春の日
「桜の樹の下には、死体が埋まってる」
桜並木の道の途中で、先を歩く彼女がふとそう口にした。空中に透明の文字でそう書いてあるのを見つけたような言い方だった。
「って、なんの言葉だっけ?」
彼女は頭だけ振り向いて僕に訊ねた。後ろで組んだ痩せた手が綺麗だった。ワンピースの袖口をたくさん余らせて伸びた腕はとても細くて、少しでも圧力が加われば簡単に折れてしまいそうだ。
桜は左側の土手沿いに、ずらっと一列になってカーブの奥の方まで並んでいる。まるで合わせ鏡を覗き込んでいるようだと僕は思った。桜の木の幹はとても太くて、苔むしていて、ところどころに砂糖を塗り固めたような真っ白い斑点があった。僕は何気なく左手を伸ばして幹の表面に触れてみた。見た目通りざらざらしていて、頼もしい硬さがあって、なんだか懐かしい気持ちになった。自然の木に触ったのはとても久しぶりかもしれない。
溝の中から一匹の蟻が出てきて手の甲を這い、腕の方に上がってきた。僕はしばらく何もしないで蟻を見守った後、右手の中指で草むらに撥ね飛ばした。不幸なことに、飛んでいった蟻は茂みの間の蜘蛛の巣にちょうど引っかかって、すかさず寄ってきた虎模様の蜘蛛によって糸でぐるぐる巻きにされてしまった。蜘蛛は食糧の確保が済むとすぐに巣の中心に戻って、次の獲物をじっと待ち構えていた。
「昔の小説だよ」
言いながら、土手の下を見降ろした。たくさんの石がころがっていて、その向こうには幅の広い川が流れている。川の向こうはいくつもの大きな岩が壁を作っていて、その上には木々が生い茂り、山になっている。木は川に向かって倒れ掛かるように伸びていて、木陰の水はとても暗い。もしもあんな目立たないところで溺れたりでもしたら、きっと誰にも見つけてもらえないだろう。
そういえば昔、ちょうどこんな川で溺れたことがあった。小学校に入ったばかりの頃で、僕は一人で浮き輪に腕をかけたまま川を漂っていた。そのうち足の届かない深いところまで流れてしまって、何かの拍子で浮き輪から全身がすっぽり抜けてしまった。小さな頃から泳ぎは得意なはずだったのに、その時はなにもできなかった。大量の水が一度に肺に入り込んできて、あっという間にパニックになった。
緑色に濁った暗い水中と、水面にゆらめく陽の光が見えたのを最後に、僕は完全に意識を失った。そのあと一体どうなったのかは覚えていない。丸っきり記憶にないのだ。だけど今こうして生きているということは、きっと誰かが気がついて助けてくれたんだと思う。
もしもそうでなければ僕はあのとき溺れ死んでしまって、今ここにいる自分はまったく別の誰かということになるのだろうか。考えてみれば、あれ以前の幼い時期のことがなに一つ思い出せなくて少し不安になる。幼稚園のことも、小学校の入学式のことも、母親に聞かされただけの客観的な事実でしかない。とはいえ、溺れた直前の記憶があるということは、おそらく僕は僕で間違いないはずだと思う。
川の木陰に、小さな子どもの白い背中が浮かんでいるのが見えた。
どきっとしてよく見てみたら、それはただの丸っこい岩だった。
「誰の小説?」
彼女が桜を見上げて歩きながら訊いた。麦わら帽子のつばが大きくて目元が陰になっている。帽子に巻かれた青い色のリボンと、花柄の青いワンピースがとてもよく似合っていた。桃色の花びらがいっぱいに落ちた地面の上だと、彼女の澄んだ青色はいっそう涼しげに見える。よく晴れた今日の空と同じ色だ。
「誰だっけ」
山の方からうぐいすの鳴き声が聞こえてきたけれど、なんだかぎこちない。もう春も真っ盛りのこの時期なのに、いまだに仕上がっていないようだ。落ちこぼれのうぐいすのことを考えると色々と嫌な思い出が蘇るような気がしたので、あまり考えないようにした。
「忘れちゃった」
「そっか」
彼女はずっと上を向いて、何かを考えているように見える。だけど少し見方を変えれば、何も考えていないようにも見える。そもそも多くの人は、考え事をするときは下を向くものだ。彼女がよく上を向いているのは何も考えていないからなのか、それとも彼女の独特の考えるポーズなのか、そのどちらかは僕には分かりかねた。
