妻と犬、および陽介
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「でさ、ユキくんの初節句だから兜を飾ってあげたいって言ったら、そんなのメットでいいんだよ、って。ライダーである俺にとってのヘルメットは、戦国武将にとっての兜なんだから、これを飾っとけばいいいんだ、って」
「それで本当に、そうしたんだ」
「うん。もう反論するの面倒くさくなっちゃったから、フルフェイスのヘルメット飾って、その横に小さい鯉のぼり立ててお祝いしたんだって。そんなの絶対にネタだと思って、私が大笑いしてたら、真弓はすごく真剣な感じで、昔は旦那のそういうとこ、すごく面白いって思ったのに、今じゃそこが最大にイヤなのって、うんざりしてた」
「その旦那って確か、同棲始めたときに、玄関からでんぐり返りして入ってきた奴だよな」
「そう。転がり込んできました~、って。今思えばあれにウケた私が馬鹿だったって、真弓は後悔してる」
そこまで話すと紗代子は一息ついて、マグカップのコーヒーを飲んだ。半年ぶりに高校時代の友達に会って思い切りガールズトークを炸裂させてきたせいか、今日はいつもより機嫌がよさそうに見える。まあしかし、彼女はあからさまに不機嫌になってみせたりするほど愚かな女ではないから、これはあくまで陽介の印象、というところだ。
「ねえ、さっきママからメールもらったんだけど、やっぱり有希ちゃんとこに行くんだって。だからさ、私はこないだ相談させてもらったように、留守の間、ペクの世話に行きたいの」
「まあ、別にそれはかまわないけど」
「ごめんね。できるだけ陽介の負担は減らすから」
そして彼女は拝むように軽く掌を合わせ、にこりと笑顔になると「お風呂、先に入れば?」と言った。
別に無理強いされているわけではないけれど、結局全ての事は紗代子の思い通りに運んでゆく。湯船に深々と身を沈め、陽介はユニットバスの天井を見上げながら考えた。結婚して今年で四年目、交際期間を含めればもう六年のつきあいになる彼女とは、別れ話に発展するような大喧嘩などしたことがないし、小さないざこざも早いうちに収めて今日まで続いてきた。うわべは何となく、紗代子が陽介に譲ったり、合わせたりしてうまくやってきたように見えるのだけれど、それでも何故だか陽介は時々、俺は本当にこうしたかったのだろうかと立ち止まりたくなった。幸か不幸か、その疑問は風呂の湯気のように一瞬だけ形をとったかと思うと、次の瞬間にはもう姿を消してしまうので、はっきりと見定めたことはなかったけれど。
陽介が三十五で、紗代子はひとつ年下。とはいえ、周りの誰が見てもしっかりしているのは紗代子の方だったし、陽介もそこが気に入って結婚した。まず何より人当りがいいし、容姿も平均より上だと思える。万事にてきぱきしていて、料理の腕も問題なければ、収納マニアだから2DKの賃貸マンションでも十分に広く暮らせる。スポーツも人並みにこなすし、出歩くのも大好きで、それと同じくらい家で読書などしてのんびり過ごすのも好きだった。敢えて欠点を挙げれば、かなり潔癖症なところがあるが、それはまあ、きれい好きという言葉に変換できる。だから結局のところ紗代子はほぼ満点のパートナーと言えた。
それに比べると陽介自身はあまり誉められたものではない。名前を言えば「ああ…」と微妙な反応のある私大を出て、中小企業でルートセールス担当。入社十年を超えても何の役職もなく、今後の出世や昇給もあまり期待できない。身長は平均よりやや低め、顔立ちは至って地味で、「昭和の小学生みたい」と言われたことがある。取り柄といえば健康ぐらいで、煙草は吸わないし酒を飲めばすぐに眠くなる。
彼と紗代子は共通の友人のウェディングパーティーで知り合った。何だか向こうの方が積極的だと思ううちにつきあいが本格化して、すんなり結婚に至った。一度だけ、どうして自分と結婚しようと思うのか質問したことがあるけれど、彼女は「有希ちゃんが、陽介は“買い”だよって言ったからね」とだけ答えた。なるほど、というのが陽介の率直な感想だった。
有希子は紗代子の四つ違いの姉だ。優等生タイプの紗代子の、さらに上をゆく秀才。紗代子にとって有希子の存在は絶対で、彼女の言う事に従っていれば失敗がないという確信のようなものがあるらしい。
「“買い”って、どの辺が?」と彼が突っ込むと、「次男で、性格が素直で、健康で、真面目に働いて、私のこと大切にしてくれそうだから」という返事がかえってきた。思えばあの時、紗代子はかなり酔っていたのだ。彼女がそんな風に「手の内」を明かしたのは後にも先にもそれっきりで、その後も似たような質問をしたことはあるけれど、いつも適当な冗談にはぐらかされて終わりだった。
まあ確かにその通りなんだけど。
陽介は湯船に身を沈めたまま、額に浮き出た汗を掌でぬぐった。何となくペットショップで子犬を選ぶのに似ているような気もするが、彼も結婚というのは恋愛とまた違った、もっと現実的なものだと理解していたから、紗代子の言い分に腹が立つという事はなかった。まあ、それは紗代子、というよりも姉の有希子の言い分なのだけれど。
有希子は有名国立大の大学院を出て、現在は新聞でよくその名を見かける経済研究所に在籍している。大学の先輩にあたる夫とは学生時代に結婚していて、こちらは会計事務所で堅実に働いていた。陽介も何度か遊びに行ったことがあるけれど、将来の子育ても視野に入れたエリアに早々とマンションを購入していて、自分とのあまりの格差に羨むことすら忘れて、ただひたすら感心してしまったのを思い出す。
その有希子の夫が少し長い海外出張を命じられたのに合わせて、義理の両親は上京するのだという。この春で定年を迎えた義父の骨休めも兼ねて、あちこち東京見物を楽しんだり、更に足をのばして東北方面も回る予定らしかった。ただ問題は犬のペクだ。十何歳だかの雄の雑種で、元々は紗代子の飼い犬。彼女はこの犬をとても可愛がっていて、結婚話が出た時も、離れたくないからと実家での同居まで考えたほどだった。だがそれを止めてくれたのも有希子で、彼女にはそういう冷静さがあった。妻の紗代子と義理の両親という連合軍に押され気味の陽介には、ある意味で非常に心強い味方といえた。
とはいえ、紗代子は何かにつけてペクの世話をするため実家に帰った。彼女にとって好都合なことに、紗代子の職場は実家と新居のほぼ中間に位置している。今回、両親の留守中に実家に寝泊りしたところで、通勤には何の不自由もなく、むしろ陽介の世話が減って楽になるというのが本音らしかった。
まあとにかくしばらくの間、自分も独身生活を満喫すればいいだけの話。結局のところ、紗代子の言うことに従っておけば、万事それなりにうまく回っていくに違いない。陽介は湯船に寝そべったまま目を閉じると、一人暮らしの間に楽しむべき事をひとつひとつ考えてみたが、それは少し夏休みの計画に似ているような気がした。
「高田さん、独身生活慣れました?」
陽介がデスクで弁当を広げていると、営業事務の大野さんがいきなり肩越しに覗き込んできた。
「もうそこまで伝わってんの?」
「だって、西島先輩に言うって事は、女子全員に言うのと変わらないですから」
「まあそうだよな」と、我ながら歯切れの悪い返事をぼそぼそと呟きながら、齧りかけの冷凍焼売を口に運ぶ。
「せっかくお弁当作ってるんだから、休憩室で食べればいいのに」
「あそこは賑やか過ぎる。俺、静かに食べたいんだよね」
「でも皆、高田さんが自分でどんなお弁当作ってるのか興味津々ですよ。今日は私が報告しちゃおうかな。焼売と、卵焼きと、プチトマトと」
「勘弁してよ」と言いながら、陽介は慌てて弁当箱に蓋をした。全く、二十代の女子社員というのは妙なところに食いついてくる。ふだんは営業車の中や、公園のベンチで弁当を食べるのだが、今日は少し時間があるので、食べてから出ようと考えたのが間違いだった。
「大野さんも、さっさとお昼食べたら?」
遠回しに追い払おうとしても彼女は全く意に介さず、「私、ダイエット中だからシリアルバーと野菜ジュースでおしまい」と言い放ち、隣の席に座るとノートパソコンを開いてソリティアを始めた。
「駄目じゃない、吉岡のパソコン勝手にさわっちゃ」
「いいんです。これは吉岡さんのじゃなくて、会社のですから」
そう言いながら、顔はパソコンに向けたままで、別に楽しくもなさそうにマウスを動かし続ける。陽介はこれ幸いと、大急ぎで中断していた食事を再開した。ところがそうなると、彼女はまたこちらに注意を向けてくる。
「で、独身生活はどうですか?大変?寂しい?」
「別に。だって俺、大学から一人暮らししてたから、自炊とか平気なんだよね」
「じゃあ、自由で楽しいって事ですね?」
「そこまでは断言しないけど」
「じゃあ、大変じゃないけど寂しい?」
「うーん」と、思わず首をひねってしまう。紗代子が愛犬ペクの世話のために実家に戻ってから二週間が過ぎ、帰宅後誰とも口をきかず、シャワーを浴びて、一人で食事してテレビを見て、ネットをチェックしてから寝るという生活にもすんなりと馴染んだが、やはり何か物足りないような気はする。
この前の日曜、紗代子は実家にあったという海苔の佃煮と、ズワイガニの缶詰と、これまた実家で焼いたパンを携えて現れた。コーヒーを片手に半時間ほどたわいない話をして、着替え類を紙袋に詰め込むと慌ただしく去って行った。「けっこう綺麗にしてるね」と、一応は褒められたと思うのだが、ベランダの洗濯物をちらりと見て「やっぱり、皺をのばさずに干してる」と言われもした。
「ねえねえ、寂しいんだったら有志一同で遊びに行ってあげましょうか。金曜の夜なんかどうです?食糧とお酒は途中で買っていくか、ピザのデリバリーでもいいし」
大野さんはもうソリティアに飽きてしまったらしく、ずっとこちらを向いている。
「別に来てもらう必要もないし」
「だったら外で飲み会しません?独身だから帰りの時間も気にしなくていいでしょ?ね?最近、新しいお店開拓したんですよ。まだクーポン使えるから、行っちゃいましょうよ。人選は私に任せてもらっていいですか?」
結局、総勢十名ほどを集めての飲み会は実行されて、金曜の夜、陽介は会社近くの洋風居酒屋で賑やかな女子社員たちのおしゃべりに耳を傾ける羽目になった。
「じゃ、今度はこの、巨峰ヨーグルトサワーにしてみます?バナナスペシャル?」
大野さんは次から次へとメニューにある飲み物を注文して、かなりのハイテンションだった。陽介はビールさえあれば別に何も不満はないのだが、彼女がいちいち「これどうです?好きな味?」とグラスを差し出してくるので、一通りは口にしてみた。「まあ、こういうのも有り、なのかな」と言ってはみるものの、正直なところ金を出してまで飲みたいという味ではない。何というか、妙に甘ったるくて子供っぽいくせに実はアルコール、というところに往生際の悪さを感じるのだ。
その夜はメンバーの何人かが翌日に予定があるとかで、二次会はせずに解散という流れになったのだが、大野さんはその時点でかなり出来上がっていた。
「高田さーん、二次会どこにしますぅ?」と繰り返しながら、彼女は店の外に出ても陽介の傍を離れない。彼女と同期の吉岡は「大野さんはいつも三次会、四次会まで参加してるから、こんなにあっさり解散なんてありえないんじゃないすか?」と分析している。
「だったら吉岡がどこか付き合ってあげろよ」
「無理っす。俺、明日はサバゲーのサークルだから、体調整えとかないと」などと言いながらも、彼はまだ帰ろうとせず、「高田さんこそ、次の店どうなんです?せっかく独身に返ってるんだから」とふってくる。そこへまた大野さんが「そうですよ。今日は高田さんを励ます飲み会なんですよ。主役なんですよ。ずっといないと駄目なんですよ」と言いながら、陽介の肘をつかみ、右へ左へと振り回す。
「はい、解散解散。もう十時回ってるし」さりげなく彼女の腕をほどきながら、陽介は時計を見た。家の遠いメンバーは既に姿を消していて、残る女性四人もタクシーを拾おうとしている。
「高田さん、大野さんをよろしくね」
四人の中でリーダー格の西島さんが振り向き、まだ仕事中という感じの声で呼びかけてきた。
「ちょっと待ってよ、女の人が一緒に帰ってあげたら?」もう一人いたはずの男性社員、村瀬もいつの間にか消えているので、陽介は少し慌てていた。
「でも方向が正反対なんだもの。彼女と同じ方向って、高田さんだけよ」
「あれ?そうだっけ?」
いつも飲み会の時には、長居をしても二次会で切り上げて帰るので、陽介は大野さんがどこに住んでいるかなど、気にもしていなかった。
「大野さんの家って、東高校の近くよね」と西島さんが声をかけると、彼女は「そうですよ。すぐそばに東高があるのに、一時間半かけて英聖女子に通ってたんです。制服可愛いから」と言ってケラケラと笑った。
「だったら確かに同じ方向だし、俺んちの方が近いけど」
もうバスは少ないし、タクシーに相乗りするのは構わないが、いったん彼女の家まで送ってから帰るのでは金額も馬鹿にならない。まあ、泥酔というほどではないから、自分が途中で降りても一人でも帰れるだろう。
「じゃあよろしくね。お疲れさま」と、肩越しに軽く手を振ると、西島さんは他の女の子が停めていたタクシーの助手席に乗り込んだ。全く、彼女に言われると何事も業務連絡というか、やらない貴方は何様ですか、という雰囲気にされてしまう。仕方なく自分もタクシーを停めようと辺りを見回すと、吉岡が「お先っす」と言いながら立ち去ろうとしていた。
「一緒に乗ってけば?」大まかに言えば同じ方向だと思って声をかけたが、「お疲れっす」と軽く手を上げただけで、彼は小走りに道路を渡っていってしまった。もしかしたら一人どこかで、しばらく気分転換してから帰りたいのかもしれない。
「高田さーん、タクシー来ましたよ。停めて下さい」
大野さんの声に我に返り、「見てないで自分で停めなよ」と言いながら慌てて手を挙げる。先に彼女を乗せ、「最初に神崎橋で、それから東高校に回って下さい」と告げてシートに落ち着いた。
「吉岡さん一人で行っちゃいましたね。なんで一緒に来ないんでしょうね」
たぶん酔っているせいだろう、大野さんはいつもよりも大きな、すこし鼻にかかった声で喋った。
「さあ、こっそり彼女と会う予定だったりするんじゃない?」
「それはないですよ。あの人は絶対に彼女いないです」
「なんでそんなに自信満々で断定するわけ?」
「いないったらいないんです。そういう人だから」
「そういう人ってどういう人だよ」
「だからそういう人なんです。そういうってどういう人か判ってます?」
こっちも多少酔っているのでお互いさまだが、大野さんは酔っ払い特有のループ思考に入っていて、その後はひたすら「そういう人はそういう人なんです」という話のバリエーションを展開し続けた。幸い、道は空いていて、陽介が「そういう人」にうんざりし始める前にタクシーは神崎橋に近づいていた。
「橋を越えたところで右にお願いします」と言いながら、陽介はメーターを確かめて財布を取り出し、彼女の分も少し負担しておくことにした。
「じゃあこれ、俺の分だから」と、紙幣を差し出すと、彼女は受け取ろうともせずに「私も一緒に降ります」と言った。
「何言ってんの。はい、ちゃんとお金預かっといて」
「駄目です。私、トイレに行きたいんです」
「はあ?」いきなり何を言い出すのかと面食らっているうちに、タクシーは右折して陽介の住むマンションに差しかかった。
「あ、ここでちょっと停めて下さい。ほら、自分ちまであと少しなんだかが我慢して」
ドアが開いたのを幸いに降りようとすると、大野さんは陽介の鞄に手をかけて引っ張った。
「無理。高田さんちのトイレ使わせて下さい。でないと私、車内でやっちゃいます」
どうも彼女はタクシーに乗ってから急に酔いが回った感じで、居酒屋にいた時よりも目が座っている。面倒くさい事になったな、というのが正直な気持ちだったが、陽介は尚も「そんな事言ってる時間があれば、早く帰りなよ」と言い聞かせた。しかし大野さんは「無理ですう」と、鞄から手を離さない。何とか引きはがそうとすると「ダメダメダメ、そんな乱暴にされたらマジでヤバいです」と大声をあげた。
見かねた運転手が「お客さん、どうします?」とこちらを振り向いたが、その声には明らかに「迷惑」というトーンが漂っていた。多分彼は今までにも、酔客で随分と嫌な思いをしてきたに違いない。そう考えると陽介は途端に気弱になってしまうのだった。「すいません」と謝って料金を支払うと、急いで大野さんを連れてタクシーを降りた。
「本当にしょうがないなあ」と文句を言ってはみたものの、大野さんはどこ吹く風で「ここですか?ここに高田さん住んでるんですか?本当にここですか?」と、次のループに突入している。
「声がでかいってば。ほら、さっさと入って」
オートロックを解除してマンションの中に入ると、陽介はちょうど止まっていたエレベータに大野さんを押し込んだ。自宅のある四階で降り、念のため廊下を見回したが、幸い誰もいない。「四階で本当に合ってるんですか?」と声を張り上げる彼女を引きずるようにして歩き、玄関のドアを開けると大急ぎで中に入らせた。とにかくさっさとトイレをすませてもらって、それから電話でタクシーを呼んで一人で帰らせよう。
「ほら、一番手前のドアがトイレだから」と言った瞬間、何かが変だと気付いた。
明かりがついている。
朝出かける時に消し忘れたんだろうか、不思議に思いながら、トイレに駆け込んだ大野さんが廊下に脱ぎ散らかしたパンプスを拾っていると、そこに見慣れたスニーカーが揃えてあるのが目に入った。
「おかえり」と紗代子の声がする。顔を上げると、彼女は廊下の突き当たり、居間の入口にもたれて立っていた。
「あれ、どしたの?」
自分でも変な事を言うな、と思った。ここは陽介と紗代子、二人の家なのだから、どうしたもこうしたもない。むしろこの質問は紗代子のものだった。しかし彼女は平然としている。
「ちょっと荷物取りに来ただけ。別に連絡もいらないかと思って、電話しなかったんだけど」
「ああ、そっか」と答えながらも、陽介は玄関に突っ立っていた。紗代子は軽く口角を上げ、小首をかしげて「会社の人?」と尋ねる。そこへトイレの水を流す音がして、ドアにひざか何かぶつけるような音が聞こえ、それから大野さんが出てきた。
「あれ?奥さんですか?実家に帰ったんじゃないんですか?本当に奥さんなんですか?」
「こんばんは、いつも旦那がお世話になってます。せっかくだからお茶でもどうかしら?」紗代子はあくまでにこやかだ。
「お茶ですか?高田さん、お茶ですって、どうしましょう。奥さんお茶ですって」
大野さんの血中アルコール濃度はまだ下がる気配を見せない。陽介は慌てて「もう時間も遅いし、早く帰った方がいいって」と促した。彼女もさすがに、なんとなく自分が招かれざる客である事は理解しているのか、「そうですか?私帰った方がいいですか?」と言いながら、玄関に戻ってきてパンプスを履こうとした。
「あら、だったら車で送るわ。お家はどの辺りですか?」
紗代子はどうやらちょうど家を出ようとしていたところらしく、手にしていた赤い皮のキーケースを振って見せた。
「東高のすぐそばです。でも私、制服が可愛いから一時間かけて英聖に通ってたんですよ。紺のブレザーにグレンチェックのプリーツスカート。ボウタイは学年ごとに色が違うんです。違うんですよ。違っちゃうんです」
「そうなんだ。ま、東高なら近いわね」と言うと紗代子はいったん居間に引っ込み、それから大きなボストンバッグを肩にかけて出てきた。そして陽介に向かって「じゃ、送ってくわね」と言った。
「あ、俺も行こう、か」
「必要ないわよ。私はそのままあっちに帰るし。冷蔵庫にお惣菜入れてあるから食べてね」
それだけ言うと、彼女は陽介の脇をすり抜けて玄関のドアを開けると廊下に出た。大野さんも素直にその後に従い、「じゃあ帰りますね?帰っちゃっていいですね?」と繰り返す。慌てて「だから声がでかいって!」と注意すると、彼女の向こうから紗代子が「じゃあねえ、おやすみ」と言うなりドアを閉め、ご丁寧に外から鍵までかけた。
少しサイズが緩いらしい大野さんのパンプスがたてる、奇妙に虚ろな足音が遠ざかるのをドア越しに聞きながら、陽介はしばらくの間その場に立ち尽くしていた。
何だかまずいな。
それだけは判る。しかし大野さんほどではないにせよ、自分も酔っているせいか、そこから向こうがよく見えてこない。さっき、マンションの横手にある駐車場をのぞいていれば、紗代子が車で帰宅していることも判った筈なのだが、急いでいたからそれどころではなかった。しかし紗代子だってまあ、事情は理解してくれるだろう。別にやましい事は何もないんだし。
紗代子と大野さんを乗せたエレベータが降りて行く低い響きが完全に消えて、周囲に静けさが戻った頃、陽介はやっと靴を脱いだ。廊下を抜け、さっきまで紗代子がいた居間に入ると上着を脱ぎ、そのままキッチンに向かう。冷蔵庫を開けると、紗代子が持ってきた惣菜の容器が四つきちんとまとめて入れられていた。一つ手にとって開けてみると、きんぴらごぼうだった。それを元に戻し、ドアに入っていたミネラルウォーターのペットボトルを手にして居間に戻る。床に転がるクッションに腰を下ろし、冷たい水を一口飲んで、反射的にローテーブルに置かれたテレビのリモコンを手にとってスイッチを入れていた。
「それが男の戦略っちゅうもんや!」
関西系のお笑いタレントが断言し、スタジオが笑いに包まれたところで、画面はコマーシャルに切り替わった。
翌朝、というかほとんど昼、目を覚ますと外は運動会にうってつけの秋晴れだった。昨夜の飲み会がなければもっと早く起きられたのにと思うと、少し損をしたような気分だが仕方ない。Tシャツとジーンズに着替えて、窓を開けて部屋に風を通す。キッチンに行くと冷凍してあった食パンを一枚トースターに入れ、コーヒーメーカーをセットする。それから顔を洗って、洗濯機を回し、キッチンに戻ると朝食は出来上がっているという具合。
片手にマーガリンを塗ったトーストを載せた皿、もう片方の手にスプーンを突っ込んだコーヒーのマグカップ、そして口にはアロエヨーグルトの容器を咥えて、陽介は居間に移動した。
一人暮らしに戻ってからの習性で、彼は腰を下ろすとまずリモコンでテレビのスイッチを入れた。画面では一昔前にアイドルで売り出していた女の子が、見知らぬ土地でヒッチハイクという、目新しくもない番組をやっている。
雨は降る、日は暮れるで、無理やり「まゆっち、がんばりまーす!」とはしゃがない事には、魂まで夕闇に呑みこまれてしまいそうな場所だ。この子はきっと今、玉の輿で芸能界電撃引退を真剣に夢見てるだろうなあ、などと勝手な事を考えながら、陽介はトーストをかじり、アロエヨーグルトをスプーンですくった。
半分ほど開いた、狭いベランダに続く窓からは乾いた秋の風が流れ込み、外を走る車の音を時たま運んでくる。そして遠くの空を、ヘリコプターの力強い律動が横切って行く。テレビの中は既に真っ暗に暮れていて、まゆっちは半ばパニックだった。まあ、こういう番組は最終的に何とかなるのだ。間違っても山中で一晩放置とか、変質者の車を停めてそのまま行方不明という展開にはならない。そしてお約束通り、もう限界というその時に、親切な若夫婦の乗った軽自動車が「どうしたんすか?」と停まってくれた。
色は違うけど、うちと同じ車種だ。
陽介はコーヒーを飲みながら、「90秒後、まゆっち号泣!」というテロップを残して走り去る軽自動車を眺めていた。そして次の瞬間、昨夜の出来事がいきなり脳裏によみがえってきた。
「ヤバい」
マグカップをローテーブルに置くと、「ヤバいな」ともう一度呟いて、陽介は大きく溜息をついた。妻が留守の家に、酔った女の子を招き入れる。こういう行動は客観的に見て、何か下心があったように思われかねない。
しかし陽介はあの状況で、大野さんを振り切って逃げられるタイプの人間ではなかった。別に責任感が強いわけではない。ただ、相手の押しの強さが少しでも自分を上回れば、あっさりと土俵を割ってしまうのはいつもの事で、あとは何だか、まあ可哀相だし、とか、ここで断ったら鬼だと思われるし、といった理由が申し訳程度についてくる。だが本当の理由は、もうそれ以上相手と攻防戦を続ける根性がないからだ。
自分がもっと強気で「俺様」な人間なら、トイレに行きたいとゴネる大野さんを、近くの植え込みまで引きずって行って、「お前にはここで十分なんだよ、このメスブタが!」などと罵倒してみせるのだけれど。
未練がましくアロエヨーグルトをスプーンで何度も浚えながら、陽介は昨夜とれたかもしれない別の行動について考えていた。運転手に一万円握らせて一人だけ車を降りる、タクシーを大通りまで走らせて、交番でトイレだけ借りる、大野さんの家まで一緒に乗って行く。どれもこれもベストとは言い難い。大体、大野さんが本当にそこまで切羽詰っていたかどうか怪しいものだ。彼女は素面の時だって、大して急ぎの用でもないのに「速攻やって下さい」とか、自分の都合しか考えてないのだから。
いつの間にか、テレビの中のまゆっちは風呂まで借りて、満面の笑みでハンディカムに向かって「おやすみっち」とポーズを決めている。自分の方が彼女よりもよっぽどピンチだという事に気づいて、陽介はテレビを消した。リモコンをローテーブルに戻そうとすると、紗代子が昨夜残していったらしいメモが目に入った。
お疲れさま。野菜ちゃんと食べてる?冷蔵庫におかず入れてます。レジャーシートとクーラーボックス借りるね。
「ヤバいなあ」
紗代子の思いやり溢れるメッセージは、今の自分には鋭い皮肉としか感じられない。陽介は立ち上がると寝室に行き、枕元に置いたままだった携帯を手に戻ってきた。紗代子からは着信もメールもなく、少し拍子抜けしてしまったが、とりあえずメールぐらいすべきだろう。
昨日はごめん、と打って、すぐにいや違う、と消去する。いきなり謝罪では、疚しい事があったと認めるようなものだ。しかし、お手数かけました、でもない。そうやって「昨日は」で始まるフレーズをいくつも打っては消し続け、ついに陽介は観念した。だいたい自分はメールが苦手なのだ。仕事みたいに具体的な連絡事項があればまだいいけれど、こういうちょとしたご機嫌伺いになると、途端に頭が真っ白になる。親戚がらみの時はいつも紗代子に助けを求めて、気の利いたメッセージを考えてもらうのだが、相手が彼女ではどうしようもない。
いっそ直接話した方が早い気がして、陽介は紗代子の携帯を呼び出していた。まず最初は、今なにしてる?から始めて。そう段取りをつけたのに、通話はつながらなかった。電源オフ、または圏外。拍子抜けした執行猶予の気分を味わいながら、液晶画面をシャツの裾で拭う。「レジャーシートとクーラーボックス借りるね」というメモから察するに、彼女は友達とバーベキューにでも行ったのかもしれない。
まあいいか、夕方また電話してみよう。
とにかくまず食器を片づけて、一週間分の掃除でもして、品行方正に過ごそうではないか。
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かちん、とぶつかる感覚があって、陽介はトイレの床を拭く手を止めた。紗代子ご指定銘柄のトイレお掃除シートの下に、白いものが光っている。つまみ上げてみるとそれはピアスだった。五円玉の穴よりも一回り小さいパールで、裏の留め具がない。
まったく、女の人というのはどうしてわざわざ痛い思いをして身体に穴なんぞ空けて、こんなものを突き刺してみたり、足の指が曲がるようなハイヒールをはいたりするんだろう。そのくせ、生理痛がひどいからお薬買ってきて、とベッドの中から命令してきたりする。だったら痛いことなんて、最初から一つでも減らしておけばいいのに。
とにかく、このピアスをどこかに保管しなくてはならない。かなり潔癖症の紗代子だから、トイレの床に落ちていたものをそのまま身に着けるとは思えないが、水洗いしていいのかどうかもよく解らない。とりあえず洗面所に行き、キャビネットに置いてあるアクリルのピルケースに入れて蓋をすると、リビングのローテーブル、紗代子が残していったメモの上に載せた。
それからトイレ掃除を終えて風呂場に移動し、その後で一通り掃除機をかけてから玄関で靴を磨く。その時ふと、昨夜大野さんが脱ぎ散らかしていたパンプスの事を思い出した。
あのピアス、彼女のじゃないだろうか。
よく考えたら、紗代子は今までにピアスや何かを家の中で落とした事が一度もない。全てすっきり整理しているし、キッチンには水仕事の時に外した指輪を置くためのトレイがあるくらいなのだ。それに比べて、大野さんは昨日かなり酔っていたし、職場では書類紛失の常習犯。私物のボールペンもしょっちゅうあちこちに置き忘れている。
でも彼女、ピアスなんかしていたっけ。
大野さんの耳など、ふだん気にもかけていなかったので、どうもその点があいまいだが、ピアスはしていなかったような気がする。じゃあやっぱりあれは紗代子の持ち物か。陽介はそう自分を納得させると、艶を取り戻した革靴をシューズラックにのせた。さて、あと一日と半分、このビジネスシューズとはお別れして、スニーカーで気ままに歩き回ることができる。それは奇妙にわくわくする感覚だったが、同時にまた、三十を過ぎたというのに、ただの週末で何を浮かれてるんだろう、という少し醒めた意識も自分を見ていた。
とにかく、まずは自転車屋に行って、最近調子の悪かったブレーキの具合を見てもらって、それから買い替え候補を検討する。いつも「次のボーナスが出たら」と思うのだけれど、何だか言い出せないのと、もしかしたら半年後には値下がりしているかもしれないという、未練がましい理由で買い替えをためらっている。本音を言えば、今乗っているものを半ば衝動買いして帰宅した時の、紗代子の反応がまだ後をひいているのだ。
「やーだ、それだけ払ったら二泊三日で温泉旅行できるんじゃない?」
冗談めかした口調ではあったけれど、明らかに非難されていた。もちろん全て陽介の貯金から払ったのだけれど、それでもやはりまとまった金額の買い物をする時は、一言相談すべきだと釘をさされた。紗代子の賢さは、まず自分が率先してそのルールを実行してしまうところにある。通勤用のバッグ、スポーツジムのシューズ、圧力鍋。そんなものまで?というところまで「申告」されてしまうと、軽い気持ちで買い物なんてできなくなる。
家計は基本的に半々で出し合って、基本給が多い陽介が貯蓄に回す分と生命保険を負担していた。その残りがそれぞれの小遣いで、親類と友人関連の交際費も各自そこから負担するという取り決めになっていて、あとは自由にしていいはずだったのに、自転車事件からこの方どうもやりにくい。
まあ別にいいんだけど。
シャツとジーンズに着替え、スニーカーを履くと、一階の駐輪場に降りて自転車を出す。天気は相変わらず快晴、風は乾いていて、その気になったらどこまでも走っていけそうなサイクリング日和だ。タクシーを使う時の目印になる神崎橋を渡って、バス道路と並行している旧街道に入る。車二台がやっとすれ違える程の幅しかなくて、路上駐車も多いのでそんなに速度は出せないが、何といっても交通量と信号が少なく、懐かしさを感じさせる建物があちこちにあるのが気に入って、いつもこのルートを通って出かけた。
結局、今日も買い替え候補をじっくり見るだけ見て、陽介は自転車屋を後にした。部品を交換した後のブレーキはなかなかいい感じだし、これならまだしばらく乗ってもいいかという方向に自分を納得させられそうだった。けど、自転車なんて車に比べれば安いもんだし、他にとりたてて金のかかる趣味もないのに。
微妙に吹っ切れない気持ちを頭の中で転がしながら、ペダルを踏む。旧街道とバス道は今や川に隔てられていて、桜並木が続く対岸に比べて、こちらは何故かずっと柳が植わっている。道路もあまり整備されておらず、時折ガードレールが途切れている場所もあるのだけれど、それでも走りやすいことに変わりはない。しばらく行くと、醤油屋の蔵を改造した喫茶店が見えてきて、陽介はそこで自転車を停めた。
重い木のドアを押して中に入ると、ひどく薄暗く感じるが、それは一瞬のことだ。目が慣れてくると、天窓の真下、店の中央にあるテーブル席がまず浮かびあがり、それから奥にあるカウンターだとか、壁を覆い尽くすように並べられたレコードのコレクションなどが焦点を結び始める。
幸いあまり混雑していないので、陽介は二人掛けのテーブル席に座った。ここではいつも炭焼きコーヒーにシナモントーストと決めていて、ウエイターがメニューを差し出す前に注文を伝えると、入口のラックから拝借した雑誌を開く。会社の昼休みみたいに一時十分前に席を立つ必要もなく、ただのんびりと自分の時間を過ごせるのはなんという幸せだろう。学生時代には当たり前、むしろ持て余してさえいた「暇」というものを、今ではまるで高価なワインのように惜しみながら味わっている。
運ばれてきたシナモントーストは、いつも通りバターの塩味とメープルシロップが絶妙のバランスで、大きめのカップになみなみと注がれた炭焼きコーヒーは、一口や二口では少しも減らないように思える。開いた雑誌のページにはスイス製の高価な腕時計が並び、自分の預金通帳では見ることのない金額が添えられている。
店には週刊誌や新聞も置かれているが、陽介はいつもこの手の月刊誌を選んだ。紗代子が呼ぶところの「浮世離れ系」で、扱うジャンルはアウトドアだったり、建築だったり、エコツアーの似合う海外だったり、時計やカメラ、ナイフの類だったりする。確かにそれらが欠落したところで、陽介の日常生活に何の支障も来さないのではあるが、この世に存在することを確認すること自体が、何かを見失わないための目印のように思えるのだ。
女性のバッグだとか、アクセサリだって同じことじゃないか。極論を言えばキャンバス地のトートバッグを一つ持っていれば事足りそうなところを、着るものに合わせてだの何だの言って何種類も揃えたがるのは「浮世離れ」以外の何物でもない。しかし紗代子に言わせれば、バッグもアクセサリも、日々の生活に密着している実用的な必需品で、陽介の好む「浮世離れ系」は余暇に属する物事らしい。
まあ、彼女と何か論争するとほとんど勝ち目はないので、陽介はたいがい「まあそういう事にしとけばいいんじゃない?」というフレーズで、事態がヒートアップする前にはぐらかすことにしていた。
腕時計の特集に続く、ボルネオ島のトレッキングに関するページをめくったところで、ポケットに入れていた携帯が震えた。
紗代子からだ。
「ごめん、歯医者さん行ってたから電源切ってたの。何か用だった?」
そう言われても、咄嗟の事にさっき電話した理由が思い出せない。しばらく「えーっと、そうだよね」と間をつなぎながら、ようやく探し当てる。
「ピアス落としてない?パールの奴」
「ピアス?どうかしら。パールのって最近つけた記憶ないけど」
「とにかく、ピルケースに入れてテーブルに置いてるからさ、今度帰った時に見といて」
「わかった。用ってそれだけなの?」
「うん、まあそんなとこかな」と答えると一瞬の沈黙があり、紗代子は「了解」と短く返して通話を切った。陽介は携帯をポケットに戻し、コーヒーを二口ほど飲むと、残っていたシナモントーストを平らげた。そして雑誌をめくると、野生のオランウータンがバナナの葉を頭にかぶって雨宿りをしていた。その写真を見ているうちに、陽介は肝心な事を思い出した。
ピアスなんかじゃない、大野さんだ。昨日の夜、大野さんを家に上げてしまって、おまけに紗代子に車で送らせた事。
慌ててまた携帯を取り出したが、よく考えてみれば、紗代子もそれについて何も言わなかった。本気で怒っていたなら、「何か用だった?」などと悠長な切り出し方はしないだろう。多分、彼女の中で昨夜の事はもう終わっているのだ。だったら、この場でわざわざ蒸し返す方が却って言い訳がましいに違いない。そして携帯を再びポケットに戻そうとした時、それは息を吹き返して鳴り始めた。
やっぱり紗代子だ。自分からかけ直さなかった事を後悔しながら、陽介は「ごめん!言うの忘れてたけど、昨日のことは単なる偶然で」と、話を切り出した。少し間があったので、よしよし、これで向こうも出端をくじかれただろうと安心する。
「もしもし?あの、陽介?」
ためらいがちに、耳に入ってきたのは男の声だった。「あれ?誰?」と慌ててディスプレイを見ると、結城亨と出ている。
「ごめん、ちょっと間違えてた。久しぶり。どうした?」鏡を見なくても自分が赤面しているのが判る。しかし相手はこちらの間違いなど全く気にしていない様子で「今しゃべってて大丈夫?誰かと電話の途中?」と聞いてくる。
「いや大丈夫だよ」と言いながら、陽介は周囲を見た。音楽も控えめで静かな店だから、話が長引きそうなら移動する事も考えなくてはいけない。
「今、こっちに来てるんだ。時間あったら、ちょっと会えないかな」
市営の駐輪場に自転車を止めて、陽介は道路を隔てた敷地にある外資系のホテルに向かった。さして大きくはないけれど、周囲にある美術館や市民公園の緑地と釣り合いの取れた、瀟洒な印象のある建物だ。陽介と友人の亨が知り合った大学生の頃、この場所にはさびれた動物園があって、猿に狸に山羊といった地味な動物ばかりが飼われていた。そこを訪れたカップルは必ず三ヶ月以内に破局を迎えるという都市伝説のおかげもあってか、動物園は五年ほど前に閉鎖されて、昨年ようやくホテルに生まれ変わったのだ。
このホテルを紗代子はけっこう気に入っていて、友人とアフタヌーンティーを楽しみに来たりもしているらしいが、陽介は初めてだった。動物園時代から残っている銀杏並木を抜けて建物に入ると、ロビーに座っていた男が軽く手を上げて立ち上がった。
「よう、久しぶり」
懐かしさに思わず声を上げて歩み寄ると、向こうも「急に呼び出して、ごめん」と笑顔を見せた。
「いいとこ泊まってるんだなあ。出張っていえばうちの会社なんか、下手したらカプセルホテルだよ」
天井の高いロビーを見回し、それからあらためて旧友の姿を確かめる。学生時代は本当に毎日のように顔を会わせていたのに、亨が卒業して地元に帰ってからは数えるほどしか会っていない。最後に会ったのは一年半ほど前、共通の友人の結婚式だったけれど、その時よりも少し痩せたように感じる。
「今回は別に仕事ってわけじゃないんだ」と、亨は何だか他人事のように言う。確かに、Tシャツにジャケット、チノパンにスニーカーといった格好だ。
「悪いね、わざわざここまで来てもらって」
「いや、一度来てみたかったし、ちょうどいい運動になったよ」
電話をとった喫茶店からホテルまでは、自転車で半時間近くかかったけれど、この晴天だし、コースも交通量の少ない道路だったので全く苦にならなかった。
「ちょっとこの場所を離れられなくて。二階にコーヒーショップがあるんだけど、そこでいいかな」
そして二人は吹き抜けになっているロビーの階段を上がり、コーヒーショップに移動した。どうやらホテルでは結婚披露宴があったらしく、招待客らしき人々がいくつかのテーブルに分かれて談笑している。彼らはその集団から少し離れた、窓際の席に案内された。
「俺はコーヒーだな。陽介は?」と、亨はメニューも見ずに言う。
コーヒーはさっき飲んだところだし、自転車で走って喉も渇いたので、陽介はレモンスカッシュを選ぶ。ホテルならでは、ファミレスの三倍近い値段がついているけれど、まあそれも仕方ない。味にどれほどの違いがあるか、確かめてやろう。
「最近どうしてる?」
ウェイトレスに注文をすませると、亨は椅子に深くもたれ、あらためてこちらを見た。
「どうって、相変わらずかな」と、陽介は反射的に答える。「で、亨は?こっちに来たのは仕事じゃないにしても、何か用事があって?」
「用事っていえば、用事かな」
窓の外に視線を投げて言葉を途切れさせた彼を見ながら、陽介は妙に懐かしい気持ちになっていた。そう、夏休みだとか正月だとか、少し長い休みの後で顔を合わせると、亨はいつも人見知りの子供のように居心地が悪そうにしていて、今もまさにそんな感じだ。
沈黙が気まずいという仲でもないので、返事の続きを待ちながら、陽介も窓の外を眺めた。このホテルの周辺は昔の城跡なのだが、今それを物語るのは、ホテルを囲んでいる緑地の向こうに見える勾玉のような形の池だけで、城の外堀の名残と言われていた。そこから先が街の中心だが、陽介たちの住むマンションはそのまた外側の、新興住宅地にあるのだった。
そうしてぼんやり過ごすうちに、コーヒーとレモンスカッシュはテーブルに並べられた。陽介は早速一口飲んでみたが、ホテルのレモンスカッシュという奴は、そう甘くもなく、レモン本来の苦みが強く感じられた。これがファミレスの三倍という味か。しかし喉が渇いているので、その苦さが却って心地よいのも事実だった。
「相変わらず、子供みたいなもの頼むよなあ」
亨はふいに視線を窓の外からこちらへ向け、少し笑った。学生時代、彼はいつも陽介の食べ物や飲み物の好みを「ガキじゃあるまいし」と笑ったけれど、そういう自分もオムライスなどというお子様メニューを偏愛していた。
「たまたま、だよ。コーヒーはさっき飲んできたから」
「なるほど」と頷いて、亨は自分のコーヒーをブラックで飲んだ。それからまた外を見ると、「奥さん元気?」と尋ねた。
「うん」
紗代子がペクの世話でしばらく実家にいる事は、敢えて話すほどではないので言わずにおく。実際、元気なのだから嘘でもない。「そっちは?」と質問すると、亨は少しだけ眉を上げ、「別れた」と答えた。
「ああ、そう」
一瞬、何だかわけが判らず、適当な相槌をうってしまったけれど、その後でようやく言葉の意味が頭に入ってきた。
「あの、今日こっちに来たことと、離婚…したことと何か関係ある?」
別れた理由を問うのが普通かもしれないのに、何故だかそんな質問が出た。
「それはないかな。多分」と答えて、亨はまたコーヒーを飲んだ。
彼が結婚したのは二年ほど前だ。地元の同級生の紹介で知り合った女性と、半年ほどつきあって結婚を決めたと聞いたけれど、身内だけの簡単な挙式ですませたらしくて、写真すら見せてもらっていない。だからだろうか、別れたと言われても、今ひとつ実感がなかった。
元々、亨は必要以上に照れ屋なところがあって、こと自分の恋愛関係になると、仲の良い陽介にもほとんど語らなかった。一方の陽介は誰かを好きになると、人に話さずにいられない性分だった。今になって考えてみれば、亨もよく面倒くさがらずに彼の話につきあってくれたものだ。これって彼女、どういうつもりだと思う?どっちの映画を見ればいい?俺、何か悪いこと言ったかな?下宿に訪ねていっては、同じような事を夜中まで延々と語って、悩むというよりは人を恋する自分に酔いしれていたのだと今では思う。
そんな学生時代に比べると、紗代子と出会ってから結婚するまでの陽介はかなり冷静だったというか、自分が盛り上がる前に、現実が結婚という責任を引き連れて追いつき、追い抜いていった感じだった。
「何で、別れたの?」
陽介がようやくその質問をすると、亨は軽く口角だけ上げて無言のまま笑顔をつくった。
「あれかな、性格の不一致って奴?」
「まあね。人が二人いれば一致しない部分は色々とあるわけだし」
「そりゃそうだ」陽介は頷くと、あらためて亨の顔をよく見た。この前会った時はまだ別れていなかった筈だが、その時より今の方がどことなく余裕があるというか、飄々とした気配さえあるのは、解放されたという事なのだろうか。
「原因は一つじゃないな。色んな事が絡まりあって、気がついたらそれが離婚って文字に並んでた、みたいな感じかな」
そこでようやく、亨は身体の向きを変えて、陽介を正面から見た。
「そもそも俺は独りの頃から、仕事がかなり忙しかった。まあそう珍しい事じゃないよな。週に一日しか休みがなかったり、下手したらその休みも吹っ飛んだり、終電で帰ったり。営業なんて景気がよければ当然忙しいし、悪けりゃ悪いでどう売るかで忙しい。だからまあ、結婚したところで、家で過ごす時間なんてそんなになかったんだ。それに共働きだったし」
「それは仕方ないよな」
陽介は我が身を省みて、こっちはまだマシなのだと納得した。食品包装材の問屋で、地場産業に大口の顧客が何軒かあって、営業といってもルートセールス中心。週休二日は保証されているし、有給もすんなり取得できて、残業も遅くて九時頃までだ。文句があるのは基本給の安さとボーナスが夏冬合わせて二か月というところか。それでもこのご時世、出るだけでも有難いという事になる。
「でもさ、結婚して半年ほどしたら、向こうが仕事辞めるって言い出したんだ。引っ越したせいで、通勤時間が増えてキツいから、パートか派遣でのんびり働きたいって。俺も別に異存はなかったから、賛成したよ。でもその、次の仕事ってのがなかなか決まらなかったんだ」
「まあ、焦って変なところに入る必要もないだろうし」
「確かに。まあそんな感じで、向こうが家にいるようになったのと反比例する感じで、俺の方は忙しくなったんだよな。きっかけは支店長が変わったせいなんだけど、俺のいる部署が売り上げ悪いって目をつけられて、こっちもそれに反発してしまって、悪循環。わざと面倒な仕事ふられたりしてさ、毎日残業で、家に帰っても飯食って風呂入って寝るだけ」
「そりゃキツイいなあ」
「もちろん休みの日は昼まで寝てるし。そしたらある日、話があるって言われて」
「支店長に?」
「いや、嫁さん」
ずっと使っていた「向こう」という表現の代わりに、亨は初めてその言葉を使った。
「とにかく毎日会話がないのが辛いって言うんだ。自分はもっと和やかな、夫婦で一緒に色んなことをして楽しめる家庭がほしかったのに、あなたはいつも疲れていて、何を言っても上の空だ、みたいな事」
「でもその忙しさなら仕方ないよな?」
「そうなんだけど、残業なんて断ればいいんだとか、仕事と家庭とどっちが大事だ、なんて正論を持ち出されて。まあ喧嘩ってほどじゃないにしても、責められてることに変わりはない。とはいえ、見方を変えれば心配してくれてるって事でもあるし」
確かに、一緒に住んでいる相手がそれだけ仕事で消耗しているのを見たら、気がかりにはなるだろう。
「でもさ、俺としてはその心配のしかたが煩わしかったんだ。疲れて口をきくのも億劫って状態で家に帰ると、色々話しかけてくるし。その内容ってのが、テレビでこんな事やってたとか、友達がこんな事言ってたとか、正直なところ、どうでもいいような話ばっかりで。けど面と向かってそう言うわけにもいかないから、適当に相槌を打った結果が上の空につながるわけだ」
「まあね、女の人って自分ひとりがしゃべってても、こっちの相槌に気持ちが入ってないのをすぐに見抜くよな」
陽介もその辺りは身に覚えがあったのでよく判った。紗代子の「聞いてる?」に込められた、苛立ちと甘えが微妙に入り混じった感情。
「でもそうやって話しかけられるほど、こっちはもういい加減にしてくれという気持ちになるわけだ。そういう俺の態度は、向こうにしてみれば、私がこれだけ会話をしようと努力してるのに、何が気に食わなくてそこまで非協力的なの、って怒りの原因になる」
「怒るっていっても、こっちは仕事で疲れてるんだろ?」
「そう言い訳をすると、貴方の会社はどうかしてる、残業なんて断ればすむはずだ、なんて具合に、話は堂々巡りになるわけだ。それで俺は、向こうがあれこれうるさいのは、結局のところ時間と気力を持て余してるんだろうと思って、もう一度正社員で仕事を探した方がいいんじゃない?って言ったんだ。そしたら、私は身体が弱いから家事をしながらフルタイムなんてもう絶対に無理だって言うんだ。そしたらやっぱり、俺が残業や休日出勤を受け入れて働くしかないだろ?でもそうすると夫婦としての時間がないって話になる」
「うーん」と曖昧に答えて、陽介はレモンスカッシュを飲み干した。自分が亨の立場だったらどうするかと考えると、これはなかなか難しい。既にコーヒーを飲み終えていた亨は、汗をかいたグラスを手にすると水を飲んだ。
「で、そのまましばらく家も職場も鬱陶しい状態で続けてたんだけど、ちょっとした事で支店長とぶつかってさ、そのまま勢いで、辞めますって言ってしまった。本当に下らない事だよ、本社から役員が来るのに、派遣の女子社員を接待要員にするのしないのって。女子なら社員にもいるのに、派遣の子の方が可愛いからって、あからさま過ぎるんだよ」
陽介は思わず笑ってしまい、ごまかすように「亨ってそういうとこ、変な正義感あるよな」と付け加えた。
「だよなあ。家庭を大事にしない男がだよ、なんで職場でそういう事が気になるわけ?って」
自分も苦笑いしながら、亨はばつが悪い時の癖で、髪を何度かかき上げた。
「それでさ、家に帰って嫁さんに仕事辞めたって言ったら、黙りこんじゃって。こっちも色々気が立ってたから、これで家庭で過ごす時間が十分できたから本望だろ、なんて思ってたんだけど、朝になったら実家にさようなら。それからメールが来て、貴方は私に対する責任を果たす気がないって言われた。あとはもう向こうの親が出てきて、今までずっと娘に止められて黙っていたけど、とか何とか色々と罵られて、あっという間に離婚届に名前書いてたなあ。大した金額じゃないけど慰謝料も払ってさ」
「でもそれって、亨だけに非があるって話じゃないだろ?少なくとも、失業したから離婚というのは一方的過ぎると思うけど」
「かもしれない。でも俺も、早いとこすっきりしたかったんだ。向こうが慰謝料を欲しがったのは、次の結婚に向けての証拠づくりって部分もあるだろうし、そこは別に協力してあげてもいいかな、なんて」
「私が悪くて離婚したわけじゃありません、って事?」
陽介がそう問いかけると、亨は自分を納得させるように無言で頷いた。
「じゃあ今は充電期間中って事か。新しい仕事はもう探してるの?」
「いや、もう働いてるよ。東京に住んでるんだ。ちょっと普通の勤め人とは違うけど」と答えて、亨は背筋を伸ばし、視線を陽介の背後に投げた。
「あれが今の雇い主」
振り向くと、一人の女性がウェイトレスに導かれてこちらへと歩いてくるのが見えた。年の頃は二十代半ばぐらいだろうか、光沢のある深い藍色のワンピース姿で、しなやかな足取りで歩むたびに、小さな顔を縁取る豊かな髪が波打つように揺れた。
3
「本当にびっくりしちゃった。会うの何年ぶりかしら、高校時代の先生なの」
彼女は亨の隣に腰を下ろすなりそう言った。それからようやく陽介に気づいた様子で、「ごめんなさい、初めまして。私、義山澪って言います」と微笑んだ。上品な物腰だが、まだどことなく少女らしさを残した、憎めない感じの愛嬌がある。切れ長の大きな瞳と弓のようにはっきりとした眉が印象的で、陽介も自然と笑顔になって自己紹介していた。
「学生時代のお友達?亨さんってどんな人だったの?」
「さあ、ほとんど変わらないっていうべきか」と、口ごもりながら、陽介は彼女が「亨さん」という呼び方をしたのに面食らっていた。雇い主が二十代の女性で、ファーストネームで呼ばれているというのは一体何なんだろう。当の本人は平然としたまま「別に変わんないよな」と笑っている。
「私ね、ここのすごく地味な動物園の話を聞いて、面白そうだから来てみたいって思ったの。だから亨さんに連れてきてって頼んだんだけど」
「知らなかったんだよね、こんなホテルに生まれ変わってたなんて」
「仕方ないからお茶でも飲もうかって、とりあえず入ったんだけれど、知っている人に偶然会ったの。それが高校時代の先生で、あっちでしばらくお話していたのよ。姪御さんの披露宴だったんですって。あ、私、オレンジジュースをお願いします」
ウェイトレスにオーダーをして、澪は膝に置いていた小ぶりなバッグを開くと、鏡を取り出してちらりとのぞき、また戻した。髪をかき上げた時にのぞくピアスと、胸元に輝いているペンダントはどちらもダイヤらしく、その方面にうとい陽介にさえ、かなり高額なものだという事は判った。
「俺は一人で待ってるのも退屈なんで、陽介を呼び出したというわけ。ごめんな」
「いやまあ、久しぶりに会えたからそれはいいんだけど」
口ではそう言ってみたものの、陽介は事の展開について行けずにいた。
「元はといえば私のせいで来ていただいたんだから、お詫びに夕食をご馳走したいんだけれど、どうかしら。陽介さんは結婚してらっしゃるのよね。奥様もご一緒にどう?」
直接話題にしなかったものの、澪は陽介の結婚指輪を目に留めていたようだ。
「いや、彼女はちょっと他の予定が入ってるから、この週末はずっと別行動なんだ」
「そう、残念ね。じゃあ、この近くでどこかおいしいお店を紹介して下さる?亨さんの情報はちょっと古いみたいだから、お願いします」
「いいけど、義山さんはどういうのが好きなんですか?」
「澪でいいわよ。皆そう呼ぶもの。お店は陽介さんの好みで選んでね。お客様だから」
結局、学生時代に亨とよく行った居酒屋を選んだのは、ひとえに奢られるという遠慮からのことだった。それでも当時はバイト代が入った時だけ行く、少し上ランクの店だったのだが、この年になると十分庶民的に感じられる。とはいえ、澪のような女性はその店ではかなりの異分子で、周囲の視線は彼女の上で何度も交差していた。
しかしいったん酒が入ると、陽介は亨をとりまく何やら複雑そうな事情はどうでもよくなって、まるで昨日別れたばかりのように馬鹿話に花を咲かせてしまった。そして澪はそれに同意したり、質問したり、時には大笑いしながら楽しんでいるようだった。
その店で九時を少し回る頃まで過ごしてから、三人はタクシーで城跡にあるホテルに戻った。公園の市営駐輪場が十時で閉まるので、陽介は自転車を引き取ってそれからまた半時間ばかりかけてマンションに戻らなくてはならない。亨と澪はどうやらそのホテルに泊まるらしかったが、酔ってはいても何故か陽介は二人の関係について触れることができずじまいだった。
ホテルへのアプローチに入る手前、駐輪場への別れ道で陽介が先にタクシーを降りようとすると、澪が呼び止めてきた。
「陽介さん、明日の日曜はどういう予定?」
「明日?さあ、特に考えてないけど」
「私達と一緒に遊びに行かない?近くに芹ヶ池温泉ってあるでしょう?レンタカーであそこに行くつもりなの」
「そりゃ、構わないけど」
「じゃあ明日の朝、車を借りてから迎えに行くわ」
そう言って手を振る澪の隣で、亨は昔そうだったように「また明日」と一言だけ口にして軽く笑った。
翌朝、鳴り続ける携帯に起こされたのは八時を少し回った頃だった。亨からだったので「もう、朝早くからうるさいな」と、思い切りぞんざいな口調で出たら、小さく息を吸い込む響きがあって、それから澪の声が「やだ、起こしちゃった。ごめんなさい」と続いた。
「あ、いや別に大丈夫だから」と、取り繕いながら、陽介は大慌てで起き上がり、「昨日はどうもごちそうさまでした」と礼を言った。
「そんなの気にしなくていいけど、温泉の話、憶えてる?もうレンタカー借りちゃって、これから迎えに行くつもりだったの。でも気が変わったなら別に構わないわ」
「いや、大丈夫だよ。三十分あれば出られるから」
「そう?じゃあ三十分後に、どこだっけ、神崎橋?」
澪はどうやら陽介ではなく、亨に確認しているようで、ややあって「その橋のところで待ってるわ」と繰り返して通話は切れた。
そして陽介が急いで身支度と簡単な朝食を済ませて出かけてみると、マンションの名前にもなっている神崎橋のたもとに、シルバーのトヨタが停まっていた。意外にもハンドルを握っているのは澪で、太いフレームのサングラスでカチューシャのように髪を留め、こちらへ手を振っている。
「お早う。澪さんって、運転好きなの?」
車に乗り込んでそう声をかけると、助手席の亨は「好きなんてもんじゃないよな」と笑った。彼女は昨日とはうってかわって、白のTシャツに光沢のあるサックスのカーディガンを羽織り、下はジーンズ姿だ。サイドブレーキを外し、車を発進させながら「私、本当はマニュアルが好きなの。ちゃんと操縦してる感じがして楽しいじゃない?でもレンタカーはオートマばっかりだから仕方ないわ」と言った。
「へーえ」と陽介は感心するしかなかった。昔、一度だけ伯父が乗っているマニュアル車を運転させてもらった事があるが、正直いって面倒くさいとしか思わなかったのだ。
「彼女はスピードも出すし、今日はけっこうヒヤヒヤすると思うよ」
亨がそう言うと、澪は「私、街なかではちゃんと安全運転よ」と反論した。
