伽藍の堂(作・高柳郁)

◇登場人物

・南智花
……「めだか出版」の記者。同期の北野とコンビを組むことが多く、主にインタビュー担当。

・北野悠也
 ……「めだか出版」の記者。写真撮影、メモ取りなど担当。
・西森達吉
 ……「めだか出版」で編集長の立場にいる。

・東雲未那
 ……南の叔母。人気雑誌「ぽぴぱ」の編集。

・対馬俊夫
 ……大富豪。

・対馬陽菜
 ……俊夫の妻。俊夫の遺産を継ぎ、大富豪になった。

・対馬栄太
 ……俊夫の第一子。

・対馬守彦
 ……俊夫の第二子。

・雛森奈絵
 ……俊夫の第三子。

・雛森勉
 ……奈絵の夫。

・小笠原博之
 ……使用人。雑務一般担当。

・館川志野
 ……使用人。料理全般担当。



 ゴンゴン、と古めかしいノックの音がした。玄関には三人の人間が立っている。大男、中肉中背の男、そして女性。そのうちの一人、ひときわ大きい大男が頭をかく。
「しかしまあ、なんだってこんなドアノックしかないんだ? 普通にインターホンでいいだろうに」
 大男は煩わしそうに目の前の扉を見つめた。そこには獅子の形をしたドアノックが取り付けられている。その隣の女性が答える。
「西森さん、手紙読まなかったんですか? 主人の趣味だって書いてましたよ。もう亡くなったそうですけど」
 西森と呼ばれた大男は肩をすくめた。
「何ともアンティークな趣味をお持ちなことで。それは置いといてだ。お前自身はどう思うよ、南。どう考えても不便だろ」
 南と呼ばれた女性はため息をついた。
「あのですね、それは確かにそうでしょうけど、デザインを重視しているんですからそういう不便さは気にしないんですよ。それを気にしてたらファッションなんて成り立ちませんって」
「俺はファッションだろうがインテリアだろうが、実用性が伴わないと気が済まないんだが、そういうもんなのか」
「そういうものです。ねえ、北野君」
 急に話を振られた北野と呼ばれた男は、あいまいにうなずいた。
「あ、ああ。そうだと思うよ」
「北野君、話聞いてなかったでしょう」
 北野は南の追求にあっさり白旗を振った。すぐに言い訳を始める。
「いや、実はちょっとボーっとしてたんだ。この屋敷があんまりすごいから。駐車場だけでうちの会社の五倍くらいの敷地だし、この周り一面、芝生がすごく綺麗だし」
 まあねえ、と南はその言い訳を律儀に聞いて目の前の屋敷を見上げた。
「たぶんこの高さなら二階建てか、せいぜい三階建てってところだろうけど、何より敷地の広さが……。この広さの手入れは本当に大変そうだけど」
 南が呆れたように言った言葉に、西森が同調する。
「そうだなあ、何しろあの対馬(つしま)俊夫(としお)の別荘だ。あれだけの大富豪だったわけだしなあ、金の使い道にも困るくらいだったんだろう」
 北野が首をかしげる。
「さっきから思ってたんですけど、その対馬俊夫って誰なんですか?」
 西森が驚いた顔で南を見た。北野と同様、南もそうだと言わんばかりにうなずいているので、西森はあきらめたように顔をしかめた。
「ああ、お前らは知らないのか。結構有名だったんだがなあ。対馬俊夫っていうのはバブル時代に大儲けした大富豪のうちの一人だ。あの時代、土地や株に投資すればいくらだって儲けられた。けどそれで投資すれば必ず儲かるっていう間違った考え方が広まった。そんでたいていのやつは引き際をわきまえずに投資しすぎて、地価や株価の大暴落に対応できずに破産した。お前らも学校で習っただろ?」
 二人がうなずくのを見て、西森は少し気分よさそうに話を続けた。
「でも一方で引き際をわきまえて大儲けした奴ってのも確かにいたわけでよ。その中でもかなりの儲けを出したのが対馬俊夫。元々大地主だったらしくてな。持っていた土地を担保に金を借りながら大量の土地を買い占めて、バブルの破裂寸前に売り払った。なんでも、バブルが崩壊した原因の一割は彼が土地をすべて売り払ったからだっていう話もあるくらいでな、とにかくすごい広さの土地を持ってたわけよ。それで、バブルが崩壊した後に全部買い戻したもんだからそいつの手元には元々と同じぐらいの土地と巨額の資産が残ったっていうことでな。
その後会社を興したんだが、その会社も全盛期の時に他人に譲った。それから業績は悪くなり、結果倒産したって話だったが、対馬俊夫は何のダメージも受けなかった。だもんでその会社は対馬自身がつぶしたんじゃないかって言われたが、結局直接の証拠は何もなし。今思えば、とにかく引き際をわきまえた男だったな。その金で余生を楽しんでいたらしいが、つい五年前に偶然訪れた常田(ときた)税務署で運悪く放火事件が起きて、そこで見つかった身元不明遺体のうち一体が対馬俊夫のものとして断定されたらしい」
 話を聞いていた南が、思い出したように口をはさんだ。
「ああ、それ知ってます。なんでもガスの配管が一部壊れてて、そこに引火したことで大惨事になったやつですよね。当時その場にいた人のほとんどが重傷で、死亡者もかなり多かった」
 そうそう、と西森はうなずく。
「その中の一人が対馬俊夫だったってことでな。なんでも彼の持ち物を身に着けていたんだと。柱で頭部はつぶされて歯型照合はできなかったらしいが」
「それで、この屋敷は奥さんの手に渡ったってことですか。確か依頼者は奥さんでしたよね」
 北野が確認する。南はそれにうなずいてもう一度顔を上げた。
「それにしても遅いですねえ。もしかして聞こえてなかったりするんでしょうか」
 それを聞いて、西森が苛立たしげにつぶやく。
「だから言ったんだ、インターホンの方がいいって」
 もう一度ドアをノックする。すると今度は奥から女性の声がかすかに聞こえた。そしてしばらくして、ドアの鍵が開けられる音がした。
「遅くなりましてすみません。少々立て込んでおりまして。どちら様でしょうか」
「私は『めだか出版』の西森と申しますが、奥様から調査依頼を受けてこちらに伺いました。聞いていらっしゃるでしょうか」
 西森がそう名乗ると、彼女は思い出したように嘆息した。
「ああ、あの件について調査してくださるという記者さんですね。話は聞いております。私はこちらで使用人をしております館川(たてかわ)志野(しの)と申します。どうぞ奥に」
 そう言う館川に導かれるまま、三人はそのドアの中に入っていった。

「只今奥様をお呼びいたします。こちらでしばらくおくつろぎください」
 三人が館川に連れられて入ってきたのは応接室だった。館川はお決まりの言葉を残してその場を去る。残された三人は手持無沙汰気に各々据え付けられたソファに腰を下ろした。
「このソファ、いい素材使ってますねえ。ふっかふかですよ」
 南が感嘆する。北野も腰を浮かせては下ろして、その感触を楽しんでいる。
「何しろあの大富豪の別荘だからなあ。こんな山奥にあるのはきっとそういう風にうらやましがられるのがうっとうしかったからなんだろうが」
 言いつつ西森もその座り心地を満喫しているらしい。背もたれに背中を預けるような体制のまま部屋全体を見渡す。
「しかしまあ、金がかかってるな。見ろよあれ」
 南が西森の指差す壁を見る。
「うわ、何あれ。トラの毛皮? さりげなくかかってるカーテンもどう見てもシルクっぽいし。ライオンの剥製に、暖炉まである」
「そう考えると、なんか居心地悪いなあ」
 北野がこぼしてすぐ、ドアが開く音がした。そして一人の女性が現れた。北野はそれに慌てたようだったが、彼女はちらりと見ただけで特に気にしなかった。
「あなたたちが『めだか出版』の記者さん? あれを解決してくれるっていう」
 それまでくつろいでいた西森はすぐさま立ち上がって名乗った。
「ああ、はい、その通りです。私『めだか出版』の西森(にしもり)達吉(たつきち)と申します」
 それから遅れて立ち上がった二人を見て紹介した。
「それから、こちらが南智(みなみとも)花(か)。男の方は北野悠也(きたのゆうや)です。一応もう一人来る予定なのですが、今到着したのはこの三人です」
「そう。それは別にいいわ、部屋はたくさんあるし」
「我々の仕事としてはこちらでの怪奇現象を調査し、記事に取り上げることになりますね。調査報告は二次的産物になります」
「どっちでもいいわ。私は対馬(つしま)陽(ひ)菜(な)。あなたたちもご存じの通り対馬俊夫の元妻よ」
 陽菜は剣呑な口ぶりで一言で西森の言葉を切り捨て、簡潔に自己紹介をした。それに少し動揺したらしい西森だったが、すぐに立ち直ってこう言った。
「とりあえず少しお話をお聞かせ願いたいのですが」
「わかってるわよ。ほら、立ち話は嫌でしょう? 座って話しましょうか。手早く頼むわよ」
 その言葉に三人の顔が一瞬引きつったが、陽菜はそんなことは気にもしなかった。
 西森がまず口火を切った。
「それでは、まずご依頼の確認を。ここ数年この家で不可解なことばかり起こるので調査して欲しい、という手紙を弊社の『飛びこみネタ投稿』に投稿していただきましたよね?」
「ええ。こんなことで警察に知らせるのもみっともないし」
「電話で申しあげた通り『飛び込みネタ投稿』というのはこちらの雑誌で記事にして欲しいことを送るものなのですが」
 すると、陽菜は少し小ばかにしたような声色で笑った。
「けど、ちゃんと結果は報告してくれるんでしょう? なら問題ないわ。それより、さっさと話を進めない? そろそろ客が来る時間なの」
 三人の顔がまたこわばったが、その中でも西森は耐性がある方らしい。すぐ質問に移る。
「客? というと、手紙に書かれていた親族の集まり、というものですか?」
 陽菜はなぜか誇らしげにうなずいた。
「ええ。年に五回ぐらいみんなで集まるの。それで、ちょうど今日はその当日よ」
 横で話を聞いていた南が口をはさむ。
「その親族というのは、まだ到着していないんですか?」
 陽菜は当然、とでもいうように答える。
「当たり前でしょう? それじゃなかったら今頃あなたたちの相手なんてしてないわよ。なんでそんなこと聞くの?」
 南は苦虫をかみつぶしたような顔をしつつ、それを見せないように顔を伏せた。
「いえ、駐車場にすでに十台ほど車が停まっていたものですから」
「ああ、あれは元主人のコレクションよ。捨てちゃおうとも思ったんだけど、まああれはあれでステータスかなって思ってね。一応私の車や使用人の車もそこに混じってるけどね。別にいいでしょう? それであなたたちの車が停められなくなるほど狭い駐車場じゃないんだし」
 ええ、まあ。そう答えた南の声はどことなく苦々しげだ。陽菜は呆れた様子で部屋を眺めた。
「元主人はそういう使わない飾りに金をかけるのが好きでね。例えばほら、あの暖炉なんて使えないただの飾りなのに。煙突がなかったでしょう? もともとこの暖炉は使うものじゃないのよ」
 そこまで語ってから、陽菜は姿勢を正した。
「ええと、それで何の話だったかしら」
「ご依頼内容の確認です。ことの顛末を最初から詳しくお聞かせ願いたいのですが」
 ああ、そうだったわね。陽菜はたった今思い出したように手を打った。
「変だなと思い始めたのは、そうねえ、五年前くらいからかしら? 夜にお手洗いに立った時、何か物音がしたのよね。いや、別に気にはしなかったんだけど。だって住込みの使用人がいるわけだし、どうせその二人の誰かだと思ったのよ。けど朝になってそのことを聞いてみたら、二人とも知らないっていうじゃない? それからなのよ。いろいろおかしなことが起こったのは。
 朝起きたら昨日閉めていたはずのドアが開いてたり、消したはずの電気がついてたり、冷蔵庫の中から食材が無くなってたり。使用人にも話を聞いてみるといいわ。そうそう、ここじゃさすがに迷わないとは思うけど、後で家の見取り図の場所を教えるから」
 話し始めると止まらない陽菜に制止をかけたのは西森だった。南は横でうんざりした顔ながらも話を聞く体制を取っており、北野はひたすらメモを取っている。
「つまり、夜のうちに物が動いてたり音がしたりするわけですね? 何か物が盗まれた痕跡は?」
 陽菜ははっきりと首を振った。
「食材以外は、ないわ。もしかして、と思って使用人にいろいろ確認させたんだけど、それ以外何もなくなってないって。通帳とかも確認したけど、特に目立った変化はないし」
「その使用人が嘘をついている可能性は?」
「ないわね。何しろ彼らの車の鍵は私が預かってるから。何か盗んだって持ち出せないし、私が許可しないと帰ることもできない。さすがにこの山奥から徒歩で帰ろうなんて思わないでしょう?」
「……確かに。北野君の車で近くの町から五時間ですしね」
 南が納得したようにうなずく。それまで口をつぐんでメモを取っていた北野が顔を上げて尋ねた。
「それにしても、こんな山奥に住んでて不便ないですか? ろくに電波も届かなそうですけど」
「まあ確かに携帯とかは圏外だけどね。でも電気はちゃんと引いてもらってるし、私はむしろ好きよ、こういうところ。人の目とか気にしなくていいし、空気はおいしいし、ここまで奥まったところだと盗みに来ようとも思わないしね」
「結構便利なんですねえ」
 北野の言葉に気分よさそうに陽菜はうなずく。西森が咳払いをして話を戻した。
「それで、おかしなことがあったということですが、その細かな場所などはお教え願えないでしょうか」
 その時、ドアをノックする音が響いた。そうして長身の男が入ってきた。
「奥様。栄太様がお着きになりました」
「あら、もう着いたの? 仕方ないわね。ここに呼んでちょうだい」
 了解いたしました、と男は一礼してまた去っていく。陽菜は不思議そうにしている三人を振り返って言った。
「ああ、今のが使用人。あなたたちを迎えた子が料理担当で、今のはそのほか雑用全般。掃除も彼の仕事ってことになってるけど。小笠原っていうんだけどね。私はオガちゃんって呼んでる。立場的には志野ちゃんよりオガちゃんの方が高いから、どちらかというとオガちゃんに管理を任せてる感じなんだけど」
 陽菜がそう説明していると、足音が近づいてきた。そして、ドアが開く。顔を表したのは少々太り気味の男。
「やあやあ母さん、ただいま。……と、どちら様かな、そちらは」
 西森が我先にと挨拶する。
「私は『めだか出版』の西森達吉と言います。どうかお見知りおきを。こちらは南智花と北野悠也です。記者をしております」
「『めだか出版』? もしかして『週刊水面』の?」
 その反応に西森はうれしそうに答える。
「ええ、その通りです! いやあ、ご存知でしたか」
「やっぱり。僕の家の近所によくおいてあるんですよ、『週刊水面』。時々拝見させてもらってます。僕は対馬(つしま)栄太(えいた)。ご存知ですかね、白谷コーポレーション」
「ああ、知ってますとも。栄太さんの経営戦略はたびたび耳にするくらいですし」
 南が盛り上がっている西森の袖を引っ張る。
「なんだよ、いいところなのに」
「いや、ちゃんと私たちに説明してくださいよ。白谷コーポ―レーションの名前くらいは知ってますけど」
 白谷コーポレーション。国内有数の大手家電メーカーと世間的に認識されているが、その実手広くいろいろな商品を取り扱っている大企業だ。しかし南が聞きたいのはそういった会社の概要などではないらしい。白谷コーポレーションという会社の存在と対馬栄太という名が同列に並べられていることに疑問を持ったようだった。
 西森は栄太に聞こえないように南と北野に説明する。
「白谷コーポレーションっていうのが最大手家電メーカーだってのは知ってるよな。本当は名前通り白谷って社長のものだったんだけど、この対馬栄太ってやつが買収したんだ。まあ最近の話だしそこまで優秀な経営者ってわけでもない。お前らが知らなくても無理はないが、今後経済のトピックを扱うときのために覚えておけ」
 そこまでで話を切り上げて、西森は栄太に向き直った。
「それで、『めだか出版』の記者さんがなんでここに?」
 その疑問には陽菜が答える。
「ほら、いつも言ってたでしょ。不思議なことが起こってるって」
「ああ、言ってたねえ、そんなこと。それで調査を依頼したってこと?」
 陽菜がうなずく。しかし、栄太は首をかしげる。
「それにしても、なんで今さら?」
 その言葉に、記者三人組もうなずく。陽菜はさも当然というように答える。
「だって、別に警察を呼ぶほどのことでもないでしょ? ここにわざわざ泥棒が来ることもないだろうし。そこで、最近『週刊水面』の記者が有名になってきたから。だったら頼んでみようかな、と思ったわけ」
「まあ、確かにいろいろ事件を解決はしていますよねえ。出版業界の知人はそちらのことを『謎解きめだか』と呼んでいましたよ。なんでも舞い込んできたネタから、謎を一番乗りに解き明かしちゃうそうじゃないですか。だいぶ悔しがっていましたよ」
 陽菜に同意する栄太に、南は一応と口をはさむ。
「我々としてはただ記事に書く内容を調べているだけなんですけどね。うちの編集長が新しいもの好きでして、何でも一番乗りじゃないと気に入らないらしいんです。そのおかげで未解決事件の捜査まがいのこともやってまして。望まぬ名声がついてしまいました」
 言いながら、南は西森を見やった。西森は知らないふりをしている。
「まあ、いいじゃないですか。名声はあるに越したことはないですよ。『週刊水面』も売り上げが伸びたでしょう」
 栄太の話に南はしぶしぶといった様子でうなずいた。
「ところで僕の部屋はいつものところでいいのかな?」
 陽菜はうなずく。栄太は傍らに置いていた旅行鞄を持ち上げて言った。
「じゃあ、とりあえず荷物を置いてくるよ。そうだ、記者さんもここに泊まるのかい?」
「ええ、別に部屋なら有り余ってるわけだし」
 答えた陽菜に栄太は笑った。
「ははは、確かにそうだね。それじゃあ記者さん、また後で」
 そう言い残して栄太は部屋を出て行った。陽菜が残された三人に言う。
「それじゃあ、記者さんたちも荷物を置いてきたらどうかしら。私も出迎えの用意とかあるし、使用人もあなたたちの相手なんてしていられないし。話は食事中にでもね」
「ええと、ここの見取り図とか、我々の部屋番号とかは」
 西森がそう聞くと、陽菜は声を上げた。
「オガちゃん、いる?」
「こちらに。それより奥様、その呼び方は変えていただけると」
「いいじゃない、減るもんじゃあるまいし。こちらの三人に見取り図の場所を教えて、それから空き部屋を割り振ってあげてちょうだい」
 承知いたしました、と小笠原は三人の前に立って礼をした。
「申し遅れました、小笠原博之(おがさわらひろゆき)と申します。この別荘の管理を任されているものでございます。何か御用がありましたら私に何なりと申しつけください」
 三人が都合三度目になる自己紹介を終えると、陽菜は席を立った。壁際に置かれた彫刻のような花瓶すれすれを、なんの気遣いもなく通っていく。それを北野と南は危なっかしげに見つめていた。
「それじゃあお願いね」
 かしこまりました、と小笠原は答えて、応接室の外へと歩きだした。
「ご案内いたします。私についてきてください」

「奥様が、何かご迷惑をおかけしましたでしょうか」
 廊下を歩きながら、小笠原はつぶやくように言った。北野と南が何と答えてよいかと迷っていると、西森がうんざりした口調で言った。
「ええ、大分な。まったく、金持ちだか何だか知らんが、もう少しあのいちいち癇に障る言い方は何とかできんのか」
「西森さん、それは……」
 北野が苦言を呈するが、西森はむしろ開き直ったかのような口調で言う。
「だってあれだぞ? 本人のいないところでぐらい文句言わせろってんだ」
「もとは、あのような方ではなかったのです」
 小笠原の声に、三人は絶句する。あれだけ文句を言っていた西森でさえもその言葉に言葉を失っている。
「すみません、あなた方には関係のない話でした」
 そう話を切り上げる小笠原の声もどこか苦々しげだ。
「そういえば、この家の見取り図があるってお話でしたが、それは本当ですか?」
 話題をそらしつつ、南が聞く。小笠原は少し懐かしげに答えた。
「ええ。普通の家にはそんなものはないでしょうが、ここはもともとこういう親族の集まりのためにかなり広くしてあるから必要なんだ、と旦那様はおっしゃっておられました。そして、羊皮紙風に作ってあるからそれもまたインテリアの一部になるんだ、とも」
「ここはご主人が作ったものなんですか?」
「その通りです。設計まで細かく口出ししたお気に入りだったとか。本宅があったにもかかわらずそれを売り払って本来別荘であるはずのここに移り住んだほどでした」
 南が嘆息しながらちらりと北野を見やる。それに気づいたらしい北野はあわてて手帳を取り出した。
「へえ、もしかして小笠原さんはかなり古くから対馬家の使用人をしているわけですか?」
 ええ、と小笠原は短く答えて、廊下の突き当たりから一つ手前の扉に手をかけた。
「お部屋にご案内する前に、鍵をお渡しします。こちらへどうぞ」

 部屋に入ると、北野がぼそりとつぶやいた。
「……殺風景だなあ」
 小笠原はその、少しの家具とベッドしかないような部屋の奥に行き、キーボックスから鍵を取り出した。
「こちらが皆様のお部屋の鍵でございます。七号室から九号室までの中で、お好きな鍵をお取りください」
「ええと、あと一人来る予定になってるんですけど」
 南がおずおずと手を上げた。
「伺っております。そちらの方には十号室をご利用いただく予定です。その方はまだお見えになっていないようなので、後ほど個別に鍵をお渡しいたしますね」
「ちなみに、一番階段に近いのはどこですか?」
 西森が聞くと、小笠原はすぐさま答えた。
「八号室と九号室が近いですね。真向かいになるので、どちらも階段との距離は変わりません」
「それじゃあ、俺は八号室で」
 西森がいち早く鍵を取った。それから南は七号室、北野は九号室の鍵を取る。
「ここ、ベッドがありますけど、もしかしてここも誰かの個室なんですか?」
「ええと、こちらは使用人室でして、私が使わせていただいております」
 え、と三人は一斉に驚いた。
「だって、キーボックスとか、掃除用具入れとか、個室に置くものじゃあないでしょう」
「住み込みで働かせていただいているだけで十分です。たまの機会に本を買わせていただいていますし、私としてはこれ以上の贅沢は受け取れません」
 三人が絶句していると、小笠原はちらりと壁掛け時計に目をやった。
「次に、お部屋の方へご案内させていただきます。少々お急ぎいただいてもよろしいでしょうか」

「ここは談話室です。この中に二階に続く唯一の階段があります。つまり、階を移動するときは必然的にここを通ることになりますね」
 廊下の突き当りの部屋に入り、小笠原が説明する。
「へえ、これまた豪勢なことで」
 西森が皮肉交じりに吐き捨てる。
「西森さん、いい加減そうやって皮肉吐き散らす癖、直した方がいいですよ。機嫌が悪くなるといつもそうなんですから」
「うるせえやい。五十にもなって今更変われるかよ」
開き直った西森に南は呆れたように肩を落として、それから小笠原への質問に戻った。
「それにしても、この作りって不便じゃありません? だってここ、この家の端っこでしょう。そんなところに階段が一個だけって」
「まあ、これにも理由がありまして。旦那様は同じ家にいるのに誰とも話す機会がない、という状態を作りたくなかったと言っていました。こうしておけば、誰かと話したくなればとりあえず談話室にいれば階を移動する誰かと必然的に会えるから、ということでした。それに、階段のあるスペースで部屋と部屋の間隔を開けたくないともおっしゃっておられました」
 そんな話をしながら四人は談話室の端にある階段へと向かった。四人分の階段を上る足音がした。

