月映夜

 さて、ここは京より(とり)(かた)へ八十里ばかりの山陰の国、町に一人の鬼が居ったそうな。
 鬼はその名を丑寅(うしとら)と申してそれはそれは大層醜い容貌であった。
 町を歩けばやい鬼め、人間様に姿を見せるなと(つぶて)を投げられ、住ま居に籠りてあれば罵詈(ばり)ばかりの落書を書かれ、その凄絶ぶりは筆舌に尽くし難い有様であった。人を人と思わぬ所業、イヤ丑寅は人間ではなき故かような乱暴狼藉も赦されようというものか。
 鬼の心は人の心であった。かれは町人共の言葉に心を痛めた。しかしかれの容貌が町人を畏怖させていると解していた。かれは町人を怖がらせないよう身をくらませて、みずからの心の痛痒(つうよう)は無用であると考えた。「所詮おれは鬼の分身、町人と交わっては望まぬ災いが起こるに違いない」と云う。しかしその心を解するものは町にはおらぬ。
 町には娘が居た。器量よし、気性よしで町内でも評判であった。その容貌の美しさは町の外にも知れ渡り、絶世の美女を我が物にせんと大勢の者が娘のもとへ馳せ参じる始末であった。
 その日も娘を訪ねる者があった。その者は家の門前にて門扉を(たた)かずして娘はおるかと怒鳴った。すわ何事かと家の者が外に飛び出し名を問うと、梅平(うめだいら)伯耆守(ほうきのかみ)宗朗(むねあきら)と申し、由緒正しき武家の家柄と云う。由緒正しき家柄が平民の門前で怒鳴る法があるかと家の者は訝しんだが、侍が家紋を彫った印籠を見せびらかして来たので閉口した。
「お彩や、客人が来ているよ」
 (あや)と呼ばれた娘ははあいと返事をして土間へ顔を出した。彩の顔を認めると、侍はそのあまりの美しさに眼を真ん丸にして魂消(たまげ)た。あゝ、かような美女がこの世にあろうとは! 是が非にもこの娘を口説き落し、我の細君として迎え入れようぞと決心した。
 しかし、どうも娘の容子が妙だ。家の者が手伝をしなければ草履を突かけることも出来ぬ。娘の容子をしばし眺めていると、侍にはふと心得があった。
「その娘、(めくら)か」
 家の者が答えないところを見ると侍の心得は当を得ていたと見える。娘はようよう頷いてそうです、私は目が見えませぬと云った。その時に侍が面倒事はいやだなあと考えた事を、娘は詳らかに悟った。娘は他人の心の中を視ることが出来る。侍の心の(うち)は娘には分明であった。暫くして侍は辞去したが、しかし侍は娘の美しさを諦めてはいない容子であった。その侍の胸中に湧き出でしは助平心であった。
 父母(かぞいろは)は盲の娘を不憫に思い、後生大事に扱い給う男に嫁がせて遣りたいと常々考えていた。しかし娘には人の心の裡が視える。人の心の闇が視える。尽きぬ人間の欲望を見るに、娘は辟易していた。
 或る日、娘は道を見失って深い山中に迷い込んだ。娘は其所で異様な気配を感じ取った。
 其所に誰か居りますかと娘が云うに答えるは、山奥に逃れし鬼であった。
「此処は何もないところだ。何故来た」
「人の心が恐ろしく、懊悩のうちに歩みて気付けば此処に居りました」
「妙な女だ。おれが怖くないか」
「其方様こそ妙なお方。其方様の何を怖れることがございましょう」
「おれは鬼ぞ。鬼を恐れぬとは」
「鬼。私めにそうは視えませぬ」
「貴様目が見えぬのか」
 娘はようよう頷いた。
「私の目は見えませぬ。でも人の心は視えます」
「面妖なり。然すれば貴様はおれの姿が見えぬのか」
「左様です。其方様の容貌は見えませぬ。でも其方様の御心は視えます」
「おれの心中は如何様(いかよう)か」
「透明な水が視えます。色とりどりに芽吹く草木花が視えます。私は大勢の人々の心の中を視て来ました。皆一様に真っ暗な闇を(こさ)えていました。しかし其方様の御心に闇は視えませぬ。かような清らかな心は初めて視ました」
「益々面妖なり。しかしおれを恐れぬ人間には初めて出くわした。町の人間は皆おれを見ると一目散に逃げ失せるのだ」
「それは皆、ものの表面だけを見ているからです。見目よりも恐るるべきは心の闇。私めは心に鬼を宿した人間を沢山見ました。そして私めもまた同じ、心に鬼が住んで居ります。然らば、鬼の何を恐れましょう」
 見目麗しい女であったが、何よりも清らかな心を持った女であった。かれは感心して女の名を問うた。
「おれは丑寅と申す。貴様の名は何ぞ」
「彩と申します」
「彩。美しい名だ。いずれまた此処で」
 それからというもの、娘は丑寅を思い続けた。しかし目が見えぬため、容易く外へ出るにあたわぬ。二絃琴(にげんきん)を爪弾きつつ、娘は思い()めし男に(うた)った。

 (つき)()えの夜をあざむく御心に 今宵()()ぢ夢で逢はるか
 (月の輝く夜にも負けず劣らぬ美しさを持つあなたの心に、
        今夜目を閉じて夢の中で逢うことができるだろうか)