「でも山道とかになると勢いがついてしまうの。あの、少しでも間違えると危ないようなところを、車と相談しながら攻めてくのが楽しいのよね。でもこういうオートマ車って、反応がよく判らなくて、学校の成績はいいけど、おしゃべりがつまらない人みたいな感じ」
確かに彼女は安全運転だし、加減速や車線変更がスムースで、若い女性というよりも、年季の入ったハイヤーか何かのような落ち着きがあった。しかしその優雅な運転も、山道に入り、一つ目の峠を越える頃には姿をひそめていて、どうやらこちらが彼女本来らしい、メリハリのきいた走りになってきた。そして事あるごとに「きゃあ」だの「行っちゃえ」だの言いながら、対向車をよけたり、速度を落とさずにカーブを曲がってみせたりした。更にその合間に「ここで猪なんか出てきたらよけきれないから、思い切りぶつかって、牡丹鍋にしちゃった方がいいかもしれないわね」などという話をする。余裕があるのかないのか判らなかった。
紅葉の季節にはまだしばらくあるせいか、道はそんなに混んでいなかった。途中であちこち休憩をしながら走って、山間にある小さな温泉町に着いたのは昼を少し過ぎた頃で、澪は車を停めると、孫を散歩させているらしい初老の女性に声をかけ、「この辺でお食事するのにお勧めの店ってありますか?」と尋ねた。陽介が呆気にとられていると、亨が「大体この調子。黙ってたらどんどん決めてくから、反対意見はお早目に」と、独り言のように呟いた。
「いや、却ってありがたいけど」
陽介はこういう時、いつもあれこれ迷った上にどうもベストでない選択をしてしまう事が多いので、自分で何も決めずに済むというのは気楽でいい。紗代子と遠出をしたりする時には、彼女がネットや何かで宿泊先から食事の場所、果ては人気の特産スイーツまで入念に下調べしてくれるので、自分は車さえ運転していればそれでよかった。
女性が勧めたのは、温泉町の中心部から少し離れたところにある老舗の旅館だった。昼食と日帰り入浴がセットというプランが人気らしくて、県外からもよく客が来るらしいが、やはりまだ紅葉前のためか、そんなに混雑していなかった。
陽介たちが通された広い座敷は、一階の奥にあったが、建物自体が急な坂の上に位置しているのでとても見晴らしがいい。窓から手を伸ばせば、外で枝を広げている楓に触れられそうだった。まだ青々とした葉を茂らせた梢の向こうには、この温泉地の名前の由来にもなった芹ヶ池という、大きな翡翠色の池が光っていた。
座敷には陽介たちの他にも何組かの客がいたが、賑やか過ぎるというほどでもなく、それぞれに料理を楽しんだり、食後の世間話に花を咲かせたりしていた。料理を待つ間に、澪は「ねえ、貸切露天風呂っていうのがあるらしいんだけど、亨さんと陽介さんも一緒にどう?」と、いきなり言い出した。
「いやいやいや、俺はいいです」と、陽介は即座に断ったが、亨は最初から真に受けていないのか、「男女三人なんて、貸してくれるわけないって」と流している。
「そうかしら」と、澪は釈然としない様子で、立ち上がると「聞いてみるわ」と座敷を出ていった。亨はその後ろ姿をしばらく見ていたが、ふいに陽介の方に視線を向けると「ふたりで一緒に入ってくれば?」と言った。
「えっ?」と陽介が思わず聞き返したところへ、亨は「冗談」と切り返して、にやりとした。それは学生時代によく見た笑顔で、陽介は照れも手伝って「ふざけんなよ」と苦笑いするしかなかった。
「俺は雇われてはいるけど、彼女のヒモってわけじゃないから」
亨は陽介の疑問を見透かした様子でそう言うと立ち上がり、低い窓枠に腰掛けると外を覗いた。じゃあお前は彼女の何なんだ、陽介はそうききたかったが、何故だかその一言がうまく出てこない。ただ曖昧に「うん」と答えて頷く事しかできずに、亨の横顔を見上げていた。
今まで一度だってつきあっている女の子を紹介された事なんてないし、話すら聞かされた事もない。見た目は学生時代に比べてそれなりに年をとって、落ち着いた感じになっているけれど、こと女性についての秘密主義は相変わらずで、結婚相手もよく知らずじまい。しだからこそ澪との関係は、私的なものを全く含まないという説明が成り立つのだろうか。しかし昨日、自身の離婚について打ち明けたのは、やはり彼も少し変わったという事の証かもしれない。
「残念、もう予約いっぱいなんだって」
気がつくと、澪が戻ってきていた。
「それはさ、変な客だから遠回しに断られてるんだよ」
亨がそう言って笑うと、澪は「でも、家族とか親戚って可能性もあるじゃない」と反論する。
「けど三人とも全然似てないし」
「そうかしら。少なくとも亨さんと陽介さんって似てるような気がするんだけど」
「似てないよな。陽介って三十過ぎても、夏休みの小学生みたいな顔してるし」
「この年で小学生はないだろ」と、陽介は一応否定したが、澪は「夏休み」という言葉に反応したらしく、「そうね、日焼けはしているけれど、それはやっぱり、よく自転車とかに乗っているから?」と真顔で聞いてきた。
「まあそれと、仕事が外回りだから、どうしてもね。亨は何やっても黒くならないんだよな」
「そう。俺は育ちがいいから」
梢の緑が反射しているせいか、亨の顔色は青白くさえ見えた。学生時代、よく冗談半分に女の子から羨ましがられていたけれど、今こうして澪と比べても見劣りしないほどに白い肌だ。澪はそんな彼をちらりと見て、「でも性格はやっぱり違うかしら。陽介さんの方が素直みたいね」と言った。
「どうだか。元祖、不条理の男」と笑いながら、亨は窓際を離れると澪の隣に腰を下ろした。
「こいつが何で陽介っていうか、聞いてみなよ」
「それはどういう事?」
もうほとんど定番のネタだが、そう言われると陽介はあるエピソードを披露しないわけにいかなかった。
「俺は八月一日に生まれたんだけど、すごい猛暑の年でさ、親父が出生届を出しに行った日なんて三十八度近かったんだ。で、親父は頭がぼーっとしちゃって、役場の窓口で決めてた名前が思い出せずに、アドリブで陽介にしちゃったんだ。その理由が、太陽がまぶしかったからって」
「そうなんだ!異邦人なのね」
「その、度忘れした名前ってのが、字画なんかも調べて、神社でちゃんとみてもらった奴だったから、母親がすごく怒ったらしいよ。だから俺って運が開けてなくて、中小企業の平社員どまりなんだよな」
「でも陽介っていい名前だと思うわ。それ以外に考えられないほど、ぴったり合ってる」
「多分問題はさ、名前うんぬんよりも、俺がそういう適当な男である親父の遺伝子を確実に受け継いでるって事なんだろうな。けどね、六年生の時に不思議な事があったんだ。亨にもこの話したことないと思うけど」
自分でも本当に忘れかけていたけれど、それは夏休みの最後の日だった。やっつけ仕事の自由研究で紙粘土の首長竜を作り、仕上げに絵具で色をつけていた時のことだ。手が滑って筆を落とし、下敷きにしていた新聞紙に緑色のしぶきが派手に散った。母にうるさく言われて、畳の上に渋々広げた新聞だったが、まさに間一髪。冷や汗もので筆を拾ったその先に、「小学生帰省先で水死」という小さな見出しがあった。
せっかくの夏休みなのにな、という、可哀相な気持ちと、その一方で事故に対する好奇心のようなものに誘われて、陽介は記事に目を走らせ、あっ、と思った。同じ六年生。しかも彼は自分と同じ高田という姓で、父がうっかりしていなければ届け出ていたはずの、あの名前だった。
「神主さんにちゃんと見てもらった、いい名前だったのに、度忘れしちゃうなんて」
父の呑気なエピソードが出る度に、母はそう残念がってみせたけれど、それが本当なら、この子の死は何を意味しているのだろう。一瞬、母をこの場に呼んで記事を見せようかと思ったけれど、それはしてはいけない事のような気がして、彼は手にしていた筆にたっぷりと絵具をつけると、その事故を深い緑色で封じ込めた。
いま思うと、両親はその記事を読んでいたに違いない。同じ年頃の子供の身に起きた不幸が、彼らの注意を惹かないはずがないからだ。そういえば、その頃を境に、母は命名エピソードを口にしなくなったような気がする。
「やっぱり陽介さんって運がいいのよ、きっと」
澪は真剣な顔つきでそう言うと、話をしている間に運ばれてきた料理を食べようと箸を手にした。その隣で頬杖をついていた亨は、「そう、こいつはいつも、一番おいしいとこを貰ってくんだ。それを全然自覚してないんだよな」と冗談めかして言った。
せっかく温泉に来たのだから、やはり食事の後は風呂に入ることにして、陽介たちはいったん澪と別れた。男湯は小学生を含めた先客が何組かいて、かなり賑やかだったが、二人ともそう長風呂をするわけでもなく、あっさりと出てきた。もちろんというべきか、澪はまだ戻っていなかったが、それは十分に予想できた事なので、陽介は時間つぶしのため、玄関脇にある土産物コーナーにふらりと入ってみた。
本当はよく冷えた缶ビールでも飲みたいところだが、帰り道は自分が運転すべきかもしれないと思って、代わりにスポーツドリンクを選んだ。それから、紗代子に何か買って帰ろうかと一周してみる。この辺りの特産らしい山菜の漬物、川魚の甘露煮、無添加のトマトジュース、よさそうなものは色々あるが、今一つ決定打に欠くような気もする。というか、どういうわけで今日こんな温泉に来ているのか、土産を買って帰るとそれを説明する羽目になるのも何だか面倒に思えてきた。
それに何より、紗代子は自分が選んだもの以外はあまり評価しない。人から何かもらっても、「ちょっと脂っこいのよね」とか「半分の量で味を二種類にした方がいいのに」といった批評は欠かさない。本人は「いただいて嬉しいのは本当よ。でも現実問題として改善すべき点はあるってこと」と言うけれど、彼女を百パーセント満足させるプレゼントをできるのは、陽介が知る限り、姉の有希子だけだった。決して口に出したりしないけれど、陽介が買ってきた品物についても、何か言うことがありそうだというのはうっすらと判るものだ。そしてそれはあまり楽しい事ではない。
結局、スポーツドリンクだけ買うと陽介は外に出て、木陰にある木のベンチに腰を下ろした。亨はどこへ行ったのかと辺りを見回すと、玄関の軒先を支える太い柱の陰に隠れるようにして携帯を操作していた。その表情はこちらからは見えないが、それでも暇つぶしといった様子でないのは判る。まあ、何だか知らないけれど、今の亨には色々と事情があるのかもしれない。
そして視線をそらすと、陽介はゆっくりとスポーツドリンクを飲み、心地よい秋の山風に身を任せた。いつも紗代子から言われるのだけれど、本当にぼーっとするのが得意なのだ。
「ヨガだとか座禅だとか、わざわざお金出してやる必要ないからいいわよね」というのが彼女の持論だった。
「別に嫌味で言ってるんじゃないわ。羨ましいんだもの。どうやったらそんなに何も考えずにいられるのかって」
確かに彼女は陽介から見ると、不必要なほどに神経質で繊細だ。しかしそれ位の感受性を具えて、相応の気働きができたなら、自分だってもう少しいい職にありつけたのではないかと思えてくる。要するに、紗代子から見ると自分は呆れるほどに呑気なのだろう。
「随分待った?」
長風呂を終え、玄関を出てきた澪はまず陽介を見つけたらしく、まっすぐこちらに向かってきた。湯上りの艶やかな頬は眩しい程で、ほとんど化粧をしていないのが、却って彼女本来の美しさを引き立てていた。
「いや、そんなに待ってないよ」と言いながら立ち上がると、彼女の声に気づいたらしい亨が、こちらへ歩いてくるのが見えた。彼が手にしていた携帯を少しだけ振ってみせると、そちらを向いていた澪は一瞬だけ表情を変えた。陽介がその意味をつかまえようとする内に、彼女はまた屈託のない様子に戻り、「じゃあ出発しましょうか。あんまりゆっくりしていると暗くなってしまうから」と言った。
澪はそれから、傍に来た亨の顔を見上げると、何も言わずその肘に少しだけ触れた。彼も無言のままちらりと視線を交差させ、彼女を振り切るように、先に立って歩き出した。
後を追った陽介が「帰りは俺が運転しようか?」と声をかけると、澪は振り向いて「ううん、私、山道が好きだから運転させて」と笑った。
4
何だか長い週末だった。
澪は帰り道もずっとハンドルを握り、疲れた様子も見せずに陽介を家まで送ってくれた。もう日はすっかり暮れていたが、がらんと静まり返ったマンションに戻って時計を見るとまだ六時前だった。夕食には早いし、もう風呂も入ったし、何だか手持無沙汰になって、陽介はリビングに腰を下ろすと、転がっているクッションをかき集めてそのまま横になった。
帰りの車でも、三人でとりとめのない馬鹿話をして、結局のところ亨がいま一体どんな仕事をしていて、澪とはどういう関係なのかを知るきっかけさえつかめなかった。でもまあいいか。別に俺には関係のない話だし。
目を閉じると、テレビの傍に置かれた時計が、その小さい身体に似合わない音で時を刻むのが聞こえてくる。それにかぶさるように、遠ざかるバイクのエンジン音と、マンションの誰かがこっそり飼っている室内犬の鳴き声と、キッチンで胴震いを始める冷蔵庫の音。
ほんの少しのつもりが、ずいぶんと深く眠った気がして、陽介は慌てて身体を起こした。
まさかもう月曜の朝ってわけじゃないよな。
幸い、置時計はまだ九時を少し回ったところだ。今から夕食を作るのも面倒だし、カップラーメンでも食べておこうかと立ち上がり、キッチンに向かった。冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出して少し飲み、更に目測で適当な量を片手鍋に注ぐと火にかける。それから流しの上にあるキャビネットを開き、買い置きのカップラーメンを取り出して蓋を開ける。まだ湯が沸くまでしばらくかかるので、リビングに戻ってテレビのスイッチを入れ、チャンネルを一通りザッピングしてから、バラエティ番組に合わせてキッチンに戻った。そしてラーメンに湯を注ぎ、生姜用のおろし金で蓋に重しをしてからトイレに行って、冷蔵庫から発泡酒の缶を取り出し、その場で少し飲んだあたりで準備完了。
陽介はいまだかつてカップラーメンを作るための時間を正確に測ったことがなかった。そんなものは大体の感覚でわかるし、固ければゆっくり食べていけばそのうち食べ頃になり、柔らかければ大急ぎでかきこめばいいだけの話である。そんな彼を見て紗代子はいつも、「メーカーの人が色々研究して、一番おいしいタイミングだから時間が決めてあるのに」と呆れていた。
一瞬でラーメンを食べ終え、発泡酒の残りを重さで確かめながらテレビのチャンネルを替えてみる。明日からまた出勤とはいえ、まだ時間はあるし、さしあたってやるべき用事もない。この前録画しておいた映画でも見ようか、だったらいつもは一本だけと決めている発泡酒をもう一本あけようか。我ながら小さな決断だが、陽介は残りの発泡酒を飲み干すと、空き缶とラーメンの残骸を持って立ち上がった。
そして再び腰を落ち着け、新しい缶を開けたところで、携帯の呼び出し音が耳に入った。さっきまで布団代わりにしていたクッションを次々とひっくり返し、それからキッチンのカウンターに置いたことを思い出して立ち上がる。手にしたディスプレイには亨の名前が出ていたが、今朝のこともあるから慎重に通話を始める。
「今日はあちこちつきあわせて悪かったな」という亨の声に少しほっとして、「こちらこそ。何かすっかりご馳走になっちゃって」と返す。結局のところ、昨日から今日にかけて、陽介はほとんど澪に奢られっぱなしで帰ってきたのだ。おまけに彼女が「奥さんにお土産どうかしら」などと言い出したので、しばらく別居状態という事情を説明してようやく納得してもらった。
「あのさ、すごく勝手なこと頼むけど」
亨はどうも外にいるらしくて、後ろから時々車のエンジンらしい雑音が聞こえる。
「陽介のとこに、澪を今夜泊めてもらえないかな」
「え?」何かの間違いかと思って、つい聞き返した自分の大声が静かな部屋に響く。
「まあ、泊めるっていうか、居させてもらえればそれでいいんだ。別に何も構う必要ないから。多分、朝までには出ていく」
「ていうか、お前は一緒じゃないって事?」
「ああ。でも迎えには行くから」
亨の声は昼間とはうって変って低く、尖っていた。一体何だっていうんだろう。でもそれを尋ねたところで、答が得られないことは明らかだ。陽介は「そうか」と言いながら時計に目をやった。まだ深夜というには早い、日曜の夜。
「判った。いいよ」と返事して電話を切り、それから手にしていた二本めの発泡酒を一気に飲んだ。
そろそろ十一時を回ろうかという頃になって、澪は一人で訪ねてきた。昼間と同じ、白のTシャツとジーンズにカーディガン。更に大振りなミントグリーンのストールを羽織っている。彼女を迎え入れようと開けたドアから流れ込む夜気は、鋭く冷えていた。
「本当にごめんなさいね」
澪はまっすぐに陽介の目を見上げてそう言うと、遠慮がちに中へ入ってきた。
「食事とかは済ませたの?」
とりあえずコーヒーでも淹れようと思って、陽介は彼女を居間に座らせると自分はキッチンに向かった。
「ええ、もう本当にお構いなく。ただここに居させてもらえればいいの」
それが一番困るというか、腑に落ちないんだけど。
コーヒーが入るまで、何だか間が悪くて陽介はじっとキッチンに立っていた。亨がいた時は別に何とも思わなかったのに、いざ一対一で向き合うとなったら、途端に何をどうしていいか判らなくなる。
陽介は自分が苛立っている事に気づいた。それは突如訪れた澪に対してというより、この場で如才なく振舞えない自分に対してだ。紗代子の実家に行くといつも生じる違和感にも似た、ここを離れて一人になりたいという衝動が、砂時計の砂みたいに積もってゆく。
「砂糖とか入れる?」
来客には結婚祝いに貰ったロイヤルコペンハーゲンのカップとソーサーを使うように紗代子から言われているのだが、もう面倒になって彼女のマグカップで澪にコーヒーを出した。彼女は「私はブラックが好きなの」と答え、それから「陽介さんは今からコーヒー飲んだりして眠れるの?」と尋ねた。
「うん、俺は基本的にすごく寝つきがいいんだ」
「だったらいいけど。もう私の事なんか気にしないで、寝てちょうだいね」
コーヒーの熱さを確かめるようにゆっくりと飲みながら、澪は「朝はいつも早いの?」と続けた。
「まあね。でも日曜の夜はけっこう遅くまで起きてるからなあ」
いくらなんでも彼女が現れた途端に、自分は寝室に引っ込むというわけにもいかない。しかし気を遣わせないためには、放っておいた方がいいんだろうか。そんな事を考えながら、陽介は黙々とコーヒーを飲み続けた。自分の住まいなのに、まるで澪がこの部屋の主人であるかのような気分がしてくる。
「奥さんが実家に帰ってるって言ったけれど、陽介さん一人でも全然散らかしてないのね」
「けっこう頻繁に抜き打ち検査が入るからね。車で三十分ほどのところだし」
「そうなの。でもこの部屋、とてもすっきりレイアウトしてあるから、片付けやすいんだと思うわ。奥さんってインテリアのセンスがいいのね」
「まあ、収納名人ではあるかな」
人に紗代子のことを褒められるのは、そう悪いものではない。そんなパートナーを選んだ自分の手柄のように思えてくるからだ。
「陽介さんも家のこと、お手伝いしてる?」
「勿論。やらないと殺される」と言うと、澪は楽しそうに笑った。
「澪さんは、明日は仕事とか大丈夫なの?」
無駄な質問かな、と思ったけれど、他に言うことも浮かばないので陽介はそう尋ねた。資産家令嬢の「家事手伝い」あたりが、やたらと気前よく奢ってくれる彼女の正体のように思える。しかし澪は「明日は、午後に事務所で人に会うだけだから」と答えた。
「事務所って、どういう仕事してるの?何かのフリーランス?」
なるほど、若くてお洒落で羽振りのいい女性であれば、当然それなりの仕事をしていてもおかしくはない。
「インターネットで有料の占いサイトを開いてるの。一応、私が経営者なんだけど」
「つまり、社長さん」
「肩書はそうなるわよね。でも本当に小さな会社よ」
「澪さんが自分で占ってるの?」
言われてみればそんな雰囲気がなくもない。しかし澪は「まさか」と一笑に付した。
「私にはそんな事できないわ。それに、占いを信じてるわけでもないし」
「でも仕事にはしている」
判るような判らないような。極端に言えば、下戸のバーテンダーみたいなものだろうか。「そうね。だって別に悪いものだとは思っていないから。ほんの一言だけでも、幸せに感じたりする時ってあるじゃない?だから、契約してる占い師さんは、前向きなアドバイスをする人だけよ」
「それは澪さんが自分で見つけてくるの?」
「そうね、人からの紹介とか。でも最終的には、私のこと見てもらって決めるの。事前に何も教えないでね。当たってるかどうかが問題じゃなくて、どんな事を言ってくれるかとかが大切かしら。だって本当に、みんな色々なこと言うんだから」
「なるほどね。俺は占いは苦手かな。でもそれは信じてないというよりは、占いに引きずられるタイプだから。初詣のおみくじとかも避けるんだよね。凶だったら嫌だから」
「初詣の時は、凶は出ないっていうわよ」
「じゃあ来年はチャレンジしてみるよ。でもその若さで経営者って、なんか凄いなあ。俺はもう雇われ人生に馴染んじゃって、独立なんて考えられないもの」
「まあ、うちはずっと会社を経営しているから、そんなに抵抗がなかったのかもしれないわ」
彼女が何気なく口にしたその言葉に、陽介は心の中で「社長令嬢!」と叫んでいた。しかも代々の資産家らしい。確かに言われてみれば、年齢にそぐわない落ち着きだとか、さりげない仕草の美しさだとか、身に着けているものの洗練のされ方だとか、納得する事ばかりだ。
「じゃあお父さんも喜んでるんじゃない?頼もしい後継者ができたって」
澪は口元に笑みを浮かべたまま、「だと嬉しいわ。でも父は中学生の頃に亡くなったの」と言った。
「それは…残念、というか」
その先をどう続けていいか判らずに、陽介は口ごもってしまったが、彼の気まずさを察したように、澪は軽い調子で「気にしないで。もう十年以上前の事だから」と話を続けた。
「じゃあ、お父さんの仕事は誰か親戚の人が継いだの?」
「親戚っていうか、今は私の夫が全て引き継いでるわ」
「え?澪さんて、結婚、してるの?」
一瞬、部屋が傾いたような感覚に見舞われながら、陽介は慌てて彼女の白い指に目を走らせたが、結婚指輪のあるべき場所には何もない。澪もその視線に気づいたようで、「そうね。指輪は別に必要ないからって、作らなかったのよ。私まだ高校生だったから」と笑った。
「高校生?でも、ええと」
つまり十代で結婚を急いだということは、いわゆるデキ婚というものだろうか、澪はそんな陽介の混乱を見透かしたように落ち着いた様子でコーヒーを飲み、「まあ、そんなに早くで結婚した理由は確かに、父が亡くなったせいね。親戚の中にも、仕事を継げる人がいなくて、だったら私が、ちゃんと会社を経営できる人と結婚すればいいっていう話になって、高校の二年生に上がる春休みに結婚したわ」
「ご主人は幾つだったの?」
「三十五歳。ちょうど今の陽介さんぐらいかしら。あの頃は随分年上の人っていう感じがしたわ。でもまあ、結婚っていっても、夫がうちに越してきて、私は名字もそのままだったし、同じ学校に通っていたし、クラブ活動もあったし。それに家の事はほとんどお手伝いさんがやってくれたから、特別に変わった事ってなかったわ」
いや、結婚って名字とか家事とか住む場所とか、その他にもする事があるんだけど。しかしとてもそんな質問ができる状況ではなかった。
「だから、父が受け継いでいた仕事は、今は私の夫がまとめて管理してるわ。とっても仕事熱心だし、頭のいい人よ」
「あの…澪さん、別に責めてるわけじゃないけど、結婚してるのにどうして家に帰らないの?」
正直なところ、どうして家に帰らずに亨とほっつき歩いているのか、と質問したいのだが、さすがに初対面に等しい相手にそこまで言えなかった。
「…さん?」
はっと我に返ると、澪が心配そうに顔を覗き込んでいる。
「大丈夫?疲れてるんでしょ?もう寝た方がいいわよ」
「あ、いや、澪さんが来る前にちょっとビール飲んでたから」
慌てて取り繕ったが、本当のところどれくらいぼんやりしていたか記憶がない。
「ごめんなさいね、つまらない話につきあわせて。私のことはいいから、もう休んで。明日は仕事なんだから。私、一人で過ごすのはけっこう得意なの」
澪に追い立てられるようにして、陽介は居間を出た。手洗いに行き、歯を磨いてからベッドに倒れこむ。腕を伸ばしてサイドテーブルの目覚ましをセットしてから、枕に頭を預けて目を閉じる。どうやら澪はテレビを消してしまったようで、マンションの中はしんと静まり返っていた。
ドアが閉まる気配に、陽介は目を開いた。目覚ましを手にとってライトのスイッチを押すと、四時五十分という時刻が浮かび上がる。低い声で誰かが話し、廊下を歩いてゆく。陽介は起き上がると、寝室のドアを開けた。
最初に目に入ったのは、亨の背中だった。昼間も着ていたジャケットは肩のあたりが雨に濡れていて、腕には澪の白い指が深く食い込んでいる。彼はすぐに陽介の方に向き直ったが、澪をその身体で庇うように移動させた。
「起こしてごめん。すぐ出ていくから」
「少し休んでいけば?」
「橋のところでタクシー待たせてるんだ」
澪は亨の肩ごしに目が合うと「陽介さん、今夜はどうもありがとう」と小さいがはっきりとした声で呼びかけた。そして靴を履くと後ろ手にドアを開いて、先に外へ出た。
「じゃあな。また連絡するよ」
亨はそれだけ言うと、軽く片手を上げると澪の後に続いた。
そう、彼はいつもこんな感じで、とてもあっさりと別れを告げて去ってゆく。陽介は目をしばたきながら玄関の鍵をかけると、寝室に戻ろうとした。しかしふと気が変わってリビングに向かう。明かりは消されていて、テーブルの上は片付き、クッション類は一か所にまとめられている。彼は深いブルーの遮光カーテンを脇に寄せると、窓を開けてベランダに出た。
外は闇に沈んで、空気は鋭く冷え、鉛色の空からは霧のような雨が静かに降りてくる。人通りは勿論、辺りを行き交う車もなく、昼間は街の喧騒にかき消されている川の水音が低く響くだけだ。その川を越えてバス道へと続く神崎橋のたもとに一台のタクシーが停まっているのを見つけると、陽介は雨に濡れたベランダの手摺から身を乗り出した。
渡る者のいない信号が赤から青へと二度めに変わったところで、街灯の青白い光の下に二つの人影が現れた。彼らは互いを支えるかのように身を寄せ合って、急ぎ足でタクシーに近づいた。先に女が乗って、男が続く。一瞬、彼はこちらを見上げたように思えたが、それを確かめる前にドアは閉まり、柔らかなエンジン音とともに赤いテールランプは橋の向こう側へと消えていった。
5
月曜、仕事を終えた陽介が帰宅すると、部屋には明かりが灯っていた。今日は酔っているわけでもないし、玄関に揃えられた靴を見ただけで、紗代子が戻っている事に気がついた。「ただいま」と声をかけてリビングのドアを開けると、彼女はキッチンで洗い物をしていた。職場から直接来たらしくて、カットソーにタイトスカートという通勤着だ。
「どしたの?」
鞄を床に置き、上着を脱ぎながら声をかけると、彼女はこちらに背を向けたまま「別に、自分の家にいて、どうしたもこうしたもないじゃない」と言った。あ、これはちょっと不機嫌のサインだな、と警戒しながら、陽介はいったん寝室へ退却し、服を着替えた。たいていの場合、こっちの質問に挑戦的な答えをしてくる時は何かあるのだ。まあとりあえず話があるなら聞いて、流して、必要ならば謝って、と、いつもの戦略を確認してから再登場。
紗代子もちょうどリビングにいて、空のタッパーをエコバッグに入れているところだった。よく見ればそれは、彼女が金曜に惣菜を入れてきたものだ。
「あれ、捨てちゃったの?まだ食べられたのに」
「私は週末の分として持ってきたの。もう月曜の夜よ。それに、全然手をつけてなかったじゃない」
「いや、それはちょっとあちこち出てたりして」
土曜は遅くまで寝ていて、それからはずっと亨と澪につきあっていて、今朝は寝坊して食事どころではなかった。明け方に亨たちが出て行った後でベッドに戻ったら、思いの他ぐっすり眠ってしまって、目覚ましも知らない間に止めていたので遅刻寸前だったのだ。
「冷蔵庫って過信しちゃ駄目なんだからね。この温度だと十分にばい菌は繁殖できるのよ」
そして彼女はローテーブルに載せた白い包みをこちらへ滑らせた。
「今夜はこれ食べれば?安売りしてたの」
中を覗くと、巻き寿司が何本か入っている。「太巻きと、サラダ巻と、葱トロ巻と、イカ紫蘇巻」紗代子は早口で言うと、「あと、これ、私のじゃないから」と言って、アクリルのピルケースをその傍に置いた。中にはパールのピアスが片方だけ入っている。
「ああ、それそれ、やっぱり大野さんのみたいだよ」
陽介はそして、今日の職場でのやりとりを思い出していた。
「大野さん、恒例の月曜欠勤でございますわよ」
西島さんは午後の会議の資料を手渡しながら、陽介に報告したが、それはまあ大して珍しい事ではなかった。大野さんはたいがい、三連休の翌日は何故か体調が悪くなって四連休になり、普通の週末については月に一度くらいの頻度で月曜に具合が悪くなるという「約束」になっていて、周囲も何となくそれを容認していた。「身体がお休みモードから戻らないんですよね」という主張のどこが間違っているのか、冷静に指摘するような暇は誰にもない。
「彼女がいないと、いい意味で静かだよな」と陽介が冗談めかして言うと、西島さんは「それ本人に直接言えばいいのに」と苦笑した。
「ねえ高田さん、奥さんにはちゃんと謝っといた?」
「謝るって?」
「聞いたわよ。金曜の帰り、大野さんがお家に上がりこんだら、奥さんと鉢合わせしちゃったって」
「ああ、吉岡の奴、もう喋ったのか」
週末に色々あったせいで、もう忘れかけていた金曜の飲み会の話だが、朝一番に吉岡から「あの後、どうしたんすか?」と聞かれて、正直に話したのだ。
「いきなりトイレに行きたいとか言い出して。彼女は酔っぱらうと本当に手におえないな。普段からかなり面倒くさいけど。でもさ、別にうちの奥さんは怒ってなかったから。ちゃんと彼女のこと、車で家まで送ってあげたし」
「それは社交辞令っていうか、高田さんの顔をたてて、後輩の前で物分りのいい妻を演じてくれただけでしょ?」
西島さんは「わかんないの?」とでも言いたげな、アヒルのような口元の笑顔をつくってみせると、「じゃあまだ謝ってないんだ。知らないわよ、どうなっても。私だったらそんなの我慢できないもんね。ま、だから離婚しちゃったんだけど」
これは彼女の持ちネタで、職場結婚した夫の浮気が原因で離婚、夫が退職しても自分はそのまま働き続けているという、開き直りのなせるわざだった。最近、取引先の課長と付き合っているらしいという噂も出ているけれど、職場で自分の現在の私生活を語ることは皆無に近い。
「そういえばさ、大野さんってピアスしてたかどうか知らないかな」
話の流れで、陽介はトイレに落ちていたパールピアスの事を思い出していた。
「ああ、してるわね。ていうか、高田さんにも延々と相談してたじゃない」
「そうだっけ?」
「ピアスの穴あけたら、失明するって本当ですか、とか大騒ぎしてたの、憶えてない?」
「さあ、彼女いつもそんな事言ってるから、いちいち記憶にないし」
「そっけない事。とにかく、お盆休みを使って穴はあけてたわよ」
「そうか、だったらやっぱりあのピアスは大野さんのだな」
陽介がそう言った途端、西島さんは目を大きく見開いて「やっだあ!」と叫んだ。
「奥さん留守って知ってて、トイレを口実に上り込んで、おまけにピアスまで落としていったんだ。大野さんも天然なんだか策士なんだか、怖いわよねえ」
「そん事を言うんだったら、彼女も一緒に連れて帰ってくれたらよかったのに」
陽介は少しうんざりしてそう答えた。全く、女の人ってどうしてこういう小さな事で延々と盛り上がっていられるのだろう。
「無理無理。だって彼女あの日みんなに、私、高田さんのマンションまでついてきますって宣言してたもの。まあ、どんな暮らしぶりか見てきて報告するつもりだったらしいわ」
陽介は呆気にとられてしまった。酔っていると思っていた大野さんが、そこまで周到に計画していたとは、ちょっと信じられない。
「じゃあ何、飲み会を企画した段階でそういう考えだったって事?」
「まあそうなんじゃない?」と意味深に笑いながら、西島さんは隣の吉岡の席に座り、彼がペーパーウェイト代わりに置いている、戦闘メカのフィギュアを手にとった。
「いいんじゃない?そういうのって、みんなに好かれてる証拠だと思うよ。ま、奥さんにしてみればいい迷惑でしょうけど。話きいてていつも思うんだけど、高田さんの奥さんってけっこう私に似たタイプじゃない?テキパキしてて、細かい事は言わなくて、愛想がよくて、誰とでもかなりうまくやれちゃう」
自分でよく言うなあ、と思いながらも、陽介は「人類を二つに分けたら同じ側に分類されるだろうな」と控えめなコメントをした。
「別に自分で買い被ってるわけじゃないのよ。むしろその逆。こういう一見サバサバしてる、略してイチサバ女子ってのはね、案外色々と溜め込んでおりますのよ」
「イチサバって言葉、初めて聞いた」
「だって今作ったんだもん。溜めてるのはね、感謝されなかったとか、謝罪をごまかされたとか、気づかないふりして面倒な事を押し付けられたとか、日ごろの些細なあれこれよ。ちなみに私はそれが爆発して別れたけど、奥さん大丈夫かしらね。高田さん、愛妻銀行での積み立ては、小まめに引き出しといたほうがいいわよ。でないと夫婦関係がバキッ・・・」と言いながら、西島さんはフィギュアの腕を左右から引っ張ったが、何がどうなったのか本当に右腕がとれてしまった。
「あーら、どうしましょ」
「知らないからね」
「ちょっと、こういうの直すのは男の仕事でしょ?」
「俺、プラモとか苦手なんだもの。素直に自首したら?吉岡も西島さんには面と向かって文句言えないだろうし」
「それって、陰であれこれ言われるって事?私、吉岡くんから煙たがられてるのはよくわかってるけど」と言いながら、とれた右腕をああでもないこうでもないとこねくり回している内に、それはまた唐突にぱちりと元の場所に収まった。
「何これ?そういうもんなの?」
「色々トランスフォームできるタイプなんだよ、きっと」
「高みの見物しといて、トラブルが収まった途端に、偉そうにレクチャーするなんて嫌よねえ。とにかく、バラけちゃった夫婦関係はそんなにうまく収まらないから、気をつけてね」
西島さんはフィギュアを注意深く元の場所に置くと、「愛妻銀行って利息いいのよ。半年複利で二十パーセントぐらい」と念押しして席を立った。
「本当に大野さんって、人の都合何も考えないんだからな。酔っぱらうと五割増しな感じだし。まあ憎めない性格ではあるけど」
「なるほどね。でも、これが私の持ち物だなんて、そもそもありえないから」
紗代子は妙に平坦な声でそう言うと、片方だけのパールピアスが入ったアクリルのピルケースをテーブルに置いた。
「ありえないって?」
「国産でもない安物の小粒真珠に金メッキの金具。高校生が初めてのバイトのお給料で買ったって感じ」
辛辣な言葉に似合わず、淡々とした声音のまま、紗代子は「私が持ってるアクセサリの中に、こんな安物なんか一つもないから。ちゃんと見ればわかるでしょ?」と続けた。
「いや、俺はそういうの本当によく判らないからなあ」
返答に行き詰って、曖昧にごまかそうとすると、紗代子は更に「陽介っていつも、俺には判らない、で終わらせようとするわよね」と続けた。こっそりとその表情を盗み見ると、まるで能面みたいに凍りついた感じで、これはかなり状況としては危険だ。
「ついでにもう一つ聞きたいことがあるの。この部屋にこんなものが落ちてたんですけど、大野さん以外にも誰か来たんじゃないの?」
そう言って紗代子がこちらに差し出したのは二つ折りにしたティッシュペーパーだった。質問を把握できないまま陽介が固まっていると、彼女はそれを開いて見せたが、そこには長い髪が一本だけ、何かの紋章に使われた蛇のように複雑な曲線を描いて挟まれていた。
紗代子はショートカットで、大野さんの髪は肩にかからない程度。その長くしなやかな髪は澪のものに違いなかった。未だにバンド活動から抜けられない男友達、やたら毛の長いペルシャ猫、冷凍マンモス。咄嗟にできる限りの言い訳を考えてみて、陽介はすぐにギブアップした。
「実は、友達からいきなり連絡があって、今こっち来てるから会えないか、なんてさ」
紗代子は表情を変えずにじっとこちらを見ている。
「まあ、俺が出かけて行ったんだけど、帰りにちょっとだけここに寄ったんだよ。で、そいつが女の人連れてたんで、たぶん彼女の、かな」
できる限り平静を装って、軽く、事もなげに。
「友達って、誰よ」
「亨。大学の時の友達。紗代子は会ったことないかな。地元に戻ってるし、俺たちの結婚式には来てないし」
「それって、結城さん…って人?」
「ああそう、結城亨。年賀状で憶えてる?」
紗代子は少し首を傾けると「うん、あと、結婚祝い貰ったじゃない。あなたもお祝い贈ってたでしょ?」と答えた。やっぱり彼女の記憶力は並じゃないと、半ば恐怖を交えて感心し、これをきっかけに話題をそらせることはできないかと考える。しかし紗代子はその隙も与えてくれなかった。
「で、問題ないって思ってるの?私はすごく嫌なんだけど。自分のいない間に、あなたの友達が奥さん連れでうちに上がりこんでたなんて。コーヒー出したんでしょ?しかも私の年季の入ったマグカップ使って。なんで来客用のカップ使ってくれなかったの?洗面所やトイレのタオルだって新品とってあるのに、出してくれてないじゃない。クッションカバーだって交換してないし、そこに古新聞と牛乳パック積んであるし、そんなみっともない家の中に、はいどうぞなんて友達を上げてほしくないのよ!」
話すうちに紗代子は段々と感情を昂ぶらせていった。いや、彼女の中ではもう十分に高まっていた怒りが、遂に外へと溢れ出してきたのだ。
「ここはあなた一人の部屋じゃない。私が管理してる家なの。私の許可なしに誰も入れてほしくないの、絶対」
しかし紗代子はここしばらく実家に帰っているし、それは彼女の都合だ。そしてこの家は陽介の住まいでもある。反論したい気持ちはあったが、そうしたところで事態は面倒になる一方だろう。陽介は仕方なく「ごめん、そういうの、よく判ってなくて」と謝罪した。
だが、「よく判ってなくて」と彼女は繰り返す。
「判らなかった、気付かなかった、で何でも済むから楽でいいわよね。私はもう、あなたが金曜に大野さんを連れてきた時点でうんざりしてたんだけど。そういうの指摘しても絶対に、それ位かまわないだろ、可哀相だし、なんて言うに決まってるんだもんね」
陽介はひたすら黙って、嵐が過ぎるのを待った。たまにこういう事はあるのだ、自分があれこれ想像力を働かせず、気ままに振舞いすぎるといきなり手綱を引かれる。もしかすると彼女、生理前かも知れないな、と自分に言い聞かせて、更なる失言を繰り返さないように沈黙を守る。紗代子もすぐに彼の戦略に気づいたのか、いったん言葉を切ると肩で大きく息をして、「食事すれば?」とだけ言ってキッチンに姿を消した。
何を洗っているのか知らないけれど、水の流れる音は絶え間なく続く。陽介は密かに、味噌汁でもあると嬉しいんだけど、と思いながら、紗代子が買って来たという寿司を頬張った。なかなか上等らしくて、鼻に抜ける海苔の香りが余韻を残す。こういう状況でなければもっと味わえるし、冷蔵庫まで行って発泡酒を取り出す事もできるのに、ただ黙々と食べることしかできない。
背後から聞こえ続ける水音を消してしまいたくて、陽介はテレビのスイッチを入れた。音量は低めにして、バラエティのお笑いタレント出身校めぐり、というのを見るふりをしつつ、キッチンの気配には注意を払い続ける。
そして少し多かったな、と思いながら寿司を全部平らげ、本気で何か飲みたいと思い始めた頃、紗代子がこちらに戻ってきた。手にはマグカップを二つ載せたトレイを持っている。
「飲む?」と差し出されたそれには、熱いほうじ茶が入れられていた。
「ありがと、おいしかったよ」と、少しあらたまって礼を言うと、紗代子はちらりとテーブルに小さくまとめられたゴミを見て、それから「やっぱりね」と呟いた。
「何が?」
「やっぱり一人で全部食べちゃった」
「え?でもさっき、食べれば?って言ったじゃないか」
「だからって一人で全部食べるの?私だって仕事帰りだし、夕ご飯食べたかどうかって、気にならなかったわけ?」
罠だ。完全に罠だ。陽介は何故食べる前に一言「紗代子は食べないの?」と尋ねなかったかと、己の馬鹿さ加減にうんざりしていた。別に今日が初めてというわけじゃない、彼女は時々こうやって、抜き打ちで自分を試すのだ。もう随分慣れたはずなのに、つい油断すると面倒なことになる。
「ごめん、今からコンビニで何か買ってくるよ」と、仕方なしに自分の非を認める。
「いい。向こうに帰ってから食べるから」
なんて、本当のところは最初からそのつもりだったに違いない。その後に続いた「あーあ、お腹すいたな」という一言には、さすがに陽介もカチンときた。
「だったらもっと沢山買ってくればいじゃないか。あんなのどう見ても一人分だよ。太巻きとサラダ巻は半分ずつだったし」
つい言ってしまってから、しまったと思ったが、もう遅い。紗代子は自分のマグカップを口元に近づけ、息を吹きかけて冷ましながら「じゃあ、少なければ全部ひとり占めしていいと思ってるの?」と揚げ足を取りにくる。
適性の全くない競技に強制的に参加させられている屈辱感をかみしめながら、陽介は憮然としてテレビの画面を睨んだ。都内屈指の名門女子高を卒業したという女芸人が、バニーガール姿で母校の門を突破しようとして、守衛に止められている。笑えないな、と胸の中でひとりごちながら、紗代子がもう見切りをつけて帰ってくれないかと願う自分がいる。いやしかし、帰るって言葉はおかしいんじゃないか?彼女も自分で使っていたけれど、だとしたらここが彼女の家だという主張はどうなるのだ。
何となくその矛盾を突きたいような、しかしここでほとぼりがさめるのを待つのが得策のような。ぐるぐると考えながらテレビを見ていると、紗代子が静かな声で「どんな人?」と尋ねた。
「え?」思わずそちらを見ると、彼女は妙に血の気のひいた顔で、マグカップに視線を落としている。
「誰のこと?」
「その、結城さんの奥さんって人」
不思議なもので、女性というのは男を気にしているようでいて、実際には同性の視線がすごく気になるらしい。多分今回のことも、紗代子はどんな女に自分の領土を値踏みされたかと苛立っているのだろう。
「ああ、すごくとっつきやすい、何も気にしてないような感じの人。うちの事、褒めてくれてたよ。奥さんのインテリアのセンスがいいって」
「そんなの社交辞令じゃない。わざわざ言うくらいだから、かなり細かくチェックしてたのね」
「そんな事ないと思うけど。でもさ、その人、結城…亨の奥さんってわけじゃないんだ。あいつ、離婚したんだってよ」
「離婚?」と言葉を切り、紗代子は口元に寄せかけたマグカップをテーブルに置いた。しめた。今度こそ話題を逸らせることができそうだ。
「何が原因だったの?」
そう聞かれると、陽介は考え込んでしまった。亨から一通りの話は聞いたものの、あの入り組んだ内容を一言でまとめる才能は自分にはない。かといって最初から最後まで話すと、紗代子から「やっぱり男の人って」という非難が飛び出すのは必至と思える。
「まあ要するに、性格の不一致って奴?」
「どういうところが?」
「そりゃ色々じゃない?」
「例えば?」
「いやそこまでは」と、陽介はつい笑ってしまったが、紗代子の表情はいたって真剣だった。
「男どうしってさ、そういう事あんまり詮索しないもの。もう済んじゃった事だし」
「人の経験から学ぼうとしないって事よね」と、紗代子は呆れたように溜息をついた。
「学ぶ?」
「そうよ。何がまずくて失敗したのか、それをきいておけば自分は同じミスをしないですむじゃない。経験値の共有って、男の人って仕事では重要だって言ってる割に、目の前にいい例があっても、俺には関係ないって見過ごすわよね。自分はそんなに馬鹿じゃないという自信があるんだ」
そっちこそ亨の事を何も知らないくせに。口に出したいのをこらえて、陽介は「どっちかっていうと、失敗というより必然って感じの離婚だからかな」と答えた。
亨の話を聞いた限りでは、離婚はむしろ正解だったように思えたのだ。会ったことはないけれど、彼と別れた妻は、どうも相性がよかったという印象がない。
「続けようっていう努力をしないから、離婚は必然なんて言葉が出てくるのよ。まあ、そういう人って自分で気づかない限り、同じことを繰り返すんでしょうけど」
紗代子は厳しい口調でそれだけ言うと、マグカップのほうじ茶を少し飲み、それから「じゃあ、一緒にここに来た女の人って何なの?離婚ってその人が原因じゃないの?」と尋ねた。
「それはないと思うよ。仕事関係の人らしかったし」
そう説明してみたものの、陽介自身もその回答に納得していなかった。今朝、夜明け前、この部屋に戻ってきた亨の腕に食い込んでいた澪の指。その瞬間に引き戻されそうになったところへ、「本気で信じてるんだ」という紗代子の言葉が鋭く刺さった。
「きっと結城さんって、あなたのそういうとこが気に入ってるのよね。何でも素直に信じちゃうとこ」
反論したいとは思うものの、何をどう言っていいかわからない。彼のそんな気持ちを知ってか知らずか、紗代子は「じゃあね。遅くなるから」と、バッグを肩にかけて立ち上がった。気をつけて、というのもわざとらしい感じがして、陽介は「うん」とだけ答えてその場を動かない。あれだけやり込められた後で、見送りも何もあったもんじゃない。ドアが閉まり、外から施錠する音が、一人のマンションに冷たく響いた。
6
「地雷ふんじゃったわけね」
西島さんは少しだけ小鼻をふくらませてそう言うと、空になったパスタの皿を脇へよけた。
「でもね、なんでわざわざ地雷埋めるような事するのか、理解できないんだけど。一日働いて、疲れて帰ってきたところに、巻き寿司なんかで試されたくないんだよ」
「奥さんにしてみればさ、それ位の事をされたっていう被害者意識があるのよ。それでまた、家に別の女の人の髪の毛が落ちてたなんて、私だったらもう、旦那が帰ってきた瞬間に跳び蹴り食らわせてる。奥さんが冷静な人でよかったわね」
「そうかな」と、陽介が椅子の背もたれに身体をあずけると、ウエイトレスが食後のコーヒーを運んできた。昼休みに時たま入るレストランで、ちょうど西島さんも一人で来ていたので、ついついこの前の紗代子とのやりとりを愚痴ってしまったのだが、しょせん女性は女性の味方だというやるせなさは消えない。
「俺としては、もっとこう、のんびり構えててほしいんだけど」
「何言ってんだか。多分ね、奥さんは気づいてることが十あったら、その中の九までは黙ってるわよ。だから指摘された事なんかきっと氷山の一角」
それが真実だとしたら、恐ろしすぎる。陽介はオリジナルブレンドの、少し酸味のきいたコーヒーを飲みながら、ほんの少し眉をしかめた。
店のテーブル席は全て埋まっていて、カウンターには少し空きが出てきた。慌ただしく食事だけ済ませていく客もいれば、コーヒーだけを飲みにくる客もいる。初老の夫婦二人で切り盛りしているこの店は古びているし、目新しいメニューがあるわけでもないけれど、値段も手頃で、あまり待たされなくて、まさにサラリーマンの味方という感じだ。
「ねえ、代休でもとって、奥さん誘って仲直りにどこか出かけてみれば?少し贅沢な温泉宿とか」
「でもそんな事したら、俺が悪うございましたって認めてるようなもんじゃない」
「高田さんって、損して得とれって言葉知らないの?営業でしょ?」
「まあ、言わんとするところは判るんだけど、俺、そこまで計算高くないし」
「そう言われると、こっちが計算づくの狡猾な人間だと思われてるみたいな感じ」
西島さんはあからさまに不機嫌そうな顔をつくってみせた。
「計算って言葉を使うから冷たい感じに聞こえるけど、相手の事考えてシミュレーションしてみるのって大事よ。計算しないなんて、かっこよく聞こえるけど、子供が気ままに振舞ってるのと変わらないじゃない。それで後から言い訳がついてくる分、大人の方が始末が悪いわ」
「別に西島さんの事をどうこう言ってるわけじゃないんだけど」
「わかってるって。私も別に高田さんの事を言うわけじゃないけど、人間関係が不器用なんです、って開き直ってる人の肩を持つ気にどうしてもなれないの。改善すべき点はいくつもあるのに、自分でそれを放棄しちゃって、辛いよう、なんて弱音を吐いたりするから」
「厳しいなあ」
陽介は空になったカップを置くと「じゃ、戻って会議の資料作るんで」と断って席を立った。西島さんは目だけで了解、という合図をして、バッグから取り出した文庫本を広げた。
外は曇り空で、天気予報では夕方から雨模様だと言っていた。なのに傘を持ってこなかったな、とぼんやり思いながら、陽介は会社に向かって歩き始めた。紗代子に色々と文句を言われたあの夜からもう十日ほどになる。直後の週末は職場の友人と出かけるから、という事で現れなかったし、その後は何度か陽介の帰宅前を狙ってマンションに戻り、冷蔵庫に惣菜を補充し、親戚からもらった焼き菓子や何かを置いていった。
そういった、一見かいがいしく感じられることが、何だか妙に事務的というか、別の地雷のようで、陽介を複雑な気持ちにさせた。それでも「おかずありがとう」と短いメールを送り、向こうからは「作り過ぎちゃったから」といった、これまたあっさりとした返事が来るのだった。
やっぱり俺がちゃんと謝るのを待ってるんだろうか。
何だかそれも悔しいというか、自分がどうしてそこまで損な役回りを引き受ける必要があるのか納得できない。まあしかし、紗代子の両親が東京から帰ってくるのも来週あたりだし、彼女とまた一緒に生活するようになったら、少しずつ元通りになっていけるかもしれない。そもそも、すべてのトラブルは紗代子が実家に帰ってしまった事に起因しているのだから。
月に二回の定例会議は滞りなく進んで、四時過ぎに終わった。今日はこのあと月間予定表を作って、新規の取引先に出す見積りをまとめるだけだから定時で帰れそうだ。ちらりと腕時計を見て、それから会議机に広げていた資料をファイルに入れようと揃えていると、上司の岡本部長に声をかけられた。
「高田くんと、あと吉岡くん、ちょっと残って」
何だろう。一人おいた席にいた吉岡の顔を覗き見ると、彼もけげんそうな顔をしている。他の営業社員がぞろぞろと出て行く流れに逆らうようにして、部長は陽介たちのところに歩み寄ると、「君ら、パケスポに出張行ってくれへんかな」と言った。
「パケスポって、あの、見本市ですか?」どうやら岡本部長が言っているのは、毎年東京で行われる包装材の総合見本市、通称パケスポの事らしい。
「でもパケスポには三課の上原さんが行くって聞きましたけど」と、吉岡が少し面倒くさそうに尋ねる。
「まあ、そやってんけど、あいつはちょっと退職することになってな」と、部長は角ばった顎を掌で何度かさすった。
「退職?全然聞いてませんけど?」
「そらそやろ、わしかて今日聞いたとこやで。まだ正式に退職願いも出しとらへんけど、どうも実家戻って仕事を継ぎたいらしいわ」
「上原さんちって、豆腐屋だったっけ。もう親父の代でつぶす、なんて言ってたはずだけど」
陽介は出張の事よりも、二年先輩の上原の身の振り方のほうが気になった。早くに結婚しているから、今年小学校に上がった女の子が一人いるけれど、奥さんは賛成しているんだろうか。
「上原さんちが豆腐屋でもラーメン屋でもいいですけど、なんで代わりが俺たちなんですか?」と、吉岡は尚も不服そうだ。
「まあ、次代を担うホープっちゅう事やな。特に高田くん、君はそろそろ本気出していかんとあかんで。一昨年にパケスポ行ったんが初めてやろ?あの時のレポートはホンマに、遠足の感想文かと思たわ。今度は金魚のフンを卒業して、自分で商品見つけてきてバンバン売らんと」
「はあ」と、一応しおらしい返事はしてみたが、内心おだやかでない。後輩の吉岡の前でそんな事を言われた日には面目丸つぶれではないか。
「吉岡くんも、のんびりやってたらあかんで」
「了解っす」
「ほなそういう事で、OK牧場やな」と、岡本部長は一人で話をまとめ、「ワシのスマホ、誰か見てへんか~」と叫びながら会議室を出ていった。その背中に向かって吉岡は小声で「ありえねぇっす。面倒くさ」と毒づいた。
「なんで俺たちがいきなり出張なんすか。パケスポって来週でしょ?俺、マジでスケジュール満杯なんですけど。断れないっすかね」
「一度ぐらい行っといて損はないと思うけどな。それにまあ、多分日帰りだろうし」
「だから嫌なんすよ。朝早いし、夜遅いし、手当は出ないし。見本市なんか行かなくても、情報ぐらいつかめるのに、昭和の近江商人はこれだから面倒なんすよ」
いつまでたっても関西弁の抜けない岡本部長は、生まれ故郷の滋賀にひっかけて「近江商人」と呼ばれていた。面倒見はいいのだが、反面、自分の価値観を押し付けてくるところがあり、吉岡のように他人の干渉を嫌うタイプには、鬱陶しいとしか感じられないらしい。
「断るんだったら自分で部長に言えよ」
あれこれ愚痴ってはいても、さすがに吉岡もそこまではしないだろう。彼は文句を言う割に、卒なく仕事を片づけたりする器用なところがある。陽介は一足先に会議室を出ると三課に向かった。
パーティションから顔だけ出して部屋を覗いてみると、上原はもう自分の席に戻っている。陽介はそのまま中に入ると「上原さん」と声をかけて近づいた。彼は顔を上げると
「もしかして、岡本部長から話聞いた?」と、人懐こい笑顔を浮かべた。
「うん。代わりにパケスポ行ってこいって」
「ごめんな」
「退職の話は本当ですか?家業継ぐって」
「本当。予定では二月頃のつもりだったんだけど、ちょっと母親が体調崩しちゃって、前倒しにしたんだ。来月いっぱいで辞めるよ」
陽介は頷くと、隣の席に腰を下ろした。
「いつかは会社やめて、豆腐屋さんを継ぐつもりでいたんですか?」
「いや、親父の代でおしまいにすればいいと思ってたんだけど、ここで働いてて、あちこち客先に行くと、小さい店でも皆けっこう頑張ってるじゃない。そういうの見るうちに、俺もやるだけやってみようかな、なんてね」
「男ならやっぱり、一国一城の主って感じ?」
「まあねえ。それにさ、知らない仕事じゃないもの。高校まではけっこう手伝ってたし、今ならまだ親父も元気だから、ちゃんと教わることもできるかなって」
そう言って少し神妙な顔つきになった上原はしかし、豆腐屋というよりは、アパレル系のバイヤーという雰囲気を漂わせている。細身のシルエットのスーツがよく似合っていて、デスクの上にさりげなく転がっている文具類も、彼なりのセンスで選んだらしい、一味違うものばかりだ。
「奥さんとか、黙って賛成してくれたんですか?」
「いや、ちょっと、騙された感じね、とは言われたけど。でもまあ、俺の実家の方が子育てには環境いいからね。ただ、転校を進級に合わせたいっていうんで、三月までは俺だけが先にUターン」
陽介は思わず「へーえ」と声をあげてしまった。ありえない事だけれど、自分が兼業農家の実家を継ぐと言い出したら、紗代子はどんな反応をするだろう。
「パケスポの入館証とかはさ、こっちで変更の手続きやっとくから。あと、俺はついでに行きたいところがあったからホテル押さえてたんだけど、高田は日帰り?期間中はあの辺のホテルは全部埋まるから、泊まるんだったら俺の予約をそのまま使えばいいよ。いらないんだったらもうキャンセルするけど」
そう言いながら、上原は抽斗を開けてファイルを取り出した。
「これがパケスポ関係の資料。もう渡しとく。うちの取引先には付箋つけてあるから、挨拶だけはしといて。青い付箋は俺がちょっと注目してるとこ」
差し出されたファイルを受け取り、中をざっと見てみる。正直いって見本市なんて、軽く見て回って、取引先にちょっと挨拶して、あとは適当にレポート書いて、と思っていたが、上原は下準備からしてスタンスが違う。岡本部長に前回のレポートを「遠足の感想文」と言われたのも致し方ないか、という気がしてきた。
