ホリスティックなバカ

ホリスティックなバカ

ホリスティックなバカ

ペリエしゅわしゅわ

前書き

第1話 白いポルシェの助手席

第2話 テールスープにうってつけの朝

第3話 深夜のコインパーキング

第4話 ミホコさん、バリへ発つ!

第5話 寝たふりの彼女

第6話 ミニスカートの限界

第7話 私がおばぁちゃんになっても

第8話 エニグマチックな彼女

第9話 恋の終わり

第10話 お気に入りのキャミソール

第11話 エレベーターピッチ

前書き

 これは3年前、僕がミホコさんにずぶずぶに恋をしていた時の話だ。

 ある小説家が「小説を書くことは自己療養へのささやかな試みである」と言っていた。けれど僕にとってこの小説を書くことは、そのような試みとは少し違ったものになりそうだ。あるいは、真逆と言えるものになるのかもしれない。

それは治りかけたカサブタをはがすことに似ている。
 膝なんかを擦りむいたときにできるあのカサブタだ。乾燥して少しだけ浮いてきたカサブタをつまみあげて、傷の輪郭に沿ってジワリジワリと剥がしていく。捲られていくカサブタの下にはすでに新しい皮膚が再生し始めている。しかし、その境界線をわずかに超えたところまでカサブタを引き剥がしてしまうと、そこからは薄ピンク色の傷口があらわになる。少し血が混じって赤と透明のマーブル模様になった体液が滲み出す。そこにはチクリとした痛みとむず痒いような快感がある。
 ペリペリペリとカサブタを傷口に沿そって、さらに引き剥がしていく。膝小僧全体の4分の1くらいを占める大きさのその楕円形のカサブタは、ぐるりとひとまわり剥がしてしまうと、まるで干上がった湖のようになってしまう。

 何度かの崩壊と再生を繰り返すと、カサブタの下には新しい皮膚が完全にできあがる。そうすれば、僕たちはそこに傷があったことなんていつのまにか忘れてしまうのだ。

第1話 白いポルシェの助手席

「私は、恋をしたいの」とミホコさんは言った。挑戦的でエロティックな目つきだと思った。
 隣で一緒に話を聞いていた杭瀬さんが楽しそうに笑いながらこう付け加える。
「青木さん、ご存知ですか? 福島さんってご結婚されてるんですよ! なのに、いつもこんなこと言ってるんです」
 福島美穂子さんのことは、昨年度から今の事業部に移ってきて以来、何度かフロアで見かけたことがあった。きれいな人だなと目には留めていた。ナポレオンみたいな口髭を生やした熊みたいに大きなフランス人の事業部長が彼女にデレデレしているのも何度か見かけたことがある。
 よく日焼けをした背の低い男が僕たちの前を通りかかって、からかうようにミホコさんに声をかけた。
「若い男の子ナンパしちゃだめだよー」
 何かのスポーツをしているのかよくトレーニングをしているのだろう男の背筋はピンと伸び、胸板は厚く、腕は太い。タイトなスーツをはち切れんばかりに着こなしている。この人もフロアですれ違ったのか、何かの会議で同席したのか、顔を見たことがある。どこかの部門の課長だっただろうか。
「やめてくださいよぉ。大石さんとは違って私はそんなことしませんからっ!」
 ミホコさんは相手を試すような上目づかいで大石と呼ばれた男を睨んでいる。口角がしっかりと上がっているせいかとてもいたずらっぽい表情に見える。僕はなんだかそこにいるのが場違いなような気がして、飲み物でも取りに行くふりをしてその場を離れた。
 カクテルバーには本格的なリキュールが数多く並べてあった。普段は飲まないようなものを試してみたい衝動が沸いたが、やめておいた。会社のイベントであまりはしゃぎたくはないと思ったのだ。新しいビールをもらい、あらためてグラスを片手にフロアを見渡す。事業部で恒例となっている6月の年度末パーティーのために貸し切られたホテルの宴会場には、80名ほどの社員がいる。みな普段よりも少しだけ着飾って、蝶ネクタイをつけていたり、タキシードや派手なドレスを着ていたりと、外資系の化粧品メーカーらしいとても華やかな雰囲気がある。宴会場の壁沿いには、チーズやハム、サンドイッチ、ステーキ、果物やケーキまで様々な食事を出す屋台が並んでいる。
 ぱっと目につく仲のいい同僚達はすでにそれぞれのブランドチームでテーブルを囲んでいた。そのどれかに入っていくのはどうにも気が引けた。知らない人が多すぎる。とはいっても、ふらふらと一人でいるのも落ち着かないので、もとのテーブルに戻ると、赤ら顔の杭瀬さんがアルコールのせいか熱のこもった口調で僕に質問してくる。
「青木さんってどんな人がタイプなんですか?」
 急な質問に驚いたが、どうやら杭瀬さんとミホコさんの間で先からそのような話題が交わされていたらしい。
「タイプって言われも、これって答えるの難しいですよ。そういう杭瀬さんにはこういう人がタイプってあるんですか?」
「私は仕事が恋人です!」
 杭瀬さんは国内の老舗化粧品メーカーから数年前に転職してきた30代前半の女性だ。いわゆる頑張り屋さんという言葉がぴったりの女性で、彼女が僕と同じチームに配属された当初から、その小さくてふっくらした体で各部署の人達のデスクを積極的に飛び回って、仕事をどんどんと覚えようとしている姿が圧倒的で、僕は勝手に「ミツバチハッチさん」などとあだ名をつけて、それを面白がっていた。杭瀬さんも杭瀬さんで、そんなつまらない僕の冗談に付き合ってくれた。
「私、青木さんみたいなスポーツマンで仕事もできる男性だったらモテモテだと思いますよ」
 うまくやっかいな質問をかわせたつもりだったのだが、話がまたよからぬ方向に進んでしまった。
「いやいや、杭瀬さん。僕のことを買いかぶり過ぎだよ。褒めたってなんにも出てこないよ」
「私、なんにもねだらないですよ。思ったことを伝えただけですから!」
 そんな風にいつものようなやり取りを杭瀬さんとしていると、唇の先を僅かに尖らせながら何かを探すようにあたりを見回していたミホコさんが、パッと僕に視線を合わせて、とてもいいことを思いついたというように嬉々として話し始めた。
「ねぇねぇ、青木さんと杭瀬さんってお似合いじゃないかな? 杭瀬さんもサッカー好きだよね? ぴったしじゃない? 年齢も同じくらい?」
 すかさず、杭瀬さんが訂正に入る。
「福島さん! 私なんてもうおばさんですよ。32歳だもん。青木さんはまだ若いんだから、そんな可哀想な提案しちゃダメです!」
 杭瀬さんは本当に怒ったような顔をしている。
 ミホコさんは本当に怒られたような顔をしている。
「でもさぁ、32歳でおばさんなんだったら、39歳の私はどうなるのよ」
 左のほっぺたを膨らまして、まるでいじけた子供のようにミホコさんは抗議した。

 芦屋川河川敷の緑が太陽を浴びて背を伸ばし、駅のホームにまでその青い匂いを香らせている。
「早く着いちゃったから、見つけてね!」
 僕が電車でミホコさんと待ち合わせている駅へと向っていると、そんなメールがやってきた。確かに待ち合わせには10分早い。
「なにかヒントはありますか?」
 待ち合わせ時間の5分前に到着した僕はいくつか予想を立てていた。
①河川敷へ降りて川を眺めながら散歩しているのではないか。
②近くの本屋で雑誌でも読んで暇つぶししているかもしれない。
③どこかのカフェに入っているなんてことになるとこれは厄介だ。テラス席であればよいが、店内だったら見つけようがない。
 どうあれ、ヒントがくればかなり絞り込めるように思えたが、それは楽観的過ぎた。
「香りをたどっておいで!」
 何のヒントにもならないじゃないかとがっくりする。緑の香り、本のにおい、コーヒーの香り。街は香りに満ちている。そもそも彼女の言う香りの意味するところは、物や場所の香りなのだろうか、それとも彼女自身の香りのことなのだろうか。次にどういった質問をすべきかと思案しながら改札を抜けると、上品そうな白のワンピースに黒のカーデガンを羽織ったミホコさんがいた。
「なんだ。隠れてないんじゃん」
「おなかすいたんだもぉーん」
 ミホコさんはなんだか自慢げな笑顔。一緒に歩き出すと、黒い日傘をさしたミホコさんの背がいつもより低く見えた。
「ミホコさん、今日ちっちゃくない?」
「ミュールのせいね。今日はぺったんこ」
 ミホコさんの身長は低めだ。150㎝前半だろうか。骨格がほっそりとしていてとても痩せているので、シルエットだけを見ていると少年のようにさえ見える時がある。
「姿勢!」
 僕の背中をぽんっとたたきながらミホコさんは咎めるような目をこちらに向けてくる。
「あっ、すいません」
「うーん。『すいません』じゃなくて、『ありがとう』っていいなよ。全然反対の言葉だけど、だいたいの場合、置き換えが可能なんだよ。だったら、『ありがとう』のほうがポジティブでしょ」
「すいません、そうするように気を付けてみます」
「それ、わざとでしょ?」と彼女の探るような目。
「ありがとう。バレましたね」と僕。
「ヘタクソ!」とミホコさんは楽しそうに、歌うように、軽やかにそう言って僕の隣をふわふわと歩く。
 レストランは一階に菓子調理具の専門店が入った小さなビルの4階にある。5、6テーブルしかないこぢんまりとした店内は、まるでイタリアにいるように感じされるオーセンティックな装飾が施されている。ここだったらミホコさんを連れてきても間違いないだろうという自信があった。二人で会うことをデートと定義するならば、これがミホコさんとの3回目のデートになる。ウェイターに席を通され、僕らが席に着こうとすると、隣の席から、わぁーっという驚きの声が聞こえた。
「福島さんじゃない。偶然!」とそのグループの一人の女性が立ち上がった。
「あら、お久しぶりですね。ランチですか?」
「そうなの、たまにこうやって女子会してるんですよ」と別の女性が今度は声をかけた。
「そうなんですね。うらやましい」
 ミホコさんは、なにやらそのグループの人たちと世間話を始めてしまった。最初の方こそ彼女たちの話を追ってみたが、どうやら彼女たちが僕には興味がなさそうだったので、僕は席に着きランチメニューをチェックすることにした。
「会社の人?」
 女子会グループとの会話もひと段落してミホコさんがこちらの席に戻ってきたので確認してみた。
「そうなの。前の部署の時の同僚と、もう結婚して退職されてる方と。こんなところで会うなんてすごい偶然よね」と言いながらも、すでに彼女の目線は『カモ肉のラグーソースパスタ』と『真鯛のクリームソースパスタ』の間を行き来している。
 休日の昼間にデートしているところを会社の人に見られるのってまずいんじゃないかと一瞬ひやりとしたが、ミホコさんにそのような動揺は少しも見受けられなかったので、気にならないふりをした。
 カモも鯛も食べたいということだったので、二人でそれぞれ頼んで分け合って食べた。カモのラグーソースはパンチの効いた味付けだった。カモ特有の脂ののった粗びきミンチとショウガやセロリなどの香味野菜をしっかり効かせた赤ワインソースがスパイスでうまくまとめられている。それに比べると、タイのクリームソースのほうはとてもシンプルな味付けで、うろこを残してぱりぱりに焼いた皮とふっくらとした白身の食感が楽しめた。彼女はラグーソースを気に入ったようだった。

 ミホコさんと最初に二人で会うことになったのは、僕のフランス本社への出張がきっかけだった。僕が7月の頭に本社への出張があるという話をパーティーでした時に、ミホコさんがそれならおいしいレストランを紹介してあげると申し出てくれたのだ。僕はそのレストランに足を運んで、彼女の進めてくれた牛タンのシチューを食べた。それは日本で食べるものよりもよっぽど素朴な味付けで、肉の味とワインの香りがダイレクトに舌に飛び込んできたが、どちらもいいものを使っているのか、それらの相性がいいのか、素直にとてもおいしく感じられた。僕はいいレストランを紹介してもらったお礼に彼女に紅茶を買って帰ってきた。それを渡したいということでメールをしたら、では一緒に夕食に出かけようということになったのだ。
 落ち着いた雰囲気の和食店のカウンターを予約した。
 先に到着した僕に遅れて店にやってきたミホコさんは黒いシャツにグレーのパンツというビジネススタイルだったのでとても大人に見えた。パーティーの時には白いスカートで柔らかい印象を受けたが、その日は凛として見えた。僕はビールを飲み、彼女はバックから取り出したハンカチをひざにかけてウーロン茶を飲んだ。ふたりでレタスときのこのお浸しと焼き鮎をつついた。
「ウサギは食べました?」
「このウサギですか?」と僕はおおげさに両手で頭の上に耳を作って確認した。
 ミホコさんは、僕のジェスチャーに呆れたように、けれど楽しそうに笑ってくれた。
「ココットのウサギ料理だよ。食べなかったんですか? すごくおいしいのに」
「すいません」
 ミホコさんが本当に悔しそうな表情を浮かべているので、僕も申し訳ない気持ちになった。
「教えていただいたお店にはいったんですけど、ウサギは食べなかったです。もったいないことしちゃんたんですかね?」
「うん、もったいないよ。日本じゃなかなか食べれらないんだもん」
 眉を寄せ、唇をぎゅっと絞って、惜しがるような表情を見せる。僕は食用のウサギが飼育されているところを想像してみたがうまくいかなかった。けれど、それを彼女に伝えることはしなかった。
「ねぇ、青木さんって、なんでそんなに細かくお料理を確認しながら食べてるんですか?」
 僕が和風パエリアを食べながらそのレシピを想像していると、ミホコさんが怪しい人を見るような怪訝な目つきで尋ねてきた。
「おいしいものに出会えた時には、それを自分で再現できるようにレシピを想像してみるんです。板さんやシェフに直接レシピを聞くときもあります」
 和風パエリアは、パエリアのスープを和風出汁に、ムール貝をアサリにアレンジして炊いたご飯にサクラエビといくら、青ネギがちりばめられていて、鍋を開けた瞬間に磯の香りが食欲をそそった。これはぜひ真似をしたいと思った。
「えっ、お料理するんですか? 青木さんって独身だよね。えらい!」
「ミホコさんはお料理しないんですか?」
「私もたまにはするけど、そんな風に研究したりはしないもん。夫とも時間が合わないことが多いからホントたまにしか作らないよ」
 夫、という言葉にドキッとした。彼女には旦那さんがいるのだ。そうとは言っても、恋をしたい、とパーティーで堂々と言っていた彼女の言葉を真に受けるならば、火遊びくらいのことはあってもいいんじゃないかと下心が湧いてくる。実のところ、今日のディナーで彼女との火遊びができそうなのかを探ろうという考えもあった。
 彼女の食べっぷりはたいしたものだった。彼女は僕と同じペースで僕と同量の食事を平らげていった。それは、見ていてとても美しく気持ちのいいものだった。
「ねぇ、今度私に青木さんの作ったお料理食べさせてよ。今まで食べたものの中で一番おいしいやつ!」
 あの挑戦的な目だ。
 これはまたとないチャンスだと思い、どう答えようかと思惑していると「でもね、もちろんあなたのおうちには行きませんよ。私は一人でひょこひょこと男性のおうちに行くような女じゃないですからね」とミホコさんは僕の下心を読み取ったかのように、さらりと笑顔で付け加えた。
「じゃぁ、どうやってご馳走すればいいんですか?」
「だからね、お弁当作ってきてよ! そしたら、私車出してあげるから、ピクニックしよう!」
「夜のピクニックですね」
 ミホコさんはもう決定してしまったことのように話を進めて満足げな顔をしていた。お弁当となると料理にもいろいろと制約が出てくるのが困る。なにより、きっぱりと「あなたのうちには行かないよ」と宣言されてしまったので、これでは僕の期待するところのエロティックな展開は望めないように思えた。しかし、彼女の食べっぷりを見ていて、その挑戦を受けずにはいられない気持ちになっていた。
 その日は、午後10時ごろに食事を終えて、お土産の紅茶を渡して解散した。