 父母は娘の恋路を祝った。「月映えの夜をあざむく」とは大層な心の持ち主ではあるが、目の見えぬ娘に心の清い男は丁度好い。「めでたい。お前の仕合せをひとえに祈って居るよ」とかれらは云った。「して、その男の名は」と問うと、娘が「丑寅」と云うので魂消た。
「丑寅!」父母は叫んだ。「市井(しせい)に轟きし鬼の名ぞ! 彩よ、気でも触れたか」
「私めは心を()めて居ります」
「娘を鬼に嫁がすなど家の恥! げに許すまじ!」
 父母は「げに」「げに」と云いながら娘を奥の間へ幽閉した。娘にとっては父母こそが気が触れているように思えた。娘を閉じ込め鍵を掛けた扉の前で、かれらは涙を流して娘に改心を乞うた。
「梅平様が居る」と父が云う。「武家であれば銭がある。腕の立つ目医者へ行っておまえの目をすっかり治す事も出来よう。目が見えるようになればおまえも本当の仕合せに気が付き、心の中なぞ覗かずに安らかに暮らされる。何も鬼に嫁がずとも」
 その頃、鬼は娘を捜して居た。「いずれまた此処で」とは口約束ではあるが、それにしても待てども待てども娘の姿が見えない。居たたまれぬ鬼はついに町へとやって来た。「彩と申す者が町に居るか」とほうぼう尋ねたが、しかし首尾好くは行かぬ。町人はかれの姿を見るなり逃げ(おお)せてしまうのだ。僅かばかりの教えを拠り所として鬼は娘の家へと向かった。
 悪鬼着到の風説が町に流れた。町人共はさあ大変だと大騒ぎであった。風説はついに梅平伯耆守宗朗の知るところとなり、鬼が彩と云う娘を捜して居ると知った侍は益々目を細めた。
「彩」侍は云った。「かの盲の娘ぞ。悪鬼の手から救い出して遣ろう」侍の胸中に湧き出でしは助平心であった。鬼を懲らしめるため、娘の気を引くために侍は刀を取りて町へ向かった。
 一方の鬼は娘の家へ辿り果せた。鬼は娘が奥の間に幽閉されていることを知ると、憤怒の形相でその間へ向かった。
「彩」
「その声は。その美しい御心は」鬼の言葉に娘が答えた。
「いかにも」
「丑寅様」娘はかれに語りかけた。「私めを此処から出してください。お慕い申し上げる其方様と、共にいきとうございます。心に闇を抱えし侍が此方に向かっております故、はよう、私めを此処から出してくださいませ」
 鬼は扉の鍵をついに破り、娘を抱えて家を出ようとした。
 そこへ侍も娘の家へ着到した。父母が「梅平様、悪鬼から娘を助け給え」とかれに縋った。娘が居るという奥の間へ向かうと、其所には美しい娘を抱えた鬼が居た。
 侍が刀を取り出して叫んだ。
「鬼の分際で人の娘とまぐわおうとは! 我は梅平伯耆守宗朗、此処で貴様を成敗してくれようぞ!」
「我が名は丑寅! 心に闇を抱えし人間から、彩を救い出す為に参った!」
 かくして此処に鬼と侍との決闘と相成ったのである。
 侍は刀を振るった。鬼も刃のように鋭い爪で侍に斬り掛かったが、侍の振るう切っ先が幾度も幾度も鬼の鼻先を掠めた。侍はなかなかの手練であった。鬼は相手を侮れぬ好敵手と認めた。しかし必竟(ひっきょう)助平心には真心が()つ。娘を思う鬼の気概が、次第に侍を圧倒していった。
 ついに鬼が侍の隙を捕らえた時、決闘場にに石の礫が投げ入れられた。石は鬼の頭に当たりて地べたに落ちた。衆目が瞬かれたその一時、一閃、侍の刀が鬼の躯体を貫いた。礫を(なげう)つは娘の父親であった。決闘場に鬼の赤い血が(ほとばし)った。鬼は膝頭を地べたに付け、侍を()め付けた。侍が「悪鬼、討ち取ったり」と叫び、刀を(まさ)に振り下ろさんとするところ、鬼を(かば)いて走り寄った娘の肌の上をその刃が走った。
「アッ」
 群衆は騒然とした。娘を自分が斬り付けた事に魂消た侍は、腰を抜かして逃げ出してしまった。その隙、娘を抱えた鬼はほうぼうの体で騒乱から逃げ果せた。
 酉の方に日は没み、真ん丸い月の輝く丘の上で鬼は娘をかき抱いた。
「彩!」
「丑寅様」
 娘は荒ぶる呼吸(いき)の中で鬼の名を呼んだ。
「私めは生涯の(つい)の時に其方様と御一緒できて仕合せでごさいます。私めの亡骸は丘の上のこの場所に埋めてください。私めはいずれ大きな大きな樹木と成りて、きっと春に小さな花を咲かせましょう。この丘の上から、其方様の仕合せを見守りとうございます」
「何を云う。おれの仕合せはおまえの仕合せだ。永久(とこしえ)に共に在ろう」
 娘は微かに微笑んで目を閉じた。鬼は思い遂げし娘に詠った。

 つき果てて物をも言わぬ心なれど 今宵めをとの契り交わさむ
 (尽き果ててしまってもう言葉さえ言わない心だが、
            今夜夫婦としての契りを交わしたいと思う)

 誠に美しい二人の心から流れた涙が混ざり合い、丘の上に落ちた。其所から、大きな大きな樹木が成った。それはそれは大層醜い姿形の樹木であったが、春になれば美しい花を咲かせるのであった。

月映夜

月映夜

鬼が住んで居りました。 町には美しい娘が住んで居りました。「私めは心に鬼を宿した人を沢山見ました。私めもまた同じ、心に鬼が住んで居ります。鬼の何を恐れましょう」 マダムM氏との共作です。 ・原案者:マダムM ・作文係:音海佐弥

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  • 短編
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-14

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