ぼくがここにいるよ 後編
《前編のあらすじ》
日比谷の音楽イベントに大量の人魂が現れ、ミュージシャンが暴れ出す。続いて赤坂警察署の屋上からは若い女性の投身自殺。両者とも西の方角を指差し、何かを訴えていた。
二人が指差したその方角、山梨の山中で、日曜トレジャーハンターが赤ん坊を発見する。
《本文中の漢字の読み方》 河鹿/かじか 以津真天/いつまでん 陰摩羅鬼/おんもらき 血腥い/ちなまぐさい 御簾/みす 錦玉/きんぎょく 瑕疵/かし
連なる山の彼方に、信じられないような赤さで夕陽が沈む。
私たちはハンターの車で夕映えの道を走る。東京に帰るのだ。
赤ちゃんは甲府署に移された。今はそこで、親族に引き取られるのを待っている。
置き去りにされた山中から警官が降ろして来た。
黒流山の駐車場で、老人会の面々が赤ちゃんを取り囲んだ。
よう戻った、いい子じゃ、えらかったな。口々に声をかけた。
パトカーの中で書類にサインしていた凪野んも、その輪に加わる。
そうとも。お爺ちゃん、お婆ちゃんが待ってるで。言いながら、また赤ちゃんの頭をなでた。
あんまり触らないで。警官に注意された。
警察車両に乗せられて行く赤ちゃんを、全員で見送った。
来た時と同じように、車に分乗して山道を降りた。最後尾にいたハンターは、途中で列を外れ裏道へ入る。
望月家では紗依ちゃんが私たちを待っていた。
「何でこんなに帰りが遅いの? 何で泥だらけなの? 転んだの? 警察の車が通ったけど、何かあった? 冥王星に電話したら、大丈夫だからそのまま待っててって言われたけど」
ガレージに停めた車に駆け寄り、矢継ぎ早に質問する。
「まあ、色々あってな。もうじきニュースでやるんとちゃう? 悪い話をあんまり早く聞いてもな」
荷物を抱えて庭を歩きながら、凪野んの口は重い。
門を出て、愛車のドアを開けると、ダッシュボードから一枚のチラシを出した。
「多分この子やと思う。山で赤ちゃんを見つけたんよ。着てる物までこの写真と一緒や。クマ模様の青い服で、磐の石の下に埋められとった」
紗依ちゃんは、受け取った尋ね人のチラシに目を落とす。
若い夫婦と赤ちゃんの写真。行方不明の一家の消息を探しています。この三人を見かけた方は連絡を。
「年末に、東京駅で配っててん。この夫婦の親御さんやろね。寒い中、気の毒やったで」
ガサガサと荷物を漁り、紗依ちゃんにポチ袋を押しつけた。
「これでガソリン代の穴埋め頼むわ。坂道もスイスイ登って、ええ車やね。じゃ、もう行くわ」
そう言って、空色の車に乗り込む。
「あんたも家族が帰らん内は、万一警察が来ても、出ん方がええわ。って、これは前に探偵が言ってたな。まあ、あの男も服のセンスは珍走団やけど、前は探偵事務所に勤めてたくらいやから、変な事だけはよう知っとる。話聞いといて損はないわ。じゃ、元気でな」
一方的に喋り終えると、車を出した。
「大丈夫と思うけど、気をつけて! いいからもう家に入って。ちゃんと鍵かけてね!」
助手席から乗り出し、大声で言った。
紗依ちゃんは村道で手を振っている。他に村人の姿は見えない。
警察車両が列を組んで通ったばかりなのに、様子を見に来る人もない。
村に人はいる。気配がする。家の窓から覗いている。
それでも何があったか聞こうとする人はいない。
中学は今日は振り替え休日のはずだ。竹脇村では集まった人の中に、中学生も何人かいた。
大人の話に加わり、動画を見て、何だよこれ。ひでえ事しやがると憤っていた。
寒々しい気持ちで蝶の舞う道を走っていると、向こうから真っ赤なワゴンがやって来た。
ドライバーは多分、紗依ちゃんのお母さんだろう。
隣席のお婆さんの膝の上には、首に包帯を巻いたパピヨン。ダッシュボードに前足をかけ、キラキラした目で外の景色を見つめている。
すれ違う時、気がついた。ワゴンの後部座席に天狗小僧が座っている。
竹脇村の交番前で別れた仔犬が、どうしてあんなところに。
見ている私に向こうも気づいて、望月家に付き合うつもりだと気配で答えた。
それはつまり、一家に危険が迫っているのではないか。
「あの犬、飼い主に似とるな。周りをよく見とるわ」
「そうだね」
話す間にも、赤いワゴンは遠ざかる。
退院したばかりのパピヨンが、また狙われるのだろうか。今度は望月家の誰かだろうか。
村に残れば、私でも見張りぐらいは出来る。
しかし仔犬は、お前もここに残れとは言わなかった。東京に帰ると知っていて、何も言わずに通り過ぎた。
若く見えても、三百年、人の世を見て来た仔犬の事だ。紗依ちゃんの家族は、彼に任せようと思った。
それに私はハンターと一緒にいたい。この人を無事に家まで送り届けなければ。今日はそのために一緒に来たのだ。
渋滞している高速を避けて、一般道で帰った。ハンターはナビで時代劇を流している。
そこに遺体発見の臨時ニュースが入った。
画面は甲府署前からの中継に切り変わる。スタジオから中継先に質問が飛ぶ。
『発見された赤ちゃんは、元気なんですか?』
『いいえ、もう亡くなっています』
『映像では、生きているように見えましたが』
『もう亡くなっています。死後一年と見られます』
『一年もあの状態を保っていたって事ですか?』
『そうですね。理由は分かりませんが、白骨化もせず、生前と全く同じ姿で発見されました』
ハンターの撮影した映像が使われている。
掘り出される赤ちゃんの動画をバックに、局アナがメモを読む。
『今入った情報です。赤ちゃんの身元が分かりました。櫻井達也ちゃん。一歳。東京の高校教員、櫻井護さんの長男です。一年前に失踪した、櫻井一家の長男です』
「アホ抜かせ。どこが失踪やちゅうねん」
即座に凪野んの突っ込みが入る。
「残された家族が、あれほど失踪言うな、これは誘拐やって言ってたやないか」
「ハンター、よく覚えてるね」
「そやろ。こいつらは健忘症のようやが、こっちは一回聞いたら、そうは忘れんのよ。何も考えてへん声の調子から、しれーっとした薄情な顔までよう覚えとるわ。一年前に、この局アナがこの口で、失踪失踪言いよったんよ。親族は、犯人に手を貸すような嘘報道は止めてくれって、必死やったで。こりゃあ今すぐ、あれは誤報でしたって詫びなあかんな」
重苦しい表情でアナウンサーが語りかける。
『一年前の失踪事件が、最悪の結果を迎えました。櫻井達也ちゃんの遺体が発見されました。山梨県の山中で今日、遺体で発見されました』
「このボケ女、まーだ失踪事件とか言いよるわ。こりゃもう、ボケを通り越して、共犯レベルや。こいつも捕まえた方がええんとちゃう? 何が理由で嘘情報を垂れ流したか、問い質したらええんとちゃう? 大体、夜の夜中に、行く当ても足もなく、財布も家の鍵も持たずに、ふらっと出かける訳がないやろ。こんな小さい子を連れて、オムツの替えすら持たずにやで。失踪する理由なんか、なかったんやで。職場が往生するの分かってて仕事放り出すとか、ありえへん。そんないい加減な人やないって、同僚も口を揃えて言ってたで」
ボケ女の妄言なんぞ、聞きとうない。そう言ってチャンネルを変えるが、変えた先でも同じ話題だ。
『達也ちゃんは、息はしてるんですか?』
『してません。体温もありません』
『殺されたのは最近ですよね?』
『いえ、身長が失踪当時のままですので、被害に遭ったのは一年前と考えられます』
『一年もあのままですか。仮死状態とかじゃないんですか?』
『いえ、呼びかけにも応じません。体温もありません。とにかくあの通りの姿で発見されて、今検視に回されたところです』
『達也ちゃんの両親、護さん、さつきさんの行方については何か?』
『今のところ発見されたのは達也ちゃんだけです』
『そうですか。分かりました』
「アホかこいつら! 一体何が分かったんや。今の今まで、何の捜査もしてへん事が分かったんか。それとも自分らが、平気で嘘つくボケカスゴミだって事が分かったんか!」
またイライラと毒づいた。何年も見て来て、他人を罵倒するのんたんなんて、初めてだった。
テレビを切ると、今度はラジオに手を伸ばす。
「さっきのローカル局入らへんかな。きのこの話でも聞いてた方が、百倍マシや。あ、これか?」
車の中に、甲州弁が響く。まださっきのDJが喋っている。
『東京で消えた赤ちゃんが、一年以上経って、何と黒流山で出て来とうさ。元気な頃のままだったもんで、身元もすぐ分かったってさ。どこぞの聖人の奇跡みたいだって、もうえらい騒ぎさね。地元の皆さんも、さぞびっくりやろね』
ハンターがのけぞっている。
「何やこれ。こっちも同じやないか」
『さて、その黒流山麓の住民と、電話がつながっとう。もしもーし! 黒流村リスナー!』
『はい、地元民です』
ラジオを切ろうとしていたハンターの手が止まる。
利発そうな女子の声。やや早口で、要点だけを語っている。
『そっちの様子はどうなん』
『カメラを持ったマスコミがうろうろしてます。ヘリも飛ぶし、うるさいです』
「これ、あの子か? さっき会うた・・・」
「そうだね、紗依ちゃんだよ。何喋るつもりだろう」
私たちは、ラジオに耳を傾けた。
『地元民としては、びっくりやろね』
『びっくりって言うより、なるほどねって、そう思った』
『と言うと?』
『ちょっと話が飛ぶかも』
『うん、全然構わんよ』
『今日は黒流山で赤ちゃんが出て来たけど、黒流村では逆に、人が消えてるんです』
『消えてるって、どう言う・・・?』
『失踪だか誘拐だか、とにかく急にいなくなって。でも駐在が、事件じゃないって放置してるんです』
『何を根拠に駐在は、事件じゃないって言うんかね』
『それは知らないけど・・・、でも今日の騒ぎを見て、今は何が起きても、遺体が見つかるまでは放置されるんだなって、そう思った』
『それでなるほどって思った訳か。まあ、こういう事態になると、マスコミも警察も、俄然色めき出すわな』
『だから、村で消えた人たちも、いつかどこかで見つかるまでは、探して貰えないんだなって』
『ちょ、消えた人たちって、行方不明者は複数いるっちゅう・・・』
『三、四人消えてます。村で唯一のコンビニの息子と、中学の教員、それに・・・』
『黒流村って人口は・・・』
『二百人弱。過疎ってます』
『そんな村で、何人も消えるって』
『人だけじゃなくて、村中で犬も殺されてます』
『犬!? 犬が何で!?』
『今思うと、赤ちゃんを埋めたり、人を誘拐するのに邪魔だったのかも。この辺じゃ犬なんて、放し飼いに近いし。見つかって吠えられると面倒だから』
『そりゃ、まあ、吠えられたら、犯人は焦るわな』
『ニュースを見て気づいたんです。村で人が消えるのも、犬が殺されるのも、全部ここ一年の出来事だって』
『一年っちゅうと、あの赤ちゃん、たっちゃんが殺された頃か』
『そうです。それ以前は、誰も消えたりしなかった』
『うーん。何やろね、異様に緊張して来た。地元ネタをのんびり発信するのがこの番組と心得て来たが、まさかこんな事態が・・・』
『あの、緊張させて悪いけど』
『うん、どうした?』
『もしかすると、まだ何か起こるかも。その時は・・・』
『ええっ!? そりゃつまり、まだ何か起きそうな兆候が!?』
『そんな大した事じゃないかも。ただ、脅されたから・・・』
『脅された!? 誰に!? いつ!?』
『今さっき。駐在に』
『駐在っ!?』
『あ、間違えた。駐在の息子に。でも、駐在も、その場にいました』
『どっちにしても脅されたんか。で、何がどうして脅されたんだ!?』
『さっきうちに来て、お前も同じ目に遭わないよう、気をつけろよって。こう聞くと、脅迫と思えないだろうけど、ニヤニヤ笑ってたし、言い方から考えても、私は脅迫と思った』
『うん、で、同じ目っちゅうのは、誰と同じ・・・』
『消えた中学の担任と思う。担任、いなくなる直前に交番に行ってみるって言ってたから。学校の帰りに。あんまり変な事が続くから、相談するつもりだったのかも。駐在は誰も来なかったって言うけど、私は交番の前で担任と別れて、交番に入るのを見てたから』
『どっ、どこの世界にほんな交番が・・・。神隠しの交番って、そんなもん、怪し過ぎやろ!』
「うわっ、この子、名指しでこいつが怪しいって、言っちゃったよ」
凪野んは路肩に車を停めると、慌てて携帯を取り出す。
紗依ちゃんの話は続いている。
ここは呪われた村です。カルトに狙われても、人が消えても、ボーっとして何もしない。このままだと、犠牲者、もっと増えるかも。もしそうなっても不思議じゃない。誰も村を守ろうなんて、思ってないから。
迷いもなく言い切った。
この子は、故郷を捨てたのだ。
可奈ちゃんのいない今では、村にいるのは犬殺しと、それを見て見ぬふりの腑抜けばかりだ。こうなるのも仕方ない気がした。
「あの、今ラジオ聞いてたんですけど、急用なんです」
電話が通じたらしい。夕焼けをバックに、凪野んが訴える。
「あのですね、今電話で喋ってる子、あの子にもう喋らせないで下さい。危険です。もし犯人が聞いてたら・・・。名前は出さないったって、声で分か・・・。え、僕ですか?あ、あの、単なる旅行者ですけど、えーと、一応、赤ちゃんの発見者です。今まで警察に話聞かれてたんです。だから分かるんです。警察をあんまり信用しちゃいけない。嘘だと思うなら、僕のサイトで動画を見て下さい。駐在が赤ちゃんに何をしたか、よく見て下さい。え、ああ、はい。はい・・・」
ハンターはラジオ局に電話していた。話が通じたのか偶然か、ラジオもCMに切り変わった。
前のめりになってハンターは喋り続ける。
あの子の話を聞くのはいい。むしろ地元の大人として聞いてやって欲しい。でも、放送するのは危険過ぎる。
道路は混んで来ていた。車の列が近くまで迫っている。このまま路肩にいて、大丈夫だろうか。
振り返ると、後ろから暴走車が近づいている。前が渋滞しているのに減速しない。まっすぐこっちに向かって来る。ぶつける気だ。直感した。
「ハンター、後ろ!」
通話中の凪野んにそれだけ言うと、車の外に飛び出した。
「止まって!」
ハンターの軽と暴走車との間に、両手を広げて立ち塞がった。
「止まりなさい!」
車は止まらなかった。スピードも落ちなかった。くにゃりと蛇行し、私の横をすり抜けると、ハンドルを切り、ハンターの車に斜め後ろから突っ込んだ。
空色の小型車は、押し出されてガードレールを突き破る。前輪が宙に浮いた状態で、辛うじて止まっている。
その不安定な車を、暴走して来た馬鹿が後ろから押し出した。わざわざエンジンをふかし、ハンターの車が落ちるまで車を前進させた。
クラクションが鳴り響く。嫌な騒音を響かせて空色の軽は崖下へ消えて行った。
「この馬鹿!」
私は拳で暴走車のフロントガラスを殴りつけた。全面にひびが入った、そう思ったのは錯覚で、ガラスは一瞬たわんだだけだった。
「ハンター!」
破れたガードレール越しに、崖の上から大声で叫んだ。
「ハンター大丈夫!? 返事して!」
車体の空色は、切り立った崖下の樹海に飲み込まれて全く見えない。いくら呼んでも返事はない。崖沿いを吹き上がって来る風の音だけが、不気味に響く。
「逝ったか?」
暴走車から人の形をした物体が出て来て、崖下を覗いている。化け物並みの汚さだ。顔の上を、無数の虫が這い回っている。ぬめぬめとした黒い虫が、顔中の毛穴から這い出して動き回っている。黒い虫のせいで人相すら分からない。汚い。ただそれだけの人型が、崖下を覗き込む。
前に停まっていた車からも人が出て来た。この人たちは普通だ。虫はわいていない。普通に通報や撮影をしている。
「おーい! 大丈夫かー!」
凪野んに呼びかけるが、やはり返事はない。風の音だけが轟々と響いて来る。
「ちょっと無理かもな」
「この高さではなあ・・・」
切れ切れにそんな声が聞こえる。でも私には信じられない。
阪神大震災を家族で一人生き延び、欲深い親戚からも逃げおおせた彼が、こんな事で死ぬだろうか。
自覚はないようだけれど、珍しいほどの強運の持ち主よ。叔母さんが言っていた。長寿だけは間違いない。水無瀬氏が請合った。
その凪野んが、よりによって、こんな汚い馬鹿のせいで。
信じられない。これで彼の人生が終りだなんて。
崖の上から声を限りに呼び続けた。
「ハンター! 気をしっかり持って! あきらめちゃ駄目だよ!」
夜、搬送先の病院に探偵が来てくれた。
凪野んのベッドの横にぽつんと座っていると、衣装ではなく、普通の格好でやって来た。
探偵は小声で言った。お疲れ。大変だったな。
お前はどこまで使えない奴なんだ。そう非難するかと思ったが、それ切り黙って、青白い顔でベッドに座ったまま眠る凪野んを見守った。
ウトウトしていたのんたんが、目を覚ます。探偵に気づいて言う。
「あれ、ここは冥王星か?」
「いや、まだ病院だよ」
「何や。そんなら今のは夢か。冥王星で、みんなでお茶会しててん。あの一家も来てたな」
「あの一家って?」
「櫻井一家だよ。一年も行方不明になってた」
「・・・・・・」
「あの赤ん坊、やっぱりあの子やったんやな」
「そうらしいな。・・・そう言えばハンターも、ネット上ではすでに軽く有名人だよ。動画も無事拡散されてる。しかし何故か、トレジャーハンターじゃなくて、神ダウザー呼ばわりなんだな」
「何やそれ。わしゃ、井戸掘りか。でも、さっきラジオ局の社員も聞いてたな。ダウジングの秘訣は、とか」
「ラジオ局って、取材でも来たのか?」
「取材つうか、見舞いやろね。局に電話しとる最中の事故やったから。信玄餅を大量に持って来て、しきりに同情してたが、餅、苦手やねん。その辺にあるやろ。せっかくだから探偵にやるわ」
「苦手って、結構食ってるじゃん」
「あ、そう? じゃあ自分の手土産を、ほとんど自分らで食ってったんやな。好物に限って起きる珍現象や。まあ、彼らも空腹やったんやろ。こっちも食っていいって言ったしな。何しろ誰か知らんが、腹がぐうぐう鳴っとった」
ギプスで首の回らない凪野んには見えないが、サイドテーブル上の信玄餅の大箱は、きっちり半分に減っている。
探偵はその箱を小脇に抱えた。
「そろそろ行こうぜ」
「行くってどこへ」
「東京に帰るんだよ。神田だろ、凪野家は。送ってくよ。そのために車で来たんだ」
夜の中央道は、渋滞も解消して空いていた。
何度も後ろを振り返ったが、今度は暴走車は現れなかった。
ハンターは、黙っている方がしんどいと喋り続ける。
「死ぬ気は全然しなかったんよ。むしろ明日は会社へ出んといけんのに。怪我は困るなーとか思いながらバウンドして、あーこりゃ車壊れるわと思って瞬きしたら、もう救急車の中だったんよ」
探偵は聞き役に徹している。
私も今は、犯人の話は言わない事にした。
腐乱して体中に虫の沸いたような人間が、わざと車をぶつけて来た。そんな気味の悪い話を聞かせると、回復の妨げになる。
そもそも現場に来た警官が、ろくな捜査もしていないのだ。事故扱いで、野次馬が暴走車のナンバーを告げても、手配すらしなかった。
犯人は、ハンターから応答がないのを確認すると、無理に車をターンさせて逃げて行った。
「よっぽど上手く車が衝撃を吸収したんだな」
「そやろね。やっぱラッキーカラーの車は違うわ」
当然のように彼は言う。
「空色がラッキーカラーだって、ハンターよく言うよね。それ、どこで聞いたの?」
「そう言えば、うちの占い師はラッキーカラーとかパワーストーンネタには一切触れないのに、妙だよな。その話、一体誰に聞いたんだ?」
「誰にも聞かんよ。自分で思っとるだけや。昔な、地震で生き埋めになって死にかけてた時やけど、崩れた壁の隙間から、空がちょっとだけ見えてたんよ。暗い瓦礫の中から出て、向こう側に行けば助かるんやって、そう思ってずっと見てたからな。あの時の空の色が、目に焼きついてしまったのかね。とにかく空色は、安全の色なんよ」
「なるほど。経験から来てたのか」
「そうよ。空色って言うのはな、悪気のない、ええ色や。あの子もな、空色の服やってんで」
「達也ちゃんか。そうだな。映像で、俺も見てたよ」
「あー、ずっと降りそうやったけど、とうとう来よったな」
音を立てて、大粒の雨が降り出す。
雨は見る間に勢いを増し、車が都内に入った辺りで土砂降りになった。
「ハンター、傘は?」
「あるけど・・・。多分もう、使えんやろね」
一応全部引き取って来たが、荷物はことごとく潰れている。
「こうなると映像、リアルタイムで公開しとって大正解やね。ビデオもリュックの中で、どうなっとる事やら」
雨の向こうに、深夜営業の量販店が見える。
「ちょっと寄って買って行くか?」
「傘なら家にあるからいらんよ」
「他に必要な物はないのか? 電球は切れてないか? 冷蔵庫は一杯か?」
「あんた、今日は変に親切だな。いつも人の顔見るとうるさく説教すんのに。しかしこっちも一人暮らしが長いからな。もう買い置きのプロよ」
豪語するプロを、自室まで送り届けた。
誰もハンターに手を出さないよう、見ていてくれ。
探偵は彼の部屋を出る時に、心の中で八百万の神に祈る。
ハンターの家族と、自分の先祖にも呼びかけた。
外は雨で、人通りも怪しい気配もない。車に乗り、水無瀬氏の家へと向かう。
「車をぶつけた犯人、化け物みたいな不細工だった」
雨のカーテンの中、探偵に報告した。
「紗依ちゃんも地元のラジオで、誰と誰が限りなく怪しいって言っちゃったし」
「とうとうぶちまけたか。まあ、ああ言う子を怒らせる方が馬鹿だよな」
「それと、望月家かパピヨンがまだ狙われてる気がする」
「思ってたより馬鹿は蔓延してるって事か。悪事がバレたら諦めりゃいいのに、何でしつこく罪の上塗りをするかね」
「バレてない事が、まだあるんじゃない? わざわざ紗依ちゃんを脅しに来るくらいだから」
「そうかもな。しかし、これ以上被害者を出す訳には・・・。何とか手を打たないと。ここらで俺たちも全部ぶちまけるか?」
「どうやって?」
「やっぱりそこは、オカルト路線で。そもそも発端は、野音の人魂騒ぎなんだし」
「紺ちゃんの友達、本気で人魂、怖がってたね」
「あの子はむしろ幸せだよ。それに、紺もついてる」
しばらく黙ってから、探偵が言う。
「・・・今更だが、狸って何なんだ? 個人的には、聞く度にキャットピープルを連想するんだが」
「あんなSFなお話じゃないよ。単なる渾名。昔、うちの先祖がそう呼ばれてたの。優貴くんや可奈ちゃんの先祖もね」
「仔犬丸も狸だったのか?」
「あの人は違うみたいだけど。何でそんな事聞くの?」
「別に。ただ俺だけ事情を分かってないから」
「アリシアも水無瀬氏も、あんまり分かってないと思うよ。明なんか特に。三百年前、探偵の先祖は何してた?」
「さあ。江戸にいたとは聞いているが、詳しい事は・・・」
「狸はその頃、忙しく動いてたの。今の私たちみたいに。だから話が長いし、複雑なの」
説明を拒否されて、探偵のテンションが落ちている。
「じゃあ一つだけ、今日拾った新ネタ、石の縁起話ね。山梨の山に散らばるお地蔵さんは、狸の早道の目印でした。中でも磐の石は、狼煙を使って竹脇村と連絡を取る、重要な石でした。長壁姫に子供が生まれた時も、磐の石から知らせました。竹脇村では、花火を上げてお祝いしました。三日三晩も、お祭り騒ぎは続きました。一年分のお酒を、三日で飲んでしまいました。おしまい」
「そう言えば竹脇村って、飲み屋が多かったな」
「そうだね。もう一つ言うと、その赤ちゃんのお父さんが、仔犬丸ね」
「え? 仔犬が何だって?」
少し考えてから納得する。
「ああ、やっと分かった。あの子は、仔犬丸の子孫でもあるんだな」
「可奈ちゃんで十四代目だって」
「そうだったのか。子孫が馬鹿に絡まれるのを見過ごせずに、例の重い蓋をこじ開けて、川を渡って飛んで来たって訳だ。それは久々に聞くいい話じゃないか」
「だから探偵も、子孫のために今の仕事を語り伝えればいいんじゃない? いつか探偵みたいなハイブリッドが生まれた時に、その子が無駄に悩まずに済むように」
「俺はハイブリッドの狸なのか?」
「そうだよ。今まで何だと思ってたの」
狸の呼び名を、探偵は受け止めかねているようだ。SF者の探偵には、もっと別の言い方がよかったかも知れない。
しかし、自分を狸と自覚せずに、いつの間にか狸の中で狸の仕事をしているのだから不思議な人だ。
今になって探偵とこんなに話し込むと言うのも、考えてみれば不思議だった。
以前は話どころか、ろくに目も合わせてくれなかった。
竹脇村まで往復した時なんて、ほとんど無言だった。
あの日、雷鳴の響く校庭に、紗依ちゃんが出て来ていた。
突然消えた可奈ちゃんを探して、校舎から走って来た。
気づいた探偵が車のスピードを緩めて言う。
「誰か追って来ている」
可奈ちゃんは、友人を自分と同じ目に遭わせたくなかった。このまま行けば、間違いなく巻き込んでしまうと思った。それで一年前、紗依ちゃんに告げていた。
もう学校には行かない。あの学校の生徒は見たくない。悪いけど紗依ちゃんにも会いたくない。一人にして。家にも来ないで。
今になって登校する事になった。もし小芝居の最中に紗依ちゃんと目が合ったら、馬鹿らしくて笑ってしまうかも。そんな心配をしていた。実際は違っていた。
久し振りに学校で見る植田と吉良は、相変わらず醜かった。制服が浮いていた。貸衣装のようだった。へら田も一段とヘラヘラしていた。金森姉妹の姉は、見ないふりをしながらずっと横目でこっちを見ていた。
その様子を見ていると、心の底から怒りが沸いた。
すらすら出て来る呪いの言葉は、自分以外の誰かが言っているようだった。他人の怒りが口をついて流れ出て来るようだった。
「もう、お別れは言ったから」
白装束のまま、バックシートから探偵に答えた。
会話はそれだけだった。後は黙って走り続けた。
強風で踊るように街路樹が揺れていた。黒雲が帯電して光っていた。
空を切り裂く落雷は一閃ごとに色を変えた。
金、銀、紫、赤、緑、青。
光芒はガラスを抜けて、車内にも反射した。仄暗い高速を飛ばす探偵を、赤や緑に光らせた。
黙って外を見ている可奈ちゃんの周囲でも、空気がスパークして、白い火花が散っていた。
あの時はまるで、魔界をドライブしているみたいだった。
水無瀬家のガレージに、探偵は車を停めた。屋根つきの駐車場で膝を伸ばしていると、家へ続くドアが開き、水無瀬氏が現れる。
運転席から出て来た探偵が、キーを渡す。
「車、サンキュー。起こしちゃったか?」
「まだ起きてたよ。それよりハンターの怪我の具合は?」
「何と鞭打ちのみ」
「嘘だろう」
「いやまじで。首がだるいとぼやくぼやく」
「ニュースで見たが、あの高さから落ちて・・・」
「CT撮ったけど、首の他は無傷だって、医者も呆れてた。潰れた荷物を見て、本人も絶句してた」
がちゃがちゃ鳴っていたドアが開き、水無瀬氏の一人息子が顔を出す。
「あー。ほりっちだー」
探偵を見つけると、大喜びで駆けて来る。堀内航平。探偵を本名で呼んでいる。
「のんたろう。まだ起きてたのか」
「望は中にいなさい。もう遅いから」
「そうだよ。こんな時間に出て来ると、風邪引くぞ」
「やだー。ほりっちに見せるんだもん」
望くんは、ガレージに置いてある自転車を自慢気に披露する。
「買って貰ったのか。凄いな。ピカピカの新車だ。いや待て。何も、今乗って見せなくても。また昼間、遊びに来るから。早く寝ないと、イケメンになれないぞ」
「望はねー、カミロクターになるんだよ」
「どうせならイケてる神ドクターになってくれよ」
「うん、いいよー」
「よし、じゃあこれは望に置いて行こう。お客さんから、お土産だよ。半分だけど、信玄餅」
包みを水無瀬氏に渡す。望くんは補助輪つきの自転車で近づこうとするが、中々前に進まない。
「何それー。見たいー」
「お菓子だよ。これはな、包みを開けて、自分で黒蜜をかけて、ちっちゃいフォークで食べんだぞ。面白いぞー。明日食べな」
「望、大丈夫かな。のどに詰まっても困るし」
「そうか。三歳だとちょっと危ないか」
「平気だよー」
本人は自信満々だが、大人たちは疑っている。
取り合えず、半分に切って出してみるとか。そうだな。しかし、最近はあるだけ全部食べようとするから、少しだけ貰うよ。
話の輪に入ろうと、真剣な表情でペダルを漕ぐ望くん。しかし、二人に近づくどころか、少しずつ後退している。見かねて押してやると、やっと前に進んだ。
「見て見てー」
「おー、進んだ。上手い上手い。・・・こりゃ俺らがいると寝ないな。もう帰ろう」
「まだ降ってる。車で帰れば」
「いや、ちょっと冥王星に寄ろうと思って。ここからだと、すぐそこだ」
「今から? しかし今日は探・・・ほりっち、本来は休みだろう。昼間もずっと事務所にいたが」
「ネット工作がまだ途中なんだよ。うちだと、何故かはかどらない。そろそろ汚カルト恐怖の食糧事情でもバラしてやろうと思ってさ」
家の方から足音がする。水無瀬氏の妻だろう。
探偵は傘を開きながら、ひらりとガレージの外に出た。
「では今晩はこれにて。風邪引くなよ、のんたろう」
「お邪魔しました。おやすみー」
私も探偵の後を追う。背後からドアの開く音。
「そんなところで立ち話してないで、入って貰ったら?」
「今帰ったところだよ」
「ママ、見て見てー。ちゃんと進むよー」
通りを歩き出すと、ガレージからかすかに会話が聞こえた。
降り止まない雨が、細い針のように街灯に透けて光る。
黒地に金の髑髏模様の探偵の傘の下、冥王星まで二人で歩いた。
五月二日 水曜日
朝方、探偵は事務所デスクに突っ伏してダウンした。私も雨上がりの道を帰宅すると、魔窟のソファに倒れ込んだ。
漣は仕事に出かけたし、母は部屋から出て来ない。
思う存分ゴロゴロしていると、可奈ちゃんが入って来た。暗い顔だ。一人の時は、いつもこんな風なのかも知れない。
可奈ちゃんはテレビを点け、私の斜め前に座ってから、あれっという顔をする。
「弓さん、いたの?」
「うん。さっき帰った」
「疲れてる? お腹空いてる?」
「でもない。ハッピードリンク三昧だったし。それより・・・」
夜中事務所で、あちこちのオカルトサイトにネタを投下しながら、コーヒーとお茶をガブガブ飲んだ。自販機のお菓子を片っ端から食べていた。
「仔犬、昨日は紗依ちゃんの家に泊ったみたい。パピヨンは退院して、元気そうだったよ」
「そう・・・」
「コンビニ親父、本当にキモかった。ハンターが、むっとして嫌味言ってた」
色々話はあるのに、取り合えずこれだけ言って、テレビを眺めた。どの局も、たっちゃんの事ばかりやっている。
遺体が劣化しない理由とか、クマ模様の空色ベビー服のメーカーだとか。事件の本質は無視して、枝葉末節情報のみを垂れ流す。
気がつくと午後になっていた。どうやら眠っていたらしい。
母と可奈ちゃんが話をしている。
「さっき、藍さんからメールがあったんだけど」
「何て?」
「山梨に、おたくが押し寄せてるって」
「おたくが? 何で?」
「おたくが言うには、まず、野音でデスメタルが山梨を指差して狂い出した。クロさんも屋上から同じ方向を指差した。二人とも、殺したとか何とか言っていた。その山梨で赤ちゃんが発見された。オカルトだ。葡萄畑にはUFOが来るし、カルトはウヨウヨしてる。自殺率は毎年全国ワースト一位。山梨は県全体が最凶オカルトスポット。きっと山梨のどこかに、へら田や私や櫻井夫婦が埋まってる。探しに行こうって」
「・・・安っぽいエクソシストの音楽が聞こえない?」
「あ、これ携帯。今見てるサイトのテーマ曲」
可奈ちゃんは、元は私の物だった携帯を使いこなしている。あちこちのオカルトサイトをチェックしながら言う。
「ネット上では、私もへら田もフラグどころか死亡確定。今、私、魔界から山梨を呪ってるって。へら田なんて、一人で悪と闘った美人教師扱い。私が四次元信者で、それを脱会させようとして犠牲になったんだって。私、へら田殺しの黒幕にされてる。ブログを叩かれて病院から逃げた山本さんも、とっくに樹海で首吊って、精進湖と笹子トンネルと夜叉神峠に毎晩出てるらしいよ。地元だけで流行ってた心霊写真も出回ってるし。優貴くんは野音で、櫻井さんに憑依されて暴れたんだって。今頃は櫻井一家の怨念に取り殺されて、山梨の、自分が指差した辺りに埋められてるって。何故なら最近は、何の活動もしてないから・・・」