 階段を上りきったところにあるスペースで、小笠原は立ち止った。見上げる先には別荘の見取り図がある。
 この屋敷は向かって右端に階段があって廊下が基本的に直線であり、そこに部屋がくっつくような構造をしている。一階は部屋が一方向にしかなく、左端から食堂、厨房、ボイラー室、風呂場、シャワー室、トイレ、使用人室、ギャラリー、書斎、応接室、倉庫、そしてもう一つ使用人室。応接室の前に玄関。二階はすべて寝室で、通路を挟んで左右に部屋が並んでいて、突き当たりに一号室、通路を挟んで左側は順番に二号室から十二号室までの偶数番。右側は三号室から十三号室の奇数番となる。倉庫から地下にも行けるが、そちらはすべて食品庫とワインセラーだ。
「これがこの別荘の見取り図でございます。二階には皆様のお部屋がありまして、それ以外はすべて一階に。二階のトイレは各個室にございます。寝室にはすべて部屋番号が振られておりまして、十三号室までございます。一号室は旦那様の部屋でございましたので空室となります。二号室は奥様のお部屋です。その二つの部屋には火災などの時のための避難梯子が設置されていて一号室の鍵はかかっておりません。万が一の時にはそちらから脱出してください。
それから本日お越しになる親族の方々のお部屋として、六号室までお使いになる、とのことでした。三号室は栄太様、四号室は長女の奈絵様、五号室は次男の守彦様、六号室は奈絵様の御主人の勉様です。その次のお部屋から記者様方のお部屋となりますので、七号室から十号室となります。おくつろぎください。
ただし、ここでは七時に夕食となっております。七時までに食堂までお越しくださるようお願いいたします」
 今は五時半。三人は一斉に腕時計を確認する。
「ああ、お部屋に一つずつ壁時計がありますので、そちらで確認いただいても結構です。それから、この別荘ではお風呂場はお客様はご利用いただけません。お一人ずつ入浴なさるととても時間がかかってしまいます。大勢が集まる日は奥様方や我々もシャワー室を使いますので、ご容赦ください」
 西森がうなずく。
「まあなあ、これで十一人か? さすがに一人ずつ入るには時間がかかりすぎるわな」
「それと、先ほどご案内いたしましたが、階段に近い方の使用人室が私の部屋になります。もう一つは館川の部屋でございます。館川は、こう言ってはなんですが、あまり頼りになる方ではありません。何かございましたらまず私の方にお知らせください」
「そうさせてもらいます。しかし、どこもかしこも鍵があるんですねえ。それほど人を招くような場所ではないんでしょう?」
 西森が聞くと、小笠原は少し言いづらそうに答えた。
「旦那様は寝室に鍵をつけたくないとおっしゃっていましたが、それは奥様のご意向でして。たとえ親族相手でもプライベートは守りたい、と旦那様に言いつのったそうでございます」
「ほかのところにも鍵はありますか?」
「普段使わないところは。倉庫やワインセラー、ギャラリーなどはすべて私の部屋に鍵がございます。後は寝室の鍵ですが、奥様のお部屋である二号室だけは奥様自身が持っていらっしゃいます」
「それで、さっきの怪奇事件の話を」
 西森がそう切り出すと、小笠原は眉をひそめた。
「すみませんが、その話はまた後ほど。只今手が離せない用事がございます。今はこの別荘で一泊なさるにあたっての質問のみにしていただきたいのです」
 あまりに捜査が進まないことに業を煮やしたらしく、西森は苛立たしそうに聞いた。
「ちなみに、その手の離せない用事って一体なんです? 日にちが決まっているのなら、準備はとうに終わっているんじゃないですか。差し支えなければお教えくれませんかね」
 それに対し、小笠原は少し言いにくそうに答える。
「その、奥様が直前になって、掃除がなっていない、気分が変わったから料理を変えろ、とおっしゃられて」
 三人はそれだけで心底納得したようなため息をついた。西森はそれで引き下がったが、もう少し、と南が食い下がる。
「どうしてこんなに寝室がたくさんあるんでしょう? 親族は五人しか集まらないのに」
「旦那様はもっと大勢集まることを期待していらしたようです。しかし長男である栄太様は独身、次男である守彦様は奥様が現在出産のために入院しておられ、その妹にあたる奈絵様はまだお子様がいらっしゃらない、ということですので、将来増える可能性を見越してのことです。以前は使用人のうち一人が空き部屋を使っていたこともありました」
「なるほど。では後一つだけ。先ほど寝室と寝室の間はあけたくなかったという話をお聞きしましたが、見取り図を見ると、ほら。少し間隔があいている場所があるんですけど、これは何か聞いていらっしゃいますか?」
 確かに九号室と十一号室の間に少し間隔がある。小笠原は困った様に眉を寄せた。
「それは、伺っておりません。私も何度かお尋ねしたことがあるのですが、お教えくださいませんでした。柱の関係で妥協せざるを得なかったのかもしれません」
 そうですか、と南も質問を終える。小笠原の視線が北野に向いたが、北野はその視線に気づくと頭をかいた。
「ああ、いえ。俺は別に何も」
「それでは、私はまたお客様をお迎えしなければなりませんので、これで」
 そう言い残して、小笠原は階段を下りて行った。三人が後に残される。
「何ともタイミングの悪い日に呼び出してくれたもんだよなあ。しかも忙しい理由がよりにもよって依頼人のわがままとは」
 小笠原が見えなくなったのを確認してから西森がぼやく。南も同意する。
「そうですね、これじゃあ食事が終わるまで話が聞けそうにないです」
「そして食事まで一時間半ですもんね。テレビもないし、携帯も通じない。どうしろっていうんですか」
 知るかそんなもん、と西森はめんどくさそうに吐き捨てた。
「調べようにも当時の状況を調べられるわけでもない。聞けるのはあんなあいまいな情報ばかり。そもそも事件かどうかすら疑わしい。これ、本当に解決できるのか? 大体誰だ、こんなめんどくさい話を受けようって言い出したのは」
 そう言った西森に、南がかみつく。
「西森さんでしょう、それ。いつものジャーナリストの勘が云々って」
 そうだったか、と西森は北野に振る。北野は呆れたように首を縦に振った。まあ、そんなこともあったな。西森は思い出したように答える。
「私だってまだ書きかけの記事があったのに、強引に連れだしてきて。仕方ないからほかの人に丸投げしてきちゃいましたよ。それで空振りだったって言ったら、どんな目で見られるかわかったもんじゃないです」
 なおも言いつのる南に、西森は肩をすくめる。
「そんなこと言ったってなあ。確かに匂ったんだよ、この件は」
 その嗅覚もどんだけ信用できるか、と南は小さくつぶやいたが、西森には聞こえていないようだった。北野が仲裁に入る。
「まあまあ、一応ここ階段の前だし。さすがに口論してるの見られるのはちょっと」
 矛先を失った南は頭を抱えている。
「ああ、叔母さん来たら何て説明しよう。笑われる、笑われるわ、絶対」
「とにかく、詳細が聞けないことにはどうしようもない。七時までは各自自由行動ってことで、解散」
 西森がその場をしめた。

 南が談話室に降りてきたとき、そこには西森と北野がすでに座っていた。解散してからまだ十分しかたっていない。
「やっぱりこうなるんですね」
 南が笑うと、西森もうなずく。
「特にやることもないからなあ。北野にも言ったが、部屋で寝てきてもいいんだぞ? ここんとこ、ろくに休暇も取れてなかっただろ。仕事とはいえ、表向きは休暇ってことになってるしな。次にいつ休暇取れるかもわからんし」
 しかし南は首を振った。
「いや、それは無理ってもんですよ」
「なんでだ、お前念願のフカフカベッドだぞ? やっぱり仕事柄やることがないのは苦痛か?」
 まあ、それはありますけど、と南は部屋を見渡した。
「落ち着けませんよ、こんなとこ。こんなとこ、っていうのは失礼かもしれませんけど。個室の中までしっかり金持ちインテリアですよ? 残念ですけど今日この十分で、私たちには煙草くさい会議室と仮眠室の固い簡易ベッドがお似合いなんだって思い知らされました」
「そうだなあ、俺も同じこと答えた。部屋の隅に地味に壺が置いてあったりして焦ったよ。あれ、いくらぐらいするんだろ」
 北野が心の底から、というように深くうなずいた。
「飾りと言えばこの家、廊下にも飾りがあったりするよな」
 西森が言うと、そうですねえ、と南。
「ところどころ絵がかけられてたり、明かりもデザインが工夫されてたり。エンレイソウ、でしたっけ、あれ」
いや、そんなのは知らんが。西森が一足先に理解を投げ捨てる。北野がうんざりしたように息を吐く。
「この屋敷が窓少ないのも、絵とかかけるためなんだろうな。おかげで息が詰まって」
「……そういえば、そうよね。飾りに気圧されて気づかなかったわ。変なところよく見てるよね、北野君」
「……それ、褒めてるのか?」
 北野が肩を落とすが、西森はそれに構わず口を挟んだ。
「それにしても、金持ちってのはどうしてこうも飾りたがるんだ。居心地悪いったらありゃしない」
「お金がかかってるってのもそうなんですけど。そもそも、なんか変ですよね、取合せが。そういうのも居心地の悪さの一因な気がするんです」
 南が首をかしげた。
「何がだ?」
「いや、なんていうか、感じません? この、ごった煮感っていうか、まとまりのなさっていうか、素人が考えた金持ち像っていうか。ここもそうですけど、応接室なんてすごかったじゃないですか。金の装飾とかシルクのカーテンとかと剥製を合わせるってどうもちぐはぐな感じがして。普通こういうファッションにはこだわりがあるもんなんですけど」
「そんなもんか。よくわからんが」
 南の当然の疑問に、西森は早々に問答を放棄した。北野もそれに倣う。
「とりあえず、やっぱり俺には合わないなあ、こういうの。息が詰まるっていうか」
「まあ、確かにそうですねえ」
 声が階段の方から聞こえた。そして、栄太が現れる。どうもこの北野という男、致命的に間が悪いらしい。首がしまったような声が小さく漏れたが、栄太は北野など眼中にないらしい。
「ああ、これはこれは。失礼でしたかな」
 西森がころりと態度を変えると、栄太は笑った。
「いいえ、別にいいですよ。僕としてはどちらかというとこの飾り気はあまり好きではないタイプなので」
 ほう、と西森は感心した声を上げる。
「だってそうでしょう。ここまで飾りに金を使うなら、それで実用的なものを買った方がいいと思いません?」
「そうですよねえ、いやあ気が合う方がいてよかった。お金を持っている人は誰もがこうなのかと、価値観の違いに戸惑っていたところでしてね」
 西森は仲間を見つけたがごとくすっかり意気投合したようだ。栄太はにやりと笑う。
「これだけ金を持っていれば、少しくらい家族に還元するものでしょうにねえ。父さんったら、自分のことばっかりでまともに僕たちに金をくれたことないんですよ」
 南と北野が少しだけ引いたその時、談話室のドアが開いた音がした。そして男女一組が姿を現した。栄太がそちらを向く。
「ああ、奈絵と勉さんか。久しぶり、今着いたのかい?」
 女性、奈絵が答える。
「そうなの! 本当はもう少し早く着く予定だったんだけどね、ほら、運命の出会いをしちゃって」
「……ああ、また出会っちゃったのか」
 栄太は苦笑いをしている。それに気づかないまま、奈絵は背後に隠していたバッグを掲げた。
「じゃーん。ルイヴィトンの最新モデル。どう、どう、すごくない?」
「勉さん、大丈夫なのかい? 前もこんなふうに自慢してなかったかな。前回の集まりだから、三ヶ月前だったと思うんだけど」
 栄太は傍らの男性、勉に聞いたが、勉が答えるよりも先に奈絵が答えていた。
「大丈夫よ。お母さんにお金もらったから」
「……だから、奈絵。君には聞いてないよ」
 栄太がため息混じりにそう言うが、奈絵は舞い上がっていて、まともに聞こえていないようだった。
「それで、どうなんだい、勉さん。コイツのことだから、宝石にだって目がないだろう?」
 勉は少し弱った声で答えた。
「正直なところ、お義母さんに頼ってばかりですね。私がもう少し稼げたらそんなこともなかったんですけど」
「そうだねえ、勉さん、社内の評価そんなに良くないからね」
 栄太はニヤニヤしながらそんなことを言った。勉が何か言いたげにしていると、奈絵がやれやれといったように首を振った。
「兄さんだってそういう意地悪なところは相変わらずじゃない。全く、性格悪くてやんなるわねー」
 話に置いていかれて、苛立ちが募ってきたらしい。西森は小さく咳払いをした。それで奈絵は部外者がいることに気がついたようだった。
「ええと、それで、兄さん。そちらの方は……?」
「ああ、こちらは例の『呪い』の件で母さんが調査を頼んだ記者の方だよ」
 それをきっかけに、それまでの話を切り上げて栄太は三人の紹介を始めた。その紹介に合わせて三人が順に頭を下げた。すると、奈絵はおかしそうに笑った。
「ああ、あの『呪い』ね。守彦兄さんが聞いたらまた部屋に逃げ込みそうね」
 その話に、西森が食いつく。
「その『呪い』というのはいったいどういうことですか。あと、よろしければお二方のお名前をお聞かせ願いたいのですが」
「ああ、そうでした。私は雛森(ひなもり)奈絵(なえ)と言います。この家族では末の妹で、それからこっちは私の夫の勉(つとむ)です」
 勉は頭を下げる。
「まあ『呪い』というのは大したことではなくて、ですね。今回記者さんが調査することになった怪奇現象のことですよ。あれ、父さんが死んだのとちょうど同じころから始まったって話でしょう。だから母さん、いつもはああふんぞり返ってるけど、その実『対馬俊夫の呪い』に怯えているわけですよ」
 へえ、と記者たちは驚いたように声を漏らした。そこで落ちをつけるように奈絵が口をはさむ。
「でも、そんなの信じてるのなんてお母さんと守彦兄さんだけですけどね」
「そうなんですか、あなた方は?」
「私たちは信じてないですよ。きっとお母さんの勘違いか、お手伝いさんがやって、それを覚えてないだけなんだわ。ねえ、栄太兄さん」
 そうだ、と栄太はうなずく。
「僕も信じてはいない口でね。ただ、守彦――ああ、僕の弟ですが――あいつはどうやら信じているらしくて、すっかり縮み上がっちゃうんですよ。だからよくここに集まった時はからかいの的になってるんです」
「そもそも、呪いとか言い出したのも守彦兄さんだったよねえ」
「そうそう。自分で言っといて自分で怖がってるんだから馬鹿な話だよね。あれがなければただの出来事で済んだだろうに。自分でも失敗だったとは思ってるみたいだけど、どうせ守彦のことだ、今頃『本当だったらどうしよう』とか膝を震わせてるに違いない。
大体、あの父さんが僕たちを呪うとか、ねえ。使用人ばっかりちやほやして、僕たちにはほとんど構ってくれなかったし、こっちの方が呪いたいレベルだけど」
「そうだよねえ。父さんったら、プラダの一着も買ってくれなかったし」
「僕も株の資金を貸してくれなくて困ったねえ。母さんと違って父さんは家族そっちのけだったなあ」
「そう、なんですか。話を聞いた限りでは、どうも家族の絆を大切にしていたように感じたのですが」
 南が口を挟むと、栄太は失笑に似た笑みを浮かべた。
「話って言っても、多分、小笠原さんの話でしょう。あれはダメですよ。父さんに心酔してるくらいなんで。どうもね、捨てられてたのを父さんに拾われたらしくって、忠誠心が半端じゃないんですよね。父さんが生きてて、死ねって言ったら多分死んだんじゃないかなあ」
「義兄さん、それは少し言いすぎでしょう。彼にも立場があるでしょうし……」
 勉が諌めると、栄太は取り繕うように付け加えた。
「まあ、それくらい信憑性は低いってことですよ。あんまりあの人の話を真面目に聞かない方がいいですよ」
「ご安心を。我々は記者ですので。一人の証言で物事を判断することはありません」
 西森が断言すると、一瞬沈黙が訪れた。西森が言外に栄太一人の証言でも判断はしない、と言ったことに気がついたのだろう。特に南は気まずそうにしている。
「それより、そろそろ母さんにも挨拶した方がいいんじゃないか?」
 話題を変えようとばかりに栄太が奈絵と勉にそう言った。奈絵は壁にある柱時計を見てあっと声を上げた。
「そうねえ、確かにあの人、挨拶が遅くなると機嫌が悪くなるし。いい加減歳なんだから、もう少し落ち着きが出てもいいのにね。それじゃあ勉さん、行きましょう」
「そうだね。記者の皆さん、また後で」
 二人はそう言って階段へと向かっていった。
 それからしばらくして、また一人男が談話室に入ってきた。
「ああ、守彦(もりひこ)じゃないか。結局来たんだね。あんなに怖がっていたのに」
 それまで自分の会社の話を気分よさそうに話していた栄太が振り返って言った。守彦は眉をひそめた。
「兄さん、いつもいつもそればっかりじゃないか。俺がいつもそんなことを怖がってるとでも……」
 いきり立っている守彦を栄太はいなす。
「まあまあ、そうむきになるなよ。それより、仕事の方はどうだい?」
 少し苦々しげに守彦が答える。
「おかげさまで。兄さん、わかって言ってるんだろ?」
「別にそういうわけじゃないんだけどね」
 失言した、とでも言うように栄太は首の後ろをかいた。しかし、あくまで顔はにやけたままだ。守彦は言うだけ無駄か、と諦めたようで、記者の方を向いた。
「……それより、そちらの方は?」
 また栄太は慣れた様子で記者三人を紹介した。守彦はうんざりしたような顔をする。
「またそれか。母さんもいい加減そんなことを吹聴するのはやめて欲しいもんだな。『呪い』なんてあるわけないだろ」
 そう言い捨てて、守彦は足早に階段へと歩いて行った。
「ちゃんと母さんに挨拶しておけよ。皺だらけの顔をさらにしかめて怒り出すぞ」
 わかってるよ、と声だけ残して守彦は逃げるように去って行った。栄太はそれをおかしそうに見送って笑った。
「ほら、意地張ってるけど絶対怖がってるでしょう。おかしいですよね」
 どう答えたものかと記者三人組は顔を見合わせた。
 また少しして、奈絵と勉が下りてきた。奈絵が栄太の横に腰掛ける。西森が二人に切り出した。
「それでは、みなさんはこの後お時間ありますでしょうか」
 三人は顔を見合わせる。
「別に、やることがあるわけじゃないし、ねえ」
 奈絵に栄太も同意する。
「そうだねえ、ここは電波も通じないし、持ってきた本も今読む必要はない。お話はできると思いますけど」
「そうですか、それではちょっとその『呪い』についてお話を……」
 その時、談話室の扉が開いた音が聞こえた。
「こちらが談話室でございます。ああ、皆さん談笑中でいらっしゃいますね」
 小笠原の声だった。それから、少し焦ったような女性の声がする。
「ああ、遅れちゃった、遅れちゃった。ちょっと智花ちゃん、ひどいじゃないの」
 そうして現れた顔に、南はため息をついた。
「未那叔母さん……」
 未那と呼ばれた女性はあっけらかんとした様子で言った。
「ここまで山奥にあるなんて、どうして教えてくれなかったの? おかげでこんなに遅れちゃったじゃない」
「言ったわよ、それはもう何度も言ったわよ。話聞いてなかったのは未那叔母さんでしょう」
 あれ、そうだっけ、と女性は首をひねった。北野がおずおずと問いかける。
「あの、その人はもしかしていつも言っている……」
 南があきらめたように肩を落とした。
「ああ、紹介しなきゃいけないよねえ……。こちら、私の叔母にしてあの『ぽぴぱ』の編集者の東雲です」
「ぽぴぱ」。全国区の週刊誌にして日本有数の人気雑誌である。幅広いテーマを取り上げることが特徴であるが、その編集であるということは東雲という女性はなかなか優秀であるらしかった。
 その紹介に東雲は愛嬌よく頭を下げる。すらりと伸びた体躯のせいか、どのような行動をしてもそれなりに絵になる。言動と風貌が全く一致しないことに、南以外の全員が戸惑っているようだった。
「どうも、東(しの)雲(のめ)未(み)那(な)と申します。このたびはこの家で起こった怪奇事件について取材させていただくうえ、一泊までさせていただけるそうで……」
「未那叔母さん、それはこの人たちに言っても仕方ないでしょう。奥さんが上にいるらしいから、そちらに挨拶したらどう?」
 南が言うと、東雲はころりと態度を変えた。
「あ、そうなの。気を遣って損したじゃない。早く教えてよ、智花ちゃん」
「ねえ、奥さんじゃなかったらこの態度の変わりようっていうのもどうかと思うけど」
 二人の漫才を遠巻きに見ていた栄太が、何とか話に入ろうと口を挟んできた。
「ところで、『ぽぴぱ』と言えばあの『ぽぴぱ』ですか。僕毎週買ってますよ」
 すると、東雲はうれしそうに栄太を振り返った。南の抗議など聞く耳を持っていない。
「ああ、ご存知ですか! いやあ、うれしい限りですね。今を時めく対馬栄太さんに覚えていただけていたなんて光栄です」
 抜け目なく名指しですり寄る東雲。南がため息をついた。かみつくのをあきらめたらしい。栄太はいい気分になって大声で笑った。
「そうですか、そうですか。そんなに僕は有名ですか。あなたのような美人に覚えてもらえているとは光栄ですね」
 南と北野が顔をしかめてひそひそ話を始めた。どうやら栄太が有名かどうかを聞きあっているらしい。二人ともしきりに首をかしげている。
 そんなやり取りを中断するように小笠原が声を出した。
「東雲さま。まずは奥様にご挨拶を」
「ああ、そうでした。それじゃあまたね」
 東雲は小笠原にならってそそくさと階段へと向かっていった。その姿が見えなくなってから、それまで口を閉ざしていた奈絵が口を開いた。
「……あなたの叔母さん、すごい人ですねえ」
「……なんか、すみません。あれで口さえ開かなければ完璧なんですけど」
 呆れたような、あきらめたようなそんな顔で肩を落として、南はそう返した。
「そうですね、なんかモデルみたいで」
 ポツリとこぼした勉を奈絵が小突いて、笑いが起こったところで、談話室のドアが開く音がした。館川の声が響く。
「すみませんが、もうじき七時になります。食堂に移動していただけますか」
 その場の全員が柱時計の針を見た。六時四十五分。少々早いが、かといって早すぎるという頃合いでもない。
「じゃあ、行きましょうか。話はその後にでも」
 栄太がそう言って立ち上がった。奈絵と勉もそれに続く。
「え、あ、未那叔母さんと守彦さん、奥さんは……」
「そちらは私がお知らせします」
 館川の声に押されて、三人も席を立った。それとすれ違うように館川が談話室を横切っていった。

 食堂のドアはほかのドアよりも大きく、少し重々しい。それを開けて栄太が中に入った。続いて奈絵、勉、それから記者三人組。
「おお、もう用意してあるね」
 栄太が声を上げた。長テーブルの周りに椅子がいくつか並んでいる。テーブルの上にはすでにスープが注がれた皿が並んでいる。
「これは、どこに座ればいいんでしょうか」
 北野がそう聞くと、奈絵が一番に左奥の椅子に座った。
「別に決まってないから、どこでもいいですよ。まあ、私がここなのは確定事項だけど」
 そう言われても、と南と北野は顔を見合わせた。客として招かれた手前、勝手に座るというわけにもいかないのだろう。しかし西森は気にせずに奈絵の席の二つ隣に座った。
「まあ、気遣ってても仕方ないだろ。失礼します」
 勉が無言で西森と奈絵の間に座る。栄太は奈絵の向かいに座ったので、流れで南は栄太の二つ隣に座り、その次の席に北野が座った。
「わあ、やっぱりおいしいわねえ、館川さんの料理」
 奈絵はもうスープに舌鼓を打っている様子である。
「こら、奈絵。まだ全員そろってないんだぞ」
 勉にたしなめられ、ごめんなさーいと特に反省した様子もなく、わざとらしく奈絵は肩をすくめた。
 そこで、廊下から声がした。
「ええ、ええ。素晴らしいでしょう。奥様なら理解してくださると思いました」
「そうね、この屋敷は確かに夫の趣味が出ているものねえ。それが特集になるなら悪い話ではないかもねえ」
 早くも東雲は陽菜に取り入ったらしい。そのわきから守彦の声がする。
「いや、母さん、さすがにそれはやめた方が」
「未那叔母さんの馬鹿……」
 南が頭を抱えた。栄太は陽気に笑っている。
 入ってきた三人のうち、陽菜は一番奥に座り、守彦は栄太と南の間に、東雲は北野の隣に座った。そのあとから小笠原と、それからワゴンを押した館川が入ってきた。かくして対馬家と記者四人の食事が始まった。
 運ばれてきたスパゲッティを口に運んで、東雲が頬に手を当てる。
「おいしい! これ全部館川さんが作ったんですか?」
 答えたのは館川でなく奈絵だった。館川はというと次の料理を取りに隣の厨房まで行っているらしい。小笠原は一度全員のグラスに水を注いで以来、席を外している。
「そうでしょう? 館川さん、実は結構有名なシェフだったらしいんですよね。なんか失敗して辞めさせられて、そこをお父さんに拾ってもらったって話ですよ」
 へえ、と北野が添えられたウインナーを口に放りこんだ。
「俊夫さんって人は包容力のある人だったんでしょうねえ」
 ふん、と守彦が鼻を鳴らした。
「そんなんじゃない。あの人はただ単にさみしがり屋なだけだったんだ」
「さみしがり屋、ですか」
 南がスープをすする。それと動きが同期した栄太が懐かしむように言った。
「ああ、そうだなあ。というよりは、人間関係に金銭を持ち込もうとしない人でしたね。損得勘定を度外視して一緒にいたいと思った人と一緒にいる、みたいな。家族より外で知り合った人ばかり大事にしてましたけど。たとえばあの人が会社を手放すときの話ですけどね。あの人、一番親しくて信頼していた同い年の部下を使用人として引き抜いたんですよ。人一人雇うのは結構な金がかかりますし。よっぽどその人が気に入ってたんでしょうねえ、死んだ日もその人を連れて行きましたから」
「その人は?」
 西森が豪快にスパゲッティを貪り食う。栄太は肩をすくめた。
「さあ。あの火事があってから、行方が知れません。もしかしたら一緒に焼け死んだのかもしれないし、逆に一人だけ逃げ出して帰ってこないだけかもしれない。もし後者だとしたら、父さんには人を見る目がなかったってことですね」
「過ぎたことをうだうだ言っててもどうしようもないわ。過去の話よりも今起こっていることよ。記者さん、調査は進んでいるかしら」
 陽菜がうっとうしそうに切り捨てた。そこで西森が手を止める。
「そう言われましてもですね。話は後で、とおっしゃったのは奥様自身ではないですか」
 そうだったかしら、と陽菜は首をかしげている。栄太が少したしなめる口調になった。
「それはちょっとひどいよ、母さん。記者さんだって万能じゃないんだ。当時の詳しい状況がわからないと調査の仕様がないじゃないか」
「そうなんだけどねえ……」
 陽菜は及び腰だ。守彦はあきれ顔で言った。
「母さん、どうせあんまり覚えてないんでしょ」
「だって、ねえ。結構前からだし。いちいち一つ一つのことなんて覚えちゃいないわよ」
 陽菜はあっさりと肯定した。そんなことだろうと思ったよ、と守彦。
「じゃあ、僕が聞いた限りで説明しましょう。『呪い』の件が始まったのは……」
「だから、それはやめろって」
 守彦が生真面目に口を挟んだので、栄太は訂正してから話を続けた。
「あの怪事件が始まったのは五年前。最初は、確か母さんが夜中に物音を聞いたんだよね。その時使用人たちは寝ていたと言っている。それから次は、確か机の上の万年筆が動いていたんだったな」
 そうだったわねえ、とあくまで陽菜はぼんやりしている。
「机っていうのは、母さんの部屋の中の、通帳とかを保管してる机でね。母さんは寝るときはいつも部屋に鍵をかける習慣がある。だから、母さんが動かしたんじゃなければ、それはおかしいってことになるわけです。後は僕も良く覚えてないですね。一番最近起こったのはなんだっけ?」
 答えたのは勉だ。
「確か、応接室の電気がつけっぱなしになってたんじゃなかったでしたっけ」
「ああ、そうだったそうだった。最後に見たのは母さんだったかな。だけど、その時には電気は消えてたっていうんだ。まあ、僕としては十中八九母さんの勘違いだと思うんだけどねえ」
「あんたねえ、母親の言うことが信じられないの?」
 気分を害した陽菜に、栄太ははっきりと言う。
「いや、母さん自身を信用していないわけじゃないけどさ、だってそうとしか考えられないだろう? 悪いけど僕は合理主義なんだ」
 まあまあ、と間に入ったのは奈絵。
「それは記者さんが調べればわかることでしょ? せっかく家族全員集まったんだから、空気悪くするのはNGってことで」
 それで二人とも矛を収めた。ちょうど館川が次の料理を持ってきたのでなし崩し的にその話は流れた。


