんとしている彼女に少し苦笑いを浮かべた父に、ぼけーっとしていたらしい母は、その冷たく冷えた缶を両手で包み、その後かしゅッという音を立ててプルタブを上げ、一気に喉へと流し込みました。
 落ち着いたところへ、弁当箱を片付け、そのまま急いで仕事場に戻ろうとした所で、母は父を呼び止めたそうです。「本当に、ありがとう!!」と。父も笑って、「熱中症には気を付けた方がいいよ!」
と返し、父は少し良い気持ちでその日を過ごしました。
 ところが、話はそこで終わりませんでした。
 父が帰宅しようと暗くなった夜道で自炊のためのあれこれを近場のスーパーで買って、家路へと向かっていた所でした。
 今日、弁当を見ず知らずの女子高校生に上げた公園の前を通り、横目で見やるともう明かりはすでに消え、街灯が少しだけ公園に光の輪を作って、テントウムシの背中の様な模様が付けられていたそうです。
 そしてその昼に自分が座り、同時にあの少女が座っていた場所が、闇の中で丸く照らされて、そしてそこには―あの少女がまだ、彼の弁当箱を抱えて―、座っていたらしいのです。
 もちろん父のその時の驚きようと言ったら、半端なものでは無かったそうです。そりゃそうでしょう。いくら不良少女で金銭が無いにしたって、もっと過ごしやすい良い所が沢山あったはずです。
 近くにある、出来たばかりの大型スーパーに行けば、試食も出来るしフードコーナーに行けば無料(タダ)で水だって飲み放題です。いくら二十年前だといったって、流石にそういった所はあったはずですから。その少女は、父の顔を見ると、最初は飼い主を見つけた犬の様に、次にそういえば名前も職業も年齢も、互いに知らない事に気付いて言葉が出なくなり、最後には逆ギレして「名前と住所くらい教えときなさいよ!」と理不尽極まる暴言を吐かれたそうです。
 その後、彼女は父に近づいてきて、「ん!」と風呂敷に包んだ空になった弁当箱を渡してきたそうです。…もう時代が十五年位後だったら確実にマンガやアニメのヒロインを張れるツンデレっぷりです。
 そして父がよく見てみると、彼女の身体は少し震えていたそうです。
 いくら七月といっても、夜はまだまだ冷え込む時期。
 そんな中でも、彼女は恐らく自分が此処をまた通る、そう信じて、ずっとここで待っていてくれたのでしょう。父は彼女が恐らく家出少女であり、ここら辺の学校の制服では無い事に気付き、地元の子では無く、電車か何かでここまで殆ど着の身着のままこの町までやって来たのだろうと推測していました。
 よって、ここで、電車代を最終駅まで行ける切符が買えるお金を渡して、そこで別れの言葉を紡ごうとした時のことです。
〝私を、匿(かくま)ってくれない?〟
 母はそう言って、父の身体に抱きついたそうです。
 面倒な事に巻き込まれたようだと緊張してしまった父は、同時に、この少女の〝何処か〟に引き込まれていったらしいのです。
 母もきっとそうだったのだと思います。
 穏やかな父が堅牢(けんろう)な鞘となって母を守り。
 業物の刃の母が現実問題を解決していく。
 そんな二人はその夜から、半同棲、押しかけ妻、父のロリータコンプレックス疑惑、と。様々な噂を囁かれ、当時の父のアパートにはいつも誰かが張り込んでいたり、監視していたり。電話では母のよからぬ噂を父に何度もかけたり。
 まだ二十四という自分の生活すら成り立たない時に、父は何処の馬の骨とも知らない女子高生を養うはめになり、同時にそれを引き裂こうとする何者かからも常に邪魔をされるはめになってしまった。
 普通であれば、二度と来るな!と追い出されてもおかしくはない状態です。むしろ、それが一般的な男性のとる行動でしょう。
 でも父は折れませんでした。
 母は、何度も何度も、「辛かったら、今すぐにでも出ていくわ。だから安心してこき使ってよ、こんな私に出来る事なら、何でもするからさ」と言ったそうです。それが父の罪悪感を利用して此処に留まらせるためでは無く、本当にそのつもりでいたのだろう事は、母を良く知る私が言うのだから間違いありません。母は、一度口に出し、覚悟が決まれば即行動に移すミサイルみたいな人でしたから。(笑)そんな時、いつも父はこう言って返したそうです。「じゃあ、命令するよ、これからはどんな時でも、どんな事を言われてもされても、僕の隣にいなさい。これから先、何かが起こっても。ずっとね。」と。
 何だか母が父の会社からの帰宅が遅い時は、いつも決まってピリピリしていたのを思い出します。変な女が父に言い寄っているんじゃないか、と気が気では無かったのでしょう。そんなセリフがすんなり出てくる時点で、女たらしの素質アリですから。拘束されていると取るか、愛されているととるか。父が後者をすんなり取れていたことも、実は夫婦円満の秘訣だったのかもしれません。
 その『押しかけ女子高生』は自然と周りの環境になじんでいき、歳をとるにつれて快活な性格で町のアイドルになっていきました。学歴を問わない流れ作業の工場にも勤め、まるで新しい世界に迷い込んだ一匹の妖精が、次第に周りを元気に与えていくかのような。そんなポジションを自ら獲得していきます。近所に何かあればすぐに救急車や消防車を呼び駆けつけ、何かあれば全力で事にあたる彼女には人望が自然と集まりました。
そしてその陰には目立たずとも母を支える、父の存在無くしてはあり得なかった事でしょう。
 
 父は、結局母が一体どこの誰なのかを聴くことは、少なくても私の記憶の中では、一回も無かったと断言することが出来ます。
 
 私も、母を知ろうとすればするほど、何かが邪魔をして辿りつけない事もしばしばありました。最初は苛立ちましたがその内、私はその母の過去を探る事を止めました。母のような強い人間ですらあっけなく消えてしまうのであれば、その『運命』に逆らうことなく、私の記憶の中だけの母で充分ではないかと考えるようになったのです。
 結婚式には、母方の親族は誰も表れること無く、父方の親族達だけで、ささやかな祝宴が開かれた時、母は、「―私は、本当の狸宝家の家族になれるよう、これからもっともっと精進していきたいと思っています。彼と一緒に、幸せな家庭を築いていきます。未熟者で世間知らずな私なので、ご迷惑をおかけすることもあるかもしれません。ですが、幼子のような私なりに、精一杯やっていこうと思います。今日はご出席、誠に有り難うございました。」と父方の親族たちに深く頭を下げたそうです。

 母は私にとって、最後まで狸宝(・・)兎幸(とき)であり、そして最後まで狸宝家の一員で旅立ったと、そう思っています。
 母が誰であろうと、私の事を抱きしめてくれていた、この女性は確かに私の母なのだ。この笑顔で愛しく育てられた事。
それだけが、私と母を結ぶ大切な糸なのですから。



 ペプシコーラのペットボトルのキャップを閉め、居間と玄関を軽く掃除機でゴミを吸い、残った塵などは新聞紙を濡らして細かくちぎって、それと一緒に箒と塵取りで手際よく取っていきます。薄型テレビの後ろ、デスクトップパソコンの後ろ、本棚を少しずらして雑巾を「少しぬれ気味かな」くらいに絞った状態で軽く拭きます。古くなって切れてしまったりボロボロになったタオルをミシンで雑巾にしたものなので、いくら汚れても構いません。もう使う所も無い程汚くなったら、ゴミ箱に捨てます。
 次にトイレ掃除ですが、まず消臭剤がキチンと機能しているかを確かめます。嗅いで確かめ、大丈夫であればトイレクイックルでまず外周と床とを拭き、便器も中では無く目立つ汚れを最優先にして拭いた後、便器のへりの裏側を厚手にしたクイックルで拭きます。まあ、これで大体はOKでしょう。
 日本人は掃除を始めると、徹底的に「綺麗にしなくては」と考えますが、言ってしまえば、要は「お客様が来たときに相手が不快にならない程度に片付いていればいい」という、〝イギリス流の掃除感覚〟を身に着けると随分と心が楽になります。目につく場所にはまとめて物を置き、なるべくスペースが広く感じるようにするのがコツで、そしてこれは基本でもありますが、これはこれから先、本当に使う機会があるだろうか?と部屋のモノに対して意識を向ける事です。そうすれば、大抵のものは捨てるか片付けられますし、心地よい空間を楽に作り出す事ができます。
 大体の掃除がひと段落した所で、父が帰って来る前に、適当な料理でも作っておきましょうか。 
「冷凍ごはん」が三人前、ハーフの使い切る事を前提としたキャベツに安い卵二~三個、ウインナー三個とケチャップ、それらを適当な大きさに切って、中華鍋に油をひいて良く温めます。換気扇をつけて油が煙のようになった頃、溶いておいた卵(今回は三個。)を一気に流し入れます。冷凍ごはんは事前に電子レンジで適当に温め、ひいた卵で半生の状態に鍋を覆ったら、ご飯を投入。へらで細かくご飯を切る様にほぐし、卵の膜で包み込む様にします。
 そして刻んだキャベツと細かめに切ったウインナーをさっと入れ、塩、こしょうを心持ち少なめに入れます。そして手首を使って上手く均等に火が通るように鍋を動かして、ケチャップを多めに入れます。
 はい、これで適当晩御飯、〝冷蔵庫にあった物で食いつなごうケチャップライス〟です。卵で閉じればオムライスになりますが、既に三つ使っているので、食材的にも食費的にも体脂肪的にも、今回は使用しません。まだ父は帰って来ないでしょうし、ラップでもかけて冷蔵庫にでも入れておけば、また温めてもそこそこ美味しく食べられます。いつ帰ってくるか解らない父ですから、食事も早めに作っておく私なのです。
 今のテレビを点け、取りあえずニュースを眺めます。
『今日は、今年最高の気温を記録。更にここから最高気温はあがっていくものと思われます。幼児やお年寄りの方々は、自分が今水分が足りていない事に気付かない事も多いので、特に注意が必要です。こまめに水分を補給してください。』
「子どもはともかく、こんな時に外に出てるお年寄りはいないんじゃないですかねぇ…、家の中ならクーラーも今ならあるでしょうし…」
『それに関連して、日本国内だけでなく海外にも知名度の高い、家電メーカー『DOUYA』社長の銅(どう)谷(や)鉄(てつ)仁(じん)さん(六十五)が、自宅の居間で熱中症と思われる症状で死亡しているのが昨夜、秘書の亀田(かめだ)直(すぐ)尚(なお)さんに発見、通報されました。死因は、クーラーを点けながら午睡中、クーラーが故障したため、閉め切った室内の温度が上がったためと思われます。』
「気付きなさいよ!本当に家電メーカーの社長だったんですか、この人!?」
『ちなみに、銅谷社長の特徴は〝どうや〟とその満面の〝どや顔〟で、その「どや顔」は社内の風物詩として扱われており、周囲の人々にその懐の広さと豪快さで慕われる存在でした』
「前半めっちゃ関係ないです!?」
 N○Kの将来を本気で心配し始める私です。
『尚、『DOUYA』の次期社長として有力視されているのは専務の天映氏とされており、長年右腕として彼を支えていた人物だけに、ショックも大きいらしく、「今はまだ何も考えられない。全ては銅谷社長の葬儀が済んでからだ」と―』
 私はチャンネルを変えました。…んっ、おおっ!今夜のMステに〝クエスチョン〟が出るんですか!!
 このアイドルたちの歌う曲、一体誰が作詞作曲しているのか、未だ解ってないんですよね~、でも男友達の延長としか見てもらえない、顔では調子よくふざけているけど、内面は切なすぎる程の恋心で渦巻いている、そんな切ない歌詞と、その激しいロックなメロディーで、ダンスと可愛さだけで売っていると評価されていた彼女たちを、一気にスターダムにのし上げたんですよねぇー…。私も聞いたことありますけど、何となく解るんですよね、あの歌詞(気持ち)。切ないんですよね、とにかく。あの曲聞いて号泣した女子高生が多いって言うのも納得しちゃいましたもん。
 後は…、う~ん、ま、これからはインハイの時期だから注目高校生の特集位しかやってないですね…。暑い中、ご苦労様です。興味ないですけれども頑張ってください。 
『中でも注目なのはボクシングの界のイケメ―』
 テレビの電源を切って、そして涼風さんに借りてるマンガ『スプリガン』でも読もうと自分の部屋に行きます。「皆川亮二の、傑作、といえば、やっぱり、『ARMS』だとは、思うんだけど、私は、やっぱり、初期の頃の、作品の、『スプリガン』が、好きなんだよね…。超人的な、戦闘スキルを、持っている、サバイバル技術も持つ最強の青年が、あんなに波乱、万丈の、戦場生活の、中でも、決して、〝高校生″の、位置づけ、を、失うまいとする、姿、には、私、とっても、感動、した、んだ…、狸宝、さんも、好きに、なれるんじゃ、ない、かな…面白いから、読んで、見ない…」と小動物のような可愛さを持つ女の子に言われたら、例えどんなにスカスカB級映画でも笑って観るってもんですよ。ええ。ドアを開けて、スチール製のベットの飛び込み、『トンガリくん抱き枕』に抱きつきます。…どうやら私は寝ているときやリラックスしている時は、無性に何かに抱きつきたい衝動に襲われるらしく、以前友達が自宅で泊まった所、何をどうやったか全く覚えていないのですが、下で寝ていた彼女を抱き上げ、ベットに乗せ、その横で彼女をぎゅーっとしながらそのまま朝まで抱きしめ続けていたらしいのです。
 友人は何故か怒っているものの顔がにやけていて、「顔が近いよ顔が!そんな綺麗な顔ですぐ真横に抱きつかれて眠られたら、私の中の新たな性癖が目覚めちゃう所だったでしょうが!私は一応ノーマルに生きたいのにそれをアンタはぁ!」と言ってこられたのですが、自分自身、記憶が無かったので、素直に謝るしか出来ませんでした。
『とんがり君』を抱きしめて、ベットのマクラ脇に積んである『スプリガン』の八巻をドキドキしながら読んでいました。御神苗(おみなえ)カッケ―。つえー。彼氏にしてー。…が、少し気を抜くと、この本を貸してくれた、あの小柄で、でも芯はしっかりしている、涼風さんのあのピンと張った背中が、脳裏にチラつきました。
 どうしたらいいかなど、私の手に負える事では無いのは解っていますが、それでも自分の無力さ加減が嫌になってきます。なんと自分という存在はちっぽけなのか、せめて、少しでも力になれる事はないのか…無いに決まっているから、こうしてマンガを胸に広げて、白いこの天井をぼおっと見ているしかないのですが。

 その時、自分の住んでいるアパートの誰かの訪問を告げるチャイムの音が聴こえました。
 今日は随分と早いですね。なにかあったのでしょうか?
 父の帰りが随分と早い事に少し驚きながら、まず用心のため覗き穴からドアの向こう側の人間を確認します。そして、すぐに違う事に気付きます。―父では無い?
 私は、その宅配業者でも、セールスや新興宗教の勧誘でもない、一種独特の雰囲気を持った男二人に、その服装に嫌な予感みたいなを全身に走らせつつ、私が「どなた様ですか?」と尋ねると、その内の中肉中背の方の一人が、覗き穴から見えるように、懐から取り出したソレをパカリと開いて見せます。見せなくてもこちら側としては解りきっている事なのですが、恐らく規則で決められているのでしょう。彼はこう言いました。
「ここは、狸宝葉(よう)平(へい)さんのご自宅でお間違いないでしょうか?」

 私は、ここで違うという訳にもいかず、しかし、その返答をしてしまったら、きっと恐ろしい何かが始まってしまうような気がして、中々口がいう事を聞きません。それどもやっと出て来たのは「はい」というたった二文字だけでしたが。そして私の覗き穴ごしにその存在を主張している物は、おそらく私は見たのは二度目のはずでしたが、それは自分にとっては幼すぎていて、実際にはドラマでしか見たことの無い物でした。そしてその金に輝く「犯罪に噛みつく猟犬」の印は、私の心拍数をどんどん上げていきます。
「父に…、狸宝葉平に、何かあったのですか…?」
 母の時は、母の訃報を聞いて泣きました。
 場違いにも、今私があの時と同じように父の死を聴いたら、泣くだろうか、泣いて泣いて、そして立ち直れるのか、そして親族の助けを仰がなければならないのだろうか、彼らは母と私を快く受け入れてくれたけれど、今また高校の残りの学費を払って、大学には行けるような余裕は父が居なくなったら無い。そんな私達に彼らがそんな大金を払ってくれるような余裕のある家は無いだろう。そうなれば、奨学金を得るためにもっと真面目に勉強するしかない。いや、父がもし事故死ならば保険金が下りるのだろうし、それで何とか食い繋いで、高校を卒業したらすぐに何処かで働けばいい。何とかやっていくしかない。後で考えれば、その時点で相当なショックを受けていたんだと思います。頭の感情を司る部分が停止して、行動とその結果を冷静に他人事のように考えられていただけで、いかに私が『父の死』というモノを思い描き、いや思い描けずにそこで頭だけではなく呼吸も、動作も、相手の声も、全く理解することがなかったのですから。
 私は、そんな理性と呼ばれる機械のような思考状態から回復していくと同時に、得も言われぬ衝動が身体を貫き、チェーンロックをがちゃがちゃと五月蝿く乱暴に外すと、その目の前のまだ若めの警(・)察官(・・)の服の襟もとに両手を使って持ち上げながら、金切り声が出ているなあと何処かで冷静に自分を見ている様な錯覚に陥る程に、私にしては取り乱していました。〈うちの父に何があったんですか!?〉〈無事なんですか!今は何処にいるんですか!?〉〈様態は、どの病院にいるんですか!?〉そんな声が頭のどこかでガンガン鳴っています。
 その取り乱し様に、もう一人の大きな眼鏡をかけた背の高い、ひょろっとした警官が、私の両脇に後ろから腕を通して、私をその中肉中背から引き剥がします。彼は「落ち着いて聞いてください、先ずはそれからです」と言って、どうどうと両手を下に下げるジェスチャーをして私に冷静さを取り戻させるように言います。私も暴れようにもこの後ろの警官がまるで私の身体の一部になったかのようにしっかりとホールドしてしまい、急速に私の頭も冷えて行きます。
 それを確認した所で、その中肉中背は「私は○○署、交通安全課勤務の諸星(もろぼし)と、あなたの後ろのそいつは阿(あ)足(たり)巡査です、あなたが、狸宝葉平さんの娘さんの田優さんでよろしかったでしょうか?」と低めに話しかけてきます。恐らくこういう風に取り乱した人間を何人も相手にしてきたのでしょう。とても聞きやすく、また安心感を与える声だな、とこんな状態であるのにも関わらず、感心してしまいました。
「それでなんですが、申し訳ありませんが署までご同行願えませんでしょうか?」

ー一瞬、この男はもしかしたら本当に私を警官の恰好をして馬鹿にして遊んでいるのではないかと本気で疑いました。自分の頭も、そして耳も。


「…父は、事故にあったのでは…無いんでしょうか…、それとも、何かトラブルにでも、巻き込まれたのでしょうか……」

 虚ろだったろう私の空洞のような瞳に、その中肉中背、―諸星―は、告げるのが、これから私に背負わされる何かとてつもない重石を乗せる宣言であるかのように、押し黙りつつ、決心がついたのか、そんなぽっかりと空いた暗闇のような私の眼をじっと見つめて、言った。

「あなたのお父さん、―狸宝葉平さんは、先程」一端区切り、唇を少し舐めて再度言いました。

「車を運転中に、信号がよく理解できなかった老人ホームから徘徊していた八十二歳の飛騨(ひだ)根(ね)エツさんを轢いてしまい―」
ワタシハ、モウ、イミヲリカイシテイハ、イマセンデシタ。

「―過失致死傷害罪で、現行犯逮捕。今、我が署にて取り調べを行っている最中です。見通しの悪い所、しかも飛び出しだったという事で状況的に運が悪かったとも言えますが、葉平さん自身もそれに対して全くの無反応だったという事もあり、よそ見運転だった可能性も高いと我々は見ています。それと…残念ですが、被害者の飛騨根さんは病院に運ばれたのち、死亡が確認されました。老人ホームでは今確認の者が向っています。事情を詳しくお話ししたいので、お手数おかけしますが、署までご同行、よろしいでしょうか」


『殺されたのではなく殺した』というのに、こんなにまで同情されるとは、私は泣く前に笑ってしまいそうになっていました。


―ふざけるんじゃねえぞ、くそ野郎(運命)が―

〈第二幕〉《絶望》の成分。『性格』二割。『環境』三割。そして、『五割上の運の悪さ』、らしい。


 なかなか人と言うものは変わり身が早いと、私は感心しました。
 それまでは私は、多少周りから浮いている所はあったものの、そんなに誰かから嫌がらせを受けたりだとか、あるいは露骨に避けられるみたいな事はされてきませんでした。退屈に人生と言うものは進んで行って、いつの間にか中年になって適当な男とありきたりな恋愛の果てに安定志向に乗って中流階級(今やこの言葉がどれほど尊いものだったかを感じない人は居ない気もしますがあくまで例えとして)でワイドショーと芸能人の恋愛離婚話を煎餅かじりながらソファに横になってテレビの恩恵を余すところなく受けたお腹で来月の同窓会に向けて急いでダイエットメニューを考えるような、そんな「一般人」な人生が待っているのではないかなあと思っていた私にとって、この夏休みまでの残り二週間は私のそんなこれからの人生計画を、思いっきりレールから吹っ飛ばしてくれた感がありました。
 あの日―あの勤勉実直、温厚誠実を絵に描いたような父が、老人ホームから抜け出した痴呆症のお婆さんを車で轢いてしまい、結果殺してしまった事件から二週間。
 父は過失致死容疑で書類送検されたものの、状況の悪さ、老人ホームの対処能力の悪さ、そしてそのお婆さんが飛び出してきてしまったタイミングの悪さと運の悪さ。それらと今までの父の生活態度や職場での勤務態度、それらを総合して判断し、執行猶予がついたのはまあ当たり前と言えば当たり前です。百円玉を拾ってそのまま交番にまで行った時には、私と母でしばらくからかいの言葉には困らない程の爆笑をさらった男なんですから。

 そんな父と私は、今、どん底に居ました。
 別に気取った言い方でもないと思います。
 父は社会的信頼を完璧に失い、既に会社を辞めていました。
 辞めていると言ったのは、それまでの会社での態度と功績、周りの同情などによっての、解雇では無く自主退社という形を取らせてもらったからです。
 そして人の事を本当に大切にしていた父には、そんな他人からの侮蔑の視線より何より、どんなに不運が重なったとしても、自分が人を、それも痴呆を患った老女を轢き殺してしまったという事実が、父を別人のように変えてしまっていました。
 元々飲めない酒を飲み、吐き、自殺をほのめかす毎日。
 母を呼び、泣き、喚き、その轢いその老女に届かない謝罪を繰り返す毎日。
 私は、そんな父の背中を抱きしめ、撫で、絶対に死ぬことだけはしないでくれ。私を一人にしないでくれ、と説得し続けました。これにはもちろん我が子を残して一人死ぬのは、亡き母にも合わせる顔が無くなってしまうという、罪悪感によって現世(ここ)に生を留まらせる事を利用したものであることは否定しません。ただ父が踏みとどまってくれるのならば、私はどんな演技でもしたでしょう。
それが私です。狸宝田優という人間です。嘘を平気で利用し騙し使って、大切な人をどんな形であれ引き留めておきたい、そんな弱い人間です。例え、そこに『どれほどの真実』が含まれていたとしても。
 私の机には、今数えただけでも両手の指以上の落書きがとても芸術的とは言い難く刻まれています。あと、机の中には様々なものが入っています。ごみ、ごみ、ごみ、ごみ、ごみ、あと、ごみとかです。
 よくもまあここまで態度を一変させることが出来るものです。
 一応私自身は交流はさほど多くなくても彼らをクラスの仲間と認識してはいたのですが、向こうはそうでも無かったようです。
少なくとも私が考えているよりは、机に「逝ね」「ばあさん殺してるくせによく来れるな」「お前の親父みたいのがいるから社会がどんどん悪くなってくんだよ」「澄まし顔してんじゃねーよ」「売女」「すいません、もう来ないでくれませんか?」という言葉を彫ったり書いたりしてもいいと思う程度の存在だったという事でしょうから。
 タクアン先生には、最初から話しておきました。「恐らく、こうなるでしょうが、返って教師が抑え込もうとするほど、事態は悪くなっていきます、今は大丈夫なので、放っておいてください。これ以上事態は悪化はしないでしょう、私が余計なアクションをしない限り」と。タクアン先生は悲痛な面持ちで、私を見つめました。そして「…お前は強いな、狸宝。そして……優しいな。凄く解りにくいが、俺はお前ほど本当に強くて優しい奴には初めて会ったよ……。授業にまで差し支えるようになったら、俺も流石に動かざるを得ん。教師失格だが、確かに今は状況が悪い。
下手に余計な事をすれば、更にお前の状況が悪くなっていく事は確かだ。高校生は、何だかんだチャラチャラしているように見えて、その実、物凄い正義感で溢れてるような年頃だ。それが勢い余っちまう事がどういった事になるかまでは考えられねぇんだけどな…。
俺が高校教師をして一番良かったと思う事は、生徒がいい意味でも悪い意味でも青臭い事だ。昔の何か大切なものを、人として忘れかける『何か』を呼び覚ましてくれる所だ。
 …狸宝、お前はきっと、大人なんだろうな、周りの奴に比べて、〝世の中の不条理〟って奴を肌で感じて生きてきたんだろう。だから解る。周りが良く見える。今されている事ですら、受け止めようとしている。…だが、人間ってのはな、どんなに歳が若いながらも社会をよく知っていようと、十七歳は十七歳なんだ。そこだけは、どんな時代でも変わらねぇ。ガキは、その時その時に対して誠実に、全力でガキであるべきなんだよ。…だから狸宝、お前だけそんなハズレくじを引いちまっても、それにただ耐える必要なんてのは本当はねぇんだ。
 だからこれ以上何か困った事になっちまったら、すぐに俺を『使え』。そのために、俺達教師ってのがいるんだからな。」と言ってくれました。
私はこの人が両手でお婆さんに拝まれる理由が少し、解った気がしました。


 どんな境遇に陥ろうとも、人間、慣れてしまえば何とか生きていけるものだと、私は生きていけるのだと今まではそう『過信』してしまいました。でも、今回の事から、自殺をしてしまう人に対する〝情けない〟、親からもらった身体を、大切な誰かを残して自分勝手に死へと向かってしまうなんてなんて〝親不孝〟なんだ、皆そうやって苦しんでいるのにあなただけが辛いわけじゃないのに!しっかりしろ、そう思っていた私は今は遥か彼方へと旅に出ており、二度とそんな解った口など叩けなくなったことは、確かでした。

 死んでしまうか。
 そう思いながら、今日も五時頃に泥酔して帰宅し、私に色々と欠点を主張されたり、怒鳴られたり。しかし、どうにも怒るという事自体にも慣れていない父には、その言葉よりもその言葉で自分の心を更に切り刻んでいる、その歪んだ父の顔を見るのが、私は堪らなく悲しくさせました。
 学校へ行くにも今までにない緊張と、存在を無視され否定される事への恐怖から、毎朝朝早く起きて、トイレで吐き、口の中に広がる胃液と昨日の夜の食材で口の中を不快で最大限にして、急いで口をゆすぎ歯を磨き、もう二度と起きてこないのではないかと不安になりながら父の寝室に行き、いびきをかきながら熟睡している父を確認しほっと息をつきながら腹にもたれないようなヨーグルトや果物、それらを食べたり、ミキサーでジュースにして飲んだりしていました。
 二週間前に比べて、私の体重は五キロ落ちていました。
 あまりにかかってくる自称〝正義の味方さん達〟からの有難いお説教を聞かされるために抜いた電話線。携帯には誰からかすら解らない、誹謗中傷が並んだメールや電話が来るため、全ての携帯の番号を非通知にし電源を切って放置しました。
 学校に行けばそこには私がドアを開けた時に起こる一瞬の静寂と、その後のそんな事があった事すら否定するような騒ぎっぷりに、私は『いじめ』とは確かに人を死なせる力がある事を初めて肌で実感しました。
 机の落書き中のゴミ。ワザと聞こえるような陰口にわざとぶつかって来て「死ねよ」とぼそりと言われる。クラスでご飯を食べる勇気も無く、(吐いてしまうかもしれなかったので。)広めに作られたその屋上で日陰に座って自作の、腹持ちのいい野菜ジュースや小さいお握りが二つ。それを空を見上げながら食べていました。空は私を吸い込むように薄く穏やかな海の凪のようで、吹いてくる風に身を任せながら、私はずっとそのままでいました。   
 目から落ちる何かの勢いが少しでも遅くなるようにと、馬鹿みたいに思いながら。

 勉強している時が、私が一番気楽でいられる時間でした。
 その間は授業に集中していればいいし、何しろその学問をしっかり聞けるという、いわば雑念の入らない、よりその内容の理解度が自然と高まる結果にも繋がったのです。これから恐らく一生の間、まともに時給がよかったり、一般就職が出来るとはほぼその時にはもう不可能であることは明白だったので、ああなってしまった父に代わって私達二人が肩身を狭くしながらも社会でなんとか暮らしていくためにも、生活できる最低限の収入を得るために、「知識」と「教養」がモノをいう事をはっきりと感じたからです。
 勉強して損をすることはないと、今の私にはもう真理、真実にまで昇華していました。
『一般道路』では無く『あぜ道』を走るための、舗装もされておらずガタガタいう世間(道)を上手く乗り切っていくための、生き残るための知識(武器)として。
 何よりもその時ばかりは、私はクラスに居ても良い時間だと、存在していてもいいのだという理由を作ってくれたからかもしれませんが。

 学校が終われば、私は一番早く教室を飛び出して家路へと向かいます。
 父がどうなっているかも心配でしたし、周囲の(あの狸宝さんがそんなことするなんてねぇ…、あの子も可哀そうにね、これからどうなるのやら…)といった会話をもう聞きたくない。そんなどす黒い思考を振り払いたいと思ったし、何か家でしていれば、何か時間を潰すことをしていれば、まだ気は紛れるのではないか。そういった希望もあったのかもしれません。まあ、結局家でも部屋で仰向けになりながら無表情に死んだように天井を見つつ、また見てなどもおらず、何も聞こえないような。何も感じないような。これから先、何も自分の心を動かすものが無いような。そんな気分になるだけなのでしたが。
 その日、私はいつもの様に一階にある『狸宝』と書かれた郵便受けから今では少なくなってきた「謝罪しろ」とか「償うべきことは人としてきちんと償え」などの〝お説教お手紙〟をパッと見てパッと近くにあったごみ箱に裂き捨てます。〈正義の味方〉にも『賞味期限がある』事を教えられた貴重な体験をありがとうございました。このクズ虫どもが。

 家のドアを開け、すぐさま父の様子を見に、寝室に行きます。
(―よかった…)二週間毎日繰り返しているはずなのに、まだ私はこうやってその場でくずおれそうになるのです。もしかしたら、こういう事に対してだけは人間という生物はソレ(・・)に慣れないように初めから脳にプログラムされているのかもしれないと思ったくらいです。
(生きてま、す…)
 かくん、と。
 膝が折れそうになる程に、その場にぐったり倒れ込みそうなのを堪えて私が安心していると、父が昔からは想像すら出来ないほどのだらしなさ、髭や鼻毛をだらしなく伸ばし、べとついた髪の毛にフケが雪の様にぱじゃまの肩に降っている、でもそれでもまだ生きて呼吸をしていてくれる。それだけで今の私には十分でしたから。
 父は眠っていました。ベットで、静かに、寝息を立てて。
 そしてそれが収められているものを壊して割って怪我をするんじゃないかと心配になったほど、強く強く。
 その胸の中に―母の遺影を、抱いて。

 私は自分の部屋に走りました。
「掃除をしないと部屋でくつろげない」という、半ば病気じみていた私の部屋は、今では見る影もなく物で散らかり溢れ、太陽がまだその存在を忘れ去らないでくれと主張するかのように、その夕日の美しさから自分の身体を守る様に、私はカーテンは閉め切り窓も締め切り、クーラーの電気代を「これから」の事を考えて点けないようにしていたため、熱帯、それも木々が生い茂るジャングルの様に熱気がドアを開けた瞬間に私へとぶつかってきます。構わず勢いよくドアを閉まるスレスレの所まで引っ張り、閉じるときだけ静かに音を立てないようにドアを閉めながら、そのまま何も考えずベットへとダイブして、薄い夏用布団を頭からかぶって抱き枕を千切れるくらいに引き寄せて、そのキャラクターを猟奇殺人鬼のようにその頭を、噛みつきました。
 嗚咽が、外に漏れないように。父のあの姿を、忘れたくて、忘れたくなくて、よく解らない気持ちがつまった胸(ここ)を。
 この胸に詰った何かを、父に気付かれないように。

「こんぐらいで泣くんじゃないわよ!」と天国の母に、叱られないように。



 そろそろ、タイムサービスが始まります。 決戦の時間です。
 私は、近くにあるスーパー『ハウンド・ドッグス』へと、徒歩で向かっていました。
 このスーパーではその店の由来でもある、その日に近所に配られる激安品を、一緒に書かれている超難問クイズを読み解くと、その日のタイムサービス時の値引き額から更に安くなるという摩訶不思議な店なのですが、私たちは正にその〝バウンティ―・ハンターの僕(しもべ)〟である猟犬のように、そのパズルを読み解く〝頭脳〟とその戦場でいかに多くの激安品を嗅ぎわけるかの〝嗅覚〟を最大限に駆使し、獲物を捕らえる一人の狩人になります。
 どくん、どくん、どくん。店に近づく度に、私の集中力は一気に高まっていきます。
 音が消え、その代わりに思考がクリヤになっていきます。今の私に失敗は許されません。
 父の失業手当や一応出た退職金はありますが、そんなものはいつ消えてもおかしくない日差しの中の雪みたいなもんです。溶ける速度を遅くする事。それが、今私に唯一出来る現実(リアル)への反抗だったのです。
 店にはもう私と何度も死闘を繰り広げてきた歴戦の猛者達(ストロンゲスト・オバタリアンズ)が、私への皮肉と敵でありそして戦友(同輩)である親しみを込めてニヒルに笑われます。私も「いたのかよ、気付きもしなかったゼ」とやり返すようにニヤリと笑いました。
 …なんだか、今の私の現状を知る人間達の中で、一番気持ちのいい人間関係かもしれませんねコレ。
なんだか〝人間とは何か″というテーマで、今ならこの事を題材にした傑作文学作品すら書けそうですよ、私。

 ―そんな事を少し妄想していたら、腕時計は七時を指そうとしている所でした。
 私達は自動ドアの前になるべく横一列になるように並び、始まりを静かに待ちます。奥から今日の担当らしき店員さんが厳かに表れ、入り口の邪魔にならない右の端に、『タイムサービス&・ドッグ・レース、開始(スタート)十秒前』と書かれたボードをゆっくり置きます。
 各々は、手首を曲げたりストレッチをしたり、静かに目を閉じ集中したり身体全体を揺さぶって軟体動物のような関節を隅から隅まで連動させるかのような動きをしたり。それぞれが〝最もいいパフォーマンスを出すための儀式〟をします。
 私は、目を閉じて、体中に走っている神経線維を頭でイメージし、その電流が指先に集中していく感覚で指を滑らかに滑らせます。―負けられない、絶対に。―
 私はその店員さんがゆっくり左手を上げ、その黄色のホイッスルが鳴り響くのを、耳では無く振動として身体で感知します。
 天を割くような高い笛の音が空に消えていきます。
 ドアが開きます。前傾姿勢にした身体は、バネの様に弾き出て、店内に飛び込みます。

―今日の超特売、それは、名店『流石屋』の高級醤油増量パック、一個『四十』円ッ!  