「桜の樹の下には、死体が埋まってるの?」
やがて彼女はそう訊いた。やっぱりずっとそれを考えていたらしい。上を向いてものを考える人はどことなく不思議に見える。
「ものの例えだよ」
少し笑いながら僕はそう言った。そうでなきゃ困る。もしも本当に死体が埋まっているとしたら、この桜並木の道は墓場同然だ。桜の根っこに栄養を吸われてしおしおになったミイラの上なんて歩きたくない。
「どういう例えなの?」
「それは、よくわからないけど」
ふーんと鼻唄のような返事をして、彼女は再び上を向いて桜の花を眺めた。隣の畑を通り抜けた春の風を吸い込むと、かすかに心がざわついた。腐ったキャベツやトマトの混ざった臭いが、まるで死臭のように思えたからかもしれない。死という言葉を意識すると、色々なことが思い出される。
──高校の同窓会に行った帰りの出来事だった。今から半年くらい前のことだから、そう昔じゃない。同窓会にはただ「向かった」だけで、出席はしなかった。会場の前まで行ってちょっと様子を窺った後、誰にも会わないように立ち去った。別に高校時代にいじめにあっていたとか、何か取り立てて後ろめたいことがあったわけでもない。ただ、大人になった級友たちにあえて会う必要はない気がしたし、それで得られるものよりは損なわれる何かの方が大きいと思っただけだ。それはもしかすれば、ある種の恐れだったのかもしれない。だけどその恐れは、なんとなく暗い路地を避けて通ったり、消費期限の切れていそうな生菓子を食べずに捨てることと何も変わらないものだと思う。
何も変わらないはずだ、と心の中で唱えた。会場を後にして煌びやかな夜の街中を歩き、同い年くらいに見える会社員の団体や綺麗に着飾った女の子達を尻目にしながら駅の改札を通るまで繰り返し唱えた。
階段を上がってホームに出たとき、端の方にコート姿の女性が立っているのが見えた。普段から人の少ない駅で、僕らの他にはグリーンのヘッドフォンを着けて携帯に目を落とした中学生くらいの女の子と、向かいのホームに頭の禿げたサラリーマン風の男がコウモリ傘を杖にして一人立っているだけだった。ホームは広さのわりに照明が少なくて、明かりの真下でなければ雑誌もまともに読むことができない。僕は二車両分ほど離れたところに立って、自販機で買った缶コーヒーをぎこちなく飲みながら彼女の方に目を向けた。
明かりから外れた彼女の姿はほとんど暗闇に溶け込んでいる。青白い月の光だけがその柔らかな輪郭をわずかに光らせていた。
バッグやキャリーケースなどは何も持っていなくて、完全に手ぶらだった。彼女はずっと下に目を落として一点を凝視しているようだった。見つめる先には冷たい線路があるだけだ。前髪が垂れ下がっているせいで目元はまったく見えない。
よく見ると、体がゆっくり前後に揺れていた。顔を俯けたまま、前へ後ろへと上半身がゆらゆら動いている。揺れ幅は始めは小さかったけど、動くたびに少しずつ大きくなっていった。まるで水飲み鳥の玩具のように規則的な動きだった。体が前に動くたびに両足の踵がそろって浮かされ、後ろに戻ると同時に地面に付く。眠いのだろうかと思って見ていたら、どうやらそういうわけでもないらしく、自発的な動作みたいだ。
妙な光景を目にしてしまった僕は周りの反応を窺ってみたものの、ヘッドフォンの女の子は相変わらず携帯に目をやっているし、向かいのホームの男はベンチに座って呑気に肩を叩いていた。誰もあの小さな異常には気がついていないのだ。
やがて下りの電車が向こうからやってきた。前照灯の強い光は遠くからでもまぶしいほどで、今まで夜暗に紛れていた彼女の姿もそのときはっきりと浮かび上がった。電車が来ていることに気づくと、彼女は揺れるのをやめた。そして一度、体ごと回転してぐるりと周囲を見回し、こちらと目が合うと謝るように会釈してかすかに微笑んだ。それからすぐに目を伏せた冷たい表情に変わって、点字ブロックの内側に足を踏み出し、そのまま電車が迫るのに合わせて迷わず線路へと歩き出した。ヘッドフォンの女の子が何かを察したように短く叫び声を上げた。