 食べ終わってからも、しばらく十人は食堂で話していた。食事を運ぶ必要がなくなってからは館川もその会話に時々参加していた。途中何人かが席を立ったがすぐに戻ってきて、途中で部屋に戻った人間はいなかった。談笑がひと段落すると、対馬一族は談話室に移動した。記者たちは一度各自の部屋に戻り、それから談話室を通る際に栄太の一緒に話そうという誘いを苦心して断り、その後は誰にも会うことなく廊下で小笠原を捕まえた。
「ああ、小笠原さん、探しましたよ。夕食中、どこか行ってらしたんですか」
 西森が聞くと、小笠原は少し間を置いて答えた。
「皆さんが食堂にいらっしゃる間に寝室をもう一度点検しようと思いまして。その後芝の手入れを行っておりました。何か御用でしょうか」
「もう少し、話を聞かせていただきたいと思いまして。よろしいですか?」
 聞くと、小笠原は二つ返事で了承した。そのまま応接室に移動する。
「それで、どのようなお話でしょうか」
 きれいな姿勢で腰を掛けた小笠原がそう口火を切った。
「いえ、最近不思議なことが起こったりはしなかったかと思いまして」
 南がそう聞くと、小笠原は少し困ったように首をかしげた。
「そう言われましても。それは私でなくてもいいのではないですか?」
 それはそうなんですけどね、と言ったのは東雲だ。
「これは身もふたもない話ではあるんですが、館川さんはお皿洗いで忙しいですし、奥様からはあまり詳しいお話が聞けなかったもので」
「消去法で、と言うことですか」
 そういうことになります、と東雲はきっぱり言い切った。小笠原はくすりと笑う。
「不思議なことといいましてもね。そういったことによくお気づきになるのは奥様なもので。私はいつも後追いですよ」
「何でも、掃除担当は小笠原さんだという話じゃないですか。一番最初に気付きそうなんですけどねえ」
 北野が手帳を見ながら首をかしげる。
「いえいえ、私はどうもそのあたりの観察眼が鈍いようでして。それでしたら館川の方がいろいろ気づいたことがあるかもしれません。彼女、自分の専門分野に関してはこだわりを持っているので」
「そう、ですか。お恥ずかしい限りですが、これだけの情報ではいくら我々でも原因を特定できません。どんな些細な情報でもいいので、何かあったらお聞かせ願いたいのです」
 と、少し苛立たしげに西森。
「いえ、特には。実際私は栄太様と同意見ですので」
「つまり、それは奥様の勘違いだと?」
 南の問いかけに小笠原はうなずいた。
「ええ。最初の物音は奥様の聞き間違い、次の万年筆は奥様が置き場所を間違えただけ、電気の件にしても最後に電気を確認したのは奥様です。消し忘れて、そのことを覚えていないということは十分に考えられます」
 それからしばらく同じような問答が続き、そのうちに陽菜の呼び出しが入った。四人としても聞くことはあらかた聞いたという様子で、小笠原を解放した。小笠原が去ってから、南はため息を吐く。
「意外に合理的なんですね、あの人」
「確かに。第一印象としてはいかにも忠臣って感じがしたんだけど」
 北野が同意する。その一方で西森は首をかしげる。
「まあ、そこんところの住み分けができてるやつってのはいるもんだ。あの小笠原ってやつもそういうやつなんだろうよ」
「それにしても、なーんか見えてこない話よねえ」
 東雲が北野の手帳に目を落とす。
「それにしても、あんたはどうしてここに?」
 西森の言葉に、東雲は首をかしげた。
「あれ、智花ちゃんから聞いていらっしゃらない?」
「いや、事情は聞いてはいるがな。南から話を聞いておもしろそうだと感じたから休暇を取って調査に同行することにした、だったか? でも、それだけでこんな山奥までくるもんかね。あんたが首を突っ込む時は決まって大事になる。それで一番美味しいところだけかっさらっていく。あんたには一体何が見えてるんだ?」
 東雲の笑みが、少し皮肉じみて見えた。
「単なる休暇ですよ。もしや、私が盗みにでも来たとお思いで?」
 西森はバツが悪そうに首を振った。
「ああ、いや、別にそんなことが言いたいんじゃねえよ。ただ、どうも仕事でもなんでもないのに俺たちの手伝いなんかわざわざしに来るものかな、と」
 東雲は冷たい笑みを浮かべてこう切り返した。
「でしたら、あなた方はどうなんです? 一応招かれた、という建前はありますが、結局のところ立場は私と同じでしょう。どうしてこんな山奥にわざわざ調査に来たんです? 智花ちゃんから聞きましたが、あなたたちは一応休暇としてここに来ているわけでしょう。あなたがたは休暇のついでに調査をしに来た。私は面白そうだからそれを手伝いに来た。それでいいんじゃないですか?」
 西森は降参、と言うように手を挙げた。
「参った、参りましたよ。そういうことにしときましょう。あんたの人脈は底知れないからな。つつくと蛇がわんさか出てきそうだ」
 それでよろしい、と東雲は今度はにこやかな笑顔で言った。
「さて、そろそろいいかしらね」
 東雲が柱時計を見やる。そろそろ九時になる、というところだ。
「ああ、確かにそろそろ片付けが終わった頃合いかな。厨房に行ってみてもいいか」
 西森が腰を上げる。三人もそれに続いた。

 厨房へと続く廊下で、四人は館川を捕まえた。
「ああ、館川さん。食事の片づけは終わったんですか?」
「ええ、何か御用ですか?」
 館川は手をハンカチで拭いている。どうやらトイレに行ってきたらしい。東雲が人懐っこい笑顔ですり寄っていく。
「五年前からあった怪奇事件についてお話を聞かせていただいてよろしいでしょうか」
 ええ、大丈夫です。館川が首をかしげながら答えた。

応接室。記者四人と反対のソファに館川が腰かけている。
「それで、どのような話をすればいいのでしょうか」
 西森が答える。
「先ほど言いました通り、この屋敷で起こった奇妙なことがあればお教えいただきたいのです」
 館川は首をひねる。
「ああ、奥様がよくおっしゃっていることですね。私が確認できるようなことはなかなかありませんでしたが……」
「そうですか? 奥様は使用人に聞いてみたらどうか、と言っていましたが」
 館川がくすりと笑う。
「あの方はかなり思い込みの激しいお方ですから。騒ぎ立てていらっしゃいましたが、私たちがその現場を見たことはほとんどありません。ですが……」
「ですが?」
「私も、何度かそのようなことを経験したことはあるのです。四年前からでしたか」
 記者たちが身を乗り出す。北野は手帳を取り出した。
「四年前、ですか」
「ええ。朝になって朝食の用意をしようと厨房に入った時はなんともないんですが、たまに夜中に起きだしてふと見るとシンクが濡れていることがあるんです」
 記者たちは首をかしげた。それが一体どう不思議なのか、とでも言いたげである。館川はその顔を見て付け加える。
「ああ、私次の日の食事の下ごしらえの後、シンクもいっしょに洗ってしまうんです。その後きちんと拭き上げるので水が残っていることは考えられないはずなんです。いつも寝る前に確認してますし」
 ようやく得心した様子で西森は質問を続ける。
「つまり、誰かがそこで水を使ったってことですかね?」
「そうだと思います。それまでもたまにそういうことがあって、たいてい奥様が水をお飲みになっていらっしゃったのですが、その時ばかりは奥様も首をかしげておられました。小笠原もそんな様子で。そういうことが、たまに起こるようになりました。実害はないので、気にはなりましたが特に何か対処をすることもなく」
「ほかには?」
「そうですね、先ほど奥様がおっしゃっていたと思いますが、冷蔵庫の食材が無くなっていることがありました。大した量ではなく不都合ということではありませんでしたが、二人ともつまみ食いするようなお方でもないので不思議だったのです」
 熱心に北野がメモを取っている。南が聞く。
「それはいつごろから?」
「それも四年前、でしょうか。といっても、そんなに何度もあったわけではないですし」
 それだけ言って、ふと館川が時計に目をやった。
「すみませんが、そろそろ下ごしらえを始めないといけないのでこれで……」
「ああ、どうぞ」
 西森の許可があってから館川は応接室を出ていった。しばらく四人はそれを見送って、それから東雲が南に問いかける。
「……ねえ、智花ちゃん。どう?」
 南がそれに答える。
「大体、わかってきた。けどまだ決め手に欠ける」
 北野が驚いた声を上げる。
「ええっ、もうわかったのか?」
「俺も大体分かったな。それじゃあ、答え合わせと行くか」
 西森がうなずく。それから南が探るように言う。
「今回の事件の原因は、誰かが侵入していたから。奥さんの勘違いってことはない。だって館川さんも同じような現象に出くわしてるから」
 東雲が続けて言う。
「起こっていることがどう考えても人為的なものとしか考えられないわね。万年筆の位置や物音ぐらいなら自然に起こることだけど、ものが無くなったりシンクだけがぬれるようなことは人の手が加わらないと無理ね」
 西森がそれを引き継ぐ。
「さらに言えば、その人間はここに巨額の富があるとわかってる人間だ。何しろそうじゃなければわざわざこんな山奥まで来たりしない。そして、この屋敷の勝手もわかっている。でなきゃ、この広い屋敷で厨房を使ったり食べ物を盗んだりしてほかのところが荒れていないとは思えない。つまり」
 そこで言葉を切って、西森は東の方角を見る。その先には談話室がある。
「つまり、あの中の誰かってことになるのさ」
「幽霊、って線は」
 北野のその間抜けた質問に西森はふん、と鼻を鳴らした。
「まあ、そういう切り口で心霊特集とか書いても面白そうだが。でも今回は一応調査して報告しろって言われているしな、真相を突き止めるのが一番だろう。あいにく俺はオカルトなんてものを信じちゃいねえ」
 東雲が話を元に戻す。
「まあ、何事にも例外はあるから過信はいけないけど。そこで重要になってくるのが、この事件が始まったのが五年前からってことね。この屋敷の主で、対馬家の主でもあった対馬俊夫がちょうど亡くなってから起きてる」
「つまり、そこに何らかの意味があるのかな。もしかして、遺産、とか?」
 南が言うと、西森がうなる。
「それが一番自然だろうなあ。この屋敷のどこかに遺産があって、それを探している、とか」
「でも、おかしくないでしょうか。そんなことしなくても奥さんが相当な遺産を持ってるはずなんですが」
 東雲が言うと、南は肩をすくめる。
「それじゃあ窃盗になっちゃうからじゃないの? あくまで誰にも知られずに埋蔵金を発掘する感覚だったり」
「そうかなあ。それだったらもうちょっと行動を慎むと思うんだけど」
 北野の疑問に、西森はうなずく。
「まあ、そうなんだよな。もしかしたら、あの使用人のどちらかって可能性もある。異変が起こっているのが夜の間ってところもみそだな。犯人は一応姿を隠すつもりはある。けど、自分のことがばれないっていう余裕はあるんだ。今推理できるのは、このあたりか。後はあそこのやつらと話しつつぼろを出すのを待つしかないな」
「そうねえ。じゃあ、善は急げってことで。ここで腐っててもどうしようもないし、談話室に行ってみない? この屋敷の構造上誰かが動いたらあそこを通るわけだし」
 三人はその東雲の言葉に同意して、応接室を後にした。

 四人が談話室に入ろうとすると、そこから栄太が出てきた。
「ああ、記者さんたち。調査は進んでるかい?」
「ええ、まずまずといったところです。栄太さんはどちらへ?」
 西森が聞くと、栄太は少し急ぐ様子を見せた。
「トイレですよ。急ぐんで、失礼しますよ」
 そう言いつつ小走りに栄太は廊下を走っていった。その姿を見送るのもそこそこに四人は談話室に入る。

 談話室には小笠原が一人で座っていた。三人が入ってくると、小笠原は壁にかかった造花のリースから三人に視線を移した。
「ああ、皆様。今までどちらにいらしたのですか」
「応接室にいましたよ。館川さんからお話を聞いていました」
 東雲が答えると、小笠原は微笑んでこう言った。
「立ち話もなんですから、こちらで話しませんか」
 それにしたがって四人は小笠原の座っているソファのテーブルを挟んだ向かい側にあるソファに腰掛けた。ソファはかなり大きく、四人が座ってもある程度余裕があった。
「皆さんはどこに行ったんでしょうか?」
 南が聞くと、小笠原は階段の方を見た。
「皆様お疲れのようでしたし、食堂でもうかなり話しておられましたので、三十分ほど前に二階に上がられました。栄太様は話し足りない、とおっしゃったので私がお相手を務めさせていただいていたんです。それで、皆様が望むお話は聞けましたか?」
 東雲が答える。
「ええ、まあ。それより、さっきは栄太さんが出てきましたが」
「ええ。なんでもお手洗いに行くとのことで。あと、煙草も吸うとおっしゃっておられました。こういった場所で煙草をお吸いになると、奥様のご機嫌を害しますので。しばらくは戻らないということです」
 西森が首をひねった。
「それなら自分の部屋で吸えばいいのではないですか? 窓もありますし、わざわざ一階に降りてこなくても」
「いえ、私とお話していただいていた最中でしたので。それに、それだと部屋に臭いがついてしまうでしょう」
 へえ、と特になんでもなさそうに西森は声を漏らす。
「うちの会社は禁酒禁煙ではあるんですがね。どいつもこいつもまるで守ろうとしやがらない。隠れて吸っているようで、会議室なんかは煙草のにおいが染みついてますよ。まあ、それとこれとは話が別なんでしょうけど」
 そう言いつつも西森の視線は隣の南と北野をとらえている。
「言っときますけど、俺たちは喫煙はしてませんよ」
北野がそう口をはさむが、西森に一喝される。
「そうかもしれんが、飲酒はやっただろう。掟破りに優劣は存在しねえよ。そう考えるとここの人たちはずいぶんと遵法精神の強いことで」
 南と北野は苦い顔をしたが、東雲はそのやり取りを見て笑った。小笠原は何やら反応に困っているらしい。その時、柱時計が十時を示す鐘を鳴らした。
「ところで、皆様と少しお話がしたいと思っていたのですが、瑛太様が戻ってくるまでの間、話し相手になってくださるでしょうか」
 そう言いだした小笠原に四人はうなずいた。


 五人が世間話――ほとんどが西森や東雲の仕事の話だったが――をしていると、階段を下りてくる音が聞こえてきた。
「あ、小笠原さん。兄さんいませんでしたかね」
 姿を見せたのは守彦だった。小笠原が答える。
「栄太様でしたら、お手洗いに行った後、煙草をお吸いになられるとか。もうしばらくしたらお戻りになられると思いますが、こちらでお待ちになりますか?」
 しかし、守彦は少し焦ったように首を振る。
「あ、いや、別に急ぎの用ってわけじゃないんだ。帰ってきたら伝えてくれないか。あの件はちゃんと考えてくれたかって」
「あの件、でございますか?」
 小笠原が首をかしげる。守彦はうなずいた。
「ああ。そう言えばわかるはずだ。それじゃ、頼んだよ」
守彦はそれだけ言い残してまた二階に上がっていった。
「あの件って、何なんでしょう」
 南が聞くが、それに答えられるものは誰もいないようだった。
「さあ。ま、俺たちに関係ないことだってことは確からしいが」
 西森が不満げに息を吐く。それ以降、それについて語られることはなかった。
 その後すぐ、次に降りてきたのは勉だった。何やら深刻そうな顔で一段一段ゆっくり降りてくる。
「どうなさいましたか?」
 小笠原の声を聞いて、勉ははっとした表情になった。それから少しあわてたような声色で答える。
「ああ、いえ、別に。トイレですよ、トイレ」
 それからそそくさと廊下へと向かう。その後ろ姿を四人は怪訝な顔で見送った。
「なんなんでしょうね、あれ」
 南が首をかしげたが、西森は興味なさそうに口を出す。
「漏れそうなんだろう。誰だって我慢できないときはある」
「西森さん、自分の興味ないことにはとことん無関心ですよね」
「そうか? 俺は結構一般論を言ってるつもりなんだが」
 西森は南の非難をそうかわして、そのまま話題を変える。
「そうそう、トイレと言えば。遅いな、栄太さん。さては大の方か?」
「ですねえ。ここまで来て腹を壊すとはかわいそうに」
 北野がそう言いながら自分の腹の具合を確かめていると、東雲がポツリとつぶやいた。
「勉さん、本当にトイレなのかしら」
「どういうことです?」
 西森が聞くと、南がひらめいたようにこぼした。
「……そっか、自分の部屋にもトイレはあるもんね。どうしてわざわざ一階に」
それまで落ち着かなさそうにしていた小笠原が、不意に立ち上がった。
「様子を見てくることにします」
 四人は驚いた。西森が代表するようにそれを止める。
「いや、確かにおかしいですが、そこまでのことでもないでしょう。戻ってきてからでいいんじゃないですか」
 しかし、小笠原は首を振る。
「私にはこのお屋敷を管理する責務があります。何かあってからでは遅いので」
 そう言って出ていくのを、四人は唖然とした顔で見送った。
「もしかしたら、過去に何かあったのかも」
「そうかもね」
 東雲のつぶやきに、南が答える。少しして小笠原が戻ってきた。
「どうでした?」
 北野が聞くと、小笠原は首を振った。
「どうやらいらっしゃらないようでした。もしかすると、外に出ていらっしゃるのかもしれません。ただ……」
 小笠原が口ごもったのを不審に思ったように、西森が鋭い目で質問する。
「ただ、何ですか?」
「いえ、ただ……栄太様もいらっしゃらないようでしたので、少し気になりまして」
「栄太さんも? どういうことだ? さっき栄太さんもトイレに行くって言ってたよな。小笠原さん、栄太さんとすれ違ったりはしてないんですよね?」
 小笠原が首を振ると、北野が首をかしげる。南、西森、東雲は互いに顔を見合わせた。
「ちょっと、様子を見に行ってみるか。どうもおかしい」
 西森の言葉に一同はうなずいた。

 一同で来てみたはいいものの、男子トイレに入れるのは男性のみなので必然的に南と東雲はトイレの前で待機することになる。
「ねえ、未那叔母さん」
「なに?」
「なんか嫌な予感がするんだけど、まさか、ね」
 あまり顔色が優れない南に、東雲は渋い顔で返す。
「そういうことは思ってても言わないで欲しいんだけどね。予言の自己成就、なんてのはよくある話だし。正直私も同感よ。変なことが起こらないでくれればいいんだけど」
 そうこうしているうちに、男性陣三人が戻ってきた。その誰もが首をかしげている。
「どうでした?」
 南の言葉に西森は肩をすくめた。
「残念なことに、もぬけの殻だ。本当に誰も居やがらねえ。外も見てくるか」
 その時、甲高い悲鳴が廊下に響き渡った。その発生源はそう遠くない。五人は一斉にシャワー室の方を向いた。
「お、おい、今の……」
 北野が呆然とそうこぼした瞬間、東雲がいち早く動き出した。それに続く形で四人がシャワー室に向かう。

 シャワー室は女性用と男性用がある。東雲が飛び込んだのは女性用だった。
「叔母さん、こっちで合ってるの?」
 南に東雲が即答する。
「さっきの声は女性の声だったでしょ」
 答えながら一気に脱衣所を駆け抜ける。そして防水ドアを開く。

「館川さん!」
 南が声を上げる。中では全裸の館川が腰を抜かしていた。東雲が口早に南に指示する。
「智花ちゃん、彼女を! 私はあっちを!」
 シャワー室にはもう一人人間がいた。東雲が行ったあっち、とはその人間のことを指している。ただし、正確にはそれはかつて人間であったもの、であるが。
 シャワー室の真ん中で栄太がうつぶせに倒れていた。その周りには赤い水たまりができていて、それは排水溝に徐々に流れ込んでいた。壁には返り血が飛んでいて、それらの血液は栄太であったものの胸から流れ出していた。そこには刺し傷が複数見られた。それを生み出した包丁はその傍らに無造作に転がっていた。東雲はその凄惨な光景に顔をしかめつつ栄太の首に手をやった。
「……まあ、この状況じゃあ生きてるわけない、か」
 あたりの状況を一瞥し、時計を確認して東雲はすぐに脱衣所に引き返した。

 遅れて駆けつけた男三人は南にバスタオルをかけられている館川を見てぎょっとした。しかしすぐに小笠原が館川に駆け寄る。
「志野、大丈夫か」
 館川は歯の根が合わないまま小笠原を見上げると、そのまま縋り付いた。嗚咽を漏らしながら泣きじゃくっている。
 何がどうなっているのかよくわからないというような様子の北野をよそに、西森はシャワー室の奥を覗きに行き、東雲はなにやら備え付けのタオルを調べている。西森が奥に入ろうとするのを東雲が止める。
「西森さん、入らないで」
 その意図を悟ったように西森は声を低くして聞く。
「死んでる、のか」
 ええ、とそっけなく答えて東雲は六人が集まるには広くはない脱衣所に集まった人間を見まわした。そして即座に小笠原に向き直る。
「小笠原さん、ここに手袋のようなものはありますか?」
 館川を慰める手を止めずに小笠原は少し困惑した様子で答える。
「え、ええ。車の整備などに使うものとか」
「それはだめです。もっと清潔なのは?」
「……ビニールのものなら厨房にあるはずですが」
「それでいいです、今すぐ持ってきてください。西森さんと一緒に。くれぐれも一人になったりしちゃだめですよ。疑われるのは自分なんですから」
 困ったように自分にしがみつく館川を見た小笠原。それを見て、東雲は少しだけ口調を緩めて言い添える。
「大丈夫です、智花ちゃんに付き添ってもらうから。安心して行ってきてください」
 その言葉に納得したらしく、小笠原は少し後ろ髪引かれながらだがうなずいた。
「そういうわけだから、西森さん、頼みますね」
「……わかった」
 西森が答えると、二人は足早に脱衣所を飛び出した。東雲の指示は終わらない。次は南を振り返る。
「それじゃあ智花ちゃんは館川さんを部屋に連れてってあげて。なんだったら服も着せてあげてね」
 南は動揺しながらもうなずいて館川に声をかける。
「館川さん、ここは出ましょうか。部屋で休みましょう」
 館川が何とかうなずくと、二人はゆっくりとした足取りで脱衣所を出る。一人何の指示も出されていない北野が恐る恐る口を開いた。
「あ、あの。お、俺は何をすればいいんでしょうか」
「北野君は私の行動を監視してて欲しいの」
「監視? なんでそんなこと」
 北野が驚くと、東雲はため息をついて答える。
「わかってる、北野君? 人が死んでるの。それも、刺殺体。複数の深い刺し傷があったから自殺は考えづらい。となると、誰かが殺したってことになる。そしてその容疑者の中に一応私もあなたも入ってるわけ。そして私が疑われたら今から私がやることになるかもしれない検死も全く意味をなさなくなるのよ。それとも何? あなた自分から疑われたいの?」
「い、いや、そんなことは……」
「わかったら私の言うことを聞きなさい。ただ私のやることを見てるだけでいいから」
 その剣幕に押されて北野が首を縦に振ると同時に、小笠原と西森が戻ってきた。小笠原の手には薄いビニールの手袋がある。
「これでいいですか?」
 ええ、と東雲はそれを受取って、二人に新たな指示を出す。
「では私はこの現場を調べるので、二人はほかの皆さんにこのことを知らせてください」
 その言葉で二人が再び外に出ていく。そして東雲は手にその手袋をはめてつぶやいた。
「それじゃ、始めますか。みんなが来る前に、ね」

 談話室に入ると、勉が怪訝な顔で出迎えた。
「あれ、あなたトイレに行ったんじゃなかったんですか」
 西森の言葉に、勉は少し狼狽した様子で答える。
「え、ええ。その前に新鮮な空気を吸いたいと思いまして、外に行ってたんです。少しそうしてたら腹の調子が収まったので、ここまで戻ってきたんです」
「ニアミスだったのか、くそったれ」
 西森が悪態をつきつつ階段に向かう。
「小笠原さんはそこに待機で。俺は後の三人を連れて来ます。何度も説明して気分のいい話じゃない」
 勉が首をかしげたが、それに構わず西森は階段へと向かった。

 廊下を走り、その真ん中で西森は大声を出した。
「緊急事態です! 談話室まで下りてきてください!」
 まず四号室のドアが開いた。そして、恐る恐るといった様子で奈絵が顔を出す。何かを恐れているかのようなしぐさだ。次に開いたのはその向かいの五号室。顔をのぞかせたのは守彦だった。最後にゆっくりと二号室の鍵が開き、陽菜が姿を現す。
「何よ、寝てたっていうのに」
 眠たそうに文句を言う陽菜に、西森は苛ついた様子で言った。
「いいから、来てください。寝てる場合じゃない。これは――殺人事件です」
 その一言で、三人の顔色が変わった。

 西森と小笠原が四人を連れてシャワー室に戻ると、東雲は振り返って聞いた。
「ああ、説明は済みました?」
 西森が答えるより先に、陽菜が栄太の死体を見つけて奥に入ろうとする。それを東雲は鋭い声で制止した。
「入らないでください。ここは殺人現場です。せっかくこんな密室なんですから、保存しましょう」
「何言ってるのよ! あんた、栄太が、死んだですって? 冗談じゃないわ、あの子のことだもの、きっとただのいたずらで……」
「奥様、認めてください。栄太さんは亡くなったのです。それ以上もそれ以下もありません」
 その表情のない言葉に陽菜はヒステリックになり始めた。奈絵、守彦、勉は奥を覗いて愕然としている。
「何よ、何も知らないくせに! 入っちゃだめなら、どうしてあなたは入ってるのよ! きっとさっきまでこの現場を作っていて、だから……」
「栄太さんの死亡は確認しました。これは断じていたずらなんかではありません」
「ふん、あんたの言葉なんか信用できるもんですか、素人の癖に!」
 辛抱強く説得しようと試みていた東雲は、ついに声を荒げた。
「元刑事です。確かに現役ではありませんが、今のこの場ではそれなりの信憑性はあると思うのですが」
 その声に、その場の全員が固まった。しばらくの静寂ののち、東雲はため息をつく。
「……ほかに疑問をお持ちの方は? いないのならみなさん談話室に集まっていただきたいと思います」