―戦場の臭いに、私は久しぶりにいつもの『狸宝田優』に戻っていきました。
 あ、もちろん勝ちましたよ。
  私の指先はいかなる物でも一度捕えたら絶対に逃しませんからね。
それが例え、一度敵の手に渡ったものだとしても、決して例外では無いのですよ。


「何をしているんでしょう、私……」
 今はちょうど八時を回った所です。
 あの激戦を勝ち抜き、何とか『流石屋』の醤油四十円を二パック手に入れたはいいものの、(一つはこの指先で華麗に、その〝最強の戦士の一人〟と謳われる『人間包丁の松田』から、〝きかん坊の息子二人を育て上げた剛腕から繰り出される手刀〟の相手を、新参者ながらダークホースの頭角を徐々に表してきた『元保育士の美人新妻、新島』に誘い合わせ、その〝一瞬の隙をついて擦り取った物〟です)それを手にする事だけ考えてしまい、肝心のそれをどう持っていくかまでは、全く頭に浮かべていませんでした。一つ言えるのは、今、私の両手は「地面に落ちたいよう」と言う彼らを何とか重力の魔の手から防ぐべく、手を真っ白にしてぷるぷるさせながら何とか家路へと向かっている所でした。
 計五キロ近い荷物を何とか横に前後にふらふらさせながら、私はその足取りの重さはただ物理的な重さだけではなく、家に帰りたくない、そんな心理も働いているんじゃないかと激戦で疲労した頭で私は考えていました。少なくとも、母の遺影を抱えたまま眠る父に対して、娘である私に、かけられる言葉など有りはしないのですから。
 暗い夜道を、えっちらおっちら揺れながら私は歩きます。右手には小さな公園が、街灯の明かりでぼんやりと浮かび上がっていました。しばし、私はその場で足を止め、じっとと見つめました。幼い頃、母とこの公園で遊んだことが頭をよぎったからです。あの時、私の方が先に逆上がりが出来た事を本気で悔しがって、私が「もう帰ろうよ~ママ。お父さん、帰ってきちゃうよ?」と言うのに対し、「私が出来るまで絶対にどっか行くんじゃないわよ!くそったれが、なんで昔からこいつだけは出来ないのよ!なんか私の時だけ誰かが鉄棒に細工でもしてるんじゃないの!?だっておかしいじゃない他の事は普通にできるのにこんな基本中の基本が出来ないなんて!誰かの見えない意志が私の逆上がりを邪魔しているんだわ!そうに決まってる!…じゃあ、誰が…」くるり、と。私の方にその瞳を向けてくる母に、私はぶんぶんぶんぶぶぶん!と、自分でも解りやすいくらいに怯えながら、首を振りたくりました。
 ―その瞳は、どんなものでも飲み込むかのようなぽっかりとした暗闇が広がっていて、得体のしれない恐怖が駆け巡ったのを今でも鮮烈に思い出せます…というより「自分の娘が自分の鉄棒の逆上がりごときが失敗してしまうよう細工をする、という可能性を本気で肯定しそうになる母」に恐怖したのかもしれません。
 逆上がりの出来ない事という事は、母にとって超局所的なコンプレックスを産み出していたようですが、何故かは知りませんでした。
 ある時、父が母とデート(同棲していたので、ニュアンス的にはお出かけみたいなものの様だったらしいですが)この公園で、目の前で『大車輪』をやって、得意顔で「どう」、と誉めてもらえるかと思ってやったら、母も「それくらい何よ」と言って、逆上がりから連続回転をしようとして、そのまま前方に宙を描くようにジャンプ。顔から砂場にめりこむ。しかも顔には猫がしたと思われる○○○が付着し、父は笑いを口の内側の肉を強く噛むことで制御しようとして完璧に失敗。その歪んだ顔を母は目にも追えない右ストレートを父の顔面に叩きつけ、父がその噛んでいた口の肉を更に噛んでしまい、血を出しながら地に沈んだ話には爆笑し続けて腹が本当に二、三日痙攣し続けて、上手くご飯を食べれませんでした。
 その日から逆上がりの練習をこっそり毎日続けた母は、結局生きている間、私にその成果を見せてくれる事はありませんでした。
 少し涙ぐんだ私はその光景を眼に映しながら、そっと離れます。
 母のあのばたばたした脚があった鉄棒は、今は錆びてきっと触ったらざらざらして、きっと掌を痛めてしまうのでしょう。それでも触りたかった。でも触れなかった。
 母の体温が、残っているように思えてしまいそうで、とても怖かった。こつこつとした足音は、そのまま、母との私の間にある、目に見えない距離のようでした。

 口を塞がれたと解ったのは、その掌からする独特の汗の臭いが、鼻全体を覆ったからでした。

 私は頭が真っ白になります。そして即座に自分の置かれている状況を理解。把握。抵抗。しかし、相手は私の頭一つ分は高い男であるのは、目の前に伸びた街灯によって伸びた私の影に重なる影の長さが、私よりも遥かに長かったことからも解りました。
 そして私の口を塞ぎ、尚且つ公園の方へじりじりと声も出せない様に完璧に口を密閉しつつ鼻はちゃんと息がしやすいようにする配慮が尚私の怒りを増幅させます。その男の他に、もう一人、男としては小柄な背丈の小太りの顔も丸い体も丸い、の割に指先は細く、そんな指フェチにしか女にはアピールポイントがなさそうな不男がニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべて私の脚を持って宙に私の身体を二人がかりで持ち上げます。私の口を塞ぎながら器用に私の上半身をロックし公園の草むらへと持っていくその技術をもっとマシに使えと叫び出したかったのですが、もちろん口にはガムテープよりも発声するのが難しいこの状況では唸り声にしかなりません。えいこらさっさ、と私は昔の駕籠の様に運ばれていきます。何をされるのか明らかな、その公園の奥のグッド・スポット(レイプ場所)へと。
「おい、早くやっちまおっつうの、俺オナニーこのために一週間我慢してんだっつうの、はち切れそうだっつうの、早くヤラセろっつうの、早くガムテープと結束出せっつうの!」
 小太りの男が実はわざと頭の悪い事を周りに示したいんじゃないのかと言わんばかりの語尾と最低さを出して、もう一人に呼びかけます。
「わかってる、よお。そんなに大きな声、出さなくて、も、さあ、僕、おおさ、えてるから、は、早くく道具、とと、ってよ」
―…こいつが、手下、なのか、よ。
 背格好から見ても、見てくれからしても、普通の感性ならばどこをどう取ってどこをどう見てもこいつが主犯にしか見えないんですが。人間は解りません。101匹わんちゃんのあの小悪党の二人組とは中身は一緒でもまるで逆バージョンなんですねー、こういう人間は自分が普通に生きていても女性にまるで相手にされないので、こういった犯罪に走るのでしょうか。男ではないので私には全く想像がつかない世界ですが、一応私は彼らにとっては性の対象になり得る見てくれだったということなのでしょう。これが何処かのパーティーか何かの社交場で、彼らがそこに参加しているブランドスーツの爽やかなスポーツマンの御曹司だったら、私も多少は自尊心が満たされたかもしれませんが。
「―ちゃんとビデオ撮っとけっつうの、ヤった後も楽しめるし、脅しと俺たちの身の安全にもなるっつうの」腐り切り過ぎて逆に爽やかさすら感じました。嘘です、今すぐこの場で切り刻みたいです。その口に切り取った○○○(ピ―)を突っ込んで無理やり飲み込ませたいです。そんな私の妄想などまるで知る由も無く、彼等二人は両手首を結束し、ガムテープも私の鼻も押さえて息が止まり、その限界の直前までされた状態から一瞬手を離された瞬間に叫ぶことも忘れ大きく息を吸い込もうと口を大きく開け、それと同時に切っておいたガムテープを滑らかに口に貼るという段取りの良さ。…こいつら絶対これが初犯じゃないです。他に何人こうやって罪なき女性達を傷つけてきたんでしょうか。女性にとって、好意を持っていない男性に触られること自体、耐えがたい苦痛な事を知っているのでしょうか?触られた後に、触られた場所をごしごしと洗っている事すらあることを知っているのでしょうか?
「じゃあ、ああ兄貴からら、やって、いい、よ?」
 そしてこの行為の後、私が死ぬことを既に決めている事を、彼らは知っているのでしょうか?かちゃかちゃという、小太りの男が焦りながらもベルトを外している音が、私の顔から気付かぬうちに頬を涙が横に流れているのが分かります。そして、この場に場違いの極みとも言える笑みをガムテープごしに浮かべてながら。
 ―ここまで最悪が続くと、人間って、笑うしか無いもんなんですね。はは、ははは。あははははは。
「くっ、とっ―」誰か。
「あ兄貴、焦、りりすぎだ、よ、ファスナーが、噛んじゃ、ってる」誰か。
「わかあってる、っつーの!今外してるんだろーが!」誰かお願い。
「よし―、じゃあいく―」―助けて。

 その小太りが、私の前から左から右へと消えました。
 それを見ていたのっぽも、それとほぼ同時に私の頭の後方へと吹っ飛んでいきました。

 ―何が起きたのか解らないような小太りに、認識の暇さえ与えず、今度は強烈なフックでその丸い顎を揺らして、小太りは、かくんッとその場に膝をつきました。揺れているらしい脳を支えようと片手を地面に着け、もう片方の手を頭を当てて唸り続けています。それを見ていたのっぽはやはり格闘技の心得があるのか、たどたどしくもボクシングの構えらしきものを取りますが、私の救世主らしき人は、鼻で笑うと凄いスピードですぐさまのっぽへ踏込み、その左のみぞおちへと左拳を叩きつけます。そのまま仰向けに倒れ、「が、がが、がッ…」と、殴られたところを押さえてばたばた暴れ苦悶の表情を浮かべるのっぽ。
 そんな二人を見下ろしながら、救世主はただ一言、こう、言いました。

「消えろ。」

 彼等がすぐさま退散したことは言うまでもありませんでした。


                ☮


「本当にありがとうございます。いえ、本当に。とりあえずこれでもお納めください。せめてもの感謝の気持ちです…」
「―ありがとう。美味しく頂くよ。実はかなり喉乾いてたんだよね。」

 あの後。
 私はガムテープを外してもらい、今こうやって、ベンチに私と私を救ってくれた救世主(メシア)さんと隣通しで座っています。彼は上を黒のジャージの上下を着ていて、今はその上を脱いで、鍛え抜かれたその見事な真に惚れ惚れするような細マッチョな肉体をUA(アンダーアーマー。あの身体にぴっちりと張り付いているようなウェアの事。ある意味女性にとって非常な〝萌えポイント〟です。)で包み、オンナノコ受けしそうなその柔和な笑みをその整った顔に浮かべていました。ボクシング的な眼の良さと、日常生活の眼の良さは少し違うらしく、彼はその遠視らしき目を細めながら、毛先を立たせ、スパイキーにしたショートヘアに中性的な顔が今時のモテ男の代表みたいな雰囲気を醸し出しています。優しさとやんちゃさを適度に混ぜ合わせたような高校生。そんな彼はかしゅっとブルタブを開け、その汗で湿ったUAを私に見せつけながら、上半身をぐいっと後方に反らせて、一気にそれを飲み込みます。私はその光景を見ながらどきまぎしていました。なんたって、私の隣にいるのは、まぎれも無く、私には〝王子様″といっていい、存在だったのですから。


 天(てん)映(ばえ)翔(かける)。
 アマチュア男子ボクシング界の超イケメン。そして去年のインターハイでは個人では一年生ながら三位を手にし、見てくれだけでは無い、本当の実力を持った選手として今年も期待されている。…らしいです。何処かで聞いたような名字な気がしますが、多分何かで読むなり聞くなりしたのでしょう。珍しい名字ですから、もしかしたら昔の作家さんのペンネームか何かと、一緒だったのかもしれません。
 私は、結束が解かれた状態で、(流石にこれを切れるものは無いと思っていましたが、先程の間抜け二人組がヤった後に使う予定だったハサミが落ちていた時には、安堵で全身が脱力しました。父に見せたら間違いなく事情を察して卒倒、自殺の道へと一直線!となりかねませんから。そして天映さんにそれを使って切ってもらったのでした。)その公園に置かれている自販機から、〝ペプシコーラの、増量お得ロング缶〟を百円玉一つと、十円玉二枚をまだ少し動揺が残っているのか震えていた手で入れ、がこんと落ちてきたその缶を取り出し、天映さんに渡しました。彼は嬉しそうにそれを飲み―そして今に至る、という訳です。強姦されそうになった所を、カッコいい白馬にすら乗っていないけれど、文字通り風の様に颯爽と、私を救ってくれた人。
 今では違う意味で、私の手は少しだけ震えます。顔が見れない。恥ずかしい。うう、こんなに乙女な回路があっただなんて、自分自身が一番驚いていますよ。『ときめきメモリアル』なんてゲームが昔流行ったと聞いた時には、男性はやっぱりそういったときめかせてくれる女性が好きなんですねぇー、ま、でもそんな生命体はおそらく現実には居ないでしょうが。なんて思ってましたが。いましたよ、ここに。滅ッ茶苦茶ときめいている馬鹿な女が一人。
 嫌な事が砂粒の様に層になって蓄積されていたせいか、その風は一気に砂を払い、飛ばし、私の心を正常に戻してくれていました。
 彼と一通り話をしていく中で、気付かぬうちに、私は自分に今起きている事をぽつぽつと話出していました。母はもう既に他界している事。父が誤って老人を轢き殺してしまった事。そのせいで社会的に抹殺されてしまい、職も失い、今現在鬱に近い状態で酒を飲み、酔い、寝てばかりの生活になってしまい、以前の父とは全く違う生き物になってしまった事も。話している内に、私は涙腺が緩んでいくのが解りましたが、そこを根性で乗り切りました。
 今泣いたら、きっと、もう立ち直ることは、出来そうにありませんでしたから。
 天映さんは、コーラを飲みつつじっと私の話を聴いてくれました。そして「辛かったんだね…」と言ってもくれました。恥も外聞も無く周りが夜の静けさを愛そうとしていても、全く関係なしに号泣したい気持ちになりました。そこをぐっと堪えて、私は何とか笑みを作ります。「聴いていただいて、有り難うございました。」

 そんなこんなで、気付けば十時を回っています。
 そうだ!晩御飯!!父さんが何か食べ物を買って来ていたら、食費がかさんでしまう、今日の激闘の意味が無くなってしまう!
 そう気付いた私は、道路に落ちて多少痛んでしまった野菜類や本日の戦利品である醤油など入れ直したマイバックを両手で持ち、その重さに再びよろけながらも、私は今まではびこっていた暗い感情に一筋の光が広がっていくのを感じて、レイプされそうだった事も忘れ、その軽くなった心のままに天映さんにお礼を言いました。
「ありがとうございました、天映さん!この恩は一生忘れません。今年のインターハイ、頑張って下さい!」そう言って、もう走ればすぐの私のアパートに着くので、息を切らせながら父の状態への不安がまたむくむくと大きくなり、急いで部屋に入ります。…また鍵をしていません、別に盗まれるような物もありませんが、それでも不用心には変わりありません。でもおかしいですね、朝は確かにかけたのですが。―まさか。
「父さん!?いるんですか!?」
 そう呼びかけて、私は自分がこの上なく焦り、最悪の事態を考えてしまい、そのまま叫び続けます。「父さん!父さん父さん父さん父、さんッ!!」部屋を次々と開けて、私は父の姿を探します。居ない。ぺたん、とその場にへたり込み、嫌な想像は留まることなく、そして際限なく、増殖していきます。―死に場所を探しに行ったの、ですか。今日こんな日に。私が犯されかけた時、に。こんな、私を、置いて、ひと、りで?
「…―ざけんじゃ、ねえぞおおおおおおおッ!」
 私は玄関の方へと突進します。わざわざ入る時に揃えた靴を掴んで下に叩きつけ、それをまた手で揃え直して、履くために座って眼は前方のドアを睨みつけています。何故こんなに私は怒っているのでしょうか?父を失うのが怖いから?父が居なくなった後の孤独感に責められるのが怖いから?自分ばかり先に楽になろうとするというその卑怯さが憎いから?―もうあんな父を誰も助けてくれもしないこの世界が、憎い、から?
 靴を履き直し、そのままドアノブを乱暴に開けようとした所で―『じゃー』…じゃー?
 私が振り返るとそこにはきょとんとした顔をした―私は一瞬誰か解らずにドアが開いていたことを理由に、まさか不審者かと思ったほどに久しぶりに見た―
「…どうしたんだい、田優?」

 髭を鼻毛を体臭を綺麗にして、寝癖もフケも酷かった髪もちゃんと整え、その小柄ながらも抜群の運動神経を持つ、そして母と私の、精神的な拠り所でもあった、穏やかな性格を表すかのような太い眉と垂れた眼。そして丸い大き目の眼鏡をかけた四十後半の、男性。 
 これから、もう二度と出会えないと、諦めていた、私の、大切な人。
「…それはこっちのセリフですよ、『父さん』…」
 以前と同じ姿でトイレから出て来た、私の父、狸宝葉平がそこにはいました。



「今まで、本当にすまなかった、許してくれ、田優。」
 そう父は風呂上がりのパジャマ姿のまま、居間でテーブルを挟んで話始めました。
 私も特に何も父に対し責は無いと思っていたので、
「気にしないでください、私も父さんがこうやって話してくれているそれだけで、充分救われましたから。」
 そう返しました。今は返って喜びを感じている程でしたから、ほぼ一〇〇%本音です。唯一気になったところと言えば、「お前はどうしてそんなに何を喰っても太らないんだ!」と最近腹回りを気にしていた父に言われた一言でしょうか。
 これでも気を付けてんだよ!一応私だって女なんだよ!ダイエット記事には自然と吸い寄せられるくらいには女子高生してんだよ!食っても太んねーってことは一端ついたら落ちにくいから危機感もってっから地味にそう言われるとショックなんだよ!意外と気になるんだよ嬉しくねえんだよ実は!
…そんなことはまあ、些細な事と言えば些細な事でしたし。何だかんだで五キロも落ちましたし。結果オーラいでいいとするとして。それよりも。
「…でも父さん。どうして急にそんなに元気に?えっと、私がこういうのも何なんですけど、最近の父さんはそのそう、あれだったじゃないですか。ええっと、うん、まあアレな感じで。…何かあったんですか?麻、やく…とか、したわけでは無いんですよ、ね?」
 おずおずと私は父に尋ねます。
 当然と言えば当然でしょう。
 昨日までの父はまさしく「生きる屍」であり、鬱をこじらせているのも解りきっていて、意識がキチンとしていること自体がまれな位だったのですから。
 それが、今ではこうやって以前のあの穏やかな顔を私にまた見せてくれているのですから、何かのきっかけ―考えたくはありませんが覚せい剤や麻薬などの神経を興奮させる薬―父が、そんなものを得る手段なんて皆目見当もつきませんでしたが、「ネット購入」という方法も考えれば、私の居ない時間帯に合わせて自宅に届けてもらうことは有りえない話ではありませんでした。自死以外のそういった可能性は、「倫理観の強い父だから大丈夫だろう」、とタカをくくっていた私の盲点以外の、何物でもありませんが。むしろそっちの方が「現実逃避」の方法としては楽かもしれないと今になって気付く始末です。
 そんな私の心配をよそに、父はあっはっは、と笑って、(笑うのを見たのも二週間ぶりでした。)また静かに頭を下げました。「…すまなかったな、田優…」と言いながら。
 じわり。私の眼から今日何度目か解らない涙が滲みます。
 それを悟られぬよう、私はこほんこほんと空咳をして誤魔化し、父の言葉を待ちます。
 父はもう一度あの優しい瞳で、こう言ったのです。

「母さんに、会ったんだ。」

 精神科は気が重いなあと、私は思いました。



                 ☮



「いや、モチロン夢の中でだよ夢の中!大丈夫、大丈夫だから安心しなさい田優!だからそんな真剣な眼で近くの精神科医院を検索しなくていいから!」
 父はかなり焦ったように私を見ました。その言葉に嘘は無いようなので、速攻で立ち上げたその医院口コミから眼を離して、父の前に座り直します。父はほっとしたのがこちらにまで伝わるくらいの表情の弛緩具合を見て、私もどうやら精神を侵されて幻覚を見たわけでは無い、と判断しました。そして、そのまま話し始めます。
「今日の九時ごろだったかな。お酒が切れて、ぼんやりと目が覚めた、そんな夢を見てたんだよ。ベットに腰かけてる感触すらあったんだから、相当現実に近い夢だったんだね。僕は、気付かぬうちに抱いていた兎幸―母さんの遺影が横にある事に、またじわりと涙があふれそうになって、もう一回ビールでも買って来て、飲んで寝ようかと思ったんだ。「夢の中」でね…。そうして、前を見たら、―心臓が止まるかと思うくらいに激怒してる母さんが、腰に手を当てて、僕を仁王像みたいに、見下ろしていたんだよ。『母さ―』んと呼ぶ前に物凄い右拳で顔面が殴り飛ばされて、向こう側の壁にマンガみたいに叩きつけられたんだ。そして呆然としている僕に向かって、スピーカーでも付いてるみたいに、物凄い声で僕を叱りつけたんだ、『何やってんだこの馬鹿野郎!』ってね。そのまま僕の方に近づいてきて、襟元を締め上げて軽々僕を持ち上げて、怒鳴りつけてね。『いつまでも過ぎちまった事にぐちぐちぐちぐちと!なッさけない。それでもアンタは男か!アタシの惚れたあの『狸宝葉平』か!ぐてんぐてんに酔っ払って何もせずに眠ってあろうことか、同じ風に傷ついてる、いやアンタ以上にもっと傷ついてる田優に、あんな口きくなんて!見損なったわよ本当に、このすかたんが!いい!?確かにアンタは罪も無い老人を轢いた。しかも自分はその時に訳も無く眠くなってしまっていた、その老人がいかに信号無視して、ボケていて、いえ、〝痴呆〟を患っていて、判断能力が無かったとしても、確かにアンタは一人の人間を、轢き殺した事になってる!でも、そのままこのままここで止まってる訳にはいかないでしょう!?葉平さん、あんたには、田優がいるじゃない!あの子を、これ以上苦しめないでよ、これ以上あの子と、そして私を幻滅させないでよ…。アンタはこのアタシが惚れた、あの狸宝葉平なんだから…。大丈夫、絶対大丈夫だから…、約束する。これからとってもいい事が起こって、アンタと田優は、マジに幸せになれるから。保証する。私、狸宝兎幸が、その存在全てかけて誓うわ。これから、アンタ達は、苦労するけど、その分とってもデカい事が起こって、すっごい幸せに―あイタッ、イタタタ、何、駄目なの、こんな曖昧な言い方でもNGなの!?もう、解った、解ったすぐ戻るから!―…そういう事だからアナタ、しっかりしてよ!?もうすぐ田優も帰ってくるし、その、しょーもない馬鹿面、しっかり洗って整えなさいよね。じゃあ、もう行くから、あ、そうだ!』そのままの勢いで、母さんは、そんな汚らしい僕の口に、深く、口づけしてくれたんだ。そして走って玄関に向かって、慌てて僕も追いかけた。母さんは、ロックを外しながらこっちを向いて、こう言ったんだ。『約束、―守れなくて、ごめんね。』って。ドアが閉じて、僕は自分の頬が動いているのが解ったよ。笑いながら、泣いてたんだ。その一言だけで、十分だった。夢でも幻でも構わない、何だっていい。あの言葉が聞けただけで、僕はもう一生、どんな目にあったって、耐える事が出来る。そう思って、目が覚めたんだ。そして、そのまま、あっためても無い、温い浴槽に飛び込んで、何度も顔を洗って、髭も鼻毛も剃って、髪も三回シャンプーして、新しいパジャマに着替えたんだ。僕が、もう一度生きるために。そして、母さんにもう、幻滅なんか、されない様にね。」
 父ははにかみながら、そう言いました。
 にわかには信じられない話です。
 現実の様でいて、もしくは只の幻覚だったのかもしれません。
 ですが、私も、父と同じ意見でした。そんなものは、関係ない、と。
「母さんも、相変わらずですね、ホント、何をするにも、忙しなくて困ります。」
「それが母さんの良い所だろ?」父も笑って言います。そうですね。
「―母さんが、これからでっかいハッピーがやってくると言ったら、そうなのでしょう。気長に待ちますか、あの人が納得するまで。」

 はてさて、何が起きるのやら。ま、それでも、もう私も、足元がふらつくことも無いでしょう。あの母さんにこのまま余計な心配をかけ続けるのは、私のプライドが許しませんんしね。そこで思い出します。ケータイ番号。名前。住所。私は、何もかも、伝えていません。
「シンデレラストーリーに不向きだと思われたんですかね、神様には。」
 救世主(天映)さんと再び出会う確率は限りなくゼロに近い事実に、自分でも驚くくらいに、私、狸宝田優一七歳は凹んでいたのでした。

〈第三幕〉罅(ひび)割れた人生の修復作業。操り人形(マリオネット)は頭上の糸を切る。


 この国が「無縁社会」と呼ばれて、どのくらいの時間が経ったでしょう。
 私達日本人の最も良い所であり、また悪点でもあった「和をもって貴しとなす」的な共同体感覚とも呼べるものが、次第に都会への若者の流出と共に薄れて行った今の世の中。
 遠くにいる親戚は遠くにいる親戚の老人の生活環境など知る由も無く、もしくは知りたくても既にこの世にはおらず、したくてなったわけでは無いのに一人きりで施設に入って暮らしていくしかない、むしろ暮らしていられるのは幸せな方。そんなことすら言われるお年寄りたち、無縁仏に葬られる人々は、どんなに辛いか十七年ぽっちしか生きてはいない私のような人間には解るべくもありませんが、もし父がいなくなったら、そう想像するだけでその端緒を掴めるような気だけはします。誰にも気にされない、誰にも気づかれない。そんな人生の終わり方を誰がしたいと思うでしょうか。どんな人間だって、最後は老い、そして死にます。
 その時くらい、何か残す者たちに、せめて何かを残したい。そう思うのは当然のことだろうと思います。
 ただ、私たちにその人が残してくれたものは、全くと言っていい程、私たちを幸せにはしてくれませんでした。
 なにしろ、その人の〝死〟が、私達親子に全て、圧し掛かってきたのですから。


 飛騨根エツさんの死は、驚くほど周りには影響を与えませんでした。
 いえ、与えないと言ってもそれはあくまで端から見た話であって、私達から見たら大変重要な位置づけになる人物なのですが、そんな当事者以外の人たちから見たら、やはりさほどの影響は受けていないように私は感じていました。そうと言うのも、今の老人施設にありがちな、問題行動をたびたび起こす人間というのは決まっており、それは痴呆を患っていたとはいえ、職員がストレスで休むほどの問題児(「児」を当てるのは適切では有りませんが、一応、呼称として。)だった彼女は、事あるごとに周りに当たり散らし、喚き、他の同施設利用者の方に嘘を吹き込んで仲たがいをさせたり、気付けば脱走して徘徊するなどといった、確かに配慮されるべき福祉サービスを受ける必要はあっただろうけれど、そこにただぶら下がって、同じ人間である職員や周りの人たちに甘え放題といった感の否めない、ちょっと私でも解りはしつつも腹は立つ、立ってしまう。そんな人だったらしいのです。よく『その人がどんな人だったのかは、葬式を見ればだいたい分かる』という、少し極論めいてはいますが、納得するべき言葉でもあるのは確かだと、私も、思います。その人の死を悼む人が多かったというのは、生きている内にそれだけ周りの人たちを大切にしていた証でしょうし、更に自分の死のために泣いてくれる人が多いというのも、その生前が誠実だったことを示しているのでしょうから。私のために泣いてくれる人は多くは無いかもしれませんが、それでもそんな人がいただけで、生きていた意味はあるのかもしれないなという想像が少し頭をよぎりました。

 飛騨根エツさんの葬儀には、私達加害者と、もう何十年も会っていなかった距離だけでは無く血すらも遠い親戚の方数名。そしてそこの老人施設の責任者の方と担当していた職員さん、全部合わせても両手の指で全て足りてしまう程の数しか、出席者はいませんでした。
 轢き殺してしまった人間とその娘がその被害者の葬儀に堂々と顔を出せる葬儀と言うのも驚きでしたが、同時に担当していた職員さんが酷い疲労と、精神的摩耗、更にぶつぶつと何かつぶやいている事は、私の胸を更に締め付けました。

 こんなにも、解りやすい「悪」がいない事故の葬儀も、珍しいのではないでしょうか。
 私は、この棺に収まっている、多少整えられてはいるものの、損壊が激しく見せれる状態では無いと言う閉まったままの彼女を想い、私の家族のこれからの地獄に底なし沼に落ちたように体が猫背になっていくのが解りました。
 その遺影は、彼女がまだ『孤独』では無かったころの、おそらく彼女の家族と一緒に撮った物を、彼女の顔の所だけ切り取って引き伸ばしたもののようでした。

 その笑顔は穏やかで、幸福につつまれているように、私には思えました。
 こんな最後を迎えるなどとは、想像もしていなかっただろう事も。

 そうして、父と私は誰も幸せにしない事件からしばらくして、ようやく立ち直れてきました。
 母の幻覚(夢?)を見た父は現実を受け止める努力をはじめ、ハローワークに行っては求人を検索し、しかし五十前の男でしかも人を轢き殺した人間に職などある訳が無く、その元気も次第に減っていくのが解りました。それでもまだ私の精神が安定していたのは、どんなになっても、父が以前のようにはならないだろうと、端から見ていても解ったからなのでしょう。父は母のためなら、何でもした男です。一時、母が風邪をこじらせたときなんて、会社を休んでまる一日横で眠らず看病をしていたくらいです。
 母が後で「葉平さんみたいな男を田優も捕まえんのよ、あ、無理か。だってあの人よりもカッコいい人なんてこの世に居ないし。」と真顔で言っていたのには結婚が人生の墓場と語る偉人が多い中で、結婚してもバカップルな夫婦もいるのだなあと、私の結婚観に幅を持たせてくれました。まぁその時は「馬鹿じゃねえの、この人。」と思った事は、人生では語らない方がいいという事もあると、胸に収めておいてください。
 母に「もう情けないことは二度と言うな」と言われたら、もう言わないでしょう。それが確かに狸宝兎幸が愛した男、狸宝葉平と言う男なのですから。
 しかしそれはそれで困った事には変わりありません。
 つまり、私は今学校へは行っていないのです。
 ああ、いじめが酷くなって、という事はなくはありませんが、それはまだ耐えられるレベルでした。
 問題は、学校側が、流石に放置しておけないレベルにまで、私への態度がそのまま学校の中で〝否定派〟、〝肯定派〟に自然と別れてしまった、二分化してしまった、という事なのです。これは確かに、かなり困った状態でした。
 初めは、クラスメイト、学校内問わず私への批判が殆どを占めていました。その時の学校裏掲示板なんて、未だに見る気が起きない程荒れに荒れたらしいですし。でも、それもまあ当然と言えば当然でしょう。その本人では無いとはいえ、人を轢き殺した人間の家族がのうのうと学校生活を送っている事に怒りを覚えるのは、真っ当な人間なら普通の感覚でしょうし、仕方がありません。ですが、話はここで終わらなかったのです。私が日々どんな気持ちで生きているかを時々周りに見えない所で話しかけてきてくれた涼風さんが、私が思わず言った、「私とはもう話さない方がいいですよ、涼風さん。私たちはそれくらいの事を確かにしたんですから。」という言葉で、彼女の何かに火が付いたらしく、あの涼風さんが、黒板の前に私がいない教室で震えながら、「たんぽ、うさんは、わた、わたしたちが、狸宝さ、んに、して、いいることも、「それくくらいの、ことををした」って、言ってま、しした。私、は。狸宝さんに、たく、さん、たくさ、ん相談に、乗ってもらったり、話しかけてもらったり、笑わせてくれたり、しました、そんな狸宝さんを、これ以上傷づけても、私は平気な顔でクラスにはもう居れません!狸宝さんは、そんな皆からこんな酷い事をされても、私に「私ともう話さない方がいい」って、言ったんです。こんな状態なのに、まだあの人は、私なんかの心配をしてるんです!自分のことなんかじゃなくて、教室では話しかけれもしない、こんな、本当は、一番傍に居てあげなきゃいけないはずの、〝友達だったはずの弱虫〟の、私の心配をしたんです!!こんな、私の!だからもう、止めましょう、嫌です、こんな風な思い出を、高校時代に、残すのは。絶対に、嫌です!もう、沢山、です!」
 ―その後、涼風さんは泣きながらクラスからダッシュで逃走。教室はその静寂で逆に耳が痛くなる位、静まり返ったそうです。それはもう嫌~な空気だった事でしょう。正義の味方であったつもりが、あろうことか無害そうで大人しくてしかも地味で、でも可愛いらしい、真面目な女生徒から思いッ切り「あなた達のしてる事は悪だ!」と断定されてしまったのですから。
 …その後は人間の「多様性」というものを彼らは如実に表したらしく、私に対して「それでも人を殺した家族と一緒に過ごすのは受け入れられない」という感情優先寄りな派閥と、「彼女自身に罪は無いのだし、積極的に関わることは心理的に難しくてもクラスの一員としてまた、迎え直すべきだ」という、どちらかというと理性優先派閥に分かれたらしく、それがクラスを飛び越え火を放ち、学校自体の感情が私を〝台風の目〟としながら(全く望んではいないのですが)学校を二分するようにまでなってしまいました。
…タクアン先生の言う通り、まだ若者にはこんな熱さがあったんですねえ…、なんだか、自分が凄い年寄りに思えてきてなりませんね最近…。
 
 そんなこんなで、外に漏れ出始めた私の事を擁護して下さろうとする、―ホントに邪魔―もとい、善良な父兄の方々が五月蠅く人権がどーのこーのと騒ぎ始める前に、私は自主的にエスケープする事に決め、その間を何らかのバイトに当てることにしたのです。何かしら出来る事はあるだろうと思い、様々なバイトをフリーペーパーで探したのですが、やはり接客系かと思い調べていくつか面接に行ったものの、私は今かなり顔が売れているらしく、何故か私の顔を見ると非常に残念そうに(?)首をふり、「残念だけど、いやマジで本当に。本当に本当に残念なんだけど。今ちょうどバイト、閉め切っちゃててね。」と言われ全て撃沈。だったら雑誌に載せてんじゃねえよと最後の面接でマジ切れしそうになってしまい、ぐっと「そうですか。それは申し訳ありませんでした。」とびくびくと震える笑顔で答えるのが精一杯でした。
 そんな最後のバイトの面接で維持した作り笑顔を解き外に出て、ため息とともに自宅に戻ってみると、ダイレクトメールの他に一通、不思議な郵便物が届けられていました。
 手に持って見てみると、宛先はなんと私「狸宝田優」。差出人は、あのいつだったかテレビで見て突っ込んだ記憶がおぼろげにある、銅谷何とかとかいう社長が、あろうことか自分の所の最新のクーラーの故障で、熱中症で死んでしまうという、何とも死ぬときに一番いけない死に方で亡くなってしまって一時話題になった。そして日本有数の家電メーカーでもある『DOUYA』から来た事になっていました。『特別企画対象者様へ』と書かれたそれを見て、私は首を傾げます。そりゃ、『日本の技術は世界一』と謳われる日本の有名家電メーカーさんの商品も確かに家には有りますが、でも私はそんな『DOUYA』ユーザーでもなければポイントカードの溜まるのを見て興奮する感性も持ち合わせていませんし、家に、しかも私宛に来る理由がありません。ですが、わざわざ『DOUYA』の名を語ってする詐欺は規模がデカすぎる分、返ってそんな危ない橋を渡る人間もいないでしょうし、(信用問題がタダでさえ落ちた『DOUYA』なら、尚更そこには敏感になっているでしょう。)悪戯にしてはしっかりとした造りの封筒なので、とりあえず私は自分の部屋に行って開けてみようと思い、階段をそのコンクリートの寒々しい階段を、その薄ピンクの封筒をピラピラさせながら、登って行ったのでした。
 この封筒が、後々私の人生を大きく変えるターニング・ポイントになることなど、全く考えもせずに。


                 ☮


 クイズかよ。
 私は思わず独りでに口に出してしまっていました。
 封筒から出て来たのは、そっけない、そう『DOUYA』から来たのだとは到底思えない、只の白い紙に、ただ、こう書いてありました。

 からしでもなく。わでも無くさびでも無く。日本人でもなく。外国人でもなく。何処までも日本人。創り上げた覆面を取れ。三つの頭を掲げよ。

 その下に、〈このクイズの答えを、『DOUYA』のホームページの特別ページに、氏名(他の個人情報は入力して頂かなくても結構です。)入力してください。こちらでお配りした方か確認する以外に、この情報が使われる事はありません。〉と小さく追加で書かれている以外は、後はひっくり返しても、何も無く。首を捻りますが、今はそれよりも。

「…これって……。」私はまじまじとこのクイズの問題を眺めます。
 不思議な気持ちでした。
 確かに、普通の人には意味不明でしょう。
 私だって、おそらくとっかかりが無かったら、何言ってんだこいつは、質問者出せ!解ける訳ねーだろこんなん、となります。
 の、ですが。
 私には、この問題は実になじみ深い物でした。
 何故なら、殆ど同じ内容のモノを、つい最近、この間といっていいくらいに、解いているからです。
 そう。
「…この前の〝ドッグ・レース〟の答えと、一緒?なのでしょう、か…?」
この問題は、確かに枝葉末節は違っているものの、問い自体(・・・・)はこの前の〝ハウンド・ドッグス〟の『ドッグ・レースの時に出された、超難問クイズ』と、ほぼ一緒だと思われました。
 そして、この答えに辿りつくためには、ただ「ネットで検索をかけて」もおそらく絶対に辿りつけません。
 直観と、質問の意図と、幅広い知識。それらを総動員して目星を付けていかなければ、答えには永久に辿りつけなくなっているのです。
 *…ちなみに、ハウンド・ドッグスのドッグ・レースでは、その答えの商品をレジに持っていっても、店員にだけ聞こえるようにそのクイズの答えを耳打ちしなければ手に入れる事は出来ません。つまり、あそこではそのような難問を解く〝知恵〟と、〝身体能力〟と、〝運〟の三つが、必要となってくるのです。…甘くはない、ないのです!

 私にも最初は意味不明でした。
 からしでもわさびでもなくて。
 日本人じゃないのに何処までも日本人?
 創り上げた覆面を脱がす?タイガーマスクか何かなんですかこの人。
 三つの頭を掲げろったってまさか「ケルベロス」でもあるまいし…、あ、ハウンドドッグ(猟犬)だから有りえない事でも無いですねこれは。

 そんなこんなでうんうん家であーでもない、こーでもないと唸りながら考えていると、ふと、最初の二文節に目が留まりました。「からし」は「カラシ」でいいとして、次の「わでも無くさびでも無く。」では、何故「わさび」と言わなかったのでしょう。あ。
 わでもなくさびでもない。つまり〝侘び寂〟、ではない。つまり、日本の古き良き考え方ではあるが、「侘び寂では、無」い。そうなると、うん、そうか。
「〝渋(しぶ)み〟、か。」
 そこまで来たら、あとは一気です。
 まずネットで「渋み」を検索。出ない。「しぶみ」出ない。じゃあ「シブミ」。…よし、出た。どうやら、それは海外小説のタイトルの様でした。

「―…1980年、ハヤカワノヴェルズ出版。『シブミ』。日本人で無く、しかし日本人以上の日本の心を持ったロシア人。日本の真髄である〝SHIBUMI〟を体得した伝説の暗殺者、「ニコライ・ヘル」の活躍を描いた冒険小説の金字塔。…作者は、『トレヴェニアン』、か。でもここまでですね。「覆面」って事だからっと、ウィキペディアに飛んで。―…やっぱり。トレヴェニアンは覆面作家。本名は、―『ロドニィ・ウィリアム・ウィテカー』―か。つまり、三つの頭とは彼の三つの頭文字のこと。って事は。R(・)odney・W(・)illiam・W(・)hitakerだから『R・W・W』で、いいのかなぁ?―…」

 ―そんなこんなで。『三十年以上前のスパイ小説の作者の本名の三つの頭文字』が答えと解って、私は迷わずドッグ・レースで奪い取った醤油を店員に突き出し、このアルファベット三文字を呟いて、見事、それを手にしたのでした。
 …以上回想終わり。凄い偶然とは思えません。っていうか何でこんなものが家に?
 そう思っていたら、ああ。と思い至りました。
「あの店、そういえば少し前に、『DOUYA』に吸収されたんでしたっけ…。」
 最近『DOUYA』は勢力を家電のみならず色々な方面へと伸ばしていると聞いたことがありました。『ハウンド・ドッグス』も確かその一つ。〝ドッグ・レース〟などの面白いアイディアを産み出したあの店の店長を引き抜くためといった、「ヘッドハンティングな意味合いが強いものらしい」との噂でしたが。確かに『DOUYA』のあの何とか社長が好みそうな店長さんですしね、あの人…。金髪不良青年店長を思い浮かべて、やれやれと首を振ります。なんてったって、三度の飯より喧嘩が好きなあの人には、首輪付の人生はとうてい無理そうですけどね。

 そう思いながら、私はそのページに行き、自分の名前とこのクイズの答えを打ち込み、少し待ちます。そうすると新しいページが開き、そこには、こう書かれていました。
 
『新社長の天映立志彦(たしひこ)が独自企画!〈ウチのヨメに来ませんか?息子、見合いさせたいんです!可憐で聡明なアナタ、参加してみません!?お見合い大作戦発動中、我子の翔(かける)もしぶしぶながら納得しちゃったのでこのままやっちゃえ!〉の参加エントリーページにようこそ!この裏企画、もし落ちても豪華賞品をご用意しております。新しい『DOUYA』の第一歩と、もし息子翔にご興味がある、この難問を解いた聡明さも兼ね備えたアナタ、ゼヒゼヒ登録、よろしくお願いします!』…と。天映?あの、天映翔さんと、会える?もう一度?しかもお見合いとして?


