クマちゃんの思い出

クマちゃんの思い出

 今から29年前、僕が大学3回生の冬のことでした。当時、僕は大学生協の組織部で仕事をしていました。それだけではなく、生協の書籍部にもちょくちょく顔を出して、書籍部の人たちと親しくしていました。12月4日頃だったと思います、土曜日の夜に生協職員の忘年会があり、書籍部の人たちが誘ってくれたのだと思いますが、僕も出席しました。書籍部の人以外ほとんど知らない人ばかりの中で、僕の目にとまった女の子がいました。その時は、特別に話しかけたわけではありませんが、書籍部の責任者が帰る時にその女の子(「クマちゃん」とみんなが呼んでいました)を僕に送るように言いました。僕は喜んでクマちゃんを阪急川西まで送りました。その時、クマちゃんは黒のマントを着ていました。そのマントは三角形の形をしており、頂点の所から首を出し、袖口はだらりとした形をしていました。その黒のマントは、黒目がちの目の丸い顔にとてもよく似合っていました。彼女のおそらく家の近くまで来た時、クマちゃんは「おっかくん、送ってもらってありがとう。じゃまたね」と言いました。僕はちょっと残念でしたが、同じように「またね」と言って、駅に向かって歩いていきました。クマちゃんはいつまでもその場に立ちつくしていました。角を曲がる時、もう一度振り返ると、クマちゃんは手を振っていました。僕も手を振ってその角を曲がりました。それ以来、ほとんど毎日僕は書籍部に顔を出し、クマちゃんもまた5時過ぎ頃にほとんど毎日書籍部に顔を出すようになりました。しばらくみんなでお茶を飲みながらおしゃべりをして解散という毎日を送っていました。クマちゃんは生協の食堂の栄養士をしており、献立を考え、栄養を計算し、食堂のおばちゃんを一応指導する仕事をしていました。僕よりは3歳上でした。クマちゃんと僕とは日常のほとんどのことが感覚的に合いました。クマちゃんが何を感じ、何を思い、何を言おうとしているのか、僕には自分のことのように感覚の深い所で解りました。いつも軽い冗談を言い合い、お互いの感性を確かめるような質問をして、同じ答えになったと言っては喜んでいました。同じ息を吸い、同じ息を吐いているような感覚でした。そう、クマちゃんは、B型の〈同類〉でした。以前にも書きましたが、「血液型がB型の人は、感覚的に言うと、悠久の過去から深いところでつながっているように思えます。DNAのレベルでつながっていて、〈同類〉の感覚をお互いに抱くように出来ているのではないかと思います。もちろん、B型の人全員がそうであるのではなく、ごく一部のB型の人の間で起こる現象のように思います。しばらくすると、お互いにそのことに気づくようになります。不思議な現象です。そして、そこには得も言われぬ安らぎがあります。」――クマちゃんの側にいるだけで、気持ちが通じ合い、心が安らぎ、楽しい思いをしました。
 年が明けて1月になりました。書籍部の人たちと僕とクマちゃんとで伏尾台へスケートに行きました。僕もクマちゃんもスケートは初めてでした。最初立つのがやっとで、フェンス沿いに歩きながら滑っていました、そのうち滑れるようになりました。クマちゃんもどうにか滑れるようになり、みんなで手をつないだり、歓声を上げたりしながら滑っていました。スケートの帰りに、書籍部の責任者の家に行き、みんなで鍋料理をごちそうになりました。今から思うと、僕もクマちゃんもその頃が一番明るく元気で、無邪気だったのだと思います。
 ある時、書籍部の責任者が本の取次先である柳原書店に商談に行く際に、僕とクマちゃんを連れて行ってくれました。商談はすぐに終わり、柳原書店の人が僕らにお寿司をごちそうしてくれました。僕とクマちゃんは接待のおこぼれに与ったのでした。柳原書店の人が書籍部の責任者とごく親しいのは当然として、クマちゃんのこともよく知っていました。彼は僕に言いました。
「クマちゃんは、気立ては優しいし、いつもにこにこして明るいし、ちょっと変わった所もあるけど、それがまたかわいいくて、みんなから好かれている。クマちゃんを悪く言う人がいたらお目にかかりたい。こんな人は本当に珍しい」
