別れ

栄介は駅の壁にかけられている時計を眺めた。昼十二時。仕事に追われて、プライベート用の携帯電話の電池残量をゼロにしてしまっていた彼にとっては重要な情報源だ。婚約者であるひびきが、間もなくここへやってくるはずだった。二人は待ち合わせをしていた。
遅いな、と彼が呟きそうになったそのとき、雑踏の向こう側に、白いブラウスが良く似合っている短髪の女性が現れた。ひびきだ、と瞬時に分かった。いつになく浮かない顔をしている。
待ち人を発見した栄介は愛おしさのあまり急ぎ足で近付いた。
「ひびき!」
その声を聞くと彼女はとたんにハッとした顔をし、背を向けて駅の外へ駆け出していった。
「ちょ、ちょっと待てよ……!」
栄介は追いかけ、踏切の前で息を切らして立ち止まっている彼女にようやく追いついた。顔色がこれまで見たこともないほど青ざめたものに変わっていた。
「どうしたんだよ、ひびき……」
「ごめんね、ハァ……私、もうあなたに会えない」
「どういうことだよ、それ」
「私ね、最後にお別れを言いたかったけど、やっぱり何も思いつかなかった」
ひびきは、警報器のなっている踏切の遮断棒をくぐるようにして越えていった。踏切が二人を隔てる。駅を発車した電車が踏切に差しかかろうとしていた。もうひとつの遮断棒もくぐり抜け、対岸にたどり着いた彼女は振り向く。今にも泣き出しそうな笑顔。
あ・り・が・と・う。そのように読みとれた五つの文字。
その瞬間、電車が踏切を走り抜けていった。栄介ただ一人が取り残された。ひびきはもういなかった。
「なんなんだよ……」
しばらくその場に立ち尽くしていたが、仕方なく家へ帰り、携帯電話を充電すると母親からの留守番電話が入っていたことに気付いた。
「もしもし栄介、ううっ……ひびきちゃんがね、今朝早くに交通事故で亡くなったらしいのよ……あんたの携帯がつながらないから、うちに電話がきたのよ、あんた何してんの? 連絡ちょうだいね」

しばらく経ったのちひびきの遺体と対面した栄介は思い返す。駅での出来事は、ひびきが最期に別れを告げにきたのだと。

別れ

別れ

習作その2です。

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更新日
登録日
2016-04-10

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