 談話室。そこには南と館川を除く七人が集まっていた。その顔はどれも暗い。カチカチと歯を鳴らす音は守彦の口から発せられているらしい。東雲が小笠原に声をかける。
「とりあえず、警察を呼んでいただけると助かります。いくら元刑事と言ってもこれ以上勝手に調べるわけにはいきませんから」
 それにうなずいて、小笠原は廊下に駆け出して行った。西森が陽菜に向かって聞く。
「時に奥さん、ここには電話はどれくらいあるんですか」
 陽菜は涙をためた目を西森に向けた。
「……三台よ。オガちゃんの部屋に一台と、応接室に一台、それから私の部屋に一台」
「館川さんの部屋にはないんですか?」
 北野の疑問に陽菜は鼻を鳴らす。
「どっちにあったって同じよ。夜にはどうせ同じ部屋にいるんでしょうから」
「え、それってどういう……」
 さらに質問を重ねようとした北野の頭に、西森が拳骨を落とす。二人のやり取りを尻目に東雲は陽菜に聞く。
「つまり、今彼は自分の部屋の電話を使いに行ったということですね」
「……たぶんそうじゃないかしら」
 すぐに戻ってきた小笠原は少し戸惑っている様子で報告した。
「すみません、警察に通報できませんでした」
「どうしたんですか」
 東雲が予感していたような冷静さで聞くと、渋い顔で小笠原はこう言った。
「……電話が通じません。何の音もしないんです」
「なんだって?」
 それにいち早く反応したのは守彦だった。東雲は小笠原に質問し続ける。
「ここ、電波の圏外なんでしたよね。電話は有線なんでしょうか」
「ええ。このあたりに家はこの別荘だけなので特別に有線で電話回線を引いているんです。もしかしたら、その配線が切られたのかもしれません。さすがにこの時間から直しに行くのは危険ですが、修理の道具もありますし、朝になれば点検に行けると思います」
 それを聞いて、呆れたように東雲は吐き捨てる。
「……お約束ねえ。このシチュエーションなら誰だってこうするんでしょうけど」
「なに、どういうことなの」
 状況がわかっていない陽菜に、西森が説明する。
「ここに電話がかかってくることもあまりないでしょう。犯人はあらかじめその配線を切っておいて犯行に及んだ。死体が見つかった時に我々が警察に連絡できないように、ということでしょう」
「まだそう断言するのは早計です。小笠原さんと北野君には残りの電話を、守彦さんと西森さんには駐車場まで行って車が動く状態かどうか確認していただきたい」
「どうしてそんなことを?」
 東雲の言葉に、守彦が少し怯えた様子で聞く。
「もし連絡手段を断つようなことを犯人がしている場合、それだけで済むとは私には思えません。逆にもし移動手段が無事であれば、それで町まで出ればいいだけのことです。ですから確認しておきたいのです」
 それに納得したらしく、守彦は談話室を出て行った。それに西森が続く。
「それじゃ、俺たちも行きましょうか」
 北野がそう言うと、小笠原もうなずいて談話室を出る。それを東雲は厳しい顔で見つめていた。そして、陽菜に聞く。
「最後に電話を使ったのはいつですか?」
「……今日の朝よ。守彦から少し遅れるって連絡が来ただけ」
 そのまま沈痛な面持ちでうつむく陽菜に、東雲はため息を一つこぼした。
 しばらくして戻ってきた四人は一様に渋い顔をしていた。
「電話は全部使えませんでした。そっちはどうですか?」
 北野の言葉に、西森は首を振った。
「こっちもダメだ。置いてある車全部のタイヤがパンクしてやがる」
 全員の様子に不安の色が浮かぶ。東雲が小笠原に聞く。
「ここにはスペアタイヤはないのですか?」
「それが、何しろ使っていない車がかなりあり、そのすべてのタイヤがパンクするということは今までなかったのでそういったものは置いていないんですよ。そうでなくともこういうときでも業者を呼べば来てくれたので……」
「その使ってない車というのは、俊夫さんのコレクションですか?」
小笠原は頷いた。
「はい。しかし旦那様がすべての鍵を管理していたもので、先の火災で焼失してしまっています。そのため、何十というスペアタイヤがあったことになるのですが……」
 東雲が西森に対して聞く。
「念のためお聞きしたいのですが、タイヤはどうなっていましたか?」
「ああ、あんたの思った通りだな。刃物で切ったような傷があったから、間違いなくあれは人為的なものだな」
「じゃ、じゃあ、歩いて逃げるしかないんじゃないか」
 不安げに口を出す守彦に、小笠原は冷静に反論する。
「犯人が外をうろついているかもしれないこの状況で、それは危険です。そうでなくともこのあたりには夜になると熊が出ます。夜に徒歩で町まで出るのは自殺行為と呼べるでしょう」
 なるほど、と東雲は肩をすくめた。
「つまり我々はこの自然の檻に閉じ込められた、ということですか。そして、その檻の中に犯人がいる」
「まさか、この別荘の中に犯人がいるわけ?」
 怯えたように奈絵が言うと、全員の表情がこわばった。その言葉が作った沈黙を、西森が破る。
「まずは、それを確認するべきだな。俺たちはずっとここにいたし、誰も不審なやつを見ていないから、隠れているなら一階ってことになるか」
 ええ、と何か含みつつも東雲も同意する。
「確認するって、まさか調べて回るんですか?」
 勉が聞くと、守彦も反論する。
「正気かよ! 俺は行かないぞ! 犯人がいるかもしれないのに、藪蛇をつつくようなもんだ!」
しかし、当たり前のように西森は言い返した。
「このままでも危険は危険です。いつ誰かが襲われてもおかしくない。その被害者が女性になる可能性だって少なからずある。なら、それを男で肩代わりしてやるのは悪いことじゃないんじゃないですかね。そもそも無警戒の状態で襲われるのと数人固まった男たちで警戒して見て回るんじゃ、まるで違うと思うんですが」
 勉と守彦は口をつぐんだ。ほかの五人も、特に異論はないようだった。
「よし、それじゃあ見回りと行きますか。人手は多い方がいい。男衆は全員動員しましょう。女性陣はここに待機ということで」
 西森の仕切りに及び腰だった守彦や勉も腰を上げた。
「何か武器が欲しいな。小笠原さん、なんかありませんか」
 小笠原はそれに眉を寄せた。
「厨房に行けば包丁くらいはあるかもしれませんが……」
「ああ、いや、それはダメだ。こういう多人数の素人の場合、刃物を振り回すと味方を傷つけてしまう。もっとこう、鈍器のようなものとか」
「あいにくですが……。私の部屋にモップや箒くらいならありますが」
「うん、まあ、仕方ないですね。それで行きましょう。場所的にも一番近いですし」
 そうして彼らは談話室を後にした。

 五人がまず最初に向かったのは小笠原が使っている使用人室だ。その部屋の隅に長方形の箱が据え付けられている。小笠原はそれを指差して言った。
「あれが掃除用具入れです」
 四人が掃除用具入れの中を物色している間、小笠原は奥にあるキーボックスに鍵を取りに行こうとはしなかった。
「あれ、鍵は持って行かないんですか」
 西森が首をかしげると、小笠原は懐からマスターキーを一つ取り出した。
「普段はマスターキーで管理していますので。個別の鍵はほとんど貸出し用としてしか使っていません」
 なるほど、と西森が納得しつつモップの柄を取り外す。勉と守彦は箒を持っている。一人何も持たない北野は所在無さげに立っている。西森はそれを見まわして苦笑する。
「改めて見てみると何とも恰好がつきませんねえ。清掃員か何かですか、我々は。まあ、恰好にこだわっている場合でもないですけどね」
 その冗談に笑うものは一人もいなかった。

 次に向かったのは倉庫。鍵を持つ小笠原が先頭になり、次に体格のいい西森、そして勉、北野、守彦と続く。
「開けますよ」
 その言葉で全員に緊張が走ったようだった。西森がうなずくと、小笠原はゆっくりと鍵を回し、それから一気にドアを開ける。
「……誰も、いないな」
「……ええ」
 毒気を抜かれたように四人は固まった。倉庫の中は整頓されていたが、見える限りで犯人らしき姿は見えなかったのだろう。
 明らかに安堵した様子で守彦が口を開いた。
「じゃあ、次に行こうか」
 それを西森が制する。
「いや、まだです。一応確認しないと。たとえばほら、段ボールの中に隠れているかもしれませんし」
「そうは言っても、中にいるかもしれないんだろ。誰が先頭に立つんだよ。俺はごめんだぞ」
 抵抗する守彦を、西森は鼻で笑った。
「自衛精神は結構ですがね。それじゃあ守彦さんはそこに残っていてください。廊下は直線ですから、犯人が廊下に出てきたらわかるはずです。ほかの四人はここを調べましょう」
 西森の指示に従って五人は動き出した。少しして、何事もなく四人は廊下に出てきた。
「いないようですね。それでは次に行きましょうか」
 その隣は応接室。同じようにドアを開ける。
「……いない、か。隠れられるようなところもないし」
「時間が惜しいです。次に行きましょう」
 小笠原の言葉で一同は応接室の捜索を打ち切った。
その隣の書斎も何事もなく捜索は終わり、ギャラリーの扉を開ける、というところになって小笠原は驚いたように口を開いた。
「あれ、鍵が開いてます」
「鍵が開いてる? それはどういうことです?」
 西森が聞くと、小笠原は首をかしげて答える。
「ここはかなり高価な品がいくつも置かれているためいつも鍵をかけていたのですが、それが開いています」
「つまり、ここに誰かが入ったってことか?」
守彦が震える声で言うと、全員の顔が青ざめた。ひときわ青い顔をした勉がポツリとこぼす。
「ここに犯人がいると?」
「その可能性は高いですね。ほかの部屋と違って侵入の形跡があるんですから。心していきましょう」
 西森がそう言うと、小笠原がドアノブに手をかけた。
「それじゃあ、行きますよ」
 四人がうなずいて、小笠原はドアを開ける。
「……いない、ですね」
 小笠原がなおも緊張した声で言う。
「それでも、ここに誰かが入ったことは確かなんです。探しましょう。先ほどと同じ役割分担で」
 西森がそう言って、四人がまた中に入った。

「へえ。これはまた」
 西森が入るなり感嘆の息を吐いた。中にはところせましと美術品や宝石が並んでいて、中央のショーケースには化石が大事に保管されている。
「旦那様のコレクションです。非常にこういったものに関心がおありの方で、事あるごとに買い求められていらっしゃいました」
「へえ、南のやつはこだわりが感じられないとかぼやいていましたがね。ごった煮だとかなんとか」
「今はそんな話を聞いてる場合じゃないですよ。隠れられるところなんてたかが知れてます。さっさと調べて先に行きましょう」
 不機嫌そうな西森を勉が急かし、四人はオブジェやショーケースの裏を探した。

 使用人室。館川の背を南がなでていた。館川は先ほどよりもずっと落ち着いている。
「……ごめんなさい。もう大丈夫です」
 顔色はそうは見えないが、それ以上は余計な世話だと考えたらしい。南はそっと離れた。
「それじゃあ寒いでしょう。服、着ましょうか。どこにありますか?」
「ええと、そのチェストの中です」
 南が引き出しを開け、驚いた声を上げた。
「うわ、なんですかこれ。全部給仕服なんですけど。私服とかないんですか」
「ないわけでは、ないんですけど。このお屋敷では着ることがありませんし、一番下の引き出しに押し込んであるんです」
 それを聞いて一番下の引き出しを開けようとする南を、館川は引き止めた。
「給仕服で大丈夫です。あの、申し訳ありませんが、取っていただけますか。腰が、抜けて」
「あ、はい。これですね。下着は、この下ですか」
「その通りです。本当に、申し訳ありません……」
 着替えを出し終えた南が、心配そうに聞く。
「あの、一人で着られますか」
「大丈夫です。お気を遣わせてしまい、申し訳ありません」
 何度も謝りながら、館川は着替えを終えた。
「しかし、小笠原さんの部屋もそうでしたけど、屋敷の他のところと比べると、使用人室は質素ですね」
 雰囲気を変えたかったのか、南はそんなことを口にした。
「そう、かもしれません。しかし、私共は拾っていただいた身ですので。それに、私にとっては料理が生きがいなのです。予算や時間にこだわらず、いろいろな料理を作らせていただけるだけで、十分すぎる幸せです」
「まあ、それもそうかもしれませんね。趣味に没頭して生きられるって考えると、なかなか居心地いいかもしれません」
 館川が立ち上がった。まだ足取りはおぼつかないが、歩けないほどではないらしい。
「付き添っていただいて、ありがとうございました。もう大丈夫です。戻りましょう」
「……ええ、そうですね」
 南はまだ手が震えている館川を気遣わしげに一瞥して、先に立って歩き出した。

「いたのか?」
 廊下。守彦が聞くが、四人は首を振るばかりだった。
「いない、ですかね。だとすると鍵が開いてたのはなんだったのか……」
 小笠原が何やら思い出したように口を開いた、その時廊下の奥の方から扉が開く音がした。
「なんだ?」
五人が振り向くと、ちょうど隣の館川の使用人室から南と館川が出てきたところだった。
「え、皆さん総出でどうしたんですか?」
 南が館川を抱えつつそう聞くと、西森が返す。
「いや、実は連絡手段と移動手段が断たれちまってな」
「はい? それはいったいどういうことですか?」
「詳しいことは談話室でお前の叔母さんにでも聞いてくれ。とにかくそういうことで、俺たちはここで一晩明かさなきゃいけなくなったらしい。だから安全の確保のために見回ってんのさ。とりあえず、そっちには誰もいなかったか?」
 南は当然のように首を振った。
「今、ようやく彼女が落ち着いたところだったんですよ」
「じゃあ、物音を聞いたりもしてないか?」
 南はうなずいた。
「……なるほど。とりあえずご苦労だったな。いったん談話室に行っててくれ。犯人がいるかどうか確かめてから戻るから」
 南は一瞬考えて、それからうなずいた。
「わかりました。……気を付けてくださいね。いくら丈夫な西森さんでも死ぬときは死ぬんですから」
「お前な、縁起でもないこと言うんじゃねえよ。せめてご武運を、くらい言え」
「じゃあ、ご武運を」
「はいよ」
「北野君もね」
「え、あ、ああ。頑張る」
 がちがちに固まって無口になっていた北野は、現実逃避気味に小さな窓の方を見ていたが、声をかけられて我に返ったらしくそれだけ返した。二人が戻っていくのを少しの間見送って、それから気合を入れなおすように西森は四人に声をかけた。
「さて、それじゃああと半分、張り切っていきましょうか」

「嘘よ……、そんなの、絶対……」
 南と館川が談話室に戻ると、ぶつぶつとつぶやいている陽菜を奈絵が慰めているところだった。その奈絵の顔もどこか蒼白だ。東雲が二人を振り返る。
「あら、もう大丈夫なの?」
「何とかね。でもショックは大きいみたい」
 震える館川を支えながら、南は東雲の隣に座った。
「こっちも、おんなじ感じよ。最愛の息子が亡くなったっていうのはやっぱりショックなんでしょうね。私にはよくわからないけれど」
「それで、移動手段と連絡手段がないっていうのは?」
 東雲の説明を受けて、南は驚愕した。
「そんな。パンクって、誰かが音に気付いてもよさそうなものだけど」
「駐車場はここから四百メートル以上離れているのよ。それにこっちは室内だし。聞こえなくても無理はないわ。それより重要なのは今からどうするのか、よ」
 そこで男五人が戻ってきた。
「どうだったの?」
 東雲の問いに西森が答える。
「誰もいなかった。これは少し、考える必要が出てきそうだ」
「ちょうどいいわ。そろそろいろいろ考えなきゃいけないと私も思ってたところです」
 その言葉がはらんだ張りつめた緊張感が、その場の全員の視線を東雲に集めた。
「まず、対馬栄太さんが何者かに殺害されている。これは確かのようです。脈もありませんでしたし、瞳孔も散開、光に対する反射もなし、そして出血量から私はそう考えます。おそらく位置的に刺し傷は心臓に達しているものと思われ、生存の可能性はありません。血液の状態やまだ死後硬直が始まっていないことから、発見時刻から一時間以内に殺されたと思われます。これは私の検死の結果ですが、そこに関して何か質問は?」
 さすがにここまできてそこに疑問を持つ者はいなかった。
「では次に、発見時刻は午後十時四十六分。それから屋敷内一階を捜索しましたが、不審な人物の姿は見つけられませんでした。かといって、犯人が二階に行った可能性はありえないと思われます。なぜかというと、我々は彼に会った後ずっとこの談話室にいたからです」
「でも、あなたたちみんな前から知り合いなんでしょう? 口裏を合わせているってこともあるかもしれないじゃない」
 陽菜が疑わしげに東雲を見るが、小笠原が制する。
「いいえ、奥様。私もずっとここにいましたが、確かにその通りでした」
 陽菜はそれを聞いて、不服そうに引き下がった。
「よろしいですか? では次に、そうなると犯人はどこに行ったのか、ということが問題になります。逃げ出したのか、それともこの屋敷にとどまったのか」
 その言葉に守彦がおびえたように反応した。
「ちょっと待った、とどまったってどういうことだよ。さっき屋敷の中にはいなかったって言ってたじゃないか」
「不審な人物は、という話です。つまり、ここにいても我々が不審に思わない人物が犯人であるという可能性はありますそれは要するに……」
「この中に、犯人がいるっていうこと?」
 南が継いだ言葉に、東雲はうなずいた。守彦はそれに少々過剰に反応した。怯えているようにも見える。
「そんなことがあってたまるか! ばかばかしい。俺は部屋に戻る」
 そう言って守彦は階段へと向かっていった。奈絵がすかさずその背中に声をかける。
「あ、兄さん! 危ないよ」
「何が危ないもんか、犯人は二階にはいないんだ。逃げたんだよ。だから俺たちは安心して寝るべきなんだよ」
 その声が遠ざかっていく。東雲は苛立たしげなため息をついた。
「……あまり、単独行動をしないようお願いします。犯人に狙われる危険が高まりますし、逆に犯人だと疑われる要因にもなります。ご自身の身のことを考えるのであれば、私の言うことを聞いていただきたい」
 それに異論をはさむものはいなかった。
「それでは、失礼だとは思いますが、まず皆さんの荷物を確認してもよろしいでしょうか」

 十分後、守彦を除く全員が談話室に戻ってきた。そしてまたソファに腰掛けて東雲は口を開いた。
「それでは、我々を含め守彦さん以外の全員の荷物を拝見させていただいたわけですが……」
「ねえ、そろそろ説明してくれない? どうして荷物なんて見たのか」
 奈絵が少し怯えた様子で聞く。東雲は眉を寄せて答える。
「そうですね……。それより先に発見当時二階にいた奥様にお聞きします。部屋に戻ってから外から何か物音はしませんでしたか?」
「物音って、どんな?」
「近くでドアが開く音や、梯子を昇降する音です」
 その言葉に陽菜を除く全員の顔がこわばった。おそらくそれで東雲の意図を理解したのだろう。陽菜は今一つ理解できていない様子で答える。
「えっと……寝てたからよく覚えてないわ。奈絵は? 隣なんだから何か聞いてるんじゃない?」
 奈絵は自信なさげに答える。
「何度かドアが開いたりしまったりした音は聞いたけど、それがどこのドアかまではわかりませんよ。梯子の音は聞こえませんでした」
 なるほど、と東雲は一瞬黙った。それから全員に向けて言う。
「順を追って説明しましょう。まず我々と栄太さんは十時になる直前に会いましたので、その時点までは栄太さんは生存していたということになります。それは小笠原さんも確認していますし、間違いないと言っていいでしょう。
それから我々と小笠原さんはずっとこの談話室にいました。それまでに皆さんは二階に上がっていたとのことでしたね。二階からここに降りて来たのは守彦さんと勉さん、そしてここを通過したのは勉さんだけです。守彦さんはすぐに二階に戻っていきました。この場合、犯行が可能なのは明日の料理の下ごしらえをするためずっと一階にいた館川さんと、発見直前にここを通過した勉さんにしかできません。もしもこの屋敷に二階と一階を移動する手段が一つしかないのであれば」
「でも、まだ移動手段はあった?」
 北野の言葉に、東雲はうなずく。
「そう、避難梯子です。私は小笠原さんから伺いましたが、非常時に使えるよう避難梯子のある一号室は鍵が開いているそうじゃないですか。なら避難梯子を使って一階に降り、またそれを上るという芸当も可能です。念のため梯子に代わるものがあるかどうか皆さんの荷物を確かめましたが、さすがにそれはありませんでした。
 とにかく、今の段階で言えることは一つです。我々全員が犯人である可能性があると」
「全員? 俺達まで容疑者かよ」
 西森が非難めいた口調で言うが、東雲はこともなげにうなずいた。
「そりゃそうでしょう。我々だって小笠原さんと共犯だって可能性がないわけではない。なら容疑者から外すのは不公平です」
 それに西森は不服そうにだが引き下がった。
「とはいえ、一番犯人から遠い存在であるのも我々です。なので、異論がなければ我々がこの事件について調査したいのですが、よろしいですか?」
 それに、勉が口をはさんだ。
「ちょっと待ってください。今このことについて調べる必要ってあるんですか?」
「私も同感です。警察を待ちましょう」
 小笠原が同意する。
「実は、それでは遅いのですよ。犯人がこういった状況を作る意図としては、基本的には稼いだ時間で証拠を隠蔽することです。もしくは、自分が逃げる時間を稼ぐことです。前者の場合、初動捜査の早さが問題になります。また、これは稀ですが、我々を逃がさないためであるのなら、この殺人事件はまだ終わっていません。我々を皆殺しにしようとしていることだって考えられなくはないです。それを防ぐためには、やはり犯人を捕まえるほかに方法はないのです」
 その東雲の剣幕に二人は押し黙るほかなかった。
「少し考えをまとめます。応接室を使わせてもらっていいでしょうか」

