WATANUKI

 軽い雨がしとしとと、境内の小石を叩いて跳ねていた。



 おや? 珍しい、お客さんですか。
 こんな辺鄙なところによくいらっしゃいました。雨に濡れてさぞかし冷えるでしょう? 少し寄っていってください。
 ああ、その辺適当なところに腰掛けてくださいませ。今温かいお茶とタヲルをお持ちしますよ。
 いえいえ、そんなに遠慮なさらずに。どうやら私、久しぶりに人と話せて嬉しいのです。この辺りに訪れる人は珍しいものですから。
 四月に入りましたが、風はまだ少し冷たいですね。もう少し過ごしやすくなってくれれば、のんびりお散歩にでも出られるのにと思うんですがね。
 あなたはどうしてこちらにいらしたのですか?

 ふむ、なるほど。つまり一人暮らしの新生活というわけですね。この辺りはそんなに栄えてはいませんが、木々や草花に囲まれてゆっくりとした時間を過ごすのも悪くないですよ。
 四季折々の花の匂いや青々とした木々の呼吸は、心を綺麗に洗ってくれます。今頃はあっちの公園にある白木蓮が見頃かも知れません。
 大学はどちらに通うのですか?

 ははあ、やはりそうですよね。この辺りで大学といえばあそこしかありませんもの。
 そうですか、では今日からピカピカの文学部一年生ですね。おめでとうございます。
 文学部に入られるのなら、今日の日付である四月一日を「わたぬき」と読むの、ご存知ですか?

 さすがですね、よくご存知で。冬に着ていた防寒着の綿を抜いたことから、「わたぬき」と呼ぶそうですね。苗字として使うこともあるとか。
 何だか、狸みたいでかわいらしい響きですよね。私の古い友人に、「わたぬき」という者がいるのですが、彼がまた狸によく似たかわいらしい男でして、どうもそのイメイジが強いです。
 ところで、私実は狸にまつわるエピソオドを一つ持っていまして、もしお時間あれば聞いて頂けませんか?

 ありがとうございます。どうやら、やはり私は久しぶりのお客さんに舞い上がっているようです。どうにも饒舌になってしまいます。
 あれはどれだけ前の事だったでしょうか。この近所に住んでいた私は、何の気なしにこの神社にふらりと立ち寄りました。
 そうだ、あの日も今日のように優れない空模様だったように思います。当時もこの辺りは人の気がなかったものですから、その時も他に人はおりませんでした。
 私はそこの楠の下に腰掛けて、落ちては跳ねる雨粒をぼうっと眺めておりました。
 どれくらいそうしていたでしょうか。暫くすると、頭の中に声が聞こえたような気がしました。
 私が変な想像をして勝手に考え出した台詞なのか、実際に誰かが語りかけてきたのか、それとも得体の知れぬ何かだったのか、今では見当もつきませんが、その不思議な声はこう言いました。
『珍しい客だ。お前に悪戯をしてやろう。お前はこれから嘘しかつけなくなるんだ』
 私はぼうっとするのをやめて、不思議な声の主を探そうとしましたが、何故か体が動きませんでした。今思えば、金縛りというやつだったのかも知れません。体を動かそうとする意志が、空に溶ける煙のようにどこかで消えてしまうような感覚でした。
 身動きの取れぬまま、どうしようもなく雨粒を眺めていますと、鳥居の方から知り合いの男性が歩いてきました。私の家の近所に住むお爺さんでした。
 それを見ると、私は夢から覚めたように身動きが取れるようになりました。座り疲れた私は立ち上がってお尻を払い、家路につこうとしました。
 すると、私に気づいたお爺さんがすれ違いざまにお爺さんが問いかけてきました。
『おや、これから家に帰るのかい?』
 私は微笑んでそれに返事をしました。
『いいえ、あっちの公園までお散歩に行くところです』
 私はハッとして、辺りを見回しました。先程までいた楠の後ろに視線を向けた時、私はむっくりと年をとった狸を見つけました。
 狸はじっとこちらを見据えていました。
 そして私の頭の中には、またあの不思議な声が響いたのです。
『言っただろう。嘘しかつけないようにした、と』

 どうです? 私はきっとその時狸に化かされたんですよ。
 ああ、ごめんなさい。せっかく新生活を迎える喜ばしき春なのに妙に不気味な話をしてしまいました。
 怖かったですか? 安心してください。全部嘘ですから。
 そろそろ雨もあがったようですし、あっちの公園の白木蓮でもご覧になってきてはいかがでしょう? 雨露の滴る桃の花なんかも趣があると思います。



 外ではまだ、雨の雫が温い風に舞っていた。

WATANUKI

WATANUKI

掌編2000文字弱

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-10

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