 後日、僕らは約束通りに夜のピクニックに繰り出した。僕はミホコさんが運転する白いポルシェの右側の助手席に座った。ミホコさんは、どちらも上品でやわらかそうな素材のグレーのサマーセーターと白のスカートをはいている。スカートの丈が短いので、彼女が運転している姿をちらりとのぞくとその白い腿があらわになっているのが見える。このポルシェは彼女の所有物であるらしい。てっきり旦那さんのものなのかと思ったのだが、そんなことを言おうものなら、怒られてしまいそうな熱を彼女から感じた。この車は彼女が最初に結婚した人との離婚が成立した後に自分で買った愛車だそうだ。僕は車に疎く、ポルシェもジャガーもさして区別がつかないほどなので、その価値も意味もあまりよく分からなかった。なぜこんな狭い2人乗りの車に、しかも日本なのに左ハンドルに、乗るんだろうと理解に苦しむばかりだ。
 彼女の運転は、まるで自らの体の調子や動きを確認するかのように、慎重なものだった。ブレーキ、アクセル、ギアとそれぞれの反応を体に感じて、納得しながら、神戸の海沿い運転している。
 僕たちは西宮ハーバーのウッドデッキに並んで、僕の作ったお弁当を食べた。夏野菜の揚げ浸し、ニンジンのマリネ、ハンバーグ、そぼろと花山椒のごはん。奇をてらうようなメニューではなくて、定番メニューを丁寧に作った。揚げ浸しは昆布とカツオの合わせ出汁をとるところから作り、ニンジンのマリネは前日からオリジナルの調合で漬け込んだ。ハンバーグは質のいい牛肉と豚肉を精肉店から買ってきてフードプロセッサーで荒くミンチにして使った。
 ミホコさんはなかでもニンジンのマリネをとても気に入ってくれた。
「ニンジンってこんなに甘いんだね。イタリアンパセリの香りもぴったしだし、粒マスタードもいい感じ! これ大好き。やるなぁ、シェフ。驚いたよ。ハンバーグもなんだかステーキみたい!」
 一口ごとにおいしい、おいしいと言って、はしゃぎながら食べている。女の子に料理を作った時に、喜んでくれる人や褒めてくれる人は多いが、こんなに楽しそうに食べている人を見るのは初めてだなと思った。
 西宮ハーバーには何隻ものボートが停められている。波がどこかで堰き止められているのだろう、その音はとても小さい。ウッドデッキの正面は海岸沿いに遊歩道になっていて、街灯を頼りに犬の散歩やジョギングをする人がいる。梅雨が明けて暑さが少しずつ増してきていたが、浜辺は海風のおかげか涼しく感じる。
風が強く吹いて背後の林がざわざわとなった時、ミホコさんが「きゃっ」と悲鳴をあげて僕の腕にしがみついた。彼女の手にあったお弁当箱が、彼女の膝にかかったハンカチごと見事にウッドデッキから下へ転がり落ちていった。
「どうしたの?」と驚いて聞くと、ゴキブリがいるのだという。注意して彼女の指さすほうを見ると、2匹の大きなゴキブリが街灯の光を浴びてかさかさと動き回っている。これはもしかすると街灯の陰になっているところにはもっとたくさんの数がいるのかもしれない。
「怖いからあっちのベンチいきましょっか」
ウッドデッキの下に転がったお弁当箱にはまだ半分ハンバーグとごはんが残っていたが拾って、僕の食べ終わったお弁当箱と一緒に捨てた。ミホコさんは、ごめんなさいとは言わなかった。その代りに、お弁当をすべて食べられなかったことをとても残念がった。
「あーあ。悔しいなぁ。悔しい! おいしかったのに」
「いつでも作れますよ。シェフはここにいますから。今はおなかすいてないですか? なんかもうちょっと食べにいきますか?」
「大丈夫。ありがとう。すっごくおいしかったから満足よ」
 それから、僕らはベンチに座ってかなり長い時間を過ごした。とくに内容のある会話をするでもなく「週末だね」とか「静かだね」みたいなことをお互いがつぶやくだけだった。浜風が少し寒く感じたので、ミホコさんに大丈夫かと尋ねたら、気持ちいいから大丈夫だと言った。
「ねぇ、杭瀬さんってかわいいと思わない?」
 急にわりとセンシティブな質問を投げかけられたのでびっくりした。
「杭瀬さん、絶対、青木さんに興味あると思うんだけどなぁ」とミホコさんはいたずらっ子の目をこちらに向けてくる。
「彼女、頑張り屋さんだし、可愛いし、いいと思わない?」
 正直なところ、僕は杭瀬さんのことを可愛いとは思わなかった。タイプではないという意味でだ。真面目な人だから信頼がおけるし、冗談にも付き合ってくれるので仲良くしているが、それ以上は考えられない。
「うーん、だめかぁ。そっかぁ」
 僕が考えるようなふりをしている間に彼女のほうでも結論を出してしまったらしい。
 それからまた長く沈黙が続いた。風が心地よいせいか、沈黙が苦にならなかった。時刻は0時を過ぎていた。流石にこの時間になると周りから人気もなくなってしまっている。けれど彼女の肩を抱き寄せたり、手をつないだりしてやろうという野心はなぜだか沸いてこなかった。
「コーヒーでも飲みに行きますか?」
「ううん、ここにいたい」
 ミホコさんは遠い目をして海を眺めていた。力の入っていない彼女の大きな瞳は暗い海を映しているせいかうるんで泣いているように見えた。今までに見たことのないしっとりとした表情だった。
 僕はミホコさんに惹かれ始めていた。これは危険な火遊びになってしまうかもしれないが、それもいいだろう。彼女が、恋をしたい、と言っていたのだから。
 結局僕たちはそうして、夜中2時くらいまでベンチに座ってぼーっとしていた。そして、どちらともなくあくびの回数が増えてきて、眠いね、ということで帰ることにした。慌てて「次の週末にランチにでも行きませんか?」と誘ってみたが、「予定を確認しておくね」とやんわりとはぐらかされてしまった。
彼女は僕をマンションの前まで送り届けてくれて、ほとんど車の走っていない道を自宅へと帰って行った。真っ白なポルシェが走り去った後の道路はいつにも増して静かに感じたので、僕はしばらくそこに佇んでしまった。

第2話 テールスープにうってつけの朝

 真夏にテールスープを仕込むのはなかなかに大変な作業だ。何時間も暑い中、牛のしっぽを煮込み続けなくてはならない。暑いのはもちろんだし、煮込んでいるうちに脂も飛ぶので、アクの処理などをしていると顔や体がベトベトになってしまう。テール肉は家の近くに神戸牛専門のホルモン精肉店があるのでそこで調達している。店頭にはディスプレイされていないテール肉を注文すると、店主が奥の冷蔵庫からまだしっぽの形を残したままのテール肉を取り出してきて、大きな包丁で輪切りにしていく。その姿はこれぞ肉屋という感じがする。そのテール肉で作るスープがとびきりコクがあって美味しいので最近凝っているのだ。何度かそれを購入していると店主が、うちのテールは下茹でをしないでそのまま煮込んだ方がおいしくなるよ、とアドバイスをくれたのでそうしている。午前中から煮込み続けたテール肉が次第に柔らかくなり、自然と骨から剥がれ始めてきたので火を止めて、ショウガやネギを取り除いた。骨からほろほろと剥がれ落ちる肉を食べるのが待ち遠しい気分になった。きっとミホコさんも喜んでくれるだろう。
 その日は午後から所属しているサッカーチームの県リーグの試合があったので、翌日のミホコさんの訪問に控えて午前中のうちに仕込みをしておく必要があった。すでに週に何度か彼女と食事を共にするようになっていたのだが、ある時、彼女がまた僕の作ったものを食べたいと言い出したのだ。「ミホコさんが僕の家に来ることはない」というのが彼女にとってはゆずることができないハードポイントだと思っていたので、またお弁当になりうるメニューをいくつか彼女に提案してみた。すると、そんな僕の気を知ってか知らずか、今度の日曜日におうちに行くね、と彼女から突然の宣言が飛び出した。もちろん断る理由もないので、そうであればということで、とっておきのテールスープを作ることにしたのだ。一通りの仕込みを終えると、僕は念のためにベッドのシーツやカバーを洗濯したものと取り替えて家を出た。

 炎天下のグランドで行われた試合に僕らのチームは勝利した。その代償に僕は左膝に大きな擦り傷を負った。ロッカールームでシャワーを浴びて傷口の汚れを洗い流すと、試合中には感じなかったはずの、痛みを改めて感じた。
チームメイトの車で駅まで送ってもらい、解散する時にはもう夕方になっていた。すると、電車に乗って帰ろうとしているところにタイミングよくミホコさんからのメールが来た。
「明日、テールスープと一緒にトマトのキムチを食べたいと思って、デパ地下で買ったよ」
「いいチョイスだね!」
「試合はどうだったの?」
「おっきな傷ができちゃいました。今、三ノ宮から帰りです」
「私もまだ三ノ宮にいるよ」
 もしかしてと思って「三ノ宮」という言葉をメールに入れてみたが、ビンゴだった。思いがけず、ミホコさんと会えるかもしれない。
「一緒に晩御飯、食べませんか?」と誘いを仕掛ける。
「素敵!」とシンプルな返事な返事が来た
 土曜日の夕食にいきなりお店探すとなると、なかなか難しいかもしれないなと思ったが、時間もまだ早かったので、朝引きの地鶏を出す焼鳥屋の予約が取れた。店に着くと淡いグリーンのワンピースを着たミホコさんがすでに席についていた。
「明日のテールスープの準備万端ですよ。もうコラーゲンプルプルです」
「それも素敵! だけど、おなかすいちゃったから早く食べよ」
 二人で地鶏の刺身と数種類の焼き鳥を食べた。いつもどおりの気持ちいい食べっぷりを彼女は見せた。僕はビールを2杯飲み、彼女は炭酸水を3杯飲んだ。
「サッカーっておもしろいの?」
「どうだろう。なかなか点が入らないスポーツだし、観戦するにはあまり面白くないスポーツかもしれません」
「プレーするのは楽しい?」
「プレーするのは楽しいですよ。チームスポーツはどれでもそうだと思うんですけど、チームのみんなで練習して積み重ねてきたものを試合で結果につなげていく過程が楽しいんです」
「私はチームスポーツって苦手だな。練習サボるな! とか、もっとこうやってプレーしなさい! とかっていろいろ指示されちゃうじゃない」
「チームプレーですからね。そういえば、ミホコさんはなにかスポーツはするんですか?」
「私は学生の時にテニスしてたよ」
「それってまさかスコートにあこがれて、とかじゃないの?」
「正解!」とミホコさんは自慢げに口角をあげた。
「スポーツとしてテニスが好きなんじゃなくて、ファッションって感じ?」
「なんかそれって、失礼な言い方じゃない?」と彼女は目を細めてこちらを睨む。
「すいません。単純でかわいいと思いますよ」
「なんかバカにされてるみたい」と彼女が膨れる。
「今でもプレーすることあるんですか?」
「たまに友達とね。杭瀬さんとかとスクールに行ったりもするよ。それでね、偶然にいいショットが打てたりすると、コーチがすごい褒めてくれるの。それがとってもうれしいんだよね」
 入店が早かったので、鶏雑炊まですっかり食べ終えてしまっても、まだ午後8時前だった。ミホコさんの僕の部屋への訪問が翌日に決まっているので、今日はこのままスマートに解散しようと思い、会計を済ませて店を出た。
土曜の夜の三ノ宮北野坂は店に入った時よりも一段と賑わいを増して、皆がこぞって大声でしゃべって、その存在をアピールしているように見えた。

「コーヒー飲もう!」
 ミホコさんは僕の背中をたたいて猫背を注意しながらそう言った。
「お店にお庭のあるカフェがあるからそこに行ってみようよ」
「一杯だけですよ」と僕は了解した。
 実のところ、このデートをあまり長引かせたくはなかった。早く帰って明日の準備がしたかったのだ。部屋の掃除や食事の準備はあらかたできてはいる。けれど、今までに人妻を誘惑したことはないので、多少の心の準備も必要だし、断られたときの逃げ方も用意しておきたかった。そういったわけで、今日のところはうまく早めに切り上げて帰りたいと思っていた。
 後ろから彼女の歩く姿を見ていると、その足取りはまるで重力が半分しかない星にいるみたいにふわりと弾むようにして見える。彼女のボブのカールが歩調に合わせて肩に触れるか触れないかのところでふわふわと揺れる。そうやって歩いていると、ミホコさんが急にレンタルビデオショップの自動ドアをくぐった。仕方なく僕もそれに従った。
「なにか見たい映画とかあるんですか?」と尋ねるが、「べぇつにぃ」とミホコさんは気のない返事をしながら、ゆったりとした足取りで店内をうろつく。「明日うちで一緒に見る映画でも決めませんか?」と提案してみると、ミホコさんは人差し指で僕をさして、出来のいい生徒をほめるように、いいねと言った。
 二人で見る映画を探すといっても、彼女の映画の趣味が見当もつかなかった。それに、これといって今見たい映画があるかと言われればそういったものもない。けれど考えてみると、部屋でふたりで映画を見るなんていうのは、彼女をベッドに誘い込むには絶好の機会ではないか。ほどよくロマンティックで、ほどよく退屈な映画を選べばいい、そう腹に収めながら、とりあえず彼女の散策に付き合ってみることにした。最新作や韓国ドラマのコーナーなどをとくにあてもなく抜けていく。本当に映画なんて探しているんだろうかというくらい、ぼんやりと棚を眺めているだけのように見える。それならば、こちらからいくつか選択肢を提案しようと少し離れた棚にいた彼女のところに近づいていった。
 すると「これなんてどう?」と見るともなく棚を見ていたはずの彼女の手にはある映画のパッケージがあった。なんとそれは、数年前に流行った不倫ものの映画のパッケージだった。
「悪ふざけが過ぎますね」
 さすがにそれはと思って、クールに拒否してみるが、そうする必要があったのか、言いながら自分でも分からないでいた。
「だってこの俳優さん好きなんだもん」とミホコさんがしょげながら言い訳する。
「別に全然いいんですけど、僕たち一緒に不倫をテーマにした映画を見るんですか?」
「ダメなの?」と彼女は小さな女の子がお父さんにおねだりをするみたいな上目使いで僕を見つめる。
「いいですよ」と僕が折れると、「やった。どんなのか気になってたんだよね」とミホコさんが新しいお人形を与えられた女の子のように喜んだ。
 無邪気に見えるこの人はいったいどこまでが自覚的なのだろうかと混乱した。僕が火遊びに手を出すように誘導しているようにも思えたし、それはただあまりにも都合のよすぎる考えのようにも感じた。
もし彼女が人妻ではなく、独身の女性であったとしたら、部屋で映画を見るという流れはほとんどゴーサインだろう。けれど、彼女は人妻だ。
 けれど、彼女は、恋をしたい、と言っていた。どうあれ、僕にとって悪い展開ではないように思えた。

 映画を借りて、また繁華街に出た。
「うち来る?」と、突然足を止めてくるりと振り返ったミホコさんが僕に尋ねてきた。その表情にはエロティックなものも挑戦的なものも見当たらない。僕が、どう答えようかと、思惑していると彼女が続けた。
「彼、今仕事で東京にいるから誰もいないの。うちなら、すぐに今借りた映画も見れるし、おいしいコーヒーも入れてあげれるよ」
 いったい何がどうなっているというんだろうか。僕が彼女を狙っているのではなくて、実は僕が彼女に狙われているのかもしれないとさえ思えた。けれどそういった過信を抱くのはやはりさすがに浅はかにも思えた。
 僕らは繁華街から離れて山の手に向かっていた。歩いているとミホコさんの歩き方にとても危険で特徴的なところを見つけた。彼女は信号のない横断歩道を渡るときにほとんど歩くスピードを緩めないのだ。僕はそれを見て、何回もヒヤッとさせられた。横断歩道の手前で車の流れが途切れるのを待とうと僕が足を止めても、彼女は同じ速度で進み続ける。
「危ないですよ」と声をかけると、「車は急に止まれるのよ」と平然とした顔で横断歩道へと侵入していく。たしかに、その横断歩道に迫ってくる車はどれもかなりのスピードで向って来ているように見るのだが、そのすべてが彼女を見つけて手前で停止した。彼女の言い分によると、人が横断歩道に侵入してくるタイミングでブレーキを踏んで止まれないようなポンコツな車はこの世には存在しないということだった。僕は、よそ見運転している人もいるかもしれないんだから気を付けた方がいいと忠告したが、聞き入れられた様子はなかった。
 彼女の住むマンションは巨大なファミリータイプのものだった。まず敷地に入るための1つ目のオートロックのドアを抜けると、そこは和風の中庭になっていた。小さな滝と池を囲むように竹が植えられていた。さらに石畳の短い通路を抜けると建物の入り口があった。エレベーターの手前に受付のようなものがあったので、昼の時間にはスタッフが常駐しているのかもしれない。
 長く続くマンションの廊下に立ち、あらためて来てしまったんだなという思いがあった。ミホコさんはまたそんな僕の気も知らずに当たり前のように廊下を進み、自分の部屋のドアを開けて、僕を招き入れた。広い玄関口には靴が一足も置かれていなかった。それが、僕をすこしほっとさせた。
 部屋に入ってすぐに気付いたのだが、彼女の住まいには異様なほどに物がなかった。20畳ほどもあろうかというリビングはまるでモデルルームみたいに生活感がない。リビング右手のカウンターキッチンの上にも、その隣のダイニングテーブルにも、何も置かれていない。部屋の中央には大きなグレーのラグが敷かれており、その上に位置するL字型のソファにもティーテーブルの上にも物は何も置かれていない。クッションすらないのだ。
「今、コーヒー入れるね」
 ミホコさんがキッチンに立った。僕は手持ち無沙汰になったので、やわらかそうな皮のソファに腰を下ろした。体がずっしりと包み込まれるようにソファに沈むのに、バランスを崩しそうになる。自分が少し緊張していることに気づいた。さらに部屋を見回すと、飾り棚に仕事関連と思われる書籍や自動車関連の雑誌類が並べられていた。旦那さんのものであろうトロフィーもいくつか飾ってあったが、それ以外に彼女の旦那さんの存在を示すようなものは見当たらなかった。それと同様に彼女の存在を感じさせるようなものもこのリビングルームには見当たらない。
 ソファの向かいにはテーブルを挟んでテレビがあったので、DVDをセットしようか、とキッチンに向かって声をかけた。
「私やり方わかんないから、お願い」と返ってきた。
 テレビをつけてDVDをデッキに入れると、なにも操作をしなくても、すぐに映画は再生された。
「はじまっちゃうよ」とキッチンに声をかけた。
「いいよ。先に見てて。もうすぐコーヒーができるから。なにか面白いシーンがあったら教えてね」と声はどこか違う部屋から聞こえてきた。
 映画は濃厚なベッドシーンから始まった。話題になった作品だから大まかなストーリーは知っていた。若い青年実業家が一回り以上年上の出版社に勤める女性に恋をする。男性には若くてかわいい奥さんがいる。女性はバツイチでひとり息子はすでに独立している。この先のストーリーまでは知らないが、当時やっていたコマーシャルなんかを見ていると男性が不倫関係によって堕ちていく姿が描かれていたように思う。
 短いベッドシーンが終わったところで、ミホコさんがコーヒーをもってリビングに戻ってきた。いつのまにか着ていたワンピースから、長さが腿くらいまであるゆったりとした白いシャツにグレーの柔らかそうなショートパンツというラフな格好になっていた。立っているとシャツから直接脚が出ているように見える。彼女はソファに座るのではなく、ソファを背にしてラグの引いてある床にぺたんと座った。ソファの上から見下ろす彼女はいつもよりもさらに小さく見える。
 ドラマの中では、青年と女性が商談で初めて出会う場面が描かれていた。
「ねぇ、この女優さんってもっと可愛いはずなのに、なんでこんなおばさんくさい衣装にメイクなんだろ?」
「ふたりに年の差があることがこのドラマのポイントのひとつだから、そこを分かりやすくしてるのかもしれませんね」
「それ必要なのかなぁ」とミホコさんは納得のいかない表情を浮かべてコーヒーをすすった。シャツからのぞくミホコさんの脚は、映画に出ている女優のむっちりと官能的なそれとは違い、白く細くとても頼りなげに見えた。
「ほら、やっぱりこの俳優さんの目がいいのよ」
「パッチリっていうより、切れ長な目が好きなんですね」
「そうね、なんかこのお見通しですよって言ってるみたいな目というか表情が好きなんだよね」
「旦那さんもそういうタイプの人なんですか?」
「ううん。彼はもっと優しい顔してるかな。昔はもっと痩せててかっこよかったんだけど、今は優しい熊さんくらいって感じかな」
「そういえば杭瀬さんが、ミホコさんの旦那さんのことを背が高くてイケメンだった、って言ってましたよ」
「そうなの。熊さん」
 なんでわざわざ彼女の旦那さんの話題なんかを振ってしまったのだろう。コーヒーを一口飲んで映画を見るが、特にこれといって重要そうなシーンはない。ミホコさんを見やると三角座りをして、よくしつけられた園児のようにテレビを見ている。
ふと、今だな、と思った。
 ソファの上から抱え込むようにミホコさんの背中を抱きしめた。彼女の体は思ったよりもあたたかくて柔らかかった。
「ずるいよ」と言って彼女は、肩をすくめて身を固くした。
 彼女の声のひびきから緊張が感じられる。それが僕をさらに興奮させた。
 彼女を抱きあげてソファに寝かせると、上から覆いかぶさるような格好になった。横たわる彼女にキスをしようとその目をのぞき込む。すると彼女が余裕たっぷりに見える笑顔で鼻にしわを寄せて、こう言った。
「悪いやつ!」