僕は走って彼女の手を掴み、腕を引き寄せた。電車は彼女の後ろ髪を掠ってホームに入ってきた。まさに間一髪だ。
握った手はあまりにも細っそりしていて、氷のように冷たかった。僕はそんなにも冷たい人の手を握ったことはなかったから、素直に驚いた。
「冷え性なんです」
伏し目がちにそう呟くと、彼女は胸の前で自分の手をさすり始めた。僕はその手を取って体温を分けた。──
あの時に比べると、今の彼女は別人同然に朗らかに見える。小鳥やリスを手のひらに乗せて一緒に歌い始めてもおかしくないくらいだ。だけど、なぜだろう。
なにかが欠けてしまっているような気がする。或いはそれは僕の思い過ごしかもしれないけれど、もしも本当にそうだとしたなら、それはあまりにも決定的な「なにか」であることに違いない。
彼女が死のうとしていた理由は今日の今日まで聞いていない。あの時すぐに聞けばよかったのに、なんとなく気を遣って訊かなかった。そのせいでずっとタイミングを掴めないままでいる。
「こんにちは」
彼女の挨拶が聞こえる。顔を上げると、白髪のお団子頭のおばあさんがいた。茶色と紫を混ぜたような布を一枚肩にまとって、手押し車に体重を預けている。おばあさんはよく顔に馴染んだ笑顔でこんにちはと挨拶をした。僕もおばあさんに挨拶をした。
おばあさんは手押し車を押しながらにこやかにすれちがって、ゆっくりと去っていった。
僕たちはその後ろ姿をしばらく見つめていた。
「そう、檸檬の人だ」
思い出した拍子に口にすると、彼女は再び背中で手を組んでこちらを振り向いた。
「レモン?」
「檸檬っていう小説。桜の樹の下に、って言ったのもたしかその人だよ」
彼女は桜を見上げながら、レモン……と繰り返し呟いた。春の風は相変わらず、大きな畑の熟れすぎた果実の臭いを孕んでいた。彼女はやがて口に手をやり、あっ、と言った。
「それ、知ってるかも」
「檸檬?」
「そう。昔読んだことあるの。主人公の奥さんが入院してて、主人公はその奥さんにレモンを一つあげるの。それから、奥さんがそれをかじる」
「レモン丸ごと?」
「そう」
そんな話だったろうか。僕もいまいち記憶に自信がないけど、レモンを丸かじりする場面なんてあったように思えない。それに、女性自体出てこなかったはずだ。
「それから、どうなるの?」
「それから……忘れちゃった。それにもしかしたら、小説じゃなくて詩だった気もする」
「たぶんそうだよ」
ここまでかなりの距離を歩いたのに、桜は一向に途絶える気配がない。本当に合わせ鏡の中みたいだ。だけど不思議なことに、いくら眺めても飽きることはなかった。むしろ眺めれば眺めるほど、桃色の花に意識が惹き寄せられて頭がぼんやりとしてくる。気が変になるのも無理はない。
彼女の麦わら帽のつばに、桜の花びらが一つ乗っかっていた。いつ落ちるだろうと思って見ていたら、それはいっこうに動く気配もなかった。
花びらのことを言おうとしたら、彼女が急に走り出した。花びらはその場にひらひら舞い落ちて、彼女は二十メートルほど離れたところであっさり息を切らして立ち止まった。膝に手を当てて呼吸を繰り返しながら、こちらを向いて大きく手を振っている。僕は手を振り返しながら歩いてその場に向かった。畑から漂う風の臭いに鼻の奥がつんとした。
彼女が体を前後に揺らしていたのはあの時だけではなかった。あれからもう一度だけ、まったく同じ行動を見たことがある。
それは僕がアルバイトで働いていた、個人経営の喫茶店であったことだった。その喫茶店はマスターが重い病気で倒れたことにより一ヶ月前に潰れてしまって、僕も失職を余儀なくされた。近所では昔から親しまれていた店だったから、閉店を惜しむ人も少なくなかった。