「何だか勿体ないなあ。上原さん、来年あたり係長狙えるんじゃないかって噂だったのに」
「そんなの単なる噂。本当ならもっと引き留められてるから」
「理由が理由だからでしょ。じゃ、ホテルの予約の件はちょっと考えさせてもらっていいですか?」
「了解」と頷く上原に軽く頭を下げて、陽介は三課を後にした。退職の噂はすぐに広がるだろうし、彼は女子社員にファンが多いから、きっと大きな騒ぎになるだろう。もし自分が同じように突然辞めるとして、どんな感じかな、とついつい想像してしまう。
その日の帰り道、ふだんより一本早い帰りのバスで、珍しく座れたのをいいことに、陽介は手帳を開いていた。思えば何だか奇妙な一ヶ月だった。単純に独身時代に戻って、気楽な暮らしを満喫するつもりだったのに、あれやこれやで紗代子との仲はぎくしゃくしたままだ。しかしまあ、彼女が戻ってきていつもの生活が再開したら、全て何事もなかったかのように流れ出すんじゃないだろうか。そのためにも、自分が不在にしている間に紗代子が戻ってくれている、というのが一番無難なリセットの方法に思える。
来週のうちに紗代子の両親が帰ってきて、次の週末が自分の出張。正確には金曜だけの日帰りだが、上原がおさえているホテルに二泊すれば、紗代子が戻って全てが元通りになった我が家に、「あー疲れた。やっぱり東京は人が多くて」などと言いながら帰宅できるわけだ。
さりげなくその方向に話をもっていこうと考えながら、陽介はメールを打った。
再来週、金土日と出張が入りました。入れ違いで申し訳ない。掃除はこの週末にちゃんとやっときます。
これくらい殊勝なところを見せておけば、向こうも納得してくれるだろう。送信完了したところでちょうど、次は神崎橋、というアナウンスが流れた。
バスを降り、少し遠回りをしてコンビニで牛乳を買う。今日は時間があるので、週刊誌でも買おうかと品定めをしていると、携帯が鳴った。紗代子からだ。
「お疲れ。さっきのメール見てくれた?」
向こうもちょうど仕事を終えて帰宅した頃だろうか。しかし紗代子の声は予想外に低く緊張していた。
「見たけど、私ちょっと、当分そっちには戻れないから」
半時間ほど前に降りだした雨は激しくはないものの、あちこちに水たまりを作り始めていた。このあたりは街灯が少ないので、注意していないとまともに足を突っ込んでしまう。陽介は少し立ち止まると、スピードも落とさずに直進してきた自転車をやり過ごした。軽く溜息をつき、路地を曲がって二軒目の家のインターホンを押す。
「はい」という返答があり、陽介はドアが開くまでの間に傘をたたんで軽く振った。この場所に立つ時はいつも、正体のわからない居心地の悪さを感じる。できればこのまま帰りたい、いつだってそう思うのだけれど、そんな事ができるわけもない。
「雨なのにわざわざ、ごめんね」
ドアを開けた紗代子はそう言いながら来客用のスリッパを出した。これがまた、陽介にとって違和感の源でもある。スリッパなどというものはトイレにしかなくて、あとはどこでもぺたぺたとそのまま歩き回るのが、彼の実家でのやり方で、紗代子にとっては「ちょっとだけ気持ち悪い」環境なのだ。
「晩ごはんは?」
「コンビニでおにぎり買って食べたよ」と答えて、陽介は広い玄関に上がった。彼らのマンションに比べるとほぼ倍のスペースがあって、紗代子の父親が撮った北アルプスの写真パネルがその正面で来客を出迎える。下駄箱の上には義母が十年来続けているという、パッチワークキルトが飾ってあった。
紗代子の後について廊下を抜け、居間に入ろうとすると、その気配を察して、ペクがソファを飛び降りてこちらに駆け寄ってきた。コーギーと柴犬あたりの雑種らしい、短足で大きな耳が愛嬌のある中型犬だ。
「よう、久しぶり」と頭を軽く撫でてやると、彼は申し訳程度にぴろぴろと尻尾を振ってみせてから、再びソファの上に戻った。あっさりした挨拶はもう老犬といえる年齢のせいではなく、数年前に陽介が初めてこの家を訪れた時から、ペクのこの「尊大」ともいえる態度は変わらない。ペクにとっての陽介は、ピラミッドの最下層に位置するからだ。
まず一番上にいるのが、本来の飼い主である紗代子。それから現在、毎日世話をしている義母、次が週に何度か散歩を担当する義父、それからたまに帰省してくる義姉の有希子。その下に来るのはペク自身で、そのまた下に陽介が存在するらしいのだ。義姉の有希子に至っては、ペクを飼い始めた時から東京住まいだったし、陽介の方がずっと頻繁に会っているはずなのに、このピラミッドは揺らぐことがない。
「俺のこと、まだ覚えてるみたいだな」と、多少の皮肉も交えながら、陽介はペクのいない方のソファに腰を下ろした。ジーンズの裾が少し雨に濡れているが、じきに乾くだろう。紗代子はキッチンに準備していたらしいポットとカップをのせたトレイを運んでくると、テーブルに置き、「ごめんね、ちょっとコーヒー切らしちゃって」と紅茶を注いだ。陽介はその間、脇に置いてあった夕刊を手にしてみたけれど、一面だけちらりと見て元に戻した。
ほんの一時間ほど前、紗代子は電話でいきなり、義理の両親が帰ってきても実家から戻ることはできないと言い出して、その理由をペクが病気だから、と説明した。しかし陽介にはどうも納得がいかず、こうして訪ねてきたのだけれど、どう見てもペクはお盆に会った時と同じくらい元気そうだ。
紗代子はキッチンに戻ると焼き菓子を盛り合わせたガラスの器を運んできて、「よかったら食べて。香奈ちゃんからの内祝い」と勧めた。香奈ちゃんは紗代子の従妹で、たしか先月出産したんだっけ、と思いながら、陽介はマドレーヌをひとつ手にとった。
紗代子は何も言わずにペクの隣に座ると、ロールケーキに似たその黄褐色の背中をゆっくりと撫でている。テレビは消されていて、二人して無言でいると外の雨音が家に浸み込むように響いてくる。何だか喉につかえるなあ、と思いながらマドレーヌを食べ終わると紅茶を一口飲み、陽介は意を決して「ペクはどこが悪いの?」と質問した。
紗代子はその手をペクの背中にのせたまましばらく黙っていたが、「肝臓にね、腫瘍があるんだって」とだけ言った。当のペクは関係ない、といった風情で、頭を下げると揃えた前足の上にのせた。
「なんでわかったの?」
「昨日ね、散歩から帰ってきてブラシかけてたら、なんだかお腹のあたりが張ってるような気がして。心配だから今日、会社を早退して獣医さんに行ったの。そうしたら」
そこまで言って、紗代子は急に言葉に詰まると、手を伸ばしてテーブルに置かれたティッシュペーパーを一枚とった。
「かなり大きいです、もう手術も無理ですっ…て」
もう後は言葉にならず、紗代子はあふれてきた涙をティッシュで押さえた。するといきなり、うずくまっていたペクが起き上がり、首を伸ばすと薄い舌でその涙をしきりになめた。しかしそのしぐさが却って紗代子を悲しませるらしく、涙は次々にこぼれるのだった。陽介は何も言えず、ただ彼女が落ち着くのを待った。
正直なところ、紗代子がここまで感情を露にして泣くのを見るのは初めてだった。自分の結婚式では泣くどころか、その場にいた誰よりも冷静だった彼女だ。一緒に映画を見に行って、ちょっと感動したりだとか、喧嘩がエスカレートしての悔し涙だとか、そんなものは何度か記憶にあるが、それとはレベルが違う感じだ。
半時間ちかく、あるいは五分と経たないうち。とにかく陽介にとって永遠とも思える時間の後に、紗代子はようやく気を鎮めると、再びペクの背中を撫でながら「ごめんね、私、まだ気持ちの整理がつかなくて」と言った。
「そりゃ、今日言われたばっかりだもの、仕方ないよ。でもまあ、ペク自身は辛くなさそうに見えるけど」
「そう。それだけが救い。けど獣医さんが言うには、もうそんなに長くないだろうって。早くて一月とか、持って半年ぐらいとか」
「手術が無理でも、犬用の抗癌剤とか、そういうのは使えないわけ?」
「もちろん聞いてみたけど、この大きさじゃもう無理ですって言われた。私、なんでこんなになるまで気づいてあげられなかったんだろうって、本当に自分が許せなくて」
「でも紗代子が悪いんじゃないいよ。一緒に住んでなかったんだから仕方ない」
「だから許せないのよ。自分の犬なのに、結婚したからって置いて出ちゃって、それで病気になったのに気づきませんでしたなんて、最低だわ」
また気が昂ぶってきたらしく、紗代子はティッシュをもう一枚とると目頭を押さえた。まあ確かに、結婚する時にペクと離れるのは嫌だからと、この家での同居を提案された事はある。あからさまに反対はしなかったけれど、たかが犬のために?と陽介が思ったのは事実で、代わりに借家を探してみたけれど、薄給の自分にふさわしい物件はなかった。そうこうするうちに義姉の有希子が助け舟を出してくれて、二人だけでマンションを借りて住むことができたのだ。
「だからね、私、ペクのことは最後までちゃんと面倒見てあげたいの。ずっとここで、ついていてあげたいのよ」
「そのために、お義父さんたちがこの家に帰ってきても、うちに戻らないってこと?」と念を押すと、紗代子は黙って頷いた。傍にいるペクは「もちろん」とでも言いたげにこちらを見ている。
「でもさ、お義父さんたちだってペクのことはずっと可愛がってくれてたし、これからもちゃんと面倒は見てくれるだろ?必要なら土日に会いにくるとかで十分じゃないのかな」
紗代子の言い分では、両親にまかせっきりにしていたから病気に気づくのが遅れた、という事だから、自分の説得には明らかに穴がある。しかし陽介にはそれ以上うまい言葉が見つからなかった。案の定、紗代子はすぐに反論してきた。
「獣医さんは、これからだんだん、ごはん食べる量が減ってきたりするかもしれないって言ったわ。その分の栄養は点滴で補ってあげるしかないの。だから、必要なら毎日でも病院に行かなくちゃならないし、いつ容体が急変するかもわからないから、ずっとついててあげないと」
「けど仕事もあるし、それは少し難しいんじゃない?」
「仕事は辞める」
短く、きっぱりと、紗代子はそう宣言すると、ちょうど身体を起こしたペクの首に腕を回した。
「お金の事なら心配しないで。ペクの病院の分は全部私の貯金から出すし、あっちのマンションの家賃とか光熱費は今まで通り払うわ」
「いや、それは別に」と言ってはみたものの、いらない、とは言えない自分がいる。正直なところ、紗代子の収入なしであそこに住むというのはけっこう厳しい。
「それより、仕事は続けておいた方がいいと思うんだけど」
「いいの、どうせ子供ができたら辞めるつもりだったし」
「でもさ、また次に正社員の仕事さがすの大変じゃない?」
「いまはそんな先の心配してる場合じゃないわ。私にはとにかくペクが大事なの。残された時間を、ペクがどれだけ幸せに過ごせるかが問題なの。仕事辞めて次がどうこうとか、そんなの大した事じゃない。だってペクは、ペクだけが、私のことを本当にわかってくれてる、百パーセントの味方だから。ペクがいなくなっちゃったら、私どうして生きていけばいいかわからない。それが本当に怖いのよ」
「…そう」としか言えず、陽介は冷めてしまった紅茶を口に含んだ。余命いくばくもない、と宣告されたペクには気の毒だけれど、たかが犬、という感覚はどうしても拭えない。
陽介の実家でも犬を飼っていたことはある。それはペットというよりも番犬という役割で、ペクのように室内飼いではなくて、昼も夜も納屋の前につながれていた。そんな具合だから、餌も下手をしたら冷や飯に残り物のおかず、というのが定番で、多少元気がなくても寝れば治ることになっていた。怪我をすれば水道で洗って庭先のアロエをなすりつけ、獣医にかかるのは予防注射の時ぐらいだった。
そんな事を考えていると、目の前でソファにふんぞり返っているペクに対して、何やら嫉妬めいた気持ちすら湧いてくる。自分を一番わかってくれているだとか、百パーセントの味方だとか、紗代子が本来そう思うべきなのは夫である陽介のはずなのに、何がどうなってこの犬なんだろう。
ペクは陽介の心中を察したかのように立ち上がると、軽く一声吠えてソファを飛び降り、部屋の隅に置かれたケージの脇にあるボウルから水を飲んだ。紗代子はその姿を、まるでわが子を見守る母親のような目つきで追いかけている。陽介は思い切って口を開いた。
「あのさ、紗代子も今はまだかなり気持ちが混乱してるんじゃないかな。だから、お義父さん達が帰ってきたら、ゆっくり話をして、それからどうするか決めた方がいいと思うんだけど」
「それって、私は陽介のところに帰るべきだって事?」
「いや、そう断定してるわけじゃないけど」
「無理よ。いまペクを置いてくことなんかできない」
「でもちょっと変じゃない?特別な問題もないのに、その、ずっと別居状態ってのは」
何でこんなに言いにくいんだろう。ただ単に、夫婦だから一緒に住むのは当然という話がしたいだけなのに。
「問題はあるじゃない。ペクの病気は大問題よ。もしかしたら陽介にとっては些細な事かもしれないけど」と、紗代子の言葉にはあからさまに棘があった。
「一緒に住むべきっていうなら、あなたがこっちに来ればいいじゃない。空いてる部屋はあるんだし、最初からそうすればどうかって何度も言ったよね。そうすれば貯金もできるからって。もし、陽介が一人でいるのが色々と不便だって言うなら、ここに住むことで全部解決できるはずよ。少なくとも、女手が二人分もあるんだから」
そういう事が言いたいんじゃない。
陽介は何だか自分が犬になったような気がしてきた。気持ちを伝えようにも人間に通じる言葉が使えない。口から出るのは空回りする鳴き声だけだ。一方、本物の犬であるペクは、水を飲み終えて満足そうな顔つきになり、ケージの前を何度か往復してから中にもぐりこんで丸くなった。
「とにかく、今日はもう帰るよ」
なるべく不機嫌そうな声にならないように注意しながら、陽介は立ち上がった。紗代子が「車で送るわ」と言ったが、「ペクについててやりなよ。まだバスはあるから」と断った。もしかしてその言葉が、不必要に皮肉っぽくなかったかと、言った途端に気になり出して、あとはもう「またメールするよ」とだけ付け加えて玄関に向かった。
7
「じゃ、お疲れさまっす」
吉岡は軽く手を挙げると、後も振り返らずに地下鉄の階段を駆け下りていった。明日は朝からサバイバルゲームに出かけるらしいが、やっぱり二十代は元気だな、と思いながら陽介はポケットからコインロッカーのキーを取り出した。朝、彼と駅で待ち合わせして、新幹線で東京に出てきて、終日ここの見本市会場を回って過ごしたのだ。
後輩を連れているという緊張感もあるし、何より岡本部長から発破をかけられた事もあって、自分としてはかなり気合を入れて下準備もしたし、それを十分に生かせるよう、効率よく動けたという達成感はある。あとはこれをうまく報告書にまとめられるかどうかだが、結局のところ、その辺りの文章力が問題なのだ。
同じように見本市会場を後にする人々の流れにのり、陽介も地下鉄の階段をに足を踏み出す。仕事に集中していたり、誰かと一緒だと忘れているけれど、一人になるとどうしても、この前の紗代子の言葉が思い出されてきて、迷路に閉じ込められたような息苦しさがのしかかってくる。
ペクだけが、私のことを本当にわかってくれてる、百パーセントの味方だから。
その言葉に何の反論もできずに帰ってきてしまったけれど、あれからいくら考えても、紗代子を説得する方法は見つからない。気持ちだけは胸の内側に溜り続けて圧力を増しているというのに、それを言葉に変換して外に出すことができないのだ。
駅の階段を降りきって、通路沿いにあるコインロッカーからキャリーバッグを出す。それからチケットを買うと改札を抜けて、長いエスカレーターでホームに降りる。人はかなり多いが、移動はほんの三駅だからまあ楽なものだろう。陽介は携帯を取り出すと、ホテルへの道順を確かめた。
あの日紗代子に、病気になったペクの面倒を見るために退職すると言われて、まっさきに頭に浮かんだのは、その少し前に亨から聞いた彼の離婚の顛末だった。妻が仕事を辞めて、その辺りから少しずつ何かがずれていった結婚生活。下手をすると自分も同じような展開を迎えそうな気がして、すぐに電話を入れてしまった。そして、何気ないふりをして出張のついでに会えないかと誘ったのだ。彼はこの前の礼ができるから、と快諾してくれたが、できれば土曜にしてもらえるとありがたい、と言った。いずれにしろ、陽介には妻のいない家に急いで帰る必要はないし、上原はホテルを二泊で押さえていたので、別に不都合はなかった。
地下鉄で三駅移動しただけなのに、そこにあるのは見本市会場周辺の無機的な景観とは対照的な、混沌に近い街並みだった。年季の入ったオフィスビルに混じって、ドラッグストアや定食屋、ファストフードにクイックマッサージ、ありとあらゆる業種の看板が入り乱れ、日暮れの早い秋の宵闇を蹴散らすように光を放っている。
山間部の農村で育ち、大学は地方都市で、卒業後そのまま就職してしまった彼にとって、東京は全くの別世界だ。仕事で年に一、二回は来るけれど、物珍しかったのも最初のうちだけで、最近はただ用のある場所だけを回ってさっさと引き上げることが多い。東京でなければ買えないものなんて大して興味はないし、むしろこの、人の多さと雑然としたところがどうも落ち着かない。紗代子の姉の有希子は大学からずっと東京暮らしだが、本当のところ、嫌になったりしないのかと疑問にすら思う。
そう、有希子だ。
陽介は腕時計で時間を確かめると、キャリーバッグを引いて足早に歩いた。駅を出てすぐの道を脇に入ったところに、予約しているビジネスホテルはあった。信じられないほどに間口が狭いが、どうやら奥にむかって細長い形らしく、簡単なチェックインをすませて五階に上がると、けっこうな数の客室が並んでいた。部屋に入り、ベッドに腰を下ろすと、携帯電話を取り出して有希子の番号を選ぶ。
「どうも、お久しぶり!もっと早くに連絡くれてたら、鹿肉があったんだけどね。あ、陽介くんは山間部出身だからジビエなんて珍しくもないか。ねえ、ワインどっちがいい?オーストラリアとチリだけど、馬鹿にしたもんじゃないのよ。こないだホームパーティーで目隠しで飲み比べしたら、ブルゴーニュの上にランクインしたんだから」
歯切れのいい言葉が間断なく続き、陽介には返事をする余裕もない。有希子は赤ワインのハーフボトルを両手にそれぞれ持ってテーブルの傍まで来ると、「どっちにする?」と尋ねた。しかし陽介にはその区別もろくにつかなかった。
「あ、もうどっちでも。有希子さんのお勧めの方で」
「そうお?じゃあチリ。値段きいたら安くてびっくりするぐらい、コクがあって切れもいいわよ」
そして彼女は再びカウンターキッチンの向こうへ姿を消したが、その勢いのある声だけは途切れることがない。
「本当に紗代子が色々と迷惑かけてるみたいで、ごめんなさいね。陽介くん、家庭料理に飢えてるだろうって、強引にうちにご招待しちゃったけど、本当はイタリアンとかお寿司屋さんの方がよかった?」
「いえ、こっちの方がいいです。俺、外ではあんまり寛げないんで」
それは陽介の本音だった。この出張を利用して、紗代子との事を少し相談したいと連絡はしたものの、有希子の趣味で選ぶ外食の店となるとかなりの本格派で、以前遊びに来た時に連れていかれたフレンチレストランなど、他の客は白人ばかり。おまけにモデル顔負けに美形のギャルソンがテーブルにつく始末で、却って気疲れしてしまった。だからといって自分にも払えそうなランクの店を選ぶと、有希子はスタッフにお構いなく「何?この百均で揃えたみたいな食器」だとか、「あら、この野菜は冷凍よね」などと口にするのでこれまた落ち着かない。
「だからといって何も特別なものは出せないんだけど」と、有希子は言うが、テーブルには様々な料理が並んでいた。温野菜のミモザサラダ、厚切りのローストビーフにサワークリームを添えたベイクドポテト、煮込んだ玉葱の冷製、チーズとハムの盛り合わせに、きのこのマリネ。家庭料理、というよりはケータリングサービスのような献立だ。
「十分すぎるほど豪華ですけど」
「まあ身内なんだし、お世辞はいいからさ」と言いながら、有希子は栓を抜いたチリワインのハーフボトルを片手に戻ってくると、それを二つ並べてあったワイングラスの片方に注いだ。それからボトルをテーブルの脇にあるワゴンに置かれたワインクーラーに沈める。
「お付き合いできなくて申し訳ないわね」と一言告げると、彼女は既にワインクーラーに入っていたペリエのボトルを引き上げて雫を拭い、封を切った。
「あれ?飲まないんですか?」
「うん。聞いてない?」と、空のグラスにペリエを注ぎながら、有希子は妹の紗代子によく似た角度で首を傾け、口元に笑みを浮かべた。
「え、聞いてない、ですけど」
「そっか。私ね、ようやく妊娠したの」
「あ?え?あ、そうなんですか?」
突然の事に陽介はうろたえるしかなかった。紗代子は勿論、ついこのあいだ有希子のところから帰ってきたという義理の両親からも何も聞いていない。判っていればこのややこしい時に押し掛けたりしなかったのに。しかしこの場に来る事は彼らには内緒だったから、怨み言を浴びせるのは筋違いというものだった。
「じゃ、久々の再会を祝して」
有希子は自分も腰を下ろし、ペリエのグラスを持ち上げる。陽介も慌ててワイングラスを手にすると「おめでとうございます」と、ようやく祝いの言葉を口にした。
「さ、遠慮なく食べてね。私、悪阻はもう収まったけど、今もちょっと味覚がずれてる感じなのよね。味が変だったら適当に塩とか使ってね」
「いや、すごくおいしいです」
それは別にお世辞というわけでもなく、どの料理も長い一日で知らない間に疲れていた身体に沁みるようにおいしかったし、お勧めのチリワインはその味を一層引き立ててくれた。彼女も働いているのに、その後でこれだけの料理でもてなしてくれるのは有難いとしか言いようがない。
「予定日って、いつなんですか?」
「四月のあたま。三月だと早生まれで色々大変だから、それまでねばってほしいと思ってるんだけど。おまけにさあ、双子なのよ」
「へえ、二倍おめでたいですね」
「そう簡単に言うけど、どうかしらね。まあ、誘発剤打ってたから仕方ないんだけど」
「誘発剤?」
「うん。排卵誘発剤。聞いてない?私がずっと不妊治療してたの」
「いや、全然」
そんなの聞いたこともない。おまけに陽介は不妊治療というものが具体的にどういうものかよく知らなかった。
「ま、要するに排卵を促す注射を打つわけだけど、結果として、どうしても多胎妊娠が増えちゃうわけ。まだ三つ子や四つ子じゃなくて助かったって思わなきゃね。それに体外受精までいかずにすんだんだし、まだまだラッキーだわ」
悪阻どころかお腹の双子の分まで食べてしまう勢いで、有希子はサラダを口に運んでいたが、陽介は排卵だの受精だのという単語を何のてらいもなく言ってのける彼女に少々たじろいでいた。
「孝太郎さんも喜んでるでしょ?」と、さりげなく話題を義兄の方に逸らすと、「ある意味、私より嬉しがってるかもね」という答えが返ってきた。
「出張からはいつ戻る予定なんですか?」
「実は仕事はもう終わってるのよね。そのまま向こうで有給使って、アルプスでトレッキングしてるのよ。木曜の朝に戻ってくる予定」
何というか、全てにおいて想像のつかないハイクラスな生活だと半ば呆れて、陽介は「それはいいですね」と相槌をうった。
「まあ、双子が生まれたらそれどころじゃないから、今のうちに遊んどけば?って、勧めたのは私なんだけど。でも彼がいなくてちょうどよかったわ。紗代子の話だからね」
有希子はちゃんと話の本題を気に留めていて、グラスに残っていたペリエを飲み干すと軽く溜息をついた。
「で、あの子まだ陽介くんのところには戻らないって言ってるの?」
「まあ、あらためて聞いてもないんですけど、何も言ってこないし」
あの日、ペクの看病を最後まで続けるために実家に残ると宣言されてから、陽介は紗代子と再びその事を話し合わないままで過ごしてきた。あまりしつこく言うと却って逆効果かと思ったのもあるが、もう一つの理由は、紗代子が本当に退職願いを出してしまったせいだった。
あれからすぐに義理の両親が有希子のところから戻ったので、とりあえずペクの世話をする人手はあるし、有給休暇の消化を含めて、実質半月ほどの出社で紗代子は引き継ぎやマニュアル作成など、退職の段取りを進めているらしかった。
義母は陽介が出勤している間に、土産のお菓子をマンションの宅配ボックスに入れていった。お礼の電話をすると「色々と不自由させてごめんなさいねえ。もう言い出したらきかない子なんで、私達も逆らえないのよ」と、開き直りともとれる事を言った。「お父さんも、陽介君に失礼じゃないかって、私と二人の時は怒ってるんだけどね、やっぱり紗代子にはいい顔しちゃうのよね。本当に申し訳ないわ」
そう言ってころころと笑われると、本気なのか冗談なのか判断しかねるが、とにかく義父だけでも少しは自分の気持ちをわかってくれていると思いたかった。
「まあね、紗代子は言い出すと聞かないからね」
義母と同じ事を言うと、有希子はペーパーナプキンで口元を押さえ、それから陽介のグラスにワインを注ぎ足した。
「他の理由なら、私も何とかして紗代子に戻るように説得するんだけど、ペクがそんな病気ってなると難しいわね。それに陽介君はもう、我慢するしかしょうがないかっ、て気持ちになってるでしょ」
「え?」
「言わなくてもそれくらいは判るわよ」と言って有希子は立ち上がり、キッチンに姿を消した。確かに、と陽介は思う。もうこの状況は変えようがないし、なんだかんだ言ってもペクの寿命が長くてあと半年というなら、単身赴任でもしたつもりで我慢するしかないと自分に言い聞かせつつあったのだ。
「だってね、最初に陽介君に会った時から私、紗代子にはこの人しかいないって思ったのよ」
キッチンから有希子の声と、何やら香ばしい匂いが漂ってくる。ややあって彼女はラザニアの皿を持って戻ってきた。あちこちが焦げたチーズはまるで生き物のように盛り上がっては湯気を吹き出して、次々と弾けてゆく。彼女はサーバーでそれをとり分けると、小皿に盛って陽介の前に置いた。
「さ、熱いうちにどうぞ。私最近ね、どうした事かチーズがおいしくて仕方ないの。このままの割合で行ったら、出産までに十五キロは増えてる計算になるわ」
それが妊婦として適正な体重なのかどうか、陽介にはいまひとつ判らなかったが、黙って頷くと熱々のラザニアを口に運ぶ。濃厚なラグーと溶けたチーズの組み合わせは、抗いようもなくワインの量を増やしてゆく。それでも酔っぱらってしまわないようにと、陽介は自分に言い聞かせていた。
「まあ、体重の話はおいといて。陽介くんってさ、人間関係のもめごとは基本的に回避する性格でしょ?本当はそれなりに思うところもあるんだけど、あれこれややこしい話をするくらいなら、自分が折れて収めちゃえって感じ」
「そうかもしれない、ですね」
「そんなに珍しい事じゃないわ。男の人って、知ってることを話すのは得意でも、思ってることを話すのが苦手ってタイプが多いもの。でもさ、そこで不機嫌になったり、手が出たりしそうにないのが陽介くんの長所なんだな」
有希子は自分で自分の意見に賛成するように何度か頷くと、陽介の皿にラザニアを追加した。
「とにかく穏やかで我慢強いのよね。かといって何考えてるんだか判らないってほど無口でもなくて、ちゃんと会話が成り立つ。ユーモアのセンスもあるし、仕事も真面目にこなせる」
「別にどれも大したことじゃないと思いますけど」
大げさにおだて上げられ、居心地が悪くなってきた陽介は、冷静になろうと部屋の中を見回した。清潔で広々としたダイニングルーム。テーブルと四脚の椅子は、飛騨の家具職人が手掛けたものらしくて、吸いつくような座り心地だ。カウンターキッチンはすっきりと片付いていて、必要最低限のものしか出ていない。反対側のリビングにはイタリア製の皮張りソファが置かれ、大画面の液晶テレビの脇に飾ってあるのは、義兄の孝太郎が趣味で集めているウルトラ怪獣たちの精密なフィギュアだ。この分譲マンションにはまだ他に、ウォークインクローゼット付きの寝室と、夫婦それぞれの書斎と、生まれてくる子供たちのための部屋があり、ベランダは二人分のデッキチェアとパラソルを並べて置けるほどだった。
マンションといえばせいぜい3DKぐらいしか見たことがなかったので、初めてここを訪れた時には、その広さに本当に驚いたものだし、同世代の夫婦としてここまで収入が違うものかと圧倒されるしかなかった。賃貸に住む自分たちは、ダイニングテーブルもソファも諦めて、フローリングの床にローテーブルという生活をしているけれど、有希子からはままごとみたいに見えることだろう。
ともあれ、この豊かな暮らしを生み出しているのは有希子とその夫、孝太郎の人並み外れた才能と努力なのだから、凡人の自分がどうこう言う筋合いのものではない。その有希子にここまで持ち上げられるというのは、やはり何とも言えず奇妙な感じがするのだった。
「紗代子ってああ見えてけっこう難しい子だからね。いくら仕事が立派で収入がよくても、少しでも性格がきつい旦那さんだと絶対にうまくいかないと思ってたの。それこそペクじゃないけど、いつも機嫌よく、穏やかにじっとあの子のそばにいてくれる人がいいってね。だから陽介くんの事を紹介された時は、ビンゴ!って思っちゃった」
「それは有難いです」と言ってはみたものの、「ペクじゃないけど」というフレーズは嫌でもひっかかる。
「紗代子はね、陽介くんがどれだけ大切な人か、まだ自覚できてないのよ。そばにいてくれて、自分の言うこときいてくれるのが当たり前、ぐらいに考えてるんじゃないかな。だから、ずっと実家に帰っていても、黙って待っててくれると信じてるの。それで怒ったりするはずがないと思ってるのよ」
「いや、俺は別に怒ってるわけじゃないですけど」
「あら、怒って当然のシチュエーションだと思うけどね。私が紗代子だったら、悪いけどペクは両親に任せるし、どうしても看病が難しかったら安楽死って選択も考えるわ」
平然とその言葉を口にした有希子の顔を、陽介は一瞬だがまじまじと見つめてしまった。そう、彼女はとても聡明だし、社交的で思いやりもある。けれど時として、自分にはちょっとできないような冷酷さで物事を判断する。多分、頭脳が明晰すぎるせいではないかと思うのだが、とにかくそんな時の有希子はどこか別の惑星から来た人間のような印象を与えた。
「夫婦ってさ、好きなもの同士が一緒にいるんだから、うまくいかないはずがないって思うじゃない。でもそれは残念ながら幻想」
有希子はそこで一息つくと、取り皿に一つだけ残ったブロッコリを口に運んだ。もうテーブルの料理は大半が空になっていて、陽介も満腹だった。
「毎日ちゃんとメンテナンスしておかないと、気づいた時にはちゃんと形に戻すのがすごく難しいって事、あるのよ。その小さな努力がほとんど無意識にできる人もいるらしいけど、私には無理。友達の失敗は全部教訓にしたし、そっち関係の本も山ほど読んだし、いつも旦那の気持ちを第一に考えて、話し合いする時には言葉を選んで。ある意味、仕事するよりずっと気を遣って努力努力。私ってこっち方面、本当に才能ないんだ」
そう言ってグラスにペリエを注ぎ足す彼女の顔を、陽介はまた別な気持ちで見ていた。
「あの、それはちょっと謙遜しすぎじゃないですか?俺から見れば、有希子さんたちってすごく自然体でうまく行ってると思いますけど」
「そう見えてるなら嬉しいけど。ねえ、コーヒー飲む?」
有紀子はふいに話を打ち切り、陽介が「いただきます」と答えると、「じゃあさ、ちょっとソファの方に移動してくれるかな」と立ち上がった。
「うわ!やっぱり陽介くんて気がつくよね。言わなくても判ってくれてる」
コーヒーを運んできた有希子は、陽介が危うく忘れそうになって差し出した紙バッグを覗き込むと、声を上げた。
「いつもワンパターンですみません」
「何言ってるのよ、私にはどこのスイーツよりこれが有難いんだから」
そう言って取り出したのは、有希子たちの実家から歩いて五分ほどの場所にあるパン屋、キリン堂のラスクだ。たしかに近所でも評判の店で、ラスクはすぐに売り切れてしまう上に賞味期限が短い。この味で育ったという有希子が帰省する時には、必ず準備しておくことが暗黙のルールになっていた。
「早速いただいちゃっていいかな」
彼女は慣れた手つきで袋を開け、ラスクを一枚つまみ出すと、軽やかな音をさせて噛み砕いた。
「やっぱ最高だわ。発酵バターとシナモンが絶妙!陽介くんもどう?」
「いや、俺はいつでも食べられますから」
「よかった。実は私、これだけは旦那にも食べさせないのよね。でも安心して、陽介くんのデザートはちゃんと用意してあるから」
ラスクの袋をしっかり両手に抱えたまま、有希子はキッチンに戻っていった。コーヒーを準備する間に料理を片づけ、洗い物は食洗機にセットしたらしく、振り向くとテーブルはすっかりきれいになっている。呆れるほどに手際が良いというか、常に次の動きを考えている彼女に、ぼんやりする瞬間など訪れることがあるのだろうか。
「いただきものなんだけど、おいしいわよ」と出されたのは、リンゴのタルトにバニラアイスクリームを添えたものだった。
「お茶の教室でご一緒してる人がね、毎年この季節になると長野からお取り寄せするんだって。違うわよね、こだわってる人は」
一人がけのソファに腰を下ろし、そう言って笑う有希子だが、陽介から見ると彼女だって十分に「こだわってる人」だ。目の前に出されたコーヒーはイタリア製のエスプレッソマシンで入れたものだし、カップとソーサーも何とかいうブランドのものを思い切って揃えたと、以前訪れた時に聞かされた記憶がある。
「ね、陽介くん、紗代子の事なんだけど、何とか我慢してもらえないかな。あの子、ペクの看病は絶対に自分がやりたいと思ってるはずだから」
彼がタルトを食べ終えたところを見計らって、有希子は再び元の話題に戻った。
「ペクには可哀相だけど、長くてあと半年っていう事だし、場合によっては一、二か月かもしれないし。もちろんその間、陽介くんが生活に不自由しないようにちゃんとフォローすることは、私からも紗代子と、あと、お母さんにも念は押しておくから」
本心を言えば、もう少し自分寄りの意見を出してくれることを期待していたのだけれど、やはり有希子も紗代子サイドの人間である事に変わりはなかったようだ。
「まあ別に、その辺は俺も一人暮らしが長かったから構わないんですけど。でも何ていうかその、変な言い方するかもしれないですけど、犬より下って扱いのような気がして、そこが納得できないんです」
ワインの酔いも手伝ってか、思いのほか率直な気持ちがこぼれ出た。有希子もさすがに「犬より下」という表現にはひっかかたらしく、軽く眉を上げると一瞬唇を引き結んだ。
「確かに陽介くんがそういう気持ちになるのも無理はないわよね。でもさ、ペクって本当に、紗代子には特別な犬なのよ」
8
地下鉄の揺れに身体を任せていると、いつの間にか瞼が重くなってくる。陽介は首を軽く振り、背筋を伸ばした。普段の通勤とはわけが違うのだ。寝過ごしてとんでもない場所からまた引き返すなんて考えたくもない。膝から滑り落ちそうになった鞄を引き上げ、その上に小さなペーパーバッグを置き直すと、その中にある、ラップに包まれたサンドイッチが目に入った。
「残り物でごめんね」と有希子は言っていたけれど、手早くこういうものを準備して、野菜ジュースまで添えて「朝ご飯にどうぞ。夜食でもいいしね」と持たせてくれる気遣いには、ただ感心するしかなかった。確かに紗代子もよく気がつくという点では同じだけれど、有希子はプロフェッショナルを思わせる隙のなさだ。
もうそろそろ深夜という時間なのに、地下鉄はけっこう混雑していた。偶然座れたのは幸運というべきで、飲み会帰りらしいサラリーマン、これからまだどこかへ行くつもりらしい学生グループ、残業していたのか、クマの浮き出た顔に乱れた髪でつり革にぶら下がっている若いOL、更には塾の帰りらしい中学生もいる。陽介は自販機で買ったスポーツドリンクのボトルを鞄から出して少し飲むと、有希子との会話を思い出していた。
「ペクって本当に、紗代子には特別な犬なのよ」
彼女はそう言って、膝の上に重ねた自分の指を、全部揃っているか確かめるように見つめた。陽介はしばらくの間、後に続く言葉を待っていたが、予想に反して彼女はじっと黙っている。仕方ないので「特別、ってどういう事ですか?」と尋ねてみたが、誘導されたような気がして、言った途端に撤回したくなった。
「陽介くんは、聞いたことはあるのかな、そもそもどうしてペクを飼うようになったかって」
「さあ…」と返事を濁してみたが、たしか紗代子の叔母がちらりと「ペクちゃんは失恋癒し犬だもんね」と言っていたような記憶はある。
「紗代子が大学の二回生の時なんだけど、初めて彼氏ができたのよね」と、有希子は彼女にしては随分ゆっくりとした口調で語り始めた。陽介は黙っていたが、心の中では少し驚いていた。紗代子は自分の過去の恋愛について全く触れたことがないし、二人の間でそれは持ち出さないのが暗黙の約束になっていたからだ。
「まあ、それまで彼氏ゼロっていっても、高校は英聖女子だから当然かもね、あそこの生徒は大人しいから」
そう言う有希子は中学、高校と地元の教育大学の付属学校を出て、東京の大学に進学している。そして紗代子は、姉の代理のようにその教育大学を卒業していた。初めての彼氏、というのはその時の話になるわけだ。
「私はその頃ちょうど留学してたんだけど、紗代子からはもう毎日のようにメールが来て、映画に行くんだけど、どんな服着ていけばいい?とか、おごってもらうのに好きなもの選んでいいの?とか、もう大変。ちょっとした言葉のやりとりに一喜一憂したりね。まあ、普通より遅めだけど、これが初恋って奴か、と思って私も微笑ましい気持ちでアドバイスしていたの。でもそのうち変な事になってきて」
「変な事?」と陽介が聞き返すと、有希子はまた自分の指先に視線を落とし、「なんだかちょっと、現実が見えてないような感じになってきたのよ」と答えた。
「彼との連絡が途切れがちなのは、自分を妬んでる女の子が監視しているせいだとか、、彼が病気で寝込んでるせいだから、下宿まで食べ物を差し入れに行きたいだとか、そういう事を書いた長い長いメールを、一日に何度も送ってくるようになったの。私もさすがに、これはおかしいと思ったんだけど、運悪くそれが大事なレポートと重なって、ちゃんと相手ができなかったのね。とにかく、あんまりしつこくすると逆効果だから、こっちから接触を減らしてあっちに追いかけさせるぐらいにしなさいよ、みたいなアドバイスをしてたの。で、ごめん、落ち着いたらちゃんと返事するね、なんて言い訳していたわけよ。それでようやくレポートの発表会も済んで、一日だけゆっくり眠って、自分にぐうたらを許そうとしていたところに、お母さんから電話があったの。紗代子が自殺図ったって」
「自殺?」
「まあ、鎮痛剤をたくさん飲んで、軽くリストカットしたぐらいだったけど、冗談でした、って言い訳できる事じゃないわよね。おまけにそれが彼氏の部屋で、勝手に合鍵作って、留守の間に入り込んで、だったの」
どうコメントしていいか判らず、陽介はただ黙っていた。自分が知っている紗代子だったら絶対にやりそうもない事。これは果たして現実なんだろうか。
「幸い、その彼氏が見つけてすぐに救急車呼んでくれて、大事には至らなかったんだけどね。紗代子ったらお母さんたちには彼のこと、ほとんど話してなかったみたいで、それもまたうちの親にはショックだったらしいわ。おまけに、紗代子の言い分と彼氏の話がかなり食い違ってたらしいの。まあ、要するに、紗代子の方がかなり思い込みの激しい状態だったわけ。彼氏は、たしかに何度かデートはしたけど、その後はフェードアウトしたつもりだったのに、紗代子はお付き合いがずっと続いてるって信じていたのね。ただ、二人の間に割り込もうとしている女の子がいて、その子をやりすごすために、彼は紗代子に気がないふりをしてるんだって、そう考えてたの」
「ややこしいですね」
「本当にね。とにかく、紗代子の心はそういう風にものごとを認識していたわけ。で、自分が自殺を図れば、二人を邪魔している女の子も、紗代子がどれだけ本気か判るから、身を引くだろうと考えたらしいのね。
最初はうちの親も、その彼氏が二股でもかけたんじゃないかと疑ってたんだけど、問題はどうやら紗代子の方にあるみたいだと判って、病院にしばらく入院させたの。事が起こったのは一月だったけど、学年末の試験は受けられなくて、結局紗代子は一年休学したわ」
そういえば、と陽介は記憶をさぐった。紗代子が大学を一年休学したのは知っているが、それは別の理由だと聞いていた。
「休学したのは、有希子さんの留学にあわせて語学留学したからじゃないんですか?」
「それも嘘じゃないっていうか、休学してる間にしばらく私のところに来ていたのは事実だけど。でもまあ、それは口実みたいなものよ。その彼氏が違う大学だったし、紗代子の友達も彼のこと知らなかったおかげで、学校の方には詳しいこと知られずに済んでラッキーだったわ。そういえば彼、陽介くんと同じ大学なのよね」
「え?うちの大学?」
「うん。模擬試験の監督か何かの、単発のバイトで知り合ったらしいわ。年は紗代子より一つ上だから、陽介くんと同じよね。もしかしたら知ってるんじゃない?えーと、結城くん、っていったな。結城…亨だ」
陽介は「まさか」と言いそうになり、慌ててそれを飲み込んだ。
「知らない?同じ学年よね?」
「いや、うちは人数が多いから、ゼミか語学でも一緒でない限り、判らないですね」
「あらそう。まあ、知り合いでも困るわよね」と有希子は軽く口をとがらせ、それから自分のために淹れたハーブティーを飲んだ。
「幸い、紗代子はしばらく入院したらすっかり落ち着いたんだけど、その後どう過ごすかってのが問題だったのよね。で、ちょうど私が向こうで夏休みに入ったから、呼び寄せて、語学留学みたいな感じで秋の新学期まで一緒に過ごしたの。長い旅行もしたりね。たまに落ち込んだりする事もあったけど、それでも随分よくなったっていうか、気持ちの切り替えはできたみたいで、自分の事もずいぶん客観的に見られるようになったと思うわ。
でも私も両親も、日本に戻った後をどうするかで悩んでたのよね。紗代子が彼氏と知り合ったのがちょうど一年前の秋で、歯車が狂いだしたのがクリスマスあたり。また同じ季節が廻ってくるわけじゃない。お父さんはまだ働いてたし、お母さんもお婆ちゃんの介護で留守が多かったから、紗代子を一人にしておきたくなかったのね。そこにちょうど、お父さんの友達から、雑種の子犬いらないかって話がきて、それがペクなの」
「そうなんですか」と相槌をうってはみたものの、陽介は話についていくのが精一杯だった。
「最初はね、紗代子の気がまぎれるならそれでいいか、ぐらいの考えで飼い始めたんだけど、本当の意味で彼女を回復させてくれたのはペクだった。紗代子ってさ、小学校の五年生ぐらいから何でも私の真似ばっかりするようになって、そんなに好きじゃない事まで無理してやるようなところがあったのね。まあ、それはうちの家庭に原因があったと思うし、成績さえよければ他は好きにしていいでしょ?って感じに振舞ってた私にも責任あるんだけど。
だからきっとあの子には、教育大学もそんなに合ってなかったんだと思うわ。そのまま英聖の文学部とかに進んでおけばいいのに、教育大の方が学費安いから、なんてさ。結局、教員免許もとらなかったし、ただ、私があそこの付属に通ってたからっていうのが本音じゃないかな。もしあの自殺騒動が起きなかったにしても、いつかは何かの形で、紗代子がずっと無理に抑えていたものが破綻していただろうって気がするのよ。
でもね、ペクが来てからの紗代子は変わった。と言うよりも、元に戻ったと言うべきかしら。私がそれをはっきりと感じたのは、留学が終わって帰国した時ね。もう紗代子は大学に戻ってたけど、会った瞬間に、ああ、紗代子って本当はこんな顔してたっけ、って思ったの。それはもうずっと前、幼稚園だとか小学校の一年生だとか、それ位の頃の、彼女本来の表情だったのよ」
そこまで一気に話すと、有希子はふう、と溜息をついて腕を組んだ。そして陽介に視線を向ける。
「でもね、今も時々、紗代子は自分で自分が判らなくなるみたい。そんな時はすぐに、お姉ちゃんどうすればいいと思う?って聞いてくるのよね。そのくせ心のどこかで、いつか見返してやるって考えてたり」
「それはないでしょ」と、陽介は慌てて否定した。
「紗代子にとって有希子さんは絶対的な存在ですよ。たぶんお父さんやお母さんより信頼してるんじゃないかな。有希子さんが認めないものは、何があっても認めないし」
その言葉に、有希子は口元だけでほんの少し笑った。
「陽介くん、まだまだ修行が足りないみたいね。姉妹って、案外難しいものなのよ。あの子きっと、赤ちゃんだけは私より先に授かるつもりでいたの」
「そんなの聞いたこともないですけど?」
「当たり前よ、わざわざ言うわけないじゃない。でもあの子ね、私が不妊治療してた間は、神社でお守り貰ってきてくれたり、色々と応援してくれたけど、いざ妊娠したって報告したら電話口で黙っちゃったの。きっとショックだったのね。おめでとうって言葉は後から、メールでもらったわ。それもかなりそっけなく」
正直言って陽介には、その辺りの微妙な気持ちというのはよく判らなかった。有希子が深読みし過ぎている気もするけれど、当たっているのかもしれない。たしかに陽介と紗代子はもう二年近く前から避妊していないが、成り行き任せという考えの陽介に対して、紗代子はさりげなくカレンダーに印をつけたりして、もっと積極的に進めたいと思っている気配はあった。
「紗代子には悪いけど、私も双子が産まれちゃったら、今までみたいには彼女をフォローできなくなるわ。だから、ペクの事も含めて、陽介くんにはこれまで以上に紗代子を支えてあげてほしいの」
「はあ…」
「なんで自分が、って顔してるわね」
「いや、それはもう、夫婦だから当然なんですけど」
「いいのよ、判るわ。どうして今までこんな大事なことを隠してたのかって、騙されたような気分でしょ?知ってたら紗代子との結婚もちょっとためらってんじゃない?」
確かに、それを言われると反論はできない。彼女との結婚を決めた最大の理由すなわち、その優等生らしさというか、安定感だったからだ。間違っても自分が支えになりたいとか、守ってやりたいとか、そういう気持ちではなかった。
「でも信じて、紗代子は陽介くんがいれば大丈夫。もう絶対にあんな事は起きないから」
「はあ」と、何となく返事だけが出てくるが、陽介の思考は停止したままだった。
「私は心から陽介くんのこと信じてるし、だからこそ大事な妹をまかせられるって安心してるの。本当よ、陽介くんみたいな人って、そう簡単に巡り合えるわけじゃないもの」
隣に座った学生らしい青年の頭が肩に落ちてくるのを、地下鉄の揺れに合わせて押し返す。青年は一瞬我に返った様子で座り直し、それからまた意識を投げ出し、ぐにゃりと陽介にもたれかかってくる。今度こそ文字通りの肩すかしを食らわせてやろうかと思うのだが、周囲の目を考えると、そこまで大胆な事もできない。
結局、俺ってそういうところが駄目なんだろうな。
温和だとか優しいだとか、そんな言葉でごまかされているけれど、要するに舐められやすいって事なのだ。そこのところを紗代子や、義姉の有希子にすっかり見透かされて、はいお世話係決定、という感じで結婚話を進められてしまったというのが真相だろう。最初からもっと疑ってかかるべきだったのだ、どうして自分みたいな安月給のサラリーマンに、紗代子のような女性が嫁いでくれる気になったのか。
徐々に地下鉄の速度が落ち始め、それに伴って青年の頭が陽介の肩から浮き上がる。車内のアナウンスは次が彼の降りる駅だと告げていて、陽介はこれ幸いと立ち上がった。ドアに向かいながら何気なく振り向くと、青年の身体は再び陽介が座っていた空間へと大きく傾いている。既に空席の目立つ車内で、誰もそんな面倒な場所に座ろうとしていなかったが、青年はそこへ倒れこむというわけでもなく、絶妙のバランスを保ったまま眠り続けていた。
ほら、別に俺が支えなきゃ駄目ってわけじゃないんだ。
憮然とした気持ちで地下鉄を降りると改札を抜け、白々とした通路を歩いた。都内からの通勤圏とはいえ、千葉にある有希子のマンションまでの往復はやはり時間がかかった。泊まっていけば?と引き留められたが、義兄が留守でおまけに妊婦の彼女にそんな負担をかけるわけにいかないし、何より今は一人で頭を冷やす時間が欲しかった。
足早に階段を上ってゆくと、不意に上着に入れた携帯が震えた。紗代子?と、一瞬思ってディスプレイを見ると、それは亨からだった。よく見ると一時間おきぐらいに二度着信履歴がある。そう、そもそも自分は彼に会うつもりで、わざわざ出張の後に残っているのに、今はどんな顔をして会えばいいのか判らない。それどころか、何か適当な理由をつけて約束を取り消してしまいたかった。
ごめん、悪いけど急に都合がつかなくなって。
そう言ったところで、亨はどうこう勘ぐるような男ではない。じゃあ、またそのうち、で話は終わる。陽介は思い切って通話に出た。
9
よく晴れてはいるが、梢から漏れてくる日差しはどこか弱々しく、嫌でも冬の近いことを感じさせる。陽介は読みかけの文庫本を開いてみたが、そんな事で居心地の悪さが解消されるわけでもなかった。
美術館の傍にあるカフェを待ち合わせ場所に指定され、来てはみたものの、オープンエアだとは予想していなかった。注文したコーヒーが運ばれた時にテーブルで精算という形式にもとまどったし、料金の高さにも目を疑った。にもかかわらず、けっこう席が埋まっていることにも驚いた。
若い子でも都内ではけっこうお金を持ってるのかなと、ちらちら周囲の様子を伺いながら考える。まあ、案外ほとんどの客が遠くから来ているのかもしれない。ふだんはコンビニのおにぎりや菓子パンを食べて、貯めたお金で自分にご褒美という感じだろうか。ともあれ、陽介にとってそこが自意識を無駄に刺激する場所である事は確かで、くつろぐ、というのはとうてい無理な状況だ。
いったんは手にした文庫本をテーブルに置き、携帯を取り出してみる。着信はないけれど、遅れるという連絡もないのだから、このまま待つしかない。ともあれこういう場所が彼女の日常の行動圏というのは、何だか納得できる気がした。
「陽介さん?もう寝ていた?」
昨夜、亨の携帯から電話してきたのは澪だった。亨と会話せずにすんで、何だかほっとしたというのが正直なところで、陽介は「起きてたけど、ちょっと出歩いてたから電話をとれなかったんだ」と答えていた。
「そう、よかった。あのね、とても急で申し訳ないんだけど、亨さん、明日はどうしても都合がつかなくて会えないのよ。それを伝えてほしいって言われて」
「そうなの?残念だけど、まあ仕方ないよね」
口ではそう言ったものの、残念どころかありがたい。明日のホテルの予約はキャンセルして、まっすぐ帰宅しようという考えが頭にうかぶ。
「それで、もしも、だけれど、よかったら私と会ってもらえないかしら」
「澪さんと?どうして?」
「だって、まだこの間のお礼をちゃんとしてないから。勝手に押しかけて泊めてもらって、さっさと帰ってしまったでしょう?亨さんも気にかけてたし、よければお食事でもどうかしら」
「別にお礼なんていいよ。友達なんだから、あの位は大したことじゃない」
とはいえ、陽介の心には別の考えが芽生えていた。亨が来ないなら、まあいいか。一人で家に帰って週末をぼんやり過ごすよりも、澪と会っていた方が楽しいかもしれない。
やっぱりやめとけばよかったかな。いきなりこんな場所で待ち合わせという時点で、ハードルが高い。一人で秋葉原でも少しうろついて、あとはスカイツリーでも見て帰った方が気楽だったかもしれない。携帯をポケットに戻し、再び文庫本を手にとる。
近くの美術館に向かうのか、目の前を途切れることなく人が歩いて行くが、彼らは当然ながらカフェの店先に座っているこちらの事など全く目に入らない様子だ。毎日こうしていれば慣れるんだろうかと思いながら、ぬるくなったコーヒーを飲んでいると、車のクラクションが聞こえた。とても軽く、一度だけ。顔を上げると目の前の通りに深緑色のジャガーが停まっている。全く格好つけてるな、オープンカフェに外車で乗りつけるなんて、と思いながら再び文庫本に目を落とすと、携帯が鳴った。
「お待たせしました。いま車停めてるの、見える?」
なるほどこういう時のために、先に精算しておくというシステムは便利かもしれない、そう思いながら陽介は小走りにジャガーを目指した。左ハンドルの運転席にいる澪は、サングラスをしたままこちらに手を振っている。
「驚いた。澪さんこんな車に乗ってるんだ。あ、ご主人の趣味かな」
初めて乗り込むジャガーの助手席に少々興奮しながらも、陽介はまだ若い彼女が人妻である事を思い出していた。
「これは私の車よ。ちょっとやかましいけど、一番好きなの」
一番って事はもしかして、他にも持っているという事か。シートベルトを調節しながら視線をめぐらすと、澪の好みだというマニュアルトランスミッション。彼女は自然な動作でギアを入れると車を出した。
「うちの夫はトヨタ一筋よ。修理やなんかが簡単だからだって。合理的なのよね」
「澪さんは見た目重視?それとも走り?」
「やっぱり走り重視ね。メリハリが大事かな」
そうは言うものの、街なかでの彼女の運転は相変わらず落ち着き払っていた。
「この車ね、しばらくガレージでお休みしてたのよ。たまには思い切り走らせてあげないと調子悪くなるんだけど、ちょっとドライブにつきあってもらってもいいかしら」
「もちろん」
仕事でも家でも軽自動車しか運転しない陽介には、ジャガーでドライブ、しかも澪のように若く美しい女性と二人など、降ってわいたような幸運に思える。ただ少し情けないのは、ハンドルを握っているのが自分ではない点だ。
「じゃあ神奈川の方を目指そうかしら。陽介さん、葉山とか行ったことある?」
「ないけど、どこでも全然構わないよ」
「そう?だったら葉山に決定ね。箱根の方の山道も面白いんだけど、今の季節は混んでいるからやめておくわ」
葉山という場所は山という字がつくのに海辺らしい。耳にしたことのある地名ではあるが、正直いって葉山でも箱根でも、馴染のない土地という点では陽介にとって同じだ。そしてどこをどう通ったのかも定かでないうちに、目の前に高速道路のゲートが迫っていた。
高速に入った途端、窮屈な仮面を脱ぎ捨てたように、ジャガーはのびのびと走り始めた。とはいえ、車線変更と追い越しを繰り返すというわけではなく、やはり本当に好きなのは頻繁なギアチェンジを必要とする、入りくんだ山道のようだ。
「お天気がよくて気持ちいいわ。ちょっと車は多いけど」
「土曜だからね」
そう答えてから、陽介はふと考え込んでしまった。この前は亨が一緒だったから、彼としゃべっていればそこに澪が加わってくるという形でうまく行っていたのだ。いざ彼女と二人きりになってみると、何をどう話していいかわからない。亨に頼まれて澪を家に泊めた時には、それなりに話もしたけれど、あの夜の距離感と、今日の感じはまた違う。そもそも自分が彼女の何を知っているかといえば、ほとんどゼロに近いのだった。
しかし澪はそんな陽介の戸惑いなど気に模していない様子で、軽い微笑を浮かべたままハンドルを握っている。せめてFMでもつけてくれないだろうかと思いながらも、共通の話題はやはりこれしかないと自分に言い聞かせて、陽介は口を開いた。
「亨の奴、どうしたの?今日は仕事か何かで?」
本音を言えば、亨の話はあまりしたくない。昨日の夜、有希子に聞かされた話が余りにショックで、紗代子と彼のことばかり考えてよく眠れなかったのだ。大学四年の年末から新年にかけて、亨が紗代子と少しはつきあったりして、紗代子が一方的に想いをつのらせて、自殺未遂までして。亨からは元々、彼女関係の話は全くといっていいほど聞かされた事がなかったし、深刻な悩みの相談なんてものも受けたことがない。だから彼の身にそんな事件が起こっていたなんて、夢にも思ってみなかった。