 ミホコさんの裸の背中には羽が生えていた。彼女はとても痩せているので、その背中にある肩甲骨がぐっと浮き出していて、まるでそこに羽が生えているように見えるのだ。僕が彼女の着ているシャツを脱がせて、それを見つけた時には、なんだか妙に納得がいった。
天使にも悪魔にも羽は生えている。

 するどい日の光を瞼に感じて目を覚ました。蝉がジィージィーと鳴いているのが聞こえるが、室内はとても涼しく保たれている。クイーンサイズはあろうかというベッドの上にミホコさんはいない。シーツが僕の傷のせいでところどころ少し赤茶色く汚れてしまっていた。傷はまだ乾いていないようだった。
 ベッドから出て床に落ちたパンツをはいて寝室を出ると、広い化粧室のドアを開けたままにして、髪をポニーテールにしたミホコさんが化粧をしていた。こちらに気づくと、いつもの何かを自慢するような笑顔で朝の挨拶をくれた。
「おはよう。テールスープにうってつけの朝だよ」
 

第3話 深夜のコインパーキング

「すいません。お待たせしました。もう今日はこんな時間だし、どっか食べに行きますか?」
 その日の仕事を切り上げて階下のロビーに出ると、ミホコさんが携帯を触りながら待っていた。時刻はすでに21時前になっていた。オフィスを出ると、その短い寿命を謳歌しようと蝉たちがまだ鳴きつづけていた。八月ももう終わりだというのに、むっとするような暑さと湿気が夜を支配していた。
「簡単なものでいいから、なにか作ってほしいな」
 空腹を手っ取り早く満たすことよりも、時間がかかっても僕の手料理を食べたいと望まれるのは、料理を作る人間としてはとても誇らしいことだ。
 僕らは会社の近くの駐車場に停めてある彼女の車に乗って僕の家へと向う。車を僕の家の近くのコインパーキングに停めて、その向かいにあるスーパーマーケットで食材の買い物をする。これが定番のコースとなっている。
 僕が料理をしている間、ミホコさんはたいがい何か持ってきた雑誌を読んでいる。ファッション雑誌のたぐいが多いので仕事に関係したものなのかもしれない。
 その日はキムチチゲを作った。調理の時間が短くて済むので、彼女の空腹にいち早くサーブできる。昆布とアサリで出汁をとり、酒、中華スープの素、山芋、ニンジン、長ネギを入れて煮込む。煮立ったら味噌、キムチ、オイスターソースとその他の調味料を入れてスープの味を決める。肉が入る前なので少し辛めに仕立てておく。唐辛子の辛い匂いが立ちのぼる鍋に、豚肉、豆腐、シイタケ、白菜を入れてさらに煮込んだら出来上がりだ。
「あなたの作るスープって全部甘くておいしい」
「今日のは辛いはずなんだけどな?」
「うん。でもね、甘くて優しい味がするの。それが好き。テールスープのぷるっぷるのお肉も絶品だったんだけど、このチゲも甲乙つけがたい出来だね。あなたスープを作る天才なのかもしれない」
クーラーを最低温度に設定していたが、僕らは汗をかきながらチゲを平らげた。
「お鍋にまだチゲがちょっと残ってるから、明日雑炊にして食べようかな」
 洗い物をしながら、ミホコさんに聞こえるようにわざと大きな声で言った。
「ずるーい!」とリビングで雑誌を読むミホコさんが不満を漏らした。
「じゃあ、うちに泊まっていけば明日食べれますよ」
「意地悪!」とミホコさんは言ったが、僕にはちっとも意地悪な気持ちはなかった。
 コーヒーを飲みながら、バニラ味のハーゲンダッツを二人で分け合って食べた。あらかたアイスを食べ終えてしまうと、僕はミホコさんをお姫様抱っこの形で持ち上げる。僕の腕の中で彼女がニヤッと笑い僕の胸に顔をうずめる。ベッドまでそのまま運ぼうとすると、彼女がバタバタと抵抗してみせるが、空中ではなす術がない。そもそも彼女にそこから逃れようとする意図はないのだ。
 ベッドに寝転んで、あらためてお互いに見つめ合う。
「もう今日は時間が遅いから」と彼女が言うので、時計を見るともうすぐ23時になろうとしていた。
 無理やり抱き寄せてキスをした。彼女がそれを突き返そうとするが、すぐにつかまってしまい、少しの間僕を受け入れることになる。
「今日は帰るね」
 ベッドの上に押し倒されている彼女の瞳からおんなじ寂しさを感じた気がした。だからそれ以上は彼女を引き止めることができなかった。
 深夜のコインパーキングに彼女の白いポルシェはとても目立つ。僕らの関係を調査させるのなら街で一番出来の悪い探偵で十分だろう。彼女が運転席に乗り込むと、パワーウインドウが下ろされる。僕は彼女に別れのキスをして「おやすみなさい」と言った。彼女も「おやすみなさい」と言って車を出した。白いポルシェが走り去った後のコインパーキングは平凡でうす暗いそれに姿を戻した。
 部屋に戻ると、そこにはまだ彼女の余韻がたっぷりと残っている。リビングのクッションは彼女の形をとらえたままになっているし、二人分のコーヒーがテーブルに並んでいる。ベッドルームには彼女の香水の匂いがわずかに漂っている。この時間に帰るということは、今日は旦那さんが家にいるのだろう。

 その日もいつものように会社のロビーでミホコさんと待ち合わせをしていた。仕事を終えて自分の働く29階のフロアからエレベーターに乗ってロビーへと向かう。ゆっくりと階下に向かうエレベーターのスピードをもどかしく思う。1階のロビーに降りると、ミホコさんはポニーテールが侍のように見えるスーツ姿の背の高い女性と何やら話し込んでいた。けれど彼女は僕を見つけると、その女性との話を早々に切り上げ、別れの挨拶をして、こちらにやってきた。ミホコさんには僕らの関係を他人に気づかれまいとするような様子は一切見えない。社内で噂になるとか、旦那さんにバレたらとかという懸念はないのだろうかと不思議に思う。
「おつかれさま」とミホコさんが小走りにこちらにやってきて笑顔を作る。
 ミホコさんの笑顔は、今日という日がこれから始まるように思わせるほどの力を僕に与えてくれる。
 その日はウニのクリームパスタを作った。ふたりでグルメ雑誌を見ているときにこれを食べたい、とミホコさんからリクエストがあったのだ。リクエストを受けて僕はインターネットで複数のレシピを検索して、ウニを裏ごししてソースに混ぜ込む調理法で作ることにした。オニオンとベーコンをオリーブオイルで炒めて、裏ごししておいたウニとホワイトクリームを合わせ、塩コショウ、粉チーズで味を調える。ある程度火が入ったところで茹で上がったフェットチーネを絡ませる。付け合わせのブロッコリーを盛ったお皿にパスタを載せて、さらにその上に生のウニをのっけて出来上がりだ。
「すごーい! 雑誌で見てたものより豪華じゃない?」とミホコさんはまずお皿を見て驚いてくれた。そして、パスタを口に頬張り、満面の笑みをこちらに向ける。
「胃袋つかまれちゃったんじゃない?」
「ほんとにそうよ。私、あなたの味のファンになっちゃった」
「僕も、リクエストされたメニューを研究して作るの楽しいんで、ウィンウィンだね。またなにか食べたいメニューを見つけたら言ってください」
「ねぇねぇ、これもすごくおいしい!」
 ミホコさんはそう言って、ごぼうとマッシュルームのお味噌汁を幸せそうな顔をして飲んでいる。僕は彼女の食べる姿に惚れたのかもしれない。
 すべて食べ終わって、いつものようにコーヒーを沸かしながら皿を洗っていると、珍しくミホコさんの方から僕の背中に腕をまわしてきた。
「濡れちゃいますよ」と、注意意をすると「暇なんだもーん」と駄々をこねたような返事をしてくる。背中に彼女を感じたまま皿洗いを手早く終えると、振り返って彼女をぎゅっと抱きしめた。彼女の頭の上に顎を載せて、コーヒーを飲むかと聞くと、いらないと言うので、二人でもつれ合うようにベッドに飛び込んだ。
 抱き合った後に少し眠ってしまったらしく、目を覚ますと時刻は深夜1時を回っていた。洗面所から服を着て出てきた彼女にコーヒーを進めたが、今日はもう帰るね、と僕のほほにキスをした。僕は慌てて服を着て、彼女をいつものコインパーキングまで見送った。そのコインパーキングはうちから歩いて2分とかからない距離にある。だから彼女と一緒に玄関を出てしまえば、これという会話もしないうちにそこに着いてしまうのだ。だから僕はいつも彼女の車を見送った後にいくらかの名残惜しさを感じてそこに佇んでしまう。これと言ってなんの特徴もない深夜のコインパーキングに。

 週末には、彼女の運転でアウトレットへ出かけた。ある時、彼女が僕の服装にクレームを出してきたのだ。悪くはないが、あなたの良さが出てないし、いつも同じようなものを着ている、というのが彼女の指摘であった。
アウトレットの入り口をくぐると、ミホコさんが僕の背中をたたいた。僕は慌てて姿勢を正す。すると当たり前のように彼女が僕の腕に自分の腕を回してきた。会社の人や知り合いに会うかもしれないのに大丈夫なのだろうかと思ったが、言わなかった。
「この前、洋服買ったのっていつ?」
「覚えてないや」
「じゃあ、いつもどういうお店で服を買うの?」
「うーん。その時に付き合ってる彼女に選んでもらうことが多いから、これと言って決まってないね」
「えーっ、なんかヤダ。じゃあ、私が全部買い換えちゃうね」とプリプリしながらミホコさんは宣言した。どうあれ、僕としては付き合っている彼女に服を選んでもらうという習慣は変わらない。
 彼女の買い物は実にてきぱきとしたものだった。いくつかのセレクトショップに入ると、あっという間に4、5着の候補を店の中から選びだしてくる。そして、僕を試着室に押し込めて着せ替え人形をして、その選択肢を2つくらいまでに絞り込む。どっちがいいかと聞かれるので、どちらもいいと思うと言うと、どちらも買うことになった。彼女が候補として選び出してくる洋服は、どれも初見では自分にはどうだろうか、と思えるものばかりだった。しかし、それらを実際に着てみると案外どれもしっくりときた。
 僕の身長は標準的な成人男性より少しだけ大きいくらいで、太ってもいないし痩せてもいない。サッカーをしているおかげで少しは筋肉質だ。だから僕は、大概のブランドのMサイズがぴったりとくるMサイズ人間なのだ。ミホコさんは僕がジーパンをはいている時のお尻が好きだと言っていた。
 僕らはたった2時間足らずで、シャツ4着、パンツ2着、革靴1足に靴下3セットを購入した。彼女はどうやら中でも靴下がお気に入りらしかった。おしゃれは足元からということだろうか。
「たくさん買えたね」と満足そうに彼女が言う。
「これで女の子とデートに行くときにも恥ずかしくないですね」
 僕は軽い冗談で言ったつもりだったのだが「浮気する人は嫌いよ!」とミホコさんはわりにシリアスな表情ででそう言った。少し注意が足りなかったようだ。

 もちろん、僕らは毎週末デートをしているというわけではない。ミホコさんはあくまで結婚していて、旦那さんと一緒に暮らしている。あるときには、旦那さんが理由でデートをキャンセルされることもある。
 金曜日の夜10時を過ぎて僕はまだオフィスにいた。同僚たちが、意気揚々とフロアを出ていくのを何度も見送る羽目になった。週明けにある新製品発表会で使われる資料をまとめていると、会社の友達ともつ鍋を食べに行くと言っていたミホコさんからメールの着信があった。
「やっぱり今週は彼と出かけるから、会えないや。また、来週ね!」
 よっぽどその必要性がない限り、ミホコさんは旦那さんのことを僕の前でしゃべらなかった。かといって、わざわざ隠すという風でもなかった。この日のように、当たり前のようにその存在が提示される時もある。最初に一緒に和食を食べに行ったときに、旦那さんの仕事や趣味について聞いたが、その情報もとても限られたものだった。彼女よりいくつか年上で、バツイチで先妻との間には子供はおらず、テレビの制作会社に勤めていて、車が趣味だ。もちろん興味はあるが、知りたくもない。
 フロアの一角に営業担当者が数名残っている以外には、もう誰も残っていなかった。資料作りをおおかた終えて、僕はミホコさんとのセックスを思い出していた。彼女の新品のシーツのようにすべすべで柔らかい肌やあまり力を入れすぎると折れてしまいそうな細い身体。コロコロと表情を変える大きな瞳。意地悪そうに見える薄い唇。そういったものを思い出していた。
 僕らのセックスにおいて、僕が彼女の中に入ることはない。僕らの行為の大部分は、ただ裸で抱き合って、キスをしたり鼻をこすり合わせたりしながら、とりとめのない話をするといったものだ。もし僕らがもう少し積極的な行為に及ぶとしてもそれは、僕が彼女の体中を愛撫する程度のものだ。彼女はいつもそれを楽しそうにくすぐったがったり感じたりしながら受け入れる。もし僕が自分の性欲を押しとどめられなくなった時は、自分でするか、彼女が手で導いてくれる。僕が彼女の中に入ったのは、彼女のマンションでのあの一夜だけだ。
 そもそも彼女はセックスが好きではないらしい。それは、最初の旦那さんと別れた原因の一つであり、今の旦那さんと続いている理由の一つでもあるそうだ。だから彼女がどういった形であれ、僕に体を許しているということは彼女の歴史から見ると、とても特別なことであるらしい。
 資料の最後の手直しが終わったころには、フロアには誰も残っていなかった。僕はフロアの明かりを消してオフィスを出た。夜風が緑の薄くなり始めた楓の葉を揺らしている。暑かった夏が終わろうとしていた。

第4話 ミホコさん、バリへ発つ!