 応接室に集まったのは東雲、南、西森、北野の四人。
「さてと、東雲さんよ。聞かせてもらおうか。あっちじゃできないような話なんだろ?」
 西森が言うと、東雲が少しだけ口の端を上げたのがわかった。
「ええ。要するに、誰が犯人なのか、という話ですよ」
「そんなこと言ったって……今の状況でわかるもんなんですか」
 北野が眉をひそめたが、東雲は不敵に答える。
「大体の予測はできるわ。ね、智花ちゃん?」
 話を振られた南はうろたえた。
「え、いや、さすがに無茶振りすぎ」
「いいから、今のところのあなたの考えを聞かせて」
 そう言われて、不服そうに南はつぶやく。
「館川さんと勉さんは少なくとも殺人の実行犯じゃなさそう」
「どうして?」
「犯人の視点に立って考えたら、そうじゃない? 館川さんは別に第一発見者になる必要はなかったわけでしょ。だってどうせ誰かはシャワー室に入るんだし、殺した時点で発見して欲しいわけでもない。目撃者もいないし、なんだったら自分は入ってないって証言することもできる。わざわざあそこで大声あげる必要はないと思うし」
 ほう、と東雲は感嘆の声を上げた。
「それは盲点だったわ。心理的には確かにそうね」
「つまり東雲さんはほかの面からそう言うわけかい」
 西森の問いに東雲は自信ありげに答えた。
「そうですよ。なにしろ、発見当時彼女の身体は濡れていませんでしたから。普通あれだけ出血してたら犯人も返り血を浴びてるはずです。なのに彼女の身体に血は付いてなかったし、シャワーで流したとしたら濡れているはずですが、濡れてもいませんでした。体だけでなく髪も乾ききっていましたし、あたりのタオルも濡れてはいませんでしたから、死亡推定時刻から彼女は自分自身では殺害していない、という結論に達しました」
「じゃあ、勉さんは?」
 北野が聞くと、東雲は答えた。
「そりゃ簡単よ。単純に時間がないから。大の男をあそこまで連れて行ってあれだけ刺して殺すのは彼が談話室を通ってからでは無理。かといって梯子を使った後にわざわざ談話室を通る必要はないからね」
 三人が呆気にとられるのを見て、東雲は苦笑を浮かべた。
「まあ、まだ推論の段階ですし。それに、例外もあるでしょうしね。とにかく、今後のことを話しましょう」
「とりあえず、みんなから話を聞きたいところだな。アリバイとか、動機関連とか。俺たちはまだ彼らのことをほとんど何も知らないからな」
 西森の言葉に南がうなずく。
「そうですね。そうなると一番はやっぱり殺人犯として考えにくくて第一発見者の館川さんに話を聞きたいですよね。……あまり、蒸し返したくはないですが」
「でもこの状況じゃ仕方ないわ。館川さんには悪いけど、その時のことを話してもらいましょう。西森さん、館川さんを呼びに行くのに、付き合ってくれますか?」
 東雲がそう問いかけると、西森は重い足取りで東雲の後を追った。残された北野が南にこぼす。
「……話には聞いてたけど、お前の叔母さんほんと規格外だな」
「それは同意。……あれで極端な秘密主義でさえなければ頼りになったんだけどね。おかげであの人が何考えてるのかまるで読めないのよね」
「元刑事って話だったな。だからなのかな」
「それで慣れてたから遺体を前にしてあんな冷静に調べまわってたわけでしょうね。私らには絶対できない芸当だわ」
「あんなの前にしたら頭真っ白になるよな。俺なんてただ突っ立ってただけだぞ。情けないってもんじゃない」
 そうして、二人は何にともなくため息をついた。
 東雲と西森はすぐに館川を連れて戻ってきた。まだ完全にはショックから立ち直れていない様子の館川を向かいのソファに座らせ、東雲がまず口を開いた。
「すみませんが、我々と別れてから栄太さんを発見するまでのことについて教えていただきたいのです。よろしいですか?」
 少し、間があった。苦り切った表情でしばらく館川は眼前の四人を見つめているようだったが、やがて恐る恐るといった様子で口を開いた。
「私は、ずっと厨房で明日の料理の下ごしらえをしておりました」
「一人で?」
 東雲の声に、館川が答える。
「はい。忙しいときにはひろ――小笠原に手伝ってもらったりもしますが、基本的には一人です」
「何時ごろに終わりましたか?」
「大体……十時半を少し過ぎたあたりだったと思います。それから部屋に戻ってシャワーを浴びる準備をしました。いつもこれくらいの時間に皆さん浴びているもので、今日は慌ただしかったし、これ以上ばたばたするのもよろしくないと思い、それより少しだけ早く浴びておこうと思って」
「そうして、シャワー室に行ったところで栄太さんの遺体を見つけたわけですか」
 その言葉に館川はびくりと肩を震わせたが、すぐに冷静な口調で答えた。
「……そうなります。私の行動について話せることはほかにないと思います」
 北野がメモを東雲に見せた。東雲はそれを少し眺めてから軽くうなずいた。メモの内容と矛盾していないことを確かめたのだろう。
「それについてはこちらも把握しています。第一発見者ではあるけれど、あなたが一番実行犯から遠い。ですから最初にあなたに話を聞きたかったのです。
 それで、ここからが本題です。まず、その一連の流れの中で何か気になることはありましたか? どんな些細なことでもいいです」
 館川は少し頭をひねる。
「ええと、厨房の包丁が一本なくなっていました」
「包丁が? いつからの話です?」
「今晩の夕食の調理中は全部ありました。それから夕食後の後片付けの時には、確認していません。調理に使った器具はすべて食事の前に洗ってしまうので、調理器具の有無を確認する機会がなかったのです。それで、下ごしらえをし始めた時にはもうなくなっていました。後で奥様に報告しようと思っていたのですが」
「確認させていただきますが、下ごしらえを始めたのは十時になる少し前でしたよね?」
「はい。大体、九時五十分くらいだったと思います」
 東雲はそれを聞いて、納得したようにうなずいた。
「どうやらその包丁が栄太さん殺害に使われたとみて間違いなさそうですね。館川さん、包丁の特徴は覚えていますか?」
 館川は少し言葉を詰まらせて、それから気分が悪そうに言った。
「……細かな装飾までは覚えていません。申し訳ありません」
「わかりました。北野君、夕食の時に席を立った人は誰と誰だったかしら」
 東雲が聞くと、北野は顔をひきつらせた。そのままあたふたしていると、それを見かねてか南が助け舟を出す。
「まず陽菜さんがトイレに行ったよね。次に守彦さんが同じくトイレに、次は奈絵さんが旅行の写真を見せたいって言ってデジカメを取りに行った。これで全員かな」
「あ、ああ、そうそう」
 あわてて肯定する北野に微笑んで、東雲は顔にかかった髪を払った。
「確かにそうだったわね。北野君、一応メモしておいて」
 北野がメモを書き終わったのを見てから、東雲はさらに続ける。
「ほかには、何かありましたか」
「そうですね……。これは、他の方のアリバイを確かめるための質問ですよね?」
「ええ」
「でしたら、これは役に立つかはわかりませんが、私が部屋でシャワーの準備をしていた時、ドアを開けたり閉めたりする音が何度かしました」
「ドアを開閉する音? どちらから聞こえたかとかはわかりますか?」
 館川はしばらく首をひねって、それから首を振った。
「……すみません。お手洗いだろうと思い、そこまで注意して聞いていませんでした」
「なるほど。それでは、他には何かございますでしょうか」
「いえ……特には」
 館川がそう言うと、納得したように東雲は笑った。
「それでは最後に。栄太さんとほかのご親族との関係を何か知っていたら教えていただきたい」
「いえ、私はそれほど皆様と話す機会がございませんので。それでしたら小笠原に聞いた方が有用な情報が得られると思います」
「そう、ですか。でしたらそうしましょう。もう談話室に戻ってよろしいですよ。あちらに着いたら小笠原さんを呼んできてください。北野君はついて行ってあげてね」
 館川は逃げるように応接室を出て行った。それを北野が追って出て行く。東雲はふうとため息をついた。
「今の、もしかしてかなり有用な情報だったりする?」
 南が聞くと、東雲は満足そうにほほ笑んだ。
「そうねえ。智花ちゃん的にはどこら辺が重要に聞こえた?」
「包丁のなくなった時間。それから、ドアの音が何度か聞こえたところ」
 西森は頷いてつぶやいた。
「なるほどな、『何度か』ってところか」
「そうです。だって普通一度や二度なら人間、その回数を覚えていておかしくないはず。それが何度かってことは、それ以上の回数ドアの音が聞こえた可能性が高い」
 南の言葉を東雲が引き継ぐ。
「それも、彼女が部屋にいたであろう十分かそこらの間にね。そう考えると結構な証言だと思わない?」
「ところで、そろそろ来るかな」
 南がそう言ったところで、ドアが開く音がした。
「ああ、小笠原さん。少し話が聞きたいのでお呼びさせていただきました」
「それは聞きました。しかし、私の行動であれば一緒にいたあなたたちも知っているはずです。特に申し上げることはありません」
 少し落ち着かない様子の小笠原に、東雲が答える。
「それはそうですが、それとは別の話です。少し長くなるかもしれませんので、こちらにおかけになったらどうですか? 館川さんが気になるのはわかりますが」
「……いいでしょう」
 不本意そうにソファに座る小笠原。それを見て、北野は首をかしげる。
「ん……?」
「それで、話というのは」
「ええ。今回の事件に関して、私たちはあまりにも対馬家の方々について知らないと思いまして。そのあたりを小笠原さんならご存知かと。館川さんもそう言っていましたし」
 わかりました、とあまり気の進まない様子で小笠原は口を開いた。
「まずは、皆様の状況を。陽菜奥様は旦那様が地主だったころ、つまり四十年ほど前から旦那様と結婚なさっていたそうです。当時はまだお二方とも成人もしていなかったそうでございます。仕事の経験はございません。知り合いの農家の一人に奥様のお父様がいらっしゃいまして、そのお父様が倒れてしまい路頭に迷っていたところを旦那様が拾う形だったそうでございます。名家の対立のようなものは存在しません。また、お二方のご両親はすでに他界されたと聞きました。それから、お二方にご兄弟はいらっしゃいません。
 そして、次は長男に当たります栄太様です。私とは年が近かったので、よく栄太様は私に話しかけてくださいました。ご本人の性格もあったでしょうが。栄太様はいつもリーダーになることを目指しておりました。大学では経済、経営学を専攻。その知識を生かすべく社会に出ましたがどうにも成功せず、五年前までとある証券会社で働いておりましたが、旦那様が亡くなってから遺産を相続した奥様の貸与金を駆使して五年前に白谷コーポレーションを買収。今では一躍業界に名をはせるようになりました。貸与金は一括で返済なさったようです」
「五年前……」
 南は何か気づいたようにこぼした。小笠原はそれに気づかず続ける。
「次に、次男の守彦様です。守彦様はあまり上昇志向の強いお方ではありませんでしたが、代わりに自立志向の強いお方でした。ですから勉学もほどほどにご兄弟の中一番に家を出まして、白谷コーポレーションの下請け会社に就職いたしました。六年前に結婚もなさってお二人で生活していらっしゃいましたが、五年前に栄太様が白谷コーポレーションを買収してから、どうにも仕事が前よりも回ってこなくなったと愚痴をこぼしておりました。
 それから、末の妹にあたる奈絵様です。奈絵様は特に出世欲などはないお方でしたが、少々自己中心的でブランドものに関しては目がないお方でした。短期大学を卒業後、銀行の受付をしておりましたが、その銀行の経理を任されておりました勉様と知り合い交際を始め、三年前に結婚なさいました。その後は寿退社なさいましてお二人で生活なさっております。白谷コーポ―レーションは勉様がお勤めになっている銀行ではお得意様だそうで、少々無茶な要求をされて困っている、と奈絵様は栄太様のいない場所でこぼしておりました。
 私が知っていることは、これぐらいですね」
「できれば、あなた方使用人のことについてもお教え願いたいのですが」
 東雲の言葉に、小笠原はさらに眉をひそめた。
「……それは、必要なんでしょうか」
「ええ。できればあなた方と俊夫さんとの関係も」
 しばらく小笠原は躊躇していたが、ため息をついてまた話し始めた。
「私は捨て子でした。対馬家の門の前に名前だけ書かれた紙とともに捨てられていたそうです。それを見かねた旦那様が、私を引き取りました。そうして今まで私は旦那様の使用人としてずっと仕えてまいりました。私にはそれ以外のものはありません。
 館川は若くしてシェフとして大分名が通っていたとのことです。しかし、詳しくは知りませんが、彼女は何か失敗をして店を追い出されたそうでございます。そこを通りすがった旦那様が自分の使用人として働かないかと誘いをかけたと、おっしゃっておりました。彼女は出世欲や自己顕示欲がある方ではありませんでしたが、自分の仕事に生きがいを持っていて、他人に必要とされたい性格でしたので、自分の仕事を認められたような気がしたのでしょう。彼女がここに来たのは十年ほど前の話です。それまでは私が料理をさせていただいていました」
 なるほど、と東雲はほのかな笑みを浮かべてうなずいた。
「それでは、もう少し。夕食後、小笠原さんは私たちと話した後奥様のところに行きましたよね? それからのことを大まかでいいので聞かせもらいたいです」
 小笠原は少し思い出すしぐさをしてから口を開く。
「そう、ですね。私が談話室に行ったときはまだ全員いらっしゃったと思います。それから、最初に奈絵様が自室に戻られました。その次に勉様、守彦様、奥様という順番です。そして皆様が談話室にいらっしゃって、そこからは皆様と同行しておりましたが」
「では、夕食後私たちと応接室で話す前のことをお願いします」
「夕食後は、食堂の片づけをさせていただきました。それが終わったころ、夕食の十分ほど後に皆様と会ったわけです」
 北野のメモの音が響く。
「それでは、その間何か気づいたことがありましたらお教えください」
 小笠原はそれを聞いて何か思い出したような顔をして、それから東雲の顔から目線をあげて部屋の壁を見つめた。しばらく迷っている様子だったが、あきらめたように口を開く。
「そういえば、皆様と会う前に奈絵様に鍵を貸して欲しいと頼まれました」
 突然東雲の目が鋭くなった。そして注意深く小笠原に問う。
「どこの、鍵ですか」
「ギャラリーの鍵です。なんでも久しぶりに旦那様のコレクションが見たくなったのだとか」
 その言葉に西森が反応する。
「ああ、そういえばさっき見回りした時ギャラリーの鍵が開いてたな。犯人がいるのかと思ったがそんなこともなかったし、奈絵さんが鍵をかけ忘れたのか?」
「え、なんで黙ってるんですか。私は知りませんよ、そんなこと」
 南が眉をひそめるが、西森は反論する。
「あのな、あの時は犯人がいるかどうかが重要だったんだよ。もしいたら殺人犯と戦わなきゃならん。そんな状況でお前らへの報告まで頭が回るか」
「それは、そうですけど。それにしても、鍵を貸し出していたんだったら、見回りの時に気付きそうなもんですけど。それも黙ってたんですか?」
「鍵の貸し出しについては知らんかったよ。マスターキーを小笠原さんが持ってたんだ。どうやらいつもそれで管理してるらしい。ああ、ちなみにそのマスターキーは本当は予備なんだそうだ。もう一つの方は俊夫さんが携帯していて、あの放火事件で焼失したんだとか。二つあるんじゃないかとか考えたんだが、そんなこともなかったみたいだ」
 すると、東雲はぶつぶつと何やらつぶやき始めた。一体何を考えているのだろうかと思っていると、東雲はひらめいたように顔を上げた。
「それから、奈絵さんはどこに行きましたか」
「私はそれから一度トイレに行きましたので、どこにお行きになったかは存じ上げません」
 みるみる東雲の顔が険しくなる。
「小笠原さん、あなたが談話室に入ってからでいいです。一度でも席を立って戻ってきた人を教えてください」
 その剣幕に押されながらも小笠原は答える。
「ええと、私が行ってからはそんな方は誰もいらっしゃらなかったと思います」
 東雲は少しの間考え込み、それから納得したように言った。
「わかりました、もう大丈夫です。談話室に戻ったら勉さんを呼んできてください。西森さん、ついて行ってあげてください」
 うなずいて、西森と小笠原は応接室を後にした。

 二人が談話室に戻ると、ドアのそばに館川が立っていた。
「……何やってたんだ」
「だって、心配だったし」
 泣き出しそうな館川を小笠原は抱き留める。
「馬鹿だな。俺が栄太様を殺す理由がないだろ。信じてなかったのか?」
 小笠原の声は少し震えていた。
「私は信じてたけど、あの人たちが信じてくれるとは限らないでしょ?」
「俺がそんなことしてないってことはあの記者さんたちが一番よく知ってるよ。だから、心配する必要なんてこれっぽっちもなかったんだ」
 館川は小笠原の胸で泣き出す。
「ねえ、博之。これって、誰かがやったのかな。それとも、あの『呪い』なのかな」
 小笠原はそれを聞いて、少し声色を変えた。
「旦那様の呪い? それこそありえない。もしそうだったとして、旦那様が志野を殺すなんてあると思うか?」
 館川は少し考えて、拒絶するように首を振った。
「だろ。だから、大丈夫だ。志野は、死なない。大丈夫だ」
 小笠原は館川を抱きしめながら顔を上げた。その顔はどこか懇願するような表情をしていた。
「……仲がいいのは素晴らしいですがね、そういうのは謹んでくれませんかね」
 西森が引きつった顔で吐き捨てた。

「遅いなあ、そろそろ来ても良さそうなものだけど」
 北野がつぶやくと、南が口を開いた。
「館川さんとか陽菜さんとかが泣き出したりしてるのかも。特に館川さん、相当小笠原さんに依存してるみたいだから」
「……ああ、そうみたいだな。俺は気づかなかったけど」
「個人的にはああいうのは謹んで欲しいところだわね。ああいう情が絡んだ関係は、事件に絡むと面倒なのよ。気持ちはわかるんだけどね」
 そこで一旦言葉を切ってから、東雲はおどけて言った。
「そろそろ私も身を落ち着かせなきゃねえ。結婚に相手が必要なところがネックよねえ。ああ、一度でいいから恋人同士のやり取りしてみたいわ」
 東雲がうっとりした表情でこぼした瞬間、南が吹きだした。
「ちょっと、智花ちゃん。なんで笑うのよ」
「いや、だって、その言葉一番未那叔母さんに合わないと思って」
 東雲の笑みが少しだけ暗くなる。
「へえ。それじゃあ少し仕返ししちゃおうかしら。北野君、智花ちゃんとはうまくいってる?」
 その言葉に南の笑いが引きつった。
「いっ! き、北野君、しゃべっちゃだめよ!」
しかし一足遅く、北野は答えてしまっていた。
「ああ、最近ようやく交際を――痛い、痛いって、南」
 南は北野の脇腹をつねっているらしかった。東雲はにやにやした笑みを絶やさない。
「へえ、ほお、智花ちゃんもようやく観念したわけだ。それで、どこまで行ったの? デートには行った? 手はつないだ? キスはした? それとももう……」
 答えようとする北野に、南が拳を見舞う。その顔が赤い。
「もういいからっ! それより、今はこんなこと話してる場合じゃないでしょう!」
 そうなのよね、と突然東雲は真剣な顔になって言った。
「叔母さん、さっき何か気づいたでしょう」
南の言葉に、東雲は少し肩をすくめて首を振った。
「すぐにわかるわ。これは面倒なことになったかもね。まあ、予想通りと言えば予想通りなんだけど」
「叔母さん、勿体付けすぎ。どうしてこう秘密主義なのかな、未那叔母さんは」
「秘密は女を飾りたてるのよ?」
「それはもうさんざん聞いた。いつものことならもうあきらめたよ。けどこういう時くらい……」
 その時、ドアをノックする音が聞こえた。
「あ、どうぞ」
 南が反応すると、その奥から西森と勉が現れた。心なしかおびえた様子にも見える。
「話、というのはなんでしょうか」
「ええ、立ち話もなんですから、こちらにおかけください」
 言われるままに勉はソファに座った。東雲が質問する。
「それで、話というのはですね。あなた以外のご親族の栄太さんに対する関係をお聞きしたいのですよ」
「本人に聞けばいいのではありませんか? 私が知っていることなんてほとんどありませんよ」
「本人は疑われたくないという雑念が邪魔をして、本当のことを言ってくれるとは限りません。まず外堀から埋めていくのは捜査の基本でしてね」
 今一つ釈然としない様子だったが、勉はすぐに口を開いた。
「お義母さんは栄太義兄さんを溺愛していたと思います。義兄さんの頼みはどれだけ無茶なことでもなんだかんだ聞いてしまうところがあったり、こうして集まるときの食事のメニューは義兄さんの好みに合わせているんです。それに、見たでしょう。あの動揺ぶり。おそらくお義母さんにとって義兄さんは生きがいのようなものだったんだと思います。
 守彦義兄さんはというと、栄太義兄さんを敵視していたように思います。理由は、私にはよくわかりませんが、なんでも仕事関係だったようです。酔った時にはよく『死ねばいいんだ、あんな奴』とか漏らしていましたし。
 奈絵は……正直に言ってあまり栄太義兄さんに良い感情は抱いていなかったと思います。実際私もそれほど良い感情は抱いていませんでしたし。栄太義兄さんは少し自分勝手で傲慢なところがありましたから、お義母さんはともかく基本的にあまり好かれる人ではありませんでしたよ」
「あなたの勤めている銀行に栄太さんが無茶な要望を通そうとするということを聞きましたが」
 すると、勉は苦々しげな声を漏らした。
「……知ってましたか。実際、困っていたんですよ。返済期間を無理に伸ばせと言ってきたり、もう少し金利を下げないと借りないと言ってみたり。まあ、だからといって殺そうと思うほどではありませんでしたけど」
 ふむふむ、と東雲は満足そうにうなずいた。
「あと、夕食後に皆さんで談話室で話していたそうですね。その時のことを聞かせていただいてもよろしいですか」
「あの時は……そうですね。夕食後すぐに栄太義兄さんの誘いで談話室に集まりました」
「その間に席を立った人を教えてくださいませんか? できれば回数も」
 勉はその質問にいぶかしげに答えた。
「ええと、まず奈絵が一回トイレに行きましたね。それ以外は誰も席を立ってはいないと思います」
それを聞いて、東雲は人の悪い笑みを浮かべた。そして少し西森に目配せをして、それから何か企んでいるような顔をした。
「それでは少し夕食後の状況を整理しましょうか。私たちが夕食後一旦自室に戻っているとき、対馬家の方々は談話室に移動して談笑していた。そしてその場で席を立ったのは奈絵さん一人。トイレ、ということは一階のトイレに向かったのでしょうか?」
「え、ええ、そうです」
 自分が追い詰められていることだけは勉も理解したようだった。しかしどのように追い詰められているのかをわかっていない。
「私たちはそこを一度通過して、小笠原さんと立川さんに話を聞きに行きました。その間に対馬家の方々は奈絵さん、あなた、守彦さん、奥様という順番で部屋に戻っていった。そして私たちが談話室に行き、栄太さんはすれ違うようにトイレに行くと言って談話室を出ていきます。その後一階に降りてきたのは守彦さんとあなた。談話室を通過したのはあなただけです」
「ええと、そうですか。それで、一体何を」
聞きたいのか、と言おうとしたらしい。しかしそれを言い切る前に、東雲は不意に話題を変えた。
「ところで、ポケットの中を拝見させていただいてもよろしいですか」
 その言葉に、勉は声を震わせた。
「ど、どうしてですか」
 狼狽する勉に、東雲はあたかも当然のように言い張った。
「いえね、さっき皆さんの荷物を確認しましたけど、ポケットの中までは確認していなかったじゃないですか。ですから今お呼びした方全員に身体検査まがいのことをさせていただいているんですよ」
 それに驚いて南が口をはさむ。
「ちょっと、叔母さん……」
 東雲はその南に耳打ちする。
「いいから、今は話を合わせて。私の想像通りならここできっとぼろが出るから」
 その言葉に、南は引き下がる。一体彼女は何をするつもりなのだろうか。東雲は勉に向き直ってこんなことを言う。
「大丈夫です、皆さんやってることですし。なんなら私たちも全裸になったっていいですよ」
「叔母さん!」
 今度は少し赤い顔で南が叫ぶ。東雲はしたり顔で笑う。
「まあ、冗談です。私たちはポケットの中をさらけ出す気はあるということですよ」
「それに何か意味があるんですか」
 なおも抵抗しようとする勉に、東雲はとどめを刺すように言う。
「いい加減あきらめて出したらどうですか。ギャラリーの鍵、持ってるんでしょう」
 その言葉が発せられてから、しばらく二人はにらみ合った。そのうちに勉は奥歯をかみしめた様子でこう口にした。
「……どうしてそう思うんですか」
 自信満々といった風に東雲は答える。
「小笠原さんに聞きましたが、奈絵さんはギャラリーの鍵を小笠原さんに借りたそうです。しかし、先ほど確認したとおり、彼女はギャラリーに行っていないということでした」
「後で行くつもりだったかもしれないじゃないですか」
「いえ、別にそこは重要ではないんです。奈絵さんがギャラリーの鍵を持っていたことが重要なんです。見回りの時、ギャラリーの鍵が開いていたことをあなたも確認しましたよね?」
 しぶしぶ、といったように勉はうなずく。
「では、どうして開いていたんでしょうか? 答えは当たり前のように、誰かが鍵を開けたからです。そこで重要になってくるのは、奈絵さんはいつ小笠原さんから鍵を借りたのか、ということです。もう一つ質問ですが、奈絵さんが一度目に席を立ったのは談話室に移ってから十分後くらいじゃなかったですか?」
 どうして知っているんだ、と言いたげに勉は首をかしげた。
「奈絵さんがいつ小笠原さんに鍵を借りたんでしょうか、という問題への答えですよ。なにしろ皆さんは談話室でお話していたわけじゃないですか。そして小笠原さんは食堂で片づけをしていたそうです。そうなると、彼女がいつどこで小笠原さんに会ったのかがわからない。けれど、奈絵さんは一度トイレと言って席を立っている。もし奈絵さんが鍵を借りられるとしたらそのタイミングしかないんです。そして、そのタイミングとは小笠原さんが片づけを終えてすぐ、談話室に移ってから十分後のことです。
 そこで重要になってくるのが、私たちが奈絵さんに会っていないということです。私たちはその時一度部屋に戻ってから談話室を通りました。その時は気づきませんでしたが、談話室には奈絵さんはいませんでしたね。そして、それから廊下にも奈絵さんはいませんでした。じゃあ、奈絵さんはその時一体どこにいたんでしょうね?」
 勉は東雲の真意がわかりかねているようだった。構わず東雲は続ける。
「さらに言うならば、奈絵さんはその後トイレには行きませんでした。なにしろその後トイレに行った小笠原さんが奈絵さんの行方を知らないというんですから。奈絵さんはどうして嘘をついてまでギャラリーの鍵を借りたんでしょう。答えは簡単です。鍵を借りたことをあまり知られたくなかったんでしょう。
 ここで一度論点を変えましょうか。奈絵さんはあの時一体どこにいたのでしょうか? それはまあ、簡単です。ここの廊下は直線ですから、あわてて身を隠したんだとしてもすぐにわかります。身を隠したのでなければ、当たり前ですがギャラリーにいたとしか考えられない。それ以外の場所に行く意味もないので。そして、そこから出る時は鍵を閉めたはずです。入ったことを知られたくないと思っているはずなので、そうしていないとつじつまが合わない。しかも彼女には誰も居ないのを見計らうだけの時間的余裕があったのですからなおさらです。
 そうなると、誰かがまた鍵を開けてギャラリーには行ったとしか考えられない。そこで問題です。今度は誰がギャラリーには行ったんでしょうね?」
 勉はそこでようやく気付いたように息を詰まらせる。
「談話室で話している間、それ以降誰も席を立たなかった。つまり、その間誰もギャラリーに行くことはできなかったわけです。そして、奈絵さんが鍵を持ったまま二階に上がってしまった。小笠原さんはマスターキーを持っていますが、私たちと別れた後ずっと談話室にいました。もしそうでなくても、彼がギャラリーに入る意味もありませんし、仮に入ったとしても鍵を閉めるはずです。
ではほかに誰がギャラリーの中に入れたか? 当然ずっと一階にいて奈絵さんと接触しなかった館川さんには無理な話です。私たちも鍵を持っていない以上入ることはできない。その後談話室を通ったのは勉さんただ一人。この意味が分かりますか?」
「私が、ギャラリーの中に入ったと、そう言いたいわけですか。しかし、一階に降りることが不可能なわけじゃないでしょう。例の避難梯子の件もある。殺人犯が身を隠したのかも」
 おかしそうに東雲は喉の奥を鳴らす。
「今現在談話室を通らない限り避難梯子を使わなければ一階には降りられない。では誰が一体避難梯子を使ってまでギャラリーに行く用事があるというんですか? 一階に行ったからと言って見つからないわけではないというのに?
 もう一度言いますが、この廊下は直線なんです。誰かが廊下に出た瞬間に身を隠す間もなく見つかってしまう。そうなれば当然、二階にいたはずの人間がどうして一階にいるのかということになり、どうして人目を盗んだのかまで怪しまれることになる。殺人のアリバイのためならともかく、普通にしていれば言い逃れできる状況にあるにもかかわらず、あえてそんな博打のような真似を冒すとは思えません。
 また、殺人犯が身を隠したと言うなら、それはどういうことを意味するのか分かっていますか? 奈絵さんが殺人犯である、または共犯である、または奪い取られたの三択です。前の二択は言うまでもなく、最後の一つは何を意味しているか。栄太さんの遺体が見つかってから今まで皆さん相互に監視している状況でした。そんな中鍵を受取る人なんているわけもありません。つまり、今ギャラリーの鍵を持っている人がいたら、その人が犯人だということを意味するんですよ!
 さて、前置きが長くなりましたが、ポケットの中を確かめさせていただけますね?」
 一つ一つ東雲は勉の逃げ道をつぶしていく。進退窮まった勉は西森が自分のポケットを探ろうとしてもそれを止めようとはしなかった。
「……東雲さん、確かにあったぞ。これだろ」
 西森が勉のポケットから取り出した鍵には、確かに『ギャラリー』とタグがついていた。
「じゃ、じゃあ勉さんが犯人……?」
 北野が驚いて言った台詞に、勉は声を上げた。
「ち、違う! 私じゃありません!」
 そして、その助け舟は意外なことに東雲から出された。
「違う、彼じゃないわ」
「……え?」
 ぽかん、とする北野に東雲が呆れたようなため息をつく。
「言ったじゃない。勉さんには時間がないって。栄太さんはめった刺しにされて殺されていた。返り血も浴びているはず。だけど彼には栄太さんを刺す時間も、ましてやその返り血を隠ぺいする時間なんてあるはずがないのよ」
「じゃあ、どうして勉さんはギャラリーになんか……」
 東雲は腕を組み、つまらなさそうに言った。
「ここからは推測だけどね。奈絵さんはおそらく何かを盗んだんだと思う。ブランドものとかに目がないって話だったし、俊夫さんのコレクションに目がくらんだんじゃないかしら。盗んだ後も誰にも気づかれずに会話に参加してたってことは、おそらく小さな宝石か何か。対馬俊夫の莫大な財産を考えると、宝石だってたくさんあっておかしくない。その中の一つなくなったくらいじゃ気づかないって思ったんでしょう。きっと小笠原さんには、入る気がなくなったから結局入らなかったって言うつもりだったんでしょうね。でも、勉さんに見つかってしまった。
 勉さん、あなたはきっと奈絵さんの面目を保ちつつ穏便に事を済ませようと思ったはず。つまり、その宝石を元に戻すってことですね。そこで奈絵さんから鍵を受取って一階に降りた。
そこからが問題です。無事戻すことには成功したものの、何やらあわただしく廊下をかけずり回る音がする。恐る恐る顔をのぞかせると、悲鳴が聞こえた。ただ事ではない。私たち全員がシャワー室に入っていくのを見て、あなたはチャンスだと思ったのではないでしょうか。その隙に何くわぬ顔で談話室に戻れば、今まで外にいたと言い訳ができる。そうして、急いで戻ったのではないですか? 鍵をかける時間がなかったのか、それともそこまで思い至らなかったのか、その時に鍵をかけるのを忘れてしまった。
 そこからは鍵をどうしていいかわからず、仕方なく持っていた。それまでのあなたの不可解な行動も加味しての推測でしかありませんが」
 勉の沈黙が、それが真実であることを如実に語っていた。勉は絞り出すようにこぼす。
「すみません、でした……」
「我々に謝られても困りますな。そこに関しては我々の関与するところではなく、家族の問題でしょう。家族の中で解決するのでも、裁判まで持っていくのでも、我々は一向に構いません」
 西森が不機嫌そうにそう言った。すみません、と勉はもう一度小声で謝った。東雲がうなずく。
「西森さんの言うとおりです。今はそれよりも殺人事件の方が重要です。勉さん、あなたがギャラリーにいた間、何か怪しい物音などは聞きませんでしたか?」
 申し訳なさそうに勉は首を振った。
「残念ながら。いくつかあわただしい足音を聞きましたが、きっとそれはあなたたちの足音でしょうし、そこにほかの人の足音が混ざっていたとしても私にはわかりません」
 でしょうね、と東雲は少しわざとらしくため息をついた。まるで最初から分かっていたような態度である。
「もういいですよ。窃盗の件は後で奥様とよく話し合ってください」
 もう一度頭を下げて勉は応接室を後にする。それを見送って、西森は舌打ちした。
「まったく、やってくれたな。東雲さん、あんたの言う通り確かに面倒なことになった」
「ええ。おかげで今までの、そしてこれから得る手掛かりが殺人事件のものなのか窃盗のものなのか紛らわしくなってしまいました。そうですね……」
 東雲は一瞬南を見てにやりと笑みをこぼした。
「ちょっと部屋に戻って考えをまとめます。そのついでに奈絵さんを呼んできましょう。……北野君、一緒に来てくれない?」
「え、俺ですか?」
驚いた北野に、東雲は意地の悪そうな表情を浮かべた。
「大丈夫、取って食べたりしないから。ちょっと話したいことがあってさ……って、そんなに怖い顔しないでよ、智花ちゃん」
「いや、日ごろの行いを顧みてからものを言ってよね。未那叔母さんなら北野君を襲いかねないし」
 南は不信感丸出しだが、北野は困惑しながらもうなずいた。
「まあ、別に行ってもいいですけど」
「決まりね。じゃあ行きましょうか、北野君」
「ちょっと、今媚びたでしょう! いくら叔母さんでも北野君に手を出したら許さないから!」
南が怒鳴るのを尻目に、二人は応接室を出て行った。