 僕は彼の言葉を聞いて全く同感でした。本当に珍しい不思議な子でしたが、嫌味な所やすねたようなところが全くなく、周りのことや人を肯定的に受け止める子でした。クマちゃんは多くの人を受け入れ、みんなから愛されていました。僕らはお寿司を大いに食べ、ビールを飲んで、愉快な一時を過ごしました。
 時が過ぎ、僕は4回生になりました。6月に2週間田舎の中学校で教育実習をしました。クマちゃんもその前に、一度田舎の徳之島に帰ったことありました。僕が教育実習から帰ってきてから、否、それ以前からだったかも知れません、クマちゃんは書籍部に顔を出さなくなっていました。書籍部の責任者に僕は聞きました。
「クマちゃんはどうしたの?」
「クマちゃん、お嫁に行くんだって」
「えっ」
「おっかくん、キミ、知らなかったの? 事務の主査が言ってたよ」
「ええっ、どうして」
「どうしてって、この前、徳之島に帰った時、お見合いをしたそうだよ」
「ええっ」
 まさに青天の霹靂(へきれき)とはこのことを言うのでしょう。僕は何も知りませんでした。僕はクマちゃんに好きだと言ったこともないし、言われたこともないし、――だって、そんなことは僕たちにとって余りにも当然なことだと思っていたから――ましてや、結婚の約束をしたわけでもないので、クマちゃんがお嫁に行くのはそりゃ自由かも知れないけれど、だけど、・・・・僕の受けた衝撃は計り知れないものがありました。
 生協を7月末で退職するということまで決まっていました。僕は完全に打ちのめされていました。どうしていいのか解りませんでした。ほとんど自暴自棄の状態でした。それでも、受けなければならない授業は受け、出席しなければならないセミナーには出席し、セミナーでは発表もあったので、その準備も怠りなくやりました。一方、クマちゃんとは、本人にお嫁に行くということを直接確認してから、二人だけの付き合いが始まりました。他の男の所へお嫁に行く相手と二人だけで付き合うというのは、客観的に見れば、全く変なのですが、僕にもおそらくクマちゃんにも変なことをしているという気は全然なかったと思います。
 まず、始めたのは記録を残すこと。12月4日以来、二人は(二人だけではなく、僕らの仲間も含めて)いつ、どこで、何をしたか、記憶を呼び起こして、ノートに書き記していきました。(大切に残しておこうとした記録ノートは、独身時代の何回かの引っ越しでどこかに行ってしまい、今は手元にありません。本当に残念なことです。)喫茶店でやるその作業は、絶望に向かっての記録ではありましたが、その時だけは少し心が慰められたのでした。
7月の上旬だったと思います。それまでクマちゃんはヨガの道場に通っていました。道場のロッカーに荷物が置きっぱなしになっているので、それを取りに行くのだと言うのです。その話を聞いて初めてクマちゃんがヨガを習っていることを知りました。僕はクマちゃんのことは何でも解っているつもりになっていましたが、お嫁に行くこともヨガを習っていることも知らなかったのでした。こんな重要なことを知らなかった僕が情けなくなり、気分が落ち込みました。でも、僕も多少ヨガに興味がありましたので、「おっかくん、キミも行く?」と聞かれた時、「ああ、いっしょに行くよ」と答えていました。
日曜日に、阪急石橋から京阪の黄檗まで行きました。途中、京阪の中書島で乗り換え、宇治線に乗る頃には随分田舎に来たものだと思いました。ずっと二人で電車に乗っていたのですが、何だか気の重たい雰囲気が二人を包んでいました。黄檗の道場ではいっしょに一時間足らずの練習をし、先生に挨拶をして、荷物を取りまとめて帰りました。帰りも長い間電車に乗っていましたが、気持ちは沈んでいました。
そんなある日、生協の書籍部の人たちが梅田のビアホールでクマちゃんの送別会を開きました。僕も参加しました。僕の隣にクマちゃんが座り、二人で生ビールを飲みました。二人で「乾杯して飲もうか」と言いながら、ジョッキーをカチンとぶつけながらがぶがぶ飲みました。送別会なんですから、別れることが前提の飲み会でした。それは頭では解っていましたが、気持ちとしては全然納得していませんでした。納得はしていませんでしたが、それでも別れてしまうんだと心のどこかで誰かが叫んでいました。二人はジョッキーをぶつけ合いながらやけ酒を飲むようにしてビールを飲みました。ほとんど力の感覚がなくなった頃、「乾杯!」と言ってジョッキーをぶつけた時、そのガラスの容器が割れました。辺りには泡を含んだビールがこぼれました。周りの人たちは、「おっかくん、しっかりして」「クマちゃん、大丈夫?」と言いながら、あわてて割れたジョッキーを取り上げ、こぼれたビールを拭いていました。僕は心の中で大丈夫だと叫びながら、でもそれも声にならず、どこかさめた感覚で彼らを見ていました。ああ、こうして終わるんだと思いました。