 不倫関係において、その相手に「私たち、もしくは俺たち夫婦の関係は冷え切ってしまっている」などと言われた場合、そのほとんどはその場しのぎの甘い嘘だ。しかし、これはあくまで一般論だ。

 その日はめずらしく仕事帰りに彼女の車で蕎麦屋によって夕食を食べた。それから、いつものようにうちによって、コーヒーを飲むことにした。特に具体的な計画があるでもないのだが二人で温泉宿を特集した雑誌を眺めていた。
 最近では、ミホコさんは平日だと週に1、2日、週末にもどちらか1日は僕の家へと訪ねてきていた。なので、ミホコさんは僕の家用に部屋着としてグレーの柔らかい素材のショートパンツを置いている。スカートが折れたりするのが気になってしまうかららしかった。そのショートパンツがとても短いのと、彼女の脚がとても細いおかげで、ふとした瞬間に隙間から彼女のパンツがちらちらと覗く。僕の大好きな眺めだ。だからそのことを彼女に指摘はしない。
 いつもと変わらない夜を過ごしていた。僕はどうやったら彼女を温泉旅行に連れ出せるのだろうかと、アイデアを練っていた。
「そういえば、私、十月にバリに行くらしいの」
「バリ、ってインドネシアのあのバリ?」
「うん、バリ。連休あたりに休みを取っておいてねって、彼には言われてたんだよ。家族旅行だよ」
「旦那さんとふたり?」
 彼女は旦那さんと二人でバリへ旅行に行く。とても当たり前のことだ。こういうのは不倫関係においては、つきものだ。けれど、僕はそれを聞いてとてもびっくりした。
「そっか」と言って、それで自分がとても厄介な感情を抱き始めていることを自覚させられた。
「もう予約も全部取ってくれてるみたいなんだよ。お父さんと娘が一緒に旅行に行くのと一緒だよ」とミホコさんは僕の動揺を感じ取ったのかそう付け加えた。
「旦那さんってお父さんみたいな感じなの?」
「正確には共同生活者って感じかな」
「なんだそれ?」
「あなたにはうまく説明できないんだけど」と今度はミホコさんが口ごもってしまう。
 いつもなら、とっくに彼女に飛びついてベッドの上で戯れているはずの時間だった。それを思うと、こうやって彼女と旦那さんの旅行について話していることがとてももったいないことのように思えてくる。しかし、僕は自らがこじらせてしまいつつある状況から抜け出せないでいた。
「二人には子供もいないんだし、いっそのこと別れちゃってもいいんじゃないの?」
 なるべく真剣に聞こえないように、さも今しがた思いついたように聞こえるように努めた。
「そしたら私はどうすればいいの。それに別れるって簡単に言うけど、離婚ってとっても大変なのよ」と彼女が困った表情をする。
「一人暮らしするとか、僕と一緒に住むとか?」
「一人暮らしするんだったら今と変わんないよ」
「僕の気持ちはだいぶ変わるんだけどな」
「そうね。そうなのね。でもね、あなたが何を想像してるかは、分かんないんだけど、彼とは本当に一緒に暮らしてるだけなの。それだけ」
「僕のこと好きでいてくれるんだったら、僕と一緒にいてくれたらいいのに」
「ありがとう。こうやって今一緒にいるじゃない。でもね、離婚って本当に大変なのよ。二人だけの話じゃないし。私、最初の離婚の時ももうへとへとだったんだから」
 二人の前にあるコーヒーはすっかり冷めてしまっていたが、僕はそれを一息に飲みほした。それでも気分は落ち着かなかった。なんだか自分がすごく子供になってしまったような気がした。
「ねぇ、門限のある可愛い女の子と付き合ってるって思えばいいんじゃない?」
 とてもいいアイデアを思い付いた、というようなパッと明るい表情でミホコさんはそう言った。ポジティブな物言いが彼女らしいなと思った。けれど、僕はどうして彼女が旦那さんに執着するのか理解したかった。どうやったら、彼女が自分のものになるのかを知りたかった。
「じゃあ例えば、僕がミホコさんの旦那さんみたいにお金持ちで、ふたりが住んでるみたいな立派なマンションを持ってたら、状況は違うのかな」
 なるべく軽いトーンで言うつもりだったのに、やはり上手くいかず、真剣なたとえ話はそのままの真剣さで伝わってしまったようだ。それに対して、ミホコさんは僕の目をまっすぐに見て答えを返した。
「ねぇ、あなたは十分お金持ちだし、なにより将来も有望じゃない。だって計算してみなよ。私の夫はもう40も半ばなんだから、彼のこれから稼ぐお給料と、あなたがこれから稼ぐお給料だったら、あなたのほうが断然多くなるはずなんだよ」
 とても面白い論理だなと思った。けれど、どうしてもあのマンションを買うような経済力が、彼女の旦那さんに勝てない理由なのではないのかという考えが拭い切れなかった。もしかすると僕はそうであることを望んでいたのかもしれない。
「僕はいますぐ、ミホコさんと一緒になりたいって思ってるんです。今みたいな付き合い方じゃなくて、普通のカップルみたいに旅行したり、将来について考えたりできる関係になりたいんです」
 こんな風に二人の関係について話したのは初めてだった。しばらく沈黙があり、ミホコさんが僕の方を見やった。ミホコさんのその大きな瞳は震えていた。悲しそうな顔をするミホコさんは、その下がった目じりのしわが目立ったせいか、普段よりいくらか老けて見えた。それでも年齢よりはずいぶん若く見えるし、綺麗だ。僕らはしばらくそのままお互いの瞳の中にこの迷宮を脱出するカギがあるのではないかと見つめ合った。
「あなたが私のところに現れるのがちょっと遅かったんだよ」とミホコさんは僕を見ずにつぶやいて立ち上がった。
 そして、僕の顔を包み込むように抱きしめた。彼女の香りが僕を包んだ。しばらくそうして僕を抱きしめた彼女はそれから洗面所のほうへ消えていった。目を閉じて深呼吸をしてみたけれど、胸の鼓動は収まらなかった。しばらくして、玄関のドアが開閉される音がした。ミホコさんをコインパーキングまで見送らなかったのはその日が初めてだった。
 次の日の朝に「私たちしばらく会わない方がいいと思う」と彼女からメールがあった。僕は踏み越えてはいけないところまで来てしまっていたのかもしれなかった。

 十月に入り、朝晩は幾分涼しく過ごしやすい日々が続いていた。ミホコさんと出会ってから3カ月が経っていた。よく3カ月とか3の付く周期でカップルには転機が訪れるという。それくらいの期間でお互いの色々が明るみになるからだろうか、単純に飽きがきてしまうのだろうか。それとも季節の移り変わりのせいなのだろうか。
 二人の関係について話してから1週間、二人は連絡すら取らなかった。幸いオフィスですれ違うこともなかった。バリへは金曜日の夕方から出発ということだった。
 思えば、最初に二人で食事に行っていたころには、火遊び程度にしか彼女との関係を期待していなかったはずなのに、いつの間にか彼女が結婚していることを受け入れられずに責めていた。
 もうこれ以上、彼女との関係を続けるべきではないのだろうと思った。毎日でも彼女に会いたい、彼女のために料理を作りたい、彼女に愛撫をしたいと思う。実際に彼女の都合さえ合えば、そうしていた。けれど、僕はそれ以上のことをごく自然と、そして貪欲に求め始めていた。そして、それと同時に彼女が結婚をしているという事実に対するネガティブな思いをどんどんと強くしていた。
「そんなこと全部、最初から分かってたことじゃない」などとは、ミホコさんは決して言わなかった。

 金曜日が来た。メロドラマとかだったら空港まで止めに行くんだろうな、などと思いながら早々に仕事を切り上げ、いつものスーパーによった。一週間ミホコさんのために食事を作ることがなかったので、夕食をコンビニで買ってきて済すようになっていた。もともと週に2、3度は自炊をしていたはずなのに、彼女のために作ることがなくなってしまい、なにやらおかしな反動が来てしまっていたらしい。そのことに思い当たり、ひさびさにちゃんと料理を作ろうと思った。ついでにお酒を飲むのもいいかもしれないと思い、スーパーでエビと空芯菜、ビールとブランデーを買って帰った。
 もやもやした気持ちを落ち着かせるのには料理をするのが一番効果的だ。
 メニューはエビチリと空芯菜の炒め物にした。料理をする際に僕はその手順を細かくシミュレートしておくことを大事にしている。そうすることでキッチンでの立ち回りに無駄がなくなり、最適なタイミングで調理を進めることがが可能になる。
 まずは、空芯菜を一口大に切ってバットに入れる。空芯菜と一緒に炒めるにんにくも薄くスライスして、バッドに入れておく。さらに今度はエビチリ用のニンニク、ショウガ、長ネギをみじん切りして、別のバットに入れる。。次にエビの殻をむき、ワタを取り、軽く洗って、塩、コショウ、お酒をする。
 必要なお皿と調味料をすべてテーブルに並べる。塩、酒、オイスターソース、鶏ガラスープの素、豆板醤、粉唐辛子、花山椒。
 片方のコンロで片栗粉をしたエビを揚げる。もう片方のコンロで、ニンニク、ショウガ、長ネギを炒め始める。香味野菜を炒めているフライパンが香って来たら、水、酒、鶏ガラスープの素を加える。煮立ってきたら今度は豆板醤、オイスターソース。味見をしながら、粉唐辛子で辛さを加え、沸き立つ辛さにむせそうになるのを我慢して、塩で味を調整して、水で溶いた片栗粉を入れる。揚がったエビを取り出してキッチンペーパーを引いたバットに置いておく。エビを揚げた方のフライパンの油をふき取り、空芯菜用のニンニクスライスを炒め始める。香りがたってきたら空芯菜、鶏ガラスープの素、オイスターソース、酒を投入し、一気に強火で炒める。真っ赤なフライパンに揚げたエビを放り込み、軽くひと混ぜして皿に盛り、花山椒をミルで砕きながらたっぷりと振りかけたら、エビチリの完成だ。緑のフライパンも一通り火が通ったら、お皿にあけて、空芯菜炒めの完成だ。
 すべては事前に計算された手順で正しく行われた。食卓には四川風のエビチリとニンニクたっぷりの空芯菜炒めがアツアツの状態で並んでいる。そこに雑念の入る余地はない。料理のいいところは、基本的にはすべてが自分の自由になることだ。味付けや調理手順など誰に邪魔されることもない。出来上がりの美しさを求めるならそうすればいいし、調理を楽にしたいならそうすればいい。
 冷凍庫から結婚式の引き出物でもらったビールグラスを取り出し、缶ビールを3本開けた。

 エビチリの辛さで、ひどく汗をかいたので、シャワーを浴びた。
 風呂場から戻ると、キッチンに散乱した洗い物が気になったが、まずはブランデーを飲むことにした。氷をたっぷり入れたグラスにブランデーを1㎝ほど注いで、それを一気に飲み干す。冷たくて熱い液体が喉を通り胃に収まるのを感じる。
 2杯目のブランデーをたっぷりと注いで、週末に特にやることがないことに思い当たり、試しに何人かの女の子達に連絡をしてみることにした。それらはどれも大学時代の女友達や会社に入社した頃にコンパで知り合ったような女性たちだ。
 同じような文面をそれぞれに少しだけカスタマイズしてメールを送ってみたが、結果はどれもなしのつぶてだった。彼女たちにとって、僕などは久々に連絡が来たからといって胸の躍るような物件ではないのだろう。
 さらにブランデーを何杯かあおると気持ちが白けてしまい、週末に女性を口説くことさえも面倒に思えてしまった。そもそも僕は大学時代に初めて彼女ができた時も社会人になってから彼女ができた時も、自分から積極的に口説くということはしてこなかった。特別にモテてきたわけではもちろんなくて、それは気付いたらそばにいた女性と付き合ってきたというだけの話だ。
 テレビでは、女装をしたお笑い芸人がとてもクオリティの高いオリジナルアイドルソングを披露していた。僕はそれを見て大笑いしてしまった。だから、シンクに溜まったあぶらっけの多い調理器具と食器をすべて洗ってしまうことにした。
するとそこへ、杭瀬さんからメールの着信があった。
「週末にお時間ありますか?」

 翌朝は案の定ひどい頭痛とともに目を覚ました。鼻からアルコールのきつい香りが抜けていくのを感じる。まだ外はうす暗かったが、再び眠れそうもなかったので、ベッドを抜け出して、水を3杯立て続けに飲んで用を足した。いくらか気分がすっきりした。
 体からアルコールを抜くのにはランニングが一番効果的だ。
 ランニングウェアに着替えて、日の上がり始めた住宅街を走っていると金木犀が甘く香ってくる。昨夜のアルコールのせいか呼吸がすぐに上がってしまう。自宅を出て東に向かい、阪神芦屋駅から河川敷に降りて川沿いに南に折れる。中州に青々と茂る緑の香りが海のにおいと入り混じり、舗装された道がやがて小さな砂浜に行きあたる。潮が引き始めているらしく砂が湿っている。散歩中のラブラドールが必死に穴を掘っていた。そこからまた北上し、芦屋の街を抜けてさらに東に走ると夙川に突き当たる。そこを折り返すのがいつものコースだ。5,6キロ走って折り返すあたりで足に疲労を感じ始める。街が目覚め始めるのを感じながら1時間ほどのランニングを終えて自宅に帰ると、もうアルコールはすべて体から蒸発してしまったように感じた。
 ミホコさんは今頃バリにいるのだろう。

第5話 寝たふりの彼女

「ねぇ、この黄色い花の名前はなんていうんですか?」
 杭瀬さんは僕の部屋に入るやいなや、まるで何かの取材のようにあれやこれやと質問してくる。オンシジウムはミホコさんの好きな花だ。小さな黄色い花びらの連なりが、部屋に自然の温かみと華やかさを与えてくれる。
「なんか、女の子の部屋みたいにきれいですね」
 杭瀬さんが半分開けたままになっているパーテションを抜けて、ベッドルームまで観察し始める。ミホコさんには、まだまだものが多すぎると言われるので、僕は沈没しかけの船のごとく部屋から物を減らしている最中なのだ。使っていないコピー機をはじめ、数が多すぎる文具類やもう着なくなった洋服など目につく限り捨てても支障がなさそうなものをどんどんと捨てていく。
 1LDKのさして広くはない部屋の見学を済ませた彼女が、お土産ですと言ってロゼのスパークリングワインをトートバッグから取り出した。
「これ、私がイギリスに留学していた時に好きだったワインなんです」
「留学してたって、イギリスだったんですか?」
「そうなんです。ホテルの経営について学んでたんです」
「それで、次の転職先がホテルなんですね!」
「そろそろチャレンジしようかなって思ったんです」
 杭瀬さんはワイン以外にもチーズや、レバーのパテ、バケットまで持ってきてくれていた。僕の方でサラダを作るのとスペアリブを焼くことは決まっていたので、それで十分な食卓になりそうだった。
「なんで留学の後、すぐホテルの業界で働かなかったんですか?」と少し突っ込んだ質問をしてみた。
「なんか怖かったんだと思います。自分のあこがれる世界にいきなり飛び込んで、失敗するのって怖いじゃないですか。だから、ほかの業界で社会勉強するとか見識を広めるとかって自分に言い訳しちゃったんだと思います。化粧品の業界ももちろん好きなもののひとつだから楽しかったですよ。勉強にもなりましたし」
 ニンニク、ショウガ、酒、ケチャップ、醤油、はちみつにつけておいたスペアリブを予熱したオーブンに入れる。
「でも、チャレンジする決心がついたんですね」
「もちろんまだ全然怖いんですよ。でもチャレンジしないと時間ってあっという間に経っちゃうなって。この会社に入って、もう忙しすぎてわけわかんなくなっちゃう中で、やっぱりホテルの仕事がしたいって気付いたんです」
「忙し過ぎて気付けちゃったの?」
「そうなんです。変ですよね。私、与えられたものだったらなんでも一生懸命にやっちゃうから、自分が何をしたいかとか、何が本当に大事かとか、そういうのすぐ忘れちゃうんです。彼氏ができないのもそのせいかも!」
 自分でそう言って少し硬い表情で笑いながら、杭瀬さはカウンターキッチンの椅子に座って、チーズとパテをお皿に盛ってくれている。とてもきれいな並べ方をしている。
「前の会社の時は、週末に好きなホテルを見に行ったり、ホテル経営の勉強会に行ったり、ホテル業界との接点はあったんです。だから、どこかで満足してたっていうか妥協してたっていうか。それがもうこの会社に来て、忙しすぎてそれどころじゃなくなっちゃったんです。私、この会社の人たちみたいに賢くないから、何するにも時間がかかっちゃって」
「杭瀬さんが優秀じゃないなんてことはないと思うけど。でも、どんな形であれチャレンジするきっかけになったんならよかったのかもしれないね」
「そうなんです、なにはともあれです」
 彼女の笑顔に少し悲しい色が混じっているような気がした。
 スペアリブが焼けるまで20分はあるので、彼女の持ってきてくれたワインを開けてしまうことにした。ポンっと気持ちいい音がしてコルクが抜ける。
「転職おめでとう」
 とてもボディのしっかりした味わいのあるスパークリングだった。
「ありがとうございます。こんなワガママまで聞いてもらっちゃって」
「料理は趣味みたいなもんですから、付き合ってくれる人がいたらうれしいくらいです」
 先週末に杭瀬さんの退職が事業部長からアナウンスされていた。あいさつ回りに来た杭瀬さんが、辞めるまでに一度僕の作った料理が食べたかったと言っていたが、タイミングよくそれが実現する形になった。こうやって人と会っていれば、ミホコさんが旦那さんとバリにいることを思い悩むこともないだろうと思った。
「あっ、杭瀬さん、ほんとに今更なんですけど、タメ口でいいですよ。杭瀬さんのほうが年上ですし」
「でも、社歴は青木さんのほうが長いです」
「だってもう会社辞めちゃうんだからいいんじゃないですか?」
「それもそっか。うん、そうしてみる。ハチミツもらっていい?」
 杭瀬さんはきれいに皿の上に並べたカマンベールチーズの一つにハチミツをかけて口に放り込んだ。
「そんな食べ方あるんですか?」
「あっ、青木さんもタメ口でいいよ」
「それは難しいなぁ。僕の方が年下ですし」
「っていうか、会社でもわりに私にタメ口じゃなかったでしたっけ?」
「気付いてた?」
 楽しそうに杭瀬さんのまあるい顔が笑った。少しずつ表情から緊張感が薄れてきたように見えた。ハチミツをつけて食べるカマンベールチーズは、それで立派なデザートのようだった。
 パテとチーズがワインにぴったりだったので、ふたりは料理ができる前からどんどんワインを飲み進めていた。
 スペアリブが出来上がるまであと数分となったので、豆のサラダを仕上げた。ひよこ豆とえんどう豆にみじん切りしたレッドオニオン、ちぎったイタリアンパセリを合わせ、オリーブオイル、はちみつ、塩で作ったドレッシングをかけて混ぜ合わせるだけの簡単なものだ。オーブンから焼きあがったスペアリブを取り出して、それらをお皿にもって食卓が完成した時には、僕らはスパークリングワインの4分の3ほどをすでに開けていた。
 出来上がったサラダとスペアリブを前に、改めて乾杯をして食事を続けた。僕たちはもくもくとスペアリブに齧りつき、ワインを飲んだ。
「こんなお店みたいなお料理いつも作ってるんですか?」
「さすがに、いつもではないよ。お客さんが来た時だけだよ」
「お客さんって、福島さんだったりする?」
 スペアリブに齧り付いていた僕に不意打ちの質問が浴びせられた。杭瀬さんがそういった踏み込んだ質問をしてくるとは予想をしていなかった。ワインのアルコールも手伝っているのだろうか。僕らは最初のスパークリングワインを飲み干し、2本目に僕の用意したボルドー産の赤ワインを始めていた。
「僕らのこと気付いてた?」
「隠してないもんね」
 杭瀬さんの話し方がいつもと違ってとてもゆったりとしたものになってきた。これが本来の彼女の姿なのかもしれない。僕はオフィスで見る力の入った彼女よりこちらの方が好きだなと思った。だから、つい気を許してしまったのだと思う。
「僕と福島さんのこと、どう思う?」
「青木さんってのが意外なんだよね。福島さんってもっと派手な人が好きなんだろうなって思ったから。旦那さんもテレビ業界だったりするしさ」
「たしかに、僕は地味だよね」
「あっ、ごめんなさい、そういうわけじゃなくてなんというか」
 杭瀬さんが口ごもってしまったので、ワインを注いで続きを促した。僕は彼女の言葉に少しも気分を害されてはいなかった。
「ほら、私、福島さんと一緒のテニス教室通ってるじゃないですか。そこでも、福島さんモテモテで。テニスしてる姿なんてほんと女子大生みたいなのね。それでね、そこのコーチのお金持ちの坊ちゃんみたいなイケメン大学生君が必死に福島さんのこと口説いてるのよ。で、そのイケメン君の頑張る姿が可愛くておもしろいの」
 これ以上続けてワインを飲むと酔い過ぎてしまいそうだったので、一度コーヒーを沸かすことにした。
「そのケトル可愛いね」
 ぼってりとしたやかんでお湯を注ぐのでは、コーヒーを沸かすのに色気がないとミホコさんが言うので、じょうろのような形をしたイタリアのコーヒーメーカーのケトルを買ったのだ。
「それで、その大学生はどうなったの?」
「わかんないけど、もう諦めちゃったんだと思うよ。福島さんも最初は気を持たせるような態度をとってるように見えたけど、断るとこはきっぱりと断ってたみたいだし、彼もついには音を上げちゃったんじゃないかな」
 お湯が沸いたのでコーヒーを淹れた。杭瀬さんには紅茶を入れた。
「だから青木さんがどうやって福島さんを口説いたのか興味あるのよ」
 首をすくめて、探るような目で杭瀬さんが尋ねてきた。
「特別なことなんてしてないよ。食事をして、デートをして、ご飯作ってあげたりとか。本当に普通だよ」
「でも不倫だもんね」
「そうなんだよね」
 杭瀬さんに勢いがついてきた。
「でも、あんなきれいな人だったら、私だって不倫してみたいと思うかもな。とは言ってもさ、青木さん。それがバレて離婚訴訟とかになったら、青木さんにも結構リスクあるんじゃないの?」
 僕はそれには答えなかった。離婚訴訟などといったものは、現実に自分に差し迫った問題ではないように思えたからだ。
 話を少しミホコさんから遠ざけることにした。
「杭瀬さんは結婚ってしたい?」
「はい、もちろんですよ! 焦ってるくらいだもん。青木さんは?」
「僕は結婚ってどうもうまく理解できないんだよね。今あの人とこういう関係だからってのもあるかもしれないけれど」
「理解も何も簡単じゃないですか。好き同士が一緒にいたいってなって結婚するんじゃないの?」
「そこなんだよね。好き同士が一緒にいるために、なんで結婚っているんだろう。一緒にいたいならいればいいじゃん、って思うんだよね」
「そういうことかぁ」と言って杭瀬さんはぽかんと口を開けてしまった。
 ワインを飲みすぎたせいか、つまらないことをしゃべってしまったようだったが、杭瀬さんも熱心なまなざしで話に付き合ってくれる。
「今の時代、3組に1組は離婚するっていうもんね。本当に運命の人に出会うなんてなかなかないんだろうね。それでも、私は結婚したいと思うな。この人だって思う人を見つけて、みんなに祝福されて結婚したいって思うよ」
 二人ともだいぶ酔っぱらってしまったようだった。しばらく沈黙が続いたので、空いたグラスや食器をシンクに運んでしまった。2杯目のコーヒーを沸かしていると、杭瀬さんがクッションにもたれかかったまま眠ってしまったようだった。杭瀬さんはなぜだか困ったような表情をして眠っている。僕の話が厄介すぎたのかもしれなかった。窓の外を見ると、太陽は遠く、風はするどく木々を揺らして、冷たそうだった。
 僕も眠気を催してきたので、床で寝ている杭瀬さんを抱きかかえて、ベッドに運んだ。彼女がピクリと反応するのが、抱きかかえる自分の腕に感じられた。彼女は今、寝たふりをしている。僕はその妙に力の入った彼女の体をベッドの上にそっとおろし、ふとんをかけた。
 それは僕の思いあがりに違いないのだけれど、僕は彼女が期待するようなことはしないで、タオルケットをかぶって床で寝た。

