栗の木坂の山下家

栗の木坂の山下家

第一章 覗いて始まる、新生活!

 オッス! オレ、山下ススム。二十四歳、社会人二年目のリーマンだ。身長、百七十八センチ。体重、九十三キロ。ガキの頃から柔道やってたから、こんなでっかい図体になっちまった。
 鍛えられた骨太筋肉質な体格はちょっとオレの自慢。大学卒業と同時に柔道は引退して、今はバリバリの体育会系OBってやつだ。最近はぐうたら生活で脂肪もうっすら付いてきたが、まだまだイイ感じだと思ってる。
 ま、実際はそんなにモテねぇけどな。

 ある日曜日のことだ。オレはスマホのアプリで男を物色していた。画面を次々とスライドさせて、男達のカタログを漁りまくる。
「お、コイツいいかも! ……なんだよ、沖縄かぁ」
 画面の中で、短髪ヒゲの色黒ガチムチ野郎がVサインを決めている。これから速攻会って一発ご挨拶とはいかねぇな。とりあえずコイツの全裸画像とか、あったりしねぇかな? スケベ心全開で他の写真を探してみた。
 その時、画面が一瞬固まって着信表示に切り替わった。スマホのスピーカーからダースベイダーのテーマが流れる。ゲッ、母ちゃんじゃねぇか! また面倒なこと言われるんかな。
 高まったスケベ心は情けなくしぼんで、オレは戦慄のコールに応答する。
「もしもーし、母ちゃん? 何の用だよ」
「ススム、あんた元気かい?」
 スマホから相変わらず元気なオバちゃん声が聞こえてくる。
 母ちゃんは群馬の出身でムチャクチャ気が強い。昔から『かかあ天下とからっ風は上州名物』と言うらしい。東北で漁師を営む親父でさえ、母ちゃんには頭が上がらないんだぜ。
 オレの嫌な予感は的中しやがった。親父の兄貴である竜一郎(りゅういちろう)伯父さんと一緒に暮らせという命令が下ったのだ。相談ではなく、命令ってのがポイントな。
 オレは電話の向こうに構える最強の敵に、自由を賭けて抵抗を試みた。一人暮らしの気ままなゲイライフを楽しんでいるのに、伯父さんと一緒に暮らすことになったら、どうなるか分かるよな?
 だが、敵は百戦錬磨の母ちゃんだ。竹槍で突っ込もうとする雑魚に、崖の上から容赦なくマシンガンの弾丸を浴びせてくる。
「たぁぁくら、はじくな! おじやん、いくつだと思ってるん! えれえちょんがぁで、こんだ倒れたらおやげないだにぃ。どうせ、おめーも一人で暇だんべぇ。そろそろ、めごい彼女の一人でも連れてしやっせ!」
 オレは耳をシャットダウンして、わき腹の脂肪を掴んでみた。スポーツジムでも行って筋トレしねぇとダメかな? 電話の向こうで止まらない小言は、右から左へ華麗にスルーする。余計なことを口にせず終わるのを静かに待つ。
 だが、次のキーワードにオレの脳内アンテナが反応した。
「タダでとは言わないわよ。アンタにとってもいい条件あんのよ」
 条件とはこうだ。オレが栗の木坂に住む伯父さんと一緒に暮らす。伯父さんの持ち家に住むから家賃はタダになる。ついでに光熱費や食費は向こう持ち。と言うことは、少ない給料がまるまる自由に使えるってことだ。好みの男を部屋に引っ張り込めなくなるが、経済的にはかなり自由になるよな。
 田舎からすれば、独り身の伯父さんがまた倒れた時、若いもんがそばに居れば安心ってことだ。これは一石二鳥ってやつかも。
 でもなぁ。まさかと思うが、伯父さんが将来寝たきりになった時、オレに介護まで押し付けるつもりじゃないだろうな? 今は元気でいるだろうから、いいけどよ。ま、何かあればその時考えればいいか。
 それよりも、金が浮けば前から欲しかったフルスペックのパソコンが買える。目の前にぶら下がったニンジンを食わないはずがねぇ。自由と金を計りにかけた天秤が、あっさりと金に傾いた。オレは伯父さんとの同居を承諾した。

 次の日曜日、オレは栗の木坂にある竜一郎伯父さんの家に行ってみることにした。久しぶりに会う伯父さんに挨拶と、自分の居住スペースを確認しておきたいからな。
 若葉が揺れる五月の風が気持ち良い。この辺りは静かな住宅街だ。駅からも近いので通勤も便利だろう。オレは長い坂の下に立つと、緩やかな斜面の先にある青空を見上げた。きっと昔はこの辺りに、大きな栗の木でもあったんだろう。
 長い上り坂を一歩一歩歩いていった。鍛錬をサボった肉体には結構キツく感じる。やべぇな。体力落ちまくってるじゃねぇか。オレは日焼けしそうな五月の太陽でうっすらにじんだ額の汗を手で拭った。

 オレの伯父さん、山下竜一郎。今年で六十八歳になる。若い頃から武道の道を進み、空手八段のつわものだ。中途半端に柔道やってたオレなんかより、ずっとストイックで鍛錬に励んでいたらしい。最後に会ったのはオレが高三の時だから、今から六年くらい前かな? その頃でも、ガッチリとした格闘系アスリートの風貌だった。実年齢よりずっと若く見えて、腹なんか出っ張ってなかったんだぜ。
 親父の昔話によると、伯父は一度だけ結婚したことがあるらしい。なぜか二年くらいで離婚して、現在はバツイチ状態だ。離婚と同時に田舎を飛び出して、この東京でずっと一人暮らしをしている。オレも大学に入ってから、こっちに住んでいるが、用もないので会いに行くこともなかった。
 そんな伯父が先月、突然倒れて緊急入院した。大したことはなかったが、いくら元気と言っても伯父さんも歳だからな。一緒に暮らしてオレが支えてやらねぇと。そう考えれば、ちょっとはオレもいいところあんだろ。

 小さな日本家屋が見えてきた。庭付き一戸建てだが、結構なボロ家じゃねぇか。ここが伯父さんちなのかな? オレはスマホの地図アプリで現在位置をもう一度確認する。どうやらここで間違いなさそうだ。
 背の低い生垣の中央には古い木戸がある。その脇に『山下』と書かれた表札がぶら下がっていた。
「こんちは」
 オレは独り言のように呟いて中に入った。庭から振り返ると、坂の下に広がる街並がよく見える。ここなら夏祭りの花火もきれいに見えそうだ。そこにある縁側でビールに枝豆なんか最高だよな。
 引き戸の玄関前に立つと、古いピンポンを押した。家の中で乾いた明るい音が響く。しばらく待ったが反応がない。もう一度押してみても、やっぱり同じだ。戸に手をかけてみたが、鍵が閉まっていた。
 仕方なく縁側の方へ足を運んだ。サッシの窓にはカーテンがしっかり閉められている。せっかく来たのに留守かよ。年寄りだから家に居ると思ってたんだけどな。
 そのまま木造のボロ屋を見回すように裏手へ行ってみた。日が当らない裏庭には、スコップとバケツ、大きなゴミ箱もある。その隣にドアがあった。ここが台所の勝手口なんだろうな。

 ドアノブを握ると戸が少し開いた。あ、鍵がかかってねぇぞ。そのまま静かに戸を開けて中に入ってみた。親戚だし不法侵入ではないだろ。
 台所も薄暗い。流しにはコーヒーの跡がついたマグカップがあって、ガスコンロには両手持ちの大きな鍋が置かれている。食器棚はきれいに整頓されていた。やっぱ、誰も居ないのかなぁ? 
 一応、他の部屋も確認してみようと足を踏み出した時、かすかな声に気付いた。
「……あん」
 小さく響く声を耳にして、オレの体の芯に衝撃が走った。
 こ、これはヤッてる声じゃねぇか? 伯父さんがいい歳して女を連れ込んでるのか? いやいや、伯父さんも独身の男だ。茶飲みの友達の婆さんやデリヘルの若い女とサカッてても、おかしくねぇだろ。
 少ない脳みそがフル回転している間も、ピンクの声は止まることを知らない。これは出直した方がいいかなぁ? でも、ちょっと……。
 後ろめたさを抑えながら、足を忍ばせて台所から廊下へ出た。
「あ、あん。…ん、んぁ」
 より鮮明に喘ぎ声が聞こえてくる。
 この高く甘えるような声は婆さんじゃねぇな。若い女を相手にしてるんだ。てことは、男も性欲丸出しでガツガツやってるに違いねぇ。
 オレの悪戯心に火がついた。すり足で音を立てないように廊下を進み、声がする部屋の前までやってきた。女に興味はないが、ノンケの男がどんなサカり方をしているのか興味はある。では、ちょっとお邪魔しまーす。

 ふすまを少しだけ開けて中を覗いてみる。部屋はカーテンで薄暗い。喘ぎと吐息が入り混じる空間で、二つの肉体が絡みあっていた。
 ここからだと、男の背中やケツがよく見える。男は僧帽筋と三角筋が盛り上がった大きな背中をしていた。男の太い腕が、女の華奢な両足を掴みM字に開脚させている。まさに本番の真っ最中で、絡みも最高潮のようだ。
 女の中心を突くたびに、男のケツの筋肉がキュッと絞まる。女はGスポットにヒットしているようで、あえぎ声がどんどん激しくなる。予想もしなかった熱い濡れ場に、オレのチンコもガチガチに反応していた。
「んんっ、んっ、んっ」
 男が前かがみになると、相手の喘ぎ声が曇った。どうやらキスをしているようだ。二人は結合したまま激しく舌を絡ませているのだろう。唾液が絡み合う卑猥な音が部屋の中に響く。その間も男は腰の動きを緩めない。男が再び頭を上げると、喘ぎ声はまた大きくなった。
「うぉ、おおっ、おぅ」
 男は雄っぽく低い声を上げながら、腰を振り続けている。男の両手が相手の体に伸びる。あの手の動きは乳首を刺激しているのだろう。
「ああん、ああっ、あん」
 Gスポットのピストン運動に、両乳首攻めの三点フルコース。相手も悦に浸っているようだ。
 オレは首を伸ばした。もうちょっとよく見えねぇかな? この場所からは男の背中しか見えない。ケツもいいけど、やっぱチンコが見てぇなぁ。
 男はやっぱり伯父さん……だよな? 六十八歳とは思えないパワフルな絶倫ノンケのセックスショーに、オレのチンコも爆発寸前まできている。
 あっちは夢中で、こっそり覗かれているとも知らないのだろう。二人のカラミは激しく続いている。
「今度は下から突いてやるか?」
 男は一息つくと、太い腕で相手の体を抱え上げた。二人がつながった状態で騎乗位の体勢になろうとしている。男が仰向けに倒れるように布団へ身を投げ出すと、今度は相手の顔と裸がオレの目の前に晒された。

「……!」
 オレは凍りついた。
 男の相手も、お、お、男じゃねぇか! 髪短いし、おっぱいねぇし、ヘソの下にオレと同じモン付いてんぞ! 高い声と華奢な身体付きで、てっきり若い女だと思い込んでいた。
「あ、あんっ! リュウさんのチンチン気持ちいいよ」
 若い男はケツを掘られて、ヨガり狂っている。
「へっ。ヒロユキは本当にスケベじゃな。ほら、もっと突いてやるぞ」
 男は激しく突き上げた。ヒロユキと呼ばれたヤツは、顔をゆがませて恍惚の世界へ飛んでいる。
「ヒロユキ。ワシ、そろそろイッていいか?」
 タチの息が荒くなってきた。絶頂を越えるのを何とか我慢しているようだ。ウケの方は顔をゆがめながら不満を漏らす。
「ダ、ダメだよ。も、もっと突いて。もっと、気持ち良く……」
 若い男のおねだりに、年配の男はもう一度奮起すると、相手の体をまさぐり両方の乳首を強くつまんだ。
「だめぇ。乳首そんなに強くしたら。ボク、イッちゃうよ」
 絶頂の声と共に、ウケのチンコから雄汁が飛び出した。直後にタチも腰を大きく一突きすると、中に果てたようだ。
 ヒロユキと呼ばれた若いヤツは、相手の体の上に倒れこんだ。二人はセックスの余韻を楽しむように、唇を重ねて舌を絡ませている。
 オレは口を半開きにして成り行きを見届けた。