「はぇ。」


 ―私は、それはそれはそれは長い間、茹って真っ赤になったその顔を、パソコン画面さんに捧げていたようでした。
何故なら、父が帰ってきた足音にも反応せずに、父が心配して私の肩をぽんぽんと叩いたその腕を捻って、床に無意識に叩きつけるまで。
 一体何が自分を、こんなにまで興奮させているのかすら、解らなかった程でしたから。 


               ☮


 まさかこの歳で、「お見合い」なんてものに参加することになるとは人生解りません。
 思いもしないどころか場違いすぎて今すぐここから飛び出して逃げて行きたい衝動に私は襲われ続けているくらいです。狸宝田優、遂にデビューです。胸が苦しくて窒息しそうなことを除けば、この〝日本人特有の胴長スタイルが目立たなくし、尚且つ色気も手に入れられるという、日本人女性が生み出した和の心。つまり『着物』です。
 その胸の締め付けを超える緊張感が、私の胸を(友人からは形がいいと羨ましがられていましたが、その友人のソレの大きさに、まず私がA+を付けた事は言うまでもありません。)激しく締めつめてきます。会える。会えるんだもうすぐ。「あの人」に。
「…だから、ちょっと位の、アウェー感なんて、全然大丈夫。我慢、しなくて、は。いやでもキツイマジカエリタイ帰ってテレビにでも突っ込んでいたい…!」
 現実逃避中の私がいる場所は、試験会場。

 私を救ってくれたヒーロー、天映翔さんに会うための〈お見合い権〉獲得のための、戦いの場、なのですから。


 最初は疑い半分でした。
 私は何故わざわざ、自分の息子をダシに使ってまで、『お見合いゲーム』などというアホさ丸出しのショー・ゲームなんてやるのか。
 これはもしかしたら何かの詐欺の一つで、私、いえ狸宝家の持つ金を、この不幸続きに便乗して、更に吸い上げるための罠なのではないか。私はしばらく本気で疑っていました。 
 しかしそこで、この「新」社長、天映立志彦さんの紹介を聴いていると、自然と納得してしまっていました。
 この人は『ギャンブラー』だったのです。仕事は全てゲームと考えている、まさに戦略的思考の持ち主であり、独創的である事が、彼の最大の楽しみであるようなのです。
 しかし元々の彼、裕福な家庭に生まれ育った天映立志彦は、成人を超えて有名大学にストレートに入っても、特に目立つことも無く、まあ極々普通で優秀な、でも気弱そうなナヨッとした青年として成長していきます。
 そして、当時まだ無名だった『DOUYA』に新人入社。
 彼はそこで、運命の出会いというものを果たします。
 歳若くして『DOUYA』をほぼ一人で動かしている敏腕社長。
 今は無き青年社長。
 型破りな経営で、徐々に全国展開して行き始めていた、正にノリに乗ってる時の彼に出会ったのです。
 これが、彼のその後の運命を「百八十度」変えた、社会人デビューとなるのでした。
 早くから仁鉄を敬愛し、そして認められた彼は、正に彼の影響を一身に受けて企業戦士としての人生を歩み始めます。それは「リスクの無いステージなど、面白くとも何ともなく、そして成果も出にくい。やるなら誰もやらない事を、それも下らなくてお客様を脱力させる位の下らなくて楽しい事をだ!」という、家電製品に全く関係ないアピールをどんどん出しては、失敗する。しかし、そこから得た経験値で更に新しい地点へと飛ぶ。商才が無かった代わりに常に『自分が一人の客だという、素人感覚、視点』がずば抜けて高かった彼、仁鉄が貫いてきたその姿勢を、最もそれこそシャワーの様に浴びながら彼は、「戦わなければ意味が無い。危ない橋を渡らなければ詰らない。スリルが人を大きくさせる。」そういった常に何かを賭け、そして勝利していく、そんな〝ギャンブラーよりもギャンブラーらしい人間〟へと変わっていったようなのです。変化。成長。躍進。それが彼、天映立志彦という人間を支えるもの。息子の翔にも『賭ける』という意味も込めている、とこのページに自分の紹介ページに書いてありました。(…ちょっと、親としてどうなんでしょうそれ。)
と、まあ。
 そんな人が新しくこうやってこんな企画をインパクト勝負でやってしまっても、特におかしなことでは無いような雰囲気は確かにそのプロフィールの文章と大胆不敵を絵に描いたような顔―オールバックに銀縁眼鏡。白髪を隠そうとせず、少し両側が後退している額が、何故か更に知的な容貌を醸し出し、すらりとしたそのスマートな身体は、とても五十代後半などとはとても思えない、その鋭角に尖った鼻は、どこか大空から地上の獲物を狙う猛禽類を連想させる―で、「ああ、このショーが心底楽しくて楽しくてたまらない」と言うかのように、カメラに無邪気な笑顔を向けています。息子さんのお見合いをして、もしかしたら自分の新しい娘になってしまうかもしれないのに、この余裕。多分ですけど、翔さんは鼻から「自分はまだどんな相手であろうと、まだ身を固める気持ちは無いとでも言ったのでしょう。そうでなければここまで落ち着いて企画を立てられるはずがない、と私は思うからです。その証拠にお見合いというのは口実で、実は一緒に同封されている会場内には、まだ誰にも発表していない新製品へのアピール戦略なんだと解っていても、ちょっと私みたいな人間には、理解できない感性ではありますね。
 もし自分に子供が出来て、そして「オフクロ、こいつ彼女なんだ、よろしく頼むわ。」とか言って連れて来たら、そこから得られる情報全てを総動員してどんな子か判断しようとするでしょうね。例え、〝五月蠅いクソババア〟と言われようと何だろうと、こいつには息子は預けられんと思ったら、断固交際反対になりますね、きっと…。まあ、本人の問題でもあるので、どうとも言えない事ではありますが。ちなみに有りえない事ではありますが、父が私に「お前の新しい母さんだよ」と言ってきても、またしても私はそのニューマザーに、かなり厳しい人格分析行うであろう事は、確実に保証できます。…無いとは思いますが。有るとも思っていませんが。あってほしくはありませんが。あの父に限って、それは無いだろうとは思ってはいますが。…いやでも、母が死んでから十年以上たってますし。しかもこんな時ですし。父の痛んだ心を癒してくれるような女性が現れ、傾いて行ったとしてもおかしな事では…。いやいやそんな事はいやでもでもでもそんなまさ(略。)

…まあ、それは、ここでは、置いておくとして…。その下に、いまや若い女性に熱狂的に指示されているアマチュアボクシング界の王子、(日本人って何故王子が好きなんでしょう。貴公子の方が語呂的にはいい気がしますけど。)、今回の主役。そして強引にお見合いさせられてしまうという、恐らく今回一番の被害者でもある、天映翔さんの顔写真とプロフィールが大きく掲載されています。中性的で優しそう。でもその鍛え上げられた肉体美とその玄人好みのボクシングスタイル、相手の間と呼吸を読んで繰り出されるその左カウンターには、相手が解っていても防ぐのが難しいであろうとすら言われるセンスの良さ。 
 外見だけで無く、周囲のボクサーたちも認める実力も相まって、女性たちの『守りたい、でも守ってほしい』という正反対の願望のどちらをも、パーフェクトに叶えてくれる存在。
 ―それが、天映翔。
 そして、実は『DOUYA』の新社長の御曹司と知られた彼。
 性格よし。頭よし。運動神経よし。今や経済的にもよし。
 となれば、お近づきになれるかもしれない、こんなチャンスをみすみす逃す女は恐らくほぼ皆無だと私は思います。…その殆どが、参加するだけで貰える豪華家電セットの方も目当てに来ているのは明らかでもありますが。まあ、それはそれで、立志彦社長の目的でもある新型家電のアピールになりますから、特にあちら側にもマイナスは無いでしょう。
 ただ、私にはこのゲームが彼ら親子にとって、何を指しているのか。それは少し、解っていました。

 それは、いずれ次期社長となる翔さんに対して、人を見る目を養わせるトレーニングとしてこの企画がたてられた、という裏の事情をです。

 翔さんはおそらく、彼、天映社長からは、まだまだ修行が足りないので、この瞬間から今後のビジネスに役立つような教育を彼に施すようにしているんだと思いました。
つまり、自分の目で、この人は本当はこうだな、おめかしして清楚な風に見せているけど、実は違うな。そんな風に、相手をお見合いというお互いが向かい合って話をする、そういったその場の雰囲気や相手の顔、表情、そして相手のコミュニケーション能力や実際の能力はどのくらいなのか、教養があるのか無いのか、将来上に立つ者として、様々な人を瞬間的に判断したり読み取ったりする力。他人を上手く使う方法を学ばせよう、そういったモノが根底にあると、私は感じました。
 それに、「お見合い」という場所は、正にうってつけのシチュエーションと言えるでしょう。初対面から会話が始まり、そして調子が合えば更にそこから進んで行く。
 自分一人、一個の人間として、相手と関係を図りつつ相手との距離を調整する。
 それは大きな会社で日頃行われている、(でも多分上手くいっている所の方が少ない)上に立つ者、横から支える者。後ろで背中を支える者。それらのタイプを見ぬいて使っていくためには、そういった荒稽古もしなければいけないのでしょう。
 そんなこんなで、私はそんな彼の修行相手として、『DOUYA』が借り切った、最終選考の五人になるまでの『お見合い権』を獲得するための場所に今いました。
 試験場は私の地元、宿借(ヤドカリ)市から駅を乗り継いで一時間ほどにある都市、笹(ささ)暮(くれ)市の高級ホテル、〈鍋山会館〉で行われています。
 審査は一次、二次、三次、そして最終選考となっていて、一次は今私がいる一階の特別会場で行われ、二次が二階。三次が三階。最終選考は今日試験をし、五人にまで絞る様です。その後、その五人と翔さんが直接面談を行う権利を得て、それから結婚を前提としたお付き合いをする一人を選びます。(やはりそこには該当者がいない場合もある、と書かれていましたが。)そして最終選考に残った五人全員に、何と何と『二百万相当』の新型家電の詰め合わせが送られる、ともなっています。つまり、参加する女性たちはどんな結果に転んでも損はしない構造になっていました。
 そして憧れの『天映翔』とお見合いがしたいというミーハー願望と、二百万円の家電品を勝ち取るため、約百五十人程の女性たちが、あの難問クイズを解き、それぞれ思い思いの着物やドレスを着て、この試験の一番大きな振るい分けである一次試験に挑んでいました。

 立食パーティーでも頻繁に使われるおおきなこの一階ホールで、縦2・5メートル、横10メートル、幅5メートルくらいの板で囲われた直方体が二個づつ、五列に並んで置かれています。その前には五個のスチール椅子が並べられ、順番が近づいたら、その渡された券を見て、その囲われたブースの横に置いてある、今面接を受けている人から数えて五番前までの番号が表示され、右側からだんだんと呼ばれていきます。
 まだ順番が当分来ない番号の人は、外の新製品体感コーナーを存分にやってらっしゃるようで、こういうのを商魂逞しいと言うのでしょうか。こちらの事など気にも留めず、『手元のボタンで先端が自動的に細くなり、狭い所のゴミもそのまま楽々吸い上げ可能になった掃除機。『〝買っておいたものを入力すると、自動的にその材料で作れる簡単レシピを紹介してくれたりする独り暮らし用のレンジ』だったり。何だかさっきトイレに行った時に見たら、とても楽しそうで、実演しているあの『DOUYA』の店員さんは、間違いなく接客、サービス、説明能力に親しみやすさの鉄板の笑顔を習得した一線級のプロたちであることは一目瞭然でした。(新製品の協力扇風機を解体しながらそれを見もせずに今回参加している女性に親切に他の商品の疑問に答える芸当が出来るのが精鋭プロフェッショナルでは無く何なのだ、と私は思いました。)空いたら詰め、空いたら詰めを繰り返し、だんだんと自分の番が近づいてきます。何にせよもう、逃げる事は、出来ません!こうなりゃ…「当たって砕けろ、です…。」呟きながら、下を向いて呼吸を整えます。勝負の時には、一瞬の迷いが生死を分けることに繋がります。ハウンド・ドッグで学んだ大切な教訓、です。 
 そして今、私は飛び出し、獲物を捕らえ、勝つのです、この戦を――…――よし――…―。行け。

 自分の番号を呼ばれた私は、静かにノックしてから、その真っ白い壁の向こう側、『第八仮設面談室』に入ります。スチールデスクには、三人の「いかにも!」といった行儀やマナーに異様に厳しいおばさん達三人が、小奇麗なその格好でも隠せない程の崩れた体型を椅子に落ちつけながら、じろりと私を見ます。手元の資料に、既にもう字を走らせています。入った瞬間から面接は始まるとはよく言いますが、こんなに鋭く観察されるなんて、さっき出て来た私の前の人のあの意気消沈した姿を思い出します。―相当、手ごわいようですね…。
 
 そんな一次試験の内容は、〝容姿〟、〝マナーに作法〟、そして何より〝夫が心身共に健康に過ごせるために必要不可欠な、〝夫フォロー力〟の有無、ですッ!

 夫フォロー力って、何。

 ぎりぎり口に出かかりましたが、その説明の時にはなんとか堪えました。
 そんな事は毛ほども砂粒一粒も抱いておりませんといった、純度100%、お愛想お作り笑いをフルスロットルで稼働させ、私はそのしかめっ面のオバサン(面接官)達に、それを向けました。
「面談室の前の椅子」に座った時から、たった五分間の面接に、着物が押し付けてくれているだけでギリギリと締め付けられている心臓がハイビートで鳴りまくり、もうこの場から猛ダッシュで逃げたくなりつつ、でも同時に覚悟だけは決めていました。

 ダメもとです。期待なんか海の底、やるだけ無駄だと解っています。
 でも、参加するだけなら。実際にまた、彼に会えるのかも知れなかったら。
 それだけで、私にはここに来る理由になります。もう一度だけきちんと会って、話したい。お礼を言いたい。そして。
〝私の壊れかけた人生を救ってくれた彼〟に、この気持ちを、伝えたい。
「―失礼します。…初めまして。狸宝田優と申します。どうぞ、よろしくお願い致します。」
 柔らかく首を下げて言いました。
 私のちょっとした戦いが今、幕を開けます。

 今、私がいる此処は、本当に此処なのでしょうか?
 そう思わずにはいられませんでした。私が座っている此処は、私のような人間が本来座るようなものでは無いし、そして今この時も、私は現実感覚も無くふわふわと浮いている雲のような心境だったので、なおさらその座り心地は正に雲に乗っているような錯覚すら覚えました。赤く、でも眼にはきつくはない、少し寒色が混ざっているのか、大人しめのその最高級ソファーは、まるで私の身体の重さや癖を最初から全て知っていたかのように、私の身体に合わせて沈み込みます。着物を着ているので、更にその性能がどんなに素晴らしいのかが解るというものです。
「まさか、本当に最終候補に残ってしまうとは、なぁ…、本当に現実感が取り戻せません、未だに…」私はそう思いながら、この一人用超ずぶずぶソファーの感触すら楽しめず、私の他の四人―全員息をのむほどの美人、美少女であり、物腰もやわらか、対応もソフト。他の人の悪口なんて考えた事も有りません。そんな超お嬢様な感じのオンナノコ達―を見て、ますます自分が場違いである事を痛感してしまいます。それに「ソファーにこんなにずぶずぶ沈んでいく自分の身体を楽しんでいるのが私一人な時点」で、何だか、穏やかに真綿で首を絞められていくように、格の違いというものを、淡々と諭されている気分になってきます。
「帰りたい…」私は試験開始直後のあの気合はどこへやら、すっかりと意気が消沈どころか消「天(・)」してしまっていました。だって、ここに残ったとしても。
「…絶対私以外の誰かを選ぶに決まってんじゃないですか。こんなメンツだったら…」
 最終選考まで残った時は、「こんなにラッキーでいいこともあるんだ、もしかして、これって運命!?」とすら考えて、その場で両手を上げてバンザーイと叫び出したい気分でした。確かに。
 一次は、母から徹底的に叩き込まれたマナーと作法。そして問題の〝夫フォロー力″では「もう駄目だよ…、こんな大きなミスをしてしまうなんて…、俺は役立たずだ…」と言ってきたら、あなたはどうしますか?と聞かれたので、「あなたのその毎日のおかげで、わたしがどんなに幸せに暮らせているのかも解らないのなら、確かにあなたは駄目な人だわ、あなたなら大丈夫よ、私のヒーロー…」と優しく言ってあげます。といったら、「ううむ、これは」「なかなか…」「いいですね、というか言った事ありませんわよ、こんなベタだけど素敵な切り返し、主人にも。」とまんざらでもない感触だったので、予想通り合格。
 次の試験は二階で知性、教養を調べるテストで、途中まで書かれたレシピにどのくらいの量の調味料と食材を足せばいいかのペーパーテストでは満点の合格。ふっ、主婦舐めんなってもんですよ。ちらりと周りを見渡せば年代は私と同じか少し上が殆ど。そんな人たちに、『サバの味噌煮の美味しい作り方』なぞ解る方が少ないと断言できますね。あれ、意外と美味しく作るには面倒なんですよね、実は。ここで一次で半数以下に落とされた人のまた半分以上が落ち、次の知性テストではまた難解パズルが提供され、答えはまたしても以前〝ハウンド・ドッグ〟で出た問題がそのまま出て、ホッと胸をなでおろしました。
 こんな難解なクイズ、事前に知っていなきゃ、誰も解けないですよ。なるほど確かにこれはもともとハウンド・ドッグ・レースに参加していた人が有利になる様になっている訳ですか、そうなれば提携側としても、ハウンド・ドッグ側としても、ネタには困らなくなる。次にこういった企画が提供される時にハウンド・ドッグ・レースが勝利への近道と知れば、みんなもちろんハウンド・ドッグに興味を持つでしょう。正に「WIN‐WIN」の関係、という訳です。
 ここで、それでもしぶとく残っていた参加者はとうとう三十人に絞られました。
 次はいよいよ三次試験。そこでは…。

「あなたの、とっておきの特技を披露してください。」
 それはもう何かのオーディションではないんですか?
 私の突っ込みは他の何名かからも同時に上がっていました。ええ、あとから一緒にお茶でもしましょう、これが終わったら。
 変な仲間意識をその人達に向けていると、三階のこれまたなかなか立派なシチュエーション道具の数々が並んでいるではありませんか。それらを使ってもいいし、使わなくてもいい。特技が何か道具、例えば楽器などの場合は、それなりにそろっているので、言うように。それでもない場合は、即興で何かやってみて下さい、と背の高い、ブラックスーツに細眼鏡、オールバックにした黒髪。その長身と隙のない感じはまさにボディーガード!といった風な印象を与えます。その知的さとワイルドさが相まった独特の雰囲気は、翔命のはずの何名かの心を強引に鷲掴みしてしまっていたようです。すいません、一緒にお茶しようと思いましたが、あなた方とはやはり世界が違うようです。先程お互いに持っていた仲間意識など露に消え、その同時に「オーディション疑惑」を唱えた、今はそのスーツの男にくぎ付けになっている彼女たちに、そっと呟く私なのでした。
 それにしても、即興で何かやれって。
 これはバラエティ番組でも中々ない芸人殺しですよ。それが番組になる位難しい物なんですよ。それを女性が、しかもこれから憧れの人に会う前にやれと? 
「馬鹿馬鹿しい。やってらんないわよ、もう帰ります。」という人続々。
 結局残ったのは、私を含めてもう既に二十人弱。やるしかない、のか。
 くじで順番を決めて、一人一人そのステージに上がって、特技(主に即興)をやっていく、私達お見合いガールズ。痛い、痛すぎる。私もやっている本人たちも、互いに痛い。何が?全てがです。あるものはやかんから急須に湯を入れ、無い湯呑へと注ぐ仕草をしたり。あるものは着物そのものを放棄し、新体操を行ったり、箸を使ってソバを食べる仕草をしたり(落語かよ、とは流石にツッコめる雰囲気ではありません。必死です。)
 そして何の因果か一番最後に私の番が来ました。やるしかねぇ。ドン引きされても、やらねぇよりいいです。…多分。

〝では三十番、狸宝田優さん。ステージに来て下さい。〟
 スピーカーから無機質な女性の声が聴こえました。平坦な口調のはずなのに、どこか安定感のある声。一瞬何かがよぎりますが、私は特に気にせず―というより、気にしている暇など無く、相当に緊張した面持でステージ端の小さい階段を上って、その場にあるモノを確認。必要なものは唯一つ。―あった。それじゃあ。
「その司会をしているスーツの方。隣に来てくれませんか?」
 私はなるべく大きな声を出して、その何名かの心を鷲掴みにした彼を、呼び寄せました。彼は怪訝そうな顔をしつつも、「仕事」と割り切ったのか素直に階段を上って私の方へ来ます。
「…どうしました。」とても小さな、囁くような声なのが意外でしたが、まぁ聞こえはしますし、コミュニケーションには問題が無いでしょう。こういう事に慣れていないのかもしれませんしね。私は気にせずに話しかけます。「そのベンチに私が座ったら、その隣に座って頂けますか?」
 男は更に不審げに私を見つめますが、ここも「仕事」と割り切ったのでしょうか。大人しく従ってくれました。何となく、大型犬に命令しているような気がしてきて、私の中のSっ気がむらむらと湧いてきたのですが、表に何とか出さずに、ベンチのむかって一番右側に、私は腰を下ろします。その時、ステージの下に居る参加者と関係者に大きな声で最後にこう言いました。
『今からここは、帰宅途中の夜の電車の中だと思ってくださいベンチは横長のシートだと思って下さい。そしてみなさんは、私を、とりあえず自分だと思ってください。スーツの方ええと…『太郎だ。いや、一応太郎、という事にしてください。』解りました。では太郎さん。私が眼を瞑ったら、私のすぐ横に来て下さい。座れる席がなかなか無くて、やっと座れた、みたいな感じでお願いします。では、―――始めます。』
 私が眼を瞑ると、彼は私の直ぐ隣に座ります。肩同士がぶつかって、そのスーツの上からでは解らなかった、鍛え上げられ隆起した筋肉を感じ、少しどきっとしましたが、無視して、一瞬、全力で拳を握りしめ、すぐに最大限に腕と指先とを弛緩させます。もう指先には痛いと錯覚するほどに、神経が指の平に細かく鋭く通っている所を、想像します。呼吸を整え、息を深くします。そして、頭を相手の肩に寝ぼけて、とん。と頭を乗せた振りをした瞬間。

『…――。以上です。ありがとうございました。』

 周りは一様に首をひねっていました。
 え、何もしてねえじゃん。なに、あの仕草が萌えポイントだとでも言うつもりか。
 あんまし調子に乗ってんじゃねえぞこのぶりっ子が。ざけてんじゃねえぞ。
 そう言われるとは思ってませんでした。ただ一人を除いては。「なるほどな。」そう。
「これがアンタの特技か。狸宝田優、さん。」このスーツの人以外は。あれ、もっと慌てふためく所を想像してたのに。ちょっとがっかりでしたね。そんな仕草をしたらどんなに気持ちよかったことか。残念。まぁいいか。「返しますね、これ」他の人には驚いてもらえたし。ぴらっと、私はその〈財布〉を振って、皆に見せるようにしました。ステージ下の観客は、声も出ない様で、ちょっと、いやかなり、蝶気持ちよかったです。
 スーツの人に近づいて手に財布を乗せると、振り返って、私は言いました。
「『狸(・)寝入りの術』、ご鑑賞どうもありがとうございました。」
遅れて「オーッ…!!」という歓声が上がり、ステージを降ります。ふふん。どうですか、この戦争を生き抜いてきた手(ストロンゲスト・オバタリアン・キル・ソード)は。そのスピードと滑らかさだけならプロにも負けない自信がありますよ、私には。
「…でもいくらなんでも、仮にお見合いに来てる人間が、披露する特技じゃ、無いわよね。」
 やはり、あなた達とはお茶は飲めません。すいません。
 でもその通りだったので、私には反論するカードが一枚も有りませんでしたが。


                 ☮


「でも残っちゃったんですよね。不思議な事に。」
 私はさっきまでの飲み会の一発芸(第三次審査)で、完璧に終わったと思い、帰る支度でもしようと荷物をまとめていた時のことです。心なしか、背中が重いです。何であれ、結果は明白。どうやら私は翔さんには会えないようですし、もうこの場所に居る意味はありません。今日のために臨時で運び込まれたコインロッカーを開け、そして、荷物をチェックしていた時のことです。
―――あれ。
 私はもう一回、自分の袖を探しました。無い。無い。無い無い無い!
「ええッ。」財布が。「嘘ですよね!」無い、バックにも袖にも入ってない!!!
 
「これか?」

 後ろをばっと振り返ります。そこには。
「やられっぱなしは性に合わないんでな。とりあえずこれは〝仕返し″だよ。それと、まだ荷支度は早い様だぞ、『狸宝』さん。」
 そんな事を言ってくる、あの黒スーツの男。
彼は、そのまま私の財布をぽーいと私に向かって放って、それをキャッチした私に「中は全く見ていない。安心しろ。」と言いました。そして、
「―たった今、アンタの名前が最終選考の五名に選ばれた。皆アンタを探してる。だから早く行った方がいい。」と、その長身から私を見下ろす様に見ていました。
 本来不快な行為のはずなのに、別に不快感を抱かない所が、自分にとっては驚きではありましたが、それよりも、また何より。
「―…私、最終選考に選ばれたんですか…?」
 半信半疑でそう尋ねると、彼は笑いながら、
「あの新社長が、『お見合いに掏りの技術を披露した女』に、笑わなかったとでも思ったのか?」
と返されました。
…そうか、あの人なら、確かに面白がったかもしれないな。
―そんな妙に納得してしまっている自分がいました。そうしてやっと、私にも私を呼ぶ大声が聞こえてきました。
 その声に応えるかのように、私は着物姿で小走りで最上階の四階へと進むために、エレベーターの昇降ボタンを押します。
 ふと後ろを振り返ります。
 そこにスーツ男がいた痕跡など、煙の様に、跡形も無く消え去っていました。


「で。何故かこうやって選ばれてしまったわけなのですが…」
 私は呟いて、その休憩室で固まって四人で話している他の最終選考者たちが優雅な語り口調で今度の海外旅行の話などをしている少し遠くの位置で、こんな最強のソファと言っても過言では無いものに身体を埋めている訳です。一人で。たった一人で。アウェー感で言うと大統領専門機に農家の百姓さんが相席しているくらいです。生卵がいつ飛んでいてもおかしくないレベルです。なんてもったいない事をするのか!美味しいのに。…すいませんちょっと壊れてみただけです。

 もうすぐ三時。それから一人ずつ、念願の天映翔さんとのお見合いが始まるのです。一人頭三十分。それの伸び縮みは、翔さんとの会話の弾みかたに左右されます。好感触なら長く、駄目ならばそれよりも短く。もうその時点で気が重くなる私がいました。しかも今回も一番最後。
此処だけは、天映社長の意図が絡んでそうで嫌でした。仕方ないですけども…。
ぽーんぽーんぽー…ん………ー。
 三時を壁にかかったアンティーク物の振り子時計が知らせます。
 最後のチャンスが、始まります。
 私は、どんなことを喋ろうか必死で考えますが、その焦りと裏腹に、緊張は高まり、片っ端からそのアイディアを吹っ飛ばしていきます。ぐるぐると頭を回していると、一人目のお見合い相手は、十分で退場。…泣いてる?二人目…五分で退場。…怒ってる?三人目七分。四人目十一分。…。

 速いって!
 翔さんいくら嫌でもそれは早すぎるでしょう、いくらなんでも!撃沈とすら言えないお見合い時間でしたよ前の四人!うわうわどうしよう、せっかく「一番最後」という「最高のメリット」である「他の候補者の感じを参考にする」が全く使えなかったじゃないですか!海外旅行の自慢話の前に目の前の翔さんとのトーク(戦略的駆け引き)を練っていて下さいよ!
《ではナンバー5、○○県、宿借市在住、狸宝田優さん、どうぞ。お入り下さい。》
―やるしか、ない。
 私はそのお見合いの場所である和室へと廊下を進んで行き、膝をつき、見るからに金がかかっている襖に手をかけ、開け、お辞儀をしました。そして部屋へと入ります。そして翔さんの姿を、こうやって明かりの上で初めて、はっきり見る事が出来ました。
「はい。あなたが最後ですね。すみませんが、僕はまだ身を固めるつもりはさらさらありませんし、僕は僕が好きな子と一緒に成りたいので、お帰り下さい。」
 速すぎるって。
 私、まだ何にも言えてないじゃないですか。ちょっとはこっちを見てから言ってくださいよ。
 アナタに会うために、わたしがどんだけ苦労したと思ってんですか!
 解ってんのかこの野郎!と叫び出す衝動に駆られ一瞬浮かしかけた腰を、その初めてこちらを見た翔さんが驚きの表情を浮かべて見ているのを見て、その怒りは「ふしゅー」と音を立てるように消えていくのが解りました。だって。「あなたは…もしかして、あの時の…?」と言って、その顔を「うわあ、やっぱりあなただったんですか!やべ、嘘みたいだ。え、どうして、わざわざこんな《茶番》を受けてまで来てくれたんですか!?」なんて言って、顔一杯に喜んでくれたのですから。

「僕、ずっと探してたんですよ。でも、父から無理やり諦めろって言われて。しかもこんな馬鹿なことするし。ふざけんなって思ったんですけど、会社にとっても大事な事なんだって言われりゃ断る事も出来ないし。相当ヤサぐれてたんですよ、実際。でも、こうしてまた会えるなんて、夢みたいだ…。」

 私は、きっとこの言葉が聞きたくて、こんなことまでして彼に会いに来たのでしょう。

「また会えるなんて、本当に嬉しいです。〝運命〟って、あるんですね」
私と彼は、そこで三十分どころか二時間もずっと喋り、お互いの気持ちも打ち明け合いました。
「神様。あなたの方へと、宗旨替えしたい気持ちで私は今、一杯です。」

 そう、思いながら。


                 ☮


 そんなことがあって、前代未聞の《運命》カップルとその場をにぎわせた私たちでしたが、少し私が疲れてしまったのもあって、休憩時間を挟むことになりました。
 二階の人気のない、自動販売機とソファと少し大きめのガラステーブルがある休憩室。
 このご時世、喫煙室は既に姿を消し、もし吸いたいのであれば、外へと出なければいけないこの施設では、もう審査も終わって、途中で落ちて行った参加者たちへの新製品の紹介や、無料体験コーナー、アドバイザーなどによる『DOUYA』家電についての得する使い方や裏技などの紹介で人が溢れていました。しかし、今日この時間、二階以上は既に天映家の貸切となっており、この下の喧騒が嘘のような静かさで休憩室は包まれていました。
 私は、文字通り、浮かれまくっていました。頭の中を調べたらオレンジ色一色で染まっていた事でしょう。だって、こんな劇的で、しかも自分の努力によって、ここまでこぎつけて、しかも相手からも求められていたなんて、まさに運命!やっほ~い。私は今無敵だ~!あっはっはっはーッ!

 何でこいつがここに居る。

 私に背を向けながら、黒い上下のスーツを着込んだ長身の男ががこんと、『コカ・コーラ』の缶を買い、それをかがんで取りながら、こう言ったのです。

「やっぱりコークしか、俺は認めないな。その証拠に、こんなに大きなホールがあるところでも、ペプシは使われず、コークが選ばれている。全く、ペプシだと?くしゃみでもしたかのようなダサすぎるその名前から変えなくては駄目だろうな。全くこの世に優秀なモノほど類似品が存在してしまうのも一つの優秀さの表れであり、『有名税』の一部と考えればまだ納得はいくがそれでもあんなペプシのようなコークと似ても似つかない泥水を飲む人間の気がしれん。正に馬鹿だな。馬鹿としか言いようがない。あの色にはレッドが似合うのであって、同系色の黒をボトルデザインに使っているのにも個性が感じられん。『ペプシマン』?ハッ、あんな実は日本にしか存在しないクズキャラクターを堂々と世界標準で考えるくらいにしかペプシファンには脳みそが足りないということか。この世から早く消え去ってしまう事を心から祈るばかりだ。」
「アンタが消えろ、このクソコーラ(ファッキン・レッド)。」

 私は、気付けばその男の直ぐ近くで、そう言っていました。私の、数少ない地雷を踏んだこの男を、叩き潰すために。

「アンタに、ペプシを語る資格なんてありませんよ、このクソ野郎。」
 男は最初驚いたようでしたが、すぐにあの皮肉っぽい笑みを浮かべて、こう返しました。 
「ほう。ではお前はペプシよりもコークの方が劣ると?どうやら頭でも湧いているらしいな、いい医者を知っているが紹介してやろうか。そのペプシを飲むのを止めてコークにすれば直るだろうがな。」 
「コークなんて子供だましにそんなにご執心な溶けてる脳みそではコークとペプシの歴然たるその差にも気づけないとは哀れ過ぎて涙が出そうですよ。大体、そんなにコークが好きならばアメリカにでも移住したらどうなんです?そうして下さい、是非そうすべきですよ。そうすればもうあなたみたいなアホコーク主義者が一人減って、ペプシの良さを解ってくれる人が増えるでしょうしね。」
「おいおい冗談でもそれは馬鹿丸出しだぞ御嬢さん。ペプシなんてものはこの世からさっさと退場すべきなんだよ。それすらも解らずアメリカに行けなんて…、日本のコークファンに謝ってほしいものだ。まあ、あんたみたいな、摺りが得意な女子高生の話を聴く奴なんてこの世界に居ないだろうがな。」
「っていうか、何で施設内はクーラーが効いてるからってこんなさんさんの暑い時に上下のそんな見るからに熱がこもりそうな黒いスーツ着てるんですか?MIBごっこだったらよそでやってくださいよ。公園にでも行って、砂場で遊んできて下さいよそして通報されて捕まって二度とムショから出てこないで下さい。というより私の前に二度と現れないでください。もうこっちとしては、あなたの顔なんて二度と見たくないんですから。」


 あ、れ。


 この人の顔、私、見たことが、ある?どこで?今じゃない。もっと前だけど、それでも最近―。
『そいつが阿足巡査―』『はは、やくく、兄、貴―』『〝お返し〟、だ』

 もっと早くに気付くべきでした。

『二人組の警察官』。
〝諸星〟?〝阿足〟?  「うる星やつら」馬鹿にしてんのかよ。
『レイプ犯』。
 あんな長身で、手下?考えたら有りえない。あったとしても、あんな風に上手く抵抗する人間の呼吸を、自然に流れるようにコントロールするなんて、ただの性欲持て余した只の馬鹿には絶対無理だ。
『今ここに居る男』。
 戦場で鍛え上げたこの手(ストロンゲスト・オバタリアン・キル・ソード)よりも早く私の財布を軽々と摺り取り、そして私の相手になる時のあの声の小ささは、私にこいつが『警察官』とも『レイプ犯』とも同一人物である事を悟られないようにするため。
   
 では、何のために、そんな事をしたのか。
 天映翔さん、―天映翔の、部下だったから。
 私を、用意周到に傷つけ、その隙間に自分をねじ込むための、本当に彼自身の言っていた通りの〝茶番〟。
 こんな、下らない、ゲームもすべて。私と、接点を持つため。
 それも劇的な偶然を装って。
 私の問題だけ、『ドッグ・レース』と一緒にしたのも確実に解いて次に進むようにしため。
 あの『DOUYA』から続いてきた違和感。
 自分のあずかり知らぬところで何かが私を取り巻いている、そんなザワつき。
 今まで良い事の象徴だと思っていたそれは全て嘘。
 きっと、父さんが轢いたあのおばあさんも。
 そして学校のあの異常な二分化も。
 レイプ犯に襲わせたところを助け出されたのも。
 みんなみんなみんな。あの天映翔(クソ野郎)が仕組んだ真っ赤な、嘘。
 もっと出てくる。もっともっと。
 あのレイプ犯の小太りには不釣り合いな妙に細く長い指。小太りが最後まで焦れていた時間の、あまりの長さ。
 あの安全運転第一のドライバー優等生の父を襲った急激な眠気。
 そんな表に出なかったこれまでの『違和感の全て』が、私の中で一つの形を取っていきます。そして、結論に達した私は。
「答えなさい。」殺したい。
「これは、誰が仕組んだんですか?誰が私達を、こんな目に合わせたんですか?。返答次第ではその首、本当にへし折ります。」
 
 その私の前に実は何度も表れていた青年は、眼鏡を取り、固めていたワックスを最大限落とすように髪を掻き、その肩までの緩い天然パーマと、睨みつけているようにしか見えないその鋭すぎる眼光で、こちらも見て、「ふぅー…」とため息をつきます。と。
「―全部だ。」
 全部って何がですか。
「そのまんまだ。」
 そのまんまって。
「―お前、いや、お前たち親子をそうしてくれと頼まれた。俺達は奴に雇われ、仕事をした。それだけだ。お前たちには何の興味もないし、今回の仕事にも感慨は無い。お前たちは只の依頼実行対象者だし、お前が恐らく今感づいた全ては、俺達の『仕込み』によるものだ。まぁ、運が無かったんだな―」