僕がその店で働きだしたのはけっこう昔のことで、高校三年の夏からだった。今からだいたい三年前になる。僕はもともと中学の頃からその店の常連客で、マスターにもたびたびバイトの勧誘を受けていた。客として訪れていた店で働くのはいまいち乗り気じゃなかったけれど、遊ぶお金が欲しくなったときに他に良いバイト先が思いつけず、結局そこで働くことになった。もちろん受験生だったけど、大した弊害にはならないだろうという妙な自信があった。
バイトは固定制で、僕の他にも四人の従業員がいた。そのうちの二人には週二回のバイトでそれぞれ顔を合わせていたので、始めの頃から仲が良かった。二人とも男だった。あとの二人は一人が男で、もう一人が女の子だ。上下関係はほとんどなくて、みんなマスターの下で働く弟子みたいな存在だった。
一度の時間帯に入る従業員の数は二人で、マスターを入れれば三人になる。僕は水曜と金曜にそれぞれ五時間ほど働き、そこそこ良い収入を貰った。大学に入ってからは暇が出来たから、月曜にも働いて週三回になった。実際のところ、一度に二人も必要なほど仕事が多いわけでもなかったけど、そこはマスターの気の利いた計らいだったんだろうと思う。仕事がなくて暇な時には二人で会話をしていればよかったから、そういう意味ではとても助かった。
駅の件があってから彼女と付き合うことになり、外出する機会も出費も増えた。彼女はそれほど物欲の激しい性格ではなかったけれど、なにかを買ってあげなければいけないような気にさせる雰囲気を持っていた。人並み以上の幸福がなければ駄目になってしまうような気がして、僕は服や小物や甘い物なんかをたくさん買った。勝手な思い込みなのかもしれないけど、少なくとも僕はそうすることでひと安心できた。お金が足りなくなったので土曜日にも仕事を入れてもらい、週四回になった。働く曜日が増えただけ会える時間も少なくなり、そのことについて彼女はよく不満を洩らしていた。
土曜日の仕事で組んだのは、僕より一つ年下の女の子だった。モンブランのような色の短くて丸っこい髪の毛と、丸っこい顔が印象的だった。とても真面目な性格で、僕みたいになじみの喫茶店だからといって適当に掃除を済ませたりということは絶対にしなかった。僕が仕事をさぼっていればはっきりと注意してくれたけど、その後すぐにごめんなさいと謝ってしまうのでいまいち迫力はなかった。
女の子はマスターが倒れて店が潰れた一週間くらいの後に、アパートの火事で死んでしまった。原因はガスコンロの不始末だったと新聞には載っていた。他に巻き添えになった住人はおらず、火は彼女の部屋だけで消し止められたらしい。
あの子は最後に何を思ったのだろう?
今となっては誰にもわからない。
「何もすることがないときには、どうすればいいんでしょう?」
土曜に働き出した一番初めの日、ランチタイムが過ぎてがらんと空いた店の中で、彼女はふとそう口にした。マスターが自分で淹れたコーヒーを啜りながら笑っていたのをよく覚えている。渋い笑い方だった。
「いつもはどうしてるの?」
「お客さんを待っています」
真顔の答えに僕も思わず笑いそうになりながらも、寸でのところで押さえ込んだ。
「暇な時にこうやって話をするのも仕事のうちだよ」
「そうなんですか?」
いきなり質問されたマスターはコーヒーを喉につまらせてちょっとむせた後、威厳を持ち直してうんうんと頷いた。
「その通り」
「じゃあ、話しましょう」
それから彼女は暇な時間になると、大学や日常生活のことについて話してくれた。保育士の資格を取るために短大に通っていること、一人暮らしのこと、映画を観るのが好きで、特に『レオン』が大好きなこと──あまりたくさん話した覚えもないのに、彼女から聞いた話は思い出してみれば幾つもあった。僕がちょっとした冗談を言うと、彼女はよく笑ってくれた。真面目な人ほど笑いのツボは浅いものだ。
季節は秋の終わりから冬に入り、温かいコーヒーやストーブを求めて喫茶店に来る人も多くなった。ランチタイムには特に営業職のサラリーマンや常連のご老人や近所の主婦などでいっぱいになった。僕が一組を相手している間に、彼女は二組の注文を聞いてマスターに伝えた。僕の方が入って長いにもかかわらず、その仕事ぶりには到底敵わなかった。