 すげー衝撃。オレは今、本気で焦っている。タチの男は伯父で間違いない。白髪は増えて、体の筋肉も以前に比べたら少し落ちている感じがするが、ガッチリとした体格と、凛々しい顔に見覚えがあった。だとしたら、伯父がゲイだってことがあまりにも意外で、どんなツラして一緒に暮らせばいいのか分からなくなっちまった。予想外の事態に、オレの悪戯チンコも完全に元気をなくしている。
「ねえ、リュウさん。さっきからずーっとあそこに居るのだれ?」
 若い男はこっちを指差して、セックスの疲れに身を任せる伯父を起そうとした。
 げっ! 気付かれていた!? オレはアホみたいに口を半開きにしたまま凍りついた。人間って本当に凍りつくことってあるんだな……。
「何じゃあ、来たんか。そこの茶の間でちょっと待っとれ」
 オレに気付いた伯父は驚く様子もなく、オレの背後を指差した。

 日に焼けたタタミの六畳間。オレは年代物の丸いちゃぶ台の前にあぐらをかいて座った。柱に掛けられた振り子時計がカチカチと時を刻んでいる。ふすまの向こうからシャワーの音が聞こえてくる。二人がセックスの後の汗を流しているんだろう。
 のん気と言うか、何と言うか……。オレが仮にノンケなら今頃大騒ぎだぞ? 身内にセックスを、しかも男同士のサカり合いを覗かれても、平然とする伯父の神経の図太さに、腹立たしい思いさえした。
 シャワーの音が止まった。しばらくすると、湯上りの伯父は浴衣姿に着替えて、ご満悦の表情で現れた。あれだけ派手にヤればスッキリもするだろうよ。
 伯父はちゃぶ台を囲むようにオレの隣に腰を下ろしてタバコに火を付けた。
「ススム。久しぶりじゃのう。元気だったか?」
 能天気すぎる絶倫の六十八歳に、頭ん中の白い糸がプツリと切れた。
「伯父さん、さっきのアレ何だよ! 孫みたいな若いヤツとあんなこと……。いやいや、先月倒れたんだろ。無理すんなよ!」
 何か論点がズレてる気がするが、細かいことはどうでもいい。言わなきゃ怒りが収まらねぇ。オレは手当たり次第に、やいのやいのと騒ぎ立てた。
 伯父はうるさそうに目をそらす。
「なんじゃい。お前だって覗いて楽しんでたんだろ? ワシが何しようと勝手じゃろ」
 悪びれる様子もなく文句を垂れる伯父に、怒りは頂点に達した。この絶倫ジジイにでっかい噴火をお見舞いしようと立ち上がった時、廊下からヒロユキとかいう若いヤツが顔を覗かせた。
「リュウさん。ボク、これからバイトだから帰るね。ススムさん、またね」
 ヒロユキは何事もなかったように、初対面のオレにもにこやかに挨拶をして玄関で靴を履きだした。絶倫ジジイは茶の間を立って、名残惜しそうに甘い声で若い男との別れを惜しんでいる。行き場を無くしたオレの大噴火は、いつの間にか不完全燃焼で、頭の湯気が次第に弱まっていった。
 十分過ぎるほど別れの時間を楽しんだ伯父は、茶の間に戻ると仏頂面でもう一本タバコに火をつけた。明るい五月の昼下がり。外からさお竹売りの声が聞こえてくる。
美佐子(みさこ)さんから電話があったけどなぁ。ワシはこのとおりまだまだ元気じゃ。余計な心配はいらんで」
 美佐子さんというのはオレの母ちゃんのことだ。伯父も年寄り扱いするなと文句を言ったが、結局は母ちゃんに圧倒されたらしい。
 けれど、オレには伯父の言葉が、やせ我慢に聞こえる。外を眺めながらタバコをふかす姿に年相応の陰りが見えた。どこか寂しげな姿に、オレの胸が針で刺されるような痛みを感じた。
 そっか。伯父さんはずっと一人なんだ。エロに執着するのも寂しさを紛らわせる方法なのかもな? 一度は結婚してもすぐ別れたのは、自分に正直に生きようと覚悟を決めたからなんだろう。一人になって田舎を飛び出して東京で暮らして……。オレも年取ったら伯父さんのようになるんかな? この家に一人で寂しく暮らす伯父の姿を想像すると、目に熱いものが込み上げてきた。
「伯父さん。無理すんなよ。また倒れた時、オレが一緒なら安心だろ」
 オレは鼻を鳴らした。
 これからは伯父さんが死ぬまで一緒に添い遂げてやるからな。貯金が底を突いて、オレの稼ぎだけで養ってやることになっても、身内のゲイとして一緒に暮らしていこう。でも、オレは伯父さんにゲイだとカミングアウトする気はねぇけどな。心の中でそう決意を固めると、近くにあったティッシュで鼻をかんだ。

 伯父は怪訝そうな顔でオレを見つめている。
「お前は何を言っとるんじゃ? 先月倒れたのは若いやつを駅弁して、腰反らせたら、ちょっとギックリ腰になっただけじゃい」
 オレは再び凍りついた。今日で二回目。とんでもねぇエロジジイだな。
 ちゃぶ台のタバコの箱を取り上げ一本火をつけた。肺の奥までゆっくりと煙を吸って大きく吐き出す。このまま火が付いたタバコを投げつけてやろうか。次の言葉が出ないオレの姿を、エロジジイは嫌らしく白い髭を蓄えた口元を緩ませている。
「駅弁やってるワシのそばについててくれるんか? そんなにワシがヤッてるの見たいんか? お前も好きものじゃの」
 ニヤニヤ笑う伯父を、オレは横目で見るともう一服煙を吐き出した。
 完全にオレの負けじゃねぇか。このジジイに何を言っても無駄だ。こんな色ボケジジイを放置しておいたら、何が起きるか分からない。世界平和のために、オレが暴走する色ボケマシンを止めてやらねぇと……。頭の中が混乱して、何を考えているのか分からない。
「と、とにかく、母ちゃんから命令されてるからな。来週の日曜に荷物運ぶから、どっか部屋空けてくれよ」
 まだ不満げな様子の伯父を残して、オレはボロ屋を後にした。
 外に出ると新緑が午後の太陽に輝いている。楽しげな五月の日曜日。疲労感を吐き出すようにため息をついて栗の木坂を下りだした。

 次の日曜日、レンタカーを借りて引越し作業を始めた。ベットやタンスなんかの大きな家具はリサイクルショップへ売り飛ばして処分する。伯父の家は畳敷きだし、必要なものはある程度そろってるはずだ。持って行く物は洋服と身の周りのもの、それと使い古したパソコンくらいでいいだろう。
 あっちの部屋には恐らくテレビは引けねぇだろうし、しばらくはネットがお友達になりそうだ。荷物を整理していると、お仲間と一発でバレる雑誌やDVDが大量に出てきた。
 さあ、困ったぞ。今のところ伯父にも、オレがゲイであることは話していない。あっちはあっさりとカミングアウトしたが、こっちは何となく身内に自分の本当の姿をさらけ出す気になれねぇでいる。伯父のエロ現場を興味本位で覗き見したものの、覗き見したこと自体、今では後悔している。他人や友達だったら、ここまで悩まないだろうけどな。なんか面倒臭え。絡み合った糸が解けずスッキリとしない。
 それにオレが同じ仲間だと知ったら、あのエロジジイに襲われるんじゃないかと心配もある。あのジジイならやりかねん……。嫌な想像をした自分にムカついた。散々迷った挙句、お気に入りの雑誌もタイプの男が肉欲に溺れるDVDも泣く泣く処分した。
 荷物をすべて運び出した部屋は広くて冷たく感じる。もう他人の空間になったこの場所に用はない。玄関のドアを静かに閉めて一人暮らしに別れを告げた。

 伯父の家では二階の六畳間をもらうことになった。南向きに開かれた大きな窓から差し込む日光で畳が日焼けしている。天井から古めかしい紐をひっぱるタイプの蛍光灯がぶら下がっていた。畳と同じように日に焼けた押入れのふすまや、窓際に置かれた足の短い机が、テレビで見た『ザ・昭和の下宿』って感じだ。でも、どんなところでも住めば都って言うだろ。今日からここが新しい住処だ。オレは次々と荷物の定位置を決めて、新しい生活空間を造っていった。

 夜になって引っ越し作業はある程度落ち着いた。オレは茶の間でテレビを見ながらくつろぐ伯父に、挨拶代わりに日本酒を差し入れた。
 荷物を運んできたオレの姿を見つけた時は、迷惑そうな顔をしていた伯父だったが、酒を見たら急に上機嫌になった。近所の魚屋で裁いてもらった初ガツオの刺身を冷蔵庫から持ってきて、呑もう呑もうと二人の酒盛りが始まった。
 オレもそこそこ酒は飲めるほうだが、伯父は無類の大酒呑みだ。オレが持ってきた一升瓶はあっという間に空になり、伯父は納戸からレアものの一升瓶を持ち出してくる。ちゃぶ台を囲んで賑やかな時間が流れていった。
 空の一升瓶が何本か転がるころ、さすがにオレも、いい気分になってきた。
「この前はホーント驚いたよ。だって、男好きだったなんてな。昔は結婚してたんだろ?」
 オレは酔った勢いで余計なことを口にした気がする。少ない脳みそが機能低下しているが、言った後でまずいと思った。
 気持ちよさそうに波に揺られる伯父はニタリと笑う。
「なーん言っとるんじゃ。おまーだって、お仲間さんじゃろーが!」
 ろれつが回らない伯父は、メガトン級の爆弾を投げつけてきた。
 オレは一気に血の気がひいた。
「な、な、何言ってるんだよ! 何で、何で……」
 何でそんなこと知ってるんだよ!? そう言おうとしたが、これじゃあ認めたことになっちまう。何とか言葉を食い止めた。
 オレは孫悟空のように伯父の手のひらに転がされて弄ばれている。顔面蒼白なオレを尻目に、伯父は再び船を漕ぎ始めた。酒の波に揺られて夢の世界へ旅立ってしまう。オレは旅立つ伯父を引き戻そうとしたが、こっちの世界へ戻ってくることはできないみたいだ。ちゃぶ台の上で背中を丸めて眠る伯父を横にして、毛布をかけてやった。
 気になる。すげー気になる。何でオレがゲイだってこと知ってるんだ? 中途半端に話を放り投げられて、気になって仕方ない。酔って眠る姿に問いかけても、伯父はいびきで返事をするだけだ。
 オレはちゃぶ台に頬杖をついた。このまま寝かせといたら風邪ひいちまうかな? 伯父を布団に寝かそうと肩を揺すって起こしてみるが、うるさそうにするだけだ。オレは伯父の両脇を抱えて、ひきずるようにして寝室へ連れていった。