 踏み込む。
 上半身を限界まで捩じる。
 後方に行ったその右拳を、左腕の振りと共に突き出す。

 物凄い音を立てて、黒スーツが背中からカラステーブルに仰向けに激突し、ガラスが割れて、辺りにその男を中心に円を描くように飛んでいく。つかつかと寄っていき、そのネクタイを掴んで、引っ張り上げる。その眼を見る。
その妙に澄んだ瞳にやけに心揺り動かされながら、睨みつけたまま言う。

「私に協力しなさい。」
「…つまり?」
「あの男を殺します。―社会的に。あなたを使ったあいつに、あなた達を使って、この世界に存在できなくさせてやります。―父のように」
「…俺達を雇うのか。」
「断れると思っていますか?」
「ああ。」
「―私はしぶといですよ。例えあなたがどんな暗闇の住人でも、探し出して、絶対に殺します。」
「…………一つ、諦めてもらうぞ。」
「なんです?」


「…ここからは、もうただの女子高生で生きていけると思うな。ペプシ(腹黒)女」
「…そんなもん(退屈)、とっくの昔に捨ててますよクソコーク(ファッキン・レッド)」


 ―戦いが始まります。私の人生全て賭けた(チップした)、嘘吐き同士の、戦い(騙し合い)が。 

〈第四幕〉新たな雇い主は己の手札(カード)に戦慄し、男は飼い犬が狼だったと気付く。

 
「復讐ってもんはな。基本、面倒臭い仕事なんだ、あんまり出来も良くない事が多いし、だから結構〝復讐の運命〟を希望する依頼人(クライアント)は多いんだが、成功率が不安定な割に、こちらとしても下準備がかなりかかるから、当然報酬も変わってくる。そもそも相手がそれをきちんと復讐されたと思わせると同時に、その依頼人にも危害が及ぶ証拠を残さないように完璧に〝仕込む〟必要があるし、依頼人の影を踏ませることなく、そしてこれは因果律(目には見えないが、自分がそうされても仕方がない、人間にはコントロール出来ない何らかの力が自分を罰したとしても不思議では無いといった関係性の事)が働いた、つまり自業自得であり、あの人間(クライアント)に手を出したから、きっとそうなったんだ、と思わせる必要もあるしな。ハイリスク・ローリターンって訳で、俺達の扱う仕事はそんな他から〝無理だ〟と思われることをやって、そして信頼されてる、ちっぽけな会社なんだ。だからこそ、失敗は許されない。来た依頼はきちんと遂行する。クライアントが納得する形で相手の感情(・・)を変えなければいけない。そして、今回、アンタが俺達に依頼するのは、そういった難易度も高く、成功率も高くない、しかも危険度も高い〝三高〟だ。しかもやるからには完璧にしなければいけない。少しでもアンタの影が見えた瞬間、天映翔はアンタを襲うだろう。俺達を使った(・・・)ようにな。しかもアンタにはそれを依頼できる金も用意出来ない。本来なら門前払いしてもおかしくは無いんだが―でもまあ、俺達も依頼人には悪いが、正直気も乗ってない仕事だったし、いくら世捨て人の俺達だって、目をつぶる事が出来ない時もある。だから一応確認するが、本当にいいんだな?アンタが失敗した場合、俺達は一切責任を負わない。アンタが何をされても関わらず、元の依頼人には全てアンタに責任があるように工作させてもらう。あっち側がアンタを好きにしていいと言うのなら、悪いがアンタがバージンだったら好きな人に捧げるのは諦めてくれ、まあ、それが俺達『運命屋』、《ディスティニー・メイキングス》のあんたに対する条件だ。」
 
 そう言ったのは、目の前に座る私の人生を滅茶苦茶にした張本人たちの一人。
 そして私の前に何度も表れていた人間でもあった男。
 名を『鬼ヶ島穏優(おにがしまおだやか)』というらしいですが、そいつは先日ガラステーブルに叩きつけた男とは到底同一人物とは思えない、てろりとした年季が入ったAC/DCのロックTを着つつ、おそらく裾直しすら必要としなかっただろう、長めのストレートジーンズを履き、鬼の顔がデザインされたネックレスを胸にぶら下げて、その本来のラフなイメージそのままの格好で、私の眼を見つめて言いました。
 オンボロながらきちんと空調を整えられて気持ちのいい、適度な冷たさが身体を包むこの部屋で、来客用のソファに座り足を組みながら、私、狸宝田優は少し俯いて、これからの道を想像しつつ、その苛酷さと復讐、第二の人生を歩むためと、父への社会の誤解を解くためのこれからの事を天秤にかけ、どちらに振れるか、必死に考えていました。
 そして、出た結論は―「解りました」そう。

「私の側についてください。『ディスティニー・メイキングス』の皆さん」
そこに集まっていた、たった五人の男女に告げます。

「私に力を貸して下さい、お願いします」

『敵に頭を下げる苦痛』なんて感じてる場合じゃありません。今はただ、戦わなくはならない。何の力も無い人間が、あんなに多くの強き駒を持っている敵に、敵う訳など千%無いのですから。だから、あの天映翔に一泡吹かせられるのならば、手持ちのカードが増えるのであれば、私は何だってします。するでしょう。それが例え、勝ち目が最初から解っている負け戦であっても。
下げた頭のまま、私は繰り返します。

「あの男に、復讐させて下さい」

 可能性が少しでも上がるのならば。
 私にはそんな事、どうという事でもありませんでした。


                 ☮


 あの後、少しの間鬼ヶ島さんと話し、再び天映の所に向かい、騒がしくなった和室は向こう側を塞いでいた襖を全開にして、机を持ち込んでのどんちゃん騒ぎになっていました。
 天映は酒を飲んだのか赤い顔になっており、私を見つけると、さっきの会話の続きを再開し始めました。私は途中途中顔に手を当てて、上手く筋肉が笑みを保っているか確認していました。気を抜くとさっきの様に右ストレートで殴り飛ばしたい衝動にかられるので、
 ぐっとこらえ、なるべく自然な会話を心がけました。鬼ヶ島さんいわく、「アンタがたった今絶対にしなければならない事は、いかに相手に自分が幸せか相手に思い込ませるかという〝演技力〟だ。ここで一端面会は終わり、二、三日は確実にアンタたちは会わないだろう。その時までには、天映翔との態度に陰りを出さないように俺達のその道のスペシャリストに指導を受けてもらうから大丈夫かもしれんが、今俺に向けたようなその怒りを相手に感知されたら終わり(・・・)だ。だから、今が逆に『正念場』だと思っていい。相手に悟られず、自分の本心を表に出さない。あくまで、「こんな奇跡みたいな素晴らしい『運命』が私におとずれただなんて、夢なんじゃないかしら!」みたいな喜びで一杯なバカ女になっていろ。
 ―いいか。もし自分が切れそうになったら、この名言を思い出せ。」どんな?

 ―「『世の中で成功を収めるためには、馬鹿の様に見せかけ、利口に活動する事である』」

 誰の言葉です?「シャルル・ド・モンテスキュー。」何をした人なんですか?

 ―「政治を〈司法〉、〈行政〉、〈立法〉という三つに分けて行うという、この国の政治体制にも使われている『三権分立』を説いたとして有名な〝社会学の父〟と呼ばれている」

 私も、〝新手詐欺師たちの母〟とかって呼ばれるんですかね。はははは。

「無理だ」
「冗談に決まってんだろォがこのスカたんがァ」
 
 そんなやりとりを思い出しながら、表面上は全身から喜びをはちきれんばかりに表現していながら、冷静に頭の中でこの男の中身を調べておこうとそれとなく水を向けて行きました。どれだけ飲んだのでしょう。あの甘いフェイスが、どことなく獲物を狙うように歪められ、そのねっとりとした視線を私の口と胸と股の三点を移動させながら、私への質問の気の無い返答を繰り返していました。
『見た目に騙されるな』とは本当に〝金言〟ですね…。私はもうこの男に一ミリも好意も感謝も尊敬もしていませんよ。私のくせ毛を頭の上でまとめて団子にしたヘアスタイルを、顔の美しさを、スタイルの良さを、私のコンプレックスである垂れ目も褒めちぎっては来ますが、私の感情は喜びとは真逆の方向へと加速していきます。
 ―…ふざけやがって、この野郎―!
 そうは思いつつも、そのお世辞の一つ一つに照れたり、はにかんだり、口元を隠して軽く冗談でヤツを叩いたり。(本気でぶっ叩きたかったです)凄く神経を摩耗させられた一時間は五時間にも感じられました。
 そんなこんなでつつがなく終了。ヤツとメルアドと番号をもらった時、その場で削除したい気分に襲われましたがぐっとがまん。
 先程、鬼ヶ島さんが持ち歩いているらしい手帳からびりっと一枚紙を破いたかと思うと、さらさらと何かを書き簡単な地図と自分の携帯番号とメルアドが載ったその紙を私に手渡して、「この見合いが終わったら、なるべく早く計画を始めたい。明日すぐ俺達のいるビルに来い。アンタらが住んでる宿借(ヤドカリ)市の東側から中心街を通って、ビル街のすぐ手前にある、目立たない小さなレンガ色の建物がそうだ。地図は大まかに書いたが、地元民のアンタなら必要ないかもしれん。一応念のためだ。それ以外は、全部俺への連絡に使ってくれ。必要な時、そこに電話かメールをくれれば、すぐに行く。ま、頑張れよ」と言われた通りに、私はなんとかこの苦行を終えて身支度しバスに乗って近くの駅に行って一時間揺られ。宿借市に着いたらこの借りていた着物をレンタル屋さんに返して、「どうでした?」と事情を知っている店員さんに話しかけられて、そのまま「駄目でした。」と苦笑いしたら、「いい男ってのは、一発じゃ解んないものですしね。その男の奥を見なきゃ、せっかくの〝ダイヤの原石〟に会っても、気付かずに通り過ぎてしまうものなんですよね…」と恋愛経験豊富そうなその人が感慨深げなため息の言葉は、ワザとでは無いのでしょうが、グサリと私の心を刺し貫いていました。


                 ☮

 次の日。
 私は父をまた意味の無いハローワーク通いへと送り出すと、自室でなるべく地味な、それでいて目立たないありふれた服を着て、メイクは軽く済ませ、癖毛は軽くアイロンで伸ばし、ちょっとした変装気分で外に出て、鬼ヶ島さんに言われたとおりの場所へと向かいます。
 宿借市は東京都に程近い場所にありますが、都会の華やかさとは無縁の場所です。
 東京に行くにも電車数は少ないし、行くだけでお金がかかってしまうため、学生でも月一回友達と出かけるくらいが関の山。それにわざわざ高い電車賃とバス代を払うくらいなら、市の中の大型ショッピングセンターや、何故か各地に点在する古着屋や怪しいながらも面白い店が多いので、意外とそういった所に行く人が多いが実状です。「都会だと手に入れるだけでも一苦労のものが、少し待てばここでは半額位で買える」と服に最も気を使うであろう高校生である私たちでさえもそう思っているくらいですから、ここは『金は無いけど暇はある』学生たちにとって、非常に住みやすい所であるとも言えます。
 それにちょうどよくと言うと誤解を招くかもしれませんが、ここには独特の田舎っぽさも随所に残しており、派手派手しいネオンがきらめく中心街から少し離れた場所に行けば、そこには夏の田んぼらしく青々とした稲が踊っています。中心街には少ないですがブランドものの店、例えばグッチやカルティエ(どうしてこんなところに支店を出そうと思ったのかは謎ですが)もありますし、様々な企業もその通りを超えた先のビル街には収まっていたりします。
『都会と田舎がちょうどよく混ざった』町、それが、宿借市という所なのです。
 
 私が鬼ヶ島さんから指定されたのはそんな中心街とビル街のちょうど中心辺りにある場所。駅にも近く、そして実に目立たない所でもあるそこは、地元民である私でさえも見つけるのに少し戸惑ったほどでした。そこは普通の住宅に紛れるように建ち、同時に違和感なくそこに佇んでいました。
 赤茶色の、確かに言われた通りの煉瓦色のような、落ち着いた風合いのビル。
 表の一階と、二階にある窓の間に、《ディスティニー・メイキングス》とアルファベットの大文字、金色のプレートに浮き文字で黒く描かれていました。
 どうやら三階建ての様で、直射日光を浴びても何処か涼しげにも感じるその風貌は、あの大胆不敵な黒スーツ姿の男を連想させます。入り口は自動ドアのようだし、扉越しから見ると奥にはエレベーターがあるようです。
 パッと見、床も綺麗なクリーム色を失っておらず、外見と違って中はきちんと整備されている様でした。「失礼しまー…す」と私がこわごわ入っていくと、外の熱気が嘘のように消え、涼しさがこのフロアを満たし私を地獄から救い上げてくれました。と、入ってみて解ったのは、そこががらんとした何もない空間であること。あんな大がかりな嘘っぱちを真剣にでっち上げるようなふざけた会社なのですから、もっと嘘臭い笑みを張りつかせた様な管理者が待っているのかと思っていた私は、拍子抜けしてしまいした。
 いえ、何も無いわけではありませんでした。
 両側の壁には二個ずつドアが付いており、左手前から『NO1』・『2』。右手前から『3』、『4』と書かれたプレートが、ドアの上部に取り付けられています。この感じからすると、どうやら一階は居住スペースのようです。
 部屋数が少ない事から、二階か三階に、もう一つくらいここと同じ造りの場所があるのでしょう。それ以外がおそらく事務所になっているはずです。何だかんだ言って、四人では仕事も出来ないでしょうしね。
「ああ、来たか」
 悲鳴をあげました。
 後ろを振り向くと、見た事も無い青年が、耳を塞ぎ、涙目になりながら私の方を睨んでいます。今の声のせいだと言わんばかりのその表情に私は逆に怒鳴り返します。
「いつから後ろに居たんですか!?一言声をかけるのが礼儀でしょう!いきなり用意もせずに声をかけられるのがどんなにびっくりするものか、その身体に教え込んでやりましょうか!」
「…前から言おうと思っていたが、お前ほど外見を裏切ってくる女も珍しいよな…」
「『お前』!?初対面からその女性を『お前』呼ばわりですか!?私はこう見えてもあった事も無い奴にそんな馴れ馴れしい口調で話しかけられてムカつかない程人間できちゃ―…ってあれ?」
 私がしばらくその男の顔をじっと見ていると、突然、パッと私の中で情報が繋がりました。
「…あなたもしかして…鬼ヶ島さん、ですか………?」
「もしかしなくても、俺は正真正銘、本名、〝鬼ヶ島穏優〟だ」
そう言ってきた鬼ヶ島さんは、やっと耳から手を離して、私を見―下ろしました。やっぱり背が高い人ですねー。185cm以上は絶対ありますね。もしかすると90はあるかも。それにしても、これが本来のこの人ですか、いやはや何というか…、まさしく『名は体を表す』を地で行っちゃってますね、この人。
 改めて、私は鬼ヶ島さんを見ました。
 服装は古着好きのにーちゃんのようなラフな格好ですが、ああいった人たち特有のテンポの良さやノリの良さは微塵も無く、その鋭い瞳と刃物のような物腰は、一種の、感情などを極力削り取った『道具』の様な印象すら与えます。そして、その割に一緒に居て不快感や苛立ちを感じさせない所に、独特で「近寄りがたいけど、一回懐に入ると落ち着く存在」のような想像をさせられる、そんな人でした。
外見的には真っ先に目が行くのが、その血の様に赤い、どちらかというとくすんだ濃く深い、赤色で肩口まである緩いくせ毛の「髪」です。赤い髪だなんて、知り合いの男性美容師さんが以前していたのを見た以来でしたが、「やはりあの色が似合う日本人男性はいないのだな」、と勝手に思ったほど、赤というカラーリングは人を選ぶようでした。髪色の主張が激しすぎ、その下の肝心の顔が負けてしまうという、大体が本末転倒な結果に終わるものなのです。
 ですが目の前の鬼ヶ島さんは、もうその色が実は地毛なんじゃないですか?と思わせる程のはまり具合で、その緩やかなくせ毛と相まって、本当に昔話に桃太郎に退治される赤鬼のようでした。(あれは確か金髪でしたが。)そして顔は、中々、彫が深く、鼻も高い。どちらかと言うと、欧米系の顔立ちで、その背の高さと髪型と顔が合わさると、どこかのモデルの様にも見えてきます。…まあ、そんなプラス評価を覆さざるを得ない程に、その目付きは殺人犯のように尖がり、見た者に恐怖を抱かせるくらい、悪いのですが。
そんな彼は、私の人物検査をしている事に全く頓着せず、肩ごしにエレベーターを親指で示して、「全員上で待ってる、早く行くぞ」と言ってきました。
 それなら自分一人でさっさと歩き出せばいいのに、私を律儀に待って動こうとしない彼を、私は少しおかしく感じました。
 私達にあんな事をした張本人のはずなのに、何だか憎めないと言うか、生き方が不器用そうというか。彼なりに、罪悪感を持って私に接しているのが解った今では、私はそんな彼を責める気にはもう、到底なれませんでした。
 何故なら。
 彼は黙って手に持っていたフェイスタオルと、《ペプシコーラのペットボトル》を、私にそっと、放ってきたのですから。
 私がキャッチしたのを見て、その場に立って私が飲み終わるまで待っている彼は、何だか大きな犬が『待て』と言われているように見えてしまいました。
 きちんと清潔に洗濯されたタオルで汗を拭きつつ、ペプシを喉に流し込んでいる私を、少しむせさせるほどに。心配されるほどに。
「お、おい、大丈夫か、いや、嘘だ。皆はそんなに待ってはいない、だから慌てずゆっくり飲め!」
 私は彼がちょっとだけ、可愛く思えてしまったのでした。


                ☮


 先程の説明を受けた後、私は鬼ヶ島さんの少しバツの悪そうな視線を見た後、もう一度、彼ら五人を見渡しました。たった五人だけの会社。そしてたったその五人だけで、私達と天映翔の間を見えない糸で結びつけていた相手。その《ディスティニー・メイキングス》のメンバーを、一人一人。じっと。

 まず一人目。正面に座った鬼ヶ島さんのソファーに私に背を向けるようにしてこちらをチラリと見ているのが、昔の朝鮮半島の国名と同じ、高句(こうく)麗(り)、高句麗玉(たま)藻(も)。
 細く、糸のような、癖毛に日々悩まされている私にケンカを売っているとしか思えない、その美しい金髪。きゅっと吊り上った、メイクもしていないのにマスカラを付けたような長い睫と細く色気漂う瞳。顎はしゅっと尖り、眉は短く瞳の半分辺りまで。それが尚更彼女にミステリアスな雰囲気を出させています。スタイルは華奢に見えて出る所は出て、引っ込むところは引っ込んでいるという全女性が憧れるような体形で、その口元にはこれまた紅を塗っていないのに塗っているように見える程赤く薄い唇。だから唇の厚い自分にケンカ売ってんのかテメェは。
しかし服装はこれまた中学生の男子が好むような緑のタンクトップに黒のTシャツ。ブラもおそらくしておらず、その胸はきっと街中を歩いたらよく目立つことでしょう。
 パンツは太ももを全開にするのが目的の様に短いホットパンツ。だから何なんだよテメェはよォ、と思わず言ってしまいたくなる私の憧れを凝縮したかのような彼女を睨みます。しかも…。
「…んだよ、何ガンくれてんだテメェは。お前みたいな人生の敗者の体現見てェな奴が俺の視界に映るんじゃねェよ。目が腐るだろォがこの人類の底辺が。あー、だりィ。おい穏優、俺外行ってゲーセン行って来てェんだけど。ここにはもういたくねェんだよ。駄目か?」
「駄目に決まってるだろうが、タマ、それと、何でお前は初対面の女にそんなに強烈な毒が吐けるんだ。いつも若い女の依頼主を怒らせてるが、それをいつも宥めている俺の身にもなれ。この間なんか、泣きつかれて部屋に寄せらされそうになったんだぞ―」
「死ね」
「だから何なんだ一体!」
 …事情はよく解りました。よっく解りましたが、それでもこの人とは一生、確実に、間違いなく、絶対に、もう、断言できる程に仲良く喋り合う仲にはなれそうにありません。この見た目に反した「男女」は、最終選考に残った一番綺麗だと私が思っていた女性であり、あの醸し出していた色気のオーラは凄まじかったと今でも素直に思っています。(ただ、あの時は黒髪でしたが。)
 男を完璧に籠絡する《楽園殺し》。メンバーからは〝ハニー・トラッパー(蜂蜜色の罠)〟と呼ばれる彼女は、その普段と仕事時のギャップがしっかりきっかり180度違うので、容易に外見が一緒だからといって同じに見えるとは限らない『好例』でしょう。事実、私はあの時、一回も目の前の彼女があの人だとは思わなかったのですから。あの海外旅行の雑談は、他の候補者の「サクラ」達と、私へのどう行ったら、私の不安を煽ることが出来るかの暗号入りの会話だったと聞かされた時には、本当に驚きました。高級ソファにずぶずぶ沈んでいる自分が妙に滑稽に思えましたね。…ちゃんと聴ける精神状態では間違いなく無かったから同じことだったとは思いますけど。
「んだよ、何まだ見てんだ?殺されてェのか、テメェ。」
「…だからもういい加減止めろ、タマ。それ以上は、本当に許さんぞ。」
「…ってよォ……」
「‟玉藻”。」
「―…わァったよ…」
 …鬼ヶ島さん、やっぱいい人なんじゃないんですかね。何だか少し涙が出そうでしたよ、今のフォロー。一応礼を言いますね…心の中で、ですけど。

 二人目。
 ええっと、何て言ったらいいのでしょう。その、私の事をずっと見てらっしゃるその人。
「…奈々詩、奈々(なな)詩(し)虹(なないろ)。…よろしく。」
 はあ。そうでした。奈々詩さんというらしいです。
 灰色がかった髪。陸上部の女子がするような男子っぽい短髪シャギーカット。顔立ちは女性の私が見てもとても可愛らしいのですが、何というか、目を離すと即座に溶けて消えて行ってしまうような存在の希薄さを感じたりします。ぼんやりとした表情。少し開いている唇。焦点が定まっているのかいないのか、はたまたそれすらも気にしていないのか。
 身長は高くも無く、低くも無い。顔立ちも、髪も、どれも薄い感じ。
 そう、誰にでもなれそうな。
 個性が無い事が最大の個性だと言うかのような。
 その儚さが、彼女の、最大の武器。
 警察官。小太りなレイプ犯。三次審査の司会進行。
 その完璧な演技と、変装と、その名の通り七色の声を持つ少女。この運命屋を陰で支える『雄弁な道化師(エロクエント・クラウン)』。
 それが、彼女、「奈々詩虹。」言われちゃった!?
 私が色々な意味を込めて奈々詩さんから鬼ヶ島さんに視線を向けると、
「気持ちはよく解るが安心しろ。未だに俺にもそいつが理解できてない」
 とのお言葉。解る気がしますよ、その苦労も含めて。

 三人目。
 何故ここに小学生がいて、そしていつの間にか私の膝に乗っかっているのでしょうか。実は、さっきから誰かにそこを突っ込んでほしかったのですが、誰もしてくれないどころかその子に目を合わせようともしないので、さっき聞きそびれた(おそらく皆さんが意図的に避けた)自己紹介を、私は勇気を出して尋ねてみました。
「あの、あなたのお名前は…」
「ひざ、超気持ちいい!」
「…―ああ、そうですか。それは、どうも、ありがとうございます…」
 既に挫けそうにです。ですが、そう言ってても何も始まりません。もう一度、しっかり訊いてみます。
「あの、あなたのお名ま」
「―同骸地救(どうがいじすくい)、一五歳。身長一四五センチ。体重三六キロ。IQとりあえず『232』。計測不能って言われちゃったから、よくわかんない。好きなもの、相撲、競馬、パチンコ、穏優にする悪戯を考えて、一番穏優が苦しむ状態を何度もシュミレートして、実行に移す事。キャンディ、ガム、お菓子全般。女の人の胸を揉むこと。膝枕の気持ちいい女の人。唇が艶っぽい人。栗色の癖毛の人。垂れ目で綺麗な人。―いじりがいが、ありそうな、人」
「私、Sなんで。期待にはおそらく添えません、ごめんなさい。」
「断られるの速ッ!くそう、こうなったらもっとこの膝を堪能してから―」
「―すまん。こいつの存在は無視していいから。」
「離してよぉー、せっかくこんな綺麗で不幸な人に久しぶりに会ったんだからぁ~、研究したいよぉ~」
「こいつは、同骸地救、皆からはキュウと呼ばれてる…、とりあえず、出来ない事は運動以外なら無いと言っていい。何でも作れるし、何でも思いつくし、なんでもそれを実行に移せる…、だから、気にしないでくれ。置物と思ってくれれば実害も少ないだろう…俺とは違ってな…」
 本当に、鬼ヶ島さんに同情し始めてしまっている私です。切なすぎます。子供のおもちゃよりも待遇が悪いんじゃないでしょうか。…何となく彼女たちの気持ちが解ってしまう分だけ、より複雑です…。

 そして、五人目…。
「ひゃひゃっ、お嬢ちゃん、大人気じゃないかい。中々『ROCK』な所もあるし、いいんじゃないかい、穏優。この子の面倒、見てやろうじゃないか。それに、「弱い奴」に「強い運命」見せるよりも、「強い奴」に「より強い運命」で押しつぶす方が、ずっと『ROCK』だしねぇ、ひゃひゃひゃひゃ!」
 レイ・バンのティアドロップ型サングラス。ローリングストーンズの初期プレミア(おそらく)デットストックTシャツ。ブーツカットジーンズに、下は室内だからか、百均で買ったようなぺらっぺらな、ビーチサンダル。髪はハイブリーチにした白に近いプラチナヘアーを、雄ライオンの鬣(たてがみ)みたいに顔を覆うようにセットしている、おそらく六十過ぎ。 
 しかし、「おばあちゃん」では到底括れない、『魔女』みたいな雰囲気の女性。
 彼女こそ、この〝ディスティニー・メイキングス〟の社長、代表、顔であり、そして鬼ヶ島さんの祖母でもある人。
 鬼ヶ島喜(おにがしまき)美(び)さん。
 信条はさっきから言ってる通り格好通り、『ROCK』であるかどうかが最大の判断基準。最大重要要素な人です。(どういったものが彼女にとって『ROCK』なのかが、私にはまだよく解らないのですが。)とにかく、喜美さんに認可されたのは大きな安堵でした。これで本当に、この〝チーム〟が、私の側に付いてくれることになったのですから。

「よし。―じゃあ、やろう。そっちの『運命立案室』で早速、運命作りのディスカッションだ。悪いが狸宝さん、一緒に来てくれ、こっちの部屋だ。…ああ、そうだそうだ忘れる所だった―…」
 そんな風に、鬼ヶ島さん―このチームの、実質的なリーダーで、作戦立案責任者。数々の技術や格闘術、サバイバル技術を〝謎めいている人物の最高峰〟の喜美さんから〝最大級に謎めいた〟訓練を幼少時から叩き込まれた男の人―は、振り返って、私に、こう言ったのです。

「―この度は、〝復讐の運命〟をお買い上げいただき、誠に有り難うございます。誠心誠意、真心込めてキチンと相手様に『運命』をお届けできるよう、最大限の努力をいたしますので、どうぞ、よろしくお願い致します。」

 真面目くさった顔で真剣にそんなセリフを言ってしまう何だかおかしな鬼ヶ島さんに、思わず私は笑みがこぼれてしまいました。
 苦笑してしまいました。
「こちらこそ。―…どうぞよろしくお願いしますね、鬼ヶ島穏優、さん。」
 頼もしく心強くも感じてしまった事は、もちろん私だけの秘密でしたが。


              ☮

『運命立案室』―
 そこは、ひどく整然とした箇所と、酷く散らかった場所の両極端な場所がせめぎ合い、そして、どうにかしてこの部屋のゴミや、おそらくもう使わない道具類を浄化できるかに苦心している人間と、そんな事をお構いなしに腐海を広げて行く者の戦いの後が、はっきりわかる場所でした。二階、先程来客用のソファに座った場所から、更に部屋の奥、入り口から見て左隅にその部屋(囲い)がありました。
 左が樹海。右がデザイン事務所。
 そんな場所に、真ん中に置かれた長方形の長テーブルが一個、スチール椅子が六個置かれていました。
 入ってすぐの、一番面積の小さい「縦」の部分に私が座り、その向かいに社長である喜美さん。そして右側の手前から鬼ヶ島さん、奥に高句麗さん。左は同骸地さん、奥に奈々詩さんが座り、喜美さんがその長い脚を机に乗っけて、言いました。

「んで?どうするんだい穏優。あんた、一応あっち側の仕事を蹴ってこっちのお嬢ちゃんに付くって言ったってさ、いくら正体がバレたからって、義理人情だけじゃオマンマは喰っていけねぇんだよ?
 これが裏目に出たら、間違いなくアタシたちは色んなおっかない人達に追っかけられて生きていく羽目になる。その事を承知でアンタは受けたんだ。なるべくなら私たちにも危害が及ばない方法を取るのがベターってもんだろう?…ま、『ROCK』には程遠い考え方だがね。」
喜美さんはぎいこぎいことスチール椅子を後方に揺らしながら、乗っけた足をぷらぷら揺らしながら言いました。
鬼ヶ島さんはここに入る前に、別の部屋に行ってファイルを取ってきていて、それを皆に回して、一番最後に同骸地さんから私に、そのファイルが回ってきた表紙を見ます。
 厚めの青いバインダー。その名前付けのシールの上に、そっけない字で大きく『天映翔』と書かれたそれは、『経歴・主な行動歴・性格分析・その他表ざたになっていない事件歴』と、事細かく調べられた詳細な情報により浮かび上がってきている、おそらく本人すらも解っていない、本人を最もよく表している資料が集められていました。
 その略歴を見ていたら、気にかかる箇所が何度も見えて来ていました。
 高校生が自宅にコール・ガールを呼び寄せていたり、何度か同じくらいの女性の親から損害賠償で訴えられそうになっているものの、全て何らかの理由で皆直後に訴えを退けていたり。
 カラオケボックスで、明らかに部活仲間と酒の臭いを漂わせながら歌っていたり。
 何だかんだ言いつつそのボクシングの実力で、『恋多き男』なんて言葉じゃとてもじゃないけど括れない、〝略奪〟に多い話が、噂としてかなりある事。みんな口を閉じて黙っているけれど、それは皆承知の事実として受け止められていたりして、口外した時の「お返し」が怖くて手が出せ無いという事だったらしいのです。
 一言で言えば、下種(げす)野郎だったって事だったのです。
 おそらくあの企画もここに居る彼らに、そう言ったリクエストをしたのでしょう。「好みの女がいるから、ちょっと力を貸してくれないか。今回はさ、感謝されつつ、モノにしたいんだよ」とでも言って。鬼ヶ島さんに真相を聞くと、あっさり「そんな所だ」と返されて、ちょっと拍子抜けしてしまいました。そして私は、こんな奴に思い返してみれば思春期男子が一度は思い描くようなヒーロー像を本気で実行しようとする、〝力と権力を持った幼児〟に、人生を捧げてしまう所だったことに恐怖して、そして、ここにいるメンバーは私を正にそうしようと画策していた張本人だという事実に、再び言い様の無い怒りが込み上げてきましたが、今はそんなことを言っている場合ではありません。
「それで、どうしたらいいんでしょうか…?」
 私は恐る恐る彼らに意見を求めます。このファイルを見て解ったのは、奴が救いようのない馬鹿でクズだという事だけであり、ここからどうやって彼に復讐させたらいいのかなど、素人の私には解るはずがありません。まず喜美さんを見て、次に鬼ヶ島さんを見て、次に奈々詩さん、同骸地さんと―「おい、なんでテメェは俺に視線を向けてねェんだ?」―あ、そうか、あなたもいましたね。忘れてました、ごめんなさい。
「まず、ここで大事になってくんのは、アンタが奴に、具体的にどんな復讐をしたいのかによるよ。ちょっと怖がらせるのか、酷く怯えさせるのか、生きている事を後悔させるのか、それとも本当に殺すのか。どういった運命を望むのかによって違ってくるしねぇ。あんたが天映のバカ息子に返して貰いたいのは、一体なんで、どの程度までするのか。今は曖昧でもいいけど、とりあえず今言って貰いたいね。―お客様、どんな感じにその運命を〝包装(ラッピング)〟いたしましょうか?」
 そう言われて、私は少し考えます。
 殺すのは冗談にしても、あんなに多くの事件を起こしているのに悪い風評が少なくともテレビの向こうからネットの向こうから、私の様な人間には漂って来ないように綿密に事後処理を行っている男が、こんな胡散臭いたった五人の詐欺師たちに信頼を預けているくらいだから、やっている事はともかく実力は向こう(裏社会)でも認められているんだろう。その効力は実際に被害にあった自分が一番身に染みて解っているはずです。ではどうする。私は、一体どういった事を、奴にしたいのだろう。そうか。もう答えなんて出てるじゃないか。
「生きるって、ただ口から息を吸って吐いてりゃいいってもんじゃないですよね…」
 私の口から、自然と言葉が流れ出て来ます。
「人生って、よく解らないですけど、〝たった一つの間違い〟が生きる意味を壊してしまったりもすれば、たった一言で、希望へと生まれ変わることだってありますよね。それが私達の、少なくとも今私達の住んでるこの国、なんだと思うんです。恥とか世間とか、うるさくて息が詰まりそうな国だけど、きっとそういった小さな何かを、ずっと大事にしてこれた人間だったと私は思うんですよ。相手の心に押しつけがましくなく触れてあげられる、そんな人も沢山いると思いたいんですよ。」
 何がいいたいんだろう。正に支離滅裂。ただ勝手に出てくる、このこんがらがった気持ちを、そのままずっと、口から垂れ流していました。
「―そんな国の中で、皆、生きて来たんですよ。辛い事や苦しい事があっても、それを自分のために、捻じ曲げて生きて行こうとは、思わなかったはずなんですよ。どんなにそんな行為をする人でも、意図的にそうやって悪意ばかりを振りまくような人間では絶対ないんですよ。他人の人生自体をぐちゃぐちゃにして、笑ってられるほど、少なくともそんな人は少ないと、私は信じていたいんです。だからこそ、許せないんですよ。絶対。何が、あったとしても。私は天映がやって来たことを。
やった事は確かに酷い、酷過ぎるし、制裁を加えたくて、今私はここに居ます。でも、ですけど、彼がやったこと、したことは。他の人間の人生を潰すという事は、そんなに小さな事じゃないんです。間違いなく、それは、許してはいけない事なんです。
もう、誰も、あいつなんかのために、誰かが泣いてちゃいけないんです。もう、私たちみたいなアンラッキーな人間を、増やしちゃ、いけないんですよ。
 死ぬより辛い事がある事を、教えてやらなきゃいけないんです。
 周りから、〝人扱いされなくなる恐怖と痛み〟を、味あわせなきゃいけないんです。
 誰かを操って、幸せだと感じさせて、そして自分の物にしようとするなんて腐った心で、誰かをまた傷つける前に。止めなくちゃいけないんです。
 あいつを。あのクソを。ゴミ野郎を。
『こんな事を一生起こす気が無くなる』ように。
『外を歩けなくなるほどに、他人に軽蔑されてしまうような生き地獄』を、味あわせなきゃ駄目なんです。
 ―この痛みを、教えこんでやらなきゃ、いけないんです。
 こいつみたいな奴が、また出て来てしまう前に。
 こんなことをすると何が起きるのかを、こいつに叩き込んで防がなくちゃならないんです。きっと…だから…だから……私は……こいつを……」

「…もういい。十分だ。狸宝さん、すまなかったな、『これ』、使ってくれ…」

 最初、彼が何を言っているのか私は理解できませんでした。鬼ヶ島さんがなるべく視線を合わせないように、とんとんと、自分の頬を叩いて私を一瞬だけちらりと見ます。
 触ってみたら、私の眼からは、音も無くすーっと何度も何度も涙が落ちていました。
 それに気付いた私は慌ててその借りたハンカチで目元をふきます。全くの無音となった部屋の中で、私の鼻をすする音だけが、しばらく続きました。鬼ヶ島さんは、何故か自分の目も少し赤くして、部屋を出て行きました。そこには唯一の男が出て行った事で、メンバーさん達の何かを私は刺激したようでした。高句麗さんは私にさっきまでの嫌悪の視線では無く、やりきれなさと怒りを込めた事が良く解る、痛ましげな顔でこちらを見て、ドアを開けて出て行き、奈々詩さんもいつもらしい無表情を今は消して、強い瞳でこちらを見ていたかと思うと、音も無く立ち上がって部屋を出て行きました。同骸地さんはたたっと私のひざの上にコアラの子供のようにしがみ付くと、ずっと鼻をすすりなから、泣いていました。
何か彼らを怒らせるような事を言ったのかと戸惑っていた私が喜美さんに尋ねようとして見ると、彼女は「ひひッ」と笑い、
「―…流石だねぇ。あんた。〝人たらしの才能充分〟ってわけだ。ひゃひゃひゃ。―安心しなよ。こうれでアイツらのギアも一気に上がった事だろうよ。なんだかんだでアイツらがアンタに抱いていた罪悪感みたいな物が、アンタを守る使命感に変わっちまったんだから。
―安心しなよ。アイツらがこうなった時、この会社が依頼を失敗したことは、この仕事始めてから一回も無いんだ、ここからは本気でやるだろうしね。まァ、ちょっと待っといてやってくれ。誰かさんたちはね、人前で泣く事だけは、絶対にしないんだ。くくッ。」
 私は何か大きな誤解をしていたのかもしれません。
 いくら私達親子の人生を潰すために動こうが、それが平気な感情でやっているかと言えば、やっていると答える方が少ないのではないでしょうか。
 年齢を教えてもらったのは今私の腹に顔をうずめて泣いている同骸地さんだけ(一五歳いというのはまだ全然信じていませんが。)だけですが、後の三人も、私と同じか多分鬼ヶ島さんが少し上といった所であり、そんな年齢の人達が、そんな事で胸を痛めないとどうして思ったのでしょう。ここにいる全員が、きっと何かの事情があって、きっとここに居る事を、どうして考えなかったのだろうと、私はまだ泣き続けている、同骸地さんの背中を撫でながら、また目頭が熱くなるのを必死で堪えました。
 素直に泣くことすら出来ない、本当は繊細な『運命職人』さんたちに、これ以上、心配をかけないように、と。