とはいえ、よくよく考えてみると、腑に落ちない事はあったのだ。亨は本来、卒業後もUターンはしないつもりで、陽介が今も住む街の地銀に内定をもらっていたのに、急に地元に戻ると言い出したのだ。家の事情だとか言っていたけれど、その時期から就職活動をやり直したことはかなり響いたらしく、あまり条件の良いところに入れなかった。
それが件の、上司と喧嘩して辞めた不動産というわけで、となると彼の離婚もそもそもの発端は紗代子の事件ということになるのだろうか。まあ、物事なんて遡ってみれば何だって原因になるだろうけれど。
「亨さんね、仕事で急な出張が入ったの」
まっすぐ前を見つめたまま、澪はそう答えた。
「それってこの前澪さんが言ってた、占いサイトの仕事?」
「…そうね」
少し間があったのは、前を走る車が急に車線変更したからか、彼女が何かを考えていたせいなのか、判然としない。
「まあ、占い師さんって、少し気まぐれだったりする人もいるから、こうして急な出張になるのも仕方ないんだけれど」
そう言う彼女の声には、どこか不安げなものが潜んでいて、それは亨と離れている事に起因するように思えた。二人はやっぱり、仕事だけの関係というわけではないのかもしれない。それをどうにかして、遠回しに探ろうかと思い始めたところへ、澪は急に明るいトーンで「やっぱり陽介さんと亨さんて仲いいのね」と言った。
「え?なんで?」
「だって今日の陽介さんって、何だかこの前とは別の人みたい。亨さんがいないと、借りてきた猫って感じだわ」
「俺ってどっちかというと、犬に例えられる方が多いんだけど」
すると澪は、くすっと笑って「失礼な事いってごめんなさい」と謝った。
「別に失礼じゃないよ。ただちょっと、東京はアウェーだから」
「だったら、ほとんどの人がそうじゃないかしら」と、澪は笑いを含んだ声でそう言うと、少し速度を上げた。
「ね、亨さんとずっとお友達でいるのは、どんなところが好きだから?」
「そんな事、ちゃんと考えたことないなあ」
陽介は落ち着いていることを強調しようと、わざとゆっくり返事をしてみせた。澪がこんな質問をするのは、やはり亨に対して特別な感情を持っているからなのだろうか。しかし本当のところ、友達でいる理由なんて、誰についても真剣に考えたことがなかったので、いきなり聞かれると返答に困るのだった。
「単純に、気が合うってことじゃないかなあ。しゃべってて面白いとか、一緒にいて楽だとか」
「でもその程度だったら、別に知り合いでもいいじゃない?」
「うーん、それと何ていうか、俺のこと判ってくれてるような気がするのかな。いちいち説明しなくても、ああ、お前ならそうだよな、なんて感じでさ」
「それは自分と共通点が多いから?」
「いや、俺たちそんなに似てないっていうか、違うところの方が多いもの。第一、俺って亨ほど男前じゃないし、背も低いし」
そう、陽介は誰が見ても「童顔」というジャンルに属する顔立ちだったし、亨はといえば、鼻筋の通った細面で、色白であるのに加えて、瞳の色が薄いのも少し日本人離れした印象を与える。関西出身の友人は「結城みたいなんを、シュッとした感じって言うんやで」と、よく冗談のネタにしていたけれど。
「おまけにあいつの方が頭いいんだよな。ゼミの発表なんかいつもAもらってたし、準備も淡々と終わらせてるんだ。俺は毎回ぎりぎりまでああでもないこうでもない、で、しかもAなんか滅多にもらえない。語学だってさ、漢字が楽そうだから中国語にしたらけっこう難しくて、俺は追試で何とか通ったのに、亨なんか先生に発音いいねえ、耳がいいんだねえ、なんて絶賛されちゃってさ」
思い返せば次々と、出てくるのは亨が自分よりもできる奴だ、というエピソードばかりだ。しかも努力の成果ならまだしも、何事も大した苦労なしにすいすいとこなしているという印象で、彼の口から「大変だった」というようなエピソードを聞くことはまずなかった。けれど、と陽介は思い直す。この年になってようやくわかってきたのは、亨は努力なしにできる人間ではなくて、努力や苦労したことをあえて他人に語るようなタイプではなかったらしい、という事だ。そんなの格好悪いだとか、わざわざ言う程の事じゃないとか、理由は色々あるだろうけれど、とにかく亨はそういった内面についてはごくごく一部しか明かさなくて、一方の陽介は何事も包み隠さず、下手をすると見苦しい程にあけっぴろげだったような気がする。
「多分俺と亨って、対照的だから続いてるのかもしれない。俺は何ていうか、とにかく人から舐められるタイプで、亨の奴は逆に一目おかれるんだよね」
それはどうしてなんだろう。たぶん、亨が誰に対しても同じ態度で、目上の人間だろうと、バイト先の上司だろうと、一度たりとも媚びたり、おもねるような真似をした事がないからではないだろうか。それを単純に、若さ故の潔癖さで括れないのは、同じ年頃の仲間にも色々な人間がいて、それなりに軽蔑や嫌悪感を刺激するような振る舞いはあったからだ。ほんの少しだけれど楽をしたいだとか、いい目を見たいだとか、面倒を避けたいだとか。誰だって自覚がありながら己に許している怠惰を、亨は嫌っているように見えた。そして自分が何故、会社で女の子連中に舐められているかといえば、憎まれ役を買うのが嫌で、言うべきことも呑みこんでしまうからに違いない。
「でも、似ているところもあるんじゃないかしら。趣味とかって同じじゃないの?」そう澪に尋ねられて、「趣味かあ」と考え込んでしまう。
「まあ、好きな映画とか、お笑い芸人だとか、そういうのは似てるかな。あとはどっちも、あんまりせかせかしてないというか、旅行なんか行っても予定にこだわらない。けど、スポーツの趣味は違うな。あいつは中高と陸上部で、確か中距離が得意なんだ。でも俺は中学の野球部で万年補欠だってのに燃えつきちゃって、高校では放送部に籍だけ置いてた」
「他に共通点とかないの?」
「共通点…ねえ。ゆで卵は堅いのが好きとか、熱い風呂は苦手だとか、」
こうして考えると、亨と過ごした日々のあれこれが少しずつ蘇ってくる。長い時間のように思っていたのに、今振り返ればたったの四年。卒業してからは数えるほどしか会っていない。職場の同僚はもう十年以上もの付き合いになるのに、亨とのように判りあえているという感覚にはならない。学生時代の友達で、頻繁に会える場所に住んでいる奴も何人かいるけれど、やはりどこか違うような気がするのだった。
「じゃあ、靴は左右どっちから履く?」
「さあ、そこまで知らないな。俺は右からだけど。あとは何だろう」
単調な高速道路を走るだめの、暇つぶしみたいな話題なのに、つい深く息を吸い込んで考えてしまう。亨と自分の共通点。冬よりも夏が好きで、早起きが苦手で、あまり酒が飲めなくて…
紗代子。
俺たちは二人とも紗代子とつきあって、一人は多分、とても気に入られていたのに、うまく続かず、予想もしない形で苦々しい破局を迎えた。そしてもう一人は、別な意味で気に入られ、そのまま結婚した。本当のところ、紗代子は亨と自分のどちらに強く惹かれたのだろう。知り合った年齢の違いはもちろんあるし、間違った形で互いの距離を埋めようとしたとしか言えないにせよ、彼女が亨の事を想ったその気持ちは、自分に向けられたものとは質も深さも桁違いという気がする。そして自分はといえば、姉の有希子が勧めた「買い物件」だったに過ぎないのだ。
ふと我に返ると、辺りの景色は一変していて、澪の運転するジャガーは木立の中、緩いカーブを繰り返す二車線の道路を走っていた。いつの間に高速を降りたんだろう、と一瞬不思議に思い、それからようやく気がついた。
「あれ?俺、寝てた?」
慌てて身体を起こすと、澪はちらりと視線をこちらに投げて笑った。
「気にすることないわ。昨日お仕事で疲れてたんでしょう?」
「いや大して疲れてたわけじゃないけど」
一体どれくらい眠りこけていたのか、情けないやら恥ずかしいやら。女性に運転を任せておいてこんな事になったのは初めてだ。言い訳させてもらえるなら、昨夜は有希子に聞かされた話のせいでずっと寝つけず、横になってはまた起き上がってテレビを見たり、再び横になって読みかけの文庫本を開いたり、ストレッチしたり、そんな事を繰り返していたのだ。
「助手席の人が寝ちゃうとね、ちょっと嬉しいの。私の運転もなかなかのもんじゃない?って」
「高速降りたのも全然わからなかった。澪さんって、教習所は勿論だけど、誰かに運転ならったの?」
「うちの運転手さん。広川さんていう人。今はもうおじいちゃんで引退してるけど、とっても上手っていうか、安心できる運転なの。私、自分で車を走らせる時はいつも、広川さんの運転を思い出してるわ。ただしそれは街なかを走る時だけ」
お抱えの運転手とはあまりに浮世離れした話で、「そうなんだ」としか返事できない。
「まだ私が免許とりたての頃はね、広川さんが助手席で、急いでハンドル切り過ぎたかな、とか、色々とアドバイスしてくれたの。他にも、こういう走り方をする車にはあんまり近づかない方がいいとか、そんな事。でも何より、広川さんが運転している時の加速だとか、曲がり方だとか、ブレーキのきかせ方だとか、身体で憶えていることが一番多いかもしれないわ」
そんな話をする内に車は木立を抜けていた。辺りには敷地の広い一軒家が立ち並び、遠くにはリゾートマンションらしき建物も見える。しばらく進んで緩やかなカーブを曲がると海沿いの道路に出た。途端に交通量が多くなり、速度が落ちる。対向車のナンバープレートを見ていると、思いがけず遠くから来ていたりして、今は週末なのだと改めて思った。
「あそこに赤い屋根の建物があるの、判る?昔はうちの別荘だったんだけど、今はレストランになっちゃったの。ご招待するわ」
そして澪は再びハンドルを切ると、細い脇道に入った。
10
その洋館は海に臨む丘の上にあった。周囲の家々の敷地も十分に広かったが、古びた煉瓦塀にゆったりと囲まれたその場所は、まるで植物園か何か、特別な施設であるかのような印象を与えた。開放された門を入り、よく手入れされた前庭の一角に澪が車を停めると、待ち構えていたかのように一組の男女が玄関から飛び出してくる。
「澪さん、ようこそいらっしゃいました」
年の頃は五十代だろうか、夫婦と思しき二人は、どうやら澪とは随分親しいらしくて満面に笑みを浮かべている。
「急でごめんなさいね」と謝ってから、澪はしばらく彼らと近況報告らしいやりとりをしていた。その間に、陽介はあらためて、過去には澪の家族の別荘だったという二階建ての洋館を眺めた。決して大邸宅というわけではないが、それでも下手をしたらレストランどころかペンションでもやっていけそうだ。かなり年季の入った建物だが、その古さが却って暖かみを感じさせる。玄関にはポーチがあり、そこに小さな木製の看板が下がっているが、店の名前はシェ・トモノとなっているから、どうやらフランス料理らしい。
澪に誘われて建物の中に入ると、そこはホールになっていて、布張りの古びた椅子が三脚並んでいた。正面は二階へと続く階段、そして向かって左手の、海に面した天井の高い部屋がどうやらレストランとして使われているらしい。
「ここは昔、居間と食堂だったのを、一つにまとめちゃったの」
陽介の好奇心に答えるかのように、澪はそう説明して中を覗くと、「今日は貸切なの?」と尋ねた。彼女が「ここを切り盛りして下さってる、友野さんと、奥様の裕美さん」と紹介してくれた夫婦の、友野氏の方が「ええ、三時からウェディングパーティーのお客様が入っているんです」と答える。陽介が澪の肩ごしに中を覗いてみると、既に全部で七卓のテーブルがセットされている。部屋の突き当たりはテラスになっていて、ガラス戸の向こうは抜けるような秋の青空だ。パーティーが一番盛り上がる頃には、海に沈む鮮やかな夕日が彩を添えるに違いない。
「でも、お花が何だかちょっと寂しい感じね」
どうやら澪が言っているのは、それぞれのテーブルに置かれた盛り花の事らしい。確かに、ウェディングパーティーというには少し地味な感じで、新郎新婦のテーブルと思しき場所に飾られているものが若干華やか、といった程度だろうか。
「ええ、ちょっとご予算が厳しいらしくて」
どうやらその辺りの折衝は妻の裕美の役目らしいが、彼女もあからさまには言いたくないようだ。澪はしばらく黙って部屋を見ていたが、裕美の方を向くと「お花は伊藤花壇さん?」と尋ねた。
「ええ、うちはいつもあちらで」
「それじゃ、今から伊藤さんに連絡して、少しお花を足してもらえるかしら。テーブルにあるのはもうそのままでいいけど、メインテーブルはもっと華やかなのがいいわね。それと、サイドテーブルを三つ置いて、それぞれに飾ってもらって、あと、ホールにもね。請求は全部私宛にしておいて」
「あ、はい、判りました。すぐにそうします」
「急に言い出してごめんなさいね」
「いえ、きっとお客様はお喜びになりますわ」と、笑顔で言うと、裕美はあたふたとその場を離れた。傍でその様子を見ていた友野が、頃合いを見計らったように「いつものお部屋でご用意してますよ」と声をかけると、澪はにこりと笑って頷いた。
「ここはお客様用の寝室だったの」
陽介の先に立って階段を上がり、短い廊下の突き当たりにある部屋に入ると、澪はそう説明して、一つだけ置かれたテーブルにはつかず、正面にある窓に向かった。そこはちょうど階下にあるテラスの真上にあたるらしい。陽介も後に続くと、彼女の隣に立った。
澪がフランス窓を開け放つと、冷たいが、心地よい海風が髪をすり抜けてゆく。目の前に広がるのは小春日和の太陽に輝く穏やかな海と、うっすらと刷毛で描いたような雲が幾筋か流れる青い空だ。水面にはプレジャーボートらしい船影があちこちに浮かんでいる。視線を落とすと、建物の下は灌木の繁みに覆われた緩やかな崖になっていて、その更に下には小さな砂地の入り江がある。澪は陽介が何を見ているのかに気づいたらしく、「庭の裏手からあそこまで降りていく小道があるのよ。後で行ってみましょうか」と言った。
「まるでプライベートビーチだ」と陽介が呟くと、彼女は「でも泳ぐにはちょっと向いてないのよね。水が急に深くなっていて、けっこう潮の流れが速いのよ」と残念そうに言う。「やっぱり開けっ放しはちょっと寒いわね」と、窓を閉めると、澪はテーブルに近づき、陽介に眺めのよい席を勧めた。
「ここがお客さんの寝室って事は、家族の部屋はまだ他にあるって事?」
「ええ、隣が兄の使っていた部屋で、今はそこにもテーブルをセットしているわ。両親は二階の、山側の部屋を使っていたけれど、そこは今、事務所兼スタッフルームね。私の部屋は三階よ。といってもほとんど屋根裏だけれど」
確かに。二階建てだと思っていたこの階には、更に上に向かう、やや狭くて急な階段がしつらえてあった。
「天井が低くて狭いから、今は物置として使ってるんだって。でもね、ベッドに横になったままで海が見える、素敵なお部屋だったわ」
「じゃあ、どうして別荘のままにしておかなかったの?」
「それはまあ、夫の考えね」
澪はそこで言葉を切るとしばらく沈黙した。その時になって陽介は、自分が随分と不躾な質問をしてしまった事に気づいた。たいていの場合、持ち家を手放すとなれば、そこには経済的な事情が関わってくるに決まっている。しかし澪は、淡々とした調子でまた話し始めた。
「私も自分で判ってなかったんだけど、うちってお金の管理がかなりいい加減だったの。このまま行ったら十年しないうちに没落しちゃうよって、結婚した頃に夫からそう言われたわ。それで彼は、あちこちにあった別荘やなんかの不動産を全部処分することに決めたのよね。管理人さん達にも別のお仕事を紹介したり」
「ここも管理人がいたの?」
「そうよ。離れに家族で住んでいたわ。今はそこに友野さんが住んでいるけれど」
澪がそこまで話したところでドアがノックされ、裕美が入ってきた。彼女の後ろに続く、アルバイトらしき二十歳ぐらいの女の子は、ワゴンを押している。
「今日はちょうどスズキのいいのが入りましたので」と、テーブルに並べられた料理を見て、陽介は一瞬目を丸くした。切り身の焼き魚とけんちん汁に白ごはん。そしてひじきの煮物と白菜の浅漬けが添えられている。
「ふふ、どうして?って顔してるわね」と、いたずらっぽく言うと、澪は部屋を出ようとする裕美たちに軽く会釈して、再び陽介に向き直った。
「確かにここはフレンチレストランだけど、私はいつも賄を出してもらってるの。その方が自分のお家に帰ってきたって感じがするから」
「いやあ、俺はこういうのの方が好きだな」
それは陽介の素直な気持ちだった。正直言って、元別荘でフランス料理などという状況に少し気おくれしていたところへ、焼き魚定食と呼ぶのがぴったりの献立にほっとさせられた。
「お世辞でなければいいけど。よければおかわりしてね」
賄、と澪は言ったが、実のところそれは陽介がふだん出入りしているような定食屋のレベルをはるかに超えていた。焼き魚一つとっても、炭火を使ったことがよくわかる香りのよさだし、新米らしいご飯は粒がたってつやつやと輝いている。そして一見地味に思える器は、どれも作家ものらしくて、しっくりと掌になじんだ。
デザートに出された洋梨を食べ、熱いほうじ茶で一息ついてから、澪は陽介を散歩に誘った。この館にはもう一つ、裏導線とでも呼ぶべき狭い階段があって、それは澪の両親の部屋だったというスタッフルームの脇に作られていた。降りた先は厨房の裏で、目の前に勝手口のような小さいドアがある。そこを開けて裏庭に出ると、コンクリートを打った資材置き場があり、その先には煉瓦を埋めて作った小道が緩やかな曲線を描いていた。
「あれが管理人さんのお家で、今は友野さんが住んでいるところよ」
母屋から遠からず近からず、たぶん声は聞こえないけれど何かあればその気配はわかるだろう、という距離に、小さな二階建ての家があった。街中の建売住宅ならよく見かけるサイズだが、別荘に比べると「小さい」としか言いようがない。
「管理人さんは今、どうしてるの?」
「今は別の場所の管理人さん。都内に一つだけ残してある、アパートを見てもらってるわ」
そのアパートってのが、また豪華だったりするんだろうな。陽介は勝手に想像をめぐらせながら、灌木のトンネルの中へと続く煉瓦の小道を歩いた。それはやがて下り坂となり、右へ左へと何度も折り返した後に、先ほど食事をした部屋の窓から見えた、砂地の入り江につながっていた。
「思ったより広いね」
足元の黒っぽい砂は水気を含んで、今は引き潮であることを教えてくれた。ところどころに岩がのぞき、フナムシらしきものがこちらの足取りを察知してざわざわと移動してゆく。妻の紗代子はこの手の生きものが大嫌いで、視界に入っただけで悲鳴を上げるが、澪は気にもかけていないようだ。
「俺が小学生だったら、このまま帰りたくなくなってるところだな」
陽介は立ち止まり、砂に半分埋まった淡いピンク色の、貝殻の破片らしきものを拾い上げた。
「そうね。子供の頃、夏休みはほとんどこの家で過ごしたけれど、本当に楽しかった。夜はここで花火したりしてね。秋や冬でも、集めておいた流木で焚火したり」
澪はそして、何かを探すように歩き回ってから上の方を指さした。
「ほら、ここから建物が見えるでしょ。あそこに梯子がついてるのが判るかしら」
言われて首を廻らすと確かに、外壁に沿って屋根へと続く、細い梯子がとりつけられている。
「屋根の点検や修理の時に使うんだけど、私はよくあれを伝って夜中にこっそり出かけてたの。廊下の窓から出てね」
「怖くなかった?その、暗いのもあれだけど、高さとか」
「慣れてるから平気よ。それに一人じゃなかったし。管理人さんの息子さんで、瞬ちゃんってお兄さんがいて、その人と遊んでたわ。五つぐらい離れてたから、すごく頼りになる感じで、花火したり、お星さま見たり、ボートに乗ったり」
「澪さんのお兄さんは?」
「うちのお兄さんはね、部屋で本読んだりする方が好きなの。それに、八つ年上で、もうこっちにはあんまり遊びに来てなかったから。とにかく、私の方が活発だったのは確かね。男女逆だったらよかったのにって、よく言われたもの」
澪はそして、仕方ない、といった感じの笑みをうかべながら、風に乱された髪をかき上げた。
「瞬ちゃん、中学の頃はけっこう遊んでてね、夜遅くに帰ると家に鍵がかかってるから、こっそりあの梯子で上がってきて、私の部屋の床で寝てたわ」
「泊めてあげてたの?」
「だってその頃私まだ小学生だもの。ミオキチって呼ばれて、瞬ちゃんには弟みたいな感じね。寝てると、ぽんぽんって私の頭をたたいて、ミオキチ、ちょっとごめんな、って。私はたいがい、わかった、とか言いながらまた寝てしまうんだけど、たまにそのまま目が覚めたら、ちょっとおしゃべりなんかしてね。
瞬ちゃんには彼女っぽい女友達が何人もいて、ミオキチ、女なんてもんはさ、その気持ちわかるよ、とか言っとけば機嫌がいいからな、とか色々教えてくれるのよ」
「でも澪さんも女の子だろ」
「あんまりそうは思ってなかったみたいね。でもまあ、瞬ちゃんは中学を出るとすぐに板前さんの修業を始めて、遊ぶ時間もなくなっちゃった。いきなりちゃんとした大人の人みたいになったんでびっくりしたのを憶えてる。それでもまだ私の事はミオキチって呼んでたけど」
それから二人で元来た道を戻って前庭の方へと回ると、ジャガーの隣に何台か車が停まり、ウェディングパーティーの出席者らしい客が辺りを散策していた。再び玄関からホールへと入ると、さっきは何もなかった正面の空間に小さなアンティークのテーブルが置かれ、その上に深い赤を基調にした艶やかな盛花が飾られていた。つい好奇心にかられてパーティーの行われる部屋を覗いてみると、こちらも同様にサイドテーブルが幾つか配置され、それぞれに花が飾られている。ただし色は白とピンクにまとめられていて、ホールの落ち着いた様子とは対照的に、明るく活気のある雰囲気を醸し出していた。
これは半端な金額じゃないなあ。自分が結婚した時の費用のあれこれを思い出しながら、陽介は半分呆れ返っていた。赤の他人にこういう贈り物をするという澪の好意というか、金銭感覚はちょっと理解の範囲を越えている。
「見違えるほど豪華だな」と、思わず唸ると、澪は彼の内心を見透かしたように寂しげな笑いを浮かべた。
「ただの自己満足って事かしら。でもやっぱり、花嫁さんにとって今までの人生で一番素敵な日になればいいなと思ってしまうの」
「優しいんだね」
「夫に言わせれば、私はお人好しで計画性のない人。だから君の一族は放っておくと没落するしかないんだ、なんて言われちゃう」
でも元々は澪さんの家族が築いた財産だろ?陽介はそう言おうとしたが、彼女はちょうど顔を出した裕美と話を始めていた。
「急に言い出してごめんなさいね」
「とんでもない、花嫁さんも大喜びでしたわ。控室におられますけれど、お会いになりますか?」
「それは遠慮しておくわ」
その答えに裕美は黙って頷き、「二階でコーヒーでもいかがですか?いちじくのタルトもありますよ」と勧めた。
「私達そろそろおいとまするわ。タルトは白鴎館でいただくから」
「そうですか?またいつでもいらして下さいね」と言いながら、裕美が厨房にいる友野氏を呼ぼうとするのを断って、澪は「じゃあまたね」と手を振った。
「白鴎館っていうのは、この近くにある喫茶店なの。友野さんが焼いたケーキを出してるんだけど、行ってもいいかしら」
ジャガーを発進させながら、澪はそう尋ねたが、陽介には何の異存もない。
「そこも澪さんちの別荘だったとか?」
「残念ながら違うわね」と彼女は笑う。門を出ようとすると、パーティー客を乗せたタクシーが入ってきた。中には髪を美しくセットした若い女性が二人、高揚した顔つきで座っている。
「こんなところでウェディングパーティーなんて、呼ばれる方も嬉しいだろうな」
陽介は思わず後ろを振り返り、いま一度、かつては澪とその家族の別荘だった館の姿を目に収めようとした。
「だったらいいわね。陽介さんが結婚した時は、披露宴とかどんな感じだったの?」
「ごくごく一般的に、ホテルのチャペルで式を挙げて、身内中心の簡単な披露宴と、友達主催の二次会。しかし思い出すだけで疲れるなあ」
「どうして?」
「だってあんなのさ、楽しみにしてるのは新婦だけで、新郎はとにかく義務感だけだもの。やれ貸衣装はどうするの、料理だ引き出物だ席順だ」
言ってしまってから、何だかこれでは先ほどの澪の新婦に対する気遣いに水を差すようなものだと気が付いた。しかし彼女は別に気に留める様子もなく「たしかに、男の人で自分の結婚式や披露宴が楽しかったっていう人は少ないかもね」と言った。
「澪さんはどうだったの?自分が結婚した時は」
「私?そうね、周りがどんどん準備していく感じで、あれれ?なんて思ってるうちにドレス着せられちゃって。だからあんまり記憶がないかもね」
「たしか、高校の時に結婚したって言ってたよね」
「そう。不思議ね。子供の頃は、女の人って結婚する時はみんな幸せなんだと思ってたんだけど、いざ自分がするとなると、まるで誰か別の人の事みたいな感じだったわ」
それって、かなり嫌だったって事じゃないんだろうか。
陽介はもちろん、自分が女性の心理について鈍感な方である事は認識していた。それでも、澪のこの言葉は奇妙だ。というかやはり、今の時代に、十六、七で自分の意志とは無関係に結婚するというのは普通ではない。
「そのせいかもしれない、私ね、誰かが結婚するって聞くと、わけもなく盛大にお祝いしたくなるの。それまでの人生で最良の日だって、ちゃんとわかってほしいから」
「人生最良の日かあ、なるほどね」
「それまでの人生で、よ」
「どう違うの?」
「多分ね、人生で最良の日は子供が生まれた日なの。たいがいの人はそう言うから。だから結婚は、それまでの人生で、って区別しておくのよ」
「なるほど」と頷きながら、陽介は我が身を振り返っていた。自分にとって人生最良の日は結婚だったろうか?前に誰かと話したことがあるのだ、女にとって結婚とは積立預金が満期になるようなもので、男にとってそれは、年貢の納め時であると。しかしまあ、澪の理論でいくなら、自分にとっての人生最良の日はこれから訪れるという事になる。
「陽介さんが結婚した時って、亨さんは招待したの?」
「え?ああ、亨ね」
正直なところ、陽介はすっかり亨の事を忘れていた。一瞬、後ろのシートに彼が座っているような錯覚に捉われながら、そもそもどうして自分が澪とこうしてドライブなんぞしているのか、慌てて思い出す。
「二次会に呼んだんだけど、都合が悪くて来てもらえなかった。あいつが結婚した時は、事後報告だったから勿論行ってないし」
言ってから気づいたが、そもそも亨は自身の結婚と離婚について澪に話しているのだろうか。うかつにも不必要な事を暴露してしまったのではないかと、恐る恐る澪の横顔に視線を向けたが、彼女は涼しい顔でハンドルを握っている。
「男の人って、その辺けっこうあっさりしてるのね」
「まあ、逆によかったかな。単にうちの奥さん側の招待客と数を合わせる必要があったから呼んだだけで、本当の事いうとあんな恥ずかしい姿見せたくなかったんだよね。タキシードなんか着せられて、雛壇に座らされて」
しかし今になって考えてみると、亨は何があってもあの場には来なかっただろう。彼は招待状を見てすぐに、陽介の妻となる女性が誰なのかを悟ったはずだ。だからこそ、陽介が結婚してからというもの、急に連絡をくれる頻度が減って、年賀状だけの付き合いのようになってしまったのだ。しかしそうであれば、どうして今になってあの街に立ち寄ったりしたのだろう。
「澪さん、こないだ亨とうちの街に来たのは、動物園を見るためだけだったの?」
「そうよ。行ったら絶対にカップルは別れちゃうっていう、さびれた動物園なんて面白いじゃない」
「そりゃまあそうだけど」と言ってはみたものの、ネットで調べればそこが閉鎖されてホテルに生まれ変わったのはすぐに判る筈だ。
「で、次の日の夜にさ、うちに泊まりにきたじゃない。あの時は何かあったの?」
「あれはちょっと、急な用事」
澪はそれまでに比べると、随分弱々しい口調でそう言った。
「いや別に、文句言ってるわけじゃないんだけど」と、陽介は少し慌てて取り繕う。そもそも疑問があるならあの夜、あの時に言えばよかったわけで、いったんは泊めておいて、今更のようにあれこれ聞くのは潔くない。
「たんに不思議だっただけなんだ。泊まるだけなら動物園だった、あのホテルだってあるし、駅のあたりにもビジネスホテルは何軒かあるから。でもさ、俺としては自分を頼りにしてもらって嬉しかったんだ。やっぱり友達だし」
何をどうしても言い訳めいた口調になってしまう。澪は心なしかこわばった表情のままでいたが、やがてぽつりと「私ね、知らない場所に一人で泊まれないの」と言った。
「いや別に、そういう人がいてもおかしくはないと思うよ」
まるで泣き出しそうなのをこらえているような澪の気配に、陽介は何だってこんな話題を持ち出してしまったのだろうと激しく後悔した。もう過ぎたことなのに、ただの好奇心で詮索めいたことをやらかして。亨なら絶対にこんな真似はしないはずだ。
「あ、やだ、どうしよう。白鴎亭に入る道を通り過ぎちゃった」
どうやら話に気をとられ過ぎていたらしい。澪は慌てた様子でUターンできる場所を探しているようだったが、道もかなり混んでいて、このまま流れにのってゆくしかなさそうだ。
「無理して戻らない方がいいんじゃないかな」
「でも、友野さんのタルトって本当においしいのよ。陽介さんにも絶対食べてほしかったのに」
「だったらまたいつか、次の機会まで待つよ」
澪をそこまでぼんやりさせたのは、自分の不躾な質問のせいなのだ。それをどうにか挽回したい気持ちで、陽介は言葉を続けた。
「まあとりあえず、どこか適当な店で一休みしようよ。俺はコーヒーが飲めればそれで満足だし」
「そう?本当にごめんなさいね。私ったら」
「何も謝る必要ないよ」
ちょっと不思議だな、と陽介は思った。彼女のように若く、容姿に恵まれて、経済的にも余裕がある女性が、「ごめんなさい」を頻繁に口にするのは奇妙に違和感がある。職場にいる同世代の女の子を思い出してみても、誰一人そう簡単に謝ったりしない。仕事のミスを指摘されたところで、つまらなそうに「そうですか」がいいところ。余程の事があって初めて、若干不服そうに「すいません」といったところだろうか。下手をすると笑ってごまかして終わり、なんて具合で、まあそれは要するに自分が舐められているだけかもしれないが。
それからしばらく走ったところで見つけた喫茶店で、陽介と澪はコーヒーを飲み、シナモンのきいたシフォンケーキを食べた。そして渋滞気味の高速で都内に戻った頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。澪は夕食も誘ってくれたが、陽介はそれを断ってホテルに戻ることにした。本当は昨夜書くつもりだった見本市の報告書を今夜のうちに仕上げないと、絶対に明日、家に帰ってからではやる気になれないと思ったからだ。月曜の朝イチ提出、というのが岡本部長からの厳命だった。
「そういうのって会社で書いちゃだめなのね」と、澪は少し腑に落ちない様子だったが、彼をホテルの近くまで送ってくれた。
「見方によっちゃ時間外労働だと思うんだけど、そういう事を言ってると一生出世できないからね」
そしていざ車を降りようとしたその時になって、陽介はふいに動けなくなった。
「じゃあね、今日は色々ありがとう」という一言で終わればいいのに、何故だかそれができず、車を降りそうな素振りをしておいてまだドアに手もかけない。澪は少し戸惑ったような顔つきで、彼の次の動きを待っていた。
「あの、よければ、だけれど、また会ってもらえないかな。二人だけで」
そう言っている自分を、もう一人の自分がどこかで見ている気がした。本当の陽介自身はそのどちらなのか判然としないまま、いきなり身体のどこかに触れられたように、うっすらとした怯えを宿した澪の瞳を見つめている。
それでも、彼女が小さく頷いたのを確かめて、陽介は「いつでもいいから、連絡して」とだけ言うと車を降りた。周囲の雑多な明かりに照らされ、昼間とはまるで違った色に見えるジャガーはしばらく蹲っていたが、やがて獲物を嗅ぎつけたかのように緩やかに動き出し、見る間に加速して夜の闇に溶け込んでいった。
11
定時の五時半で仕事を終えても、今の季節だとすっかり外は暮れていて、何となく一日を少し損したような気分でタイムカードを押す。一課、という表示の下にカードを戻しながら、あと一週間でこれが二課に移るわけか、と陽介は考えていた。
「お疲れっす」と、挨拶をしながら、足早に近づいてきた吉岡が手早くタイムカードを抜き取った。彼のスポーツバッグに目を留めて、「どっか行くの?」と声をかけると、「軽く走ってきます」という答えが返ってくる。
「最近社内で、ランニングのサークル作ったとかいうやつ?」
「あれは女子の遊びですね。俺はもっとストイックに走り込みます」
軽くいなす感じで、吉岡は陽介の脇をすり抜けるようにして、「お先っす」と夜の中に飛び出して行く。全く、彼を見ていると自分はもうそんなに若くない、という事実を目の前につきつけられるような気持ちになる。単に傍若無人なだけかもしれないけれど、自分の世界に没頭している様子こそ、若さそのものに見えるのだ。
外に出ると、もうとっくに吉岡の姿は消えている。朝よりも強まった風で吹き寄せられた街路樹の落ち葉が足元を転がり、踏みつけると乾いた音をたてて砕けた。今日はこれから紗代子の実家で夕食だ。娘のわがままのせいで独身生活を強制していて申し訳ないから、という義母の発案らしくて、そういう気の遣われ方は却って面倒というのが正直なところだ。しかし、すき焼きを振舞ってくれる、と言われるとやはり嬉しくなってくる。
自腹で牛肉を食べるなど、特別な事でもないかぎりありえない。そこは紗代子が仕切っている部分で、彼女は「高いものはお母さんに食べさせてもらえばいいじゃない」とよく言う。彼女の実践しているのは一種の「なんちゃって倹約」で、高級食材は全て実家枠で食べる仕組みになっているのだ。
今や実質上別居生活だというのに、紗代子は時々帰ってきては陽介が保管しているレシートの類をチェックして、パソコンの家計簿ソフトに入力していた。あからさまに「これを買うな」と制限されるわけではないけれど、コンビニのレシートが増えてくると「牛乳とか、野菜ジュースとか、言ってくれたら私が買っとくからね」と言われたりする。だったらもうこっちに住んで、ペクの世話に通えばいいのに、とやり返したくなるが、それは陽介には無理な話だった。
自宅に帰るのとは反対方向のバスに乗り、紗代子の実家までは半時間ほどだ。ふだんは門燈だけなのに、今夜は玄関の明かりもついていて、一応は来客モードらしい。それが嬉しいような気もするし、やっぱり自分は家族とは違う距離感の人間なのかとも思いながら、インターホンを押して声をかける。ややあって、奥から紗代子が出てきた。
お出迎えとは珍しい。今夜は本格的に歓待してもらえるんだろうか、と期待したのも一瞬の事。彼女の表情を見た途端に、これは少しまずい事態かもしれないと気がついた。
「来ていきなりで悪いんだけど、車運転してもらえる?」
「何かあったの?」
「ペクの具合がよくないの。獣医さんに連れてく」
コートは着たまま、とりあえず荷物を置かせてもらおうとリビングに入ると、紗代子の両親が何とも当惑した顔つきでソファに座っていた。続きの間にあるダイニングの食卓にはすき焼きの準備が整い、あとはコンロに火をつけるだけ、という状態だ。そして問題のペクはリビングの隅にあるケージの中にうずくまっていて、黒い鼻面だけがかろうじて目に入った。
「ごはん食べないのよ。水も飲まないし。昼間は普通にしてたのに、夕方から急におとなしくなっちゃって」と言いながら、紗代子はケージのそばにしゃがみこんだ。陽介に気を遣ってか、義母が「まあ、お医者さんは明日でもいいんじゃないの?陽介さんだってお仕事で疲れてるんだし」と声をかけたが、それは逆効果だったようだ。
「明日まで待って何かあったらどうするの?ペクは病気なんだから。少しでも変だと思ったらすぐに診てもらわなきゃ」
苛立ちを含んだ紗代子の声に、義母もどうしていいか判らない様子で、義父に至ってはじっとテレビの画面を睨んだままだ。陽介は慌てて「俺は大丈夫だよ。すぐに出かけよう」と声をかけた。紗代子は「ありがと」とだけ言うと、準備していたキャリーケースにペクを移動させた。
キャリーケースを後部座席に置いて、紗代子はそのままペクの隣に座ってしまった。まあ仕方ないか、と思いながら、陽介は車を発進させる。
「道、教えてくれる?」
「ひだまり幼稚園からもう少し行ったとこ」
「ごめん、その幼稚園を知らないんだけど」
こんな時、この街に生まれ育った紗代子と、学生時代に居ついた自分との違いを実感する。彼女にとっての当り前が自分にはそうでなくて、しかもなぜか呆れられるのは自分の方だった。今夜もやはり彼女は、しょうがないわね、という口調で詳しい道順を教えてくれた。
「ちゃんと憶えといてね」
「ああ、一度いけば大丈夫だから」と返事はしたものの、これは多分、今後も運転手役でよろしく、という事なのだろう。俺はそんなに暇じゃないんだけど、と思っていると、紗代子はそれを察したかのように「あそこの獣医さんって駐車場が二台分しかないのよ。夜はたいていいっぱいだから、路上駐車して、誰かが運転席で待ってた方がいいの」と説明した。
案の定、動物病院は金曜の夜という事もあってか混雑していた。運んできたキャリーケースを紗代子に渡すと、陽介は「じゃあ、外で待ってるから」とだけ言って、すぐに車に戻り、通り過ぎたばかりの幼稚園の傍まで移動した。昼間にこんな場所にじっと停車していたら警察に通報されても仕方ないが、夜はさすがに大丈夫だろう。よく見ると他にも二台ほど停まっていて、ここはどうやら動物病院の臨時駐車場として機能しているらしかった。
ここで一体どれだけ待てばいいのだろう。動物病院がどれほどの速さで患者をさばいていくのか、陽介には見当もつかなかったが、とりあえずあの待合室の様子では一時間どころで済みそうにない。彼は一度車を降り、近くのコンビニでシリアルバーと缶コーヒーを買ってきて空腹をしのいだ。紗代子の実家に漂っていた、切りたての葱の香りだとか、ラップの下で艶やかに輝いていた霜降り肉だとか、豆腐の白さだとか、そんなものばかり思い出されてくる。
いやいや、そんな悠長な事を考えてる場合じゃない、紗代子には一大事なんだから。コンビニのポリ袋を丸めながら、陽介は自分を戒めた。将来、子供が生まれて、急に高熱を出した、なんて時にはきっとこんな感じなんだろう。いや、自分だってもっと切羽詰るに違いない。それとも、やっぱりこういう風に、てきぱきと動く紗代子の指示を待機しつつ、空き時間に缶コーヒーなんか飲んでるんだろうか。
そこへいきなり、携帯に着信があった。紗代子からだ。
「この調子だと、終わるの九時回っちゃいそうなんだけど、先に帰ってごはん食べてたら?済んだらまた電話するから」
「いいよ。待ってるから」
今この状態で、義理の両親と三人ですき焼きを食べるという選択は無理だ。あたりさわりのない会話にも限度があるし、下手に紗代子やペクの話題になったらどういう受け答えをしていいか判らない。紗代子もその辺りの腰の引け具合は判っているようで、「じゃあ、お母さんには連絡しとくね」とだけ言って通話は切れた。
闇に浮かぶ携帯のディスプレイをぼんやりと見つめながら、陽介はふいに、澪に電話してみようかと思いついた。あの日、こんどは二人だけで会いたいなどと大それた事を言ってしまって、結局彼女からは何の連絡もない。よく考えたら彼女はいつも亨の携帯を使っていたわけで、何度か電話してみたがいつも留守電になっていて、伝えたいのが亨なのか澪なのかもわからないまま、「高田です。時間あれば連絡下さい」というメッセージを一度だけ残していた。
さて今もう一度電話してみたら、誰が出るだろう。亨か、澪か。そのどちらとも話したいような、つながってほしくないような、でもまたきっと留守電だという安心感がほとんどで、陽介はその番号を押した。八回コールが鳴って、無機的な留守電のメッセージに切り替わると、ほらね、という気分で通話を切る。知らない間に止めていた息を吐き出し、ハンドルに両肘をあずけてもたれかかると、陽介は夜の闇に視線を投げた。どうせつながらないという諦めの一方で、もしかしたら澪の声が聞けるのではないかという期待があって、それが裏切られた事が今更のように空しいのだ。
自分のこの気持ちは何なんだろう。単純に恋と呼ぶにはあまりにもぼんやりとしていて、つかみどころがない。もしかしたら、何年もの間、身体のどこかが麻痺していた人が、何かのきっかけで神経がまた機能するようになったりしたら、こんな感じかもしれない。感覚はあるのに、まだ思い通りに動かすことができなくて、とてももどかしい気分。
結局、紗代子からもう一度連絡があったのは、十時を少し回った頃だった。またしてもペクのキャリーケースと一緒に後部座席におさまった彼女は、疲れてはいても機嫌は悪くない様子だった。
「とりあえず悪い状態じゃなくてよかった。ごはん食べないのは、薬の副作用で食欲が落ちてるせいみたい。でも、脱水が怖いからって、点滴打ってもらってたの」
「じゃあ、一安心って事かな」
「そうね。でもまた明日、点滴してもらうことにしたわ」
「そう」と答えた陽介の声に何か感じたのか、紗代子は「明日はちゃんと予約してきたから、私一人で行くわ」と急いで付け加えた。
それから実家に戻ってみると、玄関の空気には既に、あの食欲をそそる料理の香りが漂っていた。義母は申し訳なさそうに「もういつ帰ってくるか判らないから、とりあえず火を通しちゃったのよ」と言った。
「ほら、お父さんって自分の時間通りに動けないと機嫌悪くなるから」と、彼女はひそひそ声で続けたが、どうやら義父は既に布団に入っているようだった。紗代子は「いつもの事よね」と、平然としている。彼女はペクをケージに移し、中の様子をもう一度確認して声をかけてから、「私、何だかもう晩ごはん食べる気しなくなっちゃった。陽介だけ食べて帰ったら」と言った。
「いや、俺も、別に…さっき車の中でちょっと食べたし。今日はとりあえず帰るよ」と答えながら、陽介は壁に掛けられた時計を見た。既に十時半を回っている。共に六十代の義理の両親にとって立派に「深夜」という時間帯。今からこの家で自分ひとりが食事をするのも気が引ける。このまま引き上げて、途中でラーメンでも食べて帰った方がまだマシだ。
「あらそう?じゃあこれ持って帰りなさいよ。ね、そうしなさい」と、明らかにほっとした様子で、義母は大きな保存容器いっぱいに調理済のすき焼きを詰め込んでくれた。残念ながらそれは陽介にとって「すき焼き風煮込み」にとしか思えなかったが、横で見ている紗代子も「明日の方が、味がなじんでておいしいわよ」などと言っている。自分は目の前でちりちりと焼かれながら、肉汁をにじませて身をよじる霜降りの牛肉を食べたかったのだ、と反論したかったが、そんな事できるわけもない。新聞紙に包んだ生卵も二つ添えて、義母は手際よく保存容器を二重にしたスーパーのポリ袋に収めると陽介に手渡した。
こうなるともうさっさと引き上げた方が得策だ。陽介は更に何か渡すものはないかと棚をのぞいている義母に、「じゃあ、もう行きます」と声をかけた。
「あら、紗代子ちゃん、車で送ってあげなさいよ」と、彼女は再びペクのケージの前にしゃがんでいる娘に呼びかけた。陽介はあわてて「いや、まだバスがあるから」と断ると、ちらりと顔を上げた紗代子に「じゃあまた」と、軽く手を振って廊下に出た。もう来客モードも終了して薄暗い玄関で靴を履いていると、いそいそと義母が追いかけてきて顔を覗き込む。
「本当に今夜はお疲れ様だったわね。紗代子ったらペクの事になると、誰の言うことも聞かないんだから。もう陽介さんに足向けて寝られないわねって、いつもお父さんと話してるのよ。さ、これも持って帰って。紗代子にはまた、おかず持って行くようにさせるから」
彼女は戸棚から発掘してきたらしい蟹缶ときゅうりの漬物をすき焼きの上に押し込んだ。
「しっかりごはん食べてね。頼りにしてますから」
微妙にプレッシャーを感じさせる言葉と共に、義母は陽介の背中を軽く叩いて送り出した。
また一段と冷えてきたな、と思いながら、陽介は足早に歩いた。バス停までの短い道のりにすれ違う人もなく、夜の住宅街は静まり返っている。少し郊外に自動車部品の下請け工場が幾つかあるおかげで、この路線はかなり遅くまでバスが走っている。陽介は時刻表を確かめようと携帯を取り出したが、着信履歴があることに気がついた。どうやら紗代子とペクを病院に迎えに行った、その間らしい。発信元は亨になっていた。
一瞬ためらって、それでも陽介はこちらから発信してみた。亨と澪、どちらが出るにせよ、今はむしょうに誰かと話がしたい。
「ごぶさた」と、電話に出たのは亨だった。
「何度か電話もらってたのに、ずっと連絡してなくて悪いね」
「それは別にいいんだけど」と答えながら、陽介は次の言葉に詰まっていた。それを察したのか、亨の方が話を続けた。
「どっか飲みに行ってたの?」
「ていうわけじゃなくて、家の用事。まだ外なんだ。これから帰るとこ」
「だったら今から寄り道して行かないか?」
「は?」
「実はさ、今日はわりと近くまで来てたんだ。さっき着信があったから、ちょっと思いついて、そのまま来たんだよね。今ちょうど駅前の「モグラ塚」に行こうかと思ってたとこ」
「うわ、懐かしい名前出すなあ」
それは学生時代に二人でよく行った居酒屋だった。その近くのスーパーで二人そろってバイトしていた時期があり、週払いの給料が出た後はたいがいそこで散財してしまうのだった。一瞬、地下にある店の低い天井や、窮屈なカウンターが記憶に蘇ったが、陽介には別の考えが浮かんでいた。
「それより、よければうちに来ないか?嫁さんまだ実家だから」
わずかだが、ためらうような間があって、「じゃあそうしようか」という答えが返ってくる。
「神崎橋のそばにコンビニがあっただろ?あそこで集合にしよう。どっちが早いか知らないけど」
12
亨の寝顔を見ていると、やっぱり年をとったな、という実感がある。互いに三十を過ぎたのだから、学生時代に比べるまでもないのだが、起きて話をしている時にはそうも思わなかった、肌の色艶は勿論のこと、顎の輪郭だとか、瞼だとか、そういった場所に時間が積もっているのを感じる。まあ、それは自分も同じことなんだけれど、と思いながら陽介は客用の薄いマットレスで眠る友人の躰にアクリルの毛布をかけた。
テレビの傍に置かれた時計は三時半を指そうとしている。陽介は部屋の明かりを落とし、ローテーブルに残っていたグラスをキッチンの流しに運んだ。少し緩くなってきた蛇口から思い出したように落ちる雫が、重ねたままの食器の上でわずかな水音をたてている。紗代子がこの光景を見たら、ゴキブリが出る、と血相を変えるに違いない。彼女は夜中であっても、どんなに眠くても疲れていても、汚れた食器を放置して寝てしまうような人間ではないのだ。
しかしまあ、紗代子は留守だし、自分は一匹や二匹ゴキブリが出たところで別に驚きもしない。亨も多分そうだろう、と勝手に想像して、陽介はリビングに戻った。寝息をたてている友人の傍を抜けて暗い廊下に出ると、しんと冷えた空気が心地よい。煙草は吸わないとはいえ、男二人が飲み食いしていた場所の空気は相応に澱んでいて、それはある意味で学生時代を思い出させる、懐かしい気配でもあった。
洗面所で歯を磨き、シャワーは明朝という事にして、陽介は寝室に入るとスウェットのままでベッドに横になった。少し前までは眠気が強かったのに、酔いが醒めてきたのか、奇妙に目が冴えている。裏にあるコインパーキングの照明のおかげで、この部屋は明かりを消しても物の輪郭ぐらいは十分に判る。その薄暗がりの底に沈んで天井を見上げていると、先ほどまでの亨との会話がよみがえってくる。
「まあそんな感じで、全てが犬中心で、俺はそれ以下の扱いというわけ」
待ち合わせ場所にしたコンビニで買った缶ビールを飲みながら、陽介はその夜の顛末を語った。 義母に持たされたすき焼きを温め直し、一緒にもらった蟹缶は冷蔵庫に残っていた大根ときゅうりを刻んで和風ドレッシングで和えた。その二品が主な肴だったが、霜降り肉が気前よく詰め込まれたすき焼きは十分に食べごたえがある。
「でも、肉の脂の乗り具合を考えると、陽介はかなり大事にされてるんじゃないかな」
冗談とも本気ともとれないいつもの口調で、亨は彼の見解に反論する。
「それは単に、餌で釣ってるだけだよ」
「なるほど。男なんて胃袋さえ押さえとけば大丈夫って事か。手の内を読まれてるな」
「そう。だから俺は、引き取られた二匹目の犬みたいなものなんだ。大人しく言う事を聞きそうだって」
「まあいいじゃないか、それで全て丸く収まってるなら。陽介だって別に、現状を変えたいと本気で考えてるわけじゃないんだろ?」
「そりゃそうだけど。俺は逆に、現状を維持できないと判ってるから怖いんだ。あの犬がいつ死ぬか、そしたらどうなるか」
そして陽介はビールの新しい缶を開けると、残り少なくなった亨のグラスを満たし、空いている自分のグラスにも注いだ。空腹にいきなり飲んだせいか、かなり酔いが回ってきた感じがする。亨も似たような状態らしくて、酔った時の癖で、左手で頬杖をついたまま、指先で軽く目尻を押さえている。その少し眠たげな瞼を見ながら、陽介はあらためて、彼はどうして今夜ここにいるんだろうと不思議に思った。
偶然近くまで来てたから、というのが亨の話だった。「着信があったんで、行ってみようかと閃いたわけ」と説明したけれど、一体何の用でこの辺まで来ていたのかという話になると「まあ、仕事ってことかな」とはぐらかす。彼は陽介がそういった事をしつこく詮索できない性分だというのを判っていて、あえて口をつぐんでいるのだった。
俺は見くびられてるんだな、と陽介は考える。学生時代、亨の恋愛事情だとか、何となくちらつく女の子の影について、それとなく尋ねてみたこともあったけれど、「そんな事ないって」の一言でいつも片付けられていた。陽介はそれを照れのようなものだと理解していたし、友達づきあいとはまた別な事だと思って深追いもしなかった。しかし今考えてみると、自分は単に子供扱いされていただけのような気がしてきて、釈然としない。俺だって、何も判ってないわけじゃない。そんな気持ちがふいに言葉になった。
「お前、紗代子の事、知ってたんだろ?自分が前につきあってた相手だって」
それでも彼はじっと頬杖をついたままだった。ただ、その睫毛のかすかな動きで、視線がいったん陽介の方に向かいかけて、またテーブルの上へと戻ったのが見てとれた。それが肯定である事は、長年のつきあいでわかる。
「いつわかった?年賀状の写真見て?」
亨はゆっくり首を振ると、「たぶん結婚するかもって、メールくれただろ?彼女の名前と出身校で気がついた」と答えた。
「じゃあどうして、何も言ってくれなかった?」
「言うって、何を?」
「紗代子が、その、自殺、しようとした事だとか」
「それは彼女と俺の間に起きたことで、陽介には関係ない」と言い切り、亨は頬杖をやめて背筋を伸ばすと、こちらを見た。
「関係なくはないだろ。結婚して一緒に生活しようって相手に、昔そんな事があったって判ったら、少しは考えるって」
「つまり、知ってたら結婚してなかったという意味か?」
「それは」と、陽介は言葉に詰まった。別にそこまで後悔してるというわけではないし、それを理由に全てを白紙に戻したいと考えているのでもない。
「とにかく、知ってたらもう少し違った心構えで結婚してたと思うし、彼女との接し方も違ってたはずだ。俺は何て言うかやっぱり、怖いんだ。自分の嫁さんが本当は全く知らない人間だったような感じがする。その彼女が、大事にしてる飼い犬が死んじゃったら、またどうにかなって、同じような事するんじゃないかって怖いんだよ」
「しないさ」
低いが、断固とした口調で、亨はそう言った。
「なんでそんな事がお前に判るんだ。彼女とは少ししかつきあってないって聞いたけど、実はそうじゃないとか?」そう反論しながら、陽介は自分に呆れていた。そんな筈はないと思っていたけれど、俺はこいつに嫉妬してるんだろうか。しかし亨は彼のそんな挑発にのる気配もなく、グラスに残っていたビールを飲み干すと、「俺もそうだから」と答えた。
「どういう意味?」
「だからさ、俺も一度、死のうとした事があるんだ」
それはまるで、自分も屋久島に行ったことがある、と話すような軽い口調で、うっかり「ああそうか」と頷いてしまいそうだった。陽介は酔いも手伝って、まとまりのつかなくなってきた思考の焦点を無理やり合わせた。
「それって、いつの話?大学行ってた時?」
「いや、わりと最近。仕事辞めて、離婚して、しばらくした頃。何か本当に全てから逃げたいっていうか、終わりにしたくて。あと少しで死ねるってとこまでは行ったんだけど、結局そこで引き返してきた」
それはやはり何だか、屋久島に行こうかと計画したんだけれど、実行はしなかった、という風に聞こえた。しかし、陽介にはよく判る。亨にはそうやって、自分の体験をまるで他人事のように突き放して語るところがある。だからこの話も事実であることに間違いはないはずだ。
「でも、こないだ聞いた離婚の話って、そこまで深刻な状況じゃないっていうか、むしろ淡々と別れたように思えたんだけど」
「うん、あれは一つの要因に過ぎない。ただ、俺が何もかも終わりにしたくなったのは、ずっと長いこと、危なっかしく積んであったものが、ついに崩れて前を塞いだせいかもしれない。たとえば、紗代子さんの事は、十年以上前になるけど、あの時はそれこそ怖かったんだ。紗代子さんが傷ついたのは勿論だけれど、俺も十分に傷ついた。別に今更、被害者面するつもりはないんだけど」
「いや、それは判るよ」と、陽介は頷いた。自分のアパートに帰ってみたら、そう長く付き合ったわけでもなく、自然消滅したはずの彼女が、勝手に上り込んで自殺を図っていたなんて事態には遭遇したくもない。
「あれがあってからしばらくは、部屋に帰ったらまた同じような事になってるんじゃないかって、それが怖くて仕方なかった。何とか実家には知られずに済んだけど、内定の取り消し食らったのには参った。紗代子さんの家って、こっちじゃかなり名の知れた一族だろ?」
「まあ、本家の方は市会議員出してたり、ロータリーの会員だったり、県警OBもいたかなあ」
言われてみれば確かに、紗代子の父方の親戚はあちこちの要職についている、所謂名士という人物が多いし、母方は教育者一族で、法事や何かの折に集まると、陽介のような余所者には知る由もない街の噂の数々で盛り上がる。当然、紗代子の事件が起きた時も、亨の素性についてすぐに調べがついたに違いない。考えてみれば紗代子の姉である有希子は勿論のこと、いとこたちも皆、名の知れた大学を出て堅実な職業につき、釣りあいのとれた配偶者を得ていた。その中でたった一人、陽介だけが明らかに見劣りしているのだ。
彼の両親は結婚前の顔合わせの時から、紗代子の一族に対してすっかり気後れしていたし、親戚の行事に招待されても長居せず、いつも逃げるようにして帰って行く。盆や正月に紗代子の実家のスケジュールを優先しても何の文句も言わないし、たまに連絡があれば「ご両親に失礼のないように」と必ず言われる。これまでは紗代子と結婚したのも、単純に互いの相性がよかったからだと思っていたけれど、冷静に考えてみると、紗代子は一族の中では「わけあり」の存在で、だからこそ陽介のような年収の低い勤め人との結婚も受け入れられたのかもしれない。
「まあそんな事もあって、俺はこっちでの就職はあきらめて地元に戻ることにしたんだけどさ、ちょっと出遅れた感じで」
「だよな。俺も不思議だったんだ。どうしていきなりUターンに変えたのかって。そんなに地元に愛着ないって言ってただろ?」
「よく憶えてんな」と、亨は苦笑を浮かべた。
「地元は地元だけど、親父はまだ単身赴任してたし、母親と二人暮らしにまた戻るのって気づまりなもんだったよ」
「弟はどうした?」
「あいつは専門学校出て、よそで就職した。兄貴よく戻る気になったな、って呆れてたけど。まあとにかく、俺は地元で就職してさ。でもずっと、あの事をひきずったままだった。変な話だけど、女の人が怖いんだ」
「そりゃ当然じゃない?」こんどは自分が頬杖をついたまま、陽介は亨の話に頷いた。