第二章 ツレないアイツが、お気に入り

 翌日も晴れていた。オレは寝ぼけ(まなこ)で大あくびをしながら、Tシャツとパンツ姿で茶の間へ降りていった。
 頭、痛ぇな。昨日はさすがに飲みすぎたか。それにしても、何やらいい匂いがする。どこか懐かしいような朝の匂いだ。
 茶の間のふすまを開けると、伯父さんが白いエプロン姿で鍋を持っている。この匂いは味噌汁か。ちゃぶ台にシャケの切り身と海苔、納豆も並んでるじゃないか。
「ススム、起きたか。朝めしができたぞ」
 伯父さんは茶碗に炊き立てのご飯を盛りながら、そこに早く座れと指差した。いつもはオレ、朝メシ食わないんだよな。シャツの下から手を入れて、わき腹をかきながら時計を見た。飯を食うくらいの時間はありそうだ。
 オレはちゃぶ台の前にあぐらをかいて箸を握った。美味そうな湯気が立つ白いご飯を口に運ぶ。米粒がふっくらして甘いじゃねぇか。いつもコンビニ弁当のレンジでチンしたご飯に慣れているオレには、朝っぱらから感動的な美味さだ。
「こりゃ、ススム! いただきますしてから食べるんじゃ」
「●※□$▲♪〽!〜」
 伯父の小言に、口の中をご飯でいっぱいにしながら文句を言った。いちいちそんな子供みたいなことできるか! 食べだすと箸が止まらない。箸と茶碗のぶつかる音を豪快に響かせる。ご飯も味噌汁も、焼きシャケも最高だ!
「あー、ごっそさん!」
 オレは三杯おかわりをして空になった茶碗の上に箸を置き両手を合わせた。健康的なメシに満足して濃い目のお茶で一息つく。さすが独り身の長い伯父だぜ。
「いやー、美味かった。朝メシこんなに食ったの久しぶりだよ」
「そりゃー良かった。じゃ、明日からよろしくな」
 伯父もメシを食い終えて、茶碗にお茶を注いでいる。
 オレは眉間にしわを寄せた。どういうことだ? オレは伯父に目で問いかけたが、すまして茶をすするばかりだ。
「それ、どういうことだ?」
「お前が明日から朝めし当番じゃ。それくらいやってもバチあたらんで」
 おい、話が違うじゃねぇか。一緒に暮らすだけじゃないのかよ。オレは喉まで文句が出かかったが、少し考える。不満はあるが、生活費はぜーんぶ伯父持ちだしな。高価なパソコンのためにも、ここは我慢するしかなさそうだ。
「ちぇ、分かったよ」
 オレは不満な表情をぶら下げて、楊枝で歯の掃除をする。
「会社、間に合うんか?」
 独り言のように呟く伯父の言葉に、我に返って時計をみた。
 やばい! のんびりし過ぎた。慌てて立ち上がろうとして、ちゃぶ台の縁に膝をぶつけた。いてぇ! でも、痛みに構っているヒマはねぇ。急いで茶の間を出て二階へ上がろうとしたら、今度は柱に右足の小指を殴打した。チクショウ! 散々な朝だ。
 オレは部屋に飛び込むと、パンツも替えずに近くのワイシャツに袖を通し、ネクタイを鷲掴みにして、猛ダッシュで駅に向かった。昨日、伯父が放った爆弾発言のことは、すっかり忘れていた。でも、思い出したところで、また蒸し返す勇気は多分なかっただろうな。

 満員電車が会社の最寄り駅に到着した。オレはいい加減に締めたネクタイをぶらつかせ、上着を片手にダッシュする。たらふく食べた朝メシに後悔しながら、駅の階段を駆け上がった。
 何とか会社にたどり着くと、オフィスのドア前で乱れる呼吸を整えた。あーっ、疲れた! やっぱり体力落ちてんな。帰りに駅前のジムにでも行ってみるか。
 スマホで時間を確認するが完全アウト。ただ今、午前九時五分。オレは静かにドアを開けて中の様子を伺う。いつもと変わらないオフィスの光景だ。奥の課長の席に目を向けたが、誰も座っていない。ラッキー。課長、まだ来てないぜ。
 オレは平静を装って、自分のデスクに座った。
「おいっす、林。課長まだ来てないんだな」
「……おはよう」
 隣の席に座る同期の林はもう仕事を始めていた。
 実を言うと、オレはコイツのことが超お気に入り。好きなタイプのど真ん中。それなのに、林の反応はいつも素っ気無い。まるで無愛想。オレが過剰に期待期待しているだけなのか? ノンケとしての付き合いはこの程度が普通なのかもしれねぇけどよ。コイツはオレの本心を知るはずもなく、今朝もたった一言の返事だけ。冷たい返事が大きなハートをチクリと突き刺す。
 それでもオレは林が可愛くて仕方ない。短く刈り上げた黒髪に、自然に任せた濃いめの眉。マジメに見える太い黒ふちのセルロイドメガネはパソコンの画面を見つめている。唇を軽くへの字に曲げて頬のふっくら感を強調させているのは、頭ん中をフル稼働させている証拠だ。白いワイシャツ袖を丁寧にまくし上げて、体毛の薄いムチムチとした腕でパソコンのキーボードを叩く。今日も襟のボタンを一番上まで留めて、きちんとネクタイを絞めている。だらしないオレとは大違い。それにしても太い首が窮屈そうだ。
 オレは引き出しの書類を探すふりをして、コイツの肉厚な身体をさらに視姦する。胸の辺りは大胸筋に脂肪がたっぷり付いて触り心地が良さそうだ。乳首は大きいのかな? 腹はベルトの上に乗り上げて、ヘソのあたりのボタンが吹き飛びそうだ。今日もズボンは黒。机の影に隠れて下半身の様子は分からない。
 オレは頭ん中で朝っぱらから、恥らう林のワイシャツを脱がし、ベルトを緩める想像をして、自分のパンツの中を熱くさせた。
「……何か用?」
 パソコン脇のペットボトルに手を伸ばした林が、オレの妙な視線に気付く。ヤバい、ヤバい。見とれすぎた。でも、やっぱりコイツは愛想がねぇな。
「い、いや。何でもない」
 オレはスケベな妄想を消去して、仕事に取り掛かった。

 夕方、今日は定時に帰ることができる。結局、今朝の遅刻が課長にバレてしまい大目玉をくらった。くそ、鬼課長め。さっさと帰って一杯やるぞ!
 オレが帰る支度をしていると、隣の林は一足先に席を立った。
「お疲れ様でした」
 小声で周囲に挨拶して、重い体を引きずるようにしてオフィスを出て行った。オレはアイツに挨拶するタイミングを逃してしまった。
「お疲れさんした」
 オレも残っているメンツに声をかけて、さっさと会社を出た。
 夕焼けが街のコンクリートを染めていた。オレは肩に上着を担いで鼻歌混じりに、駅に向かう人ごみに紛れて歩く。まっすぐに延びる歩道の先に目を向けると、先に帰ったはずの林の姿を見つけた。
 林のそばには、小さな女の子と母親らしき女性がいる。三人は街路樹を見上げていた。オレも同じ方向に目線を向けると赤い風船が枝に引っかかっていた。きっとあの子が風船を放したんだな。オレはもう少し近づいて様子を見守った。
 幼稚園くらいの小さな女の子は目に涙を溜めている。
「風船、取ってきてあげるからね」
 林は腰を下ろして女の子に声をかけると、カバンを置き上着を脱いで幹を登りだした。通行人は木に登る林の姿を珍しそうに見ながら先を歩いていく。
 林は幹のくぼみを探して一歩ずつ足をかけると、大きな体を器用に操って太い枝に右手をかけた。左手を伸ばして風船のひもをつかむと、ゆっくりと足元に気を配りながら下りていく。林が女の子に風船を渡してあげると、さっきまで泣き出しそうだった顔が明るい笑顔になった。
「どうもありがとうございます」
「いえ、大したことないですから」
 風船に目を輝かせる子供の代わりに、隣の母親が何度も頭を下げた。林は照れくさそうに頭をかいている。その後も、手を引かれて歩きながら時々振り返る女の子に、林はメガネの奥の小さな目を緩めていつまでも手を振っていた。
 何だよ。アイツ、結構いいところもあるんだな。林はワイシャツの汚れを手で払い落とすと、上着とカバンを持って同じ駅の方向へ歩いていく。オレはその後ろ姿を見送ると、いつの間にか口元が緩んでいた。

 その日の夜、茶の間でテレビを見ていた。ニュースのスポーツコーナーで、ある高校の男子体操部の特集をしている。筋肉の形がくっきりと鮮明で締まった体に、伯父は声を上げた。
「ひょー、やっぱり若いのはええのう。あのプリッとした尻が最高じゃ」
 エロジジイはお気に入りの日本酒を飲みながら鼻息を荒くしている。オレは卑猥な歓声を聞きながら、ため息と一緒にタバコの煙を吐き出した。このジジイも本気で恋したことあんのかな? この前のヒロユキとかいう若いヤツも、セフレっぽい感じだし。どうせ伯父は手当たり次第に遊びまくってんだろうな。
 あーあ、何とかして林と仲良くなれねぇかな? オレと林は会社以外では全く付き合いがない。たまに昼飯を一緒に食べたりすることはあっても、ほとんど会話もない。一度だけ呑みに行こうと誘ったが、あっさり断られた。オレみたいなヤツ、林は嫌いなんかな?
 オレは短くなったタバコの火をもみ消した。

 ある週末の夜。その日はまだ五月だってのに、七月並みの気温の高さだった。暑くてかなわねぇ。オレは会社から帰ってくると速攻でシャワーを浴び、パンツ姿でうちわを片手に身体の熱を冷ましていた。クーラーを付けようとしたら、伯父にまだ早いと叱られた。
 玄関のピンポンが鳴った。伯父は台所で魚を焼いている。オレは腰を上げると古くなったタンクトップを被って、短パンを探す。うーん、見つからん。オレの背中から、もう一度ピンポンが鳴る。
「ススム、早く出ておくれ!」
 伯父が台所から声を張り上げた。あー、もうパンツのままでいいや。
「はいはい、どちら様で……」
 オレが玄関を開けると、外には林が立っていた。意外な訪問者にオレの心臓は止まりそうになった。しかも、こんなみっともない格好で、パンツまで見られてしまった。気恥ずかしさにオレの顔が赤くなる。
「課長に頼まれて。来週、コレ使うでしょ」
 林は会社のタブレット端末を手にしていた。月曜日は取引先へ直行して会議に参加する予定なのだ。課長から端末を忘れずに持って帰るよう言われていたのをすっかり忘れてた。
「悪りぃ。ありがとな」
 オレは自分の忘れ物を受け取ると、ニガ笑いをした。何かもっと気の利いたことを言おうと言葉を探すが、とっさのことで何も見つからねぇ。
「ススムの会社の人かい。良かったら、ご飯でも食べていかんかね?」
 奥の台所から伯父が顔を出して、林に上がるように勧めた。伯父さん、ナイス! よく言った!
「そ、そうだ。せっかく来たんだから、メシ食ってけよ」
 オレも林を家の中へ招き入れようとした。
「え、でも……」
 林は困った顔をしていたが、強引な誘いに断りきれず靴を脱いだ。

 朝メシはオレの当番だが、晩メシは伯父の当番だ。今夜はイサキの塩焼き。ちゃぶ台の中央にはお手製の肉じゃがも大皿に盛られて並んだ。大柄な男三人が並んで囲む夕食が始まった。
 伯父は手際よく林に話題をふりながら、笑顔で箸を進めている。林も最初は硬い表情で言葉が少なかったが、次第に表情を緩めていく。オレからビールを進めると、林は申し訳なさそうにコップを持った。
 林がコップいっぱいに注がれたビールを美味しそうに飲む姿を見ると、オレの緊張感も溶けていく。オレは気分よくご飯をかき込んで、空になった茶碗を伯父に差し出した。
「自分でやらんかい。林さん、ススムはどうも子供っぽくて心配なんじゃが、会社で迷惑かけてないかね?」
 伯父は急に親のような事を言い出した。このお節介ジイさん、余計なこと言うなよ。オレはしゃもじでご飯を山盛りにしながら、林の反応に気を配る。
「そんなことないですよ。僕も山下君には助けられてますし」
 林は控えめに笑った。
 オレ、林のこと助けたことあったかな? でも、お世辞でもそんな風に言ってくれて、オレの顔にも笑みがこぼれた。
 和やかな夕食が終わると、オレは林にお茶を入れてやった。二人だけの空間。隣の台所では食器を洗う水道の音がする。林はふっくらとした頬をビールで赤くして、濃い目の緑茶に一息ついた。
「山下君の伯父さんは面白い人だね。この家も情緒があって落ち着くよ」
「そうかな。ただのボロ屋だぜ」
 林は顔を上げて茶の間を見渡している。その表情は初めて見せるリラックスした顔だ。
「そんなことないよ。僕はアパート暮らしだから、山下君がうらやましいよ」
「ハハハ、オレもつい最近まではアパート暮らしだったんだぜ」
 オレはコイツと温かい会話をすることができて嬉しかった。いつもは無愛想でオレのこと嫌っているのかと思っていたが、誤解だったのかもしれねぇな。
 時計はいつの間にか九時を回っていた。
「じゃあ、そろそろ失礼するね」
 林は立ち上がった。
「もう夜も遅いから、泊まっていってもいいんじゃよ」
「お、おう。せっかくだから泊まっていけよ」
 伯父の度重なるナイスな提案に、オレも言葉を添えた。頼むっ! 泊まっていけって! 心の中で土下座した。
「すみません。明日は朝から用事があるので」
 林は優しく笑って頭を下げる。ちぇっ。でも、今日は大収穫だったぜ。オレも立ち上がると、玄関の方へ続いた。
 玄関先で靴を履きながら、林は伯父に何度も晩メシのお礼を言った。
「じゃあ、また来週」
「おう、気を付けて帰れよ」
 林は軽く手を振ると、のんびりとした足取りで歩いていく。オレは庭先まで出て、栗の木坂を下っていく背中をいつまでも見送っていた。