「あんまり無理しなくていいよ。のんびりやろう」
「無理なんかしてませんよ。私が全部やるから、休んでいてもいいんですよ」
「本当?じゃあ休もうかな」
彼女は楽しそうに笑いながらカウンターに向かい、オムレツとコーヒーをマスターから受け取った。僕も笑って次のテーブルに向かった。
その時、そこに座っていたのが「彼女」だった。テーブルの上の花瓶に挿された白いスイセンの花をじっと見つめながら、小さく体を揺らしていた。僕は一瞬呆気に取られた後、すぐに笑顔を作った。
「いらっしゃいませ」
声を掛けると、彼女は顔を上げてこちらを見た。それから数秒の間、何も言わずにじっと僕の目を見つめた。
僕は彼女の茶色がかった大きな瞳の奥に吸い込まれそうになるのを感じていた。周りの音は遠くにくぐもって聞こえて、自分がウェイターであることも危うく忘れそうになった。とてつもなく長い数秒間だった。
「あったかいコーヒー、ください」
彼女はそっと微笑んでそう注文した。僕はかしこまりましたと応えてカウンターに向かった。少しおどけようとしたけど、なぜか出来なかった。
コーヒーを持ってテーブルに戻ったときも、彼女の体は前後に揺れていた。さっきよりもわずかに幅が広くなっていた。
「大丈夫?」
カップを置きながら言うと、彼女は不思議そうにこちらを見た。
「大丈夫だよ。どうして?」
「いや……」
それから先は何と言えばいいのか見当がつかなかった。彼女の変わった仕草については、直接口にしてはいけないような気がして仕方なかった。それは今でも変わらない。
彼女がコーヒーにシュガーを三つ入れて一口飲んだ。それから短く息をついた。
「お店に来るの、久し振りだね」
「うん。一人で寂しかったから来ちゃった」
手に持ったコーヒーが振動で溢れるんじゃないかと心配になったけど、揺れは少しずつ小さくなり、やがて治った。
「それじゃあ、他のテーブルも回らなきゃ」
「うん」
それから彼女は僕の仕事が終わる午後六時までずっとその席に座っていた。最初のコーヒーを飲み終わってからは何も注文せずに、虚ろな眼差しで窓の外を眺めたり、僕らの仕事ぶりをじっと見つめていたりした。お店の視察に来た経営責任者か何かみたいで、なんだか必要以上に緊張してしまった。
「変わったお客だな」
マスターの耳打ちに、僕はぎこちなく笑って誤魔化すしかなかった。
仕事が終わり、後片付けをして外に出ると、店の前で彼女が待っていた。片手を上げてこちらに笑いかけてから、僕の手を握って歩き出した。一昨日買った革の手袋をはめていた。
冬の午後六時は陽もほとんど沈んで、帰り道は薄暗かった。夜暗に覆われるベージュのコートを見ていると、駅の出来事を思い出さずにはいられなかった。あの時の光景はまるで深夜のテレビで見たコマーシャルみたいに、たびたび僕の頭の中にフラッシュバックしてくる。時には僕が彼女の手を取って助け、また時には間に合わずに大量の血飛沫を浴びるイメージが思い浮かんだ。さらには僕が彼女を線路に突き飛ばす夢を見たり、その逆のときもあった。どうしてそんな映像が思い浮かぶのか、僕にはさっぱり理由がわからなかった。あのことを考えるたびに心臓がどきどきして、胸の辺りの神経が妙に痛み出す。
そういう意味じゃあ、暗いところで彼女といるのは精神的にあんまりよくない。もちろんそんなことでは仕方がないから、僕も早いところ忘れる努力をする必要があると思う。
「手袋、すごくあったかい」
彼女はそう言って笑いかけた。僕にはそれが、笑顔によく似たまったく別の表情のように思えた。白い蛍光灯に照らされた顔色が酷くくすんで見える。
「本当?それはよかった」
それは自分の声とは思えないくらい弱々しい返事だった。僕は誰にも聞こえないくらい小さな声で、同じ言葉を繰り返した。
「それはよかった」──