送別会の帰り、僕がクマちゃんを送っていくことになりました。クマちゃんのアパートのあった阪急川西まで行かず、途中の石橋で降りて、大学の生協の食堂まで行きました。どうしてそうなったのか、ほとんど記憶にありません。大学までの長い坂をクマちゃんと寄り添いながらゆっくり歩いていました。生協の食堂はもちろん閉まっていました。食堂の職員が使う控え室を開け、そこでしばらく酔いを醒ましたように思います。その後、川西までちゃんと送って行ったのか、僕の下宿までどうやって帰ったのか、記憶が完全に飛んでしまっています。
送別会の後も、僕とクマちゃんは時々二人で会いました。そして、かなりの日々を二人で酒を飲んでいたように思います。酒の場で僕は何をしゃべったのでしょうか。ほとんど記憶にないのですが、おそらく何の意味のないことを口から出任せに言っていた時もあったと思います。
 二人で夜の石橋の町を歩いていました。
「ずっと街灯が続いています。その街灯の下を鉛の兵隊がひょっとこひょっとこ歩いていきます。どこに行くのでしょう。誰にも解りません。・・・・ああ、言いたくもないことを言い、吸いたくもないたばこを吸い、・・・・」
「そして、飲みたくもない酒を飲み、でしょ」
「いや、酒がなかったらやっていけない」
その時、初めてクマちゃんは驚いたように小さな奇声を発しました。
「ほんとね?」
「ああ、本当だよ。酒がなかったらやっていけない」
 クマちゃんは、僕の言った「酒がなかったらやっていけない」という言葉で初めて僕の衝撃が確認できたようでした。僕は怒っていたわけではありません。クマちゃんを責める気持ちなど微塵もありませんでした。ただ、どうしたらいいのか解らなかったのです。二人は街灯の下で抱き合って涙を流していたのでした。その後、二人で銭湯に行きました。銭湯からあがる時、僕は女湯に向かって「クマちゃん、出るよ」と声をかけました。向こうから「は~い。すぐ行くからね」と言うクマちゃんの声が聞こえました。銭湯から出てきたクマちゃんは黄色のTシャツを着ていました。それは何だか当時はやっていたフォークソングの『神田川』のような情景でした。
 7月28日。この日はクマちゃんが大阪を離れる前々日でした。生協の書籍部のカウンターで僕はメモ用紙に四字熟語を殴り書きしていました。「自暴自棄」と何遍も書いていました。「自暴自棄」と書いて「やけくそ」と読むんだとくだを巻いていました。それを見るに見かねた書籍部の女の子が僕に声をかけてきました。「おっかくん、そんなに思い詰めているんだったら、私らが君をクマちゃんのところまで連れて行ってあげるからおいで」
 どうやら僕はクマちゃんのアパートの場所を完全には知らなかったことになります。送別会の帰りもクマちゃんのアパートまでは行っていないのでしょう。僕は二人の女の子たちに連れられて川西まで行きました。その時がクマちゃんのアパートまで行った初めての時でした。阪急電車の線路沿いの、電車が通るたびにがたがたと騒音のする古いアパートでした。僕はクマちゃんに会っても、気持ちの整理ができず、何と言っていいのか解りませんでした。でも、クマちゃんに宛てた手紙を以前に書いていました。詩も書いていました。その手紙と詩を取りに下宿に帰って、再びクマちゃんのアパートにきました。その時には書籍部の女の子たちはもう帰っていました。クマちゃんに手紙と詩を手渡しました。その手紙は下書きを取っていませんでしたので、再現することは不可能です。でも、そこにはきっとそれまで二人のやってきた思い出とその意味づけ(解釈)が書かれていたはずです。詩も大部分忘れてしまいましたが、冒頭だけは覚えています。それはこうです。