「特に自分と同年代の、ていうか、あの事を思い出させる世代の女の人が駄目なんだよ。だからわざと、十ぐらい年上とかさ。で、そんな人とも大して真剣にかかわらないようにして」
相変わらず淡々と語る亨の言葉を聞きながら、陽介はまるで初対面の相手と話しているような気持ちになっていた。自分の知らない彼の顔は、わかっていたような感じもするし、まるで馴染みがないようにも思える。
「まあそんな感じで仕事して、家には寝に帰るだけ、みたいな生活してたんだけど。ちょうど弟が結婚した頃かな。あいつが少しも帰省しないのもあって、母親から兄弟の順番が逆だとか、あれこれ愚痴られてうんざりしてたり、だったら俺も結婚した方がすっきりするかなって思ったんだな。その頃には例の怖いって気持ちもかなり薄らいでたし。いま考えると、単に一人暮らしすればよかったんだけど」
「それで結婚したんだ」
「相手は別に誰でもいいと思ってた。何かね、平凡なほどいいなって思ったんだ。そうすれば何事もなく暮らせるだろうから。でも失礼な話だろ?実際のところ、平凡な人って存在しないんじゃないかって、今ではそう思うのに。まあそれで、同級生が紹介してくれた人とそのまま結婚する事にした。それが別れた嫁さん」
「じゃあさ、そんなに好きじゃなくて結婚したってわけ?」
「そうなるね」と答えて、亨は少し汗をかいているビールの缶を新しく開けると、空になった自分のグラスに注ぎ、一気に半分ほど飲んだ。
「言い訳に聞こえるかもしれないけど、自分の親を見てると、別に結婚なんて大して好きな相手じゃなくてもできると思ってた。そう嫌いじゃなければ大丈夫、ってね。親父は俺が四年生の時からずっと単身赴任。それで家庭として成り立ってたんだから、夫婦なんてそんなもんだと納得してたんだ」
「でも実際はそうじゃなかった?」
「俺の頭の中にさ、結婚する相手の気持ちはどうなのかっていう考えがなかったんだ。すごく変なんだけど、わざと見落としてたとでも言いたいくらい、気にかけてなかった。大人しそうな人だから、特に自己主張もないんだろう、なんて思ってた程度。だからさ、後になって、会話が足りないだとか言われた時にはかなり驚いたんだ。でもね、俺が仕事を辞めた途端に彼女が実家に帰ってしまったところで、ようやく気がついたんだけど、こっちが平凡さを求めてたのと同じように、向こうも平凡が条件だったんだよね。平凡を人並みって言葉に置き換えた方が早いかもしれない。定職について、妻を養うだけの経済力を持った配偶者。その役割をこっちが一方的に放棄してしまったわけだ」
そして亨は缶に残っていたビールを、陽介のグラスに注いだ。
「まあそんな感じで、前も言ったけど、俺はあっという間に仕事も家庭も失った。手放したという方が当たってるかな。そして持て余す程の時間ができた途端に、それまでの自分の選択がすべて間違っていたという考えに取りつかれた。実際そうなんだから仕方ない。仕事についてはまだ、上司やなんかを悪者だと考えることはできたけれど、それでもまたやり直すだけの気力が出てこない。おまけに離婚のダメージが予想以上に大きかった。別れた嫁さんに対してどうこう、というよりもむしろ、どうして自分は女の人とこういう風にトラブルになってしまうのか、致命的な欠陥でもあるんじゃないかという事なんだけど」
「それはちょっと、考え過ぎってもんだろ」
「今ならそう思うかもね。でもまあ、あの時はその考えが雨雲みたいにまとわりついていた。おまけに仕事をしてないもんだから、簡単に昼夜逆転してしまうし、家からは出ないし、あの頃の俺は多分、病人みたいな顔をしてたと思うよ」
「実際、病院行った方がよかったんじゃない?」
「正常な判断ができたらね。でも俺は代わりに、ネットの中の自殺サイトに行きついた。それしか頭の中の雨雲を追い払う手がないと思ったからだ」
亨はそこで言葉を切ると、しばらく沈黙した。このまま話が終わるのだろうかと思いながら、陽介は床に敷いたラグの乱れた毛足を指先でならし続けた。亨はグラスに残っていたビールを飲み干し、再び頬杖をつくと口を開いた。
「しかしまあ結果として、俺は死ぬのを止めた。今はその時のことを、まるで他人事のように思い出している。そしてもう二度と、ああいう考えは起こさないという確信がある。紗代子さんもきっとそうだろう。あの事があってから、どれだけの時間がたったか考えてみろよ、その間に彼女だって大人になっただろうし、何より今はお前が一緒にいるんだから」
「確かに、彼女の姉さんもそう言うんだけど、俺は別に彼女にとって二匹目の飼い犬じゃない。彼女の好きな事だけさせて、彼女を支えるためにだけ結婚したんじゃない」
口ではそう反論したものの、陽介はまだ先ほどの亨の言葉を整理しきれずにいた。自分の内側にあるネガティブなものだとか、異性関係だとか。昔だったら、友達である陽介に対してもほとんど明かすことのなかった奴なのに、弱み、といっていい部分を晒してしかも平然としている。この変わりようはどうだろう。酔っているから、と片付けるにはまだ十分に冷静に見えた。
「あのさ、嫌なら答える必要ないけど、教えてほしいんだ。そこまで行って、死ぬのを思いとどまれたのは、どうしてなのか。家族の事とか、考えたからかな」
亨はほんの一瞬、やっぱりその質問か、とでもいいたげな表情を浮かべた。頬杖をついている薬指の先でそれを消し去ろうとするかのように目尻を何度かこすり、「そこに彼女がいたんだ」と低く答えた。
「彼女って、もしかして、澪さん?」
「そう。まあ要するに、彼女も死のうとしてたわけ。なんだか一人で死ぬのも踏ん切りのつかない人間が、集まって狭い場所で練炭でも燃やしましょうかって集まりに」
陽介はただ黙って話の続きを待つしかなかった。
「本当に初対面の、その場限りの、年齢も性別もばらばらのメンバーが全部で五人。声をかけた人間は参加者の意志を試すみたいに、何度も時間と場所を変更したし、途中で抜ける奴だって勿論いて、結局最後まで残ったのがそれだけだったんだ。そこまで決意が固かったはずなのに、俺は澪とほんの一瞬目が合っただけで、気が変わってしまった。どうしても彼女と話がしたいと思ったんだ。君は絶対にここで死ぬべきではないと伝えなければって」
話の深刻さとはうらはらに、亨の声は自嘲めいた笑いを含んでいた。
「つくづく自分の馬鹿さ加減に呆れるんだけどね。男って生き物の救いがたさか、それとも結局、死にたくないという本音がうまく口実を見つけただけなのか。とにかく、俺は薬を飲んで自殺に加わったふりをして、皆が眠ってしまったところで澪を連れて逃げた」
「あ、あとの人は?」
「死にやしないよ。火を消して、窓を全開にしておいたから。風邪ぐらいはひいたかもしれないけど」
そして澪と彼の間に何が起きたのか、陽介が想像を膨らませるのを遮るように、亨は乾いた声で付け加えた。
「まあだからって、その後がドラマみたいな逃避行になったわけじゃない。彼女も俺も、自分が元いた場所に帰っただけだ」
「でも、彼女とはつきあいが続いてる」
「そう」と肯定して、亨は「ごめん、何だかすごく眠くなってきた」と両手で顔をこすった。時計に目をやると、もう三時を回っている。陽介は慌てて「布団出すよ」と声をかけ、立ち上がった
こんな時間でも、神崎橋を渡る車の音がふいに浮かんでは消えてゆく。陽介は寝返りをうつと枕に頬を押し当てて、亨と澪の事を考えた。
やっぱりあの二人は特別な関係なのだ。
死ぬつもりで薬を飲み、図らずも生還した澪の眼に亨はどのように映ったのだろう。二人はどんな言葉を交わしたのだろう。その事に思いを巡らせると、あの日、彼女がこのマンションで一夜を明かした時の事が甦ってくる。明け方迎えにきた亨の腕に、食い込むようにすがりついていた彼女の白い指。
本来なら紗代子との今後を考えるべき時なのに、その白い指は陽介が無理やり閉じた瞼の裏側に爪をたて続けた。
13
「大野さんからお誘いあった?」
昼休みに出ようとしたところで、陽介はコンビニの袋を片手に戻ってきた西島さんとすれ違った。
「お誘い?」
「一課の忘年会に来ませんか?って」
「聞いてないなあ」と言いながら、今朝がた彼女がふらりと二課に現れたものの、マダム井上に睨まれて立ち去ったことを思い出していた。
「高田さんが異動しちゃって、彼女すっかり寂しいみたいで。せめて忘年会ぐらいは、前のメンバーで集まりたいって言うから、誘ってみればって勧めたのに」
「申し訳ないけど、遠慮しとくよ。前みたいな事になったら困るから」
「さすがに、もう無理やりお宅訪問はしないとは思うけど。まあ、それが高田さんの意思表示ね」
「まあね。大野さんにそう言っといてくれる?」
「私のこと、伝書鳩扱いしないでください」と、きっぱり拒絶して、西島さんは羽織っていたカーディガンの前を合わせるように腕を組んだ。
「一課で忘年会っていってもさあ、植松さんはあんまり世間話しないタイプだし、野村さんは大野さんが敬遠してるでしょ。かといって吉岡くんはクールすぎて、おまけにちょっと彼女のこと馬鹿にしてるみたいで、気乗りしないらしいわ。いつも、吉岡くんの方が異動すればよかったのに、って文句言ってる」
「どうだかね。案外そういう人同士がくっついたりするんだよ」
「実は私もそう思ってたの。でも不思議ね、大野さんって、カップル成立しそうな相手ほど拒絶するんだから。それで、既婚者とかおじさんには構ってもらいたがるの」
俺は既婚者とおじさん、どっちのカテゴリーだろうか、と思いながら、陽介は「ふーん」と相槌をうった。それがどうやら思い切り適当に聞こえたらしく、西島さんは「つまんない事で引き留めちゃったわね。失礼しました」と、すこしきつい口調で締めくくると、「さっぶう!」と唸りながら足早に立ち去った。
まったく、冗談ではない。もう二度とあんな風に大野さんに上がり込まれるのはごめんだ。紗代子との仲がぎくしゃくし始めたきっかけの一つはあの事だし、その理由は自分が彼女に舐められているからだ、というのが癪にさわる。たしかに、二課のマダム井上みたいに落ち着き払った同僚というのも、何だか味気なくはあるのだけれど、仕事という点では大野さんみたいな相手の方が面倒くさい。だが結局、そんな彼女をうまくやり過ごせない自分が一番情けないのだけれど。
空は薄曇りで、霧のような雨粒が時おり風に運ばれてくる。早い部署ではもう忘年会を済ませたらしいが、そこまで年末気分を味わうにはまだ中途半端な寒さだ。西島さんと立ち話をしていたのが響いたか、目あての定食屋は既にいっぱいで、陽介は座席に余裕のあるファミリーレストラン系の店まで足を延ばした。案の定、そこはまだ空席があり、彼は窓際のテーブルに案内されると和風ハンバーグ定食を注文して、携帯を取り出した。
メールの着信が三件。一つはレンタルビデオの返却日通知で、二つ目は紗代子から。
「クリスマスの件、ありがとう。いろいろごめんね。お歳暮のお裾分けの、野菜ジュース持って行きます」
クリスマスの件、というのは夫婦で毎年交換しているプレゼントの事だった。まあ大体の希望は互いに探りを入れておいて、予算も毎年同じ位で準備しておくという流れになっていたけれど、今年はちょっと休みたい、と紗代子から申し出があったのだ。ペクの病気で頭がいっぱいで、そういう事を考える気分になれないから、というのが理由だった。陽介にしてみれば、紗代子の希望にそって続けて行事だったので、見送り大歓迎だ。なので「こっちは全然OK。気にしないで」と返信しておいたのだ。正直なところ、このまま中止できればいいとさえ思っている。
実際、これまで彼が贈ってきたプレゼントを、紗代子はそんなに喜んでいる風には見えなかった。確かに笑顔で受け取ってはくれるのだけれど、品物を気に入っているというより、贈るという行為が遂行された事に満足しているような印象があるのだ。そして陽介はというと、まあ、貰ったはいいが、わざわざ新調しなくてもまだ使えるのがあるんだけど、という感じの小銭入れやキーケース、手袋やマフラーといった小物のコレクションを増やし続けていた。
たぶん普通の夫婦なんて、こんなに熱心にプレゼント交換なんてしていない。
それが陽介が密かにリサーチして出した結論だった。子供がいる夫婦は、そんなところに回す金も暇もない!といった感じだし、まだ子供がいなくても、ローンだ貯金だと余裕のないところもあったりして、結局のところ彼らと同じ事をしているのは、紗代子の姉、有希子夫婦ぐらいなものだった。まあしかし、紗代子にとって有希子すなわち理想の夫婦なのだからしょうがない。ただ、その彼女も出産を控えているのだから、来年からはどうなるかわかったものではないけれど。
そして三通目のメールの差出人を見たところで、陽介は思わず「あ」と声をあげていた。 「義山」と、取引先の一人みたいに登録してあるけれど、それは澪からのものだった。
「返信が遅れてすみません。土曜日は大丈夫です。お仕事がすんだら連絡してください」
短いけれど、そっけなくはない、というのは自分の思い込みだろうか。
最後に会った時に、今度は二人だけで会いたい、などと口走ってしまった事をひどく後悔はしたけれど、結果としてその願いは聞き入れられた。彼が知っている彼女への唯一の連絡手段は亨の携帯電話だったし、それを通じて彼女だけに接触するというのは無理な話だと半ばあきらめていたのに、彼女は思い出したように、自分の携帯から連絡をくれたのだ。それは亨が突然泊まっていった、翌週の事だった。
彼女はずっと電話しなかった事を詫びると、陽介に東京へ来る予定はあるのか、と尋ねた。だから彼は十二月の半ばにまた出張があると答え、その時に会おうともちかけたのだった。
正直いって、単なる社交辞令で連絡してきたのかとも思ったが、だとしたらそもそも
「二人だけで会いたい」と言ってきた相手に電話などしないだろう。その証拠、というべきか、彼女はすんなりと会う事に同意して、メールアドレスまで教えてくれた。
出張先は正確には東京ではなくて群馬だけれど、まあとにかく東京経由にして、帰りに自腹で一泊すればいいだけの話だ。これまでは彼女に奢られてばかりだったから、今度は全部自分が払おう。とはいえ、彼女の好みそうな場所だとか店だとか、さっぱり想像もつかない。だとしたらやはり、彼女に任せるべきだろうか。少なくとも、全てお膳立てしてもらわないと機嫌が悪くなる、というタイプではなさそうだし。
「何をにやにやしてるんですか?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、目の前に大野さんが立っていた。
「え?そっちこそ何してんの」
「お昼ごはんです。桔梗亭がいっぱいだったから、あきらめて出てきたら、高田さんが前を歩いてたんで、そのままついてきました」
「ストーカー?勘弁してよ」と言いながら、陽介はさりげなく携帯をポケットに滑り込ませた。大野さんは「人のこと変質者みたいに言わないでください」と口をとがらせ、彼の向かいに腰をおろした。
「ちょっと、誰がそこに座っていいって言ったよ」
「これはただの相席です。高田さんとお昼してるわけじゃないです」と彼女が答えたところへ、ウェイトレスが現れた。注文はシーフードオムライス。
「相席なのに、どうして伝票が一つなのかな」
「合理化じゃないですか?」
そう答えてグラスの水を一口飲むと、彼女はまるで業務連絡みたいに「奥さんからのメール見てたんですか?」ときいた。
「何か一人でにやにやして、高田さんの方がずっと変質者っぽかったですよ」
「大野さん、喧嘩売ってる?無理やり俺の前に座っといて、あーだこーだ、何なの一体。こっちは静かに食事したいんだけど」
にやにやしていた、と指摘されたのにちょっと慌てて、半分本気の少し厳しい声でやり返すと、彼女はまだ手にしていたメニューを勢いよくテーブルに伏せた。舞い上がった風が一瞬、陽介の頬を撫でる。何か言い返すのかと思ったら、目を伏せて黙ったままバッグから出した携帯をいじり始めたので、こちらは勢いをそがれた感じになった。
「大野さんてさ、お弁当派じゃないの?」と、とりあえず無難そうな話題に切り替えてみる。
「いつもじゃないです。お母さんには、もう作るの面倒くさいとか言われてるから、よくて週に三日」
「自分で作ればいいじゃない。ていうか、社会人になってからも、ずっとお母さんなんだ?」
「だって朝は時間ないし。でもいいんです、月に二万も入れてるんだから」
うちの給料で二万はちょっと少ないな、とは思ったが、ちょうど料理が運ばれてきたので、陽介はそれを言わずにすんだ。「お先に」と断り、急いで食べ始める。大野さんは相変わらず手元の携帯を見ていたが、「一課の忘年会、来ますよね」といきなり断定してきた。
「俺、もう二課に異動したんだけど」
「でも今年は四捨五入したら一課で働いてた事になるでしょ?忘年会は絶対です。来週の金曜ですからね」
「そりゃ絶対無理。木曜から出張」
「でも金曜の夕方に帰ってくるんでしょ?少しぐらい遅刻しても大丈夫です。二次会からでもいいし」
「いや、別に俺が参加する義務もないし。いいじゃない、いつものメンバーで楽しめば」
「私はあのメンバーじゃ、そんなに楽しくないです」
「そんな事言ったって、会社は別に遊ぶところじゃないんだから。忘年会を手放しで楽しもうなんて発想じたい間違ってんだよ」
いい加減相手をするのも面倒くさくなってきて、陽介はそれ以上何も言わず、勢いを増して食べ続けた。大野さんの前にも湯気をたてたシーフードオムライスが運ばれ、二人の間には沈黙が訪れた。全く、一課は楽しくないだとか言っているが、いつもあちこちうろついて世間話をしている姿は、会社生活を楽しみまくっているようにしか見えないのに。そういえば今朝、二課をのぞきに来た彼女を見かけたマダム井上は「大野さんって、仕事は嫌いだけど会社は好きなのよね」と苦笑していたっけ。
「奥さん、まだ帰ってこないんですか?」
スプーンの先で器用にグリーンピースをよけながら、大野さんはいきなり口を開いた。
「まあね」
「でもちゃんとメールとかしてるんですね」
「別に仲が悪くて別居ってわけじゃないから。あのさ、人んちのこと、そんな風に詮索するの失礼だろ」
「詮索なんかしてないです。高田さんがあけっぴろげに、奥さんからのメールを見てにやけてるだけじゃないですか」
「これは別に、うちの嫁さんからってわけじゃない」と、口走ってから、大野さんの表情の変化で、陽介は自分の言い方がまずかった事に気づいた。
「やーだ、そうなんだ。高田さんって最低」
「なんでそうとるのかな、友達からのメールなのに」
「だったらそのメール、私に見せられますか?本当に友達からだって」
「冗談じゃない、何の権利があってそこまで他人のプライヴァシーに踏み込むんだよ」
「疚しいところがあるんでしょ。判りますよ。さっきのはそういう感じのにやけ方でした」
「それは大野さんの誇大妄想」
「妄想じゃないです。だって高田さんの奥さんも言ってましたよ、あの人は考えてることが全部顔に出る、そこが扱いやすいよのねーって」
どうして大野さんが紗代子とそんな会話をするんだろう。一瞬思考が停まって、それからようやく思い出す。あの日、マンションで鉢合わせして、紗代子が彼女を車で家まで送ったこと。敢えて平静を装って「それは俺がそう思わせてるだけ」と答えておいたが、内心穏やかでない。紗代子が自分で思っている分には仕方ないにせよ、どうしてよりによって大野さんにそれを言うのだ。扱いやすいだとか、「買い」だとか、俺はペットショップで売られている犬ではない。
陽介はもう何も言わず、大急ぎで食事を平らげると、「じゃ、俺ちょっと時間がないから」とだけ断り、千円札をテーブルに置くと立ち上がった。
「お釣り、どうするんですか」
まだ半分も食べ終わっていない大野さんに、「その分だけおごるよ」と答えて、陽介は足早に店を出た。
自販機で買ったコーヒーのカップを片手に部屋へ戻ると、マダム井上が一人、暗いデスクで仕事をしていた。一時までまだ十五分近くあるのに、と思いながら席につき、陽介はノートパソコンで、澪と行くのにどこかいい場所はないかと調べ始めた。小さな美術館なんかどうだろう、下町の散歩もよさそうだけれど、しょせんネットで調べられる場所なんて、おのぼりさん向けのルートだろう。だったらいっそ、超初心者向けの東京めぐりにした方が、彼女にとって物珍しくていいかもしれない。
「高田さん、出張来週だったわよね」
陽介の夢想はマダム井上の低い声で断ち切られた。
「ええ、芹川さんと木、金の二日で」
「直行直帰?」
「そう、ですね。向こうに夕方までいる予定だから」
「じゃあサンプルの上がりは週明けになっても大丈夫って事ね」
「だと思います」と答えながら、陽介は急いでスケジュールを確認した。試作品の最終チェックは芹川さんの責任だけれど、いまの返事で日程的に問題なかったんだろうか。慣れない部署での仕事は全てがこんな感じで、いつも心のどこかに膨らみ続ける風船を抱えているような、落ち着かない気分がつきまとう。そんな彼の様子を見て、マダム井上は「いいわ、芹川さんに直接確認するから」と言った。
「すいません」
「いいのよ。私が質問する相手を間違えただけ」
優しいんだか辛辣なんだか。彼女は自分と五つほどしか変わらない筈だが、妙な貫禄がある。身体はスレンダーなのにな。陽介はこっそり溜息をつくと、まだ十分に熱いコーヒーを飲んだ。
「井上さんて、いつも昼休みこんなに早く切り上げてるんですか?」
「大体そうね。できるだけ定時で終わらせるために。別に他の人にプレッシャー与えるつもりじゃないから、ゆっくりしていてね。さっきの質問は一時を回ってからすべきだったわ、ごめんなさい」
「いや、別にそういう意味で言ってるんじゃないですけど」
彼女があっさり謝罪してきたのに面食らいながらも、陽介は会話を続けた。
「帰りを急ぐのは、子供さんを保育所に迎えに行くからですか?」
「うん、まあ、お迎えはうちの親がやってくれてるから、それを実家に迎えに行くんだけど」
「それでも大変そうだな」
「まあ私なんて楽してる方よ。子供が熱を出しても、親に預けられるから、周りに頭を下げながら休みをとらなくてすむしね。それに、うちの子けっこう丈夫だから」
周りに頭を下げているマダム井上、というのも想像し難いけれど、小さい子供を迎えに行く、母親の顔をした彼女も何だかあまり思い浮かばない。
「ご主人は残業とか多いんですか?」
「そうね、サービス業だから時間が不規則なんだけど、頼めばお迎えなんかはやってくれるかも。でも、私が勝手に何でも背負い込んでる感じ」
「へえ、井上さんだったら、次はこれやって、あれやってって、ご主人に次々指示出してそうなのに」
そう言われて初めて、彼女は「失礼ねえ」と無防備な笑顔を見せた。
「高田さんこそ、家では一度座ったらずっと動かないで、奥さんに頼んでばっかりじゃないの?」
「まさか。俺は会社でも家でも、女性に対しては一貫して低姿勢です」
「そんな事言う人ほど怪しいわ」と、マダム井上が微笑んだところへ、「これ、返します!」という声がして、陽介のデスクに小銭が音をたてて置かれた。桜色のエナメルで彩られた指先。見上げるとそれは大野さんだった。
「さっきのお釣り?奢りだって言っただろ?」
「これっぽっちの金額で、奢った、なんて言い方されたくありませんから。結構です」
どうやら陽介が席を立ってから、猛スピードで食事を平らげ、走って追いかけてきたらしく、彼女は肩で息をしていた。化粧直しすら忘れているようで、きっちりメイクした顔の中でルージュの落ちた唇だけが妙に浮き上がっている。
「そりゃ失礼しました」
なんだこいつ、さっきからずっと俺の神経を逆なでするような事ばっかり。舌打ちしたい気持ちで、陽介は小銭を集めると財布に収めた。今だって基本的にそうだけれど、俺が二十代の頃は人から奢ってもらえれば百円だって大喜びしたものだ。彼女はしょせん実家暮らしのお嬢さんだし、可処分所得が有り余ってるんだろう。
「どうせ奢るんだったら、もっと豪華に奢って下さい!」
「なんで俺が大野さんにそんな事しなきゃいけないんだよ。もうコーヒー一杯だって奢らないから、安心してていいよ」
「なんでそんな意地悪言うんですか?」
だんだん意味不明な展開になってきたな、と陽介が思ったその時、昼休みの終わりを告げるチャイムが流れた。更にマダム井上が「はい、みなさん持ち場に戻ってね」と、駄目押しの一言を付け加えたので、大野さんはまだ何か言いたそうにしながらも、去っていった。
「あーあ、もう、大野さんて本当に俺の事を舐めきってんだからな」
陽介はぬるくなったコーヒーを飲み干すと、力任せに紙コップをつぶしてゴミ箱に投げ込んだ。何の因果でここまで絡まれる必要があるのだ。パソコンの画面は、はとバスを検索しかけたところで止まったままだった。
「愛されちゃって困るわね」と、マダム井上はかすかに笑うかのように口角を上げた。
「え?」
彼女何か答えようとしたところへ外線が回ってきて、二人の会話はそこで途切れた。愛されちゃって困るだなんて、一体どういう意味だ。そう思いながら「はい、お待たせしました、高田です」と電話に出る。棚のファイルを取るため後ろを通ったマダム井上が、少し首を傾けて陽介のパソコンを覗き込んだように見えたが、それは気のせいかもしれなかった。
14
シベリアから今年一番の寒気団が南下するため、明日は首都圏でも降雪の可能性があります。昨夜テレビで見た予報そのままに、今日の東京は冷え込みがきつい上に風が半端じゃない。空は鉛色の雲で覆われて、太陽は頑なに居場所を教えない。
「あちこち歩き回る気になれない天気だね」
傍にあるソファに座って、同じように空を見上げている澪に声をかけると、彼女はにこりと笑って「こんな日は熱いコーヒーが特別おいしいけれどね」と言った。
待ち合わせ場所はどこがいい?と尋ねて、彼女が指定してきたのは、陽介が泊まったホテルからそう遠くない輸入家具のショウルームだった。確かに、混雑してないし、静かだし、座る場所はあるし。人の多いコーヒーショップだとか、広すぎる書店よりも良い選択だと思えた。
タクシーでここまで来たという彼女は、カシミアらしい光沢のあるコートを腕にかけ、その下にインディゴの薄いニットを着て、膝丈のフレアスカートの足元はロングブーツだった。襟元には陽介がむかし紗代子に贈ったものの倍ほどはある、ダイヤのペンダントが光っている。
「じゃあ、コーヒーでも飲みに行こうか?」
澪の言葉をうけてそう提案してみたが、彼女は「まだそこまで冷えてないわ。ねえ、ちょっとだけ家具見るの、つきあってもらっていいかしら」と言った。もちろん異存などない。
「陽介さんがこの近くに泊まるっていうから、ちょうどいいと思って」
彼女はそのまま彼の先に立って、ショウルームに入っていった。何度も来たことがあるらしくて、迷う気配もなくダイニングテーブルやベッドのコーナーを抜け、ソファの展示されている一角に着く。
「静香おばさまのところのソファを、猫ちゃんたちが駄目にしちゃったの」
「ひっかいたとか、そういう事?」
「駄目って言ってるのに、爪とぎするのよね。もう買い替えるのは何度目かしら。適当なの選んでおいて、って頼まれていたんだけれど、時間がなくって」
そう言いながら、澪は柔らかそうな皮張りのソファの間をゆっくりと歩いてゆく。横目で値札を確かめてみると、ボーナス一括払いでも無理そうな金額がついていたりする。しかし彼女は金額には興味がなさそうで、むしろ問題なのは大きさだとか、手触りだとか、そういう事らしかった。
「コート、持ってようか?」
澪がアイヴォリーの三人掛けのソファの前で足を止めたので、陽介はそう声をかけた。「ありがとう」と、答えた彼女が差し出すコートを受け取ると、それは見た目よりもずっと軽く、深い森を思い出させる香りに柔らかく包まれていた。
「今、使ってるのにこれが一番近いみたい。猫ちゃんたち、自分でソファを駄目にしちゃうのに、ソファを変えると嫌がるのよね。新しいソファが入ると、みんなしばらく遠巻きにして見ているんだって」
そう言って彼女は座り心地を試すように腰を下ろし、「陽介さんはどう思う?座ってみて」と彼の意見を求めた。
「どうもこうも」と言いながら、陽介は遠回りして彼女の反対側の端に軽く腰かけた。自宅にいるかのようにくつろいでいる澪とは対照的に、背筋を伸ばし、いつでも立ち上がれる体勢だ。
「俺には十分すぎるほどいい座り心地だよ」
「そう?私には少しクッションが弱いみたいに思えるけど。身体が沈んじゃう感じ。でもまあいいわ、あれこれ迷っていてもきりがないし」と、自分に言い聞かせるように宣言して、澪は身体を起こし、先ほどから遠巻きにこちらの様子を伺っていた、若い女の店員に声をかけた。どうやら澪はこの店では上顧客らしく、短いやりとりの後にマネージャーらしきスーツ姿の男性が急ぎ足で現れると丁重な挨拶をした。
「また買い替えたいんですけど、このソファのサイズで大丈夫だったかしら。少し大きいような感じもして」
「はい、すぐに確認して参ります」と軽く頭を下げ、男は再び足早に去ってゆく。まだソファに腰掛けたまま、澪は「このお店にね、静香おばさまのお家の図面を預けてあるの。わざわざ測ったりしなくていいから、楽でいいわ」と言った。立ち上がるタイミングを見失っている陽介は、彼女のコートを抱えたままで「なるほど」と感心するしかなかった。
「私が結婚した時に、ちょうどいいからお家を改装しましょうって話になって、最初はここのコーディネーターさんが、インテリアを全部選んで、配置も決めてくれたのよね。でも静香おばさまのところは猫ちゃんたちが予想以上に大暴れしちゃって、ソファだとか、カーテンだとか、もう何度も買い替えてるの。おばさまはいつも、澪ちゃんにお任せするわ、って言うんだけど、難しいのよね」
「まあ、家具ってそうしょっちゅう買うものじゃないから」
「でも、陽介さんのおうちって、すごく素敵だったものね。あれはやっぱり奥さんのセンスがいいからだと思うわ」
ここで紗代子の話は持ち出されたくないな、と居心地の悪さを感じながら、陽介は最近の独身生活で、日に日に雑然としてきたリビングだとか寝室の様子を思い浮かべていた。紗代子も掃除はしに来てくれるものの、自分ひとりでいるとあっという間に散らかってくる。
夫婦の間では「片づける」という言葉の意味が完璧に一致していないようで、彼が「片づけた」と理解しているものでも、紗代子にとっては「積んである」とか「立てかけてある」としか見えないものが多々あるらしかった。
「このソファのサイズですと、前回お買い上げのものより若干幅が狭くなりますので、スペースとしては余裕があります」
マネージャーらしき男性は、いそいそと戻ってくるとそう告げた。澪は「じゃあ大丈夫ね」と頷き、次の瞬間にはもうカードを取り出していた。
「できたら明日、配達してもらえたら」と、最後まで言い終えない内に、マネージャーは「そのように手配させていただきます」と頭を下げ、カードを押し頂いた。陽介はさりげなく立ち上がると、背もたれの裏にある値札をチェックしてみたが、やはり冬のボーナス全額でも払いきれない立派な値段がついていた。
「ふう、用事がひとつ片付いてすっきりしちゃった」
ショウルームのドアを抜けると、澪は指を組んだ両腕を軽く前に伸ばした。その時ようやく、コートを陽介に預けたままだった事に気づいたらしい。
「ごめんなさい、私ったら自分のお買いものに気をとられちゃって」
「いや、こんなところ滅多に来ないから、いい勉強になったよ」
そう言ってコートを広げてやると、彼女は慣れた様子で「ありがとう」と袖を通した。思えば自分は元々こういう気遣いを全くしない人間だったけれど、紗代子に口うるさく言われたおかげで、多少は気働きのできる男の真似事ができるようになった。今ので少しは点数がとれたのか、彼女にとっては当たり前すぎて評価の対象になっていないか、どちらだろう。亨であればどうなのか、彼女の夫はどうなのか。
「ねえ、ついでにもう一つ、つきあってほしい場所があるんだけれど」
頬にかかる髪を一筋かき上げて、澪は陽介に微笑みかけた。もちろん、その方が気楽な事に間違いはないから、陽介は自分なりに組み立てたはずのプランをあっさりと放棄して「いいよ。一つでも二つでも」と答えていた。
二人を乗せたタクシーは欧州の建物を思わせる、黒っぽい煉瓦造りのビルの前で停まった。そこは小さな画廊で、ショーウィンドウには、団子のように絡まりあって眠る猫たちを上から見下ろした構図の、新聞を広げたほどの大きさの絵が飾られていた。その下に「マブチマミコ個展 ねこのうちゅうきらきら」と書かれたプレートが出ている。
陽介がドアを引いて開けると、澪は「ありがとう」と先に入る。マブチ氏は不在らしくて、留守番と思しき青年が一人で受付をしていた。澪は途中で立ち寄った店で買った手土産のチョコレートを預けると、慣れた様子で芳名帳に名前を書いた。「陽介さんもどう?」と勧められたが、こんな場所に足跡を残していって、何もいい事はないだろうと遠慮しておいた。
画廊は思ったよりも奥が広くて、陽介たちの他にもう一組、OLらしい女性の三人連れが、ひそひそ声で談笑している。展示されているのは絵の他に、掌に載るほどの木彫りだったり、焼き物だったり。ただ、そのモチーフは全て猫だった。
「この人と知り合いだったりするの?」
「静香おばさまがね。一番可愛がってた子が夏に死んじゃって、少しでも思い出を残しておきたいからって肖像画をかいてもらったの。だから本当はおばさまが来るべきなんだけど、このごろ少し風邪気味だから、行ってご挨拶しておいてって言われてたの」
「肖像画って、猫、だよね?」
「そうよ。まあ、死んじゃった後だから写真を何枚か用意して、それを見て描いてもらったの。でもとてもよく描けていて、おばさまもベルちゃんが生き返ったみたいって喜んでたわ」
正直言って、いくら可愛がっているとはいえ、飼い猫の肖像画を画家に頼むというのは陽介には理解できない。でもまあ、紗代子もそういう事を言い出すかもしれないし。後学のためには少し話を聞くべきだろうか。目の前に掛かった、深紅のクッションの上に座るシャム猫の絵を見ながら、陽介は「これって油絵?」と尋ねた。
「この人の作品は技法でいうと日本画ね」
「そうなんだ。日本画っていうと、お城の襖とか屏風みたいなイメージしかなかったなあ。澪さんてこういうの、詳しいの?」
絵画といえばまあ、「モナリザ」がどんなものかは知っている、という程度の陽介にとって、油絵と日本画の違いを説かれても大してぴんと来ない。だいたい、画廊という場所に足を踏み入れるのだって、今日が初めてだったりするのだから。
「大学で美術史とか勉強していたから、普通の人よりは詳しいかもしれないわね」
「美術史?いつの時代が専門?」と質問したものの、答えを聞いたところでその意味するところは多分わからないはずだ。澪はそんな陽介の心中も察しているかのように、軽く笑うと「安土桃山時代。派手好きなのかもね」と答え、「ねえ、自分の肖像画って描いてほしい?」と、話題を変えた。
「いやあ、別にいらないかな。そんな立派な人間じゃないし。俺、写真もあんまり撮られたくないんだけど」
「そうね、自分じゃ必要ないかもしれない。でも、死んだ後の思い出として、誰かに持っていてもらうとしたら?」
「うーん、写真があればそれでいいかな?でも絵の方が多少は美化してくれるから、そっちの方がいいのかもね。でも外国の貴族みたいなのはありえないな」
次から次へと続く猫の絵に、内心少し呆れながら、陽介は「澪さんはどうなの?俺はむしろ、澪さんぐらい綺麗な人なら肖像画にする値打ちはあるって気がするけど」と尋ねた。
「私は別に、死んだらそのまま忘れてほしいと思ってるわ」と答えたが、その横顔をよぎった一瞬の翳りに、陽介はこの間、亨から聞かされた話を思い出していた。ネットで見つけた自殺サイトに誘われて、集まったメンバーの中にいた亨と澪。亨はもうそんな事は考えもしないと言ったけれど、彼女の方はどうなんだろう。
「不思議ね、うちの静香おばさまを見ていると、人間よりも飼っている猫ちゃんを亡くした悲しみの方が深いように思えるのよ。私の父や兄が亡くなった時よりも、夏にベルが死んだ時の方がずっと辛かったみたい。じっさい、眠れなくなって、食事もできなくなって、私本当に、このままおばさまが亡くなってしまうんじゃないかって思ったほどよ。だから、私が死んでも、後に残った人にはそんなに悲しんでほしくないの。あっさりと忘れてほしいのよ」
それが君の死にたいと思った理由?そう質問できるわけでもなく、陽介はただ、「でもまあ、澪さんのおばさんは、その猫の肖像画を描いてもらったことで少しは気が休まったんだろう?」と言った。
「それはそうね。ベルはやっぱりおばさまには特別な猫だったから」
「でもさあ、澪さんって本当にその、おばさんの事を大切にしてるんだね。今日だって、ソファを選んであげて、ここに個展を見にきて、全部おばさんのための用事だし」
そう言われて、澪の表情は一瞬だが凍りついたように見えた。それからすぐに目を伏せて、微かに笑顔を浮かべる。
「確かにね。さあ、もう行きましょうか」
まだ見ていない絵は数点あるのに、それを気にかける様子もなしに踵を返す。あまりに唐突な彼女の変化に、陽介はもしや自分の言葉が何か気に障ったのではないかと不安になった。しかしそれを質問できるような雰囲気でもなく、澪は陽介を後に残したまま留守番の青年に別れの挨拶を告げ、ドアに手をかけていた。
外に出ると、空気は朝よりも更に冷えているように思えた。空は鈍い色に沈み、風花が時折思い出したように舞い降りてきては、頬にあたって溶けてゆく。そんな中で澪は何も言わず、陽介の存在も忘れてしまったように先に立って歩き続けた。やっぱり俺は何か彼女の機嫌を損ねる事を口走ったらしい。舌打ちしたいような気持で陽介は澪のブーツの踵が刻む軽快なリズムを追いかけて、画廊の前の緩い坂道を上った。
猫、おばさん、肖像画、ソファ、死ぬこと、忘れること。
自分の何がいけなかったのか、陽介はさっき口にした言葉を次々に思い出してみた。その目の前、手を伸ばせば届きそうな場所で、澪の艶やかな髪に乾いた雪の結晶が舞い落ちる。少し俯き加減で、まるで約束の時間に遅れまいとしているように、彼女は歩き続け、陽介はその後をついて行く。角を曲がり、高級そうなブティックだとか、作家ものらしい器の店だとか、チョコレート専門店だとか、紗代子が時々買ってくる、セレブ御用達総カタログといった雑誌でしか見かけないような店が続く通りに出て、それからどうやら学校らしい敷地の塀に沿って延々と歩く。次の角を曲がり、信号を渡って、小さな公園を越え、クリスマスの飾りつけをすませた教会の前を過ぎて、パン屋とビストロと花屋と骨董屋を通り越して、また角を曲がる。
行き交う人はほとんどなく、車もあまり通らない。ここは一体どこだろうと訝りながら、陽介はポケットに手を突っ込んだまま、澪の影のように歩き続けた。雪は徐々に勢いを増し、目の前にレースのカーテンが降りてきて、風になびいているかのようだった。乾いた雪の粒はまるで金平糖のようにコートにぶつかっては転がり落ちてゆく。そして肌に触れたものは、身体の熱を奪って溶けていった。陽介はだんだんと澪のことが心配になり始めた。こうして一心不乱に歩き続けたところで、身体が温まるというほどになっているとは思えない。
「澪さん」
思い切って声をかけた。だが反応はなく、彼女は尚も前へ前へと歩を進めて行く。
「澪さんってば!」と、陽介は少し大きな声を出し、小走りに追うとその肩に手をかけた。瞬間、彼女はまるで見知らぬ人に突然声をかけられたかのように、目を大きく開いてこちらを振り返った。その顔色は寒さのせいか随分と青ざめている。
「どこかで一休みした方がいいんじゃない?こんなに雪が降ってるのに、ずっと歩いてたら風邪ひくよ」
そう言葉をかけた短い合間にも、風に踊る雪が口に飛び込んできそうだった。澪の長い睫毛に落ちた白い結晶が、見る間に透明な雫へと変わっていったが、それでも彼女は黙ったままだ。やっぱり俺のこと、怒っているんだろうか。ここで別れを告げて立ち去るべきなのか、傍にいた方がいいのか、途方に暮れそうになった彼に、澪は小さな声で「私、ずっと歩いてた?」と尋ねた。
「ずっと、っていうか、十分ぐらいかな」
「気がつかなかった」と呟いた唇から、長い吐息が白く溢れてゆく。
「何か俺の言ったことで、怒ったのかと思ったんだけど」
「そんな事ないわ」と答える彼女は、少しだけふだんの様子を取り戻したように見えた。風に乱れた前髪をかき上げ、それからいきなり「手が冷たい」と、細い指先をこすりあわせた。
「当たり前だよ。こんな雪の中を、手袋もせずに歩き回ってるんだから」
陽介は彼女の凍えた手を温めようと、ふたつの掌で包み込んだ。その指先の冷たさが、自分のしている事をあらためて知らせてくれたが、だからといって今更、両手をポケットに戻すわけにもいかなかった。
15
「東京のカフェって、色んなものがあるな」
陽介は感心したいような気分で、壁の小さな黒板に書かれたメニューを眺めていた。だからといって何か珍しいものを頼もうという冒険心は持ち合わせておらず、自分はコーヒーにして、澪の注文したホットオレンジなるものの味を少しだけ想像してみた。
「絞りたてのオレンジジュースに少しリキュールが入っていて、暖かいから余計に甘いわ」
そう言う澪の頬は、アルコールのせいもあってかほんのりと赤みを帯びていた。アンティークめいた金属のホルダーにおさまったグラスの受け皿には、香りづけに添えられていたシナモンスティックが置いてある。やっぱりこれは女性しか好まない飲み物かもしれないな、と思いながら、陽介は「うちの街でこういう店やったら、流行るかなあ」と呟く。
深い色調の木材をふんだんに使った内装で、狭いけれど天井は高くて、照明は控えめで、椅子もテーブルも小さくて、立ち飲みもできるカウンターがあって、縦長の窓から外がよく見える。新婚旅行で紗代子と訪れたパリには、こんなカフェが沢山あったけれど、どうも日本の喫茶店ほど寛げないと感じた記憶がある。あの時紗代子は、こんな機会ぐらいしか海外には行けないから、とヨーロッパ周遊を主張したけれど、陽介はむしろ国内でゆっくりしたかったのを思い出す。
「お店やってみたいとか、思ったりする?」
澪はすっかり落ち着いた様子で、陽介に尋ねた。雪の中を取り憑かれたように歩き続けた彼女をようやくつかまえて、それからどこか、暖かいものでも飲める場所はないかと探して、真っ先に目についたのがこの店だったのだ。ここのドアを開けるまでの短い距離ではあったが、陽介と澪はまるで恋人のように手をとり、身体を寄せ合って歩いた。
「現実逃避って意味では考えるね。喫茶店だけじゃなくて、蕎麦屋とか、自転車屋とか。でも俺って多分、人に雇われてるのが一番向いてるんだ」
なんでこんな話してるんだろう。
いま、陽介が一番気をとられているのは、先ほどの澪の突然の変調だった。あれは一体何だったのか?聞きたいが、平静を取り戻したかのように見える彼女の変わりようこそが、あれは何か触れてはいけない事だったと告げているように思えた。
「でも、澪さんはその年で経営者だもんな。尊敬するよ」
「そんな大したものじゃないわ。うちは普通の会社とも違ってるでしょうし。子供が真似事で遊んでるのと大差ないかもしれないわ」
「でもちゃんと回ってるんだろ?」
経営状態に首を突っ込むのは不躾だとは思うのだが、やはり興味はある。澪は「私、これまでちゃんとした会社で働いた経験がないから、よく判らないわ」と、軽い溜息をついた。
「大学院を中退して、それから…今の仕事を始めたの」
「大学院?それってさっき言ってた、美術史の?」
「そう」
「すごいね。でも中退って、なんだか勿体ないなあ」
「まあ、私なんて研究者になる目標がはっきりしていたわけじゃなくて、ただ先生に勧められたから院に進んだようなものだったの。でもね、一緒に勉強してた人に言われたわ。みんな限られたポストを狙って必死で頑張ってるんだから、あなたみたいに結婚していて、生活を保障されて、中途半端な気持ちの人は、他の人に道を譲るべきだって」
「いや、それは何か、言う相手を間違えてるんじゃない?」
「でも、私は彼女の言うとおりだと思ったの。しょせん自分なんて特別に才能があるわけでもなくて、ただ学生生活を引き伸ばしてるだけだって」
「でも学校だって生徒が納める学費で儲けてるんだから、そこは気にしなくていいんじゃないの?」
「もしかしたら陽介さんの方が正しいのかもしれない。でもその時私は、出て行けと言われたように感じたの。自分が結婚してるって事は、あまり言わないようにしていたけれど、いいわよね、自分が働かなくても大丈夫な人は、なんてよく言われたわ。別に意地悪じゃなくて、単純に、うらやましいって風に。でもそんな事が繰り返されると、色んな事が段々とわからなくなるの」
そこで澪は言葉を切って、まだ雪が断続的に降っている窓の外に視線を投げた。その放心したような様子がさっきの、突然歩いていってしまった時に似ていると気付いて、陽介は胸騒ぎを覚えた。自分はいつのまにか、また余計な質問をしているようだ。
「ま、済んだことをあれこれ言っても意味ないよな」
かなり唐突だというのは百も承知で、陽介は己の能天気さを総動員した声でそう言った。澪は虚をつかれたように、ぽかんとした顔つきでこちらに視線を向けたが、ややあって穏やかな笑みを浮かべた。
「どうして亨さんと陽介さんがずっと仲良しなのか、わかったような気がする」
「え?」
ここで亨の名を出すのは反則だろう、と一瞬思ったけれど、どこか不安な方へ傾いていた話の流れが切り替わった事に、陽介はとりあえずほっとしていた。
「男どうしが三十過ぎて、仲良しって言われるのも何だかなあ。それに俺たち、何年も会ってなかったんだから、その定義からは外れるんじゃないかな」
「だからこそ、じゃない?何年も会ってなくても、普通にお友達でいられるんだから」
「さあ、男どうしってそんなもんだと思うよ。いったん友達だと思ったら、よっぽどの事がない限りはずっとそのまま」
そう答えながら、陽介はカップに少しだけ残っている、冷めたコーヒーを飲み干した。ちらりと腕時計を見ると、もう一時を回っている。さてどうするか、迷いはあったが、思い切って「ねえ、俺はそろそろお腹が空いてきたんだけど、澪さんはどう?」と尋ねた。ここでありがちな気まずいパターンは、私は別に…という奴だが、予想に反して澪は「そうね、何か食べたいわ」と言った。
またタクシーを拾って、澪は贔屓にしている老舗の小さな洋食屋に案内してくれた。陽介はここの看板メニューだという分厚いカツサンドを食べ、彼女はハーフサイズのマカロニグラタンを注文した。食事を終えて外に出ると、雪はようやく止んでいたが、ガードレールや停められた車の上にはうっすらと白く積もっていた。
相変わらず太陽は分厚い雲の向こうで、これから深まってゆく冬を予感させるような、弱々しい光しか与えてくれない。それでも食事をしたおかげで身体が温まり、何かが切り替わって、二人は落ち着いた足取りで街を歩いた。あと十日もすればクリスマスという事もあって、通りすがりにのぞく店は必ずといっていいほど、ツリーや雪だるまなどの飾りがほどこされていた。
そんな風に街を歩くのは確かに楽しかったが、陽介の気持ちはいま一つすっきりしなかった。多分、今日の自分たちはこれ以上気分が高揚するという事はなくて、あとしばらくしたら澪は「じゃあ、私はここで」とか言って帰ってしまうに違いない。しかし原因は、自分がそれと知らずにおかした過ちにあるのだ。もし時間を巻き戻せるなら、画廊に足を踏み入れる少し前からやり直したかった。
「…とかある?」
気がつくと、澪が何か尋ねている。
「ごめん、ちょっとぼんやりしてた」
「奥さんに買って帰ってあげたいものとかある?って言ったの。もうすぐクリスマスだし」
「ああ、いや、確かにせっかく東京に来てるわけだけど、今年はプレゼントをやめにしようって、言ったところなんだ」
「そうなの?どうして?」
「いや、前に確か言ったと思うけど、彼女の実家にいる元飼い犬が病気で、とてもそんな気分じゃないんだって」
「確かに、それは仕方ないわね」
「でもさ、俺としてはその方が気楽なんだ。プレゼントなんか誕生日だけで十分だよ」
そう言うと、澪はくすん、と諦めたように笑った。
「やっぱり男の人ってそういうものなのね。うちの夫は、欲しいものは自分で買えばいいんだから、プレゼントなんて意味がないって言うの。だから私、彼から何も贈ってもらった事ないのよ」
「それはちょっと合理的過ぎるな」
人の配偶者をどこまでけなしていいものか、判断に迷うところだけれど、ここは女性寄りの意見を出しておくことにした。
「じゃあ、澪さんもプレゼント何もしないの?」と尋ねると、彼女は少し目を伏せた。
「結婚して最初のクリスマスに、ペーパーウェイトをあげたの。綺麗な青い色ガラスで、中に空気の粒がたくさん封じ込められているのが、海みたいな感じがして素敵だと思ったのよね。でも、彼はその包みを開けもしないでこう言ったわ。僕が君と結婚したのは、君の家の財産がこれ以上浪費されないように管理して増やすためだ。僕は必要なものは全て自分で手配するから、今後僕のためにこういう無駄遣いをするのは一切やめなさい」
「いやあ、なんていうか、はっはっは」
率直に言って凍りつくような話だが、敢えて笑ってごまかすしかない。ところがその話をしている当の本人である澪も、仕方ないという感じで微笑を浮かべていた。
「呆れちゃうでしょ?おまけに、返品するからレシートをくれって言われたの。今じゃ笑えるけど、その頃はまだ高校生だったから、何だか落ち込んじゃった」
「俺だったら、今でもそんな事言われたら立ち直れないと思うな。でもさ、澪さんがずっと年下だってわかってて、そんなに厳しいこと言う人なの?」
「悪気はないのよ。真面目で頭がよくて合理的なだけ。彼からすると私の話って半分以上は無駄みたいで、必要な事だけまとめて話しなさいってよく言われるわ。こんな風に言うと意地悪な人みたいに聞こえるけど、そうじゃないの。意地悪をするっていうのも彼には無駄な事。だから何ていうか、とっても公平で冷静なの」
「その、ご主人って澪さんと結婚するまでは何の仕事してたの?司法関係?」
「どこかのシンクタンク。でもどんな研究かよく知らないわ。一度きいてみたら、君に言っても理解できないから話す意味がないって」
そんな男と一緒にいて何が楽しいの?女友達なら率直にそう質問するところだろう。陽介の脳裏を、あまり幸福とはいえない結婚生活を送っている、紗代子の友人たちのエピソードがよぎっていった。彼女たちとのランチや飲み会を終えて帰ってきた紗代子はいつも、自分の割り切れない思いを整理するかのように、その日の会話を陽介に語って聞かせるのだったが、男である自分から見て、それは妻のわがままだと思える話もあれば、自分にも少し思い当たる節があったり、同性ながら庇う理由を見つけ難いケースがあったり、様々だった。しかし澪の話は何だか、それとはレベルが違う感じだった。
「頭の良すぎる人ってのは、難しいもんだね」
言いたい事は他に山ほどあったが、それを口にしたところでどうにもならない気がして、陽介は敢えてお茶を濁すことにした。澪だってきっと、嫌になるほど何度も考えたに違いない。
「そうね。私、一度でいいから夫婦喧嘩をしてみたいって思ってるの。どんな気分がするかなって」
「そんなの経験しない方がいいよ。本当に下らないから」
「じゃあ陽介さんは夫婦喧嘩したことあるのね」
「もちろん。必ずこっちが先に謝るけどね。これは生活の知恵で、本当は納得してない時もあるけど、何かと楽だから」
「そうなの?」
「世の中なんてそんなもんじゃない?それとも、サラリーマン根性のせいかな。長いものには巻かれろって」
「奥さんの方が長いのね」
「そうだね」と頷いて、陽介はしばらく考えに沈んだ。紗代子が長いのか、紗代子をとりまくものが長いのか。彼女の両親だとか、姉の有希子だとか、大勢の親戚だとか、彼女の地元に住み続ける事だとか。要するに、俺は名実ともに完全アウェーなのだ。
でも仕方ない。何からどう逃れたいという、はっきりとした不満があるわけでもないんだから。何故だかその時、陽介は澪が夫に対して感じている事を少しだけ判ったような気がした。すると自然に手が伸びて、隣を歩く彼女の指先を捉えた。さっき食事をして温まった筈なのに、その細い指は相変わらず冷たい。一瞬、戸惑うかのような反応があったけれど、彼女はすぐに力を抜いて彼の掌に自分の柔らかな掌を添わせた。
「もう今日は、お互いの相手の事を言うのは止めにしよう」
陽介はそう言うと、澪の身体を引き寄せ、つないだ手を自分のコートのポケットに入れた。ぴたりと寄り添った彼女の腕から、ほんのりと暖かさが伝わってくる。通りは緩やかな下り坂で、そのせいもあって二人の歩調は少しだけ早くなる。澪は俯いたままで「わかったわ」とだけ答えた。
16
この家は気前がいいのか、そうでないのか、いま一つよく判らない。陽介は複雑な心境で箸を擱くと、「ごちそうさまでした」と言った。紗代子のせいで日ごろ不自由させているお詫びも兼ねて、クリスマスイブはうちでご馳走するから、というのが義母の招きの言葉だったが、サラダにポトフ、フライドチキンとスパニッシュオムレツ、どれも味に文句はないけれど、絶対量が少ないというか、よく言えば上品すぎて、何だかあまり食べた気にならなかった。
「まだこれからケーキを食べなきゃならないものね」と、義母にとってはそれなりに考えての量だったらしい。初老ともいえる年代の彼らは十分なのだろうし、紗代子も普段から小食だ。そういえば高校時代、家に遊びに来た伯母が、陽介と兄の食べっぷりに仰天した事があったが、娘しか育てていない義母には、男子の食欲がどれだけのものか想像できないのかもしれない。それを思うと、この前のすき焼きは破格の大盤振る舞いだったのだと、改めて残念になった。
「群馬に出張で、東京のおみやげ、か」
紗代子は、彼が買ってきたクッキーの箱を開けると、早速つまんでいる。
「だってさ、群馬じゃ仕事ばっかりで、買い物なんかしてる暇なかったんだよ」
「それで帰りに東京で二泊でしょ?いくら雪で足止めくったからって、一泊自腹だなんて勿体ない。有希ちゃんちに泊めてもらえばよかったのに」
「次はそうする」
「次はちゃんと天気予報チェックして、早目に帰ってくればいいの」
紗代子はそう言い切ると立ち上がり、義母を手伝ってテーブルを片づけ、コーヒーメーカーをセットした。東京からの帰りが一日伸びてしまった事の言い訳を、彼女はどうやら信じているらしい。せっかく一泊したのだから少しうろうろして、夜の新幹線で戻ろうと思っていたら、突然の雪で運休になったので仕方なくもう一泊した、という具合。
「でも本当に、どうして有希子に連絡しなかったの?喜んで泊めてくれたのに」
冷蔵庫から出してきたケーキの箱をテーブルに置き、義母も話に加わってくる。
「いや、どうせ都内での移動も大変だから、近くの空いてるホテルに入った方が確実だと思って。タクシーもバスもすごい行列だったけど、全然動いてないみたいだったし」
「まあ、野宿せずにすんだだけでもよかったわね。陽介ってさ、優柔不断だから、迷ってるうちにホテルの部屋も取り損なう可能性があったわよ」
「紗代子ったら、そんな意地悪を言うもんじゃないわよ。でも陽介さん、ケーキはすぐに選べるわよね。丸いのは切り分けるのが大変だから、普通のを四つ買ったんだけど、どれがいいかしら?」と、義母はケーキの箱を開けると、陽介の方に向けた。こうやって優先権を与えてもらうと、何だか大事にされているような気分になるのだから、我ながら単純だと思う。
「じゃあ俺、チョコレートの奴」と、選ぶと、紗代子がすかさず「ほらね」と笑った。
「私ぜったいに陽介はこれを選ぶと思ってた。何種類かあるとまずチョコレートで、チョコが何種類かあると必ず生チョコなんだもの」
「あら、男の人ってそんなものじゃない?お父さんは必ずこれだものね」と言いながら、義母はモンブランを皿にのせて義父の前に置いた。
「ケーキなんてどれも似たような味だからな。いちいち名前を覚えるのも、選ぶのも面倒だ」
義父は皆の会話の何が面白いのか、今ひとつ判らないといった顔つきでフォークを手にすると、モンブランを食べ始めた。