「おたくの妄想力も大した事ないわね。自力で富士山頂までワープして来るようなのが、少しはいるかと思ったけど。おたくなら稲生武太夫程度の智恵は持ってるはずよね。どうしたのよ最近のおたくは。キモいとか言われて、萎縮してるんじゃないでしょうね。四次元が流したガセ情報にも食い付いてるし。何で簡単に騙されるのかしら。本当に四次元信者がいじめに遭ったら、人権侵害だ、差別だ、賠償しろって大騒ぎで、今頃いじめた側が行方不明になってるわよ。ちょっと考えたら分かる事じゃない。でも、心霊写真って何?」
「中学で、心霊写真を捏造するのが流行ってたの。わざわざ専用のサイトまで作って。それが馬鹿サイトとして有名になってる」
「ちょっと、それ見せてくれる?」
母が携帯を奪い取る。竹脇中学生作、心霊写真のまとめサイト。ざっと目を通すと、嫌な顔で携帯を返した。
「これ、本当に最近撮ったの? その落ち武者の生首なんて、昭和初期に流行った二重撮りじゃない。今時こんなアナクロトリックで盛り上がる人なんて、いるのかしら」
「いるみたいだよ。テレビでやってる」
起き上がって、口を挟んだ。
二人が昼のワイドショーに目を移す。
村の中学生が撮った心霊写真が巨大パネルになっている。
スタジオ中に並べたそのパネルをバックに、心霊研究家が解説する。
『これは多分、いじめに遭った黒流村の少女Oさんの亡霊です。まだ自分が死んだ事に気づいてません。今も村にいますよ、この子は。私はここにいる、誰か見つけてって泣いています。しかし、不用意に近づくと危険です。憑かれますから』
「何、この人・・・」
可奈ちゃんは、危ない人を見るような目でテレビを見る。
しかし心霊研究家は大真面目だ。周りが感心して聞いてやるので、どんどん風呂敷を広げている。
「あれって、映画版の貞子よね」
さっきからガサガサと音がしていた。母が魔窟の堆積物の中から、ぬれせんべいをサルベージしている。袋を開封しながら、冷たく言う。
「トリックも古いし、キャラも進歩ないわね」
竹藪の向こうで強力にぼやけて映る、長い黒髪、白い服の女性の写真。
心霊研究家はOさんだと主張するが、どう見ても母の言う通り貞子だろう。
ポスターとカメラを抱え、藪に向かうオカルト姉妹の姿が目に浮かぶようだった。
『この写真は、村で殺された犬の亡霊です。理不尽に殺されて怒ってますよ』
『犬も亡霊になるんですか?』
『なります。動物の下等霊はやっかいです。早く浄霊しないと間違いなく祟ります。動物に祟られると、大抵の場合助かりません』
『ええー、そうなんだー。知らなかったー』
「亡霊って、あの犬、生きてるわよね? 単なる野犬の群れじゃないの。大体動物の下等霊って何よ。自分の事?」
母はそう言うと、テーブルの下から、お茶のペットボトルを引っ張り出す。一緒に引き出された私のハンカチを、嫌そうな顔をして埋め戻した。
どうもこの人は、日々降り積って行く堆積物のどこに何があるのか、分かっているようだ。
『これは消えた中学の教員、平田先生ですか。彼女ですね。オーブの中にいるのが、ポイントです』
トンネルの壁面に浮かぶ、へら田の顔。薄ぼんやりとかすんでいる。プロジェクターの映像を壁に映すと、多分こんな感じだろう。
オーブと言い張る光も、フラッシュが虫か何かに反射しているように見える。
『車の事故に巻き込まれた可能性がありますね。このオーブは、車のライトを暗示します。多分平田先生が最後に見た景色でしょう。交通量の多い場所を探すと、見つかるかも知れません』
「こんなの見てたら、確実に頭が悪くなるわね。くだらない話を聞く前と聞いた後で、脳の血流の変化でも調べたら面白いんじゃない? きっと免疫も落ちてるわよ。テレビを見ると馬鹿になるって言う説を証明して、イグノーベルでも取ったらいいのよ。その賞をどう報道するかで、世界中のマスコミのレベルが分かるわね」
チャンネルを変えながら母が言う。
別のワイドショーは、黒流村から実況している。
『くどいようですが、臭い。非常に臭いです』
一面の畑を背景に、リポーターが顔をしかめる。
『蝶の死骸のせいでしょうか。どこへ行っても、とにかく異様な臭いがします』
「臭いって、どういう事?」
お茶を飲む手を止め、母が尋ねる。
「あの村、どこ行っても腐敗臭がしてた」
「前からそうなの?」
可奈ちゃんは青ざめた顔で黙っている。
リポーターは纏わる蝶を手で払いながら、無闇に村を徘徊する。その画面に人影が飛び込んだ。
金田一スタイルのおたく青年が、リポーターに何か耳打ちする。こっちに来いと手招きしながら走り出す。彼を追ってカメラが走る。
着いた先は、植田の家だった。
植田家の庭先に、白い仮面をかぶったおたくがいる。しゃがみ込んで、庭の写真を撮っている。
カメラの先の地面から、生々しい肌色がのぞいている。半分土に埋もれているが、爪があって、人間の指のようだ。
『何してるんですか?』
リポーターが覗き込む。
『ここ掘ると、また死体が出る希ガス』
白マスクのおたくはそう言って、適当な石で地面を掘る。指らしき物の周囲の土を除けて行く。
『ここの家の方ですか?』
『うんにゃ』
『人の庭に勝手に入っちゃ、まずいですよ』
『そりゃそうだけど、警察がやらんから、わさびですわ』
おたく語で喋りながら土を削る、その手が止まった。
『何だよ。全身が出て来るかと思いきや』
おたくは出て来た物をつまみ上げる。振り返ってカメラに向ける。
五センチほどの長さの、肌色の何か。
『人の小指っぽい。ほら』
無表情な仮面のまま、おたくが手に力を込める。ぐにゅっと不気味な音がして、赤黒い液体が飛び散った。
『どっひゃ―!』
おたくは持っていた指を放り投げた。バタバタと手をはたきながら、走って逃げる。
走った先から絶叫する。
『本物だよ! 作り物かと思ったら本物だよ! 血っ! 血が! ひょえー!』
『餅つけー。いいから戻って来ーい!』
逃げた連れを呼ぶ金田一青年。その後ろでリポーターが、気味悪そうに植田の庭を凝視している。
『おや? こっちでもテレビの中の人が固まっとる。どしたんすか』
『そこ・・・。まだ何か埋まってる・・・』
今掘ったばかりの浅い穴から、黒い毛のような物が透けて見える。
『人毛、あるいはヅラの気配が濃厚すな。もっと掘ってみます?』
『いや、もう、警察を呼んだ方が・・・』
『その警察がやる気ゼロと聞いて、ワシらが来たんですわ』
おたくは、十メートル先で震えている相方に声をかける。
『おまい、掘るかー?』
『もう嫌や。そっちがやれい』
『中の人は? もし櫻井さんが出て来たら、まさかのボーナス・アタックチャーンス』
リポーターは即座に拒否した。
金田一はため息をつくと、庭に入る。その辺の石を拾って、地面を掘る。小石が多く、がりがりと音ばかりして進まない。
『気は進まんが、これを使うか。口惜しいのう切ないのう』
持っていた缶入りキャンディーの中身を空けて、掘り出した。
富江のイラストつきの缶で、おたくはザクザクと土を掻く。すぐに悲鳴を上げて尻餅をついた。
『ひーっ! 睨まれたー!』
こえーこえーと叫びながら、相方の方へ駆けて行く。
おたくの陰になって見えなかった穴の中が、はっきり映る。
魔窟のリビングで、可奈ちゃんが立ち上がった。床の荷物に足を取られながら、テレビの前に歩いて行く。
植田の庭から出て来たのは、犬の頭部だった。
山に捨てられていたのを可奈ちゃんが見つけて、家族同然に育てた犬。二週間前に殺された、黒のラブラドール・レトリバー。
「早太郎・・・」
可奈ちゃんは画面に映る、愛犬の頭をなでている。
早太郎は、ある日突然姿を消した。探し当てた時には、悲惨な状況だった。
頭部を切り取られた姿で、竹藪に捨てられていた。足も全て折られていた。刃物で体中を切られ、内臓が引き出されて散らばっていた。
冥王星で会った時、この子の口から聞いている。
母には伝えていない。こんな話は聞かせられない。今までずっと隠して来たのに。
怖ろしくて振り返れない。部屋の空気が、どす黒く変わっている。母が暗黒オーラを発しているに違いない。
『うわっ! 何だこりゃあ!』
犬の体がない事に気づき、リポーターが叫び声を上げる。
『この犬、頭しかない。首から下がない。睨んでる。どう見てもこっちを睨んでます』
『てめえ、人の家で何やってんだよ!』
ブレーキ音を響かせて、植田の息子が帰って来た。自転車を乗り捨て、リポーターに向かって喚く。
『この野郎、勝手に何撮ってんだ!』
『君、この家の子? この犬はどうしたの?』
リポーターはマイクを持ち直すと、生き生きと喋り出す。怒鳴られるのは慣れているのか、逆切れするからには、相手に理がないと踏んだのか。
『犬が何だっつーんだよ! 何だてめえら! 今すぐ出て行け、ぶっ殺すぞ馬鹿野郎!』
『ちゃんと説明出来ないなら、通報するよ』
『ちょーづくなっ、このヴォケ! やれるもんならやって見ろ、てめえが不法侵入で捕まるだけだ』
『異変を見つけて確認するのと、犬の首を切断して殺すのと、どっちが悪い事かなぁ』
植田が逆上するほど、リポーターは落ち着き払う。
二人連れのおたくも、そろそろと引き返して来た。
『あのー、ひょっとして、チミが村で続発してる、犬殺しの犯人?』
『いかんねぇ。動物虐待は、非モテ毒男への一本道ぞ。かと言って、この手の厨は、二次に行きそうにも見えんしのう。残念ながらチミは、モテない事を認められずに好みの美人に付き纏う、猛末期タイプと見た。大惨事の予感が汁』
『馬鹿な事言ってんじゃねえよ! てめえも、いつまで撮ってやがる、帰れよ!』
植田は、カメラマンに手を出した。映像が乱れて、中継はそこで途切れた。番組もCМに入る。
可奈ちゃんは、テレビの前から動かない。魔窟の暗い空気が、異常な圧力を帯びている。
CМ明け、再び黒流村から中継が続く。
植田家の前では、人が増えていた。ヘルメットの女子中学生が三人、自転車を止めて騒ぎを見ている。
紗依ちゃんの姿も見える。ちょうど帰宅時間なのだ。
『犬って、どんな犬? 犬種は?』
聞きながら庭を覗き込む。振り向いて、植田を睨んだ。
『何で早太郎がここにいる訳?』
『うるせえよ。知るか、バーカ』
『早太郎とは、その犬の名前かね?』
『どうやら、そうらしいのう』
おたくの話に、村の姉妹が参加する。
『そうだよー。黒流山に捨てられてた犬なの』
『兄弟はみんな死んで、この子だけ生きてたって』
『ほうほう。で、早太郎はここの家の犬なのかね?』
金森姉妹は顔を見合わせ、説明する。
『ううん。この子の飼い主は別の子。今は登校拒否で引き籠ってる』
『でもこの前、呪いをかけに学校に来たけどねー』
『それは白装束で現れた、あの子の事かね? 地獄から招待だって告げに来た、Oさんだったかのう』
『ええー、何で知ってるのー』
『怪しいよねー。この人って、うちの中学の職員?』
『ブブー、ワシは名古屋の大学院生。しかしその話は、オタならみんな知っとる。デスメタル憑依事件のスピンオフは、そこそこ有名なネタじゃからの。まじで死人が出るんではと、暇さえあれば警察無線を傍受しとるオタまでおる』
彼はひょいと向き直ると、オタクセンサー作動! ビシィッ!と言って植田を指した。
『やはり犯人はそこの厨だったか。Oさんの呪いを恐れるあまり、彼女の犬を殺して庭に埋めたと、そう言う訳じゃな』
『つまり犬神ですか。犬の怨霊を番犬代わりに使役しようっちゅう』
『この状況では、それしか考えられん。日本中の霊場を回って来たワシも、びっくりだわい。山奥の過疎村には、まだこんなアナクロ厨が棲息してたんじゃな』
犬神と聞いて、女子中学生がはしゃぎ出す。
ええ~っ、犬神って? だからこれだよ。邪気が入らないように、家の入り口に犬を埋めるの。へー、そうなんだ。どの程度効果があるの? 可奈ちゃんの呪いと、どっちが強い?
楽しそうに植田の庭を覗き込む姉妹の顔が、さっと暗くなった。
魔窟の空気とシンクロするように、黒流村に黒い雲が流れ込む。
掻き曇る空の下、怒気を含んだ紗依ちゃんの声がする。
『犬神だか何だか知らないけど、人の犬を殺していいと思ってんの?』
『やだー。紗依ちゃん、また切れてる』
『本当だ。またシワ出てる。こわー』
『こわーって、それ、こっちの台詞だから。この状況でその態度って、何なの。何はしゃいでるの?』
紗依ちゃんの眉間に、三日月のシワがくっきりと浮かんでいる。騒がしい割りに、問い詰めると沈黙するオカルト姉妹はすぐに捨てて、紗依ちゃんは植田に詰め寄る。
『犬神って、要は動物虐待だよね。しかも、人が大事にしてる犬を・・・』
『お前ら、こんなところで何やってんだよ』
そこにまた一人、中学生が加わった。
ひょろりとした猫背、細い釣り目。吉良だ。
制服姿の植田の父を連れている。
『こちらの庭に、犬の死骸が・・・』
その庭の主とも知らずに、リポーターが植田の父に説明している。
『ああ、可哀想に。レトリバーだな。長壁さん家の犬かも知れない。あの家、最近留守みたいだから、腹が減って逃げ出したのかな』
『この村じゃ、逃げた犬は首を切って埋める風習が?』
おたくの突っ込みに、植田の父は必要以上の大声で答える。
『ハハハ、そうじゃないよ。野犬と間違えて殺してから、処置に困って適当な場所に埋める。たまにはそんなあわて者もいるからね』
植田の父は、短い首に顎を埋めるようにして笑っている。
『たまにって。うちの犬も、この二人の犬も、首を切られてるんですけど』
紗依ちゃんの言葉に驚くリポーター。
『えっ、本当? こんな小さな村で、第二第三の犬神事件が!?』
喋ろうとする紗依ちゃんを、植田の父が大声でさえぎった。
『カメラの前だからって、大袈裟はよくないな。君の犬はかすり傷だし、この子らの犬は事故だろう?』
言いながら植田の父は、傍らの金森姉妹をギョロリと睨む。
『二人とも、うちのビーグルも殺されましたって、ちゃんと言いなよ。事故って事にされたけど、そうじゃないって。写真だってあるんでしょ。見せてやりなよ』
紗依ちゃんがいくら言っても、二人は顔を見合わせて黙っている。説得を邪魔するように、植田の父の大声がかぶさった。
『問題は、このレトリバーだな。可哀想に。誰が人の庭でこんな真似を』
『ここに犬埋めたの、まさかお前じゃないよな』
植田の息子が割り込んで、紗依ちゃんに話の矛先を向ける。
『・・・何それ?』
『お前ってさー、どうしても俺らを悪者にしたいだろ。いっつも俺らの悪口言ってるし。自演ぐらい、やりかねないよな』
『君、それはどう言う事?』
リポーターに聞かれて、植田がうんざりした顔で答える。
『だから-、全部こいつの自演なんだよ。大体、今時犬神とか、知らねーっつーの』
『うちの犬だって被害に遭ってるのに、そっちこそ何作り話してんの?』
『君んちの犬も殺されたの?』
紗依ちゃんより先に、植田が口を出した。親子揃って声がうるさい。
『死んでない死んでない。こいつの犬は、超かすり傷だよ。だけどさー、自分の犬だけかすり傷って、変じゃね?』
『入院したとか騒いでたけど、あっと言う間に退院したよな』
『昨日なんか、普通に散歩してたしな』
植田と吉良の掛け合いに、植田の父がしきりに頷く。大声で話に加わる。
『なるほどね、そう言う事か。君も友達がいなくて寂しいのは分かるけど、嘘をつくのは、よくないよ』
相手が反論出来ないと見た植田は、一方的に勝利宣言を出す。
『じゃ、そういう事なんで、解散! みんなとっとと帰ってー。自演ちゃんも、帰って反省してね』
立ちつくす紗依ちゃんに、吉良が追い討ちをかける。
『おや、どうしたのかな、そんなとこで固まって。悪事がバレて恥ずかしいのかな?』
『・・・この子は連れて帰る。お墓に入れてあげなきゃ』
紗依ちゃんの声が震えている。吉良も植田親子も、ニヤニヤしている。
『殊勝だねえ。これに懲りて、嘘は止めるんだよ。犬殺しも終りにしなきゃね』
至近距離でテレビを見ていた可奈ちゃんが、突然咳き込んだ。ごぼごぼと音を立てて、咳き込みながら血を吐いている。
「それ、神経のせいだよ。馬鹿の小芝居は見たくないって、拒絶反応」
痙攣しているような可奈ちゃんの背中をさすりながら、この子は血管が弱点かも知れないと思った。ストレスが飽和したのだ。
「もうテレビ、切ろう」
辺りにあったタオルで口許を押さえながら、可奈ちゃんは首を振る。血を吐き、涙を流しながら、紗依ちゃんと早太郎を見ている。
部屋の暗黒度がさらに高まる。体中がピリピリ痛んだ。
見えない矢が体中に突き刺さるような異常な圧力。
鬼の母が激怒している。
画面では、紗依ちゃんが喋っている。
『・・・誰がこんな真似したか、調べるとか言ってたけど』
『はあー? 自演ちゃん、まだ恥を晒したいのかな?』
『大事な証拠を、人が持ち出そうとしても止めないってどう言う事? 最初から調べる気なんか、ないんでしょう』
『ハハハ、そんな事はないさ。遺留品やら指紋やら、これから調べるよ。調べていいならね。犯人が未成年みたいだから見逃そうかと悩んでいたが、そんな風に言われたら、やらない訳に行かないねえ。もちろん犬の死体はこっちで預かるよ。警察でね』
父に言われて、植田が家からビニールシートを持って来る。手袋の手で早太郎を持ち上げた植田の父が、大声を出す。
『臭っ!』
周囲にいた全員が、後ろへ逃げる。
『いやーっ! 臭っ!』
『何だこの臭さ!』
『腐りかけているんだな。可哀想に』
植田の父に耳を掴まれ、宙吊りになった犬の下顎ががくりと動く。吠えようとするかのように、大きく口を開けた。
『ぎゃーっ! 動いた!』
『まだ生きてる!』
『こっちを睨んでるよ!』
白く濁った早太郎の目が、カメラを睨む。その犬の口の中から、何かが零れる。吸い込まれるように穴に消えた。
『口から何か出た!』
『何か落ちた! 穴に落ちた!』
落ちた先に目をやった紗依ちゃんが言う。
『指。・・・人の指だよ』
『また指とな。一体これは何の呪いじゃ』
『またって、どういう事?』
金森姉妹がおたくに聞く。
『さっきも出て来たんじゃよ、土の中から指が一本。そこで更に掘って見たらば、犬の頭がこんにちわじゃ』
『指って、もしかして吉良の?』
『二本ならそうかも』
『でもさー。何でここにあるの? 耕運機に挟まれたんでしょ?』
『自分でそう言ってるだけじゃん。あいつが家の手伝いなんか、しないっしょ』
ひそひそ話した後で、おたくに聞く。
『それって、何の指だった?』
『最初のは長さから言って、小指じゃな』
『これは薬指ぽいな』
鼻を押さえながら、穴の中を覗き込む。
植田の喚き声が聞こえる。
『だから、人んちに入って来んなよ!』
『最初の指ってどこ? どこにあるの?』
『その辺に投げたような・・・』
『てめえら、無視してんじゃねえよ! 何勝手な事言ってんだよ! いいから帰れ!』
再び植田が怒鳴り始めたが、聞く人はいない。庭に入り込んだカメラが、ぽっかり空いた穴を映す。
穴の底に、人の指が転がっている。第二関節から先だけの指。
食いちぎられたのだろう、切断面が潰れている。
画面が揺れる。植田がカメラマンや野次馬を、門の外へ押し出している。乱暴に門扉を閉めて、鍵をかけた。
門の向こうで喚く植田は、躾に失敗した駄目犬のようだ。帰れ馬鹿! 消えろクズ! ひたすら無駄吠えを続けている。
悪態の隙間から、おたくの声が聞こえる。
『あー、あったあった。ほら、小指っぽい』
カメラが振り向く。
おたく青年が、道端に落ちていた指を、ティッシュでつまんで見せている。
『吉良だよ。これ吉良の指だよ』
『さっきからきらきらって、何の話じゃ?』
『お前ら、適当な事言うなよ』
吉良が細い目で威嚇している。植田の父が、通りに出て割り込んだ。
『それも警察で預かるから。もし本当に人の指なら、大変な事だ』
『ちょっと指紋見れば、誰の指かすぐ分かるじゃん』
植田の父が睨みつけるが、紗依ちゃんは黙らない。
『吉良がそこにいるんだから、指紋とか指の長さとか比べてみれば?』
『君、その指、どうかしたの?』
リポーターは、吉良の右手に巻かれた包帯に、やっと気づく。
黙る吉良の横で、金森姉妹がペラペラ喋る。
『最近指を切り落としてるんです。二本も』
『君、この犬に噛まれたの?』
『まさか。そんな訳ないよ』
『一応、この指と比較キボン』
吉良は右手を背中に回し、おたくを睨む。おたくたちは無頓着に吉良に絡む。
『やましいからそうやって隠すんじゃな』
『だから違うって。怪我なんか、人に見せたくないんだよ』
『さっきまで平気で晒してたのに?』
『カメラにまで撮られると思わないじゃん』
『撮影してるの、知ってて入って来たよねチミ? 今になって何を言うんじゃ』
『うるっさいなー。色々気にする年頃なんだよ』
『やっぱ吉良の指だよ。ここにホクロあるもん。あいつ、ホクロだらけじゃん』
姉妹のひそひそ話に、おたくが頷く。
『やはりチミは犬に噛まれたのか』
『それで頭に来て殺したのかね? 短絡じゃのう。鳥頭じゃ』
『しかも、わざわざ頭部を切断して人の家に埋めるとは。大体、早太郎の体はどこじゃ? まさか喰った訳じゃあるまい』
『知らねえよ。話作んなよ』
村の空気が、どす黒く淀んでいる。
雲はさらに勢いを増し流れ込む。
ただの黒雲ではない。光を帯びた雷雲だ。
『噛まれたから殺したんじゃないよ。逆だよ』
明滅する電光の中、紗依ちゃんが喋っている。
『吉良が先に手を出して、早太郎に反撃されたんだよ。この子、自分から人を襲ったりしないし』
『えっ、そうなの?』
『あ、こいつ嘘つきだから、話聞いても無駄だよ』
『へ? チミ、虚言癖でもあるの?』
『あるある。昨日なんか地元のラジオで、うちの父ちゃんを悪党呼ばわりしたし。ひでえ作り話しやがるんだよ。どんだけ迷惑か、いい加減、自覚しろっつーの。こいつが出て来ると、いっつも話がおかしくなんだよ』
『虚言癖はそっちじゃん。こっちは本当の事しか言わないけど、そっちは人を犬殺しの犯人にしかけたし、いつも嘘ばっかり言ってるじゃん』
『ラジオの話とは、何じゃ?』
『ローカル局の話だから、知らないんだー』
『知らんな。で、何を話したんじゃ?』
おたくと金森姉妹が話し込む。そこへ車が通りかかった。
全面に萌え絵の入った痛車。オカスポ見物に来たおたくだろう。
植田家の手前で停まり、軽くクラクションを鳴らしている。
通れないで困ってるよ。通りの真中に自転車を乗り捨てたままの植田に、紗依ちゃんが注意する。
植田たち三人は、目配せし合って動かない。仕方なく紗依ちゃんが自転車を道の向こう側に移動させた。
『どーもどーも』
ドライバーが窓からひらひらと手を振り、痛車はゆっくりと走り出す。
「うわっ、犬が動いた!」
植田が大声を上げた。
ビニールに包んで持っていた、早太郎の頭を放り出して叫んでいる。
カメラが反転して、植田を狙う。
映像も村道から庭に変わる。その最後の一瞬、道の端に、ちらっと動く人影が映った。
吉良が紗依ちゃんの後ろに回り込んでいる。気配に毒気が満ちている。走って来る車の前に、紗依ちゃんを突き飛ばす気だ。紗依ちゃんは植田に気を取られて、吉良の動きに気づかない。
「犬の頭がゴソゴソ動いた! ビニールの中で動いた! うわー!」
植田の狂乱を映すカメラの背後で、車が紗依ちゃんの前に差しかかる。ザリザリと砂利っぽい道を噛むタイヤの音が聞こえる。
「紗依ちゃん、よけて!」
思わず叫んだが、声が届くはずもない。次の瞬間、テレビから騒音と悲鳴が響いた。
カメラが慌しく動き、痛車の通り過ぎた村道を映し出す。
道端に人が倒れている。ぴくりとも動かない。
出来る事なら、こんな惨劇は見たくなかった。
こえーこえーと呟き続ける私に、夏さんは、カプチーノを出してくれた。
閉店後のいっぷく亭。
黒流村の馬鹿騒ぎのせいで、うちにいるのが怖くなって逃げて来た。
あんたさんだって、狸の一員じゃろ。しっかりしなされ。夏さんは、そう言って励ましてくれる。
しかし、あんな場面を見て平静だったら不自然だろう。
母は平静だったが。
可奈ちゃんも同じだったが。
感情の窺い知れない表情で、二人とも黙って画面を見ていた。私にはその反応が怖ろしかった。
「今日はどうしたの? とっくに閉店の時間でしょ?」
普段は仕事が終わるとさっさと帰る占い師たちが、いっぷく亭に集まって来る。
「新作メニューを試作しとった。ちょうど出来たところやけ、お上がりや」
トッピングを決めかねて、と夏さんは米粉を使った和風のピザを何種類も焼いていた。
試食と言うよりは食事会だった。食後のコーヒーの時、黒流村の話が出た。
忙しく働いた占い師たちは、今日の事件を知らなかった。
夏さんが説明する。
「どうもな、可奈ちゃんの友達を怪我さすか、最悪轢き殺そうとしたらしい。吉良っちう狐面の小僧がな。とっさに思いついたか、計画してた事かは分からんよ。しかしまあ、無闇にニタニタして気色の悪い奴やった。物心ついて十年ちょっとで、ああまで人間が腐るもんかね。にわかに信じられん気がするわ」
夏さんは仕事の傍ら、ワイドショーをチラ見していた。じっくり見ないでラッキーだ。
「ほしたらいきなり、ドーンやで。天罰みたいに、吉良の脳天に落雷よ。あの小僧、悪巧みの寸前でレアステーキにされよった」
「ステーキ?」
「そうよ。雷様に料理されたのよ。顔の辺りなんぞ、焼け焦げて、煙が出とった。あんなもん見たら当分、焼き肉は食えんわな。子豚の丸焼きなんぞ、一生無理や」
止めて、それ以上言わないで! アリシアが英語で文句を言う。
「他の子はどうなった? すぐ側にいたんだろ?」
探偵の質問には、隅の席から私が答えた。
「紗依ちゃんなら無傷。仔犬丸が現れて、抱きかかえて横に飛んだから」
「衝撃で吹き飛んだように見えたが、つまりあれは、上手く飛びのいたんやな」
「そう。やっぱり天狗と言われるだけの事はあるよ。あのジャンプ力は・・・」
隅の席から、少しだけ話に加わった。アリシアが私に何か言おうとする。今は構わないでオーラを出すと、彼女は叔母さんに話しかけた。
「紺ちゃん、今頃お腹空かせてるんじゃない?」
「あの子は今日、泊りがけで旅行みたい」
「旅行って、どこに?」
「山梨。ちょっと突撃行って来まーすって、さっきメールで。怪談研究部の暇な八人が集まって、オカルトおたくの山梨探検オフに参加ですって」
「黒流村に何でおたくがいるのかと思ったら、あれはオフ会だったのか」
「オール自由行動だけど、連絡だけは取ってるって」
「明日から、休みだものね。これでまた探検隊の人数が増えるわね」
「紺は何が目的なんだ? この時期に山梨って、何かあるだろ」
「怪談発生現場のフィールドワークとか言ってたけど。本当は何考えてるんだか」
「まさか、四次元に突撃する気じゃなかろうな」
夏さんの懸念に、総突っ込みが降り注ぐ。
「バンビーノが、四次元を?」
「馬鹿カルトの総本山を?」
「それはないな」
「街中で汚カルト信者に会ったって逃げるだろ。キモーキモーって騒ぎながら」
「あのバンビみたいな足でね。怪談部って足が細くないと入れないの?」
「そんな変なハードル作らんやろ」
「しかし、どんな怪奇に襲われても逃げられるよう、走り込んでるとは言ってたな」
「それ、冗談でしょ?」
「紺が言うと嘘っぽいが、本当や。よく陸上部に混じって走っとる。しかし、信者の足は早いんかね?」
「早い訳ないわね。出家したら最後、ろくな食事にありつけないんだから」
「一日一食、コンビニ弁当が基本だもんな」
「食費をケチりたいのが見え見えよね。その上、メタボの食べ残しを売りつけるんだから、セコさだけは筋金入りよ」
「食べ残しって何じゃ?」
「教祖の残飯を、信者に売ってるんだよ。オーラ入りとか妙な理由をつけて、ぼったくり値段でな。衛生面で問題だって一時期騒がれてた。実際、四次元の信者は、肝炎とか食中毒でよく死んでる」
「気持ちの悪い話やな」
「知れば知るほど気持ちが悪い、それが四次元研究会だよ」
「空気読まずに何だが、明が今、チャットで・・・」
携帯を手に、水無瀬氏が噴き出した。
横から画面を見て、探偵も笑い出す。
何の話と尋ねるアリシア。
「明が自分のサイトでファンと話してんだよ。テケ・・・」
「テケ? 適当って事? また適当料理の話?」
「いや、テケリリ・・・」
「テケリリ? 野鳥の会の子が来てるの? 私も読みたいから、平仮名で書いてって頼んでみて」
「そんなもん、航平がテケテケ以外のとこも読んでやれば済む事や」
夏さんに言われて探偵は、読むのは別に俺じゃなくても的な気配を醸す。しかしその主張は一瞬で全員に無視された。
仕方なくチャットの音読を始める探偵。
「ファンA。スノーホワイトのボーカルって、今どこ? 生きてる?」
「明。知らん。あのバンドとは、連絡取れないんだ。携帯もメールも不通」
「ファンA。でも同じ業界でしょ。連絡くらい・・・」
「明。それがなー。何故かサイトも消えてるし。アマチュアだから事務所もないし、お手上げなんだよ。みんなそうやって俺に聞いて来るけど、むしろこっちが聞きたい」
「ファンB。そしたら、ホントに殺されてるんじゃ・・・。これだけ探して消息不明なんてオカシイよ」
「明。((((;゜Д゜)))」
「ファンC。いや、きっと宇宙に帰ったんだよ。スノーホワイトって、全員宇宙人だろ」
「明。宇宙人だって!?」
「ファンC。うん。俺、あの日、野音で警備のバイトしてたけど、あの人らのリハ、超変だった。指で変なサイン出し合って、言葉もなんか、テケリリ、ノエノエ、うーらくーらとか宇宙語だった。ふざけてんのかと思ったけど、本番でもノーMCだろ。あれ多分、地球語苦手な宇宙人だよ」
「ファンB。でも、明が出演交渉したんでしょ? 言葉通じるじゃん」
「明。いや、俺サイトにあったアドレスにメールしただけで、話してない」
「ファンB。えっ」
「明。そのメールもだなー。野音に来てくれって出したら、俺の書いた文章がそのまま返って来たんだよ。末尾にOって打ってあったけどな。今までの接触って言ったら、それだけだし」
「ファン全員。えええーっ」
ここまで読んで、探偵は笑い出す。
「宇宙人まで出て来たぞ」
「あのイケメンも大変やな。怨霊に憑かれたり、呪われて死んでみたり。最終的には、宇宙人にされるのか」
「そう言う星の下に生まれたんだろう。そもそも、星の数ほどあるバンドの中で、明に目をつけられた時点でもう・・・」
水無瀬氏もおかしそうだ。
「テケリリ、ノエノエ、うーらくーら・・・。ハハハ、このファン・・・」
探偵の頭の中で、ラブクラフトと微妙に空耳変換された伊予弁が踊っている。笑い過ぎて椅子から落ちそうな探偵を見ながら、叔母さんが呟いた。
「何も宇宙に行かなくても」
「いや、例の頭脳線を持つ彼の事だ。宇宙を一巡して、地球に戻って来るかも」
「水無瀬さんって、彼の話が出るとニコニコするのね。望くんの話より楽しそう。そんなに千葉の子が好き?」
「好きも何も、誰だって笑うよ。あんな手相を見せられたら・・・」
水無瀬氏の答えに、アリシア以外の誰もが、どっと笑った。
どんな卦が出ても笑ったりしないプロの占い師が、明だけは例外にしている。
「あんな手相って?」
「そうか。あの頃、タロットさん、日本にいなかったから」
「知らないんだな。世の中に、あんな奇妙な手相が存在する事を」
「知らないわ、何の話?」
「あれは真面目な話、国家機密並みの珍相だよ」
「二人とも、クネクネしながら何を言ってるの。ちゃんと分かるように説明して」
「あんなもんを説明しろと言われても・・・」
アリシアがいくら聞いても、話は一向に進まない。
腹筋を抱えて悶絶する二人のところまで行って、携帯を覗いて見た。
明> みんな知ってるか? 明日は休日らしいぜ
フリータ> そりゃー学生や勤め人はみんな知ってる
明> 俺は曜日関係ないからな。休みだったら山梨に行きたいとこだよ。イルカ持って
赤影> じゃあ俺代わりに行っとくか? 地元だし
明> 地元! そんなの悪いじゃんとか言おうとしたら、地元か!