 一つの時代は終わった。
 そして、新しい時が始まろうとしている。
 我々は決意しなければならない。
 明日からまた元気よく生きていくための決意を。

 黒のマントウから始まり黄色のTシャツで終わるほんの短い期間だった。

 クマちゃんは手紙を読み、詩を読んで涙を流していました。
「キミがお嫁に行くなんて嫌なんだよ。田舎の家に電話して、止めると言って。いいかい」
「うん。電話する」
 クマちゃんは公衆電話から徳之島に電話をしました。その言葉はほとんど聞き取れず、どこか遠くの外国語のようでした。英語よりも解りませんでした。
「家の人は何て言っていた?」
「今さら、止めるわけにはいかないって。親戚中に招待状も出したし、みんなもそのつもりで準備しているんだし、相手の人にも相手方の親戚にも申し訳が立たないでしょうって」
 そうりゃそうだろうと思いました。僕らは社会の大きな力と壁を感じました。そんなことは頭では最初から解っていました。解ってはいましたが、心では全然納得していませんでした。・・・・どうしようもなかったのです。
 この日の夜、僕はクマちゃんのアパートに一泊しました。7月29日、クマちゃんが大阪を発つ前に、僕は居たたまれなくなって田舎に帰りました。それが二人の別れになりました。クマちゃんはおそらく翌日に徳之島に帰り、お嫁に行ったことでしょう。熊山弘子から吉田弘子に名前が変わったはずです。高村光太郎の詩「人に」が思い起こされます。

   人に
 
いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

花よりさきに実のなるやうな
種子(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな理窟(りくつ)に合はない不自然を
どうかしないでゐて下さい
型のやうな旦那さまと
まるい字をかくあなたと
かう考へてさへなぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて

いやなんです
あなたあのいつてしまふのが――

なぜさうたやすく
さあ何といひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
あなたはその身を売るんです
一人の世界から
万人の世界へ
そして男に負けて
無意味に負けて
ああ何といふ醜悪事でせう
まるでさう
チシアンの画いた絵が
鶴巻町へ買い物に出るのです
私は淋しい かなしい
何といふ気はないけれど
ちやうどあなたの下すつた
あのグロキシニアの
大きな花の腐つてゆくのを見る様な
私を棄てて腐つてゆくのを見る様な
空を旅してゆく鳥の
ゆくへをぢつとみてゐる様な
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない 淋しい 焼けつく様な
――それでも恋とはちがひます
サンタマリア
ちがひます ちがひます
何がどうとはもとより知らねど
いやなんです
あなたのいつてしまふのが――
おまけにお嫁にゆくなんて
よその男のこころのままになるなんて   (1912年7月)

 これが当時の僕の心情そのままでした。田舎で心に空洞を抱いたまま夏休みをぼーっと過ごしました。まさに、〈喪失感〉そのものでした。夏休みが終わり、僕は大阪に帰ってきました。もちろん、クマちゃんはいません。雨の降る日に、生協の組織部の仕事で僕はビラ配りをしていました。雨に濡れながら、絶望を感じました。下宿に帰り、詩を書きました。「絶望の淵で」です。

    絶望の淵で        1975.8.20

小雨が降り続く中、
このまま大地に横になることができたら、
どんなにか心地よいだろう。
一切の営みから逃れ、
すべての責任から解き放されて、
無心に大地に横たわることができたら、
どんなに快いだろう。
戦地でのアンドレィとはまた違った平安が、
訪れてくるだろう。
絶望の中の平安が私を包むのだ。
私は一切の束縛から逃れ、
この大地に横になりたい。
肉体が冷えきって、熱を帯び、
精神が参ってしまっている今、
周囲のすべてのことが煩わしいのだ。
公的人間のつながりが、
絶望的な義務感が、
苦痛なのだ。
私は解放されたい、この義務感から。
そして、この霧雨の降る大地に、
静かに横たわりたい。

 僕の心は癒されることなく、時間だけが過ぎていきました。でも、今から考えると、時間こそが唯一の解決なのかも知れないと思っています。夏が終わり、秋が過ぎ、冬になる頃にはだいたい普通の生活に戻っていましたから。

クマちゃんの思い出

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更新日
登録日
2016-04-10

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