 目を覚ました時には、杭瀬さんがキッチンで洗い物を済ませてくれていた。夜も近づいていたので、外で飲みなおそうかと誘ったが、今日は飲みすぎたから帰るという返事だった。駅まで見送る道中に杭瀬さんがこんなことを打ち明けてくれた。
「私、青木さんのこと結構好きだったんです。この会社に入った時、他のみんなは、私が転職組だったから色んなことを出来て当たり前でしょみたいな感じで接してきてなんだか冷く感じたんだけど、青木さんは私にも普通に、新入社員の後輩にそうするみたいに接してくれたんだよね。だから、なんというか、青木さんには幸せになって欲しいんだ。こんなこと言える立場じゃないんだけど、青木さんには、もっといい人がいると思うよ」
 杭瀬さんはやはりどこか困ったような表情をしてそう言った。僕は笑顔を返したが、彼女にそれはどのように映っていたのだろう。

 杭瀬さんを送った帰りに、コインパーキングに立ち寄ると、いつもミホコさんが自慢のポルシェを停めているところには別の車が止まっていた。僕はやはりミホコさんのことを考えている。なんだか自分のことが情けないように感じた。
 杭瀬さんが帰った後の部屋を片付けてシャワーを浴び、携帯をチェックすると、何件かメールの着信があった。それは、杭瀬さんからのものと、ミホコさんからのものだった。僕は迷わずにミホコさんからのメールを開いた。
「私、彼にあなたのこと話したよ」
 いくつかの可能性について考えを巡らせた。彼女は本当に旦那さんに僕のことを話したのだろうか。
 イエス。彼女がそういったことに関して嘘をつくとは思えない。
 では、これは僕にとっていいことなのだろうか。
 クエスチョン。その判断はまだつかない。どうあれ彼女の帰国を待つしかなさそうだった。込み入った話はメールでするべきではないように思えたので、帰りを待つ、という内容の短いメールを返した。

第6話 ミニスカートの限界

「私ね、夫にあなたのことを話したの。それでね、いいよってなったの」
「いいよ?」
「そう、いいよ」
 いったいミホコさんがどういう話をしているのか理解できずに混乱した。

「あなたのごはんが食べたい!」と帰国した彼女からメールがあった。
 スーパーには秋の食材が豊富にある。心躍る季節だ。彼女が帰国したばかりということなので、和食を作ることにした。手ごろなマツタケが見つかったので、ハモと一緒にお吸い物にした。栗の炊き込みご飯と、鶏肉と里芋の煮物を作った。キッチンに立って料理をしながらミホコさんを見やると、それはもうこの3カ月ほど続いてきた日常がそのまま戻ってきたように思えた。
 ミホコさんはいつものように幸せそうに食事をペロリと平らげる。
「やっぱりご飯は日本が一番ね。それもあなたの作る和食が一番安心する」
「好きな相手を落とすときにはまず胃袋からって言いますからね!」
「素敵な方法ね」
 洗い物を終えて、コーヒーをもってリビングに戻ると、ミホコさんが真面目な顔で、旦那さんとバリで話したことについて切り出した。
「私、やっぱり彼にあなたのことを隠しているのって良くないと思ったの。だから、全部話したの」
「それで、いいよ、っていうのは、いったいどういうことなんだろう? もうちょっと、詳しく説明してもらっていい?」
「あなたと付き合っていてもいいよ、ってことよ」
「旦那さんと別れるってこと?」
「そんなわけないじゃん」
 そんなわけないんだ。
「旦那さんは、ミホコさんと僕との関係を認めてくれるけど、離婚はしないってこと?」
「正解!」
「旦那さん公認の不倫ってわけだ」
「その言い方はきらい」
 ミホコさんが眉をよせ、唇を尖らせ、ほっぺたを膨らませる。抗議の表情だ。
「あのさ、こういうこと聞くのって良くないのかもしれないんだけど、過去にもそういうことってあったの? つまり、旦那さんがミホコさんと誰かが付き合うのを認めるようなことって?」
「ないよ! 私浮気しないもん。だから、あなたとのこともちゃんと彼に話したのよ。そしたら、彼もあなたがちゃんとした人なんだったらいいよって言ってくれたの」
「ちゃんとした人?」
「そう、ちゃんとした人。だから悪いことしたらダメなんだよ」
「なんだそりゃ?」
「夜はちゃんとうちに帰ってきなさいって言われた。深夜の運転は危ないから、あんまり遅くならないようにしなさいって」
「遅くなった時は、うちに泊まっていけばいいんじゃない?」
「それはダメだって。私もあんまりそういう風にはしたくないの」
 旦那さんがダメと言う理由を聞きたかったが、ミホコさん自身もそうしたくないと言うので、ひとまずそのことは置いておくことにした。
「旦那さんには同じように彼女みたいなのがいたりするのかな?」
「知らないけど、ないと思うよ。彼って仕事の手が空いたら私からの返事がなくても30分おきにはメールしてくるような人だもん」
「そうなの?」
「あなたよりももっとマメな人なのよ、実は」
 正直、驚いた。ミホコさんの旦那さんのイメージがだいぶ変わった。ミホコさんのような自由な人の旦那さんなのだから、マメにメールをしてくるタイプと言うより、もっとどっしりと構えた、それこそお父さんのような人を想像していた。
「そんな人がよく僕らのこと許してくれたね?」
「それがミホコのしたい事だったら、そうしたらいいよって言ってくれたよ」
 やはりどっしりと構えた旦那さんなのだろうか?
「でもさ、旦那さんが僕らの関係をオッケーしててもさ、ふたりは一緒に住み続けるわけだし、ミホコさんは夜にはちゃんと帰んなきゃいけないわけでしょ。これって今までと、なんか変わった?」
 ミホコさんはきょとんとした顔でしばらく僕を見つめた。そして、急に表情を崩して、甘えるような顔で肩を落とし首をしおれさせて、つぶやいた。
「私、頑張ったのに、ほめてよぉ」
 その姿がなんだかおかしく思えてしまい、僕はおもわず笑い出してしまった。
「なんか分かんないけど、頑張ったんだよね」
 彼女の肩を抱きよせて頭をなでた。
「なんか分かんないけど、は余計」と、抱きしめられたミホコさんが僕の胸に小さくパンチをした。
「ほんとにバカな人ですね」

 風が肌寒く感じる季節がやってきた。山々が色づき、街の街路樹も徐々に赤や黄色に染まり始めている。おおかた僕が予想した通りに、旦那さんの公認を得たところで、僕とミホコさんとの関係に大きな変化は訪れなかった。いつものように週に何度か一緒に夕食をとり、ベッドをともにして短く眠った。僕はコインパーキングまで彼女を見送るのを欠かさなかった。
 唯一あった変化と言えば、僕らの間でミホコさんの旦那さんのことが特に避けられることなく話題に上るようになったことだ。それほどの頻度で出てくるわけではないが、その大半は僕にとって気持ちのいいものではなかった。

 久々に週末にミホコさんがうちに来るということで、僕はドーナツを揚げることにした。昼過ぎに彼女がやってきた時には、生地が出来上がっていて、ちょうど型を抜いているところだった。エプロンを粉まみれにして玄関に出た僕を驚いた様子でミホコさんが見上げた。
「お邪魔だったかしら?」とミホコさんがおどける。
 丈の短い白のワンピースに黒いレギンス、裏地が柔らかそうな毛でできたカーキのモッズコートというカジュアルなスタイルだ。この人は本当に年齢を感じさせないな、と思った。正直に褒めるつもりでそう伝えると、失礼しちゃうわ、と嬉しそうに唇を尖らせた。
「でもね、もうミニスカートが限界だなって見えるようになったら、すぐ伝えるように彼には言ってあるの。あの人、雑誌とかもやってるから、そういうセンスはあるはずだから」
 ミニスカートの限界、と頭の中で唱えてみた。それはなんだか滑稽で悲しい響きがした。けれどそれがミホコさんと関係のあることのようにはとても思えなかった。
「ねぇ、髪、切ったの気づいた?」
 ミホコさんが肩より少し高い位置にあるボブのくるんとなった毛先を手のひらで持ち上げてこちらに示す。
「そっか、それで印象が違ったんだ。なんか、軽くなった感じがする」
「まぁ気づいてくれんたんだったらいいや」
 満足げな表情でスキップを踏むように軽やかに玄関を抜けて、リビングへ入ったミホコさんが今度は、「なにこれ!」と興奮気味にこちらに声をかけてきた。
「コーヒーにはドーナツだと思って、ドーナツを揚げているところなんです」と伝えると、おうちでドーナツなんて揚げるんだ、とさらに驚いた様子だった。
 油を使うから危ないよと注意したが、ミホコさんさんはドーナツを揚げる僕の周りをちょろちょろと動き回った。油が充分に温まったようなので、穴の開いたドーナツの生地を4つ入れると、それらは鍋の底にバウンドするかしないかまで沈んですぐに浮き上がってきてパチパチパチと音を出し始めた。
「ねぇ、このドーナツの穴はどうするの?」
「ドーナツの穴?」
 ドーナツの揚がり具合を確認しながらだったので、最初はミホコさんが何を言っているかがわからなかった。
「そう、この残った生地」
 なるほどドーナツの穴とはそういう意味だったのかと納得する。残しても仕方ないので、それらも一緒に揚げることにした。
鍋に4つのドーナツの穴を放り込んだ。鍋が小さいので、生地を投入してから油の温度が下がってしまったようだった。火力を少し上げると、油の音がカラカラカラというものに変わった。片面が色づいてきたので、ひっくり返す。その間に生地を寝かせていたバットを洗って、揚げあがりに備えてキッチンペーパーをひいておく。ミホコさんがドーナツをくるくるとひっくり返すのを手伝ってくれている。
「ねぇ、この小さいのはもう出来上がってそうよ」
 4つのドーナツの穴をキッチンペーパーの上にあげると、しばらくしてすぐに輪っかのドーナツも揚げあがったので、それらもキッチンペーパーの上あげた。砂糖とシナモンをたっぷりと回しかけて、自分の分とミホコさんの分とを2つずつ皿の上に盛った。
コーヒーの準備をしていると、ミホコさんがボール状のドーナツの一つをバットから摘み上げて齧った。
「おいしい!」と感嘆の声をあげて、残りを僕の口に放り込んだ。
 シナモンの香りと砂糖の甘みが口の中に広がる。生地がカリカリに揚がっている。少し揚げ時間が長すぎたのか、温度が高すぎたのかもしれない。けれど、これも家庭の味と言って許される範囲だろう。
「やっぱり、お菓子も作れるじゃん」
 いつもの自慢げで満足げな表情でミホコさんが言う。以前にふたりで夕食を食べているときに、お菓子は作らないのかと聞かれたことがあった。僕は、お菓子はお菓子屋さんの作るものが一番だよと答えたが、彼女が不満そうだったので、いつかドーナツを作ってやろうと思っていたのだ。
「お菓子も作れましたね。でもやっぱり、お店の方が種類も豊富だし、敵わないよ」
「私、このサクサクのドーナツ好きよ。お店の柔らかいやつより、断然こっちのほうが好き!」
 ふたりでドーナツをすべて平らげると、満腹も手伝い二人とも眠くなってしまったので、一緒に歯を磨いてベッドでゴロゴロすることにした。時刻はまだ午後の5時過ぎだ。
「ねぇ、やっぱりこの旅館が一番いいと思うな」
 彼女が持ってきた温泉宿の特集雑誌がうちに置きっぱなしになっていた。その中から彼女が選び出したのは、一般的な和室の隣に、低めのベッドが置いてある黒を基調としたモダンな洋室もある部屋だった。もちろん部屋に露天風呂もついている。
「いいね。行こうよ! 旦那さんに許可もらったらいけるかな?」
「うん、たぶん大丈夫だと思うよ。彼、温泉どころか、お風呂もあんまり好きじゃないから、きっといいって言うと思う」
「もしかして、3人で行くわけじゃないよね?」
「それもいいかも。聞いてみよっか?」とミホコさんはいらずらな目をして言う。
 冗談じゃない。
 僕たちは具体的な日取りの話などはせずに、ドーナツの甘い香りが残った中で抱き合った。
 ふたりで少し眠って目を覚ますと、時刻は午後8時になっていた。ミホコさんの寝顔は大型犬のそれに似ている。目がトロンと落ち、大きな口は閉じているのに口角が上がっている。彼女の寝顔にキスをするとすぐに目覚めたようだった。
「何時?」
「8時らしいですよ。結構寝ちゃいましたね」
 布団の中でミホコさんを抱き寄せて激しくキスをしようとした。彼女はそれを一度受け入れると、するりと体を回して背中を向けてしまった。しかたなく首筋にしばらくキスをしていると、ミホコさんがこちらを振り返り、咎めるような目で見つめてきた。
「あなた最近エッチになってない?」
「それはいいことなんじゃないかなぁ?」
「私はあんまり得意じゃないから、何とも言えないけど、あなたと抱き合うのは嫌いじゃないわよ」
「それはすごくいいニュースです」
 今度は馬乗りの格好になって彼女の唇を狙った。彼女は首をのけぞらせて逃げるようにしたが、最後にはまた受け入れた。
「もう一回しよ?」
「もう! やっぱりエッチになってる」
 僕はキスをしながら彼女の体を移動した。彼女の青い血管の浮いた首筋から、やわらかい胸、白いおなか、ほっそりとしたふとももと順番にキスをして、小さな膝小僧まで降りてきた。
「明日は朝から用事があるの」
「日曜日の朝から何の用事?」
「船に乗りに行くのよ」
 僕はミホコさんの骨ばった足の甲にキスをしている。
「旦那さんの船?」
「ううん、あの人は船なんて持ってないよ。会社のパーティーを船でやるんだって。面白い人がたくさん来られるらしいの」
 彼女の奇妙に長い足の人差指をかじると、彼女はきゃっ、と声を漏らし足を引いた。
「あんまり、いたずらしないの!」と、彼女は言葉とは違って柔らかな視線で僕を見つめて叱った。
 今度は僕が犬で、躾けられているみたいな気分になった。結局彼女はすぐに洗面所で服を着替えて、帰ってしまった。
 コインパーキングから戻ると、部屋に油と砂糖のにおいがまだ強く残っているのに気付いた。甘くけだるいにおいだ。