桜並木の道の先に現れたのは、古い小さなトンネルだった。入口の周りは蔓にびっしり覆われていて、まるで血管の束みたいだ。蔓はトンネルの中にまで伝っていて、完全にそれを自然の一部に取り込んでしまっている。すぐ先には出口の光が見えて、桜の花びらが積もる地面と、大木と呼ぶのに相応しい立派な木の幹が足下だけ覗いていた。
「すごい」
感嘆の声を洩らすや否や、彼女はトンネルの中を駆け抜けていった。向こう側に出ると目の前の樹を見上げて「わあ」と驚き、すぐに振り返ってこちらに両手を振った。
「本当にすっごいよ」
トンネルの向こうから吹く風にいやな臭いはなく、春らしい爽やかな木の香りがした。だけど胸のざわつきだけは一向に止む気配がなかった。むしろ、さっきよりも増しているようにすら思えた。余計なことをあれこれ考えすぎたからかもしれない。僕は目を閉じて緩々とかぶりを振りながら、トンネルの中に足を踏み入れた。
次に目を開いたとき、木漏れ日の中に彼女の姿はなかった。
大きな桜の樹の幹と、空中に舞う花びらだけがそこにあった。僕はいくらかぞっとして立ち止まり、どうしてか背後を振り向いた。当然、そこにも誰もいなかった。悪い夢でも見ているのか、さもなければ神隠しのどちらかかと僕は思った。
結果はどちらでもなかった。再び前に向き直ったとき、彼女は両手を真横に広げて桜を見上げながら、幹の裏側から歩いて出てきた。僕はほっと胸を撫で下ろしてそこに向かった。
トンネルを抜けるとすぐに、とてつもなく大きな桜の樹冠に目が奪われた。空がほとんど見えないくらい、鮮やかに色づいた無数の花々が一斉に咲き誇っている。そこからたくさんの花びらが舞い落ちて、目の前まで迫ってきて地面に積もっていく。幹に触れてみると、それは今まで触ったことのあるどんな樹よりもがっしりしていて力強かった。
「すごい」
僕は心からそう言った。
周りを見渡すと切り立った崖が丸くこの場所を囲っていて、桜の樹の他にはいくらか背の高い野草がところどころに群生しているだけだった。備え付けられたような平らな岩がひとつあって、彼女はその上に体育座りのような格好で腰掛けていた。風になびく後ろ髪と空色のワンピース以外は微動だにせず、愛おしそうな目で桜を眺めていた。
ただ静かに、ただ眺めていた。
それでも僕は相変わらず、その目の奥に仄暗い色が宿ってはいないかと窺ったり、些細な様子の変化を気にしたりするのを止めることができなかった。
そして僕は彼女のワンピースの袖が風になびいたときに一瞬だけ、その白い腕の一部がまるで火傷の痕のように変色しているのを見つけて、歩み寄って尋ねた。
「左腕、どうしたの」
「腕?」
彼女は小首を傾げて自分の腕を確かめ、そこに桃色の花びらが一枚張り付いているのを見つけると、笑ってそれをつまみ取った。
「水に濡れてくっついてたみたい」
僕は何も言えずにそれをじっと見つめていた。
湿った花びらは色づきも濃くて、とてもきれいだった。
「どうしたの?」
今度は彼女の方が尋ねた。僕は彼女が何を聞きたいのか分かっていながら、あえてとぼけようとした。
「どうって?」
「なんだか、ずっと何かを怖がってるみたい」
麦わら帽子の下から僕を見据えたその目は、とてもまっすぐだった。どう見たって一片の曇りもない、純真な眼差しとしか言いようがない。
「……大丈夫?」
僕は困って目を逸らし、桜を眺めるふりをした。トンネルから吹いた風が巻き上がって、桜の枝をゆったりと揺らし、多くの花びらを落とした。その様は本当に、信じ難いくらいに美しかった。昔の人があんな風に言いたくなったのも無理はない。
「桜の樹の下に、死体が埋まってる気がしたんだよ」
「それで、怯えてたの?」
「そう」
彼女はおかしそうにくすくすと笑いながら立ち上がり、堪えるのもやめて声を上げて笑った。
「ものの例えでしょ?」
「ああ」
花びらと一緒に舞う彼女の姿を見て、僕は少しだけ笑った。そして爽やかな春の空気を胸いっぱいに吸い込んで、その後を追いかけた。
「ものの例えだよ」
春の日