「―これが一応、仮ではあるがプランの内容だ。皆よく覚えて、いつもの様に『演技練習』もしっかりやっておいてくれ。特に今回は玉藻の行動によって、『運命提供』が成功するかしないかの大きなポイント、一番の〝仕込み〟になる。いつも通りに天映の性格、嗜好、特徴、それらを総合して、『お前に出来る最大限で、奴の好みになれる様』にしといてくれ。
もともと、奴は大人しめなタイプを狙ってくることが多いが、それは資料にも書いてあった通りに奴がその後、SEX中に必ず回しているビデオカメラで口止めする際、親や友達、その他の同級生に知られるのを特に怖がる傾向にあるのを利用しているからだ。だが、本人の好みからすると求めているものは「一晩だけの関係」とか、「セックスするだけの友人」といった、フリーな性関係相手であることは明白だ。 
 奴も、本来ならあまりそういった事に囚われないSEXがしたいと恐らく思ってはいるが、〝ボクシング界の王子〟、IH(インターハイ)での活躍も期待されている男のイメージがそれを許さない。ギャルとなんてもっての他。その子の口が軽ければ、一発でそういったイメージなどガタ落ちだ。だから今回は、そこを突く事にした。意図的に、自分のその脆いクリーンなイメージを自分で破壊してもらう。徹底的にな。だから玉藻、よろしく頼む。」
 鬼ヶ島さんはそこで私を見て、この事件の真相をようやく全部、語ってくれました。
「言いづらい事なんだが…奴の希望を聞いたのは、間違いなく俺達だ。これらの事は、俺達も積極的に関わっていた。その事は、ここで詫びなければならないだろう。
 もちろん許してもらえるとは思ってはいないが、それでも、君たち親子を「仕事」とはいえ、『運命を届けて』しまい、その生活を全部、ぶち壊してしまったんだからな…。申し訳なかった…。頭を下げる鬼ヶ島さん。私は少し笑って(自分でぎこちないながらも笑えたことに驚きました)先を促すと、彼は続きを語りだしました。
「―補足すると、大体こんな流れを奴は希望した。
〝綺麗だが芯の強い娘がいる。その子をモノにしたいが色々と制約があって、手を出すのが難しい。どうせなら、感謝されながら相手の弱みを握りつつ、他の子との邪魔にもならないようにしたい。金と人件費ならいくらでも出す〟と。
 
 ―結果、出来た運命は、『偶然助けた不幸な境遇の女性に一目ぼれして、その後、無理やりやらさせられていた父親の馬鹿な『お見合い企画』を嫌々やっていた時、適当にあしらっていた最後の最後の一人が、一目ぼれ相手の狸宝さん、あなただった』、というものだ。

 その後その『運命の出会い』のままに婚約。そうなれば、うむ、ん、まぁ、狸宝さんを、その、自分の好きなように躾けられる(調教できる)、といったサディスティックな目的も果たせるし、狸宝さんのご家庭の経済状況を考えるであろう狸宝さんは、嫌が応でも天映のいう事を聞くしかなくなり、例え他の女と遊びまわっても、狸宝さんから文句が出る事も無い。
 
 そんな『綺麗で美しい』表面の維持と、『ドロドロで欲望にまみれた』裏側の楽しみの、
 どちらも楽しみ続けるための、その理想的な環境に必要なもの。それが、〝狸宝さんの家庭を崩壊させ〟、〝そして狸宝さんを精神的に追い詰める事〟、だったんだ。自分の事をヒーローと思い、相手から自分の意志で自分の元に来たのだと、思わせるために。

 そしてそれは途中まで、ほんのあと少しまで、完璧に成就されるところにまで、来ていた。
 だが、その目的は一気に壊れた。

 狸宝さん、アンタが、ソレを見破ったことによって。正に、最後の一歩手前で、気付いた事によって、な。」
 鬼ヶ島さんは、プランを離してくれた時と同じく、私に気遣いながら話しつづけます。
「お父さんの件に関しては、狸宝さん、アンタには恐らく人生で最も衝撃的な事を今から言わなくちゃならない。悪い話ではないが、衝撃はおそらく…かなりのモノだと思う、だから、心して聞いてくれ、いいか?」そう前置きされては、私も心配になりながらも、心して聞きます。

「あの人は、アンタの父親がひき殺したと思ってる老婆は、最初から、死んでいたんだ。」

 何を言ってるのか解りませんでした。
 ですがその言葉の意味をようやく理解してきて、ようやく私はその事実を『知ります』。

「…―え、は…はあああああああああッ!?!?!??」

 私の口からは驚きの絶叫が響き渡りました。
 その言葉の意味、それは―
「私の父が撥ねる前から、既にあのお婆さんは亡くなっていたって事なんですかッ!?」
「…そうだ。だから、実はアンタのお父さんは本当に被害者なんだ。その言葉通りにな。」
 鬼ヶ島さんのその一言は、まだぐるぐると私の頭の中で駆け巡っていました。父は人を殺して無い。父はもうあんな悔恨に苛まれる必要は無い。父は、誰も、傷つけてはいない。父は、殺人者なのでは、ない!!
「もう少し補足しておくと、そこは俺達が関わっている所が少ないんだ。だからまだ理由は解らない。俺達がしたのは、アンタのお父さん、狸宝葉平さんの身体データを会社の健康診断の時のデータから盗み見て、キュウが特別に配合して作った狸宝葉平さんの身体できっかりその時間帯に効くような眠剤を、奈々詩が宅配業者に成りすまして彼の飲んでいるコーヒーに入れた事だけなんだ。その時間帯には、あちら側(天映翔)でどうにかすると言っていたからな。だがまさか本当に人を殺してくるとは思わなかった。頭がイカレてるとしか思えなかったが、それを公表したら、俺達の会社も終わりだし、何よりアイツらに狙われることは間違いなかったからな…、検死の際にも、特別外傷や薬剤を投与した結果にならなかった事から、おそらく奴らには贔屓にしている〝消し屋〟がいるんだろうそれもかなり腕の立つ、な。
だが、やり方からいって、まともな奴じゃない事だけは確かだ。なんだかんだ言って年寄りを殺して、更に車に轢かせてるんだ。どんな殺し屋でも、多少は気おくれしたり、断ったりするもんだが、こいつにはそんな素振りは一切感じない……。頭はオカシイが実行能力とプロ意識は高い、同業者に一番嫌われるタイプだ。」
 鬼ヶ島さんの話を聴きながら、その人間のしたことの異常さ、恐ろしさが私にもようやく実感が湧いてきました。
 私を手に入れるため。
 それだけのために。依頼する天映も天映で大概狂ってますが、それをあっさり受けてあっさり実行してしまうその男の感覚が、どんなに冷たく私たちの感覚と程遠い物なのか。
 考えただけでぞっとしました。

「でもな、狸宝さん。」鬼ヶ島さんは言います。

「危険ではある。アンタも、俺達も。
 だがな、相手(天映)はまだその事にすら気づいていない。
 だったら、まだまだ手を入れられる場所は多くある。
 そう、例えば。

 そんなに女とSEXがしたければ、させてやればいい。
 本人にとって一番抵抗なく受け入れられる形で。
 奴が安心して誘いを受けられるような形で。
 自分で自分自身の、破滅へと突き進んでもらえればいい。

 狸宝さん。アンタは見ておくべきだ。自分の人生を狂わせた男が、壊れていく様(さま)を。
 俺達は、こういう仕事をして、生きているんだという事を。」


                ☮
 誰ですか、この人。
 私は昨日と同じく、暑い中、こうやってまた運命屋さんの元に来ていました。
 そしてエレベーターを上がり、二階のドアを開けると、そこにいたのは、「ちょっとメイク濃すぎたかなぁ~、結構今の男って派手目が好きじゃないヤツ多いんだよね~」
 …誰です、誰ですかこの人は。
 入ってすぐの所にある昨日私が座った、来客用のソファーから更に奥。
『運命立案室』よりも手前にドカンと大きな姿見を置いて、その前で私の知らない人間が、思いっきり場違いな格好と場違いな顔と場違いな言葉づかいで、その姿見で一生懸命その髪型を指先で直していました。
 濃いめのアイメイクにブランド物の露出の多いタンクトップ風の上着。スカートも生足を見せる事が前提のような短さ。靴は黒のハイヒール。直しているその髪型はお団子にしたパサついた髪をくるりと巻いた、気を使ってるんだか使ってないんだか解らず、でも、そのギリギリなアバウトさが、逆に退廃的な色気を醸し出しています。
「つーか、私の仕事も考えてくれっつーの。身体売ってるからって、何でもかんでも頼むのはお門違いもいいとこよ、ったく。あんたたちはそれで結構美味しい汁を吸えるかもしれないけど、結局私がいなけりゃそれ自体出来ないのよ?だったらもうちょっと分け前を増やすってもんがこの腐った世界なりの仁義(ルール)ってもんでしょうが。知ったこっちゃないわよ、どうせやるのには変わらないんだしさ。あーもう、解ったって言ってんじゃない!上手くたらし込んでやるわよ、何年この仕事やってると思ってんの!?だったら私にまかせなさいよ―…って、お?」お、と行った時に、やっと私は彼女が誰なのか解りました。
「…おはようございます、高句麗さん。」
「…おお、…はよ。んだよ、時間前だろォが。どうしたんだよ、何かあったのか。別に今日は遅くても良いのによ。〝仕込み〟は今日の夕方からだ。それまで、家で寝てりゃよかったのによォ。…永遠に、な。」
「―…いえ、家にいても暑くて暑くて。電気代もったいないから、付けてないんですよ家のクーラー。だったら、冷房の効いたここで本でも読んでようかーっと。…まさか男の方が『女装』している所に出くわすなんて、私って、なんてラッキーなんですかね❤いいやあ、かっわいい~…おえッ。」
「―…そうかいそうかい、そんなに死にてェなら、今すぐ殺って毛皮剥いでやるよ。かかってこいやこの平成『狸』合戦が。」
「全く喧嘩っ早い男はこれだから困りますよね、まあ、でも久しぶりに運動するのもいいかもしれませんね。金的だけはしないであげますよ、高句麗『君』?」
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド…
 高句麗さんと私の間、中間地点に、目には見えない渦巻き状の雷電迸る稲妻があります。
 それらは互いにぶつかり合い、引き合い弾け合い、私たちを徐々に前傾姿勢へと向かわさせていきます。その迸りが最高潮に達し、互いの身体がバネの様に相手に向かって突撃します―。「狸宝さんが来たって聞いたんだが。居るのか?」がちゃりとドアを開けて、鬼ヶ島さんが入ってきました。
「おう、オダヤカ。結構いい感じになってきたゼ。夕方までには〝完成〟できっぞ。」
「おはようございます鬼ヶ島さん。お邪魔してしまって申し訳ありません。」
「ああ、二人ともおはよう…で、何で、そんな汗かいてるんだ?クーラーでも壊れたか?大丈夫か、ぜいぜい言っている様だが…」
『何でも』
「ありませんよ?」
「ねェよ」
「そッそうか…それならいいんだが…狸宝さん、今日の〝仕込み〟はまず狸宝さんのメールから始まるのは覚えてるよな。そこからがスタートになって、後は俺達が仕事を引き継ぐ。だから、そんなに上手くヤツを騙そうなんて考えずに、サラリと相手がいかにも『今、浮かれまくっているな』、と思うくらいの明るいやつを。天映に舌なめずりさせるような大胆なヤツを送ってくれればいい。奴の目的は唯一つ。君の身体だからな。
だから、その行為を匂わせられれば、もう奴はこちらの掌の上だ。思う通りに誘導できるだろう。その後は、まあこっちの腕の見せ所だ、地味に派手にやってやるから、あの男が慌てふためき落ちていく様を眺めて、ぜひ、その今までの溜飲を下げてもらう。…我ながら悪党すぎるセリフだが、な。」
 そう言った鬼ヶ島さんは、ニヤリ、と笑って私を見ました。そして高句麗さんは何故か物凄い目付きで私を睨みつけていました。にやけている、私を。―ははは。大変ですね、あなたも。ま。そういうもんですよ人間ってのは。ははははは。
「―…タマ、お前も毎度のことだが気を付けるんだぞ。演技とはいえ、そう言った時には何が起きるか解らん。特に今回は腐ってもボクシングIH前回三位の実力者だ。いつでも最悪の機会が訪れるかもしれない。…危なくなったらすぐ行くからな、無理はするなよ…」
「おッ?おッ、おう、大丈夫だって!舐めんなよ?これでも俺、ストファイにゃ慣れてんだし、何か有っても自分でなんとかするさ―」
「―なんとかするのは俺だタマ。女は喧嘩なんてするもんじゃない。怪我でもしたらどうするんだ。女は喧嘩してる馬鹿な男を見て笑ってやればいいんであって、自分でやるもんじゃない。顔に怪我なんかしたら取り返しがつかないんだぞ。解ってるのか?」
「おおおおおおおおうッ。よ、よくよくよくく。ようくわァった、わァったからよ………、そんな怒るなって、ははは」
「それでな、狸、宝さん?……狸宝さん。何でそんな物凄い眼つきで俺を見てるんだ?正直、物凄く怖いんだが…」
「なんでもないですよ?」はははははははははははははははははは。
 ホントに。この男はもう。何というか。
 大変にしたいですね。マジで。

 そんな私は、気持ちを切り替えながらもう一度、部屋に入った時のあの衝撃に目を向ける事にしました。いやはや。
「それにしても凄いですね…これが、あの高句麗さんなんですか…」
 私は嘘偽りなくその事を口に出しました。私の前にいる女性。それは、まるで。
「―〝風俗嬢〟って設定だったからなァ。何回かやったコトはあったが、そこにカーゲットの個別の差によって、変えてかなくちゃなんねぇからなァ。だからベースはそのまんま使って、とりあえずこうやって色々、細部まで詰めてんだよ。癖に仕草、その他もろもろ外見、嗜好、趣味、性癖、好きなSEXに嫌いなSEX。それに家庭環境や生い立ち、この仕事に就くまでの歴史。仮初であればある程、それはディディールが細かければ細かいほど、相手にとっちゃ信頼の証拠になっていくし、使わしてもらう店側にの店長につかましておく金と一緒にその情報も渡しておけば、俺への安全装置にも、『ヤーさん』に罪を押しつけやすいしな。俺達は気づかれず、あっち側だけが損をする。そのためには、細けェ所が大事なのさ。そしてそれが出来たら、後は天映(ターゲット)が最も好みそうな外見と性格になりきりゃ、八割方成功すっと思うゼ。ヤーさん流の〝嵌め〟で落としてから、本当に人生をぶっ壊す。その布石にはやっぱ、時間をかけねェとな…。だったらもうちょっとギリギリまで固めておく。何時も通り、俺の中の『高樹(たかき)望(のぞみ)』ちゃんを、な。」
 姿見で再び仕草を練習しながら、同時に浮く絵の上に置いてあるノートに書き込み書き込み、高句麗さんは熱心に思いついた設定をびっしりと書いていました。表紙は「風俗嬢『NO・7』、対象者、天映翔」と太ペンで大きく書いてあり、昨日からずっとやっていてくれたのか、小指の下の手の腹が鉛筆汚れで黒くなってしまっていました。
 その努力さに、いけ好かない女ではあるけれど、同時に何故か好意のような物さえ持っているように感じている自分に、ビックリしていました。
 何故か顔を突き合わすとケンカ腰になってしまうのに。
 そんな関係だと言うのに嫌いになれない。
 自分で自身を不思議に思うくらいでした。
「よし、じゃあ始めるとするか。―依頼人さん、覚悟は出来てるか?人の人生を壊し返す覚悟は?」
 鬼ヶ島さんは私を見てそう言いました。解ってるというのに。
 私の言葉など、もう最初から、決まっているというのに。
「よろしくお願いします皆さん。
あいつにー私の人生を破壊した天映翔(クソバエ)に、届けて下さい。
 ―復讐の、運命を。」
 もう二度と、私なんかを作らせないために。
 そう心の中で付け足しながら。

幕間・密談と交渉と癖(くせ)売り屋。彼は自分の家族のために繋がれる決意を固めていた。

「ご無沙汰だったじゃねえの」
「色々あってな。それに最近は大きな仕事を抱えてたから、あまりお前と接点を持ちづらくてな。今日は時間を作ってきたから大丈夫だが、そろそろ時間制限が来ようとしている。お前の情報収集力を舐めている訳ではないが、お前も商売の特質上、相手との信頼でなりたっているものだろう?だから、うかつに手を出せなくてな。お前と会って話をすること自体が難しかったんだ。大体、お前のやり方からすると、木の葉を隠すなら森みたいなものだから、よく今までもっていると感心するくらいだよ。」
「あー、あれはまあ『趣味』みたいなもんだからな。オヤジが隠れ蓑にしていた店をそのままそっくりと使わせてもらってたら、面白くなってそのまま続けてやってるだけだし。あんまり大した事をしようと思ってる訳じゃねえよ。人間観察のノウハウをそのまま店の企画に反映させただけさ。〝ドッグ・レース〟なんて、やったら絶対当たるなって確信してたくらいだしな。今なんて、あのおば様方の知恵と勇気と努力と勝利の結晶だけを見に来るなんて強者もいるくらいなんだぜ?ショウとして賑わせるのは、戦略の基本だと俺は思ってるからな。おば様方の日頃の旦那へのうっぷん晴らしに最適だなんて言われるくらいなんだぜ?感謝されつつ、もうかり、しかも自分も見てて面白い。正に誰にとっても最高なんだよ―だろ?」
「その意見には賛成も反対も出来ん。そのドッグ・レースに依頼を混ぜていちいちお前に伝えなきゃいけないのは面倒極まるぞ。毎回毎回その俺を示す暗号を考える身にもなってくれ。しかも、その問題が参加者(オバタリアンズ)達への暗号へとそのまま使うお前には、逆に俺にその料金の何割かを分けるべきではないかとさえ、思っているんだ。」
「別に顧客はあんただだけじゃないからね。もしそういう面倒な手順を踏みたくないってんなら、俺を使わなきゃいい。他にも結構俺の飯ダネを欲しがる奴らも多いのさ。
―まあ、なんなら今回は俺に勝ったら、無料でネタもやるしそんな暗号を書かせることもさせなくなるぜ。どうだい、ここら辺に、誰も使ってない廃工場がある。そこで一発ヤラないか?」
「……お前は本当に戦うのが好きなんだな……、尊敬するぞある意味…。
だがどうせ勝っても負けても俺が得する分が無い。
…お前クラスになると、手加減自体が難しいからな。取り返しがつかなくなる訳には互いにいかんだろうし」
「ふは、はははははははッ。―何だかんだ言いつつ、俺とやったら絶対自分が勝つと思ってるところが憎々しい。だからこそ、やってみてえんだけどな。この頃久しくギリギリの駆け引きってのをやってないからよ。細胞がなまっちゃってるみてぇなんだ。いい相手がいればいいんだけどって思ってる。―顔に似合わず平和主義者だからな、アンタは。」
「こんな商売してるんだから、十分に俺は戦闘快楽者だろう。」
「本当の戦闘快楽者の前でその言葉が吐ける時点で、よっぽどのノータリンか最強クラスかどっちかだっつーの。ま、あんたは聞くまでも無いか。」
「その話はまた後だ。それでどうなんだ。俺の頼んだ情報はもう、入って来てるのか?」
「結構苦労したぜ。あんたはこういった商売が、本当はどれぐらい危険なものかをちゃんと理解しているし、損得抜きに、真面目に俺自身の身を本当に心配してくれる、数少ない友人だからな。ちゃんと仕事はするけど、『ただの便利屋』みたいに俺を使う奴には絶対に薄い物しか売らないことにしてる、これだってアンタだからやったようなもんだし。感謝しろよな。大変だったけど、その分、信頼出来るから安心してくれ。確かなもの、〝アンタの望んだシチュエーションでの『癖』を、ちゃんと用意したからよ。」
「…済まないな……。有難く使わさせてもらう。本当に助かった。これはチップ込だ。受け取ってくれ。」
「はいはいっと。うん、ひいふうみいよお…三十五万。チップも含めて四十万きっかり、確かに受け取ったぜ。毎度ありっと。んじゃ、これが奴の『癖』だ。覚えたら、シュレッダーでも焼くでも何でもいいけど、その紙は燃やしてくれ。その情報が他人に見られたと解ったら、アンタとは即座に手を切るからそのつもりで。ああ、もうここで処分すんのか、はいよ、ライター、そこに灰皿もあるぜ。」
「お前、まだ一応未成年だろうが。タバコは二十歳になってからだぞ―いや、一生吸わないほうが賢明なんだ。何より、身体を動かせなくなる。息切れもするし、飯も不味くなる。良い事なんぞ殆ど無いものなんだからな。」
「あんた、明らかに元喫煙者だろ。しかも俺と同じまだ未成年じゃねえか…説教できる立場じゃねーだろーよ。」
「喫煙者だったから言っているんだ、俺がどんなに頑張って禁煙に成功したと思ってるんだ?」
「知らねぇよ。ったく、最近ホントにどこの自販機も使えねえし、買うためにゃいちいちコンビニかスーパー行くしかねえし、何より冗談言ってんのかってくらい最近高ぇんだからよ。税金でむしり取られていく側の俺達(ヘビースモーカー)にとっちゃマジ死活問題だよ。」
「まあいい。で、これが本当にアイツの癖なのか…?かなり使いどころが少なくてしかもリスクばかり高い癖だぞこれは…知ってても上手く事が運ぶかは五分五分って所じゃないか。」
「―…だが事実だ。相手は確実性と自己満足のために、そうやって仕事を終わらせる。アンタみたいなのには、おそらく特にだ。」
「…これを使ってなんとかするしかないのか…、だが、どうやって?こんな限定されたシチュエーションでの〝癖〟とはいえ、俺がそうなったら最後、殺されるしかないんじゃないか…。じゃあただそこへと流れを持っていくしかないか…いや?待てよ、そういう事はならば、つまり…そうか、逆に考えれてみれば…?」
「もう燃やしてんのかよ。…勢いよく燃えてんなぁ。まッ、これで俺もひと段落できるってもんか。ういいいい~っとぉお。あ~、疲れた。もういいか?ここしばらく調べとか聞き込みとかで、こっそり掴んだ『ソレ』のために、ここ二週間働きづめだったからよぉ。早く寝ちまいてえんだ。」
「ああ、すまなかった。疲れている所すまない、ゆっくり休んでくれ、『夜(よ)獅子(じし)』。有難く使わせてもらうよ。」
「『癖(・)売り屋夜獅子』、これからもどうぞ御贔屓に。―…じゃあな。」
「―…ああ、夜獅子。」
「……何だ?」

「『DOUYA』の傘下に入ったというのは、本当か?」

「―…ははは、そこを訊いてくるか…」
「そんなタマじゃない事は俺が一番よく知っていると思っているからだ。
だから気になる…。首輪を世界で一番嫌っているようなお前が、誰かの元で生きるとは、俺から見ても信じがたい。何かあったのか?」
「前にな。昔、銅じい…、いや先代社長が、俺がどうしようもなく荒れてた時に、下で少し、働かせてもらったことがあったんだ。馬鹿みたいに偉そうで、すぐに拳骨が飛んできて、でも実は周りをちゃんと見てて。豪快そうでいて気配りが上手くて。こんなジジイになりてぇって、心の底から初めて思ったよ。そして、ジジイがやっている事を自分の物にしようとジジイに会う度に、あいつが見ている物を見るようにしてたら、死んだオヤジが裏でやってたこの〝他人(ひと)の癖〟を売りつける商売への練習に、人を観察する力がだんだん伸びていったんだ。見つけるのがいつの間にかジジイよりも上手くなってて、あんまり褒められた事が無かった俺の頭をわしゃわしゃ掻いてベタ褒めしてくれたのは、一生の宝だな。そして、オヤジの昔の仕事道具と埃が溜まった、昔のここら辺に住んでた人間達の様々な〝癖〟が書き連ねられた大量のファイルを引っ張り出してきて、仕事の再始動に向け、『この事務所』を綺麗に掃除し、実際に情報屋たちの中で修行させてもらう事にした。―もちろん、すぐに辞めるのが自分の中の約束事だったけどな。そんな情報屋に勤めていくとどんどん最初にあったイメージを覆されるようになった。テレビドラマみたいな存在は全く無くて、むしろ共同体、横のつながり、ネットワークでこの業界は回ってると良い位なのも知った。今や集められない個人情報は、殆ど探偵や情報屋には無いといっても良い位なのもその時知ったよ。その時に、充分仲良くなっといた情報屋ネットワークを維持しつつ、探偵業務もしてみた。『尾行調査』に『内定調査』、特に内定調査(その対象者の個人的な情報を掴む仕事の事。雇用調査ではその人間の人となりを調べるもので、今の仕事に一番役に立ってる。ヘッドハンティングなどの時にもよく使われるんだ。)は、熱を入れてやった。タバコもその時によく組んでたツーマンセル(二人組)の相方の方のおっさんに薦められてやったのが始まりだったんだ。その時、〝癖屋〟には、まだまだ需要がありそうだと再認識した。『そんなの誰が使うんだ、っていうモノが、時には勝負の決定的な勝敗を分けることだってある』って事に気付いてからは、その時の他の情報屋たちや探偵さんのこぼれ話(情報の残りカス)をせっせと集めるようになった。そういったものを常に情報屋に金を出して定期的にデータを新しくしていったり、この二年で、ここら辺の住人くらいならそれがタバコの持ち方だろうが、食器の洗い方だろうが、財布の中には絶対小銭を入れておかないとかだろうが、トイレでは一番奥にいくとか、そんなどうでもいいものが一人あたり二十~三十くらい揃った。俺の価値を知っていく内に、仕事量も増えていった。癖ってのは、本人が気付かず、無意識にやっていることだからな、使いようによっては、凄まじい威力を発揮するんだ。アンタの様にな。そしてそれらが軌道に乗り始めて、だんだん忙しくなっていって、そんな中でも、ちょくちょく俺はジジイに会いに行ってた。もう俺には親父もオフクロもいなかったし、正に天涯孤独だったから、ジジイは、唯一俺にとっての〝家族〟だったんだ。…俺が勝手にそう思ってただけだったかもしんねぇけどさ。いつもいつも、あのジジイはジジイのままだったよ…。俺は、お通夜の時の、あのジジイの顔が、最近離れなくてさ…、何もしてやれてなかった。『孝行したい時に親は無し』って言葉が、何か黒い塊になって腹にどすんと落ちた感じだったね。親父とオフクロの時にも、そんな事無かったのによ…。それなのに、胸の方は、ぽっかり穴が開いちまったみたいになってた。それはあの会社のどんな子会社でも同じ事だったみたいでさ、一回もジジイとの面識のない社員だって、なんとなく大切な支柱が折れ去っていったみたいに表情を暗くしていたくらいだったんだ。
 そんな中で、アイツが新しい社長だろう?
 悪いけど、あいつは無理だ…。無理なんだよ、そんな器じゃないんだ。
 無能では無いが、有能とも言い難い。
〝たまたまジジイが見えなかった所にまで深く精通していたから、あの立場に居ただけ〟であって、俺「達」が知っている『DOUYA』は無くなっていくのが、肌で感じられるんだよ…。
 …今のあいつでどこまで保つかは解んねぇけど、瓦解(がかい)は既に始まってる。手に取る様に、壊れて来てる。『DOUYA』には、もっと違う人間がいる。アイツじゃなくて、皆の事を、本気で責任を持ってまとめられる、そんな人間が…。そのかわりを、俺は今探してるんだよ。裏で、今まで培ってきたネットワークでさ。役にも立てねぇかもしれねぇんだけどよ…。
…先代に恩を返すためなら、嫌でも何でもするさ…。」
「―一度付けられた首輪は、なかなか外れん。それでもいいのか…?」
「たまには、寝心地のいい小屋とキチンとした食事を喰うのも、悪かないさ。」
「夜獅子」
「俺はただ、クソジジイにさ、あの世から雷を落とされたくねぇだけなんだよ。
あのジジイが大切にした会社だから守る、それだけの事なんだよ。」



「俺に何か出来る事があったらいつでも言え。『木霊(エコー)』…」
「『拳』闘を祈ってるぜ。『世界最悪の赤(World・Worst・Red)』。」

〈第五幕〉彼の『運命(破壊)』の始め方。

 


 親父に感謝している事が三つある。

 権力、
 運動神経、
 ルックス、だ。

 後はまあ、とりたてて俺にとって、役に立ったかどうか解らないモノが多い。一概にコレも感謝しています、コレにも。ああ本当にどうもありがとうございますと言うような事も、まぁ無きにしろあらずだが、今俺が感じている感謝条件はその三つに集約されていると言っていい。
 運動神経はどうやら遺伝的なものと同時に自分本来の持つ力が関係しているらしいけど、別にどうだっていい。親父がいたから俺がいる。つまりそういった運動能力には俺の力だけではどうしようもなかった事で、親父がいたからそんな俺が産まれた訳だ。感謝はするべきだろう?そのおかげで沢山優遇されてきた身としては。
 権力に関してもそうだ。
 これが無かったら、俺の人生はもっと無味無臭で退屈極まりなく、即座に社会の底辺へと滑り落ちて行った事間違いない。〝コレ〟があるから俺は喰いたいときに喰いたいヤツを喰い、デキちまったら金とSEX映像一つでも見せてやれば、息巻いていたそいつの親もだんまりを決め込みそれでも駄目なら今度は親父が手を伸ばしてそいつの家族をぶっ壊せば済む。頼むにはなにかしらの対価(・・)がいるが。皆何でレイプってのは一つの芸術なんだってことに、中々気付かないのが不思議だ。暴れる顔、泣く顔。怯える顔。無理やり手と足を一緒に縛って無理矢理転がして嫌がる顔を見つつぶっさしていく。
 その時。
 あの得も言われぬ、身体中に溢れる解放感。
 達成感が自分の胸で満ちて足りていく。
 そのシチュエーションから相手の女の性格や行動を調べて、それから行動に移すまで、気持ちいい以外の何物でもない。どんな言葉を使って相手を壊すか。
 それを考えてただけで、思わず下半身が熱くなる。
 狙い、調べ、行う。
 この三つを正確に下準備すれば、まず足はつかない。弱点として経済的に不安定な所を狙えれば尚いい。金を握らせれば大抵の事はだんまりを決め込むし、同罪意識も勝手に持ってくれるから楽な事この上ない。こちらとしては『種付け無効料』よりも安くあがるので大助かりだ。
ルックスについては、もう得したことしかない。
 どんな中身だろうと、最初は外見から入るのがニンゲンカンケーだ。俺は確実に他より得な事は勝手に証明される。―言い寄ってくる女の数で。
 ジェントルマンを装い近づいてきた馬鹿を食べるのは最高に楽しい事だ。
 ホテルの中で結束を使って両手を無理やり縛って襲った時は、実は挿入(いれ)る前からイっちまってたことすらある。

 誰も俺を責めず、誰もが俺の顔とボクサーとしての俺を憧れで見た。最高だ。気持ち良すぎる。
 そんな中で、たまたま見つけたおもちゃは、中々骨のありそうな女だった。
〝狸宝田優〟。
 俺が初めてずっと傍に置きたくなった。
 手元に置いておきたくなった、SEX・DOOL(オナニー・ホール)だった。



 外見Aクラス。スタイルも良い。物腰もどことなく気品を感じた。
 こいつを喰ってみたい。
 朝、俺の学校から通学途中に時々会うそんな女は、俺の顔も一瞬見ただけで何の感慨も起こさずに、直ぐに目を逸らして、だるそうに坂道を登っていった。その背中にはどことなく触れる事すら躊躇わせる様な雰囲気があった。まるで触った途端、自分の醜さが鑑となって襲いかかってくるような、そんな錯覚を覚えた。
 少しずつ周りから情報を集めていくと、本人は気付いていなかったようだがその可愛さと気怠さ、そのどこか他人を寄せ付けない独特のオーラを持ってたらしく、周囲の人気は高い様だった。それを聞かせるクラスメイトに俺はエンジェル・スマイルで合槌をうちながら内心歯を見せて大笑いした。―いい。いいよ。ますます気に入った。それじゃあ、一体どうやって食べたら、一番おいしく頂けるのだろうか?
どんな状況なら、あの図太そうな女をこっち側に引き寄せられるのだろう?
 結果は、解りやすいものだった。―親父に頼もう、と。―
 親父には、「今いいおもちゃを見つけたが、中々こっち側になびきそうも無い。親父にも後で貸すから、ちょっと手伝ってくれ?」と。その女の資料を見せたら、親父もニヤリとやたら嬉しそうに「いいだろう、俺にもちゃんと回せよ?」と言ってきたのは、半ば予想通りだった。親と子は、好みの外見も似ているもんだ。―…まぁ、俺は本当は後腐れなくSEXだけしてくれるような美人がいりゃ全く構わないんだが。俺の『天映翔』のイメージは死守しなけりゃいけないしな。面倒臭せぇけど、その分居心地は最高だから仕方がない。人から憧れの眼で見られる快感なんてLSDとかエクスタシーなんて比べもんにならねぇくらいに気持ちがいい。―そう思っている奴を壊すのも、また堪らなく。
 さて、後は親父に任せた俺は、流石にジムに行ってIHに向けて練習を再開した。怠けて勝てる程、全国はそんなには甘くねぇ。いくら俺が天才でありその才能に嫉妬してる奴の顔を見るのが楽しくても、その俺自身が強くなければ意味が無い。
 縄跳び、シャドー、スパーにランニング。
もろもろやって、しかも減量もしなけりゃならねぇ身体で腹をすかして家に帰ってくると、風采の上がらねえ中年オヤジがちょこちょこと小物感まるだしで俺の家から出て来る。どうせ親父に資金援助でも求めたどっかの個人経営者だろう。いつもの様に。散々ねちっこく侮蔑を込めて追いつめた後に裏切る、いつもの様な親父の趣味(イジメ相手)の。
扉を開けると親父が玄関に立っていて、いきなり「プランを立てたから、来い」と言ってきたので、俺は親父と一緒に親父の書斎に入った。本で満たされたこの部屋には、一生馴染めそうにない。読書何てもん趣味にしてるなんて、俺には遥か先の銀河系より先の謎だ。
 そして親父が座りやすく高そうな机の前の回転いすに座り、俺がこの本だらけの部屋で唯一くつろげるスペースのベージュ色のソファに俺は座って、俺は親父の話を待った。
 そして開口一番、親父は俺にこう言った。

「悲劇のヒロインを人生の崩壊から救うってのはどうだ、〝王子様〟?」

 ヒーロー願望特にねえんだけど、俺。
 話を聴いた後、少し嫌な予感がした。
 それが何だったのかは、あまり解らなかったが。


                 ☮


 ぶっ壊す、幸せを。
 そのために策を講じた。
 あの女を手に入れるための手段として。
 その事については多少の罪悪感はあった。でもどうでもいい事でもあった。
 自分の思い通りに気に入った奴や気に入らない奴を動かす快感は、最高に楽しい。楽しすぎる。
 その事で胸を痛める前にそいつをどうやったら自分の好きなようにカスタマイズ(調教)出来るのかの方に俺の意識は向く。そこが唯一絶対はずせない、俺にとって重大な所だ。
 そのためには今回、俺は正義の味方になる必要がある。
 どういうこと?
使い古された方法だ。だがシンプルな分だけ効果は絶大。
 ―『傷ついた女は、傾く』。
 そんな人類普遍の真理を使う。それだけ。
 ただ、それをもっともっと大きなもので覆い尽くす。最悪の形をとってから、最高のエンディングへと持っていく。その仕掛ける規模だけが、違う。で、とられたのが今回の『茶番』って訳だ。
 偶然を段階を踏んででっち上げる事で、本人に人知の及ばぬ力が働いていると錯覚させる。そんな段取りだったのだ。
 しかし、そんなマンガみたいな事を請け負う奴がいるのかと思っていたら―いた。こんな裏社会では何でもアリとでもいう事か。
 何しろ、運命を意図的に作りだす事を商売にしてるだなんていかがわしい会社なんてものがあり、経験豊かな(怪しすぎる)その詐欺師たちと協力しながら事を運ぶことになったのだ。
 最初の不安感は今でもよく覚えてる。
 顔も見せない、声もボイスチェンジャー、依頼内容は絶対に口外しない事など怪しさ爆発の集団だったんだから。『一緒に見合い会場に居たヤツ』だって背格好の似た〝二十人くらいのサクラ〟を用意するという徹底ぶりで、会社をこっそり調べさせようとした時も、たまたま近くにいた警官に職質されそうになって、しどろもどろになるなんて結果で終わる位だった。

 一抹の不安を抱いたが、餅は餅屋プロはプロ。後は親父と奴らの話し合いで細部まで調整することになったらしい。俺はもう居ても無意味で、暫くジムに行って、汗を流す日々を送っていた。
 アイツを喰う日をこの空かした腹の代わりにすることを想像し、笑いながら。