「……ふう。やーね、あの子。前まで北野君なんてどうでもいいって感じだったのに、今では立派にやきもち焼いちゃって」
 くすくす笑う東雲に、北野は苦笑する。
「もしかして、南をからかうためだけに俺を連れだしたんですか?」
「心外ね。北野君、一応あの子の彼氏になったわけでしょう。だったら二、三忠告しておきたくてね。まず一つ。あの子と付き合うなら覚悟しておいた方がいいわよ。あれはなかなか扱いづらいから」
「まあ、それはもうだいぶわかってます。最近は冗談を無視されてもこたえないようになりました」
 東雲の忍び笑いは止まらない。
「ああ、それはたぶん私のせいね。私があまりに冗談ばっかり言いすぎるから、無視するのが当たり前になったんだと思う。もしあれだったらごめんなさい。
 それから二つ目。あの子は私のおもちゃだから、そこのところはよろしく」
「おもちゃ?」
 北野は素っ頓狂な声を上げる。それすらも東雲の笑いの種になる。
「そうそう。私ってば人を簡単に利用するもんだから、友達ってあまりいないのよね。だからあの子は貴重な娯楽成分なの。もし私からあの子を奪うようであれば……」
「ああ、わかりましたよ、わかりましたとも」
 瞬間鋭くなった東雲の眼光に、北野は焦ったように相槌を打つ。
「それから、三つ目。あの子には才能がある。だからそれをダメにするような真似はしないで欲しい」
「才能って、もしかして推理力とかですか」
「んー、ちょっと違うかな。彼女のはたぶん、状況証拠に当てはまる仮説を考え出す発想力。探偵の才能っていうよりは推理作家か、そうでなければ哲学者の才能よ。やりようによっては私よりも真実に近づける力を持っている。だから私はそれを伸ばしてみたいのよね。
 なんだけど、女って付き合った男によって結構変わるもんなのよ。だから一応あなたが邪魔をしないように五寸釘を一つ」
「五寸釘って……呪いでもするつもりですか」
 東雲は一転おどけたように言う。
「そうかもしれないわよ? なにしろ私はあの子はしばらく彼氏できないだろうと高をくくってたからね。私よりも先にあの子に男ができるなんて。今すぐにでも北野君を呪っちゃうかも」
 その言葉が本気ではないことを悟ったのだろう。北野は肩をすくめて答える。
「まあ、お手柔らかに頼みますよ」
「と、まあ冗談はそこらへんにして談話室に行きましょうか。さすがにこれ以上二人を待たせるのもかわいそうだしね」
 冗談がどこまでだったのか気になったが、二人ともそのことについてはそれ以上口にしなかった。

「遅いですね、二人とも。何やってるんでしょう」
 やきもきしている南に西森は面倒くさそうに声をかける。
「さっきから何度目だ、その台詞。いい加減落ちつけよ。お前よりも全然付き合い浅い俺でさえさっきのは冗談だってわかるぞ」
「それは私だってわかってるんです。でも、やっぱり呼び出した以上は何か話があるわけで、それが気になるんです」
「……なんつーか、お前は本当に素直じゃないよな。こんな時くらいもうちょっと素直になったらどうなんだ。何か叔母さんを怒らせたんじゃないかとか、北野が何か言われやしないかとか、そんなことばっかり心配してんだろう」
「そんなんじゃありません!」
 むきになった南に、西森はもう何も言わなかった。
 少しして北野が応接室に戻ると、南は声を荒げた。
「北野君、大丈夫だった? 何もなかった?」
 北野は答えづらそうに苦笑いした。
「……あったと言えばあったし、なかったと言えばなかった」
「え、それってどういう……」
「おいお前ら、客がいんだろうが。口論してねえでさっさと道を開けねえか」
 西森が一喝して二人の問答はすぐに終結した。
「あ、西森さん、東雲さんからの伝言です。後はお願いしますよ、だそうで」
 北野の言葉にうなずいて、西森はドアの向こうに声をかけた。
「では奈絵さん。立ち話もなんですし、どうぞ中に入ってください」
 その声で奈絵はようやく応接室に入った。西森の指示に従ってソファに座る。その様子はやはりどこかおびえていた。西森が面倒そうに一言でそれを切って捨てる。
「ああ、ちなみに窃盗の件については我々は関与しません。勉さんにも言いましたがそのことについてはご家族で解決してください。ですから気を楽にしてくださいね」
 その言葉に奈絵は肩をすくませた。西森はそれにため息をつく。
「私は盗みなんか……」
「いいんですって。現状では人の命が絡まないことは皆些末事です。今は殺人犯を捕まえることが最優先。違いますか? まあ、あなたが殺人犯なら話は別ですがね」
 西森のある種挑発的な言葉に奈絵は面白いほどに反応した。
「そんなことあるわけないじゃないですか! 馬鹿にしないでください!」
 その奈絵の反応に西森はむしろにやりと笑った。
「では、殺人犯を捕まえるために話を聞かせてもらいましょうか。食事を終えた後からのあなたの行動、そしてその時に不審なことがあった場合はそれをお教えいただきたいです」
 奈絵はまだ少し怒りが冷めやらない様子で答えた。
「ええ、教えましょうとも。盗みのこともわかってるんだったら何も隠す必要もないしね!
 私は夕食の後は栄太兄さんの誘いで談話室に集まりました。それから少しして一度席を立って小笠原さんにギャラリーの鍵を借りて、それからギャラリーに入ってルビーを一つ盗みました。それから談話室に戻って、しばらくしたら自分の部屋に戻りました。それで勉さんが部屋に来て、何かと思ったら盗んだものを返せっていうんだもの、あの人のお人よしぶりには頭が下がるわね。まあ、私はあの人のそういうところが好きで結婚したわけだけども。
 それで、それからはあなたが呼びに来るまで部屋でおとなしくしてました。ほかに何か?」
「不審な物音のようなものは聞きましたか?」
「聞いたっていえば聞いたかも。勉さんと盗みのことについて話してる時に近くのドアが開いた音が二、三回しました。後は……まあ、あなたが走ってくる音ぐらいですかね」
 奈絵が少し嫌味っぽくそう言うが、西森は歯牙にもかけない。
「そうですか、ありがとうございます。ところで、あなたは栄太さんにあまりいい印象を抱いていなかったと聞きましたが」
 奈絵はそれに驚いたようだった。
「それ、勉さんに聞きました? まったく、あの人ったらおしゃべりなんだから。
 ええ、そうですよ。いまさら隠したってしょうがないですから言いますけど、私はあの人が嫌いでした。だってあの人、口を開けば自分の功績ばっかりなんですもん。それも別に自分の力ってわけじゃなくて、お父さんのお金をあてにした功績だし。勉さんの銀行にも迷惑かけるし、私たちからしたら邪魔者以外の何者でもなかったですね。まあ、別に殺したいほど嫌いってわけじゃないですけど」
 西森は妙に納得した面持ちでうなずいた。
「わかりました、もう結構です。談話室に戻ったら陽菜様を呼んできていただけますでしょうか」
「わかりましたよ。それじゃあ、探偵気取りののっぽさん」
 吐き捨てて、奈絵は鼻息荒く応接室を後にする。
「北野、送ってやれ」
「え、また俺ですか」
 そう言いながら、北野は走って奈絵を負う。完全に足音が聞こえなくなったのを確認してから西森はため息をついた。
「性格ゆがんでるなー、あの姉ちゃん。やっぱり金ってのは人を狂わせるもんなのかね。そのおかげで扱いやすくて助かったが」
 隣の南が眉をひそめて口を開く。
「別に私たち悪いことやってるわけじゃないんですけどね。あそこまで露骨に敵視されると」
「それでお前、ずっとなんも言わなかったのか。まあ気持ちはわかるが。ところでどうだ、お前から見てあの姉ちゃん、嘘言ってるように見えたか?」
 南は首を振る。
「あの態度がすべて演技でもない限りは本当だと思います。二、三度聞いたドアが開く音っていうのはたぶん守彦さんが出入りした音だと思うので。もしそれを聞いていなかったらあてずっぽうでそんなこと言わないでしょう。証言が食い違ってたら疑われるかもしれないこの状況で」
「俺も同意見だ。少なくとも守彦が談話室に降りてきて、部屋に戻るまでは二階にいた、ということになるな。気になるのは二、三回、というところだが。もしかすると聞いていなかっただけでそれ以上鳴っていたかもしれない。それに関しては情報はないに等しいか」
 西森の声と応接室のドアが開くのは同時だった。
「……ずいぶん待たせたわね。何か聞きたいことでもあるの?」
 驚いたことに、あまり気分がよくなさそうに陽菜が言う。西森が顔を上げる。
「ああ、お呼び立てして申し訳ありません。本来なら我々が伺うべきなのでしょうが……」
「いいから。用件だけ言って」
 西森は少し驚いたような様子で頭をかく。
「そう、ですか。それではまずここにおかけください。お聞きしたいのは奥様が栄太さんをどう思っていたのか、そして夕食後の行動と、その間に不審なことがなかったかです」
 陽菜は座ろうとせずに答える。
「栄太のことは私の分身のように思っていたわ。彼の望むことならなんだってやってきた。それ以上のことを言う必要があるかしら」
「……いえ、特には」
 面食らったように西森は目を白黒させて答えた。
「次に、私が夕食後どうしたのかよね。簡単よ、栄太の言う通りに談話室でみんなで話をして、それから自分の部屋に戻って、そろそろ寝ようかってところであなたが来たの。その間、これと言っておかしなことはなかったと思う。その頃はうとうとしていたから何か物音がしていたとしても私にはわからないわ。
 ……もういいかしら。あまり気分がよくないの。今すぐにでも寝てしまいたいのに起きてるんだから、これ以上私を苦しめないでちょうだい」
 そう言い切ると、陽菜はすぐに応接室を出て行ってしまった。
「……すごく辛そうでしたね。やっぱり実の息子が殺されると堪えるんでしょうか」
「あの口ぶりだと、他の兄弟が死んだところで今と同じように悲しんだかどうかは疑問だがな。まったく、金持ちってのはなんだってこう、どいつもこいつもゆがんでるんだ」
 南の気遣わしげな態度に、西森はあくまで苛立たしげだ。
「でも、あれも演技かもしれないわけですよね。人を疑うって、相変わらず気分が悪いです」
「それはさすがに慣れるしかねえだろうよ。あの奥さんは証言として有用なことは何一つ言ってねえ。この状況で犯人がとりそうな行動ではあるな。だからと言って全部演技だと断言できるほどの証拠もないが」
「それに、話を聞く限りでは殺人に至る動機もなさそうなんですよね」
 話し込む二人に、北野が口を挟む。
「あの、それより、もう談話室には話を聞いてない人はいなかったと思いますけど。これからどうするんですか?」
 西森が呆れたように答える。
「いや、まだいるだろ。一人部屋にこもってるやつが」
「ああ、守彦さんですか。どうします? 三人で押しかけますか?」
 西森は首を振る。
「あの怯えようだからな、あんまり大人数で行かない方がいい。それに、二階にいると一階のことがわからんからな。お前らだけで行って来い」
「西森さんは?」
「俺は談話室でほかのやつらを見張ってる。お前らを残してくと不安だからな」
 南はそれを聞いて、気の抜けたようなため息をついた。

 談話室に向かった三人は、ちょうど階段から降りてきていたらしい東雲と鉢合わせした。
「あ、未那叔母さん。考えはまとまったの?」
 南が聞くと、東雲は何やら意地悪な笑みを見せて答えた。
「まあね。ちょっと確認したいことがあって」
「ちょっと、あんた」
 奈絵が不快感を隠さずに口を出す。
「私たちには勝手に行動するなって言ってるくせして、自分は勝手に単独行動?」
 東雲は少し挑発的とも思える口調で返す。
「今は少々緊急事態でしてね。実は重大なことに気付いてしまったのです。今すぐにでも確認しないと、後回しにしたら誰かにごまかされてしまうかもしれませんので」
 そう言いつつ、東雲は談話室に集まっている面々を見回した。十一人は皆東雲に注目している。それから東雲はある一点を見つめてにやりと笑った。
「なんだ、その重大なことって」
 西森が聞くが、東雲ははぐらかすように肩をすくめた。
「私は不確かなことはむやみに口にしたりしません。もしかしたら違うかもしれませんし、皆さんに説明している時間が惜しいのです。
 ……それに、今ここで私がそれを言ったら犯人が隠蔽を画策するかもしれないじゃないですか」
「隠蔽って言ったって、あんたがみんなを固まらせてるんでしょうが」
 奈絵がふてくされたように言うが、東雲は首を振る。その顔はどうも何か企んでいるように見える。
「ええ、ですから、あくまで『可能性』の話です」
「叔母さん、一人で行くの? 西森さんでも連れてった方がいいんじゃない?」
「お前、編集長に向かって『でも』とはなんだ、『でも』とは」
 西森が口をとがらせるが、付いていくことには不満はないようだった。しかし東雲は首を振る。
「みんなやることがあるでしょう。大丈夫、すぐに戻って犯人をみんなの前に突き出すから。西森さん、この不出来な姪をお願いしますね」
 危険だ、と思った時にはもうすでに談話室を出た音がした。


 時計を見ると、それから二十分ほどが経っていた。鈍い足音が秒針と同期して時間を刻む。
 応接室。そこに東雲が倒れていた。外傷はない。服が少し泥で汚れている。足音はドアの向こうから近づいてきている。適度な重みを伴った音だ。
「まったく、あの人はいったいどこに行ったんだ。いつまでたっても戻ってこねえし」

 その頃、南は二階の廊下に立っていた。何やらぶつぶつとつぶやいている。
「結局いい情報は手に入らなかったな……。守彦さんも十分怪しいんだけどなあ」
 睨んでいるのは五号室、守彦の部屋だ。すると、南のすぐ近くのドアが開いた。九号室、北野の部屋だ。
「遅くなったけど、南、なんかあったか?」
「別に。どうして?」
「いや、だってさっきノックしたじゃないか」
 南は怪訝な顔をして首を振った。
「してないけど。それより早くカメラ探してよ。あの現場を撮っておくんでしょ。ずっとここに立ってるのは嫌なんだけど」
「ああ、それならもう見つけたよ。ノックされたと思ったから急いだんだけど、別に急がなくても良かったみたいだ」
 悪びれもせずにそう言う北野に、南は呆れて厳しく言った。
「あのねえ、今の状況わかってる? 緊急事態なの。用がなくたって急いでもらわないと困るから」
「わかった、わかったって。それにしても、ノックしてないのか。音が聞こえた気がしたんだけどなあ」
「しつこい。してないったらしてないの。気のせいじゃないの?」
 そう言い合っているところに、西森の声が響いた。
「おい、お前ら! ちょっと来い!」
 その言葉から異常を感じ取ったのか、二人の顔がこわばる。
「西森さん、どうしたんですか」
「どうもこうもない。東雲さんが、応接室に倒れてんだ」
「お、叔母さんが? だ、大丈夫なんですか?」
 目に見えてうろたえている南を気遣う余裕もなく、西森は叫ぶ。
「生きてる。いいからさっさと来い。俺たちも単独行動は危険かもしれん」
 二人は戸惑った様子でうなずいた。北野が先に動き、南がそれに手を引かれるようにして続いた。
「守彦さん、あなたもそろそろ出てきたらどうですか。これ以上部屋にこもっても狙われるだけですよ」
 西森がそう言うと、守彦はあわてて飛び出してきた。

 応接室前の廊下に全員が集まっていた。守彦はその中に加わり、記者の三人は応接室の中に踏み込んだ。
「叔母さん……!」
 南が真っ先に東雲に駆け寄る。服の汚れに構わず抱きかかえて、呼吸を確かめる。そして、息をしていることを確認したのか安堵のため息を吐いた。
「だから、生きてるって言ったろ。外傷はないが、頭をどこかに打ち付けたかもしれん。あまり派手に動かしてやるなよ」
 西森がやさしく言葉を添える。
「それにしても、これでずいぶんとやりにくくなっちまった。単独行動していると襲われる前例を作っちまった以上、そういうものだと思って動くしかねえ。かといって東雲さんが倒れると俺たちは三人だ。手分けすることもできねえ。そうだ、守彦さんの件はどうだった」
「特に怪しいことは言ってませんでした。談話室で話し終えて二階に上がってからは、談話室に一度来て伝言を残し、そのまま戻って自室にいたそうです。ドアが開いた音が三回くらいしたって言ってたのも、そのまま勉さんが奈絵さんのところに行って部屋を出て、帰ってきたと考えるととても自然です」
「急に逃げ出した件についてはどう弁解してた?」
「陽菜さんが亡くなった場合の遺産の相続権は栄太さんが独占していたようです。その栄太さんが亡くなった場合、相続権は奈絵さんと守彦さんの二人に平等に分配される。守彦さんは奈絵さんか勉さんが犯人だと思っていたそうで、次に狙われるのは自分ではないかと思ってあわてて部屋にこもったそうです。あの時言ったことは逃げ出す建前だったそうで」
「……筋は通ってるな。あの伝言の意味については聞いたのか?」
「あれは単純に仕事をちゃんと回して欲しいということだったようで。真偽が不明とはいえ、話を聞く限りありえないとは言えないと思います」
「くそったれ。これであいつがわかりやすく犯人だったらよかったんだけどな」
 一転面倒くさそうに吐き捨てる西森を南は見上げた。
「ただ、一つだけ変なことを言ってました」
「変なこと?」
「ええ。なんでも持ってきていたTシャツが一着なくなったそうで」
 西森は首をかしげた。その口調はどことなく呆れている。
「なんだそりゃ。自分の持ち物くらいちゃんと管理してくれよ」
「とにかく、叔母さんはどこかに寝かせないと。このままにしておくのはさすがに」
「なら、東雲さんの部屋に連れて行けばいいじゃないか」
 北野の言葉に、南はかみつく。
「あのねえ、私たちは基本一階にいるのよ。私たちが見てないところで襲われたらどうするの」
「でもさ、寝室って鍵があるわけだろ? その鍵を俺たちが持ってたら、とりあえず安心じゃない?」
「でも、マスターキーもあるわけでしょ」
「マスターキーは小笠原さんしか持ってないでしょ。なら小笠原さんはみんなと一緒にいてもらえば見張ることもできる」
 南はしばらく抵抗したが、やがてそれが一番だということに気付いたらしく、渋々といった様子でうなずいた。
「それじゃあ、西森さんにはほかのみんなを談話室に集めておいて欲しいんですけど」
「それはいいが、お前が彼女を運ぶのか? そこそこ背高いぞ、彼女」
「大丈夫です、北野君が運びますから。ねえ、北野君」
 急に振られた北野は驚いた。
「え、俺? いや、ここは西森さんでしょ」
「言いだしっぺなんだから我慢しなさい。それに、もしも万が一のことがあった時、西森さん以外にみんなをまとめられる人なんていないでしょ」
 今度は北野が渋々承諾する番だった。

 東雲を背負った北野と南は二階の廊下を歩いていた。
「大丈夫? 結構重いでしょ」
 南が声をかけるが、北野は少し呆然として答える。
「いや、実はそこまで重くないんだけど……」
「けど?」
「この人、スタイルめっさいいな。すごい感触が――」
「北野君、それ以上言うと一発殴るわよ」
 南の怒気を含んだ声に北野は口をつぐまざるを得なかった。

「ここに寝かせればいいのか?」
 十号室のベッドに北野は東雲を寝かせる。南は北野の姿を見つつ言う。
「ねえ、北野君の服に泥がついてるけど」
 北野は南の指差すところを見て、東雲を見た。
「たぶん東雲さんの服についてた泥だろ。背負ってた時についたんだ」
 南はしばらく沈黙して、それから何か気が付いたように口を開いた。
「ちょっと待った。なんで未那叔母さんの服に泥がついてるの? 叔母さんは外にいたってこと?」
「たぶんそうなんじゃないかな。俺に言われてもわからんけど」
「それに、外にいたとして、どうして泥がつくの? 雨なんて降ってたっけ?」
「ああ、気づかなかったか。俺たちが来たときには降ってなかったけど、それからぱらぱら降ってたぞ。まあ、気づかなくても仕方ないけどな。ここには窓自体少ないし、周りには明かりもないし、風もなかったから窓に吹き付けたりもしなかった。今も少し降ってるんじゃないか」
「……北野君。メモ、ちょっと見せて」
 南は考え込んだ様子でそう言う。北野は首をかしげつつもメモを差し出す。
「雨、雨……」
 南はしばらくそれだけつぶやいて、それから何か気づいたのだろうか、電流が走ったように目を見開いた。
「……そっか。そうだったんだ」
「そうって、何が?」
 南はそれに構わずメモを突き返し、北野の手をつかんで引っ張る。
「お、おい。いきなりどうしたんだよ」
「とにかく来て。確かめたいことがあるの」

 二人が向かったのは一号室だった。
「おい、こんなところで何する気だよ」
「黙って見てて」
 南は窓の下に設置されている白い箱に手をかけ、それを開けた。
「……やっぱり」
「いや、だから何がやっぱりなんだよ。教えてくれよ」
「ダメ。まだ確証が持てないし。未那叔母さんの気持ちがわかったわ」
 そう言って、南は箱を閉じると一気に廊下に飛び出した。北野はそれに引きずられるようにして続く。

 南は談話室に降りるなり、西森にこう言った。
「西森さん、ちょっと外に不審なものがないか見てきてもらっていいですか?」
「なんだ、何かわかったのか」
「もしかしたら、ってところです。犯人の仕掛けなんかがあるかもしれないので、慎重に動いてください。大体……半径数百メートルのあたりを探してもらえれば十分だと思います」
 その言葉に西森は呆れ気味に笑った。
「……広いな。まあいい。なら、こっちは任せたぞ」
 そう答えて西森は談話室を出ていく。それを見送ってから、南は館川に腕を抱えられている小笠原に声をかけた。
「小笠原さん、マスターキーって今持ってます?」
 少し驚いた様子で小笠原は答える。
「え、ええ。持ってますが」
「それ、ちょっと貸してもらえますか? すぐ済みますから」
 小笠原は一瞬迷って、それから従順に懐から鍵を差し出した。
「ありがとうございます。では皆さん、私たちは少し二階に行きます。何かあったら大声で呼んでください」
 そう言い残して、南は北野を引きずりながら階段へと歩いて行った。
「おい、いい加減離せって」
 北野の声だけが追いすがった。