 ミホコさんたち夫婦が、旦那さんの会社の船上パーティーで行われた催しでベストカップル賞を受賞したらしい。冗談の上手な会社なんですね、と言うと、彼女は楽しそうに笑った。
 それも話をよく聞くと、その賞品が温泉旅行だったらしい。それを彼女の旦那さんが、最近彼女ができたという彼の若い部下にあげてしまったらしく、ミホコさんはそのことでいくらか彼に腹を立てている様子だった。
 まさか、僕との温泉旅行にしようと思ったわけではあるまい。

 金曜日の夜に、僕らは外で一緒に夕食をとり、めずらしくそのままうちに行くのではなく、2件目に西ノ宮の山手にあるカフェに行くことにした。彼女が学生の時にテニスサークルでよく来ていたお店だというそのカフェは山間の住宅街の中にあった。別荘地にあるロッジのような作りで内装も山小屋のようにできていた。それほど広くない店内には、バーカウンターとカフェカウンターが別々に設けられていた。ミホコさんがコーヒーを、僕がビールを飲んだ。
「今週末、友達のイタリアンレストランのオープニングパーティーに呼ばれてるの」
「すごいね。お友達ってそのレストランのオーナーさんなの?」
「そうなの。オーナーシェフ。イタリアで修行していたこともあって、前までは有名なお店でチーフシェフをしていたんだけど、去年、奥さんと離婚されたのを機に、自分のお店を持とうって決めたらしいの」
「立派だね」
 2杯目のビールと一緒にサラダを注文した。
「サラダなんて食べるの? さっきゴハン食べてきたじゃない?」
「僕は丑年のおうし座ですからね」
「なにそれ? 酔っぱらってるの」とミホコさんはあきれたような顔をする。
「そのシェフってどんな人なの?」
「大学のテニスサークルの先輩だったんだけど、お料理が好きだなんて全然知らなかった」
「それもイタリアに修行しに行くほどですもんね」
「最初は商社だったか証券会社だったかに就職したみたいなんだけど、すぐにやめてシェフを目指したんだって」
「それでいまやオーナーシェフだ」
「そうなの。その人、見た目もイケメンだから、きっと流行ると思うんだよね。私の友達がサークルの時に先輩のことすごく好きでよくアタックしてたんだけど、その時には先輩にはもう彼女がいて、取り合ってももらえなかったの」
「イタリアンのイケメンオーナーシェフ」と特に意味もなくつぶやいた。
「そうなの。だから私もちょっとくらい手伝えたらいいなって思うの」
「手伝う?」
「食べに行くだけだけどね」と、ミホコさんはすまし顔。
 僕も連れて行ってくださいね、と言おうかと思ったが、本当に連れて行って欲しいかと言うとそうでもなかったので、言わなかった。そして、話を二人のことに切り替えた。
「ねぇ、温泉に行くの年末の休みにしない?」
「うん、そうね」と彼女の返事はどうも乗り気ではないようだった。
「あんまり?」
「旅行ってあんまり得意じゃないの。荷物とかも大変だし、いろんなことがおうちにいるときと違ってきちゃうじゃない」
 じゃあバリ旅行はなんだったんだよと突っ込みを入れたくなるが、抑えた。
「一泊くらい、いいじゃん?」
「そうね、考えとくわ」
 しばらくお互い何もしゃべらずに、僕はレタスのサラダをつまみにビールを飲み、彼女はコーヒーを飲んだ。
 なんだか二人の間の空気が澱んでいるようだった。こんな時、僕の部屋であれば彼女を抱きしめてしまうことで、空気を一気に変えてしまうことができるのだけれど、外ではそうはいかなかった。
 彼女のポルシェで家の前まで送ってもらって、そこで別れた。それほど、飲んだつもりはなかったのだが、なんだか酔っぱらっているような感覚があった。空には薄く雲が広がっていて、その奥で月がぼんやりと光をこぼしていた。

 うちで食後のコーヒーを飲みながら、お互いのスケジュールなどの話しているときに、面白い会が今週あるのよ、とミホコさんが「お肉の会」の話をした。
 数カ月に一回程度の頻度で社内の有志が集まって「お肉の会」と称して様々な肉を食べに行く集まりだそうだ。会の参加者はその都度変わるらしいが、彼女と同じかそれよりも上の世代の人が多いらしく、そのなかに僕が名前を知っている人はほとんどいなかった。その週の金曜日には7、8人で神戸牛の卸店が経営しているというレストランに行くということだった。焼肉ではなく、そこの売りはワインとシチューだそうだ。
「僕の知らない人ばっかりだ」
「そりゃそうよ、おじさんばっかりだもん」
「そういう時って何の話するの? 仕事の話?」
「そんなわけないじゃん。みんな部署も職位も違うから仕事の話はめったにしないよ」
 クククと思い出すようにミホコさんが笑う。
「なんか楽しそうですね?」
「そうなの。よく会でする話題なんだけどね、パートナーとのマンネリの解消法って話題で前回も盛り上がったのよ。みんな多かれ少なかれ、旦那さんや奥さんとのことで悩んでらっしゃるのよ」
「とても興味深いね。例えばどんな話を聞いたの?」
「旦那さんは、奥さんのことが大好きなんだけど、奥さんがなかなかオッケーしてくれないカップルがいたのね。つまり、セックスレスよね。それでね、彼は子供たちが友達の家にお泊りに行っている日にチャレンジしたわけ。3年ぶりくらいって言っていたかしら。そしたらね、あなたみたいなデブは嫌です、あと15キロ痩せてから出直しなさい、って怒られたそうなの」
「その人、そんなに太ってるの?」
「そうね、ガタイがいい人なんだけど、確かにおなかも出てるのよ。それでね、今私たち、会のたびにその人を体重計に乗っけて経過をチェックしてるの。その人も15キロやせたあかつきには堂々と奥さんにアプローチしてやるぞ、って頑張ってるのよ」
「いろんな夫婦がいるんだね」
「でも、セックスレスの話はよくある話題よ。珍しくないかも」
「そういう人たちってどうしてるんだろ。その性欲の処理っていう意味で。浮気してたりするのかな?」
「さすがに、会で浮気の告白をする人はいないけど、わかんないわよね。でもみんな、女性でも自分でするっていうよ。私もたまに自分でするし」
「えっ、ミホコさんも自分でするの?」
「するよ。あなたがしてくれるみたいに体を触るだけだけどね」
 ミホコさんが自分でしている姿を想像してみたがうまくいかなかった。正直なところ彼女にそのような性欲があるのだということ自体にびっくりした。
 いいチャンスだなと思ったので、僕はミホコさんをひょいっと持ち上げてベッドまで運んだ。ミホコさんが僕の首に腕を回してキスをした。
 旦那さんから二人の関係について公認を受けてから、変化したことが実はもう一つある。それは、僕が自発的に起こした変化でもある。
 ベッドに横たわった彼女とキスをしながら、彼女の着ているものを丁寧に脱がせていく。焦らず、ゆっくりと脱がしていくのがいいというのは彼女からの注文だった。一気に2枚脱がすようなことがあれば、焦りすぎよと言って叱られてしまう。だから、シャツを脱がして、キャミソールを脱がして、ブラジャーを脱がすのにたっぷり30分かかるようなことは珍しくない。そして僕が彼女の服をすべて脱がしてしまう頃には、彼女の体には僕がふれていない部分はひとつとしてなくなってしまう。指で、口で彼女の体を丁寧に執拗に愛撫して、彼女を果てさせる。
 彼女が果ててしまって、もういい、という風に僕の手首をつかむと、僕はすばやくコンドームを装着して、彼女の体を抱きしめるようにしてその中に入る。そして、僕はあっという間に射精をしてしまう。出てしまったものをティッシュでくるんでゴミ箱に捨てると、息が荒く上がった僕をミホコさんが柔らかく抱きしめてくれる。
 旦那さんの公認を受けてから、僕は彼女とセックスをするようになったのだ。
 正確にいつからそうなったのか覚えていないのだが、僕はある晩、その衝動を抑えきれなくなり彼女に入った。最初、彼女も驚いた様子だった。僕は彼女に入るとすぐに射精してしまった。
「我慢しなくていいのよ」と果ててしまった僕に、眠たげな眼で彼女は言った。
 それが、どういう意味なのかすぐには理解できなかった。その夜から、僕は彼女とセックスするようになったのだ。 

第7話 私がおばぁちゃんになっても

 会社の昼休みに外の定食屋で、クリスマスの予定を話していた時のことだ。ミホコさんは、クリスマスには旦那さんの会社の誰かが主催するパーティーに参加するということだった。なんせパーティーが好きな会社なのだ。
「ほら、夏に花火大会見に行ったじゃない。お友達のマンションに。あのマンションでまたパーティーをするらしいの。今度のはこぢんまりとやるつもりらしいんだけどね」
 ミホコさんは赤魚の煮つけの定食を食べている。とてもきれいに食べているので、骨が標本のように皿の上に残った。
「年末年始は旦那さんの実家に行ったりするの?」
「しないよ。私が自分の実家に帰るだけ」
「お互いの実家に行ったりとかはしないの?」
「しないよ」
「けど、ミホコさんが実家に帰るんなら、しばらく会えなくなるね」
「さみしい?」
 ミホコさんが覗き込むように僕の目を見つめる。
「そうだね」と答えると、彼女は、ふふふとうれしそうに笑った。
もしかすると僕は、彼女がそうやって喜ぶ顔が見たいから、寂しがって見せているのではないか、と疑った。けれど、やはりしばらく彼女に会えないというのはとても寂しかった。
「あなたのご飯もしばらく食べられないわね」

 ミホコさんのクリスマスの予定は旦那さんに奪われてしまったので、我が家では所属するサッカーチームのチームメイトとその彼女たちを誘ったホームパーティーを開催することにした。
 食卓には牛すじの煮込みと、山芋とキュウリのポン酢の浅漬けを用意することにした。夕方から仕事が終わり次第、みながうちに集まることになっていた。練習や試合がない日にチームメイトが集まることはとても稀なので、みんなとても楽しみにしてくれていた。ピザのデリバリーを取ることは決めていたし、菓子や飲み物の買い出し担当もそれぞれに決まっていたので、僕の方で準備すべきことは特になかった。牛すじの煮込みや漬物を用意するのはあくまで僕の趣味だ。
 うちの会社はクリスマスを公休にしているので、僕は朝のうちにいつもの精肉店ですじ肉を買い、それをこんにゃくと一緒に煮込み始めていた。
 その時、ミホコさんからメールが来た。
「クリスマスだし、やっぱりあなたに会いたくなったよ」
 友人達に対する言い訳よりも先に、僕はミホコさんのためのメニューを考え始めていた。

 駅の改札でミホコさんを待っていると、仕事帰りであろうサラリーマンの黒いスーツの群れの中から首周りにファーの着いた真っ白なコートを着たミホコさんが現れた。ホームから降る階段の中でそこだけパッと明かりが灯されたみたいに見えた。
「メリークリスマス」と非の打ちどころのない笑顔でミホコさんが言う。
「メリークリスマス」と僕は思い出したように応えた。

 その日、ミホコさんがお酒を飲むところを初めてみた。とはいっても、グラスにカヴァをほんの数センチだけ。
「クリスマスみたいな格好をしてるね」
 ミホコさんは白いセーターに真珠のネックレスをしていた。
「だって、クリスマスじゃない」と彼女は得意げな目線をこっちに向ける。
「会えないかと思ってた」
「会えてうれしい?」
「はい」
 ミホコさんから連絡があって、僕の足はすぐにスーパーへと向かっていた。友人達には適当な理由で断りと詫びを入れた。僕の家で開催するはずの会だったので、僕のキャンセルは彼らにとっては大きな厄介になったに違いなかった。少なからず彼らからの信頼を失うことになったかもしれない。
けれど、僕の決断は躊躇なく下された。
 ミホコさんはいつものように膝にハンカチを敷いて、マーマーレードソースのチキンソテーとルッコラのサラダを華麗に平らげた。僕はその姿をうっとりと見つめる。それは僕にとって、友人たちに対する背徳感を忘れさせるには十分なものだった。ミホコさんは、オニオンスープにガーリックトーストを浸しながら、とても大切そうに食べた。
 いったいどういう理由があって、彼女が旦那さんと約束していたクリスマスパーティーに出かけるのではなくて、うちに来ることになったのかは聞かなかった。気にならなかったわけではないが、彼女もそれを話そうとはしなかった。

「私のどこが好き?」
 ミホコさんが、そのほっそりとした青白い人差し指を僕の裸の胸にはわせて、甘えるように尋ねてきた。
「美しいところです」
「見た目だけなの?」
 彼女の指が僕の体を這って、へそのあたりに落ち着いた。
「見た目がきれいなのもそうだし、立ち振る舞いとかそういうのも全部が美しく見えるんです」
「うれしい。でも、私なんてあっという間におばさんになって、可愛くなくなっちゃうよ」
「そんなことないよ。ミホコさんが可愛くなくなるなんてことはないね」
「なんでそんなを断言できるの?」
「すごく好きだからかな」
「それじゃダメなの。それだと、私が可愛くなくなっちゃったら、あなたは私のこと好きじゃなくなっちゃうのよ」
「そんなことないよ」
「そんなことあるの」
 ミホコさんの言葉から、何かを悟ったような、諦めたような響きがした。僕はそれをすごく悔しく思った。けれど、僕らの間にある溝を埋める方法が思いつかない。
 僕のおなかの上に置いていた彼女の手が離れたので、僕は離れないようにその体ごと抱きしめた。彼女のしっとりとした肌が僕に重なり、彼女の香りを濃く感じる。
「僕はずっとミホコさんのこと好きでいますよ。もっと一緒にいたいって思うし、もっと幸せにしてあげたいって思ってます」
 僕の言葉に反応して、今度はミホコさんが僕の頭を抱きしめた。僕の顔が彼女のやわらかい胸の中におさまった。
「あのね、私はあなたよりひと周りも年上なの。考えても見て。あなたが40歳になった時、私はもう52歳のおばちゃんよ。そんなみじめなことってある?
 私ね、あなたのこと大好きよ。だからね、あなたに若くてかわいい奥さんができたらいいなって思うの。そうして私たちは疎遠になっちゃうの。でもね、あなたが奥さんとケンカした時なんかに、私たちこっそり会うの。そしたら、あなたは会うたびにカッコいい大人になっていって、でもね、私はどんどん年老いていくの……」
いつのまにかミホコさんの体は小刻みに震えていた。僕の頭に彼女の熱い涙が落ちるのを感じた。そこには僕の知らない悲しさがあるようだった。

 僕の愛情は彼女の悲しみに火をつけた。燃え上がった炎は煙を空へと登らせて雲になり雨を降らせた。そして、雨に濡れた緑がその色をまた一段と濃く萌やす。

第8話 エニグマチックな彼女

 年が明けて人々の生活も通常営業に戻り始めていた。僕も短い実家滞在から神戸に帰ってきた。
「たぶん、あなた嫌がると思うんだけど」
 その日、ミホコさんは珍しくそんな前置きをして話し始めた。
「来月、彼とハワイへ行くの。彼の会社の人の結婚式に出るの」
「行かないって選択肢はないのかな?」
 聞いて、滑稽な質問だと自分で思った。
「行くと思う。でも、前も言ったじゃない。家族旅行と一緒だって。それに私ハワイに行くのは初めてなの」
「僕に何ができる?」
「いい子にして待ってて」
「約束はできないな」
 ミホコさんの表情は困惑していた。
「それともうひとつ言っておいた方がいいと思うことがあるんだけど、大丈夫かな。あなたが聞きたくないんだったら言わないでもいいことなんだけど、私、隠すようなことはしたくないの」
 さらに前置きをして話を切り出したので、いったいどんな悪いニュースが出てくるのだろうと正直なところとても怖かった。できれば聞きたくはなかった。けれど、的外れな不安を抱くくらいなら聞いてしまった方が楽だろうと思ったので、「どうぞ」と続きを促した。
「私達も一緒に結婚式を挙げさせてもらうの」
「ミホコさん、何回目の結婚になるんだっけ?」
「ねぇ、ふざけないで」
 彼女がその大きな黒目がちな瞳でまっすぐに見つめてくるので、僕には逃げ場がなくなってしまう。
「私達夫婦の結婚式はね、もう5年前にちゃんと挙げてあるんだけど、それはお互いが再婚だったから、外の人は呼ばずに身内だけでやったのね」
 僕は「私達夫婦」という言葉がもうミホコさんから出てこないことを祈りながら続きを聞いた。
「でね、今回、式を挙げるカップルがぜひ福島さんたちも一緒に式を挙げないかって提案してくださったの。それに、ほかにも何組かそういった式とか披露宴をちゃんと挙げていないカップルが参加して、合同結婚式みたいなことをするらしいの。だから、私たちも参加しちゃってもいいかなって」
「ウエディングドレスは着るの?」
「もちろん」
「きっときれいだろうね」
「絶対よ」
 ミホコさんの表情に自信が戻った。
 ミホコさんは僕と出会う前から結婚している。彼女は旦那さんと生活をしている。一緒に食事をして、一緒のベッドで寝ている。パーティーや旅行なんかにも連れ立って出かける。当たり前のことだ。
 彼女のすることに自分が口出しする権利なんてあるわけがないじゃないか。そうやって暴れる心を自分の中に押し込めた。
 