 オレは玄関の戸締りをして、茶の間でタバコに火を付けた。林が座っていたあたりに手を置くと、畳が少し湿っていて温かかった。さっきまでアイツがここにいたんだよな。少しだけ仲良くなれた林のことを想うと、嬉しさの裏に切ない気持ちが見え隠れしやがる。
「ススム、一杯やらんか?」
 伯父はいつもの一升瓶とスルメの袋を手にしている。
 オレはコップで酒を飲みながらテレビをつけた。今日のナイターの結果が映っている。だが、伯父はリモコンを取り上げて、つけたばかりのテレビを消した。
「何すんだよ」
「お前、あの子にホの字なんじゃろ」
 伯父の言葉を理解するのに少し時間がかかった。ホの字? ああ、好きってことか。またオレの気持ちを見透かしてやがる。伯父さん、あんたはエスパーか。でもオレは未だに嘘をついて平静を装う。
「何でオレが林を好きなんだよ。アイツは男だし、オレは伯父さんのような趣味はねぇぞ」
 嘘は自分のことだけでなく林のことも否定した気がして後味が悪かった。
 伯父は大きくため息を付くと、茶だんすの引き出しから自分のスマホを取り出して操作を始めた。何かを探し当てると、無言でオレに画面を差し出した。
 オレはスマホを受け取ると、目を大きく見開いた。
 こっ、これは、オレが愛用しているゲイ専用の出会い系アプリじゃないか! このアプリは自分の情報を公開しないと、他のヤツらの情報をサーチできない仕組みになっている。伯父のスマホには紛れもなく、オレの顔写真とプロフィールが載っていた。これで伯父はオレがゲイだってことに気付いていたのか。でも、オレは伯父をサーチして見つけたことないぞ。オレは自分のスマホを取り出して、同じアプリで伯父のデータがないか探してみた。
「お前は年齢フィルタかけとるじゃろ。だからお前からワシのプロフは見れんかったんじゃな」
 ちゃぶ台に頬杖を付く伯父は冷ややかにオレを横目で見ている。
「なーんで、頑なに隠そうとするんかのう。ワシがノンケだったらまだしも」
 確かに年齢フィルタはかけていた。四十歳以上はタイプ外として除外していたから、伯父の情報は見えなかったんだ。今の今までノンケぶって本心を隠していた自分が、小さくつまらねぇ人間に思えた。
「んで。本題に戻るが、お前は林って子のことを、どう思っとるんじゃ?」
 自分の顔が赤くなるのが分かった。本心を覗き込まれるのが、こんなに恥ずかしいことだと思わなかった。伯父の尋問に、オレは蚊の鳴くような声で答えた。
「す、好きだと思ってる」
「で。向こうはお前のこと、どう思ってるんじゃ?」
 容赦なくストレートな質問を浴びせるドSジジイに、頭ん中の線が一本切れた。
「んなこと、分かんねぇよ! オレが知りたいくらいだ」
 モヤモヤした気持ちを払うように、コップの日本酒を一気に流し込む。スルメの足を二、三本鷲掴みにして口に頬張った。イカ臭さとスルメの旨味が口の中に広がる。
「じゃあ、林君に自分の気持ちを伝えるんじゃな」
 はいはい、その通りですよ。それが出来たら、苦労しねぇって。やっぱり、このジジイは本気で恋愛したことねぇな。竹を割ったような役に立たないアドバイスを残して、オレは二階へ駆け上がった。
 窓を開けると、坂の下に広がる街の明かりと夜空の星が見えた。林はノンケだし、そんなヤツにコクっても仕方ねぇじゃねぇか。今日はアイツと少しだけ仲良くなれた。
 それで十分だろ。な、それで十分だろ?

第三章 毎日食いたい、アイツの手料理

 ある日の昼休み。オレは林をメシに誘った。今まで素っ気ないヤツと思っていたが、最近では林からも声をかけてくるようになっている。会社で評判の古い食堂に入ると、オレはカツ丼を、林はB定食を注文した。昼メシが届くまでの間、今日もお気に入りの林リサーチを始めよう。
 林の下の名前はコウジで、○△大学の出身だ。○△大と言えばそこそこの学校で、熱心に勉強していたらしい。趣味は読書と料理。体は大きいが、スポーツの経験はほとんど無いようだ。
「僕は身体大きいけど、スポーツは苦手なんだ。臆病でね」
「そうは見えないけどなぁ」
「一度大学で無理やり相撲部に連れてかれたことがあったけど、途中で泣き出して逃げだしちゃってさ。情けないよね」
 恥ずかしそうに話しをする林。
 でも、オレはそうは思わない。自分の弱いところを平気で話せるコイツは強い。頼りなさそうに見えるが、マジメで優しくて、オレにはないものを持っている。
 話し込んでいるうちに、オレ達のテーブルにもメシがやってきた。今日のB定食はハンバーグだ。ケチャップたっぷりのハンバーグに笑顔でかぶりつく林の姿を見ているとハートがキュンとする。
 やっぱ、コイツ可愛いな。

 その日の夕方、オレは自分でやらかしたミスのせいで、課長に怒られて帰りが遅くなった。鬼課長からようやく解放されてオフィスを出ると、エレベーターホールで電話をしている林の姿を見つけた。何か、ただ事ではないようだ。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。……あっ!」
 林は眉を中央に寄せながら口を尖がらせて、スマホの画面を見つめている。鼻息荒げな様子が窓から差し込む夕日に照らされている。
「お疲れ。コーヒーでも飲みに行かねぇか?」
 オレは林に声をかけた。

 近くの喫茶店で、ブレンドコーヒーから漂う湯気を見ながら事の次第を聞きだすことにした。林は何があったのか話してくれた。
 住んでいるアパートが老朽化で三ヵ月後に退去が決まっていたらしい。だが、解体スケジュールが急に変更され、今月末までに出てって欲しいという連絡だった。
「前々からちょっと強引な大家さんでね。まだ次のアパートも探してないのに、いきなり今月末って困っちゃうよ」
 退去時期が早まったので、お詫び料も含めて退去資金を三倍にしてくれるそうだ。何ともうらやましい。
 オレは白いカップを傾けながら少し考えた。
「じゃあさ。オレんち来る?」
「えっ?」
 栗の木坂の家はまだ部屋が空いている。この前の伯父の様子を見ても、林なら引っ張り込んでも大丈夫だろう。家主に何の相談もなくオレの勝手な一存で話を持ちかけた。もちろん下心はありありだ。
「ダメだよ。そんなの伯父さんにも迷惑だって」
「いいって。この前も伯父の家、気に入ってたじゃん。それともあんなボロ家はやっぱり嫌か?」
 オレは意地悪く問い詰める。
 林はうつむき加減に肩をすくめてコーヒーを一口飲んだ。
「じゃ、じゃあ……。次の部屋が見つかるまで。少しだけお世話になってもいいかな」
「よしっ、決まり! 次の日曜日に引越そうぜ。オレも手伝うからさ」
 オレは心の中でガッツポーズした。

 次の日曜日、オレは林のアパートに行った。今日の引越し手伝いで、初めて林の部屋に上がることができる。好きなヤツの部屋だ。会社では見せないプライベートな一面を見つけることができそうで楽しみにしていた。
 もしかしたらゲイ雑誌とか見つけちゃうかもな。オレは見つけた恥ずかしい雑誌を手に、林に問い詰める。困ったアイツはジリジリと部屋の隅に追い詰められていく……。オレはその後のエロい成りゆきを想像するだけで股間が熱くなった。
 インターホンを押すと、すぐにドアが開いた。林はTシャツと短パン姿で出迎えてくれた。
「いらっしゃい。面倒かけちゃって悪いね。そんなに荷物はないから」
 笑って申し訳なさそうに挨拶する。スーツ姿とは違うラフな格好。ターコイズブルーのTシャツが肉体に張り付き、可愛らしさを更に強調している。こんな姿をこれから毎日見れるんだな。オレ、最強な幸運の持ち主かも。
 部屋の中はまだ荷造りが始まったばかりだ。言われたとおり、荷物は多くない。部屋は掃除が行き届いていて、普段からきれいに使っているんだと分かる。
 本棚に本がたくさん並んでいた。小説やビジネス書、料理の本とコイツらしいラインナップだ。オレはゲイ雑誌とかノンケものでもエロ本とか見つからねぇかと探してみた。それらしきものは見つからねぇな。あんなものは目立つところには置かないだろう。
 オレは部屋を見回して、目に付いた押し入れに脳みそが足りない頭を突っ込んで探してみる。うーん、やっぱり見つからん。よこしまなスケベ心は空振りに終わった。
「山下君。何してるの?」
「い、いや。押し入れから片付けようかなって」
 オレの不振な行動に、林も気付いた。オレはごまかす様に笑って、押し入れにしまってあった古い本を適当に引っ張り出して、空のダンボールに詰めようとした。
「あ、押入れの本は別にしておいてね。違うところに持っていくから」
 手にした本には『いそっぷものがたり』と書かれている。他の本を見てみると、童話や絵本ばっかりだ。何だこれ? 林は幼児プレイが好きなのか? スカスカ脳みそが下らない想像を走らせる。
「この近くに孤児施設があってね。本を寄付しようと思って、実家から送ってもらったんだ」
 林は子供向けの本を丁寧に箱に詰めながら、照れくさそうに説明した。その柔らかい笑顔にカーテンを外した窓から光が差し込んでいる。お前って、本当にいいヤツなんだな。

 オレ達は荷造りが終わったダンボールを運び出した。全部の荷物を運び終えると林を助手席に乗せて、クルマのキーを回してエンジンをかけた。
「山下君。今日からよろしくね」
「その山下君っての、辞めてくんねぇかな。オレのことはススムでいいよ」
 もっと打ち解けてくれよ。だから堅苦しいのはなし。オレは笑ってグーサインした。
「じゃあ、僕もコウジでいいよ」
「おう!」
 こっからはオレ達の第二ステージだ。オレ、絶対にコウジをモノにしてみせるからな!

 庭に咲くアジサイに雨が降りてきた。昨日のニュースで東京も梅雨入りしたと発表があった。今はもう七時過ぎ。ああ、もう朝か。脳みそが回転するまでに時間がかかる。
 ん、七時! オレはセットし忘れた鳴らない目覚ましを片手に飛び上がった。やべぇ、朝メシ作らねぇと! 伯父さんにまたドヤされちまう。慌てて階段を駆け下りると、茶の間のふすまを開けた。
 茶の間では伯父さんが味噌汁をすすっていた。とっくにご飯もおかずも用意されている。
「あ。ススム君、おはよう。ご飯、ちょうどできたよ」
 エプロン姿のコウジが台所から出てきた。どうやら朝メシを用意してくれたらしい。
 コイツが山下家にやってきて一週間が経っている。オレがコウジを住まわせることを話した時、伯父は両手を挙げて賛成した。それどころか、むさ苦しいオレと二人だけで暮らすより、家事が得意なコイツも一緒の方が、生活が潤うと言いやがった。
 オレは伯父に、コウジはノンケなのだから態度や発言には気を付けろと釘を刺しておいた。そのお陰で、少なくともコウジの前ではロマンスグレーの似合うノンケのジイさんを演じてくれている。
「コウジ君が作った味噌汁は最高じゃな。卵焼きも上出来じゃ」
 伯父はちゃぶ台に並んだ料理を美味そうに味わって満足な顔をしている。匂いにつられてオレの胃袋も早く食わせろと催促する。オレは下着姿のままでちゃぶ台に座ると箸を持った。伯父の朝メシを食った時も美味いと感じたが、コウジの方がもっと最高に美味い。
「うんめー。コウジってこんなに料理上手なんだな!」
 アジの干物を焼いたやつに、厚焼き玉子やとうふの味噌汁。特別な料理じゃないが箸を運ぶたびに口の中に幸せが広がる。
「ススムの味噌汁はダシが入っとらんし、目玉焼きは黒こげじゃからな。これからはコウジ君にご飯はお願いしたいものじゃの」
 伯父は意地の悪い姑みたいに、冷ややかな横目でオレを睨む。コウジは母ちゃんのような笑顔でエプロン姿のまま、ちゃぶ台に座った。
「僕は料理大好きなので構いませんよ。この台所とっても使いやすいですし」
 コウジの料理当番の立候補に、伯父は仏様を拝むように両手を合わせて頭を下げた。伯父の大げさな感謝に、コウジはニガ笑いしながら卵焼きに箸を伸ばす。オレは伯父とコイツが仲良くなる事に若干のジェラシーを感じつつ、場の雰囲気を壊すように空になった茶碗を差し出した。
「おかわり!」
 その後も三人の同居生活は順調に進んでいった。伯父は株で儲けた貯金と年金で気楽な生活をエンジョイし、オレとコウジは毎日仕事をしながら家事を分担して生活していた。オレ達が居ない時には、栗の木坂の家には伯父を訪ねてヒロユキとか言った若い子も来ているらしい。きっと、エロジジイといい感じでやってるんだろうな。ちょっとは羨ましい気もするが、オレはオレだ。

