そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(9)

九 三十五キロ地点

 道が狭くなった。これまで道は二車線だったのに、今は、一車線だ。そう言えば、さっき通ったような気がする。折り返したんだ。さっきは気付かなかったけれど、両側に民家が建ち並んでいる。多くのランナーが走るには狭い。でも、スタート時点では、押し合いへし合いだったランナーたちも、今は、縦に長く並び、まばらな状態だ。多くても、二列、三列で、ほとんどは一人旅ランナーとなっているので、道路が一車線でも走るのには十分広い。その道路に、地元の人が家の玄関から、窓から、庭先から、沿道から手を振ったり、がんばれと応援してくれている。
 かなり走ったけど、今はどこだ。時間の感覚がないし、場所の感覚もない。足がかなり疲れてきた。ゴールはもう少しなのか。かっこうはいかにも早そうなのに足を引きずりながら歩いているランナーがいる。中には、座りこんでいるランナーもいる。途中で、つぶれたのか。うさぎとかめだな。
俺は、訳がわからないまま、みんなについて走っただけだ。タイムは気にしていないし、ゴールできるのかもどうかも気にしていない。自分のペースで走ったり、歩いてきただけだ。いや、ただ単に、それ以上のペースで走れないだけだ。これまでの人生も同じようなもんだったなあ。まあ、いいか。他人のことはいい。自分のことだ。
 ああ、それにしても疲れた。みんなみたいに休もうか。でも、休むのも疲れる。ああやって、屈伸やアキレス腱を伸ばしたり、股関節を広げるのも面倒くさい。それなら、このまま、走り続けたほうが楽だ。それに、今休めば、そのまま動けなくなってしまう気がする。まあ、それもいいかも。

 あれ、今日はいやに人が多いなあ。お祭りかな。菊枝は玄関の前から道路を眺めた。いつもは車がたまに通るしかない道だけど、今日は、朝、早くから沿道に人がいる。菊枝は八十歳。夫は三十年前に亡くなった。子どもはいるが、遠くに住んでいるため、盆と正月ぐらいしか帰って来ない。それ以来、ずっと一人暮らしだ。いつからだろうか。朝食の後、家の前に出て、日向ぼっこをすることにしている。
家の中には誰もいない。以前、猫を飼っていたが、知らない間に、家に帰って来なくなった。交通事故に遭ったのか、それとも、寿命を知り、飼い主に自分の死んだ姿を見せたくなかったのか。象の墓ならぬ、猫の墓。自分も同じようなものだ。この家で、最後を迎えるのだ。誰にも気づかれずに死ぬのか。どうせ死ぬのだ。気付かれようが気付かれまいがどうでもいい。でも、白骨ならばいいけれど、腐った体を見られるのいやだし、片づけする人に申し訳ない。猫の墓ならぬ人の墓。あたしもどこかへ行こうか。路傍の墓。
 そう思いながらも、なかなかお迎えは来ない。いつも寝る前に、このまま眼が覚めないのではないか。これで最後かと思いながらも、翌日には、朝日のまぶしさで眼が覚める。また、今日も生きた。だからと言って、何かしたいことはない。テレビを見るのも飽きた。新聞や本を読むのも疲れる。暇だ。でも、足は弱って、遠くまで行く元気はない。必然的に、菊枝ができることは、家の前での日向ぼっこだった。
 ここに座っていれば、近所の人が散歩したり、自転車や車が通るのが見える。おはようございますなど、ちょっとした会話もできる。家の中にいたのではそれはできない。少しでも、社会というと大げさだが、世間と関わっていたい気持ちから、毎日、日向ぼっこをしている。菊枝が独り暮らしなのを心配してか、自治会長や民生委員、隣近所の人などが、声を掛けてくれる。家の中にいてはなかなかできないことだ。菊枝はこれを楽しみにしている。これと言って話す内容はないのだが、ただ、おはようございます、いい天気ですねえ、今日はあたたかいですね、風が強いですね、など、そんなわたいもない会話が元気を与えてくれる。
 目の前を、多くの人が走っている。そうか、マラソン大会か。そういえば、回覧版で、道路が通れなくなると書いてあったのを見た、覚えがある。最近は、見ても、いつなのかは頭に残らない。なんとなく、何かがあるのを覚えているだけだ。今日が、その大会だったのか。いくら回覧板を見ても。それがいつだったのかを忘れたら、見た意味がない。でも、菊枝は車に乗らない。自転車も使わない。だから交通規制をされてもそれほどは困らない。歩くぐらいのスペースは空いているからだ。
そして、菊枝の唯一の交通手段が乳母車だ。いや、乳母じゃない。おば車だ。自分で言って、自分で笑った。そう言えば、最近、笑うことが少なくなった。目の前を、女性だけじゃなく、男性も、赤やピンク、黄色、青色など色とりどりの服を着て走っていく。道路の上に、花が満開に咲いたようだ。その花がやってきては消えていく。あたしも華だったことがあったかなあ。また、笑った。
 あたしもついていこうかな。その先は、桃源郷かな。そんな言葉が頭に浮かんだ。その時、その花に似つかわしくない、グレーの色が現れた。背広姿だ。この花畑には似つかわしくない。菊枝はそのランナーの顔を見る。若くはない。六十歳ぐらいだろうか。周りから見ると浮いている。でも、自分よりは若い。自分のことは置いておいて、他人が年をとっていると言うなんて、可笑しい。人間って、そんなものだ。菊枝はまた、また笑った。今日はよく笑える。いい一日だ。
グレーの色が菊枝の前で止まった。そして、空を見上げた。菊枝の場所からは、男が何を言っているのかはわからない。ただ、何かをしゃべったのだけはわかる。男が菊枝の方を見た。笑っている。呆けているのか、親しみを込めているのか、わからない。でも、害はなさそうだ。菊枝もつられて笑った。男は会釈をすると、再び、走り出した。菊枝はその男の後ろ姿を見送った。次から次へと、菊枝の前を様々な色が通り過ぎていく。菊枝はその色にたちに手を振った。グレーの色のことはもう既に忘れていた。

 ハーフマラソンを初めて走った後、俺は走り続けている。当初は、一回、ハーフマラソンを走ればやめようと思っていた。タイムは、初めてにしてはまあまあの一時間二十八分台だった。有料の記録用紙を見て、自分の記録を確認した。記録は一枚目に掲載されている。もっとタイムが遅ければ二枚目以降になる。結果には満足できた。だが、順位を目で追ううちにだんだんと不満が出てきた。
 俺は、昔から、陸上はやってきていない。つまり、素人だ。同じ、二十歳台や、これまで走って来た三十歳や四十歳、五十歳のベテランランナーにタイムで負けるのは仕方がない。だが、六十歳を超えた老人、あえて老人というが、二十歳台の自分が負けるのは納得がいかない。老人たちは陸上の経験者で、普段から練習を積んでいるのだろう。だが、二十歳台の自分が彼らより遅いのは納得がいかない。自分が不甲斐ない。そう思った。俺は、再び、翌日から走り出した。せめて、次回の大会では、六十歳のランナーに負けないように。

そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(9)

そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(9)

九 三十五キロ地点

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-17

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