 出発の日にミホコさんから「行ってきます」という短いメッセージがあった。その夜以来、僕はうまく眠りを迎えることができなくなってしまった。
 ミホコさんがウエディングドレスを着て教会から出てくる姿。ハワイの太陽。ヤシの木。波の色。人々からの祝福。旦那さんの腕の中で眠る彼女。助手席に座る彼女。そういったイメージが強いバリアとなって眠りが僕のところに来るのを阻んだ。
 そんな夜にはベッドから這い出して、ブランデーを飲んだ。氷をいっぱいに入れたグラスに琥珀色の液体をグラスに1㎝、一気に飲み干す。ミホコさんのイメージが極彩色のように鮮やかにグロテスクに展開し、呼吸が深くなる。溶け始めた氷の上に今度はたっぷりとブランデーを注いで、香りとアルコールが体に広がるのをゆっくりと感じながら何杯か飲む。いくつかのイメージが溶け合うように混ざり合い、複数の絵具を混ぜてできたような不気味でまだらな黒が渦を巻く。ようやく僕の意識もその黒い渦に吸い込まれていき、眠りがやってくる。

 ミホコさんからホテルのプールの写真が送られてきた。中央にハイビスカスの絵が描かれたプールだった。背景の空も青く、天候にも恵まれたようだった。
 次の日には式場の写真が送られてきた。それは、オーシャンフロントスタイルで屋外の広場に簡易的なチャペルが仕立てられていた。芝生のはじけるような緑の上に真っ白なバージンロードがよく映えていた。チャペルの向こう側は崖になっていて、見渡す限りの海と空が広がっていた。
 それから数日、彼女からの連絡がなくなった。式の準備やなにやらで立て込んでいるのかもしれなかった。僕の方から何通かメールを送った。
 お土産にコナコーヒーを注文した。
 ウエディングドレス姿の写真もお願いした。もちろん旦那さんと一緒に写っているものでなくて、一人で映っているものを。
 おいしいたい焼き屋を見つけたことを報告した。それは天然のたい焼きというもので、一匹一匹を別々の独立した鋳型で焼いたものだった。
 けれど、彼女からの返信はなかった。
 夜はアルコールに身を任せて眠った。

 最初のころは、ミホコさんとの付き合いを続けていれば、そのうちに彼女を振り向かせて、旦那さんから奪い取れるはずだ、という自信があった。彼女が旦那さんに僕のことを告白するまでの話だ。
 彼女の旦那さんが僕らのことを認めてしまって、僕は戦うべき相手を失ってしまった。それでも、いや、そのせいか僕はミホコさんを自分のものにしたいという想いを日々強くしていた。彼女の旦那さんはやはり依然として大きな壁ではあったが、実はそれ以上にミホコさん自身のことがどんどんと分からなくなってきていた。イタリアンレストランのイケメンオーナーシェフの作った料理をおいしそうに食べる彼女。自宅のベッドで自慰をする彼女。僕と一緒にいるときの彼女。旦那さんが運転する車の助手席に座る彼女。ミホコさんの姿をいろんな角度から思い浮かべようとすると、その正体が曲がって捻じれて歪んで、像がバカになってしまう。
 そんな風に感じたくはなかったが、僕は自分が疲弊していくのをうっすらと感じ始めていた。

 帰国予定の日に、ミホコさんから「もうすぐ帰るよ」とメールがあった。
 ミホコさんがハワイに行く日の周辺から、ちょうど仕事が忙しくなり始めていて、その日も遅くまでオフィスに残って、終電間際に帰ることになってしまっていた。晩御飯も食べていなかったので、残り物で鍋焼きうどんでも作ろうかと考えながら家路を急いだ。
 自宅のマンションに付き、ポストに詰め込まれた広告類を丸めて取り出し、部屋に向かう。すると、玄関の前に何かがいるのを見つけて、ぎょっとした。その影は四角く大きな箱のようなものを持った少年に見えた。こんな遅い時間に来客があるわけもないだろうし、幽霊かと思った。よく見るとそれは、スーツケースをもったミホコさんだった。
「ただいま」
 とてもフラットな笑顔をしてそう言うので、まるで状況が呑み込めなかった。
「おかえり。帰る家、間違えちゃったの?」
「そうかもしれない」
「僕としてはうれしい限りなんですけど、ハワイで旦那さんと喧嘩でもした?」
「そうじゃないの。彼は関係ないの。私、あなたともっと向き合ってみようって思ったの。だから、今日からあなたと一緒に暮らします」
 あまりにも突然のことで、何がなんだか分からなかったが、とにかく久しぶりにミホコさんに会えたことがうれしかった。
「そういうことなら、いらっしゃいませ」
 精一杯にクールに装ってみるが、ミホコさんはそれを見越したように上目づかいに、僕の様子を伺うようにこちらに笑みを見せた。

 彼女がうちにやってきた。

 その日は遅かったので、彼女の荷物を置くスペースをクローゼットに確保して、簡単に片付けてしまうと、順番にシャワーを浴びて、寝ることにした。
「意外と住み心地悪くないかもしれないわね」
 そう言って、ミホコさんが先にベッドにもぐりこんだ。
「何か気になることがあったら言ってくださいね」
「実はね、駐車場がないのが困るなぁって思ってたの。電車通勤してたら運転する機会がなくなっちゃうんだよ」
「いつものコインパーキングに停めたらいいんじゃない?」
「屋根のないところに停めておくのはダメよ」
「じゃあ駐車場はどっかいいとこを探してみます」
 寝る前にもう少しだけ仕事を片付けようと思って、会社のPCを持って帰っていた。けれど、ミホコさんが眠ってしまう前に一緒にベッドに入りたかったので、そのままPCを開けずにベッドにもぐりこんだ。
「お仕事はいいの?」
 彼女の質問に答える代りに、口づけをした。
「悪い子」
 一緒にイタズラでもしているような笑顔で彼女はそう言った。
 さらに強く口づけをしようと抱きしめると、彼女は身をよじるようにして、頭を僕の胸の中に隠してしまった。ミホコさんの髪はまだ少し濡れていて、僕がいつも使うシャンプーのにおいがした。
「なんで急に一緒に暮らそうだなんて思ったの?」
「秘密」
 彼女の声に含みのようなものは感じられなかったが、なにか嫌な予感がしたのは僕に自信がなかったからなのかもしれない。
「今日は疲れたでしょ。ゆっくり眠ってください」
 そういって僕はカンガルーの母親のようにミホコさんを抱き抱えた。
「ありがとう、おやすみなさい」と言って彼女は眠った。
 その日の僕の眠りは久しぶりに穏やかにやってきた。

 翌朝、ミホコさんがベッドから抜け出すのを感じたが、ベッドサイドの時計はまだ7時過ぎだったので、僕はもう一度、布団をかぶった。朝のニュース番組が始まる音が聞こえた。まどろみの中で、僕はまだミホコさんを抱きしめているつもりでいた。このまま朝なんて来なければいい。
どんっ、と体に重みを感じる。
「ほら、そろそろ起きなさい」
 布団の中の僕にのしかかったミホコさんはすでに着替えもメイクも済ませてあった。朝食に用意していたシリアルはボウルに取り分けられ、コーヒーは湯気を立てていた。僕が洗面所で髭をそって、髪を整えてリビングに戻ると、ミホコさんはなにやら仰々しい機械で髪を巻いていた。
「これは旅行用のものだからなかなかうまく決まらないの」
 朝食を食べながら、彼女が自分の髪の毛と格闘しているのを眺めるのは、僕の気分をとても幸せにさせるものだった。
「もし、先に出るんなら行ってもいいからね」
「せっかくなんだし、今日くらい手をつないで一緒に出勤しましょうよ」
 ミホコさんは呆れた顔をしながら、また機械と自分の髪の毛との格闘を続けた。

 せっかくミホコさんとの同棲生活が始まったというのに、僕の方では仕事が立て込んでいた。帰りが遅くなるとミホコさんに伝えると、じゃあ外食をしようということになった。オフィスのロビーが閉まるぎりぎりの時間にミホコさんと合流して、中華料理屋で定食を食べて、帰った。
「電車で帰るのって、なんか変な感じがする。車で海沿いをブーンって走って帰らないと気分が出ないのよね」
 僕は彼女にとっての車の存在を軽視していたようだった。これは早急にちゃんと屋根付きの駐車場を見つけた方がいいなと思ったが、僕の住む住宅街にそのようなものがあるのだろうか。

 風呂上りにミホコさんはその真っ白い体中に様々なクリームを塗りたくっていた。手伝おうかと言ったが断られた。
「その中で一番おいしいクリームはどれだろう?」
「ボディクリームだもん。どれもおいしくないと思うよ。いい香りはするけど」
 近寄って匂いを嗅いでみると、ローズマリーの香りがした。
「ほらやっぱり、おいしそうなにおいがする」と言って、ミホコさんの首筋に柔らかく、かみついた。くすぐったがるようにして体をひねり、彼女が腕で僕を遠ざける。彼女に押されて、その力を感じて、またさらに彼女を抱きしめたいと思った。いつものようにお姫様抱っこでベッドに運ぼうとするのだが、ボディクリームやらヘアオイルやら作業が多くて、そのタイミングがつかめない。
「ほら、明日も仕事忙しいんでしょ。早く寝ちゃったら?」
 こっちの気も知らないでミホコさんがそんなことを言ってくるので、ついに我慢ができなくなって、彼女の足をすくってお姫様抱っこに持ち込んだ。宙に浮いた彼女にキスをすると、彼女がそれを受け入れた。彼女をベッドに寝かせて、いましがた塗られたクリームの味を確認するように首筋をなめた。やはりローズマリーの香りがした。自分が強く勃起しているのを感じる。
「ねぇ、明日は何時に起きるの?」
「いつも通りです」と適当に答えながら、彼女への愛撫を続けようとしたが、「今日はもう寝るよ」とミホコさんが言うので、それで諦めた。
 自分の焦りを見透かされたような気がしたので、改めて彼女の質問に答えた。
「明日は早めに出社して、早めに帰るようにします。せっかく一緒に暮らしてるのに、ご飯を作れてないから、明日は何か作ろうと思うんだよね」
「うれしい。和食がいいな。ほっこりするやつ」
「まかせなさい」
「そういえば、あなたって、姿勢は悪いのに、寝相はとてもいいのね」
「そうなの?」
「そうよ。まるで、象みたい。だから、私、好きにあなたのことを枕にして寝てるのよ」
「役立ってるようならよかった」
 もうすこし気の利いたことを言いたかったのだけれど、旦那さんの寝相はよくないのか、という質問が頭に浮かんでしまったせいでうまくいかなかった。一方都合のいいことに、それで僕の勃起も収まった。
 しばらく取り留めもない話をしているうちに、ミホコさんの声が聞こえなくなったので、僕も眠ることにした。

 予定通りにミホコさんより先に、早目に帰宅した僕は晩御飯の支度をした。ブリ大根を作ろうと昨日から決めていた。脂ののったブリには熱湯をし、大根は面取りをして下茹でをしておく。ブリに大根、ショウガ、水、酒、みりん、砂糖を入れて、アクを取りながら煮る。煮立ったら醤油を加え、落し蓋をしたらさらに煮込む。その間に、ほうれん草のお浸しときのこの炊き込みご飯、レンコンのお味噌汁を用意した。
火を止めて、ブリ大根に味をしみさせているとミホコさんが帰宅した。
「おいしそうなにおい」
「今日はとっておきのご飯だよ。先にお風呂入っちゃう?」
「おなかぺこぺこだし、もうこのにおいを嗅いだら我慢できない!」
 ミホコさんは洗面所で手を洗って帰ってくると、ハンカチを膝に敷いてすぐに食卓についた。
「このブリ、口の中でとろけるみたい! すっごくおいしい! とても上品な味がするね」
 ブリ大根を満足そうに頬張り、笑顔をこちらに向けてくる。続けて、ほうれん草を食べ、炊き込みご飯を食べた。よほど気に入ったのか、すりおろしたレンコンのお味噌汁を最後に少し、おかわりまでした。
「やっぱりあなたの作ってくれるご飯が一番好き」
 僕はやはりミホコさんの食べている姿が一番好きなのだと改めて思った。

 ミホコさんとの同棲は、不自然なくらいに自然に続いた。僕はもちろん、彼女も大きなストレスを感じているようには見えなかった。
週末に一緒に出掛けようと提案したが、一度、家に帰らなくていけないということだったので、それは諦めた。
 近くに屋根付きの駐車場を探したが一番近くても徒歩20分はかかる距離だったので、それだったら電車で出勤したほうが楽な距離になってしまう。近くのマンションの駐車場を借りられないかと調べてみたが居住者優先のため空きが見つからなかった。そのことを伝えるとミホコさんはとても残念そうにしていた。
 土曜日の昼に彼女が自分の家に帰り、日曜日の夕方に戻ってきた。
 二月の終わりにしては、暖かい日だった。
「帰ってくるんだったら。先に行ってくれたら駅まで迎えに行ったのに」
 そんな風に当たり前のように彼女を玄関で迎え入れたが、内心では彼女がもう戻って来ないのではないかと冷や冷やしていた。
「車で来ちゃったの」
「駐車場は?」
「今週は雨降らなそうだから、いつものとこに停めちゃった」
 そういって満足げな笑顔を見せて、当たり前のようにミホコさんは僕のところに帰ってきた。

 その日の夜に二人でベッドの中で一緒に映画を見た。ミホコさんが借りてきたミステリーものの洋画だった。小さな村で猟奇的な殺人事件が起きて、犯人はまだ捕まっていない。主人公の女性とその娘も街で起こったことにおびえている。主人公の女性は旦那さんと別れて娘さんを一人で育てているらしい。最初の20分くらいで、事件現場の回想シーンや挿入されるいくつかのカットから、僕は事件の犯人が分かったので、それを紙に書いて枕の下に差し込んだ。
「この紙に犯人が誰か書いたから映画が終わったら確かめてごらん」
「もう犯人が分かっちゃったの?」
「まぁね」といつもミホコさんがよくする自慢げな表情を返してやった。
 それからベッドの中で僕は彼女の背中を抱いて、見るともなく映画を眺めていたが、いつのまにかうとうととしていたらしい。ミホコさんが声を上げたので、目が覚めた。
「分かった。この主人公、多重人格なんだ!」
 すっきりした顔をしてミホコさんがこちらを振り返った。
「正解です。あっ、正解かどうかは最後まで見ないと分からないけど」
「でも、あなた、どうして最初の何十分かでわかっちゃったの?」
「映画の視点が基本的には主人公の女性の目線なのに、犯人じゃないと知りえないようなカットがいくつか最初の方から差し込まれていたんですよ。だから、もしかしたらって思って、主人公が犯人だったとしたらっていう仮説を当てはめてみたらとドンピシャだったんです」
「探偵みたい。でも、先のことがわかっちゃったら面白くないね」
「何でも分かるわけじゃないよ」
 映画はクライマックスを迎えて、主人公の友人が彼女に自首を勧めている。僕はミホコさんをぎゅっと抱きしめて、キスをした。
 首筋にキスをしようとすると「まだ映画が終わってないじゃない」と言って、テレビの方に体を向けてしまったので、しかたなくまた後ろから抱きしめた。
 エンドロールが流れ始めると、ミホコさんはテレビを消して、部屋の明かりを消して、今度は自分から僕にキスをした。そして、「おやすみなさい」と言った。僕も「おやすみ」と言って眠りについた。

 ミホコさんとの生活は2週間目に入った。変化と言えば、朝の通勤が彼女の車になったことくらいだった。神戸の海沿いを彼女のポルシェの助手席に座って走るのは、とても爽快な気分だった。それは通勤という感じではなくて、もはやドライブという感じさえした。
 その週も僕の仕事が遅くなりがちで、水曜まで一緒に夕食をとることができなかった。週に1、2回お互いに約束をして会っていた時と違って、今は率先して予定を合わせなくても家に帰れば彼女がいるという安心感があった。
 木曜日には、ミホコさんが友人とイタリアンのお店に遊びに行くというので、今度は僕が先に寝て彼女を待つことになった。0時を少し過ぎた頃に彼女は帰ってきた。
「起こしちゃった? ごめんね。お友達とコーヒー飲んでたらこんな時間になっちゃった。シャワー浴びてくるね。」
 シャワーを浴びた彼女がベッドにもぐりこんできた。
「今日は何を食べたの?」
「クレームブリュレの冷やしたやつ!」
「それデザートじゃん」
「だって、すごくおいしかったんだもん」
「いいなぁ。そんなの聞いたら、おなかすいてきちゃうな。そうだ、明日の晩御飯何か作ろうと思うんだけど、何がいいかな?」
「冬ももうすぐ終わっちゃうから、お鍋がいい」
「もつ鍋なんてどう?」
「素敵!」
「いいお肉屋さんがあるからそこでお肉を調達してくるね」

 精肉店は19時には閉まってしまうので、いつもよりずっと早めに会社を出てもつ肉を調達した。野菜もスーパーではなく、鮮度がいいものを置いている八百屋へ寄って買ってきた。
 昆布でベースの出汁を取り、酒、塩、醤油、で味を調整した。野菜はネギ、キャベツ、ニラ、椎茸、舞茸、山芋を切ってバットの上に準備した。モツは油の付いていない小腸と油付きの小腸、赤センマイの3種類を用意。それと、ミノポン酢も一緒に用意した。店主の言うことには、上ミノだと茹でるには柔らかすぎるので、ミノポン酢にするなら並ミノのほうが良いということだったので、並ミノを使うことにした。テーブルにガスコンロを置いて、すべて準備は万端だった。完璧な食卓に、ひさびさにビールでも飲もうと思った。
 しばらくするとミホコさんから「もうすぐ帰るよ」と連絡があった。会社から家まで車で15分はかかるので、僕はシャワーを浴びて待った。

「すごくいい匂い!」
 ミホコさんは玄関を開けるやいなや、嬉しそうにそう言った。
「もうおなかペコペコなの」
 そう言って、白いコートを脱ぬいで、洗面所で手を洗い、ハンカチをひざに乗せて、食卓に着いた。
「ねぇ、食べる前にあなたに言っておかなきゃいけないことがあるの」
「おなかペコペコなのに?」
「そうなの。私、明日、自分ちに帰る」
 声のトーンでそれが一時帰宅でないことが分かった。
「もうこっちには帰ってこないってこと?」
「そうよ。でもね、勘違いしないで。あなたとの生活が嫌だったわけじゃないの」
「じゃあ、ずっと僕と一緒にいたらいい」
 まっすぐ僕を見つめる彼女の目からは何も読み取れない。ただ彼女が僕に対して正直にものを言っているということだけは伝わってくる。
「あなたのことすごく好きよ。だから、このまま一緒に暮らしてたらダメなの」
「なんでダメなんですか?」
「私は、あなたに恋をしていたいの」