 ある日の夕方。コウジが明日までにプレゼンの資料を作らないといけないと残業することになった。
「ごめん、コウジ君。先に帰っていいよ」
「じゃあ、オレ、喫茶店で待ってるぜ」
「待たないでいいよ。代わりに夕飯の買い物しておいてくれないかな?」
 コウジは買い物メモをオレに差し出した。
 オレは帰り道に近くのスーパーに寄った。メモを見ながら商品をカゴに放り込む。ひき肉、たまねぎ、卵……。今日はハンバーグかな? オレは買い物袋をぶらつかせて、コウジが楽しそうに料理をする想像をしながら、軽い足取りで坂を上っていった。
 家に帰ると伯父が暇そうにテレビを見ていた。ドームのプロ野球中継が茶の間を賑やかに彩っている。オレもシャワーを浴びてさっぱりしてから、いつもの場所に腰を下ろして野球観戦に参加した。
「んで。お前ら、もうヤッたんか?」
 伯父は豪速球のストレートを投げつけてきた。ボールはバットにかするどころか、オレの顔面に激しくぶち当たる。デッドボールの衝撃に、心の中で激しく動揺した。手元が狂ったのか、ワザと狙ったのか、オレはピッチャーを睨みつける。血が登って頭のてっぺんから湯気が立ち上ってくる。
「この前、コウジはノンケだと言っただろうが……」
 オレは低い声で威嚇した。
「何じゃー、まだなのか。じゃあ、ワシが手ぇ出しちゃおーかな?」
 いやらしく笑う伯父に、オレの怒りスイッチが入った。
「んなことしたら、コロスからな! このエロジジイが!」
 頭のてっぺんから噴火を起こすオレに、エロジジイは冷めた目をして、ため息をついた。
「早く告白せいって言っとるんじゃ。いつまでもこのままってわけじゃないんじゃぞ」
 オレはその言葉を無視して、タバコを咥えながらライターを探した。んなこと分かってる。でもそれが失敗したらどうすんだよ? 告白してコウジとの関係が崩れてしまうのか、今のままで何となく一線を越えない関係を続けるのか。どっちがいいかなんて、分かんねぇよ。
 テレビの上にライターを見つけると、フィルターが湿ったタバコに火をつけた。
「それに、言っとくがな……」
 伯父はまだ続ける。オレは背を向けたままテレビを見ているフリをした。
「お前やコウジ君のようなデブは好かん。ワシはやっぱり若くてスラッとしてるのが好みなんじゃ」
 背後からニヤける伯父の顔が手に取るように分かる。オレは空になったタバコの箱を握りつぶして、エロジジイに投げつけてやった。
 仕事を終えて帰ってきたコウジは、やっぱりハンバーグを作ってくれた。今日も美味い晩メシを、無言で食べる伯父とオレの様子に首をかしげている。
「今日のご飯、あまり美味しくなかったかな?」
「いやいや。今日のハンバーグも最高じゃて」
 心配そうな顔をするコウジに、伯父は笑ってフォローする。
 オレは仏頂面で大きなハンバーグに箸を入れた。お前のメシはいつも最高だよ。これからも毎日ずーっと、こんなメシ食いてぇなぁ!

第四章 梅酒の味が、恋を動かす

 七月になった。伯父は同年代のお仲間さん達とハワイへ旅行に行ってくると言った。オレは伯父がいない生活に久々の開放感を期待した。同居を始めて以来、何かにつけジジイには振り回されっぱなしだからな。しばらくはコウジと二人でのんびりとした生活ができるだろう。
 伯父が出かけた日、昼間の気温が三十度を超えた。いよいよ夏がやってくる。オレやコウジのような図体には厳しい季節だが、夏休みのガキのようにテンションは上がる。
 今日は夜になっても気温が下がらない。茶の間のクーラーをガンガンにかけて人気のお笑い番組を見ていると、コウジが台所から大きな蓋付の瓶を抱えてきた。
「これ伯父さんが漬けたのかな? 梅酒みたいだけど」
 厚手のガラス容器に琥珀色の液体がたんまりと入っていた。赤い蓋を開けると深い酒の香りがする。コウジは台所から長いスプーンを持ってくると、液体を一杯すくって口に運んでみた。
「やっぱり梅酒だ。ブランデーで漬けてあるみたいだね」
 そんなに美味そうな酒を隠してたのか。オレもガラス瓶に指を突っ込んで舐めてみた。そこいらの居酒屋で飲むのより、何倍もすんげー美味い。オレはお宝の発見に、何か楽しいことがしたくなった。
「な、な。縁側で一緒に呑まねぇか?」
「勝手に飲んでいいのかな。これ相当の年代ものだと思うよ」
 コウジは腕を組んで考える。オレはそんなのお構いなしで、飲もう飲もうとはしゃいだ。
「じゃあ、少しだけね。何かおつまみ作るよ」
「やったぜ! 頼んだぞ!」
 コウジは喜ぶオレの姿を見てニッコリ笑った。
 アイツがつまみを用意している間に、オレは縁側をセッティングしておこう。廊下のガラス戸を開け放して、部屋に溜まった空気を追い出した。庭に打ち水をしておけば、少しは涼しくなるだろう。小さな植木鉢の朝顔はしぼんでしまい、次の太陽を待っている。垣根の向こうには夜空が広がって、星がチラホラ瞬いていた。

 夏の夜を演出する縁側の準備ができると、コウジは大きな鞘つきの焼いたそら豆を持ってきた。大ぶりの氷が入ったグラスに梅酒をたっぷりと注ぐ。オレ達は豊かな梅の香りがするグラスを掲げて乾杯した。
「こいつは最高だな!」
「そうだね。とっても飲みやすいね」
 オレは梅酒を一気に飲み干すと、すぐに二杯目を注いだ。コウジも甘い味が気に入ったのか、笑顔でグラスを傾けている。
 こうしてコイツと二人きりになるのは久しぶりだ。最近は仕事が忙しくて、前のように昼飯を一緒に食うこともできなかった。それに、家に帰れば伯父もいたからな。今夜はゆっくり楽しもう。

 夏の空気に漂う風を受け止めて風鈴が静かに鳴る。コウジは梅酒を一口飲むと、目を細めて口元を緩ませた。
「僕ってさ。会社ではススム君に冷たかったでしょ?」
 琥珀の中に泳ぐ氷を見つめながら、はにかむように話しだす。
「んー、そうなのか? オレはそんな風には思わなかったぜ」
 オレは嘘をついた。
 どんなにアプローチしても、思ったように反応してくれないから、本当は怒りを覚える時もあった。でも、それは過去のことだ。手にしたうちわで風を起こすと、つまらない記憶は消えてゆく。
「本当はね。仲良くなりたかったけど、ススム君にどう接したらいいか分かんなかったんだ。でも、こうやって一緒に暮らすことができて、本当に嬉しいんだ」
 コウジの大きなポッチャリ顔がほんのりピンク色に染まってる。
 そ、それって、どういうことだ?
 まさかコウジもオレのこと……。いや、それはゲイとしての都合のいい解釈だ。落ち着け、落ち着け。
「僕、ススム君が憧れなんだ」
「そ、そうか? でも、コウジも良いところいっぱいあんぞ」
 何気ないコウジの言葉に、オレはドキドキしてくる。気持ちをごまかすように手にしたグラスを傾けた。その手につい力が入ってしまい、大量の梅酒が口の中になだれ込んだ。酒が気管支に入って咳き込んでいると、コウジは驚いてオレの背中をさすってくれる。優しいコイツの肉厚な手の感触が伝わってくる。

 オレはコウジの手を握った。オレも負けてらんねぇ。
「コ、コウジ」
「どうしたの?」
「オ、オ、オレとさ……。キ、キ、キスしてみねぇか?」
 ついに言っちまった。しかも失敗した。三段跳びでとんでもねぇこと言った気がする。いくら脈があっても、いきなりキスは違うって。
「えっ!」
 コウジは案の定、オレの手を振りほどいた。その勢いで近くにあったグラスが倒れる。少しだけ残った梅酒が縁側に広がっていく。
 コウジはその場に固まって、小さな目を丸くしてこっちを見つめている。ああ、やっぱりな。
「冗談だよ。冗談。本気にすんなって」
 オレは大声で笑った。大量の冷や汗をかき消そうとうちわで扇いでみる。同時に、横目でコウジが庭の朝顔を見つめている姿を見守った。
 少しの間、微妙な空気が流れる。
「いいよ。僕、ススム君のこと好きだよ」
 コウジは目を緩ませて穏やかに笑った。ほんのりと赤くなったお前の頰は、梅酒のせいだけじゃないんだな。密度が濃い夏の空気の中で、かすかに虫の声がする。
 オレは軽い酔いが次第に醒めていくのを感じた。
「ほ、本当にいいのか?」
「うん……」
 オレから言い出したことなのに、自分がうろたえてしまう。でも、コウジは落ち着いた態度で、何だか大人に見えた。
 もういいよな。オレ、正直になっていいよな?
 オレは二人の間に置かれたお盆を縁側の奥へ追いやって、コウジのそばへ身体を近づけた。コウジは答えるようにオレの方を向いてくれる。そんな目でみるなよ。骨抜きにされちまう。
 コウジの両肩に震える手を載せた。手の汗がTシャツの布地に吸い込まれて温かい体温が伝わってくる。ファーストキスってわけじゃねぇのに、どうすりゃいいんだ。今までの遊びとは違う、何かもっと特別なものだ。緊張で強くなった両手の力がコイツを壊してしまわねぇか心配になる。
 オレはできる限りそっと顔を近づけた。呼吸を感じる距離まで近づくと、コウジは目を閉じる。
 静かに重なる唇と唇。重なり合う感触から小さな緊張が伝わる。それでも、ふっくらとした柔らかい唇が気持ち良い。これがコイツの唇なんだ。
 オレは舌先で唇の隙間を狙った。コウジはためらいがちに僅かに口を開く。オレはその小さな隙間に入り込むと舌を絡めた。お互いの存在を確かめるように絡み合う舌。混ざり合う粘膜から、さっきの梅酒の甘い味がする。
 コウジはオレの背中に手を回し、肉厚な指の一本一本を食い込ませてくる。オレはもうとっくに股間が熱くなっていた。
 呼吸を忘れた長いキス。この想いが伝わってくれたらすげえ嬉しい。
 オレはゆっくり唇を離すと、そのままコウジの頭を抱え込むように胸に抱きとめた。これがオレの気持ち。お前が好きだ。見上げた夜空に輝く星が何よりもきれいだった。