「お父さん、いまコーヒー入れるからちょっと待てば?」
紗代子は呆れたように言いながら、コーヒーをカップに注ぎ分けた。それから自分と陽介の二杯目分をセットしてからテーブルにつく。とはいえ、義母も必ずショートケーキだし、毎回違うものを食べているのは紗代子だけだ。
「これね、クリスマス限定なんだって」と、少々自慢げに、クリームの上に所せましと盛りつけられたブルーベリーやラズベリーをフォークですくって口に運ぶ。
「本当に、うちの男の人って遊び心がないっていうか、好奇心が足りないわよね。いつも同じのがいいって、保守派なんだから。人生の楽しみを見過ごしてるようなもんじゃない?」
「何言ってるの。そういう人こそ真面目で、ちゃんと働く人なんだから。ねえお父さん」
せっかくの義母のフォローも耳に入らない様子で、義父は淡々とモンブランを平らげ、入ったばかりのコーヒーをブラックで一気に飲み干すと「風呂に入る」と立ち上がった。食べかけのショートケーキを置いたまま、「お湯、ちゃんと入ってるかしらね」と、その後を追った義母の様子を横目で見ながら、紗代子は少しいたずらっぽい顔で「本当に、タイマーでも内蔵されてるみたい」と笑った。
「マイペースなんだな」と答えながらも、陽介は義父がこれまで何十年もの間、本当に時計仕掛けよろしく職場と家を往復し続けてきたのだろうかと疑問に思った。少なくとも今の自分は、何かがずれ始めていて、それを無理やり戻すべきかどうか、見極めかねている。そう、俺は必ずしもチョコレートケーキばかり選ぶ人間ではないのだ。自分でも知らなかったけれど。
あの日、土曜の午後、澪と寄り添って長い坂を下りながら、陽介はあらためて彼女に提案した。
「ねえ、これから俺が帰るまでは、澪さんの行きたいところに行こう。何かやりたい事でもいいし」
「行きたいところ?」
「うん、別にどこだっていいんだ。俺は今日、ただ澪さんに会いかっただけだし、その目標はもう達成できてるわけだから。すごく下らないことでもいいから、何がしたいか言ってみて」
本音を言えば、この後一体どうすればいいのか途方に暮れているのは自分で、実は彼女に主導権を委ねようという、狡いといえば狡い考えでもあった。澪はそれを察しているのかどうか、しばらく黙って歩いていたが、ようやく「怒ったりしない?」と言った。
「しないよ」と答えながら、何かとんでもなく高いものでもねだられるんだろうかと、しけた考えが脳裏をよぎる。
「私なんだかとても眠いの」
「それは退屈してるってことかな」
「違うわ。ただ眠いの。退屈してるわけじゃない」
「じゃあ、家まで送るよ」
「家にはまだ帰らない。よく使うホテルがあるから、そこでしばらく休みたいの」
これは彼女なりに誘っているんだろうか。陽介はしかし、事態をそこまで楽観的にとれず、肩すかしをくった場合も考えて「わかった」とだけ答えてタクシーを拾った。
よく使うホテル、と言われて、まあ大体この位、と人が普通に想像するのはどんな感じだろう。澪の場合それは所謂五ツ星クラスという奴で、しかもかなりの高層階で、晴れた日なら富士山でも拝めるのではないかと言うほどの眺望を誇っていた。ふらりと立ち寄ってチェックインしただけで、いつものお部屋をご用意いたします、と言われたのには呆気にとられたが、そこがダブルルームだったので更に驚いた。
「私、広いベッドが好きなの」と言いながら、澪はソファの上にバッグを落とし、コートを脱ぎ捨て、ブーツも分厚い絨毯の上に転がすと、ニットとスカートのままでベッドに入った。陽介はただ茫然と見守るしかない。彼女はここに向かうタクシーの中からほとんどしゃべらなかったけれど、その様子は本当に眠そうで、枕に頭を預けるとようやくこちらを見上げ、「眠ってる間、私のこと一人にしないでね。もし帰りたくなったら、起こしてくれていいから」と言った。
「いや、ずっとここにいるよ。大丈夫」と言ってはみたものの、そのまま目を閉じて本当に寝息を立て始めた澪を見ていると、一体どれくらい眠るつもりなんだろうと不安になってきた。まあ、「しばらく休む」と言ったんだから、それなりの時間だろうけれど。
とりあえず、コートを拾い上げてクローゼットのハンガーにかけ、ブーツを揃えてベッドの脇に置き、バッグをライティングビューローの上にのせると、陽介は部屋を一周してみた。ダブルベッドを置いても狭く感じないだけの余裕がある広さで、角部屋なせいか台形に近い形をしている。バスルームも広く、アメニティも何やら充実していて、これを利用せずに帰るのもなんだか勿体ないなと思いながら、陽介は部屋に戻り、窓際に立った。
タクシーで移動している頃から急に空が暗くなっていたが、また雪が降り始めている。朝方とは違ってこんどは湿った感じのぼたん雪で、しばらく見ている間にもどんどん降り積もっているのが判った。それに合わせるように外は暗さを増し、街のあちこちに散在していた明かりは徐々につながり合って、夜景へと移り変わっていった。
外がすっかり暗くなり、夕闇が部屋を満たしても澪はまだ眠り続けていた。陽介は何度か彼女の傍に立ち、その寝息がかかる程に顔を寄せてみたが、彼女は本当に深く眠っているようだった。雪は一向に止む気配を見せず、まるで彼女が眠るというその行為じたいが、雪を降らせ続けているような気がしてきた。
陽介は窓際にあるフロアスタンドだけを点け、音声を字幕表示にして、テレビを見ることにした。ベッドサイドに置かれた小さな加湿器だけが、時折ささやくような音をたてている。バラエティの再放送だとか、アニメだとか、ゴルフだとか。土曜の夕方なんて全国どこでもやっている番組の並びは大して変わらない。グルメの旅番組をしばらく見ていたが、やがてそれも終わり、六時のニュースが始まった。その時になってようやく、この雪のせいで今夜自分が乗る筈の新幹線は動かないらしいという事に気づいた。
「あら、ペクちゃん起きてきたの」
戻ってきた義母の声に振り向くと、ちょうどペクがケージから出てきたところだった。余命数ヶ月、と宣告を受けている割に元気そうに見えるというか、紗代子が熱心に世話をしているせいか、明らかに痩せたというわけでもなく、毛並も十分艶がある。しいて言えば動きが前より緩慢になっただろうか。家族が食事をしている時はケージに入っているようにしつけられているが、義父が席を立てば食事は終了と思っているらしい。
「やっぱりみんなの仲間入りしたいのよね」
紗代子は席を立つと、ペクを抱き上げて戻り、自分と陽介の間に座らせた。
「調子よさそうだな」と、背中を撫でてやると、ペクはいつもと変わらぬ様子でお愛想程度に尻尾を振り、ちらりとこちらを見上げると、あとは無視を決め込んでくる。こういうところがこの犬の可愛げのなさだ。せめてもう少し自分になついてくれたら、もっと親身になって病状を気遣えそうなものなのに、初めてこの家を訪れた時からずっと、ペクは自分を見下したままだ。おまけにそれが、この家の人間にとってはかなり滑稽に映っている事も腹立たしい。
「今日はクリスマスだからね、特別に食べさせてあげる」
そう言って紗代子は、自分の皿に残っているケーキからクリームを指ですくい取ると、愛犬の鼻面に差し出した。ペクは突然のご馳走を大慌てで舐めまくる。本当に犬の舌というのは薄っぺらくて器用に動くもんだ、と感心しながら陽介はその様子を眺めていた。
「紗代子、ちゃんと手を洗ってね」と、義母がやんわり釘をさすが、彼女は「判ってるわよ」と、気にもしない。そういえば義姉の有希子によると、義母は本当のところ犬なんて大して好きではないらしい。たぶん紗代子のために我慢して飼い始めたのだろう。
紗代子が陽介と結婚して家を出てからは、義父が健康のために散歩を担当し、餌も与えているらしいが、だからといって彼もそんなにペクを手放しで可愛がっているという風情ではなく、ただ自分の責任だから、という淡々とした態度で、そんなところは陽介の祖父と飼い犬の関係に似ていた。
「このごろはペクの具合、どうなの?」
「まあ小康状態ってとこかな。ネットで調べたら、このくらい進んでても手術や先端医療で治せるってケースもあるみたいで、セカンドオピニオンを考えてるんだけど」
「セカンドオピニオン?獣医さんの?」
ペクは人間じゃないぞ、と言いたかったが、それは何とかこらえた。
「そう。かなり有名なドクターらしくて、余命宣告されたりしたワンコを連れた人が全国から来るらしいわ。だから予約もかなり厳しいらしいけど、事情を話せばわりと早く診てくれるって」
「へええ」
「ただね、その動物病院、鹿児島なのよ。指宿ってあるでしょ?」
「砂風呂温泉で有名なとこ?」
「そうそう、先端医療や手術とかだけじゃなくて、漢方とか鍼とか、あとその砂風呂とかも組み合わせてるんだって」
実際に指宿の砂風呂に入ったことのある会社の同僚が、けっこう熱いし、砂の重さが半端なくてすぐ汗だくになると言っていたのを思い出すが、犬は汗が出ないから暑さに弱いんじゃなかったっけ。しかしそんな突っ込みをできるわけがない。
「やっぱり温泉って人間だけじゃなくて、動物にも効くんだな」
「あら、どこの温泉だったかしらね、コウノトリが入ってるのを見て人間も真似するようになっただとか言うじゃない」と、義母も再び腰を下ろし、ショートケーキの続きを食べながら話に加わった。
「露天風呂に入ってるサルの写真とかありますよね。あれ東北だっけ」
陽介はさりげなく、話題を「動物病院」から「動物に関わりのある温泉」、更に「温泉一般」へとシフトさせようとしたが、どうやら義母もその心づもりらしかった。
「青森とか、あっちの方かしらね。でもお猿のいる露天風呂なんて怖くて嫌だわ。私ね、温泉だったら濁り湯が好きなのよ。一昨年お父さんに連れて行ってもらったんだけれど、もう遠くて遠くて、雪の中で遭難しちゃうかと思ったわよ。秋田のほら、何て言ったかしら」
「あの辺は温泉いっぱいあるからなあ」
いつの間にか話の輪から抜けて、紗代子は明らかに憮然とした表情でペクの背中を撫でていたが、やがて立ち上がり、流しで手を洗ってから陽介に「コーヒーもう一杯飲む?」と尋ねた。
澪が目を覚ましたのは、陽介が新幹線に乗ることを諦めて、ソファに横になったまま少しうとうとした頃だった。「いま、何時?」と聞かれてあわてて起き上がり、六時半を少し回ったとこ、と答えると、彼女は「ああそう、もっと遅いのかと思った」と安堵のこもった声で呟いて身体を起こした。
薄暗がりで話をしているのも何だか妙な感じがして、「部屋、明るくする?」と陽介が尋ねると、「お願い」と返事をして、彼女は寝乱れた髪を指先で梳くと肩ごしに流した。ホテルというところはランクが上にいくほど部屋の照明が暗くなるような印象があるが、この部屋もベッドサイドのスタンドだとか、エントランスのダウンライトだとか、あちこちつけてみたところで、全体がほんのり明るくなったという程度で、昨夜泊まったビジネスホテルの白々とした感じとは大違いだ。
「ずっといてくれたの?」
「うん」
「退屈だったでしょ?」
「いや、テレビ見たりして、のんびりしてた」と、陽介はリモコンでテレビのスイッチを切った。それを見て、澪は笑みを浮かべる。
「ふだんお仕事が忙しくて、のんびりしてないから?」
「それもあるし、俺は今日、ただ澪さんに会いたかっただけだから、十分だと思って」
陽介は何だかやるせない気分で、再びソファに横になると、頭の後ろに両腕を組んで天井を見上げた。寝起きの彼女に正面から視線を向けるのも不躾なのでそうしたのだが、自分が本当のところ何を言いたいのか、どうにかして答えを見つけたかった。
澪は毛布とリネンが作った波の中から抜け出すと、ベッドの反対側から降りてバッグを手にとり、バスルームに姿を消した。高い天井に部屋の照明が映し出す不思議な模様を見つめながら、陽介はたぶん今、鏡を覗き込んでいるであろう彼女が何を考えているのか思いを廻らせた。この後どうやってこの男を追い払うか、それとも、どうすればこの煮え切らない男に次の行動へ移らせる事ができるか、或いは、夫に対して帰りが遅くなった事をどう言い訳するか。
「ねえ、そんなところで寝てると首が痛くなるわよ。こっちで横になれば?」
いつの間にか澪は戻って来て、陽介が寝そべるソファの近くに立っていた。
「いや、別にそうくたびれてるわけでもないし」
「いいじゃない。くたびれていなくても」と、彼女は陽介の肘をつかむと引き起こそうとした。仕方ないので起き上がり、ベッドに腰を下ろすと靴を脱いで横になってみた。さっきまでそこにいた澪の体温と、香水の残り香にそっと身体を添わせてゆくと、どうしても彼女を抱き寄せたいという気持ちになる。
「このベッド、寝心地いいでしょ?」と、彼女は弾むように腰を下ろし、陽介が揃えておいたブーツに手を伸ばした。その動作に一気に心が冷え込むのを感じながら、陽介は「もう帰る?」と低い声できいた。
「帰りはしないけど、ここからは出ましょうか。陽介さんそろそろお腹すいたんじゃない?」
「空腹と言えなくはないけど、それより、外を見てごらんよ」
「外?どうして?」と、澪はブーツをはかず、ストッキングのままで窓に近づくとカーテンをかき分けた。
「まあ、これどうしちゃったの?」
「まだ降ってる?」
「吹雪みたいになってるけど、いつの間に?」
「ちょうど澪さんが昼寝を始めたころから、ずっと。かなり積もってるらしいよ。だからさ、俺が乗るつもりだった新幹線も動かないんだ」
「そうなの?私のせいで帰れなくなっちゃったって事よね。ごめんなさい」
澪はそう言って向き直ると、後ろ手にカーテンを降ろして戻り、ソファに腰をおろした。
「澪さんが謝ることじゃないよ。それに今日はまだ土曜だし、明日帰ればいいだけの話だ」
「だったらここに泊まっていけばいいわ。部屋代は私が払うから気にしないで」と、澪は立ち上がってフロントに電話を入れようとした。
「でも澪さんは?なんかあちこち渋滞してるみたいだけど、誰かに迎えに来てもらう?」そう言われて初めて、澪は自分の事に考えが及んだらしかった。
「それはつまり、車じゃ移動できないってこと?」
「さっきのニュースでは首都高もすっかり流れが止まってたよ」と、自分が嘘をついているのではない事を証明するため、陽介は起き上がるとリモコンに手を伸ばし、テレビのスイッチを入れた。ちょうど七時のニュースが、どこかのバスターミナルで長蛇の列をなす人々を映し出している。
「まあ多分、時間をかければ少しずつでも動けるんだろうけど。澪さんが帰るなら送っていくよ」
澪はとんでもない、という風に陽介の言葉を遮った。
「それは必要ないわ。だったら、私もここに泊まるから」
紗代子はハンドルを切ると「さっきの話ね、私けっこう本気なの」と言った。
「ええと、どの話だっけ」
「セカンドオピニオン」
「あの、指宿の動物病院って奴?」
「そう」という短い一言の中に、もう、ちゃんと人の話聞いてよね、という苛立ちが含まれている。
「でも、予約とれないんだろう?」
「だからチャレンジしてみるのよ」
「無理じゃないかな」
「陽介ってさ」と、紗代子は言葉を切り、横断歩道を渡る自転車をやり過ごしてから車を左折させた。
「ペクのこと、所詮ただの犬だと思ってるでしょ」
「とんでもない、紗代子には家族同然の大事な犬だ」
「でももし私達に子供がいて、同じ状況だったとしたら、そんな風に否定的な事は絶対に言わないでしょ?何が何でも助けようって思うはずよ」
「それは」と、陽介は答えに窮した。しまった、最初から間違えた。もう随分と自分なりに訓練したつもりなのに、紗代子の意見にとりあえず共感を示す、という事をついつい忘れて、現実的な見解を述べてしまう。彼女に言わせると、それは非常に冷淡な態度であるらしい。でも正直言って、犬と我が子を比べることじたい無理ではないだろうか。
それから紗代子は何も言わず、陽介も下手な言い訳はしないで車が神崎橋を渡るのを待った。家に帰って一人になって、そうしたら面倒な事は忘れて気楽に過ごすのだ。しかしいざマンションの前に着くと、紗代子は「駐車場に車入れるから、玄関のとこで待ってて」と言った。
「どしたの?何かいる物があるなら取ってくるけど」
「今日はこっちに泊まるわ」
それってクリスマスだから?とは、聞けそうで聞けない。何がおかしいの?私達結婚してるんじゃなかったっけ?などと冷静な声で言い返されそうだから。彼女の戻りを待ちながら、陽介はまるで痛みを紛らわすように、あれから澪と過ごした時間の事を思い出していだ。
17
「何してたの?テレビ見てた?寝てたの?」
澪が次々に質問する間、陽介は再び引き込まれそうになっていた眠りから抜け出そうと、大きく伸びをした。
「シャワー浴びて、テレビの映画見てたんだけど、イマイチ面白くなくて」
ついでに言うと、一流ホテルのバスローブなんてものがまた着心地がよく、ソファの上とはいえ、ついつい瞼が重くなってきたのだった。
雪に降込められたこのホテルで、陽介どころか澪まで一緒に泊まることになったが、部屋でじっとしていても仕方ないので、とりあえず食事をした。遅い昼食のせいで澪はそう空腹でもないらしかったが、ここはお勧めだから、という理由で館内の中華レストランに陽介を連れて行った。
どうやらこの大雪で足止めをくっている人間はかなり多いらしく、レストランもロビーもごった返していた。食事を終えてそのまま部屋に戻るのも何だか違う気がして、陽介はバーに行ってみることを提案した。ところがそこも満席で、順番待ちだと言われた。
「みんなここに避難して、時間つぶしてるのかな」
バーのある三階の廊下から身を乗り出し、吹き抜けのロビーに飾られた巨大なクリスマスツリーと、その周囲を行き来する人々を眺めながら、陽介は呟いた。中にはパーティードレス姿の女性グループなんかもいて、彼女たちも帰る手段が無いのかと思うと、少し気の毒になった。
「下手したら、俺も駅のベンチで凍えて一晩過ごす羽目になってたな。澪さんのおかげで助かったよ」
「じゃなくて、私のせいで帰り損ねたのよ。ねえ、奥さんにちゃんと連絡しておいた方がいいんじゃない?」
「今日は互いの相手の話はしないって約束しただろ?」と、陽介がやんわり言うと、澪は口をつぐみ、自分も手摺に身体をあずけるとクリスマスツリーに視線を投げた。その少し翳りのある横顔に、彼女はやっぱり、夫のことが気になるのだろうか、と陽介は考えていた。年も離れているらしいし、恋愛結婚というわけでもなく、話を聞く限りでは合理的すぎて人間味に欠くような印象のある人物だけれど、結局のところ夫婦なんてものは当事者でないと判らない。しかし澪はふいにこちらを向くと、「じゃあもう一つの約束もまだ生きてる?」と尋ねた。
「もう一つ?」
「今日は私のしたい事していいって」
澪のその言葉が、自分に対して打ち解けてくれた証のように思えて、急に嬉しくなる。「それは別に、今日に限定してるわけじゃないけど。何がしたいの?」
「ここのエステに行きたいの。いつもはエステが済んでからお部屋で休んだりするんだけど、今日は逆ね。よければ陽介さんも一緒にどう?女の人と一緒なら、男の人も大丈夫よ」
「いや、俺は、そういうのはちょっと遠慮しとくよ。澪さん一人で行ってくれば?でも、この時間にやってるの?」
「ええ、今ならちょうど最後ぐらいかしら。予約が入ってなければ、だけれど」と、澪は細い手首を返し、腕時計を見てから「聞いてみるわね」と携帯電話を取り出した。
「陽介さんたら、またソファで寝てるのね」
澪はそう言うと、自分はベッドに腰を下ろす。陽介は「うちはフローリングにそのまま座ってるからさ、ソファに対する憧れがあるんだよ」と説明したが、もちろんそれが全てではなく、やっぱり彼女の許しもなくベッドには上がれない、という遠慮がある。澪は「だったらごゆっくりどうぞ」と、呆れたように笑った。
「エステで働いてる人って、この大雪の中をこれから家に帰るの?」
「ううん、今日は従業員用の仮眠室に泊めてもらうんだって。やっぱり雪のせいでキャンセルが出ていて、お客は私だけだったわ。せっかくだからって、ちょっとおまけしてもらっちゃった」
「澪さんって常連なの?」
「かもね。毎週のように来てるから。でもその時によってフェイシャルだけだったり、ヘッドスパだったり。今日はストーンスパにしたんだけど」
はっきり言ってそれが一体何を意味するのか、陽介には理解できなかったが、まあ、確かに彼女は昼間より顔色がいいし、快活さを増したように思える。
「陽介さんも来ればよかったのに」と、澪は尚も残念そうに言いながら、バッグをベッドサイドのテーブルに置こうと立ち上がった。
「あら、このお花どうしたの?」
「さっき部屋に戻る前に、地下のショップをぶらぶらしてたんだけど、花屋があったから」
「そうなの?嬉しい!」と言って、澪は陽介が買ってきた、フラワーアレンジメントと呼ぶのも憚られるほどに小さな贈り物を手にとった。オレンジのガーベラとサーモンピンクのカーネーションを中心にまとめ、水色の薄紙で包んだプラスチックのカップに活けてある。
「お花って、こうして思いがけない時にもらうのが一番嬉しいわ」
でもそれ、千円もしなかったんだけど。陽介は後ろめたさ半分、ポイントを稼げた嬉しさ半分、といった気持ちで、喜ぶ澪を見ていた。彼女はそれからブーツを脱ぎ、鼻歌でも歌いそうな様子でバスルームに姿を消すと、しばらくしてからバスローブに身を包んで戻ってきた。そして勢いよくベッドに上がり、身体を横たえるとまた枕元の花を見ている。陽介はテレビを消して起き上がると、その様子を黙って眺めていた。
本来自分はそんな気遣いのできる男ではない。今年の春、紗代子の誕生日に、少し早く帰れたので食事を準備しておいたら、彼女はとても嬉しそうにしていた。だが、いざ食卓につくと「これでテーブルにお花でも飾ってあると完璧なんだけどね」とコメントした。
「次は頑張るよ」
その時はそう返事したのだけれど、「次」をこういう機会に生かしてしまう自分は果たして、学習能力が高いというべきだろうか。そう、俺だって別に馬鹿じゃないし、人に何をどうすれば喜ばれるかは判っているつもりだ。ただ、相手がどれだけ自分に何をしてくれたかと、つり合いをとっておきたい気持ちがある。でなければ、ただの使い勝手のいい夫になってしまうから。
「どうしたの?」彼の視線に気づいたのか、澪はけげんそうな顔でこちらを見ている。そして大きな枕を両腕の下に抱え込んでうつ伏せになると、「こっちに来ないの?」と尋ねた。
「そのソファで一晩寝心地を試してみたいっていうなら、別に止めはしないけど、絶対に明日、どこか痛くなるわよ」
その声も表情も、全くもって彼を誘惑しようという気配を伴わず、その事が陽介をためらわせた。彼女、本当に今夜ただ一緒に泊まるだけのつもりなんだろうか。しかしバスローブの胸元からのぞく桜色の肌だとか、シーツの上に零れ落ちるしなやかな長い髪だとか、彼女の肉体に備わったもの全てが絶え間なく自分に語りかけてくる。
「本当のこと言うと、俺は今日、嘘をついていた」
陽介は毛足の長いカーペットに足をおろし、横たわる澪に向き直った。
「嘘?どういうこと?」
「今日は澪さんに会えただけで、目標は達成できてるって言ったけどさ、実際はそう簡単じゃない。会って、話もしたし、食事もしたし、手をつないで一緒に歩いたりもした。でもやっぱりそれだけじゃ満足できない。だから今、もし澪さんの傍に寝たら、俺は必ず触れてしまう。今だってずっとそれを我慢してる。そんなの冗談じゃない、やめてくれって思うなら、俺に大人しくこのソファで寝てるように命令してほしいんだ」
澪はただ、その大きな瞳を見開いたまま、じっと陽介の言葉を聞いていた。その背中の曲線が少し早い呼吸に合わせて上下し、形のよい唇がスタンドの明かりをうけて柔らかに輝く。こういう女性は優しそうに見えて案外、最後の最後で冷酷な事を平然と言ってのけるのかもしれない。陽介は知らないうちに組み合わせた自分の両手の指が、ほどけないくらい強くお互いを戒めあっているのに、今更のように気づいた。
「そう」
澪は聞き取れないほど小さな声で答えると、静かに身体を起こした。そして今度ははっきりとした声で「わかったわ。だからこっちに来て」と言った。
いつも上品な印象の服装でいるから、あまり気づいていなかったが、澪は見た目よりずっとめりはりのある身体をしていた。スレンダーな紗代子の好んで着る、ユニセックスだとかナチュラル系の服はたぶん似合わないだろうし、澪を最も引き立てるのは、デコルテを強調したカクテルドレスあたりだろう。必要な部分は十分に豊かで、他の場所は無駄なく引き締まっていて、しかも程よい弾力と柔らかさがある。
彼女のしっとりと汗ばんだ肌を静かに撫でながら、陽介はその呼吸が少しずつ落ち着いてゆくのを感じていた。どれくらい時間をかけただろう。夜はまだ長く、ここから立ち去ることもできないという現実が自分に余裕を与えてくれたし、それは澪にとってもよい事だったと思える。
何故だろう、彼女の身体は長いあいだ男性と接していないようだった。結婚しているのに、と思ったが、まあそんな夫婦も大勢いる筈だし、じっさい自分と紗代子だって彼女が実家に行ってからは没交渉だ。それに、彼女の夫はもう四十代らしいから、その辺の事情もあるのかもしれない。しかし更にわからないのは亨の事だった。確かに自分は彼女のヒモじゃないとは言っていたけれど、じゃあ彼らは本当のところ、どういう関係なんだろう。
ふいに、彼の腕の中で澪が寝返りを打った。俯せていた顔を上げ、こちらに身体を向けてくる。陽介は少し身体を起こして枕を手繰り寄せると、彼女の首元にあてがう。澪は「ありがとう」と呟くが、薄闇の中でも彼女が微笑んでいるのがわかった。
「いま何時?」と聞かれて、枕元に置いた腕時計を手に取ってみる。
「あと少しで十二時半」
「そう、じゃあもういいわね」
「何が?」
まさかもうここを出て行くとか、そういう話じゃないよな、と一瞬どきりとするが、澪は落ち着いた様子で言葉を続けた。
「お互いの相手のことを言うのはよそうって、もう昨日の約束になったから」
「ああ」と、陽介は安堵の息を吐き、腕時計を再び枕元に置いた。
「陽介さんの奥さんは幸せね。こんな風に優しくしてもらって」
「いや、そうかな」
褒められているのか何だかよく判らないままに、陽介は言葉を濁したが、今ならきいていいような気がして、「ご主人とあんまりうまく行ってないの?」と尋ねた。
「別に仲が悪いってわけじゃないわ。ただ、夫は無駄な事が嫌いなの」
「これって、無駄な事かな」
「彼にとってはね。あの人は私の身体が好きじゃないの。私だけじゃなくて女の人全般って言ったけれど。見るのはまだいいけど、触りたくないの。暖かくて柔らかいから気持ち悪いんですって。だからね、こんな風にゆっくりと触れ合って過ごしたりしないの。でも仕方ないわね、人にはそれぞれ好き嫌いがあるから」
「それでも彼は澪さんと結婚したんだ」
「ええ、私の家族が抱えていた、お金の問題を解決するために。彼がそれだけって割り切れる人ならよかったんだけど、真面目な人だから、夫の務めを完璧にこなそうとしたの」
「つまり、期待されてたのは仕事の実務能力だけなのに、私生活も期待に応えようとしたってこと?」
「そうね。私にはそんな期待なんてなかったけれど、彼は夫としての義務だと考えていたの。つまりセックスすることが」
澪がいきなりさらりとその言葉を口にしたので、陽介はただ「なるほど」と言うしかなかった。
「結婚した時、私はまだ十代だったし、もちろん男の人なんて知らなかった。それでも結婚した以上そういう事は受け入れるものだと覚悟はしていたわ。でも、初めて二人きりで夜を過ごすことになった時に言われたの。僕は女の人の身体が苦手だけれど、それなりに努力はする。けれどもし君が処女なら、そんな面倒な人の相手は無理だから、誰か別の男とつきあってからにしてほしいって」
「そ、それでどうしたの?」
「今考えると、じゃあ辞めておきましょう、でよかったと思うんだけど、あの頃は、彼の言う通りにするべきだって、そう思ったのね。結婚したら何でも旦那さまに従うのよって、静香おばさまから繰り返し言われていたから」
「素直だったんだね」
「ちょっとしたお馬鹿さんかもね。とにかくそれで、私は誰か他の人を探す必要があったんだけれど、学校は女子高で、もちろん彼氏もいなくて、結局、瞬ちゃんしか頼る人がいなかった。憶えている?あの葉山の別荘」
「澪さんのこと、ミオキチって呼んでた人?」
「そう、管理人さんの息子の。私、夫には親戚に会うって嘘をついて、別荘に行ったわ。それで瞬ちゃんに何もかも打ち明けたの。最初は断られたわ。ミオキチは妹みたいなものだから無理だって。それに、瞬ちゃんは私の結婚にはずっと反対だったの。でも私、泣いてお願いしたわ。この結婚がうまく行かなかったら、うちの事業も駄目になって、お金がなくなって、おばさまや猫ちゃんたちの住む家もなくなってしまうから」
「追い詰められてたんだね」
「そうね。それで結局、瞬ちゃんが私に全部教えてくれた。ちょうど夏休みで、七日ほどいて、一体何度抱かれたのかしら。女の人の身体って不思議ね、最初はあんなに無理だって思ったのに、本当に少しずつ馴染んでいくの。でも最後の夜に舜ちゃんは言ったわ、俺は自分のことが情けない。親がミオキチの家に高いお給料で雇われていたおかげで不自由なく暮らせたのに、何も助けることができないって。私はむしろ彼に感謝していたのに」
「俺は、彼の気持ちはわかるよ」
「そう?そんな風に思うものなの?」
澪はそして、枕に預けた首の角度を少しだけ変えると話を続けた。
「別荘から帰る日、荷造りをすませて、まだしばらく時間があるからぼんやりと窓の外を見ていたら、煙が見えたわ。何かを燃やしている、白い煙。どうしたのかと思って、窓から乗り出してみたら、瞬ちゃんが下の入り江で焚火をしてたわ。燃やしていたのは私のベッドにあったシーツだった。風のない日で、煙がどこまでもまっすぐ登っていったのを憶えてる。私が見てるって判っていたはずなのに、瞬ちゃんは俯いたままだった。それが私の子供時代のお葬式だったって、気がついたのは少し後の事。もうその時は、夫と夫婦になっていたわ」
「つまり、ご主人も義務を果たせたというわけか」
「そう。彼には何か自分のルールみたいなものがあるのね。だから曜日も時間も、ちゃんと決まっていたわ。どんなに忙しい時でも帰ってくるの。時にはまた、仕事に出て行ったり。たまに私が体調が悪かったりすると、どういう風に具合が悪くて何故できないのか、紙に書いてくれって言われたわ。そうしないと納得できないんだって」
「体育の見学みたいな感じかな」
「陽介さんてうまい事言うわね。本当にそんな感じ。真面目なのよね」
「じゃあ、今もずっとそうなの?」
多分違うであろう事を確信しながら、陽介はわざとそう質問してみた。澪は少し考えている様子だったが、はっきりと「今はそうじゃないわ」と答えた。
「ある事がきっかけで、もうそういう生活は続けたくないと思ったの。でも、それを言うと夫に悪いような気がして、随分迷ったわ。あれこれ考えて、やっぱり手紙に書いたの。うちの夫はとても頭がいいから、議論するのなんて絶対無理なのね。別に喧嘩にもならないんだけれど、淡々と、君の言う事は矛盾してる、だとか、だったらこういう時はどうなるんだって、ほとんど起こらないような可能性まで挙げられて、気がついたら、ほらやっぱり僕が正しいだろう?ってなってるから」
「手紙はうまくいったの?」
「ええ。それにきっと、彼も本当は楽になったんだと思うわ。自分が決めたことは守るべきだって意識が強くて、嫌だという気持ちもなかった事にしてたみたいだし」
「そんな事、できるかな」
「できるんだって。嫌だと思うから嫌になるんだ、人には本来、無限の可能性があるってよく言ってるわ。まあお仕事とかはそういう考え方もありかな、って思うけれどね」
そして澪はしばらく沈黙した。何か言おうか、と陽介が思った時、彼女は「ごめんなさい」と言った。
「私こんなに長く、夫との話をするつもりじゃなかったの。もうやめにしましょう」
「わかった。でも、俺は澪さんが自分のことを話してくれたのが嬉しいよ。距離が縮まったような気がして」
「距離?私ってそんなに遠くにいる?」と、澪は笑いを含んだ声でそう尋ねると、手を伸ばしてその柔らかな指先で陽介の喉元に触れた。彼は自分の掌をそこに重ねてみる。
「何かね、澪さんて不思議なんだ。まだ大学生みたいな感じもするのに、結婚していて、とても綺麗で、会社を経営していて、車の運転が上手で、エステが好きで、おまけに俺のことこんな風に受け入れてくれるから」
本音を言えば「俺のことこんな風に愛してくれるから」と強気でいきたいところだけれど、そう断言できないのがつまり、彼女との間にある距離という奴だった。
「私には不思議なところなんてないわ。とても平凡で、むしろ退屈なぐらい」
澪はそう言いながら、彼の掌に捉えられた指先で、確かめるように彼の首筋をなぞった。
「でもね、もしかしたら私の一族は不思議かもしれないわ。ねえ、うちがどうやってちょっとお金持ちになったか知りたい?」
「うん。でもちょっと、じゃなくてすごくお金持ちだろ?」
「まあそれは見方によると思うわ。うちの一族はね、むかし長崎にいたんだけれど、まだ鎖国をしていた時代に、オランダ人に人魚のミイラを売って大儲けしたんですって」
「人魚のミイラ?」
それって、ちょっとさびれた温泉街につきものの、うさんくさい秘宝館なんかにひっそりと飾られている、あれだろうか。確か大学のゼミ旅行でひやかし半分にそういう場所に入って、あれこれ大笑いした記憶があるけれど、人魚のミイラなる物体は握りこぶし位のしなびた頭に、全体のプロポーションからすると随分長い腕を地面にふんばって、新巻鮭を思わせる干からびた下半身を支えていた。あの有名な人魚姫の像に比べるとまるで小さくて、幼児くらいの背丈しかなくて、おまけに思い切り不気味な容貌をしていた。
「オランダの人には、遠い東洋にいる幻の生きものだって、大人気だったらしいわ」
「でもあれは作り物って聞いたけど」と、陽介はゼミ旅行に同行していた教授の言葉を思い出していた。これはね、猿と魚をつないであるんだよ。日本人というのは昔から、西洋受けするキャラクターのフィギュアを作るのが上手かったんだな。
「そうらしいわね。でも、うちの一族は本物の人魚も扱っていたの」
「本物?」
「ええ、本当の人魚って、その肉を食べると年をとらないんだって。何か昔話で、そうやっていつまでも若くて美しかった尼さんのお話があるらしいけれど、聞いたことある?」
「さあ、俺ってそういうの全然知らないんだよね」
紗代子ならもしかしたら知ってるかな、と思いながら、陽介は澪の指が耳の後ろに触れるのを感じていた。
「年をとらないのは無理でも、それを食べればお医者様に見放された病気でも治るって、すごく高いお金で売れたらしいわ。しかもお役人には秘密で」
「闇取引か。澪さんのご先祖さまって結構やるじゃない。でもそれ、本当は何の肉だったの?」
「え?だから人魚よ。本物の人魚の肉を売っていたの」
澪があまりにも平然とそう言うので、陽介も「そうなんだ」と納得するしかなかった。まあ多分、熊とか鹿の肉で、栄養状態の悪かった昔なら、病人に食べさせれば少しは元気になったのが、大げさに伝わったんだろう。
「そうやって儲けたお金を元にして、明治になってから事業を手広く始めたらしいわ。でもね、そのせいでうちの一族には人魚の呪いがかけられているのよ」
「呪い?人魚の?」
「そう。お金はあっても、好きなように生きられない。もし思う通りに生きようとしたら、死んでしまうの。だから、陸に打ち上げられた魚みたいに、自分では何もできないの。」
「それ、信じてるの?」
澪はその質問には直接答えず、「私の兄は、自分のしたい事をするから、うちの事業を継がないって決めて、半年もしない内に死んじゃったわ」と言った。陽介が何と答えていいか迷ううちに、彼女は言葉を続けた。
「でもね、それって、代々引き継いだ財産をあてにして、自分で何も始めない事の言い訳かもしれないわね。それでも私は時々、この呪いの事を考えたりするわ」
「俺は言い訳っていう説を支持するな。でも、これでまた少し澪さんとの距離が縮まった気がする」そう言うと、陽介は思い切って澪を抱き寄せた。
寝返りをうつと何故だか眩しいような気がして、陽介はうっすらと目を開いた。締め切っていた筈のカーテンは開けられ、レースのカーテンごしに朝の白い光が差し込んでいる。どうやら雪雲は夜のうちに遠ざかったらしい。この分だと今日は足元が大変だ、と思いながら、伸びをする。何故だかベッドには彼一人だ。澪は先に起きてシャワーでも浴びているのだろうかと思いながら起き上がると、ソファに腰掛けてこちらを向いている人物と目が合った。
「お早う」
亨はそう言うと、口元だけで軽く笑った。
「え?なんで?」と、驚きのあまり固まってしまった陽介に視線を向けたまま亨は立ち上がり、「ここのコンチネンタルはなかなか評判だから、朝飯一緒にどう?下で待ってるけど、別に慌てなくていいから」と言い残して部屋を出ていった。
18
「これは陽介さんに。ホテル特製の食べるラー油なんだけど、私これだけでご飯三杯くらい食べられると思うわ。ま、最近の食欲が尋常じゃないんだけど」
有希子はそう言って、目立ち始めたお腹に片手をあてたまま、もう片方の手で小さな包みを差し出した。陽介は「すいません、色々もらっちゃって」と、軽く頭を下げる。
双子が生まれたら当分落ち着いて旅行できないから、という理由で、紗代子の姉の有希子夫婦は年末年始を河口湖の温泉宿で過ごし、新年四日めにようやく帰省してきた。こっちはもう明日から出勤なんですけど、という日に義理の実家に召集されるのは少し面倒だったが、次々と繰り出される土産物を目の前にすると何も言えなくなってしまう。
紗代子と結婚してからというもの、元旦は必ず彼女の実家に行き、帰省している有希子夫婦と共に過ごすならわしになっている。陽介の実家は山間部の農村で、帰るとなると最寄の駅まで一時間ほどの道を車で迎えに来てもらう必要がある。雪でも降れば更に面倒なので、帰省は気候の良い五月の連休かお盆と決めていた。何より、紗代子が向こうに泊まりたがらないせいで、「ついでに行く場所があるから、他に宿を手配した」という旅行計画を申告せねばならず、年末年始では無理があるのだ。
まあ確かに陽介の実家は古い。風呂は狭いし、トイレは土間で暗くて寒いし、あちこちから隙間風が入るし、近所に動静が筒抜けだし、紗代子が「ありえない」というのも判る。とはいえ自分には生まれ育った家で、トイレ以外にスリッパが存在しないだとか、くつろぐ時にやたら横になるとか、食べ物の賞味期限に無頓着だとか、兄一家を始め、近所の親戚が昼夜を問わず突然やってくるとかいうのはもう、外国だと思って諦めてほしくはある。
「あとこれ、ご当地カレー。この間、テレビのザ・ランク王国でベストスリーに入ってたのよ」
有希子は最後の品をコーヒーテーブルに置くと、ようやく一息ついた。その隣では夫の孝太郎が穏やかな笑顔を浮かべている。
「有希ちゃんたら、本当によくそれだけ買ったね」
紗代子はどこか冷めた声で呆れてみせた。
「うん、自分でもわかってるんだけど、ついつい、これはお父さんにいいな、とか思ったらもう買わずにいられないの。相手の気持ちなんか二の次で、完全に自己満足の世界だわ」
「いやあ、俺は十分に嬉しいですけど」と、陽介は慌ててフォローしたが、紗代子は「買えるだけのお金があるんだから、自己満足でもいいんじゃない?」と冷静だ。これって、中小企業で昇給もままならない自分へのあてこすりだろうか、と陽介は彼女の表情を盗み見る。冬のボーナスも大したことなかったし、人事異動はあったけれど昇進ではないし。
何となくそこで途切れてしまった会話をとりなすように、義母が「ねえ、晩ごはんはどうする?外で食べるんだったら、お店は予約した方がいいわよ」と尋ねた。
「外だったら、私留守番してる」
紗代子はすぐにそう答えた。もちろん病気のペクを置いて行けない、ということだろう。すると有希子が即座に「久しぶりなんだからうちで食べたいわ。材料買ってくるからさ、お鍋でもしましょうよ」と言う。
「孝太郎さんはずっとドライバーで疲れてるだろうから、陽介くん、運転してくれない?」
「いいですよ」と、陽介は二つ返事で立ち上がった。山ほど土産物をもらったという感謝もあるが、義理の実家でじっとしているより、少しでも外出できる方が気楽なのだ。
有希子たち夫婦が東京から着いたのは昼過ぎで、そう長いこと話をしていたつもりはなかったのに、外に出るとすでに日が傾いていた。有希子が指定したのは最近郊外にできたアウトレットモールの傍にある、高級食材も豊富に品揃えしているというのが売りのスーパーだった。彼女は「ちょっと市場調査しておかないとね」と、好奇心満々らしかったが、陽介は「東京の人からみたら、何これ?って感じじゃないかなあ」と言うしかなかった。
「何言ってるの。地元のいい食材が揃ってると思うわよ。地方の人って東京に気後れし過ぎよね」と、有希子は一向に心配していない様子で、駐車場に入るのにしばらく待たされても、「ほら、賑わってるじゃない」と、却って嬉しそうだった。
年明け早々の夕食前という事もあり、スーパーはかなり混雑していた。有希子は陽介の推すカートに次々と白菜、椎茸、といった鍋向きの食材を放り込みながら、「へえ、こんなのも扱ってるんだ」と、珍しい野菜や薬味の類をチェックしていたが、鮮度や品質は気にかけても、価格はあまりよく見ていない様子だった。
「陽介くん、ナマコは駄目でも牡蠣は大丈夫なんだよね」
「うちの旦那は生麩が好きなのよ。年よりくさいでしょ?」
「あ、最近ここのお豆腐、こんなのも出してるんだ」
有希子は自分で自分の言葉に納得しながら買い物を続けた。時折「陽介くんも好きなもの入れなさいよ」と言ってくれるが、支払は多分彼女の財布からだろうし、あれほど土産をもらっておいて、そこまで図々しくなれるものではない。
あれこれ見て回る割に決断が早いせいか、そう時間もかけない内に有希子は必要なものを揃えた。カードで支払いを済ませ、駐車場の脇に店を出しているたいやきも買って、車に戻る。外は陽が落ちて、すっかり薄暗くなっていた。
「年末年始の冷え込みはそうきつくないって言うけど、やっぱり外は寒いわね」と、有希子は助手席でシートベルトを調節しながら言った。
「帰り道に何か飲んで行きたいけど、コーヒー禁止だからね。時々本当に、狂ったようにカプチーノとか飲みたくなるのよ」
「春までは我慢、我慢か。だったら、出産祝いにコーヒーもつけときますよ」
「そうしてくれる?八坂コーヒー館のプレミアムブレンドでお願い。母乳に影響するかもしれないけど、週に一回ぐらい自分にご褒美したいな」
まあ、これだけ色々してもらっているんだから、コーヒーのプレゼントくらい、全く構わない。やはり出産が待ち遠しいのか、今日の有希子は口を開けばそんな話になっているような気がするが、きっと来年の今頃は、その双子が主役の賑やかな集まりになっているに違いない。
去年、東京で彼女の住まいを訪れた時に知ったその話を、紗代子の口から聞いたのはついこの前、クリスマスの夜だった。陽介をマンションまで車で送って、そのまま泊まっていったあの日、久しぶりに自分のベッドにぺたりと座り、目覚ましをセットしながら「あのさ、有希ちゃん、三月の終わりぐらいに双子生まれるんだって」と言った。
陽介は既に布団に潜り、読みかけの文庫本を開いていたが、彼女の声が予想よりずっと平坦な事に少し驚いていた。それは何だか、ペクの病状を告げた時の感じにも似ていた。
「へえ、双子か。もう判ってるんだ」
知っていることを、知らないふりをするのは難しい。元々そういう演技力がないのは自覚しているが、今更「そうらしいね」とも言えないので仕方ない。
「不妊治療してとのは聞いてたけど、誘発剤の注射を何度か打っただけでうまくいったんだから、やっぱり有希ちゃんって運が強いんだわ」
不妊治療というのが具体的にどういう内容で、誘発剤とやらがどの段階に属するのか、陽介には見当もつかなかったので、「そっかあ」などと適当に返事した。紗代子は「私達きょうだいなのに、そういうとこ全然似てないのよね」と呟いて、手にしていた目覚ましをベッドサイドのテーブルに置いた。
「けどうちは、今すぐ子供ってわけにもいかないし、別にいいんじゃない?」と、陽介はなだめるような気持ちで言った。仮に明日、紗代子が妊娠していると判ったとして、日に日に大きくなるお腹を抱え、ペクの看病を続けるなんて無理な話だ。しかし彼女は「そういう意味じゃないの。ただ、私は有希ちゃんほど強運じゃないっていうだけの話」と言って布団を被ると、一方的に「おやすみ」と宣言してしまった。
まだ正月休みだというのに、夕暮れの道路はけっこう混雑している。ニュースでは今日がUターンのピークと言っていたから、その影響もあるのかもしれない。
「少し遠回りだけど、旧道に抜けた方が空いてるんじゃないかな」と提案すると、有希子もあっさり同意した。
「そうね。だったらキリン堂の前も通るし。もしかしたら、ラスク買えるかも」
うっすらと黄昏の光を残した西の空に、宵の明星が何かの道標みたいに輝いている。川を挟んでバス道の対岸を通る旧道は、やはり車の量が少なく、その分夜の訪れの早さを感じさせるように暗い。何だか深夜にドライブしているような気分で、陽介はエアコンを調節して「寒くないですか?」と尋ねた。
「大丈夫よ。なんか普段より心配してくれてる?」
「そりゃまあ、大事な身体ですから」
どうも「妊婦」という言葉を口にするのは抵抗があって、そんな言い方になってしまう。有希子はそれを見越したように軽く笑うと「じゃあ、私も陽介くんのこと心配しようかな」と言った。
「俺のこと、ですか?」
「そう。あなた十二月に東京へ来たでしょう?クリスマスの前」
「ああ、雪のせいで帰れなくなって。紗代子に聞きました?」
「私、自分で見ちゃったの。陽介くんが女の人と二人で歩いてるところ」
思わず返答に詰まる。冬枯れの桜並木の枝が次々と目の前を通り過ぎて行き、それからようやく「誰のことかと思った。あの人は友達の知り合いで、たまたま一緒になったんですけど」と答えた。
「そう?手をつないでたように見えたけどね。まあいいわ、私は陽介くんのことを心配してるって、それが大前提」
「はあ」
有希子の意図するところが今ひとつ判らず、陽介は落ち着かない気持ちで前だけを見ていた。
「あの人のこと、誰だか判ってて一緒にいたの?」
「誰だかって、有希子さんは彼女のこと知ってるんですか?」
「有馬純己の奥さん」
「それ、人違いじゃないですか?」と、陽介は少し安堵して聞き返した。「彼女は有馬っていう苗字じゃない」
「ああ、そうね。彼が婿養子だから、ええと、本名は義山ね。奥さんの名前は澪じゃなかった?」
そこまで言い当てられると疑う余地はない。急にエアコンが強すぎるように思えてきたが、額の汗をぬぐうこともできず、陽介はただ「確かに」と答えた。
「その、有馬って人、有希子さんの知り合いなんですか?」
「元同僚。変人が多いうちの研究所でも飛び切りの変わり種で、しかもずば抜けて優秀。共著も含めたら何冊も本を書いてるし、大学院で教えていた事もあるし、プロジェクト何本も抱えながら論文書いて、しかも趣味でやってる暦の研究で学会の発表までこなしてたわ」
「へえ」
「それが突然、僕、結婚して妻の家の事業を継ぎますからって、いきなり退職しちゃったから、当時は大騒ぎだったわ。研究一筋で、家庭を持つ事なんて考えるタイプの人じゃないと思われてたから。おまけに奥さんが当時まだ高校生でしょ、もう驚くとか通り越して、有馬さんらしいねって納得しちゃった。彼は今もうちの準研究員という形で学会の発表なんかはしていて、たまに親睦会なんか開くと顔は出してくれるのよね。そこにいつも奥さん連れて来るの」
「仲がいいんだ」
「どうだか。ほとんど会話してないもの。あのさ、有馬さんはとにかく変わってるの。言われたことは額面通り受け取るから、親睦会の招待状にご家族もどうぞって書いてあると、素直に連れて来るってだけの話。まあ奥さんは普通っていうか、可愛らしい人よね。私何度か話をしたことあるもの。正直、あまりにも旦那さんにほったらかしにされてて、見るに忍びなかったから声をかけたんだけど」
その有希子の口ぶりは、貴方もそうでしょう?とでも言いたげだった。
「でもとにかく、俺はその奥さんとは友達を通じた知り合いで、たまたま一緒に歩いてただけで、それ以上は何もないです」
話をするうちに少し落ち着きを取り戻せた気がして、陽介はこの話題を早く終わらせようとした。しかし有希子は、甘いわね、という風に軽く吐息をつくと「まあそれは信じてるけど、万が一でも有馬さんに弱みを握られるような事があれば、勝ち目はないからね」と言い切った。
「彼は何というか、邪心とかそういうものが一切ない人で、他人に対して嫉妬を抱くということもない人。でも、情けとか思いやりってものも皆無みたいで、物事をとにかく淡々と分析して処理していくの。そのせいかしら、誤っているとか不要だと判断したものに対しては、信じられないほど冷淡なのよ。
私が研究所に入ってすぐの頃にね、彼の部下にあたる女性がちょっとしたトラブルを起こしたの。論文の盗用ね。幸いというべきか、公に発表する前にばれて、内輪で厳重注意という事で終わらせたんだけど、有馬さんだけが納得しなかった。それで彼はその盗用事件を外部に告発して、更にその女性を退職させてしまったの。確かに、職員規約を厳密に適用すれば解雇せざるをえない状況ではあったけど、二十代の女性だからまあそこは穏便にって、所長とかも思ってた筈なのよね。でもとにかく、誰も有馬さんを相手に「温情」という概念を理解してもらおうなんて、不毛な挑戦をする気はなかったわけ」
「それで、自主的に退職ですか?」
「それも有馬さんが納得しなくて、懲戒解雇。でも更にまずかったのは、彼女の受けたダメージが大きすぎた事。いわば業界全体に悪評ばらまかれちゃって、そこから立ち直れるほどタフじゃなかったの。辞めてから一月ほど後に、電車に飛び込んで自殺したわ」
陽介は黙って旧道からバス道に戻る橋へと続く角を曲がった。
「その知らせを聞いて有馬さんは、請求される賠償金の事を考えると、鉄道自殺は費用対効果が悪すぎる。彼女はやっぱり研究職に向いてなかったねって。ただ、そう言う彼の中に悪意はなくて、本人はただ客観的な事実を述べているだけなの。彼にとっては解雇も自殺も、全ては彼女自身が引き起こした事なのよね」
「彼なりの哲学って事ですか?」
「そうね。有馬さんの世界観って奴かも。とにかく、彼は必要な時には当事者としての責任を最大限に果たそうとするわ。ほどほどとか、見て見ぬふりとか、嘘も方便とか、そういう事は一切できない人だから。うちの研究所ではあの事件以来、彼を独立した部門の所属にして、部下は持たせないようにして、秘書も他の部署からの出向って形にして、事実上彼の管理職としての権限を失くしてしまったの。普通なら馬鹿にされた、とか思うところかもしれないけれど、彼はそういうの全然気にならないのよね。だから、もし奥さんが不倫なんて事があれば、配偶者として当然の行動に出るに違いないし、彼が制裁を加えるのは相手と奥さんの両方って事よ」
あの朝、突然現れた亨は、陽介を朝食に誘ってホテルの一階にあるコーヒーショップで待っていた。逃げる、というのもできない相談ではなかったが、そうしたところでどうにもならないと半ば観念して、陽介は彼の前に座った。もう日は高く、融けはじめた雪に反射した陽光が、ガラス越しにひどく眩しかった。
席につくとすぐにウェイトレスが来たが、既に食事を始めていた亨は「コンチネンタルでいい?」と聞いてきた。もちろん異存はなく、彼と同じ組み合わせにしてもらう。
「ここには、呼ばれて来たの?」
水を一口飲んで、とりあえず聞いてみると、「まあね」という返事がある。澪と一夜を過ごした陽介を前にして、亨は不機嫌な様子も見せず、却って快活そうにさえ見えた。
「で、彼女は先に帰ったんだ」
「俺が乗ってきた車、そのまま運転してね。別に昨日の夜だって、迎えに来れない事はなかったんだけど、事故をもらったりしたら危ないからって断られた。それがここに泊まるための口実だったかどうか、定かじゃないけど」
ウェイトレスが陽介の食事を運んできたので、亨はそこで言葉を切った。そして自分にもコーヒーのおかわりを頼むと、「まあ食べなよ」と言った。
自分で思っていたより喉が乾いていたようで、陽介は大ぶりのグラスに入ったオレンジジュースは一瞬で飲み干してしまった。それからトーストを齧り、スクランブルエッグとベーコンを食べる。ふだん食べているベーコンが紙ではないかと思えるほど分厚くて、噛みしめると肉の旨味と油があふれてくる。それはいい、それはいいんだけれど。彼はばらばらになりそうな思考をまとめようと自分に言い聞かせた。
「俺の事、怒ってる?」
こんな質問しても意味ないか。しかし黙っているのも気づまりなのだから仕方ない。亨は新しく注がれたコーヒーを一口飲んでから、「俺は彼女のヒモじゃないって言っただろ」と答えた。
「でも、俺が亨の立場なら、面白くないというか、不愉快だ」
「自分の女を寝取られたから?」
「まあ、そういう感じで」
「ご心配なく。彼女は俺の女じゃない。それはでも、判っただろ?」
彼が何の事を言っているのか、陽介はすぐに気付いた。澪が多分長い間、夫、或いはその他の男と寝ていないという事。
「じゃあお前は一体彼女の何なんだ?自殺しかけてるのを救った、それはいい。けどこうやってずっと、彼女のそばをうろついてるのは何のためなんだ」
平然とした亨の態度に馬鹿にされたような気がして、陽介は言葉を荒げた。悪戯していたのを見つかってしまったような、そんな後ろめたさがあるのは確かだが、そこまで距離をおいた態度をとるつもりなら、いっそ自分と澪の事に首を突っ込んでほしくない。幸い、隣のテーブルは空いていて、二人の会話をはっきりと聞いている人間はいなかった。亨も同じことを考えていたのか、一瞬ではあるが周囲を見回して、「それが判れば、俺も苦労しない」と言った。
「どういう意味だよ」
「俺だって別に、好きでこんな時にお前の顔を見に来てるんじゃないさ。ただ、彼女に、自分の代わりに、先に帰るって伝えてくれと言われたんだから仕方ない」
「つまり、一緒にいるのも、頼まれてるって事?」
「だから彼女は俺の雇い主だって言ったじゃないか」
ふりだしに戻る。何故だか陽介の頭にはこの言葉が浮かび、彼は窓の外に広がる冬の青空を見上げた。昨日の重く澱んだ雪雲は跡形もなく消え去ったというのに、自分はいつの間にか深い迷路に入って出られない。
「じゃあ聞くけど、彼女のこと本当に何とも思ってないわけ?ただの雇用関係だって考えてる?」
そうであれば、俺はとりあえず亨に遠慮する必要はないわけだ。澪の夫についてはまた別の話になるけれど。亨はその質問に、仕方ないね、という風に眉を持ち上げてみせ、陽介は途端に気持ちが怯むのを感じた。亨がこんな表情をする時は、何かをひどく悲しんでいたりするからだ。
「俺が彼女のことをどれだけ思ってるかなんて、他の人間には意味のない事だ。けどまあ、手を出さないのが相手のためだと、信じたがっているだけの馬鹿かもしれないな」
あの時の亨の言葉に納得はできなかったが、それ以上深追いすることもできなかった。ただ、今になってようやく、少しだけその意味が判ったような気がする。彼は澪に手を出さない事で、彼女を夫から守っているのだ。それについて二人の間にどういう諒解があるのか、知る由もないけれど。
「まあ、ただの知り合いって事なら安心したわ」
有希子の言葉は「そういう事にしましょうね」という圧力を伴っていたが、陽介もそれに従っておく。
「私だって一方的に陽介さんを責める気はないのよ。紗代子の事で、色々と不満はあって当然だものね。お母さんも心配してるし。クリスマスの時は、たまには泊まってきなさいって、叱ったんだってね」
言われて初めて、あの日紗代子が帰ってきたのは、彼女自身の意志ではなかったのだと気付いた。でも結局、ああしてそっけなく先に寝てしまったのは、とりあえず義母に対して体裁をつくろっただけという事だろうか。それとも、自分が誘うべきだった?