きなこ餅> アタシも近い。静岡だけど県境だから。イルカも持ってる
フリータ> うらやましす。都民だし明日もバイトだ
琵琶牧々> 俺もちょっと遠いわ。三重じゃなー
きなこ餅> 伊勢神宮で祈って来い>琵琶牧々
明> よし、山梨県民! 近場の者ども! 暇なのに明日ファンミに来ない奴は、俺の代わりに山梨大捜索しといてくれ! ただし、四次元には近寄るな。バカは伝染病だ。危険だぞ。明日ここで点呼取るからな。みんな生きて戻れよ! では、さらばのアホ毛ビーム!!(o゚ロ゚)/-------V
きなこ餅> はいはい、アホ毛ビーム!! V-------\(゚ロ゚o)
「イルカって何だ?」
水無瀬氏の疑問に、叔母さんが答える。
「玩具屋で売ってる化け物センサー。カード型の。"オバケいるかな"とか言う」
「私それ、持ってるわ。ここにはオバケ、いないみたい。安心ゾーンよ。ほら、青いところが光ってる」
アリシアが真剣な顔で店中に化け物感知カードをかざしている。
「黄色が点くと要注意で、赤は危険ゾーン? また妙な物が流行ってるんだな」
「でも、どうして色が変わるのかしら。温度でも湿度でも変わらないのに」
カードをコーヒーカップに近づけて、不思議がる。
「持ち主の微妙な心理状態に反応するんじゃないか?」
「嘘発見器みたいだな」
「いやいや、日本の技術者のやる事だ。本当に以津真天や陰摩羅鬼の気配をキャッチしとるのよ」
「妖怪って、見た事ないわ。このカードを使って、座敷童子に会えないかしら」
「童子がその辺をぶらぶらしたりするかな?」
「東北の古い町でも行って、散策しながら気長に探すんじゃな」
「東北なら、仙台四郎を見かけるかも」
「ちょっと待て。仙台四郎は妖怪か?」
いっぷく亭が妖怪談義で盛り上がる中、明はチャット落ちした。
この日、彼と喋ったのはほんの数人だが、ギャラリーはその数倍いた。
翌日、山梨へ向かうの人の群れは、さらにその数十倍にも膨れ上った。
五月三日 木曜日
四連休の初日。
今にも降りそうな暗い空の下、オカルトおたくの大集団が山梨に集結した。
おたくの目的地は、主に三つ。一つは黒流村と黒流山、および隣の竹脇村。
二つ目は自称天才ナースが首を吊ったと噂される富士の樹海。
最後が甲府の四次元研究会、本拠地周辺。
魔窟には誰もいない。誰もテレビに寄りつかない。私一人、見たくもないワイドショーを見続けた。
今日は朝から四次元を特集している。ここに至る全てが黒歴史みたいな団体だ。
元々は次元を研究をする、科学者の集まりだった。それがいつしか宗教団体に変質。都の指定を受け、税金が免除されたこの十年で信者数、資産とも大躍進。山梨に巨大施設を造り、数百人の出家信者が移住。
施設は日々、騒音、悪臭、暴力沙汰など問題を引き起こし、地元に迷惑をかけている。
アナウンサーは、半笑いで教団を紹介する。
『信者さんたちは、何が魅力で入信したんでしょうね?』
『それはやっぱり、ウルトラスタンダードデータベースですよ』
四角い顔をした宗教研究家が答える。
『教団には、教祖と一部の高弟だけが見る事の出来る、秘伝の奇書があるんです。修行してそれを見たい信者は多いですね』
『何ですか、ウルトラスタンダードデータベースって』
『それは四次元の正にトップシークレット。この世の全てが書いてある予言書です。例えば、あなたの未来も全部その本に書いてあります』
『ええーっ、じゃあ私がいつ禿げるとか、禿げないとかも載ってるんですか?』
『そうです』
『私が今日のお昼を社食で済ますか、外に食べに行くか、そんな事も?』
『そうみたいですよ』
『す、凄い・・・』
『だから皆さん、ああやって修行に励むんですね。とても私には出来ません』
『私にも出来ませんよ』
二人して感心して見せる。
しかし、四次元の修行とは、ただ喜捨する事。手持ちがなければ借金して、あるいは新しい信者を連れて来てもいい。
他の信者よりも早く、多く喜捨すれば位が上がる。要するにねずみ講だ。
出家が何をしているかと言えば、山で石を拾い、売り物用に加工するのだ。適当に磨いた石に適当な装飾を施し、梵字を刻み、波動ストーンと称して高く売る。そのための工場も、施設内に建っている。
ろくな食事もなく、一日中勧誘か石拾いか石磨き。空腹に耐えかね逃げると、鉄パイプを持った見張り役に追い回される。
この実状を、いい大人が知らない訳はない。教祖が立候補した甲府市長選の時に、マスコミも多少は取り上げていた。単なる学生だった私でも知っているのに、この二人は何を感心しているのだろう。
二年前、四次元の教祖は自信満々で市長選に出馬した。そして落ちた。
最下位で破れた原因を、四次元は選管に押し付けた。
不正の証拠があった、選挙は八百長だと騒ぎ立てた。
挙句に証拠などない事がバレて、あるある詐欺と馬鹿にされた。
『それでも未だに、信者はいますね?』
『そうですね。出家、在家合わせて、約五千人。ただ宗教団体の自称ですから、実際は半分程度かも知れません』
『その四次元研究会が、黒流山で見つかった赤ちゃん、達也ちゃんを遺棄した犯人ではないかと言われてますが』
『噂だけで騒いでも。まだ証拠はないんでしょう?』
『櫻井さんが教団にストーカーされてたとか、櫻井一家が消えた後の自宅から四次元のバッジが発見されたとか、櫻井さんの実家に四次元が押しかけて脅迫したとか、そう言う話はありますけどね』
『まあ、バッジは誰でも買えますから。いずれはっきりしますよ。警察も動いているんでしょう?』
『そうですね、四次元の幹部が県警に呼ばれているみたいです』
実のない掛け合いの途中で、漣が入って来た。
「村で何かあったらしいぞ」
シャツのボタンを留めながら、チャンネルを変える。
黒流村からの中継だ。朝の八時に、過疎村で人だかりが出来ている。ワイドショーのリポーターの他は、全員おたくだ。
大量のオカルトおたくが村道を撮影している。
『見て下さい、道路上に赤い血のような物で字が書かれています。結構大きいです。一メートル四方でしょうか。字は"黒"と書いてあります』
村の入り口付近に、謎の血文字が現れたと騒いでいる。
地面から染み出たように滲んだ字。
黒の他、村に近い場所にもう一つ、地の字。さらに奥の方に、井の字も見える。
『黒地井って、何でしょうか。ミステリーサークルならぬ、ミステリー文字列です。山の方に向かい、点々と続いています。昨日まではこんな物、なかったんですが』
「怪奇! 黒流村に謎の血文字! って。まあ血ではないだろう。ペンキでもなさそうだが」
身支度をしながら、地味にテロップに文句をつける。
中継は黒流村から、別の場所に切り替わる。
『県中央でも血文字が見つかりました。見て下さい、雨と血。こちらはこの二文字です』
今度はビル群の中、甲府署前の車道上だ。
二車線の車道一杯に、赤い字が並んでいる。
上り車線には雨、下り車線には血。やはり書いたと言うより、どこからともなく滲み出たような、そんな字だ。
『車が通るので見にくいですが、確かに文字が読み取れます』
道路の両側からガードレールに張り着いて、おたくたちが写真を撮っている。百人以上いそうだ。揃って朝からコスプレしている。包帯を巻いた綾波レイが五、六人、混ざっている。
『昨日までは、こんな字は影も形も・・・。えっ、何ですか、この曲は? えっ!? ええっ!?』
中継先で、地鳴りのように音楽が鳴っている。一斉に鳴り響く大量の着メロに、リポーターが狼狽する。
サスペリア、オペラ座の怪人、ウルトラQのテーマ。オーメン、ジェイソン、エクソシスト。十三日の金曜日、ペットセメタリー、ポルターガイスト、スクリーム。
「足狩り村のエンディングに、ゴジラまであるな。しかし、ゴジラはホラーか?」
漣も色々聞き分けている。
甲府では、百人超のおたくがうつむいてメールを見る。
読み終わると、彼らは一斉に北上を始めた。
『あ、ちょっと君たち、どこ行くの?』
最後尾のおたくを掴まえて、リポーターが質問する。
『やだべんじょ。教えないー』
なまはげスタイルのおたくは、そう言うと後も見ずに走り去った。
魔窟では、漣も携帯を見ている。
「こっちにもメールだ。紺からだよ。うわっ、あいつ、画像まで送って来やがった」
「メールって何?」
私の質門に、これは人には見せられないなと言って、背を向ける。
無理に覗くと、へら田発見の知らせだった。
黒流山の廃村の井戸に浮かんでいたらしい。たった今、おたくが突撃して見つけたそうだ。
ゴールデンウィークに遊び倒すからと、張り切ってウェーブをかけた髪が泥にまみれて、見る影もない。顔も気味悪くふやけている。
そのくすんだ顔には見覚えがあった。この前うちに来て、窓から魔窟を覗いていた。あのヘナヘナした馬鹿幽霊が、へら田のなれの果てだった。
「時間だ。もう行かないと」
バタバタと漣が出て行く。乱層雲に覆われて、今にも降りそうな空の下を、仕事に出かける。
私も外に行きたかった。電波浴はもう充分だ。もっとましな何かが必要だった。
冷たい雨の降り出した午後、スピンドルVファンミーティングを見に行った。
歩いて行ける近所のライブハウスに、豆生田渡と明が来ている。今頃埼玉でも、本庄と若林がファンの集いを開いている。
会場に忍び込むと、質疑応答の最中だった。
「二人とも料理が得意だそうですね。自慢レシピを教えて下さい」
司会役のファンクラブ会長が、ファンからの質問を読んでいる。
「俺の料理はちょっとスペシャル過ぎるんで、参考になるかな。しかし、せっかくだから教えとくか。最近開発した、海老、カニ、それにクリオネまで入った海鮮スープの作り方な。超難しいからよく聞けよ。まず、カップに、昆布茶と乾燥わかめとお湯を入れる。そこにおっとっとを適量投入。これで、なんちゃって海鮮スープの出来上がりだ」
「それは海鮮とは言えませんね。おっとっとって、ほぼジャガイモなんですよ」
「だからなんちゃって料理だと言っている。ちなみに、おっとっとをスープカレーに浮かべると、雰囲気シーフードカレーな」
「・・・で、美味しいんですか、そのクリオネスープは」
「それはバッチリ。見た目も、絵になるとかって褒められた」
「へえ、絵になるんだ。その変な料理、豆生田くんは実際に目にした事は?」
「スープはないです。過去に、海鮮天丼を食べた事はあります」
「えっ、それは豪華ですね」
「そう・・・かな。駄菓子のイカフライと玉ねぎを卵でとじた、なんちゃって天丼でしたよ?」
「うわっ、また駄菓子」
「君ねえ、イカフライを馬鹿にしちゃいかんよ。俺なんか震災の後、しばらくはお菓子食って暮らしたもんだぜ」
バルセロナー! 客席から野次が飛ぶ。
「今のはベルサイユの間違いか?」
すかさず明が突っ込む。
それだ、間違えた。同じ声で返答がある。
「まあこっちは庶民なんで、アントワネットよりは大分、お手頃なのを食ってたけどな」
「えーと、じゃあ豆生田くんは? 何か変な料理を発明しましたか?」
「何で変な料理に限定するんですか。僕は普通の料理しか・・・。最近は、パスタを生地から作るのがマイブームですかね」
食べたーいと客席から声がかかる。
「よし、じゃあ次のファンミは豆生田製麺地獄にするか。百人分のパスタをこのお坊ちゃまが一人で作ると。で、俺がなんちゃってソースを用意してみんなに食わしてやろう」
明の発言に、ブーイングが巻き起こる。
なんちゃってソースって何? やめて! 変な料理やめてー!
「じゃあ、あれか。デザートに、なんちゃってこんにゃくゼリーを・・・。うるさいな、何がいらないだ。次回はみんな、俺の料理で底なしのアホにしてやる!」
楽しそうに観客と会話する明の隣で、豆生田渡の視線は泳ぐ。
背の高い彼はステージ映えするが、相当な恥ずかしがり屋だ。大勢の女子の注目を浴びて、目のやり場に困っている。
客席の片隅に、優貴くんも来ていた。一人で静かに座っている。
ノーメイクでエクステも外した彼を、誰も呪われたデスメタルとは思わない。
声はかけずに、空いている席に座った。
質問コーナーの後で、リクエストの多い曲を二人が演奏する。
"アホの嵐"と"蛸は無慈悲な海の女王"、それに"名月河鹿温泉"。
アホっぽい曲を連続して、ファンミは終りかと思ったら、最後に全員でフォークダンスを始めるのだった。
客席の椅子を片づけ始めたところで危険に気づき、私は逃げた。
えー、何それー! もう大学生なのに! 社会人なのに! 何でフォークダンスなのー!?
ドアの向こうから、今日一番のブーイングが聞こえる。
「何でって。俺らのファンミはとことんアホさを追求すると、あれほど言っておいたがな。ブーブー言わずに男子はそっちに一列に並んで。そこで突っ立ってる豆生田渡にファンクラブ会長、君らもだ」
「ええっ、俺も!?」
司会を終えて、去ろうとしていた会長が驚く。
「そう、君も。男子は少ないんだから当然だ。嫌がる奴は、今からうちの鬼瓦のようなスタッフが、片っ端から担ぎ上げて運んでやるから、覚悟しろ!」
体力重視で選んだスタッフが会場に放たれた。
悲鳴を上げて逃げ惑うファン。それを呆然と見ている豆生田渡。
「すまない、みんな・・・。企画会議のじゃんけんで、うっかり負けたばかりに」
沈痛な面持ちでギターを置くと、ステージを下りる。がっくりと肩を落とし、男子の列に加わった。
両隣のファンに、じゃんけんは時の運さ、気にするなと慰められている。
僕はそのダンスは全く知らない。必死に訴える優貴くんも、適当でいいからと並ばされた。
「豆生田はまじでこの企画嫌がってたんだよなー。俺も本当なら高速盆踊りがよかったが、季節外れなんでこっちにした。みんな輪になってもまだブーブー言ってるな。悪いな、じゃんけんでお坊ちゃまが勝てばビンゴ大会だったんだが、俺が勝っちゃったんで、行くぜ! オクラホマミキサー!」
やだー、ビンゴがいいー! ビンゴにしてー!
直前まで文句を言っていた女子たちも、曲が始まると笑いながら踊り出す。パートナーチェンジの度に、明や豆生田や会長と握手して楽しそうだ。
ガラス戸越しに少しだけダンスを眺めて、会場を後にした。外はもうすっかり暗くなっている。雨脚が強まる中を、駅まで走った。
今夜もいっぷく亭に寄り、隅の席を占領した。
夏さんは、新情報を色々持っていた。八時にお店を閉めると、今日のオカルトニュースを放出した。
あまりの気持ち悪さに、心の中でなつメロを歌っていると、すぐに夏さんに気づかれた。
「お前さん、何をふにゃふにゃ言っとるんじゃ?」
「これ、歌だよ。でも話はちゃんと聞いてるよ」
「しかし、最近の玩具は侮れんのう。おたくどもが例の化け物カードを手に山を歩けば、出るわ出るわ、死体の山じゃ」
「櫻井さんは?」
「あの人らは、まだ見つからん」
「おたく・・・。何百人もいるのに、何やってんだろう」
「そうは言っても、へら田にコンビニの馬鹿息子、派手に燃やした交番の中で首吊りよった竹脇村の駐在、ボケ教の信者らしいのが六、七人か。今日だけで結構見つけよったで」
「竹脇村の駐在? 植田じゃなくて?」
「植田は生きとる。死んだのは、善人面してた方の駐在よ。あれも結局、へら田殺しに関係してたかも知れんな。調べもせんと即自殺にされとるし、口封じとしか思えん。紗依ちゃんが駐在怪しいって騒いだからな。あの子は一言も竹脇村の駐在とは言わんやったのに、勝手に浮き足立って、得意の内ゲバを始めたようや。しかし何だな、あの集団は問題が起きる度、誰かしら始末しないと気が済まんのかね。しかも自殺なら首吊って終りやろが、吊った上に放火までしとる。あれで自殺が通るんやから、山梨は怖いとこじゃ。いや、東京も同じかも知れんが」
竹脇村の交番前で紗依ちゃんと別れたのを最後に、消えたへら田。
駐在に何の用があったのか。紗依ちゃんが聞いても答えなかったと言う。
言えないからには、ろくでもない用だろう。
あの駐在は、黒流山でたっちゃんを見た時、舌打ちをしていた。植田の父が、赤ちゃんの上に石を落とそうとした時も、黙って見ていた。
ほう、こうやって埋まってたのか。
そう言って植田の父は磐の石を持ち上げた。たっちゃんの上に持って行った。手が滑った風を装い、真上から石を落とした。
駐在は止めようとしなかった。無表情でただ見ていた。他の警官も同様だった。ハンターだけが血相を変えて、赤ちゃんを引ったくった。
彼がいなければ、今頃、あの子の顔は潰れていたろう。
あんた何するんや!
激怒するハンターを、駐在は宥めた。
まあまあ、人間だから手が滑る事もある。
ハンターは引かなかった。
何が人間だからや。あんたらはどうも信用出来ん。こうなったら、自分がこの子を抱いて山を降りる。
警官たちは、それはこちらの仕事だと断った。事件性がある場合、遺体は重要な証拠だからと。
何が重要や。今、その証拠を潰されそうになったのに、まあまあで済ましたやろ。仕事と言うが、あんたら一体、今の今まで何をしてた。この子はどう見たって、櫻井さんとこの子やろ。一年前に四次元に誘拐された、櫻井一家の息子やろ。散々ニュースでやっとったから、顔見りゃ誰でも分かる事や。あんたらは誘拐やない、一家が勝手に失踪したんやって言ってたが、これはもう、明らかに失踪ではないわな。
赤ちゃんを抱いたまま、ハンターは抗議した。
駐在は面倒そうに返答した。
気持ちは分かるが、あの会見は警視庁の管轄で、山梨県警とは無関係だ。しかし、こうなった以上は、当然詳しく捜査するから。その子は、こっちで預かる。
駐在に赤ちゃんを取り上げられると、ハンターは言った。
そんなら自分が最後尾で山を降りる。その際、わざとだろうが偶然だろうが、この子を落としでもしたら、その時は背後からあんたらをぶん殴る。容赦なく杖で後頭部をぶん殴るから、そのつもりで。
そんな事言うもんじゃない。
ハンターをたしなめながら、駐在は植田の父と目配せした。
二人とも、ライブ映像が流れている事を分かっていないようだった。たっちゃんが身動きもしないせいで、映像は静止画だと思っていた。
凪野んはビデオを回収しながらブツブツ文句を言い続けた。
一体何なんや、こいつらは。この子が出て来て迷惑顔って、どう言うこっちゃ。
背後で睨む駐在たちの映像とともに、その台詞も配信された。
そして帰り道、ハンターは崖から突き落とされた。
へら田も駐在のように、小市民を装いながら悪事に加担していたのだろうか。
学校の帰りに交番に寄ったのは、可奈ちゃんが白装束で中学に現れた日の夜だ。
へら田は駐在に、可奈ちゃんが動いた事を報告に行った。二人とも四次元の使い走りだった。そう考えると妙に辻褄が合う。
へら田も本当にヘタレなら、紗依ちゃんにうるさく言われて少しは譲歩するはずではないか。
それがあの子の言い分は全て無視した。
紗依ちゃんの口うるささは半端ではない。植田父子と吉良を相手に、一人で突っかかって行った。
冥王星でもそうだった。上背から来る威圧感に加え、どこの元ヤンかと思うような衣装の探偵にも臆さなかった。相手が誰でも、納得するまで黙らない性格だ。
その紗依ちゃんに、可奈ちゃんの力になってくれと何度言われても、スルーした。ごめーん、忘れちゃったと笑っていた。
ヘタレに出来る事だろうか。
一つ思い出すと、今まで押さえ込んでいた不快な記憶が、一気に蘇った。
櫻井一家が消えた時に、犯人は四次元だと誰もが噂した。信者が四次元に貢ぐのを阻止した、その報復だろうと。
都内の中学生の信者が、両親の貯金を持って出家しようとしていた。
生徒の母親は、三者面談で息子が騙されていると担任に訴えた。
担任の櫻井さんは、四次元は詐欺団体だと知っていた。櫻井さんだけでなく、世間の大方はこの教団を怪しんでいた。
けれど、カモられた生徒を、叱りはしなかった。
この生徒は、嘘つきで切れやすいため、避けられていた。校内に友人がいなかった。孤独でいるより、詐欺集団の一員になる道を選んだのだと判断した。
子供が親元を離れるには、親の承諾が必要だからと軽く諭した。
生徒はその場で親に迫った。
じゃあ今すぐ承諾しろや。
親は怒鳴った。誰がするか、この馬鹿息子。メタボ教祖の食い残しを買うなんて、お前は豚か。
生徒は椅子を振り上げ暴れ出した。親も興奮して怒鳴り返した。隣のクラスの担任が様子を見に来るほどだった。
櫻井さんが椅子を取り上げると、生徒の母は喚いた。
こんな馬鹿は、腐れ宗教のタコ部屋へ行って、死ぬまで石を磨けばいいんだ。嫌になって逃げ帰っても、知るもんか。
それを聞くと、生徒は勝ち誇った。
聞いたか、今の。承諾だよ。親から承諾出た。まじ出家だ。俺は生き残るよ。四次元の信者だけが、方舟に乗れるんだ。太陽系の破滅は近い。あんたらみんな、あぼーんなのさ。
ほくそ笑む信者。櫻井さんは信者の母に訊ねた。
食い残しって、何です?
教祖の残飯ですよ。干飯っぽい・・・。あれを何粒か、五千円で買って喜んでんだよ、この馬鹿は。
それは衛生上、問題じゃないのかな・・・。
食う訳じゃない、持っとくんだよ。
馬鹿息子! 持ってどうする、食えもしない米なんか持ってどうする。
そもそも、そう長くもたないでしょう。隣の担任に言われて、信者はむっとした。
だから特殊パウチしてあんだよ。
しかし、分からないな。食べ残しに何の意味が?
持ってるとステージが上がんだよ。修行が進むの。
残飯で?
残飯残飯言うなよ。教祖の波動が残ってるから腐らないし、すんげーパワーがあんだよ。
そんな干飯なら見てみたい。
そう言われて、得意気に生徒が出した米は、カビていた。
パウチと言っても、実際はホチキスで留めただけのビニール袋だった。
何なのこれは。腐ってんじゃない、この腐れ頓馬!
そうやってケチつけるから、波動が消えたんだろ。さっきまでこんなじゃなかったぞ。
いや、そこまで急にカビは生えない、小分けする時に、すでに菌が入ってたんだろう。
また暴れそうな気配を察して、隣の担任が割って入る。
教団施設は世界一クリーンなんだよ、菌なんてねえよ。
そうだとしても、これを免罪符みたいに売るのは問題だな。
やっぱりあんた、騙されたんだよ。本当、馬鹿だね。
干飯九粒で五千円か・・・。仮に袋代が百円としても、百八十円くらいが妥当な値段と思うがね。
隣の担任の呟きに、信者の母が飛びついた。
やっぱり! 思った通り、詐欺だわ、これ。訴えたら勝てますかね?
勝てるかも知れませんが、裁判より脱会が先でしょう。
ふざけんな、誰が脱会すんだよ。しねえよ。今すぐ出家だよ。さっき承諾出たろ。
あれは承諾じゃなくて、売り言葉だよ。君はまだ義務教育中だから、どっちにしても出家は無理だ。
出家を否定されると、信者の顔色が赤黒く変わった。
しかし柔道部の顧問をしている櫻井さんには、文句は言わなかった。ただ黙って睨んでいた。嫌な目つきだった。あんな嫌な目つきは、今まで見た事がない。
櫻井一家が消えた後で、隣のクラス担任が水無瀬氏にそう言った。
学生時代の知人で、今は占い師の水無瀬氏に会いに来て、長々と話し込んだ。
どうして警察は失踪扱いするんだろうな。本人、春休みは実家に里帰りする気だったんだぜ。子供がそろそろ一歳だから、江ノ電に乗せてやるんだって、嬉しそうに。子供が電車好きだからって。周りの同僚にも、土産はレーズンサンドと鳩サブレ、どっちがいいか聞いてたし。それがどうして失踪するんだ?