 オレは赤面するコウジの手を引いて二階へ上がった。窓から射し込む月明かりで、部屋の中は青く照らされていた。
 オレ達はもう一度お互いの体温を確かめた。オレはコウジの背中から腰の辺りを優しくまさぐる。コウジもその動きを真似するようにオレの背中に手を回す。
 オレはコウジのでかいケツを触ってみた。もっちりとした感触が短パンの上からでも伝わってくる。おもむろに、短パンの中に手を入れてケツを触ってみると、少し蒸れた感触が手を覆い、ナイロン製のボクサーパンツは滑るような手触りがする。
 オレはコイツの短パンをずり下げて、黒いパンツを露わにした。肌の白さが黒い下着を引き立てていやらしい。太ももは毛が少なくスベスベだ。太ももの辺りをなでるようにして、股間を包み込むように触ってみた。
「あっ」
 コウジは小さく声を上げた。既にコイツのパンツの中も硬くなっている。
 オレはコウジの体を優しく畳へ押し倒した。その体に自分も身を寄せると、首に腕を回してもう一度キスをせがんだ。キスをしながら右手で熱く隆起した股間をなで上げてやる。パンツの生地を這うようにゆっくりと手を動かすと、深い吐息が聞こえてくる。
 薄い布地から硬くなったチンコの形を確かめていると、次第にコウジの息が上がってきた。オレはコイツの頭を持ち上げて、自分の股間が弄ばれている様子を見せてみた。
「ススム君、恥ずかしいよ」
 コウジは顔を赤くしてメガネの奥から自分の痴態を見つめている。コイツ、本当に可愛い。
 オレは股間からTシャツの中に手を入れて、小山のような腹を触ってみた。太ももと同じように体毛がほとんどない腹まわり。胸の上までTシャツを捲くると、オレは体の上に覆い被さった。
 左右に少し垂れ込んだ胸は両手で抱えると餅のような弾力を感じる。胸の頂にある乳首は小さくピンク色をしていた。乳首まで可愛いぜ。オレは手のひらで胸を持ち上げるように掴むと、人差し指で乳首の先端を刺激した。
「ん、んっ!」
 どうやらモロに感じるみたいだ。コウジは困った顔をして歯を食いしばっている。オレの責めに降伏しないコイツには、もっと刺激を与えたくなる。今度は舌先に力を入れて乳頭を丁寧に舐めてみた。
「あ、あんっ! んんっ!」
 コウジは耐え切れず情けない声を上げた。オレは右と左の乳首を交互に攻めながら、もう一度股間の様子を探ってみると、さっきより熱く硬くなっているのが分かった。
 皮膚に貼り付くパンツの中に手を入れると、濃密に蒸れた陰毛がオレ手を湿らせた。さらに奥へ手を進めると、ガチガチのチンコが熱を帯びている。オレはコイツの窮屈そうなパンツとTシャツを剥ぎ取ってやった。
「ススム君。だ、だめ。恥ずかしい」
 コウジは自分のチンコを隠そうとするが、オレはその手を振りほどいた。コイツの悶える声と月明かりに照らされた裸が、いっそう燃えさせる。
「コウジ。オレ、前からお前のこと……」
 今さら言葉にする必要ないか? でも燃え上がるオレのハートは止まらない。コイツの唇を何度も求めながら、可愛い体をまさぐった。
 コウジは両手に力を入れて畳をつかもうとしている。
「やっぱりこんなことするの嫌か?」
 オレは両手で赤く染まった頬を優しく包んでみた。
「ごめん、そうじゃなくて。初めてだから、どうしたらいいか……」
 コウジは首を振って答えた。
「そんなこと気にすんなよ」
 オレはもう一度できるだけ優しくキスをして抱きしめた。

 しばらくするとコウジも落ち着いてきたようだ。求愛に答えるように、オレの身体を不器用に触りだした。
 コイツ、本当に初めてなのかもな? ごめんな。オレ、初めてじゃないんだ。オレは不器用なりに一生懸命なコイツの愛し方に身体を任せた。
 コウジの手がオレの股間を触ってくれる。とっくにガチガチで早くぶっ放したいほど熱いチンコを、宝物のように扱ってくれた。優しい手の感触にオレは快感を覚える。
「ああっ。コウジ、もっとしてくれよ」
 オレのチンコはどんどん熱くなる。そのうちコウジは股間に顔を埋めだした。舌と唾液の温かい感触がチンコに伝わる。コイツの舌が亀頭やサオを丁寧になめ上げてくれる。優しい責めに、鈴口からガマン汁が濡れてくるのが分かった。オレは快感に身を委ねながら、懸命にフェラ続けるコウジの頭をなでてやった。
 オレは体を起こすとコイツの身体を抱きかかえてキスをした。
「オレ、お前とつながりてぇ」
 初めてのコウジにはちょっと酷かもしれねぇが、オレは我慢なんかできねぇんだ。でも、お前のこと大事にするからな。
「うん」
 コウジは熱っぽい目でひとつ頷いた。
 オレはローションを取り出して、コウジの体を仰向けにする。片手で容器の蓋を開けながら、耳元でささやいた。
「痛かったら言えよ。無理すんなよ」
 コウジの太い足を左右に広げ、ヒザの裏に手をかけてケツを大きく持ち上げた。大きなケツの谷間にはきれいな秘部が露わになる。持ち上げた太ももの向こうに、恥ずかしそうに目をつぶるコウジの顔が見えた。オレはそんな姿がたまらなく愛おしくて、ケツの穴を優しく嘗め回した。
「ひゃっ! ああっん!」
 舌先で刺激を与えるたびに穴の筋肉が収縮する。
「気持ちいいか?」
 オレの意地悪な目にコウジは顔を真っ赤にして、首を縦に降ると小さく呟いた。
「は、恥ずかしい……よ」
 そりゃそうだろう。自分でも見ることができないアナルを、じっくりとオレが見ているんだからな。
 オレは指先にローションを垂らした。その指をタマの裏筋の辺りから滑らせて、もう一度ケツの穴を狙う。穴の周りをローションでたっぷり湿らせ、中指をゆっくりと入れてみる。コウジはケツの筋肉に力を入れた。
「力抜けって。オレの指を食いちぎる気か?」
「ご、ごめん……」
 コウジのケツに中指を入れながら、オレは乳首を舐めてやった。
「リラックスしろ。乳首に集中するんだ」
「う、うん……」
 コウジは目をつむり、口をへの字に曲げている。指の付け根まで挿入すると、ゆっくりと指を出し入れしてみる。指の動きを繰り返すうちに、次第にケツの力も緩んでくる。どうやら痛くはないらしい。
 オレは指の数を増やしてみた。さっきまでの強張った顔がほどけて、深い吐息が聞こえてきた。いけそうだな。
「挿れていいか」
「うん……」
 コウジの痴態に熱い想いを募らせ、オレはガチガチに硬くなった自分のチンコを握りしめた。コウジはうつろ気な目で待っている。亀頭をケツ穴に押し付けた。ローションの滑りも手伝って、ゆっくりとケツの筋肉が開かれていく。
「はぁー」
 オレは思わず声を上げた。コイツの温かい体温を感じる。少しずつ根元まで挿入すると、しばらく様子をみた。
「大丈夫か? 動くぞ」
「う、うん」
 コウジは小さく頷いた。少し不安そうな顔が切なく感じる。
 オレはゆっくりと腰を動かしはじめた。動かすたびに、チンコにコウジの体温と肉壁が絡みつく。すげぇ。オレのチンコは燃えたぎっていた。身体の芯に電流が流れるような快感が襲ってくる。
 コウジもケツが慣れてきたのか、喘ぎ声を出してくる。ケツの緊張感が薄れてきたようで、自分のチンコをしごき始めた。
「あっ、あっ、んん、あっ」
 オレのチンコが奥に突き刺さるたび、コウジはリズミカルに声を上げる。いつの間にかコウジのチンコも勃っていた。オレはそろそろ絶頂を迎えようとしていた。
「オ、オレ、そろそろ限界! コウジ、い、一緒に……」
 オレはコウジの隆起したチンコを握り締め、強く擦りだした。腰の動きをさらに加速させ、フィニッシュへ向かう。
「ああっ。ボクも、も、もうダメ!」
 コウジも情けなく降参の声を上げた。
 オレがコウジの中で快感の頂点を迎えたのと同じ瞬間に、コウジも雄汁をぶっぱなした。オレは一瞬頭が真っ白になる。視界が元に戻ると、目の前には乱れた身体を呼吸で落ち着けようとするコウジの姿があった。
 オレ達は汗だくになった身体を密着させて、深いキスを交わす。口の中に少し塩気を感じる。高揚した気持ちが落ち着いてくると、二人で照れ臭そうに顔を見合わせた。目の前のお互いの顔が何だか可笑しくて、声を上げて笑った。
 オレ達、ついにヤッちゃったな!

 お互いに初めて見せた本心が実は一緒だったことが、嬉しくて愛おしくて、笑いが治まるともう一度抱き合った。
「暑いな。一緒にフロ入るか」
 オレは汗だくのコウジの頭を撫でてやった。
「うん。……ひいっ!」
 コウジがオレの腕の中で頷くと、急に変な声を上げた。
 オレはコウジの目線を追ってみると、部屋のふすまが少し開いていた。その先には月明かりに照らされた伯父がしたり顔で覗いているじゃねぇか!
「いやー、若いもんはやっぱりええのう」
 スケベジジイは嫌らしく口を緩めて笑う。おい、何時から見ていたんだ? オレは真っ白に固まったが、すぐに我に返った。
「な、何で居るんだよ! ハワイはどうしたんだ!」
 意味もなくコウジを隠すように抱えて、エロジジイに文句を言った。
「いやな、飛行機が欠航になってのー。でも、エエもん見れて、良かった良かった」
 エロジジイは納得するように頷いて、鼻歌を歌いながら階段を降りていった。オレ達は突然の出来事に言葉も出ない。やり場のない複雑な気持ちの答えを求めてコウジの顔を見るが、コウジもニガ笑いするだけだった。

第五章 ふたりのケンカ、大切な家族と気づく日

 八月になった。今夜は前から楽しみにしていた花火大会がある。坂の上にボロ家を構える山下家の庭先は、絶好の鑑賞スポットだ。今日は晩メシにヒロユキも呼んで、メシの後でゆっくり夏の風物詩を楽しむことになっている。

 オレとコウジが一線を越えてから、伯父はきちんとヒロユキを紹介してくれた。コウジは、伯父も男好きであったことに驚く様子もなく、何だか家族みたいだね、と言った。
 ヒロユキは二十歳の大学生で、伯父が師範を務める空手部に所属している。実力は国際大会の代表選手候補に選出されるほどで、体の鍛錬も怠らないマジメな体育会系だ。余計な脂肪が一切なく筋肉で締まった肉体は芸術だ、と伯父は絶賛する。伯父が言うには、ヒロユキからのアタックで付き合うようになったとか。
 オレに初めて会った時もそうだったが、ヒロユキは何事にも物怖じはしない。人懐っこい性格で、オレやコウジを兄貴のように慕ってくれている。最近では伯父が居ない時でも、オレ達は三人で話をしたりメシを食ったりしていた。

 昼過ぎからコウジはご馳走の準備を始めた。今日は美味しいものをたくさん作ると張り切っている。オレも久しぶりに台所に立って包丁を握ることにした。指示通りに野菜を切るくらいしかできないが、こうやって二人で一緒にいる時間がたまらねぇ。不器用にトマトをカットするオレの隣で、コウジはエプロン姿で鍋の前に立ち、魚の煮汁を確認している。
 玄関のピンポンが鳴った。茶の間で暇そうにしていた伯父が出迎えると、明るい声が聞こえてきた。
「リュウさん、来たよ!」
「ヒロユキ、待っておったぞ」
 伯父の様子が一変して甘え声に変わる。
「こんにちは。ボクも何か手伝いますよ」
 ヒロユキが茶の間から顔を出して挨拶をする。料理は順調だから、伯父の相手をするよう頼んで茶の間に座らせた。
「ヒロユキ君は伯父さんが本当に好きなんだね」
「そうだな」
 から揚げを揚げるコウジの言葉に、オレはレタスを千切りながら頷いた。
 油の中で鶏肉の水分が抜ける乾いた音と、鮮やかなグリーンの葉が繊維に沿って割かれる軽い音が響く。最後のから揚げを油から引き上げて、レタスを大皿に盛り付けている時、突然、茶の間から罵声が聞こえてきた。
「リュウさん、やっぱり影虎(かげとら)先輩とも付き合ってたんだね!」
 ヒロユキの声だ。アイツからこんな大声が出るなんて珍しい。オレ達は台所から顔を出して、茶の間の様子をうかがった。

