動くジャレルと動かない二人の動く島
ジャレルはかつて一人ではなかった。けれども、今は一人だった。
海に囲まれた島の中心に生えた木に背を持たれかけて座っている。彼は親指を噛む癖があるようで、唇に挟まれて血まみれの指が位置していた。殆どは固まっているが、一部はたった今に前歯によって削り取られた傷だった。その新たなる裂溝から赤黒い血がだくだくと流れ、手のひらに溜まっていた。
暗渠のように暗い水面は月すら映さず黒い鏡と見紛う程で、時たまに潮風で揺らぐことによってのみ、液体であることを示していた。
ジャレルは泣いているのだった。その海より深い瞳を据えた目の端から乾くことのない涙の跡が顎まで続いていた。
そんな彼の頭に手のひら大の実が落ちてきた。持たれている木からのものだ。半ば自動的にそれを手に取ると、自らの血で汚れた歯で噛み砕いた。
これが、全き彼の行うことで、ジャレルはそんなことをもう何年も明けない夜の海の上で続けている。
ジャレルの思い出すことは後悔だけだった。そうしていることが自分への刑罰であることも確信していた。
彼は元々、この島に一人ではなかった。将来を近いあった女性が居た、二人は海の見えない村で生まれ、当たり前のように交際を始め、ある日に初めて海に来た。
二人が海岸沿いの崖で、将来を誓い合った夜、何か生暖かい湿った風と共にその崖が崩れた。二人の乗った崖の破片は波に揺られて沖へ出た。そうして、新しい生活が始まった。
たった二人の日々だった。けれども、二人は辛くはなかった。思い合った者同士、風吹くままに青い絨毯を揺れていた。島の中央に自生した木から、一日に一つ生えてくる木の実を分け合って食事とした。魚を捕らえようともしたが、ダメだった。
彼らはお互いに神代の原初の男と女を意識していた。そんな彼らが子を産むのは遠い未来ではなかった。
子供が生まれると、女は木の実を多く要求した、子供の母乳のためである。ジャレルは二日に一度しか、木の実を口にしなくなった。したとしても半分だった。ジャレルに不満はなかった。
ある夜は嵐で、三人は身を寄せ合っていた。しかし、突風に体重の軽い子が攫われ、海へ落ちた。女は半狂乱になりながら、ジャレルへ助けるように言った。彼は荒れ狂う夜の海へ飛び込み、子を抱え上げて島へと帰ってきた。
果たして子供は生きていた。しかし、目を開けることもなく、鳴き声も上げなかった。上下する胸だけが生きている証だった。
それから、子の看病が始まった。とは言っても、出来ることは食事を与えることのみ。女は更に木の実を要求した。ジャレルは三日に一度しか木の実を口にしなくなった。ジャレルに不満はなかった。
ジャレルは常に空腹であった。けれども、子と女のために耐えていた。
ある日に子の呼吸が止まっていることを見つけると、女にそれを伝えた。だが、女はそのことを認めなかった。食事が足らない、そう言った。ジャレルは四日に一度しか木の実を口にしなくなった。
ついに、腐敗が外に見える形で始まった。女の抱きかかえる死体だ。それでも、女は干からびて蛆を裂傷から覗かせる唇に、乳頭を押し付けることを止めなかった。乾いた皮膚のひび割れに母乳の一筋が光っていた。
ジャレルはもう一週間は何も食べていなかった。限界を感じていたので、女に真実を突き付けた。
彼の説明は何時間もかかったが、女がその説明を肯ずることはなく、彼女の抱えた腐敗は彼女の中で生きた子供のままだった。
その夜、ジャレルは女の眠ったことを確認すると、木によじ登った。抗しがたい食欲のためだ。口にした木の実はまだ未熟で小さかったが、彼には今まで食べた木の実のどれよりも多く食べたように感じた。
木の頂上で満足に身を委ねていると、木が風もないのに突然揺れ始めた。下で両目を血走らせた女が揺すっているのだった。
ジャレルはたまらず転げ落ちる、そこへ女が飛びかかってくる。彼は女を説得しようとしたが、聞く耳持たないようで、ついにジャレルも反撃に出てしまった。
女を蹴り飛ばすと、死体を取り上げ、海へ放り投げた。かつて、自分がその海から救い出したものであったというのに。
女は海へ飛び込んだ。浮かび上がって来た時には、二つの死体となっていた。
それから、ジャレルはずっと一人だ。朝が来なくなったのもそれからだ。
毎日、一つの木の実を一人で食べることが出来ている。腹はそれで満たされるのだが、何か満たされないもののために涙していた。
彼は待っている。自らの涙と自らの血が海へ溜まり、この島の全て覆ってしまうまでになることを。
動くジャレルと動かない二人の動く島