「お前さん、何を考えとる? 鬼みたいな顔して」
夏さんの声が、私を現実に引き戻す。
「色々思い出してた。・・・櫻井さんの生徒だった信者って、今どうしてるの?」
「昼のワイドショーに出てたで。顔ぼかして声変えて、俺は事件には関係ないって自己弁護や。もう信者は辞めたのに、周りが白い目で見るとか何とか。親の店を手伝いもせんと、被害者面で高校に通っとるわ」
「ワイドショーなんて、よく見てられたね。うちじゃもう、我慢も限界。漣だけは、朝ちょっと見てたけど」
「そりゃあ、真面目に見るからあかんのよ。あんな気持ち悪いもんを律儀に見てたら、こっちの腹まで腐りよる。しかしあれよ。今日は時々、紺やバンビが映ってたからな。主にそれを見てたんで、楽勝や」
「紺ちゃん、何してた?」
「黒流村を走り回っとった。しかしあの子ら、揃って妙な格好しよったな。何なんぞ、あれは」
「魔除け柄のコート? 怪談部のユニフォームだよ」
「服もそうじゃが、顔も変やった。アイパッチやらフェイスペイントやら」
「テレビに晒したくないんだよ。でも、四次元には近づかなかったんだ」
「いやいや、向こうから来よったで。女の信者じゃ。分かりやすいのう。女を使って弱者の演技。あわよくば花畑を味方につける計画やろうが、いかんせん見た目があれでは」
「味方って?」
「この期に及んで、まだ工作しとるんよ。甲府に足を伸ばしたバンビが二人、狙われとった」
夏さんは録画を見せてくれた。
「真面目に見ちゃいかんよ。軽く見るんやで。リポーターの後ろに、バンビがおるやろ」
ビルの谷間を、怪談研究部の少年二人が歩いている。
前方から接近する、だらっとした白い信者服の信者数人。
信者は突然、バンビに向かって走り出す。
「な、笑える顔面レベルやろ。全体的に貞子に似とるし。安いホラーや」
貞子の集団は、助けて助けてと叫びながらバンビに迫る。
絡まれる直前に、二人は逆方向にダッシュした。
走り込みの成果を存分に発揮している。背中にそれぞれ 悪霊退散、蘇民将来と大書された魔除けコートを翻し、一瞬でフレームから消えて行った。
貞子はめげずに、路地から出て来た一人のおたくに絡みつく。
おたくを取り囲み、助けて助けてと喚いている。
『あの信者は何をやってるんでしょうね』
声を拾おうと、リポーターが貞子に近づく。
『私たち、出家僧なんですけど、キャー、来たわ!』
貞子たちは、おたくの背後に潜り込む。
聞くだけで鬱になりそうな暗い曲をかけながら、街宣車がやって来る。
おたくたちの前で駐車すると、スモークガラスを下げ、拡声器で叫んだ。
『見つけたぞ、この残飯喰らいの虫けらども! お前ら四次元信者は、日本の面汚しだ! 霊峰富士の麓から、今すぐ出て行け!』
『キャー!』
貞子の集団は、一斉に悲鳴を上げる。
『昨日からあんな車が沢山来て、修行の邪魔をするんです。どこへ行っても、ああやって脅すんです。私たち、どうしていいのか・・・』
貞子を無視して、おたくは街宣車にビデオを向ける。
『観光客、こっちを撮るんじゃない! 天罰が下るぞ! お前たちもだ、四次元信者!』
『キャー、怖いっ。助けてー!』
貞子に囲まれながら、おたくは首をかしげる。
『何だろあれ。確か右翼は、二十年前に絶滅したって聞いたけど・・・』
『お前ら四次元は、人じゃない。回虫だ。いい加減、人類の真似は止めろー! 今すぐ異次元に帰れー!』
『キャー、怖いっ』
『私たち、どうすれば・・・』
『警察に相談すればヨロ』
あっさりとおたくは言う。
『無駄です。警察は、四次元を迫害してます。警察は敵なんです!』
『じゃあ、うちに帰れば?』
『修行を放り出して帰るなんて、そんな』
『私たちが信心を捨てると、大災害が起こるんです』
『教団が犯罪集団扱いされて、信者が散り散りになった一年前にも、地震と津波と原発事故が。バチが当たったんです!』
『いや、原発は菅のせいだって』
『違います! 私たちは選ばれた神の子なんです!』
『教団には使命があるんです! どうか世界のために、私たちを助けて下さい!』
『助けるったって、あんたね。単なるリーマンにそんな事言ったって』
『そのリーマンが大事なんです。四次元信者は世界中の平和のため、祈りを捧げるピュアな心の持ち主だって、周りの人たちに教えて下さい』
『それだけでいいんです!』
『ふーん、ピュアねえ・・・。正直、お雪さん以外の存在に、ピュアとか言われたくないんだよねー。大体さー、残飯でレベルアップって何なのよ。ハエじゃあるまいし、まじ残飯女に、ピュアとか言って欲しくないんだけど』
意外な方向から、彼は貞子を斬り捨てた。迷惑至極と言わんばかりの冷たい態度で、拒絶モードに移行した。
「お雪さんって、アニメのキャラか? 夜叉ヶ池か? 分からんけど、笑えるな。おたくも使いようや」
夏さんは楽しそうだ。しかし、おたくの存在価値って何なのか。
おたくなら、おたくの生きる場所を死守するべきではないのか。
日本が四次元みたいなエイリアンに侵食されたら、アニメもゲームも、あっと言う間に衰退するのに。
今がおたく文化最大の危機だって、彼らは分かっているのだろうか。
「チャットルームに、玉を持った子たちが集まってるわよ!」
アリシアが荷物を抱えて、お店に入って来た。
「玉は分かるが、その大荷物は何なんぞ」
「お茶道具一式だそうだ」
続いて探偵もやって来る。
「妖精のお菓子で元気出して、ログを読んで貰うの。夏さん、キッチン借りていい?」
「ああいいよ。しかし航平はまた琵琶法師の役かね」
「何故かそう言う事になっていた。しかしどうせなら、超汚染カルトついに滅ぶの巻でも読みたいよな」
探偵は適当な場所に座ると、携帯を取り出す。お茶の用意に忙しいアリシアに、声をかける。
「急がなくても、明はまだ来てない。ファン同士で話してるよ」
「分かってるけど、ファンの子の話も気になるし、今夜は何か起きそうな気がして落ち着かないの」
横から携帯を覗くと、ロムの数が昨日の倍だ。見慣れないハンドルも増えている。
フリータ> で、今日山梨に行った人は誰ですか。正直に言いなさい
赤影> 俺行った。血文字と美人教師の井戸と犬神塚見た
琵琶牧々> 犬神塚って何だ?
赤影> オタクが発掘した黒ラブの墓だよ。飼い主の家の庭にある。そこ、空き家なのに、一晩中犬の鳴き声が聞こえたって、すでにオカルトスポットになってた
きなこ餅> 早太郎のお墓? アタシも昼頃行ったら、人が集まってた。夜になるとあの庭で犬が鳴くとか、人の声がするとかって騒いでたよ
ISORA> 人の声って?
きなこ餅> うおーっとか、叫び声みたいな。あと、脳膜様だー、さんまコロコロとか、よく分からんけどそんなの
赤影> そう言えば、黒流村では血文字の通り遺体が見つかったよな。まず黒流山でたっちゃん、それから地蔵石の下からコンビニの息子、井戸の中から美人教師。甲府の血文字はどうなったんだ?
オニコ> もう出たよ。身元不明の仏さんがゴロゴロと。
琵琶牧々> 何だって!?
フリータ> kwsk!
オニコ> イルカ持った百人のおたくが見つけたって。血文字、雨と血だよね。雨降峠の崖下の事故車から、体中変な虫にたかられた変死体が1体。あと、血沼平からごちゃごちゃと何体分もの白骨が・・・
琵琶牧々> 虫!? 体中に虫!?
オニコ> うん、カーブでも何でもない直線のとこで転落してたんだけど、ドライバーの顔中に割れたフロトガラスが突き刺さって、血でも吸いに来たのか、黒い虫が大量にたかって、人相も判然としないとか
琵琶牧々> 黒い虫つーとオサムシ的な?
オニコ> いや、むしろヒル的な
ISORA> 待て! 虫男にはそれ以上触れるな。キモ過ぎてトラウマレベルだ。画像漁ったりすると、死ぬほど後悔すんぞ>ALL
赤影> 血沼平って古戦場だろ? 昔の足軽の骨じゃないのか?
オニコ> それが新しいみたいだよ。歯の治療跡とかあるし。四次元のバッヂも出たって
きなこ餅> だったら、いつもの内ゲバかね?
フリータ> いつものって、どゆ事?
きなこ餅> 教団内で、しょっちゅう殺しあってんだよ。施設から逃げた信者を鉄パイプで滅多打ちして引きずり回したり、日常茶飯事。二ュースにならないから、よその人は知らないんだね
甲州人> うちの親戚も、夜中に突然、何か食わせろって脱走信者に押しかけられてびびったって言ってたわ
琵琶牧々> こえー。そんな宗教があるんだ
きなこ餅> いやあれ、宗教じゃないよ。役所脅して認可は取ったけど、単なるブラック企業。納税してないのが超ムカつく#
フリータ> オラもどうにか、納税しないですむように出来んかのう・・・(ボソリ
琵琶牧々> イミフODA廃止すると、減税見込めるらしいぜ・・・(ボソリ
ここで探偵は一息入れた。
アリシアお勧めのお菓子に目を移す。
「いつものマフィンかと思ったら、やけに可愛い物持って来たんだな」
「私だって、そういつもマフィンばかりは食べないわ」
彼女が持って来たのはクッキーだった。花形のクッキーに、ミモザとすみれの花の砂糖漬けが乗っている。
「子供の頃は、このお花の砂糖漬けが世界で一番可愛くて、妖精の食べ物だと思ってたの。日本に来るまではね。でも今は、これが一番」
アリシアは細いチョーカーの正面に並んだ、飾りを指す。ピンクと白と緑の小さな丸い石。
「その色合いは、三色団子かね?」
「そう。和菓子以上に可愛い食べ物は、世界中探してもないと思うわ。特にこの一列に並んだ三色の可愛らしさと言ったら。しかも可愛いだけじゃなくて、一つの静物画であり、風景画でもあり、自然から学んだ哲学で、古代からのメッセージでもあるのよ。そんな話抜きにしても綺麗で、その上食べられて栄養があるのよ。そんな物が世界のどこにあるの? どんなに探したって、日本にしかないわ。探したけどなかったもの。あんまり可愛いから、アクセサリーにしちゃったの」
「わざわざ石を買って?」
「これ、ガラスよ。出雲のガラス職人の手作り。とんぼ玉の専門店なのに、こんな小さいのも作ってくれるの」
「ケルトさんの日本大好き病が、また始まったな」
「そうよ。前から思ってたんだけど、ここの豆のタルトも可愛いのよね。宝石箱みたい。ケーキにも、柚子の皮を葉っぱの形にして飾ってるし。季節ごとに葉っぱの形を変えてるし。どうしてあんなに可愛い仕事をするの? 誰が最初に考えたの? プロの料理人? 家庭の主婦?」
「誰やろな。そんなもん、考えた事もないわ」
「それも外国だったら、強欲な第三者が何人も、俺が俺が、俺が考えたって主張するわ。下手すると、訴訟や殺人事件が起きるわよ。可愛い話が、すぐに血腥い話に変わっちゃうわ」
「ふむ。それはともかく、航平が何ぞ言いた気だぞ」
「あー、そろそろ続き読まないと、ログが流れそうなんだが・・・」
「えっ、早く読んで!」
オニコ> 樹海に行った人いるー?
きなこ餅> 行ったけど、何もなかった。聞いた話では、オタクが二、三体仏さん見つけたみたいだけど、四次元と関係あるかは不明
オニコ> 樹海、蝶いた?
きなこ餅> どうだろ。特に見なかったな。何で?>オニコ
オニコ> 黒流村にいた蝶の大群、調べたら火取蛾だったんよ。チャイロヒトリ目、ヒトリ科、別名は葬式蛾。動物の死体に群がる習性があるって
きなこ餅> キモいっ>死体に群がる
オニコ> 死体があっても樹海には葬式蛾、いなかったんだね
きなこ餅> うん、いなかった・・・;
甲州人> いた! 血沼平には大量にいたぞ!
赤影> 甲州人、血沼平行ってたのか?
甲州人> おう、スコップ持参でな。イルカかざして、反応あるとこ掘った掘った。一時はまじで、前が見えんほど蛾が舞ってたよ。夕方にはいなくなったが
琵琶牧々> で、見つけたのか? 櫻井さんか幽鬼か鬼畜ナースは
甲州人> いやー。錆びた刀しか・・・。でも隣で掘ってたヘタリアが頭蓋骨見つけて、腰抜かしてアワアワ言ってた。相当古い骨だったけど
きなこ餅> 刀、どしたん? 今持ってる?
甲州人> 埋め戻したよ。血沼平に落ちてる物は、持って帰ると呪われるからな>地元の伝説
ISORA> 拾って帰ると、発狂するか死ぬんだよね。埋め戻して正解だよ
琵琶牧々> 骨は持ち帰って大丈夫なのか?
甲州人> どうやろね。どっちにしろ呪われるのは警察だろ
■明、参上!
明> 今北。そんじゃ点呼行くぜ! 今日山梨に行った奴!
赤影> 地元だけど行ったー!
オニコ> 黒流山の廃村の井戸見たよ
きなこ餅> はーい。樹海見て来た。鬼畜ナースいなかった
琵琶牧々> 俺とフリータ以外は行ったみたいだよ
明> 行方不明になった奴はいないな? 行方不明者ー!
フリータ> 行方不明はスノーホワイトだけだよ・・・
ISORA> 忘れるとこだった! これ言おうと思ってたんだ
明> what's?>ISORA
ISORA> 今日の夕方、頭悪そな集団が黒流村に押しかけて、犬神塚を暴いたのさ
明> 暴いたって言うと?
ISORA> 勝手に墓石どかして、掘り返したんだよ。夜に鳴き声がしたからって。俺らが止めに入った時は、もう手遅れ。で、黒ラブの墓から何が出て来たと思う?
きなこ餅> 早太郎の頭じゃないの?
ISORA> 頭も出たけど、一緒に首輪も出たんだよ。勾玉みたいな赤い石がはめ込まれた、黒い皮のやつ。野音で幽鬼がつけてたのに似てた。てか同じに見えた。でも警官の庭では、あの犬、首輪してなかったじゃん。これって、どういう事だ?
琵琶牧々> 幽鬼って、実は宇宙人じゃなくて、殺された犬の亡霊だったのか?
赤影> だとすると、スノーホワイトの他のメンバーって・・・;
きなこ餅> 村で殺された他の犬?
フリータ> そう言えば三人ともごっつい首輪してたよな。しかもギタリストなんてリハの時、デカデカとバカスって書いたTシャツ着てたぞ
ISORA> バカスって切りつけられて、殺されたビーグルがいたよな?
甲州人> 自分らは殺されてあの辺に埋められたって、言いに来たんか? 山梨を指差して
赤影> ほんなら、野音に現れたあの大量の人魂は何だ?
オニコ> 他にも殺された犬がいるんじゃない? 地元の子がそんな話してたじゃん。村中の犬が殺されたって
ボボンハウス> 何バカ話してんだよ犬がベースなんか引くかボケ
明> 昔、猫の怨念とか言う小噺があったな
赤影> あった。今、猫は全く関係ないけどな
ボボンハウス> 犬の亡霊より、俺はスピンドルVの明って奴が気になる
甲州人> あのな、関係ないと思って黙ってたが、実は今日血沼平で、人骨に混じって大量に犬の骨が出たんだぜ
フリータ> ええっ!?
ボボンハウス> あいつ慶応の軽音部にいたとか言ってるけど調べたら去年卒業の軽音部に明なんて名前の奴いねえんだよ。馬鹿ばやしはいたけどな
ISORA> 明のストーカーが紛れ込んでるのか? スルーでOK?
フリータ> OK。で、犬の骨って何だ? また極悪ブリーダーかペット葬式業者の悪行か?
甲州人> それが気色い話でさ。その大量の犬、みんな喰われたみたいなんだよ
きなこ餅> 喰われたって、クマとかに?
甲州人> いや、多分、人に。出て来た骨見て、警察が言ってた
きなこ餅> でも犬って食べないよね?
甲州人> 日本では喰わないけどな
ボボンハウス> いつまでバカ話してんだよこのメンヘラ集団早く解散しろ
オニコ> じゃあ、野音に現れた人魂って、その喰われた犬の魂かもね
甲州人> かもな。とにかくすげー大量でさ、何十頭も出たからな
ボボンハウス> そんな犬より明って奴がどこの犬の骨だって話だよ
「変なのが沸いとるな。見事に無視されて、哀れなもんや」
お茶を手に、夏さんが呟く。
このクッキーには、紅茶より緑茶が合うとアリシアは力説していた。確かにその通りだった。
「明のサイトだし、しつこいと思えば放り出すだろ」
「でも、この間まで通ってた大学に、どうして名前がないの?」
「そりゃあ、明は渾名やから。本名の日開亮一で調べんとな」
「ヒアキリョウイチ? 千葉の子って、そんな名前だったの?」
「千葉明と思ってたかね?」
「不動明かと思ってたわ。時々そう呼ばれてるから」
「不動明王な。だからそれは本庄がつけた渾名や」
「しかし、今夜は何か起きそうだって言ってたが、ネット上で今、新たな怪談が出来上がった訳だ」
「そうやな、山梨から早太郎の怨念が彷徨い出て、野音で歌ったとはな」
「そして現れた人魂は、殺された犬たちの魂だった、と。上手く纏めたもんだ」
「水無瀬氏の予言も当たったわね。謎のデスメタルバンドは、一度は宇宙へ消えたけど、はやぶさみたいに帰って来たわ」
「何やら一件落着の雰囲気だが、チャットはまだ続いてるぞ」
「えっ、早く読んで」
フリータ> で、君らは明日も山梨探検隊か?
甲州人> 休みなのに、行かんでどうする。大体、櫻井さんがまだ見つかってない
ボボンハウス> その人は山梨にいるとは限らない。鳥取で目撃情報あったしどこかで遊んでるかも
フリータ> 俺も行くかな。明日はバイトないから
オニコ> じゃあ、オフ会のメーリングリストに入る? 新情報出たら、すぐ連絡来るよ
フリータ> そんなのがあるのか。入っとこうかな
ISORA> あ、それ俺も入りたい
ボボンハウス> 俺もだ
オニコ> いちお、パスポートの国民ナンバー入力しないと入れないけど、平気?
ISORA> 全然OK
オニコ> フリータとボボンハウスはどうする?
■ボボンハウスは、全力で逃亡しますた!
甲州人> あっ、逃げやがった!
琵琶牧々> パスポート持ってねえのか?
フリータ> それより国民ナンバーって何だ?>オニコ
オニコ> 僕も知らない。適当言って反応見ただけ
きなこ餅> 身バレが怖いみたいだね。>ヘタレストーカー
赤影> ストーカーつうか、四次元のネット工作員じゃね? ログ見てたら、櫻井さんと犬の話に妙に絡んで妨害してたぞ
オニコ> オカルト好きでもなさそうだし、怪しいな。あいつの鯖調べたれ>明
明> もうやった。山梨からのアクセスだった
甲州人> ほんじゃ冗談じゃなく小作員か。県民で櫻井さんを悪く言うのって、四次元だけだし。信じられるか? あいつら、櫻井一家のせいで誘拐犯扱いされて迷惑だって、行方不明の一家を訴えようとしたんだぜ。バカ杉だろ
きなこ餅> 四次元の弁護士、そんな裁判無理だってノイローゼになって自殺したんだよね。飲食店の貯水槽に飛び込んで
フリータ> 死体水事件か!? あれって、そう言う事だったのか。知らんかった
甲州人> 頼むからその話は止めてくれ。俺、その水飲まされたかも・・・
琵琶牧々> じゃ、巻き戻すけど、子供が殺されてんのに、遊びほうける親がどこにいるって話だよな>ボケ工作員
ISORA> 今日もさ、県内どこ行っても信者がいて、何かっつーと助けて助けてって絡んで来たけど、あれ何の小芝居だ?
赤影> 自分らは被害者ですって言いたいんだろ
きなこ餅> 被害者じゃなくて、基地だよね。だって、死人の真似とかして大はしゃぎしてんだよ
琵琶牧々> はっ? 死人の真似!?
きなこ餅> そ。前に、教団施設があんまりうるさいんで、見に行ったんよ。したら額に三角の白布つけた信者が、死んだ信者の臨終の真似して、のた打ち回ってた。慰霊の舞いとか言ってたけど、あれ、絶対死人をバカにしてるよ。で、信者はその馬鹿踊り見て笑ってるし。キティとしか言いようがない
ISORA> 詳しいな。きなこ
きなこ餅> 元々甲府民だから。うちの爺ちゃん、心臓悪いのに、四次元がしょっちゅう騒ぎ起こすから、とても住んでられなくて去年引っ越した
フリータ> 何か俺まじでムカついてきた。ぜってえ明日、櫻井さん見つけてやる!
チャットを見ていたら、私も動きたくなった。その気持ちのまま風に乗り、新宿から西方へ移動する。
甲府中央、四次元研究会総本部。
高い塀に囲まれたその施設は、蟻地獄を連想させた。辺りの空気が暗く淀んでいる。
教団の庭に降り立つと、目の前にまず見えるのは、様式不明の巨大な教会。赤いネオンチューブの十字架が建物の天辺に立っている。
その隣には貧相な研磨工場。
工場はこの時間も稼動中だ。出家信者がやる気もなく作業している。
研磨した石の粉が舞っているのに、マスクもない。立ったまま半分寝ている信者も多い。
監視役の信者だけが忙しなく動いている。仕事が遅い、雑だと言っては信者を小突く。
「いいか、もっと高級感を出せ。高く見せろ。このくらい出来がよければ百五十万は取れるんだぞ。お前の石は何だ、みすぼらしい。そんな物が売れるか。やり直しだ」
やる気のない信者の鼻先に、梵字を掘った見本の石を見せつける。
「お前もこう言うのを一日二、三十個作ったら出世出来るかもな。最下層ランクから脱け出せば、下の奴を好きなだけいじめられるぞ」
監視役だけが喋り続ける工場を出て、住居に向かう。
工場の後ろに乱立するプレハブまがいの住居棟。
そこでは信者が雑魚寝していた。
ほこりっぽい部屋や廊下で、大量の信者が寝袋にくるまっている。
寝袋があるのはまだましで、酷いとダンボールをかぶっている。
数百人の信者が生活しているのに、会話がない。家具もない。照明も暗い。雰囲気は墓場のようだ。
住居だけではない。土地も死んでいる。腐った教団の庭には、雑草すら生えていない。
敷地内唯一の植物が、枯れた樫の木だった。
立ったまま死んでいる木の側から教会を眺めると、教団の本質が透けて見えた。この建物は教会と呼ばれているが、実態はそうではない。
無駄に装飾の多いこの建物には、地下室が隠れている。
コンクリート剥き出しのその部屋に、高弟たちが集っている。スパイ疑惑をかけられた団塊信者を取り囲み、罵っている。
信者は逃走防止にアキレス腱を切断されて、赤茶色の染みだらけの床に倒れている。
「お前、四次元は単なる犯罪集団だって、マスコミに言ったらしいな。ラーメン屋で。捏造偏向で有名なあの局に。特アの犬に。マスのゴミに」
高弟が信者を蹴りながら言う。
「そんな事は言ってない。教団の食事では腹が減ると言っただけだ・・・」
「何でゴミと話なんかしてんだよ。お前がスパイだからか」
「布教中に、NHKに勤める知り合いに偶然会って、昼飯を奢って貰った。それがどうしてスパイになるんだ・・・」
「こいつ、ゴミと知り合いか? そんな話、書いてないぞ」
高弟は信者の情報ファイルを調べながら、合議する。
「しかし、犬がスパイを使ってんのか? そうなると、身内が身内を脅してるって事だよな? これ、教祖に報告するか?」
「難しい事は俺に聞くなよ。幹部に聞け」
焼肉弁当の空き容器が散乱する床で、信者は言う。
「嘘だったんだな。悟ったから、信者の全てが分かるとか・・・。そんなファイルを作って、一々調べていたんだな・・・」
「嘘は先に言った者の勝ちだ。あんたは負けたんだよ、負け犬のおっさん」
「そうそう。騙される方が悪い。騙した四次元は被害者だ。あんたは俺たちに謝罪するべきだ」
「こんな地下室で、高弟がコソコソ焼肉弁当なんぞ食っていたとバレて見ろ。暴動が起きるぞ・・・」
「バーカ、そんなもん起きねえよ。何故ならお前自身が焼肉に・・・ならねえな。爺は犬の餌だろ」
合議の結果、疑惑は確定だろうと結論が出た。
出家信者がマスコミ関係と会っていた。フロアでなく、座敷でヒソヒソ話していた。これは怪しい。在家信者の経営するラーメン屋から、そう報告が来た以上、多分スパイだ。
実際この信者がラーメン屋を出た直後に、脅迫電話がかかって来た。
教祖は相変わらずワインをガブ飲みしてるそうだな。まだ余裕がありそうだから、今度はゼロを一つ増やそうと笑っていた。
こいつが情報を漏らしたに違いない。
高弟集団はファイルに犬のスパイと書き込んだ。
お前の今までの喜捨は合計千八百三十万、年の割りに少ない。新しいカモも、一人しか連れて来ない。役立たず。貧乏人と罵りながら数人がかりで蹴り続けた。頭にオイルをかけ火をつけると、焼肉焼肉と囃し立てた。
信者が動かなくなると、敷地内にある犬舎から犬を連れて来た。
地下室では日常的に、こんな光景が繰り返されている。
別の日は、脱走して捕まった若い信者が拘束されていた。教祖もいた。
高弟その六が、信者の腹を包丁で薄く削いだ。
信者の悲鳴を聞くと、教祖は顔をほころばせる。
「そう喚かずに感謝して欲しい物だな。何の価値もない愚民が、私たちのような選民の餌になるんだから。お前のような無価値な猿は、人に寄生して生きるしかない。猿を受け入れて面倒を見た私たちを、どうして人殺し呼ばわりするのかね? 四次元は人殺しだ、櫻井一家を殺して埋めたと言いふらしたそうじゃないか」
「だから、そんな事、言ってない・・・」
「嘘はよくないな。ウルトラスタンダードデータベースにはちゃんと、お前の悪事が載っている。お前はスパイだ。教団の内部情報を漏らす大馬鹿者だと書いてある」
スパイなんかじゃない、誰にも教団の話はしていない、そもそも内部情報なんか知らない。信者は必死で訴えた。
高弟はそれを無視して、ニヤニヤ笑いながら更に肉を削ぎ取る。教祖も笑顔で見物した。
肉はしゃぶしゃぶと称し、信者の目の前で次々と湯通しされた。
教祖と高弟は、血まみれの信者の前で肉を喰った。
信者の呼吸が止まると、剥き出しになった骨の上から、心臓を包丁で叩き続けた。
戻って来い、もっと楽しませろと喚きながら、ゲラゲラ笑った。
ま、戻って来なくても、こいつのナマポは教団に入り続けますから。そう言って、死体の前で乾杯した。
ある時には信者の肉を、その親に無理やり喰わせた。
親が嫌がると、教祖は転げ回って喜んだ。
「ハハハ、高弟ども、見てみろ、この馬鹿親子を。救いようのない馬鹿が、一丁前に泣いてるぞ。親子揃って、自分からカモになったくせに、カモ鍋にされて泣いている。可笑しいじゃないか。高弟その六、今どんな気分か、馬鹿親父に聞いてみろ。娘のシャブシャブは、美味いか不味いか、質問しろ。不味いと言ったら、今度はレバ刺しでも喰わせてやれ。ああ可笑しい。傑作だな。最期に身を挺して人に笑いを提供するとは、見上げた馬鹿だ。愉快愉快。ワハハハハ」
拘束されて動けない親の前で、教祖と高弟は肉料理を満喫した。食べ切れない分は犬に喰わせた。
残った骨は、血沼平に運んで埋めた。
掘れば人骨の出る古戦場だから、問題ないと高を括った。
しかし、何人スパイを始末しても、脅迫は止まなかった。
スパイ狩りの被害者は増え続けた。
高弟も教祖も、脅迫が止まない理由は考えない。考える代わりに、人を常食する俺たちは現代の孔子だと、悦に入った。
人に飽きれば犬も喰った。
犬の補充は簡単だった。捨て犬を保護施設から定期的に引き取った。施設からは感謝状まで貰っていた。
感謝状を貰った時、教祖はこんな訓辞を垂れた。
高弟諸君、教団の食は今や、日本国が全面的に請け負っている。かの貧国はすでに、四次元の下請けだ。我々は頂点に立っている。食物連鎖と言う、自然の摂理の頂点にだ。当然、次に狙うものは何か、分かっているな。食の次は何か。高弟その二、言ってみろ。
高弟その二は言った。
えーと、食の次は、金でしょうか。
うん、金でもいいが、やはり政がいいんじゃないか? 政治の中枢を盗んでしまえば、こんな山奥ではなく、国会や料亭で我が物顔が出来るぞ。我々にはその権利がある。猿と違って明晰だからな。霊力のあるふりをすれば、カモの群れが寄って来て霊力を与えてくれる。政治だって同じ事だ。データベースの所有者に、手の届かない物はない。そうだろう、お前たち。
教祖の呼びかけに、高弟たちは拍手で応えた。
八月六日、宗教団体としての認可記念日には、毎年祭りが行われた。
三年前の記念祭は特に盛大だった。
十三人いる教祖の子供と小学生の信者が、キリスト生誕の寸劇を披露した。
教祖の説教、カラオケと続き、最後は信者総出で踊った。
煩悩破壊の奥義と称し、安い打楽器のみの伴奏で踊り狂った。
「打楽器、入場!」
ドンドコドンドコドンドコドンドコ。太鼓を持った信者が、中央の櫓に登る。
「歌手、入場!」
女性信者がマイクを持って、後に続いた。
アーイヤ―ハ―
奇声を発して、歌い出した。
異様に単調な太鼓のリズムと変な歌に乗り、出家と在家、合わせて二千人近い信者が、何の調和もなく群れて騒いだ。
オンハン! オンハン! ヤムハンハン!
意味不明の曲で、二千人が踊り狂った。
うるさい。迷惑だ。止めろ。近くの住民から苦情が殺到した。
教団は悪態で応じた。
何がうるさいだ、宗教弾圧か。人権侵害か。訴えるぞ。
お前たちは何様か、この田舎者。頭を冷やして、出直して来い。
文句はまず、人らしい事をしてから言え。この文明以前の猿め。税金泥棒め。とっとと帰れ、ここは四次元の土地だ!
ドンドコドンドコドンドコドン。
苦情への当てつけのように、騒ぎ続けた。
祭りの最後に、額に三角布をつけた信者が、殉教者の舞を披露した。最近死んだ信者の末期を、踊りで再現して見せた。
「うわー、頭が痛い。病院へ連れて行ってくれ!」
病んだ信者が苦しむ様を、台詞つきで再現した。
「家族に会わせてくれ! 救急車を呼んでくれー!」
演者が倒れて痙攣すると、信者から笑いが起きる。
ここで笑えないと、四次元の世界では出世出来ない。
可哀想と思うのは煩悩だ。死者は高い次元へ移動したのだから、笑って別れるのが正しい姿勢だ。信者はそう刷り込まれている。
これに疑問を感じる信者は、洗脳が済むまで、食事抜きで隔離される。
体力が持たない場合、そのまま犬の餌になる。
犬舎の中に設置された、狭い地下室。
身動きもままならないその穴倉で、信者の人間性は消滅して行った。わずかな食べ物と引き換えに、跡形もなく消え去った。
祭りの櫓上で舞踏家役が、白目をむいて硬直する。それを見て、信者は一斉に笑い転げた。
苦情を言いに来ていた地元民がどよめいた。こいつら、まともか?