 二人は二号室に来ていた。北野は廊下で見張り、南はまたも窓の下に設置された箱を確認している。
「……うん。これであとはしらみつぶしね」
「しらみつぶしって、どうするんだ?」
「決まってるじゃない。全員の部屋を調べるのよ」
「うげ、まじか」
 顔をひきつらせた北野を無視して、南は廊下に出た。

 二人は順調に一号室から点検していった。全室を調べ終わって談話室に降りると、ちょうど西森が戻ってくるところだった。少し髪を濡らしている。
「なんだ、お前らどこ行ってたんだ。ここを任せるって言っただろう」
「ちょっと確認しなきゃいけないことがありまして。それより、西森さんの方はどうでした?」
 西森は頭を振った。
「それほど妙なものは見つからなかったぞ。ただ、これが別荘の周りに落ちてた」
 そう言って西森が差し出したのはスマートフォンだった。南は声を上げる。
「これ、未那叔母さんのだ。落ちてたってことは手に持ってたのかな。壊れてないといいんだけど」
 そう言いつつ南はそれを操作する。どうやら無事に電源が点いたようだったが、南は首をかしげた。
「えーっと……何これ」
 隣で覗き込んだ北野が答えた。
「これ、電量測定アプリだよ。ほら、家に電量計ってあるだろ。使っている電気の量に応じてメーターの回転する速度が上がる、あれ。それの一回転の速さからどれくらい電気を使っているかがわかるっていうアプリだな」
「電量計……。西森さん。ちょっと耳を」
 南が西森に何やら耳打ちすると、西森は眉をひそめた。
「いや、それはいいが……いったいそんなことが今回のこととどう関係が?」
「後で説明しますから」
 渋々、といった様子で西森は談話室を去っていく。それを見送って、南は北野に言った。
「さて、次は一階よ。見張りよろしくね、北野君」
「まだあるのか……」
 北野の疲れた声がぼそりと聞こえた。

 一階の点検の途中、南は窓の外を注視した。
「……ああ、確かに言われてみれば、雨降ってるね。よく気づいたわね、北野君」
 褒められて、北野は照れたように頭をかく。
「ところで、他に気づいたこととかってない?」
 北野はしばらく考えて、それから思い出したように言った。
「ああ、これは気づいてるかもしれないけど、小笠原さん、イヤホン外してたよな」
「……イヤホン? どういうこと?」
「あれ、気づかなかったのか? あの人ずっとイヤホンしてたのに、事件の後に話を聞いた時には外してたじゃん」
「え、ちょっと待って。そんなコード見たらわかりそうなものだけど」
「ワイヤレスなんじゃないかな。俺もコードは見なかったよ。髪で隠れて、本体も見えなかったんじゃないかな」
 南はいったん背筋を伸ばして、それから盛大にため息をついた。
「どうかしたか?」
「なんか、わかった気がする」
 南はそれ以降口を開かずに一階の点検を終えた。

 二人が談話室に戻った時、西森はまだ戻ってきていなかった。
「後は西森さん待ちね。まだ戻ってきてないみたいだし、未那叔母さんの様子でも見に行きましょうか」
 北野はもはや何も答えなかった。
「……南だって大概秘密主義じゃないか」
 北野のつぶやきは南には聞こえなかったらしかった。聞こえなかったふりをしたのかもしれなかった。

 十号室に入った南は、ベッドの上に穏やかな寝息をたてて寝ている東雲を見てぽつりと言った。
「まったく、のんきなものね」
 ふと、南は何かに気が付いたようだった。そしてテーブルの上に置かれた便箋を手に取って、そこに書かれた文字を読み上げた。
「智花ちゃんへ
 これを読んでいるってことは、どうも私は無事じゃないみたいね。でも読みが正しければ、部外者の私は殺されないはず。どうしてこんなことしたかって言うとね、警察が来てからだと取材ができなくなっちゃうのよ。だから、もし私が倒れた場合は智花ちゃんがこの事件を解決して欲しいの。荷物の中に、今まで私が調べた資料が入ってるわ。私が襲われたなら、その分の証拠も揃っているはず。智花ちゃんなら解決できるはずよ。だから、私が起きた頃に顛末を聞かせてちょうだい。待ってるわ……」
 読み上げていくにつれて、みるみるうちに南の表情が険しくなっていく。読み終えた時、ついに南はその手紙をテーブルに叩きつけた。
「ったく、この馬鹿叔母さん!」
 北野が驚いて南を制する。
「お、おいおい、どうしたんだよ」
「どうしたもこうしたも、この馬鹿は全部わかってたのよ! あんな挑発的なことをしたら自分が襲われることも、この事件の真相も。こんなの書ける暇って言ったら『考えをまとめる』って言って部屋に戻った時しかない。その時にはこうなることわかってて、あえてあんなことしたってこと! 心配するだけ損した!」
 憤りが収まらない様子で南は部屋を出て行こうとする。北野がそれを引き留めた。
「おい、荷物の中に何かあるとか言ってなかったか」
「ああ……どうせ、私をからかうためのものでも入ってるんでしょうね」
 そんなことをぶつくさ言いながら、南は勢いに任せて東雲のバッグを開けた。そして、絶句する。
「……これって」
 出てきたものは、何かのファイルのようだった。背表紙に、「特集記事の資料」とラベルが貼られていた。

 二人が談話室に戻ると、西森が戻ってきていた。手にはスマートフォンが握られている。
「行って来たぞ。南の言う通りだった。ほれ」
 西森がスマートフォンを見せる。南はそれを見て妙に納得したような表情を浮かべる。
「そっちも何か収穫があったらしいな」
 南の手のファイルを見て西森は言う。
「はい。これではっきりしました」
「はっきり? まさかお前」
 西森の驚いた顔に南はちっとも嬉しくなさそうに答えた。おそらくは、周りに各々座ってただただ黙っているほかの人間にも聞こえるように。
「わかったんです。この事件の犯人も、どうして栄太さんが殺されたのかも」
「なんだと? 誰なんだ、その犯人は」
 守彦が奈絵と勉を横目で見ながら南に詰め寄る。南はこわばった笑みを西森に向ける。
「それを今から説明しようと思っていたんです」
 そう言って、南はその場の全員に向き直る。
「それでは、答え合わせと行きましょうか」
 その言葉に、その場の空気が張りつめた。
「まず、結論から言います。この中に犯人はいません」
 断言した南に、守彦がかみつく。
「なんでそう言い切れるんだよ」
「まずわかりやすいところから行くと、未那叔母さん――今は東雲さんと呼びます。東雲さんの服には泥がついていました。つまり、彼女は外で襲われたということです。では、その頃私たちはどこにいたのか。まず私と北野君は二階の廊下にいました。そして、守彦さんは自室にこもっていました。出てきていたら私たちが嫌でも気づきます。そして西森さん以下皆さんはこの談話室にいました。西森さんが東雲さんの安否を確認しに行くまで誰も東雲さんに接触できる人間はいません。
まあ、私たちの中の誰かが、という可能性はないわけではありませんが、私たちが犯人だった場合、私たちは栄太さんを殺害することができない以上共犯がいることになります。あなた方と初対面である私たちがあなた方の中の誰かと共犯になる理由がありません。それに、そもそも栄太さんの殺害についても実はこの中の誰も実行できないんですよ」
それに、奈絵が反発する。
「できるでしょ。あの東雲って人は避難梯子を使えば可能だって言ってたけど」
「奈絵さん、そうは言いますけど、あなたは避難梯子を事件後に確認しましたか?」
「え……? まさか、使い物にならなくなっていたなんてことは」
 うろたえた奈絵に、小笠原が答える。
「それはありません。私が五日に一度点検してますので、少なくとも自然にはそうならないと思います」
「ええ。確かにその通り、きれいさっぱり新品のように傷どころか、汚れ一つありませんでしたよ」
「なんだ、驚かせないでよ」
 そう言う奈絵に南は宣告する。
「しかし、それはどう考えたっておかしいのです。何しろ外は今なお霧雨ながら雨が降っているんですから。地面がぬかるんでいて、足に泥がつくはずです。まあ行きはいいにしても、帰りにはどうしてもその泥のついた靴で梯子を上らなくてはいけないのです。霧雨ですから、さすがに泥が流れるほどの勢いもありません。梯子を回収してから拭き取った、と思うかもしれませんが、それならその拭き取った肝心のものはどこにあるんでしょう? 僭越ながら全員の部屋を確認させていただきましたが、どこにもそんなものはありませんでした」
「……処分したんじゃないの」
 陽菜が生気の抜けた声で言う。しかし南は首を振った。
「ここはほとんど一本道の館です。動き回るにも絶えず見つかるリスクが伴う。さらに言えば、犯人はそれだけでなく返り血を受けた合羽のようなものも処分しなければなりません。事件前と事件後で服が変わった人はいませんし、あの殺害方法では返り血を浴びることは免れません。この中に犯人がいるのなら必然的に返り血をシャットアウトするような装備が必要になるのです。しかしそれもまた皆さんの部屋にはなかった。一階も地下も隅々まで探しましたが、それでも見当たらない。では処分するとしてどこが残っているでしょう? ……窓の外しかありません。それも、上ってから処分しなければいけない関係上それほど遠くに運ぶことはできません。
 ですから私は西森さんにこの別荘周辺を、半径数百メートルの範囲で探してもらいました。今日は風がなかったので、もし窓から捨てたのであればそのあたりに何か落ちていないとおかしい。しかしこれといったものはありませんでした。これはつまり、事件当時は誰も避難梯子を使っていないということにほかなりません。
 では最初から一階にいた人はどうでしょうか? 私たちと小笠原さんは談話室にいました。この間に何人か談話室に降りてきていることは、その証明になるでしょう。では談話室を通りすぎた勉さんはというと、殺害に必要な時間がありませんでした。館川さんは殺害後の返り血の処理が問題となります。体を洗えばいいと思うかもしれませんが、実はその脱衣所にあったタオルすべてが乾燥していて、しかも彼女の身体は乾いていました」
「それじゃ、殺してから時間を置いて自然乾燥を待っただけかもしれないじゃないか」
 守彦が反論するが、南は首を振る。
「館川さんの身体は完全に乾ききっていました。栄太さんの身体からは発見当時出血し続けていましたし、死後硬直も始まっていなかった。東雲さんが言う通りなら死亡推定時刻は一時間以内。もし身体が乾いたとしても、髪までは一時間では自然に乾き切りません。ですから館川さんも除外。するとこの中には栄太さんを殺せた人間がいなかった、ということになるんです」
「すると、第三者の犯行か?」
 西森に南はうなずく。
「ええ。……けれど、共犯はいます。いないとおかしいんです」
「共犯……? どうしてそう言い切れるんですか?」
 勉の問いはもっともだ。南はその質問に質問で返す。
「では我々はどうして、犯人が避難梯子を使ったと思っていたんでしょうか?」
「それは、誰にも見つからずに一階に降りるため、ではないですか?」
「では、なぜ犯人は誰にも見つからずに一階に降りる必要があるんでしょうか?」
「それは栄太義兄さんが……あっ」
 勉が気付いたように声を上げる。
「そうです。栄太さんが一階にいたからです。しかし、第三者であるところの犯人はどうして栄太さんが一階にいるとわかっていたんでしょうか? そして、どうして犯人の痕跡がどこにもないんでしょうね?」
「そこで、共犯者か」
 西森の感心したような声に南は満足そうにうなずいた。
「何度も言いますが、この別荘は一本道なんです。普通に考えれば、犯人は誰かに見つかっていなければおかしい。また、その危険性を犯人も自覚しているはずです。犯人の痕跡や目撃証言がないのは、そうなるように共犯者が我々の行動を妨害したからです。その大前提として、共犯者は何らかの方法で犯人とコンタクトが取れないといけません。殺すタイミングがわからないと妨害のしようがないからです。……ところで小笠原さん、私たちが来たときに着けていたというイヤホンは、いつどこにしまったんでしょうか?」
 小笠原はその言葉にはっとした。
「ええと、自分の部屋の机に置いてきましたが」
「そうですか。確かに私もそれは確認しました。一応西森さん、確認してきてもらっていいですか」
 南が西森に言うと、西森は急いで談話室のドアへと向かった。そしてすぐに戻ってくると、うなずいた。
「確かにあったぞ、ワイヤレスイヤホン」
 その答えに満足したように南は小笠原に向き直った。
「それでは、聞きます。確かにあなたはイヤホンを机に置いてきています。しかしあなたにはほとんどそのタイミングはなかったはずです。あなたは事件が起こってからずっと誰かと一緒に行動していたんですから。ではいつならできたのか? それは警察に電話しようとした時です。ではなぜあなたは電話が通じないということを伝える前にわざわざイヤホンを外して置いてきたのですか?」
「それは……」
 小笠原は口ごもった。返答がないのを確認してから、さらに南は質問を続ける。
「そして、どうしてあなたはイヤホンなんてつけていたんですか? 客をもてなす傍ら音楽を聞いていたわけでもないでしょう? かといってほかに理由も考えられない。なぜですか?」
 小笠原が言葉を詰まらせると、南は哀しげに笑った。
「答えられないなら、私が当ててみましょうか。そのイヤホンは、犯人からの通信を受けるものです。あなたは談話室で栄太さんと話をしていました。つまり、最後に栄太さんとまともに話ができたのはあなたです。栄太さんが席を立ったタイミングを犯人に伝え、廊下に行く人間を引きとめることぐらいできたでしょう。さらに言えば、別に栄太さんが自ら席を立つのを待つ必要もない。誰々が内密に話をしたいと言っていた、とでも言えば栄太さん自身が適当にトイレだと言葉を濁してくれるでしょう。
 あの時、私たち四人はあなたとしばらく話していました。それも、あなたの提案で。もしかするとあれは、私たちが廊下に出ないように引きとめていたのではないですか? そして、イヤホンを警察への電話のタイミングで置いて来たのはその時点で必要なくなったからです。また、できるだけ着けていたくなかったからです。イヤホンを着けていたことを気付かれたくなかったから。違いますか?」
 小笠原は何も答えなかった。
「博之、あなた……」
 館川が信じられないといった表情で小笠原を見る。それでも、彼は何も言わなかった。
「オガちゃん、あなたまさか……」
 陽菜の表情がだんだんと無感情から色を帯びていく。何も言わない小笠原に食って掛かる。
「オガちゃん、栄太を殺したの。もしもあなたが殺したのなら、私はあなたを絶対許さない」
 しかし、小笠原は穏やかに笑ってこう返した。
「ですから、その呼び方はやめていただきたいとあれほど申し上げたじゃないですか、奥様」
「このっ……」
 陽菜が手を上げたところを、守彦と勉が抑える。
「な、何するのよ! 放しなさい! 殺してやる、殺してやるんだから!」
「やめろよ、母さん。そんなことしても兄さんは戻ってこないんだから。それに、小笠原さんには殺人はできなかったんだから、彼が殺したわけじゃない」
 守彦が言うと、陽菜は忌々しげに小笠原を睨んでひとまず矛を収めた。
「それで、犯人はどこにいるんだ。もう逃げたのか? それなら俺たちは安心して寝ることができるんだが」
 西森が聞くと、南は首を振った。
「いえ、逃げたわけじゃありません。それどころか、とても近くにいますよ。東雲さんが襲われる前、わざわざ狙われるような挑発的なことを言いました。そしてその直後に彼女は襲われた。でも、よく考えるとそれはおかしいんです。何しろ東雲さんはこの談話室でそれを言ったわけですが、それを聞かなければ口封じをしようとも思わないわけですし、それを聞いていたってことは、その近くにいたってことです。
この近くにある車は栄太さん殺害後の時点ですべて使えなくなっています。歩いて逃げるにはこの別荘はいささか山奥すぎる。あのタイミングで近くにいたってことは、まだこのあたりにいるってことです。さらに言えば、この別荘の半径数百メートルにいないことは西森さんが確認しています。そうなると、犯人のいる場所というのはとても限定されます」
「もったいぶるな。どこに犯人がいるっていうんだ」
 苛立ったような西森の言葉に、南は一度大きく深呼吸をした。そして、談話室に並ぶ顔全てを順番に見て――
「そこですよね」
 ――こちらを見た。
 ぞくり、背筋を何かが伝う感触があった。モニター越しの南は、真っ直ぐにこちらを見ている。彼女はわかっている、そう思った。心臓を締め付けられる感覚を苦しいと感じ、同時に心地よいとも感じた。生きているということを思い出すほどに。
「そこ? そこは壁だろ。まさか壁の裏に張り付いてるとかいうなよ」
 西森が呆れたように言うが、南はそれには答えずにこう言った。
「皆さん、この場はこの事件の真相を語るにはふさわしくありません。それに、信じられない人もいるでしょう。ですから、論より証拠です。ついてきてください。私としても、答え合わせがしたいので」

 モニターを切った。もはや見る必要もない。南はいずれここに来る。それで、きっと終わるのだろう。もしくは、始まるのかもしれない。
 体が震えた。顔がぎこちない笑みを浮かべているのが自分でもわかる。ここまで自分の感情を押し殺して彼らを見ていたが、ついに俺も舞台に上がる時が来たらしい。それがうれしいのか、恐ろしいのか、俺にはよくわからなかった。
 椅子を回して部屋の中を見回した。散乱した衣服、洗われずに放置されている食器たち。この生活ももうすぐ終わる。気分は不思議と安らかだった。
さて、もうそろそろ頃合いか。そう思った時、部屋の奥から梯子の音が聞こえた。確かにノックの音にも似ているな、と頭の端で思っているうちに音はどんどん増え、ほとんどうるさいくらいになった。ざわざわと何やら驚きの声も上がっているらしい。初めに顔をのぞかせたのは、やはり南だった。
 南は部屋に入るなり俺の身なりを見て顔をゆがませた。それにどういう理由があったのかはわからない。しかし彼女はすぐに顔を引き締めてこう言った。
「やはり、ここでしたか。やっと会えましたね、対馬、俊夫さん」
 数年ぶりの自分の名前に、胸の奥が震えた。小笠原は旦那様としか呼ばなかったので、俺を名前で呼ぶ人間はあれ以来いなかったのだ。
 続々と上ってくる残りの人間。北野だけがぽかんとしていたが、他のやつらは俺を見るたび驚きの声を上げた。特に守彦は驚いて声も出ない様子だったが。
「あ、あなた……いったいどうして」
「父さん? それに、それは……」
「お、お父さん、どうして生きて……」
 それらに答えるのは億劫だった。俺が社会的に「死んだ」時のやつらの反応を考えると、やつらのことなどどうでもいいような気もした。それでも、どうにかして伝えたいような気もした。その狭間でどちらかを決めるのが億劫だったのだ。
 それに、俺がわざわざ説明しなくてももっと客観的な証拠を以て説明できるであろう人間が目の前にいることもその原因の一つだった。その南は苦々しげに、だがきっぱりと宣告する。
「犯人はあなたです、対馬俊夫さん」
 否定はしなかった。このありさまで反論できるはずもない。俺は安らかな心持で椅子にもたれかかりながらポツリと聞いた。
「なぜ、ここがわかった」
「思いつきです」
「それでも、何かきっかけがあるはずだろう。人間、きっかけなしに何かを思いつくことなどないのだから」
 そう言い張ると、南はゆっくりと整理するように指折りながら説明した。
「まず一つめ。東雲さんの事件のことです。東雲さんの服には泥がついていて、明らかに外で一度倒れた形跡があるにもかかわらず彼女は応接室で見つかりました。つまり犯人は何らかの理由で彼女を応接室まで移動させたことになります。
 そこで二つ目、この館の構造。この館は部屋の間を基本的に空けない構造になっています。にもかかわらず、寝室の九号室と十一号室の間に何もない空間があります。あなた自身が設計にかかわってこだわったにしてはずさんすぎます。もしかするとそれには意味があるのかもしれない、とそれを見たときはそう思っていました。そしてよく見てみると、その何もない空間は応接室のちょうど真上にあるんです。
 第三に、東雲さんが襲われた直後にあたると思うのですが、九号室で北野君が聞いたノックの音のようなものです。その時ドアの前には私以外おらず、私はノックをしていなかったにもかかわらずその音は聞こえたそうです。しかし私にはその音は聞こえませんでした。それはつまり、廊下からではなく部屋の中から聞こえたということです。もしくは、壁を通して聞こえたということになります。
 あとは連想です。もしかすると九号室と十一号室の間には梯子の通る通路のようなものがあって、北野君が聞いたのはその梯子を上る音。そして犯人はその通路がつながっているさらに上の部屋に隠れているのではないか。東雲さんはそこに監禁されそうになっていて、しかし西森さんが彼女を探しに来たことで犯人はあわてて逃げたのではないか、とね」
「監視カメラの件は?」
「さっき談話室でも言った通り、東雲さんが襲われるのはおかしいことなんです。東雲さんがあの挑発をした時、小笠原さんはすでにイヤホンを外していました。もしマイクも一緒に着けていたとしても、イヤホンと一緒に外しているはずです。つまり、犯人は自分でその話を聞いていたことになります。
しかし、犯人の心情としてはそれは考えにくい。あの後東雲さんは一階の廊下に、私たちは二階に上がりました。つまり、盗み聞きできるスペースは窓の外しかないのです。しかし東雲さんの事件があった後になって考えてみると犯人にはすでに安住の地が確保されています。そこからわざわざ出てまで私たちの会話を聞く必要があるとは思えません。ほかの用事があってついでで聞いたのだとしても、やはりそれほどの用事がないのです。逆にそれほどの用事がまだ残っているのだとしたら小笠原さんにイヤホンを外させるわけがありません。
 さらに言えば、ここまで犯人の痕跡がないのもやはり不自然でした。いくら小笠原さんが共犯だったからと言って、彼にも行動が見えていない人はたくさんいました。ですからこれほど痕跡を残さずに殺人をできるということは、この別荘内での皆さんの行動パターンを知っていて、さらに全員の現在の行動を把握できていなければなりません。誰か一人の視点からではそんなことは到底不可能です。別荘全域に大量の視点がない限りは。
 そこまで考えると、栄太さんを最後に見送った小笠原さんの挙動も変でした。普通話している最中に突然席を立った人間がいたらその人を見送るものでしょう。しかし彼は壁にかかったリースを見ていたんです。おかしくありませんか。栄太さんがトイレに立って談話室を出ていく前から、小笠原さんがあらぬ方向を見ていたというのは。それで思ったんです。もしかすると、そこにカメラが設置されていて、その時小笠原さんは通信していたからそれを見ていたんじゃないかと。
 決定打となったのは電量計の数値でした。電量計が示していた使用電量は普通の家のそれよりもはるかに多かったんです。確かにこの別荘は大きく、また冷蔵庫なんかもかなり大きかったのですが、それでもなお多い。まるで常時大量の機械が作動しているようでした。しかしそんな機械は私たちが行ける範囲にはありませんでした。
これらのことをまとめた結果、この別荘内の様子はまさにこの別荘内のどこかからモニタリングされているという結論に至ったわけです」
 なるほど、と俺は感心して腕を組んだ。そこまでは気にしていなかった。いい観察眼だ。南は続ける。
「そう考えるとかなりつじつまが合うんです。この別荘に大量にある飾りは監視カメラのカモフラージュ。ドアノッカーは少しあなたの趣味が入っているようですが、振動センサーか何かでしょうか。おそらく来客が来たらいち早くここに知らせが入るようになっているのでしょう。この別荘にわざわざ見取り図があるのは、この部屋に注意を向けないためでしょう。見取り図に二階までしかなければ、まさか三階があるなんて思いもしないでしょうから。そして、装飾用の暖炉は本当はこの部屋への隠し通路だったんです。
 この部屋の機能を使って、今までここに隠れ住んでいたんですよね、俊夫さん」
 ちょっと待った、と口を挟んだのは西森だ。
「電量計の件は電気代に直結するんだから、陽菜さんか誰かが気付いてもおかしくないんじゃないか?」
 陽菜はショックから立ち直れていない様子で静かに首を振った。それ以上陽菜は何も言わなかったので、仕方なく俺が説明する。
「陽菜の金銭感覚はめちゃくちゃなんだ。貧しい農家からいきなり富豪の妻になった。だから電気代はどれくらいが相場かなんて知りやしない。小笠原は元から俺がここにいることは知ってたし、館川は対馬家の経済には興味を持っていなかった」
 西森は一瞬眉をひそめたが、すぐに引き下がった。俺がまた南に問いかける。
「どうして、俺だと思った。死んだはずの俺が犯人だと」
「あの事件で出てきたあなたの死体は頭部が粉砕されていたということです。そのことで、歯型照合ができなかった。骨からわかる年齢も同じぐらいだった。だから身に着けていたもので対馬俊夫だと断定されてしまいました。おそらくは、取り違えたんです。現在行方不明とされている、あなたが当日連れて行ったという使用人と。
 理由の一つは、この別荘の仕掛けを作れたのは俊夫さんしかいなかったことです。俊夫さんはこの別荘の設計にまで細かく口出ししたそうじゃないですか。そんな状況でこんな仕掛けをあなたの指示なしに作れるわけがありません。そして、これらの使い方を一番よく知っていたのは俊夫さん、あなたということになります。
 さらに、この仕掛けは小笠原さんには最初から分かっていないとおかしいです。カモフラージュはされているとはいえ、さすがに掃除で飾りをいじられればばれてしまう。おそらくは、動作中かどうかもわかっていたでしょう。にもかかわらず彼は何も言わなかった。小笠原さんが隠れ住んでいた人間をかばっていたとしたなら、それは俊夫さんの方がありえそうだったのです。
 隠れ住んでいた根拠としては『呪い』の件があげられます。五年前からこの別荘で起きていた怪奇事件、それはあなたが隠れ住んでいた痕跡なんです。食品が無くなっていたのは俊夫さんが食べていたから。応接室の明かりが点いていたのはそこに俊夫さんがいたから。シンクが濡れていたのは小笠原さんが俊夫さんの使った食器を洗っていたから。そして陽菜さんの部屋の万年筆が動いていたのはそこの引き出しから通帳とカードを持ち出していたからです。違いますか」
 北野が首をひねる。
「でもさ、陽菜さんは通帳の額にはほとんど異変はなかったって言ってたぞ。人一人養う金なんて減ってたらさすがにばれるんじゃ?」
「北野君、それは私たちの感覚でしょ。私たちは食費のほかに家賃や電気ガス水道代、娯楽にもお金を使うけど、彼は食費だけでいいの。それに、お金持ちには利子とか貸した土地があったりするの」
 あ、と北野が間抜けた声を上げる。
「こんな家を作るような大富豪よ。人一人養う分の利子所得や資産所得ぐらい受け取っていて不思議はないわ。だから、陽菜さんには何も変わっていないように見えたの。
 話を戻しますね。それらの手掛かりに加えて、決定的な証拠が見つかりました。それが、これです」
 そう言って南は脇に抱えていたファイルを見せた。それは東雲の部屋から見つかったものだった。
「この中には対馬俊夫が生きていると言える証拠が集められています。一例をあげるなら、あなたの死体が見つかった近くでひしゃげた金が見つかったそうです。金歯に使われる類の金です。そして、あなたの死体には歯が一つ足らず、ほかの遺体からは歯の欠損は見受けられなかったとも書かれています。そして、対馬俊夫は金歯を入れたことは一度もありません。これらのことからもあの遺体が対馬俊夫のものではないとわかるでしょう。まだいくつか証拠がありますが、読みますか?」
 いや、結構。俺は苦笑してそれを制した。まったく、あの女史は食えない女だ。
「どうやら東雲さんは元からこのことの確証を得るためにここに来たようでした。そして、かなり早い段階からこの屋敷の仕掛けに気付き、またこの事件の捜査と並行しつつ隠れ住んでいる人間を特定しようとしていたようです。得られる情報が満足できるものではなかったので自身をおとりにして直接犯人をおびき出そうとしたようですが」
 おそらくは東雲は姪すらも利用して危険すら顧みずに真実にたどり着こうとしていたのだろう。大した女だ。俺は内心で心からの賛辞を送った。そして、これだけの証拠からこれほどの推理を展開する目の前の女にも。
 俺は少し挑発するような口調でこう続ける。
「そこまでわかっていれば、俺の動機までたどり着いているかもしれないな。聞いてみようか」
 南はそこで初めて言いよどんだ。わからないのか、まあそうだろう――そう思った時、南は言いにくそうに口を開いた。
「五年前の放火事件、その黒幕が栄太さんだったから、ですか」
 ……舌を巻く。どうやらこの娘は俺の想像以上に鋭いらしい。たやすく解答を当てられたことが、俺はなぜか愉しかった。口元が笑っていることに自分でも気づきながら問い続ける。
「どうして、そう思う」
 また南は言いにくそうに顔をゆがめた。
「……五年前、です」
「何がだ」
「あの放火事件があったのも、栄太さんが陽菜さんから俊夫さんの遺産を借り受けたのも、そうして白谷コーポレーションを買収したのも、五年前です。会社を買収するなんていきなり思い立ってできることじゃありません。前々から考えてはいたはずです。元々栄太さんはリーダー志向だったようなので、なおさらです。それがなぜ五年前、しかも遺産を借り受けたのか。そう考えた時、一番妥当と思われる答えは『対馬俊夫は栄太さんにお金を貸そうとしなかった』でした。あなたは人間関係に金銭を持ち出したがらない人だったそうですし。
 ここからは想像です。もしかすると、栄太さんはずっと前から俊夫さんに融資を頼んでいたんじゃありませんか? しかし俊夫さんは主義から貸そうとせず、業を煮やした栄太さんが手を回して俊夫さんが訪れた常田税務署に火を放った。ガスの配管の破損から大火災になったこの放火事件ですが、それも中にいる人間を逃がさないようにするための細工と考えられます。事実かなりの人数が逃げられずに焼死してしまいました。実際栄太さん自身も成功したと思ったでしょう。まさか俊夫さんが運よく逃げ延びているとは知らずに。
 おそらく、その時は俊夫さんは上着を使用人さんに預けてどこか――外に行っていたんでしょう。そしてそれが幸いして俊夫さんは逃げ延びた。しかし世間では死んだとされたのは」
 そこで南は言葉を切った。

