賽は投げられた
六時三十分、珍しく時間ぴったりにバスが来た。
バスが停留所に止まる電子音がまるで、これから始まる未知なる旅行の幸先の良いスタート合図のようだった。
ブレーキの空気の抜ける音と同時に開いた入口から乗り込み、整理券を取って斜め右側の一段高くなっている席に座る。
乗る度に思っていたが、ICカードが普及する今の時代で、整理券しか使えない路線は珍しいと思いつつ、なくさないようにと窓のサッシに置いた。
バスが運転手のアナウンスと共に開いていたドアが閉まり、目的地の駅へと走り出す。
隣に置いた、大きめのレザーのトートバッグを見る。
たまに行く古着屋で偶然見つけて手に取った瞬間、一目惚れだった。
巾着型という形だけでも珍しく、明るいキャメルと傷や持ち手のすり減った部分が、使い古されたレザー独特の風合いを出していた。
巾着型になっているが、紐の部分を緩めて上のスナップボタンを留めれば、普通のトートバッグの形になり、かなりの荷物が入る。
それにめいいっぱい詰められた荷物は、一泊二日分の着替えとスキンケア用品、ヘアアイロンだ。
女性は何かと荷物が多いとはよく言われてるが、自分は特にそうだと思う。
現に紐を緩めて、スナップボタンが止まるぎりぎりの容量だった。
これでも減らしたほうだ、と心の中で自分に言い訳をした。
コートのポケットから、スマートフォンを取り出す。
昨夜、寝る前にやり取りしたメッセージを慣れた手つきでスクロールしていく。
待ち合わせ時間のやり取りの最後に送られてきた懐かしいアニメのスタンプに、少しだけ口元が緩む。
温泉に行きたい、数時間前に初めて会った相手にそう呟いてしまったのは、久々に飲んだアルコールに酔っていたからなのかもしれない。
何気ないその一言に、『行こうか、温泉』と乗ってきたのは彼の方だった。
「え?本当ですか?」
『うん。本当。
俺も行きたかったんだよね、温泉。』
左側にいる彼に、視線を合わせる。
奥二重で丸い目、女性から見たら羨ましいくらいの色白な肌、人懐っこいはにかんだ表情、隣にいる違和感を感じさせない彼とは、数時間前に初めて顔を合わせたばかりだった。
彼氏が欲しかった訳ではなかったが、ただ何となく登録していた交流サイトからメッセージを受信した連絡メールが来て、それを読もうとログインしたのは十一月の頭だった。
二、三日に一度、朝か夕方にやり取りをする程度だったが、彼からもっと話したいと連絡をもらった時には私も同じ気持ちだった。
メッセージアプリのIDを交換し、直接やり取りをし始めた頃には、一ヶ月が経っていた。
サイトを通さずに直接やり取りを続けて少し経った頃、彼から会いたいというメッセージを受け取り、どんな人なのかもよく分からない相手への恐怖よりも、写真でしか見たことのない彼に会ってみたいという好奇心のほうが勝り、肯定の返事を送っていた。
「本当にいいんですか?」
しっこいくらいに聞き直す私に、彼は笑みを零した。
『なんか行ける気がするんだよね。
なんか初めて会ったって感じがしなくてさ、この空気感がすごく心地良いんだよね。』
同じような事を考えていたことに驚き、左側を見て、彼と目線を合わせる。
「そんな赤い顔しながら言う台詞ですか?」
彼側のテーブルの上に置いてある運ばれて来た時とほぼ変わらない量が入っているビールジョッキを一目見る。
『本当に弱いんだよね。
あー、失敗した、頼むんじゃなかったな。』
後から注文しておいた水を口に含みながら、眉尻を少し下げて困った様に笑った。
「思ってた以上に弱くてびっくりです。」
料理と一緒にビールを注文した時、アルコールに弱いとは言っていたが、まさかジョッキ半分も飲めないくらい弱いとは思っていなくて、思わず笑ってしまった。
『笑ったな?』
そう言うと彼は、私の右肩に腕を回して二の腕を思い切り掴んできた。
「ちょ、何するんですか!」
左半身に感じる少し高めの彼の体温と、数センチの距離の顔の近さに、心臓が大きく脈を打っていた。
お会計を済ませ、居酒屋を出て駅前へと戻り、旅行のパンフレットを幾つか取って近くの大手コーヒーショップへと向かった。
私はココアを、彼はキャラメルマキアートを注文し、窓側の一番端の席についた。
『さて、どこがいいかな。』
貰ってきたパンフレットを二人で捲りながら、ココアを一口含む。
彼が『あ、』と声を上げて、ある有名グループの宿を指差した。
『ここ泊まってみたいんだよね。』
「あの有名な宿泊グループですよね?
まずお宿取れますかね?」
『そっか、それもあるか。
ちょっとネットで見てみるか。』
彼はスマートフォンを取り出すと、調べ始めた。
季節は年の暮れ、この時期の温泉は一番混雑しているはずで、しかもあの有名な高級宿泊グループだ、空室があること自体が少ないだろう。
画面を見る彼の表情が変わり、ココアの入ったカップから口を離す。
『この二日間なら空いてるよ、ほら。』
スマートフォンの画面を私の方に向け、空室の表を見せた。
年越しの数日前の日曜日から月曜日の一泊で、丁度一週間後の日付の一部屋のみ空室を示していた。
『ここにしちゃおうか?』
「あ、はい。」
予約をしているのだろう、彼は画面と向き合っている。
着々と進む旅行の手続きに、少しだけ躊躇感と気後れを感じる。
『不安?』
カップを両手で持ち、一点を見つめていた私に、彼が話しかけてくる。
「何というか、私、今まで旅行ってしたことなくて。こんな簡単に決まっていくんだなぁと思って。」
付き合っていた彼とも、家族とも、旅行をした事がなかったのは本当で、自分の気持ちを素直に話す。
『そっか。でも温泉に行きたいって気持ちがあって、俺はここに泊まってみたくて、お互いの意見が一致して、こうやって出会ったから信じられないかもしれないけれど、俺は絶対に裏切ったりしないよ。』
真剣な彼と視線が交わる。
反らせなくて、身体が彼の視線に囚われているように硬直していた。
指先まで伝わる心臓の鼓動に、従うように頷いた。
窓の外の景色が段々と変わり、目的の駅に着くというアナウンスが車内に流れる。
握りしめていたスマートフォンが、手の中で震えた。
待ち合わせの時間より少し早く着いたという彼からのメッセージに短い返事をし、重い荷物を肩にかけ直して、百八十円と整理券を運賃箱に入れてバスを降りる。
マンションと木々の間から差し込む光は、師走とは思えないくらい暖かいが、包み込む空気と見上げた空は澄んでいた。
これから始まる旅行への期待と不安が入り交じる不思議な気持ちに、あの日彼と見つめ合った時の心臓の高鳴りが似ている気がして、待ち合わせのコンビニへと踏み出す足取りが少し軽くなる。
新しい何かが始まるような、そんな自分のはやる気持ちを抑えて、足を進める。
これからの私の生活に、彼が深く関わってくるということを、まだ私は知らない。
賽は投げられた