第9話 恋の終わり

 明りがつけっぱなしの部屋で目を覚ました。そこにミホコさんの姿はもうない。食卓にはもつ鍋の用意が火をつけられることのないままに残っていた。よく見てみると、ミノポン酢だけが、すべてきれいに平らげられていた。彼女らしいなと思って、ふっと笑いがこぼれた。
 僕はあの晩、彼女の言うことを受け入れることができずに、彼女との話も半ばに食卓を放棄してベッドで眠り込んでしまったのだ。

「どうしてミホコさんは旦那さんと結婚したの?」
「あの人は私を自由にしてくれるの」
「僕はミホコさんの旦那さんのせいでとても不自由な思いをしている」
「意地悪を言わないで。でもね、それは本当なの」
「僕にはできないことなのかな?」
「私はあなたにそういうことをして欲しいとは思わないの」
「だから、うちを出ていく?」
「それはまた違う話なの」
「結局のところ、僕はただの浮気相手でしかないってことなの?」
「そんなはずないじゃない! 私にとってのあなたはもちろんそれ以上よ」
「何とでも言えるさ」
 ミホコさんは少し考えるように間を取って話を続けた。
「私ね、旅行中に彼にあなたともっと一緒にいたいって話したの。そしたら彼が、その子もうちに住まわそうかって提案してくれたの。でも結局、私があなたのところに行くことにしたの」
「反対されなかったの?」
「されたよ。それに、僕は君と離婚するつもりはないよってはっきり言われた。でも、私はとにかく、あなたのそばにいたいって思ったの」
 しばらく間をおいてミホコさんがポツリとつぶやいた。
「でもやっぱり違ったみたい」
「僕とは一緒に生活できない?」
「したくないの」
「ひどいな」
「悪い意味じゃないのよ。勘違いしないで」
「僕は、ミホコさんと結婚して、おじいちゃん、おばぁちゃんになってしわくちゃになるまで一緒にいたいって思うよ」
「私はおばぁちゃんになんてなりたくないの。そんな姿をあなたに見られたくもないの」
「不老不死の魔法が必要だね」
「そうね」
 ミホコさんの表情が少しだけ和らいだ。

 部屋にはネギやニラのにおいが充満して鼻をついた。窓を開け放つと、冬の低い空はすでに白み始めていた。野菜はすべてゴミ袋にまとめ、出汁も流しに捨てた。モツは冷蔵庫に保存していたが、それもなんとなく捨ててしまった。すべての食器類を洗って、元に戻してしまえば、半分だけ空っぽのクローゼット以外には昨夜までのミホコさんの気配もなくなってしまった。熱いシャワーでも浴びようかと思ったが、思い立って、コインパーキングに向かった。マンションを出て、路地から大きめの道路に出るとそれはすぐそこにある。数台の車が駐車されていた。けれど、もちろんその中に白いポルシェの姿は見当たらない。
 朝の空気は凛として冷たかった。寝巻のまま外に出たせいで、するどい寒さに体が震えた。

 ミホコさんは自分の最初の結婚について話をした。それは彼女が会社に入社してすぐの時で、相手は会社の同期だったそうだ。その時はなにも深く考えずに、結婚というあこがれに飛びついてしまったのだと彼女は言った。もちろん相手のことは好きだったけれど、一度結婚してしまうと、結婚とそれを取り巻く様々なことにうんざりしてしまったらしい。その一つが家族の問題であり、子作りの問題であったそうだ。離婚の話を始めてから、すべての手続きが済むまでに丸々2年もかかったという。その2年は本当に辛かったそうだ。
 そうして離婚にまつわるすべての手続きが終った時に、彼女は白いポルシェを買ったのだそうだ。

 僕の中にはミホコさんに対するふたつのポラライズした想いがあった。
 ひとつはもうこれで終わりにしよう、という考えだ。僕が求めるような形で彼女を手にすることはできないのだと理解してしまって、諦める。
 もうひとつは、一生このまま彼女の恋の相手という宙ぶらりんの存在のままでいようという考えだ。彼女を失ってしまうくらいならその方がましだと思った。

 ミホコさんが去り、眠りもまた僕の元から遠ざかっていった。布団に入り、眠けが訪れるのを待つ。しかし、それは一向にやってくる気配がない。そして、僕は睡眠を追いかけ始める。するとそれは僕をあざ笑うようにその姿を隠してしまう。しかたなく、布団から起き出しブランデーを飲む。その琥珀色の液体は一度僕の気持ちを強く覚醒させるが、それもやがてろうそくの灯のように徐々に小さくなって消えてしまう。そんな夜が続いた。

 街灯に照らされた桜の花のつぼみがパンパンに膨れている。もう春がそこまでやってきているのだ。会社の帰りに遠回りをして、河川敷などを歩くと、草木や生き物の目覚める匂いに鼻をくすぐられた。
 あの晩以来、1カ月近くミホコさんからのメールは途絶えてしまった。彼女の方では僕についての結論が出てしまっているのかもしれない。
 彼女が僕にリクエストした料理に小田巻蒸しというものがあった。僕はその存在を知らなかったので、また今度勉強してから作るねと約束していた。それは、簡単に言ってしまえば、茶わん蒸しの中にうどんが入ったものだ。ちょうど軽いものを食べたいと思ったので、帰りに材料を買って、家で作ってみた。市販の茶わん蒸しの素を使って作ったので、想像したような味になった。たとえば、茶わん蒸しの味をもう少しだけ薄味にして、ショウガたっぷりの和風出汁の餡をかけて、あんかけスタイルにしたらミホコさんは喜んでくれるだろうか。それともこれは懐かしい素朴な味をそのままを食べたいという種類の物なのだろうか。こうやって気づくとミホコさんのことを考えているときがたまにある。食べかけの小田巻蒸しの写真を彼女にメールした。当然、返事は帰ってこない。シャワーを浴びて、ブランデーを飲んで眠る。

 いったい今日は何杯目のブランデーだろうか。眠りは一向に訪れない。鼻からは甘いアルコールの香りが抜けていく。頭に浮かぶのは、ミホコさんの白く透き通った肌だ。僕は彼女の身体のすべてを知っている。額の髪の生え際にある古い傷や、お尻にあるハートマークに見えなくはない小さなシミ、左足の薬指にある小さなほくろ。そういったすべてを僕は愛していた。
「会いたい」と酔いに任せて、ミホコさんにメールを送った。
 返事が来たら彼女を迎えに行くんだ、とアルコールでふにゃふにゃになった頭で思う。もう電車はないので、タクシーで彼女の家の前まで乗り付けてやろう。
まだ頭に少しだけ正常な部分が残っていたおかげで、一度シャワーを浴びて正気を取り戻そうという気になった。
風呂を沸かす間に、ミネラルウォーターをコップに3杯飲んだ。頭が少しだけマシになった気がした。熱い湯でさらに身体からアルコールを飛ばしてしまえば、ずいぶんすっきりするだろうと思った。
 その時、ベッドルームからメールの着信音がしたので、服を脱ぎかけた姿のまま携帯をとりに行った。
「メールありがとう。でも、あなたとはもう会えない」
 大きな感情のうねりで心と体がぶわっと膨れるような感覚がした。深呼吸をして、ゆっくりと息を吐く。寒気がして、くしゃみが2回出た。グラスいっぱいに氷を入れて、ブランデーの瓶をもって風呂に入った。熱い風呂の中で飲む冷えたブランデーが、僕の中を冷やしながら燃やしながら進んだ。
「会いたい」と風呂場に持ち込んだ携帯でもう一度メールを送って、しばらくブランデーを飲みながら待った。しばらく待つが、一向に返信が来る様子はなかった。
 どれくらいの時間が経ったのだろう。風呂の中で飲む数杯目かのブランデーは、もう氷も溶けてぬるくなってしまっていた。酔いもある程度まで来てしまって、感覚がぼんやりとしてしまっている。風呂の水もすでにぬるくなってしまっていた。不意に思い立って、瓶に残っているブランデーを湯船に流し入れた。風呂の表面が、京都の川床から漏れてくる電灯の明かりに照らされた鴨川のようにとろりとした琥珀色に染まった。とてもいい眺めだ。それでも、風呂の水は冷えていく一方で、次第に寒気を感じてきた。湯を足そうと思うが、蛇口に手を伸ばすのも億劫だった。
 風呂のヘリに先刻メールを送った携帯を見つけ、今度はミホコさんに電話をかけてみる。何度か呼び出し音が鳴った。やはり出ないだろうなと思ったころに、彼女の声が聞こえた。
「もしもし」
「……」
 何も言うことを用意していなかった。もしかしたら彼女の声を聴きたかっただけだったのかもしれない。
「お酒でも飲んでるの?」
 僕の荒い息遣いを感じて察したらしい。けれど、僕にはなにも言うことが思い浮かばなかった。
「ちゃんとあったかくして寝るのよ」
 彼女の声を聴いているだけで幸せな気分になれた。
「もう切るよ」と優しく、探るような声で彼女は言った。
「やだよ」と言いかけた時に力の抜けた手から携帯が滑り落ちた。それは僕の鎖骨でバウンドして、そのまま湯船に飛び込んでしまった。慌てて携帯を冷たくなってしまった湯船から取り出したが通話はおろか、携帯がその機能をすべて停止してしまっていた。ブランデーを飲みたいと思ったが、それはもうすべて湯船に流し込まれていた。寒さで体が震えてくる。なのに、瞼が重くなってくる。

 このまま眠ったら死んじゃうのかな。
 湯船もそれほど深くはないから大丈夫だろう。
 だって、もう動けない。
 身体も心もふにゃふにゃだ。
 寒い。
 とても寒い。
 でも、今日もやっと眠くなってきたじゃんか。

 僕の死は自殺ではなく、事故死として扱われることとなった。
 僕のことは社内でもそれなりのニュースとして人々のうわさ話になったそうだが、幸か不幸かミホコさんの耳にそのことが入ることはなかった。
 僕との関係を清算したミホコさんは旦那さんとの絆をさらに深めていたらしく、折しも二人の子供を一度に妊娠したらしい。もちろんそれは僕の子供ではない。もしかしたらがないとは言えないが、そうではないだろう。
 ミホコさんは実は子供を妊娠できない体なんじゃないだろうか、と思っていた僕はなんだったのだろうか。高齢出産と言うこともあり、妊娠を機に彼女は会社を辞めた。そのおかげで彼女に僕の訃報が耳に入ることはなかったということだ。
 彼女が母親になる姿は僕には全く想像できなかったが、それでもやはりいい母親になってほしいと思う。

第10話 お気に入りのキャミソール

 風呂場の扉がバンっと、乱暴に勢いよく開けられた。その音に驚いて僕は目を覚ました。ぐにゃりとしていた首をなんとか持ち上げて入口の方を見ると泣きそうな顔をしたポニーテールのミホコさんがいた。
「バカッ! こんなことしたら死んじゃうじゃないの。早く出て!」
 すぐそこにいるミホコさんの声がとても遠くに聞こえる。先まで冷たかったはずの風呂の水もとくになんとも感じなかった。自分は夢でも見ているのだろうかと思った。けれど、現実の彼女は黒いレギンスのままで水の入った風呂に足を踏み入れて、その小さな体のどこにそんな力があるのだろうかという力で、僕を抱きかかえて風呂場から引きずり出した。彼女はびしょびしょの僕を抱えて、ベッドまで運んだ。
「窓のカギが開いててよかった。私、必死に壁をよじ登って泥棒みたいだったんだからね。部屋のチャイムを鳴らしても出ないから、どうしようかと思ったのよ」
 ミホコさんの声はとても落ち着いていて、優しかった。まるで、昔の微笑ましい笑い話をしているみたいなトーンだった。僕はなにか感謝の気持ちを伝えたかったが、うまくできずにいた。
「裸のままだと風邪ひいちゃうよ」
 クローゼットに服を取りに行こうとベッドから立ち上がるミホコさんの腕を僕は掴んだ。風呂場から僕を運んだミホコさんもまだびっしょりと濡れたままだった。
もうどこにも行かないで。
「大丈夫よ。私はここにいるから」
 ミホコさんは再びベッドに腰を下ろして、やさしく僕の頭を撫でた。僕はやっとの思いで腰を上げて彼女に覆いかぶさるように抱きついた。

 そして僕は彼女に暴力をふるった。

 彼女の着ている白いセーターを力一杯に引きちぎった。するとそれは簡単に破けてところどころが不格好につながっただけの布きれになってしまった。そして、その下に彼女が着ていたつるつるとした素材のキャミソールも力任せに引きちぎろうとした。肩のひもの部分が破壊された。
「このキャミソール、お気に入りだったのにな」
 ミホコさんは僕にやわらなか笑顔を向けている。とても穏やかで優しい表情だ。僕は続けてブラジャーをひきちぎった。ホックが簡単にちぎれ飛んだ。裸になった彼女にギュッと抱きつくと、その手の中に彼女の羽を見つけた。僕はこの羽を引きちぎろうとしているのだとようやく気付いた。
それに気づいてしまうと、まるで体から魂が抜けていくようにすーっと力も抜けてしまった。
 上半身が裸になってしまったミホコさんが「寒いね」と言って毛布を引っ張って僕と一緒にくるまった。

第11話 エレベーターピッチ

 僕とミホコさんの話はこれで終わりだ。もう3年が経つ。僕らは今も同じ会社の別のフロアで働いている。お互いに連絡することもなければ、めったに顔を合わすこともない。偶然に顔を合わせることがあったとしても、自然に会釈をかわす程度だ。多くの破局した恋人たちがそうするように。

ひとつだけ後日談がある。

 それは、僕がミホコさんと別れた冬の終わりから、少し季節が過ぎた頃の話だ。梅雨が明けて、アジサイがその色を失い、それに変わってランタナの花がカラフルに色づき始める頃。
 会社に行こうと家を出ると、霧のような雨が降っていた。けれど、頭上の空は気持ちよく晴れていて、太陽も出ている。霧のようなその雨が太陽の光を浴びてキラキラと輝きながら街に降り注いでいた。濡れたアスファルトも同じようにキラキラと輝いて、街全体がガラスの世界のようになっていた。傘をさしている人もいれば、すぐに止むだろうと気にせず歩いている人もいる。その日は妊娠して産休に入ることが決まっていた同僚からリクエストされていたものを持っていたので、僕は傘を取りに一度玄関に戻った。
 案の定、電車に乗り込む時には雨は止んでしまっていた。僕はいつも会社の最寄りから一駅手前の駅で降りて、そこから会社まで10分ほど歩くようにしている。そうすることで電車を降りるときに会社の人と出会うことがなくなるし、ゆっくりと街の自然を観察して歩くことだってできる。雨のおかげで空気が澄んで六甲の山の緑がとても近くに見えた。夏がそこまでやってきていた。
 オフィスのエレベーターホールには誰もいなかった。一駅歩いている分、電車で来ている人たちとうまくタイミングがずれるので、エレベーター待ちの渋滞に巻き込まれることも少ないが、誰もいないというのは珍しかった。ほどなく高層階行きの4台のエレベーターのうちの一台が開いたので乗り込んだ。もう誰も乗り込まないだろうと確認すると一人の小柄な女性がちょうどセキュリティを抜けてきていたので、ドアを開けて待った。
「ありがとうございます」と聞き覚えのある声がした。
「おはようございます」
 ミホコさんは驚いたような顔をして僕の顔を見上げた。僕は彼女の降りる27階のボタンと自分の降りる29階のボタンを押した。ミホコさんは白いシャツに黒のジャケット、ベージュのタイトなのスカートとと言ったビジネススタイル。スカートの丈はもちろん膝より上だ。高層階行きのエレベーターは一気に15階まで直通で上がる。それ以降のフロアでは乗降があれば止まる。エレベーターは順調に15階を過ぎ止まる気配を見せずに、すでに20階を過ぎた。
「ねぇ、ミホコさん、これなんだと思う?」
 背筋を伸ばして、できる限るシャンとした姿勢を意識して、手に持ったトートバックを示した。
「えっ、なに?」
 しゃべりかけられるとは思ってなかったのだろう、彼女は驚いてきょとんとした表情になった。
 僕はトートバックから保冷バックを取りだして、その中のタッパーを見せた。
「ぷるっぷるのテールスープです」
 エレベーターが27階についてドアが開いた。
 ミホコさんは、ふふふ、とおもしろがるように上目づかいで僕を見やりながら、羽ばたくような軽やかなステップでフロアに降りて行った。

 完 

ホリスティックなバカ

各話テーマ曲

第1話 白いポルシェの助手席
「物語はちと?不安定」 N夙川BOYS

第2話 テールスープにうってつけの朝
「Maeble」 Ken Arai

第3話 深夜のコインパーキング
「Loop」 La la larks

第4話 ミホコさん、バリへ発つ!
「ビバナミダ」 岡村靖幸

第5話  寝たふりの彼女
「おんなじさみしさ」 平井堅

第6話  ミニスカートの限界
「東京近郊路線図」 泉まくら

第7話  私がおばぁちゃんになっても
「Rain」 秦基博

第8話  エニグマチックな彼女
「come again」 m‐flow

第9話 恋の終わり
「Enigmatic Fleeling」 凛として時雨

第10話 お気に入りのキャミソール
「Departures ~あなたにおくるアイの歌~」 EGOIST

第11話 エレベーターピッチ
「そろそろ行かなくちゃ」 スガシカオ

ホリスティックなバカ

ホリスティックなバカ

外資系企業で勤務する青年と魔性の魅力を持った人妻ミホコさんの不思議な恋の話。 作者はラジオネーム神戸市ジャガーでラジオのハガキ職人もやっています (ナインティンナイン岡村隆史のオールナイトニッポン、山里良太の不毛な議論、バナナマンのバナナムーンGOLD、銀シャリの炊きたてふっくらじお)

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-15

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