正直いって、陽介には澪の記憶をまだはっきり留めておきたいという気持ちがあった。彼女の肌の暖かさだとか、髪の柔らかさだとか、声の切なさだとか。そして彼女の身体を満たしていた海の味を自分の舌に残しておきたい。まだ別の記憶で上書きしたくないのだ。
「あ、行き過ぎちゃうわよ!」
悲鳴に近い有希子の声に、陽介は我に返った。
「ほら、キリン堂。ちゃんと開いてる。ラスクまだ売ってるといいんだけど」
慌てて速度を落としながら、陽介はこっそりと溜息をついた。俺は一体何を考えてるんだろう。今日は正月休み最後の日で、これから妻の実家に戻って皆で夕食を食べる。そして明日からはまた仕事が始まるというのに。
19
今一つ決め手に欠けたプレゼンテーションを終え、まだまだ改良の余地ありと思い知らされた商品のプロトタイプを両手に抱えて、陽介は営業車を降りた。
「じゃあ、俺、こいつを車検に出して直帰するから。日報よろしく」と、運転席の芹川は軽く手を挙げ、すぐに車を出した。もう聞こえないとは思うものの、「お疲れさんです」と声をかけ、通用口から社内に戻る。省エネ推進中なりに暖かい空気に、あらためて外の寒さを思い出しながら階段を上がると、すれ違いざまに西島さんが「おかえり」と声をかけてきた。
「明日から九州?大変ね」
「仕事じゃないですから」と、踊り場から振り向いて答えると、彼女は「ある意味仕事より大事でしょ」と笑った。
紗代子が探し当てた指宿の動物病院。並の獣医なら無理だと諦める病状でも、完治させた事例は数知れず、しかも予約がびっしり詰まっていてそう簡単には診てもらえないというのだから、陽介には噂が独り歩きしているとしか思えなかった。占い師だとか霊能者じゃあるまいし。口には出さないがそう確信していた。ところが、仕事も辞めてペクの看病に専念している紗代子には、不可能を可能にする気力も時間も十分にあったようだ。
「主治医の先生に了解もらって、カルテとかレントゲンとか送ったの。そしたら、まだ間に合うかもしれないから、一度来てみなさいって」
既に予約まで入れたと言われたのが、先週の事だ。紗代子一人でペクを連れて、カーフェリーで鹿児島まで移動するという話だったが、義理の両親の手前、夫である自分が「はいそうですか」と留守番しているわけにいかない。慌てて有給を申請し、週末と前後二日の四連休で同行する羽目になってしまった。おまけにその顛末を西島さんに話したら、噂は一瞬で広まって、ふだんあまり言葉を交わさない同僚からも「高田さん、ワンコの腎臓移植で沖縄に行くらしいですね」と、尾ひれのついた質問をされたりする。
本当に、これが子供の病気だったら、何の迷いもないんだけれど。
自分の席に戻ると、すぐ営業日報にとりかかる。交通費を確かめようと携帯を取り出し、そして今日も澪からのメールが来ていない事に落胆する。あの日からずっと、もう一度会いたいとそればかり思っているのに、何度か受け取ったメールには「寒い日が続きますね。こっちも今日は風が強いです」といった言葉しか書いてこない。言外に、あれはなかったことにしようと仄めかされているように思えた。
それでも、待たされるとはいえ、返事が来るのだから終わったわけではない。そう自分に信じさせたくて、彼は時折メールを送った。しつこいと思われない程度に、我慢して日にちをあけて、いったん打った文章の半分以上を削り取る。すると今度は必要以上にそっけないような気がして、また一からやり直しだ。このごろはいつも、昼休みだとか、寝る前のひと時をそんな事に費やしてしまう。
いや、今はとにかく日報を書かなくては。陽介は抽斗を開けてクリアファイルに挟んである営業日報のフォームを取り出した。会社を出た時間に、利用した交通機関、客先への到着時刻、商談相手の氏名、役職。こんな書類、多くの企業でパソコン端末から社内のネットに直接書き込みという仕組みになっているだろうに、陽介の勤め先では未だに手書きだ。噂では岡本部長が渋っているという話だが、やはりこの世代の人間は効率よりも、手間暇かけたことを良しとする価値観から抜けられないのだろう。おかげでこちらは移動時間を有効利用できず、下手をするとサービス残業になってしまう。
「次回で試作品を完成させないと、ユーザーの生産ライン調整に影響」と書いたところで、携帯がメールの着信を知らせた。澪から?と思うと瞬時に手を止めてしまう。が、それは紗代子からだった。たぶん、今日は定時で帰れるの?とか、そんな事だろうと思いながら、とりあえず内容を確認する。
「朝から調子悪くて、さっき病院に行ったらインフルエンザだって(泣)」
泣きたいのはこっちだ、と思いながら、陽介は紗代子の実家を訪れた。
「昨日から、何だか妙にあちこち筋肉痛だとは思ってたのよ」
独身時代からそのままにしてある自室でのベッドで、紗代子は横になっていた。熱が高いらしく、ふだんどちらかといえば青白い頬が赤みを帯びている。目を開いて会話するのも億劫だという様子で、言葉も途切れがちだった。
「ここで獣医さんの予約キャンセルしたら、次いつになるか判らないし、悪いけど一人でペクを連れて行ってくれない?」
そう言われるのは予想していたので、陽介は「わかった」と返事した。どうせ有給もとってしまったし、義理の両親の手前、行かないという選択肢はない。
「明日、点滴打ってもらって、行けそうなら飛行機で追いかけるから」
「え?そりゃ無理だろ。寝てた方がいいって」
「でも私、自分で獣医さんと話がしたいの」
そう言い募る紗代子の眼には涙が浮かんでいる。熱からくるものだとは思うけれど、それだけではないかもしれない。
「心配なのは判るけど、ちゃんと連れていくから。獣医さんには俺から頼んで、電話で話ができるようにしてもらうよ」
そうできる自信はないが、そうでも断言しないと話が長引く。紗代子もしかし、食い下がる気力はないらしくて「絶対ね」とだけ言った。
「荷物とかはお義母さんに聞けばいいんだよな。じゃあ、心配しないで任せといて。ゆっくり休みな」
今までに何度か、風邪をひいたり生理痛がひどかったりで寝込んでいる紗代子を見たことはあるが、ここまでぐったりしているのは初めてで、さすがに陽介も落ち着かない。なのに心の片隅では「何だって、よりによってこんな時に」という、苛立ちに近い気持ちがちくちくと棘を繰り出す。
どうやら義母もそんな陽介の気持ちを察しているのか、「一昨日私がデパートにつきあってって頼んだのがいけないのよ。帰りのバスにね、すごく咳き込んでるのにマスクしてない女の人がいたの。絶対あの人だわ。こんな事なら一人で行けばよかった。本当にごめんなさいね」と、必要以上に低姿勢だった。義父はといえば、思う所は色々あるようだったが、黙ってテレビに集中したふりをしている。
「まあ誰からうつったとかいうのは、しょうがないですから」と、陽介は平静を装った。幸いというべきか、紗代子はペクの餌から水から、旅の準備は全て整えていて、ペット連れに優しいサービスエリアについての情報などもネットで検索してプリントアウトし、地図等と一緒にファイルに準備していた。それを見ると、俺って彼女のこういう几帳面なところが魅力で結婚したんだよな、と改めて思い出すのだが、だからといってこの装備一式を車に積み、一人で病気の犬を連れて指宿まで移動するのは気が重い。
一方、肝心のペクはやはり主人である紗代子の変調を感じているのか、ふだんより大人しくて、ケージにもぐったまま出てこない。まさかこいつまで調子が悪いんじゃないだろうな、と少し心配になった陽介はしゃがんで中を覗いてみた。
「おい、道中よろしく」と、声をかけても、少しだけ見えている黒い鼻面がわずかに上下するだけだ。全く、相変わらず馬鹿にしてやがる。
「じゃあ、明日またペクだけ迎えに来ます」
陽介と紗代子の車は軽自動車なので、鹿児島行きには義父の車を借りることになっていた。今夜乗って帰って、明朝自分の荷物を積んで戻ってくるというわけだ。義父はコーヒーテーブルに置いていた車のキーを陽介に手渡し、一言だけ「すまんな」と言った。
犬と男の二人旅、といえば何だか野趣あふれるロードムービーのようだが、実際にはそんなに豪快なものではない。ただ黙々と単調な高速道路を走り、いつもよりまめにサービスエリアに停まって、後部座席に置いたキャリーケースから犬を連れだし、運動させたり水をやったり。
自分だけに課せられた大仕事のようにも思っていたが、実際には犬連れのドライバーというのは結構いるものだ。まあ、たいていがチワワだとかトイプードルといった小型犬で、ペクのような中型犬は見かけなかったが、一度だけ窓から顔を出しているゴールデンレトリーバーにお目にかかった。
サービスエリアに着くと、まずペクの世話を一通りすませ、携帯で写真を撮ってからキャリーケースに戻す。それからが陽介の休憩時間だ。トイレに行き、売店をひやかしてから喫茶コーナーで少し上等の、豆から淹れるという自販機のコーヒーを買い、テレビのニュースなど見ながら一息ついて、それから紗代子に写真つきの報告メールを送る。
彼女はどうやら昨日より熱が高いらしく、「おつかれ、気をつけて」という程度の返信しか来なかったが、その方があれこれ様子を聞かれるより気楽ではあった。ペクの様子は紗代子の実家にいた時と大差ない感じで、とりあえず落ち着いているようだった。それでも住み慣れた場所を離れて陽介と二人きり、という状況はやはりストレスがたまるらしく、普段より何となくおどおどしている。
これをきっかけに、俺に一目おくようにならないかな。
そんな事を考えてもみるのだけれど、水をやろうと餌をやろうと、ペクはやはり陽介からは少し目をそらし続けていて、仕方ないから一緒にいるんだよ、という態度が見え見えだった。
とはいえ、雲ひとつない晴天だし、平日で道路は空いているし、時間に余裕はあるし。旅行だと割り切ってしまえばそれなりに楽しくはある。もしペクを病院に送り届けて、首尾よく入院させられる運びになったら、あとは温泉にでも浸かってのんびり過ごし、一人で身軽に帰ってくればいいわけで、それを想像するのもいい気分だった。そうなると自然に澪の事を考えてしまう。
彼女、会いに来てくれないだろうか。
東京から距離があるとはいえ、飛行機を使えば土日だけでも鹿児島で一緒に過ごす事は可能だ。少なくとも彼女に金銭面での心配はないし、問題は週末の予定を全てキャンセルしてまで来てくれるのか?という事だけだ。考えてみればずっと、自分が会いに行ってばかりだし、連絡もこちらからがはるかに多い。でも、もしかしたらこの前みたいに、真剣に誘えば、素直に応じてくれるかもしれない。
陽介って本当に楽観的よね、とは、折にふれ紗代子から頂戴する言葉だ。自分では悲観的というか、心配性だと思うし、むしろ彼女の方が前向きな性格だと思うのだけれど、人に与える印象というのは、本人の思い込みと食い違うものかもしれない。まあ楽観的だろうが悲観的だろうが、今の自分は休暇中で、旅に出ていて、もうすぐ一人きりになるという事実に変わりはない。
大阪市内に入る前、最後に休憩をとったサービスエリアで、陽介は思い切って澪に電話をしてみた。たいていの勤め人はまだ仕事をしている時間で、しばらく待ってみたが彼女は出なかった。まあ、色々と忙しいんだろうな、と思って一度は電話をポケットにしまったものの、また取り出して今度はメールを打つ。
「結局、犬を指宿の病院に連れて行くことになりました。今夜フェリーで大阪から出発です。でも嫁さんはインフルエンザで不参加。俺一人です」
まあこんなもんか、と思ったけれど、やはり一言付け加えてしまう。
「澪さんがいてくれたら、ずっと楽しいんだけど」
後はもう色々考えずに送信して、それから紗代子への報告メールにとりかかる。ペクをキャリーケースから出し、リードをつけて少し運動させ、売店の傍にある花壇のフェンスにつなぐと写真撮影。もうかなり日が傾いてきたが、それでもペクの姿はきれいに映っていた。正直いって何枚撮ったところで、耳が大きくて足の短い雑種の犬なんだけどな、と思いながら「あと少しで大阪。具合どう?」とだけメッセージをつけて送った。
さてこのまま大阪港まで行って、向こうでのんびり休憩するか、ここでコーヒーでも飲んでからいくか、思案しながら売店の方を眺めていると、いきなり携帯が鳴った。澪から?と慌ててポケットから取り出すと、ディスプレイには知らない番号が表示されている。間違いだか何だか知らないが、とにかく出てみると、女性の声が「もしもし?」と呼びかけてきた。
「あの、どちらにおかけですか?」
残念ながら澪の声ではないし、もちろん紗代子でもない。間違い電話だと思うが、どこかで聞いた声のような気もする。
「高田さん、ですよね。今どこですか?」
「…大野、さん?」
半信半疑ではあるものの、その声というか、言葉をつなぐ間の取り方は彼女独特のものだ。すると案の定、電話の向こうではキャーッという人を小馬鹿にしたような笑い声が弾け、「旅行どうですか?楽しいですか?奥さんインフルエンザで、一人旅になっちゃったって西島さんから聞きましたけど」という能天気な質問が繰り出された。
「うるさいな、別に遊びじゃなくて出張みたいなもんなんだよ。だいたい、今まだ仕事中だろ?急用でもないのに、休みとってる人間に電話してくるなよ」
頭にきて一気にまくしたてたが、向こうは全くこたえていないらしくて「私もう今日の仕事は全部片付いてるから大丈夫です。今、車運転してるんですか?」ときいてくる。
「運転中なら電話に出ないから。そっちは会議室か給湯室で、またぷらぷら遊んでるんだろ。これ切ってすぐにマダム井上に電話して、大野さんがサボってるからつかまえろって言ってやる」
「やーだー、そんないじめみたいな事しないで下さい。ただでさえ私、目の仇にされてるのに。ねえねえ、鹿児島のおみやげ、ちゃんと買ってきて下さいね」
「知らないよ。じゃあな、定時まできっちり働けよ」
それだけ言って通話を切ると、陽介は一瞬、本当にマダム井上に電話してやろうかと思った。営業なので携帯の番号は会社で調べればすぐに判るのだが、そこへわざわざ今この時にかけてくる、その神経が判らない。本当は「サボってないでちゃんと仕事しろ」と、一言で切ってしまえばいいのに、相手なんかするから向こうがつけ上がるのだ。判っていても、陽介にはそれができない。
結局、舐められてるんだ。
またかかってきても、次はもう出ないでおこうと思いながら、陽介はつながれたままのペクに視線を移した。するといつの間に来たのか、義母くらいの年ごろの、上品そうな女性がペクの傍にしゃがんでいた。犬好きおばさんか、と思いながら陽介は「すいません」と声をかけ、腰をかがめると花壇のフェンスからペクのリードをほどいた。
「ああ、お連れの方に頼まれたものだから。可愛いワンちゃんね」と、彼女は少しよろけながら立ち上がると、軽く会釈をして去っていった。「お連れの方」って何だろう。ああ見えて、少し精神に変調を来してる人なのかもしれない。大野さんの電話でケチがついた気がして、陽介はコーヒーを諦めると、すぐに出発することにした。
心配していた夕方の渋滞はさほどでもなく、時間に十分な余裕があるうちに車は大阪港のフェリー乗り場に着いた。携帯を見ると紗代子から「お疲れ。いよいよペク、生まれて初めての船旅だね。頑張れ」というメールが来ていた。犬に対する言葉の方が、夫である自分に対してよりも長くて、思いやりがあるのは何だか面白くない。そして澪からは何の反応もないのが空しかった。
フェリーに乗ったらペクはペット専用ルームに預けなくてはならない。高い料金を払えば、ペット連れ専用の個室もあるらしいが、幸か不幸か紗代子が予約を入れた時にはすでに満室だったらしい。どうせそう仲のよくない犬と人間だし、別々に過ごした方がお互いに気も休まるというものだ。
とにかく、ペクを預けてしまえば、後はしばらくの自由時間だ。食事をして、けっこう広くて快適だという噂の風呂に入って、日ごろの寝不足を取り戻す勢いで寝る。幸い陽介は船酔いというものをした事がないし、天気予報によると今夜は海も穏やからしい。
カーフェリーなんて学生時代の旅行以来だな、と思いながら陽介はゆっくりと車を走らせ、乗船する車両が待機する駐車場に入った。金曜の夕方という事で、思ったより混雑している。いったん車を降りて手続きをしてから乗船するという流れだが、とりあえずさっきの紗代子からのメールの返事に、ペクの写真でも送っておこうかという気になって、陽介は車の外に出た。陽が暮れてきたせいか、思いのほか風が強くて寒さがこたえる。排気ガスと重油の匂いが鼻につくが、その中にうっすらと潮の匂いが混じっていて、これから船に乗るのだ、という高揚感が少しだけ頭をもたげた。
その気持ちに蓋をするように運転席のドアを閉め、後部座席のドアを開けて、シートに置いているキャリーケースを覗いた。
「ペク、ちょっと写真撮るぞ」と声をかけ、キャリーケースにのせていたリードを手にする。いつもはその気配だけで出てこようとするはずのペクが、どうした事かじっとしている。外の匂いが嫌なんだろうか、と思いながら、しゃがみこんで、キャリーケースの入口に目の高さを合わせて覗いてみる。どうやらペクは丸くなっているらしく、背中しか見えない。
「どうした。車酔いでもしたのか?」
余りにも静かなので少し心配になって、陽介は手を伸ばしてペクを撫でてみた。いつもなら、たとえ寝ていたところでそこまでされると起き上がってくる筈が、やはり何の反応もない。
「ペク?おい、ペクってば!」
慌ててキャリーケースの外に引っ張り出してみたが、ペクは全くされるがままで、じっと目を閉じている。全身がぐにゃりと脱力していて、ふだんに比べてずっと重たく感じるが、もしかして、死んでしまったのだろうか。まさか、と思いながらよくよく見ると、腹が規則正しく動いていて、呼吸はしている。でも目を覚まさないというのは、人間で言うところの、昏睡状態って奴ではないだろうか?
20
「兄ちゃん、どないしたんや」
気がつくと、後ろから初老の男が覗きこんでいる。その傍らには妻らしきおばさんが、「いやあ、可愛らしい犬やんか」と歓声をあげていた。
「なんか、具合が悪いみたいで」
どうも自分は傍目にも何かあったと思われる程の大声を出していたらしい。陽介は何とか平静を装おうとしたが、シートの上にのびているペクはぴくりとも動かないままだ。
「起きてきよらへんのかいな。車に酔うたんちゃうか?」
「酔ったからて、気ぃ失うような事あるやろか。私も若い頃は車に弱かってなあ、会社の慰安旅行で郡上八幡にバスで連れてもろたんやけど、酔ってしもて何も楽しいことあれへんかってんわ」
目の前のペクの容体とほとんど接点のない、おばさんの社員旅行の話は延々と続いたが、男は彼女の長話を気にかける様子もなく、「こいつをそのままフェリーに乗せたとしてや、海の上で何かあっても、どないもしたれへんやろ?」と問いかけてくる。
「はあ。実はもともと病気ではあるんですけど」
「そらあかんわ」
男性はいきなり大声で断言した。おばさんもそこで社員旅行の話を止め、「もともと病気やったら、あかんなあ」と頷く。
「兄ちゃん、悪いこと言わへんし、とにかくあっちで予約の取消した方がええで」と男は顎をしゃくって乗船カウンターのある建物を示した。
「獣医さんやったらなあ、マスダさんとこのチワワがかかってるお医者さんがええらしいよ。電話して聞いたげるわ」
おばさんは頼まれもしないのに、たすき掛けにしたショルダーバッグから携帯電話を取り出している。
「犬は見てたるさかいに、はよ行ってき」と、半ば強引に背中を押されるようにして、陽介はその場を離れ、あたふたと建物に入っていった。
まるで何か悪い夢の中にいるような気分で、現実感を欠いたまま予約をキャンセルし、ペクの元へ戻る。男性とその連れ合いは、約束通りに車の傍で待っていてくれた。
「ありがとうございました」と頭を下げ、陽介はいま一度ペクの様子を確かようとしたが、開いていたはずの後部座席のドアは閉まっていた。寒いから二人が閉めてくれたのだろうかと思ったところへ、男が「ほな、大変やろうけど気いつけてな」と声をかけて立ち去ろうとした。
「あの、すいません」
図々しいような気もしたが、先ほどおばさんが獣医の話をしていたのがまだ耳に残っている。慣れない大阪で一から探すよりも、とりあえずそこを訪ねた方がいいかと思ったのだ。
「なんや?」という返事が聞こえたその時、陽介は「あれ?」と大声をあげていた。
「何や、どないしたんや」と、男も驚いた様子で戻ってくる。
「い、犬がいないんですけど」
さっきまでペクのキャリーケースが置かれていた場所には何もない。陽介は慌ててドアを開き、どこか他の場所へ移されたのではないかと、車の中に首を突っ込んで探し回った。
「いないんですけど、て、さっきあんたの嫁さんが連れてったがな」
男は陽介の慌てぶりに得心の行かない様子で、まばらにヒゲが剃り残された顎を掌で撫で回している。
「嫁さん?ですか?」
「ああ判った、彼女やねんな。兄ちゃん結婚指輪してんのに、それはあかんなあ」と、訳知り顔でおばさんが頷いた。
「いや、俺は一人で車を運転してここまで来たんです。誰とも一緒じゃありません」
「へえ」と、狐につままれたような様子で、二人は一瞬顔を見合わせた。
「あんたが予約取り消しに行ってしばらくしたら、その嫁さんやら彼女やら判らん姉ちゃんが来て、すいません、すぐ獣医さん行きますし、ありがとうございました、言うて犬を連れていきよったで」
「私らてっきり、あんたの嫁さんやとおもたわ」
「どんな人ですか?服の色は?どっちの方に行きました?」女の足でペクの入ったキャリーケースを運んでいるなら、まだ遠くに行っていない筈だ。
「どんなて、普通のお勤めの姉ちゃんみたいな子やったで」
「うちの娘よりかまだ若いなあ。茶髪で、髪がこの辺まであって」と、おばさんは自分の肩のあたりを指先でさした。
「ほんでこっち側だけちょっと八重歯やねんわ」
「お前、短い間によう見とるなあ」と、男は連れ合いの記憶力に感心していたが、陽介は首筋のあたりがちりちりするような不安を覚えていた。
「その人、ちょっと鼻にかかったような喋り方しませんでしたか?」
「そうそう、なんか舌ったらずみたいな。ほら、やっぱり兄ちゃんの彼女やんかいさ」
「あっちへ行きよったで」と、男が指さしたのは、さっきまで陽介がいた建物の脇、曲がってしまえばここから見えなくなる場所だった。
「ありがとうございます」とだけ言って、陽介は即座に駆け出した。自分の知っている女性で、おばさんが指摘した特徴を全て具えている人間は一人だけだ。しかしそんな事ってあるだろうか。
建物の角を曲がると、そこもまた駐車スペースだったが、三栄薬品と書かれたハッチバックが一台停まっているだけで、がらんとしている。アスファルトに引かれた白線だけが、夕闇の迫る空間でやけに浮き上がって見えた。
「ちくしょう」
思わずそんな呟きが漏れ、そして「畜生」って動物の事だったな、と奇妙に冷静な事を考える。本物の畜生はペクで、そのペクを連れ去ったのは俺の知っている人間だ。陽介はもう一度「畜生」と呟くと、自分が車を停めていた場所に戻った。運転席に座り、エンジンをかける前に携帯電話を取り出す。そして着信履歴から大野さんの番号を呼び出した。
「高田さんって意外と勘が鋭いんですね」
大野さんの声は弾んでいた。
「ずっと俺の後をつけてたのか?」
「そうです。見つかったらどうしようって、ドキドキしてたんですけど、高速乗ってる間はけっこう油断してたでしょ。私、さっきワンコ連れて走ってる時が最高にドキドキしました」
「会社にいるっていうのは嘘だったのか」
「そうです。本当にマダム井上に電話されたらヤバい、って思ったけど。やっぱり高田さんって、そういう告げ口とかしない人だから大丈夫でした」
「つまり、あそこのサービスエリアに、大野さんもいたんだな」
「そう。高田さんが見えるとこから電話してたんですよ。その間に、親切なおばさんに頼んで、ワンコにお薬飲ませてもらったんです。売店で買ったどら焼きに、私がいつも飲んでる睡眠薬をはさんで、すいませーん、うちのワンコにおやつあげておいてもらっていいですか?あそこにつないである、あの犬です、ってお願いしました。おばさん戻ってきて、あのワンちゃんどら焼き大好きなのね、ぺろりと食べちゃったわよ、って言ってくれて、大成功」
「一体どういうつもりだ」
「高田さん、ちょっとしゃべり方きつくないですか?」
陽介はいい加減にしろ、と怒鳴りたいのをこらえて「自分では普通にしゃべってるつもり」と言った。
「大野さんは何がしたいわけ?その犬は重い病気で、もう治る見込みがないんだ。それを別の病院なら治せるかもしれないっていうんで、わざわざ指宿まで連れて行くんだ。それが大野さんのせいですっかり予定が狂って、ものすごく困ってるんだけど」
「知ってますよ。人間並みの最先端治療とか、温泉療法とか、色んなことするんだって、西島さんから聞きました」
「だったらもう邪魔しないでくれる?会社で大野さんの暇つぶしにつきあってるのとは、わけが違うんだ」
冷静に、冷静に、と自分に言い聞かせながら、陽介は話を続けた。とにかく今は向こうを刺激しないようにして、ペクを取り戻すのだ。しかし何をどう取り繕ってみたところで、腹の底から湧いてくる苛立ちは抑えようがない。大野さんがそんな自分を面白がっている様子なのが更に癪にさわった。
「高田さんこそ、奥さんの暇つぶしにつきあうのは止めたらどうですか?」
「は?」
「だってもう治らないんでしょ?なのに奥さんはワンコのために実家に帰ったきりで、仕事辞めて、高田さんの事ほったらかして、おまけに大金払って指宿の病院なんて、どれだけ暇なんですか?よくそれに我慢してつきあってますね」
余計なお世話だ、と言いかけて、陽介はその言葉を呑みこんだ。もちろん、大野さんが逆上しないようにという配慮からだが、頭の片隅のひどく醒めた場所で小さく「そうなんだよな」と呟く声が聞こえたような気がしたのだ。そうこうする間にも、フロントガラスの向こうでは、次々と車がフェリーに呑みこまれてゆく。
「高田さん、ワンコ、本当に返してほしいんですか?」
陽介の一瞬の沈黙をからかうかのように、大野さんの声は挑戦的だった。
「返してもらわないと困る」
「わかりました。じゃあ、今から私のいる場所まで受け取りに来てください」
大野さんの道案内というのはとても主観的だ。いつだったか、道に迷ったという来客からの電話に「そこの交差点から、いちばん判りやすいところにあるコンビニの角を曲がって下さい」と説明していたのを聞いたことがあるが、今もまさにその調子で、「フェリー乗り場の駐車場から出て、普通に走っていたら最初に突き当たる角を反対にいったところ」というのが、彼女が車を停めている場所らしかった。
せめて目印はないのかと聞くと、「目の前に橋がありますよ。ていうかこれ、高速道路?」と、まるで要領を得ない。いつの間にかすっかり日が暮れていた事もあり、二度ほど同じ場所を回って、三度めにようやく、それらしい道に気づいて方向を変えることができた。
たどり着いたのは何の変哲もない、がらんとした護岸沿いの空間だった。目の前はもう海で、暗い色のフェンスだけが、まばらに設けられた街灯の、心もとない明かりに鈍く光っている。そちらへハンドルを切ると、車のライトに照らされてシルバーのクーペが闇に一瞬浮かび上がった。わナンバーのレンタカー、陽介は「あれか」と呟いてそのすぐそばに車を停めた。
外に出た彼の耳に、「高田さーん」という声が届いた。まるで、混雑したフードコートで奇跡的に空席を見つけた時のように嬉しそうだ。見ると彼女は自分が運転してきた車の反対側に、風をよけるようにして立っていた。黒いダウンコートに足元はロングブーツという格好で、それでも寒いのか少し背を丸めて腕組みをしている。
「犬は?」
必要最小限しか口をききたくないので、陽介はそれだけ尋ねた。しかし大野さんは悪びれた様子もなく「さてどこでしょう」と小首をかしげて笑顔をつくる。それにまた苛立って、陽介は無言のまま彼女の車を覗き込んだが、助手席にショルダーバッグが転がっているだけで、後部座席には何もない。いや、暗いから判らないだけだろうか、と目をこらしていると「あっちです」という声がする。慌てて顔を上げ、大野さんの指さす方向へ視線を向けたが、そこには海と陸の境界を示すフェンスがあるだけだ。
「何だと!」と叫びながら、陽介はすでに駆け出していた。遠目には判らなかったが、よく見るとフェンスには切れ目があって、そこから海へと続く狭い階段が続いているのだった。
体当たりするようにフェンスから身を乗り出す。頭上を横切るように通っている高速道路や、対岸にある幾つものビルの明かりを反射させている墨のような海面の、護岸にほど近いところに、見慣れた白いものがぷかぷかと揺れていた。
ペクのキャリーケース。プラスチックなので浮かんではいるが、片方が不自然に沈み込んでいて、実際に水面に出ているのは三分の一程しかない。
「ペク!」
陽介は大慌てでフェンス脇の階段を駆け下りた。上から見ると、キャリーケースは手を伸ばせば届きそうな場所に浮かんでいたのに、近づいてみるとけっこう距離があった。陽介の頭には水の冷たさだとか、深さの判らない夜の海の不気味さだとか、服を着たまま泳ぐことへの不安だとか、そういった事が接触の悪い蛍光灯みたいに二、三度瞬いて、消えた。
「くっそお!!」
力任せにキャリーケースを地面に叩きつけると、中の海水が一気に流れ出す。衝撃で外れた扉が耳障りな音をたてて跳ね、それに続いて水を吸って膨れ上がった、分厚いレディスコミックが二冊、物憂げに転がり出てきた。
「犬はどこにやったんだよ!」
襟足あたりまで水に濡れた身体は、夜風で一気に冷えてゆく。陽介は大野さんにつかみかかりたい衝動を抑えながら、さっきまでフェンスから身を乗り出して、今日一番の見世物を楽しんでいた彼女に向き直った。
「もういい加減にしてくれ」
「高田さん、怒ってます?」
「これが楽しんでるように見えるか」と言い返すと、大野さんはフェンスにもたれたまま「高田さんって優しいですね」と笑った。
「正直言って私、そこまではしないと思ってたんです。キャリーケースをとるにしても、どこかで棒を探してくるとか、誰かに手伝ってもらうとかするんじゃないかって。まさかそのまま海に入っちゃうなんて。でも、そういうところが高田さんってやっぱり優しいですね」
「何が言いたいかよく判らないんだけど。とにかく早く犬をどこにやったか教えてくれ」
そう言う間にも、陽介のずぶ濡れの身体は震えが止まらなくなっていた。あと三分もここで夜風に晒されていたらどうにかなりそうだ。
「ワンコは私のお友達が連れて行きました」
「友達?」
「そう。お友達に預けたんです」
つまり、彼女はここに来る前にペクを友人に引き渡して、キャリーケースだけを海にぶちこんで陽介を待っていたという事か。
「その友達はどこに行った」
「それは内緒。ねえ、高田さん、濡れたままでいると風邪ひきますよ。どこかでお風呂とか入って、温まってから着替えた方がいいですよ」
「わかってる」
寒さのせいか、怒りのせいか判らない体の震えを無理やり抑え、陽介はそう返事した。
21
陽介がシャワーを浴び終えて出てくると、大野さんはベッドに腹這いになって携帯をいじっていた。その様子に、やはり浴室で服を着ておいてよかった、と思いながら、彼は「じゃあもう、ここ出るから」と言った。
「え~?せっかく来たんだから、ゆっくりして行きましょうよ」
大野さんは仰向けになると、「あ、鏡だ」と、今更のように天井を見上げて驚いている。人目につかないように濡れた服を着替え、冷え切った身体を温めるにはこれ以外の選択はなく、陽介はフェリー乗り場からそう遠くないラブホテルにチェックインしていた。大野さんはレンタカーを乗り捨てて、強引に陽介の車の助手席に乗り込んできたのだった。
「ねえ、高田さんって結婚してからも奥さんとこういう所に来たりしてるんですか?」
「どうでもいいだろ」
「やーだ、照れちゃって」
大野さんはうふふ、と声をあげて笑い、天井の鏡に映っている自分に手を振っていた。陽介はそれを横目で見ながら「早くしろよ」とせかした。すると彼女はいきなり身体を起こし、「駄目です」と言った。
「何が駄目なんだよ。一人で嬉しそうにしてるけど、俺は全然楽しくないから。さっさとここを出て、話はそれからだ」
陽介がまくしたてると、大野さんはいきなり頬を紅潮させ、それから「なんでわかんないんですか?」と、なじるような口調で言った。
「わかんないって、何を」
「なんで私がここまでしてるのに、わかんないんですか?」
「わからないのは俺の方だ。勝手に人んちの犬を連れ去って、わかんないですか?とか聞かれても、わからないのが当然ってもんだろ」
ついつい激しい口調でやり返した陽介の言葉に、大野さんは更に険しい顔つきになった。
「私、高田さんのことが好きなんです!寝ても起きてもいつも高田さんの事ばっかり考えてるし、会社だって最低でつまんないけど高田さんがいるから行ってるんです。そりゃ高田さんは結婚してますけど、あんな奥さんより私の方が高田さんの事をずっとずっと大切に想ってるし、私と結婚した方が高田さんは今の何倍も幸せになれます。だから私、高田さんのためを思ってワンコをさらったんですよ。高田さんの奥さんって、絶対に高田さんよりワンコの方が大事ですから、このままワンコが死んじゃったら、きっと離婚するって言い出します。そしたら高田さんは自由になれますから、私と結婚して幸せになりましょうよ」
それだけ一気に吐き出すと、大野さんは「きゃあ、言っちゃったあ!どうしよう!」と悲鳴をあげ、ベッドにあった大きな枕をひっつかむと、その下に頭を隠すようにして倒れ込んだ。
駄目だこりゃ狂ってる。陽介は半ば恐怖に近い感情を味わいながら、どうしたら彼女が少しは己の暴走ぶりを自覚してくれるかと考えていた。
「あの、さ、話が何だか込み入ってるけど、俺はとにかく犬を見つけたいんだ。このまま大野さんが何も教えてくれないんだったら、もう警察に相談するしかないんだけど」
「警察?」
大野さんはオムレツに混じった卵の殻を見つけたような不機嫌さでその単語をつまみ上げると、枕の下から顔を出した。
「警察なんか行ったら、高田さん色々と困ったことになりますよ。あの人のこと、奥さんに知られてもいいんですか?」
「あの人って?」
「澪さん」
再び身体を起こして、大野さんははっきりとその名を口にした。陽介は「それ誰のこと」と言ってはみたが、彼女は落ち着き払った口調で「何度もメールしてるじゃないですか。東京で会ったりもしてるし。高田さん、いつもデスクに携帯置きっぱなしにしてるから、見たい放題」と切り返してきた。
「ワンコが死んで、離婚できるようになっても、あの人のことがばれたら慰謝料いっぱいとられちゃいますよ。まあ、そうなると私たちの子供の教育費に響いたりしてくるから、本当は私も秘密にしときたいんですけど」
陽介の喉はいつの間にか乾ききっていた。この、ややこしく絡まり合った状況を、とにかく少しずつでもほどかなくては。
「あのさ、お腹すいてない?」
しばらく間をおいてからそう尋ねると、大野さんは「うーん、すいてるかも」と言って、抱えていた枕に顎をのせた。
「じゃあちょと、飯でも食って。話はそれからだ」
「私この、彩り御膳にします」
大野さんはそう言ってメニューを閉じ、おしぼりで手を拭いた。陽介はウェイトレスを呼んで彼女の注文を告げ、自分は生姜焼き定食を頼むと、グラスの氷水を飲む。
ラブホテルを出てから最初に見つけたファミリーレストランだが、金曜の夜ということもあるのか結構賑わっている。幸い、途中に靴の量販店があったので安いスニーカーを買い、水に浸かった靴は店で処分してもらった。シャワーも浴びたし、服も着替えたし、すっきりしてもよさそうなものだが、首筋に濡れ雑巾を貼りつけられたような鬱陶しさは時を追うにつれて増すばかりだった。
大野さんはふだんの昼休みと変わらない様子で、携帯を見ながら料理が来るのを待っている。陽介もホテルを出てからここに来るまで、ペクはおろか、紗代子や澪の事も一切口にせず、今まで大阪に来たことはあるか、といった話題をぽつぽつとしただけだった。
「せっかく大阪来たんだから、やっぱりお好み焼きとかの方がよかったかも、ですね」
大野さんはそう言うと携帯をバッグにしまい、今ようやくどこにいるか気づいた、という感じで周囲を見回した。
「だったらこの後で、たこ焼きでも買って食べれば」
「でも私いま、ダイエット中なんですよね」
「別にダイエットの必要なさそうなのに」
「駄目ですよ、私、腕なんかぷにぷになんですから」と、大野さんは「ほらあ」と肘を上げ、二の腕をつまんでみせた。
「みんなそんなもんじゃない?」
「高田さん」と、大野さんは急に背筋を伸ばして、まっすぐに陽介を見た。
「私やっぱり高田さんのそういう優しいところが好きです」
今日何度目かの「優しい」を、陽介は無言でやり過ごした。
「何でも面倒くさがらずにちゃんと答えてくれるし、棘のある事言わないし、怒らないし。仕事でミスしたりしても、もういいよ俺がやるからって、フォローしてくれるし」
そこが俺の最大に駄目なところなんだけど。陽介は少しげんなりした気持ちで自分に向けられた賛辞を聞いていた。ここぞという場面で毅然とした態度をとれず、「全部やり直して」だとか、「何度も同じミスするなよ」だとかの、言うべき文句を呑みこんでしまう。例えば今、ウェイトレスが頭のてっぺんから生姜焼き定食をぶちまけてくれたとしても、俺はやっぱり「あ…大丈夫です」としか言えないだろう。
幸いなことに、ウェイトレスは何事もなく料理をテーブルに並べて去って行き、陽介は自分の空腹感を何か他人事のように感じながら、割り箸を手にした。
「それに高田さんって、厳しい事言ってるふりして、気を遣ってるっていうか、言葉の奥に愛があるっていうか」
大野さんは食事をしながらも、何かに取り憑かれたように話を続けた。
「高田さんの奥さんって、絶対に冷たいっていうか、高田さんのいいところを判ってないですよ。お手頃物件だったから、まあいいわと思って結婚したけど、早まった気もするのよね、とか、うちの旦那ってああ見えてかなり鈍感だし、言わないと判らない事が多すぎるのよ、とか、自分勝手ですよね。そっちこそ文句多すぎなのよ、って思いました」
「それ、直接きいたの?」
「はい。飲み会の帰りに高田さんちでトイレ借りたことありましたよね。奥さんが私のこと、車で家まで送ってくれて。あの時、高田さんってどんな旦那さんですかってきいたんですよね。そしたら、周りからはいい夫になるって勧められたけど、実際はなかなか難しいわね、なーんて。あの時、高田さんはこんな奥さんと一緒にいたらどんどん不幸になっちゃうて確信しました。私が救ってあげるべきだって」
それが自分の留守宅に上がり込んだ大野さんへの牽制なのか、はたまた日ごろの愚痴をぶちまけただけなのか、紗代子の本音は判らないが、大野さんにとってはそれなりに、示唆に富んだ会話だったようだ。
「その…離婚するとして、なんだけど」
陽介は生姜焼き定食を平らげ、グラスの水を少し飲んだ。
「さっき大野さん、慰謝料の話をしたよな。もしこのまま犬が戻ってこないと、やっぱり慰謝料を払う羽目になると思うんだ」
「そうなんですか?」
「俺に過失があったから、犬を病院に連れて行けずに、途中で死なせてしまうわけだろ?」
「だって、そうしないと離婚できませんよ」
「だからそれは、うちの奥さんから離婚を言い出す場合の、もしもの話だろ?俺から離婚を要求するなら、自分の過失なんて不利な条件にしかならないじゃないか」
「じゃあ、どうしたらいいんですか?」
大野さんは上目使いにそう言って、箸をおいた。
「別に難しい事じゃない。犬をちゃんと病院に連れて行って、できる限りの治療をしてやる」
「それで?」
「それだけだ。後はこっちからできるだけ冷静に、離婚話を切り出す。俺は君が犬の世話をしたいというから、何か月もそれを支えてきた。犬を入院させるために、一人ではるばる九州まで行きもした。なのに君はずっと実家に帰ったきりで、戻る予定も判らない。これでは一方的に夫婦の義務を放棄されているのと変わらないし、夫婦生活は破綻したようなものだ。だから互いのために離婚して、別の道を歩んだ方がいいと思う、ってね」
「なーるほど!高田さん、実はちゃんと私とおんなじ事を考えてたんですね?やっぱりあんな奥さん、嫌ですよね!」
「まあねえ」と、ためらいがちに答え、陽介は敢えて身を乗り出した。
「だからだよ、俺に落ち度が少ないほど、離婚はしやすくなるわけだし、うまくいけばこっちが慰謝料をとれるかもしれない。そのためにはどうしても、あの犬を鹿児島の病院に連れて行って、満足な治療を受けさせる必要がある。俺だって別に、そんな事をしたから完治するなんて信じてないよ。ただのアリバイ作りみたいなものだ。離婚に向けてのね」
話を聞くうち、大野さんの瞳は徐々に焦点がぼやけてきた。まるで赤トンボに向かって指を回してるみたいだな、と思いながら、陽介は尚も言葉を続けた。
「とにかく、俺に落ち度がないっていう事が重要なんだ。だからあの、俺がメールのやりとりをしてる、澪さんって人の事は秘密にしておかないと。第一、彼女とは本当に何もないんだから。そしてもちろん、大野さんもただの同僚だってはっきりさせておく必要がある。だから俺がうまく離婚できるまでは、絶対に疑わしい行動をしては駄目だ。まずは離婚して、それから俺は仕事を辞めて実家の方に引き上げる」
「え?会社辞めちゃうんですか?」
「それも一つの段取りだよ。離婚していきなり大野さんとつきあい始めたりしたら、別れる前から不倫してたんじゃないかって疑われるだろ?だからいったんはあの街との縁を切るんだ。そして一年ぐらいしたら、大野さんも退職して、俺のところに来ればいい。その頃にはきっと新しい仕事も決まってるだろうし」
「い、一年なんて長いです。私、すぐに三十になっちゃいます。三十路ですよ」
「でもそれ位のブランクがあって初めて、周りも、ああ、偶然に再会してつきあうようになったんだなって思うもんだよ。大野さんだって、披露宴には同期の子とか、地元の友達も招待したいだろ?身辺はきれいにしとかないと。入籍だけなんて地味すぎるだろ?」
大野さんは「まあ、地味っていえば地味だけど。でも私、結婚式に招待するような友達なんてないし」とか何とか言いながら、おしぼりを畳んだり広げたりしている。
「それより何より、もう、高田さんの計画通りにはいかなくなってるんですよね」
「どういう事?」
「もう、会社辞めちゃったから」
「辞めた?でも昨日はちゃんと出勤してたじゃないか」
「だから、今日辞めたんです。正確には昨日の夜遅くっていうか、メールで、今日付けで辞めますって送信しました」
陽介は何とか落ち着こうとして、残り少なくなったグラスの水を飲んだ。病欠の連絡ですら、メールは非常識といわれるような職場なのに、いきなり退職とは。
「理由とか、書いたの?」
「書きません、ていうか、一身上の都合でいいんでしょ?」
きょとんとした彼女の顔に、なんとなくその文面が判るような気がした。「本日で退職します。一身上の都合です」岡本部長は仏頂面で「ま、しゃあないな」と唸り、吉岡は「そっすか」と受け流し、マダム井上は「好きにすれば?」と軽く微笑み、西島さんは「彼女らしいわ」と溜息をつく。そんな感じだ。
「だって私、仕事なんかずーっとうんざりだったし、毎日出勤してたのは、高田さんに会うためだけだったし。でも高田さん異動してからは、あんまり会えなくなったから、いつ辞めてもいいやって思ってました。それで、奥さんがインフルエンザで、高田さんが一人でワンコを連れて九州に行くって話を聞いた時に、決めたんです。仕事辞めて、追いかけて行って、告白しようって。少し迷ったけど、やっぱり実行してよかったです。高田さんと将来のこと、きちんと話せたし、一年はちょっと長い気がするけど、考え方によっては段取りとかしっかりできるからいいですよね。それでなんですけど、私、歯の矯正するかどうか迷ってたんですけど、実行した方がいいですかね」
「まあその辺は、歯医者さんと相談すべきだと思うよ。とにかく、まずは犬のことから片づけたいんだけど、今どこにいるの?」
やっとの思いで話を本筋に戻すと、大野さんの態度は随分と軟化していた。
「ワンコは私のお友達が預かってくれてます」
「じゃあその人に連絡とってくれないかな。睡眠薬でどうにかなってないか、とりあえず近くで動物病院を探して、診てもらわないと」
大野さんは黙って頷くと、バッグから携帯を取り出した。よかった、何とかここまで説得した、という安堵と、まだまだこれからが勝負だという警戒心の間で何とか平衡を保ちながら、陽介はウェイトレスに合図をして、水のお代わりを頼んだ。
「もしもし?うん。うまくいってるよ。うん」
漏れ聞こえる会話の内容を推し量ろうとしながら、陽介はグラスに注ぎ足された冷水を飲む。オーバーヒート寸前の頭は少しだけ鎮まったが、その目で追い続けている大野さんの表情は今一つ読み切れない。彼女は「そうなんだあ」とだけ言うと、電話を切った。
「どうだって?」と慌てて身を乗り出す陽介に、彼女は自分でもよく判らない、といった感じで、考え考え、答えた。
「あのね、ワンコはあのまま、フェリーに乗って出発しちゃったんです」
「はあ?」
「私、フェリー乗り場の駐車場で、お友達にワンコを預けて、キャリーケースだけ残しておいたんですよね。で、お友達はワンコを連れてフェリーに乗ったんです」
「なんで?」
「だって、いくら何でも直接ワンコを殺すのなんて、気持ち悪くてできませんから。でも、船から海に投げ込むんだったら、夜だし、誰にも気づかれないからいいんじゃないかなって、それはお友達の提案ですけど」
その言葉に、今更ながらにあの、波間に浮き沈みしているキャリーケースを発見した時の驚きと恐怖が甦ってきて、陽介は一瞬だが胸が悪くなるのを感じた。
「とりあえず私から連絡するまでは、ワンコはそのままって話だったんですけど」
「そのままって?」
「寝てるのを、ボストンバッグに入れてる状態」
「手荷物にして持ち込んだって事?ペットを預けるところがあるのに?」
「知ってますけど、そんな事したら途中で海に捨てらませんから。でもなんか、ワンコが逃げちゃったらしいんですよ」
「逃げた?」
「はい。ごはん食べて戻ってきたら、ボストンバッグが空いてて、ワンコがいなくなってたって」
「だったら探せばいいじゃないか」
「でも、黙ってワンコ連れて乗ったのがばれて、怒られたりしたら嫌じゃないですか」
「そういう問題じゃないだろう」
全く、大野さんの馬鹿な計画につきあって、平気で犬を海に投げ込もうとするぐらいだから、その友達なんてのも相当のバカ娘に違いない。
「もういい、判ったよ。俺はこれから別ルートで鹿児島まで行って、何とかして港で犬を引き取るから」
「本当に?じゃあ私も行きます」
「大野さんは来なくていいよ。さっきも言っただろ?いま一緒に行動してるのがばれたら、離婚に不利だって。だからその、友達の電話番号と名前を教えてくれればいい」
離婚の話が出ると、途端に聞き分けがよくなるのも何やら恐ろしい気がするが、彼女は仕方ない、といった様子で「佐藤薫」という名前と電話番号の表示された画面を見せた。慌ててその番号をメモする陽介を頬杖ついて眺めながら、彼女は「あと一つ、お願いがあるんですけど」と言った。
「少なくとも私と二人っきりでいる間は、大野さん、って苗字で呼ぶのやめて下さい」
「…わかった。なんて呼べばいい」
「なぽにゃん。菜穂子だから」
22
雲に反射した光が痛いほど寝不足の目にしみる。陽介は窓際の席にいる学生らしき青年が、日よけを降ろしてくれるのを期待したが、彼はその顔を直撃している陽光をものともせず、眠りこけていた。
仕方なく目を閉じたところで、いまさら眠れるわけでもない。週末の大阪発鹿児島行き、始発のフライトはかなり混んでいて、何かの団体らしき同じワッペンをつけた初老の男女がやたらと目につくし、他にも観光客が多いらしく、浮かれた雰囲気に包まれていた。しかし自分はそれどころではない。陽介は頬にあたる日光を感じながら、昨夜の事を思い出していた。
ようやく大野さんから、ペクを預かって逃げた佐藤薫という友人の連絡先を聞きだしたものの、彼女はいくら電話をかけても出ようとはしなかった。「海の上だから電波が届かないんじゃないですか?」とは大野さんの言葉だが、今時そんな事があるだろうか。多分この友人は、ペクが船内で逃走したことを咎められないように、電源を切っているのだ。
もう新幹線も間に合わないし、陽介は朝一番の飛行機を使うことにした。向こうに着いてからレンタカーを借りて、フェリーが入る港まで二時間はかからない筈だ。たぶんペクは船内で保護されているだろうから、事情を話せば港で引き取ることができるだろう。陽介はもう佐藤薫との接触はあきらめていた。大野さんのイカれた計画の片棒を担ぐような女だ。関わらずに済むならその方がありがたい。
自分と同じホテルに泊まりがる大野さんを宥めすかし、とにかく無事離婚できるまでは、万に一つでも怪しまれるような行動は慎もうと説き伏せて、陽介は彼女を街なかのビジネスホテルにチェックインさせた。
「明日になったら、まっすぐ家に帰るんだ。俺を追いかけたりは絶対にするなよ。それもこれも全部、一日も早く離婚に持ち込むためなんだから。わかったな、なぽにゃん」そう念を押すと、彼女は「わかりました。じゃあ、帰ってきたら速攻で連絡してね、ようちゅけ」と頷いた。
ようちゅけ、というのが、大野さんが勝手に決めている陽介の愛称らしかった。俺は一体どういう形で彼女の妄想に登場しているのか。想像しかけて、止めた。必死になってここまで抑えてきた苛立ちやら怒りやら、負の感情が一気に爆発しそうに思えたのだ。まだ早い、落ち着くんだ、と自分に言い聞かせ、陽介は大野さんに手を振ってホテルを後にした。
それからまた車を走らせて、大阪空港近くのホテルに落ち着いた頃には、もう疲れ果てていた。ベッドに腰をおろし、コンビニで仕入れた缶ビールを一気に飲み、そのまま仰向けに寝転ぶと、もう動く気がしない。シャワーは不本意ながら夕方浴びたし、もう寝てしまえばいいか、とも思うが、やはり気になって携帯をチェックする。案の定、紗代子からのメールが三通も届いていた。
「もうフェリー乗った?そっちの天気はいいみたいだけど、揺れてない?」
「船旅はどう?ペクを預けてる場所とか、写真送ってもらえる?」
「電波悪いのかな。ちょと心配してます。できるだけ早く連絡して」
最後のメールは一時間程前で、その少し前に電話も入っていた。いま連絡したところで、紗代子が相手では、一つ取り繕えば一つボロが出るのは判り切っている。悔しい気もするが「海は電波が届かない」という大野さんの案に乗っかるしかなかった。そして明日、港でペクを引き取ってから、何事もなかったかのように連絡して辻褄を合わせるのが最善策だ。
一息ついて、もう寝ようと歯を磨き、ぺらぺらに洗いざらした備え付けの寝巻に着替えたところで着信があった。紗代子か?それともまた大野さんか?恐る恐るディスプレイに目を向けると、そこには澪の名があった。
何故このタイミングなんだろう。
陽介は深い溜息をついた。
「連絡もらっていたのに、すぐ返事できなくてごめんなさいね」
なんだかんだ言っても、彼女の声を聞くと、積もり積もった一日の疲れが洗い落とされるような気がする。陽介は気を紛らわせようとつけていたテレビを消し、ベッドに腰を下ろした。
「今夜はコンサートに行って、さっき帰ってきたところなの。なんだか、メールじゃうまく伝わらない気がして、電話したんだけれど」
「いや、声が聞けて嬉しいよ。コンサートは楽しかった?」
「そうね、イタリアで声楽を勉強していたお友達が帰国して、初めてのリサイタルだったの。素敵だったわ。ねえ、陽介さんは今もう九州にいるの?」
「いや、まだ大阪」
一瞬、今日のあれこれを全て打ち明けたくなって、何とかその衝動を抑える。そんなのは自分の苦労を餌にして、彼女の憐みを呼び起こそうというずるい考えだ。
「明日、朝イチの飛行機で鹿児島に移動するんだ。犬は、ちょっと預けてて、向こうで引き取る段取りになってる」
「そうなの。でも、奥さんがインフルエンザって、大丈夫?」
「うん、昨日より今朝の方が調子よさそうだったから、明日には落ち着くんじゃないかな。後から飛行機で追いかける、なんて言ってたけど、さすがにそれは無理だ」
「本当にワンちゃんのこと、大切なのね」
「彼女にとってはたぶん、俺より大事なんだろうな」
結局、こういう自虐的な表現で、澪からの慰めを誘い出そうとしてしまう。案の定彼女は「陽介さんの事も同じか、それ以上に大切に決まってるわよ」と、優しい声で言うのだった。そんな他愛ない会話を繰り返す内に、陽介は自分の気持ちがほぐれてきたのを感じながら横になった。
「どうしたの?今ちょっと笑わなかった?」
「いや、ベッドでこうして電話してると、澪さんがすぐ傍に寝てるような気がして。今どこにいるの?」
「私もベッドの上にいるわね。さっきお風呂に入って、髪を乾かして、そうだ、陽介さんに電話しなきゃって思い出したの」
「じゃあ裸で、バスタオル巻いてるだけだったりする?」
「残念ながらそれはないわ。パジャマにカーディガンを羽織ってる」
「それじゃ一枚ずつ脱いでいってほしいな」
我ながら馬鹿なことを言っているとは思うのだけれど、こうしていると自分の中に凝り固まった苛立ちだとか怒りだとか、そういった物が溶け落ちてゆくような気がするのだ。現実から逃げている、というのが正解かもしれないけれど、それをしてはいけない理由もない。
「駄目よ。私は電話でそんな事はしないの」
「じゃあ、会ってだったら構わないってこと?」
沈黙。急に彼女が遠くなったように感じて、陽介は「ごめん。俺、調子にのりすぎたかな」と謝った。
「そうじゃないわ。悪いのは、私の方だから」
澪の声は突然にその温度を下げた。
「陽介さん、この間、私が黙って帰ったのを怒っているでしょう?」
「いや、あれはまあ、気まずいと言えなくはない状況だったし。お互いに家庭もあるわけだしね。ただ、それより俺は」
そこまで言って、陽介はその名を出すべきかどうか迷った。しかし結局のところ、この名前なしに澪と自分の接点は存在しないのだ。
「あの朝、亨が現れたことに驚いたよ。ねえ、澪さんにとってあいつは一体どういう存在なの?正直いって、俺は澪さんはあいつとつきあってるんだろうと思ってた。でも、そうじゃないらしい。とはいえ、澪さんはあいつのこと頼りにしているし、あいつは澪さんの事がものすごく大切だ。なのにどうしてその気持ちを弄ぶようにして、俺と寝たりしたの?」
言おうとした事に比べて、じっさい口にした言葉が随分と無遠慮なものになってしまい、陽介は内心うろたえていた。これではまるで澪を責めているみたいだ。
「それを説明するのは、難しいわ」
ゆっくりと、細い声で澪は答えた。
「でも、私にもわからない、ですませてはいけないわね。陽介さん、この話はかなりややこしいけれど、聞いてくれる?そうすれば少しだけでも、何かが伝わるかもしれない」
ああ、何故このタイミングなんだろう。それでも陽介はビールのせいで少しずつ重くなってきたまぶたをこじ開け、「わかった。話を聞きたい」と言った。
何からどう話をすればいいのかしら。最初は私の事かしらね。だって私がこんな風でなければ、全てはもっと簡単だったと思うから。
私の母は、父と結婚していないの。そう、兄を産んだ人が正妻で、私は愛人の子供という事。でも、兄のお母さんは私が生まれる少し前に亡くなったの。ずっと病気だったらしいわ。そして、私が三歳の時に、母は別な人と結婚して、私は父に引き取られたの。母さのことは、ほとんど憶えていないわ。残念だけれど。再婚してからは、旦那さんの仕事の関係でずっと外国らしくて、連絡もないの。
でもまあ、父は仕事や何かで忙しかったから、実際に私を育ててくれたのは静香おばさまね。ええ、猫ちゃんをたくさん飼ってる人。父から見て伯母にあたる人だから、私には大伯母って事かしら。とても穏やかで優しい人よ。
兄とは年が離れているから、そんなに一緒になって遊んだとかいうことはないわね。大人しい人だけれど、何か不満な事があると、急に一週間ぐらい口をきいてくれなかったり、少し気難しいっていうか、芸術家気質なのかしら。そう、兄は大学で絵を勉強していて、父の仕事は継がずに、イタリアに留学して画家になるって決めていたの。でも実現はしなかった。前に言ったかしら、事故で亡くなったの。車を運転していて、ガードレールを突き破って海に落ちたのよ。対向車も来ていなかったし、ブレーキの痕もないから自殺じゃないかとも言われて。静香おばさまは、仕方ないわ、うちには人魚の呪いがかかっているから、好きに生きようとすればこうなるのよ、って当然のことみたいに言ったわ。
いいえ、だからって、おばさまは別に私や兄のことを束縛していたわけじゃないわ。むしろ、自分が病弱でできなかった事が多いから、私には色んなお稽古事をさせてくれたり、別荘にもよく連れて行ってくれたし。でも、そうね、確かに私が自分のお友達と出かけたりして帰ってくると、楽しかったのねえ、私は一人で猫ちゃんとお留守番。もうずうっとそうだから、寂しいのにも慣れてるわ、なんて言うのね。そうすると私は何故だかひどく悪い事をしたような気持ちになっちゃって。
兄の話をしていたのよね。ごめんなさい、私どうしても話が脇道にそれてしまって。それで、兄が亡くなって、父はすっかり元気をなくしてしまったわ。やっぱり長男だし、絵の勉強をするとか言っても、何年かしたら戻ってくれるって期待していたみたいで。私も見ていて辛かった。その頃からうちの事業も急に駄目になっていったし、信頼していた人に騙されたり、色々と悪い事が重なって。
それである日、父はちょっと用があるからって、普段は運転手さんにお願いするのに、自分で車を運転して出ていったのね。でも、夜になっても帰らなくて。次の日もまた次の日も。結局、警察から連絡があったのが一月ほど後。車ごと海に沈んでいたの。兄が亡くなった所とそう離れてない場所だったわ。たぶん自殺でしょうって言われたけれど、本当のところは判らないわ。
そういう悲しい事が続いたせいかしら、私、中学生の頃ってあんまり記憶がないの。何だか気がついたら小学生から高校生になっていた感じよ。ええ、父が亡くなってから、家の事業は色々と周りの人が支えてくれていたんだけれど、おばさまのところにはけっこう厳しい話が来ていたみたい。親戚は勿論いるわ。でも、みんな自分の取り分は貰うけれど、面倒な事はお任せしますっていう考えなの。そう、それで私の結婚という話になるのよね。仕事のできる旦那さんに来てもらって、全てお任せするのがベストでしょうって。そう、事業を譲渡するという選択肢は、なし。私の父に全部相続させてあげたんだから、見返りとしてきちんと報酬は払い続けるべきだ、というのが親戚のみんなの意見よ。図々しい?よく判らないわ。あまり考えたことがないから。静香おばさまは、お父さんが貴女に遺してくれたものだから、大切にしなくちゃいけないって言ったけれど。
もちろん私も結婚なんて、最初は嫌だった。だってまだ子供気分でいたから。高校生なんてそんなものよね。でもおばさまに諭されると、嫌って言えなくなってしまうの。何故かしらね、もうずっとずっと小さい頃からそうなの。心の奥で少しでも嫌だって思うと、それがこんどは私を苦しめる棘になるのよ。おばさまはいつでも私を中心に考えてくれているのに、こんな事で嫌だなんて思っちゃいけないって。それで苦しい思いをするくらいなら、何でも言われた通りにする方がずっと楽なの。
それで、そう、結婚したの。私の結婚生活は、この間お話したわよね。夫は頭がよくて仕事もよくできるし、とても真面目で穏やかな人。ただ、同じ感覚で楽しいだとか嬉しいだとか、気持ちのやりとりはできないの。冗談もよく判らないみたいで、私がテレビやなんかを見て笑うと、今のは何がどういう風に面白かったの?って真剣にきいたりするの。兄は機嫌のいい時と悪い時が極端だったけれど、夫は正反対っていうか、気分の波がほとんどないように思えるわ。