信者たちは、それを見てまた笑う。
見ろ、宗教心のない愚民が、山猿が、教団の高等理論を理解出来ずに悩んでいるぞ。可笑しいではないか。
施設の庭に、馬鹿笑いが渦巻いた。
祭りの翌日のミサで教団は、高弟その一が悟ったと発表した。
高弟は宣言した。
「諸君、私は晴れてデータベースを目にする事が出来た。そこで下々の信者に、一つだけ教えてやろう。わが師、わが友、わが同志である四次元教祖は、来る市長選に立候補、めでたく当選するとウルトラスタンダードデータベースに書いてあったぞ。もうすぐこの狭い土地だけでなく、甲府市、いずれは山梨全体が我らの手に入る。それには選挙費用が必要だ。全員、心して仕事に励め」
そして選挙が終わり、教祖は落選した。
データベースが間違ったのか。動揺する信者に、教団は主張した。
予言書は万全だ。この不当な結果は、地元住民が選管を買収したせいだ。それもデータベースに書いてある。心の歪んだ甲府市民が、姑息にも未来を捻じ曲げたのだ。
この言い訳が嘘だとバレても、教団は懲りずに同じ主張を続けた。
四次元がこうまで依存するウルトラスタンダードデータベースって何だろう。
それを確かめるため、教会の中に入った。
建物の最上階にある教団の資料室。
普段は教祖しか入れないこの部屋に、教団の過去の行事の映像が保管してある。
三年前の儀式のビデオを見つけて再生した。
資料室の金庫から、データベースを取り出す様子が映っている。古いほこりっぽい本を、教祖が高弟その一に手渡した。
悟った高弟は、感動に震えながらその本を開いて見る。
「読めるか、その一」
「読めません、でも、意味は分かります」
「分かるか。流石だな。何を読み取った?」
「来る選挙戦に出馬すれば、市長になれると書いてあります」
「そうか、お前もそう読んだか。実は私もそう思っていた」
「教祖が市を掌握出来れば、いずれは県を、そして日本をも、我らの物に出来ますね」
「それはこの本に書いてあるかな?」
「あります。書いてあります。もうすぐ市、二年後に県、五年後には日本どころか東アジアを手中に出来ます」
「そうか、実は私もそんな気がしていた。気が合うな」
選挙話で盛り上がっている。
別のビデオも見てみると、今度は惨敗した選挙後の会議だった。
資料室に集まった教祖と高弟たちが、甲府市民と選管の悪口を言っている。
「だから絶対ヤラセですよ。不正があったんです。それしか考えられない」
「そうですよ。あれだけ税金を安くするって言ったのに、どうして負けるんですか。いくら市民が馬鹿だって、税金払いたい訳がない。選管が買収されたんだ。そうに決まってる。教祖が当選するのは、予言に書いてあるんだから」
また予言書の話をしている。
どこにそんな記述があるのか、金庫からデータベースを出して見た。
中身は全て漢文だった。
『人肥故不貴 以有智為貴』
人は太ったところで偉くない。智恵がないとね。
『人而無孝者 不異称畜生』
孝がない人は、畜生と同じ。
最後までこの調子だ。市長選の話など、どこにもない。
本の題名も"實語教"と書いてある。古びて消えかけてはいるが、まだ読める。
教団用に超訳すると、ウルトラスタンダードデータベースになるのだろうか。
しかしこれは、奇書でも予言書でもない。以前は日本中の寺子屋で読まれていた、子供向けの素読の教科書だ。
教祖も高弟も、この本のどこをどう妄想読みしたのだろう。
いい大人が妄想を根拠に会議を開き、選挙に出たのか。
信じられない思いで本を閉じる。
ふと思いついて、去年の夏のビデオを見てみた。
去年もまた、悟った高弟その二だか、その三が、隠し部屋で實語教を手に小芝居をしていた。
最近生まれた教祖の六男がイザナギの生まれ変わりなので、未来の嫁としてイザナミの生まれ変わりである少女を、草の根分けて探すらしい。悟ったばかりの高弟がその大役を担うそうだ。
早々に見るのを止めた。
こんなビデオが大量に収納してあるラックの横に、ワインがずらりと並んでいる。
信者にはろくに食事も与えないのに、有名銘柄ばかり、床が抜けるほど置いてある。
奥の広い壁一面に飾ってあるのは、記念写真。
教祖が各界著名人と面会した時の写真。信者が千人を越えた時の記念集会。慈善団体から、寄付に対する感謝状を笑顔で受け取る教祖。
しかし元々この壁は、四次元に殺された被害者の遺品展示コーナーだった。
信者奪還に動いて殺害された家族の定期券、財布、自宅の鍵。
死んだ信者から盗んだ時計、指輪、カチューシャ。
それらの品は、教団自慢のコレクション、トロフィーだった。壁の中央には、週刊誌から切り取った櫻井一家の写真があったはずだ。
達也ちゃんの遺体を発見されて、教祖はそれらを処分した。捜査に備えて廃棄した。
だが、今見た小芝居のビデオには残っている。
四次元の異常さを示す証拠は、他にも大量に見つかるだろう。警察がまともに仕事をするならの話だが。
面白くもない資料室を後にした。
外に出ようと教会の中を歩く途中で足が止まる。雨のような音が聞こえる。
祭壇の石膏像に目が行った。座禅中の人物像らしい。
一見ただの石に見えるほど、造りが荒い。
本尊らしいこの像から、石膏が剥がれ落ちている。バラバラと音を立てて床に散らばる。顔の辺りが特に酷い。
近づいて見ると像の中には骨組みではなく、人が入っていた。死人が埋め込まれていた。
その顔は写真で見た覚えがある。科学者の集まりだった頃の、四次元研究会の代表だ。
教団はこの科学者の消息を聞かれた時、樹海の奥で修行中だと答えていた。本当は本尊の中に隠していたのだ。
私はミイラ化している老人に問いかけた。
―どうしてあんなのを四次元に入れたの? あの教祖は、科学者でも科学好きでもない。ただの詐欺師でしょう。そのせいで今の四次元は、違法な集金組織に成り果ててる。
ゆっくりと老化学者の瞼が動いた。
灰色の眼で私を見ると、しゃがれた声で話し出す。
「あの男は、ヒモ理論のような物を思いついたから聞いてくれと、四次元に乗り込んだ。科学者の私たちを前に、得々と持論を喋った」
「それはどこかで拾った、借り物の知識でしょう?」
「無論そうだが、人を丸め込む勢いはあった。恥知らずなあの喋りで、欧米式の悪賢いやり方に対抗出来ると考えた」
「あの教祖に丸め込まれるのは、相当痛い人だけと思うけど」
「そうかも知れない。ただ、私たちの助力があった。私たちの研究成果の上でなら、と・・・」
「教祖をスポークスマンにする気だった?」
「私としてはそうだ。他の科学者の中には、研究費が欲しいだけの者もあった。次元研究を宗教と結びつけて認可を取れば、副業でいくら儲けても税金がかからない。そんな話を吹き込まれれば、無理もない」
「結局、それも詐欺だったんでしょう? 認可が下りた途端に、科学者は四次元から追い出されたんだから」
答えはない。
老人は苦しそうに眼を閉じる。判断ミスを悔やんでいる。
この人は馬鹿ではなさそうだ。教祖だけを見ていたから誤ったのだ。
教祖の背後には、当時から四次元の幹部がいたはずだ。
電波集団の教祖や高弟は表向きの顔、雇われ店長みたいな物だ。
あの高弟たちでは、まともな書類も作れまい。宗教団体を切り回すなんて、無理な話だ。
裏で実務一切を取り仕切る幹部が、四次元の黒幕だろう。教祖が擦り寄って来た時、その事に気づいていたら。
しかし、科学者の応答はない。向こうの世界に帰ったのだ。
四次元を乗っ取られ、多分殺され、遺体まで利用される。
同情心は覚えたが、本尊は置き去りにして外に出た。
歩いていると、壁や柱からも異様な気配が漂った。他にも何か埋まっていそうな気がする。
しかし、確かめずに教会を出た。教団がどの程度の物か、もう分かった。気持ち悪さも限界だった。
外に出ると外も臭い。土が腐っている。地下室の排水溝から、汚水を垂れ流すせいだ。
庭に唯一残った樫の木も、すでに魂が抜けている。可哀想に、人の生き血なんて啜りたくなかったろう。
立ち枯れた木の側から、新宿に戻って来た。
いっぷく亭では、ライオネル・ハンプトンを聞きながら、夏さんが帳簿をつけていた。
キッチンに明日使う果物が並んでいる。店中オレンジの香り。
やっとまともに息がつけた。
「ただいまー」
夏さんは、ちらっと目を上げて答える。
「お前さん、また来たのか。勝手に帰ったと思ったが」
「ちょっと出かけてた。二人は帰ったんだね」
「今さっきな。車だからって、航平がケルトさんを送ってったぞ」
「ふーん。探偵、頑張ったね。死ぬほど女の人が苦手なのに」
「そうやな。相変わらず仕事の時は、ミラーのサングラスとラメの衣装で完全防備しとるんか?」
「うん、最近は水晶玉まで持ってる。あれ、お守りなのかな」
「光り物で結界でも張っとる気なんやろう。因果な男や。しまいには御簾越しに占い出すんじゃないかね。特注でミラーの御簾でも作って」
「それ、本当にやりかねない。本人に言っちゃ駄目だよ」
楽しく話しながら、ふと腐った気配を感じて振り返る。
入り口のガラス扉から幽霊が覗いていた。
教団にカモられた挙句、喰われて死んだ出家信者だ。
死んだ後は、乏しい持ち物の中から、町で貰ったポケットティッシュをトロフィーにして飾られていた。
「入って来ないで。ここは、まともに働く人だけの休憩所だから」
即座に釘を刺す。
信者は何か言いたそうにしていたが、じきにどこかへ消えて行った。
死んでからも居場所がないのだ。可哀想とは思えなかった。自業自得を通り越して、迷惑だった。
あんな分かりやすい馬鹿カルトに騙されるなんて。頭か心が少しでも機能していたら、釣られるはずのない低レベルの詐欺ではないか。
"四次元教祖は、東日本大震災を予知しました。教祖は何でも知っています。聖徳太子の生まれ変わりだからです。キリストの再来でもあります。
その教祖の持つ予言書によると、もうすぐ日本中の原発が崩壊します。地球滅亡につながる大戦争も起こります。
でも、四次元に入会すれば大丈夫。教祖は放射能を跳ね返せます。世界に一つだけ存在する安全な避難場所、それが甲府の教団施設です。
私たちと共に、アセンションを越えましょう。来るベき新世界では、働かずに生きて行けます。予言書に載っているから確かです。
あなたが教団と出会ったのは運命です。私たちは、あなたが教団の門を叩くのを、千年前から待っていました。何度も生まれ変わって、今やっと会えたのです。
それに、出家すれば、若い美人信者に囲まれて修行出来ます。ここだけの話、施設では雑魚寝です。
一刻も早く入信して、高額の石を買いなさい。昇仙峡の石だから違法ですが、法律は無視しなさい。
教団に帰依しないのは、愚かな猿です。家族と言えど、猿は見捨てなさい"
こんな話を真に受けて、ハーメルンの笛吹き貞子に着いて行った。
自分だけ助かろうと思った時点で駄目人間だが、実際に家族を捨てた時、人間でもなくなったのだろう。
「さっきの幽霊、知り合いか?」
帳簿を閉じて、夏さんが尋ねる。
「まさか。あんなのと付き合うほど、暇じゃないよ」
「そうかね。しかしよく降るな。明日は山梨も雨らしいぞ」
雨は一段と強まっている。
きっと今もあちこちで、行く当てのない幽霊が冷たい雨に打たれている。
彼らに取っては、晴れでも雨でも同じ事だが。
五月六日 日曜日
土砂降りの中、サービスエリア近くのファミレスで紺ちゃんと落ち合った。
叔母さんは機嫌が悪い。
イキドマリダ モウダメダ
ヤマナシハ オソロシイ
こんな電報みたいなメールを受け取って、仕事を休んで来たのだから無理もない。私も朝から体中がピリピリして、嫌な気分だ。
しかも道中、笑えないニュースを聞いた。
『今日午前八時四十分、甲府市で発砲事件。被害者は甲府警察署長の長女(十八歳)。軽傷。犯人は三人。いずれも犯行当時、猿の着ぐるみを着様。現在も逃走中』
まさか、こんな馬鹿な事件に巻き込まれたんじゃ。
心配して来て見れば、紺ちゃんは怪談部仲間と二人、あずきほうとうを食べていた。
「メールの後、どうして電話に出なかったの」
叔母さんは低い声で言う。怒鳴りたいのを押さえている。
紺ちゃんは神妙な顔で答えた。
「それはバッテリー切れです。さっきやっと充電して、復活しました」
「あなたたち、今まで黒流村にいたの?」
「そうです。おたくの人たちと一緒に、へら田とコンビニの息子を見つけました。もう、超キモだよ。見るんじゃなかった。まじで目が腐るかと・・・」
「それで部員全員で往年の水戸泉ばりに、辺りに塩を撒きました。塩の結晶があんなに綺麗だと思わなかったです」
怪談部の子も話に加わる。
「あの村に、泊まる場所なんてないでしょう」
「初日は可奈ちゃん家に泊まって、翌日は、まあ適当にね」
「人の家に勝手に・・・」
「本人の許可は取ったよ。ほらね、鍵も貸してくれた」
紺ちゃんはリラックマのキーホルダー付きの鍵を見せる。
「なるほどね。すると空き家で人の声がしたって言うのは」
「多分僕たちのせいです。犬の鳴き声も、そうだよね」
「うん。部員の一人が、やたら元気なフレンチ・ブルを連れて来たから。結構遅くまで犬と遊んでました」
「で、探偵や夏さんには、何て頼んだの?」
「えっ? 何も頼まないよ。磯くん探偵に連絡した?」
「してないよ」
二人して不思議そうな顔をする。今日はフェイスペイントもなしで、普通の格好だ。
「それならいいけど。オシマイダとか言うメールは何なの」
「あ、そうそう。凄く困ってたんだ」
「どこが困ってるのよ。楽しくご当地グルメしてるじゃない」
「さっきまで部員中で悩んでたんだよ。でも、打開策もないし、しょうがないから解散したとこ。僕たちは考え過ぎて腹減ったんで、ちょっと糖分をね」
「何に悩んでたの?」
「よくぞ聞いてくれました! 実はまた死体を見つけたかも」
雨音が激しいので、心持ち大声で話す。
豪雨のせいか、お昼なのに客もまばらだ。人に聞かれる心配はなかった。
「でもイマイチ確証がなくて困ってたんだ」
「確証がないって?」
「黒流村に結構大きな空き家があってさ、庭の井戸が限りなく怪しいんだ。でもその井戸、コンクリで塞いであって、それ壊さないと中が見えない」
「そんなの、警察に任せればいいじゃない」
「やだよ。通報してハンターみたいに狙われたら、どうするの」
「じゃ、またおたくに見つけて貰いなさいよ。何のためのメーリングリストなの」
「うーん。今までなら、イルカで真っ赤なとこ発見! ってメールしたけど。どうもリストに四次元信者が紛れ込んだみたいで。公になる前に、信者に情報流れると・・・」
「何がまずいのよ」
「そこさー、調べたら四次元信者の所有だったんだ。思いっきしまずいよ。空き家とは言え、人の家に勝手に入って、門も家も壊したし。あれ? そう言えば昨日の夜、そこの登記調べてって探偵にメールしたな。もう知ってたみたいで、すぐ返信来たけど」
「ちょっと、家を壊したって・・・」
「わざと壊したんじゃないよ。そこの家、敷地に入ったとたん、イルカの赤ランプ点きっ放しで、原因を探し回ったんだ。そしたらさー、開けようとしたらドアは外れる、部屋に入れば壁が崩れる、ちょっと歩いたら縁側は落ちる。凄かったよね」
「うわあー、ヘルハウスだー、魔物の家だー、ですよ」
「あなたたち、怪我はないの?」
「それが全然」
「ヘルハウスで、こんな物拾ったけど。いる?」
紺ちゃんは四次元の信者バッジをテーブルの上に置く。
黒地の中央に赤い十宇架。
プラ製で原価は安そうだが、売値は四千九百円。四次元の公式サイトに載っている。
「いらないわ。・・・でも、そんなに怪しいなら匿名で通報すれば」
「それも考えたけど、虫の知らせで何か警察ヤバイ気が・・・。あっ、磯くん、あれ何かな、読める?」
バンビーノがお店の奥を振り返る。その隙に、紺ちゃんが手で影絵の犬を作って見せる。
「何? 犬? 虫の知らせって、仔犬から?」
そう聞くと、紺ちゃんはビンゴ! とジェスチャーで答える。
仔犬丸に、警察は呼ぶなと言われて悩んでいるのだ。
「とにかく、通報は気が進まないんだよね。いくら匿名にしたって、廃屋中僕らの指紋だらけだし」
「じゃあ、放っておけば」
「それもなあ。純真な野次馬が、偶然井戸を発見してくれたらいいんだけど。メールが使えないとなるとね。それで部員総出で智恵絞ったけど、何も考えつかなかった」
店の奥に貼られたポスターを見ていたバンビーノが向き直る。
「コンサートの告知だよ。今日の一時半から地元のホールに、謎の深海魚が出演するって」
「さすが視力4・0。でも、謎の深海魚って、野音の人魂ライブに出てたよね?」
「そう言えば、オープニングに出てたような。よく覚えてないけど、タンゴだっけ?」
「ボサノバじゃなかった?」
「どっちだっていいわよ。あなたたち、明日学校でしょ。それ食べたら帰りなさいよ」
「えー。どうせなら、深海魚観てから帰りたいー」
「深海魚観たって、チャットで自慢したいー」
叔母さんは返事もしない。黙って窓の外を見ている。
私も嫌な予感がぬぐえない。体中がピリピリして落ち着かない。紺ちゃんたちには、早く家に帰って欲しい。
しかし二人は、コンサートへ行くつもりだ。きっと止めても聞かないだろう。
野音の人魂ライブ、今となっては誰も覚えていないが、正式なタイトルは"ワープア大作戦"。
大した協賛も派手な宣伝もなし、さほど売れていないバンドだけで野音は勤まるのかと言う、実験的イベントのはずだった。
当日は東京中で雷が鳴っていた。晴れ男集団のスピンドルVの出番で、嘘のように雷は止んだが、深海魚のステージは雷鳴に邪魔され放題だった。落雷に備え、機材も最低限に抑えていた。
悪条件で好演したにも関わらず、人魂騒ぎですっかり忘れ去られた不運のバンド。それが謎の深海魚。
もうすぐ十二時、まだ雨は降っている。この天気でお客さんは集まるのだろうか。人事ながら、気になった。
「空き壜持って来た人、いてはります? 人魂出たら捕獲しよ、思うて。うちのパーカッション担当もそうですわ。しかし、人魂なんて、そうそう出るもんとちゃいますから。期待外れになっても、あんまりがっかりせんように。山梨土産なら、黒玉がありますからね」
京都育ちのテクノバンドはステージに上がると、曲より先に喋り出した。
居並ぶハイテクマシンに気圧されて緊張していた観客が一気に和み、会場の空気が一変する。
「今日は地元テレビ局の中継もありますんで、時間の関係上、なるべく喋るなとのお達しですが。しかし止められると却って喋りとうなるのは、何なんですかね。個人的には、演奏三、МC四、後の三割、何やったかな、みたいな感じがええように思うんですが。で、その空白の三割が回を重ねるごとに増えて行って、最終的には何をしてたか、誰も覚えてへん謎の演奏会に進化すると言う。しかも覚えてへんのに何故か楽しいと言う。偏頭痛や肩こりなんかもようなってたり。一体うちらはどこで何をしてたんや。異次元にでも行ってたんちゃうかと言うね。まあ、鮎菓子・鮎カステラ問題とか、語りたいネタは山ほどありますんで」
「アトランティック・メガ・サーモン!」
止まらない話に割り込むように、シンセ担当が曲名をコールする。コーラス用ヘッドマイクを通し、エコーの効いたコールが響き渡る。
間髪入れず曲が始まる。エレクトリカル・マルディグラとも呼ばれる、派手な演奏。
まだ喋るつもりだったボーカルも、しょうがないなと言う顔をして、歌に入る。
穏やかな地声とは違う歌声。大音量の演奏と余裕で張り合う。
野音でセーブした分を取り戻すかのような、力の入った演出。
レーザー光線が会場中を駆け巡り、華やかな熱帯魚や巨大なジンベイ鮫がモニター上を泳ぎ回る。
発光クラゲの大群舞と音楽が完全にシンクロすると、歓声が沸き起こった。
終盤近くにボーカルが、実はですねと、また喋り出す。
「今朝出かける時、うちの愛犬がえらい吠え方をしまして。行く手を塞いで鬼のように吠えるんですわ。出かけたらいかんって言うみたいに。うちのテリア、超渋のおっさん犬で、普段ほとんど吠えへんので、これはもう、地震でも来るのかと正直びびりました。でも、大丈夫でしたね。それどころか午後からはピタリと雨も止んで。いや、ほんまによかった。しかし、いつも思うんですが、雨の日って、錦玉に似てません? と言う訳で、次の曲は"錦玉ダイナソー"です」
キンギョク? 何だそれ? 客席が軽くざわめく。
「あ、お菓子です。ゼリーみたいな。この季節、和菓子屋でよく見かける」
前奏の最中に説明している。無機的なマシンを駆使したステージなのに、和やかな雰囲気。
アンコールまで存分に盛り上げて、楽しい気分で観客が帰り始める。にこやかに談笑しつつ、会場から出たところで悲鳴が上がった。
重い防音扉の向こう、来た時は何事もなく通り過ぎたロビーの床に、血文字があった。
ロビー中央に赤々と、黒、神、井の三文字。騒ぎに気づいた警備員が再度ドアを閉める。
「今しばらく会場内でお待ち下さい!」
押し戻された会場で観客が騒ぐ。扉を開けた時には何もなかった、それが見る間に床から文字が染み出て来た。何なの、あれは!
『怪奇現象キターーー(゚∀゚)ーーー!! 今度は三文字、黒・神・井!』
雨でホールに流れていたおたくから、一斉にメールが飛んだ。
山梨オフ実況スレで、血文字の解読が進行する。
『井は前にもあったろ、井戸の事だよ』
『黒は黒流山か? またあの山か?』
『今度は黒流村かも』
『とにかくそのどっちかじゃね?』
『神は何だ? 神ダウザー?』
『あの人、友愛されたのか!?』
『ダウザーならさっき、今日のお昼は天麩羅そば&ドラゴンフルーツ~とか呟いてたで』
携帯からさかんに電波を飛ばしながら、付近のおたくが黒流村に移動する。
数分後には、三人のおたくが廃屋前に立っていた。
早太郎の犬神塚でメールを受信、イルカ片手に車で駆け着けた一番乗り。三人揃って顔に縫い目をペイントしている。フランケンにブラックジャック。もう一人は縫い目に加え、額に"西行"と書いてある。
『黒流村の空き家前なう。赤ランプ点滅中。住所は黒流村1-1。ここ井戸ある?』
フランケンシュタインは壊れた門扉の前で、実況スレに質問する。
信者や植田が来ないか見張っていた私は、何気に近づき、彼らをそそのかす。
「井戸ならあるよ。探検するなら今の内。早くしないと駐在に邪魔されるかも」
囁きが効いたのか、三人の微妙な人造人間は、イルカとビデオを手に敷地内へ入って行く。
雑草の生い茂る広い庭を進み、井戸に近づくと、化け物カードは点滅を通り越して点きっ放しになった。
「うっひょー。こりゃ正にレッドカードや!」
「この厳重な蓋の仕方、怪しすぐる!」
木の板を乗せ、その上からコンクリートで固めた井戸を撮影する。
そこにまた、別のおたくがやって来た。第二班はミリオタ風の五人連れだ。
重装備の軍服集団に、撮影中の第一班が声をかける。
「恐怖の・・・?」
第二班の先頭が答えた。
「みそ汁」
オフ会参加の合言葉を交わすと、ミリオタは空き家の検分にかかる。家の中から騒音と共に、うおー、床が抜けたー! と悲鳴が上がる。
これでもう、怪談研究部の指紋だけが取り沙汰される心配はないだろう。廃屋を出て、叔母さんを追って走っていると、第三班らしき県外ナンバーの車と擦れ違った。
何だろう、この音。天狗倒しか? 窓を開け、スピードを落とした車の中から、ねこ耳キャップの二人のおたくが騒音の元を探している。鎚で井戸の蓋を壊す音が、通りまで響いている。
それでも黒流村の住民が様子を見に出て来る気配はない。
植田家の玄関で、吉良の母が怒鳴っていた。
早太郎が発見された庭の向こうで、植田の母に詰め寄っている。
叔母さんは門の手前から、その狂態を眺めている。
吉良が感電死した、焦げた道端を通って側へ行った。
「廃屋には十人ほど来てくれた。向こうは問題ないと思う」
報告しても、叔母さんはこっちを見ない。おたくも三、四人、緊張した顔でフェンスに張り付いている。彼らの視線の先で、吉良の母は怒鳴り続ける。
「あんたじゃ話にならん、いいから子供を出せ!」
「だからあの子は今、留守にしとう。帰ったら連絡させるから」
「ふざけるな! そこから顔出して覗いとるだろうが!」
凄まじい剣幕で廊下の奥を指す。植田の母が釣られて振り向くと、吉良の母が持っていた包丁で相手の背中を突き刺した。
ぎゃーっと言う悲鳴を聞いて、植田の息子が奥の部屋から飛び出して来る。
「ほーら、いた。何が留守にしとうだ、この嘘つき婆め」
「おばさん、何やってんだよ、落ち着けって!」
言葉とは裏腹に、植田はエアガンを構えている。
刺されて倒れた植田の母を間に、凶器を持った二人が向かい合う。
「落ち着くのはそっちだよ。あんたらが来てから、この村にはろくな事がない。本当に疫病神だよ。よそから変なのは呼び寄せる、ストーカーの手伝いはさせる、夜中に悪霊が出た、坊主に怒鳴られた、侍が襲って来たとか言って騒ぐ、犬は殺させる、指を噛み切らせる。挙句の果てに、我慢して付き合ってやったうちの子を、わざわざ雷に打たせるとはねえ」
汚れた包丁の先で植田を指しながら、喋り続ける。
「違う。悪いのは天気だ。俺が仕組んだ訳じゃねえ」
「うるさいっ、うちの子が指を噛み切られても笑ってた人でなしめ。お前がどうなろうと、こっちには関係ないんだよ。それを何だ、馬鹿過ぎて祟られたから犬を殺して犬神にしようだ? 犬の頭が何の役に立つ。今までにどれだけ殺した? 何匹分の頭を埋めた? それが何の役に立った? 何の役にも立たんだろうが! 明日も長壁可奈子をエアガンで撃ってやろう、自転車ごと崖下に突き落としてやろう、毎日毎日、楽しそうに喋ってたな。全部お前が言い出したんだろうが。何でうちの子が死ななきゃならん。犬じゃ足りなくて、人柱にでもする気だったか!」
二人は無言で睨み合う。
二人の足元で、背中を刺された植田の母が呻いている。
床の血溜まりが広がって、玄関にまで滴り始めた。
「おばさんの言い分は分かったから、こっちの話も聞いてくれ。とにかく、刃物はこっちで預かる」
「そうはいかん。まだ使うしな」
吉良の母は腕を振り上げると、呻いている植田の母を再び刺した。
ぐえーっと妙な声がして、血霧が噴き出す。
吉良の母は笑い出した。
「上品ぶってた婆がぐえーだって。アハハハハ、お前はカエルか」
「この・・・、はんで失せろ!」
植田はエアガンを撃った。吉良の母は外へ逃れると、踵でドアを蹴って閉めた。
すぐにドアが開き、サンダルを突っかけた植田が追って来る。
扉の横に張りついて、吉良の母が待ち構えている。
飛び出して来た植田に、背後から切りつけた。
背中をざっくり切られた植田は、叫びながらエアガンを振り回す。
吉良の母はそれを避けながら拳銃を取り出す。至近距離から、植田を狙う。
「てめえ、何でそんなもん持ってんだ!」
「ふふっ、交番にあったずら」
笑いながら銃を撃った。弾は植田の脇腹に命中した。傷を押さえてのた打ち回るのを、なおも撃とうと狙っている。
「親も馬鹿ならお前も馬鹿だね。犬神効果はどこだろう」
「流れ弾が来るわ。全員退避しなさい!」
周囲に注意すると、叔母さんは植田の家から離れた。
おたくたちも撮影を止め、銃声の中、わらわらと走り出す。
全員無事に、修羅場から遠ざかった。
「これからどうするの?」
止めてあった車に乗り込み尋ねた。叔母さんの機嫌は最悪だ。
さっき車中で、深海魚のライブ映像を見ていた時に、目の前を吉良の母が通ったばかりに。様子がおかしいからって、追いかけたばかりに。見たくもない馬鹿騒ぎを見る羽目に。無視して廃屋だけ見張っていればよかった。放っておけばよかった。
心の中でブツブツ言いながら、エンジンをかける。
「帰るのよ。こんな臭いところにいたって、しょうがないわ」
車は、おたくの集う廃屋前に差しかかる。今は空き家だが、明治の始めに取り壊されるまで神社だった場所。
元は鳥居のあった門から一瞬、中の様子が垣間見えた。
おたくが、井戸の上のコンクリートを叩き割ったところだ。割れたー! やったー! 歓声が上がっている。
叔母さんは井戸に目もくれず、車を飛ばす。
このまま国道に出るかと思うと、村外れに行くほどスピードは落ちる。ガス欠でもないのに、畑の真中で車を停めた。
「どうかした?」
「何か忘れてる気がするんだけど、それが何だか・・・」
雨で流れて跡形もないが、血文字のあった場所で叔母さんは考え込む。
「この村で気になるって言ったら、紗依ちゃんとか?」
「それよ! 井戸に気を取られて忘れてたわ」
言いながら携帯を取り出し、電話をかける。
「あ、紗依ちゃん? 冥王星の占い師です。ええ、前にも話したわよね。早速だけど、今、どこ? 山? 盤の石の前?」
紗依ちゃんは一人で黒流山にいるらしい。振り返ると、異様な光景が目に入った。
空を埋めつくす灰色の雲。その中で、黒流山を取り巻く雲だけが赤かった。
夕焼けでもないのに、雲が赤く染まっている。
「お花を供えに? そう、えらいわね。実は今、植田が暴れてるから、落ち着くまで家から出ない方がいいと思って。いえ、暴れてるのは植田家の庭だから」
話し中の叔母さんの肩を叩く。背後に浮かぶ赤い雲を指差した。
「あれは、占い的にはどう言う・・・?」
叔母さんは振り向いて空を見ると、すぐ山を降りるよう紗依ちゃんに勧めた。近くにいるから、駐車場まで迎えに行くわと言い添えた。
タイヤを軋ませてUターンすると、今来た道を引き返す。飛ばしながら呻くように言った。
「朝から嫌な予感がしてたのよ・・・」
再び廃屋前を通る。
おたくが割れたコンクリートを取り除き、井戸をライトで照らしている。恐る恐る中を覗く。
「ぼええええ! 河童だー! リアル河童キター!」
走り去る車の中まで、悲鳴が響く。バックミラーに映る村道に、おたくたちが走って来る。声を上げ、のた打ち回る。
「鼻を押さえて絶叫してるわね」
「何だろね。河童とか言ってるけど」
叔母さんはブレーキをかけた。廃屋まで車をバックさせ、手近な西行に聞いている。
「血文字の謎は解けた?」
人造人間は、無闇に手をバタバタさせながら言う。
「い、井戸を開けたら、な、中に・・・」
「詳しい事はいいわ。時間がないの。井戸の中の写真は撮った? じゃあみんな今すぐ、この村から去りなさい」
「ほへ、何で・・・」
「この廃屋、四次元の物なのよ。殺された美人教師みたいになりたくないでしょ。この村にも隠れ信者は住んでるわ。関わり合ったら身の破滅よ。急ぎなさい」
それだけ言うと、返事も聞かずに車を出す。
おたくは集まり、鼻を押さえたまま相談する。
彼らは馬鹿でものろまでもなかった。カーブで見えなくなる前に、ミリオタ集団が車に乗り込むのが確認出来た。
「ラスボスの人ですか?」
黒流山の駐車場で、紗依ちゃんは叔母さんに尋ねた。
「ラスボスって。紺が言ったの?」
「言ったのはハンターです」
「あの人、そんな風に思ってたのね」
「あ、多分、いい意味で。ただ者じゃないって」
「それはともかく、ハンターはあなたの事心配してたわ。元気だった? 何もなかった?」
「最近は、いつもおたくがウロウロしてたから。植田親子をウォッチして、どこに行ったとか、誰と会ったとか全部晒してるし。親の方は、甲府で捜査情報を外部に漏らして過疎村に飛ばされて来たモンペだとか、DQNとチンピラしか知り合いがいないとか。子供の植田は、学校で吉良の次に誰を使ってるとか。私も知らない話まで出てる。何であんな事まで分かるんだろう」
「小さな情報も、集まると意味を持つから。あちこちにウォッチャーがいるのって、忍者がいるのと変わらないわ」
「そうかも知れない。ハンターの追突犯も見つけてくれたし」
「犯人、見つかったの?」
「はい。雨降峠の崖下に転落して死んでたって。車の中で、変な虫にたかられて。不細工で有名なニートだった」
「ああ、虫男・・・。でもそのニュース、東京じゃやってないわ。転落死してたのも、おたくの書き込みで知ったのよ。虫男が犯人だって、ハンターも知らないんじゃ」
「こっちでも、目撃者が言ってるだけ。追突したのはその車だって。ナンバーも車種も同じだし、凄い不細工が乗ってたから虫男が犯人に違いないって。へら田も、報道では自殺にされてるし。絶対違うのに・・・」
「嘘ばっかりで嫌になるわね。でも、お喋りは後にして、早く山を降りましょう」
叔母さんが言うと、紗依ちゃんは後ずさった。
「まだ帰れないんです。さっきパピヨンとはぐれて。まだその辺にいると思う」
「どこではぐれたの?」
「磐の石のところで。花を供えて、振り向いたらいなかった。いつもはそんな事ないのに・・・」
話の途中で携帯の電子音が鳴り出す。緊急地震速報だ。すぐに地面が大きく揺れる。立っていられないほどの揺れ方だ。揺れが収まるまで、しゃがんで待った。
地震が去ると、紗依ちゃんは登山道へ行こうとする。
「止めた方がいいんじゃない? 最近雨続きだったし、土砂崩れでも起きると。残念だけど今はひとまず、山を降りましょう」
そこへまた余震が来た。揺れる度に舗装の亀裂が広がって行く。駐車場の街灯が倒れかけて傾いた。
流石に諦めた紗依ちゃんを乗せて下山すると、廃村の前にぎょっとする光景が待っていた。
へら田が立ってこっちを見ている。裸足で、服も小汚い。痩せて目がギョロギョロしている。手には可憐なフリージアの花束。
叔母さんもへら田に気づいた。
「へら田のいた井戸にも、お花を持ってった?」
「えっ、どうして分かるの?」
「まあ、仕事柄ね。廃村には、誰かいた?」
「ねこ耳キャップの二人連れがいたけど」
その二人なら、さっき村で見かけた。もう山を降りている。
「度胸あるわね。一人で廃村に行くなんて」
「前は遊び場だったから。行けば誰かが遊んでくれたし。囲炉裏の季節はよくスイートポテトとか焼いてくれた。山でも、これは食べれる木の実、これは薬草って、ここの人たちに教えて貰った。しょっちゅう来たけど、全然迷惑がらずに、さえ坊さえ坊って相手してくれた」
「あの村に住んでたの、山の狸の子孫だから」
「植物に詳しい人たちがいたのね?」
「そう。でも、もう林業は無理だって、みんな引っ越しちゃった。その後ここに四次元が移住しようとして、問題になった。あの頃から、この辺一帯、おかしくなった気がする。今じゃ変な蝶は大量発生するし、村中臭くなるし。どうしてこんなに臭いんだろう」
「それは普通に、腐った物があるからじゃない? つまらない答えで悪いけど」
異臭の元凶の一つだった人が、助手席の窓から紗依ちゃんを覗いている。
徐行運転で進む車に、へら田が着いて来ている。誰も相手をしないので、後部ドアに移り、私に言う。
「どこへ行っても性格の悪い幽霊がいて、いじめられるの。お願い、助けて」
―あなたは、いじめられてる自分の生徒を助けなかったんだよね?