 
 驚いた。
 親父が腐っている事は息子の俺から見ても解っていたつもりだが、まさか本当に人を殺してまで計画を実行するとは、思っても見なかった。
 あの女の親父が運転する車に誰かを轢かせることは知っていたが、それも当たり屋にでも任せるのかと思いきや本物のボケたばあさんを実際に車に轢かせる前に殺しておくとは。
 何でも、そのばあさんは徘徊するわ周りの人間関係を破壊するわ何でもアリの邪魔者ババサンだったらしく、担当していたノイローゼ気味の職員に大金掴ませて連れ出す事を了承させて、『自分で勝手に出て行った』、と証言させるようにしたらしかった。
 もちろんそうであっても大問題だ、だが更に大きくなった大問題の前では誰も気づきはしなかったろう。親父らしく汚く上手い手を考えるもんだと感心してしまったほどだ。
 もちろんその後のオンナの親父は落ちぶれていき、オンナの方も俺が流した〝真実を含んだ噂〟で学校の立場も一気に最低にした。
 そこでボロボロになった所を、レイプ犯(ようやく『運命屋』とお目見えしたが、どちらも変装していたので顔は解らない。)に襲われそうな所で颯爽と助ける俺。
 会話で俺に魅かれていると確信した後は、あえて何も情報を告げずに立ち去るつもりだった。が、相手が勝手に家へと帰ってくれたのは好都合だった。
 そんなに簡単に連絡が取れたら、せっかくの有難味が無くなるだろうしな。
 ここからが本番。
 親父の手を借りて、オンナのポストにパスワードが絶対解ける問題を載せた封筒を郵送し、サイトで、本人かどうかを確認。
 あとは大量のサクラと全く意味の無い数合わせのためだけの本当の参加者を集めて、あのオンナが一気に最終選考まで行けるようにと裏で『運命屋』が動いてそして今、こうやってアイツは俺の事を疑う事も無く幸せに結ばれるところまで来ている。
これが終われば俺はいつでもどこでもアイツを自由に使えるし、他の女と遊んでも、全く文句を出さないだろう。
〝俺との婚約〟それ自体が父親に対する『命綱』なのだから。
 そして今日、ようやく俺はアイツとデートする事になっている。楽しい、楽しすぎる。楽しすぎるくらいだ。
 まだまだ本当の意味でアイツを食える日は来ないだろう。今の所ノーマル紳士で楽しまなければならない。
 だがそれもその日までのスパイスだと思えば、一層楽しみが増えるというものじゃないか?―なあ。


 メールが届く。
『すみません、翔さん。今日ちょっと急用が出来てしまって。
 友人の弟さんが、しばらく会っていない私に「会いたいと言っている」らしくて。
 私の方に都合があるので今回は…と思ったのですが、弟さんは重い病気を患っていて、失礼な話になりますが〝次〟が無いかもしれないと思い、失礼だとは思ったのですが、今回は中止とさせてください。本当にごめんなさい!次の翔さんが都合のいい時には必ずご一緒させてもらいます。大好きです。ではでは。❤』

 舌打ちが出た。
 そんな死にぞこないどうでもいいだろうが。俺がデートしたいって言ってんだから来いよ。それがテメエのポジションだろうが。断れる立場にあるんですかあ?君はそんなに偉いんですかあ。ばああか。くそが。こっちは必死に減量中でテメエとヤる事でこの食欲を性欲で相殺しようとしてんだよ。俺はどうなるんだよ、ビチグソが。
 だがまだこいつとの関係も全然深まって無い。そんなこと言えるわけがない。
 顔を思いっきりしかめながら、指上紳士な俺はケータイの返信を打った。

『ううん、気にしなくていいよ。
 それにしても大変だね、その子が悪くならないといいんだけど…。
 今度、僕にも会わせてもらおうかなあ。その子きっと狸宝さんにまいっちゃってるんだろうし。(笑)ここらで「僕が彼氏です!」って言っとかないと取られちゃうかもしれない。しっかり主張しなきゃ!(笑)
 じゃあね。その子によろしく!』

 我ながら、よくこんなメールを打てるもんだと自分で感心する。
 嘘は得意中の得意だがここまで来ると自分の境界線もあやふやになるかもな。
 ま、冗談だけどな。そんないい人やってたら肩が凝る。
 俺はケータイを右ポケットにしまい、腕時計で時間を見る。六時一五分。夏の空はまだ青っぽく、雲も切れ切れに飛んでいるだけだ。しかし一気に暗くなるこの空ならば、多少セーブを緩めても大丈夫だろう。
 俺は帽子を目深にかぶり、黒のパーカーとダメージジーンズ、UネックTシャツにスニーカーという格好で夜が始まったばかりの繁華街へと向かう。ビチグソがドタキャンしてから三〇分、俺は誰か適当な、軽いが口は重そうな一夜だけの関係女(ワン・ナイト・ラブ)を見つけようとにぎわってきたネオン電飾に包まれた通りを物色していた。
 手ごろな奴いねぇな。
 そう思い、どっかソープでも入って一番値段の高い奴でも使ってみるか、と思った所で、その女は声をかけてきた。

「ね、今暇?」

 俺は驚いて後ろを振り返った。
 そこに居たのは、ギャルっぽい感じが出つつ、何処か気品みたいな育ちの良さも持ち合わせる、かなりの、いやマジ上物の女が一人、こちらの眼を見つめていた。
 俺は即座に口調と声を切り替え、営業用のスマイルを浮かべた。
「何か御用ですか?」
 そうしたら女は少し唇を見ながら、俺の唇を見ると、薄く笑ってこう言う。
「今さあ。ちょっと金足りないんだよね。やらせてあげるから五万、どう?今日一一時から、ここら辺にあるライブハウスで超人気のバンドが特別出演するんだけど、もうチケット全部売ったっていうのよ。で、ダフ屋に訊いたら〝五万でやる〟ってさぁ!ふざけてるよね、全く。こっちを助けると思ってシてくんないかなあ。駄目?」

 マジ?
 内心で小躍りしたい気分だった。
 顔も特上。よく『鳴き』そうな張りのあるソプラノ。
 後腐れも無い一発女。しかも特上。
 チケットのために五万出そうとするその感性が俺には理解できねぇけど、ここは正に渡りに船。ちょうどいい事にあるのは六万。デートでそこまで使う事は考えなかったが、上手く運べばラブホの料金もいるかと思っての六万だが、ここら辺のラブホならかなり安く上がるはず。考えるまでも無かったが、一応、表向き悩む。
「う~ん。でもそれで、君はいいの?そんな見ず知らずの男に抱かれるだなんてさ、俺も最近ご無沙汰だし、ちょうど手持ちの金はそんくらいあるけど、身体売っちゃうのはもったいないよ?そんなきれいな顔してるしさ。」
「…うわ。お世辞うま~。ちょっ、関係なくやりたくなってきた、OKOK!こっちは全然OKだし!むしろ脂ぎったキモ親父とかじゃない分凄いラッキーな感じだし。じゃ行こ!」

 最近ツキすぎてるな。IH(インハイ)も余裕かもしんねぇ。

 そんな事を思いつつ、近くのラブホへとその脳みそすっからかん特トロ女と、手を繋ぎながら俺達は見るからに安っぽい造りのそこに直行したのだった。


 入った瞬間、ディープキス。
 風呂もシャワーも浴びず、デカいピンクのダブルベッドへその女―高樹望とか言ったかそんなのどうでもいい―を押し倒して、ブラとパンツをずらし取りながらキスを続ける。胸も程よく大きく形も良く、揉み応えがあった。乳首を吸えば甘い声を出し始め、さっきの言葉通りに、既に受け入れ態勢はばっちりらしい。
「ゴム付けてよね」
「んだよ、萎えるな」
「当ったり前じゃん」
 そう言って悪戯っぽく笑った特上に俺は一瞬見とれかけたが、すぐに時間制限がある事に気付き、ゴムをはめ、静かに上から体重をかけるように沈めていく。特上が予想した通りの甘めの高音で鳴いた。何度か出し入れし、その勢いを激しくしていく。
 頭の中で何かがチカッと光ると同時に腰が軽くなるのを感じる。
 さっきまでの興奮が一気に冷め、一刻もここから出て行きたくなった。よし、これで、しばらくは疼かねえだろ…よっ、と。
 そう思って俺のを抜こうとした瞬間。

 かしゃかしゃかしゃかしゃっかしゃッ!―今度は本物の光が眼へとフラッシュが連続でたかれ、俺の網膜を焼く。驚いてそちらを見やると、明らかに堅気では無い男が二人、うすら笑いを浮かべながら写真を撮っていた。
「な、なん、なんだテメぇらッ!どっから入ってきやがった!」
 俺は普段の仮面も剥ぎ取り、そのフラッシュをたいた二人組に叫ぶ!
「何で入ってこられた!ちゃんと鍵をかけたのは確認した、まさか壊したんじゃねぇだろうなぁふざけやがってクソ共!テメぇらどこの組だ、俺にこんな真似してタダで済むと思ってんのか?『消す』ぞコラァァアアアアッ!」


「―…ねぇーちょっとぉー、来るのおっそーい。本番された挙句に出しちゃってんじーゃん。こいつぅ、ふざけんなっつーの、取り分増やしてもらっからね。マジで、この馬鹿コンビ」



 コイツ、今何て言った?『取り分』?
 こいつらまさか。
「わかってるわい。そんないちいちギャースカギャースカ言わなくてもわかっとるワイ、ったく。」
「これよく撮れてるネ。俺、だんだん腕上がってるネ。綺麗な結合写真ネ。
―充分、天映翔君のイメージぶち壊しになる、ネ。」
 こいつ、ら。
「―…そうかよ…、鼻っからオレを狙って嵌めたって訳か…そうかよ、で?要求は何だ?そんなに綺麗に撮られちゃった僕は、一体どうすればいいんだい、君たち?」
 俺はある意味慣れっこになった、そんな交渉を続ける。
 問題は大きい。初めから俺の事をゆするつもりでこういった『本番禁止の店』でわざとさせちまって、それをネタにゆするっていう方法は結構ありがちではあるが効果は高い。
 まァこの方法はどうも変化球気味だが。
 さて。どうしたもんだか。
 ここで要求を呑むのは当たり前だが。問題はそこから先。
 いかに、二度とさせてこないか。
 やったらこういう悲惨な結末を迎えますよ、と教え込むためにも。
 俺の力を誇示するためにも。
 最も気を付け、かつ、楽しまねばならない所だ。


「うーん。そうネ、とりあえずは『五百万』からってどうネ?」
「『妥当』だな」
「『お買い上げ』、どもネー」


 その間に俺もお前らの命も買い上げるけどな。馬鹿三人組。
 顔だけを歪めながら俺はうなだれる。嵌められたことを喜びながら。


 その次の日。俺は早朝ランニングの日課を終えて自室に向かい、〝最も使える駒〟である人間を呼びつける。
 暫くコール音が続き、その野太い声が俺の耳に入ってくる。
『…はい、銀山(ぎんざん)ですが。』
「今大丈夫か?」
『はい大丈夫です。今日はもう楽しみ終わりましたので、今後片付けをしている所です。』
 俺は思わず笑う。
 こいつといい、こいつの兄貴といい、うちの親父といい、俺の周りには生粋のサディストばっかりだ。そんな中に入れられてみろ。サディストになるのは当然だ。一体どれだけのことをしたのか、半端者の俺には想像もつかねぇ。
 女として、二度と使い物にならなくなったって事だけは確かだろうが。
『それで何の御用でしょうか?』
「また依頼したい。すぐに頼む金山(きんざん)にも伝えておけ。」
『翔様のご要望によります。』
「また〝ゆすり〟だ。いつもと同じ退屈で面白味もねえ奴らだ。もうそいつらの住んでるアパートも押さえてある。三人組で、人相はあとで画像を送るからそれで確かめろ。まあ、「拷問」でも、最悪の場合、『殺しちまって』も構わん。要は『俺にこれ以上関わらせなければ何でも』いい。そこに張ってる奴らが車で待機してるから、そいつにも話を聴け。報酬はそいつらに払う予定だった五百万ずつでどうだ?」
『悪く無い仕事ですね、あと、女がいたら好きなようにして構わないのでしょうか?』
「ああ特上のクソビッチだ。いい声で鳴くから、きっとお前ら好みだろう。」
『わかりました。では、何時ごろかの指定はございますでしょうか?』
「お前らの好きでいい。」
『では七時ごろにそのアパートに向かいます。いつも通り女の方のビデオは焼き増ししてご自宅に郵送いたします。』
「まあ、頑張っていい作品にしてくれたまえよ、銀山君」
『では失礼いたします。』 
「ああじゃあな。よろしく頼む。」さて。
「あの女の悲鳴が聞けるのは楽しみだ。」
 俺はシャワーを浴びに風呂場へと向かった。
 明日の楽しみが一つ増やしながら。


                ☮


「遅せェ…」
 俺は苛つきながら待っている。
「もう出来て送られてきてもいい頃じゃねえか…?」
 あの二人、〝拷問屋『金山・銀山』〟が仕事を遂行したはずの昨日から丸一日たった、夜一一時。
 あの後見張っていた車に奴らが現れ、人相と口調をアパートに入るまでに撮りつづけた映像を車内で見せ、大まかな性格みたいなものも奴らに覚えさせた。そしてゴルフバックにいつものお遊び道具を持って、古臭い、いくつかの部屋からカーテン越しに家族の談笑がいくつか聞こえてくる、他の住人も殆ど居ないようなアパートの三階奥へと進んで行った。中からはあの三人組の騒ぐ声がしていた。そして、素早くピッキングで鍵を開けると、室内に入った瞬間から〝いつも通りの経過に入ったとして〟、そのまま張り込んでいた奴らは帰ったらしい。あれから〝お楽しみ〟をして、跡片づけをしたとしても、今日今までの間にDVDの一枚でも送られていてもおかしくは無い無いハズだが…。
「何してやがんだ、あの馬鹿ども…!」
今まで様々な仕事を頼み、俺にして見れば珍しくきちんと役に立つ存在だって信頼してたってのに、こんなんじゃまたいつもみたいに『処分』するしかなくなるじゃねえか。
 面倒臭せぇ、使える奴ほどこういう時に面倒なのは社会の真理ってか?
 がこん。
 そんな俺の思考に頷くかのように、ポストに何かが入れられる。自室から走って郵便入れに落ちたその茶色い何も書いていない封筒を持ちながら、まるで「小学生の時にパチンコゲームで一気に三羽連続で鳥を撃ち殺した時」みたいに興奮しながら、俺は自室のドアを閉め、鍵をかけた。
 パソコンを立ち上げ、何も書かれていないDVDを入れる。
 わくわくしながら映像を見た。
 わくわくとは程多い世界が、そこに映った。


 大きな、本当に全く何の家具も無い、その分ただっ広い、空間。そこを全て映すかのような、高性能監視カメラで撮ったような映像が映っている。そこに大きなゴルフバックを担いだ、巨大な岩のような顔つきの双子―金山・銀山が侵入している所が映った。明かりも漏れていた。騒ぐ音も聞こえていた。だから一瞬で片がつくと思っていたのだろう。奇襲を成功だと見て入った瞬間、金山・銀山の前で、ひょろりとした男が立っている。
 バックで床に置いたラジカセからあの三人組の騒ぎ声を流しながら。
 黒のライダース・ジャケットとジーンズ。黒のニット帽にごついブーツ。
 そして。

「ふざけてんのか。こいつ………。」

 その男は祭りで売られているような赤い鬼の面を着け、奴らの前に佇んでいた。一瞬、驚きで思考が停止したらしい金山と銀山だったが、直に我に返りその何者かは解らないが―おそらく敵の味方―を排除しようと、即座に動き出す。同時にゴルフバックから長いバールを取り出し、右に銀山、左に金山と別れ、銀山は下から、金山は上からバールを振り上げ、振り落す。男は滑るように後方へとすり足で移動したかと思うと、ぶおん、がちんとそれぞれ銀山、金山のバールが床に無意味に叩きつけられる音と上空に外した銀山の空振りの音だけが響く。
 男は再度滑るように左斜め、つまり銀山の方へと間合いを詰めると、左足に重心を移し、踏み込んで突きをする素振りを見せた。銀山は間合いの圏内に入った事を即座に理解すると、その振り上げていたバールを頭上で旋回させて男の胴を横薙ぎに払った。逃げ場はなく、確実にその長身ならば回避も迎撃も(バールを素手で迎撃できる物腰の人間などいない)不可避なはずの一撃だった。―だったはずだった。
 ―すとん。と。
 男の腰が、まるで膝かっくんされた様に、まるで楔を抜かれたように、筋肉は骨の付随物であることを思い知らせるようにかくんとその場に、男はその長身を床すれすれに低くし折りたたむ。その頭上をまたしてもバールは空振りし、今度こそ銀山のバランスがバールを振った勢いで崩れる。ボクシングでも空振りが最も体力を消費するが、それは疲労や当たらない事やこういった自身の身体の軸がブレることから生じる〝焦り〟からだ。銀山の表情はここからでは死角になって見る事が出来ないが、その表情は間違いなく恐怖で強張っているだろう。
 そんな隙を男が見逃す訳がなく、今度こそ『フリ』ではない、爆発したかと錯覚するような強烈な左足での踏込と共に右手の腹の掌底を、下から斜め前方に突き刺す感触で放った。岩のような巨躯である銀山の身体が、映画のシーンの様に飛んでゆき、そのまま押し入れの襖を突き破り二層あった押し入れの下の段へと奇術師のように轟音と共に体を折りたたみながら気絶する。
 映像が切り替わり、画面も今までの上からのものと、横からと、そして顔のアップと、三分割された何故かとても凝った造りに変わる。違和感を感じたがそんな事は問題じゃない。
「イカれてやがるぞこの野郎…何なんだこいつは…」
 自分の指先が小刻みに震えているのが解ったが、視線をこの映像から外すことは出来なかった。
「あんなちゃちな面着けながら、あの銀山をこんなにあっさり倒しただと…殆ど眼なんか見えちゃいねぇのに、どうしてこんな動きが出来るんだ…」
 画面の金山の顔のアップが三分割した画面の一つに映し出されている。あの絶対の信用を注いでいた弟が、見も知らぬ鬼のおもちゃの面をかぶったふざけた奴に、全く手出しも出来ず倒されたことが未だに信じられておらず、思考が完全に付いて行っていないのが丸わかりだ。目は見開き口も半開いたまま、驚愕の表情でその男を見つめている。だが一応こいつもプロの端くれ。俺の最もよく使う駒でもある。銀山(弟)の事は一端思考から外し、傍らのゴルフバックから、今度は子供一人分くらいの背丈の鋸と中華包丁を混ぜ合わせたかのような凶器を取り出す。重さとサメの歯の様になったその刃は、一瞬でも触れれば肉がこそぎ落とされ、致命傷に成らずとも縫合が出来ずにじわじわと死に至る武器で奴らのお気に入り―男の様に肌に傷をつけても全く問題無いと判断した時―に多用することは俺も知っていた。この道具の残虐性も使った後の掃除の代金の高さも。それを一端手に馴染ませるようにポンポンとその手の中で柄を撥ねさせると、剣の型で言うと八相(はっそう)(?)だったか、上段からそのまま腕を下ろすようにして胸元に獲物を構えるその型は、金山の巨体と合わさって、ほぼ打ち込むのが不可能だと思った。しかしその鬼面男は、やれやれといったように首を振ると、右に少し半身になり、右手を金山の目線まで上げ、ちょいちょい、と。どこかのアクションスターの様に金山を手招きした。―かかっておいで、僕ちゃん。―そう言うかのように。金山の顔が一瞬で真っ赤になり、そしていつもの様に相手を傷つける事の愉悦からくるあの残虐な眼で笑う。
 どん、と。
 金山がその体勢のまま前方へ、あの巨体から信じられない速度で鬼面男の方へとたった一歩で間合いに入り込む。上半身は動かさず、下半身の山のように盛り上がった筋肉で一気に身体を前方に進ませたのだ。その鋸包丁を鬼面男の右肩口から左脇下までを一気に重さと刃で潰し削ぐ勢いで、金山は振るった。鬼面男はその身体からは力を抜きながらも、足の腹は地面に縫い付けられ吸い付けられているように安定感のある姿勢で右足を軸にして床の埃が一瞬で舞い上がる程に一回転し、その勢いのままその刃に向けて、全身をバネにした後ろ回し蹴りをその鋸包丁の先端に、―叩きつける。
 凄まじい金属音そして火花が飛び散って、その鋸包丁は木の柄の根元から折れて回転しながら後方へと回り落ちていく。金山は、何が起きたのかも理解できず、折れた手元の柄を凝視していた。見ている俺だけが気付き、実際に戦闘をしている金山が気付いていない。―その衝撃のあまり。
 鬼面男の靴の裏にはおそらく厚い鉄か何かの金属板が踵と指先に張り付けられていて、男はその踵で回し蹴りを絶妙のタイミングで振るわれた鋸の刃先に当てて、金山のその剛力と鋸包丁の重さと速度を掛け合わせた一撃を、取っ手を中心とした脆い付け根を梃子の原理を使ってへし折ったのだ、という事に。一歩間違えば確実に死ぬであろう行為をまるで当然の如く実行し成功させたそのバケモノは、初めてその面のせいでくぐもった声でこう言う。「後片付けの時間だぞ」、と。見る者を圧倒する憤怒の空気を纏って。

「たくさん遊んできたんだろう?続きは地獄の底でやれ、クズ野郎」

 男の目視すら難しい前蹴りが金山の顔面に吸い込まれるように飛んでいき。
 金山はその呆けた顔を最後に、まるで赤絵具をぶちまけたかのような映像を残しながらそれを受け。
 岩のようなその頭部を、真っ赤に破裂させたのだった。



               ☮


「―…げ、げぶッ、げぶぶッ、はあっぶ、げえぇえええ………」
 吐き気を抑えられない。近くにあったゴミ箱にそのまま胃にあった物を全て吐き出した。しばらく嗚咽を続けていると、そのまま続いていた動画から音声が流れてきた。「聞こえているか?天映翔さん?」野郎、何だ、一体、何なんだ、この、野郎、は!だがその駒とはいえ一応馴染みの顔がトマトみたいに破裂した映像を見る勇気も無く、そのまま再び襲ってきた吐き気のままに第二波を胃から吐き出す。するとそれも想定済みだと言うかのごとく、鬼面男のくぐもった声が続いた。

「―こいつらを捕まえるために、最初からこの計画があったのはアンタも気付いただろう?ここにおびき寄せるために、他の部屋にも明かりを点けたり実際に住んでいる人間なんていないこのアパートに一般家庭の夕食時の雑談を盗聴した音声を流したりしたがどうだった?割といい演出だと思ったんだが。まあ、気付いていてもいなくても構わないが、気付いていると仮定して話す。俺は、アンタがあまりにも人生を謳歌している様なので、それをちょっと腹立たしいと思っている人間に頼まれて、アンタの人生をぶっ壊すように頼まれた者だ。その実力はまあ、これも解っても解らなくも構わないが俺も暇ではないので解ったという前提で話す。
 アンタの人生はこれで〝終わり〟だ。
 理由は聞かなくても解るだろう?あんたが最も使った駒をせっかく一人生かしておいたんだ、アンタが何をしてきたか、色々こいつはちゃんと話してくれた。いい子だった。自分がやられるのは、あんまり好みじゃないみたいだったがな。
 つまり、あんたが犯した女の子の映像や、アンタに頼まれた際の領収書や経費の紙。パソコンに残っていた顧客データのアンタの仕事の一覧。証拠写真や驚いたことにその場でピースするアンタの写真もあった。随分と楽しそうだな、全く俺のような貧乏人には羨ましい限りだ。コイツら、自宅に入られた事も無かったんだろうな。アンタが何度も使ってその小汚いお遊びの尻拭いを何度もさせられても、嫌がるどころか喜んでやるような奴らみたいだからな。後で『報復』すればいいと考えて、そんな事は怖くも無かったんだろう。一応〝ブロック〟はしておいたみたいだがな。
だがウチのちょっとそういう関係に詳しい奴がデータを覗いただけで、捨てられていた資料やらグロ写真集やら何もかも発掘したぞ。危機管理に疎いのはプロとしては失格だが―それはともかくとして、アンタを破滅させるのはもう赤ん坊の手を捻るのよりも簡単だ。そのままの意味でもな。わざわざ赤ん坊でなくてもいいか、ははは。
 …だからどうだ、手を打とうじゃないか。『天映翔』サン。
 どうだ、アンタの人生、三億で買い取ろうじゃないか。
 そこそこ『いい値段』だと思うぞ?
 あんたはこのまま平穏無事にIHに出て相変わらず皆からちやほやされながら、噂の悲劇の美少女とねんごろになっていればいい。
 刑務所の中で何十年、もしくは死刑宣告されることもなく皆から軽蔑の視線を送られることなく生きて行ける。
 ―それが三億で、取り戻せるんだ。いい買い物じゃないか。そうだろう?
 これを飲むのであれば、三日後までにこの俺の下に今流れている番号に振り込んでくれ。無かった場合は仕方ないが、これからの暗黒の人生をせめて安らかに送れる様に祈るしかない。どこぞのスクープ待ちのフリーライーターにでも渡せば、依頼人も納得してくれるだろうからな。…だからこれは依頼人には伝えていない。「計画は失敗した」と言うだけだ。だからまあ、そういった意味では安心してくれていい。これで俺達の用件は終わりだ。どうするか、大いに悩んでくれ。ああ、いい忘れていた。IH、頑張ってくれ。王子様。じゃあな。」
映像が、終わった。
 俺は、そのディスクを半無意識的な動作で取り出して―
 そのデスクトップパソコンに向かって、拳を叩きつける。
 破片を飛び散らしながら、画面が割れ、様々な内臓を飛び散らしながら、パソコンは砕け散る。
 荒い息を吐きながら、考えにもならない考えが頭で鳴り響く。終わる。
 俺の人生が、終わってしまう。
 このままでは確実に。
 即座に。
 瞬く間に。
 人生が。
 終わる。
 本当に。
 吐き気とガンガンする頭とパソコンを吹っ飛ばした痛む右拳を震わせ、俺は呟くしかなかった。

「終わる…」
 何もかもが。
 例え払っても、三億も貰った人間がその味をしめないわけがない。
 何度も何度も、おそらく小刻みながらも確実に、俺の金を食いつぶしていくだろう。
 新しい〝消し屋〟を雇っても、そもそもあんな奴に勝てる可能性は無いに等しい。
 それを解らせるために、わざわざあんな映像を付け加えて俺に送ってきたのだから。
 ボクシングをやっている俺だからこそ尚、解る、あの鬼面男の化け物じみた強さを、
 視覚的に俺に直接、訴えるために。 
「どうする…」
 俺の頭は何度も何度も同じことを繰り返す。
 そして、何度も同じ言葉を繰り返す。
「どうやって、親父から、協力を求めればいい?何をやれば、あいつは俺の側につく…?」
 そこに俺の意識は集中する。
 アイツは俺が息子であるという自覚が殆ど無い。皆無と言っても良い位に。そんな男は、俺でさえも邪魔であれば本当に消す。今回使ったあのボケババアの様に。
 こんな事になってしまえば、俺には使えるカードが殆ど無い。いくらひねり出そうとしても、俺の人生の生き死にを握られている以上、うかつなことは出来ないし、したくても駒がいない。じゃあどうする…?どうやればあの親父が喜びそうな、『ゲーム』を提供できる…?
 ふと、あの〝犯し損ねたパーマ女〟が頭に浮かんだ。そうだ、アイツを親父にやれば。
 かなりの上物だから惜しい。惜しいが、もうそれどころでは無い。
 それしかアイツに提供できるものが今の俺に無い。
 それすら駄目ならもう何をしても駄目だろう。
 奴にはいる。顔すらも全く解らず、存在自体怪しげなのだが、確実に。
 今まで親父を支えてきた、異常者。殺人快楽者にして最悪の『消し屋』。以前、金山、銀山にそれとなくソレをさせそうにした所、暗に「ヤツと戦うくらいなら、申し訳ありませんがアナタを消さねばなりません」とさえ言わしめた程の男が。
そいつならば、何とかなるかもしれない。少なくとも、このままでは俺の一応(・・)父親であるアイツも困る事になる。その前に自分から伝えなければ。そうと決まればもう動き出すしかない。部屋のドアを開け、近くにいたメイドに俺の吐いたゲロの入ったゴミ箱と壊したパソコンを処理しとけと言っておく。メイドは全員何かしらの弱みを握っている奴らばかりだから、俺が素を出しても漏れる心配はない。俺はそのまま、親父の二階の書斎へと向かう。
 この無駄にデカい家で、同じ家で、飯を食い、排泄し、寝ているというのに。
 もしかしたら「俺を殺すかもしれない父」という、異常極まりない関係の男に。最後の希望を、託すために。


「そうか、では死ぬといい」
 俺に親父は見るからに高そうないつもの回転いすに座り足を組みながら、「ばーん」、と指で作った銃を俺に向け、撃った。
 それが今の所冗談であることに、俺は心臓が止まる程の緊張と弛緩を体験した。
 事の顛末(てんまつ)を聞いた親父は何故か喜色満面に珍しい位に俺から見てもはしゃいでいる。今回の《スリル》と《景品》がよっぽどたまらないのだろう。そりゃそうだろう。
 それだけの映像も見せたわけなんだから。
 殺すか、殺されるかなんてスリル、今この国ではお目にかかる方が難しい。そんな事すら快感になる男に田優を『景品』にして差しだした俺は胸中でどれほどの安堵があったか他人には間違いなく想像出来ない。 
「で?コイツらを止めればいいんだよな?翔」
 親父はにやにや笑って俺の差し出した鬼面男の戦闘場面と金山の殺害シーンと俺へのゆすり内容を見ていた。もう一度よく見てみるとやはり無駄に手が込んでいる。最後の番号振込のシーンなど、まるでテレビ通販番組の様な完成度だ。親父はずっとニヤつきながら笑ってそれを見ている。叫び出したい気持ちになった。何がそんなにおかしいんだテメェ!息子が人生の瀬戸際って時までゲームに感じてんのかこのサイコ野郎!くたばれ!自分で解っていつつもそう思わずにはいられない。だが頼っている俺がそんな事を口に出来る訳も無く、ましてや今俺はこいつに土下座していてもおかしくない状況なのだ。必死にその情念を心にあるギリギリの自制心(ストッパー)を使って抑える。―今夜はここにいる一番気が強そうなヤツ(メイド)を死ぬまでいたぶってやる。死ぬまで。
 そんな事を思っていると、いつの間にか親父は何処かに電話をかけ始めていた。
 ―その会話を聞き、指先が小刻みに腿を叩いている事で俺は、がたがたと自分が震えているのだとやっと気付く事が出来た。



「―ああ、頼んだよ。どっちに転ばせるかは悩んだが、これでどっちにも転がせられるよ。狸宝田優がまさかこうまでやるとは思わなかったが、それでもやられてみると意外と気持ちがいいものだよ。
 ん、君らしくない?はは。そうだな、そうかもしれない。
 でもさ、狩る時はやはり多少相手が抵抗した方が燃えるものだろう?
 うん?やっぱり君らしい?
 ふふ、そういう君こそ。
 これで君の望む形にもなったって訳だろ?
 お互い様じゃないか。そうだ、うん、うん?
 はははは!大丈夫大丈夫さ!
 こんなに解りやすくしてくれてるんだ。
 きっと、彼も来てくれるさ。
 …うん?そうだな、いいんじゃないか?
 こいつなど特に最初から期待なんてしていないからな。
 どう理由づけようか悩んだが、偶然とはいえ彼女に目を付けた所だけは流石俺の息子だと言えるな。
 ははは。そこは君の好きなようにしてくれて構わない。
 ただ私も一緒に味わいたいから、静かで広くて楽しめる所がいい。うん、そのようにしてくれると助かるよ。
 …そうだな、ここいらにはおあつらえ向きの場所がある。あそこにしないかい?
 うん、そうしよう、いいだろう?うん、うん、うん!そうだね。
 じゃ、頼んだよ!―〝苦笑(Apathy)〟!」
 まるで、親しい幼馴染と交わすような少年っぽい話し形。
 なのに、話している内容は息子の俺ですら全くの理解不能。
 もっともっと、恐ろしいもの。
 親父が一体何なのかすら俺にはもう自信が持てない。
 人間であるのかすら少し不安だ。

 バケモノ同士の、じゃれあい(壊れた相談)。

 何の会話をしていたのかは解らない。
 その中で唯一、俺が知っている単語があった。


〝アーパシィ(無感情)〟。


 それは、親父の持つ『最悪の消し屋』の名前だった。

〈第六幕〉運命否定論者の、〝フェイト・フェイカー(運命詐欺師)〟。

「と、いう訳で今回の成果はこんな感じだ。
 少しグロい物も混じっているが、これを公表すれば天映は社会的に確実に死ぬだろう。
 狸宝さんがもっとアイツの事を追いつめたいというのなら、まだやる事は結構あるが、まさか本当に殺す訳にもいかないだろう?だからこれでよければこのままこの資料を匿名で出版社にでも送れば、礼金としてあっちから金が来るだろうし、その後も損害賠償訴訟でも起こせば訴えれば確実に勝てる。そこまでしてしまうとまた面倒だからおすすめはしないけどな。警察も動けばお父さんの無罪も証明されて、また何処かに復職できるだろうし。君のお父さんの身の上を調べた俺達でさえそう思うんだから、きっと大丈夫だ。これで俺達の仕事は終わり。出番の終わった役者は舞台から降りるのがルールだ。
 これから会う事ももう無いだろう。
 もし会っても身の安全のため、無視してくれると助かる。
 もちろん今回の事は他言無用だ。
 もしそうなった場合、今度はもう一回確実に、アンタの人生を終わらせなきゃならなくなる。
 それでよかったら、この書類にサインしてくれ。狸宝田優さん」
 そう言って、鬼ヶ島さんは私に今回の仕事が終了し自分がそれを受け入れた事の証明書をテーブルの上からこちらにスッと滑らせます。
 私は何だか変な気持ちでそれを見つめ、そして自分が願っていたことが成就し、結果的にも満足の出来る内容で喜ぶべき所のはずなのですが、何故かそういった気分になれず、テーブルを挟んだ向こう側にいる鬼ヶ島さんを見つめていました。
 そして、自分の口から自分の言葉では無いと信じたいセリフが口から出ます。
「もう会えないんですか…」
「―え?」
 鬼ヶ島さんは何を言われたのかよく解らずに、きょとんとしながら私を見ます。
 私は息が出来ない程に顔に血が昇っていくのを感じ、
「い、いえッこッ、こんな便利な所中々な無い、ので!ちょっともったいないかなーって思っただけです!今度、テストの解答が運命的偶然的宿命的にに私の所へと来させてでっち上げてもらおうかなーなんて、思っちゃったりちゃったりしただけですよ!ははッ、あはははははッ…!」
 そんな苦しい言い訳をすんなり信じ込んだ鬼ヶ島さんは、私を見て笑いながら、
「―金さえ払えれば、いつでもやってやるよ」
 と言って、私を見ました。
 そこからは、いつもの険しい表情とつっけんどんさはまるで無くて、『ただの一人の人間として、私の幸せと喜びを本心から祈ってくれている』事が解って、私は「あ、う、うう、ううううう…」と自分らしくも無く声も喉も舌も詰らせてうううう。
 ち、ちくしょう!
 反則です!反則ですよ!
 ギャップがあって魅かれるのは、男の専売特許じゃないんですよ!
 桃太郎にでもなって退治してやりましょうかこの赤パーマ!!
 そんなバグった頭のまま口から出るのは、
「じゃ、じゃあ、いつか、そんな、時が来たら、また、頼みに、来ます、…」
つっかえつつ目を泳がせつつ下をもつれさせつつ私が言うと、それを見ていた鬼ヶ島さんがまた「はは…」と笑って、

「―俺達はいつでもあんたの嘘を作り上げる。狸宝さん。
 フェイト・フェイカー(運命詐欺師)は嘘は作っても、約束は破らないんだ」

 今度はニコリと、私でもわかる無邪気な少年のような笑顔を向けて、鬼ヶ島さんは言います。

 ざけんじゃねえぞ天然ジゴロォ!