まあ、そうやって早くに結婚したけれど、家事はお手伝いさん任せだし、夫は仕事が趣味みたいな人で家にはほとんどいないし、私は結局それまでとあまり変わらない生活をしてきたわ。高校から大学、それから院に入って。でも、前に言ったように、中退してしまったのよね。
それで私は、宙ぶらりんな感じでしばらく過ごしていたのよ。そうしたら夫がある日突然、君は今、何もする事がないみたいだから、子供を産んではどうかなって言ったの。まあ、普通の夫婦だったらちょうどいいタイミングよね。でも、私は急に怖くなったの。理由は判らないわ。ただ漠然と怖くて。けれど嫌だとは言えないのも判っていた。夫婦なのにどうして子供を産みたくないのか、夫を相手に議論したって勝ち目なんてないもの。だから私は返事を一週間だけ待ってもらう事にしたわ。
もちろん静香おばさまにも相談した。でも、心配しすぎよって言われたわ。私だって人並みに健康で丈夫だったら、お嫁にいって赤ちゃんをいっぱい産みたかったもの。澪ちゃんにはそれができるんだから、感謝しなくちゃ。猫ちゃんだってね、まだ子猫ぐらいに見える小さな子が、ちゃんと赤ちゃんを産んで育ててるのよ、安心しなさいって。
なのになぜかしら、私は安心するどころかもっと不安で恐ろしくなって、どこにも居場所がないような気持ちになったわ。そして思ったの、どこかへ逃げたいって。例えばわざと車をぶつけるとかして、怪我をしてしばらく入院することも考えた。でもきっと、治ったらすぐにこの話になってしまう。昼も夜も、私はどうしたら逃げられるかを考えて、考え続けて、そしてもう死ぬしかないっていう結論になったの。
一度だけ、軽く手首を切ってみて、とてもじゃないけれど自分では無理だと思って、それで行き着いたのがネットの自殺サイトよ。夫と約束していた一週間の最後の日が、ちょうどそのグループが実行しようとしていた日だったわ。私はもう、滑り込みみたいにして加わったの。
たった一人で、誰とも判らない人の指示に従って、何度も行く先を変えて、列車を乗り継いで、知らない場所に行く。普通だったらしないような事でも、私にはむしろ自分を救ってくれる唯一の方法みたいに思えて、とにかく迷わず目的地に着けるようにと祈り続けていた。
最後に降りるように指示された駅からはタクシーに乗ったわ。春で、もう桜も散った頃だったけれど、夜の十時を過ぎていて、コートを着ていても寒いくらいだった。駅を少し離れると、あたりはほとんど真っ暗で、寂しい街なの。教えられた通りの道順を言って、二十分ほど走ったかしら。着いたのは畑とおうちが半々ぐらいの寂しい場所で、古いアパートの一階が私達の集まった部屋よ。そこで窓やドアを閉めきって、練炭を燃やしたまま、睡眠薬を飲むの。
集まったのは五人か六人。他の人はもう着いていて、黙ってうつむいていたわ。中に入ると、みんな一瞬だけ私を見てすぐに目をそらしたけれど、一人だけ、じっと見つめている人がいた。それが亨さんよ。私も何故だか彼から目が離せなくて、もしかしたら前にどこかで会っているかもしれない。だったらどうしよう、って思ったの。でも確かめることもできずに、みんなに加わって薬を飲んだ。
次に気がついたら、知らない場所にいたわ。外で、もう明るくなっていた。後でわかったけれど、そこはアパートから少し離れた、空き家の裏庭だったの。私はアパートに入った時に脱いだはずのコートを着ていて、その上から男物のコートを被っていて、おまけに亨さんの腕に抱かれていたわ。彼は「気分どう?」ってきいたけれど、私は頭が痛くてたまらなかった。それでも何か返事しようと思ったんだけれど、気分が悪くて、何度か吐いたわ。
亨さんは「たぶん薬のせいだ」って、嫌な顔ひとつせずに背中をさすったり、水を飲ませてくれたりしたわ。それで、しばらくしてようやく落ち着いてくると、彼は自分だけ薬を飲まずにいたこと、アパートの窓を開けっ放しにしてきたこと、私だけ連れてきたことを教えてくれた。でも私はだからといって、死なずによかったとも思えずに、ただぼんやりと彼の言葉を聞くだけだった。亨さんにもそれはすぐに判ったみたいで、「余計なお世話だったかな」って。それからこう言ったわ。
「俺は君には生きていてほしい。でも、どうしても死にたいという理由があるのなら、こうしよう。今ここで、君と俺の命を交換する。これから先、君が自分の命だと思ってるものは俺ので、俺は君の命を預かっておく。俺の命をどう扱おうと君の勝手だけれど、俺は君の命をできる限り大切にする」
突然の提案だったので、私は何も言えずにいた。「頭がおかしいんじゃないかと思われても、仕方ないけどな」って言われてようやく「おかしくないわ。私もそうする」って答えたの。
それから亨さんは東京まで私を送ってくれた。彼は私がどうしてあそこにいたのか、聞こうともしなかったわ。ただ二人で何も話さずに、バスや電車を乗り継いで、並んで座っていたの。でも私はその時生まれて初めてといっていいほど、本当に安心していた。彼は私の名前も聞かなかったけれど、自分の名前と電話番号は教えてくれたわ。「何かあればいつでも連絡して」って。
それで、家に帰った私は夫に「自分で働いてみたいから、子供はまだ産みたくない。だからもう、本当に子供が欲しいという時まで、そういう事もお休みにしたい」って答えたわ。何故だかそんな考えが、亨さんと東京に戻ってくる間に浮かんでいたの。そう、きちんとした理由さえあれば夫は納得してくれるのよ。それに、嘘をついたわけでもなくて、私はそれから、今の仕事を始めたの。
そう、占い師を紹介するサイトのお仕事。でもね、それはあくまで会社の表の顔で、裏の顔は少し変わっているの。いいえ、別に悪いことしているわけじゃないわ。でも利益の出ることでもない、きっと自己満足。自殺サイトの呼びかけを見つけ出して、死にたい人のふりをして近づいて、その計画を失敗させるのが目的なの。つまり私を助けるために、亨さんがしたのと同じ事よ。
どうしてそんな事を思いついたか?自殺をせずに家へ戻ってからずっと、私は亨さんの言った事を考えていたわ。君が自分の命だと思ってるのは俺のだ、っていう言葉。もし仮に私が彼だとしたら、どんな風に生きたいのかしらって。それで、たぶん彼はあの場に私がいなかったとしても、やっぱりああして他の人の命も救っていただろうと思ったの。
そして私は亨さんに連絡をとった。もう夏になっていたかしら。彼はあの後、横浜に移ったとかで、ビジネスホテルのフロントで働いていたわ。それで私は彼に、私の作った会社に入って下さいってお願いしたの。彼はすぐに引き受けてくれて、他のスタッフも見つけてきてくれたわ。そう、ネットに凄く詳しい人とか税理士さんとか。私はだいたい表の仕事、占いのサイトを担当しているの。こっちで利益を出さないと、裏の仕事が立ち行かないから、かなり真剣に働いているつもり。でも本当に大切なのは裏の仕事ね。初めて陽介さんに会った時も、その事であの街に行っていたのよ。そう、自殺を呼びかけている人がいたの。
でも、そういう人って、全員が本気というわけでもないの。ほんの思いつきだったりね。真剣につきあって、あれこれ振り回されたり、嘘だったり、かと思えば本当に自殺に巻き込まれそうになったり、色々あるわ。
そういう危ない事があると、もう止めようかと思うんだけれど、亨さんは続けようって言ってくれるのね。君が自分の命を使って何をしようと、異存はないからって。彼が仕事を一つ済ませて戻ってくる度に、まるで深い海の底から、私のために真珠を採ってきてくれたように感じるの。それはとても残酷で、恐ろしい事よね。
そして私は私で、自分が亨さんだったらどうするんだろうって、考えるの。たとえば陽介さんのこと。彼のお友達だから大切にしたかったし。だからあの日、陽介さんが私の事を求めているのなら、それはそれで構わないと思ったの。私でよければ。
違うの、嫌々っていうわけではないの。でも…難しいわね。
亨さんと私のこと?私はたぶんあの人がいないともう、ふつうにものを考えたり、話したり、笑ったりできなくなっていると思うわ。眠ることもそう。自分で死のうとしたくせに、あの事があってから、私は夜、一人で眠ることができないの。すごく不安になるのよ。でも亨さんと一緒だと、とても落ち着いて、深く眠れるわ。どうしても一緒にいられない時には、ずっと起きていたり、お薬を飲んだり。
そう、夫は自分のペースを乱されるのが嫌いな人だから、最初から寝室は別なの。だから私がこっそり家を抜け出して、明け方に戻るという生活をしていても、彼には問題じゃないのよ。だから、亨さんが仕事でどこかへ行く時にも、できればついて行くの。出張するって言えば、夫は信じてくれるわ。
でも、私達って本当にただ一緒に眠るだけ。私は好きにして構わないと言ったけれど、亨さんは何もしなくて、それが彼の答え。それで十分だと信じていたのに、陽介さんと過ごしたあの夜のせいで、亨さんとの間に欠けているものを思い知らされたわ。その事が今はとても辛いの。
陽介さん、私のことを嫌いになった?軽蔑している?でも私は陽介さんのことが好きよ。貴方の真面目なところだとか、親切なところだとか、奥さんのこと大切にしているところだとか。
眩暈がしたように感じて、陽介は身体を起こした。窓から斜めに差し込んだ光が機内をスキャンするように流れて行く。着陸のために旋回を始めたらしく、ベルト着用のサインが点灯した。隣に座る青年は相変わらず眠りこけていて、心配事なんて何もないんだろうな、と羨ましくなる。こっちはどこから手を付けていいか判らないほど散らかっているというのに。
23
狐につままれたような。
古臭い言葉だと思っていたのに、今の心境を表すのに、これほどぴったりしたものはないという気がする。朝一番の便で大阪から鹿児島へ飛び、空港で車を借りて、自分が昨夜乗り損ねたフェリーが着いている港へ駆けつけ、大野さんの友達の佐藤薫が船内でとり逃がした妻の愛犬、ペクを引き取るという段取りだったのだが、いざフェリー乗り場のカウンターで尋ねてみても、そんな犬は保護されていないというのだ。
代わりに「佐藤薫」という人物が乗っていないか調べてもらおうとしたが、あっさりと断られ、あまつさえ精神に変調を来しているかのように扱われる始末。佐藤薫にはいくら電話をしても全くつながらず、仕方なく大野さんに電話をすると、こちらはまだ眠っていたのか、不機嫌そうな声で「だったら、最初の予定通り、ワンコは海に投げ込んだんじゃないですか?」と言ってのけた。
そうこうする内に、紗代子から「もうフェリーおりた?」というメールが入り、陽介はもうこれ以上隠しきれないと覚悟を決めた。昨日我が身に起こった事の全てを説明して、あっさりと信じてもらえる自信はないが、それでも事実を包み隠さず伝えるしか道はない。
陽介はフェリー乗り場で粘ることを諦め、車に戻った。そして来た道を引き返す途中にあったコンビニに入った。フェリーを降りた客も混じっているのか、店にはけっこう人がいる。セルフサービスのドリップコーヒーと温めたシナモンロールを注文すると、隣接したイートインコーナーの、窓に面したカウンターに陣取る。今頃になってようやく、ふだん住む街とは随分と異なる空の色や、明るい陽射しに気がつき、南国に来たのだという事は判ったが、どこか仮想現実めいた印象で、実感を伴わない。それより何より、一番大事なのは紗代子に何をどう説明するかだ。
大阪のホテルで一泊したという話は切迫感に欠くから、夜通し高速を走ってきたことにしようか。この期に及んでまだ防衛線を張りたい衝動が芽生えるが、皮肉なことに紗代子の嗅覚はそういう小細工に最も激しく反応する。とにかく、澪の事だけは何があっても気取られないようにして、後は洗いざらい話すしかない。しかしその後で、紗代子はこう尋ねるだろう。「で?どうするつもり?」
真っ先に思い浮かぶのは警察だが、飼い犬が誘拐されて行方不明だと訴えたとして、取りあってもらえるだろうか。脅迫され、金品を強要されているわけでもないのに。
だったらいっそ紗代子には、ペクは目の前で海に投げ込まれ、救おうと飛び込んだが間に合わず、沈んでしまったと言った方がいいかもしれない。しかし彼女はきっと、口にはしないがこう思うだろう。「あなたが沈めばよかったのに」
機械的に口に運んだコンビニのシナモンロールはやたらと甘く、陽介はコーヒーをもう一杯買おうと立ち上がった。その時、携帯の着信音が響いた。紗代子か、そう思って取り出したディスプレイには、知らない番号が出ている。
「高田様のお電話ですか?なのはな動物病院ですが」
本来なら今頃、ペクを預けているはずの病院だ。到着が遅いので紗代子に連絡したのだろうか。無理をいって予約を入れたのに、いまさら取り消しというのも顰蹙に違いない。
「すみません、ちょっと色々と手違いがあったもんで」
「ええ、それで、ペクちゃんは先にお連れいただいてますけど、高田様は何時ぐらいにお越しになりますか?飼い主様がいらっしゃらないと、受付ができませんので」
一体どうなっているのか、ペクは何者かによって動物病院に送り届けられていた。
狐につままれたような感じ。
それは何というか、一種の浮遊感とでも言うべきだろうか。どれだけ急いで、実際のところ制限速度をかなりオーバーして車を飛ばそうが、心はどこか別の場所に取り残されたままのようで、現実の世界にいるという気がしない。それどころか、この夢はいつか破れて、目覚めると大阪の狭いビジネスホテルだったり、鹿児島行きの飛行機の中だったり、あるいはその繰り返しだったりして、永遠にどこにもたどり着けないような、心もとなさがずっとつきまとう。
まるでこの世に存在しない自分が、どこか遠い場所からこの肉体を操って、ゲームのキャラクターよろしく目的地に進めているみたいだ。少しでも気を緩めると、誰かに肩をたたかれて、「はい、おしまい」と囁きかけられそうな冷たい予感。
「問診票は先に送っていただきましたので、こちらだけご記入下さい」
受付で名前を告げると、ピンクの制服姿の女性がカウンターごしにクリップボードを差し出した。血色のいい丸顔に、大きな目が印象的で、これが典型的な南国の女性かという気がした。
「なのはな動物病院」は、ふだんペクがかかっている獣医よりも随分と大きくて、人間の病院だと言われても違和感がないほど立派だった。駐車場は広いし、診察室が四つもあって、手術室や入院病棟はおろか、リハビリや温泉療法といった表示もある。おまけに飼い主が一緒に滞在できる施設も別棟にあり、そこではシャンプーやトリミング等も行っているらしかった。 待合室に座っている人々も、どことなく裕福そうに見えるし、実際のところ駐車場に止められている車の半数以上は他府県ナンバーだった。
「順番が来たらお呼びしますので、もうしばらくお待ちください」
受付の女性はクリップボードを受け取り、何やら書き込んでから、にこりと微笑んだ。
「あの、ちょっと先に、犬を見せてもらっていいですか?元気にしてます?」
病気を診察してもらうのに、「元気にしてる」はないか、と思ったが、受付嬢はそれには反応せず、「どうぞこちらへ」とカウンターを出て、「処置室」と表示のある部屋に陽介を案内した。中へ入ると中央にステンレスの大きな作業台があり、そこに水色のキャリーケースが置かれている。受付嬢は「いい子で待ってましたよ」と言いながらケースを開け、陽介は慌てて中を覗きこんだ。
「ペク!」
いつもは可愛げのない犬だと思っていたが、この瞬間のペクは文句なしに愛おしかった。最後に姿を見た時の生気のない様子とはうって変って、陽介の差し伸べた両手へと急いで寄ってくる。そのまま外へ引っ張り出してやると、心なしかふだんより親しみをこめた様子で尻尾を振ってみせた。
「本当にもう、心配したぞ」
何がどうなっているのか判らないが、とにかく目の前にいるのは本物のペクだ。不格好なほどに大きな耳、小さな黒い目、微妙に短い足、キャラメル色の毛並み。嬉しくてつい抱き寄せると、ペクもその濡れた鼻面を陽介の頬に押しつけ、ぺろぺろと嘗め回す。ここまで愛情表現するような犬じゃなかったのに、と不思議な気もするが、ペクはペクで不安だったのかもしれない。いつもこのぐらい愛嬌があれば、俺だってこいつの事をもう少し可愛がっていたのに。
「お前一体、誰とここに来たんだよ」
耳の後ろをかいてやりながら、そう尋ねるが、もちろんペクは何も言わず、もう少しこっち、と言わんばかりに首を傾ける。それはもう普段の、それとなく傲慢な彼のやり方に戻っていたが、不思議と腹も立たない。脇にいた受付嬢が「どなたが連れてこられたか、ご存じないんですか?」と声をかけてきた。
「いや、ちょっと行き違いがあって、こいつとはぐれちゃったんです。ここに連れてきたのは女の人ですよね」
「いえ、男の方でしたけど。高田様は後からお見えになるからって、すぐに出ていかれたんじゃなかったかしら」
「男?」
佐藤薫は自分でここに来るのは面倒だと考えたのだろうか。実は彼氏とフェリーに乗っていたか、その辺で知り合った男に頼んだか、まあ何でもいいけれど、とにかくペクを海にぶち込まずにここまで連れてきてくれたのだから、感謝はすべきだろう。
「先生が検査をなさるかもしれないので、お水やごはんはもう少し我慢させて下さいね。また後でお呼びしますので、それまでは待合室でお願いします」
受付嬢にそう言われて、陽介は携帯でペクの写真を撮り、キャリーケースに戻した。そして一人で廊下に出たが、安心して気が緩んだせいなのか、足元がふらつくような眩暈に襲われた。まるで世の中が半分傾いたように強烈な衝撃で、思わず壁に手をついてしまった。
どうやら俺は、相当にペクの事が心配だったらしい。いや、本当は自分自身が心配だっただけか。
さりげなく壁伝いにそろそろと移動して、待合室の長椅子に腰を下ろすと、再び携帯を手にする。ここへ向かって車をとばしている間に紗代子から着信が入っていたが、いい加減連絡してこいという督促に違いなかった。
「メール遅くなってごめん。受付完了して診察待ちです。ペクは元気。終わったら電話するよ」と打ち、さっき撮った写真をつけて送信する。さあこれでとりあえず、俺の任務はほぼ終了だ。そう思ったものの、不思議と開放感がわいてこない。というより、何だか嫌な感じがつきまとうのは、さっきの眩暈の余韻だろうか。
瞼を開いているのが辛いというか、寝不足のせいなのか、携帯のディスプレイの光が妙に目を刺す。耳の奥が水でも詰まったように重苦しくて、よその犬の鳴き声だとか、呼び出しのアナウンスだとか、周囲の物音がやけに頭に響く。いや、身体全体に響くとでもいうべきか。違う、別に音なんかしていないのに、まるでドラム缶の中に閉じ込められて、外からひっきりなしにガンガン叩かれているような、この衝撃は一体どこから来るんだろう。冷たい水でも飲んだら収まるだろうか。これはもしかしたら、軽い脱水症状って奴かもしれない。
たしか病院の玄関を入ったところに自販機があったのを思い出して、陽介は立ち上がった。しかし途端に、世界は彼を放り出そうとするかのように大きく回転した。慌ててバランスをとろうと反対側に二歩、三歩と足を進めた、つもりだったのだが、足元には何もなかった。
気がつくと陽介は首まで地面に埋められていた。地面、といってもそこは砂地で、濡れてはいるがとても暖かい。そうか、ここは指宿だから、俺は砂風呂に入っているわけだな、と納得する。しかし砂風呂というのは普通、寝そべって入るものだと思っていたのに、何故だか縦に埋められていて、これではまるで人柱だ。おまけに砂はずっしりと全身にのしかかり、小指一本動かすことができない。
段々と息苦しさが胸の奥から迫ってきて、いくら吸っても空気が肺に流れ込まないような気がする。そこへ暑さが追い討ちをかけ、額から吹き出した汗はこめかみを伝い、喉元へと幾筋もの流れを作ってゆく。
「すいません、誰か」
自力で這い出すのはとうてい無理なので、陽介は声をあげた。自分をここに埋めた筈の温泉のおばさんはどこへ行ったのだろう。皆で世間話に花を咲かせて、俺の事なんか忘れてしまったのではないだろうか。もう一度声を出そうとしてみたが、余りの暑さに喉が乾ききって、かすれたうめき声しか出てこない。しかし幸運なことに、誰かが砂地を踏みしめて近づく足音が聞こえた。
「まだ出ちゃ駄目よ」
そう言って彼の前にしゃがみこんだのは、動物病院の受付嬢だった。これはうまくすればスカートの中が見えるのでは、と調子のいいことを思ったのは一瞬で、さっき病院で会った時とは微かに異なる彼女の眼光に、何か嫌な予感がした。
「いいから早く出して下さい」と尚も頼んでみたものの、彼女は砂にめり込むほど膝をつき、その丸い顔を陽介の鼻先まで近づけると「まだです」と、たしなめるように言った。
「いい?これからあなたの命と、ペクちゃんの命を交換します。ペクちゃんの残り三ヶ月の命は、あと三十五年に延長されて、あなたはあと三ヶ月で寿命が尽きるの。素敵だと思わない?五十年も生きるワンちゃんなんて」
「冗談はいいから、すぐに掘り出してくれ」
「冗談なんかじゃありません。これはね、あなたの奥様からのご依頼なの。主人と犬の寿命を取り換えて下さいって」
そして口角を思い切り引き上げて笑顔をつくると、受付嬢は立ち上がる。その丸みを帯びたふくらはぎの間から、陽介は自分と同じように首だけを出して砂に埋められたペクの姿を見た。犬は暑さには弱いはずなのに、ペクは舌も出さず、それどころか気持ちよさそうな風情でこちらを一瞥した。それは例の、紗代子の実家で彼を見るときの、格下の存在に対する余裕の視線だった。
受付嬢は再び砂地に膝をついて陽介を覗き込んだ。
「こうしてずっと温め続けると、あなたの命は身体から逃げ出そうとするわ。それを私が、こう」と、彼女は人差し指を立ててくるくる回す。
「綿菓子みたいに巻きとって、ペクちゃんのお口に、ぽん。そしてペクちゃんの命をあなたのお口に、ぽん」
「馬鹿言うな!そんな事しなくていい!」
陽介は必死に喚いた。
「俺は犬と命を交換したりしない!ペク、お前もぼんやりしてないで、飼い主のピンチをどうにかしろ!」
ところがペクはこちらを睨み返すと、「お前は俺の飼い主ではない」と宣言した。
「俺の飼い主は紗代子だけだ。彼女のことを本当に理解しているのはこの世に俺しかいない。彼女はお前のように気持ちの浮ついた愚か者とこのまま結婚していては、不幸になるばかりだ。だから俺が代わりに長生きして守ってやるのだ」
初めて聞くペクの声は、どこか間抜けな印象のある外見からは想像もつかない程、落ち着いて深みがあり、老成した舞台役者ようによく響いた。その顔を再びよく見ると、白とキャラメル色のぶちだった毛並は青みを帯びた深い黒に染まり、黒い飴玉のようだった瞳は金色にぎらついている。鼻面は幾分細長く尖って、左右に突き出ていた大きな両耳はぴんとまっすぐに立ち、開いた口は血まみれの生肉でも食べたばかりのように、紅に染まっていた。
俺はこの犬をどこかで見たことがある、そう思った瞬間、陽介の口から、白い靄のようなものが漂い出した。
「ほら出てきた。どんどん出しちゃいなさい!」という、受付嬢のはしゃいだ声に、陽介はこれが己の命であることを悟った。いけない、と慌てて口をつぐんだが、その靄は鼻孔から尚もふわふわと、何かに誘われるように流れてゆく。そうか、呼吸を止めなければいけないのだ。大きく息を吸い込もうとしたが、四方から押し寄せる砂の重みに邪魔されてうまくいかない。ペクは、いや、ペクであったその黒い犬は彼の慌てふためくさまを冷笑するかのようにじっと見ている。そして受付嬢は胸の谷間が露わになるのもお構いなしに陽介の前に身を乗り出すと、紅のマニキュアに彩られた人差し指で、陽介の鼻孔から漏れ出る靄を絡め取っていった。
「逆らったって時間の無駄よ。苦しいだけ。さっさと吐いてしまいなさい」
陽介は歯をくいしばったまま首を振った。しかし息苦しさは限界に達し、少しだけ、ほんの少しだけ空気を取り入れようと息を吸い込んだ瞬間、強烈な硫黄の匂いが押し寄せてきた。反射的に咳き込んだ彼の喉を、何か柔らかな塊のようなものがせり上がって来たかと思うと、一気に外へと飛び出した。
「そう、それでいいわ」
受付嬢は弾んだ声を上げたが、陽介の視界は自分の吐き出した靄で乳白色に染まり、何も見えない。さっきまでこちらを睨んでいたペクの黒い姿さえかき消されてしまった。
いけない、命を取り戻さなくては。
慌てて口をめいっぱい開き、息を吸い込もうとするが、空気は一向に入ってこない。落ち着け、もう一度。しかし結果は同じことで、陽介はまるで陸に打ち上げられた魚のように、口を開いたままもがき続けた。
「うちの兄さんは脚の付け根から、カルーセルだとかいうものを入れて心臓の血管を治したらしくて」
「それを言うならカテキンだろうに。あれは身体にいいってね、うちのマサミがいっつもホームセンターで、箱で買ってる」
「そうかね。でもホームセンターじゃ保険はきかんじゃろう?」
さっきから頭上で交わされている、しわがれ声の老人同士の会話に、陽介はとことん辟易していた。
食い違っているのに破綻もしない、二人のやりとりはいつ果てるとも知れず、おまけに大声なのでおちおち寝てもいられない。これ見よがしに寝返りでも打てば、向こうも少しは気を遣うだろうと考えて、陽介はわざと咳払いをしながら身体の向きを変えた。作戦は奏功したらしく、二人の会話はぴたりとやむ。しかし次の瞬間にはもう再開していた。
「あら、この人目を覚ましよった」
「ああ、本当やね。ちょっと、看護婦さんを呼ばんと。ナースコーン」
「来よるかね。わしらあんまり何度もコーンを押すから、いつも素通りされてしもうて」
「そうしたらちょっと、詰所まで行ってみようか」
うるさい。俺はもう別の場所で寝る。
「ああちょっと、あんた、横になっとらんといかんよ。動物病院で倒れたいうて、運ばれてきたのに」
「まる一日、人事不省よ。点滴何本も打って」
目を開けると、寝巻姿の老人が二人、こちらを見下ろしていた。
24
来た時と同じ道なのに、違う世界のよく似た道路を走っているように感じるのは何故だろう。陽介はそんな事を考えながら、前を行くスカイラインの後ろ姿を眺めていた。
指宿の動物病院でぶっ倒れて、気がつけばベッドの上。そこは長期滞在する湯治客向けの「温泉病院」と呼ばれる医療施設で、自分はどうやらインフルエンザで高熱を出していたらしい。とうに引退していてもおかしくないような年齢の主治医は「下手をしたら脳にまわって、えらい事になってましたよ」と脅した。
たぶんペクを連れて出発する前に感染していたのだろうが、道中のトラブルが積もり積もって高熱に結びついたのか、或いは既に病状はあったのに、あれやこれやに気を取られて判らなかったのか、その辺は自分でも覚えがない。生まれつき身体は丈夫な方で、紗代子が日ごろ口にしているような、微妙な体調の悪さなんて感じた事がないし、俺はきっと、もう死ぬというその直前まで、具合が悪いという事を自覚できないタイプかもしれない、と陽介は思った。
ともあれ、病院に運びこまれたのが土曜日の昼前で、目を覚ましたのが日曜の午後、そして有給休暇は月曜だけなので、どうにかして月曜のうちに帰宅しなくてはならないのだった。いや、それ以前に、紗代子に連絡しなくては。
下手をしたら脳がえらいことに、どころか、本当にちょっとやられたのではないかと思うほど、陽介は病院に担ぎ込まれるまでのあれこれを忘れかけていた。暇さえあれば話しかけてくる、同室の老人二人をなんとかあしらいながら、自分がすべき事の一つ一つを思い出してみる。紗代子に連絡する前に、まずは動物病院にペクの様子を聞いて、どういう治療ができて、どれだけ入院するのか確認だ。
しかし外と連絡をとろうにも、肝心の携帯電話がない。それを看護師に訴えると、「ご家族にはもう連絡ができていますから、心配なさらずにゆっくり休んで下さい」と言うだけで、とりあってくれない。かろうじて判ったのは、月曜の朝に熱が下がっていれば退院できるという事だけだった。そこからまだ食い下がることもできたかもしれないのに、少しでも気を抜くと睡魔が取り憑いてきて、何だかもう全てが面倒になってしまい、陽介は布団をひっかぶって眠ることを選んだ。
果たして月曜の早朝、検温の時間になると、陽介の体調は嘘のように好転して、平熱に戻っていた。同室の老人たちは口々に「やっぱり若い人は違うねえ」とほめそやしてくれたが、ろくすっぽ彼らの相手をしなかったので、少々後ろめたいものがあった。
とはいえ、これでなんとか今日中に帰宅できて、明日は予定通り出社できるわけだ。朝一番で主治医の診察を受け、退院の許可を貰ってすぐに、陽介は病院が預かってくれていた荷物を受け取った。しかしどこを探しても携帯電話が見当たらない。看護師にきいてみても、最初からなかったと言うばかりで、どうやら動物病院で落としてきたらしい。どうせレンタカーはあそこの駐車場に停めっぱなしなのだから、帰りに寄って確かめるしかないだろう。
そして支払をしようと会計窓口へ行くと、向こうはけげんそうな顔で「もうお済みですけど?」と言った。
「いや、誰か別の人と間違えてるんじゃないですか?高田陽介、ですが」
「はい、高田陽介様、先ほどお連れの方が来られて」
これだから年寄相手ののんびりした病院は…と、陽介は天を仰ぎたい気持ちになった。まあ、それでいいならさっさと失礼するところだが、後になってあれこれ連絡されても面倒なのだ。
「俺は一人で入院してたんですけど」と、できるだけ穏やかに反論していると、後ろから肩をたたかれた。
「ごめん、言うの忘れてたけど、支払いは済ませてる」
呆気にとられている陽介に向かって、亨は平然と「じゃあ、空港まで送るから」と言い、先に立って歩きだした。
「もしかして、俺はもう死んでるのかな。だからこういう、超常現象が立て続けに起こるとか」
温泉病院の駐車場に停められた、自分が借りた筈のレンタカーに乗るべきかどうか、一瞬ためらいながら、陽介は既にハンドルを握っている亨に確かめてみた。
「まだ死んでない。俺の運転がまずくて、途中で死ぬ可能性はあるけど」
「それはまあ、不可抗力だな」
その言葉に亨は一瞬にやりと笑い、「乗れよ」と促した。
「とりあえず俺が一番気になってるのは、連れてきた犬のことなんだ」
助手席に座り、まだドアも閉めないうちに陽介はそう切り出した。
「だからちょっと、なのはな動物病院ってとこに寄りたいんだけど」
「それは必要ないよ。もうあの犬、ペクか。あいつは入院したし、これから手厚い治療をうける。詳しい事は病院から紗代子さんに連絡済みだ」
それだけ答えると、亨は車を発進させる。
「どうしてそれを知ってるんだ、って顔してるけど、あそこにあの犬を連れてったのは俺だから」
「俺だから、って、どうしてそんな事になる?ペクを連れていったのは、佐藤薫って女なのに」
「だから俺がその、佐藤薫なんだよ。まあ、偽名だけど。俺が大野さんからあの犬を預かった」
「はあ?」
亨の言葉は、間違ったピースを無理やり組み合わせたジグソーパズルのようだった。
「なんでお前が大野さんのこと知ってるんだよ」
「ちょっとややこしいけど、空港に着くまでには話し終わると思う」
「それじゃお前ら、ぐるになって俺のことハメてたわけ?必死で海に飛び込むの見て、大笑いしてたわけ?」
「いや、それは大野さんの思いつきで、俺は知らないけどさ。まあとにかく、俺は大野さんとは一種の知り合いで、彼女の無茶な計画をどうにか防ごうとはしたんだけれど」
「無茶な計画?」
「高田陽介を離婚させて、自分と結婚させる」
突然、隣でハンドルを握っている旧友が見知らぬ相手のように思えて、陽介は「車、停めてくれる?」と声を尖らせた。しかし向こうはそれも折込み済みといった様子で、速度を落とさない。その態度に見下されたような気分になった陽介の口から「俺が澪さんと寝たからって、そういう仕返しをするのか?」という言葉が出た。
亨は黙って前を見つめたままで、その横顔の向こうを知らない街の景色が流れていく。もう十分に春の気配を含んだ外の日差しとはうらはらに、彼の眼には海の底のような昏さがあった。学生時代の彼からは全くといっていいほど感じられなかったその昏さは、この世の半分を形作っている闇だ。その事で亨の印象は以前よりもずっとくたびれたものになってはいたが、それは要するに、彼が陽介よりもっと深い場所を通り抜けてきたという証だった。
「ごめん、言い過ぎた」
陽介は深呼吸をした。
「たぶん俺は、自分で思ってるよりずっと混乱してるんだ。もう一度はじめから、ちゃんと説明してもらえないかな」
亨がちらりとこちらを見る気配があって、それから「大野さんの事だけどさ」と言葉が続いた。
「彼女の話をする前に、俺がそもそも今、何を仕事にしているのか説明する必要があるな。まあ非常に物好きだと思われても仕方ないけれど、ネットで呼びかけられた集団自殺を防ぐのが主な仕事だ。自分でもはまった癖に、とは思うんだけれど、結局のところ、俺はまだそこから抜け切れてなくて、だからつい同じ場所に戻ってしまったんだろう。まあそれは澪にしても同じことで、この仕事はそもそも彼女が自分の資金で立ち上げたものだ。形としては会社になってるし、表の顔もきちんとしてるけど、しかしその実態は、って奴だな。俺はだから、そこに雇われているという具合」
なるほど、と口では相槌を打ちながら、陽介は心のどこかで亨が「というのは全部冗談」と言うのを待っていた。
「うちにはあと何人かスタッフがいて、それぞれに得意な分野がある。まずはネットを監視して、自殺を呼びかけるサイトを見つけたら接触して、仲間に加わりたいと意思表示する。向こうが信用してくれて、具体的に話が進み出したら、そこからが先が何の特殊技能もない俺の出番だ。さあ一緒に死にましょうと集合しておいて、全てを台無しにして逃げてくる。もちろんこの仕事では一銭も儲からないけれど、皮肉なことに表の商売である占いサイトは順調に売り上げを伸ばしてる。澪にはけっこうビジネスセンスがあるんじゃないかな。親がやってた仕事だって、別に旦那を頼りにする必要はなかったかもしれない」
そこまで言って、亨は少し気まずそうな顔つきになった。どうやら、一番口にしたくない人物に触れてしまったようだ。そのせいか、彼は少し間をおくと、言葉の調子を変えた。
「それで、だ。大野さんの話。彼女もまた、俺が自殺サイト絡みで知り合った相手だ」
「まさか」と、陽介は即座に否定する。
「大野さんほど自殺と縁遠い人もいないだろう。何かの間違いじゃない?」
「人って奴は腹の底で何を考えてるか、判らないもんだよ。そういう意味では、俺も人前では平然と過ごしながら、一方で死ぬ準備を進めていたし、澪だって似たようなものだ。でもそれは案外、気の休まる事でもある。何ていうんだろう、退職が決まった後に、カウントダウンで出勤する感じに近いかな」
「俺はまだ退職したことないから判らないけど。でもやっぱり大野さんは違うよ、あの能天気さは」
「彼女にとっては多分、そこが一番キツいところなんだな」
「キツい?」
「自分では判らないらしいよ、能天気というか、鈍感と思われてる事が」
「嘘だろ」
「いや本当にそうなんだ。例えば彼女が誰かにちょっとした冗談をしかけようと、持ち物を取り上げたとする。普通はほんの一瞬で、すぐに返したり、一応は謝ったりするものだけれど、彼女にはそれを切り上げるタイミングの見極めができない。だから気がつくと、相手は怒り狂っているのに、自分はまだふざけ続けている、なんて事が起きたりする。子供の頃からそうだったから、親しい友達もいなかったらしい。仲良くしているように見えて、いつの間にか集団からはじき出されるという具合。子供ってのは異質なものに対する嗅覚が鋭いからな。でもまあ、彼女も自分なりに学習して、大学あたりからどうにか、周囲になじめるようになったらしい。ところが社会人になると、またどうもうまく行かない。特に女の同僚が苦手だ」
言われてみれば、大野さんは会社の女子とはそんなに親しくないかもしれない。部署の先輩である西島さんはかなり距離をおいていたし、マダム井上からは明らかに敵視されていて、同期の女の子ともプライベートでは付き合いがないようだった。
「仕事も性に合わないし、入社したての頃は何かと構ってくれた男の社員も、最近はそっけない。もう三十近いし、中堅としての働きを期待されているけれど、そんな責任は負いたくない。かといって結婚退職という予定があるわけでもない。あるのはただ、無限に続く緩い下り坂の日常。そんな面倒な事は、もう終わらせたい」
「それで、自殺サイトに?」
「彼女の場合、自分で呼びかけたんだけど。一人で死ぬのは寂しいからって。あの、俺が久しぶりに会おうって声かけた時があるだろ?」
「ああ、ホテルに呼び出された」
「あの時は彼女に初めて会うために来てたんだ。でもまあ、気まぐれな性分だから時間やら場所やら、あれこれ変更されて。いったんはもう自殺はやめた、なんて話に収まったから、こっちも気が緩んで呑気にお前の事呼び出したりしたんだ。ところが次の日になると、やっぱり死にたいなんて言ってきた。近所のマンションの非常階段を外から上がって、最上階から飛び降りるとかって」
「それ、夜になってから澪さんが一人でうちに来た時のことかな」
「そう。あの晩はお前にも迷惑かけたな。俺は大野さんに会いにいったけれど、飛び降りは見た目も悪いし、失敗した時が悲惨だ、なんて引き留めてたら、明け方近くになってしまった」
「俺の事は別に構わないんだけど」と言いながらも、陽介は自分が知っていたはずの大野さんと、亨の語る大野さんをどう重ねるべきか戸惑っていた。
「まあ皮肉な事に、あれが結局、彼女をお前に向かわせた決定打になったんだけど」
「どういう事?」
「あの次の日、彼女は会社休んだだろ?」
「さあ、憶えてないな。大野さんが休み明けにいきなり有給とるのなんて、珍しい事じゃないし」
「とにかくあの次の日、彼女は休みをとった。で、翌日出勤したら、お前にこう言われたらしい、やっぱり大野さんがいないとなんか寂しいね、って」
「いや、言ってない!」
陽介は全力で否定したが、亨はちらりと視線を投げると「たぶん微妙に違う表現だったんだろうけど、彼女にはそう聞こえたらしいよ」と言った。
絶対にそんなはずはない、と思いながら陽介は記憶をさぐった。
「大野さんがいないと静かだね、ぐらいは話の流れで言ったかも知れないけど、たとえそうだったとしても、お前が言ってるのと逆の意味だから。いないと静かでいいね、だ」
「まあいずれにせよ、彼女にはそう聞こえたんだから仕方ない。そしてこう思った、この
男は自分に好意を持っている」
「ないないない!百パーセントない!」
「お前の考えには関係なく、大野さんはそう受け取ったんだよ。彼女それまでもずっと、お前のことは好きだったけど、家庭持ちだからって諦めてたらしい。けどそこからだ、自殺の代わりに、この男を不幸な結婚から解放してやるという、新しい目標ができたのは」
「大野さんにそう言われたの?」
「彼女の話をまとめるとそういう事になるな。まあ、とりあえず最悪の事態は避けられたと思ってたら、相手の名前が高田陽介ってところで初めて、彼女の勤め先とお前の職場が同じだって事に気がついた。悪いけど最初はちょっと疑ったよ。嫁さんがいるの後輩に手を出してるのかって」
「冗談じゃない」
陽介は憮然として答えたが、その実、澪とのことがあるので偉そうな口もきけないのだった。
「でも実際のところ、お前は犬の病気が原因で夫婦別居状態だと公言はしていたわけで、その事は大野さんの思い込みを深める裏付けになった。俺だって彼女には冷静に現実を認めるように言ってはみたけれど、また自殺の方に振れるのも困るし」
「迷惑な話だな」と言ってみたものの、亨に不満をぶつけるのは筋が違う気がする。彼は何とかして、大野さんを自殺から遠ざけようとしていたのだ。妄想とはいえ、自分との結婚計画が彼女を引き留める唯一の手段なら、それを見守るのは仕方のない事だったかもしれない。
「まあそれで、俺は時々彼女の様子をみるために、あの街に行った。表向きは自殺願望にとりつかれた三十男が、話相手ほしさに訪ねてくるという事にして。でもさ、やっぱりあそこに戻ると何だか学生時代が懐かしくて、お前に会いたくなったりするんだよな」
「いや、それは別にいいっていうか、嬉しかったんだけど」
「でもやっぱり、お前に会ったのはよくなかった。澪を連れて行ったのも、間違いだった。何か…浮かれてたんだな」
「でも、好きな人と思い出を共有したいのって当たり前の事だし、澪さんだって本当に楽しそうだったもの。間違えたというなら、それは俺の方だし」
亨はしばらく何も答えずにいた。ただ、低いエンジンの響きだけが車内を満たし、時折すれ違う車がそこにわずかな変化をつけるだけだ。前を走るスカイラインと、白く流れるガードレールと、空港までの距離を示す青い標識をぼんやりと眺めながら、陽介はあとどれだけの時間を亨と過ごせるのかと考えていた。
「そうだ、言うの忘れてたけど」
さっきまでとは違う、不自然に軽い口調で亨は再び話しはじめる。
「大阪に戻っても、空港の駐車場にお前の車はないから」
「ないって、どういう事?」
「移動させた。あの、動物園跡の市営駐車場に停めてある。病み上がりで高速とばして一人で帰るのもキツいだろうし、新幹線使ってのんびり帰れよ。チケットも用意してある」
何か言おうと思うのだが、胸の内で絡まりあったものにふさわしい言葉が見つからない。
「世の中、金の力で片付く事って色々あるんだ。そうするのが一番面倒が少ないし」
「いや、それはおかしいだろ。病院の支払いだって」
「でも今回の事は全部、俺がうまく大野さんを止められなかったのが原因だからな。まあとにかく、紗代子さんには余計な事を知らせたくないだろ?」
「それはそうなんだけど」
痛いところを指摘されて、陽介はシートに身を沈めた。
「でも俺、大野さんにその場しのぎの嘘をついたんだ。紗代子と離婚するとか何とか。彼女きっと、すぐに連絡とってくるだろうし、そうなったらごまかしようがない。紗代子はたぶん、大野さんが普通じゃないって事は判ってくれると思うけど、会社の方はそうはいかないよ」
下手に大野さんが騒いだら、また異動とか、どこかに出向という展開になるかもしれない。亨もその辺は予想していたようで「まあね」と相槌をうった。
「でも俺たちだって、自殺はやめましょうね、ではさようなら、で済ませてるわけじゃない」
「どういう事?」
「しかるべき組織やプロに、後をつないでるって意味。まあその辺は俺じゃなくて、別の担当がいるんだよ。大野さんみたいなケースは初めてだけど、頼るあてはある。落ちつくまでに、少し時間はかかるだろうけど」
そして軽い溜息をついてから、亨は「忘れるとこだった」と言って、ポケットから何か取り出すと、視線は前に向けたままで陽介の方へと差し出した。
「何これ」思わず受け取るとそれは、失くしたはずの携帯電話だった。
「悪いけど、お前が病院で寝てる間に、少し触らせてもらった。特定の人物に関するデータは消したし、大野さんの電話は着信拒否扱いだ」
「特定の人物」が誰を意味するのか、陽介は即座に理解した。けれど亨はそれに含まれるのだろうか。その問いを見透かしたように、彼は「つきあいが悪くて申し訳ないけど、俺も特定の人物だ」と言った。
「別に、嫌だっていうなら連絡はしないから、番号ぐらい残しておいてもいいだろ?」
「もうあの番号は解約したから、残す意味ないよ」
陽介は一方的にゲームの終了を告げられた子供のように、亨の言葉を聞いていた。
「高田陽介はかなりそそっかしい人間だ。指宿の動物病院に妻の愛犬を入院させるという任務を完了させて気が緩んだのか、携帯電話をトイレに落としてしまった。おかげでまる二日、妻には連絡がとれず、空港近くの営業所でようやくリカバリーさせてもらった」
「…そういう話にするのか」
「お互いのために」
お互いではない、澪と、紗代子のためだ。そうは思ったけれど、陽介は反論せずにおいた。
「一つだけ教えてほしいんだけど、お前にとって澪さんは何なの?自分じゃただの雇用関係なんて言ってるけど、絶対にそうじゃないだろ?なのにどうして彼女をあの生活から救い出そうとしないんだ?」
「救い出す?」
「そうだよ。あんな結婚しててよく耐えられるなって、いや、耐えられないから自殺しようとか、そんな風になったんだろ?それを知ってて何もしないのは、彼女の旦那が怖いからか?」
陽介の挑発めいた言葉に、亨の横顔は却って冷静さを増したように見えた。
「彼女の旦那なんて別に怖くない。いちど死に損なって、それからは別に怖いものなんてないんだ。けど、そうだな、俺はやっぱり怖いのかもな。彼女にとって自分は必要な人間じゃないって、はっきりと知るのが怖いから、これ以上彼女に近づくことができないのかもしれない」
「死に損なったなんて偉そうなこと言う割に、馬鹿げた理由でびびってるよな。自分には彼女が必要だって、どうしてちゃんと伝えないんだ?彼女はきっと、その事だけでもずいぶん救われた気持ちになるはずだ」
一気にまくしたてるその一方で、俺はどうしてこんなに偉そうな言葉を吐いてるんだろうと考えていたりする。亨は亨で、少し唖然とした顔つきになったが、ややあってそれが苦笑に変わった。その横顔を目にして、一瞬ではあるが、またか、という気分になった。そう、亨の奴、いつも俺より少し冷静だという態度に出るのだ。
「学生時代にさ、俺がどうしてつきあってる女の子の事とか、お前に話さなかったか判る?」
亨は陽介が拍子抜けするほど、気軽な感じで尋ねてきた。
「いや、確かに何きいてもはぐらかして、絶対に教えてくれなかったけど。どうして今頃そんな事?」
「俺は何があっても、陽介には勝てないなって思ってたんだ。こいつどうしていつも女の子に対してっていうか、自分の気持ちにこんなに素直なんだろうなって。羨ましいけど、絶対に真似できないし、すぐに格好つけたくなってしまうし」
「それ、褒めてるのか馬鹿にしてるのかどっち?」
「褒めてるに決まってる。俺はもっとずっと早くに、お前にアドバイスを求めるべきだった。今度こそ、そうしてみるよ」
何だか急に決まりが悪くなって、陽介はただ口の中で「判ればいいんだよ、判れば」などと繰り返しながら、離陸したての旅客機が斜めに視界を横切り、透き通る空に溶けて行くのを見つめていた。
25
「ここだったら何かあっても、ソファで寝れば夜もみてあげられるから、心配ないわね」
紗代子はそう言って、手にしていた間取り図にケージを置く場所を書き込んだ。それからいきなり陽介に向かって「背中!」と声を上げた。
「壁にもたれたでしょ、埃だらけよ」
言われて身体をよじってみると、なるほど、陽介の着ている紺色のパーカーは、背中から腰にかけて、白い埃に覆われていた。
「汚れること覚悟で来てるんだからいいだろ」と言い返してはみるが、紗代子はまるで聞こえない様子で、陽介の背中を掌で何度か叩いた。
「あと、押し入れだけ見といてや」と、声をかけてきたのは岡本部長だ。ふだんのスーツよりもずっとよく似合う作業服姿で、腰に下げた工具入りのベルトも年季が入っている。
「部長、本当に決まってますね」
陽介は心底感心し、その姿をあらためてしげしげと眺めた。部長の実家は工務店で、中学時代から家業を手伝っていたという話は聞かされていたが、ここまでとは思っていなかったのだ。しかし当の本人は陽介よりも、紗代子への説明に一生懸命だった
「この中板も外して、クローゼットみたいにするわけやな。それで、襖も木目調の引き戸に変える、と」
「ハンガーパイプは片側だけにしたいんですけど。こっち側には棚を入れて」
「それはそれでOK牧場やで」
ほとんど陽介の意見は無視され、紗代子と岡本部長の間で、この家の内装は決まりつつあった。賃貸マンションを引き払い、一軒家を借りて、退院してきたペクと一緒に住むというのが陽介と紗代子の出した結論で、そうするために二人は何軒かの不動産屋を回り、築四十年に近いこの物件に行きついたのだ。ずっとここに住んでいた夫婦が老人施設に入るという事で、取り壊す予定だったものを、最長で十年という期限付きで借りることになった。ペット可は必須条件だが、ついでに内装に手を加えることも了解してもらって、今のマンションとほぼ変わらない家賃だ。
賃貸マンションがあった新興住宅地とは逆方向、紗代子の実家ともずいぶん離れていて、要するに、地価の安い、交通の不便な半農村エリアがこの家のある場所だった。陽介の通勤時間は朝夕あわせて三十分長くなったし、徒歩圏のスーパーは一つだけだが、それでも日当たりと風通しがよくて、小さいけれど庭のある角地の家だ。
二人の計画を聞いて、紗代子の両親はまず反対した。何もあんな場所に住まなくても、というのが、住所を聞いただけで年収などの背景を具体的に想像してしまう、地元民である彼ら、特に義母の意見だったし、彼女は陽介が提案したのではないかと考えているようだった。しかし今回、マンションからの引越しを言い出したのは紗代子だった。
それは陽介が九州から戻った、次の土曜のことだった。旅の疲れがまだ完全にとれていない事もあって、昼近くまで眠っていたのだが、そこへいきなり紗代子が現れたのだ。最初は掃除でもしに来たのかと思ったが、彼女は寝室に顔を出して「お早う」とだけ言うと玄関に舞い戻り、スーツケースやスポーツバッグを次々と運び入れてから、廊下にぼんやりと立っている陽介に向かって「ただいま」と言った。
「ペクも無事入院したことだし、私もこっちに戻ることにしたわ」
言われてみれば当然なのだが、何故か陽介の頭からはその考えがすっぽりと抜けていて、ペクの入院中もずっと別居生活が続くように思いこんでいた。
「キリン堂でパン買ってきたんだけど、食べる?」
「ああ、冷蔵庫にヨーグルトと、トマトもあるよ。卵は古いからやめた方がいいと思う」
「判ったわ。顔洗ってくれば?」
陽介が洗顔と着替えを済ませて居間に行くと、紗代子は食事の準備を整えていた。温めたクロワッサンとベーコンエピ、蜂蜜を入れたヨーグルトに、電子レンジで作ったらしいトマトのコンソメスープ。
「冷蔵庫が気持ちいい位すっきりしてるね」と言いながら、紗代子はマグカップにコーヒーを注いだ。
「今週はあんまり早く帰れなくて、ずっとコンビニのお世話になってた」
「じゃあ今日は野菜いっぱい食べないと」
「そうだね」と頷いて、陽介はコーヒーを飲んだ。いつもの豆でいつものコーヒーメーカーなのに、普段よりおいしいと感じるのは、誰かが自分のために淹れてくれたからだろうか。久しぶりに二人で食べる朝食は妙に緊張して、掃除の行き届いていない部屋のあちこちに目を走らせたりしてしまう。それは紗代子も同じことらしくて、これまではろくに見もしなかったベランダの方へ何度も視線を投げている。
「テレビ、つけていいかな」
紗代子の提案で、いつも食事中はテレビを見ない約束になっていたが、一人でいた間はずっとつけていたので、いきなりの静けさというのも居心地の悪さの原因かと思い、陽介はそう尋ねた。
「ごめん、ちょっと話したい事があるの」
「何かな」
もしかして鹿児島行きの道中に起こった事が、何かばれたんだろうか。陽介は思わず身を固くして、紗代子の表情を伺った。
「ペクの事なんだけど、退院したらあっちの家じゃなくて、私たち二人で飼えないかな」
「このマンションで?」
「それは無理だから、どこかで安い借家さがして、引っ越すの」
思わず「うーん」と唸って、陽介は空になったマグカップをテーブルに戻した。正直いって、引越しというのは悪くない提案だ。大野さんからは今のところ何の連絡もないが、距離を置くには願ってもないチャンスだ。
「俺は基本的に賛成だけど、なんで急にそんな事思いついたの?」
「私ね、自分じゃペクの飼い主のつもりだったけど、結婚してからはお父さんとお母さんに任せきりだったし、病気もすぐに見つけてあげられなかったし、鹿児島に連れて行くのも陽介に任せきりだったし」
「インフルエンザは仕方ないよ」
「でもとにかく、私の犬なのに、ちゃんと自分で面倒見てなかったって、今更のように思ったのよ。それに、陽介と結婚してるのに、ペクのことが大変だからって、ずっと実家に帰ったきりで、何ていうか、どっちも中途半端にしてたなあって、反省したのよ」
紗代子の口からそんな言葉が出るとは予想もしていなかったので、陽介はただ「そっか」としか言えなかった。
「まあ、寝込んだせいで、有り余るほど考える時間があったからなんだけどさ」と、紗代子は照れたように付け加えると、ちぎったクロワッサンの端をスープに浸し、口に運んだ。
「それでね、熱があると、奇妙な夢を見たりするじゃない?」
「ああ」
「自分でも寝てるんだか起きてるんだか判らなかったり、とても長い、続き物みたいな夢だったり、そんなのを見たのよ。どうやら私も鹿児島まで行ってる感じで、病院みたいな建物の中にいるの。そこにはベッドが幾つかあって、一つには陽介が寝ていて、もう一つにはペクが寝てたわ」
「仰向けに?」
「どうだろう、そこは憶えてないけど、とにかくペクなの。それでね、私は二つのベッドの間に立っていて、傍には女の人がいるの」
ふーん、と言いながら、陽介は自分が見た奇妙な夢の事を考えていた。状況は違うといえば違うし、似ているといえば似ている。そのもう一人の女性というのは、動物病院の受付嬢だろうか。まあ、あの時いちばん気がかりだった事はほぼ一致しているのだから、互いにそんな夢を見たとしてもおかしくはないのだけれど。
「綺麗な人だった。何ていうか、セレブ御用達のファッション雑誌の、読者モデルみたいな感じなの。派手じゃないんだけど、きっと高いんだろうな、って雰囲気のワンピースを着ててね。で、その彼女が私に向かって言うの。可哀相に、陽介さんもペクちゃんも、じき死んでしまうわ。でもね、これは誰にも秘密だけれど、私、人魚の肉を持っているの。これを食べれば、どんな病気でも治すことができるわ。ただし、一人分しかないのよ。だから紗代子さん、貴方にとって本当に大切なのは陽介さんかペクちゃんか、今ここで選んでちょうだいって」
「なんかちょっと、ぞっとしない話だなあ」
「ごめんね。聞いてて不愉快だろうとは思うけど、続きがあるのよ」
紗代子はいったん立ち上がるとキッチンへ行き、コーヒーのお代わりを持って戻ると、陽介と自分のマグカップに注いだ。
「それでまあ、こうして話ができてるんだから察しがつくとは思うけど、私は陽介を選んだの。そしたら彼女は、どこからか血もしたたるような生肉を一切れだけ盛った、小さなお皿を出してきて、それを指先でつまんで自分の口に入れたかと思うと、こんどは寝てる陽介に口移しで食べさせたのよ。私はというと、あららら、って感じで見てるしかなかったわ。そしたら彼女、血まみれの真っ赤な唇でこちらを見上げて、これであなたの願いはかなったわね、ってにっこり微笑んだわ。思わず、ペクはどうなるの?ってきいたら、連れて行くわ、だってもういらないんでしょう?って、眠ってるあの子を抱えて出て行ってしまったの。私は慌てて後を追ったんだけど、彼女はすごいピンヒール履いてるのに、歩くのがとても速いの。お願い、待って!って叫ぼうとしたところで目が醒めたわ。もしかしたら実際に叫んでたかもしれない。だって私、本当に涙を流してたんだもの」
紗代子はそして、コーヒーを飲むと小さな溜息をついた。
「あれ、何時ぐらいだったのかしら、まだ夜中で、どこからも何の音も聞こえなくて、ただ私の動悸だけが耳の奥に響いてた。それでじっと泣きながら、私は心の中でペクに謝ってた。あの子が私にしてくれた事と、私がしてあげた事って全然つりあってなくて、病気になってからはそれを穴埋めしようって一生懸命だったけど、結局はあの子を一番にしてあげなかった。人間とペットでは仕方ないって、理屈でそうなるのは判るんだけど、やっぱり自分のこと許せないのよ。でもその一方で、陽介が私にとってどれだけ大切かって事もよく判ったの」
「まあ、そう言ってもらえるのは有難いけど」
「それでね、思ったの。これからは陽介と一緒に住んで、ペクの世話をしたいって。もちろん色々と思い通りにならない事はあるかもしれないけど、それは我慢するつもりよ」
あれからすぐに不動産屋を回り始めて、一月たっていないのにもうここまで話が進んでいるのは、何だかこちらが夢のような気になる。職場で何気なく打ち明けた引越し話に、誰より乗り気だったのが岡本部長というのも意外だった。
「元々が工務店の倅やし、趣味は日曜大工やのに、もう自分の家はこれ以上いじらんといてって嫁さんに釘さされてるんや。頼むしやらせてんか」と、頭を下げられての内装工事だが、まあそれはそれでいいか、と任せることにしたのだ。
部長を手伝いに来ている二人のゴルフ仲間に軽く頭を下げ、陽介は縁側から庭に降りてみた。今までここに住んでいた老夫婦が植えたという白梅の蕾が、早春の日差しを受けてほころびかけている。どうやら二人は園芸が趣味だったらしく、庭のあちらに水仙が咲いているかと思えば、こちらには何かの新芽が黒い土を割って顔をのぞかせようとしていた。ペクが帰ってくる頃には、もっと沢山の花が咲いているかもしれないし、自分で何か植えてみるのも面白いかもしれない。
「何ぞええもんが見えますかいな」
振り向くと、岡本部長が立っている。「ワシは一時間ごとにニコチン補給せんと動けへんのや」と言いながら、ポケットの煙草を取り出して火をつけた。
「ちょっと庭いじりなんかも面白いかと思って」
「まあ、趣味が増えるのはええこっちゃな。仕事だけでは生活も味気ないわ」
「部長の口からそういう意見が出るとは、何か意外ですね」
「そやなあ、仕事一辺倒の時もあったし、また考え直す時期もあったし、人生色々、やな」
そう言って部長は深々と煙草を吸うと、十分な間をおいてから白い煙を吐き出した。
「そういえばあの、大野くんなあ、突然辞めた」
「あ、はい」
「どこぞの病院にしばらく入ることになったらしいわ。精神科のあるとこや」
「え、入院、ですか?」
「あの子な、実はうちの嫁さんの親戚筋にあたる子やねん。縁故、ちゅうわけでもないけど、まあ就職の時は人事に、よろしく、ぐらいは言うたんやけどな。あんな辞め方してすいませんでした、いうて、こないだうちにお母さんが訪ねてきはったんや」
もしや自分の事も何か言われるのではないかと、陽介は少し緊張しながら部長の言葉を聞いていた。
「元々、ちょっと難しい子ではあったらしいんやけど、あんまり仕事が楽しくはなかったようやな。それはワシも気づいてはおったけれど、傍から見るより具合が悪かったらしいわ」
「そうですか」と相槌をうちながら、陽介は大野さんがいなくなった後の職場の事を考えていた。彼女と仲が良かったはずの、年頃の近い女子社員は、意外なほどクールに彼女の不在を受け入れ、忘れてしまったように見える。中には「あの子ってかなりトロかったですよね」と批判めいたコメントをする者までいて、陽介を少し鼻白んだ気分にさせた。
先輩である西島さんは「別に全然驚かない展開よね」と受け流していたりして、結局のところ、彼女の突然の退職は全くといっていいほど業務に影響を与えず、急速に忘れ去られていった。ただ意外なことに、彼女を目の仇にしていたはずのマダム井上は、時々思い出したように「大野さんどうしてるかな」と口にしたりするのだから、人とは判らないものだ。
「はっきりとは言わんかったけど、調子の悪い時には自殺未遂みたいな事もあったらしいわ。親にしてみれば、それは何より辛い事やで」
岡本部長はそして、もう一度だけ深々と煙草を吸うと、ポケットに入れていたアルミの携帯灰皿で揉み消した。
「まあ彼女もまだまだ若いし、何も会社勤めするだけが正しい生き方というわけでもないし、ゆっくり休んでまた出発したら、それでOK牧場や」
ほとんど自分に言い聞かせるようにそれだけ言うと、岡本部長は「さて続きをやりましょか」と唸りながら、家の中へと戻って行った。
陽介はそして、これから住むことになる二階建ての小さな家を今いちどしげしげと眺めた。古いし、隙間だらけだし、地震にも相当弱そうだ。しかしこちらの方が何だか、今までのマンションよりも、自分と、紗代子と、そしてペクにはふさわしいような気がした。
妻と犬、および陽介