炎上するパズル
脆い。
晴れている筈の空は濁った空気を下へ下へと送り出しているようで、その矛盾した陰鬱さに、押し潰されそうになる。満開の八重桜はその空を塞ぎ、代わりに、冷ややかな影を落としていた。生ぬるいコンクリートの町並みを抜けて、都電で別れた浮気相手のことを思い出す。少し伸びたヒゲがキスをするたびにチクチクとして、奈美は髭の脱毛を済ませているためにつるりとしている恋人の顎のことを考えた。
熊本で友人が被災した。
昨年の秋に結婚して夫の転勤に着いていき、九州での生活に慣れ始めたばかりだった。
彼女たちの住むアパートの下の階から火が出て、彼女たちの安定した幸福が詰まった、そしてこれからも続いていくだろう幸福を詰め込んだその部屋は、焼けた。彼女の趣味であるジグソーパズルも、彼女の夫の趣味であるプラモデルも、アパートの向かいの倒壊した家屋のように、無惨に、二度と戻らないものとなった。
彼女たちの部屋が焼けている頃、奈美は浮気相手と口付けをしていた。好きだよ、と繰り返される言葉を拒んで、本気になんかならないでよ、と言った。
「俺と付き合えば絶対幸せになるよ」
「絶対、なんてないよ」
「ほんとだよ、絶対俺が幸せにするよ。ずっと好きでいるし、奈美がいるならなにもいらねえよ」
「やめてよ、そういうの。」
「マジだよ。結婚してーくらい好きだよ。なあ」
「だから、」
彼氏がいるの知ってるでしょ、と続けたところで、まだ若さを残す青年特有の汗の匂いがして、奈美の視界は反転した。あ、と声を洩らしたのが自分だということに気が付いて、どこか遠くに自分の体があるように感じた。
「幸せに絶対なんかないよ」
「あるよ、俺と付き合ったら絶対幸せだよ」
この男は、恐らく、本気でそんな夢見事を言っているのだろう。私と付き合ったら幸せになると。私が? 幸せに、なるのか。幸せとはなんだろう。奈美は恋人のことを考える。仕事が忙しく、奈美と付き合うには不似合いなほどに、自立した彼のことを。彼は私を必要としない。彼は、彼として完成している。奈美はそんな彼が好きだった。奈美の抱える、どこかの一部が欠損したような感覚は、彼という1を前にして、完全というものを知った。奈美と恋人は、しかし、完全ではなかった。彼は1だったが、奈美が0.8だったからだ。奈美は、愛しい人と繋がっても埋められることの無かった、欠損した感覚に、発狂が目の前に迫るのを見た。そして、0.2を浮気相手で満たそうとした。その男は、欠損していなかった。寧ろ、過剰だった。1.6、というところだろうか。溢れる。この男と触れ合うたびに、奈美は波が押し寄せるような目眩を覚えた。
奈美と浮気相手がセックスをしているころ、浮気相手が奈美の0.2を過剰に満たし、奈美が幾度も痙攣するようなオーガズムを迎えているころ、奈美の友人の部屋は燃えていた。
充満した1+1=2の幸福を燃料にするかのように、それは、ゼロになった。 灰と、瓦礫が残った。浮気相手の射精した精液の残る腹部をティッシュで拭きながら、奈美は友人の部屋が焼け落ちたことを知った。続いている、強い余震が、瓦礫を更にガラガラと崩した。見つからないジグソーパズルのピース、プラモデルの部品、奈美はそれを探している。しかし、探さずとも、全てがゼロになることがある。棚の後ろに落ちていたジグソーパズルのピースごと、部屋は燃えたのだ。燃えて、揺れて、崩れ落ちた。
友人が被災したことを訴えると、浮気相手は奈美を抱き締めた。大丈夫だよ、と言った。何も大丈夫じゃない、と言い返した。生きてるんでしょ? じゃあ、大丈夫。男はそう言って、奈美の頭を撫でた。
「生きてるから、辛いんじゃない」
誰のために泣いているかも分からず、奈美は泣いた。流れた涙も愛液も遠く離れた地の火を消火するわけではないから、自分が酷く滑稽で、空っぽで、奈美は自分が愚かしいことが悲しくて泣いた。浮気相手の手が、声が、奈美を溢れさせていた。
福岡経由で東京へ避難しようと思う。
友人からの連絡を見て、道中気を付けてね、と、奈美は返した。
「なあ、好きだよ」
「そういうこと言うなら、もう会わない」
「俺、奈美といるだけですっげえ幸せなんだよ。これからも幸せになりてえし、奈美のこと幸せにしたいんだよ。だから、会わないなんて言うなよ」
「幸せって、何?」
「幸せは幸せだろ」
「分からないよ。圭介は私に何を求めてるの? 私は何もあげられない。圭介を幸せになんてできない」
「こーするだけで、幸せなんだよ!」
強引に抱き締められた腕の中で、奈美は、分からない、と言った。これが、幸せなのだろうか。だとしたら、腕を離した瞬間にほどけるように消え失せる、脆いものだ。破片は欠損した箇所を傷付ける。奈美は、ぼんやりと、床を見詰める。
海外出張中の恋人から、LINEが着た。
「関東は影響がないみたいだけど、熊本には美保ちゃんがいたよね、大丈夫? 心配だね。」
これ以上ないほどの、完璧な内容だと思った。奈美は、思考の滲む親指で、返信を打つ。
「美保の家、火事になったみたい。旦那さんも美保も無事で、これから東京へ向かうって。」
「そっか。とにかく、本人たちが無事で良かった。奈美も心細いだろうけど、側にいてやれなくてごめんな。」
「ごめんなさい」
「何で謝るの? 俺は奈美が無事でよかったよ。」
欠けた1.8が、2になることはない。そして、完璧な2も、一瞬で、ゼロになる。絶対の幸福などないのだ。奈美はもう一度、ごめんね、と送ると、浮気相手に、もう会わない、ということをやんわりと言った。
都電の窓から見える風景が、いつものように、長閑さを見せつけている。奈美は、目を瞑ると、自分が灰になっていくのを感じた。何処かに落としてきてしまったのかもしれない、欠落した欠片ごと、炎上していた。やがて、揺れて、崩れるだろう。
都電がゆっくりと停車して、けたけたと笑う子供を乗せた。
炎上するパズル