心の中でへら田に言った。
―知ってるよ、オカルトいじめの話も早太郎の話も家庭訪問の話も。人があんな目に遭うのを、ヘラヘラ笑って見てたんだよね。家庭訪問の時なんか、植田を連れて可奈ちゃんの家に行ったんでしょ? 何考えてたの? 私は植田の仲間よって言いたかったの?
へら田は蛇のように車に纏わる。
「そうじゃないの、こっちの話も聞いて」
―聞かなくても知ってる。可奈ちゃんは植田を追い出して、あなたに言ったよね。この村はもう、四次元のせいでおかしくなってる。だから助けてくれとは言わない。でもせめて植田みたいな四次元の手下に、自分からおもねるのは止めて欲しい。そう言われて、あなたはどうしたの? おもねるとか、難しい言葉使うのねって、ヘラッと笑って済ませたんだよね?
「だって長壁さん、あの時、植田を玄関から外に蹴り出したのよ。暴力はよくないでしょ。私にも良心はあるんだし、乱暴した側を庇うなんて出来ないわ。どんな時でも、暴力はよくない」
真面目腐った顔で、より暴力的な側を擁護した。
―気持ち悪いから、着いて来ないで
「待って、ちゃんと話しましょう。私だけが悪いんじゃないの。私は長壁さんの意見も聞いたし、吉良や植田の意見も聞いた。みんな仲良くねってちゃんと言ったわ。義務は果たしたのよ。子供の喧嘩に口を出しても無意味じゃない? 成長過程で必要な事なんだし、いじめっ子だからって、学校に来るなとも言えない。平等に学ぶ権利はあるんだから。それに、吉良は言ってた。長壁さんが可愛いからちょっかい出したくなるって。つまり、その程度の話なのよ」
―両方の意見を聞いて、声の大きい方に味方しましたって。家裁の調停員じゃあるまいし、何の自慢なの?
「そうやって誰もが私を非難する。どこへ行っても頭の不自由な幽霊ばかり。もう疲れたわ。お願いだから、車に乗せて」
今度は涙ぐんでいる。永遠に逃げていられる訳もないのに、車に乗ってどうする気だろう。
「私は何も悪い事はしてないのに!」
まだ言っている。もう嘘の通じない世界にいるのに、それすら理解出来ない。自分がどうして殺されたのかも分からないのだ。分かっていたら、こんな戯言を言う訳がない。死んでも直らない、凄まじい花畑。
「へら田って卑怯組合?」
見るのも不快で、車内に視線を戻す。
「紗依ちゃん、へら田って輿石の手下?」
叔母さんが通訳してくれた。
「うん、多分。山梨って、ほとんどそうでしょ?」
すると左巻きをこじらせて、頭どころか魂まで腐ったのだ。生まれつきこうだったはずがない。都合よく論旨をずらし、詭弁を操る幼児なんて見た事がない。
へら田は無視されても着いて来る。他の幽霊を怖がって、紗依ちゃんに付き纏う。一体この子にどうしろと言うのか。
我慢も限界だった。
「叔母さん、スピード上げてくれる?」
走り出した車に置いて行かれまいと、へら田は必死で走る。が、落ちていた石に足を取られ、ぺしゃんと転んだ。それを最後に姿が見えなくなった。
落ち着く間もなく、新たな異変に気がついた。落石だ。
山道を石が走っている。まるで伴走するかのように、車と一緒に小石が転がっている。
「叔母さん、もっと早く」
「飛ばしたいけど、道は狭いしカーブは急だし。何なの、この走りにくさ」
「返事はいいから急いで。土砂崩れが起きるかも」
バックミラーを確認する叔母さんの顔から、血の気が引いた。
「紗依ちゃん、自宅に電話して。ご家族に、すぐ逃げるよう伝えて。山が崩れてるわ」
紗依ちゃんは後ろを振り返って、凍りつく。
ビーチボール大の岩が、バウンドしながら車を追っている。岩はカーブを曲がれず崖下に消えるが、すぐにまた別の岩石が現れる。
「紗依ちゃん!」
「あ、うち今、みんな留守。へら田のお葬式の相談に、お寺に行ってて。竹脇村に。へら田の両親、ショックで倒れちゃったから。でも向こうも危ないかも。一応言っとく」
紗依ちゃんは家族に連絡すると、村長と消防にも電話をかけた。オフ会のメンバーにも、メールで一斉送信した。
携帯を握りしめたまま、再び後ろを振り返る。
「山から煙が上がってる・・・。噴火するの?」
「まさか。火山じゃないはずよ」
黒流山の山頂がもやっている。噴火でなければ、土煙かも知れない。山が崩れた証拠だ。落石の勢いも増している。転がる岩石をよけながら、山道を降り切った。
「叔母さん凄い! ペーパードライバーとは思えないよ!」
返事の代わりに、雨音が聞こえた。空は曇り。降っていないのに雨の音。山頂から、雨以外の何かが降っている。
対向車がないのを幸い、村道を暴走した。連絡したのに、避難する車も見えない。
「村の人たちは、もう逃げたのかしら」
「そうじゃないと思う。どこも車、あるし」
紗依ちゃんは窓を開けて大声を出す。外は土の匂いがした。
「みんな逃げて! 山崩れ!」
廃屋の前で、ねこ耳の二人が撮影をしていた。彼らの車だけが、道端に残っている。
「土砂崩れ! 早く逃げて!」
紗依ちゃんの警告を、おたくは無視した。何言ってるか分かりません的な仕草でやり過ごす。
「元神社と言う事で、これを奉納しまーす」
手書きの絵馬を、廃屋前の電柱にかけている。
萌え絵馬の前で、踊り始めた。相方がそれをビデオで撮影する。二人の上にも、細かい土砂が降っている。異様な光景だった。為す術もなく、通り過ぎた。
コンビニの店先に、カエル親父の姿が見える。息子の遺体が出たばかりなのに通常運転。
オフ会参加者からぼったくろうとする様子が、実況スレで晒されていた。
店の前で、包帯だらけの犬を抱いた老人と立ち話しをしている。
柴犬は逃げようともがくが、老人は静かにせいと犬の頭を叩き、話を続ける。
紗依ちゃんは窓を閉めた。
「あの人たちとは喋りたくない。あの店って、買物に来た可奈ちゃんに、定価の十倍で売ろうとしたんだよ。大体あの店の息子のせいで村が四次元につけ込まれたのに、悪いとも思ってないし。うちの息子は脱会したが、長壁家は隠れ信者だ、教団の金でのうのうと暮らしてるとか、大嘘言うし。可奈ちゃん言ってたけど、一年前にコンビニの息子の消息を尋ねたら態度が豹変したって。息子が消えたの、可奈ちゃんが関係してると思い込んだみたい。だからって、何で作り話まで言いふらすんだろう。頭おかしいよね。見え透いた嘘に騙される方も馬鹿だけど。柴犬を抱いた老人とか。金森一家とか。へら田もそうだと思う。みんなどうかしてるよ」
背後でドーンと轟音が響いた。一気に辺りが暗くなる。
盛大に土煙を上げて、土石流が流れて来た。
家も畑も飲み込んで、日差しを遮り、黒い津波のように走って来る。
「来たわね」
叔母さんは、ハンドルを取られるほどアクセルを踏み込む。振り返った紗依ちゃんが、土石流の勢いに呆然と呟いた。
「もう無理かも。どう見ても、向こうの方が早い・・・」
「それでも最大限、努力はするわよ。あなただって生き延びて、親孝行しないとね」
土砂は背後まで迫っていた。車体にバラバラと砂礫が当たる。
「もうすぐ国道なのに! 神様!」
叔母さんはカーブで土砂の勢いが削がれる瞬間に望みを託している。
その曲がり角まで、二百メートル。土石流の先端は、タイヤ近くまで迫っている。
逃げ切れないと判断した叔母さんは、紗依ちゃんに聞く。
「あの小道って、どこに続いてるの?」
行く手に、車一台通れるくらいの細い脇道が見える。
「どこにも。少し行って、行き止まり」
「そっちに逃げようと思ったけど、駄目か」
「行けるよ、叔母さん。そこの脇道に入って」
「入ってどうするのよ」
「分からないけど、長壁姫がそっちに曲がれって言ってる」
迷う叔母さんに、なおも言った。
「あの人、山の上からこっちを見てる。いいからその細い道に入れって、何度も言ってる」
叔母さんはハンドルを切った。急な進路変更に、紗依ちゃんが悲鳴を上げる。
「えーっ、こっち、行き止まりなのに!」
「大丈夫。行けるところまで行って」
聞こえて来る言葉を繰り返した。
車は傾斜を駆け上る。十メートルもない短い道。
突き当たりは、トタンで囲った農機具置き場。車はトタンの壁に激突し、ボンネットがめり込んだ状態で停車した。
後ろのガラス越しに、村道を流れて行く土砂が見える。土砂は小道まで流れ込む。このまま車ごと生き埋めかと思ったが、タイヤを埋めただけで流れは止まった。
恐る恐る外に出てみる。土煙は酷いが、土石流は止まっている。
「何とか歩ける。また崩れるかも知れないから、今の内に歩いて逃げよう」
「ドアもちゃんと開くじゃない。悪あがきはして見るものね」
堆積した土砂の上に降り立ち、軽く言うが、叔母さんの膝は笑っている。大笑いだ。
紗依ちゃんが叔母さんの荷物を持ってくれた。バッグと麩菓子を抱えて、先に立ってザクザクと進んで行く。
私たちも後を追う。一歩ごとに足の沈む土砂の道を、何とか歩いて国道に出た。
土石流は村を埋め尽くし、国道の一部まで塞いでいた。
「あのままこっちに走ってたら、完全に埋まってたね・・・」
跡形もなくなった黒流村を見ながら、紗依ちゃんが言う。
天堂や仔犬丸が切り開いた村が消えていた。ハンターと往復した道が、跡形もなく埋まっていた。
叔母さんも振り返って呟いた。
「あの車も頑張ってくれたけど、置いてくしかないわね。こんな悪路を引き取りに来てくれるかしら、ニッポンレンタカー・・・」
車はともかく、私たちは無事だった。
もう姿は見えなかったが、可奈ちゃんの先祖に、心の中でお礼を言った。
五月七日 月曜日
「で、望月家以外はみんな土砂の中か」
探偵が叔母さんに言う。今日は白のレーシングスーツ。ブーツは銀だ。
「多分ね。用があって村の外にいた人は別でしょうけど」
「植田の父は? 交番は無事だったんだろ?」
「そうね、建物だけは残ってたけど・・・」
叔母さんは思い出すのも嫌そうだ。
植田の父はあの非常時に、交番で居眠りをしていた。
だらしなくデスクに突っ伏す姿を見て、叔母さんは腹を立てた。
ちょっと待ってて。そう言って、交番に踏み込んだ。駐在を叩き起こして、説教するつもりだった。だが、叔母さんはすぐに戻った。
「もう、話にもならないわ。行きましょう。何なのよ、あの駐在。警察も、もっとまともなのを雇うべきよね。人材なんて探せばいるのに、何でわざわざ変なのを選ぶのかしら・・・」
「土砂崩れならレスキュー隊でも呼べって言われた? 余計な仕事を持ち込むなって。あの人、いつもそう言うけど」
「まあそんなところね、仕事する気はなさそうよ。ここはいいから、早く竹脇村に行きましょう」
叔母さんは先を急ぐ。紗依ちゃんに、交番の中を見せたくないのだ。
植田の父は、職場で永眠していた。
毒殺だろう。顔が紫に腫れ上がっていた。すでに死んでいるのに、目と耳から黒っぽい液体が流れ続けていた。
吉良の母の仕業だろうか。あるいは使えないから切られたのか。
どっちにしても、内ゲバみたいな物だった。
一応確認すると、ホルダーの中に銃はなかった。代わりに猿のぬいぐるみが押し込んであった。
また猿かと思いながら外へ出ると、交番の周囲には人だかりが出来ていた。
黒流村の元住民が集まって騒いでいる。死んでも変わらない人たち。
カエル親父の幽霊がいる。柴犬を抱いていた老人の幽霊もいる。今は犬はいない。犬の代わりに草刈鎌を持ち、カエル親父を罵っている。
山が崩れる訳がないと、お前が言うから逃げ遅れた。くだらんお喋りを何故続けた。全部お前のせいじゃ。生き埋めなんぞ冗談じゃない。畳の上で死ぬはずだった。そのつもりでリフォームしたのが無駄になった。いくらかかったと思ってる。一体どうしてくれるんだ。
カエル親父も反論する。いいや、悪いのはほっちじゃ。あんな馬鹿犬を連れ歩くほっちが悪い。犬が暴れるから山崩れの予兆を見逃した。全部犬のせいじゃ。つまり飼い主であるあんたのせいじゃ。
於佐壁家の隣人もいる。植田の母もいる。全員が自分の不運を呪っている。
どうして迎えが来ないのか。これから一体、どうすればいいのか。
不安な思いに苛まれ、喚かずにはいられない。
百人超の怨嗟が吹き溜まり、辺りが暗く淀んでいる。
その中を極彩色の叔母さんと紗依ちゃんが歩いている。走って二人の前に行き、露払い役を務めた。
金森姉妹の親が、至近距離から紗依ちゃんを嫌な目つきで睨んでいる。何かブツブツ言っている。
―この子に何の文句があるの。こうなったのは、全部自分のせいでしょう。それ以上近寄ると、許さないよ
心の中で警告しながら先導した。
呪いの言葉と腐った声が周りから押し寄せる。魔道と化した国道を歩いていると、凶暴な気配を放つ人影が立ち塞がる。
吉良の父だ。猟銃を構え、夜叉の形相で私を睨む。
睨み返すと、足元から風が巻き起こった。
後ろ暗さを持たない事が力になった。
目の前にいる悪霊など、一息で叩き潰せる。そう思った。
勇猛果敢な軍隊を引き連れているように強気で言った。
―恨まれる覚えはないから。むしろこっちが怒ってるんだけど
吉良の父の全身から、黒い炎が吹き出している。
―いい加減逆切れとか、止めてくれない? もう一度言うけど、怒ってるのはこっちだから
吉良の父は、私から視線を外した。
叫び声を上げると周りの村民に殴りかかった。相手構わず銃身で殴りつけた。
百人超の幽霊は、誰一人応戦しない。説伏する気もない。蜘蛛の子を散らすように、一斉に逃げ出した。あっと言う間に姿を消した。
吉良の父は収まらない。
―植田のせいで、あの馬鹿のせいで、うちの家族は・・・
どす黒い怒りを発しながら交番へ入って行く。背中に、深々と包丁が刺さっているのが見えた。
あの人は吉良の母に、自分の妻に殺されたんだと思った。
感慨はなかった。これ以上関わりたくなかった。
叔母さんたちと先を急いだ。
「あの駐在は自業自得よ。自分でも不思議なくらい、同情心が湧かなかったわ。それどころか死顔が醜悪で、腹が立ったわ」
日付けが変わっても、叔母さんは不機嫌だ。
「しばらくはマスコミも、山梨から離れないな」
水無瀬氏はそう言うが、待合室のテレビは消えている。誰もスイッチを入れようとしない。
「今のマスコミに期待しても。植田家の事件もスルーしたのよ。あれだけ動画が出回ってるのに、一体、誰を騙そうとしてるのかしら」
「まだ過去の成功体験に酔い痴れてるんじゃないか? 騒音おばさんを悪者に仕立てた前科があるだろ。あの悪行の報いで、当時のまま頭がフリーズしてんだよ」
「しかし、今から四次元が被害者ぶるのは無理だろう」
「水無瀬氏にしては大甘の予想ね。教団全体は無理でも、信者は被害者だ、騙されただけの善人だって言い張るわよ。仮にあの馬鹿教祖に本気で帰依してたら、救いがたい鳥頭って事になるけど、その鳥頭を全力で庇うわよ。鳥頭はマスコミに守られて、別のカルトにごっそり移動。また同じ騒ぎを起こすわよ。当然よね、成長してないんだから。馬鹿の無限ループよ。もういい加減、鳥頭は社会のお荷物だって認識しないと。カモがいなければ、詐欺は成立しないのよ。カモ集団がいなければ、詐欺師だって大した事は出来ないのよ。それでも被害者ぶりたい信者は、カモの羽根でも着けておくのね。赤い羽根みたいに。自由に野に放てば、周りが迷惑するんだから。四次元を庇うマスコミは、額に"人☆肉"とか"犬"とか"残飯"って油性マジックで書いたらいいのよ。私の脳細胞はこんな物で出来てますって。タロットさん、イギリスのマスコミはどうなの? やっぱり太鼓持ちばっかり?」
「正直言えば、"イギリスのマスコミ"なんて物が存在するのか、そこからすでに疑わしい気が」
アリシアはカードを一枚選ぶ。私の祖国のマスコミの現状。言いながらカードを返す。出たのは霧のカードだった。
「やっぱり。太陽は出ないと思ったけど」
「日本の現状を占うのは止めてね」
叔母さんの不機嫌は根が深い。まだ文句を言っている。
「麩菓子も当分見たくないわ。どうして探偵、猿顔の犬の群れに紺が追われる夢なんか見たのよ。逃げながら必死で麩菓子を探してたとか、何で知らせて来たの。普段メールなんか寄越さないのに」
「それは・・・。今となっては、自分でもよく分からん」
「探偵だけじゃないわ。夏さんまで妙なメール送って来たのよ。気になって出かけて見れば、あの子たち、にこにこしてほうとう食べてるじゃない。腰が砕けるかと思ったわよ」
「でも叔母さん、メールのお蔭で紗依ちゃんを助けに行けたし。麩菓子持って歩いてたから、オフ会の車にすぐ拾って貰えた」
それはそうだけど、あなた私に説教するのみたいな目で、叔母さんは私を見る。
「何? 麩菓子って」
カードを切りながら、アリシアが尋ねる。
「オフ会参加のサインだろ。車に麩か麩菓子を置いとくのは」
「そうじゃなくて。いえ、今の説明も必要だったけど」
「あ、麩菓子自体を知らないのか」
「確か、自販機コーナーにあったような・・・」
「師匠セレクトの自販機? 見た覚えがないわ」
「麩菓子はないよ。水無瀬氏、ココア味のうまい棒と間違えてない? でも、麩菓子も自販機に入れようかな。ちょっと愛着湧いて来た」
「盆栽は置かないの? 指の先くらいのマイクロ盆栽。あれ可愛いわよね」
「自販機で盆栽は無理だろう」
「じゃあ、すあまは? ピンクのすあまって、バーバパパみたいじゃない?」
「生菓子も無理だって」
「じゃあ、小さな瓢箪とかベビーきゅうりのお漬物は?」
「瓢箪の漬物! 何でそんな物まで知ってるんだ?」
「可愛い物は全部知りたいのよ。リサーチに抜かりはないわ。最近はAIBOの小型化を期待してるの。手乗りサイズのAIBO。可愛いと思わない?」
占い師たちが支度しながら喋っている。いつも通りの午後。
可奈ちゃんと初めて会ったのも、この時間だった。
あの子は山梨から、新宿のデパートに葡萄を納入するお父さんの車に同乗して来た。仕事を手伝うつもりだった。
冥王星の前を通る時、仔犬が言った。
あの店を訪ねてみろ。
この状況で占いが役に立つとは思えなかった。
それでもワゴンが信号で停まると、反射的に助手席から飛び降りた。
ちょっと用事。一時間ぐらいで戻るから。お父さんにそう告げて、走り出した。
三週間前の日曜日。
待合室には明もいた。新作衣装を見せに来ていた。
黄緑のスーツに、黄色のシャツ。靴底まで凝った金色シューズ。
「底にドラゴンボールを仕込んだ靴とはね。どこで見つけて来るのやら」
「いやこれ、スーパーボールだから。集めても龍は出ない。しかし、歩く時もっと弾むかと思ったけど、意外に普通。いや、微妙に弾むか?」
「そのボール、ローラーシューズみたいに回らないのか? ヘナヘナ滑って登場すれば、アホらしさも倍増だろう」
「出来ればそうしたいけど、滑らないんだなこれが」
隣でアリシアが、電飾だらけの明のガウンを羽織ってみる。
「今回は黄色系ね。ピンクの衣装はもう着ないの? コスプレ戦隊・・・」
「コスモスピンクか。あれも悪くないけどな。次のはちょっと真面目なライブだから」
「真面目なライブで、その電飾」
水無瀬氏が受けている。仕事中はスーツが定番の水無瀬氏も、まだ私服だ。パーカーの下に、アンパンマンTシャツ。プレゼントしたのに着てくれないと望くんに泣かれて、急遽着たらしい。
要するに、みんな変な格好。
「なーんか、これ以上まともにすると、就活になりそうでさ」
明は唐突に歌い出す。
こんな服でこんな服でー
僕はー生きたいんだー
生きてー行きたいんだー
即興の替え歌が終わると、入り口の自動ドアがすっと開いた。
しまった、ロック忘れた。全員の動きが止まる。
まずい。開店前のこんな姿を、お客さんに晒すのか。
凍りつく待合室に現れたのは、可奈ちゃんだった。隣には、仔犬丸。
ごめんね、まだ準備中。十五分したらまた来てくれる?
普通ならそう言うところだ。
しかし、誰も口をきかない。魔物に魅入られたように動かない。
実際、その時の可奈ちゃんは、人間に見えなかった。呪いの日本人形みたいだった。
黒髪の下で、目が異様に冷たく光っていた。馬鹿を見過ぎて、冷たい怒りが飽和していた。怒りを通り越して、殺気が出ていた。氷の炎のような瞳で、待合室を見渡した。
ゼブラ模様の特攻服を着た探偵。
電飾ガウンを羽織ったアリシア。
巨大なサングラスをかけた、能天気衣装の明。
三歳児が描いたアンパンマンTシャツの水無瀬氏。
―何なの、この人たち・・・
部屋の奥にいた私にも、可奈ちゃんの動揺が伝わった。
―この人たちに、何が出来るの?
心の中で、竜巻のように疑問が渦巻いていた。
「一番奥にいるのが、隠神の末裔だ」
仔犬の言葉に、可奈ちゃんがこっちを見る。射るような険しい目。
私は自販機コーナーから出て言った。
「天堂と、高山数馬の子孫です」
可奈ちゃんの目に悲痛な色が浮かんだが、構わず続けた。
「仔犬丸があなたをここに連れて来たんでしょ。何があったか言ってみて。私も少しは手伝えるかも」
可奈ちゃんの瞳に、涙が湧き上がった。目の淵から溢れたのは、血の混じった赤い涙だった。
―もう、この世界に、私を助けてくれる人は、いないんだ・・・
血を吐くような嘆きとともに、赤い涙が頬を伝い、白いブラウスに染みを作った。
私は喋り続けた。
「変な格好してるけど、この人たち、腕は確かだよ。とにかく、話してくれないと」
自分の事より、こっちを先に言えばよかったのだ。喋る順序を間違えた。
気づいた時には、完全に誤解されていた。
可奈ちゃんは、私を唯一の眷属と取ってしまった。何の役にも立ちそうもない、ニートもどきの私を。
「諦めるには早いって。ここには探偵もいるし、下のお店には夏さんも。他にも親戚やら眷属が、あちこちに生き残ってる。とにかく何か言ってくれないと」
「誰も、・・・まともな事をしない」
やっと喋り出したが、あまりに抽象的で、誰一人返答出来ない。沈黙の中、続きを待った。
「何人殺されても、何もしない・・・」
言葉は切れ切れだった。一年近く引き籠っていたのだ。それが突然出て来て、すらすら話せるはずもなかった。
「事件であれば、面倒でもまず警察に行かないと」
常識的な反応で、水無瀬氏が話を促す。
「警察は、もう知ってる。失踪って発表した。でも、本当は、失踪じゃない・・・」
「失踪って、誰の事?」
しばらく間があった。強力な煩悶だった。
この人たちに言うべきなのか。却って困った事になるんじゃないか。
占い師たちは黙って待った。
「櫻井さん・・・。一家、全員、一年前に殺されてる」
「櫻井さんって言うと、学校の先生か? あれは酷い話だよな。夜の夜中に、行く当てもない、足もないのに失踪しましたって。赤ん坊がいるのに、着替えもミルクも財布もなし、何も持たずに消えましたって、そりゃ事件に決まってるよ」
「誰も、そう言わなかった。言わなきゃいけない人が、言わなかった」
探偵の話を遮るように、可奈ちゃんが続けた。
少し言葉が滑らかになって来た。
「一家が殺されたって言う、確かな証拠は?」
落ち着いた低い声で、水無瀬氏が尋ねる。
可奈ちゃんは微かに首を振る。パラパラと涙が落ちる。
辛いところだ。隠神だから分かるなどと、口に出せない。
「四次元は、櫻井一家の事で、脅迫されてる。脅されて、必死でスパイを探してる。この一年、疑われて施設から逃げた信者が、何人もいる。それまでは、飢えて逃げる人ばかりだった」
占い師たちは、黙って聞く。
「山に、誰か、埋められてると思う・・・」
「何故そう思うんだ?」
「夜中に、犬が異常に吠えて、外を見たから・・・。信者が車で、山に向かってた。行きより、帰りの人数が少なかった」
コンビニの息子の運転で、黒流山に向かう車を、この子は窓から見た。
いくつもの人魂が、纏い付くように車を追っていた。
その子をどこへやる、子供を返せ。
人魂の叫びを聞いた。
「そこ、重要だな」
「村の住民の車だった。行きは本人が運転してたけど、帰りは車に乗ってなかった。その住民、それから一度も見てない。出家したって親は言うけど、親も騙されてると思う」
「その住民は信者なのか。で、山に埋められた可能性が高いと」
「赤ちゃんもいると思う。櫻井さんの子だと思う」
「そう思う理由は?」
「ヤンキーが言ったから。お前も山に埋めるぞって。赤ん坊みたいに、磐の石の下に埋めてやるって、私にそう言ったから」
「そこ、もうちょっと詳しく」
「村に二人ヤンキーがいて、山に行こうとしたら邪魔して来た。無視して行こうとしたら、お前も山に埋めてやるぞって。赤ん坊みたいに殺して埋めるぞって」
「そのヤンキーが事件を知っているとして、簡単に情報を漏らすかしら?」
「あの二人なら、やると思う。馬鹿だし口も軽いから。元々そうだったけど、一年前に、急に馬鹿の方向が変わって、凶暴になって、黒流山の麓で番をするようになったから、命令されてやってるとしか・・・」
「そのヤンキーは、四次元の信者なのか?」
「それは知らない。でも、うちの村に、四次元の信者が移り住んでゴタゴタした時、家族揃って信者を擁護してた。普段は人を庇う事なんて、全然ないのに」
「ここで一旦話を纏めると、山梨で四次元が、スパイ探しに汲々としている。櫻井さんの事で脅されてると思われる。おそらく山には、櫻井家の赤ちゃんと信者がいる。しかし証拠はない。この理解で間違ってないか? よし、じゃ、どうするかだ。お客さんの希望としては、どうしたい?」
可奈ちゃんは探偵を睨むように見てから答える。
「・・・赤ちゃんを、山から出してあげたい。出来れば、両親も、探したい。四次元には潰れて欲しい。いるべき場所に帰って欲しい」
再び重い沈黙が訪れた。順当な要求だが、やるとなると大変だ。そんな気配。
「俺、部外者だから帰るわ。深刻そうだしな。みんなしっかり占ってやれよ」
明が立ち上がった。アリシアからガウンを受け取り、衣装のまま帰ろうとする。
探偵が引き止めた。
「これも何かの縁だろう。お前も手を貸せ」
「俺は占い師じゃない」
「占いより、その頭脳線が必要だ。どうもそんな気がする」
水無瀬氏に言われて、明は自分の手をちらっと見る。
占い師たちを驚嘆させた、奇跡の手相。
あり得ないほど短い。何だこの頭脳線!