 そうとも、生き延びた俺は「死んだことになって」いた。しかし俺のものを身に着けていた死体は紛れもなく俺のかつての親友だった。俺は彼の死をホテルで知り、一人で人知れず泣き叫び、怒り狂い、そして絶望した。唯一の、俺の親友。彼が死んだその時、俺も共に死んだのかもしれなかった。世間的にはもちろんのこと、人生の価値が消え失せたと、そういう意味として。
しばらくそのホテルに引きこもり、廃人のように過ごした。そうして、これからどうしようかと考えるだけの余力が生まれた時、俺は家に帰ろう、という当たり前の考えに至った。
 思えば俺がまだ青かった頃、金があれば人は幸せになれるとどこかで信じていた。周りの人間は利益ばかりを求めてくる。彼らが俺よりずっと貧しいゆえに、そんな関係が出来上がる。ならば、生活に不自由しなくなれば人は清く正しい関係を築くことができると、そんなどうしようもない理想を信じている自分がどこかにいたのだ。だからしばらくは金を稼ぐことばかり考えていた。そればかりに気を取られて、横で陽菜の感覚がどんどん肥えていくのにも気づかなかった。
 ふと、自分を冷静に見つめなおせる時があった。想像以上に痩せている自分に気が付いた。想像以上に肥えている妻に気が付いた。想像以上に飢えている子供に気が付いた。不自由しない程度以上のものを、どうにかして俺から掠め取ろうとする家族がいた。俺の家族は、いつの間にか金に振り回されていた。
 その時点で十分すぎるほど金はたまっていた。それでも俺は働いた。理想は理想でしかないと気付いた時、俺の中に目的と呼べるものが無くなってしまったからだ。働かなくても生きていける。けれども生きて何をする? たった一つの生きがいを手放してしまったら、俺はいったいどうなるのか。それが怖くて一心不乱に働き続けた。
 しかし人生万事塞翁が馬、仕事を続けているうちにとても俺と気が合う男を見つけることができた。斉藤(さいとう)と言った。俺と変わらない年のころで、酒に強く、とても機転がきいて、ついでにジョークにもキレがあり、一緒にいて飽きない人間だった。仕事だけの間柄にするのがもったいないほどだった。まだ人間というものも捨てたもんじゃないらしいとわかって、俺はそいつと会ってしばらくしたころにようやく会社を手放すことを決断した。そして、会社から斉藤を引き抜いて使用人とした。斉藤はとても優秀な男だったので、その後の会社の倒産の一因はこの一件にあったのかもしれない。今となってはそれはわからないが。
 それからは、人間関係をより重視することにした。理想は理想のままでも、少しくらいはそれに近づけるかもしれないと思ったのだ。蓄えに蓄えた金を使って別荘を建て、そこに年に数回家族全員で集まることにした。そこで俺はいろいろと細工を施した。山奥に別荘を建てることで、集まった時には外界のことを考えなくて済むようにした。必要なら遠隔で電話線すら落とせるようにした。大まかな構造としてはどう動くにしても誰かとすれ違うようにした。また、ほんの遊び心で秘密部屋のようなものも作った。使わないつもりだったが、まさか隠れ住むために重宝することになるとはこのときは思ってもみなかった。
 それまで単なる使用人としてしか接してこなかった小笠原にも親しく接するようにした。斉藤は当然として、通りがかりでまた一人拾った。それが、館川志野だった。
 金銭は極力やり取りしなかった。金を貸せとねだる栄太とも、株を買えという守彦ともブランドのバッグを買えとねだる奈絵とも金のやり取りをすることはなかった。使用人たちにも給料はそれほど与えなかった。その代わり必要なものはすべて買い与え、何不自由なく暮らせるようにした。
 俺は何も変わらず、何にも影響を与えず、ただそこにあった。その安寧さに落ち着いたのは間違いなかった。ただ、俺が生きている必要は感じられなかった。学生時代の友人もかつての仕事仲間も、使用人も家族でさえ、方向は違えど俺の持つ金によって俺に縛り付けられているに過ぎなかった。もし俺が死んだとして、その金は陽菜にわたる。しかし、状況は何一つ変わらないのではないか、という疑念がいつだって付きまとった。
 そんなころだった。あの放火事件が起きたのは。
 俺は社会的に死んだのを機に、俺が家族にとってどういう存在だったのかを見極めることにした。自分を「死んだ」ことにして、屋根裏部屋に隠れ住み、家族の反応を伺うことにしたのだった。うぬぼれていた、と言えばそれまでだ。それでも心のどこかで、まだ自分の存在価値は残っていると勝手に思い込んでいた。
 隠しカメラで全員の様子を見ていた俺は頭を抱えたくなった。笑っていた。
『いやあ、父さんが死んでせいせいしたね』
『ほんとほんと。お父さん、頑固でね。どれだけケチなのよあの人』
『そう言うなよ。確かに金は自分のためにしか使わなかったけど。この別荘にある飾りとかコレクションとか、一つ何百万って代物らしいからな』
『頭おかしいと思わない? お母さん』
『まあ、あの人も大概ケチだったわね。使っても使いきれないようなお金を持って、どうして家族に少しくらい分けられないのかしら』
『それよりも私欲しいバッグがあるんだけど』
『しょうがないわね、もう一つだけよ』
 正直、絶望した。今までの俺のポジションに陽菜が入ったこと以外、何も変わらない構図がそこにあった。俺の死を悲しむ家族は一人もおらず、むしろ喜んでいるようですらあった。それを見ていると、俺は必要なかったのだと改めて実感した。もう、いい。俺はそれ以上色あせた理想を追いかける気にはなれなかった。
 結局俺が選んだのは、「死んだ」まま小笠原に助けてもらいながらこの狭い隠し部屋に隠れ住み続けることだけだった。いつ死んでも良かったが、自分から死ぬほどのエネルギーは俺の中にはもうなかった。
 意外とばれなかった。掃除等担当が小笠原だったこともあって、またカモフラージュも効いて、五年間俺は屋根裏に隠れ続けた。それでもやはり痕跡は残るもので、それらは「対馬俊夫の呪い」などと名付けられて面白がられた。言いえて妙だと、他人事のように思った記憶がある。
 それから数年。もうこの生活にも慣れたころの話だ。あんなことがあったのは。

 回想から俺を引き戻したのは、南の声だった。
「どうしてかしばらくあなたはここに隠れ住んでいた。そして、おそらくは前回ここに親族が集まった時にわかったのでしょう。栄太さんがあの放火事件を引き起こしたということが。実際に犯行に及んだのか、誰か人を雇ったのかは定かではありませんが」
 くしくも今俺が思い出そうとしたことを南も話そうとしていたようだった。
 そうとも、三か月前だ。三か月前に親族が集まった時に小笠原と栄太が二人きりで話すことがあった。その時、どうやら栄太は多分に機嫌が悪かったらしかった。小笠原に愚痴をこぼしていたが、あまり同情してもらえないことに業を煮やした栄太は小笠原に八つ当たりをしたかったらしい。そうして、口にしたことに小笠原はもちろん、俺もまた驚いた。その時の言葉は一語一句違わず覚えている。
『そう言えば、小笠原さんは父さんにかなりなついていたよね。特別に教えてあげるよ。実はね、僕なんだ。父さんを殺すように言ったのは。金を絶対に貸そうとしない父さんがいなくなれば、母さんは僕の言いなりだからね』
 どうやら人を雇っての犯行だったらしい。そして、その雇った人間はすでに焼死体の中にいる、という。ガスの配管に細工がされていることを実行犯には教えなかったのだ。油断していた犯人は爆発に巻き込まれた。配管の細工も配管自体が吹き飛んだ今となってはわかるわけもない。栄太には警察の手は伸びない、と自慢げに栄太は雄弁に語った。小笠原が警察に通報する、と言うと栄太は余裕綽々にこう返した。僕はしらばっくれるよ、と。あんたには僕が本当にこんなことを言ったのかを証明できない。だからやるだけ無駄だ、と。
 それを聞いているうちに、親友を奪われた怒りが再び燃え上ってきた。それだけではない。金が欲しい、とそれだけのために大勢の人間を殺したことも許せなかった。結局、金なのか。金を手に入れるためなら、人はこうもたやすく人を殺すのか。理想を捨てたつもりでいた。実際追いかけることはあきらめた。それでもこれだけは許せなかった。話し合って自首をさせようという考えが一瞬頭をよぎったが、すぐにあきらめた。このバカ息子を断罪する。それが、もうどうしようもないこの息子に俺ができることだと思った。
 南は語り続ける。
「そして今日――もう昨日になったでしょうか。親族が再び集まるこの時にあなたは栄太さんを殺害することを決意した。争った音も跡もなかったので、おそらくは彼は小笠原さんに呼び出されて、その途中で薬物を嗅がされたのでしょう。たとえば、そこにあるような」
 指差したのは俺の背後にある机の上の薬品ビンだった。隠す必要もない、その通りだった。
 あの時小笠原には放火事件の証拠をつかんだと嘘を言って栄太を誘い出させた。そして薬を嗅がせてシャワー室に運んだのだった。
「そして小笠原さんが時間を稼いでいる間にシャワー室で栄太さんを殺害。そうですよね?」
 南はなぜか怒りを押し殺した顔で俺に尋ねる。ああ、その通りだとも。お前は俺の犯行のほぼすべてを見通してる。けれど、それで誇りこそすれ、なぜそんなにも怒っているんだ? お前にとっては、俺などただの他人だろうに。
 西森がまた口をはさむ。
「だが、わからんことがある。なぜおれたちをここに閉じ込めた? 一つ目の事件の段階じゃまるで証拠もなかったし、あんたにとっちゃ俺たちが出て行ってくれた方が逃げやすいだろうに」
 西森は俺に聞いたようだったが、南が代わりに答えた。
「違いますよ、西森さん。証拠があったから閉じ込めたんじゃなくて、証拠がなかったから閉じ込めたんです」
「……まさか」
 西森は何か気づいたような表情をする。北野以下ほかのやつらはまるで気づいていないようだった。南がうなずく。
「そう、確かに殺人の証拠はなかった。でも、なさすぎたんです。そのままでは誰も犯人にはなりえない。第三者の犯行ということになり、この別荘は隅々まで調べられることになります。そうなるとさすがにこの部屋のからくりがばれてしまう。だからこの事件は『誰が見てもわかる単純な事件』に偽装する必要があったんです。少し調べればすぐに証拠が出てきて、それが犯人を特定するほどに、単純な。だから、Tシャツをわざわざ盗んで犯行に及んだわけですよね。もしかすると、それが盗んだTシャツなんでしょうか」
 南が床に脱ぎ捨てられたTシャツを指差す。返り血をたっぷりと吸っているそれは、確かに俺が守彦の部屋から盗んだものだ。
「最初から守彦さんに罪をなすりつけるつもりだったんですね。守彦さんは臆病な方のようなので、すぐに部屋にこもりたがると踏んだのでしょう。きっと私たちがいなければ小笠原さんがみんなをまとめる手はずだった。そして調べまわるふりをして守彦さんが犯人である証拠を準備して回るつもりだったのですね。たとえば避難梯子に守彦さんの靴の跡をつけたり。私たちの存在が想定外だっただけ。このクローズド・サークルは証拠を隠ぺいするためのものじゃない、証拠をねつ造するためのものだったんです」
 だから、どうしてそんな顔をする。いいだろう、お前は俺を打ち負かした。夜が明ければ俺はお縄につく運命だ。東雲の仇も取れただろう。なのにどうして。
 俺の心の中を見透かしたように、南は言う。
「どうして、あなたは殺してしまったんですか。栄太さんを殺し、守彦さんに罪をなすりつけてまで、あなたは復讐がしたかったんですか。あなたにとって自分の子供はその程度のものだったんですか。家族って、そんなもんなんですか」
 言われて、俺はようやく気付いた。この娘はそれをずっと怒っていたのだ。
 俺は何がしたかったんだろうか。やり遂げて振り返ってみると、俺は途方もなく虚ろだった。復讐をしたところで斉藤は戻ってこない。栄太はもう改心することも、謝ることもできない。守彦だって計画通りいけば無実の罪でとらえられていたはずだ。陽菜は生きがいを失って廃人のようになるだろう。いつの日か理想的な関係を求めていたはずの彼らを、俺は切り捨てていた。
 だが、元をたどれば俺だって切り捨てられたのだ。その報復くらいする権利はあるんじゃないか。栄太は俺を殺そうとしたし、奈絵は俺を貯金箱程度にしか思っていなかった。陽菜だって俺よりも俺の持つ金をずっと見ていたし、守彦だってそんなやつらに同調していた。俺に復讐の権利は十分にある。
 とはいえ、それは俺が虚ろであったことの弁解にはなりえない。若いころは金をためることに躍起になり、その金に理想は食いつぶされ、人間関係を求めれば息子に親友を殺される。結局俺には何が残った? 何もない。どうしようもなく空虚な自分。ずっと、生きている必要なんてないと感じていた。俺は正しかったのだ。おそらくは、運の悪いことに。
「家族なんてものは、幻想だ。結局誰も彼も、自分のことしか考えていない。金があればそこにたかるだけだ。俺は散々それを思い知らされた」
「だから、殺していいと? 罪をなすりつけてもいいと? ふざけないで! 家族って、そんなもんじゃないでしょう。私だって、未那叔母さんは鬱陶しいし意地悪だし、何考えてるかわかんないしで、会えばため息が出るわ。でもね、それでも怪我をしたら心配するし、自分を粗末にしたら怒るのよ。家族って、そういうもんじゃないの」
「……お前には、わからんよ」
 ああ、そういうものだと思っていたさ、俺だって。そう思えるうちは、きっと幸せだったのだ。かつての俺が怒っているようにも思えた。もしも、俺の代わりに俺自身を断罪してくれるのなら、これほど救われることもなかった。
 とはいえ、そろそろ冗長だろう。もう俺に救いはない。あっていいはずがない。ならば、いっそすぐにでも俺を幽閉すればいいのだ。俺は返り血まみれの手を広げてこう声を張り上げた。
「さあ、もういいだろう。どこへなり俺を閉じ込めろ。倉庫にロープがあるからそれで縛ればいい」
 誰も動かなかった。ああ、もどかしい。
「さっさと連れて行け。もしも連れて行かないのであれば、俺はあの東雲とかいう女を殺しに行くぞ」
 その脅し文句がどれだけ効いたのかはわからない。西森が最初に動いて俺の腕をがっしりとつかんだ。
「南。こいつがここまで言ってるんだ。望みどおりにしてやろうじゃねえか」
 西森の言葉に、情けない顔の北野も俺の腕をつかんだ。そして二人に連れられ、俺は梯子へと向かう。俺が進むたび、誰もが道を開ける。避けられている、と言った方が正しいのかもしれない。どっちだっていい。後からついてきているのは南一人だ。家族の誰もが俺に近づこうとしないのがどうにも皮肉で、それが俺の心を傷つけていくさまがどうしようもなく愉快だった。愉快ついでに南に声をかける。
「電話線はこの部屋で操作できる。そこのモニターの操作盤の横にそのスイッチがある。後でつなぎなおせばいい」
 それを聞いて、守彦が我に返って操作盤を探り始めた。

 応接室を出た時、思いがけない顔に出くわした。
「おはよー。どうやら私、生きてるみたいね。ずいぶん豪華な天国だな、と思ったもんだけど」
 東雲だった。服を泥で汚し、整っていた長髪はぼさぼさになっている。しかしいたって元気そうだった。南が目を潤ませる。
「叔母さん! まったくもう、心配したんだから!」
「あらら、泣いちゃった。手紙に書いたでしょうが、殺されはしないって。それよりそちらはもしかして?」
 東雲は俺を見る。さっき襲った時は背後からだったので、俺の顔を見てはいなかったのだろう。せいぜい自嘲的な笑みを浮かべてみる。
「対馬俊夫だ。それ以上あんたに言う必要があるか?」
 すると東雲はなるほど、と髪を払った。
「後で取材をさせてもらってもよろしいですか? 警察に持っていかれると独占取材ができないもので」
 持っていかれると、か。その言い回しに俺は苦笑しつつうなずいた。そう言えばこいつはそのためだけにここに来たんだった。それぐらいは答えてやらないと。しかし南がかみついた。
「未那叔母さん、起きて早々ふざけ過ぎ。今は安静にしてないと」
 かみついてはいるものの、どことなくその口調はうれしそうだ。それを知ってか、東雲も意地悪な笑みを浮かべる。
「私はこの人に殺されるかもしれなかったのよ。少しくらいわがまま言ってもいいじゃない。その間智花ちゃんは北野君とせいぜいいちゃいちゃしてればいいのよ」
 その言葉に、南の顔が紅潮する。
「それはもういいから! 私北野君といちゃいちゃなんてしないし!」
「いや、さすがに断言されると傷つくんだけど……」
 北野が苦笑いをする。それに気づいて南はあわてて訂正する。
「いや、そういうことじゃなくてね。ほら、さすがにこんな状況でそんなことはできないなって」
 その会話に西森も加わる。
「お前ら、若いなあ。かみさんなんて俺のこと給料袋に毛が生えた程度だってのたまったのに。まあ俺らも若いころは……」
 それを見て、心のどこかで無性にうらやましく思った。そんな会話、もう何年していないだろう。それこそ俺が求めていたものじゃないのか。俺があきらめた理想は、こんなありふれたものだったのかもしれない。そうしておかしなことに、これほど金を蓄えながらもそんなありふれたものが手に入らなかったのだ。
 もう、疲れた。俺は四人の会話から目をそらした。
 自分自身すらあきらめた自分が、そこにいた。

 俺はワインセラーに閉じ込められた。腕も足もロープでぐるぐる巻きになっている。その状態で、不思議なことに俺は落ち着いていた。
 これが、俺への報いだ。
 その時、ワインセラーの扉が開いた。どうせ、俺に会おうというやつなんて東雲しかいないだろう。しかし、重い顔を上げると、西森に連れられた小笠原の姿があった。
「おい、これはどういうことだ」
 西森は困った顔で頭をかいた。
「どういう、と言われてもな。小笠原さんが自分からこうなることを望んだんだ。そんなことは本人に聞いてくれよ」
 そう言いながら小笠原をロープでぐるぐる巻きにしていく。そしてそれが終わるとどっこいしょと立ち上がった。
「それじゃ、ごゆっくり。と言っても警察が来るまで五時間程度だが」
 そう言い置いて、西森はワインセラーを出て行った。残された俺は、小笠原に聞いた。
「どうしてここに来た。お前は俺に脅されて言いなりになっていたとでも言えばよかったんだ。お前が犯人に加わったとして、俺の罰はちっとも変わらない。それどころかお前にもかなりの罰が下る。来るだけ損だったのに」
 小笠原は弱弱しく笑った。
「私は、旦那様の息子でありたかったんです」
「なんだ、養子になりたかったのか。なら言えばよかったんだ。そんなことぐらいいつだって受け入れたぞ」
 俺がそう言うと、小笠原は首を振った。
「そういう問題じゃないんです。捨てられていた私を、旦那様はここまで育ててくださった。仕事も、教育だって与えてくださった。感謝してもしつくせません。ご家族の誰も旦那様を見てはいらっしゃらなかったけれど、私はそのような方々よりも旦那様の近くにいたかった。ほかの誰が旦那様の敵にまわっても、私だけは旦那様の味方であり続けたいと、そう思っていたんです。だから、旦那様だけに罪を着せて私だけのうのうと生きる気なんてこれっぽっちもないんですよ」
 思わず小笠原の顔を見つめた。嘘は言っていないようだった。この状況で嘘をつく意味も必要もないだろうが。
「私だって栄太様に殺意を持っていました。私だって栄太様を殺す手助けをしました。旦那様が栄太様を殺す、と言った時、私は止めませんでした。同罪ですよ。一緒に罰を受けましょう」
「お前は……」
 つうっとほおを涙が伝った。拭おうと思ったが、ぐるぐる巻きの手足ではそんなことはできなかった。止めることもかなわずただただ涙を垂れ流す。
 もしかしたら、俺が求めていたものはこんなところにあったのかもしれない。見落としていただけで、こんな近くに。今まで俺はお前を使用人としか見ていなかったのに、お前は俺を親のように思っていたのか。それはうれしいやら恥ずかしいやら情けないやらで、気が付けば俺は号泣していた。それでも、いいだろう? 確かに俺には悲し泣きする権利はない。それでも、うれし泣きするくらいは許してくれるだろう?
 俺が鼻をすすっている間、小笠原は何も言わなかった。いまさらになって恥ずかしくなったのかもしれない。横顔が、どことなく赤かった。
 少しして、また扉が開いた。今度は館川だった。
「どうした。こんなところ、用なんてないだろう。まさか死体の傍らで乾杯なんかしないだろうし」
 しかし館川はそれには答えずに俺につかつかと歩み寄ってきて、厳しい口調でこう宣告した。
「旦那様、私はあなたを許しません。きっと、一生許しません。博之を私から奪ったあなたを、絶対に許しません」
 ああ、確かにそうだ。俺が栄太を殺そうなどと言わなければ、小笠原は犯罪者にはならなかったのだ。館川からすれば、俺は恋人を奪った憎いやつ、と言うことになるだろう。存分に、彼女には俺を憎む権利がある。
 けれど、館川は悲しげに目を細めた。
「あなたには、死ぬ権利がありません。大勢の人間を傷つけた、その罪悪感に苦しみながら、余生を生きる義務があります。ですから、必ず帰ってきてください。罪を償い、我々全員に頭を下げるまで、私はあなたを許しません」
 許されないのは当然のことだ。自分でも、最低なことをした自覚くらいはある。けれど、そうか。俺には、死ぬ権利もないのか。死刑になる権利も、獄中死する権利もないのか。それなら、仕方ない。死ぬことも許されないのなら、こんな狂った老いぼれがのうのうと生き続けることも、きっと仕方のないことだ。
気分は、どこか晴れやかだった。罪は決して軽くはないが、軽くはないからこそ、嬉しくもあった。俺に罪と罰を課すこの世界は、まだ俺を見捨てていないのだ。
「それでは、私は皆さんにお夜食をお作りしようと思います。もう二時ですので。こちらにも持ってきますね。一応、あなたは私たちの主人なのですから」
 次の来客はそろそろ東雲だろう。彼女が来るのを心待ちにしている自分がいた。彼女が来たら、何から話そうか。新しい息子ができたことか。それともこの世界は思っていたほど理想を嫌っていたわけではなかったことか。いや、やはりここは、対馬俊夫と言う大バカの勘違いだらけの半生でも語るべきだろう。
 また、ワインセラーの扉が開いた。現れた人間の顔を見て、俺は思わずにやりとした。

伽藍の堂(作・高柳郁)

伽藍の堂(作・高柳郁)

北大文芸部内で星空文庫のために書かれた作品です。ぜひお楽しみください。

  • 小説
  • 長編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-15

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