銀のスプーン

 かち、かち、と音を鳴らす。
 銀のスプーンで。
 圭ちゃんが。
 圭ちゃん、というのは男性だ。
 正確には元女性の、現男性だ。
 圭子ちゃんとして生まれ育った圭ちゃんが、圭一郎と名乗り出したのは高校を卒業してすぐのことで、書類上云々は今も変更せずにそのままであるらしいが、制服のスカートを脱ぎ去って自由を手に入れた気分になったらしい圭ちゃんは、働いてお金を貯めて、貯めたお金で男性に生まれ変わった。
「生まれ変わったんじゃなくて、本来の自分を取り戻したの」
なんて、圭ちゃんは言っていたけれど、高校生の頃の圭ちゃんはまぎれもなく女子で、どこからどう見ても女の子で、上から眺めても、下から覗きこんでも、斜めから観察しても女であって、それ以外ではなかった。だから、本来の自分を取り戻したということは、圭ちゃんは、女、という役を完璧に演じていたということだ。おそろしい女優だ。いや、今は男優と呼ぶべきか。
 ところで、かち、かち、と圭ちゃんが鳴らす銀のスプーンは、圭ちゃんのコレクションである。
 圭ちゃんは銀のスプーンを集めている。
 圭ちゃんはときどき、集めている銀のスプーンの柄同士をかち、かち、とぶつけ合い、うっすら笑いを浮かべている。それも、真夜中に。
 基本はティースプーンだ。百円均一で買ったのもあれば、アンティークショップで発掘したという、それなりの価値があるらしいものもある。
 ねえ、それ、楽しいの。
 わたしは圭ちゃんに訊ねた。圭ちゃんと暮らし始めて一週間、付き合って間もなく半年になる頃の真夜中のことで、わたしは週に二、三日、真夜中にとなりから聞こえてくる銀のスプーン同士が弾き合う音のせいで、軽い不眠症になっていた。圭ちゃんは迷いなく答えた。
「楽しいよ」
 スタンドライトの暖色の光に照らされた圭ちゃんの顔は、笑っているとも怒っているともわからない顔だった。泣いているでもないし、楽しそうでもない。なんでそんな当たり前のことを訊くの?と言いたげな、呆けた顔をしていた。その顔はあどけない高校生だった圭ちゃんの、つまりは圭子だった頃の圭ちゃんを思い起こさせた。
 圭ちゃんが云うところの“本来の自分を取り戻して”から十年という月日が経っているのに、圭ちゃんは未だ男性らしさに欠ける。からだの方は男らしい肉付きをしてきたが、ひげの生え具合は微妙であるし、脚を閉じて椅子に座る姿には高校生のときの面影が残っている。スカートを穿いていた頃の圭ちゃんは女子の誰よりも美しい姿勢で、脚をぴっちり閉じて座っていた。百七十五センチの長身にくびれたウエストを持っていた圭ちゃんは、女子に憧れられる女子であった。
「アリサもやってみる?すぷぅん貸すよ?」
と言われて、わたしは首をぶんぶん横に振った。
 圭ちゃんはスプーンのことを「すぷぅん」と発音したが、銀色のそれはわたしにとってただのティースプーンでしかなく、すぷぅんではなく、スプーンであって、安眠を妨げる原因でしかなかった。
「ざんねん。アリサもやったらきっとクセになるのに」
 わたしに見せつけるように、かち、かち、と二度、圭ちゃんがすぷぅんを鳴らした。
 そのときの圭ちゃんは圭子の面影も、圭一郎の雰囲気もなくて、第三の圭ちゃんが突如現れたという感じで、なんだかよくわからなくなってきたのでわたしは布団を被って、ぎゅっと目をつむった。しばらくスプーンの姿は見たくないなと思った。

銀のスプーン

銀のスプーン

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-10

CC BY-NC-ND
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