しかもこの短い頭脳線から、本線を凌ぐ支線がいくつも出ている。頭脳線にアホ毛が生えてる!
その上このアホ毛、信じられない方向に向かって伸びてるぞ。ここまで変わった手相があっていいのか!?
占い師全員が目を疑い、二度見、三度見した無類の珍相。アホ毛の生えた頭脳線。
「だから、仕事が終わったらこっちに来なさい。北海道の話はその時聞くから。分かった? じゃあね」
事務所の方から声がする。ドアが開き、携帯を閉じながら叔母さんが入って来た。
「予約だけなのに、二十分もかかるなんて」
可奈ちゃんと仔犬を見ると、にっこり笑った。
「まあ、珍しいお客さんね。入って、どうぞ、かけてちょうだい。よく来てくれたわね、何だか初めて会う気がしないわ」
占い師が全員揃うと、待合室で作戦会議が始まった。
「その傷は、どうしたの?」
テーブルについた可奈ちゃんの袖から覗く傷跡に、アリシアが気づいた。
「エアガンで、ヤンキーに・・・」
「撃たれたのか?」
「人を撃つなんて、信じられないわね」
「他に被害は?」
聞き出してみると、この子は一年間、集団ストーカーの被害に遭っていた。
四次元信者が山に行った翌朝、コンビニのカエル親父に息子の所在を確かめた。まだ寝てるんじゃろと、親父は言った。
夕方、学校帰りに再び寄ると、息子は夜の間に出て行った。出家した。施設から電話があったと説明を変えた。
翌日、櫻井一家失踪のニュースが流れた。可奈ちゃんは黒流山に行こうとした。掘り返された場所があれば、通報するつもりだった。
しかし山へは行けなかった。麓にいた植田と吉良に邪魔された。
オカルトいじめとコンビニのぼったくりが始まった。
コンビニのカエル親父は触れ回った。
実は長壁可奈子は四次元信者だ。息子に聞いたから間違いない。同じ信者だからいいだろうと、店の商品を大量に持って行く。このままじゃ、うちは潰れる。あの性悪女に、天罰が落ちん物かのう。
店の前で、柴犬を抱いた老人と大声で話していた。
可奈ちゃんはコンビニに行くのを止めた。遠くの町まで買物に出かけた。
出かける度に貞子の群れと擦れ違った。
貞子は小さな目で可奈ちゃんをジロジロ睨み、囁き合った。
見て、あれ。長壁可奈子よ。恐喝犯の仲間よ。地獄行き確定の長壁可奈子よ。こんなところで何してるのかしら。死亡通告が出てるのに。逃げたって無駄なのに。山梨はもう四次元の物なのに。見て、あれ。長壁可奈子よ。最低辺の引き籠り、心の腐った恐喝犯よ・・・。
信号や踏み切りで立ち止まると、不細工に囲まれた。
不細工は一斉にブツブツ言った。
宅間守です。大悪人長壁可奈子に天罰を与えに来ました。東慎一郎です。大悪人長壁可奈子に天罰を与えに来ました。織原城二です。大悪人長壁可奈子に天罰を与えに来ました。癇直人です。大悪人長壁可奈子に天罰を与えに来ました。林真須美です。大悪人長壁可奈子に天罰を与えに来ました。
自転車で走っていると、DQN車に絡まれた。
DQNは車で並走しながら盗撮した。笑いながら幅寄せした。窓から物を投げて来た。
家にいても、植田の父がやって来た。
日に何度も何か変わった事はないかと聞きに来た。
用もないのに長壁家の前にパトカーを停め、サイレンを鳴らし続けた。
長壁家の庭で早太郎に話しかける可奈ちゃんの声を、こっそりと録音した。
それを本人の耳に入るよう、再生した。
ベランダに出ると、再生した。
窓辺に出ると、再生した。
お父さんが留守で、可奈ちゃん一人の時を狙って再生した。
プライバシーなど簡単に踏み躙れると、自慢しているようだった。
長壁家の隣の独居老人が盗聴役を引き受けた。日々レコーダーを準備して粘着した。
しょっちゅうやって来る植田の父と一緒に、長壁家に面した窓辺に張り付き、録音、再生のチャンスを窺った。
早太郎の体を庭に埋葬した時は、うひーうひーと感に堪えない笑いを漏らした。
いつまでも早太郎のお墓の前にいる可奈ちゃんに聞こえるよう、再生を繰り返し、手を叩いて喜んだ。
二十四時間、どこにでもストーカーはやって来た。
田舎ヤンキーだけの仕業ではなかった。
四次元信者だけでもなかった。
騙され、脅され、買収されて教団に手を貸す一般人があちこちに存在した。
「ご家族には相談しなかったの?」
「うち、父と二人だけだから・・・。悪い人じゃないけど、普通の人だから言っても分からないと思って・・・。でも、早太郎があんな事になって、流石に変だと思ってるみたい・・・」
可奈ちゃんは、抱いていた疑問を口にした。
「ここの人たちは、こんな話を信じるの? 山に行こうとしただけでこんな目に遭うって、おかしくない?」
冥王星に来てからずっと心の中で疑っていた。
何だ、このリア厨。ノイローゼか? 糖質か?
今にも相手がそう言うのではと、疑惑の視線を向けていた。
水無瀬氏が静かに言った。
「信じるも信じないも、似たような話を聞いているから。家族や知人を四次元に奪われた人たちからね。示し合わせた訳でもないのに、彼らの話は共通していた。四次元は異常者の集団だ。常識は通じない。知人の入会に反対したら、脅迫された。ストーカー被害に遭った。家族を脱会させようとしたら、殺されかけた。通報したが、警察は動かない。それどころか、被害者の自分が捜査対象にされている。法律は役に立たない。加害者しか守らない。一体どうしたらいいのか。そんな相談ばかりだったよ。ストーカーに関して言えば、あなたの話と細部まで全く同じだ。四次元には、集団ストーカーの指南役でもいるんだろう」
水無瀬氏に続いて、探偵も言う。
「ホロン部があるなら、ストーカー部があったって不思議はないな。何しろ四次元だから。粘着ストーカーでおかしくさせて、信者が経営してる病院に誘導。そこで永遠に入院って筋書きだったのかもな。あるいは地元の信者がポイントを稼ぐために、こいつがスパイだと妄想を垂れ流した結果とも考えられる。そんなケースも実際あった。一々挙げればキリがない。結論を言えば、俺たちは四次元がどれほどあさってか、すでに充分理解している。被害者を糖質扱いして追い返す趣味もない」
「あの人たちに取っては、自分以外は餌なのよね。仲間とか隣人とかの概念は、ないみたい。だから平気で子供にも手を出すし、駒にも使う。自分がそうだから、中学生でも脅迫ぐらいするはずだと思うのかしら。私は四次元信者って、レプリカントだと思ってる。不良品のね。見て。今、一枚引いてみたの。ボルケーノ、火山のカードよ。今までは冴えないカードばかりだったけど、やっと強力なカードが出たわ。時が来て、物事が動くってメッセージよ、きっと」
可奈ちゃんにカードを見せるアリシアの後で、叔母さんも言った。
「これで事態が変わるわね。山に赤ちゃんがいるって分かったら。四次元の犯行だって、確信があるんでしょ?」
「あるけど、証拠は・・・。山の麓には、いつも植田と吉良って言う馬鹿コンビがいて、近づくとエアガンで撃って来るし・・・」
「その二人だって、学校行ったりするんだろ?」
「そうだけど、下手に赤ちゃんを見つけると、発見した人が犯人にされる気が・・・」
「その危険はあるな。相当な賭けになるぞ」
「じゃあどうするの?」
「地元に信頼出来る人は?」
可奈ちゃんは首を振る。
「黒流山に小さな集落があって、そこの人たちはまともだったけど、今は廃村になってる。黒流村はもう、誰が信者で誰が教団の手先なのか、よく分からない・・・」
考え込む占い師たち。
水無瀬氏が呟いた。
「ハンターがいる。彼は適役だ」
「あの人、引き受けてくれるかしら」
「普通は断るだろうね。でも、何とかなるだろう」
「そうね、他に適役はいないわね。もしハンターのご家族が反対しなかったら、頼んでみましょう」
これで事態が動くかも知れない。そう思った時、微かな足音が聞こえて来た。誰か廊下を歩いて来る。
「俺、さっきロックしたっけ?」
入り口近くにいた明が確認に立つが、間に合わない。開いたドアの向こうに、目の覚めるような美少年が立っていた。
「あ、まだ準備中なんですよ」
慌てる明を見て、優しく微笑む。
「いえ、僕はあなたに会いに。ここで会う約束の、橘優貴です」
「て事はホワイトスネーク、いや、スノーホワイトか! ノーメークだと別人だな」
「ええ、よく言われます」
「あなたたち、この店で待ち合わせ?」
叔母さんが呆れている。
「このメタル少年が、レモンケーキもパラソルチョコもホームランバーも知らないって言うから、ここの自販機を見せてやりたくなって。しかし、今は取り込み中だよな。俺たちはお暇するわ。探偵、後で電話するわ」
「お邪魔しました。失礼します」
優貴くんは店内の人々に会釈する。
そして仔犬を見つけてしまった。江戸時代の幽霊に遭遇して、彼は驚く。
「どした? 早く行こうぜ」
明に言われて動いたのは、仔犬だった。
可奈ちゃんの隣から、優貴くんの元へ、テレポート並の八艘飛び。
行く手を塞がれた優貴くんは、何も見なかった事にして通り過ぎようとした。
その彼の腕を、仔犬が掴み、引き止める。
叔母さんが声をかける。
「そこのあなた、どこから来たの?」
「僕ですか・・・」
優貴くんは仔犬を振りほどこうとしながら、それでも質問に答える。仔犬は頑として離さない。
子供の頃、祖母から話に聞いた天狗小僧。それが何故ここにいて、自分の腕を掴むのか、彼は理解出来ない。
混乱しながら叔母さんに答えている。
「今はイタリアですが・・・、元々うちの先祖は、日本で、四国で笛を吹いたり、舞ったりしてました」
「舞ってたって、獅子舞? 剣舞?」
「いえ、金剛流の能です。至高の奥義は、踊おどりと聞いています」
竜宮城ネタを出して来た。仔犬に、僕は敵じゃないと訴えている。自分の先祖と仔犬の仲をアピールしている。
しかし仔犬は離れない。
「踊おどりね。あなた、出来る?」
「出来るかも知れませんが、あまりやりたくは・・・」
叔母さんは嘘つき判定をしているのだ。彼が本物の眷属か、確認している。
明は面白がっている。
「何だ、踊おどりって。碇借り、網編み、トロ取ろうの親戚か?」
優貴くんは絶望的な眼差しで明を見る。
―そうか、この人には見えないんだ。それなら自力で何とかしないと。しかし一体、どうすれば・・・。
叔母さんも探偵も、悩む優貴くんを黙って見ている。
こんな眼を持って生まれた以上、一人うろたえながら成長するしか道はないから。
迷う内に自分を特別な存在だと思い誤り、魔界に落ちる事もある。大歩危小歩危の細い道だ。
優貴くんは困り果てて周りを見渡し、可奈ちゃんの血に染まった服に気づく。
「酷い。どうしたんです、その血は・・・」
「粘着ストーカーを野放しにしとくと、こうなるんだよ」
明の雑な説明の後で、仔犬も言う。
「酷いと思うなら、お前が助けてやれ」
そう言われて、優貴くんは仔犬丸を振り返る。
助けてやれ? 呪い殺してやるとかじゃなく、助けてやれ?
落ち着いて見てみれば、仔犬から邪悪さは感じなかった。
異様な怪力で逃げようもないが、腕も怪我しないように掴んでいる。
時代がかった髪型や着物姿に惑わされるが、中身は普通の青年だ。
「・・・僕に出来る事があれば、力になります」
そう応じた優貴くんからは、怯えが消えていた。彼は可奈ちゃんに向かって尋ねた。
「そう長く日本にはいられませんが、取り合えず、何をしましょう」
抵抗を止めたので、仔犬も手を放す。それでいいんだと、優貴くんの背中を軽く叩いた。
人魂騒ぎの野音から二週間が過ぎた。
結局、山梨大捜索で、櫻井さん夫婦は見つからなかった。
山が崩れて、黒流村の他、竹脇村の一部も埋まった。麓にあった中学は、完全に土砂に埋もれた。
悪い事はまだある。
植田家の事件も井戸の河童事件も、一切報道されなかった。植田の父も自殺で片付けられた。
血沼平で四次元信者が土を掘る姿が度々も目撃されていたのに、それもスルーされている。
猿の着ぐるみ銃撃事件も、うやむやになりそうだ。捜査は全く進んでいない。
四次元も潰れるどころか、自分たちは被害者だと宣伝している。
達也ちゃんを埋めたのは、黒流村の村人だ。四次元を山梨から追い出すための工作だ。我々は不当に差別されている。
この四次元の妄言を、マスコミはせっせと電波に乗せて拡散している。
よかったのは、パピヨンが見つかった事ぐらいだ。
地震の後、山から降りて来る犬の一群があった。ハスキー、プードル、ミニチュアダックス。過去に流行った犬種とそのミックスの野犬の群。
その中にいるパピヨンに、紗依ちゃんが気づく。ドアを開けて呼びかけると、パピヨンは嬉しそうにオタ車に飛び乗った。
犬の群れはその様子を一瞥すると、再び静かに歩き出す。
先頭にいるのは早太郎だった。
山に潜んでいた捨て犬たちを率いて進んで行く。
どこに行くのだろう。今時、野犬の生きる場所などあるだろうか。
しかし早太郎には、何の不安もないようだ。
災害にうろたえる人々の間を抜けて、足早に去って行った。
探偵は携帯で、明のサイトを見ている。昨晩のチャットのログだ。
紺ちゃんや磯くんも参加している。
「オニコが紺ちゃん、ISORAは怪談部の子だったよ。視力が凄くいいって言うから、ちょっと緊張した。何もなかったけどね」
横から口を出すと、探偵は黙って頷く。
きなこ餅> 今日、謎の深海魚観て来たよ
ISORA> 俺も観たー。野音の時とは全然違ってた
きなこ餅> 喋りはのんびりなのに、やる事が派手でびっくりだよねー。だけど血文字事件・・・。せっかくいい雰囲気で、ファンも増えそうだったのに、なんて不憫なバンド・・・
オニコ> 血文字なら、おたくが速攻謎解きしたよ。黒流村の神社跡の井戸で河童三人見つけたって
赤影> カッパだと!?
オニコ> そう。河童みたいな水死体。藻かコケまみれで全身みどり、物凄ーく水臭かったって。今なら検索すれば画像あるよ
赤影> 見たくねえ・・・>画像
琵琶牧々> その河童、櫻井さんじゃないよな?
オニコ> 櫻井さんとは似ても似つかぬモヤシ体型、河童禿げの男二人と貞子ヘアの女一人だって。さつきさんってショートだよね
きなこ餅> じゃあ信者だよ。実況スレで見たけど、黒流村乗っ取り計画の最中に、食事の取り合いでキレた一人が暴れ出して、仲間の信者を次々井戸にドボン。危うく逃れた信者の家族らしき人がスレに来て話してた
フリータ> ネタだろ。食事の取り合いとか
きなこ餅> いや、四次元ってそんなだから。タコ部屋以下
ソース君> 俺はイカ娘ラブ
オニコ> そいえば河童、信者服着てたらしいよ。みどりに変色してるけど、どうもそうらしい。画像じっくり見てみれ
きなこ餅> だから画像は結構;
フリータ> 俺も見たくねえよ。飯がまずくなる・・・
ちょうどリロード時間が来た。彼らの残したログは、魔法のように消えて行く。
「俺も仕事にかかるか。今日あたり、ハンターが来そうな気がするんだ。しばらく会ってないからな」
携帯をしまうと、探偵が立ち上がる。
「面倒だけど、来ないと気になる不思議な人よね。あ、いいカードが出たわ。もしかすると、変わったお客さんが来るかも」
冥王星の今日の運勢を占っていたアリシアが言う。
「そうなると、やっぱりハンターが来るんじゃないか?」
「どうかしらね。あの人、最近人気者だから。山仲間が出来て、忙しそうよ」
「ちょっと早いけど、もうロック解除してみたら?」
探偵に声をかけた。
解除とほぼ同時に、ハンターが入って来る。
「あー開いてた。ラッキー」
彼は両手に大きな紙袋を抱えている。
「久し振りだな。怪我の具合はどうだ?」
探偵の挨拶を無視して喋る。
「今日は占いと違うんよ。この前あんたに、食べかけ餅押しつけたのが気になってな」
喋りながら、探偵に紙袋を渡す。
「と言っても、これも貰い物やけど。周りが妙に同情して、色々くれるんよ。お見舞いにって。今、うち、お菓子の家よ。で、お裾分けっつうか。まあ、やっぱりみんな、本心ではあの子にやりたいんやろね。だからって、知り合いでもないのに実家に押しかけたら迷惑やし。ま、そう言う訳よ」
「そう言う訳って、もう帰るのか?」
「今から外回りやねん。いやしかし、こんな荷物抱えて、店が閉まっとったらどうしようかと。開いててよかったわ」
言い終わると、バタバタと足音を響かせて行ってしまった。
まだ包帯はしていたが、首がだるいとは言わなかった。順調に回復している。
「・・・そう言う訳だそうだ」
探偵が、大量のお裾分けをテーブルに乗せて言う。
全員で感慨深く、お菓子の山を眺めた。
「このお菓子は、山梨の病院まで迎えに行ったお礼なのね」
「まさかハンターが、こんな事をする日が来ようとは」
「以前はあの人、生きる屍みたいだったものね」
「ちょっとでも目を離すと、家族の元へ行ってしまいそうだったよな。何年もかけて、持ち直したんだな」
「何だかハンター、もう来ないような気がするんだが・・・」
「いい事じゃないか。彼のためにはその方が。しかしこの大量のお菓子。せっかくだから、お客さんに振舞うか」
「探偵がそうしたいなら。でも本当、出来る事なら、たっちゃんに食べさせたいわね」
カステラ、最中、鳩サブレ。ハーバー、ういろう、飲み物の九重まである。
もう少し大きくなったら口にするはずだった、お菓子の山。
「さつきさん、来ないかしら。飴買い幽霊みたいに」
アリシアの声に応えるように、入り口のドアが開く。占い師たちが一斉に振り返るが、何の事はない。帰ろうとしてドアに近づいた、私のせいだ。
「あ、これ、誤作動って事にしといて」
そう言って外に出た。廊下はひんやりと静かで、誰もいない。
「今のは絶妙な誤作動だったな。オカルトオカルト」
閉まるドアの向こうで、探偵の声がした。
新宿駅から電車に乗ると、赤ちゃんを抱いた若いお母さんがいた。
赤ちゃんはしきりに私の方へ手を伸ばし、あーとか言って話しかける。
ぽちゃぽちゃした丸い頬っぺたが可愛いかった。
電車を降りると、自分でも意外なほど悲しくなった。
たっちゃんも、今の子と同じくらい小さかった。喋れないくらい小さかった。それを殺すのは、口封じではない。
殺したいから殺したのだ。
駅の側で、可奈ちゃんを見かけた。買物帰りだ。両手に荷物を持っている。
やっと少し春めいた日差しの中、氷のように冷たい気配を放射している。
冥王星に来た時、しばらく東京にいたらと水無瀬氏に言われた。
ゴミ屋敷でよければと、私が自宅に連れて来た。
鬼の母が人付き合いも放棄した家だから、隠れるには好都合だった。何もしなくていいのに、自分から家事を引き受けた。
すでに荷物は重そうだが、可奈ちゃんは駅前のマルシェで立ち止まる。
「ネーブル、買おうかな」
「目が高いね。採ったばっかりだよ」
日に焼けた青年が笑顔で言う。
荷台をそのまま売り場にした移動販売車。青い軽トラに柑橘類が山盛りだ。
「って事は、国産?」
「その通り。愛媛から高速飛ばして、今着いたとこさ」
「愛媛? そしたら、伊予弁で何か喋れる?」
自分から知らない人に話しかけている。珍しい。
「急にそがいな事言われても、自分じゃどれが方言やら・・・」
「じゃあ、ワックスとかついてる?」
「ないない、そんなもん。箱に詰めて運んだだけじゃ。チェック厳しいのう。アトピーやら何やらで、気ぃつこうてるん?」
「そうじゃないけど、お客さんに出そうと思って。でも、色々あって、見たら迷う・・・」
「ああ、おもてなしか。ほんなら、やっぱりネーブルか、新しいとこじゃニューサマーオレンジやねぇ。多少酸っぱくていいなら、夏みかんも食べでがあるし」
少し悩んで、結局最初の言葉通りネーブルを選んだ。
「ちょっこし重いかのう」
果物の入った袋を渡しながら、四国の青年が心配する。
「全然。余裕」
可奈ちゃんは妙に前向きだ。更に荷物を増やして家へと向かう。隣を歩きながら、いぶかしんだ。
この子は誰をもてなすつもりだろう。今の住所は、ほとんど誰にも教えていない。紗依ちゃんにだって言っていないのだ。
可奈ちゃんのお父さんでも来るのだろうか。
「お客さんて、誰?」
人通りのない道で質問する。可奈ちゃんは普通に答えた。
「クロさん」
あまりに自然な口振りに、私の方が混乱した。
早足で歩く可奈ちゃんに、特に変わった様子はない。キャップの下は、いつも通りの涼しい顔だ。
「約束でもしてた?」
「約束はしないけど・・・。でも、そんな気がするから」
「・・・」
「とうとう頭がいかれたなと思ってる?」
「それはないけど」
「そうかな。・・・本当言うと、自分でも自信ないんだけど」
それ切り、可奈ちゃんは黙り込んだ。
公園脇の道を歩くと、桜の花が雪のように降りかかった。
咲き残った花が、風が吹く度散っている。
今年は春が遅かった。いつまでたっても寒かった。
桜は、いつ咲いたのだろう。何の記憶もなかった。
冥王星や病院の行き帰り、毎日のようにこの道を通ったのに気づかなかった。それどころじゃなかった。
可奈ちゃんは、今も桜など見ていない。
早く帰ろう。東京にも、植田みたいな馬鹿はいるから。考えるのはそれだけだ。
公園で、舞い散る花びらをキャッチしようと子供たちが走り回っている。
昔は私もここで遊んだ。豆生田や本庄や近所の子たちと、木に登った。
中学生の頃、真剣にトランペットを練習する明の前で、女子数人で変顔をして邪魔をした。
意地でも笑わない彼の脇腹をくすぐろうとすると、本気で嫌がり逃げ出した。
みんな! 転校生の弱点が分かったわ! くすぐられる事よ!
一人が叫ぶと、全員が一斉に乗っかった。文化祭の練習を放り出し、公園中を駆け回った。
手つなぎ鬼かよ、腹いてーなどと言いつつ、冗談で走る人波の中、本庄だけは、かなり本気で明を追った。口の減らない転校生に"参った"を言わせたくてしょうがなかった。
あんまり無理すると、腰痛めるぜ、爺さん。
忍者走りでフェイントをかけながら、明は本庄をからかった。
根付集めが趣味の本庄を、爺さんと呼んでいた。若林は馬鹿囃子、豆生田はお坊ちゃま。普通に名前を呼ぶのが恥ずかしいらしかった。
それぞれ変なこだわりを持ちつつ、毎日楽しくやっていた。植田みたいな馬鹿は周りにいなかった。
ほんの十年前の話なのに、この子たちとは別世界だ。可奈ちゃんも紗依ちゃんも、当時の私たちと同じ年頃に、酷い目に遭っている。
二人で黙って、家まで歩いた。
帰宅すると可奈ちゃんはキッチンに籠った。ケーキを焼くらしい。
クロさんが訪ねて来るとか言っていたが、そんな事があるだろうか。
ソファで考え込んでいると、キッチンから甘い香りが漂った。高級感あふれる芳香と、魔窟とのギャップでめまいがした。
窓を開け、外へ逃げた。
逃げ出した先も魔界だった。広くもない庭に、物が散乱している。
それでも家の中よりは大分ましだ。そして、こっちもいい香りがする。
カモミールが咲き始めているのだ。冬枯れ状態だった庭のあちこちに、白い小さな花が咲いている。
その一画に、母がいた。作業用の椅子に座り、苺のプランターに向かって、何かブツブツ言っている。本格的に壊れてしまったのか。側に行きかけて、息を飲んだ。
母の隣に、クロさんがしゃがんでいる。
プランターではなく、彼女と話していたのだ。
息を飲んで見ていると、クロさんも私に気づく。こっちを見て、立ち上がった。
間違いない。クロさんだ。でも、別人みたいに変わっている。
ガリガリじゃない。顔色もいい。一人で立っても、ふらつかない。視線が力なく泳いだりしない。
私に向かって、明るい声でこう言った。
「遊びに来ちゃった」
痩せて弱っていたのは一時的な姿で、元々こんな人だったのだ。
見るからに芯が強そうだ。だからあんな状態でも持ち堪えたのだ。
「お帰り。見違えたよ」
「そうでしょ。あまりの変わりように、自分でもびっくり」
「どうしてるかと思ってた。そうだ、こっち、こっちに来て」
クロさんを連れて、キッチンへ行った。魔窟と化した家の中で、ここだけは可奈ちゃんが来てから、いつも綺麗だ。
後から母も顔を出した。
「少しだけど、やっと赤くなったわ」
そう言って、持っていた籠を可奈ちゃんに手渡した。
真っ赤な苺と、白いカモミールの花。
―もっと早くに採れたらよかったけど・・・
母の気配が言っている。
最近の庭仕事は、クロさんのためだったのだ。グミを食べようとするなら、苺も行けるかも知れない。鬼の嗅覚が、そう感じ取ったのだ。
「ゆっくりしてって」
それだけ言うと、また出て行った。
可奈ちゃんはカモミールをブレンドして紅茶を淹れる。
一つ空いた席を見て、クロさんが尋ねた。
「今日は秘密の友達はいないの?」
「仔犬丸? あの人はよっぽど危険な時か、呼ばなきゃ来ないよ」
「そうなんだ。ずいぶん遠くまで送ってくれたから、お礼が言いたかったのに。いつも可奈ちゃんと一緒かと思った」
「最近はそうでもない。山梨にいた頃は、大体近くにいたけど」
これだけの説明で、すっかり話が通じた。
クロさんは、込み入った事情を一瞬で理解した。
「山梨の山、影深く霧深く・・・、ね。山本さんが聞き違えてブログに載せてたけど。あれが誰の歌か知ったら、みんな驚くわね。だけど、あの人たちって何なんだろう。あんな綺麗なところに住んで、体もちゃんと動くのに、まともな事をしないで。ああ言う馬鹿がこっちに来たら、ただじゃ済まないのに。蜘蛛の糸だって、来ないと思う」
可奈ちゃんが紅茶を勧める。
焼きたてのオレンジケーキも切り分けて、苺を添えた。
「はい、芥川さん」
「ありがと。・・・夢みたい。漣くんの家でお茶なんて。死んでからも一人だろうと思ってたのに」
齟齬もなく話が通じた。
散々不思議な質問を重ねた人なのに、今は何もかもクリアに伝わり過ぎた。
この人はもう本当に、次の世界に行ってしまったんだと痛感した。
自分では納得してるからと、逆に慰められた。
しばらくすると、クロさんは帰ってしまった。
ふと話が途切れて、気がついたら姿が消えていた。光に溶けるように、音もなく帰ってしまった。
可奈ちゃんは、クロさんの消えたキッチンで、もう片づけを始めている。
私は何もしたくない。
リビングに戻り、聞いたばかりの話を思い返した。
―どうして病院を抜け出したかって?
