あの春の日、わたしたちは桜の花びらを交わし――
名残惜しいけれど、この制服を着るのは、もう・・・・・・
学校を卒業して約一ヶ月後、わたしと彼は桜の木の下で再会した。
二人は、別に恋仲というわけじゃない。恋仲じゃなくて、たぶん、幼馴染ってやつ。小さい時から、何となく仲が良くて、愉快な時はからかい合い、悲しい時は慰め合い、怒った時は喧嘩し合い、そんな風に、親子と同じくらい密な感情を互いに交わしながら、わたしたちは共に過ごしてきた。
だから、進む進路がそれぞれ違う方向になったとしても、わたしたちが簡単に別々の道へと別れてしまうようなことはなかった。
再会を約束した時、彼は、制服を着てこよう、と言った。
「どうせこれから着る機会はないんだし。卒業式の後の、おれたちだけの着納めだ。もし寒くても、ちゃんとスカートは履いてこいよ」
「え~」と不満げなわたし。「男子は長ズボンにすっぽり包まれてるから大丈夫だろうけどさ、足冷やすのって、けっこう辛いんだよ。」
「心配すんなって。その日にはきっともう、暖かくなってるから。」
実際、その通りだった。わたしたちが約束した四月中頃の日は、すこぶる暖かく、スカートを履くのにちょうどいいくらいで、厚いブレザー・コートが余計にさえ思えた。
その頃、桜はほとんど葉桜になりかけて、花見の時の華やかな趣はすでになくなってしまっていた。
「でも、葉桜も悪くねぇな。」
「何言ってんのよ、花の醍醐味なんて理解できないくせに。」
「タハハ、まぁな。おれは花より団子タイプで、満開の桜を見た時も、『綺麗だなぁ』としか言えないし。」
彼の苦笑のすぐ後、一陣の風が吹いた。暖かく湿り気の少ない春の息吹で、受けていて気持ちがよかった。
その風は、軽やかに飛ぶひとひらの妖精を、わたしの目の前に運んできた。桜の花びらが、首元の赤いリボンの前を横切って飛ぶ。わたしはそれを何となく、地面に落としたくなくて、仰向けに並べた両手でそっとすくい取った。
桃色の妖精は無事だった。が、時を置かずして別の風が新たに吹いてき、わたしの手のひらからその妖精をさらっていってしまった。
「あっ――」とわたしは、せっかくすくい取った花びらが惜しくて、思わず声を漏らす。
「どーした?」と彼。
「ううん、何でもない」とわたし。一枚の花びらを失ったことなんて実際何でもなく、わざわざ話すほどではなかった。
しばらくの沈黙。葉桜のそば近くで静かに呼吸し、みずみずしいその呼気を胸一杯に吸い込む。
「『制服を来てこよう』って、おれ言ったけどさ」と彼。「案外、似合わなくなっちまうもんだな。」
「え?――」
それを聞いて、わたしは不安になり、出かける前に入念に確かめてはきたけど、改めて制服姿の自分をよく見てみる。たしかに卒業はしちゃったけど、制服姿の今のわたし、もしかして変に見えるかな、と気になって。
「いや、お前は似合ってんだよ。おれの方がな、何か違和感を感じて――。」
「そうかな? ぜんぜん、うん、普通だよ?」
「そう言ってもらえると、何かしっくりくるような気がするんだが」と、彼も制服姿の自分を見てみるが、相変わらず、ばつが悪そうだった。
「やっぱり、タハハ、似合わねぇわ。たぶん、卒業しちまったからだろうな。」
「何でよ。わたしだって一緒に卒業したじゃん。なのに、どうしてわたしだけが違和感なくて――」
「うん、葉桜の葉っぱと花びらってさ、なぜかうまくマッチしないだろ? 緑色とピンク色が、どっちも中途半端で。お互いに調和せずに、打ち消しあっているかのような。おれにとってこの制服はたぶん、その桜なんだよ。早いとこ散って、装い新たにしなきゃいけないのに、しつこく残り続けて、邪魔になっちまってる。」
「ふぅん。わたしはでも、葉桜にしつこく残ってる桜、好きだな。」
「はは」と彼は朗らかに笑った。「感じ方の違いだな。お前にまだ制服が似合うはずだよ。」
そして、彼はわたしの方を向き、いやに真剣な、じっと見つめてるとおもはゆくなってしまうくらいの、色を正した表情で言った。
「変わんないでいてくれよ、これから先も。」
わたしは唖然とせずにはいられなかった。まずわたしには、一度として彼がそんな真剣な面持ちになるのを拝んだ試しがなかったのである。
彼はそして、弱く握ったこぶしを差し出し、それをおもむろに開いた。その中には、それまで隠されていた"或るもの"が横たわっていた。
「あっ――」
隠されていた或るもの、それは、桜の花びらだった。風が吹いた時にわたしの手のひらから逃れていったのと同じような、はっきりとは覚えてないけれど、それとそっくりに見える花びらを、彼はその手にたずさえていた。
『変わんないでいてくれよ』 それは、真剣な面持ちで告げられた、まじめな希望のようだった。
わたしの胸にじんわりとしたものが流れ込んでくる、と同時に、また春の息吹が吹いてき、それに煽られた彼のネクタイが、ダイナミックにそり返る。わたしのリボン紐も、ぱたぱたとせわしなくはためく。が、不思議と彼の手にある桜は、今度は飛んでいくことなく、そうするに相応しい時の来るまで、かたく同じ位置に留まり続けるつもりのようだった。
妖精さん、ありがとうね、と心の中で呟いたわたしは、桜の花びらが乗る幼馴染の手のひらに、自分の手のひらをそっと重ね、彼の希望を受け入れた。花びらはこれで二人のものとなった。
「お互いに、変わんないでいようね。」
そうわたしが言うと、彼は、真剣だったその顔に、温もりある微笑をたたえた。
一陣の風がまた吹く。
相応しい時が来たらしい。誓いの言葉を込めたひとひらの花びらは、重ねられたわたしたちの手のひらの隙間から漏れ、そのまま風に乗り、はるか彼方のいずこかへ、旅立っていった。
手のひらは空っぽになった。でも、二人が共にたずさえていたあの花びらは、幼馴染の肌の手触りと共に、今もまだ忘れられることなくあの春の日のまぼろしとして、手のひらの上に克明に残り続けている。
あの春の日、わたしたちは桜の花びらを交わし――