 ヒロユキは立ち上がり、伯父を睨み付けていた。背後には燃え盛るような殺気を感じる。右手の拳が怒りのバロメーターを示している。伯父は青い顔をして、腰を抜かしたような体勢で、後ずさりしながら弁明しようとしていた。
「ち、違うんだ。トラが余りにも寂しそうだったから、つい……」
「寂しいなら、誰とでもヤッちゃうのかよ!」
 捲し立てるようにヒロユキは口を開いた。
 話がよく見えないが、伯父が他のヤツに手を出したようだ。可愛い彼氏がいるってえのに、とんでもねぇエロジジイだな。
 オレは二人の間に割り込んでケンカを治めようとした。
「ま、まあ、ヒロユキ。落ち着けって、ちゃんと話し合おう。な?」
「ヒロユキ君、僕が話し聞こうか?」
 コウジも慌ててオレの後に続く。
「ススムさん、コウジさん。前からおかしいと思ってたんだよ。もうリュウさんのこと信じられないよ」
 ヒロユキは目に涙を溜めて歯を食い縛っている。よっぽど悔しいのだろう。浮気ジジイは大柄な図体を何倍も小さくして落ち込んでいる。
「と、とにかくメシ食おう。腹減ってるとイライラするもんだからさ」
 オレの説得力のない提案を、ヒロユキは聞いていない。その後もヒロユキは伯父に怒りをぶつけていたが、何も答えない伯父に見切りをつけて、とうとう出て行ってしまった。
 静まり返った茶の間に、オレ達は取り残された。伯父は目を落として完全に落ち込んでいる。
「ご馳走……。どうしよう」
 コウジの的外れな呟きに、オレはこぶしで軽く小突いてやった。

 ヒロユキが出て行った後、出来上がった料理をちゃぶ台に並べていつもの夕食になった。本当なら今頃楽しくやってたはずなのにな。
 今日は伯父も酒を飲む様子はない。豪華すぎるおかずの数々と箸の音だけが響いていた。誰も口を開こうとしない。張り詰めた緊張感をかき消すように、オレは茶碗のご飯をかき込んだ。
 食事が終わると、コウジはお茶を運んできた。ご馳走は余ってしまったので、ラップをかけて明日のメシにすることにしたようだ。
「それで、何であんなにヒロユキは怒ったんだよ」
 いつもは小憎らしいジジイだが、こんなにションボリする姿は初めてだ。オレの言葉に伯父はしばらく黙っていたが、次第に口を開きだした。
「ヒロユキが怒るのも、当然かもしれん」
 オレもコウジも耳を傾けた。
 影虎先輩というのはヒロユキの二つ年上の空手部の先輩らしい。ヒロユキが入部するまで伯父は、この影虎ってヤツと付き合っていた。だが、付き合い始めて半年もしないうちに、向こうが別の男を好きになり伯父はフラれた。その後でヒロユキが入部してきて、二人は付き合うようになった。だが、影虎はこの前の大会で大敗し涙にほだされて、伯父は昔のよしみで一度だけヤッてしまったという。
「じゃあ、影虎ってヤツとは、付き合ってるわけじゃないんだな?」
「それは違うぞ。ヒロユキが誤解しとるんじゃあ」
 伯父は罰が悪そうに頭をかいている。
 オレはタバコに火を付けた。ヒロユキは若いしマジメだからな。一回ヤッただけでも許さないかもしれないが、伯父の二股ってのは誤解だし。うーん、どうしたらいいんだ?

 すげぇ後味の悪い夜だが、オレとコウジは庭に出て花火を見た。夏の夜空に大輪の華が咲いている。色とりどりの花火が空に鮮やかな色を描く。大玉が打ち上げられると遠くから歓声が聞こえてきた。
 妙なことになっちまったな。伯父とヒロユキの問題に、オレが口を挟むのは微妙な気もするし、放っておくのもどうかと思う。
「伯父さん達のこと、何とかしてあげないとね」
 花火を見上げながらコウジが先に切り出した。
 コイツらしい意見だな。とりあえずオレも迷いを捨てることにした。コウジの言うとおり、仲直りを手伝ってやろう。
「もしさ。もし、オレが浮気したら。お前、どうする?」
 伯父のケンカを肴にするわけじゃないが、コイツがどう思うのか確かめてみたくなった。やっぱり、やきもち妬くんかな?
「ススム君が浮気したら? そうだね……。えーと、んーと」
 コウジは真剣に考え出した。思考回路をフル稼働させている。そのうち、普段は見せない不敵な笑みを浮かべだした。
 おい、何を考えているんだ? コイツのあれやこれやと思いつく様子が、オレを妙に不安にさせた。もしかして浮気とかしたらオレ、殺されるんじゃないか?
 夜空に打ち上げられる花火に照らされながら、オレはコウジの物騒な想像をかき消すようにキスをした。

 次の土曜日、ヒロユキが学校から出てくるのを待ってお茶に誘った。夏の日差しが強い午後、近くの小さな喫茶店に入ると、クーラーがガンガンに効いていた。何かのクラッシック音楽が小さく流れる中でアイスコーヒーが三つ並ぶ。ヒロユキはグラスの氷を黙って見つめているだけだ。
 まずはオレから影虎とかいう先輩と伯父は付き合っていないことを説明した。目の前の相手は黙ってオレの話を聞いている。一発ヤッた部分は話した方がいいか? 今隠しておいて、後でバレたら面倒だしな。
「で。まぁ、ちょっと影虎ってヤツを慰めようとしてだな……」
 オレはストレートな言い方は避けて、やんわりと一回だけ仕方なくヤッたことを話した。
「リュウさんと影虎先輩、ヤッてたんですね」
 ヒロユキは目を落として、暗い声で反応した。
 あ、やっぱりNGだったか。ヤッたことには間違いないが、一度きりだし情に流されたわけで、過ちだと強調してフォローを入れた。
 ヒロユキは冷たいコーヒーを一口運んだ。
「でもヤッたんでしょ? ボク、子供っぽいと思うけど、どうしても我慢できないんだ。リュウさんにはボクだけを見てて欲しかった」
 オレはほんの少しだけヒロユキにイラッときた。若いから仕方ないのかもしれないが、付き合っていれば色々ある。ほんの一回や二回の過ちがそんなに重要なことなのか? オレとコウジだってこの先何があるか分からない。でも、何があってもコイツを信じたいと思っている。
 オレは同じ意見を求めるようにコウジを見た。隣でストローをくわえるコウジは、オレの考えよりヒロユキの心に同調するように頷いていた。
「そうだよね。いくら過ちでも、辛いよね」
 コウジはメガネを光らせてオレの顔を見る。
 何だよ? オレは何にもしてねぇぞ。コウジの頭ん中にはオレが何かやらかした時のシナリオが準備されているようだ。店のクーラーが強すぎじゃねぇのか? 身震いしてくるぞ!
 話が一向にまとまらずに時間だけが過ぎていく。痺れを切らしたヒロユキは荷物を持って立ち上がった。
「今はリュウさんのこと考えたくないので。これで失礼します」
 そう言い残して、店を出て行ってしまった。説得は失敗に終わった。
 こりゃダメかもな? 楽に事が済むとは思ってなかったが、ヒロユキも相当頑固だ。どうすりゃいいんだよ。オレは氷が溶けきったコーヒーを一気に流し込むと伝票を掴んだ。

 街路樹が夕日に染まる帰り道。ヒグラシの鳴く声が遠くから聞こえてくる。後は伯父に任せるしかないだろう。どっちも子供じゃないんだし。オレはこれ以上介入してしまうのが急に面倒になった。
「ただいま」
 返事がないが、玄関には靴があるから伯父も居るみたいだ。茶の間からテレビの音が聞こえる。まだ、落ち込んでるんだろうな。
「伯父さん、ヒロユキに会って……。何だ、寝てんのかよ」
 茶の間のふすまを開けると、伯父はテレビを付けっぱなしで、ちゃぶ台のそばで寝ていた。足をくの字に曲げて腕を放り出した状態で何とも窮屈そうな姿勢だ。まるで正座の状態から横に倒れたような体勢をしていた。
 オレはリモコンを手にするとテレビのチャンネルを変えた。後から茶の間に来たコウジも伯父に声をかける。
「伯父さん。伯父さん?」
 コウジが起こそうとしているが、伯父は目を覚ます気配がない。
「ススム君! 伯父さん、様子がおかしいよ!」
 コウジの声に、鈍感なオレも事の重大性を察知した。リモコンを投げ出して、横たわる伯父に駆け寄った。
「伯父さん! おい、どうしたんだよ!」
 声をかけても反応がない。伯父は眉間にしわを寄せて、口を半開きにして目を閉じている。ちゃぶ台の影で気付かなかったが、手の先には伯父のスマホが転がっていた。
 意識のあるうちに自分で何とかしようとしたのか? このまま伯父さんが逝っちまったらどうすりゃいいんだよ! オレは生きているのか死んでいるのかさえ分からない伯父に、叫ぶように何度も呼び続けた。
 コウジは自分のスマホを取り出すと、一一九番に連絡をした。

 救急車がすぐに到着し、伯父は近くの総合病院へ運ばれた。ストレッチャーで処置室に運ばれると、看護士から家族はここで待てと目の前の扉が閉められた。使用中のランプが転倒し、オレは近くの長いすに座り込んだ。コウジも隣に座って、励ますように背中に手を添えてくれる。
 まさか本当に倒れるとは……。何でそばに居てやることができなかったんだよ! 顔を両手で覆ってタイミングの悪さを恨んだ。
「大丈夫だよ。おじさん、今朝もあんなに元気だったんだから」
 コウジは震える声で、励まそうとしてくれる。
 オレはすがりつくようにコウジの膝に手を置くと、コウジはその手を強く握ってくれた。言い知れぬ不安な気持ちは感情をかき乱し、オレの視界はゆがんだ。
 一時間ほど経った頃、医者から別室に呼ばれた。オレは一人で話を聞く自信がなく、コウジも身内ということで同席させた。医者はレントゲン写真を出して、伯父の身体の状態を説明しはじめた。
「危険な状態です。すぐに手術をしなくてはなりません」
 淡々とした説明が冷たく感じた。
「でも、手術すれば助かるんですよね?」
 オレは少しでも明るい話題が欲しかった。
「年齢が年齢ですから。場合によっては……」
 厳しい言葉が突き刺さる。
 それでも迷っている暇はなかった。即座に同意書にサインを済ませると、処置室から手術室へ運ばれる伯父を見送った。

 後は医者に任せるしかない。オレは人気のない廊下で革貼りの冷たいソファーに腰を下ろした。
 伯父の笑顔やしたり顔、タバコを吹かしながら遠くを見つめる顔が浮かんでは消えてゆく。伯父に振り回されて何度もキレていたのに、今では大切な宝物のように感じている。
 数時間が経っても手術室のランプは消えない。時々、看護士らしき人が出入りをしている。横に座っていたコウジが席を立つと、自販機からコーヒーを買ってきてくれた。
「はい」
「サンキュ」
 オレは冷たい缶を受け取った。缶コーヒーのプルトップを空ける音が廊下に二つ響く。ほろ苦い味を飲み込むと、少しだけ気分が落ち着いた。
「オレさ。お前とこうして一緒に居られることって、伯父のお陰だと思ってるんだ」
 オレの話に、コウジは何も言わず耳を傾けてくれる。
「あの家に一緒に住むことになったのもそうだけど、お前のこと好きなら告白しろって言ったのも、伯父さんなんだよ」
 オレは昔から自分が男好きだって事に何となく後ろめたさを感じていた。会社でコウジに出会ってもその気持ちを誰かに話したりする勇気もなかった。伯父はそんなオレの本心を全部見抜いていて、ある意味オレを解放してくれた気がする。だから本当は感謝しているんだ。
 伯父があの歳で恋愛するのも、エロには活発で破天荒な生きをするのも、ゲイ人生として一つの指針なのかもしれねぇ。伯父の言動に腹を立てたりすることもあったが、もっといろんな事を教えて欲しかった。
 それなのによ。それなのに……。
 オレは途中から声が出なくなった。コウジも話しを聞きながら、頬を濡らしている。無機質な生と死が交錯するこの場所で、しばらくの間沈黙が続いた。ゆっくりと視界が溶けて、まぶたが急に重くなっていった。