時間だと思ったから。何より、歌が聞こえたから。
今思うと、夢を見てたような気もするけど。
とにかく、亜樹の実家まで送って貰って、お昼を食べて元気が出たから、誰が歌ってるのか、見に行ったの。
外で歌が聞こえてたから。磐の石の歌がね。
でも、お店の外は警察で、警官がマージャンで遊んでた。
どうして仕事しないのって注意したら、最初は人間だった警官の顔が、見る間に伸びて目が小さくなって釣り上がった。豚みたいな顔になって、まるで牛頭馬頭の豚版だった。
その豚の集団がキーキー言って私を黙らせようとする。危険を感じて走って逃げた。
逃げた先は屋上で、豚が何人も追って来た。
こっちが豚ならお前の親父は何だ。
今までどうやって稼いで来た。
虫のわいた豚で稼いだくせに。
豚にたかる虫のくせに。
甲高い声でそんな事を言ってた。
豚の声も耳障りだったけど、歌も凄かった。
空の上から、歌が聞こえた。見渡す限りの雲が全部、人の顔をしてた。雲で出来た何億もの人が一斉に歌ってた。
呪い歌ばかりだった。呪いの歌が何百曲も大音量で空から聞こえて、頭が爆発しそうだった。
遠くの山では、何千もの骸骨が磐の石を囲んでこっちを見てた。呪いの歌を歌ってた。石を退けるまで、歌は止まないんだと思った。
不思議ね、赤坂から磐の石が見えたのよ。
それであの石を退けてって、何度も叫んだ。
ここまで言って、彼女は黙った。
明るかった瞳に影が差した。
可奈ちゃんが、何か怖い言葉を呟いた。
私たちには、聞かなくても分かったから。
磐の石を退けてと言ったクロさんは、背後から突き飛ばされたのだ。
豚男が屋上から突き落とした。警察は自殺と発表したが、そうではなかった。
クロさんの父が、後を追うように死んだ理由がこれで分かった。
あの人は、娘を殺した相手を脅したんじゃないのか。連の病院と並行して警官を恫喝した。それでとうとう殺された。
クロさんの父は、職業上の倫理観がおかしかった。常に問題を起こしていた。
やってもいない解剖結果を提出し、臓器のサンプルさえ用意した。これは一体誰の臓器なのかと、遺族に訴えられていた。
裁判には強かった。何度訴えられても無罪になり、死ぬまで仕事を続けていた。
クロさんは、お父さんの話に触れなかった。向こうで会えたとは言わなかった。私たちも聞かなかった。気の毒で聞けなかった。
魔窟に母が入って来る。
「クロさん、帰ったよ。苺美味しかったって」
「そう・・・」
「あの人、思ったより大変な人生だったみたい。幻覚の原因も、個人の内面だけの話じゃなかった。それに最期も、自殺じゃなかった」
「そんな気はしてたわ・・・」
しばらく二人で黙っていた。
クロさんは過去の話はしなかったが、私は記憶を読んでしまった。
彼女は長い事幻覚と対峙していた。助けてくれる人も、理解者もいなかった。正体も分からない相手と、たった一人で闘うしかなかった。
二十歳の夏、チャイムが鳴ってドアを開けると、虫の顔をした子供が立っていた。反射的にドアを閉めた。見なかった事にした。
それが最初だった。それから次々に変事が起きた。
外から帰ると、家中の壁や天井にびっしりと隙間なく蜘蛛が蠢いていた。
水を飲もうとすると、グラスの中で小さな線虫が大量に踊っていた。
自宅の庭で、よく虫顔の子供たちが遊んでいた。
その子たちは、幻覚だったかも知れない。実際に何かがいたのかも知れない。
どちらにしても、クロさんには理解不能だった。荒唐無稽過ぎて、話しても信じて貰えないと思った。
錯覚、気のせい、大丈夫と自分に言い聞かせて日を送った。
ついに神経が悲鳴を上げた。就職試験の合格祈願に行く途中だった。
目の前に、どこまでも広がる血の海が現れた。
血溜まりの前で動けなくなった。
ここで誰か殺されたんじゃないか、この先はとても行けないと、クロさんは友人に訴えた。
でも、血なんて、どこにもないよ。何度言われても、動けなかった。引き返す事も出来なかった。
そのまま入院させられた。虫の入った食事が出た。食べないでいると、摂食障害と診断された。
見当外れの治療が続き、ますます食べられなくなった。弱った姿を見られるのが嫌で、お見舞いを断った。鏡を見るのも怖かった。
何度転院しても、どうにもならない。心の中で祈るしかなかった。悪い事はしないから助けて欲しいと願い続けた。
最後の転院先に漣がいた。
「ラムネ、飲みませんか」
最初に会った時、漣は言った。缶のラムネを開けて、消毒済みのコップに注いだ。
「虫、入ってます?」
クロさんは漣に聞いた。
「いえ、天然の炭酸水と、レモンと砂糖だけです。品質は保証しますよ。何しろ、うちの親戚が、孫や玄孫に飲ませたくて作ってますから。何だったら、電子顕微鏡で見てみますか?」
漣は検査室から顕微鏡を借りて来て確認させた。
虫はいなかった。どんなに倍率を変えて探しても見えなかった。
ラムネは光を浴びて、キラキラと輝いていた。
それから顕微鏡が二人の合い言葉になった。
診察の度、飲み物が用意された。飲む力さえ弱っていたが、虫がいなければ何とか飲めた。
春になって、可奈ちゃんが現れた。仔犬の近くで平然と働いていた。幽霊を怖がるどころか、友達だと言っていた。
こんな人がいるなら、自分も何とかなるかも知れない。怪しい現象に付き纏われても、どうにかやって行けるかも。
入院してから、初めて心に光が差した。
生きていたかった。
死ぬのが怖かった。
天国に行けるとは思えなかった。いつか見た、血の池地獄が待っているような気がしていた。
最後の一週間は、可奈ちゃんの存在が生きる希望だった。
あの子の側にいる時だけは、恐怖感が和らいだ。
立っているのも辛い体で、庭仕事を見続けた。
残り時間が少なくなると、私を誘い、病院から抜け出した。
忙しく働く友人の家族を楽しげに眺めた後で、何も告げずに、姿を消した。
遠くから聞こえて来る、不思議な歌に引かれるように、強風の道を選んで、出かけて行った。
五月八日 火曜日
『葬式会場は、こちらです!』
たっちゃんの葬儀場前からのテレビ中継。顔の歪んだ女子アナが喋っている。
『悲惨な事件の風化を防ぐためにも、死蝋化した状態で保存すべきとの声もある中、遺族は火葬を選択しました』
いつの間にか、失踪から悲惨な事件へと言い換えている。
「見て、このアナウンサー。何か嬉しそう。笑いを堪えてるみたいな変な顔」
「人の不幸を楽しんでるんだね」
通りすがりの人が言う。
「事件に乗っかって大はしゃぎって、みっともないよね」
真っ当な意見だが、人の死を痛ましく思うのは、万国共通の常識ではない。世界には多様な文化圏が存在する。
隣人が死ぬのは喜ばしい。殺されて死ねば、なお結構。家族中で大喜びして、死んだ、やったと笑い転げる。そんな集団も存在する。
すでに日本にも紛れ込んでいるが、真っ当な人ほど考えが及ばない。
電気屋の前から離れ、ラビリンスハイツを訪ねると、優貴くんが迎えてくれた。今日は普通に入って行けた。
ソファで明は眠っている。ツアーから帰ったばかりで疲れている。
点けっ放しのテレビでは、さっきの女子アナが参列者にマイクを向ける。
『どうですか? 今の気持ちは』
『達也ちゃん、一年前と変わらず可愛くて。まるで眠ってるようでした。でも、いくら呼んでも、起きてくれない・・・』
―ちょっと見てよ、この参列者、涙目だよ。アハハハ、いい気味。もっと喋らせて、泣かせてやるか!
女子アナの心の声がはっきり聞こえる。とても見ていられない。
ベランダに出ると、テレビを消して、優貴くんも隣に来た。
「もう帰ったかと思った」
「帰らなきゃいけないんですが、櫻井さんが発見されるまでと思って、つい」
二人はまだ見つからない。四次元も崩れた本尊を適当に修復して、営業中だ。
「可奈ちゃんはどうしてます?」
「まだうちにいるけど。可奈ちゃんのお父さんが住む場所を決めたから、明日にでも四国に行くみたい。向こうで農業やるって」
「久し振りに長壁姫と仔犬の子孫が、四国に帰るんですね」
優貴くんは眩しそうに遠くの海を見る。
声はまだ治っていない。
「僕も大学を終えたら、こっちに来ますよ。やっぱり日本で暮らしたい」
ふと思いついて、聞いてみた。
「ミス・サイゴンって、誰が歌ったの?」
「ヘルボーイです。声を少し加工して。豆生田さんたちと、カラオケボックスで録音したそうです」
「君は行かなかったの?」
「ここで可奈ちゃんと、あちこちの掲示板を荒らし回ってました。隣で明くんは、赤ちゃんの映像を加工してましたよ。ミス・サイゴン用に」
「ヘルくんて、普通の人だよね? 怪しまずに協力してくれた?」
「彼はムーのファンですから」
「ムーって、・・・トンデモ雑誌の?」
「そうです。ムーが僕らの出発点です。音楽であの世界を体現したら面白いよねって。そこがネックでドラマーに逃げられましたが。野音の話も、最初は断ったんです。二人じゃ無理だって。でも、ヘルプを用意するからって、明くんに言われて」
「よっぽど曲が気に入ったんだ。ドラマーもイタリア人かと思ってた」
「日本のスタジオミュージシャンです。意外なほど上手く行って、僕たちも驚きました。あの日の演奏で地に足がついたように思います。それまでは全くのお遊びでした。やっぱり日本人はいい、夏休みには新メンバーをスカウトに来ようって、ヘルくん言ってました」
「ムーに理解を示すドラマーね。探せば結構いるんじゃない?」
この近辺にも、一人や二人いそうな気がする。
眼下に広がる町並みを見渡すと、商店街の外れにある弁当屋が眼に入った。
店の奥で調理しながら、ワイドショーを見ている。
「あのミイラの赤ん坊、結局燃やすのか」
「見世物にすれば儲かるのにねえ。もったいない」
櫻井さんの生徒だった信者の家だ。信者の両親が喋っている。
「息子さんは殺されないで、よかったですね」
肉に防腐剤を振りかけながら、バイトが言う。
「当たり前よ。一人息子なんだから、死なれちゃ困るわ」
「あの担任も、訴えるとか何とか、四次元相手に何やってんだか」
「四次元を訴えるなんて言ったんですか?」
「言ったのよ! 校門の前で、息子を待ち伏せしてた信者に向かって。この生徒にまだ残飯を売りつけるなら、訴訟も辞さないとか。そんなの普通、陰で言うわよね」
「四次元、怒ったでしょう」
「そりゃそうよ。信者の集団が雪崩を打って、幹部にちくりに行ったわよ。もうちょっとで、うちの子まで巻き込まれるところだったわ」
昨日の売れ残りをミキサーにかけながら、喚くように言う。
「それじゃ、担任、殺されても仕方ないですね。でも息子さん、何で四次元に入ったんですか」
「うちは特に何のコネもないからね。新興の四次元なら高弟になれると思ったんでしょ。遅かったけどね」
「宗教もマルチもねずみ講も早いもん勝ちだ。やるならガツガツ行かないとな」
「せっかく入っても、下っ端だとメリットないですね」
「だからって逃げると何されるか。こうなったら、つかず離れずで行くしかないだろ」
「でも、あの担任のおかげで幹部にマークされるわ、週刊誌の取材は来るわで、どれだけ迷惑したか。店として、損害賠償して欲しいわよ」
「でもあの人、とっくに死んでる」
「どうせ保険かけてんでしょ。こっちに半分寄越せって感じ?」
「半分でいいのか?」
「アハハハ。そうね。私も人がいいから。今時、馬鹿みたいに毎日働いてるのなんて、私たちぐらいのもんよね」
「それにしても息子さん、変な担任と関わりましたね」
「その通りよ。あんたも覚えときな。あんなのと付き合うと、えらい目に遭うから」
黙って会話を聞いていた優貴くんが言う。
「何です、あの異次元トークは? どうあっても、自分たちは悪くないって言うんですか?」
「そう。しかもあれ、正真正銘の本音だから。事大主義って言うらしいよ」
「その場その場で強い方に媚びるのが主義ですか? 単に自分がないだけでは・・・?」
理解出来ずに悩んでいる。
「便乗して道を間違えても、責任取るのは自分でしょうに」
「"道"とか"自分の責任"とか、あの人たちから聞いた事ある?」
しばらく考えてから、呆然と呟いた。
「・・・ない。一度もないです」
「頭の中にないから出て来ないんだと思うよ」
優貴くんは、難しい顔で黙り込む。
犯罪被害者を見世物にしたり、自分の息子を助けようとした人を罵倒したり。そんな人間がいるなんて、信じられないのだ。
私もそうだった。とても信じられずに、長い間待っていた。
何も赤ん坊にまで手を出さなくても。そう言ってくれるのを、長い間待っていた。
無駄だった。弁当屋夫婦は、蛇のような執念深さで、一家を罵り続けている。
楽しそうなその様子に、ぞっとした。
あの人たちが歩いているのは、人の道ではないのだ。
行ってはいけない場所。踏み込んだら戻って来れない、魑魅魍魎が跋扈する歪んだ世界。
多分そこで、魔物か物体Xに体を乗っ取られたのだろう。悪心が原動力の魔物か何かに。
「まるで百鬼夜行ですね。怪談は好きですが、あの人たちは気味が悪いだけで何の魅力もない」
優貴くんが空を見上げる。雨かと思うほど冷たい霧。
曇った空から、悲しみが霧のように降って来る。
ベランダの片隅に、櫻井一家が立っていた。
三人で寄り添い、さつきさんが愛息を抱いている。
「本当に、死んだのが人の子でよかったよ。みんなあのミイラを可愛い可愛い言うけど、何のつもりかね。今更褒めたって、しょうがないのに。大体、うちの子はもっと可愛かったし、賢そうだったよ」
弁当屋は、まだ喋っている。
夫婦は、喋り続ける信者の親を黙って見ている。寂しそうだ。
一年以上も、こうして世の中を見て来て、日々どれほど辛かった事だろう。
―誰も助けてくれなかった・・・
何も言わなくても、側にいるだけで思いが伝わる。
警察は事件自体を認めなかった。そのせいで、この人たちの家族は余計に苦しんだ。
四次元の脅迫とストーカー行為に晒されながら、夏も冬も、尋ね人のチラシを配った。失踪じゃない、連れ去られたのだと言い続けた。
もし自分まで姿を消したら、どんな花畑でも事件だと分かるだろう。その一心で櫻井さんの両親は、矢面に立ち続けた。
急がないと、たっちゃんの体力が持たない。あの子はまだ小さい。さつきさんも心配だ。二人だけでも返して欲しい。一年以上訴え続けた。
それをこの人たちは、ずっと見ていた。
「僕は歌いました。あの日、野音で、あなた方のために全力で歌いました。もっと早くに気づけなかった事が、痛恨の極みです」
優貴くんが静かに言う。
「私も、もし生きていたら、出来る事をしたと思う」
それは本心ではあるが、今になって何を言っても、更に寂しくなるばかりだった。
一家に比ベると、私は楽な死に方をした。天災だった。
去年の三月、研修先の茨城で、地震の後の津波に飲まれた。
半壊した宿泊所から、本社に移動する途中だった。
度重なる余震で、道が一部崩れていた。落下物も散乱していた。
道路にばかり気を取られ、海を見ていなかった。
橋を渡っていた時、津波が川を逆流して来た。巻き込まれて車ごと流された。
波が引くと、遺体はすぐに見つけて貰った。地元の人が車から出してくれた。
知り合いでもないのに、膝まで水に漬かって、助けてくれた。
その人も自宅が崩れた被災者だった。家族を探す途中だった。
電話も通じない中で、沢山の人が家族や知人を探していた。
休む場所も持たない被災者が、他人を助けようと奔走していた。
止まらない余震の中、人々が身の内から、明るい光を放っていた。暗い夜を照らしていた。
私は人生の最後に、人の善心を目に焼き付けた。
満ち足りて家に帰った。お葬式が済むと、眠りに着いた。
そして、この人たちは四次元に襲われた。
可奈ちゃんにも累が及んだ。私は何も知らずに眠っていた。
「ごめんね、助けに行けなくて」
地震後の混乱に嬉々として乗じる犯人たちの様子が、まざまざと眼に浮かぶ。
全身から、どす黒い、腐った気配を発している。ここまで気持ちの悪い生き物がいるのかと思うほどニヤニヤしている。
人を不幸にするのが、楽しくてしょうがないのだ。
たっちゃんがこっちを見て手を振っている。パタパタと勢いよく手を振って見せる。
「悪い人たちにバイバイって、来るな、帰れって言ってやったのよね」
さつきさんの説明に、うん、と頷く。
自宅に殺人犯が押し入った時、この子はママの後ろに隠れようともせず、帰れと言い続けたのだ。
「家族を守ろうとしたんだ。えらかったね」
火事場泥棒的に人の家に押し入った馬鹿集団に、この子は小さな手で、来るな、帰れと説教した。
それが蜘蛛の糸だったのに、犯人たちは気づかなかった。考える事もなく、惰性によって、人外の道に流された。
公僕のはずの警察と、人権が題目のマスコミが後に続いた。人権どころか生存権を平気で無視した。
四次元には、トラップつきの逃げ道が用意された。
恐喝オプションが待ち構えるその道に、鳥頭の大集団は入り込んだ。ウロボロスのように際限なく、騙し騙され食い殺される獣道。
―誰もまともな事をしなかった。誰も助けてくれなかった
二人の嘆きが伝わって来る。
たっちゃんがまた動く。仕草で、片言の言葉で、両親に話しかける。
大丈夫だよ、ぼくがついてる、ぼくがここにいるよと言っている。この子は今までずっとこうして二人を励まして来たのだ。
津波のように悪い予感が湧き上がる。
この一家を見殺しにするような社会なら、これからもっと悪くなる。
この子はハンターが見つけてくれたが、夫婦の発見はこれからだ。今が底などでは、決してない。
悲しみは後から後から霧のように降って来る。この子がいい子であればあるほど悲しいのだから、救いがなかった。
気休めでもいいから何か言いたい。言うべき言葉が見つからない。
今の私では役に立てない。ここから先は、生きている人の領分なのだ。
ふいに背後で窓が開く。室内から光が射す。
振り向くと、ベランダに明がいた。歩きながら、知り合いみたいに一家に声をかけている。
「何だ、みんな、こっちにいたのか。うちは何故か、部屋よりもベランダの方が広いからな。たまに隣のバーマン猫も遊びに来るし。これがまた猫の人で、歌を歌ってくれたりする。まあ、こんなとこでよかったら、いくらでもゆっくりしてくれ」
持っていたツアー土産を、たっちゃんに手渡した。
「勇者にはこれをあげよう。キャラメルコーンホワイトチョコ味。取り合えずお菓子があれば、ライフ1ぐらいにはなるからな。しかし君は勇敢な上にラブリーだな。近くで見ると、一段と可愛いぞ」
小さな頭をなでると、私の方に歩いて来る。
隣に立って目が合うと、彼の周囲に光が溢れる。
―こんなところにいたんだな
心の中で、そう言った。
―消えてなくなる訳がないと思ってたけどな
―そうだよ。ずっと側で見てたよ
私も答えた。
「よし、今日は猫は来ないみたいだから、俺が一曲、歌ってやろう。そんな気分じゃねえよって言う人ー」
誰も止めないのを確認すると、トランペットを手に、歌い始めた。
作ったばかりの特別アホっぽい新曲だ。
普通に歌えるようになっている。
一年前は、歌うのが辛そうだった。初のレコーディングに声が出なくて苦しんでいた。
ついには、自分にはもう何もない、だから歌えないと言い出した。
「たわけ。お前にはバンドがあるだろう」
本庄が切り返した。
「不仲とは言え、家族もいる。親はともかく、田舎の爺さん婆さんは、お前を大事に思っている。その田舎では、幼馴染がファンクラブまで作ってお前の活躍を待っている。お前のその手には、ずば抜けた直感力を示す頭脳線があるんじゃないのか? 人間離れした手相じゃないのか? 暫定世界一の奇抜な頭脳線を持っていて、何もないとは何事だ」
「・・・頭脳線を発動させる気力が、もうない」
そう言ってぐにゃぐにゃと、スタジオの壁に寄りかかった。
本庄は喋り続ける。
「お前は普段は単なるアホだが、それは非常時に備えている状態だ。一度窮地に陥れば、信じられない力を発揮する。頭脳線に生えたアホ毛とは何か。それは非常時における迂回路、自前の軌道間エレベーター。お前は他の誰も気づかんような意外な活路を見出す天才だ。五年前、占い師にそう言われたな。アホだから忘れたかも知れんが、俺ははっきり覚えている。そんな手相を持ったお前が、この状況で蒟蒻妖怪になってどうする。平常時ならこんな事は言わん。しかし非常時の今歌わないなら、お前のアホ毛に価値などない。反論は許さない。つべこべ言わずにこっちへ来い。スタンバイだ」
明は荒んだ目をして動かない。
重い空気の中、若林が口を開く。
「お前は死にかけの音楽業界に俺らを誘い、地獄のワープア生活に引き込んだ。それがここへ来て歌えないだと? どんな状況でも思わず笑っちまうアホな名曲を世に出すんだろ? 別次元のアホさを夢で見たんだろ。あれは詐欺フェストだったのか? 実現する気なんてなかったのか? 千葉のくせに、馬鹿の真似か? ギブスンのファンに呪われるぞ。脳内上司と田舎に引っ込めって言われるぞ」
スティックで明を指し、まくし立てた。
「いいか、よく聞け、大嘘つきの狼男。お前のその手にあるのは、奇跡の頭脳線なんかじゃない。廃止間近の赤字線だ。まじヤバかった頃の銚子電鉄だ。いや、それ以下だ。今のお前は当時の銚電に、ぶっちぎりで負けている」
いくら挑発しても、返事もしない。
手で顔を覆い、しゃがみ込む明に、豆生田が言う。
「南総千葉の子がそんなだと、ケルトさん、がっかりするぞ」
「アリシアは八犬伝が好きなだけだ。過去に出会った、まともな日本人が好きなだけだ。俺には何の関係もない」
暗い声で反論する明に、豆生田は言った。
「そうかな。しかし、ケルトさんはともかく、師匠の家族は関係あるだろ。今お前までが逃げると、あの家・・・」
言いかけて、言葉を濁す。
豆生田は近所だけに、うちの惨状に気づいていた。
母は近所付き合いすら放棄して、豆生田の母に会っても、立ち話もしない。家庭内では魔窟化が始まっていた。
「師匠の家って、何百年も続いた占い師なんだろ? どうすんだ、跡継ぎ。兄ちゃんがやるのか?」
「あの人は、自分には占いは無理、絶対やらないって前に言ってた」
本庄と豆生田が喋っている。
若林は黙ってフットペダルを踏み続ける。
「もうすぐ計画停電の順番が回って来ます。揉めてる時間はないんですが」
大して熱意のなさそうなプロデューサーから声がかかる。
どうするんだ。三人の視線が集中する。
明は大口を叩きながら立ち上がった。
「どれも大した説得じゃなかったな。しかし、あれだ。そこまで言うなら、歌ってやらんでもない」
再び歌い出したが、心の中では疑問が爆発していた。
こんな事したって、無駄じゃないのか。誰が聞くんだ、こんな曲。聞いたって誰も理解しないかも知れない。それなのに、歌ってどうなる。
世にも前向きな曲を歌いながら、暗黒面に落ちていた。
彼の周りから光が消えていた。
エネルギーの切れた状態で歌っていた。
苦しそうだった。立っていられず、曲の途中で膝をついた。その姿勢で歌い続けた。
もういい。そんなに辛いなら、もう止めろ。
のどまで出かけた言葉を、三人は押し留めた。
続ける演奏に、異様な情感が加わった。
明の代わりに、三人が輝きを放っていた。
演奏が光り輝く粒子となって、スタジオ中に広がった。
その光に包まれると、暗黒星雲のようだった彼の心の中で、ダウンバーストが弱まった。呼応するように、心の動きがゆっくりと上昇を始めていた。
何とか最後まで歌い切ると、声を上げて泣く人がいた。
お前ら、どうしてもっと早くに生まれて来なかった。
そう言ってプロデューサーが泣き崩れた。
明が踏み留まる一方で、母は変わってしまった。
事件に巻き込まれる中で蘇生するのを期待したが、駄目だった。
唯一やったのが、吉良に落雷を直撃させる事だった。
一部始終を見ていたから、母の仕業と確信している。
生きながら崇り神と化した。そう思ったが、クロさんには同情心を見せていた。
しかし、それも本来の姿ではない。
以前の母なら、話を聞いただけで彼女の病巣を見抜いていた。幻覚を打破する手立てを講じていた。
あれほど有能だった人が、仕事も放棄して魔窟に籠った。
私は何も出来なかった。見ているしかなかった。
私に取ってもこの一年は、アホでい続ける明が救いだった。
その彼も、家族には苦労していた。生い立ちも気の毒だった。
彼が五歳の頃、自宅が火事になった。父と二人、家にいて被害に遭った。
仕事のいざこざから、散々協議を重ねた上での放火だった。
何ヶ月も闘病した父が他界した後で、相手の言い分に理がない事がはっきりした。相手は謝罪もしなかった。
何を言っても無駄なんだと、子供心に思い込んだ。口数は多かったが、心の奥では、言葉に意味があるのかと疑っていた。
深手を負った彼を、彼の母は大事にしなかった。規格外の傷野菜みたいに扱った。
再婚し、新しい家庭で問題が起こる度、原因を明一人に押しつけた。
血を分けた自分の長男に、田舎育ち。終わってる。嫌われ者。何をやっても駄目。そう繰り返し、弟ばかりを甘やかした。
マイナス刷り込みが軽傷で済んだのは、直感の賜物だった。生まれつき勘はよかった。
この人の言い分に耳を貸しちゃいけない。信用ならない。日々そう感じた。自分の親を、そんな風に思う事が悲しかった。
弟が私立の小学校に受かると、明も一緒に東京に連れて来られた。
転校が転機になった。
クラスに、やたら記憶力のいい本庄がいた。
本庄は、妙に勘のいい転校生を言い負かそうと、よく絡んだ。
二人の掛け合いは時に、禅問答みたいになった。周りで聞いている子は、ポカンとしていた。
文化祭の余興でマーチングバンドをやった。その流れでバンドを組んだ。クラシックギターを習うお坊ちゃまの家に、休みの度に集まった。
本庄は練習の合間に、よく怪談を語った。自前の記憶フォルダから、怖い話を引っ張り出しては周りに聞かせた。阿鼻叫喚を引き起こすと満足した。
明は本庄の怪談を怖がらなかった。アラを見つけて指摘した。
その話はここがおかしい。爺さんの創作か?
本庄は悔しがった。俺の自慢の耳袋を平然と聞きやがって。その上ケチまでつけるとは。小憎たらしいその態度。お前は不動明王か、不動明か。
本庄は、練習の後でうちに寄ると、私に言った。
頼む、特別怖い話を教えてくれ。小癪な転校生を涙目にしてやるんだ。
気が向いたので、差し障りのない実話を教えた。
明はアラを見い出せなかった。そして言った。
今のはよく出来てた。しかし大して怖くはない。惜しかったな、爺さん。
本庄はまたやって来て、私を師匠呼ばわりした。
今まで俺の話でキャーキャー言わなかったのは、師匠だけだ。
それどころか、逆にカウンターを捻じ込み、心霊小噺で俺を絶叫させた。
師匠を怖がらせるのはもう諦めたが、不動明まで逃す訳には。怪談は俺のスタンドだから。ついては師匠の手を借りたい。
面倒がる私を、本庄は、飛行艇サザンプトン・麒麟号ストラップで買収した。
翌日、学校の廊下で怪談の打ち合わせ中に、明が通った。目を逸らすと、彼は言った。
君たちは、付き合ってるのか?
実はそうなんだ。今大事な話をしてるんで、二人にしてくれ。
怪談の仕込みだとバレたくない本庄は、嘘をついた。
側にいた生徒が突っ込んだ。そんな訳ねえじゃん。師匠とか言ってるし。モテたくて、手相占いでも教わる気だろ。
それを聞いた明の周囲に、光が溢れた。朝陽のような光だった。
不思議に思い明を見ると、今度は彼が目を逸らした。
結局明は、本庄の怪談を怖がらなかった。
祖父や父から、生きた海の怪異を聞いて育ったのだから、無理もない。
首なし馬ならドラマもあるが、損得すら理解出来ない、本物の脳なし人間に放火された事もある。
彼は火傷で意識のない時、夢の中で歌を聞いた。そして劇的に回復した。
歌には不思議な力があると信じていた。
正気を保つため、音楽が必要な時があるのも知っていた。
直感力が告げていた。今の文化は、まがい物が多過ぎる。ろくな怪談の一つもない。何がクールだ。低体温に陥っているだけだろう。
思い過ごしなんかじゃない。一日に数百人が自殺している。社会が悪くねじれている。弱っているから、悪影響を跳ね返す力が出ない。
魂が飢えている。人の精神に、まともな栄養が必要だ。
自分が死にかけた時、夢で聴いた音楽を再現しよう。あの不思議な光を曲に込めよう。
奇跡の頭脳線、アホ毛の指し示す方向へ、行けるところまで行こうと思った。
それを私が邪魔してしまった。
生まれ変わって遠い世界で目覚めた時、彼の声が聞こえていた。
いつまでも私を呼んでいた。まさかここまで追って来る気では。
そう思った途端、三億光年の距離を飛び越えて、元の世界に戻って来た。
家に帰ると、母は怒った。家庭が壊れるほど怒った。
あんたって何考えてるの、今頃しれーっと帰って来て。馬鹿じゃないの。
怒りながら、嘆いていた。
こうなる予感はあった。だから厳しく育てた。万に一つも間違いのないよう、細かく言動をチェックした。それでも防ぎ切れなかった。
何のために厳しくしたのか。何のために育てて来たのか。
母の神経が壊れて行く音が聞こえた。生木が裂けるような音がはっきり聞こえた。
死んだって何もかも終る訳じゃない。私はこれからも働くよ。
いくら言っても、母の嘆きは止まらなかった。
何言ってるの、何がこれからよ、どうして死ぬ前にもっと頑張らないの。津波くらい分からなかったの。
そう言われても、私には分からなかった。
ただあの日、朝から体中が痛かった。行きたくなかった。仕事だからと出かけてしまった。
迫って来る津波を見た時、予兆だったとやっと気づいた。
濁流に飲まれて、車は堤防に激突した。衝撃で体中が痛んだ。手が上手く動かなかった。
シートベルトを外すより早く、歪んだドアの隙間から水が入った。
いよいよ酸素が足りなくなると、過去の出来事全てがあざやかに蘇った。
確かに母は厳しかったが、辛くはなかった。毎日が冒険だった。一人でどうしようもなくなると、天堂や高山が現れて助けてくれた。
向こうの世界を知れば知るほど、今いる世界が輝いた。
不思議に満ちたこの世界を、いつまでも見ていたかった。
雲まで届く勢いで、朝陽のような光が溢れる。
一番を歌い終え、明は間奏でトランペットを吹いている。全身からまばゆい光を放っている。
奏でる音が波のように広がって行く。音もキラキラと輝いている。
たっちゃんが届く光をキャッチして、笑顔を見せる。
この光は何なのだろう。彼を見る度、不思議だった。
今になって、はっきり分かった。
人は心に太陽を持っている。それが時折、溢れて光る。
この人は以前、自分で言っていた。
アホっぽい歌とは、闇夜を照らす小さな灯り。ちょっと違うか。正確には、その灯りの燃料だ。
これを持ってると持ってないとでは、何かの時の馬力が違う。だからどうにかして、世界一アホな名曲を作りたいんだよ。
あまりにもアホ過ぎて、ついつい笑ってしまうような曲。一回聞いただけで、楽しさが何年も持続するような曲。
灯りのために音楽をやって来た。
渾身の演奏が、一人の小さな聴衆の笑顔を引き出した。
更にアホっぽい二番の歌詞で、夫婦の心も照らして欲しい。
世界を明るく照らして欲しい。
演奏を続ける彼を見ながら、私はそっと後ろに下がる。
室内のソファの上で眠っている明の体。
振り返って自分を見つけ、驚いたりしないよう、カーテンを引いて来た。
彼の魂は今、ベランダで歌っている。
悲しんでいる人を見つけて飛んで来た、飛び魂。歌い魂。
歌い終えたら窓の向こうに戻るだろう。
目を覚ました時、不思議な夢だったと思うのだろうか。得意の直感で、夢ではないと思うのだろうか。
どちらでもよかった。どちらでも同じ事だ。
私たちは遠い世界からやって来て、ここで出会った。
生死の境を越え、言葉を交わした。
心に刻んだ光景は、時が経っても変わらない。塗り替えられる事もない。
いつの日か、長い年月の果てに、私たちは再び出会う。
そして、この瞬間を思い出す。
その時には、誰の心からも悲しみは消えている。苦しみは反転して、光に変わる。
その時、私たちは、長かった道のりを、お互いの人生を称え合う。
その場所まで行かなければ。
彼の歌を聴きながら、私は、遥かな未来を夢見ていた。
ぼくがここにいるよ 後編
ウェブで読むには長かったと思います。
読んでくれた方に感謝します。