 そんな八つ当たりにも等しい絶叫を、私は心の中でしていました。
 眼さえもまともに合わせられないくらいに、顔が熱くさせて。
 そして、そんな事には気づきもせずに優しげに笑っている鬼ヶ島さんが。
 私が胸を掻き毟っているなどとは、夢にも思わずに。
 腹立ちながら苦しみながら泣き出しそうになりながら。
 俯いて、その痛みに私はただ耐えていました。


               ☮


「ああ、そうだ。これ、さっきコンビニで買ったんだ。よかったら食べてくれ」
 そう言って、この〝ディスタンス・メイキング〟の自動ドアから出て行きそうになった私に、見送りを兼ねて一緒に来てくれた鬼ヶ島さんが、ぽいっと私に何か小さな直方体の箱を投げました。
 両手でそれを受け取ると、それはコーラ味のハイチュウでした。鬼ヶ島さんは、「結局解り合えなかった俺達の、妥協点だよ」と皮肉っぽく悪戯っぽく、いつもの悪そうな顔で言ってきました。私は、それを開けて包み紙を開けてぽいっと口に放って、舐め、あのコーラ独特の甘みがすぐに口に広がるのを感じながら、思わずにやりと笑い返します。
「悪くないですね」
「だろう?」
「でもやっぱりペプシの方が上です」
「イカれてんのかコークに決まっている」
「譲りませんねえ、アナタも」
「これだけは譲れん」
「今度会った時、ペプシをアナタの脳髄に染み込ませて納得させてやります」
「…さらっとさりげなく恐ろしい事を言うなお前は…」
「ですから」
「?」

「―いつかまた、お逢いしましょう。鬼ヶ島穏優さん」
 私がそう言うと、鬼ヶ島さんは何故か顔を歪めそうになりながら、直に笑っていいます。
「―俺の気が向いたらだ。狸宝田優さん」
互いに笑って、背を向けます。
私は自動ドアを開けて外に出ました。
暑苦しい、いつも通り退屈な日常へと向かって。


 外に出ると、車が通り過ぎる音と、通り過ぎるサラリーマンたちが汗をハンカチで拭きながら、急ぎ足で私の前を通り過ぎていきました。
 彼らが行く先は私が今いる『ディスタンス・メイキング』社の目の前から見て右側。
 宿借町の中心街からそのまま伸びている、企業密集地であるビル街です。皆それぞれ各々電話をする者。歩きながらお握りを凄い速度で咀嚼しそれをお茶のペットボトル(ヘルシアなのが時代を感じさせます)で流し込んでいる者。なるべく日陰を作ろうとビジネスバックを頭上で庇(ひさし)にしている者など、様々でした。企業戦士とはかくも厳しいものなのか、父は家から出た後、いつもこうやって暑い中会社に向かって汗を拭きながら働き、運命屋の皆さんが驚くくらいの誠実ぶりにそれらをこなしていた事を想いだし、私は父の苦しみがどれほどのものだったのかようやく少し実感することが出来ました。
 どんなに近くにいても、『その人の事を全部知っているなんてことは絶対に有りえなく』て、だからこそいつも対立したりぶつかり合ったりするんだろうけど、だからこそ『その人と解り合いたい』、『相手の事をもっと知りたい』と思うのでしょう。
 天映が表向きはあんなに紳士的でありながら、裏では残虐非道を絵に描いたような人間だったのに対し。
 あんな何人も人間を殺してそうな鬼ヶ島さんや、気に喰わないですがあの男女が限界まで自分の身体を使って計画を成功に近づけくれた事や、あの何を考えているのかよく解らない奈々詩さんが命がけで様々な人に扮してくれた事や、同骸地さんが裏で情報処理に連日徹夜で挑んでくれた事など。
 私のために、あんなに大変な計画と作業をしてくれた『運命屋』の皆さんを思うと、人は本当に一筋縄ではいかない存在であり、かつそんな今の私だから言える、『世の中は悪い事ばかり』じゃない、たまにだけど、わざわざ『運命屋』などに作ってもらわずとも、〝運命みたいなもの〟はその人の肩にそっと時々寄り添ってくれる事があると、そう思えるのです。
 どんなに今が暗くみじめでも、そのまま終わるか終らないかは最後にまでなってみないと解らない。
 勝者に敗者もないこの世界で、そんな事が起こっても、全然不思議でも何でもないじゃないではないですか。
 いつかは土に変える私たちは、土に変えるまではせめて人間らしく、生きていくべきなのでしょう。
 歪めず、
 歪められず。
 自分の足で、しっかりと大地を、アスファルトを、砂の上を。
 踏みしめて歩いていくべきなのでしょう。
 それが、例えどんなに労多く、益、少なくとも。

 私は『ディスタンス・メイキングス』から少しずつ離れて行きます。
 中心街に近づくにつれ、私の本来いるべき場所に、やっと戻ってきたという実感が湧いてきました。
 様々な店が見えて来て、どことなく若者が多く見かけられるのに一瞬首を傾げそうになって、ああと納得します。

 今は、学生は夏休み真っ盛りなのでした。
 そんなことすら失念するくらい、この一か月は『闇(・)との遭遇20××』で『私の現実を破壊するのに充分すぎるくらいの時間』だったのでしょう。
 そしてそれはこの『退屈な安堵の感情』を持てるくらいに、私は戻ってこれたという事でもあるのです。

 嬉しさと少しの寂しさとを私が感じながら中心街に踏み入れようかという時、路地裏で、誰かが蹲って胸を押さえている所を目にします。この町にも、いえ、どんな所であっても明るく人を寄せ付けるところには必ず、それにふさわしい汚れた場所も存在するのでしょう。
 ちょうどそこは他の通行人には死角になっている場所であり、彼に気付いているのは恐らく私一人だけです。
 見た感じ中年の、小柄なサラリーマンの様ですが、もしかしたら今まで吐いていたのかもしれません。しきりに「ごぼッごぼッ」と咳に似ていて違う音を喉から鳴らしていました。
 その姿が遺影を抱きながらベットで眠っていた父と重なって、気付けば私は一目散にその場所に入り込み、その男性の元へと駆け寄っていました。くたびれた茶色のスーツの背中は震え、未だ身体からは力が感じられません。
「大丈夫ですかッ!!」
 私は叫びながらその背中を触り、さすり、声をかけます。
 ポケットに入れておいたケータイを取り出し、急いで救急車を呼ぼうとした所で―
「―ありがとうございます、でも、心配ありませんのでお気遣いなさらずに」
 その言葉は確かに私の下で聞こえました。
 一瞬。
 私は、いつの間にかその蹲っていた男性が私の後ろに回り込んだ事に気付きました。そして、口に何か湿った物を押し当てられ、意識が急速に闇に沈んでいくのが解りました。
 その男は何処か困ったように笑いながらも、口調は楽しそうでありつつ、しかし実は何も感
じていなさそうな声で、私にこう言いました。

「―おやすみなさい、シンデレラ」

 その言葉と共に私の視界は黒くなり。
 そして、見えなくなっていきました。
 この男の、怖気が走るような含み笑いと共に。


                 ☮


「お目覚めですか?プリンセス」
 誰で、す…?
「…おおっと、まだじっとしていた方がいい。薬でふらつくでしょうから。
一応柱には痛くないように縛ったはずですけど、動くと両手首が擦れ削れて痕になります。女の子でいたいなら、おとなしくそのままでいた方がいい。
 騒がず、慌てず。今のこの状態を深く受け入れましょう、いいですね?」
 柔らかな声がしたので、まだ重たい、沼の底にいた私はゆっくりと水面に向かって意識を戻していきました。
 その声の主を探そうと私は軽く頭を振り、現実に戻ってこようとする頭を手助けする様にして、目を開きます。

 縛られていました。
 手首を。
 天井の鉄骨から降りた荒縄によって。

 何が起こったのか全く分からずに、私はしばらくその意味が理解できませんでした。
 その荒縄は天井高い所から伸びており、その細いと太いのちょうど中間のような縄は、私の手首に強く巻きつき拘束しており、薄暗い中、ひんやりとした空間にあっても私は心地よさを全く感じることなく、「キャンプで使うような折り畳み式の簡易椅子」に座った男を、意識の最後に残っている路地裏の中年男を震えながら見ていました。 
 男はくたびれた茶色のスーツによれた黒いネクタイ。革靴。白髪が混じった七三分けの髪に大きな鼈甲縁の眼鏡と困ったような笑顔という、『マンガから出て来たような〝うだつの上がらない窓際サラリーマン〟』でした。
 そして私がそんな男性に対して強く出れなかった理由。それは。

 彼の前に等間隔に置かれた、見るからに拷問器具とわかる道具が、丁寧に磨かれ並べられていたからです。

 私はその男が私を連れ去るため、あんな所で苦しんだ芝居をしていた事、そしてその道具に全くそぐわないあまりの綺麗さとコンパスで測ったかのような正確な間隔で置かれている事に、物言わぬ恐怖がじわりじわりと背中を伝ってくるのが解りました。
 そんな無言で私が自分を見つめている事に気をよくしたらしい彼は、すくっとその小さな椅子から立ち上がり、コツコツと傍に寄ってきました。
「…まあ、そんなに怖がることはないですよ?当面、君の身体が綺麗なままなのは僕が保障します。
 彼が来てから始めるつもりですし、その彼が来てからももう少し待つつもりですしね」
 誰を?とはもちろん聞けません。そんな事を聞いたが最後、ガムテープでもなんでもこの男は私の口に張り付けて黙らせる事でしょう。
 男からは、穏やかそうな物腰からは想像もつかない程の『人間に対しての冷淡さ』が滲み出ているように感じられたからです。
〝ヒト″に対してのある側面から見た時の、全くの無感動、無動揺、無感情。
 そんな触れたら凍りついて砕け散りそうな恐ろしさを感じるその細められた瞳に、かたかたと、勝手に身体は震えていきます。
 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。こわ、い。
「…うん、そうそう、そうやっていた方がいい。彼が来るまでもうすぐですしね。
そうしたら、彼がこのゲームの解説とそしてスペシャルゲストとの審判とを務めてくれますから。君へのお楽しみはその後ですので、ゆっくりと見物していって下さい」
 笑いながら楽しそうに男は言います。
 ゲーム?解説?彼?スペシャルゲスト?
 この人の言っている事が全然理解できません。
 出来ませんが、今、私は自分の人生の中で、『この一か月で経験した闇を全て凝縮したジュースよりもきっと濃い出来事(もの)がこれから行われる』という不思議な直観が起こりました。
 そしてそれは、一〇〇%私にとって悪い事であろうことも。 

 私が彼の素性は何なのかすら解らず、何と呼んでいいかすら解らず、そして今自分に発言権は存在するのかすらいえ、それ自体を口という器官を通して発音していいのかさえ解らず見つめていると、彼はようやく気付いたとばかりに「ああ!」と、その真っ黒く厚く柔らかそうなグローブの手をぽんと叩くと、「そうだね、まだ名前を名乗ってさえいなかった、流石に失礼でした。申し訳ない」と、少しも申し訳ないと思っていない口調で、言いました。
「本名はとっくの昔に捨てちゃったからね、君もこう読んでくれればいい」と。
「―アーパシィ」
「あー…ぱ、し、ぃ…?」
「うん、『苦笑』と書いて〝アーパシィ〟だ。いつも間にか皆にそう呼ばれているから、僕もいつの間にかそういう名前って事にしたんですよ」
そう『苦笑(アーパシィ)』は言います。
「君は彼の事を知っているんでしょう?
 ぜひ一度会って、僕の相手になってほしかったんです。
 ずっと楽しみにしていたんですよ。彼に会うのを。正に「恋」と呼んで良い位。
 君の事は僕にとって正直仕事だけど、彼に関しては完璧に僕個人の趣味なんです。ああ、早く逢いたいですねえ、楽しみだ、ああ、本当に…」
「だれ…?誰のことを、あなたは言っているんですか…?」
「んん?ああ、君には〝彼〟は何も言っていないのか。彼はそれはそれは裏側(こっち)では有名人なのに」
「誰の事を、言っているんですかッ!!」
「…ちょっと五月蠅いかなあ、ボリュームを落としてくれないと、その口、縫うよ?」
 本気で、やる。こいつはそう言ったら、本気で、やります、絶対。
 恐怖で震えながら、私がせめてと黙って睨みつけていると、彼は言い分け通り黙った事で納得したのか、苦笑しながら私に、その細い目の奥に『凄まじい感情』を込めて言います。
「―…『殺人鬼殺し(マーダー・マーダー)』」
「え?」
「赤い髪。高い身長に長い手足。柔軟性のあるしなやかな身体。常人離れした動体視力。反射神経。勘に読み。
拷問屋、快楽殺人者、消し屋を〝消す〟人間。
誰かを殺す人間だけを殺すための殺し屋。
殺人者を殺めるためだけの殺人者(ワールド・ワースト・レッド)。
〝誰かを消すことを目的とする仕事をしている人間〟なら、絶対に出会いたくない回避したい相手、それが『殺人鬼殺し(マーダー・マーダー)』。
彼は、そう呼ばれています。
 君がついさっきまで親しげに話していた、鬼ヶ島穏優君は、ね」
 私が本当に言葉を失い黙っていると、『苦笑』は更に熱を込めて言い続けます。
「『運命屋』なんてものすら隠れ蓑にしているとは流石に驚きましたけど、本当にどうもありがとう。これで、ようやく彼と殺し合う事が出来る、『趣味と実益が兼ね揃った仕事ほど素晴らしいことは無い』と、私は思いますね!」
その時、がらがらと、私の遠く前方、その重たそうな鉄扉が開きました。
そこに居たのは―「おや?」『苦笑』は笑って言いました。
「来るのが遅いですよ、立志彦さん」と。
 は?
「―…すまないすまない。ちょっと会議が長引いてね。
 これでも急いで来たんだが。…おっ、良い風景じゃないか『苦笑(アーパシィ)』、実に良い、良いよ。
 うんうん。君はやっぱり兎幸さんにそっくりだねぇ、狸宝田優さん」
 は?
「それじゃあ、彼が来るまでに彼女にゲームの顛末(てんまつ)を聞かせてあげてください、私は準備に入りますので。―手早くお願いしますよ?」
「解ってる、解ってるとも。本当に、君はそのせっかちは治らない。
もうちょっとゆっくりしようゆっくりと」
「あなただってそうやって、いつもいつももったいつける所、変わってないですよ?そこはお互い様でしょう」
「ははははは。それも、そうか」
「そうですよはははははは」
「「あはははははは」」
 何が。私に一体、何が、起きて、いるんです、か?
 鬼ヶ島さんが、
 ええ、
 私の母、
 とこの、
『苦笑』が、
 こいつは、
 天映の父親で、
 兎幸は、
 母の名で、
『殺人鬼殺し』とか、小説でもあるま、
 いし、ええと、はは、ええと?
 ええとええとえええとええとええと、
 …はははは?何なんですかもう、ホント。
 その新しく入ってきた男、「天映立志彦(てんばえたしひこ)」は『苦笑』が座っていた簡易椅子に腰を下ろし、その縛られたままの私を、眩しそうに眺めました。
 ―『苦笑』は横目でそれを本当に『苦笑』しながら確認し、綺麗に整え揃えた道具をざっと見、点検すると、今度はスーツの裏に取り付けられたベルトに下げられた、様々なメスや糸や針やナイフや指に取り付けるのであろう、指ぬきの先に取り付けられたカッターのような刃を、武器を熱心に点検していきます。
 それを気にも留めず、天映立志彦は私に話しかけてました。
「…兎幸さんの時も、こんな感じだったなぁ…」と。
 本当に何を言っているんだこいつは。
 私は思考放棄することも出来ずに、ただ天映立志彦の言葉を脳内に入れてしまいます。
「兎幸さんも、僕を拒まなかったら、死なずに済んだのにな…」
 ぶちん。と。
 大切な何かが私の中で切れた音が、した。


                ☮


「一目惚れだったんだ。
…彼女に会った時、僕はちょうど二三、ん?いや四になっていたばかり、だったかな?のピカピカの新入社員、俗に言うフレッシュマンってやつだった。
 それはどうでもいいか。とにかく、僕が彼女に会ったのは僕が会社に入社した次の年だったって訳だ。
 当時、仁(じん)さん―銅(どう)谷(や)仁(じん)鉄(てつ)には娘が一人いてね。
 僕は運よく一年目にして、何故か彼に目をかけてもらっていたから、出会えたんだ。
 その時から僕は結構裏でやんちゃしていたから、そんな匂いをお日様みたいな彼にしてみれば魅力的に、逆に魅かれたのかもね。
 若いとはいっても、彼はもうその時は三十代後半だったから、十六、七の娘さんがいても驚きはしたけど、別に不思議じゃなかった。…色々と型破りな人だったしね…
 奥さんも若かったけど、凄く仲が良かったし。
 仁さんは、僕とその女の子をお見合いさせたんだよ。
 高校生と、大学を出てまだ二年目のペーペーをだよ?どうだい、型破りだろう?
 もちろん、まだ僕は身を固めるつもりは全然なかったし、どううまく断ろうかだけを考えて、その日を迎えたよ。
 ―電撃が走ったね。
 その向かいに座る彼女―兎幸さんは、見るからにふて腐れて、嫌々そこに座ってるのが丸わかりの態度だったけど、その着物に包まれた美しさと言ったら、まるで、美しい蝶の様だったよ。
 僕は珍しく舞い上がってしまって、自分の今までしてきた事と、これからの野望めいた事を、色々と陽気に見えるよう、明るく話したんだ。
 すると、だんだん彼女が黙っていってしまって、どうしたのかと思ったら、『ふざけるんじゃない』って僕に怒鳴ったんだ。ふざけるんじゃないって怒鳴ったんだよ?この僕に向かってさ。
 彼女は驚いている僕に構わず、畳みかけるように言い続けた。
『アンタの言っている事で、一体アンタ以外の誰が喜んで、そんで幸せになれるッつーのよ!自意識過剰もほどほどにしろよ、このキモ男!』―ってね。
 僕はその時どう思ったと思う?
 それはそれはね。―殺したくなったよ。
 その目の前で罵倒してくる女の子が、憎くて憎くて、でもね、『好意』も持った。
 この子を思い通りに出来たら、さぞや、気持ちいいだろうなって。
 僕はずんずんと歩き去っていくその背中を見た後、俯きながら笑っていたよ。
 どうやったら、気持ちよくなるかなあって。
 じゃあ準備しなきゃ駄目だよなあ、って。
 それから僕は、自分の地位を固めるために様々な手を使い様々な策を練りそして〝利用〟していった。
『彼女を有無を言わさず、僕の物にするために』ね。
―『何か目標がある時、人間は最も輝く』とよく言われるけれど、あれは本当だよ。
 少なくとも僕は輝いていた。とてもね。
 毎日がスリルと駆け引きとゲームの毎日だったよ。
 賞金は人脈と地位とのし上がる快感と彼女の周りを囲む楽しさ。
 僕は毎日が充実していた。
 でも、彼女は突然僕の前から居なくなった。
 駅の終点の先に居た、馬鹿な小男の所へと、転がり込んだ!
 あんな何の力も無いチビの所へ!僕なんかよりちっぽけすぎて笑えてくる奴の所へ!
 …僕は仁さんに言われるまでも無く、彼女の気を変えるために、色々とやったよ。
 でも、彼女は奴(・)と離れる事も無く、逆に強くくっついていってしまった。
 そしてあの腐った町に溶け込んで、霞んで見えなくなってしまった!
 僕の大切な蝶が、蛾になってしまったんだよ!
 僕は、離れていても彼女を見ていた。
 機会があったら救ってあげなければ、と思ってね。
 でも君が小学校にあがる少し前かな。
 …我慢が出来なくなったんだ。
 このままでは、本当に蛾のまま、歳衰えていってしまうだろうとね。
 その前に、綺麗なままで、彼女を、僕の裡に、残そうと。
 留めてあげなければと、そう、思ったんだ。
 そんな時に巡り合ったのが、―今後ろで黙々と道具の点検を行っている、「彼」だった。
 当時から彼の腕は僕でも良く知っていたけれど、僕は初めて彼を見た時に、思ったね。
 〝ああ、僕がもう一人、ここにいる〟、って。
 彼も、同じだったらしいよ?
 僕らは身分も職業も何もかもを超えて、友人になった。
 そして、君の母、―兎幸さんを、彼の手で、美しく残してほしいと頼んだんだ。
 綺麗に、美しい姿のままで、ね。
 だけどね、彼―『苦笑(アーパシィ)』は〝催眠〟も使える本当に素晴らしい人なんだけど、自分で自分を殺すと言うのは、中々、深層意識がどーたらで、難しかったんだよ。
 だから仕方なかったんだよ。
 君が交差点の真中にいるように催眠をかけて、車に轢かせてしまったのは。
 美しくない。本当に美しくなかった、あれはね。
 蝶の死に方では無いよ。
 だから、君が大きくなった時は、ちゃんと美しく手元に残そうと思ったんだ。
 今度こそ、ね。
 その後も、僕は相も変わらず仕事に精を出していった。
 誰に疑われることなく、弱みを握り、使い、そして潰していく。
 その繰り返しの連続だった。
 その後君たちの事もずっと監視させてもらってきたけれど、最近の君を見ていて、その雰囲気が兎幸さんにそっくりになっていたから、そろそろ〝収穫〟した方がいいかとは思ってた。 
 そんな事を考えていた時、僕にもとてもととても悲しいある出来事が起きてしまう。
 仁さん―そう、僕を見出してくれた大恩人、銅谷仁鉄が、死んだんだ。
 そう、おそらく君が本当に一回もあった事のない、血のつながった祖父が、だよ?
 悲しくて涙が止まらなかったさ。
 仁さん、どうしてだよ、どうして?
 どうして僕の事をもっと大切にしてくれなかったの、って。
 そうしたら、娘さん同様に死なずに済んだのにって。
 あの世界に誇れる僕(・)の会社、『DOUYA』製品が、それを製造している〝会社のトップが自宅で使ってるクーラーが故障して熱中症で死ぬ〟なんて事は、普通は笑い話にしかならないだろう?
 凄く久しぶりに『苦笑』に「皮肉すぎるよ」と怒ってみたら「だからいいんじゃないですか」と言われて、確かにと思ってしまった。ははは。
 苦しんだみたいだから逆に良かったなと思ったんだ。
 だって僕に彼はこう言ったんだよ?
―「俺ももう歳だからなぁ、そろそろこの席(社長)を誰かに譲るべきだろうなってなぁ。
 だから天(テン)、頼んだぜ?お前も全力でそいつを支えてやってくれよなガハハハハ!」―ってさぁ!ふざけてると思わない!?
 これだけ尽くして、会社を成長させてきた最大の功労者、この天映立志彦を最後の最後で裏切ってしまったんだよ、彼は!
 一気にどす黒い、憎さの塊が腹に落ちてきて、爆発したみたいだったよ。
 だから『苦笑』に頼んで仁さん―仁鉄を『消せ』って頼んだんだ。
 彼の手際で、何の問題も無く彼は死んだよ。 
 もともと、最近調子が悪いって言っていたから事故に見せかけるのは本当に簡単だったと『苦笑』は言っていたよ。
 そんな時、『苦笑』が仁さんの部屋を片付けていた時に面白い物を見つけたんだ。
 すぐ取出して見つけやすいようにしてあったそれは、開くと何と―遺言とまでは言わないかもしれないが、『遺言』のカテゴリーに入るそれを、自分の遺志をたった二つ、その封筒の中にあのデカくて筆圧の濃い字で大きく書き遺していたんだ。
 ここにあるよ。君にも見せようと思って持ってきたんだ。ええとね。
『1、社長は外部から呼ぶこと。社内の停滞した風通しの悪い今の『DOUYA』に新鮮な風を送れるもの。そのための調査は、俺が信頼を置いている人間に当たらせているから、選抜した人間に最初は戸惑いも苛立ちも怒りも多いだろうが、少しの間、優しく見守ってくれると有難てぇ。』

『2、俺の財産は全て血縁上の孫のである狸宝田優に全て譲るものとする。不義理を貫いちまった俺だが、最後くれぇは何か残してやりてぇからよ。すまねえがよろしく頼むわ』

 …だって。どうするべきか、僕は悩んだ。
 でも考えて出た答えはひとつだけだった。
 まずは、『君を上手く手に入れるために動こう』と。
 もう一つの後継者の問題に関しては、直にその『仁さんが信頼する人間を一刻も早く始末する事だった』ので難しくなさそうだったからさ。
 君がすんなりと僕の中に誘われ誘(いざな)われる様に、それが駄目なら美しく残る様にしたかったけど、中々それが、難しかった。 
 どうやったら、自然と、君と僕を繋げられるかを、ずっと考えてた。
 悩みに悩んでいた時、天映翔(バカ息子)が『君の事を狙っているから手伝ってくれ』と言われて、思わず腹の中で大笑いしたよ。
『こんな馬鹿でも、役に立つときはあるんだな』、ってね。
 そして君を襲った不幸(運命)を『運命屋』と造り上げる。
 でももう少しで成功、だがギリギリのところで、君と翔が結ばれる最後の最後で、君は逃げてしまった、あの兎幸さんの様に。
 その後、君が『運命屋』に息子に復讐する事を頼んだらしいことには気付いていたけど、同時に『運命屋の素顔がどんなものか見れる瞬間でもあった』から、そのままわざと流しておいた。
 驚いたよ。
 ああまで粒ぞろいの人間が揃うのも所も珍しい。
〝変装、偽装、スパイの天才〟。
〝情報機器のスペシャリスト〟。
〝色仕掛け演技専門の女〟。
〝尋問、拷問、暗殺、戦闘の達人〟。 
 
 君の思惑通りに事は進み、遂に息子は人生の終わりを迎える。
―だが狸宝田優さん、真実はいつも残酷なものなんだ。
 君が本当に信頼を置いていた人間達は、息子から三億貰えば君との契約を破り、翔の人生を救ってやると言ってきたんだから。
 ん、その顔は信じていないみたいだね?でも僕がこんな所で嘘をつく理由自体が無い、そう思わないかい?
 彼らは今日ここで金の受け渡しをするつもりでいる。
 銀行振り込みだけはすることが出来ないやれない譲れない、と息子に話させたからね。
 鬼ヶ島くんはのこのこやって来るんじゃないかな?
 君がいるとは思ってもいないだろうし。
 それに敵がいても勝てるだろうと思っているだろうからね。
 そこで利害が一致した『苦笑』が彼を迎え撃つ。
 彼の望み通り、『報酬』と『趣味の充実』のためにね。
 そして、それが終わったら君の拷問を始めたいと思っている。
 悲鳴と懇願する顔を見るのは本当は兎幸さんにしたかったけれど、仕方がない。ゆっくり楽しんだ後、丁寧に化粧を施して傷を隠して美しくしたら、焼いて灰にしてあげる。何時までも、僕の中に、残るようにね…」

「あ、ォオォォアあアァァああああああああああああああああああああああッ!!!」
 殺す!殺す殺スコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス!
 こいつが、母さんを、こいつが、父さんを、こいつが、祖父を!こいつが、私の、『人生』を!
『ぶっ壊しやがった』んだ!「アンタ…」ごりいと奥歯が欠けるのが解るほどに強く奥歯を噛むと、私は絞り出しように言いました。
「―…おい糞食野郎。アンタ、壊れちゃってます。何から何まで、全部。
 狂いすぎて、逆におかしくなく感じてしまえるほど。
 人を。
 人を、どうしてそこまで『物』としてしか捉えられないんですか?
 考えることが出来ないんですか?
 アンタは、そんなに偉いんですか?
 そこまでアンタは、偉い人なんですか?
 ユウジン?笑わせんな。
 きっとあそこにいる『苦笑』だって。
 アンタはほとんど何にも思ってなんかいないんだろうが。
 自分のしたい事に都合がいいから一緒にいるだけだろうが。
 軽すぎます。
 吹いては飛ぶ紙切れみたいなもんです。
 自分の行動を抑えきれない幼児が大きくなって面倒臭くなっただけの人間。
 それだけの人間ですよアンタは。
 アンタの生き方に全部に唾を吐いてやります天映さん。
 天映さん、聞かせてくれませんか。 
 そんな人生で、あなた以外の、一体誰が幸せになれるって言うんですか?
 教えてくださいこの、ロリコン野郎。」

 天映立志彦は無言でつかつかと私の前に屈み、ぱぁあんッと私の左頬を張りました。今ので、口の中の何処かが切れたのか、血の鉄っぽい味が口に広がります。私はじんじんと痛む頬を無視して、睨み続けるのを止めません。更に続けて言います。
「ここにいる連中、これから来る鬼ヶ島も含めて、全員ゴミです。やるなら早くやって下さい。こんな人生を早く終わらせたいんですよ。なんなら、今すぐ舌を噛み切りましょうか」
「―…やはり君は兎幸さんの娘だ、実にいい…いいね、いいよ。…すぐには殺さない、決めたよ、その口、もう開けなくなるのが見たいからね、ぞくぞくして堪らない、どうやって鳴くのかが、今から凄く楽しみだよ」
『苦笑』が音も無く近づき、私の口に大きなハンカチを入れ、ガムテープで閉じます。
 うめき声を上げながら、私は口の代わりに目付きで抗議します。お構いなしに二人は私の身体をまさぐり(超気持ち悪い!)遂にポケットから私の ケータイを見つけて、アドレス交換した鬼ヶ島の所へコールします。「はやく出ろはやく出ろ」と『アーパシィ』はそわそわしつつも楽しそうに電話を待ち続けます。
『もしもし、鬼ヶ島だ』
「ああ、やっと君の声が聞けた!『殺人鬼殺し(マーダー・マーダ―)』!」
『…誰だあんたは?』
「私は『苦笑(アーパシィ)』。君と同じ〝消し屋〟、さ!
 今、君が来ることになっている場所にいてね、君を始末してほしい人間から雇われたんだよ」
『ほう、じゃアンタがあの〝最悪の消し屋〟で間違いないのか?』
「間違いないも何も私がその名を口にした以上、真実に決まっているじゃないか、『殺人鬼殺し』!ははは。
君は僕の顔も知らないだろうけれど、今日会えるよ。約束した〝宿借地区元工場街、第三棟倉庫〟でね。君の要求した三億円と、自分の命をかけた『ゲーム』をするんだ、君と僕とでね!早く来てくれ、『殺人鬼殺し』。僕は君とヤる事を一日千秋の思いで待っていたんだから!」
『そうかそうか。そんなに俺と会いたかったのか?』
「もちろんだとも!」
『じゃあ、後ろを向けよ』
「え。…ぅお!、!!…く、ぅぅうおおおおおおおおッ!」
電話口に当てていた耳を切り裂くように、『苦笑』が持っていた私のケータイが何か高速に放たれた物によって爆発四散しました。
『苦笑』は瞬時に脇へそれるように横に三回転。
 立ち上がり頭を無くした釘のような物をスーツから取り出し即投擲。
 撃った相手は足の裏だけ使い靴底で百八十度ほどの半円を描きつつ半身になってそれを回避。
 男は三発ばんがんがあァんッ!と持っていた銃から火花を吹出させ、『苦笑』へと放ちました。
『苦笑』も次は冷静にその風貌からは想像もつかない程の速度で大きな鉄骨の柱の裏へ回り逃げ、同じく先程の釘(その速度から言って何らかの原始的な武器)を拳銃のオートの様に三回連続で投げ続けます。
 こめかみ。右肩付け根。鳩尾。
 それらを狙い飛ばされた釘を落ちていたアルミ板で風を起こすほどに振りぬいて、男はその三本全てを弾き飛ばします。
 その隙に走り込んで来た『苦笑』は、男に間合いに入り込んだかと思うと男の持っていた拳銃をつま先で蹴り上げ手から弾き飛ばすと、またスーツから取り出した今度は医療用のメスを握って男の胸に突き出します。
 それを左の手の甲でぱんッと弾き、その絶好の間合いを利用するかのようにその長い腕で払った腕と反対の右の正拳突きを『苦笑』の胸に叩きつけようとします、が、『苦笑』はもう慌てることもなく腕をクロスさせると、その正拳突きを真正面からそのまま受け、同時に自分も後方へと飛びながら当たった衝撃をそのまま後ろへ逃がしつつ靴底を擦れさせてながら着地します。
 相手の男はそれを深追いせず、ただ黙って『苦笑』を見つめました。その男とは―
「―鬼ヶ島(ほひがひは)、さん(はん)ッ!」
「―ちょっと遅くなったな。済まない」
 と、こちらに視線を向けずに、その燃えるような赤い髪を扉から来る風で少し揺らしていました。

「おお、おおお、おおおおお!!よもや、よもやこんなに早くに出会えるとは!ああ、光栄です、『殺人鬼殺し(マーダー・マーダー)』!」
「こっちは一生会う気は無かったが」
「それこそ君が良く造っている〝運命〟というものですよ、『殺人鬼殺し』」
「言っておくが、俺は運命なんぞ全く信じていない。あるのは、そう思えるような『偶然の連続による錯覚だけ』だ、例えば、今回の様に」
「―『殺人鬼殺し』、君は何故こんなに早く、ここへ来れた?
 まだ私は君と接触していないはずだ。僕が狸宝田優さんのケータイに恐らく履歴が残っていると踏んだだけで連絡してみたが、そうでなければ『約束の時間に来る』と思っていたが」
「天映さん、あんたは自分で思っているよりも全然優秀では無いんだ。
 その事を説明しようと思うが、その前にその疑問に答える。
 ―天映さん、もっと招き入れるメイドの審査を厳密に行った方がいい、誰がどんな人間なのか解らないんだからな。あと、何故今ここにいれるのかは、俺と狸宝さんの〝妥協点〟の結晶だよ。―ハイチュウは美味いんだ、知らないのか?」
 天映はもう一度私のズボンのポケットに手を突っ込みます。(だから気持ち悪いんですよ!)そこからコーラ味のハイチュウを見つけてガッと開けると、一番奥の所に、明らかに色が違う濃い黒の盗聴器がびゅがーびゅがああーと鳴っていました。
 天映は、床にぽとん、とそれを落とすと。
 ぐしゃん!と足の踵で踏み砕いてまるで汚いものでも吹くようにごしごしと撹拌(かくはん)します。
 鬼のような形相で鬼ヶ島を見る天映。
 それをどこ吹く風で意識を『苦笑』にも留まらせつつ、皮肉笑いを浮かべて挑発する鬼ヶ島さん。

「さっきから聞いていた説明に補足してから始末したいから、俺の話も聞いておくといい」
 鬼ヶ島さんはその鋭すぎる瞳でじっと天映を見ながら言います。
「―銅谷仁鉄の掌で転がされた、哀れな男の話をな」
 
 そう言った鬼ヶ島さんは背中に何か目に見えない焔をつき従えているようで。
 とても怖いはずなのに、私はその彼が何故か。
 とても優しく、映ってしまっていました。


                 ☮


「僕が、仁さんより劣るだって…」
「ああ。…おいおいそんなに睨むなよ。『事実を指摘されたから怒る』だなんてそれこそ器が小さい証拠じゃないのか?カリカリするなよ。本当の事だからってそんなに気にすることでも無い。解りきってる事を認める事も大人の条件ってヤツだろう?」
「…―まあいいけど。…君みたいな殺すことでしか自分を主張できない奴に何を言われても別に気にはしないさ。『苦笑』、もうこいつやっちゃっていいよ。君もそろそろ限界だろう?喰いたいなら今すぐ食べろ」
「だから少し話を聴けよ天映さん。俺に最もふさわしくない役なのは解りきってるけど、それでもこれだけは言っとけとウチの社長直々のご命令なんだ。アンタらも運が無い、あのババアを本気で怒らせちまうなんてな。同情する。今回の茶番劇の一番の黒幕なのにそれにも気づかずこうやってババアと銅谷さんの思惑通りに動いちまってるんだからな。あの婆さんをキレさせて無事に済んだ奴は、俺の知る限り今の所一人もない」
「〝ババア〟…?…あのイカれた服装をした気違い婆さんの事か。あんな奴が一体どうしたっていうんだ?」

「銅谷仁鉄に殺すように頼まれたのさ、死ぬ前、アンタが自分の後を継ぎたがってる事も、そこにいる狸宝田優さんの事をつけ狙っていた事も。…自分の最愛の娘を奪ったという事もな。銅谷仁鉄は全てを知った上で殺されたんだ。自分の命を餌にして、アンタと『苦笑』が手を組んで娘を殺した実行犯という事を確かめるために。アンタらが自分を狙うように仕向けて証拠を掴んだ上でな。」

 天映と『苦笑』が、全身をこわばらせたのが私にも解りました。
 その様子を楽しげに見、鬼ヶ島さんは更に続けます。
「―そしてその場面を、隠しカメラで撮影しておいた映像として彼は俺達に残した。…ババアとは長い付き合いだがあんなにあいつの顔に恐怖を感じたのはあれが初めてだったよ。ババアは俺にこう言った。『この顔を絶対忘れるんじゃないよ、穏優。』とな。
後は仁鉄さんとババアが交わした生前の運命依頼通りに俺達は動くことになった。
 まずアンタたちの信頼を得るため、こっちからアンタらに狸宝さんを『生贄』として捧げる。息子の翔にそう思わせるように働きかける。
 でもそこは何と逆にあっちから彼女を見初めてくれたから一気に話は楽に進んだ。
 その計画を徹底的に詰めて行う事によって、俺達はアンタらの信頼を一応勝ち取った。
 その最後の最後に、俺が彼女にケンカをふっかけて、俺が彼女の前に何度も何度も表れた人間だと気付かせる。狸宝さんが疑念を一瞬で確信へと入れ替わる真相に辿りつかせる、そのために。
 そうすれば、後は狸宝さんの指示通りに動いていけば、天映翔は必然的に人生の終わりを迎える。その影響を阻止するためにアンタが動く。そうすればこの狸宝さんの口を封じると同時と共に『苦笑(アーパシィ)』さん、そこにあんたも現れるだろうと踏んでな。」
じゃりっと。鬼ヶ島さんが砂と共にゴツリゴツリと重そうなブーツでこちらに歩み寄りながら薄く笑います。
「銅谷仁鉄は最初からアンタ達を疑っていた。しかし証拠も無かった。確信はあってもそれを裏付けるものが何一つとして出てこなかった。アンタと『苦笑』を繋げる物も無く、綿密に処理されたその事実に彼が、どんな気持ちでアンタと一緒になって仕事をして働いてきたか、想像がつくか?アンタが尻尾を出す日を迎えるためだ。自分の手でアンタ達二人の行為の証拠を掴んでアンタ達に復讐するためだ。それがどんなに苦しい時間だったかアンタらに解るか?地獄にも等しい時間だったろうよ、何もしてやれなかったばかりかその命さえも救ってやれなかった娘を思って毎晩毎晩夢に見たんだよ。
 だが、彼は諦めなかった。自分の時間が許す限り、アンタらに復讐する事だけで日々を過ごしてきたんだ。
 だが、それすらも時間は彼を許さなかった。彼は医者に宣告された。余命半年だ、肝臓がん末期だ、とな」
 ざ。 ざん。 ざ。 ざん。  ざんざんざん。
 砂音と共に彼は二人の方、私の前方にゆっくりと、しかし確実に近づいていきます。
 少しずづそれと呼応するかの様に天映と『苦笑』もじり、じり、じり、じりり、と無意識にか後ろへ下がっていきます。気にせずに鬼ヶ島さんは歩みを止めることなく歩きながら続けます。
「彼は決断した。どうせ死ぬのなら道連れが欲しい。地獄の底まで付き合ってくれる人間が二人欲しい」
 ざん。ちょうど彼二人分くらい―4メートルほどの距離を開けて鬼ヶ島さんは立ち止まります。ゆっくりとその二人の顔を交互に見つめ、言いました。「俺達、いや俺が依頼されたのは一つ。まぁ今は二つだが―元々一つだ」
 無音。まさにその場に居る者たちの思惑や打算や駆け引きや悪意や殺意によって各々が発するはずの音が一瞬、それぞれで打ち消し合って掻き消えたかのように静まりかえりました。
 しかし何の訓練も受けていない素人の私にも解るくらい、びりびりびりりりりりとしか表しようが無い耳が、皮膚が、喉が、目が、痛くて耐え切れない程です、叫び出さずに済んだのは口を塞がれていたためで、この時ばかりはこれは幸運だったかもしれませんでした。
 彼らが放つ圧迫感はそれ自体が意志を持って空気自体を共振させて震えているかのように、果てしないほどの緊張感によって支配されています。痛くて痛くて、目を開けてすらいたくないのに、彼らから私は眼を逸らす事も出来ません。
 痛い。
「それはな」
 痛い。
「お前たち二人を」
 痛い。