「ススム君、終わったみたいだよ」
 どれくらい時間が経っただろう。コウジに起こされて、オレは目を覚ました。手術中のランプが消えていた。
 扉の奥から奥から物音がして、先生が出てきた。オレもコウジも詰め寄るようにして答えを迫った。
「もう大丈夫ですよ」
 執刀した医者はマスクを取ると笑顔を見せた。
「そ、そうですかぁ」
「良かった。良かったね!」
 オレもコウジも、その場で腰を抜かしたように崩れ落ちた。
 伯父は年齢以上の強靭な体力で、危険な手術も切り抜けることができたそうだ。さすが若い男のエキスを吸ってるだけあるよ。あのエロジジイめ!
 散々心配させた張本人は酸素マスクを付けたまま手術室から運び出された。まだ薬で眠っているようだ。窓の外は朝焼けが広がり、もうすぐ朝日が昇ろうとしている。

 九月になった。伯父は順調に回復に向かい、少しずつだが自力で歩けるようになっていた。医者の話では来週あたり退院してもよいと言う。元気になってくると伯父はいつもの勢いで、子供じゃないから看病や見舞いはやめろと強がった。それでもオレとコウジは、時間を見つけては様子を伺いに病院へ通った。
 ある日の夕方、コウジは着替えを持っていくからと会社を早退し、病院へ向かった。オレは定時まで仕事をして後を追った。
 九月とは言っても残暑が続いている。病室のドアは開け放たれていた。伯父のベットのそばに小さなイスを置いてコウジが、こちらに背を向けて座っているのが見えた。
「コウジ君。ススムには内緒で話しておきたいことがあるんじゃ」
 オレは足を止めた。廊下の影で耳をそばだてて様子をうかがった。
「ワシが逝った後は、ススムのこと宜しく頼みたいんじゃ」
「おじさん、来週には退院だから。死ぬなんてことないですよ」
 コウジは伯父の手を握る。
「いや。ワシは歳を取った。何時どうなるか分からんで」
「そんな……」
 コウジの顔の表情は見えないが、たぶん困った顔をしているだろう。
「ススムは馬鹿でどうしようもないんだが、心は真っすぐな男じゃ。きっとコウジ君のことを大切にすると思うから、どうか一緒に連れ添ってやっておくれ」
 コウジの鼻をすする音が聞こえる。
「伯父さん。ボクの方こそススム君のそばに居させて下さい」
 涙声で答えるコウジに、伯父は穏やかな笑顔を見せて、窓の夕日を見つめていた。オレも伯父の言葉にこみ上げてくるものがあった。
「ワシも、後四十年くらいしか生きられんからな……」
 夕日に呟く伯父。オレの中で泣きそうな気持ちがスルスルと引いていく。
 おい、あと四十年も生きるのか? 四十年後って一〇八歳だぞ。何という絶倫ジジイなんだ。それにオレが馬鹿でどうしようもないってのも、癪にさわるじゃねぇか。
 オレは腹立たしさを感じながらも、伯父が本当に一〇八歳まで生きる想像をすると笑いがこみ上げてきた。二人の会話を聞かなかったふりをして、わざとらしく病室へ入っていく。伯父とコウジの内緒話を蒸し返してやるかどうかは、まだ考えている。

最終章 いつもの朝、幸せの予感

 天気の良い土曜日、伯父は退院した。オレと伯父は病院からタクシーに乗って栗の木坂を目指している。
「コウジ君はどうしたんじゃ?」
「ちょっと用事があってな」
 オレは伯父の言葉を軽く受け流す。
 病院へ迎えに来たのがオレ一人だったので、不満なのかもしれない。でも、コウジにはやることがあるのだ。
 栗の木坂のボロ家に到着すると、タクシーを降りた伯父は庭先から古びた家を見上げて目を細めている。オレはトランクから荷物を取り出して、家の中に運んだ。まだコウジは戻ってきていないらしい。
「ススム、風呂に入りたい」
「あいよ。ちょっと待ってろよ」
 オレは伯父を茶の間に残して、風呂を沸かしにいった。湯船に栓をしてお湯を入れる頃に、玄関の戸が開く音がした。
「ただいま。おじさん、戻ってる?」
 お、やっとコウジが帰ってきたな。玄関先から二つの足音が聞こえてくる。ちゃんとアイツを連れてきたようだ。
 オレが茶の間に戻ると、伯父とヒロユキが花火大会の日以来の再会を果たしていた。伯父はヒロユキの顔を見ると、気不味そうに目をそらした。ヒロユキは病み上がりで少しやつれた伯父を見て、目に涙を溜めている。
「リュウさん、ごめんね。ボクが意地っ張りだったよ」
 言葉を振り絞ると、伯父の胸に飛び込んだ。伯父は驚いたように目を開いたが、すぐに目を細める。
「ヒロユキ、ごめんな。ワシが悪かった」
 伯父は最愛のパートナーを強く抱きしめた。
 きっとヒロユキも心細かったんだと思う。伯父が倒れたことは、コウジからすでに伝えられていた。伯父は知らせる必要はないと言ったが、コウジがどうしても納得しなかったのだ。このまま別れてしまったら後味が悪すぎるし、ヒロユキがもっとショックを受けると、自分のことのように涙ながらに訴えた。
 伯父はコウジの気迫に押されて説得を受け入れた。ヒロユキもまた、自分の意固地で好きな人と永遠に別れてしまうかもしれない危うさに気付いたようだ。ヒロユキはすぐに病床の伯父に会いたいと言ったが、それもコウジが退院するまで待つよう諭していた。
 そして今日、仲直りのきっかけとしてヒロユキを連れて来たわけだ。
「リュウさんが居なくなったら、ボクは、ボクは……」
 ヒロユキは抑えていた涙をもう我慢することができず、声を上げて泣いている。
「ヒロユキ。ワシもお前がいないとダメなんじゃ」
 伯父も目を潤ませて天井を見上げていた。
 オレはコウジの手を引いて茶の間から出て行った。
「少し二人だけにしてやろうぜ」
「うん。おじさん、良かったね」
 コウジは穏やかな笑顔をしていた。その笑顔を見ているだけでも、オレは自然と表情が緩んでくる。
「なあ、コウジ」
「ん、なぁに?」
 オレはそっとコウジの肩に腕を回して体を引き寄せた。
「ありがとな」
 茶の間で熱愛中の伯父達に負けたくねぇ対抗心も手伝って、オレはコウジにキスをした。

 翌年の春――。
 栗の木坂にも桜の花が咲いている。二階の窓を開けると、春風に乗って花びらが舞っていた。今日は何かいいことがありそうだ。庭先に目線を落とせば、ヒロユキが今朝も朝稽古をしている。アイツも伯父と仲直りしてから、栗の木坂の家の一員になったのだ。
「ススムさん、おはよう!」
 ヒロユキがオレに気付いて挨拶をする。オレは手を振って返事をした。
 茶の間に下りていくと、伯父が大あくびをしながら新聞を読んでいる。
「伯父さん。若いのが朝から稽古してんのに、師匠は何もしなくていいのか?」
 オレは皮肉交じりに声をかけた。
「ふん。お前らが上でドタバタやっとったから、寝れんかったんじゃ。ヤるならもっと静かにヤらんかい」
 伯父は新聞をたたむと、不満そうにオレを睨みつける。
 やべえ、やっぱりバレてたか。昨日は一週間ぶりだったからつい激しくヤッちまったんだ。オレはちゃぶ台に置かれた新聞を手にすると、ニガ笑いを隠すように大きく広げた。
「ススム君、おはよう。ご飯にするから新聞たたんでね」
 コウジはネクタイ姿にエプロンをして、笑顔で味噌汁の鍋を運んできた。
「コウジさん、ごめーん。間に合わないからご飯いらないや」
 ヒロユキは庭から戻ると、慌てて自分の部屋に飛び込んでいく。
「ヒロユキ君、お味噌汁だけでも飲んでって!」
 コウジは湯気が立つお椀を手に、ヒロユキを追いかける。
「コウジ君、醤油を持ってきておくれ」
「おい、それくらい自分で取ってこいよ!」
 ちゃぶ台から動こうとしない伯父を一喝すると、オレは今日も美味いメシに箸を入れる。
 テレビドラマみたいな茶の間の一場面。ちょっと違うのは、みんな男で、お互い男好きなだけ。特別なことは何もねぇけど、こんな朝の風景が、かけがえのない毎日ってやつなのかもな。
「ススム君、今朝は三十分早く会社に行くんじゃなかった?」
「あ、やべぇ!」
 コウジの言葉に、オレは柱の時計を見た。

 賑やかな茶の間から廊下を挟んだところに伯父の部屋がある。その部屋にある古いタンスの引き出しの奥。伯父が皆に内緒で書いた手紙がある。まだ、オレもコウジも、ヒロユキだって手紙の存在は知らない。
 いつかオレ達は、この手紙を読む時がくる。でも、この手紙を見つけるのは、まだまだずーっと先のことだけどな!

引き出しの中の手紙

 ワシが死んだ後は、この家、財産の全てをお前達にやる。万が一の時には顧問弁護士に任せているので連絡するように。できることなら、この家にこれからも皆で一緒に暮らし、お互い助け合って生きて欲しい。この家が明るく賑やかになれば、上の世界でもワシは安心じゃ。

ススム
 コウジ君を大切にしろ。お前にはもったいないくらいの恋女房じゃ。辛いときには素直にコウジ君に甘えろ。

コウジ君
 ススムはこれからもコウジ君を真っ直ぐに想い続けるじゃろう。これから大変なこともあるじゃろうが、二人で手を取り合って乗り切って欲しい。
 ごはん、毎日美味しかった。ありがとう。

追伸
 ヒロユキに宛てた手紙を同封する。コウジ君からヒロユキに渡して欲しい。ススムの馬鹿には決して見せないように。

栗の木坂の山下家

  「四月の雨」の初稿を書いて以来、数年ぶりに書いた作品です。それまでの恋に向き合う叙情的な物語とは違ったテイストで、新しい物語を書いてみようと思い執筆を始めました。その際、初めてエロいシーンを書いてみようと決めていました。
 物語の舞台として、坂の上にある日本家屋が思い浮かびました。絵に描いたような情緒たっぷりの家です。その家で年配の男(竜一郎)と若い男(ススム)が家族のように暮らしているという設定を思い描いたのが始まりでした。さらに、コウジやヒロユキも加わって、四人のゲイが織り成す山下家を作り上げていきました。
 四人の世界にはコミカルな情景ばかり思いつきました。ドラマ全盛期の頃のコメディような世界に四人を当てはめたらどうなるかと思いストーリーを練りました。ドタバタな状況から始まり、ススムの片思い、コウジとの初エッチ、竜一郎とヒロユキの喧嘩などプロットがどんどん出来ていきました。
 物語の最後の展開は、いくつかのパターンを考えていました。ススムとコウジの危機や、竜一郎の死なども考えていたのです。最終的には、ススムが竜一郎をゲイの先輩として、家族として感謝するという内容に落ち着き、書き上げてみると本当にホームコメディになってしまいました。とゲイ同士が一つ屋根の下で暮らしていく面での心情や背景については描ききれなかったですが、個人的には山下家の面々は気に入っています。
 結局、エロ描写は添え物的な存在になってしまいましたが、二人のカラミや他人のセックスを覗く、タイプの男を視姦するなど、表現手法はよいチャレンジだったと思います。改めて、文字だけで読み手の気持ちを高揚させることの難しさを実感しています。
 さて、「栗の木坂の山下家」は続編を書こうと思っています。本作品はプロローグのようなもの。続編はどんな物語にするかは思案中です。
 この作品は二〇一六年四月に執筆し、同時期に小説投稿サイト「星空文庫」等で発表したものを、訂正、加筆を重ねて最終完成版としました。
 最後までお読み下さり、ありがとうございます。

二〇一七年六月

栗の木坂の山下家

オッス!オレ、山下ススム。24歳、社会人2年目のリーマンだ! ひょんな事から、栗の木坂に住む68歳の竜一郎伯父さんと一緒に暮らすことになっちまった。 今までノンケと思ってた伯父さんも実はお仲間と分かって、何だか妙な生活に閉口状態。 会社の同僚コウジに片想いを抱きつつ、オレには明日がやってくるのか!? 笑いあり、涙あり、エロもある、ホームドラマなR-18ゲイ小説です。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • コメディ
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2016-04-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一章 覗いて始まる、新生活!
  2. 第二章 ツレないアイツが、お気に入り
  3. 第三章 毎日食いたい、アイツの手料理
  4. 第四章 梅酒の味が、恋を動かす
  5. 第五章 ふたりのケンカ、大切な家族と気づく日
  6. 最終章 いつもの朝、幸せの予感
  7. 引き出しの中の手紙