「〝因果応報(不可避の)の運命で殺す事〟、だ」


 いたい。


 その言葉を聞いた瞬間。
 突然糸が切れたかのように『苦笑』が両手に二本ずつメスを指の間に挟み込みながら真っ直ぐ鬼ヶ島さんに突っ込み切りかかっていきました。
 ただ黙ってそれを鬼ヶ島さんはワンツーステップと撥ねるように、同時に二本ずつ振られる刃を紙一重で躱しつつするりと『苦笑』から距離を置き。
 かと思いきやその『苦笑』の動きが止まった瞬間、息を『吐いた』瞬間に「ふっ!」と強く息を吐いたかと思うと、ダン、ダダダン!とジグザグに跳躍しつつその腕のうねりを使ったフェイント気味の裏拳を『苦笑』の鼻に叩きつけます。
 流石にそのタイミングは読めなかったのか、「くおッ!」っと驚きの声を上げると、『苦笑』は仰け反るしかなくなり後ろ手で片手のメス二本を放り捨てて地面手を着いてその反動で距離を稼いで何とか鬼ヶ島さんの攻撃範囲から逃れるしかありませんでした。
 その顔にはもう『趣味と実益に対する余裕ある態度』は到底見られず、目の前の〝獣じみた動体視力と意表をついてくる独特の攻め方〟に戸惑いを隠しきれていない様子でした。
 自分たちが嵌めたと思い込んでいた相手達から、実は全く初めから嵌められ囲いこまれていたという事実も、その優越感を破壊し少なからずその動きに不具合を発生させているようでしたが。
「どうした?」
 鬼ヶ島さんは首を少し斜め上から見下ろす様に見下(みくだ)すように『苦笑』を見ます。
「俺と戦いたかったんじゃないのか?そんなもんじゃないんだろう。
 お前は自分で公言していたじゃないか『僕は君と殺し合いたかったんだ』と。今まさにその真っ最中だと言うのにお前からは全然そんな気配がしてこないぞ?遊びたいんならもっと楽しもう。お前の望む通り『命がけの勝負』だ。ここに居るのは俺と、お前と、そこの戦闘にはド素人の中年変態ロリコンと悲劇のヒロインだけだ。何の気兼ねも無い。
 …なんだ、本当に面白くなさそうだな。自分が獲物の時にはそんなに楽しめないのか?
 最強の消し屋が聞いて呆れるな。さあやろう。
 流石に俺もその娘に手を出そうとしておいたお前にはそろそろ我慢の限界だ」

 ぐっ…、―すッ…、…。 
 ―どんッ!
 鬼ヶ島さんは腰を深く落としタメを作ると向けていた右腕を軽く開いて『苦笑』の方へと開き、下げた左足で駆け出し、そのまま本当の狼かチーターの様に上半身を丸くし下半身を大きく割ったまま大股で『苦笑』の元へと全速力で間合いに入ります。『苦笑』はもう既にそのアーパシィ(無表情)という名前からは想像もつかない程の形相でコンバットナイフを両手にだらんと下げたその関節など無いかのような腰から始まって肩肘手首指先へと連動させたその軟体動物のような斬撃を光る銀色の糸のように軌跡を引きながらまず右腕、そしてそれから凄まじい腰の戻しで腰と水平に左の銀線を振るいます。
 鬼ヶ島さんはその斬撃を一度目は割った足のブーツの踵を刷り上げるように蹴り上げ、飛ばし、次の斬撃をその振った足を後ろに回転させるように軸足に切り替え逆足でその勢いのまま回し蹴りで左手のナイフを弾き飛ばします。
その勢いは止まることなくそのまま再び低く回転し右拳を地面すれすれに落としたかと思うとバネ仕掛けの様に下からアッパーで一気に二・五メートル近く上昇する一撃を繰り出しました。
 クリーンヒットとまではいかないまでも顎にかすり『苦笑』の脳は揺れ、一瞬足がもつれました。そのまま膝を胸に近づけ「オラァアッ!」と叫びながら前蹴りを繰り出す鬼ヶ島さん。先程ナイフを受け止めた時に火花が散った事からあの重そうなブーツには鉄でも仕込んであるのでしょうか。そんなものであんな勢いで腹を蹴りぬかれたら内臓破裂で即死良くて戦闘不能でしょう。その時、私は鬼ヶ島さんの勝利を確信しました。―が。
―甘くない。『苦笑』はその一撃の脚の足首を両手で掴み、関節を車のハンドルを一気に切る様に捩じり上げます。
「う!」
「―調子こいてんじゃねえクソガキァアアアアアァアアアアアアッ!!!」
「ぎ。が、あああああアァアッ!」
 ぐるん、と関節を捩じり切るようなその痛みに鬼ヶ島さんは叫び横に一回転して地面に激突しました。その時頭を強打したのか額からは血が噴き出て赤い頭を赤い血で濡らします。
「―お前みたいなカスが僕みたいな人間を獲物(・・)扱いしてる時点で死刑確実なんだよゴミクズがァアアア!脳髄から内臓から睾丸からムスコまで生きたまま解剖してやるから動くんじゃねえ今から標本にしてホルマリン漬けにしてやッから覚悟しろコラァアアアアああアアアアああアアアアア!!」
 目が飛び出そうな程に『苦笑』がもっと大型の、腕の半分ぐらいはありそうなさっきのコンバットナイフとは比べようも無い程の大きなナイフを、背中に通している鞘から取り出し倒れた鬼ヶ島さんの首元に勢いよく叩きつけます。
 がィィイイイイイイイッ!
 火花を散らしつつそれは地面のアスファルトを穿ちますが、なんとか首を捻ってかろうじて避ける鬼ヶ島さん。しかし全く間を置かず腰辺りに再度それを振り下ろす『苦笑』。それを足裏で受けながら「おおおッ!」と力づくで受け止める鬼ヶ島さん。「―らァああッ!」とそのまま勢いで蹴り飛ばし再び二人の距離がまた少し開きます。
 問答無用で再び『苦笑』は距離を詰め、途中先程弾き飛ばされたコンバットナイフを拾いアンダースローでそれを鬼ヶ島さんに投げつけた後更に避けた鬼ヶ島さんにバランスを崩すため最初の棒針を投げとどめに最適の距離になった場所で『鉄の重りが付いた糸』を投げつけます。
 棒針までは避けるのに何とか成功していた彼もその最後の鉄球は触れる事すら許されないとでも言うかのようにみっともなく斜め前方に飛び込み本気の回避行動に出ます。
 その鉄球と片手で振られたナイフの斬撃を避けつつ「くはッ」とざりざり足の裏を滑らせながら鬼ヶ島さんは口に溜まった血を吐きます。どうやら鉄球は躱しきれずわき腹をかすめ肋骨か何処かが折れたかヒビが入ったらしく、それが内蔵の何処かを更にかすめたのでしょう。苦悶の表情を浮かべた鬼ヶ島さんはそれでもペッと血を脇に飛ばすと「なるほど」腕を構え直し『苦笑』の方へと笑いかけます。「腐っても『最凶』か。『喰いがい』がある。…だがもういい。お前の面は見たくない。とっととあの世で小豆でも洗っていろ。小物っぽいその顔にはお似合いだ」
「君は首から腕から脚から胴から内臓全部綺麗に洗って防腐処理して僕の家に飾る。その顔を見ながらワインなんて最高だろうね」
「イカレ野郎」
「君には言われたくない」
 刹那。間が開き。二つの獣が呼応する。

「らあッああああああああああああアアあああああああああああアアァアアッ!!!!」
「いィイやッはッああああああああアアあああああああああああァアアァアアッ!!!」

 ―『苦笑』は大ぶりな動きはさせず、確実に頸動脈を狙い滑らかに鋭くナイフを振るい。
 ―鬼ヶ島さんはその長い脚を上げ膝を曲げ打ち落とすような踵落としをナイフへ。

 鬼ヶ島さんがそのナイフを叩き落とした時。
『苦笑』はその反動を利用し先程の〝鉄球〟をさりげなく投げ。
そしてそれがスローモーションのようにゆっくりと鬼ヶ島さんの首に絡みつくように私には見え。

「―あふふぁい(危ない)ッ!」駄目だ!
「おびふぁひぃまふぁん(鬼ヶ島さん)ッ!!!!」それには!
 触れてはいけない!
 しかし無情にもそれはぐるぐると彼の首に巻きつき。『苦笑』はそれを腰を基点にして勢いよく引き。その首が―
―飛ぶことは、ありませんでした。
 その間に差し込まれた、鬼ヶ島さんが『苦笑』の懐からすり取った、コンバットナイフによって。
「なかなか『粋』な特技を持っているじゃないか」 
「…ダイヤモンドの剛線か……これまた面倒なものを使う…」
「お褒めにあずかり光栄だよ『殺人鬼殺し(マーダー・マーダー)』」
「全く褒めてない」
「そうかいそう聞こえてしまったよ」
「刃物でも何でも問答無用に切るって訳か。確かに隠し玉としては最高だな。マンガに似たのが昔あったが」
「プラス宍戸梅軒(ししどばいけん)かな」
「宮本武蔵は無理だろうからな」
「なる気も無いよ」
「そうか」
「そうさ」
 ギリギリとダイヤモンドをまぶしたその糸とその鉄球によって、メスが削られていくのが遠くの方に居る私にもギリリリリという高い金属音で伝わってきます。
「このままメスの耐久度を超して君の首も飛ばすのもいいけど、仕事でもあるんでね。
 一応、プロとしてけじめをつけて終わらせる」
『苦笑』はそう言うとそのまま手元のグローブの上の糸をするすると伸ばして、先程鬼ヶ島さんが使った拳銃の所まで行くと、またその糸の緊張を保ちながら戻り、四メートルくらいの間隔を開けてその銀色に光るオートマ(?)拳銃を鬼ヶ島さんの頭に突きつけ、いつの間にか先程までの『苦笑』を取り戻し、言いました。「何か言い残すことはあるかい?」
「…彼女を傷つけたら殺すぞ」
「幽霊になって止めるといいさ」
「止めておけ、後悔するぞ」
「何を」
「運命は無くとも、フェイト・フェイカーが作る運命は出来がいいんだ」
「そんな泣くほど悔しそうな顔で言われても説得力が無いなァ」
「…やめろ……殺さないでくれ、頼む」
「―…いやだね」
『苦笑』の顔は初めて満面の笑顔をその顔に浮かべ―
 鬼ヶ島さんはその恐怖で顔を引きつらせて―


 引き金を引いた『苦笑』が、爆発、炎上しました。


「げぇ?え?げ!?ぎィ、ゃああああああああああああああああああああああああああッッッ!」
 燃え上がった『苦笑』は自分に何が起きたのかが解らないまま、その自分の皮膚の焼け焦げる臭いをあたりにまき散らします。
「ああああ、ああああああああああ、ああああああああああああああああああ!!!」
 その勢いは衰えず、いの間にか『苦笑』の鉄球とダイヤモンドの剛線から抜け出ていた鬼ヶ島さんは荒い息を立てながら膝をつき、それでもその鋭い視線をその真っ赤になって暴れ回っている『苦笑』の無残な最期を見ています。
「敵の武器でとどめを刺すなんて悪趣味すぎるんだよ」
 コンバットナイフを提げながら、その体勢のまま投げ槍を投げるように身体を引き絞り、鬼ヶ島さんはそれを風が鳴くほどの速度で投げ飛ばし、燃えながらその身体から火の粉を飛ばしまくる『苦笑』の胸のど真ん中を突き通しました。どすん。
 そのまま仰向けに倒れながら、『苦笑』は軽く地面を震わせます。
 まるで、心臓に杭を打ちつけられたかのような、ドラキュラのごとく苦しみながら。 
『苦笑』はもう何も言わず言えず口を動かすことも無く、ぶすぶすと焦げつきながら身体を真っ黒にして、ぴくりともしなくなりました。それを確認すると大きなため息をつきながら、
「これこそボーナスものの仕事だ…」
 と呟く鬼ヶ島さん。疲労は限界の様で、ぐったりとしていましたが、再び大きく息を吐くと立ち上がり、今度は天映立志彦の方、私のほうへと向き直ります。奴が懐の拳銃を私の頭に向けている所を睨みつけながら。天映はかすれた声で叫びながら、口から泡を飛ばします。
「来るなッ、来たらコイツの頭吹っ飛ばばばすッ!だから、だから来る―」
「俺はその瞬間お前の頭を吹っ飛ばす」 
「冗談だと思っているのか!?」
「そっちこそ冗談に思っているのか」
今までで一番強い殺気を放ちながら鬼ヶ島さんが言います。ぶるっと関係ない私でも震えるほどの圧迫感をその身に宿して。
「いいから来る―」
「狸宝さん目を閉じていてくれないか」
「ふふぇ?」唐突に言われたその意味が解らず、怖いながらもその強く澄んだ鬼ヶ島さんの瞳を信じ、ギュッと私は目をつぶります。
「どういう意味だ!」
「そのまんまの意味だ、『蠅』」
 鬼ヶ島さんは片目をつぶりながら、ニヤリと笑います。「―…ガキが……ッ」ゆっくり鬼ヶ島さんへと天映が銃を向け直すと―
 コロコロロン、唐突に球(たま)がこちらにころころと近寄ってきました…何故かゴルゴ13の絵が描かれている、シュールな球が。

 ―――カッ―――

 眼の裏で物凄い光りが発生したことが解り、「ぎ、があああああああああッ!」という天映がその光にやられて目を覆うのがうっすらと見え、そして誰かが私の両手を拘束していた縄をナイフで切り取り、その二人組に抱きかかえられて移動されていく私。その二人とは―
「おいッ、さっきから無茶しすぎだろアイツ!さっきのマジヤバかったぞ絶対!」
「…何だかんだ言って熱血漢だから。あいつは」
「この女重てェ!」
「我慢しろ。彼女のストレスを考えれば過食に走っても不思議じゃない」
「おれなんて身体が武器だから食い物にはすげー気を使ってるってのによォ!卑怯くせェよなァ!」
「食べても太らない私には解らない」
「一回でもしてみろ嫌でもその苦しさが解るから!」
「そんな胸をしているから重く感じる。半分私に寄越せばいい。キュウに頼んでみよう」
「そしたら本気でお前を抹殺するけどなァ!」
「ノーブレス・オブリージュ(貴族の義務)を知らないの?」
「使い方あってねェよ!」

 後でぶっ飛ばす。確実にブッ殺ス。
 私の体重の事を言った人間を只で済ませるはずがないですよははは。
 ふはっふははははははははは 覚えてろよ、奈々詩に男女の馬鹿どもがァ!―いえごめんなさい嘘です助かりましたホント感謝に多謝です!

 ―光が消えた瞬間。私がちょうど目を開けた時。天映の顔は恐怖で真っ青になっていました。目からは先程の閃光弾のせいかよく見えていないのもそれに拍車をかけたようです。
 片目を閉じていたことによって目を慣らし、距離を詰めていた鬼ヶ島さんが天映の拳銃を持っている手首を掴んで自分の斜め下へと引っ張り、よろけた天映の白すぎる首を出します。
「最後に『追加』された銅谷仁鉄の依頼を教えてやる」
 そのまま振り上げた天と地を結ぶようにして一直線にした踵を、その首筋に向けて、一気に振り降ろします。
 頭がい骨が割れ首の骨を破壊し、後頭部を潰しながら苦悶の表情で天映は倒れていきます。

「『狸宝田優(その娘)を守れ』、だ」

 返り血で服を赤くし、鬼ヶ島さんは寂しげに、そして、悲しげにも見える笑みを浮かべながら、そう言ったのでした。
 私の人生すべてを賭けたゲームが終わりました。
 何故か泣き出しそうな鬼ヶ島さんの真っ赤な身体を、抱きしめたいと思いながら。

最終幕〈未来にあなたは必要か〉

「た、大変、だよ、やった、やったんだよ、狸宝さん!」
「グッドラック」
「何で!?それって、これから送り、出す時に、言う言葉、だよね!?私、今、教室に、来た、ばかり、なんだ、けど!!」
「…いえ、眠いので話をするのが面倒くさくて、寝ようと思って」
「酷い!何だか、扱いが、凄く軽く、なっちゃってる、よ私!凄く、胸が、痛い、痛いよ!」
「恋ですね」
「違う!」
「…でどうしたんですか涼風どん。おいどん眠いので早めにお願いするでごわす」
「狸宝、さんは、何時から、薩摩に、関わりの深い豪傑に、なっちゃた、のさァ!」
教室に来るなりそんな風にバタバタと入ってきたと思ったら、かなりテンパりつつ可愛らしさ爆発の涼風さん。なので、ちょっといじってみました。解ります?この今の私の内面の悶えっぷりを!ああ、可愛い!もっともっとその涙目を私に見せて下さい!堪りませんね美少女のシュンとした表情は!さあお嬢ちゃん、もっとその顔を崩してあげようかねげっへっへっへ「ちゃんと、聞いてよ!狸宝さん!」はい先生、静かにしまぁす。ねー、「「ねー」」「どうしたの…?」いえ、小学生の仲良し女の子ごっこをちょっと。
「それでどうしたんですか、涼風さん…?」
「…何、だか、本当、にねむ、そうだね…やっぱり後にする…」
「しゃきいぃーんッ!」
「いきなり背筋が真っ直ぐになった!」
「さあ、話してみなさい、涼風さん」
「歯が、歯が、キラッて、光った。凄い…漫画、みたいだ…」
 私が聞く姿勢を取ると、涼風さんが溢れんばかりの笑顔で私に話しかけます。
「お金が!弟の治療のお金が!手に、入るんだよ!」
 うん、知ってますよ。
 私が作った運命ですからね。


                  ☮


 あれから十日あまり。
 夏休みが終わり始業式が始まり授業が再開し、そして私への待遇が完璧、いえそれ以上に改善された教室。
 私を中心にしているようで実は私の人生のずっと前から始まっていた父と祖父と恋敵と殺し屋の物語であったこの絡み合った複数の糸は、私と『ディスティニー・メイキングス』、フェイト・フェイカー(運命詐欺師)の皆さんとの出会いによって解(ほど)け、そして終結を迎えました。私の日常がようやく取り戻せたと言っていいくらいの回復ぶりと共に。
 事件の後、あの最後の戦いの場所から私達はそれなりの偽装工作を行い(と言っても証拠になるようなものはほとんど存在しないのですが)、急いでその場から逃走。
 そしてその日のうちに天映翔と立志彦の様々な非道が警察に匿名の情報として流された後、立志彦が使っていた駒であろう人間の遺体が水没した車の中から三体見つかり、鬼ヶ島さんに尋ねたら「誰かが天誅でも下したんじゃないか?」と笑って言うだけで、後は何も教えてくれませんでした。「仕方のない奴だな…」と小さな呟きと共に苦笑していましたが。
 鬼ヶ島さんは平気そうな顔をしていましたが、肋骨は三本折れ、その破片が内臓に刺さり、頭頂部には十針以上を縫う裂傷があり、大小様々な切り傷と足首のねんざ、踵のヒビ、首には皮が切れた跡が痛々しく残り、いかに激しい闘いだったかが改めて解ります。
 普通の病院に行けばその理由も割れてしまうと言い、痛み止めを自分で打ちながら、無免許のやぶ医者(腕は確かで口は堅い裏の住人御用達、何処かの無免許天才外科医のような男)のところで手術、点滴、帰宅。(おおい!駄目でしょそれ!)痛む素振りを一切見せない彼に、周りの皆が逆に痛がるという不思議な体験を共有すると、(キュウさんにいたっては本当に痛かったらしくシクシク泣いてしまうほどでした。)…どうなんだそれも。
 天映たち(と関わりのあった陰のある人間達)は残らず逮捕、検挙され一大スクープとして連日テレビを騒がせています。
 そんな中、次の社長は誰になるのか、この責任は誰が取るのかという問題でもちきりでしたが、結局『DOUYA』の経営に、というより天映立志彦の強引かつ非情な方法に不満を持っていた社員、その他もろもろの人達が一斉にこれまでの事を打ち明けだしはじめたため、いかに立志彦のせいで色々な人が苦しんでいたか解りました。
 そして彼が何者かに殺されたと知ると、糾弾では無く「自業自得」だという世論になった事は、「それでも殺される程では無い」という少数の声を掻き消すほどであり、息子の翔が取り調べでしきりに述べた「『運命屋』という者たちに嵌められた」という証言はしきりに噂され捜査もされたもののと、その証拠のDVDは見つけられず(奈々詩さんが潜入メイドとして部屋に入ってすり替えたため)結局噂に留まり事件は黒焦げ死体と頭を叩き潰された男の死体の謎と共に闇に消えました。
 翔の見合いの『運命』の時の多額の謝礼と私の『祖父が残した遺産で支払った』今回の復讐の礼金を受け取った『ディスティニー・メイキングス』が、独りで勝ちを取っていった形で、この話は幕を閉じる事になりした。
 どんな事があっても裏社会で〝生き残る〟こと。
 それが彼らにとっての『強さ』でありまた『強み』なのだと、今振り返ってみて改めて強く実感してしまいます。
 最後に、私がこの生活に戻る前。
 もう一つだけ『運命を作ってくれないか』と、私は彼らに頼みました。
 祖父の遺産を使って三千万円、大切な友人に気付かれないように送る、そんな『運命』を。
 鬼ヶ島さんが怪我で奈々詩さんの相棒役を担えない代わりに私がそのお手伝いとして参加しました。
 といっても、フェイト・フェイカー(運命詐欺師)にとって最も大切なのは何といっても演技力。
 私の演技ではバレる&私の事をよく知る涼風さんには勘付かれてしまう可能性が高いという事で、ほんの端役としての参加でしたが。今回は簡単です。
『宝くじ』。
 元も運命を感じさせて尚且つ誰も不審に思わないハッピーエンド。
 絶望しかけている涼風さんの両親の病院からの帰宅途中に起きた老人の転倒。その被害にあったおばあさんを手助けしたお礼に貰った宝くじ。試にと買ったそのくじは何と当選しその額は三千六百万円。その受付のバイトさんに私は成りました。
 奈々詩さんの「これは特殊メイクですよね?」との私の疑問に笑顔で「と言われるのは悪くない」と返されてしまうほど別人になった私は何とかその大役を果たし。
 そのストレスに二度とするかコンチクショウ、と思いました。
 それが昨日の事。
 涼風さんが今日の学校でその事を伝えてくることは解りきっていました。
 それでも、彼女が笑いながら泣きながらその事を語り、
「…運命って、ホントにあるんだ、ね……」
 といた時は、思わず私も涙腺が緩みそうになりましたが、表面では「そうですね」とそっけなく笑い。
「運命って、あるんですよ、きっとね」
 涼風さんはそう断言した私を、不思議そうにただ、見つめていたのでした。
「その事を、自分でも証明してきますか」
 今日の寝不足の理由を更に不思議さを増した涼風さんの瞳に、吸い込ませながら。
 

 初めて見る祖父と祖母の遺影。
 その命すら差し出し、自分の娘の敵と、そして私自身を守ってくれた祖父は、噂通り、そのドヤ顔で豪快に顔をくしゃっとして笑っていて、隣でそれを優しく支えるかのように首を少し傾げ、微笑む祖母。
 ああ、母さんの父さんと母さんだな。
 すっとそう思える母の顔によく似た顔つきの二人が私を迎えます。
 それらがあるのは、祖父に長年付き添って仕事を支えた秘書の亀田さんの自宅でした。親類も無く、親族も引き取りに来なかったと言う事で彼のご厚意に甘えさせてもらい祭壇を置かせてもらったという事でした。
 彼はその優しそうな、ゆっくりとした動きで私に話しかけ、祖父と祖母の事を本当に大切に思ってくれていたのだという事が伝わってくる話し方で、生前の祖父の笑い話を聞かせてくれました。
 ―いかに母の事を気にかけ、心配していたかも。
 その涙は私の涙です、亀田さん。
 ぽろりと彼からこぼれたその雫を、私は胸を暖めるながら、そっと、受け取ったのでした。
 目の前の少女の父親が新しい『DOUYA』の社長になる事を純粋に喜んでくれたその、涙を。


                  ☮


「大丈夫か穏優」
 俺がソファで包帯だらけの身体で居眠りしていた所を、心配そうにタマが上から覗き込んでいた。いつもこうならこいつも楽なんだが。
 何かと普段皆といる時カリカリしてるが、二人きりの時はそんな角が取れて少し女っぽくなるから不思議だ。演技の時よりそうしている方がずっと可愛いと俺は思う。
 今回の件で俺の身体が相当痛めつけられた事にかなり動揺しているらしく、情緒不安定を絵に描いたみたいにそわそわし落ち着きない。こうやって仕事場である二階のオフィスのソファに寝転ぶ(自室だとかえって痛みに注意が向く。公的な場所とも言えないがとりあえず皆が使う場所な事には変わりはない。ここなら多少人が来るし我慢もしやすい)
 俺の顔を見るためだけに三十分に一度はここへ来る。
 良い奴だ。俺にはもったいないほどの。友人(・・)に気を遣わせてはならないと思いつつも友人だから気を遣うのも失礼かもしれない、という二つの気持ちが混じり合い俺の頭でどうしたものかと脳内会議で開かれるが、結局心配かけるのに慣れていない自分が甘えるとしても、どうやればいいか解らんしかえって迷惑だろうと思ったので、「平気だ、心配かけてすまない。じっとしていればすぐに治るさ。気を遣わなくても大丈夫だぞ」とぎこちなく笑みを作ってタマのその綺麗な眼を見た。―すると何故か慌てながらタマは目を離し、「いやっ!?こっちもただ気晴らしに来てるだけだ。…顔見てれば詞(・)も浮かんで来るんじゃねェかなッて」
「…何の話だ?」
「独り言だ独り言!気にすんじゃねェ馬鹿頭!」
「何もしてないのに怒られるのは、意外と傷つくもんなんだな…」
「ねぇー、タマぁー、まだ出来てないのー、こっちはもうすぐ作り終わっちゃうよー、早く聴いてみてよー、それから書けばいいじゃんー」
「わァったよ。どうしたもんだかなァ…まさかキュウの口車に乗せられてこんな事する羽目になるとは…」
「なあに言ってんのさ、大好評じゃーん、逆にそういう才能を持ってた事に僕はビックリだよー」
「…あんまり嬉しくねェよ……」
 タマはもう一回大きな溜息をつくと、不思議そうにそれを眺めていた俺を真っ赤な顔をしてから睨み、「何見てんだ穏優ァ!殺すぞ!」と怒られて。
「…本当に嫌われてるんだな俺は……」
 という小さな呟きはタマにはもう届いておらず、ヤツはずかずかと大股で歩きドアをバタンと閉め、キュウと一緒にキュウ専門の部屋である三階(俺は腐海だと思っている)に行ってしまう。再び静けさを取り戻した部屋。俺は鈍い、今回の怪我とは全く無関係な重い頭痛に顔をしかめながら、電灯も点けていない、クーラーのごううううという音と共に、窓からさしてくる光だけで照らされた室内で軽く目を閉じる。―人を殺した後、いつもこんな感じだ。自分がしたことを何度も反復し、そして後悔し、やらなくなった自分を想像し心が軽くなりそうになりながらそれでもきっと頼み込んでくる依頼人を見ればまたしてしまうのであろう自分の姿を瞼の裏に映して。
 それが悪い事なんだと言う意識は無い方がおかしいと俺は思う。
 だからこそ、俺はそういったモノが欠如した人間がどれほど恐ろしいか知っている。
 そしてそれを殺すことを仕事にする者の異常さも。
 見え透いた嘘で塗り固めた舌触りのいい正義感で、俺はそれ(殺し)をしている訳じゃない。
 単にエゴだ。自分自身の。
 そうやって殺された親を見た瞬間から続いている、そういった奴らへの復讐がしたいだけだ、きっと。
 誰が好き好んで人を黒焦げにしたりナイフで串刺したり後頭部をぐしゃぐしゃにしたいと思うだろうか。いや、そういう事が好きな奴は確かに存在する。だが存在する事とそれを実行に移すことの間には凄まじい距離がある。
 俺はそれを実行に移せてしまえる人間なんだ。好きでも何でもないのに。
だからこういった怪我はむしろ俺を救ってくれる。あんな事をしたんだから、当然、それくらいの対価は当然だ。その事実だけが、少しだけ俺を慰めてくれる。
 天映たちに言った自業自得、『因果応報』は俺にも言える言葉だ。
 むしろそうでなければ。
 全くの無傷で仕事をし終わってしまえば、逆に自分で自分に治まりがつかないとすら思う。
 俺があまり武器を持ちたくないのにも、そんな所に理由があるのかもしれない。
 少し眠くなってきた。
 俺はまぶたを完全に閉じながら、しばらくうとうとと舟を漕ぎ始めた。
 うつらうつらと夢の中で、何故かあの狸宝さんの顔が浮かぶ。
 不思議な娘だった。変な娘なのは間違いないが、それがとても気持ちのいい距離感と態度だった。しばらく経って、彼女の事を自然と目で追っている自分がいた。彼女が苦しむのを承知の上で彼女を助けようと思ったなどと俺が偉そうに言える立場ではないが、それでも彼女の辛さに触れる度、本当の事が喉元から出てしまいそうになる事がたびたびあった。
 彼女は人をあんな風に平気で殺すような俺を見て、どう思っただろうか。
 俺を見て、『鬼』だと恐怖して二度と会うまいと避けようと思っただろうか。解らない。だが、どんな言い訳であれ、俺は人を殺している。人を殺す人間が、人から避けないでと頼むこと自体おこがましい。彼女が俺を殺人『鬼』と思うのは自然な事だ。だから、いつもと同じように、俺はまた誰かに請われれば人を、〝消し屋〟を殺すだろう。
 それが、俺の日常なのだから。
 この頭痛が治まったら、きっと、また。


「本当にぼろぼろですねー、生きてますか鬼ヶ島さん」
 ばっと飛び起きとっさに俺は防御と構えをソファの上でとる。
 キュウでもナナでもタマでも無いその声は、よく聞けば聞き覚えのある、澄んだソプラノだった。「…何しに来たんだ、狸宝さん」俺はさっきまで彼女の事を考えていた気まずさもあって、自覚しているぶっきらぼうな口調に拍車がかかってしまっていた。
「いえ?私、今日面接日だったので」とさらっと言われ、「そうなのか」とこちらもさらっと返した後に気付く。
「…何のだ?」
「決まってるじゃないですか」にこっと彼女が笑う。え、何が?
「ここの正式社員になるための面接ですよ」
……おかしい、今度ばかりは流石に熱があるかもしれん。
 自分で自分の額に掌を当てて熱を測ってみるが、特にいつもと変わらない。では、これは夢や幻覚では無い事になる。じゃあ、今狸宝さんは事実を語った事になる。
「はァ!?」
 俺は驚きのあまりソファでのバランスを崩し近くあるテーブルの角に後頭部を強打。その痛みに悶絶すると今度はひびの入った踵を覆うギプス地が面に激突。うぐああああ!とごろごろ転がる俺を見て何故か狸宝さんは両腕で自分を抱きしめ、恍惚とした表情でぶるぶる震えていた。…少し気持ち悪…いや、それは流石に失礼か、でもなにやら喜んでいる様なのでとりあえず放っておいた。そしてその痛みが去った後、俺はもう一度ソファの横になり彼女が話すのを待つ。すると彼女は開口一番、こう切り出した。
「ここで働いたらなんだか楽しそうなので、喜美さんに頼んでみたら、即OKもらえました、そこで「簡単なテストをしてみな」って言われたんです。裏社会に必要な、直観のいるテストを」
 俺はとりあえずその内容を聞いてみた。目星はもう付いていたが。
「―喫茶店の窓際に座って、通りを観察するんです。そして喜美さんが指名した人物について気付いた事を喜美さんに言う、そんなテストでしたよ。意外と『心理学』も馬鹿に出来ませんね、結構図書館から借りた本が役に立ちましたよ、そのせいで今日は寝不足でしたが」彼女はそう言ってくすりと笑った。
「…観察力と洞察力は切っても切れない、裏っ側の人間には必須の能力だからな…それで結果はどうなったんだ」聴くまでも無い事をわざわざ聞いてしまう。馬鹿かおれは。そんなの―
「―おかげさまで。ちゃんと受かりましたよ。明日から私もここ〝ディスティニー・メイキングス〟の社員です」
 その顔には、俺に対する恐怖など微塵も感じず、ついその事が気になって―
「…怖くないのか……」訊いてしまう。訊かなくてもいいことを。こうやって、わざわざ。
「俺は、例え殺し屋であっても、それが仕事なら容易く殺す。二人殺しただけで死刑になるこの国で今まで何人の〝消し屋〟を〝消し〟たか解らない。それでもまだこうやってのうのうと生きている、クズにもなれない最低の俺が、『怖くない』のか?」
「正直怖くないなんて言ったら嘘になりますね」
彼女のその正直さが今は逆に嬉しかった。ここで変に気を遣われてずっと腫れ物扱いされるより、初めからそうであった方がまだ気が楽に持てる。
「そうか。…じゃあ俺はなるべく君とは会わないようにする。もし仕事上で不都合があればその時言ってくれればいい、入社おめでとう、よろしくたの―」
「私はあなたが苦しんでるの、知ってます」
 唐突に、自分の胸のずっと深い所を握られたかのような錯覚に陥り、俺は息がすえなくなった。こんな少し押してしまえば怪我をしてしまうであろう、自分よりずっと非力なこの少女に、俺は何も言えなくなってしまった。
「だから、私はあなたの『鞘』になりたいと思います」
「…さ……や?」
「はい。鞘です。どんなに立派でも、抜身のまま、そのまんまの刀など一体誰が使いたいと思うでしょう。その中身と同じくらい、それを他の人や自分自身を傷つけないための鞘は、大切な物だと、私は思っています。鬼ヶ島さん。だから、私はあなたといたいんです。〝やさしい刀のあなた〝の、鞘に、なりたいんですよ」
 この娘が言っているのか俺には全然解らなかった。
 解らないのに、何故か瞳からは涙がこぼれてしまった。
 声をあげる事はまぬがれても、こんなにぎゅっと顔を潰しまえば、全く意味を成さないというのに。
 そんな自分の身体に、なにか温かく柔らかい感触が覆いかぶさった。
 それが狸宝さんが俺を抱きしめているのだと気付くのに、しばらく時間がかかった。
「私の事を命をかけて救ってくれた人の心が傷ついていくのが私には、一番怖いんですよ」
 俺は声が出せなかった。
 ずっと溜まっていた何かが、すっと溶けて消えていく。何かの熱で籠(こも)っていくのが、自分にも解る。
「これからもよろしくお願いしますね、『穏優』さん」


気が付けば、あの重い頭痛が消えていた。
気が付けば、俺は全身の力を抜いていた。
気が付けば俺は声を上げて泣いていた。
気が付けば、俺は誰かに初めて『許してもらえた』気がしていた。            

外はもう季節が滑らかに優しく夏を押し。
俺は静かに、それが何かの始まりを告げているかの様な気がしていた。
幕はまた何処(どこ)かであがるだろう。
その時また少しここで、こんなふうに誰かと『運命』を届けてみたい。
少し考えを変えたフェイト・フェイカー(運命詐欺師)を彼女は笑うだろうか?
その時は大声で俺を笑ってほしい。
『運命否定論者失格ですね』、と。

舞台裏〈そういえば〉

 そういえば、よくウチの母にまで奈々詩さん化けられましたね。
 自分で言うのもなんですけど、コピーするのが困難極まりない人間だと思ったんですが。
 …何の話だ?
 え?あのレイプ事件の後家に来たじゃないですか。母に変装して、父を殴って、説教して。あのおかげで父は立ち直ったし、私も救われたんです。本当にあれには感動しましたよ。本当にディスティ二―・メイキングスの演技力には驚かされっぱなしですね…って。
…なんで皆さんそんな顔を蒼白にしているんですか?え、ちょっとちょっとちょっと、どうして私からじりじりと離れていくんですか、ねぇ、何だって言うんですか!?超感じ悪いですよそれ!何なんですか一体!
 …していない。
 は?
 私は、あなたの母『狸宝兎幸』には一度も、変装していない。
 むしろあのレイプ後なんて、三十分しか時間が無いなかで変装すること自体そもそも不可能。だから、私も穏優も玉藻もキュウも、ババアもきっとそんな事は計画に入れてない事で一致するハズ。だから多分それは…


「「「「ううううわあああああああああああああああああああああッッッッ!!!」」」」
「酷いですよその反応ォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」



 母さん元気ですか。
 私は、今日も、元気です。

FATE/FAKER

 二回目に書いてみた、初めての長編の小説です。今まで作品は書いてきたものの、ネットに出すのが不安でおどおどと躊躇(ちゅうちょ)していたのですが、何かアドバイスがほしいと思い、投稿してみました。
 三点リーダの使い方や、ダッシュの使い方など間違ってる箇所は多々ありますが、よろしければご覧ください。もし、楽しんでいただけたなら幸いです。

FATE/FAKER

その可憐な容姿にかかわらず、どうにもこうにも『アク』が強い変人である高校二年生、狸宝田優(たんぽう・たゆ)はある日、父が起こしてしまった自動車事故から、これまで続いてきた退屈であるものの、穏やかで平穏だった生活が一転し、地獄の苦しみを味わっていくことになる。 そんな彼女に、『ビック・チャンス』が現れ、運命の神様はいるのだと思ったあとに、実はそれまでの事件と彼女が起こした行動というのが、すべて、『対象者に、これは運命であり、これは私が進むべき道なのである』、と思い込ませるのを生業(なりわい)としている非合法集団、『FATE/FAKER』(フェイト・フェイカー)によるものだということがわかる。田優にその呪われた運命を押し付けた彼らを逆に雇うことにより、彼女は復讐を依頼することになる。実はそれは、彼女の母の死にもつながる『事件』でありーー。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • アクション
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 〈開幕〉緞帳(どんちょう)は上がり、退屈そうな役者の独白(どくはく)で幕は開ける。
  2. 〈第一幕〉彼女の運命(うねり)の始め方。
  3. 〈第二幕〉《絶望》の成分。『性格』二割。『環境』三割。そして、『五割上の運の悪さ』、らしい。
  4. 〈第三幕〉罅(ひび)割れた人生の修復作業。操り人形(マリオネット)は頭上の糸を切る。
  5. 〈第四幕〉新たな雇い主は己の手札(カード)に戦慄し、男は飼い犬が狼だったと気付く。
  6. 幕間・密談と交渉と癖(くせ)売り屋。彼は自分の家族のために繋がれる決意を固めていた。
  7. 〈第五幕〉彼の『運命(破壊)』の始め方。
  8. 〈第六幕〉運命否定論者の、〝フェイト・フェイカー(運命詐欺師)〟。
  9. 最終幕〈未来にあなたは必要か〉
  10. 舞台裏〈そういえば〉